「言語研究の知、言語教育の知、言語教育研究の知」

1998年3月26日段階のβ版です。数々の不備はご容赦ください。


口頭発表原稿

1998年3月28日

言語問題総合研究会第一回研究大会

(於:国立教育会館)

 

「言語研究の知、言語教育の知、言語教育研究の知」

 

柳瀬陽介(広島修道大学)

 

731-51広島市安佐南区沼田町大塚1717

TEL:082-830-1194 / FAX:082-848-7788

E-MAIL:yanase@ns1.shudo-u.ac.jp

URL:http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase

(研究成果はできるだけホームページ公開するようにしています。是非一度アクセスしてください)

 

 

0.はじめに

 

0.1.異なる背景と関心をもつ皆さんへ

*この発表は、いかにして言語教育研究を成立させるか、という視点から行われます(発表者の関心はもっぱら英語教育研究ですが、議論は言語教育研究のレベルで行われうると考えます)

*発表者の前提は、「応用的」な研究(=他分野(特に言語学や心理学)の方法論をそのまま借用して、対象だけを変えた研究)には、かなりの限界があるのではないか、というものです(cf.柳瀬1997)

*この発表では、発表者が今後言語教育研究を語る際に有効と考える用語と概念枠組みを提示しますが、それらが皆さんからの批判という淘汰の試練を受けて、進化し、それらが実際に言語教育研究に役立つようになることが発表者の望みです。

*この発表は、言語問題総合研究会第一回研究大会の第一番目の発表となっています。この会の成功のために、この発表の準備が十全に行われたか、と問われると発表者は答えに窮してしまいますが、発表者としては、質疑応答などで、学問的に誠実に答えることでもって、この会の成功にわずかながらの貢献をしようと考えています。

 

 

0.2.概要

*まず1.では、ウィトゲンシュタインの『確実性について』の議論を受けて、言語研究が「主知主義者/懐疑主義者」の態度に裏付けられているという主張をします。1.1.は言語研究におけるチョムスキーの影響を簡単に概括します。1.2.ではそのような思考法に対するウィトゲンシュタインの性格づけを示し、チョムスキー的な「主知主義者/懐疑主義者」態度を相対化する試みを始めます。

*次に2.では、知のあり方は、「主知主義者/懐疑主義者」的なものばかりでなく、いわば「生活者」としての知のあり方もあることを、(これもウィトゲンシュタインに基づいて)主張します。実際の言語教育者は「主知主義者/懐疑主義者」的な態度ではなく、「生活者」的な態度をとっているというのも発表者の主張の一つです。2.1.では近代的思考の一つの典型ともいえる「主知主義者/懐疑主義者」の態度を少しずつ突き崩して、「生活者」としての知のあり方を明らかにしてゆきます。2.2.では子どもの学びをウィトゲンシュタインに従って概括し、生活者としての学びを明らかにして、ここでも「主知主義者/懐疑主義者」的以外の知のあり方があることを示します。

*最後の3.ではシステム論に基づき、第一世代、第二世代、第三世代それぞれのシステム論の考えを概説し、その中から言語教育と言語教育研究のあり方を模索します。

 

 

1.言語研究の知

*言語研究には無論、様々な種類のものがありますが、ここでは現在言語研究の中で最も勢力を有し(cf.ニューマイヤー)、かつ自身で「正統性」を主張している生成文法を、言語研究の代表として議論を進めます(すべての言語研究をカバーすることは発表者の力量を明らかに超えます)

 

1.1.「主知主義者/懐疑主義者」としてのチョムスキー

*生成文法の主導者であるチョムスキーの立論の特徴を、必要最小限の用語の列挙で示すとしたら、次のような用語があがってくると考えられます。「普遍文法」「I-言語」「プラトンの問題」「言語の知識」「理想化」「自然科学」

*チョムスキーの立論の出発点(の少なくとも一つ)は、貧困な外的刺激にもかかわらず言語獲得がなされる、という「プラトンの問題」の難問を解くには、生得知識を想定せざるを得ない、というものです。

*その生得知識(言語の知識)は、普遍文法あるいはI-言語として定式化され、生成文法研究者によって精緻な明示化が進められます。

*このチョムスキーの思考法は、ある疑問(疑い)を、明示的(explicit)にはらすのが研究者のあり方だ、という考えだと言い換えられる思われます。この思考法は、疑いは(全て)はらさねばならない----疑いをそのままにしておくことはできない---という意味で懐疑主義的であり、その疑いの消去を明示的な知識表現で行おうとする点で主知主義的です。以後、チョムスキーのような言語研究者を「主知主義者/懐疑主義者」として特徴づけます。

*チョムスキーは「言語の知識」の問題は、「言語獲得」や「言語使用」の問題に先立つ(先立たねばならない)と主張していますが、その主張は上の思考法の帰結であるようにも思われます。

*言語の諸問題の解明に先立つ「言語の知識」を明らかにするため、チョムスキーは数々の「理想化」を行い、生成文法研究こそが(唯一の)「自然科学」的な言語研究であると宣言しています。

*もともとは教育研究として始まった第二言語習得/言語獲得研究も、その影響を受けてか、一部のジャーナルは生成文法の枠組みで(のみ)言語習得/言語獲得研究を行うと宣言しています。

*この傾向が進めば、チョムスキーの「理論科学と実践の間には深い溝がある」という警句にもかかわらず、言語教育研究が「唯一の自然科学としての」生成文法の「応用研究」一色にそまりかねないとさえ発表者は懸念しています。

*こういった「主知主義者/懐疑主義者」的な知のあり方だけが、唯一の知のあり方ではありません。その事は近代的思考法に対する根源的な批判を試みたウィトゲンシュタインの論考を追うことで明らかになります。

 

1.2.ウィトゲンシュタインの批判

[この節での( )内のアラビア数字は、『確実性について』の節番号を示しています。なお同書の訳出に際しては大修館書店の翻訳を参考にしましたが、最終的には発表者による訳出になっています]

*“私は・・・を知っている”という表現は、日常生活では何も問題をおこさないように思えます。“「・・・」を知ってる?”-----“ああ、知っているとも”といった問答においては、命題部分の「・・・」には様々な文(や語句)が挿入されます。ところが、これらの命題を私たちは“本当に”知っているのか、と立ち止ってしまうと私たちは困惑し始めてしまいます。なぜなら「私に---あるいは万人に-----そう思える(scheinen)ということから、事実そうである(sein)という帰結は出てこない」(2)という強力な近代の思考図式にしたがって、私たちは“仮象”(Schein)と“存在”(Sein)の隔絶という袋小路に追い込まれてしまうからです。

