書評

現場の教師の方へ:忙しい中でなかなかとれない研究時間を、このページを読むことによって効率的に使うことができたら私は幸いです。

英語教育研究者の方へ:どんどんこのページを利用してあなたなりの読解を試みてください。そしてできればあなたもこのように書評を公開して、英語教育界の知的レベルの底上げのためにご協力ください。

他分野の学識者の方へ:ここでの私の読みに間違いがあったら「中庭」か、柳瀬へのメール(yosuke@ipc.hiroshima-u.ac.jp)でご叱責・ご批判ください。誤りはすぐに訂正します。

いずれにせよ、もし書評を読んで興味がわいたら、是非ご自分でその本をご購入なさって、実際にお読みになることを強くお勧めします。

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育研究を推進する立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。また人名に関しては、どんな方に対しても「〜さん」づけで表記してます。

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カレル・ヴァン・ウォルフレン『怒れ!日本の中流階級』(毎日新聞社)(1999/12/28)

その昔、ウォルフレンさんの『日本/権力構造の謎』(早川書房)が出版された時、私の知り合いの英語話者は異口同音に同書を絶賛しました。「こんなに、いろんな人が、異なる機会に一つの本を褒めることも珍しい」と思い、私も同書を手に取りましたが、これは確かによかった。うやむやとしかわかっていなかった日本の事柄、明確な見通しが得れなかった分野について理解が一気に深まりましたし、それまで私の親しくしていたイギリス人やアメリカ人の友人が、様々の機会に訴えようとしてきた事が見事に要約されたような気がしました。同書は現代日本の古典だと私は思っています。

その後出されたウォルフレンさんの本では『なぜ日本人は日本を愛せないか』(毎日新聞社)もよかったけど、今回の『怒れ!日本の中流階級』もよかったです。題名だけ見るとアジテーションのように思えるし、確かにウォルフレンさんは日本の大多数を占める人々に明確なメッセージを送っていますが、そのメッセージは批判精神と冷静で客観的な分析に基づいたものなので、単なるウケを狙った一面的な本とは明らかに異なっています。30代、40代の同胞に是非読んでほしいし、またこれから社会に出る学生さんにも是非読んでいってほしいと思います。「教養」は自分の人生を豊かにするための術であり、また時に自分の人生を守るための武器でもあるからです。

ここではさらに二つの点から同書を勧めたいと思います。一つは「内なる国際化」ということ、もう一つは「全体的視点」ということです。

まずは「内なる国際化」についてですが、先日、英語教師の集まりで、どのような話が教材としてふさわしいか、ということが話題になりました。私は「寿司職人の父親から寿司の握り方を見よう見真似で学ぶも、日本では『女の手は温かいから寿司職人にはなれない』と言われ、寿司職人になる夢を捨てるも、結婚したイギリス人が東京で職を失ったことを契機に、ロンドンへ移り、そこで寿司レストランを開いた女性」の話(実話)はどうだろう、といいました。安直に時流に乗るようですが、女性が英語を通じて新天地を切り開いた話は、教育的にも好ましいのではないかと思ったわけです。

ところがあるベテランの英語教師----実際、私はこの英語教師をいろんな意味で尊敬しているのですが----は、かぶりをふって「そんな話は駄目だ」といいます。「結局は国を捨てて『逃げた』」話は教育上好ましくないというわけです。私はあわてて若い女性教師に視線をふりますと、その人も---この人も良心的な英語教師です----「そんな人を真似していては、日本が空洞化してしまうし、教材としてはよくないと思う」と言います。私は思わず「そんなナンセンスな!」と言いましたが、その場での議論は、他に話し合わなければならない事もあって、そのままになってしまいました。

私の考えでは、人は国民である前に市民であり、市民である前に個人です。それは個人が、市民的共同体を変革したり新しく作り上げることができるし、市民が国家を変革したり(選挙)新しく作り上げることができる(革命)、という論理的関係から来ています。もちろん、「私の考え」といっても、これには西洋啓蒙思想の影響が色濃く入っています。ただ私はこれを「教え込まれて」信じているわけではありません。保守的な山口県で教育を受け、「日本人論」を愛読していた高校生だった私が、大学で英語教育を通じてイギリス人教師やアメリカ人教師と討論したり、英語文献・報道を基にものを考えたり、そして何より自らの職業経験や生活体験から「人は、個人である前に組織人であるべきで、さらに組織人である前に国民(しばしば「ニホンジン」とも呼ばれる)であるべきだ」という反省的吟味を経ていないイデオロギーが、私たちの生活を貧しくしている、と納得をした上でたどり着いた考えです。もちろん現在のこの考えについても批判的吟味は忘れないでいたいと思っています。ですが、基本的にはこの考えは大きく変わることはないと思います。

なぜかといいますと、これが人類史の大きな流れだと思うからです(注1)。個人をベースにして考える民主主義は人類共通の文化遺産であり、政治形態としては----それなりの欠点はあるにせよ----これ以上に優れた政治形態は考えられないというのが世界の共通認識だと私は考えているからです。もちろん歴史的には封建社会が先に育ち、それから国民国家が誕生し、やがてそれが、市民の手により大小様々の改革の試練(最大の試練は全体主義国家の挑戦を退けたこと)を経て、さらには個人の自発的連帯をベースにしたNGOやNPOやベンチャー企業などに補完されるようになったという順序を経たわけですから、現代日本はまだ国民国家形成の考えが中心の人が多いとしても不思議はないのかもしれません。しかし英語を通じて、「ニホンジン」以外とのコミュニケーションを促進するべき英語教師が、依然として個人よりも国を前に考えるような考えをもっていることには正直言って驚きました。

このような考えを表明すると、必ず「西洋かぶれめ」と言われます。実際私もかつては「ニホンジンは西洋かぶれしてはいけない」と思い込んでいましたから、偉そうには言えませんが、少なくともウォルフレンさんの本などをよく読んで、このような政治経済のあり方について世界史的・人類史的に考えることは英語教師の教養の一つとして必要だと思います。ただ単に英語の字面だけに目を通すのではなく、私たちはこういった日本語で書かれた良書で「内なる国際化」を行わねばならないのではないかと私は思います(いつものように反論を期待します)。

この本を勧めたい第二の観点は「全体的視点」の重要性です。科学技術と官僚性の進行は、ややもすると私たちの職業の「専門化」を促進し、私たちは細かく限定された特定の問題解決には得意になりますが、全体的見通しをもつことや、問題を細分化するにせよ、なぜ問題をそのように細分化しなければならないのか、といった大きな視点を持つことを忘れてしまいます。また大学教師というのは社会の知識人層の一つですが、その大学人も日本では「専門の研究」をすることはどんどん促されても、大きな視点で物事を考えることは、せいぜいよくて「余技」で悪くすれば「非学問的態度/非科学的態度」とみなされているような気がします。実際私がよく話をするイギリス人、アメリカ人、オーストラリア人の大学教師は、この傾向は日本特有の傾向だといいます。

もちろん私とて、科学/学問の一端を担うには、マックス・ウェーバーもいうように禁欲的に、自らの関心を一時的に狭く集中させなければならないことは承知しています。また、まだ博士論文を書いていない私などには一層こういった禁欲的集中が必要なことも認識しています。ですが、一方で社会のあり方を大きく考えることは、知識人として、いや市民としての義務だとも思います。ところがどうもこの知識人や市民としての義務が、日本では積極的に無視・軽視されているようにも思います。

そういった点で、ウォルフレンさんの本は全体的見通しを与えてくれる本です。各種のテクニカルな本が曖昧にしていたりおざなりにしていた根本的な問題に、批判的説明をきちんと与えてくれています。これには18歳のときに冒険を求めて母国オランダを離れ、トルコ、アラブ圏、インド、南アジアを巡り、日本に渡り、以後もアジアを幅広く旅をしながらオランダの新聞の特派員として活躍し、数々の賞を受け、97年よりアムステルダム大学の教授(比較政治経済制度)となったウォルフレンさんの経歴が絡んでいるのかもしれません。肩書きで物を言わなかった人は、しばしば本質をずばりつく語り方をします。

こういった「内なる国際化」と「全体的視点」の点からは、この本を英語教育関係者に一層勧めたい思いです。もちろん「ウォルフレン、バンザイ!」と唱えろと言っているのではありません。でもアイデンティティへの不安などから、英語教育関係者が、西洋の根本的な考え方をやみくもに拒絶しようとするのはおかしいと私は思います。

(注1)たとえばこのあたりの問題意識から岩波新書の『経営革命の構造』などをお読みいただけますととても面白いと思います。同書は18C-19C産業革命のイギリス、19C-20Cに発展したアメリカ、第二次大戦後に驚異的な成長を示した日本、20C末に情報革命をスタートさせたアメリカの背後には、マネジメント思想の変遷があり、何よりもさらにその背後には生き生きとし、他の多くの人間を魅了した個人(起業家)がいたことを具体的に示しています。こんなに面白い本を書けるぐらいに私も学問したいものだと思わせる本でした。

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『最新脳科学----心と意識のハード・プロブレム』(学研ムック)(1999/11/27)

無知というものはおそろしいもので、私は昨日までこの良質の啓蒙書(1997年発刊)の存在すら知りませんでした。たまたま立ち寄った本屋の雑誌のコーナーで見つけて立ち読みしてみると、かなり面白い。あわてて購入して、昨夜と今朝の時間を費やして一気に読み終えました。(かくして事務仕事は後へ後へと追いやられる。私は有能な行政官ではありません(^^;))。

同書は皆様周知の言語学のチョムスキーさん、心の哲学の巨頭デネットさんをはじめとして、ノーベル賞受賞者を含む、脳科学研究者のインタビューを掲載したものです。インタビュアーの質がよく、質問が的確で、さらに(当然と言うべきか)答えは明確でかつ深いものです。狭い意味での彼/彼女らの専攻分野は、上述の言語学、哲学から、神経生物学、麻酔学、物理学、非線形数学、認知神経科学、精神医学、人工知能研究、霊長類研究などと多種多様です。しかしこの列挙からもわかるように、基本的なアプローチは自然科学です。

私が特に面白く読んだのはジンガーさん(マックス・プランク脳研究所)の自己組織化の議論(「中央指令所の活動なしに、局所どうしの相互作用を通じて全体的秩序を生み出すシステム」)。ハメロフさん(アリゾナ大学麻酔学)の批判的に開かれた態度と、「微小管」と意識の議論(「1000億個のニューロンからなる脳をシミュレートするのに1000億個のスイッチにつないだコンピュータを作ってもだめだ。1000億台のコンピュータが必要なのだ」)。スコットさん(アリゾナ大学数学)の「階層構造」の議論(「最高次の集合体はたいへん複雑であり、いうならばすぐれた詩のエッセンスのようなものです。還元的な科学的方法論でこの姿を真に理解しようとする上での困難さは、脳に電極を刺し込んでそれぞれのニューロン集合体がどこにあるとか、それらがどう相互作用しているかを突き止めるとかはできないということです」)。ヒューベルさん(ハーバード大学神経生物学)の心の問題における「ボトムアップ」重視の姿勢(「心は脳の作業員である」)。ダマシオさん(アイオワ大学神経学・神経科医)の"somatic marker"の考え(「心は脳より大きい」)。といったものです。強引なまとめ方をするならば第一次認知革命・規則計算主義の(極端な)考えである「心とは脳内の(固定的な)プログラムにすぎない」という前提への多種多様な反論・修正意見であるといえましょうか。私はこれまで読書で得た複雑性・自己組織性の議論や人間の世界内存在性などの議論を手がかりに本書を極めて面白く読み進めました(ただし全ての議論を理解したわけではありません。特にペンローズさんの議論はわかりませんでした)。英語教育研究でも言語習得と「意識」「無意識」の関係が語られたりすることがありますが、そういった問題ももう一度根本的に問い直す必要があるのかもしれません。

