書評

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育研究を推進する立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。また人名に関しては、どんな方に対しても「〜さん」づけで表記してます。

もし書評を読んで興味がわいたら、是非ご自分でその本をご購入なさって、実際にお読みになることを強くお勧めします。


ベンジャミン・フルフォード『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』『ヤクザ・リセッション』(いずれも光文社、本体価格はそれぞれ667円、952円)(2003/12/28)

日本は素晴しい歴史と伝統を持ち、今なお多くの善意にあふれる人々に恵まれた国です。ですが、日本は特別な国ではありません。他の国で起こりえたことは日本でも起こりえると考えるのが理性的な態度だと思います。そして、最近の日本は、ますます経済的に追い込まれていますが、これは経済の問題というよりは、政治の問題、権力の問題であり、権力行使にかかわる私たち自身の判断と行動の問題です----私はこれらのことを日本を良く知る「ガイジン」の著作、特にカレル・ヴァン・ウォルフレンさん、ピーター・タスカさん、アレックス・カーさんらの著作に学びました。

そして私のこのリストに新しい名前が加わりました。カナダ生まれのカナダ人で、現在、経済誌Forbesの日本支局長を勤めるベンジャミン・フルフォード(Benjamin Fulford)さんです。彼の著作、『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』『ヤクザ・リセッション』を読んで、今まで漠然と不思議に思っていたことに得心がいったり、新たな視点に気がついたりと、今この私がすむ現代日本をより深く理解することができました。特に『アルゼンチン』は、前から話題になっていたので読もう読もうと思いながら、本屋で実物を目にすることがなく、読む機会をなくしていたのですが、やはり読んでよかったです。

しかしこう書くと(あるいは言うと)必ずといって次のような反応が返ってきます。「よほど外国人が好きなんですね」「日本が嫌いなんですか」「外国人には本当の日本の姿はわかりません」「日本に関する悲観論は読んでも仕方ありませんから」・・・私はこういった反応にあうたびに悲しくなります。私はよい著作が好きなだけです。日本は好きでもあり、嫌いでもあります。日本は(私の母国であるという事実以外は)特別な国ではないからです。悲観とか楽観という心の持ち方の大切さは私も知っていますが、同時に事実と事実に基づいた論理的な推論も大切です。「心の持ち方だけで何でもうまく行く。具体的な事実や論理的な思考は大切ではない」などと言う人は私は信用しません。ただそれだけです。

さて『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』『ヤクザ・リセッション』の主旨を私なりにまとめれば、日本の不良債権にはヤクザが絡んでおり、そのヤクザは政治家、官僚、業界と絡んでいる。つまり日本の権力は政・官・業・ヤクザのつながりに牛耳られており、その事実を、その権力構造に絡めとられたメディアが書かないので、多くの人々はその権力構造批判すら思いつかず、不良債権そして財政赤字はどんどんと膨れ上る。2002年4月20日アルゼンチンは国家破産状態(default:対外的な決済が不可能になる状態)に陥り、ドアルテ政権は緊急金融統制例を発動して、預金封鎖(bank holiday)を宣告したが、日本がこのような末路をたどる可能性は十分にある、といったものです。

前FRB議長ポール・ボルカー氏Paul Volcker(現米欧日三極会議議長)はこういいます。

「日本が現在置かれている状況は、これまでの経済学の教科書にはないものです。先進国といわれる国でこのような状態に陥った国は、歴史上例がありません。とはいえ、日本が抱えている問題は経済問題ではなく、政治問題なのです」『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』(p. 11)

フルフォードさんの基本認識もこの見解と同じです。

不良債権を処理する方法はそれを安い値段で買って再生することです。その買取りと再生(そして売り抜け)を行う企業を、「ハゲタカ・ファンド」といって日本では特に嫌いますが、そのハゲタカ・ファンドが対抗できないのがヤクザ傘下の占有屋が入った不良債権です。ヤクザつまり裏社会と政・官・業のつながりは予想以上に強いものであるから、こういった現状では再生不可能な不良債権は少しも減らない(それどころか地価下落のため増え続ける)とフルフォードさんは数々の具体的な事実から主張します。

フルフォードさんはこう言います。

3年連続の格付けの引き下げdowngradingで、日本国債は、先進国中でも最低の投資不適格のAa3になってしまった。ムーディーズのバーンズは、5年以内に支払い停止defaultを起こすことはないが、それでも「投資対象外だ」と言う。アメリカン・エンタープライズ(シンクタンク)のジョン・マーキンJohn Makinは、最近ウォール街で評判になった論文で、こう警告している。

「格付け機関rating agenciesは、ロシア、ラテンアメリカそしてアジアで、国家負債が危機を引き起こすというシグナルに気付いていたにもかかわらず、まったく無力であった。彼らは政府の動向に細心の注意を払ってきたが、投資家が金融崩壊によって資産を失うことにまで責任を持てなかった」

ロンドンの戦略研究所のあいだでは、次のような論議がさかんだ。

「どんな政府もこれまで、これだけ大きな借金をきちんと支払ったという記録はない。だから、日本とて例外ではないno exception」(『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』p.102)

しかしこういった危機感は広く国民に共有されているでしょうか。フルフォードさんはここ最近の日本の政治家はごまかしばかりを続けていると主張します(その数々の論拠については本読んでご自分で判断してください)。またメディアもきちんとそれを報道しません。また仮にメディアが報道していたとしても一般人は仕事に追われ、きちんとメディアを読み考える余裕を失ってしまっています。また私のような教育者とて同罪です。下手をすれば学生の就職率を上げることばかりを考え、大学の本来の意義である、独立して考え行動できる人間を育てることへの努力を怠っています(私は今、私が教えている学生さんの顔を思い浮かべながら、何人がこういった問題に興味を持ってくれるだろうと考えています。その数が少ないものだとしたら、それは私をはじめとした教育界の人間の責任です)。

フルフォードさんは言います。

本当に国を滅ぼすのは、経済や政治ではない。為政者たちのウソやゴマカシである。日本政府はこれをもう十数年にわたって続けているのだ。腐りきった官僚組織、ゾンビ企業群、そしてヤクザと癒着し、国民を欺き続けてきた。しかし、自国民は騙せても全世界はだませない。

共産党独裁だったソ連も、為政者たちはウソやゴマカシで自国民と世界を騙し続けた。その結果、滅んだのである。太平洋戦中の日本も、負けている事実を国民にひた隠しにし、「勝った、勝った」と言いながら、やがては大敗した。

つまり、ウソやゴマカシを続けているかぎり、民主主義は機能せず、日本の再生はありえない。

日本の「失われた10年というのは、本当はお金が失われたのではない。日本人の精神Japanese spiritが失われたのである。日本人はいつのまにかウソつきになってしまったのだ。

はたして、日本の為政者たちはまだウソを言い続けるのだろうか?

とすれば、「失われた10年」は本当に「さらに失われる10年」となり、日本は静かに死んでしまうだろう。『ヤクザ・リセッション』(p.265)

 

相変わらず、日本のメディアは、不況克服についてさまざまな処方箋を提供している。しかし、そのなかに「ヤクザ・リセッション」について言及したものは、ほとんどない。もはや日本経済は、ギリギリのところまで追いつめられているのに、まだ、単なる経済問題economic issueとして扱い、自分たちの真の姿real figureを見ようとしない。

そして、権力なき総理大臣が「改革は進んでいる」と口先だけで言うのを、毎日のように垂れ流している。

このままいったい、日本はどこまで行こうというのか?