*“私は・・・を知っている、と思っていたが、それはそう思っているだけで、本当に知っているとは言えないのではないか”と疑い始めると私たちは“どんな経験が知を保証するのか”や、“私たちはある種の事柄を経験にも拠らないのに、なぜ知っているのか”といった難問を抱え込んでしまいます

*哲学を“困惑から救う”治療的な試みと考えるウィトゲンシュタインは、前出の思考図式を述べた後、すかさず付け加えます-----「ただし、これが意味のある疑い(sinnvoll bezweifeln)でありうるかどうかは問われるべきである」(2)。仮象と存在を峻別し、存在に疑いをかけるのは「あまねく意味あること」なのでしょうか。ウィトゲンシュタインは私たちが「“私は知っている”の用法がいかに特殊なものであるかという、まさにその点を見落としている」(11)ことを『確実性について』での論考において示し、私たちを懐疑論や(それと表裏一体の)主知的な根拠への渇望から救い出します。

*そのウィトゲンシュタインの中心主題を一言で述べるなら、私があることを“知っている”ことを「私の生活が示す(Mein Leben zeigt)」(7)ということになるでしょう。以下順次、「主知主義者/懐疑主義者」とは異なったそのような知のあり方を、「生活者」としての知のあり方として明らかにしてゆきたいと思います。

*ウィトゲンシュタインは、私たちが“知っている”という言葉の魔術にかかる(435)ことを防ぐため、日常生活においては「“知る”(wissen)という概念と“確信する”(sicher sein)という概念を区別することは重要なことではない」(8)と主張します。このように“知る”を他の言葉と代替可能とするのは“知る”の「特殊な用法」(11)を警戒するからです。

*すなわち、“私は知っている”という表現は「知られたことを事実として保証する(das Gewuァte als Tatsache verb殲gt)という事態を記述しているように見える」(12)のであり、そこで私たちは「“私は知っていると思っていた”(Ich glaubte, ich w洫te es)という表現をいつも忘れてしまう」(12)といえます。“知っている”と言った途端、私たちはその命題の絶対的な真理性を有しているように思いがちになり、それだけ懐疑論や根拠への渇望への戸口に立ってしまい「主知主義者/懐疑主義者」になってます。

*それならば私たちの“知っていること”すなわち知識は、全く主観的なものであり、信頼のおけないものでしょうか。私たちの知識は、常に偽であるかもしれないという疑いの吟味を経て始めて役に立つものでしょうか。日常生活はその考えも行き過ぎであることを私たちに教えます。疑いとは、懐疑論者の考えるように、常に成立するものではなく、それ相応の場所を私たちの言語生活の中にもっているものではないでしょうか。

*知識は疑いの吟味を経てはじめて知識として成立すると考える者は、疑いが「言語ゲームの中でのみ効果をもつ(nur in einem Sprachspiel wirkt)」(24)ことを忘れています。懐疑主義者や根拠を渇望する主知主義者は、疑いがありうることを議論の確固たる出発点としますが、まず問われるべきは反実仮想の問いである「その疑いが[仮に成立するとするならば]いかなるものでありうるか(Wie s撹e so ein Zweifel aus?)」(24)ということです。しかもこれは「無造作に了解されてはならない(nicht so ohne weiteres versteht)」(24)問いです。疑いが成立しうるという可能性を無造作に出発点としながら疑いの存在を確固たるものとして、その疑いの解決に努める者は、疑うという言語ゲームを乱用しているのではないでしょうか。(ここで私が批判しようとしているのは、チョムスキーなどの主知主義者/懐疑主義者的態度をそのまま言語教育研究に「応用」しようとしている研究者です)。

*前にも述べましたように、チョムスキー自身は理論科学と実践の違いを実感しているようですが、チョムスキーの影響を受け、言語教育研究をチョムスキー的な「主知主義者/懐疑主義者」としての態度だけで行おうとする言語教育研究者はこの節でのウィトゲンシュタインの批判を傾聴する必要があると考えます。

*ですが、一気に言語教育研究の知のあり方を議論する前に、言語教育の知のあり方を議論しておきたいと思います。

 

 

2.言語教育の知

*この章では引き続き『確実性について』の論考に従って、「生活者」の知のあり方を明らかにする試みを続けます。言語教育者は、言語研究者のような「主知主義者/懐疑主義者」態度でなく、「生活者」としての態度を実際にとっているし、またとるべきだ(逆にいうなら、無反省な「主知主義者/懐疑主義者」的態度の適用の誘惑は退けるべきだ)というのが発表者の主張です。

 

2.1.「生活者」としての言語教育者

*ウィトゲンシュタインは、私たちの認識が、疑いに端を発する検証を経てはじめて成立するものではないことを述べます。「私の世界像(Weltbild)は、その正しさ(Richitigkeit)に関して私が私自身に納得させた(歟erzeugen)させたから私のものになったわけでもない。また私がその正しさに関して[自分以外の何かによって]納得させられたからでもない。そうではなくて、これは受け継がれた背景(歟erkommene hintergrund)であり、これによって私は真(wahr)と偽(falsch)を区別する」(95)。

*「世界像」は、真偽の判断の「背景」であり、それ自身はいわば真偽およびその検証を越えています。したがって「この世界像を記述する諸命題は一種の神話学に属するといえよう」(95)とさえウィトゲンシュタインは表現します。そういった諸命題は、それら自身は疑いを越えたものであり、むしろ疑いをめぐる言語ゲームは、それらの諸命題を基盤としてはじめて成立します。

*言語教育者の言語ゲーム(教育実践、教育実践に関わる話し合い、等など)は、チョムスキー的な疑いを「背景」に追いやることによって、始めて実際的な言語ゲームとして成立するのではないでしょうか。

*「この種の命題の役割は、ゲームの規則がうけもつ役割に似ている」(95)とウィトゲンシュタインは言います。あるゲームを行うということは、そのゲームの規則について疑ったり討議しあったりすることではありません。ゲームはその規則をいわば当然のこととして見なすことによって成立します。ゲームのあらゆるプレーは、規則をプレーの「背景」(あるいは「舞台」とたとえた方が適切でしょうか)とすることによってはじめて成立します。あるゲーム中に規則自体を疑うことや規則について討議することはもはやそのゲームではありません。それは(ルール改正といった)別種の(言語)ゲームです。ゲームの最中にそれらの規則の「真偽」に拘泥する者は、審判に退場を命じられるでしょう。

