2002年度全国英語教育学会(神戸大会)

自由研究発表(8月22日)

規則習得とコミュニケーション

(2002年8月18日版草稿:完成稿ではないので引用はしないでください)

柳瀬陽介 (広島大学)


要約:

本発表では、言語習得・使用に関する規則の種類を整理し、Chomskyの言語哲学とも、私たちの日常的体験とも整合する規則論を提示し、第二言語習得におけるコミュニケーション経験の必然性について論考する。1ではKrashen以降の規則論を検討し、(1)「コミュニケーションの学びは、基本的にはコミュニケーションを重ねることではないのか」、(2)「形と意味を結びつける規則には意識的なものもあるのではないのか」という問題点を提示する。2では(2)の問題点を解決する新しい規則論を展開する。これは規則を自然科学の視点と日常経験の視点からそれぞれ整理したものである。3では「発話規則」の実践上の問題を考える中で、(1)の主張が、単なるトートロジーを超えて、正しく妥当なものであることを論証する。

 

1 先行研究の検討と問題設定

規則と言語習得に関するKrashen(1982)の説は、その後の多くの議論を引き起こした。ここではその影響のすべてについて叙述する余裕はないので、後の立論と関係のあるthe input hypothesisとthe monitor hypothesisについてのみ論述することとする。

 

1.1 The input hypothesisへの批判

Krashen(1982)は、理解可能な入力(comprehensible input)が主要な言語習得の途であり、話し、書く能力は自ら「創発する」ものだとした。

This hypothesis [=Input Hypothesis] states simply that we acquire (not learn) language by understanding input that is a little beyond our current level of (acquired) competence. This hypothesis is, in our opinion, of crucial importance since it attempts to answer a question that is important both theoretically and practically: How do we acquire language? The input hypothesis claims that listening comprehension and reading are of primary importance in the language program, and that the ability to speak (or write) fluently in a second language will come on its own with time. Speaking fluency is thus not "taught" directly; rather, speaking ability "emerges after the acquirer has built up competence through comprehending input. (p. 32)

この引用にもあるように、彼は入力を「最も重要」とはしても、必ずしも入力以外の要因を否定したわけではない。Krashen (1980)も"a necessary condition to move from stage i to stage i+1 is that the acquirer understand input that contains i+1"として、理解可能な入力を必要条件と述べるに留めている。もし理解可能な入力だけが言語習得に至る途だとしたら、理解可能な入力は必要十分条件として表記されなければならない。だが彼の主張は、しばしば入力のみの肯定とみなされ、後の研究者による批判的補論を招くこととなった。

 Long (1983)は、入力がそれ自体だけで理解可能になることは常には成立しないとして、言語能力に優る対話者からのnegotiated modificationがしばしば理解可能な入力をもたらすと主張した。Swain (1985, 1995, 2000)は、入力およびそれに伴う修正が言語習得に果たす役割は強調されすぎだとして(ibid 1985: 236)、出力の役割が重要であることを主張した。彼女のまとめによると出力には(1)気づき(noticing)・引き金(triggering)、(2)仮説検証、(3)メタ言語的省察の機能があり(ibid 1995: 128)、出力も言語習得の必要条件であるとしている(ibid 1985: 252)。彼女は"one learns to read by reading, and to write by writing."という言葉を引用して、"Similarly, it can be argued that one learns to speak by speaking."(ibid 1985: 248)と述べているが、Swain自身も決して否定していないKrashenよる入力の重要性の強調からすると、"One learns to speak and write by listening and reading."ともいえる。これらをすべて大胆に総合すると"One learns to communicate by communicating."であるとも表現できるであろう。むろん"One learns to communicate by communicating."といった言い方は一種のトートロジーであり、真ではあるがそれだけでは何ら命題以外の新しい内容を伝えるものではない。だが、この論文では、後に「コミュニケーション」という概念の含意を明らかにし、このトートロジーを単なる不定詞の動名詞による言い換え以上に、正しく妥当なものであることを示す。

 

1.2 The Monitor hypothesisへの批判

 Krashen(1982: 30)は、意識的に学習された言語規則は、発話のモニターとしてのみ働くだけであり、言語習得には無関係であるとした。

This hypothesis [=the monitor hypothesis] states that conscious learning has an extremely limited function in adult second language performance: it can only be used as a Monitor, or an editor. The hypothesis says that when we produce utterances in a second language, the utterance is "initiated" by the acquisition system, and our conscious learning only comes into play later. We can thus use the Monitor to make changes in our utterances only after the utterance has been generated by the acquired system.

モニターとしてのみ働くということは、いわゆる文法教授を言語習得の観点からは全面否定したものとなり、この主張はその後多くの批判を呼んだ。しかし「学んだ文法が、言語使用には直接は役立たないのではないか」という素朴な直感は否定しがたく、後年の研究者にとっては文法の明示的な学習の言語習得における役割をうまく説明することが大きな課題となった。

 その課題に最もうまく対応した論考の一つがYamaoka (2000)であろう。彼は意識的に学ばれた言語規則をformal rules(別名linguistic knowledge)と呼ぶ。これは"descriptive rules of grammar"であり(ibid 147)、事実上私たちが学校文法書で見る言語規則であると考えてよいであろう。彼はこのformal rulesをmapping rules(別名"psycholinguistic knowledge")と区別する。このmapping rulesとは、意味と形を結びつけるものである。

The function of mapping rules is to serve to connect meaning with form. They are utilized in the encoding process of intended meanings onto linguistic forms and in the decoding process of linguistic forms into intended meanings. In other words, they are responsible for the linguistic realization of meaning. (ibid)

だがこのmapping rulesはsubconsciousでinaccessibleなprocessであり、明示的にproductとして提示されるformal rulesとは対比されている(ibid 148-9)。彼によれば意味と形は、mapping rulesの機能を通じてのみ結びつくとされている(Form and meaning are not directly associated; they are associated through the function of mapping rules. (ibid 152))。