人間は、共同体的存在でもありますから、自分が属する共同体で話題にならないことは、しばしば気にかけることすらしません。しかし科学という営みは特定共同体の中で進行するのではなく、もっと大きな「科学共同体」とも呼べる人類的な規模で進行します。もし皆さんが英語教育研究の「科学性」を標榜するなら、こういった啓蒙書で得られる知識は当然の知識となるのかもしれません。この啓蒙書のレベルの議論ですら、全てを理解したともいえず、ましてやこのレベルの研究を自力でやれることなど想像もできない私としては「科学の良き読み手」を目指してせいぜい努力し、少しでも英語教育研究に貢献したいと考えます。

追記:私は良書として本書を勧めますが、「意図的な姿勢」という訳語(69ページ)、「観念論と唯物論に代表される哲学分野」という「認識論」への訳注(80ページ)、「ナーゲル」という表記(106ページ)、には疑問符を呈しておきたいと思います。しかし全般として翻訳は良質だと私は思います。

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『<意識>とは何だろうか----脳の来歴、知覚の錯誤----』講談社現代新書(1999/11/21)

同書を読んで驚きました。最先端の脳科学・認知科学・認知哲学の内容が、筆者に咀嚼された上で非常にわかりやすく提示されています。これだけの内容を新書にまとめた筆者の力量は凄いと思います。私にとっては今年のベスト5には確実に入る本です(注1)。教育への自然科学的アプローチを取る人全てにお勧めします。

同書は筆者の下条信輔さん(注2)が、1990年から97年にかけて東京大学教養学部で続けた「心理学」「認知行動科学」の講義録をもとに、全面的な改稿を重ねて成立したものです(筆者は現在カリフォルニア工科大学生物科の教授です)。筆者は実験心理学から入って、知覚の神経機構について研究を続けています。筆者は科学の細分化を真正面から引き受けながらも、このような書で「認知・脳科学の全体像、未来像」を示すことに成功しています。何度も言いますが、この力量は凄いと思います。

ここでは私の個人的な思い出を絡めながら、この本の骨組みを紹介させてください。私は1982年に学部入学し、1986年に大学院に入りました(つまり「入院」しました(^^;))が、その当時は1960年代頃にアメリカで起こった第一次認知科学革命が、「認知心理学」「認知科学」といった用語で日本で本格的に普及した時期でした。「情報処理的心理学」といった言葉がはやり、東大出版会の認知心理学のシリーズなども出版され、私も学部3年生の頃からそういった本を夢中になって読み始めました。修士課程でもその延長線上で、psychology of reading(の真似事)をやっておりました。その後私は、どんどん精密化する実験機器をもたない自分、および哲学的に実験心理学の仮定にあまり満足できない自分を発見し、自ら心理学者/科学者であろうとすることは否定しましたが、それでも心理学/科学のいい読み手であろうとは努力してきました。

その後、1980年代頃からアメリカ西海岸を中心に起こった認知科学の第二次革命により、知性を生態学的に、あるいは状況論的にとらえる動きや、第一次認知科学革命の「規則計算主義」を批判する中で、私もますます認知科学の用語で英語教育を語ることを学び始めました。よき読み手として学んだ用語で、英語教育の研究を整理してゆこうとしたのです。

それ以後、論者によっては第三次認知科学革命を主張し、人間の(状況内・環境世界内)行為と知性の関係をますます重視する方向へ向かいましたが、その一方で1990年代ごろから日本でも認知科学に本格的に脳科学が入ってきました。日本認知科学会のシンポジウムで、去年まで銀河のかなたを放射線測定していた人や、脳をむき出しにして外部観察を可能にしたサルを何匹も所有した人が、人間の認知を語り始めた時は仰天しましたし、自ら科学者であることは断念するが、よき科学の読み手・理解者であることを選択した自分は英語教育研究者としては間違いではなかったと意を新たにしました。

実際、アメリカでは、日本に根差していない進化論の伝統と哲学の伝統との対決の中で、脳科学が想像以上に発展しているように私は思います。もはや知性を語るのに脳科学は無視できません。脳科学の知見を入れていない認知科学はもはや考えられないと断言していいでしょう。

この本には、そういった脳科学・認知科学の現状が、非常にわかりやすく書かれています。脳の「来歴」や、「脳と環境の相互依存性」、脳の「社会性」といった用語が、哲学的にだけでなく、科学の点からもきちんと論述されており、私は、過去に出会った素朴な疑問や哲学的命題をいくつもいくつも思い出しながら、非常におもしろく読み進めました。

こういった最新の科学の記述は、ますます現象学的というか、市井の熟達者の言葉や見識に近いものになっています。現場の達人が直観的な言葉で語っていたのを、より科学的にも哲学的にも深く語っていると言えると思います。

ひるがえって、英語教育研究はどうか。私の見るところ、まだ多くの人が第一次認知科学革命以前の1950年代の教育心理学の発想法と方法論で「実証的」、「実験的」な研究を進めようとしています。一部の人がようやく第一次認知科学の発想法(規則計算主義)とせいぜい1970年代の方法論で研究をしているだけです。私はこのような状況は是正されるべきだ思います。

私の考えを直言しますなら、英語教育関係者が脳科学を行うことは無理です。背景知識・理論、実験装置、協同研究体制などのどれをとっても本格的な自然科学は英語教育関係者の手に余ります。やるべきことは、一つは(我田引水で恐縮ですが)、自ら科学者であること(doing science)は断念し、よき科学の読み手であること(reading science)を目指すことです(これだけでもかなり努力を要することだと私は思っています。例えば岩波の認知科学シリーズの脳の巻をきちんと理解している英語教育関係者は少ないと思います)。もう一つは現象面での記述を徹底的に行うこと。この現象面での記述は(英語)教育研究の固有の仕事であり、ここにおいては私たちは脳科学者との分業すら可能です。社会的分業を考えず、何もかも自らの手で「科学」しようというのは、科学の社会性を無視した態度だと私は思います。

折りからも日経新聞の連載コラム「意識のナゾ」は最終回を次のように締めくくっています。(1999/11/21。筆者はソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャーの茂木健一郎さん)

果たして、言葉の意味は脳の中にあるのだろうか。

一人一人の人間が、言葉の情報を処理している限りにおいて、その処理が脳の中で行われていることには疑いの余地がない。しかし、言葉の意味に関しては、完全にではないにせよ、社会の構成員の間である程度の合意が成立して、始めてコミュニケーションが成立する。言葉の意味は、脳の中だけでなく、社会の中にある程度分散して存在すると考えざるを得ない。私たちの脳は、分散して存在する言葉の意味の世界における結節点のようなものだろう。(中略)

脳科学は基本的に、脳を一つの物質系として取り出して研究する。そのようなアプローチで探求しきれない問題の一つが言語である。脳科学のアプローチと言語研究の融合が、意識の問題を考える上でこれらの重要なテーマの一つになることは間違いない。

この「重要なテーマ」は、本書で手堅く、そして上の引用新聞コラムなんかよりか、はるかに深く取り扱われています。英語教育の「現象」をよく知る者として、科学用語、哲学概念を学びながら、これらの本を読み、自然科学者とも、現場教師とも語れるように勉強しておくのが英語教育研究者の仕事の一つだと思うのですがいかがでしょう。

今回のこの文章では、本書の具体的内容についてはあまり述べませんでしたが、この本に関してはいつか読書会を(オンライン・オフライン同時進行で)行いたいと思います。ご興味のある方はどうぞ本書をお買い求めください。680円です。

また、筆者は1996年に中公新書で『サブリミナル・マインド』という本も出しているそうです。知らなかった。すぐに買おう。

(注1)ちなみに私にとっての今年のベスト5の本を挙げますなら、本書、M. MacGinnさんのWittgenstein and Philosophical Investigation (Routledge)、D. SchonさんのThe Reflective Practitioner、中嶋洋一さんの『英語のディベート授業30の技』(明治図書)、ならびに時津賢児さんの『自ら成し、自らを成す武的発想論』(福昌堂)となりましょうか。どれも非常に深く考えさせる本だと私は思います。番外編として溝下秀男さんの『極道一本搾り』(宝島社文庫)。「おもろうて、やがて悲しき」本でした。

(注2)「条」は当て字です。変換がまともでない上、きちんとした漢字すらもっていないマックの「ことえり」にはホトホト愛想がつきます。まあ、古いハードとソフトを買い換えないビンボーな私が悪いんだろうけど。

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佐藤敏彦編『挑戦!10歳の好奇心』静岡新聞社(1999/10/14)

よく生徒・学生の学力低下が叫ばれます。大学院で大学の、大学で高校の、高校で中学の教育内容を教えなければならないとよく自嘲げに語る先生に出会います。かくしてますます教育内容は貧困になってゆきます。

確かに学力低下には生徒・学生に帰するべき要因も多いのだと思います。しかしかなりの部分で、生徒・学生の学力低下は、教員の学力低下によるものではないかという疑いを私は持っています。教師自身がその教育内容を自らの人生で楽しんでいない。だから教育が無味乾燥な伝達だけになってしまう。教科書通りでしか教えられず、身近な例を挙げることも想像することもできない。かくして感性の点ではしばしば教師をしのぐ生徒・学生は、教育に面白みを感じられなくなり、学校が耐えきれなくなる。そんな生徒・学生を表面だけでとらえて教師や行政者はますます教育内容の「精選」をはかるが、それはますます教育の貧困化へとつながる---これが現代日本の悲劇だとすら私には思えるのですが、いかがでしょう。「総合的学習の時間」が起死回生の策となればいいのだが、と皮肉でなく思います。

同書はヒトスギ塾の「子どもの教育にとって大切なことは、いかに子どもに知的な刺激を与え、その子の中に潜在する能力や関心を呼び覚ますかということではないでしょうか。教科内容が三割も削減されれば表面的な学力が低下するのは当り前のことです。教育が量から質へ大転換しようとしています。教える先生の質と中身を問われる時代になりました」(i)という認識のもと、5人の大学教授に小学4年生の子どもとその父母にさせた講演の忠実な紙上再現です。特に四方義啓さん(名古屋大学名誉教授)の「遊びの中で発見する数学」と大津由紀雄さん(慶應義塾大学教授)の「ことばの実験室」は全ての教師に、----教科とレベルを問わずに----読んでもらいたいぐらいです。

四方さんは数学の「手品」を次々に子どもたちに示しますが、そこで子どもたちに直感的に理解させているのはコンピュータにつながる世界です。四方さんの、二次方程式は砂漠を横断するための天体観測を必要としていた時代のアラビアにとっての切れば血が出るような生きた知識だった、幾何学のおかげでローマではアーチ型の水道橋をかけられた、微分・積分の発見で大英帝国は歯車の動かし方も弾丸の飛び方もわかった、などの指摘には本当にはっとさせられました。しかしそれらの知識はもはや過去の知識となり、だんだんと実用から離れて技巧的になって「これが何の役に立つんだ」「このどこがおもしろいんだ」となってしまいました。一方で子どもの身の回りには、コンピュータゲーム、カメラ、時計など、最先端技術が盛り込まれたものがいっぱいある状況になっています。この旧態依然とした教育内容と子どもの鋭い感性のギャップが、現在の子どもの意欲低下、ひいては学力低下につながっているのではないかと四方さんは考えています。数学がぜんぜんできないけれど理科系にあこがれていた女子中学生が、ミニディスク(MD)をきっかけにフーリエ級数に食らいつき、数学が平気になった話(26-27)などは、教師の教育内容理解によっていかに教育は深まるかを改めて考えさせる話です。

大津さんは「茶色い目の大きな犬を飼っている宇宙人」が何通りに読めるかというトピックやなぜ私たちは「にせたぬきじる」と「にせだぬきじる」、あるいは「ぬりはしばこ」と「ぬりばしばこ」の意味の違いがわかるかなどのトピックをとりあげて、発見の喜びを体験させる「ことばの実験」に私たちを招待します。このようなトピックを通じて話されることばの原理のおもしろさにはまさにひきつけられてしまいます。