日本の危機は、経済の危機ではない。日本人が人間としてどう生きるべきかの危機なのである。日本と日本人は、いま、その生き方を問われているのだ。『ヤクザ・リセッション』(p.272)

今、自分の論文で忙しいので、ある意味、仕事以外の本を読んだりこんな雑文を書く時間があるのなら、すこしでも論文を片付けるべきです。しかし集中力がガクンと落ちて「危ない」と自分で思ったので今日一日は休みにして、ぐっすり睡眠を取った後、この雑文を書きました。

書いてみて、リフレッシュという以上に、かえって活力がわきました。英語教育者としては、自分自身もっときちんと英文報道を読もうと思いましたし、多くの若い人にも日本語メディアだけでなく、英語メディアも読める英語力をつけるべく英語教育の改善に励もうと思いました。

ちなみに正直なところを付け加えておきますと、私がこの本を買ったのは、知的好奇心は当然のこととして除外するなら、自分の将来の不安からです。社会正義に燃えて買ったのではありません。

もちろん、アントニオ猪木さんの「元気があれば何でもできる。元気があればホームレスでもできる」という名言(?)もありますが・・・・


山口良治・平尾誠二『気づかせて動かす』(PHP研究所、1350円)(2003/10/19)

教師にとって最も大切なのは生徒への愛情だと思います。

少し前の自分なら、このような台詞はノウハウを持たない教師の言い訳に使われるようでいて、むしろ嫌っていたのですが、最近つくづくこう思います。

もちろん愛情といっても、それはひとりよがりのものであってはいけません。「こんなにしてやっているのに」、「思ってあげているのに」などと、「のに」がつく言葉が出るようでは、それは愛情ではありません。それは見返りを求めている計算です。また、たとえ見返りを求めていなくても、生徒をどこへ導いてゆけばいいのかというヴィジョンあるいはイメージがなくては、その愛情も空回りしかねません。

ですがまっすぐに一人一人の生徒を見つめ、その子に何ができるとその子が輝けるだろうかということを経験と想像力を総動員させてイメージし、そのイメージに向けて試行錯誤を続けて行けば、教育のノウハウというのは、自ずとわかってゆくのではないでしょうか。

もちろんそうはいっても大学の人間としては、ノウハウはノウハウとして抽象的に事前に学んでおくことの有効性を否定したりはしません。これは立場上の発言ではなく、抽象的かつ集中的な学習の効用というものを身にしみて感じているからです。

ですが最も大切なのは教師の根本姿勢。教師が愛情にあふれ、勇気をもってその愛情を貫こうとしている人間である限りにおいてはじめて、理論的な学習は活かされます。教師の根本がしっかりしていないのに、理論ばかりを学べば、理論のための理論、理論のための実践などを振り回すばかりになってしまいます。これは私という人間のこれまでを振り返るだけでもすぐにわかることです。

この本は、中嶋洋一さんの「気づき」というキーワードが気になっていたので、タイトルを見ただけですぐに買いました。読み始めると一気に最後まで読み通しました。私の場合、この本のラグビーの話と、このHPで紹介させていただいている中嶋さんらの英語教育実践の話が重なり合い、色々なところに納得し、得心がゆきました。再読して、さらにうんうん唸り、その一部は「言葉」に掲載させていただきました。他ならぬ私の教師としてのの生き方を考えさせられました。現代の子ども・若い世代については様々な批判が寄せられており、またその批判には正当なものも多いのですが、ひょっとしてもっと批判されるべきは、教師や親の自信のなさであり、勇気のなさであるのではないかと気づくことができました。

初めからいい人間がいい教師になってゆくのではありません。教師という仕事を真正面から受け取ることで、普通の平凡な人間がいい教師になり、いい人間にもなってゆくのだと思います。

それでは教師の仕事とは何か。それは生徒を愛することです。

その仕事ができていない私としてはここでこれ以上言葉を紡ぎ出すことを止めることにしましょう。


ピーター・バラカン『ロックの英詞を読む』(集英社 1600円)(2003/10/11)

私とロックの関係を語りますなら、最初は田舎の中学生の例にたがわずビートルズの素晴らしさに驚きロックに目覚め、全曲をラジオでエアチェックし何度も聞き、そのうち初期のローリングストーンズの凄さもわかったりしていたけれど、当時主流のレッド・ゼペリンやディープ・パープルには(別に意地をはっていたわけでも何でもないんだけれど)どうもなじめず、ピンク・フロイドに入れ込んでいたまま高校時代を過ごし、大学に入って80年代のまぶしいばかりのMTV文化に接して、ロック(というよりポップ)を好んで聞いていたといったところでしょうか。

そのうち大学院生になって父が死んで、そのショックからなかなか立ち直れなかった時に聞いたバッハの平均律クラヴィーア曲集(グレン・グールド演奏)にはまってしまって、それからもっぱらクラシック(時折ジャズ、特にマイルズ・デイヴィスは別格です!)という感じになってロックとはしばらくおさらばしていました。それ以来、ロックは時折思い出したように聞いたりしたにすぎません。最近たまたまスカパーのMusic Air Networks(Ch. 271)で見たCreamのライブのインプロビゼーションには仰天してロックへの関心が再び湧いてきました(といってもCreamの音楽はロックというより、(ジャズ+ブルーズ)×ロックといった感じです。私はジャズファンだから、ブルーズの要素を足され、ロック的に増幅されたCreamのライブ演奏のジャズ性を楽しんでいるのだといえるのかもしれません)

そんな必ずしも忠実なロックファンでない私でも一貫して面白く聞き、常に敬意を払ってきたロックなどの音楽をかけるディスクジョッキーがいます。彼の紹介する音楽の多くが私の心をストレートに捉えるものだったからです。それがピーター・バラカンさんです。

そんな彼が本書『ロックの英詞を読む』を発刊しました。これはEnglish Journal誌に10年以上連載されていた記事をもとに書かれた本です。選曲はピーター・バラカンさんに任せてしまったらマニアックすぎて読者がついていけなくなるかもしれないので、雑誌の方が基本的に選んで、ピーターさんはそれを尊重しながら曲を決定したといいます。これが結局は、私のようなロック・マニアではないロック・ファンにとっても丁度いい選曲になったのかもしれません。また連載の時には英詞は直訳することが原則となっていたそうなのですが、本になった今回はピーターさんが好きなように意訳していますので、詞のニュアンスはより深くわかるようになっています(「文法より歌心!」)。

内容はロック、というより音楽を心から愛するピーターさんが、イギリス英語を第一言語とし、日本語を非常に堪能な第二言語としている言語背景を十二分に活かしてロックの英詞を解説したもので、おざなりの説明や気の抜けた文章など一箇所もありません。英語のニュアンスもよくわかります。ちなみに私はピーターさんの日本語は大好きです。放送で聞くピーターさんの日本語には独特のリズムとユーモアがありますが、その感覚は文字でも十分に味わえます。(このくらい好きな日本語の話し手といえば私としては筑紫哲也さんとはかま満男さんぐらいでしょうか)。

一読して、曲はよく聞いていても歌詞の深い意味はぜんぜん知らないことに気がついてもう一度聞きなおそうと思ったアーチスト(Bruce Springsteen, Bruce Hornsby & The Range, Prince, Pink Floyd)や、いままであまり聞かなかったのは私の無知や偏見に過ぎなかったことがわかったアーチスト(David Bowie, Rod Stewart)、やっぱり聞いておくべきだと思ったアーチスト(Bob Dylan, Van Morrison, The Pogues, The Who, Chuck Berry)などが次々にわかって面白かったです。しばらくはこの本をレファレンス・ブックにしてロックの名盤を一枚一枚買い足してゆこうと思いました。また人生の楽しみが一つ増えました。

ロックを愛する英語教師には心からお薦めする一冊です。通常書店でも買えますが、BROKEN RECORDS(http://www.fuga.ne.jp/shop/broken_records/index.html)で買うと早いですし、他にピーター・バラカンさんのお薦めのCDなども買えますので、音楽ファンはぜひこちらのサイトをのぞいてみてください。なおアルバム紹介だけでしたら同じくピーター・バラカンさんによる『僕の愛するロック名盤240』講談社プラスアルファ文庫(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062563010/ref=sr_aps_b_/250-1643413-8219422)があります。が、この本のエッセンスは上のBROKEN RECORDSのサイトにも掲載されています。このサイトではピーター・バラカンさんが勧める多くのCDの解説と視聴ができる音楽ファンなら涙モノのサイトです。「Peter Barakan」や「ピーター・バラカン」のキーワードでは検索エンジンにひっかからないサイトなので、私も最近までこのサイトのことは知りませんでしたが音楽ファンなら是非一度チェックを。


菅正隆/北原延晃/久保野雅史/田尻悟郎/中嶋洋一/蒔田守『どの子も英語が好きになりたい 6-way Street 何を教えて何を学ぶのか(DVD下巻)』(バンブルビー&メディアコム 4800円)(その2)(2003/10/04)