*この「規則」のたとえは、「規則」という言葉自体が、時に私たちの議論の対象となるので(cf.柳瀬1995)、下手をすると誤解を招きかねませんが、その点に注意しておけば有効なたとえであると思われます。すなわち、言語教育の営みにおいて、チョムスキー的な疑いに拘泥する者は、言語教育とは違った別の言語ゲームに従事していると考えられますから、そういった者はやんわりと言語教育の言語ゲームから退場し、言語研究の言語ゲームへ参加すべきだ、という主旨のたとえとなります。(一部の言語学者も既に言っているように、言語教育と言語学教育は峻別されるべきです)。

*ある言語ゲームには、その言語ゲームにおいては真偽を語りえないある種の命題があります。その言語ゲームに「根をおろし」て、その言語ゲームを成立させている命題です。これらは実際上は疑いえません----疑うことが論理的に全く不可能だとは言わないにせよ----。「疑いえない」という意味で、その命題は語りえません。その語りえない命題を語り始めようとすると、元々の言語ゲームが崩壊し、別の言語ゲームが始まってしまうからです。

*したがってある疑いは、ある特定の言語ゲームの中では健全な役割を果たすかもしれませんが、それがすべての言語ゲームにおいて有効であるわけではありません。ある疑いの可能性をもって私たちのすべての言語ゲームを停止させてしまうのは、言語の乱用だと思われます。ここで発表者が批判しているのは、チョムスキー的な学問のあり方を、言語の諸問題を扱う際に常に先行させなければならないとする考え方です。

*それではどのような命題に関して私たちは“知っている”という表現を使うことや“疑い”をはさむことを避ければよいのでしょう。言語ゲームに「根をおろし」て、その言語ゲームを他の多くの命題とともに成立させている命題、と先ほど私たちは確認しました。ではそういった命題の具体的な兆候とは何でしょう。ここでも日常生活のありようが私たちに判断する基準を示します。ウィトゲンシュタインは言います。「誰かがそれを疑うとき、その疑いはいかにして実際的(praktisch)でありうるのだろう。疑うことで何の違いも生じないなら、好きなように疑わせておけばよいのではないか」(120)。

*疑うことによって何も生み出されないような疑いなら、それは(他に何もすることがない)懐疑主義者に任せて私たちは活動(日々の仕事)を続ければよいといえます。大切なのは、これは疑いに対する知性の敗北ではなく、知性の健全なあり方であるということです。

 

2.2.「生活者」の学び

*次に「生活者」としての学び、特に子どもの学びについて考えてみましょう。

*主知主義者/懐疑主義者が想定するように、私たちはある判断をひとつ、別の判断をもうひとつ、といったように独立した個別の判断を積み木のように積み重ねてゆくのではありません。ウィトゲンシュタインは言います。「私たちが何かを信じる(glauben)ことを始めるとき、信じるのはひとつひとつの命題(einzelnen Sats)ではなくて、諸命題の全体系(ein ganzes System von S閣zen)である。(光は次第に全体に広がる)((Das Licht geht nach und nach 歟er das Ganze auf))」(141)「ひとつひとつの公理が私にとって明白であるのではなくて、帰結と前提が互いに支えあっているひとつの体系が私にとって明白なのである(Nicht einzelne Axiome leuchten mir ein, sondern ein System, worin sich Folgen und Pr確issen gegenseitig st殳zen)」(142)。

*上のようにして子供、すなわち何かを学ぶ者は、ある体系的な連関を身に付けるとウィトゲンシュタインは主張します。前提を学び、それを踏まえたのちに帰結を学ぶのでは必ずしもなくて、帰結を学んだのちに前提を学んだり、あるいは前提と帰結を同時に身に付けるわけです。

*「子供は多くのことを信じるようになる(Das Kind lernt eine Menge Dinge glauben)」(144)とウィトゲンシュタインは言います。この一度に多くのことを信じるということが、学ぶことに可能にしているとも考えられます。「つまり、子供はそういう信念にしたがって行為する(handeln)ことを学ぶ」(144)わけです。行為によって子供は信念体系という知識を身につけます。もちろん身につける中で、ある種のことは疑われたり修正されたり、ある種のことは疑われることなく自らにとって確固たるものとなるでしょう。だがこのことは後者の知識がそれ自体において明証であったり確実であったりすることを意味するわけではありません。

*ウィトゲンシュタインは言います。「子供は次第に自らのなかにある信念体系(ein System von Geglaubtem)を形成する(herausbilden)。その体系のなかではあるものは動かしがたく固定(unverr歡kbar fest)されているが、あるものはある程度動かせる(beweglich)。ゆるがないもの(Was feststeht)は、それ自体が明らかか明白である(an sich offenbar oder einleuchtend)がゆえに動かないのではなく、そのまわりにあるものによって固定されている(festgehalten)」(144)。

*ここにおいては、何か確固たる「本質」が諸判断を可能にしているのではありません。私たちがそれなりに一貫した形でさまざまな判断をくだすことこそが判断の「本質」-----もしそのようなものを想定する必要があればの話ですが-----であり、特定の原理や規則が絶対的に真なるものとしての「本質」であるわけではないと主張できます。「私の諸判断が、私の判断のありさま、いかに私が判断をするか、つまり判断の本質、を特徴づけている(Meine Urteile selbst charakterisieren die Art und Weise, wie ich urteile, das Wesen des Urteilens)」(149)とウィトゲンシュタインは表現します。

*子供は懐疑論者が想定するように、疑いをはらすことによって学ぶのではないと言えます。「子供は大人を信用することによって学ぶ。疑うことは信じることのあとに来る(Der Zweifel kommt nach dem Glauben)」(160)。「私は無数のことを学んだが、それらは人々の権威(Autorit閣 von Menschen)に基づいて受け入れられた(angenommen) 」(161)とウィトゲンシュタインは言います。ある知識が裏付けられたり打ち崩されたりするさまを経験するのは、知識が受け入れられたのちのこと(161)です。“疑う”、“検証する”という意識的な経験をむやみに学習に拡張してはいけないと考えられます。(ですが日本の第二言語習得/言語獲得研究の中でも最も包括的な研究をやっている一人の山岡でさえ、「仮説-検証」を言語習得/言語獲得の前提として考えているように思われます)。