このように概念の整理をして、formal rulesが直接に応用されて発話の産出や理解が行われることはないことを明らかにして(formal rules are not the direct source of application for producing and comprehending utterances. (ibid 149))、彼はいわゆる学校文法が、間接的に言語習得に貢献する構造を"Catalytic Interface Position"としてまとめる。

Just as a particular catalyst, without itself changing, accelerates a particular chemical process producing a particular substance in a particular chemical circumstance, knowledge of a particular form can, without itself changing, activate a particular psychological mapping process developing particular mapping rules in a particular context of meaning. (ibid 155)

彼によれば、formal rulesを形式教授を通じてconsciousness-raisingを行い、mapping rulesを"comprehension-inducing input"(意図された意味がわかるように、状況的なcueを備えた入力)を通じてconsciousness-raisingすることによって、formal rulesは言語習得に貢献するとして、Krashenが全面否定した言語習得における学校文法の役割の復権に成功したのである。

 しかし意味と形を結びつけるのがmapping rulesだとしたら、それは必ずsubconsciousあるいはinaccessibleなものでなくてはならないのかが、疑問として残る。もちろん山岡が想定していた"form"とは、主として文であり、それは自ら内部構造を持つものである。そうなると意図する意味を適切な内部構造に構成し表象する規則(すなわち彼のいうmapping rules)は、複雑精妙なものであり、私たちの内観には明確な姿を現さないものとして想定される他ないのかもしれない。だが形(form)には語彙という形態論的構造しか内部構造を持たない(つまりは統語構造をもたない)項目もある。また定型表現という、内部(統語)構造を固定した項目(いわば、一つの長い語彙としても考えられる項目)もある。このような語彙、定型表現といった形と、それらの意味を結ぶ規則もsubconsciousでinaccessibleなものでなくてはならないのだろうか。少なくとも私たちは「○○(=intended meaning)と言いたいときは××(=linguistic forms)と言う」といった形で語彙や定型表現を習得していないだろうか。こういった規則は心理的にexplicitで直接習得可能なものだと考えられる。次のセクションでは、言語習得・使用にかかわる規則について考え直し、今話題にした規則を含む規則論の全体像を仮説的に提示する。

 

2 諸規則の分類

このセクションでは言語習得・使用に関する規則を、言語規則と言語使用規則に分け、前者をさらにI-言語規則とE-言語規則に、後者をさらにパフォーマンス・システム規則と発話規則に下位区分するという規則論を提示する。

 

2.1 言語規則

まずは「言語規則」(language rules)の規定から始める。「言語規則」の考えは、基本的にチョムスキーの言語哲学に即したもので、「言語」を自律した体系とみなし、「言語規則」は、その自律した体系の中だけで成立する規則だと定義する。つまり、外の世界との結びつきや言語使用者の志向性(intentionality:心がある対象に向かう働き)を考察の要因とせずに、形式的に成立する規則のことである。自然科学として言語学を構築するChomskyは、ある人間がその属する世界の中での諸関係に基づいて「言葉を話す」(language speaking)といった日常的な現象は、自然科学としての言語学の対象ではありえないとして(Chomsky 2000: Ch. 2)、"some amorphous region in a highly intricate and shifting space of human interests and concerns" (ibid 22)を排除した言語学理論の構築に努め、そしてそれを30年以上にわたって継続発展させている。ここではそのような言語学理論によって表象される規則を「言語規則」と呼ぶこととする。

その「言語規則」は、「I-言語規則」(I-language rules)と「E-言語規則」(I-language rules)に分けることができる。I-言語規則とはUG(Universal Grammar)を基盤として、それぞれの文に構造的記述(SD: structural descriptions)を与えて、その文を処理(発話・解釈)することを可能にする生成的手続き(generative procedure)に見られる規則性を表現したものである(ibid 26)。(注1)。I-言語(規則)は物理的・生物的基盤を持っており、その存在が、言語使用を根底のところで可能にしているのである。

The I-language is a (narrowly described) property of the brain, a relatively stable element of transitory states of the language faculty. Each linguistic expression (SD) generated by the I-language includes instructions for performance systems in which the I-language is embedded. It is only by virtue of its integration into such performance system that this brain state qualifies as a language. (…) We are studying a real object, the language faculty of the brain, which has assumed the form of a full I-language and is integrated into performance systems that play a role in articulation, interpretation, expression of beliefs and desires, referring, telling stories, and so on. (ibid 27)

このような脳内状態であるI-言語は、パフォーマンス・システムに組み込まれて言語使用の基礎的処理を行う。I-言語規則は、そのようなI-言語の理論的表象である。私たちが視覚において、自らの正確な脳内状態の自覚も、その理論的表象もできずに、ただ見ることができるのと同様に、私たちは言語使用を行う際に、I-言語を自覚せずに、またその理論的表象も行わずに、ただ言葉を使う。この意味でI-言語規則は、心理的にはimplicitであり、理論的には--Chomskyが目指すところによるならば、現象を余すところなく説明するという意味で--explicitである。

 このようなI-言語規則は、英語教師が通常「文法」という言葉で想像するものとはかなり異なっている。英語教師のいう「文法」とは、言語が外に現れた形において私たちが表層的に観察できる規則性のことである。この規則は、表層的な観察にしか基づいていないので、理論的にすべてを解明しようとするものではなく、観察的妥当性あるいはせいぜい記述的妥当性を有するのみであり、その意味で理論的にはimplicitである。だが一方、これは直接教授の対象となる場合においては、教師、生徒に十分自覚されたものとなり、その意味で心理的にはexplicitであるといえる。こういったいわば学校文法の規則で、外の世界および志向性を要請しない形式的な規則を、ここもChomskyにならってE-言語規則と呼ぶことにしよう。