DVDの下巻の二枚目は「プロジェクト型・統合型の活動(2)」、「リレー・インタビュー」、「特典映像」、「メッセージ」から構成されています。

「プロジェクト型・統合型の活動(2)」は中嶋さんが10年間続けたハードカバーの英語卒業文集についてです。この文集は、私も現物を見ましたが、「本当にこれが中学生の作品?」と驚いてしまうほどの完成度を持ったものです。私はこの文集を機会あるごとに色々な人に見せていますが、驚かなかった人は一人もいません。英語も、挿絵も、本の作りも、そして全体からかもし出されるメッセージも、一級の作品です。ここでは中嶋さんによる文字解説とALTによる語りによって、その文集作成の内実が語られます。

中嶋さんによる文字解説では、冷静に書く指導についての考察が行われます。中嶋さんの考えによると、書くことは、生徒が(日英語の)語順の違いを理解し、自分の思考を整理するのに非常に有効な活動です。中嶋さんの経験では、この書く指導は、(1)徹底した和文英訳の訓練と、(2)自由英作文が有効です。(1)の和文英訳といっても、少し前のタイプの入試問題のような形ではなく、教科書の本文を使ったもので、教科書の訳文(時には意訳)を、生徒が「なるほどそうか」と深いところで英語の感覚を納得するまで、何度も英訳(というより復元)させることです。(2)の自由作文も、入試問題のように、与えられた(無味乾燥の)トピックに関して否応なく書くのではなく、自分が「書こう」「書きたい」と思う「真実」をクラスの間で伝え合うようなタスクを設定して、その真実と熱意をもとに生徒が英語知識を総動員させるという活動です。このあたり「和文英訳」「自由英作文」といっても、巷でよく想起されるものとは異なりますので、注意が必要です。

文字解説の後は、中嶋さんの授業を共に作ったALTの女性が、卒業文集について説明をします。その指導のやり方から編集のノウハウまで、まさにこの素晴らしい作品は一朝一夕でできたものではないということがよくわかります。さらに彼女は文集の中から三つの作品を朗読します。私たちは、画面で文集そのもののページを見ながら彼女の朗読を聞くわけですが、そこで見聞きする英語は、もう完全に一つの作品であり、たんなる「言語材料」でもなければ、採点されなければならない「宿題」でもありません。この英語は人格的なもので、私たちはそこに自然な敬意を覚えます。このような文集を作るにはクラス作りが大切だと彼女も最後に力説していましたが、それもわかるような気がします。ここで生み出されているのは、単に正確な英語ではなく、英語を通じての人格表現だからです。お互いを思いやり、大切にしながら高めあう環境でなければ、お互いの人格を正直に表現しようなどという気は起こらないと私は考えるからです。何度も言いますが、この卒業文集は偉業です。

次は「リレー・インタビュー」で、6人の教師がリレー形式でインタビューを行ってゆきます。私が最初に見たのは北原さんが質問し、田尻さんが答えるものでした。ここで田尻さんは、未習事項でも、生徒が表現したいという欲求を抱いたらその場で教えてしまうこと、またそういった学習事項の整理は、教室の後ろに貼っている表で行っていることなどを明らかにします。インタビュアーによって、授業成立のために克服した課題の一つ一つが明らかになってゆくといった感じです。見事なパフォーマンスというものは、その素晴らしさがゆえに、ともすれば見る者を欺き、あたかもそれを行う事が簡単であるような印象を与えますが、そのパフォーマンス(ここでは授業)を行うためには実に細かい配慮と丹念な準備が必要であることをこのようなインタビューは明らかにしてくれます。そんな中でも印象的だったのが、田尻さんが、一方で、いかに教室という共同体、いや生命を育てるかといった温かな愛情を持ちながら、他方で、どのようにして少ない時間で効果をあげるかという冷静な合理性を持っているかというところでした。"Cool head, warm heart"とは経済学者マーシャルの言葉だそうですが、田尻さんにもこの絶妙なバランスを見ました。

次のインタビューは、蒔田さんが尋ね、北原さんが答えるものでした。ここでは私たちはcard snatching gameの基本や展開、あるいは「星読み」(本文を5回読んだら☆を一つ書き、その☆を5つ書けるまで音読する)の背後にある考えなどを知ることもできます。Card snatching gameにしても星読みにしても、私たちはそれについて見聞きすると、「ああ、なるほど。わかりました」とばかりに、そこで考えることを止めてしまいがちですが、こうして話を聞くと、それらの実践は自分が即断したよりははるかに深いものであることがよくわかります。

次のインタビューは久保野さんが尋ね、蒔田さんが答えるものでした。ここで蒔田さんは、授業のアイデアを共有する教師集団の重要性を熱く語ります。蒔田さんは、自らの体験から、人に良いものを伝えることはそれ自身が喜びであり、伝え合うサイクルができると、自分も相手も共に伸びてゆくことを説きます。蒔田さんの話は、コミュニケーション教育論としても聞き応えのあるものでした。

次のインタビューは菅さんが尋ねて久保野さんが答えるものでした。よくオーラル中心の授業をすると「そんなことで入試に対応できるのか」とはよく詰問されることですが、自ら進学校に勤務する久保野さんは、「英語(の基礎力)が出来ないうちに個別の入試対策をしても無駄だ」と答えます。とはいっても華やかないわゆる「コミュニケーション活動」を毎日行うのではなく、いかに重要だけれども地道な訓練を飽きさせずに積み重ねてゆくことが大切だと久保野さんは言います。また久保野さんは三年間、あるいは中高合わせての六年間をかけて「仕組む」ことの重要性も説きます。そのための手段の一つが、生徒のパフォーマンスを映像にも音声にも気をつけて録画しておきます。その画像を久保野さんは次の年の生徒と保護者に「これが先輩の姿です。私の授業ではここまで伸ばします」と見せます。生徒にはモチベーションを、保護者には信頼を、教師にはコミットメント与える行為です。素晴らしいなと正直思います。

次は中嶋さんが尋ね、菅さんが答えるものです。中嶋さんは、新入生の97%が英語嫌いという学校で、どうやって菅さんがDVDで見られるように生徒の顔をあれだけ生き生きさせられるのか、どうやって企業までも巻き込んで革新的なプロジェクトを行ってゆくのか、どうやって卒業生に「高卒なのに大卒よりも英語がうまい」と会社で思われるように力をつけてゆくのかといったことを尋ねてゆきます。詳細はDVDを見てもらうこととして、ここでは菅さんの最後の言葉だけを引用しますと、「教育は人づくり」、「教育は愛」。これが、菅さんのように英語教育に関して具体的な工夫と努力をし尽くした教師から発せられると、本当に重みがあります。

最後のインタビューは田尻さんが尋ね、中嶋さんが答えるものです。中嶋さんは「生徒を(入試などで)脅してはいけない。自信をつけさせよう」、「何をできるようになってほしいかを明らかにし、実際にその力をつけて実績にしよう」と言います。またこのインタビューからわかるのは中嶋さんがじつによく子どもを見ていることです。授業を改善する最大要因は、子どもの反応をよく見ることであり、理論や他人のアイデアはその次だとも思えてきます。「教師の最大の教師は生徒だ」とも言えるのかもしれません。

さらに中嶋さんは、子どもが気づく前に教師の方で説明してしまおうとする誘惑を退けて、子どもの反応を待つことの重要さを説きます。また「生徒の自己表現は採点したいからさせるのではなく、自己表現で子どもたちを解放させてあげたいからやるのだ」という言葉もとても印象的です。加えて、「『突出したやり方』をやっていて、どうやって他の教師の理解と協力を得ますか」という菅さんの質問に、中嶋さんが「子どもたちの正直な授業の感想を集めて、それを他の先生の授業の感想と比べてみる」と言ったのにもなるほどと思わされました。ここでも中嶋さんの目は、周りの大人でなく、子どもの方を向いています。

「特典映像」ではセヴァン・スズキさんという12歳の女性が、1992年にリオデジャネイロで開かれた国連会議で行ったスピーチを見ることができます。「英語授業のビデオなのになぜ突然こんなスピーチを?」と思われる方もいるかもしれませんが、これは中嶋さんが以前カナダのあるセミナーで見て感動し、ぜひこのDVDを見る人にも見てほしいと熱心に交渉して掲載できたものです。その中嶋さんの気持ちもよくわかります。といいますのも、セヴァン・スズキさんには自然な威厳があるからです。威厳といってもただの12歳の少女です。政治権力を持っているわけでも、経済的な力を持っているわけでもありません。ですが彼女は真実を語っています。自分を基点にし、未来の世代に代わって、先行する大人の世代に環境や平和について訴えかけています。言葉は真実と結びつくことによって力を得ると言いますが、ここにはとてつもない力があります。映像に映し出された各国代表の大人たちは、皆真剣に聞き入っています。言葉の偉大な力を感じることができる映像です。中嶋さんはこのように言葉を真実と結びつけ、全人格でもって語ることができる人間を育てたいのだと思いました。