以前ある方が「教育方法」にばかり関心がいくことへの懸念を表明したことがあります。その時も直観的にその人の危惧はわかったような気がしたのですが、同書を読んでそのあたりがもう少し明らかになったような気がします。同書の講演者を「教え方がうまい」という言葉で片付けてはいけません。これは「決まった内容を効率よく伝達する」といった通俗的な意味での「教育方法」の問題ではありません。そうではなく、いかに教育内容を自分の人生と身の回りの世界に引き付けてかみ砕き咀嚼し、自らの血肉とするか、いかに身近で新鮮な例やたとえや問題を生成できるか----そういった意味での教育内容の深い理解の問題です。生徒・学生の学力低下は、教師の貧困で表面的な教育内容理解という側面からも考え直さなければいけないと思います。ともあれ良書です。感性をゆさぶられた思いすらあります。皆さんにもご一読をお勧めします。

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石井敏・James Bowers著 Speak Out(桐原書店)(1999/9/30)

私の知っている先生の一人は、よく教科書の本文を自分で書き換えて授業を行います。教科書は様々な制限から不自然な英文・構成になっていることが多いというのがその先生の主張です。その先生が書き換えた英文を見ると、なるほどと思わされます。

その先生が「これは書き換える必要がない」と、ある教科書を絶賛していたので、「オーラルコミュニケーションC」の同書を取り寄せてみました。「オーラルコミュニケーションC」は英語教師の方ならよくご承知のように、高校英語にレシテーション、スピーチ、ディベート、ディスカッションを入れようという、現行学習指導要領の目玉の一つでした。ですがその新機軸がかえって災いしたのか、現場では「オーラルコミュニケーションC」の実施はあまり多くないともいいます。しかし、この教科書はそのようにいわば「英語教育の片隅」におかれるにはあまりにもったいないと思いましたのでここで取り上げます。

この教科書の最大の特徴は、タスク中心になっていることだと私は理解しました。生徒がやるべき課題が、教科書のさまざまな表などに整理されています。しかもその表は、仲間の生徒のコミュニケーションの様子を評価するための具体的な指標を示したものなどであり、生徒はこの教科書に従うことによって、次々に活動が行えるようになっています。事実のみが書かれた今までの教科書とも違いますし、練習問題だけがむやみにならんだ今までの問題集とも違います。具体的な活動を教師と仲間の生徒と行うことによって、英語でのコミュニケーションの仕方が体得できるように教科書が設定されています。

またその「タスク」が、人工的につくられた課題ではなく、実際に英語使用社会ではインパクトをもっている「言語ゲーム」であるため、この教科書のタスクには真実味があり、読んでいて、この教科書が目指している英語学習者-使用者像がありありと浮かんできます。例えば、ディベートについては、「論拠-証拠-結論」という関連を、活動の中で認識させたりと、非常に具体的です。また冒頭の'Your voice communicates'での発声トレーニングなども斬新ですし説得力があります。

これはいい教科書(いやワークブック?)だと思いました。この教科書を使っている方の感想を是非聞きたい所です。御自身で発声からスピーチ、ディベート、ディスカッションと一通りこなすことができる方ならきっとおもしろくこの教科書を使っているのではないでしょうか。

比較の対象のため、別の教科書会社による「オーラルコミュニケーションC」の教科書もチェックしてみました。その教科書は「オーラルインタープリテーション」(たんなる暗唱ではない、効果的な朗読)のノウハウなどには非常に優れたものがありましたが、Speak Outに比べると、生徒の活動が少なく、単なる「読み物」になっているきらいもありました。(もっとも「説明し、教え込む」タイプの授業をなさっている方なら、こちらの方が使いやすいと感じるかもしれませんが)。

いずれにせよ、今回このように教科書を比較検討してみて私自身勉強になりました。教科書が日本の英語教育に与える影響には大きなものがありますので、ますます私たちは教科書に注目するべきだとも再認識させられました。

その意味で少し脱線させてください。最近、広島大学の大学院生(しかし私とは別講座)の猫田和明さんの「1970年代以降のオランダにおける英語教育の変遷----特に初等・中等教育の連携について----」という発表を聞きました。EU諸国の中で、初等教育への英語教育が最も遅れたオランダでの混乱などを描いた非常にいい発表でしたが、その中で印象に残った指摘として、オランダの中等教育では「到達目標と修了時テスト以外には、国によるカリキュラムやシラバスの内容に関する規定はない。学習計画は学校の裁量に任される。実際には市販の教科書が授業や学習内容に重要な影響を与えている。教科書類の選択の幅も広く、出版社側も新しい政策や動向に忠実に従っている」というのがありました。

なるほど。具体的な教育項目選択や教育手順には何も口出しせずに、到達目標と修了時のテストだけを国が決めるやり方なら、各教科書会社や各教員もかなり柔軟な取り組みができます(もちろんそのテストがいいものである必要はありますが)。日本の英語の学習指導要領も長い年月でみてみるとずいぶん「規制緩和」されましたが(cf.「数字」)、まだまだ教科書編集・販売上の制約は多いといわざるを得ません。「随想」で以前にとりあげた寺脇研さん(文部省政策課長)の言葉とは裏腹に、教科書会社などの認識は、依然として文部省の制約は、ページ数から語彙数、あるいは扱う項目にいたるまで、様々なところで教科書づくりに制限を与えているようです(ある人は冗談半分に「教科書の巻末付録は、本文で扱いきれなかった学習指導要領の項目を載せるための苦肉の策だ」と言っています)。

また、「学習指導要領の告示→教科書検定→営業→採択」というプロセスが一斉に行われるため、例えば営業----つまりは各教員が色々な教科書を吟味し選択する期間----がせいぜい一ヶ月半しかとれないとも聞きます。「忙しい最中に、そんな時間で山のように積まれた教科書を吟味するなんてなかなかできません」とはある現場教員の弁です。さらに教科書は一般書物のように市場にのりませんから、書評もほとんどなされません。しかし教科書が日本の英語教育に与える影響は、先ほど述べましたように、一般書物が与える影響に比べてはるかに大きいものです。

市場原理を導入すれば全てがうまく行くとはいいません。しかしこの教科書の分野も、中央管理体制から分散的で自由な体制に移行することにより、さまざまな長所が生まれてくると考えます。自由な出版体制は相互の進化を促すでしょう(実際90年代の大学用の英語教科書の進化(および淘汰)には物凄いものがありました)。もちろん短所も生まれてきます。しかし民主主義の原理につながる市場原理にはその短所を克服するダイナミズムがあると私は考えています。

追記:1999年10月9日の日本経済新聞によりますと、小中高校用の教科書出版社会社でつくる社団法人「教科書協会」が、教科書の色刷りページの割合などを定めた標準企画の順守を解禁企業に強制しているとして、公正取引委員会は同協会に対し、独占禁止法違反で排除勧告したそうです。こうしてみますと上に私は「文部省の制約」と書きましたが、「制約」を課しているのは「お上」だけではないようです。

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松本茂編著『生徒を変えるコミュニケーション活動』(教育出版)(1999/9/15)

同書を全ての英語教育関係者にお勧めします。研究者は松本茂さんの第一章の提言のインパクトをかみしめることにより、英語教育研究のあり方について根本的反省を加えることができるでしょう。現場教師の方は蒔田守さん、山岸信義さん、中嶋洋一さん、向後秀明さんによる第二章から第五章で、英語授業のあり方に関する根本的考え方(活動)、具体的な生徒への接し方(指導)、実践的な生徒の導き方(評価)について深くわかりやすく学ぶことができます。多くの本が、ともすれば抽象的に「活動」を提唱するだけで終わっているのに対して、同書はそれの具体的な実施方法(「指導」)を付け加えるだけでなく、従来あまり踏み込まれていなかった「評価」のあり方・やり方にまで踏み込んでいるので、この本を読むことによって、責任のある実践ができそうです。

松本さんは「これまでの英語教育は『いかに効率的に英語という言語を獲得させるか』ということばかりに焦点が当てられていた感が強いのですが、これからは『人間と人間の関わり合いを大切にする英語教育』に脱皮していくことを時代が求めています」)(iii)と述べます。さらに学級崩壊・学校崩壊などの現実を踏まえ、「効率的に学力をつけるのであれば、少人数制の塾、家庭教師、通信添削、コンピュータ・ソフトなどのほうが、知的能力が大きく異なる子どもたちが25-40名いる中で学んでいるようりもよっぽど効率的です」(16)という冷徹な(しかし現実的な)認識のもと、「言語あるいは非言語によるメッセージの交換を通して、お互い意味を創出し、伝え合うこと。社会との結びつきを作り、保つ行為」(13)としてのコミュニケーション活動を学校教育の存在意義であることを主張します(7)。よくコミュニケーションのことを語ると、私たちはついつい教える教員の英語力の欠如を理由に否定的な態度を取りますが、松本さんが問題にしているのはそのような表面上のことよりは、「教師と親たちの旧態依然とした教育観・学力観」(18)、「子どもをどのような人間に育てたいかという教育哲学のなさ」(18)なのです。この基本認識が著者に共有されているので、同書は単なるハウツー本を超えています。

第二章以下は、是非ご自分でお読みください。いい本は買ってください。中学1年から高校1年までの英語教育を、さきほど述べたように活動・指導・評価の三点からまんべんなく的確に述べています。中でもやはり中嶋さんの章は、わかりやすく説得力があり読みごたえがあります。「My」へのこだわり、「チェーンレター」、卒業記念文集作り、語順定着指導などは、中嶋さん発の英語教師共有財産としたいぐらいだと私は思っています。また「話す(舌で言う)のではなく、自分のことばで語る(吾を言う)」(143)というのも覚えておきたいことばだと思います。

もちろんそれ以外の章、例えば蒔田さんの章もとても印象的です。蒔田さんの章(中学一年生の英語教育)は、英語科教員4名が生徒の実態をもとに話し合い、3年間で育てたい生徒の姿である「『生きた』ことばでコミュニケーションできる生徒」「困難に対して臨機応変に、粘り強く取り組める生徒」(30)という認識から始まっていますが、それが文部省からの上意下達体制でよくおきる「美辞麗句な空文」におわってないのは、実践がまさに本物であるからです。

実は私は本日3時間以上かけて二人の高校の先生とお話しする機会があったのですが、その中ででた話題の一つは、ほとんどの教師は文部省の教育改革の目玉の一つともいえる「総合的学習の時間」について何も考えていないこと、だいたい学習指導要領なんてほとんど気にしていないことです。これが実態だと思います。上意下達体制は美辞麗句の空文ばかりを生みだし、教師の力もつきにくい体制だと思います。英語教育の目的・活動・指導・評価は英語教育関係者のコミュニケーションから生まれてこそ力を持つとはいえないでしょうか。同書のような本を教師一人が個室で読むだけでなく、同僚や他校の教師と語り合いながら読むことが必要です。

その意味で最も大切なのは「生徒を変えるコミュニケーション活動」ではなく「教師を変えるコミュニケーション活動」なのかもしれません。このホームページの掲示板も皆さんのコミュニケーションの場です。どうぞどんどん投稿してくださいませ。

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中嶋洋一『英語のディベート授業30の技』(明治図書)

同書(本体価格1850円、ISBN4-18-759900-2)を、全ての英語教師に心からお勧めします。現場教師の方々は、書いている本人も良く分かっていない理論書や、やっている当人も納得していない実験論文等は横において、この本を、自分の授業ぶりや生徒の表情等を思い起こしながら、何度も何度も熟読玩味し、考え直して感じ直してください。英語教育の理論サイドの方々は、「ああ、単なる実践手引ね」と打ち捨てることなく、この本の深さと広がりを体感してみてください。逆に言うなら、このように優れた本を読んで、何も感じないとしたら、あなたの英語教育理論なんてたかがしれているのでないかと私は思います。

「それにしてもディベートなんて特殊なことを」と尻込みする方もいらっしゃるかもしれません。でもそれは誤解というものです。この本の刊行に際して、中嶋さんの生徒の一人である中村裕子さんが寄せた文を読んでみてください。