 かくして、自律した言語の形式的特性である言語規則は、脳内で働くI-言語規則(心理的にはimplicitだが、理論的にはexplicit)と、私たちが表層的に観察するE-言語規則(心理的にはexplicitだが、理論的にはimplicit)に分類される。I-言語規則は、現状では必ずしも十分に解明されているとは言えないが、言語使用の根底をなす規則として、私たちはこの規則を想定せざるをえない。それに比べてE-言語規則は、記述において伝統な蓄積があるものの、それが心理的実在性をもち、実際にその形で直接脳内において働いているかについては疑わしいことは、ChomskyのみならずKrashen以降の応用言語学者も認めるところである。

 

2.2 言語使用規則

私たちが問題提起した「○○(=intended meaning)と言いたいときは××(=linguistic forms)と言う」といった規則は、以上述べた言語規則とは異なる規則として規定されなけばならない。意図された意味において、外の世界や志向性といった要因が入ってくるからである。ここでは、言語規則に基づきながら、実世界で言語使用者の心の動きと共に言語を使用する際に見られる規則性を言語使用規則(language-speaking rules)と呼ぶことにしよう。

この言語使用規則もさらに二つに下位区分される。一つは、I-言語規則と同じように、脳内で実際に行われているはずの言語使用規則であり、これもChomskyにならって「パフォーマンス・システム規則」(performance system rules)と呼ぶことにしよう。パフォーマンス・システム規則は、I-言語規則を受け継いで、脳内の構造的記述を、現実世界で使うための発話表象・解釈表象へと転換する規則として規定される。この「脳内で実際に起こっているはずのこと」は、I-言語同様、私たちが正確に自覚できないことであり、心理的にはimplicitである。理論的にはexplicitであることを究極の目標としては目指すべきではあるが、現時点でパフォーマンス・システムの解明に向かおうとするのは自然科学としては無謀とChomskyは考えており("It would also be a mistake, in considering the nature of performance systems, to move at once to a vacuous "study of everything."" (ibid 29)、ここではパフォーマンス・システム規則は理論的にもimplicitと規定しておくこととする(注2)

もう一つの言語使用規則は、言語規則におけるE-言語規則と同様、私たちが日常的に意識し使用している規則、すなわち私たちが主題としている「○○(=intended meaning)と言いたいときは××(=linguistic forms)と言う」といった規則である。これは心理的には明らかにexplicitであるが、理論的にはこの規則は私たちの日常生活の断片を記述しただけのものでありimplicitである。こういった言語使用規則を、ここではパフォーマンス・システム規則と区別して「発話規則」(utterance rules)と呼ぶことにしよう。ここでいう「発話」には、論の展開上、一語発話なども含めることにする。また発話はもちろん、産出されるものであり、かつ理解されるものである。「○○(=intended meaning)と言いたいときは××(=linguistic forms)と言う」というのは明らかに発話の産出にかかわる規則であるが、発話の理解にかかわる規則としては「××(=linguistic forms)に接したら○○(=intended meaning)を想起せよ」という形で表現することができる。いずれも形と意味を結びつけている、心理的にexplicitで理論的にimplicitな規則であることに変わりない。これらを簡略に表記すると

発話規則(産出): Say "u" if p. 

発話規則(理解): Think p if "u."

となる。記号表現のuは「形」としてのutteranceを、pは「意味」の表象としてのpropositionを暗示している。このは第一言語で表象される場合が多いだろうが、既知の目標言語で表象される場合もある。ただしが常に完全な命題の形をとるとは限らない。一般的におそらく初学者ほどpを明確に意識し、この発話規則を心理的によりexplicitなものにしているだろうが、時にpは「こういう時」「こんな感じ」という非言語的な認識にとどまる場合も十分考えられる。したがって発話規則は心理的にはexplicitであるが、理論的には非常にimplicitであるといえる(注3)。

以上、言語規則を二種類(I-言語規則、E-言語規則)、言語使用規則(パフォーマンス・システム規則、発話規則)を提示してきた。Yamaoka (2000)との関連でいうなら、彼の言うformal rules (linguistic knowledge)はE-言語規則、mapping rules (psycholinguistic knowledge)はI-言語規則とパフォーマンス・システム規則を合わせたものとなる。Chomskyは、linguistic knowledgeはI-言語であり、I-言語はパフォーマンス・システムとは独立させて考えるべきとしているので、Yamaokaの図式はChomskyの用語体系と整合性の点で問題があるように思える。またYamaokaには、本論文でいうところの発話規則に相当する規則はない。

自然科学的にとらえるなら言語使用は、I-言語規則がパフォーマンス・システム規則に組み込まれて執行されることによって可能になっていると想定される。I-言語規則とパフォーマンス・システム規則が言語使用を構成しているのである。しかしこれらの規則は共に心理的にimplicitで、日常的にはinaccessibleである。したがって、これらは明示的に教えることは不可能である。これらの規則がexplicitになりうるのは、理論的な意味においてのみであり、仮に言語習得者がその理論を学んだとしても、例えば、日常生活でよりよく「物を観察する」ことができるようになろうとした者が、視覚に関する脳科学理論(例えば外側膝状体と視覚野V1の結合のメカニズム)を学んでも困惑するだけと同様に、言語習得者がこれらの自然科学的規則によって、例えば、日常生活でより「雄弁になる」ことはないだろう。だが究極的には脳の物理的作用である言語使用を説明するには、このような自然科学的規則の想定は必要である。その中でも自然科学の常道として、解明しやすいものから研究を始めるために、パフォーマンス・システム規則とは区別したI-言語規則を想定し、そこから自然科学的解明を始めるというのがChomskyの戦略である。