*確かに私たちは時にある命題を疑い、その命題を裏付けたり打ち崩したりしようとします。それが“科学”の端緒でもあります。ですが私たちは(特に子どもは)すべてをその疑いの経験によって学ぶのではありません。「私は一つの世界像(ein Weltbild)をもっている。それは真なのか偽なのか(wahr oder falsch)。それは何よりも、私のあらゆる探求と主張を支える土台(das Substrat alles meines Forschens und Behauptens)なのである。それを記述する諸命題が、みな同じように吟味(Pr歿ung)を必要とする(unterliegen)わけではない」(162)とウィトゲンシュタインは表現します。

*子供、つまり何かを学ぼうとする者、は何かを受け入れることからはじめます。だがそれはのちに裏付けられる仮説のようなものでは必ずしもなく、しばしば私たちの生活が「動く」ことによって疑いを免れているだけのものです。この事態が「主知主義者/懐疑主義者」には耐えられないのです。ウィトゲンシュタインは端的に言います。「難しいのは、私たちの信念の無根拠性(Grundlosigkeit)を洞察する(einsehen)ことである」(166)。この洞察がないと、「主知主義者/懐疑主義者」的態度をそのまま子どもの言語習得/言語獲得の前提としてみなしてしまう、と発表者は主張します。

*ですが私たちの近代的思考図式は根強く、ウィトゲンシュタインが想定するように、次のような反論で「応用的」な言語教育研究を弁護する人もいるかもしれません。「多分ひとは言うであろう。“それにしてもその信頼(Vertrauen)の基礎になっている(zugrunde liegen)、ある原理(ein Prinzip)がなければならない”と」(172)。それに対してウィトゲンシュタインはこう反問します。「だがそんな原理が何をなしうる(leisten)のだろう。それは“真とみなす”(F殲wahrhaltens)ことの一つの自然法則(ein Naturgesetz)以上のなにものかでありうるのだろうか」(172)。

*“私たちはこのように学ぶ”という記述には根本的に何かが欠けているのでしょうか。説明によってある原理と結び付けられることのない“記述”は、知的に不十分なものなのでしょうか。そもそもすべての現象に結び付けられるべきある一つの原理を想定すること自体が妥当なことなのでしょうか。ウィトゲンシュタインは言います。「ひとはどこかで説明(Erkl較ung)から純然たる記述(bloァe Beschreibung)にうつらなければならない」(189)。

*ちなみに、言語習得/言語獲得研究においては、当面の間は、説明より記述の方が優先されるべきだ、というのが発表者の考えです(cf.柳瀬1998)。

*言語習得/言語獲得はなぜ可能か”という問いは、私たちが信じ、学ぶさまを記述することより深遠で知的なのでしょうか。言語習得/言語獲得においても私たちは“どんな隠された原理が学習を可能にしているのか”といった問いからどこかで解放され、“どのようにして私たちは信じ、学ぶか”という記述の課題にうつるべきなのではなかろうか、と発表者は考えます。

*知識の根拠は、必ずしも明白な命題の形では知覚されません。それは私たちの端的な行為だとウィトゲンシュタインは主張します。さまざまの具体的な事柄も、ある種の確実な命題を自覚することなしに学ばれます。それらを明示的に知ることは学びには要求されません。

*ウィトゲンシュタインはこう自問自答します。「誰かが私たちに、“しかしそれは真(wahr)か”と問うとき、私たちは“その通り”というだろう。さらに彼が根拠(Gr殤de)を求めたら、私たちはこう言うこともできる“私は君にどんな根拠も与えることもできない。しかし君がもっと学べば君も同じ意見をもつようになるだろう”」(206)。何かを学ぶということはある種の確実な命題を(必ずしも)自覚せずにある種の事柄に確実な判断を下せるようにもなることです。ウィトゲンシュタインは言います。「“理性的な”(vern殤ftige)人間ならだれでもこのように行為する」。

*自らの知識のすべてに明証を求めるのが“理性的”なのではありません。さまざまな生活様式を受け入れ、言語ゲームにおいて行為することを覚えること、言語ゲームのルールに従って言語ゲームを行うことが“理性的”なのです。言語ゲームの遂行に不必要な疑いに拘泥する者は、私たち日常生活者とは違うゲームを行っている(255)といえます。

*確実なこと”のいくつかは私にとってまったく自覚されていません。「われわれが確実とみなしている一般的な経験命題は無数に存在する(Es gibt eine Unzahl allgemeiner Erfahrungss閣ze, die uns als gewiァ gelten)」(273)からです。これらの命題について私たちは日頃考えもしないが、一旦これらが話題に上れば私たちはそれらに確実な判断を下します。これらはどうやって学ばれたのでしょうか。

*これらの命題について自覚していないということは、これらの命題についての明確な証拠や反証を見たことがないということです。それでは、これらは神が教えてくれたのでしょうか。それともこれらは“生得的に”遺伝子にプログラムされていたと言うべきなのでしょうか。ウィトゲンシュタインはこう言います。「経験が私たちにこれらの命題を教える(lehren)と言ってかまわない(Man kann sagen)。しかし経験は私たちにそれらをひとつひとつばらばらには教えない。経験が私たちに教えるのは、相互に関連した多くの諸命題(ein Menge zusammenh穫gender S閣ze)である。もし諸命題がひとつひとつばらばらにされてしまえば、私はそれらについて疑うことができる。というのもそのひとつひとつに対応する経験を私は有していないからである」(275)。

*私たちは一度に多くのことを学ぶのでした。“自覚はされてはいないが確実であること”、つまり無自覚な“知識”においても、私たちは神秘的もしくは、経験を越えたところにその根源を求める必要はないと考えられます。(これはチョムスキーの生得性の議論への根源的批判へとつながりうる論考ですが、現時点で発表者はこれ以上に批判を発展させることはできません)。

*私の知識を構成している諸命題は、私の中においても相互に関連していました。ですがこのつながりは「私」の中だけで完結しているわけではありません。ウィトゲンシュタインは言います。「私たちの確実性の根拠が経験であるとすれば、それはもちろん過去の経験である。そしてそれは単なる私の経験といったもの(etwa Bloァ meine Erfahrung)ではなく、私がそこから認識を得るところの他者(Anderen, von der ich Erkenntnis erhalte)の経験である」(275)。