ディベートは、頭の回転を早くするとてもいい勉強法である。なによりもいいのが、私たちが真剣になれるということだ。自分たちの意見を戦わせているとき、英語が手段であることに気づく。すると、とても気が楽になって英語を使うことが楽しくなってくる。また、ディベートを経験すると物事を深く考えることができるようになる。(4)

「生徒が真剣になる授業」、「英語を手段にする授業」、「英語を使うことが楽しくなる授業」、「物事を深く考えることができるようになる授業」には、おそらく皆さん興味があることと思います。この本は単なるディベート(授業)の技術的な解説書ではありません。

中嶋さんの基本理念は三つあります(5-7)。一つは「書くことを重要視している」ということ。「ああ、ライティング重視ね」などと一知半解しないでください。中嶋さんが大切にしたいことは「自分の考えがまとめられる」ことです。自分の考えを書いてみることにより「書き手と読み手という二役を同時にこな」して頭を整理することです。基本理念の二つ目は「教科通信などを利用し『価値観偏差(意見や考えの違い)』を生み出す」ことです。これにも「自分の考えと同質なものは自らを高めてくれない。むしろ自分の考えとは異質なものは興味をわき立たせ、新しい自分を発見させてくれる」という中嶋さんの信念が背後にあっての理念です。三つめは「指導の内容をできるだけ単純化する。しかし、面白さと深さを兼ね備えた内容(コンセプトが強いこと)になるよう工夫する」です。これも単に「カンタンでタノシイ」とかいうのでなく、「内容はいかに単純でわかりやすくても、面白くて深さがあるものにするということだ。やっていくうちにどんどん自分の考えが深くなり、面白くなってくるという題材や学習過程にしたい」という細心の注意があっての理念です。

さて、それではこれらの理念をどう具体化していくか。同書は、その具体化の実践例が満載です。以下に紹介するのはほんの一部に過ぎません。どうぞ実際に同書をお買い求めの上、御自分の頭と心で吟味、再吟味、再々吟味して、中嶋さんの深く広い教育実践を少しでもあなたのものにしてください。「一読して、中にある『テクニック』をいくつか実践してみたけど、うまくいかなかった」等ともしあなたがおっしゃるようでしたら、おそらくあなたはどんな本を読んでも御自分の授業を改善させることはできないでしょう。中嶋さんの本に限らず、本を読む時に大切なのは、自分の頭で考えて、自分の心で感じて、自分の体験と本の世界を相乗的に増幅させて、自分の読みを作り出すことです(そしてできればその自分の読みを、他の人の読みとぶつけあってみることです)。

中嶋さんの仕掛けの一つは「ペアをつくる」ことです。彼はこう付け加えます。「お互いに、この人だったら何でも聞ける、テストの点数も見せられるという人を選びなさい」(43)。これには「コミュニケーションを図るとき、相手との関係がcomfortableでないと談話は発展しにくい。ディベートでは相手をやっつける。だからこそ人間関係がとても大切になる。ディベートをするには、好ましい人間関係が保てる集団を作ることが大前提になると私は考えている」(41)という中嶋さんの体験に基づいた配慮があります。そしてペアリーダーには「委嘱状」(45)を渡したりして一人一人の意識を高めてゆきます。その結果が「1.相手に対して責任感が生まれ、予習を欠かさないようになった。2.教えることで、自分の理解がいっそう深まる。3.相手が「わかった」と喜んでくれた時は本当にうれしく、また頑張ろうという気持ちになる。4.兄妹ペア学習により、々力量同士の活動も保証されていて楽しい。(会話やディベートなど)」(52)といったものになるわけです。

仕掛けはさらにあります。「感情の表現を学んでそれにこだわるようになると、その理由や結果、関連することが言えるようになる」(78)という考えに基づいた指導も一例ですし、ただ「会話をしてみよう」と言うのではなくて「butやNoやI don't think soを使って反論し、becauseでその理由を述べる」(88)ようにするとか、とにかく一分間「質問の後の相手の応答に即座に反応して質問をする」(90)というのもそうです。また日本の国語教育ではいわゆる「読書感想文」が主流で「具体的な記述と論拠を示すような書き方には慣れていない」(97)という認識から、課題を「感想を書きなさい」から「自分の読んだ本の中で一番好きな本を紹介(PR)しなさい」(97)と変えるのも一例です。

繰り返しますが、中嶋さんの本は単なる小手先のテクニック集ではありません。「教師のポリシー(論理的に考えさせること)こそ大切にしたいことなのだ。『〜しなさい。want toを使って好きなことを書きなさい』では、いつまでたっても生徒たちは受け身である」(122)とは中嶋さんの弁です。そういった「ポリシー」と具体的な「仕掛け」が合わさった時に、「どこで学びの『磁界』(学んだ断片的な知識や能力を磁石のように統合させる機会)を作るかを教師の創意工夫で設定する」(123)という抽象的な言葉も力を持つのです。

中嶋さんの生徒の一人はこうも言います。

4月からディベートをやってきたおかげで、しゃべっている時や普段の生活などで自分がとても成長したなあと思います。例えば、話す内容などはだらだらとしゃべるのではなく、言いたいことはこれとこれというように無駄なことが省けるようになりました。また普段の生活でも、今では嫌いだったり目を向けたことのなかったものにも関心が生まれました。ディベートの時は、内容を組み立てる必要があります。それには広い視野を持たねばなりません。ですから今は新聞をよく読むようにもなりました。英語の時間も英作文を書いたりスピーチなどをするのが好きになりました。僕はこのディベートの学習でずいぶん代わりました。もっともっと自分を高めるためにディベートをしたいです。(2年 構 信太郎) (138)

中嶋さんのような優れたディベートの授業、いや言葉の授業が必要なのは、中学生だけではないのかもしれません。

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鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』(1999/8/16)

岩波新書の新刊である同書は、その中のいくつかの直言は評価すべきでしょうが、全体としては以下に述べるような欠点が多いので、私は良書とは思いません。従って広く読むことを勧めません。とはいえ、英語教育関係者がこの本をきっかけにして、議論を重ねることは有益だと思いますので、以下私の感想を書きます。

まず評価すべきは、鈴木さんの直言、わかりやすく物おじしない言い方です。それが次のように一般的に述べられた場合は、英語教育の問題点の一つを明確に照らした表現となると思います。

これまで一般に学校での英語の時間といえば、教科書の中に生徒とたちの自発性とは無関係に、すでに誰か他の人によって表現されてしまっている、ちゃんとできあがった、それだけに生徒からは遊離した、客観的な学習対象としての、冷たい英語が並んでいるわけです。これを生徒が外側の視点から学ぶことを求められるため、英語作品を分解して理解することが英語の勉強となってしまい、結局はただ覚えて暗記するという、面倒な仕事になるのです。(112-113)

私の好きな言い方で言い直しますと、timeless and context-freeな独立した実体としての「言語」を英語教育の対象とするのではなく、他ならぬ<私>が関与する歴史的-文脈的な行為として「言語使用」を英語教育の対象とすべき、ということになりましょうか。とはいえ、この話題を発展させると同書の感想から逸脱してしまいます。とりあえず同書の話に戻りましょう。

「直言」は「言い過ぎ」や、はてまた「暴言」と紙一重です。以下の鈴木さんの数々の具体的な発言はどうでしょうか。

ある時鈴木さんは北京の大学を出た中国人の先生と同僚になります。次は、その人から、中国におけるロシア語教育の様子を聞くくだりです。

教科書は『毛沢東語録』のロシア語版が中心で、その他には、人工衛星から肉眼で見える地球最大の建造物は万里の長城だとか、中国の国土の広さ豊かさ、歴史の古さといった、要するに中国はいかに偉大で素晴しい国かといった事柄が、ロシア語学習の教材として取り上げられていて、肝心のロシアについては、殆ど何も学んでいなかったのです。/この話を聞いて私は思わず心の中で万歳と叫んでしまいました。何ともうれしかったからです。それというのも、もう二十年も前から、私はいまや日本の英語教育は中学高校はもちろんのこと、大学の教養課程での英語も、教材の内容はすべて日本のこと、つまり日本文学、日本の歴史や社会といったぐあいに、何もかも日本のことを正面に据えて、英語を学ぶ必要があると主張してきたからです。(29-30)

しかしこれは「万歳」といったものでしょうか。鈴木さんは次のようにも言います。

このような理由から、私は大学の教養課程で、通常二年間学ばれる英語のクラスでは、これまでよく見られた英米の短編小説を読むとか、外国のさまざなな問題を扱った論説やエッセイなどを用いることを一切やめて、テキストのすべてを日本の歴史や社会、日本文学や日本人の書いたいろいろな種類の文章を、英語化したものに統一すべきだと主張するのです。(130-131)

おそらくは鈴木さんを主導者として英語教育界でも「受信から発信へ」とスローガン化されてきました。同書でもこのスローガンは繰り返されています。しかし「発信」(だけ)が得意なのはそれこそ共産主義独裁体制の中国であり旧ソ連であり北朝鮮なのではないでしょうか(あるいは「覇権独裁国家としてのアメリカ」もこの範疇にはいるかもしれません)。いずれにせよ大切なのは鈴木さん自身がいうように「文化交流は本来相互性をもつもの」という性質を踏まえた上で、「発信から相互作用へ」と、外国語教育を異文化コミュニケーションの理念を踏まえながら方向転換することだと私は考えます。上の「発信」は同書の中心テーマの一つですが、このような点で私は同書に「言い過ぎ」の感を強くもちます。

教室運営という実践的なレベルでも鈴木さんの発言には言い過ぎが多いように思います。例えば、

何を選んでも、一クラス何十人という学生すべての好みや希望を満たすことはできません。文学を読みたい学生は国際問題を主にした教科書などは嫌がりますし、アジアの国々を主題とするものを選べば、アメリカのことをやりたいという者が、つまらない顔をするといった具合になるからです。私が主張するように、大学での一般学生を対象とする英独仏の授業は、日本からの言語情報の発信を目的とすることになれば、このような問題は一挙に解決します。(132-133)

という発言です。私の含めた多くの英語教師が日本を題材とした教材を使ったことがありますが、おそらくそれで学習者の動機づけや興味の問題が「一挙に解決」すると思っている人は非常に少ないのではないかと思います。それが何を意味するかは別にせよ「日本人」だからといって、日本の事柄にあまねく興味を抱くわけではありません。これは愛国心の欠如と捉えるべき問題でもありません。各人の興味の自然な発露とみるべきです。この点で上の発言は常識的にも論理的にも受け入れ難いと思います。

さらに次のような発言となるとこれは「言い過ぎ」ではすまないのではないかと私個人は考えています。

これと比べてみると、アメリカ人の姿勢は、まさに[日本人の姿勢と]正反対といえます。歴史的にいっても、また現在のアメリカ人も、概して自分たちのもつ考え方、生き方、文化や宗教のすべてを、普遍的で正しい規準と考え、自分が理解できない異質の考えや生き方に出会うと、それをただちに非難し攻撃します。そして何としても自分たちの規準を相手に押しつけ、無理にでも相手の方を変えて、自分たちに合わせようとする傾向が強いのです。(34)

これに対しアメリカ人の方はまさに[日本人と]反対で、自分が物事すべての規準であって、相手のもつ異質性をば普遍からの逸脱、不公正なルール違反と見て、ただちに攻撃に出ます。そして相手を自分のように変えるまでは気持ちがおちつかないという、典型的な自己規準の他者干渉型、俗な表現を使えば「おせっかい」で「はた迷惑」な点の多い性格なのです。(35)

ここに見られる言い方は、「日本人」と「アメリカ人」をそれぞれ一枚岩的な存在に仕立て上げて、極端に対立させて語るやり方です。これは「直言」ではなく「偏見」ではないかと私は考えます。確かに上の記述がふさわしいアメリカ人を私も数人は知っていますが、それより多くの私のアメリカ人の知人は上のような特性をもっていません。また何よりも、「自分が理解できない異質の考えや生き方に出会うと、それをただちに非難し攻撃し」、「何としても自分たちの規準を相手に押しつけ、無理にでも相手の方を変えて、自分たちに合わせようとする傾向が強い」「おせっかい」で「はた迷惑」な人なら、私の日本人の知人にも多くいます。その人達の多くは「日本人的」でと自他共に認める人達です(他人の「思いやりのなさ」を非難する一方、自分のやり方しか認めようとしない人は皆さんの身の回りにはいらっしゃいませんでしょうか)。