一方、日常生活の表層的な断片で観察されるE-言語規則と発話規則は、その性質上、心理的にはexplicitであるが、これらだけによって言語使用が可能になるものではない(これが理論的にimplicitであることの含意である)。だがこれらは明示的に教えられることによって、日常の言語使用を、部分的に助けることができる。E-言語規則の場合、これはKrashenのいうモニターの働きであり、またYamaokaのいうCatalytic Interfaceである。だがこれらの貢献は、いわば言語使用の全体像という氷山の一角であり、私たちの意識の上に現れた現象であるにすぎない。言語使用という脳の働きは、大部分が私たちの意識に上らないままに遂行されている。E-言語規則と発話規則は言語使用を補助しているに過ぎない。これまでの規則論をまとめるなら次のようになる。

 

上位区分

言語規則

言語使用規則

特徴

自律的で形式的

志向性と関係

下位区分

I-言語規則

E-言語規則

パフォーマンス・システム規則

発話規則

心理的特性

Implicit

Explicit

Implicit

Explicit

理論的特性

Explicit

Implicit

Implicit

Implicit

言語使用

構成する

補助する

構成する

補助する

習得方法

環境設定

教授-学習

環境設定

教授-学習

発見方法

自然科学

日常的分析

現状では困難

日常的発見
 表1:言語習得・使用に関する諸規則

 こうしてみると、規則習得の必要性という点からすると、I-言語規則とパフォーマンス・システム規則は、必ず習得していなければならない規則であるといえる。だがこれらの規則は心理的にはimplicitであり、その意味において教授不可能であった。仮にI-言語規則を理論的に教授しても、それは当該認知の向上にはつながらないのであった。またパフォーマンス・システム規則は想定こそされ、実際的同定は現状ではほとんど望めないものであった。こうなると私たちは意識的な教授-学習が不可能な規則を獲得し、それによって言語使用を実現させていることになる。これは経験主義的な言語習得観では説明できず、合理主義的な言語獲得観で説明せざるをえない。(注4)

Applying this rationalist view to the special case of language learning, Humboldt (1836) concludes that one cannot really teach language but can only present the conditions under which it will develop spontaneously in the mind in its own way. Thus the form of a language, the schema for its grammar, is to a large extent given, though it will not be available for use without appropriate experience to set the language-forming processes into operation. (Chomsky 1965: 51)

私たちは言語獲得の条件を整えることができるだけで、言語をすべて教えてしまうことはできないということは、第一言語獲得の場合、適切な言語入力(およびそれに伴う言語交渉)の環境を与えれば後は脳が自力で言語獲得に成功するということである。臨界期および言語入出力の量の点で不利な第二言語習得の場合は、シュリーマン(1954)、ロンブ(1981)、近江(1988)、クラーク(1993)、鹿野(1999)、鄭(2000)、国井・橋本(2001)といった実践家の言葉を信じるとするなら(注5)、音読やシャドーイングといった集中的な入力-出力練習を繰り返すことにより脳が自力で言語獲得の基本的な部分において成功するということであろう。

一方、E-言語規則と発話規則は、必要に応じて習得しておくべき規則で、逆に言うなら必要がなければ習得する必要はない規則とすらいえる。実際、子供の第一言語においてE-言語規則はほとんど登場せず、発話規則の習得も、特殊な用途の言語使用にとどまるものだろう。ところが上述の第二言語習得の場合は、経験上、E-言語規則や発話規則が要求されていることは周知のとおりである。だが反面、E-言語規則や発話規則の習得だけでは、言語を自由に使えないことも私たちの経験が教えることであり、これは、やはり言語獲得の根幹は、適切な環境下で「教えられない」規則を脳が獲得することであり、意識的な規則は、その無意識的な規則を補助するだけであると解釈できる。

以下、このような言語獲得・習得観のもと、発話規則の実践上の問題点を考えることとする。(注6)

 

3 発話規則の実践上の問題とその解消

3.1 発話規則解釈の不確定性

発話規則に関する実践上の問題点とは、その規則自体が間違っているかもしれないことと、規則自体は間違っていないものの、その規則の解釈に失敗して適用を誤ることである。

発話規則自体が誤っているのは、主に学習者が一人でそれを「発見した」場合であろう。無論、多くの場合、学習者は辞書や教師といった権威ある存在によって発話規則を教えられるのであろうが、それにしてもある程度の学びは自ら行わざるを得ない。学習者はこの誤りをどのように修正することができるのだろうか。

次に発話規則を教えられる場合であるが、この場合発話規則自体は正しいものだとしても、その規則の解釈に不確定性があるため、その揺らぎから学習者が規則の適用において誤る場合がある。例えばジーニアス英和辞典を参考にして作成した発話規則として「あなたが聴者に何かを思い出させたい場合は、"May I remind you ...?" と言え」というものがある。ここで考えられる可能性としては、学習者がこの規則を、「思い出させるためならどのような場合にでも使ってよい」と中立的に解釈し、この英語表現が時に厳しい催促に聞こえてしまうことをわからずに、社会言語学的な意味でこの規則を誤適用し、聴者の当惑や反発を招くことなどが考えられる。発話規則を、英英辞典を使って、目標言語と同じ言語で記述しても同様の問題は残るだろう。ロングマン英英辞典を参考にして作成した発話規則は'Say "May I remind you ...?" if you want to make the listener remember something he or she must do'となるが、ここでももし学習者が規則の'make'や'must'の語感を知らなければ、この言語使用規則も誤適用されうる。

まとめるなら発話規則(Say "u" if p. Think p if "u.")の場合、に不確定性が残ってしまうということであろう。日本語、英語を問わずにpを詳しく述べても、それは解釈の問題を減らすどころかかえって増やすかもしれない。発話規則には発話規則自体の正否の不確定性、およびpの解釈の不確定性という問題がついてまわるわけである(注7)。これらの問題は、教授を徹底するだけでは原理的に解決しにくい問題だといえる。教師が、考えられる限りの発話規則を網羅的に、しかも一つ一つをできるだけ詳しく叙述したとしても、学習者は今度は、それらの膨大な発話規則叙述の解釈に困惑するだけなのかもしれない。これらの問題の解決は、教授以外に求められなければならない。