*私の知識は私の経験に、私の経験は他者の経験に、他者の経験は他者の知識につながっています。つまり私は知識を得るとき、他者の知識とつながりをもつわけです。ひとは孤立して学ぶのではありません。ひとは、他のさまざまな人間の経験と知識に自分を結び付けながら学びます。「私たちがあることに全く確信しているということは、ひとりひとりの個人がそれを確実としていることだけではなく、私たちが科学と教育によって結ばれたひとつの共同体に属しているということを意味している(Wir sind dessen ganz sicher, heiァt nicht nur, daァ jeder Einzelne dessen gewiァ ist, sondern, daァ wir zu einer Gemeinschaft geh嗷en, die durch die Wissenschaft und Erziehung verbunden ist)」(298)。ひとが学ぶということは、ある生活様式を共有する共同体の知識を得るということ、ある共同体における諸言語ゲームに参加ができるようになることであると言えます。(このウィトゲンシュタインの主張は、「個人心理学」を前提とするチョムスキーの思考法への批判にもなっています)。

*しかしウィトゲンシュタインに従って、言語教育者を「主知主義者/懐疑主義者」としてではなく、「生活者」として捉えても、それは「主知主義/懐疑主義」に拘泥する一部の研究者----かつての発表者はそのような研究者でした----への「治療」とはなっても、最初から一貫して現場で(生活者として)英語教育の改善に腐心している人への有効な手だてにはなりません。

*言語研究の「応用」ではない、言語教育研究の成立がここに要請されます。

 

 

3.言語教育研究の知

*この章では、河本に従って、システム論を基に言語教育研究のあり方を考えます。ですが、その前にウィトゲンシュタインによる「学問的探究の論理」についてまとめておきます。

*疑いを免れた確実な命題は、前に、ゲームの規則に喩えられましたが、他所でウィトゲンシュタインはこれを蝶番に喩えます。「私たちが立てる問いと疑いは、ある種の諸命題が疑いを免れている(vom Zweifel ausgenommen )ことに依拠している(beruhen)。これらはいわば問いと疑いを動かす蝶番(Angeln)のようなものである」(341)。

*ウィトゲンシュタインはこの事態を、私たちの日常生活の事態として認定するだけでなく、学問の事態としても認定します。「つまり、ある種のことが実際疑われないということが、私たちの学問的探究の論理に属しているのだ(D. h. es geh嗷t zur Logik unsrer wissenschaftlichen Untersuchungen, daァ Gewisses in der Tat nicht angezweifelt wird)」(342)。学問といえども、すべてを疑うことはできないわけです。“学問的な”探究は(あるいは「も」と言うべきでしょうか)、一定のことを疑えない命題とすることによってはじめて可能になります(cf.ゲーテルの定理)。

*この疑えない命題は、すべての学問的探究にとって共通なものではありません。すべての人間が疑いえず、ただ依拠せざるをえない普遍的な命題などというものはないわけです(極端な例を出すなら、矛盾律すらも禅仏教の言語ゲームでは「有意味な」疑いの対象になっています)。

*ウィトゲンシュタインは言います。「ひとはここで、ある点において完全に疑いが欠如していること(vollkommene Zweifellosigkeit)は、たとえそれが“正当な”疑いが成立すると私たちが言いたくなるような点においてのことであっても、言語ゲームの誤りを証明する(falsifizieren)ものでは必ずしもない、ということを洞察しなければならない。もうひとつの算数(andere Arithmetik)といったものも存在するのだ。このことの公言に論理学のすべての理解の基礎を置かなければならない、と私は信じる(Dieses Eingest穫dnis muァ, glaube ich, am Grunde alles Verst穫dnisses der Logik liegen)」(375)。(この文脈で、もしたとえば言語関連の諸研究の中では生成文法のみが正当な研究であるなどと主張する人がいれば、発表者は強く抗議したいと思います)。

*“論理的”な言説においても私たちは人間の知に関する現実を無視することは許されないと発表者は考えます。“論理的”な考察とは疑いを排除することではなく、疑いを適切な場所に置くことではないでしょうか。ウィトゲンシュタインは言います。「私が示さなければならないのは、疑いはたとえそれが可能(m喩lich)であっても、必要不可欠(notwendig)ではないということだ。言語ゲームの可能性は、疑うことができるものがすべて疑われることに拠っている(abh穫gen)わけではない、ということだ」(392)。

*以上の論考から、私たちは「主知主義者/懐疑主義者」的な言語研究およびその「応用」を批判的に相対化し、言語教育研究の地ならしをしました。しかし、建てられるべき肝心の言語教育研究の建物に関しての考察はまだです。次の節からは、河本の論考に従い、システム論の点から言語教育研究のあり方を考察したいと思います。

 

3.1.第一世代システム論

*ウィトゲンシュタインに倣って、ある種の(例えばチョムスキーが提示するような)問題を、言語教育研究として扱わないとしても、それだけでは何の解決にもなりません。

*「生活者」として「疑うことによって、何か実際上の変化が生じる事柄」を研究題目にする、といっても解決になりません。授業研究を例にとって解説しますと、例えば言語教育者(=教師)が「生活者」として、教授法の違いによる教育効果を比較(実験)研究しても、言語教育者が疑いを免れた「背景」あるいは「舞台」になっていれば、教育実践において大きな役割を果たしている言語教育者自身の要因(性格、教授経験、知識量、クラスとのラポール、その他諸々の枚挙不可能かつ同定困難な諸要因)が研究から抜け落ちてしまうからです。そのような要因(およびそれらと他の要因の相互作用)抜きに、教育実践は語れないというのは実践者間では共通の了解事項になっています(cf.柳瀬のホームページの「広場」における議論。特に酒井の投稿)。

*そうしますと、言語教育研究は、言語教育者自身も要因として含むシステムの研究として成立しなければならない、ということになります。

*河本のまとめによりますと、システム論は三つの世代に分けることができます。まずは第一世代のシステム論を概括し、そしてそのシステム論に基づく言語教育研究のあり方について考察します。[以下の記述の( )の中のアラビア数字は河本の『オートポイエーシス』のページ番号を示します]

*システム論の第一世代はベルタランフィに代表されるシステム論です。その特徴をキーワードを列挙することによって解説・定義しますと、第一世代システム論は、「要素の単純代数和は全体と等しくない」という前提のもと、システムが「有機構成」されているものとしてとらえる。その「有機構成」は「法則定立的な恒常性維持の考察」として研究対象にされるが、その結果として「関係の実体化」が生じ、「構造主義的」考察にとどまる法則定立的システム論である。