上のような発言は、他所にもあり、

このようにアメリカ人は、日本人によく見られる知的好奇心を満足させるためとか、自分のいたらぬところを改め人間性を高めたいといった教養主義的な目的では、あまり現代の外国語は学ばないのです。まして外国の良さを知り、それによって自分たちの社会がもつ欠点や歪みを正そうとする自己反省、自己改革をめざす姿勢は、無きに等しいといえます。(40)

と述べられていますが、それならば例えば80年代の苦境を「日本式経営」を取り入れ消化することなどにより再生したアメリカの経済界の人々はどうなるのでしょうか。右派に'Cultural Literacy'などを声高に主張させるまでに多文化主義を大きな流れにしたアメリカの左派知識人はどうなるのでしょうか。禅仏教や武道に深い理解を示すアメリカ人はどうなるのでしょうか。上のような表現が散見される本は、私は良書とは呼びたくはありません。また同書36ページの表(外国語学習態度の類型)も、たとえ「きわめて印象的な分析」(35)だとしても、私は私たちの知的共有財産とはしたくありません。

それから用語ということで言いますと、鈴木さんはインドやフィリピンなどでの英語を「国内統合の役目を果たす重要な民族語」(54)とし、55ページの表では"Ethnic English"と言い替えていますが、こういった問題はnational identityの問題であって、ethnic identityやethnicityの問題ではないと私は考えますから、この用語使用は不適切と私は考えます。

以上、否定的なことを述べましたが、もちろん私は鈴木さんの『武器としての言葉』(新潮社)以降の言語政策的(あるいは国家戦略的)な提言の先駆者としての価値は十分に認めたいと思います。しかし、そのような視点で外国語教育を語るなら語るで、それには時代に即応し、将来を見極めた見識と感覚が必要となります。交通機関の発達で国内外の人間の移動が容易になり、移民問題が多くの国にとって大きな問題になっている昨今、次のような認識は適切でしょうか。

このようなさまざまな理由から、私は日本は国家としては一枚岩的な体制でなく、ということは、全国民をいわゆる国際化時代に合うように教育し、改造しようとするのではなく、少なくとも社会の指導的立場に立ち、主として外国との接触を引き受ける人々と、一般の国民という二重構造のしくみで、国際化に対応すべきだと考えるのですが、とくに公的な英語教育の面ではそれは絶対に必要なことだと主張したいのです。(159)

私は、英語教育は選択性にするにせよ、「外国語教育」あるいは「世界の言語と文化」といった異文化理解の教育----心身的な経験----は必要だと思っていますので、上のような発言には違和感を覚えてしまいます。

鈴木さんが憂国の士であることには疑いの余地はないでしょう。しかし善意は、特に愛国心という善意は、暴走しがちというのは歴史の教訓ではないでしょうか。

日本が大国として、波風の荒いこの国際化時代を本気で生き抜くつもりなら、前にも言ったような「日本は日本だ、それでどうした」といった強靭な自己主張の精神がぜったいに必要です。(184)

というのもいいでしょう。しかし、もし19-20世紀に日本がおかした過ちが、植民地帝国主義の先人の過ちを学ばずに、植民地帝国主義の最後尾として、先人の過ちをそのまま繰り返し、惨禍を拡張してしまったことにあるとしたら、日本が、中国やアメリカの「大国主義」を真似しようとすることは非常に危険なこととはいえないでしょうか。時代は、大国主義から、多国間協調の時代へと移行しているのではないでしょうか (cf. NAFTA, EU, NATO, ASEAN, etc)。

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ハイエク『科学による反革命』木鐸社(1999/7/31)

Scientism(科学万能主義)について調べる必要がありましたので、ハイエクさんによる同書(現題The Counter-Revolution of Science: Studies on the Abuse of Reason by F.A. Hayek Liberty Press: Indianapolis, 1952/1979 ISBN0-913966-67-3)を翻訳版の方で再読しました。急いでの再読でしたし、専らscientismについての関心から読み直しましたので、全く十分な書評とはいえない読書メモのようなものになりますが、以下で皆さんと情報を共有したいと思います。

同書はハイエクさんが1940年代に書いた論文を三部構成にしてまとめなおしたものですが、脳科学や心の哲学が隆盛になっている現代の意識から読んでも十分におもしろさを感じさせる本だと思います。以下、重要な引用は原文でひきます。私は今回時間がなかったので翻訳を主に読みましたが、英語は平明なので、きちんと読むつもりの方ははじめから原文を読んだ方がわかりやすいかもしれません(翻訳文の常として、同書の日本語表現は必ずしもわかりやすいものではありません)。

Part One: Scientism and the Study of Societyは同書の理論的中核です。英語教育関係者が読むとしたらこの部分だけでもいいでしょう。The Influence of the Natural Sciences on the Social Sciencesでハイエクさんは次のように述べ、19世紀以来、社会的研究者が、物理学や生物学などの(自然)科学の隆盛に魅せられて、(自然)科学の精神ではなく、方法だけを真似しはじめたこと、さらにその真似は、結果がでないにもかかわらず未だに続けられていることを述べます。当時の経済学の第一人者であり(1974年にはノーベル経済学賞を受賞)、博学多識でもあった人間の言葉だけに傾聴に値します。

During the first half of the nineteenth century a new attitude made its appearance. The term 'science' came more and more to be confined to the physical and biological disciplines which at the same time began to claim for themselves a special rigorousness and certainty which distinguished them from all others. Their success was such that they soon came to exercise an extraordinary fascination on those working in other fields, who rapidly began to imitate their teaching and vocabulary. Thus the tyranny commenced which the methods and technique of the Sciences in the narrow sense of the term have ever since exercised over the other subjects. These became increasingly concerned to vindicate their equal status by showing that their methods were the same as those of their brilliantly successful sisters rather than by adapting their methods more and more to their own particular problems. And, although in the hundred and twenty years or so, during which this ambition to imitate Science in its methods rather than its spirit has now dominated social studies, it has contributed scarcely anything to our understanding of social phenomena, not only does it continue to confuse and discredit the work of the social disciplines, but demands for further attempts in this direction are still presented to us as the latest revolutionary innovations which, if adopted, will secure rapid undreamed of progress. (20-21)

「でもこれが英語教育研究とどう関係があるの」といぶかしがる皆さんもいるかもしれまん。第一、英語教育研究は社会的研究(social studies)だという合意すらありません(英語教育研究関係者が愛好する言語学と心理学のほとんどは個人主義的なものです)。しかし、教師-学習者、保護者-幼児、学習者-社会的文脈、などといった要因は、私は無視することはできないと考えていますし、ましてや教室や学校という集団を考えるなら、英語教育研究は社会的研究だという自己規定をする必要があるとも考えています。

ですから今後の英語教育研究の主流が、だんだんと個人的色彩の強い研究から社会的色彩の強い研究へと移るとしても、その際、下手に自然科学の真似をしてしまえば、経済学をはじめとした社会的研究がおかした愚を繰り返すことになるでしょう。この意味でハイエクさんの批判派英語教育関係者にも重要だと私は考えます。

さらに歴史的事実として興味深いのは、自然科学の真似をすることを強調した人たちは、ほとんど自然科学の素養がなく、むしろ偏った考えを持っていた人間が多いことです。

Let it be said at once, however, that those who were loudest in these demands were rarely themselves men who had noticeably enriched our knowledge of the Sciences. From Francis Bacon, the lord chancellor, who will forever remain the prototype of the "demagogue of science," as he has justly been called, to Auguste Comte and the "physicalists" of our own day, the claims for the exclusive virtues of the specific methods employed by the natural sciences were mostly advanced by men whose right to speak on behalf of the scientists was not above suspicion, and who indeed in many cases had shown in the Sciences themselves as much bigoted prejudice as in their attitude to other subjects. (21)

「ちょっと言い過ぎじゃないの」と思われた方も多いかもしれません。しかしPart Twoに詳述されているサンーシモン(Saint-Simon)やコント(Comte)の傲岸不遜ぶり、独善ぶり、俗悪さ等を読むと、このハイエクさんの指摘も決して言い過ぎではないと思えてきます(もちろん、伝記研究というのは難しいものですが)。

もちろんこう言っているからといってハイエクさんは、科学の方法自体を否定しているわけではありません。彼が否定しているのは、科学の方法を無批判的に借用しようとする、それこそ「非科学的」な態度なのです。この態度こそがScientism(「科学万能主義」----翻訳では「科学主義」----)あるいはScientistic prejudice(綴りに注意)なのです。

It need scarcely be emphasized that nothing we shall have to say is aimed against the methods of Science in their proper sphere or is intended to throw the slightest doubt on their value. But to preclude any misunderstanding on this point we shall, wherever we are concerned, not with the general spirit of disinterested inquiry but with slavish imitation of the method and language of Science, speak of 'scientism' or the 'scientistic prejudice'. (23-24)

It should be noted that, in the sense in which we shall use these terms, they describe, of course, an attitude which is decidedly unscientific in the true sense of the word, since it involves a mechanical and uncritical application of habits of thought to fields different from those in which they have been formed. The scientisitic as distinguished from the scientific view is not an unprejudiced but a very prejudiced approach which, before it has considered its subject, claims to know what is the most appropriate way of investigating it. (24)

なぜ社会的研究をする者がこのように自然科学に対して批判的でなければならないかというと、社会的研究の(主な)対象は、まさに社会的に、すなわち主観的かつ相互作用的に形成される「意識」あるいは「概念」だからです。こういった「意識」「概念」は、自然科学にとっては究極的には科学的説明によって取って代わって捨てられるべきものです。これは脳科学の人ならすぐ同意してくれるでしょう(注1)。しかしながら社会的研究の対象である我々日常人は、そういった「意識」や「概念」によって行動を行っているのです(注2)。その端的な事実こそが社会的研究の否定できない対象だとハイエクさんは述べます。

Science is all the time busy revising the picture of the external world that man possesses, and while to it this picture is always provisional, the fact that man has a definite picture, and that the picture of all beings whom we recognize as thinking men and whom we can understand is to some extent alike, is no less a reality of great consequence and the cause of certain events. (39)

The question is here not how far man's picture of the external world fits the facts, but how by his actions, determined by the views and concepts he possesses, man builds up another world of which the individual becomes a part. And by "the view and concepts people hold" we do not mean merely their knowledge of the external nature. We mean all they know and believe about themselves, about other people, and about the external world, in short everything which determined their actions, including science itself.