 

3.2 分析哲学的解明

以上述べた問題は、実は分析哲学では定式化され、そして解決の方向性が示されているものである。ここではその分析哲学的解明を行う。

ウィトゲンシュタイン(1976)は、規則に従う(rule-following)ことに関する問題提起を行った。その要諦は、規則にはその規則の解釈する点で不確定性がある以上、行動を規則が決定してしまうことはありえないように思えるということである。規則に従おうとする者は、はたして自分の規則解釈が正しいのかどうかに迷ってしまうということである。しかしながら、日常生活において、私たちはそれほど問題なく規則に従っているように思える。このパラドクスを解決することは、規則に従うということを個人の心の中だけで行われる(=<私的に>行われる)こととして考えることを止めることである。

<規則に従う>ということは一つの実践である。そして、規則に従っていると信じていることは、規則にしたがっていることではない。だから、人は規則に<私的に>従うことができない。さもなければ、規則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じになってしまうだろうから(202節)

発話規則の習得は、意識の中だけでは完結しない。発話規則は何度も教授され暗誦されることでなく、何度も適用されることによって完成へと向かうわけである。しかしこの場合の適用とは、相手なしに一人で発話を声に出したり、一人で発話をただ聴取してそのあとに何の反応も出したりしないことではない。それらはむしろ拡張された個人の意識の中の行為とすらいえるであろう。発話規則に従うことを実践として行うということは、自らの意識が他人の意識と交錯する時空間において発話規則に従い、言語を使用するということ、一言でいえばコミュニケーションを行うということである。

 コミュニケーションに関しては同じ分析哲学の系譜につながるDavidsonの方が、ウィトゲンシュタインよりも詳しい論考をおこなっている。Davidson (2001)はコミュニケーションにおける対話者を「第二者」(the second person)として概念化し、その役割を解明している。

コミュニケーションによる発話は、単なる「言いっぱなし」ではありえず、第二者からの有意味な反応を必然的に伴うものである(双方が「言いっぱなし」のように思える対話を、しばしば私たちは「全然話ができていなかった」「全くコミュニケーションがとれなかった」などと表現する)。ここで第二者とは、発話者(第一者)の発話を有意味なものとして解釈し、その解釈に基づいた反応を示すことによって、第一者の物理的にみれば単なる発声にすぎないものを、「コミュニケーション」として成立させる存在である。成立させる際には、第二者は第一者の発話をできるだけ有意味なものとしてとらえようとする。これが寛大の原則(principle of charity)である。コミュニケーションは、発話が基本的に真理に基づいている(正しいことを述べている)と仮定されて、参加者がそれぞれの相手の発話に現実的な意味での最大限の合理性を投影することによってはじめて可能になる(注8)

第二者が、第一者の発話に有意味な反応を示すということは、とりもなおさず第一者の発話に第二者が自らと同じような合理性を見出しているということである。ここでいう同じような合理性を見出すとは、同じように志向している世界のある対象について、大枠において同じくする信念体系を基に、それに関する同意あるいは細かな差異を認めるということである。

このように大枠において同じ信念体系を背景に、第一者と第二者が、共に同じ対象を志向することをDavidsonは三角測量(triangulation)と呼ぶ。この三角形の成立は、第一話者の発話規則の誤用を防ぐのに重要な働きをする。例えば第一者が、ある(物理的・心理的)出来事(E)をの解釈適用例だとみなして"u"と発話する。だが、このままではの解釈適用例としてEが適切であるかどうかがわからない。しかし同じようにEを志向し、大枠において信念体系を第一者と共有する第二者が、その発話に何らかの有意味な反応(同意、細部の異論、等)を示せば、第一者は基本的にEの適用例として成立することを確認できたこととなる。後は細部の異論などが、Eへの適用から由来しているのか、それとも第二者特有の信念から由来しているのかを第一者は忖度すればよい。だが基本的にこの発話が正しかったことは第二者からの有意味な反応によって保証されているのである。逆に第二者が理解不能の表情や全面的否定などを示したならば、Eの適用例としては適切でないことを知ることになろう(第二者固有の信念の存在によって、第二者が全面否定をするならば、第二者はおそらく彼固有の事情を第一者に説明するであろう。さもないとその第二者は非合理的な存在としてとらえかねないからである)。

発話規則の習得は、個人の意識の中だけで終結するものではない。それはの適用例として考えられる出来事(E)が生じている共有された世界と、その世界において大まかに第一者と信念体系を共有する第二者、およびその第二者の反応を必要とする。一言でいうならコミュニケーションを必要とするということである。

もちろん、コミュニケーションといっても、ここでは第一者が決められた発話を行い、第二者が決められた反応を示すという、いわゆる「言語活動」ではない。第一者がの適用例を自ら探し(あるいはEに対する適切なを探し)、"u"を発話し、その発話に対する第二者の自由な反応を待つというのが、ここでいうコミュニケーションの基本構造である。

またコミュニケーションも同じ第二者ばかりとでなく、大まかな信念体系は同じでも、細部の諸信念において異なる別の第二者とコミュニケーションを行うならば、第一者は最初の第二者とのコミュニケーションの際の齟齬が、自らの解釈によるものか、それともその第二者の特有の信念によるものかを、より正確に推測することができる。また別の状況におけるEをコミュニケーションの対象にするなら、pの解釈適用範囲に関して第一者はより学習することができる。こうしてコミュニケーションを重ねてゆくなら、第一者は発話規則に関して成立のパターンを認知できるようになるだろう(注9)。このパターンこそは、発話規則の指針であり、これはコミュニケーションを重ねることによってしか得ることができない。