最後のセクションは「メッセージ」です。中嶋さんはこのDVDを通じて「元気の素を与えたかった」と言います。「Actionのためには、MissionとVisionとPassionが必要です。目の前の生徒を良くすることはあなたにしかできないのです。見通しを持って、子どもたちを、そして教材を好きになってください」と中嶋さんは訴えます。やがて映像は川に変わり、東井義雄さんの詩が映し出されます。そうして「子どもたちの瞳が輝くように。私たち大人が元気になれるように」、「教師のヒューマン・ネットワークが全国にひろがるように」というメッセージが映し出されると、私は深く感動しました。具体的な数々のノウハウが、深い考えと温かい気持ちに支えられて次々に展開したDVDを締めくくるにふさわしい映像でした。

このDVD2セット(4枚組)は、6人による共同作品ですが、やはりプロデューサーとしての中嶋さんの力を強く感じます。この作品はこれまでに中嶋さんが公表した作品(本・ビデオ・DVD)の中でもベストの作品ではないかと私は思います。もっとも、優れた表現者ならそう答えるように、中嶋さんなら、「あなたのベストの作品は何ですか」と尋ねられたら、「次の作品です」と言うかもしれませんが・・・

私事で紹介が遅れましたが、このDVD2セットは心からお薦めします。


金谷憲編著『英語教育評価論』桐原書店(2003/9/15)

「評価が大切」ということに関しては、おそらく誰も異論をはさみません。しかしながら、多くの人が気にするのは評価の「結果」であって、「要は何点だったの?」ということに終わってしまい、その評価が何を意味しているのか、その評価の限界とは何か、といった評価の「中味」に関しての実質的な議論はあまり聞こえてきません。

そのような実質的な議論を行うためには、評価に関する客観的な理解が必要です。かくして評価について勉強をしなければと思うのですが、これがなかなかうまくいきません。テスティングの理論にはやたらと統計理論が使われるみたいでしりごみしてしまいます。文部科学省の評価方針に関しては、下手に自分で考えてみても、「それは文部科学省の意向とは異なります」と言われればそれでおしまいなのですから、考えても無駄で、「とにかくどうしたらいいのか教えてください」となってしまいそうです。

大切なことは、評価に関して客観的に理解し、その理解に基づいて、それぞれの英語教育関係者が主体的に現実の問題に取り組むことです。この『英語教育評価論』はそのための格好の道案内になっていると思います。

第一章ではこの本の見取図が提示されます。その上で第二章で、英語教師なら誰もがうなずくような評価の問題点が具体例を通じて示されます。こうして問題意識が高められてから読者は、第三章から第五章の理論的な記述を読みますので、これらの章を主体的に読むことができます。そうして第六章で具体的なリサーチデザインが提示されますから、読者はここでふたたび現実に立ち戻って、しかし今度は客観的な目でもってより明確に英語教育の評価について考えることができます。評価に少しでも関心のある学部生、大学院生、現場教師の方々にはぜひ一読し、研究のための一種のレファレンスとして手元においておくことをお勧めします。


菅正隆/北原延晃/久保野雅史/田尻悟郎/中嶋洋一/蒔田守『どの子も英語が好きになりたい 6-way Street 何を教えて何を学ぶのか(DVD下巻)』(バンブルビー&メディアコム 4800円)(その1)(2003/8/23)

DVDの下巻の一枚目は「解説」、「授業を楽しくするアイデア・ボックス」、「プロジェクト型・統合型の活動(1)」の三つのセクションから構成されています。

「解説」のセクションでは、中嶋洋一さんが4つのポイントを解説します。最初のポイントは「生徒の学習定着度」です。ある試算によりますと、教師の講義によっては生徒の定着度は5%しか達成されないそうです。「みなさんは説明しすぎていませんか?」と中嶋さんは問いかけます。ですが、授業を教師主導から学習者中心に変えてゆくと定着度は高くなってゆきます。その試算によりますと、グループディスカッションを導入すると50%、模擬練習(シミュレーション)を入れると75%、実践(体験)をさせると90%に定着度があがるそうです。これらの数字の細かい算出方法はわかりませんが、目安としては私も納得します。このホームページの実践報告などを続けるうちに、私も自分自身の講義や講演のスタイルが変わってきました。確かに教師一人だけが孤軍奮闘するようでは、教師の気持ちばかり空回りして、聞き手・参加者の理解度、定着度、満足度は意外に低いままに終わりがちです。「授業を教師主導から学習者中心に」とは言い古されたぐらいのスローガンですが、きちんと実践すべき重要なポイントだと再認識しました。

二番目のポイントは「なぜペア学習・グループ学習を大切にするのか」です。クラス・マネジメントをきちんとやっていないのに形だけペア学習やグループ学習を取り入れても駄目だと中嶋さんは言います。ぎくっとした方、どうぞクラス・マネジメントの基本についての中嶋さんの解説をお聞きください。

三番目のポイントは「学習者のつまずきを分析する」です。授業は達成目標を立てるだけでは駄目で、中嶋さんの比喩を借りるならmilkからbaby foodへ、そしてsolid foodへと段階づけてゆかなければなりません。これも当たり前のようで、徹底されていないポイントだと思います。

最後のポイントは「つながりをつくるマンダラ思考」。アイデアを生み出す方法を中嶋さんが伝授します。用意するのは3x3の9マスの紙。中心に気になるキーワード(例「英語を好きにさせる」)を書き、その周りの8マスにそれに関連するアイデアを書き足してゆきます。さらにはその一つを新しい9マスの中心に書き、今度はそれに関連するアイデアを8つ書き足してゆくという方法です。中嶋さんは常に手帳を持ち歩き、このような方法を使ってアイデアを生み出しているそうです。私自身はこの方法は試したことがありませんが、できるだけ常に手帳(紙または電子)を持ち歩きアイデアを書き足してゆくことは20年近く実践しています。継続・蓄積は力だとつくづく思います。

次のセクションは「授業を楽しくするアイデア・ボックス」です。菅正隆さんと久保野雅史さんは、具体的な状況を与えることによって生徒のイマジネーションをかきたてます。中嶋さんの実践は「歌って踊るカラオケ大会」。生徒のさまざまなグループがDaydream Believersを歌って踊ります。見ていて「学校っていいな」と素直に思えました。現実社会は甘くなく、全てが全ての大人が幸せな人生を送っているわけではありません。いや大人にならずとも、子供でさえも与えられた環境によっては愉快な生活を送っているわけではありません。そんな中、せめて学校の中だけは、厳しくも楽しい時間が過ごせればどんなに素晴らしいことでしょう。そんな学校生活は人生の宝にすらなると思います。この画像の中学生たちも数十年後にこの画像を見れば、温かな笑顔を、ひょっとすると涙と共に取り戻すことができるかもしれません。教師の第一の仕事は「学校っていいな」と思わせることではないでしょうか。(それにしてもDaydream Believersという曲は私も大好きです。コメディ映画「コーン・ヘッズ」でこの曲が流れた時は、なぜか涙が出てしまいました。その他にもなぜかアバのDancing Queenなどにも私の涙腺はゆるんでしまいます。音楽の力って不思議ですね)。

この下巻一枚目の最後のセクションは「プロジェクト型・統合型の活動(1)」です。ここはやはり田尻悟郎さんの50分あまりの実践をぜひぜひご覧下さい。田尻さんの最初のチャプターは「コインを使った授業」です。海外旅行で残った小銭などを実際に生徒に使わせると生徒の会話がリアリティーをもったものになります。これは画面を見ていてもよくわかります。小道具は大切なものです。次のチャプターはGlobal Education。ここは授業の流れに注目してください。最初に田尻さんは「あなたは暑い日に自動販売機でジュースを買おうと思っていました。そこへ募金を求める人がやってきました。あなたはどうしますか」と問いかけます。生徒はペアになって、一方が一分間でそのトピックに関してできるだけ多くのセンテンスを言います。パートナーはそれを書き取ります。一分間が終わると、パートナーはそのメモをもとに相手の言ったことをreproduceします。そうして役割交代。それが終わると、田尻さんは何人かを指名し、どんな意見をいったのかをクラスの前で発表させます。さて、そうして募金や寄付ということに関しての問題意識を高めた後、田尻さんは2001年のインドでの大地震の際に日本人が行った寄付は一人当たり0.87円であった事実を伝えて、それについてどう思うかと問いかけ、生徒に話し合わせます。