*河本の説明を引用します:「有機構成を立論の中心に捉えた構想が、ベルタランフィの一般システム論である。ベルタランフィは、要素の単純代数和は全体と等しくないという点を、生命、社会、歴史、精神のさまざまな現象について指摘している。要素の総和に還元できない秩序性を有機構成として、それ固有に扱うことが必要だというのである。部分の総和が全体にならないという要素主義の否定は、今日では自明のものである。ベルタランフィが行ったことは、有機構成をさまざまな現象領域に見出し、それらに共通の法則性を明示し、それに微分方程式の表記をあたえることであった。そのため統一科学的システム論とは、自然科学を手本にしながら、有機構成にかんする共通の法則性を見いだすというものでしかなかった。ベルタランフィ自身が記しているように、新カント派のカテゴリー分類にしたがって、個性記述的ではなく、法則定立的な科学要求を、有機構成のさまざまな現象について行ったのである。システムの恒常性維持は、システムの作動の結果である。たとえ恒常性維持の機構がシステムに備わっていようと、この機構が作動しなければ恒常性維持の現象は生じない。したがって法則定立的な恒常性維持の考察は、システムの作動の結果だけを表現したものにすぎない。たとえ微分方程式でそれを表記しようとも、この微分方程式にはシステムの作動はなんら表現されていないのである。」(33-34)「いくえにも設定される関係解明のなかで、第一世代システムの基本的視座が「関係」におかれていることが明白になる。同時に「関係」は動的平衡の結果でしかないことが、いつしか忘れ去られる。つまり「関係」そのものが実体化されるのである。さまざまな現象の根拠となる「関係」を規則構成的に解明することが、第一世代システムの主要課題となり、その「関係」が現象の根拠として位置づけられる限り、それは「構造」と呼ばれる。第一世代システムは、どこまでも構造主義的である。ベルタランフィの統一科学への志向も、さまざまな動的平衡現象を規則構成的に解明しようとする構造主義的アプローチである。」(47)

*もちろん構造主義で十分であるという議論もあるでしょう。実際、私の同僚であるシステムエンジニアは、かつて「ベルタランフィで十分。彼の枠組みでかなりのところまでやれるよ」と私に語りました。従いまして、ここでは第一世代システム論を構造主義的であるという理由だけで断罪することは避けます。

*ここでは第一世代システム論を言語教育研究に即して考えることにします。

*第一世代システム論的言語教育研究の一例は、数量的授業研究だと言えます。

*数量的授業研究では、言語教育者や言語学習者などが諸要因として考察され、それらの関係を解明し、教室のいわば「法則」として定立することを試みました。

*この試みの成果の検討には、また新たな考察・論考が必要でしょうが、こういった法則定立的システム論による考察では、いわば「結果」だけが、示され、例えば自分の授業技術を向上させようとする新人教師も、研究結果から疎外されたような感じを受けます。つまり、結果だけ示されても、自分がそのような結果に至るようになるためには、どうすればいいのか、という過程に関する洞察がほとんど得られないわけです。

*だからといって第一世代システム論的言語教育研究を、全て捨て去ることは愚かでしょうが、第一世代システム論的言語教育研究には、それ固有の限界があること、すなわち生成の過程を捉え難いことがあるということをここでは確認しておきます。

*この限界を超えた考察をするためには異なった種類のシステム論的考察を行う必要があります。第二世代システム論を概観することにしましょう。

 

3.2.第二世代システム論

*第二世代システム論の特徴は、動的非平衡的な自己組織化とまとめられます。

*河本の解説を引用します:「第二世代システムの論理をあらかじめ見取図的に描いておきたい。第一世代システムの基本概念は動的平衡であったのに対し、第二世代システムでは、動的非平衡となる。また第一世代システムの主要な機構は、環境との相互作用にもかかわらず自己維持するという、ホメオスタティックな自己維持の機構として取り出されていた。これに対し第二世代システムでは、システムは開放系として環境と物質代謝、エネルギー代謝を行いながら自己形成し、しかもシステムの形成を通じて周辺条件を変化させていく機構が取り出される。」(65)「オーガニゼーションという概念は、第一世代では自己維持する機構を意味し、そのため「有機構成」という訳語を用いた。第二世代では同じ用語が「組織化」と訳される。こうしたことから第一世代の主要視座は、動的平衡の結果である「関係」におかれていたが、第二世代では「生成」におかれているのである。」(66)

*第二世代システム論では、「生成」を語るために、発生学でいう後生説の立場に立ちます(前生説と後生説の解説として河本の表現を引用します:「個体発生において、それじたい何ものでもない発生胚(システム)から、秩序立った形態をもつ個体が形成されてきたとしよう。このとき以下のような選択肢がある。(1)生成プロセスの結果形成されてきたものは、当初の出発時点で、微妙な形で備わっている。あるいは生成プロセスじたいを指令するプログラムが備わっている。つまり原基的構造が先在する。(2)未分化で一様な質料が、生成プロセスそのものにおいて、徐々に秩序だった形態へと形成されていく。

これが発生学の最も大枠での理論分類であり、通常前者が前成説、後者が後成説と呼ばれている。」(67))

*後生説の立場にたって生成のプロセスを語ろうとすると、「物語」の形をとらざるをえなくなると河本は言います。

*河本の説明を引用します:「後成説の生成プロセスについて語ろうとすれば、少なくとも二つの時点での関係を述べなければならない。二つの時点を関連づけるようにして、一方の時点での生成段階について語らなければならない。これはダントの「物語文」の定義と同じである。物語の導入によってしか、生成プロセスについて語りえないことになる。たとえば生成プロセスをラマルクがやったように「複雑化の過程」だとするなら、ここにはある時点と後の時点とで、後の時点のシステム状態が「より複雑」であると物語る、要素的物語文が含まれている。生成プロセスは、瞬間的な「今」のつながりではない。物語とは、時間を組織化する隠喩であり、物語をつうじて時間の流れをひとまとまりの事態として経験しているのである。後成説には観察者によって導入される物語が不可欠である。」(70)

*かくして第二世代システム論は、観察者が顕在化された物語の形をとります。観察者は、第一世代システム論では一般法則定立者といういわば中立なる神/科学者として、意識されなかったのに対して、第二世代システム論では、その物語を紡ぐ観察者/記述者/語り手の固有の視点が重要になります。(エンデの『終わりのない物語』の中にでも出てきた「全ての歴史を記述する歴史家」というのはありえない想定です)。

*こういった第二世代システム論を言語教育研究にあてはめて考えてみます。以下は授業研究を例にとっての考察です。

 