こういったコミュニケーションを欠いたまま、学習者が何度も(正しい)発話規則を暗誦しても、その学習者は常にその発話規則の誤適用の危険性を払拭できない。同じ発話を同じ状況下で何度も繰り返して言う(say)同一反復(identical repetition)は、同じ発話を異なる状況下で繰り返して使う(use)パターン反復(pattern repetition)と区別されなければならない。前者は、発話に伴う運動技能の習得には効果的かもしれないが、発話規則の習得には問題が残る。発話規則の習得を可能にするのは、コミュニケーションにおけるパターン反復である。

 「○○と言いたいときには××と言う」という日常的な規則(発話規則)は、E-言語規則同様その存在を否定されるべきではない。だがこれらの規則は、言語習得・使用において補助的なものであり、言語習得・使用を構成しているのではない。構成しているのはI-言語規則とパフォーマンス・システム規則である。だが臨界期と言語入出力の量の点で不利な第二言語習得においては、補助的なE-言語規則と発話規則が重要になってくる。だが発話規則は机上の学習でなく、コミュニケーションを重ねることによって習得される。したがって第二言語習得においては、音読・シャドーイング、あるいは他の何らかの手段によって基本的なI-言語規則とパフォーマンス・システム規則の獲得が成立したら、後は発話規則をE-言語規則と共に必要に応じて補ってコミュニケーションを重ねることが言語習得への途であるといえよう。

 

1 誤解を排するために述べておくと、Chomskyは"I-language"という言い方をし、「I-言語規則」(I-language rules)といった言い方はしていない。ここではI-languageを理論的に明示的に表象したものをI-言語規則と呼んでいる。

2 Canale and Swain (1980)もここでいうパフォーマンス・システムの理論的解明に対して懐疑的な見解を示している。

3 発話規則の条件は、単純な条件(if)とし、双条件(if and only if)とはしなかった。解釈理論の構築で、Davidsonは双条件で解釈するべき文の真理条件を提示したが(Davidson 1984)、それは発話の場所と時間を特定した上でのことである。そのような特定化をせず、発話の産出と理解に関して一般的な規則性を述べようとするなら、uは双条件で厳密に一対一対応させるわけにはゆかない。意味と形が、どのような状況においても厳密な一対一の対応関係を持っているというのは極論であろう。したがって一つの(あるいはu)に対して、複数のu(あるいはp)が存在することは十分に考えられる。

4 これ以降、language acquisitionについては、経験主義的な観点を強調する場合は「言語習得」、合理主義的な観点を強調する場合は「言語獲得」と、訳語を使い分けることとする)。

5 音読やシャドーイングの有効性に関しては非常に興味深いテーマであるが、本論文ではこれ以上は扱わないこととする。

6 E-言語規則の実践上の問題点は、Krashen以降議論されているので、ここでは要点だけしめすと、E-言語規則は、外の世界や使用者の心との結びつきを欠いているので、形式的なパターンプラクティスには使えても、実世界の中での言語使用には結びつかないことである。

7 もちろんuに関しても、その正確な発音や聴取に失敗するという問題もありうるが、uはコミュニケーションの場において、実際に外に出ているだけにこれらの問題は解決しやすいので、ここでは取り上げない。

8 Grice流に言うなら会話の公理を投影してということになろうし、Sperber and Wilson流に言うならrelevanceの原理を投影してということになろう。これらの差異に関しては本論文では紙幅の点から割愛する。

9 言語の解釈にある程度の不確定性が必然的に伴うことからすると、全ての成立例と不成立例を枚挙することなど不可能だろう。発話規則の成立は「パターン」といった曖昧さをもった言葉で記述されなければならない

 

参考文献

Canale, M and Swain, M (1980) Theoretical Bases of Communicative Approaches to Second Language Teaching and Testing. Applied Linguistics, (1) 1. 1-47.

Chomsky, N. (2000) New Horizons in the Study of Language and Mind. Cambridge: Cambridge University Press.

Davidson, D. (1984) Inquiries into Truth and Interpretation. Oxford: Oxford University Press

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Long, M.H. (1983) Native speaker/non-native speaker conversation in the second language classroom. In. M.A. Clarke and J. Handscombe (eds.), On TESOL'82: Pacific Perspectives on Language Leaning and Teaching. Washington, DC: Teachers of English to Speakers of Other Languages.

Swain, M. (1985) Communicative competence: some roles of comprehensible input and comprehensible output in its development. In S.M. Gass and C.G. Madden (eds.), Input in Second Language Acquisition. Rowley, MA: Newbury House.

Swain, M. (1995) Three functions of output in second language learning. In G. Cook and B. Seidlhofer (eds.), Principles and Practice in Applied Linguistics: Studies in Honor of H.G. Widdowson. Oxford: Oxford University Press.

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Yamaoka, T. (2000) A Study of the Catalytic Interface Position in Second Language Learning. Tokyo: Taga-Shuppan.