どの子も常に目的を持って活動し、かつそれらの活動はすべてつながりを持っています。ちなみにこれらの活動や説明は全て英語を通じて行われています。田尻さんも、生徒もです。生徒の英語は、少なくとも画面で見る限り、これが普通の公立中学校の二年生の英語だろうかと驚くほどに素晴らしいものです。また田尻さんの英語が素晴らしい。これはclassroom Englishという語彙制限のあるものでありながら、田尻さんの人格が直に伝わってくる実に人間的な英語です。これを語る田尻さんの表情がいいし、生徒の表情も柔らかく和やかです。「学校っていいな」と私は再び思ってしまいました。

次のチャプターは「海外取材で自主教材を作る」です。田尻さんがアメリカの野球場で撮影したビデオをもとに生徒は英語で語ってゆきます。これはかつて野球少年であり、またおそらくは今でもそうである田尻さんだからこそ活きる教材であるように思います。英語教師は何より自分自身が英語文化を愛する人であってほしいと私は常々思っています。功利のためだけの英語教育はどこか歪んでしまうのではないかと警戒するからです。英語教師は生徒に示すことが出来る自らの英語文化の世界を持ちたいものだと思います。

続くチャプターは「修学旅行新聞」です。ここでも「つながり」に注目です。修学旅行体験、教科書のキーセンテンス、友達が書いた英語が結びつき、生徒は一人一人英語で修学旅行新聞を作ってゆきます。さらにその英文に教師の添削が入り、生徒はその英語を何度も何度も音読して、英語を自分のものにしてゆきます。そうして初めて生徒は他の友達と修学旅行について英語で語り合うわけです。どうぞ、一度見てすごいなあと思うだけではなく、何度も見て、この実践の底に流れる基本原理と具体的な仕掛けをよく考えてください。チャプター7です。

次の短い「生徒に選択させる」というチャプターの後が「BGMを使った授業」です。個人的には私はこの実践がこのディスクの一番の見所だと思っています。田尻さんはマザーグースのある一節(right branchingの関係節でどんどんと長くなってゆく文)をBGMにあわせて音読してゆきます。この時に指を鳴らしてリズムよく読む田尻さんの英語が素晴らしい。同業者としてほれぼれします。生徒が長い英文をリズムよく読めるようになると、田尻さんは読みのスピードを倍にします。このチャレンジに生徒がニコニコしながらとりくむところがまたいいです。田尻さんは英語と音楽の結びつきを強調しますが、これは私も同感です。リズムの感覚は文体感覚を育てます。私も学生の卒業論文を添削する時に、このリズム=文体感覚のない英語には閉口します。読みにくいしわかりにくいからです。わかりやすい英語を話し、書くためにもリズム感覚は必要だと思います。

と、私は「いい授業だなあ」と笑顔でこの実践を見ていましたが、生徒が放課後に個人練習しているパフォーマンスを見ると、顔色が変わるぐらい驚いてしまいました。生徒は数枚の絵を見ながら自作の長い英文(関係節で連結されている)を、リズムに乗せて語る練習をしているのですが、その英文の質といい、発音といい、おそろしく高度なものだったからです。これは凄い実践です。このチャプター9はお勧めです。

最後のチャプターは再びの「海外取材で自主教材をつくる」です。生徒はナイヤガラの滝の映像を見ながら自作スキットを実演してゆきます。「中学生は三年間で大きく変化します。それぞれのステージで輝けるようにしたいものです」という田尻さんの言葉が印象的でした。

北原延晃さんの実践は絵を見てそれを英語で表現するPicture describing。久保野さんの実践は、生徒の学力が非常に高いことがよくわかるスピーチ。菅さんの実践は、これまた関西の高度な笑いの文化と高度な知性が感じられる「英語で漫才」、「ドラマ」です。

これらの実践には生徒への愛が感じられますが、これに関しては菅さんの好きな言葉「英語教師、『英語、英語』と言うなかれ。愛がなくてはただのエゴ」という言葉が痛烈です(ちなみに、これはEIGOからIを除けばEGOになるという言葉遊びともなっています)。(確かな技術に支えられた)生徒への人格的な関わりこそがこのDVDの最大のテーマなのかもしれません。

中嶋さんの実践の一つ目はコンピュータ室での実践です。中嶋さんは、生徒の英語スピーチを聞く、感想をコンピュータに打ち込む、それをLANで読む、という活動を結びつけます。一年生の三学期に三時間使って全員がブラインド・タッチをできるようにしたという事実だけでも驚きですが、これは卒業時に英語文集を作成させるための布石(タイピング技能習得によって、各種活動の時間を短縮を図る)ともなっていると知って私は二度驚きました。また生徒のスピーチ・プレゼンテーションも素晴らしいものです。

二つ目の実践は「私の授業を変えたグローバル教育」です。中嶋さんはカナダでの二週間のグローバル教育セミナーが「私の授業を根底から変えた」と言います。グローバル教育といった姿勢は「総合的な学習の時間」に重なりますが、ここでの中嶋さんの「教科で培った力が本物なら子どもたちは『総合』の様々な場面で自ずと問題解決学習を始めるようになります」という言葉が非常に説得的でした。

以上が下巻の一枚目の紹介です。上巻が「文法的能力」(grammatical competence)の育成を主眼においたものとすれば、下巻は(私の用語では)「語用論的対応力」(pragmatic capacity)の育成をねらった実践の紹介となっています。すばらしいDVDです。ぜひご覧下さい。

(二枚目の紹介に続く)


菅正隆/北原延晃/久保野雅史/田尻悟郎/中嶋洋一/蒔田守『どの子も英語が好きになりたい 6-way Street 何を教えて何を学ぶのか(DVD上巻)』(バンブルビー&メディアコム 4800円)(その2)(2003/6/14)

二枚目は一枚目にもまして非常に見ごたえのあるDVDでした。中高の全英語教員に、ぜひこのDVDを見てほしいと思います。そして見て「すごい」とか表面的な感想を述べるのではなく、こんなことができるためには教師の自分に何が必要なのだろう、生徒に何を集中して指導すればいいのだろう、と深く考えて欲しいです。そうすれば日本の英語教育は確実に変わります。これはDVDを見た直後の私の興奮した感想に過ぎないかもしれませんが、このDVDをじっくり見て考えて、そして話し合う時間を全国の英語教員が持てたら、日本の英語教育の流れは確実にも変わると思います。

このDVDを見る機会があれば、まず一枚目の「読む・書く活動の指導と評価(1)」の北原さんの実践から、この二枚目の「読む・書く活動の指導と評価(2)」の久保野さんと蒔田さんの実践を見せるでしょうか。確かに一枚目の中嶋さんと蒔田さんの「聞く・話す活動の指導と評価」の実践は素晴らしいのですが、ある意味名人芸過ぎて、これを見た英語教師の中には「よし私もこうやってみよう」と思わずに「私はとてもこんなことできない」と思う人も出てくると思うからです。その点この「読む・書く活動の指導と評価(1)(2)」の実践は教科書を使った平常の授業・およびその延長線上にあるため、「これなら私でもひょっとしたらできるかも」と思ってもらえると私は考えます。

さてその久保野さんの「読む・書く活動の指導と評価(2)」実践ですが、最初は高校のライティングの授業です。高校のライティングの授業となると、生徒は下を向いて、英語の音などほとんど聞こえないというのがよくみる光景ですが、この授業は「ライティング」とはいえ、どんどんと音が聞こえてきます。そして生徒は確実に書けるようになってゆきます。考えてみれば「ライティング」の授業は書けるようになることが目的なのであって、別にその目的に到達するまでの学習過程においてすべて教師と生徒が書いてばかりでしかいけないわけではありません。書けることという結果にいたるためには、徹底的に音を聞き・出すという過程を経なければならないというのが久保野さんの基本的考えです。「言えないことは書けない」と久保野さんは言います。私たちは結果と過程を混同してはいけません。