This is the field to which the social studies or the "moral sciences" address themselves. (40)

だからといって、およそ人間にかかわることは全て自然科学ではありえない、などといったことを言っているのではないことはもうお分かりでしょう。もちろん人間を生理学的に研究することも、脳科学の対象として考えることもできるでしょう。しかしそれは社会的研究(注3)ではないというのです。

There are, in other words, natural sciences of man which do not necessarily raise problems with which we cannot cope with the methods of the natural sciences. (...) The social sciences in the narrower sense, that is, those which used to be described as the moral sciences, are concerned with man's conscious or reflected action, actions where a person can be said to choose between various courses open to him, and the situation is essentially different. (42-43)

人間が主観的かつ相互作用的に形成する概念を無視して社会的研究はできません。

It would be impossible to explain or understand human action without making use of this knowledge. People do behave in the same manner toward things, not because these things are identical in a physical sense, but because they have learned to classify them as belonging to the same group, because they can put them to the same use or expect from them what to the people concerned is an equivalent effect. In fact, most of the objects of social or human actions are not "objective facts" in the special narrow sense in which this term is used by the Sciences and contrasted to "opinions," and they cannot at all be defined in physical terms. So far as human actions are concerned the thing are what the acting people think they are. (43-44)

しかしそのようにして人間が形成する概念や意識などは曖昧なもので科学の対象としてはふさわしくないのでは、と思われる方もいるかもしれません。しかしそれこそ本末転倒です。(ウィトゲンシュタインさんの「考えるな。見よ」という警句を思い出しましょうか)

What is more important is that the term 'subjective' stresses another important fact to which we shall yet have to refer: that the knowledge and beliefs of different people, while possessing that common structure which makes communication possible, will yet be different and often conflicting in many respects. If we could assume that all the knowledge and beliefs of different people were identical, or if we were concerned with a single mind, it would not matter whether we described it as an "object" fact or as a subjective phenomenon. But the concrete knowledge which guides the action of any group of people never exists as a consistent and coherent body. It only exists in the dispersed, incomplete, and inconsistent form in which many individual minds, and the dispersion and imperfection of all knowledge are two of the basic facts from which the social sciences have to start. What philosophers and logicians often contemptuously dismiss as a "mere" imperfection of the human mind becomes in the social sciences a basic fact of crucial importance. We shall later see how the opposite "absolutist" view, as if knowledge, and particularly the concrete knowledge of particular circumstances, were given "objectively," that is, as if it were the same for all people, is a source of constant errors in the social sciences. (49-50)

それにしても、そのようにいいかげんな対象を研究しているのは、所詮二流の社会的研究ではないか、とお思いの方もいるかもしれません。しかしそれは社会的研究の最先端と考えられている経済学からしてそうなのです。

All this stands out most clearly in that among the social sciences whose theory has been most highly developed, economics. And it is probably no exaggeration to say that every important advance in economic theory during the last hundred years was a further step in the consistent application of subjectivism. That the objects of economic activity cannot be defined in objective terms but only with reference to a human purpose goes without saying. Neither a "commodity" or an "economic good," nor "food" or "money," can be defined in physical terms but only in terms of views people hold about things. (52-53)

この他にもPart Oneには「原理の説明」(an explanation merely of the principle on which a phenomenon is produced)と「詳細な結果を予測する説明」(an explanation which enables us to predict the precise result)の区別の重要性を述べる箇所があったり(74)、心的状態と脳内の状態の対応関係がわかったとしてもそれは社会的研究の理解にはなにも貢献しないと述べる箇所があったり(86)と見落とせないところが沢山あります。特に"The Historicism of the Scientific Approach", "'Purposive' Social Formations", "'Conscious' Direction and the Growth of Reason'の節は、英語教育研究が非時間的-非社会的な自然科学的アプローチから、歴史的-制度的な社会的研究的アプローチへと転換するのなら、一読しておきたい箇所だとも思います。

(注1)心の哲学でいうFunctionalism(生理的基盤とは独立した、心の「機能」のレベルを研究の対象とする立場)をとっている認知科学者なら「意識」あるいは「心理(学)的レベル」の自律性・独立性を主張するかもしれません。逆にいうならそういった主張ができないならば大半の認知科学は脳科学に飲み込まれてしまうでしょう。科学的英語教育研究を目指している方々は、脳科学か(Functionalismによる)認知科学か、の選択をいつか迫られると思います。

(注2)ここでは素朴に「意識が行為を決定する」という図式に従っていますが、本来ならばこのあたりを「意識の哲学」の問題意識で批判的に検討すべきなのかもしれません。ですがここでそれは割愛します。

(注3)続く引用でハイエクさんは'social sciences'という言葉を使っていますが、この'science'が自然科学の意味とは異なることは明らかでしょう。

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The New Yorker (1999/6/13)

学校英語教育における根本問題は(1)英語教師が忙しすぎて、文化的な暮らしをする余裕がないこと、(2)英語教師同士で英語教育に関して対等な立場で率直に語る文化が成熟していないこと、の二つだと私は考えています。

(2)はさておき、(1)についてですが、多くの(英語)教師が「家に帰れば風呂に入って寝るだけ」といった状況に追い込まれています。これに関しての私の意見は、経営学(組織行動)に関する啓蒙をはかって、事務・行政仕事を徹底的に合理化・リエンジニアリングするべきだというものですが、仮にそれがうまくいって時間が余ったとしても、その余った時間をどうすればいいのだろうという問題が生じてくるかもしれません。

もちろんそれは家族・友人と語らう、自然の移り変わりを体全体で感じる、近所の人と言葉を交す、など、人間・市民としてごく当然のことに向けられるべきなのでしょうが、その他にも英語教師として何を余暇にするか、という事が出てきます。ここでは英語教師が余暇にすることの一つとして雑誌The New Yorkerを読むことを取り上げてみたいと思います。

今はどうか知りませんが、私が大学生の頃は松本道弘さんの「英語道」には物凄いカリスマがあって、雑誌TIMEを読むことには特別な意味があるような雰囲気がありました。影響を受けやすい私もご多分にもれず大学3年生の頃からTIMEを読み始め、昨年に至るまで十数年間同誌を定期購読しておりました。

振り返ってみますと、学部生当時は政治や経済に全く関心のなかった私がTIME誌の購読によってずいぶんそれらの分野に興味を抱くようになりましたし、TIME誌の企画記事にはずいぶん啓蒙されましたし、同誌のグラフィックの感覚はずいぶん勉強になりました。

しかし昨年イギリスに行って定期購読を止めて、高い店頭売りだけでしか同誌が手に入らなくなると、なんだかそのままTIME誌からは足が遠のいてしまいました。そんな時に私のアパートの上の階に住んでいた英文学専攻の米国人客員大学教授が勧めてくれたのが雑誌The New Yorkerでした。同誌を勧めてくれる人は考えてみると今までにも数人いて、かつそれらの人々は皆教養があり信頼できる人ばかりだったのですが、「どうせニューヨークの催し物情報以外には、詩や小説ばかりを載せた文芸誌でしょ」と思い込んでいたせいもあって、The New Yorkerを手にすることもありませんでした。でもその米国人にそのことを言うと「昔はその傾向もあったが今は違う。まあ読んでみろ」と数冊私に渡してくれました。

読んでみるとおもしろかった。最初に読んだ号の記事ではダイムラー・ベンツとクライスラーの合併裏話がおもしろかった。あるいはクリントンさんの不倫疑惑におけるケネス・スターさんの暴走傾向を懸念する記事など、ビジネスから政治から、人間的な興味をひく話題が満載でした。

TIMEが提供しているのが「(分析された)情報」だとしたら、The New Yorkerが提供しているのは「文章読解の喜び」。TIMEのような難語・新語好みもなく、それでいて含蓄のある文章を数多くのライターが提供してくれています。巧みで的確な文章表現のみが与えてくれる理解の喜びを私たちはThe New Yorkerから学ぶことができると言っても過言ではないと思います。

また、TIMEの主眼が「政治・経済」としたら、The New Yorkerの主眼は「人間」。描写はニュース報道のように断片的でなく、複雑な背景と人間模様を伝えるため適度な長さをもった記事構成となっており、ちょっとゆっくりした時に読むのに丁度いい長さとなっています。The New Yorkerは、TIMEやCNNなどから得られるような時間に急かされたような感覚----これは私の偏見?でも私はTIMEやCNNを休日に楽しむ気にはなかなかなれない----とは無縁です。

今たまたま手元にある号からいくつかの記事を拾ってみても印象に残る文章・記事が多くあります。一つは、高校での銃乱射事件に関する多くの論評がなにかと"culture"をだしに使って「説明」を試みることに懸念を表明して"The right reaction may be the most superficial one: grief and gun control. To seek to anthropologize or philosophize it away ---- to seek a "deeper" or "hidden" explanation ---- is to rob the event of its significance, which is the pain it caused. It is even, in a way, to rob the parents of their sorrow, which, in its nature, has no meaning and can't be cultured away."と結んだ文章。これにはなるほどと考えさせられました。もう一つは(私も名前ぐらいは知っていた)英国の哲学者Roger Scrutonが実は"famous principally for his right-wing agenda"であり、ある人には"the unthinking man's thinking man"とまで呼ばれており、デリダやフーコーから現代芸術、ポピュラー音楽までをバッタバッタと切って捨てた本(The Intelligent Person's Guide to Modern Culture)----これは確かに私も英国にいる時、本屋に並んでいるのを見た----を出版したのはいいが、その中の記述に怒ったPet Shop Boysというグループに訴えられたという記事。噂好きの自分を否定できない私としてはその顛末をふんふんなるほどと読んでしまいました。

人間が他の人間の様子---つまりはゴシップ----を好んで聞くのは社会的本能と言えるのかもしれません。そんな一見どうでもいいような人間模様を学ぶことによって、不確定要素の多い人生での自らの行動に何らかの洞察が得られるからです。少なくとも私は政治・経済の話よりは人間模様の話の方が好きなのかもしれません。英文ニュース誌や英字新聞にいま一つ満足できない人文系の趣味を持つ英語教師の方々にThe New Yorkerを勧めるゆえんです。興味のある方はhttp://newyorker.com/をクリックしてください。

追記:The New Yorkerを勧めるのとほぼ同じ理由で私は雑誌『噂の真相』をお勧めします。英国に行った時以来、私は日本の定期刊行物の購読を全て中止したのですが、『噂の真相』の定期購読だけは再開しようと思っています。荒木経惟さんの写真などに抵抗を示す人も多いかもしれないし、『噂の真相』の方が社会権力関係に特化しているかもしれないけれど、The New Yorkerをおもしろく読む人は『噂の真相』もきっとおもしろく読むだろうと私は考えています。

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哲学者Roy Harrisさんによる心理言語学の本の書評(1999/5/25)

Times Higher Education Supplement(THES)の1999年5月7日号はPsychology and Psychiatryの小特集を組んでいますが、その中の哲学者Roy Harrisさんによる心理言語学の本(The Ascent of Babel: An Exploration of Language, Mind and Understanding by Gerry Altmann, Oxford University Press)の書評は、私が心理言語学から離れる際に感じていた諸々の疑念をうまく表現していましたので下にその一部を抜き書きします。心理言語学者(あるいはそれに類する英語教育研究者)からの反論をお待ちします。(うーん、これこそ姑息な「虎の衣を借る狐」論法といえるのだろうか(^^;)。でもこの文に限らずRoy Harrisさんの論には粗いところが散見されるとも思いますので掲載する次第です)

Many students, Gerry Altmann tells us, find psycholinguistics "mysterious and impenetrable". One reason for that is unwittingly indicated in Altmann's own definition : "the study of how the mind turns language into meaning, and back again". This already incorporates enough confusions to make the subject mysterious and impenetrable not just for his undergraduates, for whom the book was written, but for everyone else as well. Altmann adds to the muddle by conflating various interpretations of such basic terms as "word", "sentence" and grammar".

Evidently in psycholinguisitics you do not have to worry about exact terminology, since the subject is 90 per cent speculation anyway, and the remaining 10 per cent laboratory experiment. The experiments are ingenious. They involve nonsense syllables and spliced tapes, images flashed on screens, split-second timing and a great deal of button-pushing. But what do they "prove" about language in everyday life, where these cleverly contrived laboratory conditions do not obtain? Altmann often seems uncertain, so no wonder the students are perplexed.

The theory of communication behind Altmann's psycholinguistics is crude Lockean telementation (you "end up reconstructing the idea that the speaker or writer intended to convey") and the theory of mind no less crudely mechanistic. Altmann comes across as a brash essentialist, fond of phrases such as "the very essence of language", "the essence of meaning", "the nature of language understanding", "the true significance of language", "the secret of language", and the "key that unlocks the final mystery", as if he were writing for readers too naive to be suspicious of academic sales talk. In a revealing comparison, he says that he wanted to write a book that would be the linguisitic equivalent of the technical manual that comes with a CD player. It would explain "the inside of the human mind". His assumption is that the mind is a machine. The notion that it might not be just a machine he dismisses as "magical", with a single contemptuous reference to Descartes. This is typical of the intellectural level of Altmann's "exploration" of language. It is like being initiated into the mysteries of tennis by someone convinced that the "esence" of tennis is what goes on inside the brain of a tennis player.