 

ウィトゲンシュタイン著、藤本隆志訳 (1976) 『哲学探究』東京:大修館書店

近江誠(1988) 『頭と心と体を使う英語の学び方』東京:研究社出版

鹿野晴夫(1999) 『英語難民を必ず救う本』東京:中経出版

クラーク、グレゴリー著、平野勇夫訳(1993) 『グレゴリー・クラーク先生の「暗号解読法」があなたの英語に奇跡をおこす!』東京:同文書院

国井信一・橋本敬子(2001) 『究極の英語学習法』東京:アルク

シュリーマン著、村田数之亮訳(1954) 『古代への情熱』東京:岩波文庫

鄭讃容(2000) 『英語は絶対、勉強するな!』東京:サンマーク出版

ロンブ、カトー(1981) 『わたしの外国語学習法』東京:創樹社

 


2002年度全国英語教育学会(神戸大会)

自由研究発表

言語使用規則習得とコミュニケーション

(予稿)2002/7/7掲載

柳瀬陽介

広島大学 yosuke@hiroshima-u.ac.jp

キーワード:言語使用, 第二言語習得,コミュニケーション


 1.はじめに

本発表では、規則と言語習得に関する応用言語学のこれまでの議論を検討し、そこで得られた概念の一つであるmapping rules (Yamaoka 2000)を拡大解釈し、日常的な第二言語使用を説明する概念(「言語使用規則」)を構築することを試みる。加えてこの言語使用規則が実践上持ちうる問題点を指摘し、それをウィトゲンシュタインの議論を引き継いだデイヴィドソンの分析哲学的な観点から解明し、言語使用規則の問題はコミュニケーションを重ねることによってのみ解消することを指摘する。

2.先行研究の検討と問題設定

2.1 Krashen (1982)の問題提起

>Monitor Model:「意識的」(conscious)で「言語について知る」('knowing about' language)だけの学習(learning)は、発話のモニターとしてか働かず、言語の習得(acquisition)は唯一comprehensible inputを受け入れるという「潜在意識的」(subconscious)過程によってのみ成立。

>Long, Swainの批判と拡充:Comprehensible inputのみならず、negotiated modification (Long 1983)やcomprehensible output(Swain 1985, 1995)も言語習得に貢献する。

→"One learns to read by reading."→"One learns to speak by speaking." (Swain 1985)

→"One learns to communicate by communicating!?"

2.2 Yamaoka (2000)のCatalytic Interface Position

>Mapping rulesの設定:

(1) Formal rules (linguistic knowledge): 'knowledge consisting of formal rules at the product level' 

(2) Mapping rules (psycholinguistic knowledge): 'knowledge of mapping rules which is directly responsible for the process of linguistic realization of meaning.'; 'utilized in the encoding process of intended meaning onto linguistic forms and in the decoding process of linguistic forms into intended meanings.'

>Catalytic Interface Position (Strong Interface PositionとWeak Interface Positionの中間)

Formal rules, mapping rulesそれぞれに対するconsciousness-raisingによって前者が後者の習得を促進する。

→Krashen理論の言語知識に関しての過度な限定(Monitor Hypothesis)が整理

2.3 Mapping rules概念の拡張

>Mapping rulesを心理的に'explicit'で直接習得可能なものとして考える:「○○(=intended meaning)と言いたいときは××(=linguistic forms)と言う」

>Mapping rules習得の議論とFormal rules習得の議論を切り離して考える:linguistic formsが定型表現や語彙の場合は正当化できる前提。Linguistic formsがチャンクである場合、現実的にはformal rulesの関与は、一つ一つの単語を組み合わせて発話する場合に比べて減少するのでそれなりの正当化は可能。

3.言語使用規則の定式化

3.1 言語規則と言語使用規則

>言語規則(linguistic rules)

自律した言語体系内の規則。外の世界や言語使用者の志向性(intentionality)に言及することなく成立する規則。

→チョムスキー的な解釈:「言語規則」は日常概念としての言語使用(ことばをしゃべること)(speaking a language)と直接的な関連はない。心理的には'implicit'(理論的には'explicit')。ただし、E-languageに関する伝統文法的記述でも、それが外の世界や言語使用者の志向性に言及することなく成立するならそれを「言語規則」に含める。

>言語使用規則(language-speaking rules)

心理的に'explicit'なintended meaningとlinguistic formsの結びつき。ただし出力時のみとする(入力時は自動的で意識にのぼらないことが多い)。

3.2 言語使用規則の定式化

言語使用規則: Say "s" if p.

>記号表現のsはsentenceを、pはpropositionを暗示。ただしが常に命題の形をとるとは限らない。おそらく初学者ほどpを明確に意識。時にpは「こういう時」という非言語的な認識にとどまる。したがって言語使用規則は心理的には'explicit'であることが多く、理論的にはほぼ'implicit'であるといえる。

>条件は、双条件(if and only if)ではありえない。双条件だと、状況と言語表現の間に一対一の関係を認めてしまうが、言語の創造性からしてそのような想定は認めがたい。(したがって、一つのpに対して複数のsは考えられうる)。

>言語習得の全体像(仮説):

(1)I-language的な言語規則は大量の理解可能な言語入力や言語訓練(音読やシャドウイング)によって習得。(2)E-language的な言語規則は形式的学習で習得。(3)特別に言語使用者の世界と心の関連で重要であると思われる条件・言語表現に関してはSay "s" if p.の言語使用規則の形で、自ら学ぶか、他人に教えてもらう。(ただし本発表では(1)と(2)についてはこれ以上語らない)

4.言語使用規則の実践上の問題

4.1 言語使用規則そのものの正否(自ら学ぶ場合):自ら「発見した」言語使用規則は間違っている可能性がある。しかしある程度は自ら学ばざるを得ない。

4.2 言語使用規則のpの解釈の不確定性(他人から教えてもらう場合)

>例1:「あなたが聴者に何かを思い出させたい場合は、"May I remind you ...?" と言え」(ジーニアス英和辞典を参考にして作成)

→考えられる可能性:pを、思い出させるためならどのような場合にでも使ってよいと中立的に解釈し、この英語表現が時に厳しい催促に聞こえてしまうことをわからずに、社会言語学的な意味でこの規則を誤適用し、聴者の当惑や反発を招く。

>例2:Say "May I remind you ...?" if you want to make the listener remember something he or she must do. (Longman Dictionary of Contemporary Englishを参考にして作成)