でその久保野さんのライティングの授業光景(高校一年生)は、「鉛筆を持たせない」指導を徹底しているところから始まります。文法・文型を定着させる時に声を出させるためには、まず鉛筆を手に持つことを禁じて、声を出すことに集中させることが重要と久保野さんは考えています。そうして例文が正しく言えるようになってはじめて久保野さんは生徒に鉛筆を取らせて書かせます。

別の高校一年生のライティング授業はRead and Look upを実践しています。この場合のRead and Look upのReadは生徒による教科書の黙読、Look upは教師の'Look up'のかけ声と共に生徒が教科書から顔を上げ、今まで黙読していた英文を暗唱するやり方です。これを一文ごとにどんどん連続してゆきます。文法指導の授業とは思えないぐらいに声が出ます。声が出るということは、生徒がこの活動に意味と意義を見出し集中しているということです。「受験英語があるから高校では音声は扱えない」などという声も時に聞かれますが、そう思う方はどうぞこの実践をごらんください。

次はrecitation(暗唱)です。生徒は英文をチャンクごとに改行したプリントをもらい、それをもとにRead and Look upします。細かく改行したプリントにより、生徒は顔を上げ下げしても視線が不必要にさまようことなく活動に集中できます。次に教師はその英文のキーワードだけを書いた紙を黒板に貼ります。生徒は自然に前にある紙を見ますから、姿勢が起きて顔が上がります。このように生徒の姿勢を自然にコントロールすることも声を出させるためには重要なことです。そうして生徒はどんどん暗唱できるようになってゆきます。

そうして暗唱ができるようになって、久保野さんははじめて書くこと、ここでは暗写をやらせます。徹底して生徒に音が確立してから、はじめて文字を書くことに移るわけです。この考え方は終始一貫している重要な指導方針です。その暗写も久保野さんはプリントの裏に欠かせます。そのわけは、そうしますと暗写の結果が正しかったかどうかをチェックする際に生徒はプリントをいちいちひっくりかえさなければならず、その度ごとに生徒は英文をワーキングメモリーに記憶させなければならないからです。チェックまでもが高度な練習になっている例です(ですから逆に言いますと、もし生徒の学力が十分でなければ、暗写は別の紙にさせて、原文と暗写文を横で比べさせるほうがいいということになります)。

以下、DVDは中学高校の各学年による暗唱などのパフォーマンスが映されますが、ここでは中学校一年生のピクチャーカードやオーディエンスを見ながらの教科書暗唱が非常に印象的でした。とにかく教科書の暗唱をしている生徒がとても楽しそうなのです。暗唱といえばしばしば苦行のように思われているのでこれは一種の驚きです。またこれは後の蒔田さんの実践でも強調されますが、「話すこと」の重要な一側面は「どう聞き手を見つめ、目を合わせるか」というアイコンタクトと呼ばれるフィードバックを得ることです。久保野さんでも小さな工夫でこのアイコンタクトを指導していました。また最後の画面は中学一年生の発音テストでした。発音テストといっても生徒が発音するのはいくつかの英単語だけです。ですがこれだけの課題でも立派なテストになります。十分な指導と評価が必要な課題なのです。よく中学一年生を担当した新人教師は「中学一年生ですから内容がないので、何を指導し何を評価すればいいかわかりません」などと正直な感想を述べますが、この単語認知と発音といった課題は、後々の英語学習の土台となる重要かつ学習者にとっては決して容易でない課題なのです。十分な指導と評価が必要だと思わされました。

 

さて次は蒔田さんの「読む・書く活動の指導と評価」です。最初は中学一年生への授業(リズム音読)ですが、蒔田さんも久保野さんと同じようにまずは音を確立させてから文字を導入します。蒔田さんは口頭導入・練習で、最初にしっかりと音と意味を結びつけておきます。そうして音と意味が生徒のものになった時点で、蒔田さんは一語ずつ英単語を黒板に書いてゆきます。蒔田さんの字幕解説によると、この時生徒は既習語とphonicsの知識を利用して黒板に書かれた英単語をかなり読めるそうです。

新出単語の指導でよくあるのは、いきなり生徒にフラッシュカードを見せて初めての視覚刺激(スペリング)とはじめての聴覚刺激(発音)を同時に提示して、なおかつそのフラッシュカードをすぐに反転させ視覚刺激と聴覚刺激を消して、「意味」としての日本語の訳語----しかしこの「意味」とは、連合記憶されるべき別刺激にすぎず、学習者に納得体感されている意味とはなっていません!----が視覚刺激として与えられるというものですが、この活動はこうして考えてみますと、新しい三種類の刺激を極めて短時間のうちに提示して、それが定着することを期待するおそろしく高度な活動です。新出単語の指導といった「簡単に思える」課題も、しっかりとその課題を分析した上で課題を下位課題に分割し、順序正しく指導する必要があることが痛感させられます。

次に蒔田さんはリズム・ボックスを使って、リズムに合わせて教科書の英文をリピートさせます。このリズム・ボックスは非常に効果があるようです。使いこなす教師にもある程度の力量がいりますが、うまく使うと生徒の発音に心地よいテンポがうまれ、生徒の英語が心地よく英語らしく聞こえるものとなります(comfortably intelligent)。そうしてリズム・ボックスを使いながら蒔田さんは(1)教師のモデル発音に続いての生徒全員の発音、(2)モデル発音を聞くことなしの生徒全員の発音、(3)モデル発音を聞くことなしの生徒個人の発音、と活動を変化させてゆきます。その活動を変える目的の一つは生徒のパフォーマンスをチェックし、本当に生徒がリピートできるようになっているかどうかを確かめることでしょうが、実際生徒の声を聞いているとやはり蒔田さんのモデルが示されている(1)の時が一番よいパフォーマンスとなっています。初級者に産出(production)させるときは、やはり直前にモデルを示して再生(reproduction)させる形にすることが重要だと思わされました。

こうして徹底的に音声を確立させて蒔田さんははじめて教科書を開かせます。音ができるまでは文字を見せないわけです。今度の活動の手順は(1)テープの範読を聞かせる、(2)教師モデル発音の後にリピートさせる(生徒は開本しているが、本は立てることを指示されているため、生徒の顔は下ではなく前方を向き、発声しやすい姿勢を保っている)、(3)教師が必要に応じて音の変化(音法)に関する指導をする(DVDで見られるのはat sixの破裂音(/t/)+摩擦音(/s/)の連続による破裂音の消去)、(4)リズムに合わせてのリピート音読(リズム・ボックスにつられて自然とスピードとビートが出る)、(5)モデルなしに生徒に独力で音読させてみる、(6)モデルなしに生徒に個人で音読させてみる、(6)教科書の内容に合ったBGM(DVDでは「古畑任三郎」!)に合わせての音読、(7)立てられた開本をヒントとして見ることが許された状態での暗唱、というものでした。ここでも「とにかく何度も音読しなさい」というのではなく、音読を分析して、様々の観点から順序立てて指導しています。

次の実践は中学二年生を対象にした「リズム音読からBGM読みへ」です。テキストはある英語の絵本を使っています。まずはリズムボックスを使って蒔田さんがテキストを「リズム音読」(リズムを意識した音読)しますが、このパフォーマンスが素晴らしい。このようにリズムよくテンポよく、明瞭に音読する力は、例えばビジネスマンや科学者あるいはジャーナリストには必ずしも要求されない英語力かもしれませんが、英語教師にとっては非常に大切なものです(必須なものといっていいのかもしれません)。最近は各種英語資格試験成績で英語教師の英語力を担保しようという動きも見られますが、英語教師固有の英語力というのはあるのだと改めて思わされました。