追記:同号の別の書評を読みますと、Brain, Vision, Memory: Tales in the History of Neurocience by Charles G. Gross (MIT Press, ISBN0-262-07186X)はなかなかの良書のようです。

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ENCARTAインタラクディブ英会話 (1999/5/10)

下で紹介した本の"In the network economy, nine times out of ten, your fiercest competitor will not come form your own field. "という言葉が頭に残って、久しく寄っていなかったパソコンショップに帰り際に寄ってみました。そこで目にしたのがMicrosoftによる「ENCARTAインタラクディブ英会話」というCD-ROM。閉店間際だったので、わずかしか体験できませんでしたが、インターフェイス、画像、英語の自然さ、どれをとってもかなりのものでした。よくできていると思います(ただしスピーキング機能は未体験)。大手英会話学校が採用したとも広告には書いていました。その言葉を額面通り信じるなら、その英会話学校は自校の講師の教育力より、このCD-ROMの教育力(コストパフォーマンス)を信じているということになるのかもしれません。私が見た店での価格は15800円。初級英会話のマスターを考えている人は、パソコン店で実際に手にして見てください。

さて、ここから何が言えるか。愚者の特権である未来予測を臆面もなくするなら、

(1)貧富の差が教育程度の差をさらに拡大する:パソコンやCD-ROMソフトを自由に使える環境の人間と、そのような投資が困難な環境の人間の間での、学習能力の差は一層拡大し、「富める者/学べる者」と「貧しき者/学べない者」の二分化が進行する。

(2)学校英語教育は、学習者の動機づけを主眼とする良い意味で啓蒙的・文化的なものへと転換を遂げるか、完全に時代遅れのレッスンで誰にも相手にされないものに留まるかのどちらかに収束する:前者の場合は(1)にもかかわらず、学校英語教育は万人に新しい世界への招待を促すものとなるし、後者の場合は(1)の傾向はますます加速し、「貧しき者」は学習環境にも恵まれず、動機づけとも無縁なままに留まり、無力感が蔓延する。

(3)ソフト業界の寡占化がますます進行する:テクノロジーの洗練化が加速度的に進行し、消費者の審美眼がどんどん高くなると、競争力のあるソフトを企画し製品化できるだけの力を持ったソフト会社は巨大で迅速な会社だけになる。小さな会社はニッチで生き延びるか、巨大会社の下請けになる。

どうでしょう。私はこういったソフトの本格的な登場を、重く見ます。皆さんはいかがですか。

追記:その後、このソフトを使ってみたが、まだ動きが「重い」という声もありました。

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New Rules for the New Economy + 思考スピードの経営 (1999/5/9)

全大学教員に経営学のセミナーを義務づけるというのはどうでしょう。経営学も、エッセンスだけなら一週間のセミナーでかなり身に付けることができると思います。そしてその効果は絶大です。少なくとも私ならそんなセミナーを受けたいと思います。

たいていの現代人が組織人である以上、経営学は現代人にとっての常識だとも思います。とはいえ私は経営学の専門家でもなくまたそれこそ常識程度にしか経営学のことを知りませんが、やはり古典はピーター・ドラッカーの著作だと思います。

しかし近年の情報革命から考えると私はトム・ピーターズの旧著『経営破壊』(TBSブリタニカ)こそは現代の必読書だと思っています。このホームページを愛読していただいている皆さんならもうお読みかと思いますが、もしそうでなかったら是非一読をお勧めします。

その延長線上で雑誌Wired----どうして日本語版は廃刊になったんだ!?----の編集長であるKevin KellyのNew Rules for the New Economy (VIKING: ISBN 0-670-88111-2)を読みました。最初は「デジタル社会の常識の確認だよね〜」、と読んでいましたが、第6章ぐらいから面白くなりました。抜粋を「言葉」に掲載しましたので、ご興味のある方はご一読ください。

それにくらべるとビル・ゲイツの『思考スピードの経営』----ヨメさんが読んでいたので、寸借して速読してみました----は、平板で面白くなかった。でもこれが日本のみならずアメリカでもベストセラーになっている、ということは、思考法の転換はなかなかもって難しいということでしょうか。

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「創る英語」を楽しむ----「暗記英語」からの発想転換----(1999/4/1)

広島修道大学経済科学部の田地野彰さんによる同書(丸善ライブラリー、720円)を中高の英語の先生方、および「どうも英語が使えない」と悩みがちな方々にお勧めします。田地野さんが私の(元)同僚で友人だからという理由ではなく、この本が英語コミュニケーションのつぼをぴたりとおさえているからです。

田地野さんは「英語が難しいはずはない」という信念をもって研究にも教育にも励んでいます。ご自身も日本で全く普通の学校教育を受けて(大学時代の専攻はまったく英語と関係のない専攻)、卒業後思い立つところあって英国ランカスター大学に学部生として入学してから努力を重ね言語学のPh.Dを「無修正」の超優秀の成績で得た人です。日頃はそのように華麗なる経歴をみじんも見せないように(?)気さくに語り、私も会う度に冗談の応酬に励んでおりますが、この本では前著の『英会話への最短距離』(講談社)と同様、健全な常識とまともなセンスで、初心者が英語を使う際に最も気を付けるべき急所を明らかにします。

思いますに、物事を難しく言える人はいくらでもいます。例えば、打撃系格闘技の左ジャブ(注)。これも難しく言えば、留意点を20も30も列挙できるでしょうし、また各筋肉の名称と機能をあげることも、はてまた左ジャブの時に活性化する脳の部分をMRTで特定することもできるでしょう。中国拳法や伝統空手の打撃技との比較検討から10の相違点をあげることも可能でしょう。しかしそんなことをいくら聞いたって、初心者が左ジャブを覚えるにはあまり役に立たない。専門家の役目とは、そのような専門的な細部にわたる知識を持つと同時に、初心者に簡単に一言で要所を説明することです。

それでは田地野さんが明らかにした要所とは何か----ここでは、それが「英語教育の達人」と言ってもいい島根県の田尻悟郎さんが到達した結論に極めて近いもの、とだけ述べておきましょう。中高の先生方にお勧めするゆえんです。実際に読んでみてください。言ってしまうならコロンブスの卵。もし「なーんだ、こんなことか」と言うなら、どうぞあなた自身が「こんなこと」を実践しているか、実際に生徒が英語が使えるようになっているか自問自等してください。繰り返しますが、物事を難しく難しく捉える人はいくらでもいますが、物事を簡潔に言い切ることができる人は、その簡潔な言葉の深い意味を洞察できる人同様、意外に少ないのではないでしょうか。

英語教育研究者がとかく、当り前のことを殊更に勿体ぶって語り、結局社会の要請に応えられていない現状では----なんのことはない私のことだ(^^;)----、同書のように健全な常識とまともなセンスで書かれた本は大切に扱われるべきだと私は考えます。

(注)妻によれば私は「何でも筋肉のタトエで説明する」悪い癖があるそうですが(^^;)、しばしおつきあいを。

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太平洋戦争と英文学 (1999/3/24)

宮崎芳三さんによる同書(研究社出版、196ページ、2200円)を買いました。実はこの本に収められたエッセイの多くは、以前にコピーの形で入手し読んでいたのですが、きちんと装丁された本の形で所蔵していたいと思い、購入しました。

この本は『英語青年』を主な資料(の一つ)にしながら、英語教師にとっての太平洋戦争----「大東亜戦争」といった方がしっくりくるのではないかしら、それとも「第二次世界大戦」と当時から英語教師は捉えておくべきだったのかしら----を扱います。それまでの「英国万歳」とはうってかわった「鬼畜米英」の状況の中で、英文学を学び英語を教えるということは、英語教師にとっての「思想」を鍛え上げるのに格好の時代ではなかったのか、という問題意識から宮崎さんは当時の資料を振り返ります。

とはいってもこの本は、自らを戦後の高みにおいた一方的な断罪でもなく、自己憐憫へと堕する同僚擁護の書でもありません。宮崎さんのスタイルは、例えば「とは言うものの、こういう推測は危険なので、このあたりでやめよう。私の推測に過ぎないから危険だ、というのではない。そうではなくて、もともとうすぼんやりとしたものをことさら鮮明にしてしまうおそれがあるから、である。うすぼんやりとしたものは、そのレベルのままにとどめておいた方がいい」(73)といった引用や、何よりも最後のエッセイ「書誌家の立場から」に的確に現れているように慎重にして大胆なものです。

「慎重」はともかく、「大胆」と言いますのは、例えば大和資雄さんの言説を「思想以前」と結論したり、(あの)斎藤勇さん----旧字は新字に換えて表記しています----を評して「日本の英文学研究史で彼から始まったと確実に言えるものは、学問研究の形をしたこの熱心な勉強というくせである」(145)とさらりと述べたりしているからです。この宮崎さんという方は、文体でも(おそらく実際の人柄でも)温厚でありながら、その一面、正直で静かに持続する志を持った方か、とも思いました。少なくとも下は彼の信念の一つだと思います。

しかしその上で私は、でもやっぱり主張したいのは、相互批評がなければ堕落する、ということです。私たちの書誌が、もし正直で熱心な相互批評という点で落第ならば、そのときは、他の面でどんなに体裁のいいものであろうとも、その全体はまぎれもない堕落を示すものとなるだろう----そう私は考えたのです。(192)

この本は、戦時中という状況下の英語教師を描くことによって、現代の他ならぬ私たちを考え直させる良書だと思います。一読をお勧めします。

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A Vast Unravelling: What do literary studies teach? (1999/3/8)

Times Literary Supplementの1999年2月26日号のCommentaryの欄にMichel Chaouliさん(Assitant Professor of German and of Comparative Lieterature at Harvard University)が同上のタイトルの小論を掲載しています。Chaouliさんは、人文系の大学人にとっては、縮減する予算と入学生、減るポストと威光、などの問題もさることながら、最大の悩み(worry)は、「自分の仕事が完全な時代遅れであるか、もしくは文学について価値あることは実は教授不可能なのではないか」というものだ、と述べます。彼はその悩みについて考えるために四つの質問を提示します。以下は彼の自問自答の抜き書きです(一部原文を変えています)。

First, are our methods hopelessly outdated? ---- The multipilicity of methods or approaches signals a profound shift in the notion of method itself. We now have a more Rortyan model, in which various vocabularies of description make different aspects and tonalities of the world accessible to us.

Second: does the field have a fence? ----My impulse is to deny that in literary studies "anything goes", to insist that we have standards and no truck at all with relativism, but that claim would not be quite right. I can think of only very few subjects of inquiry that could be ruled out of literary studies with absolute reliability. In this sense, anything does go.

Third: is deconstruction dead? ---- The interpretation of texts can never be concluded. One reason deconstruction will never entirely disappear is that it elevates this intuitively held insight to the position of a formal argument. There are strong reasons, embedded in the structure of utterances, that prevent us from closing their interpretation once and for all. Such open-endedness means that the study of literature cannot be neatly fitted into the disciplinary model of rational inquiry, checked by peer review, leading to an answer. it also means that other disciplines may be able to rely on it to a far lesser degree than many of their practitioners like to believe.

Fourth: can literature be taught? ---- The "exemption of meaning" that Roland Bartes, among many others, regards as a hallmark of literature is not opposed to the rule-bound automatism of grammar and rhetoric but intimately connected to it. It is a consequence of pushing semiotic systems and conventions ---- forms that can be described and taught ---- to their limits in such a way that circumscribed meanings give way to a plentitude, an excess of meaning, that, in turn, has an utter disorientation and loss of meaning as one of its results. Thus a good way to recognize what is unteachable about literature would be to learn what is teachable ---- above all, the variable conventions of rhetoric.