3.2.1.観察者が研究者である場合(「物語」としての授業研究)

*授業(教育実践)の観察者が研究者である場合の授業研究を、「物語」としての授業研究、と略称したいと発表者は考えています。

*これは研究者が教育実践をある程度の期間に渡って観察することによって、他ならぬそのクラスが生成されるに至った主要な出来事を「物語」として紡ぐわけです。

*観察者としての研究者は、自分がなぜ、どのようにしてその「物語」を発見したのかをできるだけ明らかにしながら、つまり研究者自身の諸前提を明らかにしながら、クラスの生成を物語るわけです。

*「物語」は、ひとつに限らず、複数あることでしょう。どのような「物語」を発見して、他人に説得力をもって、そのクラスの生成を物語れるかが、研究の真価となります。観察者(研究者)が異なれば発見される「物語」も異なってくるでしょう。

 

3.2.2.観察者が言語教育者自身である場合(「語り」としての授業研究)

*授業(教育実践)の観察者が言語教育者(教師)自身である場合の授業研究を、「語り」としての授業研究、と略称したいと発表者は考えています。

*これは、言語教育者が自身の実践を反省的に振り返り、自分のクラスが生成された過程を語るわけです。

*これは日本では各地での「実践研究」として、欧米では「アクション・リサーチ」として実行されているものを含むカテゴリーであると考えられます(これらの細かな差異についてはきちんとした比較的考察が必要です)。

*「語り」としての授業研究はうまくゆけば、聴衆の共感を呼びながら、クラスの自己生成をいわば「再体験」することができますが、それには語り手としての言語教育者の力量が必要です。

*といいますのも語り手が主観的にのめり込まずに、自らの諸前提を明らかにしてゆくことは容易ではないからです。これがうまくいきませんと、「語り」は単なる成功談(あるいは失敗談)となってしまい、学問的意義を失ってしまいます。つまり他人への説得力を欠いてしまった自慢話(あるいは自己卑下話)に堕してしまうのです。

*そこで吉田(1988)は物語/語りの「公共化」を強調します。次の節がその解説です。

 

3.2.3.観察者が言語教育者と対話を重ねる場合(「物語/語りの公共化としての授業研究」 cf.吉田1998)

*第二世代システム論の第三の類型として、観察者(通常は研究者)が言語教育者と対話を重ねることによって、お互いの諸前提を明らかにしながら、「物語り/語り」をできるだけ公共化する試みを挙げます。この種の研究の詳細に関しては吉田(1998)に委ねます。

*以上、第二世代システム論の三つの類型を概観しましたが、もちろんこのような第二世代システム論的言語教育研究があるからといって、第一世代システム論的言語研究の果たす役割が皆無になるということはありません。後者が前者の論考の一部分を補完する、ということは十分に考えられるシナリオです。大切なことは、研究者がそれぞれの研究の長所と限界を自覚して研究を行うことです。

 

3.3.第三世代システム論

*河本はマトゥラーナとヴァレラによるオートポイエーシス論を第三世代のシステム論としています。このオートポイエーシス・システムは、自律性、個体性、境界の自己決定、入力と出力の不在の四つの特徴を有しています。

*しかしこの四つの特徴は、誤解されやすいため、マトゥラーナとヴァレラはオートポイエーシスと、それとは似て非なるアロポイーシス・システム(例としてあげられているのは自動車)と対比して解説しています。

*自動車(アロポイーシス・システム)は、「自動」という言葉にもかかわらず、他者(観察者/設計者/使用者、等)がなければ、そのボディラインが決定されることもないし動くこともありません(=自律性の欠如)。自動車は修理や改造などの他者からの働きかけがなければ自己維持することもありません(=個体性の欠如)。どこからが車で、どこからが車でないかは他者によって規定されており、自動車が自己生成/自己組織化し、自己を拡張・縮小することもありません(=境界の自己決定の欠如)。また自動車は入力(ガソリンや運転手の操作など)があってはじめて出力(実際の移動)があるという入力-出力の連関の中に閉じ込められています(=入力と出力の存在)。

*これに対してオートポイエーシス・システム(例えば有機体)は、自律性、個体性、境界の自己決定、入力と出力の不在の四つの特徴を有しています。河本の説明を引用しますと:「このようなアロポイエーシス・システムに対して、オートポイエーシス・システムはシステムを自分自身に対して規定しうるシステムである。有機体は、みずからの構成要素を繰り返し産出することをつうじて自己維持しているのであって、車のエンジンのように他の部品に作用をあたえ、また他から作用をあたえられることで自己維持しているのではない。有機体として栄養物を取り入れるが、栄養物に対応して有機体が決定されるのではなく、むしろ自己の産出プロセスに従属させる。また個体性は、産出プロセスをつうじて自分の構成要素をつくりだし、自分自身で同一性を保持していることである。有機体は細胞の新陳代謝を繰り返し、自分で自分の同一性を維持している。観察者からの認知によって、はじめて同一性が認知されるのではない。さらに有機体は、自分の産出プロセスをつうじて自己産出するのだから、システムの境界を自分で産出する。境界の自己決定はこの意味である。有機体には入力も出力もないという点については、有機体と入力、有機体と出力という視点は観察者からのものであり、そのことによってはオートポイエーシス・システムの機構については何も明らかにならないとしている。」(158)

*コミュニケーションもオートポイエーシスの一つとして考えられています。

*コミュニケーションは自己言及的に積み重ねられて自己生成/自己組織化しますが、その過程には(有機体に関する)河本の次のような解説がうまくあてはまります:「かりにシステムに入力、出力があろうとも、サイクルに導入、排出されるインプットとアウトプットの観点からは、自己回帰的で自己言及的な作動の機構を示すことはできない。入力、出力は存在するものの、システムと外的条件との関連という観点からでは生成プロセスの自己言及的なサイクルについては何も明らかにできないのである。自己言及的なサイクルは、自己自身へと回帰するような生成プロセスであり、生成プロセスの円環からみれば、それ自身へと回帰するよう作動することが、同時に物質代謝に開かれていることであり、物質代謝からみれば物質代謝に開かれていることが同時に反復的に自己自身へと回帰するよう作動しつづけることである。これがルーマンが繰り返し、オートポイエーシス・システムは「閉じて作動するが故に開かれている」と指摘しつづけることの内実である。」(168)