さて授業に戻りますと、リズム音読を生徒もやったあと、蒔田さんは生徒にペアをつくらせ、BGMを流し始めます。ここで初めてBGMに合わせてテキストを読むことを求めているわけです。「ここでは選曲が決め手です。曲は日頃からストックしておきます」と蒔田さんは字幕で解説します。そうして最初に女子生徒二人がBGM読みを行いますが、このパフォーマンスは素晴らしいものです。ここで蒔田さんは、「聞き手の表情が読み聞かせを支えています」といった解説を字幕で加えます。この気づきが素晴らしい。確かにカメラはBGM読みする生徒を食い入るように見つめる他の生徒の視線も写しています。スピーチをよくやる人間なら気づいているように、聞き手の表情というのは、スピーチの出来不出来をもっとも確実にかつ即座に示す指標です。よい話し手は聞き手の表情の変化を大切にして話します。話し手の意識は、自らのスピーチの表現形式や表現内容ではなく、聞き手の理解に向けられているわけです。もちろんそこにいたるまでは、話し手は意識を表現内容に向けて原稿を推敲する時期、表現形式に向けて滑舌を訓練する時期などを経なければなりません。しかし最終到達目的は、聞き手との全身を通じてのコミュニケーションなのです。こういった指導をする蒔田さんは、ご自分自身が優れたコミュニケーターであるのだなということがよくわかるDVDです。

蒔田さんの続いての実践はReading Showです。これは夏休み明けに行ったもので、生徒が夏休みに練習してきた夏休みの音読の成果を皆の前で披露するものです。音読は教科書をリレー形式で次々に引き継いで音読する形式になっています。つまり次の人は、前の人が読み終えた直後の英文から読み始めるわけです。生徒の交代はタイマーにより機械的に一定時間で交代するようになっています。

ここでの蒔田さんの指導ポイントは「顔を上げて音読せよ」、「英語を聞き取りたければ音声変化や強弱を自覚して音読せよ」、「結果として覚えてしまうほど読み込め」などです。

その結果の生徒のパフォーマンスは素晴らしいものです。生徒は教科書に視線を落とす時間が少なくなったと蒔田さんは観察します。つまり生徒は視線を落とした一瞬の時間で多くの単語を認知し、かつそれをワーキングメモリーに貯え、それを顔を上げて再生することができるようになっているわけです。この能力は速読などに活きてゆくと蒔田さんは解説しますが、まったくその通りです。いや速読に限らず、多くの英語使用に関わる基礎的な能力であるといえるでしょう。

こうして生徒の下位構成的な能力が十分に育っていますから、生徒はもっと上位の課題に取り組むことができます。それは蒔田さんの言葉を借りるなら「意味の立ち上がるような音読」です。何人かの生徒は、明らかに<音>ではなく<声>を出しています。彼/彼女らのパフォーマンスは単なる英語活字の音声化ではなく、内容をよくつかみその理解を聞き手に伝わるように心と身体を自然に調和させて全心身で表現しています。スピードやポーズも適切なので聞いていて意味がよくわかります。おそらくこのスピードやポーズあるいは表情のとり方などは、生徒が自らの内から自然に会得したものだと思います。教えられたとおりにやる時に見られる不自然さがここにはありません。このパフォーマンスは機械的な要素の徹底的な訓練を経た上で、生徒が内的な理解から自然に表出したものではないかと私は考えます。このような生徒の口から出る出力はもはや<声>と呼びたいものです。単なる<音>とは呼びたくありません。<音>から<声>へと質的な変化が生じているのです。<音>の指導でなく、<声>の指導までもができている蒔田実践は本当に素晴らしいものだと思います。正直申しまして自ら英語で<声>を出すことができない英語教師も少なくない現状では、多くの英語教師が蒔田さんのような人の英語を何度も何度も見聞きしてできるだけ体得できるように努めることが重要ではないでしょうか(この<音>と<声>に関しては大修館書店の『英語教育』2003年10月号の「英語時評」でもう少し詳しく書けないかと今計画しているところです)。

このReading Showの後は、中学生への短い実践報告が続きます。"Oh, it's beautiful."という英語を、どう(わざとらしくなく)感情深く表現させるか(音読指導)、どう立ち位置や視線をコントロールするか(Act outの指導)などの実践が続いた後、中学二年生の劇指導が報告されますが、ここでダミ声で演じる男の子がすごい。演技を楽しんでいて、かつパフォーマンスが自然で、私は正直驚きました。続いては一年生のAct outで、生徒は教科書の本文を基にしながらも自分でそれをすこし作り変えて「オチ」をつけることを行います。二年生ではそれがさらに発展し、「ニュースショー」で、生徒がテレビのニュースキャスターになったつもりでレポート番組を創作し、それを(もちろん)英語で演じます。ですが、これはモデルのないまったくの創作英語であるせいか、生徒のリズムとイントネーションが日本語風になっています。もちろんだから悪いとはならないのですが、リズムやイントネーションが、自らの創造的な言語使用においても自然に表出するぐらいに身体化するというのは容易なことではないということが改めてわかりました。最後の二年生の授業はスキットをつくる実践で、生徒は授業時間内にスキットを作って演じることを求められます。ここで見られる生徒のユーモアは素晴らしい。私は思わず声を出して笑ってしまいました。

最初に述べましたようにこのDVD上巻一枚目の北原さんから、二枚目の久保野さん、蒔田さんと続く「読む・書く活動の指導と評価(1)(2)」は学校英語教師必見です。

 

次のセクションは「Show and Tellの指導と評価」です。

最初は蒔田さんの実践です。蒔田さんの勤務校では昔からShow and Tellがなされていました。しかしそれはperformerができるだけ完璧な準備をして、いかに発表でその準備を正確に再現できるかといった聞き手不在のものでした。そこでの聞き手とはせいぜい話し手をあがらせるだけの他人に過ぎず、聞き手が理解し共感するかどうかというのはあまり問題ではなかったわけです(そのような英語のプレゼンテーションは読者の皆さんもよく経験していることでしょう)。そこで蒔田さんは次の三つの指導方針をたてました。(1)「よい英語というのは相手に伝わる英語である」と宣言しそれを徹底する(Show and Tellの英語も、みんなが習った表現だけに限り、和英などで調べた他人が知らない表現は使うことを禁ずる)、(2)キーワードだけを覚えさせて語らせるようにする(暗唱テストではないので、暗記した英文を搾り出すように再生することをさせないようにする)、(3)Show and Tellをやったら終わりにするのではなく、事後指導を重視する(生徒にもShow and Tellの後にQ&Aの時間を持たせてfeedbackの機会を設ける)。

こうした指導の下での中学生のパフォーマンスは素晴らしいものです。リズムとイントネーションが自然で、内容が話し手にとってよそよそしいものではなく、自分にとって大切なことであることが、よく聞き手にもわかります。話し手の表現は自然で柔らかいものです。私も思わず語りにひきこまれてしまいました。私の意識からは英語が消えていました。私は「言語材料としての英語」ではなく、ある「人の語り」を聞いていました。このようなパフォーマンスを可能にさせているのは上の方針に基づいて指導し、できるだけ多く発表する体験を持たせ、クラス全員で学ぶ「真剣で温かい」雰囲気を作ることだと蒔田さんは説明します。ちなみにこの「真剣」という言葉や「温かさ」という言葉は桜井章一さんが『強さの奥義―雀鬼流・人生道場』(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4413033868/qid=1055468105/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/249-4014910-2667518 )などの本でキーワードとしてよく使う言葉です。桜井さんによると「真剣」とは、単なる「熱心さ」と違い、「温かさ」とは、うわべだけでつくろうことができる「優しさ」とは異なります・・・・、と桜井章一さんのことを語り始めるときりがありませんので、ここでは話をDVDに戻します。

蒔田さんのShow and Tell実践の次のパフォーマンスは女子生徒による「テクマクマヤコン」です。「ひみつのアッコちゃん」というアニメをご存知の方ならわかるように、この生徒はコンパクトを出してアッコちゃんのように「テクマクマヤコン」と言います。しかしそのあたりのアッコちゃんに成りきった彼女の声の変化が素晴らしいです。ここでは<音>が<声>に変わっているだけでなく、複数の<声>を使い分けているわけです。これは相当に高度な力を要求するパフォーマンスだと思います。英語で表情を出すには自分の身体と自分の人格ではどのようにすればいいのかを体得することが<声>を育てることなのですが、彼女の場合はそれを、自分の身体で別の人格(ここではアッコちゃん)を表現できるようになっているわけです。「要は英語でも物真似ができるということでしょう」という冷ややかなコメントも聞こえてきそうですが、いわゆる物真似芸にはしばしば創造性が入っていることにはお気づきでしょうか。高度な物真似芸は、ただ単に別の人の真似をするだけでなく、真似をした上で、もしその人がある状況におかれたらどのような声・表情・身振りをするだろうかというのを想像しそれを表現する芸なのです。端的に聞きますが、あなたは英語で他人の物真似ができますか。老婆の真似、傲慢な官僚の真似、腰ぎんちゃくの中年男の真似・・・・。私は外国語で物真似ができるということは非常に高度な言語使用力だと思うのですがいかがでしょう。