→考えられる可能性:もし学習者がpの'make'や'must'の語感を知らなければ、この言語使用規則も誤適用されうる。

→日本語、英語を問わずにpを詳しく述べても、それは解釈の問題を減らすどころかかえって増やすかもしれない。言語使用規則には言語使用規則自体の正否の不確定性、およびpの解釈の不確定性という問題がついてまわる。

5.分析哲学的解明

5.1 ウィトゲンシュタイン(1976)による問題提起

>「我々のパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動の仕方もその規則と一致させることができるから、ということであった。その答えは、どのような行動のしかたも規則と一致させることができるのなら、矛盾させることもできる、ということであった。それゆえ、ここには、一致も矛盾も存在しないのであろう」(201節)→Rule-followingの問題を提起

>「<規則に従う>ということは一つの実践である。そして、規則に従っていると信じていることは、規則にしたがっていることではない。だから、人は規則に<私的に>従うことができない。さもなければ、規則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じになってしまうだろうから」(202節)→私的言語(private language)(=ある個人にだけしか理解できない言語)は存在しうるかという問題提起

5.2 「経験則」による説明

>柳瀬(1992)は、ウィトゲンシュタインの問題意識に基づいて、ある第三者的視点から観察されるrule-followingとは異なる、主体的なrule-followingを「経験則に従う」として、日常的な規則と行動の間の因果関係を擁護した。

>私たちの日常生活においては、規則に従う時の問題空間はほぼ固定されており、哲学者や人工知能のような「非常識的」適用は行わない。

→だが、第二言語使用において、第一言語使用の常識をそのまま援用するわけにはいかない。

>教授者は「経験則」を教える場合に、学習者がとらえる問題空間に配慮するべき。

→だが、学習者の問題空間を知ることは困難。また、言語使用規則を自ら発見する場合の問題がとらえられていない。

5.3 Davidson(2001)のコミュニケーション論による解明

5.3.1 私的言語の否定とコミュニケーションによる「正しさ」の保証

>私的言語を存在するとするなら、それは正しいとも正しくないとも言えない言語となる。そのような想定はナンセンスである。言語を<私的に>のみ使うとは、正しさが確定しない言語使用を続けるということになる。

>だが、言語はコミュニケーションという第二者(the second person)との言語使用によって絶えず正しさを確定されている。

>寛大の原則(principle of charity):コミュニケーションは、基本的に真理に基づいている(正しいことを述べている)と仮定されて、参加者がそれぞれの相手の発話に現実的な意味での最大限の合理性を投影することによってはじめて可能になる。(嘘や皮肉などもいったんは真理を想定しなければその効果はでない。この原則をはずすと、ことばがことばとしての意味を持たなくなる)(柳瀬 2002)。(正気の人間の間で)成立したコミュニケーションにはそれなりの正しさを想定せざるを得ない(少なくともそのコミュニケーションは合理的に解釈することができる)。

>第二者(the second person)の重要性:コミュニケーションによる発話とは、単なる「言いっぱなし」ではありえず、発話者と世界と合理的な信念体系を共有する第二者からの有意味な反応を必然的に伴う。

→言語使用規則を私的言語のように扱うのではなく、コミュニケーションという実践の中で第二者と共に従うものとして扱うことによって、言語使用規則は「正しく」適用されるようになる。

→言語使用規則は、コミュニケーションの現実とは離れた机上でいくら洗練されても、それだけでではその適用の正しさは保証されない。

5.3.2 パターンの形成による不確定性の縮減

>ある言語使用規則は、異なる状況、異なる第二者においてのコミュニケーションで繰り返し適用されることにより、その正しさのパターンが形成される。それはパターンといったややあいまいな認識に終わり、不確定性が解消することはないが、もともと言語使用規則(Say "s" if p.)は、その性質上、厳密に確定的な規則ではない。

→言語使用規則を教授する際には、異なる状況・第二者でのコミュニケーションをできるだけ促進するように仕向けなければならない(パターン反復)。

→こういったパターン反復は、全く同じ状況下で全く同じ発話を繰り返し口にする(say)、同一反復とは区別されなければならない。同一反復とパターン反復は区別された上で、その特徴を考慮した上で、教育手段として用いられなくてはならない。

結論:言語使用規則の習得は、世界と合理的な信念体系を共有する第二者とのコミュニケーションが重ねられることによって達成される。言語使用教授においては、言語使用学習者が、同じ世界を共有する第二者の前で発話し、それに対して第二者が何らかの反応をすること、および、できれば異なる状況で、これまたできれば異なる第二者の前で同じ言語使用規則に基づく発話を繰り返し、コミュニケーションを重ねることが重要となる。

6.参考文献

Chomsky, N. (2000) New Horizons in the Study of Language and Mind. Cambridge: Cambridge University Press.

Davidson, D. (2001) Subjective, Intersubjective, Objective. Oxford: Oxford University Press.

Krashen, S.D. (1982) Principles and Practice in Second Language Acquisition. Oxford Pergamon.

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Swain, M. (1985) Communicative competence: some roles of comprehensible input and comprehensible output in its development. In S.M. Gass and C.G. Madden (eds.), Input in Second Language Acquisition. Rowley, MA: Newbury House.

Swain, M. (1995) Three functions of output in second language learning. In G. Cook and B. Seidlhofer (eds.), Principles and Practice in Applied Linguistics: Studies in Honor of H.G. Widdowson. Oxford: Oxford University Press.

Yamaoka, T. (2000) A Study of the Catalytic Interface Position in Second Language Learning. Tokyo: Taga-Shuppan.

ウィトゲンシュタイン著、藤本隆志訳 (1976) 『哲学探究』東京:大修館書店

柳瀬陽介 (1992) 「言語産出と規則」『中国地区英語教育学会研究紀要』(22) 277-287.

柳瀬陽介(2002) 「第二言語コミュニケーションの成立基準とその英語教育学的示唆」(草稿)[Online] Available at: http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/SecLangCom.html

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