現代の主潮流は市場原理主義と科学(主義)だと言えると思います(ちなみに対抗勢力は民主主義)。Chaouliさんの論は、一部のポストモダン論者に見られるような「はぐらかし」に陥ることなく、敢えて科学(主義)を否定した上で、レトリック等の教育の可能性を説き、文学研究を、市場原理主義の強い現代においても生き残らせようとしている論とも私には読めました。

日本でも多くの文系研究が生き残りをかけて(あるいはもっと露骨に言うならば予算獲得をかけて)、自己再規定をはかろうとしています。科学(主義)的語彙をちりばめることが予算獲得への近道なのかもしれませんが、大学人としては、ここらで立ち止まってゆっくりと考えてみるべきなのかもしれません。

追記:この他にも文学研究の"restructuring"としては、Times Literary Supplementの1998年12月11日号の"They've been cheated"の書評が面白いです。"The Rise and Fall of English" (Yale University Press)の著者のScholesさんが作品重視から方法論重視へと文学研究を転換し、"grammar, rhetoric and dialectic"を柱とすることを、文学研究史を踏まえながら主張する一方、評者のBresnickさんはそういった転換に懐疑の念を表明しています。

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タイトル情報辞典 (1999/2/25)

話のおもしろさは、具体的な細部にこそあります。ところが、外国語(英語)で話していると、その細部の表現が思いつかず、口惜しい思いをすることもあります。私が大学院生でクラシック音楽を聞き始めた頃を例にとっても、音楽好きのイギリス人と話をしようとしても、なんせ「ラヴェル」がRで始まるのかLで始まるのかすらもわからなかった(^^;)。さすがにイギリスで雑誌Gramophoneを読む楽しみを知った今では、多少なりとも音楽の英語での表現も少しは増えましたが、それでも今度は、ポピュラー文化の表現が結構わからなかったりします。

もちろん「そんなの英語圏に住んでないのだから知らないのが当然」と言われればその通りなのですが、Pinkerの Language Instinct----これは本当に面白い入門書です!(Penguin: NHK出版から翻訳あり)----なんかを読んでいても、ポピュラー文化の引用が、いたるところに出てきて、社会的・文化的背景知識の重要性を感じたりします。ましてやペーパーバック小説を十分に楽しむためには、そのような知識は不可欠とすらいえるでしょう。

先日、ある方から『タイトル情報辞典』(小学館、本体価格2800円)を贈っていただきました。これは映画、テレビ、ポップス・ロック、ジャズ、民謡・童謡、クラシック音楽、オペラ、バレエ、演劇・ミュージカル、パソコン・ゲームソフト、コミック、美術、ミステリー、SF、文学、日本文学、一般書籍、新聞・雑誌と18分野にわたって約14000項目の解説があります。とりあえず拾い読みするだけで面白いし、調べ物をするときにはきっと重宝することでしょう。

追記:ここで少しだけ述べたピンカーの本に関してメールが来ました。以下それとそれに対する私の返答を再掲載します。

柳瀬さん、はじめまして。熊 谷と申します。「英語教育の哲学的探究」をいつも興味深く読ませていただいております。さて、「書評」ページの『タイトル情報辞典』の書評の中で、柳瀬さんはピンカーの本に触れて次のように書かれました。

もちろん「そんなの英語圏に住んでないのだから知らないのが当然」と言われればその通りなのですが、Pinkerの Language Instinct----これは本当に面白い入門書です!(Penguin: NHK出版から翻訳あり)----なんかを読んでいても、ポピュラー文化の引用が、いたるところに出てきて、社会的・文化的背景知識の重要性を感じたりします。

わたしはどの分野の専門家でもありませんが、柳瀬さんがピンカーの本を「面白い入門書」と評されたことに対して疑問があります。わたしは日本語訳の『言語を生み出す本能』を図書館から借りて、第3章の「思考の言葉」のところを読んだだけですが、次のような部分にかなり引っ掛かるものを感じました。

まず、ピンカーがウィトゲンシュタインの意見としてでっち上げを書いているところです。

「哲学者は、動物は言語を持たないから、意識も持たないはずで--ウィトゲンシュタインは「イヌは『明日はたぶん雨だろう』という考えを持てるはずがない」と書いている--したがって、意識を持つ存在にとっての諸権利も持たなくて当然だ、と主張する。」 (日本語訳上巻p.75)

「イヌは『明日はたぶん雨だろう』という考えを持てるはずがない」という意見は、ウィトゲンシュタインのものというよりは、『哲学探究』第1部第25節と第1部第650節あたりにピンカー自身の思い込みを混ぜたもののように見えます。ウィトゲンシュタインが本当にこんなことを書いているかどうかということは、ウィトゲンシュタインの本を持ってきて索引で「イヌ」や「雨」が出ている個所を調べればすぐに分かることなので、ピンカーがそういうことを調べもしないで書いているのは明らかだと思います。また、同じ「思考の言葉」の章で、ピンカーはサピア・ウォーフの仮説を批判していますが、そのやり方は、

「 しかも、こうした考え方には科学的根拠があるということになっている。人間の思考は母語の持つ範疇によって決定される、とするサピアとウォーフの言語決定論の仮説と、これをやや後退させて、言語の相違が話し手の思考の相違を招く、とする説がそれである。」(日本語訳上巻p.76)

と、サピア・ウォーフの仮説に強い仮説としての面と弱い仮説としての面があることを無視して、サピア・ウォーフの仮説を言語決定論と断定することにより、極端に強い仮説の面だけを強調し、

「 言語決定論と密接にかかわる学者が二人いる。エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフである。優れた言語学者サピアは、人類学者のフランツ・ボアズに学んだ。」(日本語訳上巻p.79)

サピアの方は優れた言語学者ということで批判の対象からはずして、

「 サピアの指摘は興味深いが、まもなく、この指摘をさらに推し進める人物が登場した。ウォーフである。ハートフォード火災保険会社の調査員だったウォーフは、アメリカ先住民言語のアマチュア研究者でもあり、エール大学でサピアの講義を受講した。」 (日本語訳上巻p.79) 

ウォーフの方を一段低いアマチュア研究者とみなし、サピア・ウォーフの仮説=言語決定論=アマチュア研究者が考え出した奇妙な主張、とした上 で、「 しかも、決定的な研究結果が一つ、得られている。心理学者のエリナー・ロシュが、ニューギニア高地のグランドバレー・ダニ族を対象に行った実験である。ダニ語の色名は黒と白の二つしかない。そのダニ族の人々に新しい色名を教えると、純粋な赤を基本にした色グループの方が、ほかの色の混じった赤を基本にした色グループよりはやく覚えられた。つまり、色をどのように見るかによって、対応する色名の覚え方が左右されるのであ り、その逆ではない。」(日本語訳上巻p.84)とサピア・ウォーフの仮説が実験的にも反駁されたという話をした後、「なぜ、ウォーフが奇妙な主張をひねり出したのかは誰にもわからないが、 数が多いとはいえない発話例にこじつけめいた訳をつけたことや、長年、神秘主義に傾倒していたことが一因になったとはいえそうである。」 (日本語訳上巻p.85)ウォーフの奇妙な主張が怪しげな動機から発してものだということを匂わせています。

こういったことの何がまずいかというと、

・サピア・ウォーフの仮説を過度に単純化し、極端な面だけを取り上げて、それがサピア・ウォーフの仮説のすべてであるかのように書いている。

・サピア・ウォーフの強い仮説に類似した考えはフンボルトにまでさかのぼることができるのに、それを無視してウォーフひとりが唱えた主張とみなしている。

・エリナー・ハイダー・ロシュ(またはエリナー・ロシュ・ハイダー?)の研究を決定的と言っているが、この研究に対する批判、およびその批判を踏まえた研究もあるので、ロシュの研究結果が決定的とはとても言えない。(この研究についてはジュリア・ペンの『言語の相対性について』(有馬道子訳、大修館書店、の訳者解説p.120-131を読んでもらえばいいと思います。ピンカーより詳しく書いています。また、エリナー・ロシュの論文の題名は『言語の相対性について』の訳者引用文献p.196、p.197に載っています。)

・サピア・ウォーフの仮説を子細に検討して批判するというよりも、ウォーフを言語学者ではなくアマチュア研究者として一段低く見せた上で、そのアマチュア研究者の唱えた奇妙な主張ということでサピア・ウォーフの仮説を低く見せようとするところが目に付く。

といったところです。サピア・ウォーフの仮説という抽象的なものを批判するよりも、ウォーフ個人を攻撃した方が素人にはわかりやすく、「面白い」とは思いますが、自分に都合の悪い歴史的事実や研究の評価は無視して、個人攻撃でもってある説の批判の替わりにする、といったことは、学問の「入門書」でやっていいことなのでしょうか?ピンカーが言語学について述べたことが正しいかどうかは私にはわかりませんが、上のようなピンカーの書き方は不注意によって起こるものではなく、ピンカー自身の人格に問題があるのではないかと思えます。

以上の理由で私は、ピンカーの本がたとえ面白くても入門書として手放しで勧められるものではないと考えますが、柳瀬さんはいかがお考えでしょうか。

なお、次の書評はピンカーの本の評価すべきところは評価し、批判すべきところは批判しているものだと思います。 http://linguistlist.org/issues/5/5-623.htmlまた、ピンカー自身に対する評価とは別ですが、東北大の黒木さんによる「スティーブン・ピンカーに関する非公式ウェブページ」 http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/Pinker/index-j.htmlはすぐれたものだと思います。もし柳瀬さんがまだご覧になっていなければ一度ご覧になることをお薦めします。それでは、失礼いたします。

 

<柳瀬から熊谷さんへのメール、後に「中庭」に転載>

熊谷さん、はじめまして。「英語教育の哲学的探究」の柳瀬です。的確な御指摘と貴重な情報をありがとうございました。結論から申しますと、私もピンカーのあの本には少しの留保の念をもっています。今、本が手元にないので記憶でこれを書いていますが、私が気になったのも、熊谷さんがひっかかっているところが多く、特にハヤカワ氏の略歴を唐突かつ一面的に紹介したりするところには不快感も覚えました。ただ、私としてはこれらの考え方は、ピンカーさんにとっての「天敵」の考え方であり、その感情あまっての暴走か、と読み進めました。

またヴィトゲンシュタインに関してもご指摘の通りですが、これもよくある恣意的な引用として私は容認(?)というか、そのまま読み進めました。(このあたりの、瑕疵に対する「寛容さ」(?)が、私の研究者としてのいいかげんさ、をはからずも証明しているのかもしれません。でも、文脈も含めた正確な引用というのは少ないものだと個人的には思っています)

とはいえ、一読したとき私は全体を通して「おもしろい」と思ったことは事実ですし、また私としては私の考えとかなり違う見解に対しては、できるだけ排斥的でないようにしたいと心掛けていますので(そうでなくても知らず知らずのうちに排斥しているものです)、他の本の紹介の時のトピックの一つとして出したものです。でも不用意といえば不用意だったかもしれません。

また、私が得ている情報でも(これも記憶で語っていますから書誌情報がありません)、Amazonのページの書評でもピンカーさんのこの本に対して、かなり批判的な評が出ていましたし、How the mind works(でしたっけ?)の彼の「進化論的心理学」に関しても、かなり懐疑的な議論をTLSかTHESで読みました。またこれはTHESでピンカーさんの人物紹介を一ページぐらいにわたってしたとき、彼がいわゆるpop scientistになりかけているような印象も(少なくとも個人的には)受けたことは事実です。ともあれ、ご指摘と情報をありがとうございました。 私にとっても考えるいい機会になりました。(ご教示のホームページは後でゆっくり読んでみます)

そこで提案なのですが、私は情報はできるだけ共有したいという基本的な考えをもっています。ですから、熊谷さんの今回のメールと私のこの返答を掲示板「中庭」に掲載するというのはいかがでしょうか。もちろん熊谷さんが匿名をお使いになりたい、というのならかまいません。私としては、熊谷さんが、前回のメールを掲示板に再投稿してくださって、私もこのメールを再投稿するのが一番いいか、と考えていますが、なんでしたら、私がまとめて再投稿してもかまいません。前向きに御検討いただき、御返答いただけたら幸いです。

私の不勉強の言い訳をするつもりはありませんが、一人の努力では限界があります。ネット文化は、分散的にこの限界を克服する手段だとも考えています。

今回に限らず、熊谷さんが、私のサイトにも御投稿いただければ私としてはこんなにうれしいことはありません。

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