*こういったオートポイエーシス論を受けて、言語教育者の言語ゲーム(教育実践、および教育実践に関するコミュニケーション)をオートポイエーシス・システムとして考えたいと思います。

*このことは逆にいうなら言語教育者の言語ゲームをアロポイエーシス・システムとして扱わないということになります。説明のため、アロポイエーシス・システムとして扱うということはどういうことかについてまず解説したいと思います。

*言語教育者の言語ゲームをアロポイエーシス・システムとして扱う、ということは、自律性、個体性、境界の自己決定の特徴を欠き、入力-出力連関の中に閉じ込めれている、ということです。こういった事態は、言語教育者が他者(権力者や研究者)にもっぱら指令・指示を受けることを望むコミュニケーションの状況に一例を見ることができます。そのような状況では、言語教育者は他者から教育計画や指導案を与えられることによって、はじめて言語教育者たりえる、という自律性を欠いた状態になっています。言語教育者としての自分自身を、自らのコミュニケーションの中から自己生成/自己組織化するのではなく、何が言語教育者としての自分らしさかを他者から規定されるばかりで、個体性をもっているとはいえません。言語教育者として何を学び、何を知るべきか、というのが他者からの指令任せになり、自らのコミュニケーションによって言語教育者としての自分の境界を自己決定することが欠如しています。言語教育者は他者からの入力(例、教育計画や指導案)を受け、それにかなった出力(例、成績のよい生徒)を生み出す連関の中に閉じ込められて、そこから出ることができません。これが言語教育者の言語ゲームをアロポイエーシス・システムとして扱った場合の略図です。

*言語教育者の言語ゲームをオートポイエーシス・システムとして考えるということは、上とは全く異なる事態を想定することです。言語教育者は他者からの働きかけに自らを開きながらも、あくまでも自らが参画したコミュニケーションによって(納得することによって)、言語教育者としての自分を作り上げてゆきます(=自律性)。言語教育者として、何が自らに足りないのかは、自らのコミュニケーションの中から自覚し補います(=個体性)。言語教育者としての自分が何をすべきかは自分が決定します(=境界の自己決定)。他者との入力-出力関係が観察されたとしても、その関係は言語教育者としての本質を決定するものでなく、そういった入力-出力関係なしにも言語教育者として自分を成立させます(=入力と出力の不在)。

*これは「閉ざされているが開かれている/開かれているが閉ざされている」システムのあり方ですから、別段、言語教育者が専横になることを表しているわけでもありません。言語教育者の言語ゲームをオートポイエーシス・システムとして扱うということは、言語教育者をいわば「自立した」存在として扱うということです。

*従来の言語教育研究と言語教育の間で想定されている関係は、言語教育者の自己生成/自己組織化を軽視する傾向があったのではないかと考えます。

*従来の言語教育研究はともすれば、言語教育者への入力(「科学の応用による優れた指導案)として働くことを夢見て、その結果言語教育者の言語ゲームをアロポイエーシス・システムにしてしまう結末を招きかねなかったのではないでしょうか。

*よく「理論が実践者によって実践され、その実践から理論がフィードバックを得る」といわれますが、この図式も、理論が言語教育者のコミュニケーションから生成されたものではない、全くの他者からの指令・指示なのだったら、言語教育者の自立を損なう図式になってしまいます。

*理論は「応用」として、他所からやってくるのではなく、言語教育者自身のコミュニケーションの中から自己生成/自己組織化するものだ、と考えることが第三世代システム論的考え方です。

*そのようなコミュニケーションを重ねていくうちに、言語教育の言語ゲームとは根幹を共有しながらも、それ自身独立した言語教育研究の言語ゲームが自己生成/自己組織化してくると考えられます。

*この言語教育と言語教育研究の関係の図式は、後者が前者に指令・指示という入力を与え、前者が後者にその結果というフィードバックを与えるという、二つの離れた存在が入力-出力関係によって結ばれているというアロポイエーシス・システムとは全く異なる図式です。ここに提案している第三世代システム論的図式では、言語教育者の言語ゲームと言語教育研究者の言語ゲームは、一部を重ね合いながらも、それぞれが独自の方向へと自己生成/自己組織化するという略図が描けます。

*言語教育の言語ゲームと言語教育研究の言語ゲームが、互いに開かれながらも、それぞれに自律している状態が、オートポイエーシス的な図式です。

*この図式では、お互いが自律しているため、言語教育は、ある意味でラディカルで非現実的な想定をする言語教育研究に対して開かれていても、自らは地に足がついた教育実践を自らのコミュニケーションから自己生成/自己組織化します。言語教育研究は、教育実践の営みとの関わりを持ちながらも、研究として自律し、いい意味で現実にとらわれない、大胆な想定をとることができます。

*とはいえこの図式も、両者のコミュニケーションがあまりに離れすぎて、互いの開き具合を縮小するなら、言語教育と言語教育研究が全く分離してしまうという事態につながりかねません。私たちはオートポイエーシス・システムの「閉ざされているが開かれている/開かれているが閉ざされている」という一見矛盾するような事態を深く理解し、言語教育と言語教育研究のそれぞれを進化させるべきだと発表者は考えます。

*ですが、少なくとも英語教育と英語教育研究の間では、両者間のコミュニケーションがまだ十分でないとも思われますので、当面の間は無理にオートポイエーシス的な見方をするのではなく、第二世代システム論的な見方で英語教育と英語教育研究を進化させることに主力を置くべきなのかもしれません。そのコミュニケーションが成熟したら、第三世代システム論的なコミュニケーションはそれこそ自己生成/自己組織化されると発表者は考えます。

*1.と2.の関連で言いますと、「主知主義者/懐疑主義者」は議論を終結させることを目指していると考えられます。「生活者」は議論をできるだけ減らして、日常生活実践の内に「満足する」ことを目指していると考えられます。これらに対してシステム論的に言語教育と言語教育研究に携わる者は、自らが言語教育と言語教育研究に関わるコミュニケーションに織り込まれていることを自覚しながら、言語教育と言語教育研究を進化させるために、いわば終わることなく対話を続けることを目指すといえます。

*言語研究の知、言語教育の知、そして言語教育研究の知は、それぞれお互いに開かれてはいるものの、それぞれが自律したものです。私たちは言語研究の言語教育への「応用」という従来の発想に批判的でありながら、まずは言語教育の知を充実させ、そのコミュニケーションの中から言語教育研究の知を成立させることが、今後の言語教育関係者にとっての見取図ではないかと発表者は考えます。 

<表紙へ>