再度話を戻しますと、蒔田さんはこのShow and Tellは単に英語の学習であるということを超えた活動であるとまとめます。発表する生徒にとっては自分探しの旅となります。その生徒を援助する教師にとっては生徒理解になります。発表を聞きくクラスにとっては相互理解の機会、一種の「学級会」となります。しかもすごいのがそれらすべてが英語使用という手段によって行われるということです。ここでの主役は人格です。英語は手段です。これはまごうことなき「英語による教育」です。

次は中嶋さんのShow and Tell実践です。中嶋さんはいくつかのポイントを伝えます。一つ目は「論理性を鍛える」ということ。DVDでは理由の順番だった提示を指導しています。二つ目は「視線」。中嶋さんは生徒に、クラス全体を右→真ん中→左のようにまんべんなく見るように指導します。こういったアイコンタクトのための視線移動は慣れれば自然に、おそらくは聞き手の視線に気づいて直観的にすっとできるのでしょうが、初心者はなかなかそれができません(というより聞き手を見ることができないことすら多いです)。初心者にとってはこのような指導は不可欠といえましょう。ポイントの三つ目は「プレゼンテーション」です。中嶋さんは発表者にstory tellerとして間を取ること、緩急・強弱の変化をつけること、小道具を効果的に使うことなどを指導します。またこのとき中嶋さんは「しかし、声の大きさ・アイコンタクト・発音だけに注目して評価させるようにすると、内容におろそかになってしまうことも多いので、聞き手は聞き終えたら発表に対して自分の意見を英語で書くように指導する」とも字幕で解説していました。これも非常に重要な実践上の指針です。

次は菅さんのShow and Tell実践ですが、ここで菅さんは高校では入学時に人前で大きな(聞こえる)声で発表させることの大切さを強調します。この習慣がつくと三年間の授業がスムーズに運ぶといいます。これも重要な実践指針です。

久保野さんのShow and Tell実践は中学三年生によるパフォーマンスです。中学三年生でこれだけできるとはすごいと思わせるパフォーマンスです。話題はオリンピックや海賊の話で、難しい単語はやさしい英語で言い換える指導を久保野さんはしていました。つづいて久保野さんの「音読から暗唱へ」に移ります。ここで久保野さんは黒板のキーワードを示しながら生徒に英語をすべて暗唱させます。ここで当たり前のことを言っておきますと、このような英語授業が可能になるためには、何よりも英語教師がテキストをすべて覚えておくこと、そして覚えているだけでなく、それを明瞭かつ正確にいつでもどこからでも再生できることが必要となります。もちろん高校ぐらいになるとテキストすべてを再生というのも教師にとって難しくなるかもしれませんが、それでも教科書の概要を(Oral Introductionをするように)再生できることは必要です。こういった英語の再生能力も英語教師の英語力の重要な要素です。そうして音読から暗唱を経て、久保野さんは生徒個人に、みんなの前で、教科書の内容についてShow and Tellを行わせますが、これも素晴らしい。段階づけて確実に指導してゆけばここまで到達できるのかと感心します。

次は田尻悟郎さんのShow and Tellです。生徒は地方の普通の公立中学の三年生です。タイトルはMy Treasure。生徒が自分にとって大切なことを語ってゆきます。

最初の生徒は女子生徒です。彼女は帰国子女でもなんでもなく、ただ「自学帳」( http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-keywords=%E7%94%B0%E5%B0%BB%E6%82%9F%E9%83%8E&bq=1/ref=sr_aps_all_b/249-4014910-2667518 を参照)でこつこつと(三年間で2268ページ!)努力を重ねた生徒だそうです。ですが、このパフォーマンスが素晴らしい。誰か他の人に作られたパフォーマンスではなく、彼女自身の中から何かがにじみでているパフォーマンスになっています。

次はサッカーに関する男子生徒の明るく楽しいShow and Tellです。私がここで感心したのは、このように生徒が感情豊かに表現しても、リズム・イントネーション・アーティキュレーションが乱れず、英語が非常に聞きやすかったということです。通常、初心者に英語で感情を込めて英語を話すように言うと、かろうじて身についていた英語のリズム・イントネーション・アーティキュレーションが飛んでしまい、ほとんど日本語風になってしまうので、正直非常にわかりにくい英語になってしまいがちです。でも彼はそこがくずれなかった。これは日頃の訓練のたまものだと思います。そういった英語を通じて伝えられる彼の話は見ていて面白くクラス全員(田尻さんも含めて)大爆笑でした。私も見ていて笑うと共に「いいクラスだなあ。いい学校だなあ」としみじみ思いました。日頃は真剣に温かくお互いを高めあっていて、時にはこのように羽目を外せる。しかもそれが学習の成果に基づいているというのですから、これは本当にいい学校です。

最後の生徒はしみじみと自分がひそかに通っていたスイミングスクールについて、そして自分にとってのこのクラスについて語ります。気づいたらまた英語が消えていました。正直、彼の英語には日本語風な所が残り、言語形式に関わる英語教師としてはそういったことを気にしなければならないのかもしれませんが、そういったことは私の意識からすっぽりと抜けていました。クラスの仲間も聞き入っています。これは三年生最後の授業だったそうです。その最後の授業で英語がクラスの仲間を結びつける媒体となりました。終わった後に泣いている生徒もいました。正直私も感動しました。これは単に優れた「一流」の実践ではなく、何かがどこかで突き抜けた「超一流」の実践といっていいと思います。この11分間の映像は学校英語教育界にとっての宝だと思います。

北原さんのShow and Tell実践は、生徒に一対一でALTにShow and Tellをさせるものでした。二分間対話できれば合格という、いわばinteractive Show and Tellとなっています。ALTはそれなりに自然なスピードで質問したりとinteractしていますが、生徒はかなり対応しています。これも私は自然に聞き入ってしまいました。

聞き入った一つの要因は、My Treasureという表現内容にあるのかもしれません。話し手が自分にとって本当に大切なことを語ろうとするから、表現が自然と真摯なものになり、その真摯さが、いくつかの言語形式的不備を忘れさせるコミュニケーションを可能にしているのかもしれません。このように私はこの数々のShow and Tell実践で、何度も聞き入ってしまいました。中高生の英語に、私が英語形式を指導する英語教師としてではなく、英語を使う一人の人間として聞き入ってしまったわけです。これは生徒による素晴らしいコミュニケーションとはいえませんでしょうか。

 

最後のセクションはおまけとしての「下巻予告」で、下巻に収録されているインタビューの一部が紹介されましたが、これは爆笑もので私は声を出して笑ってしまいました。ここでの田尻さんについてはいろいろと書きたいのですが、あせらず下巻を見てからゆっくり書こうかと思っています。

 

このようにこの菅正隆/北原延晃/久保野雅史/田尻悟郎/中嶋洋一/蒔田守『どの子も英語が好きになりたい 6-way Street 何を教えて何を学ぶのか(DVD上巻)』(バンブルビー&メディアコム 4800円)は素晴らしい作品です。ぜひお買い求めください(http://www.nakama.tv/index.cgi もしくは http://www.bumblebee.jp/order.html を参照)。私がこのような台詞を言うとかえって安っぽく聞こえるかもしれないので、私はもうこの表現を使うまいと思っていたのですが、やはりこの作品についてはこう言います。「素晴らしい作品です。つまらないと思ったら私のところに現品を郵送してください。代金は私がお返しします」。


菅正隆/北原延晃/久保野雅史/田尻悟郎/中嶋洋一/蒔田守『どの子も英語が好きになりたい 6-way Street 何を教えて何を学ぶのか(DVD上巻)』(バンブルビー&メディアコム 4800円)(その1)(2003/6/8)

日本を代表する、といってもいい中高校英語教師6人が、ビデオ録画していた自らの授業実践を公開し、それに字幕などで解説を加えたDVDが出版されました。上巻はDVD二枚組で計240分収録され、この価格です。従来、授業実践というのはなかなか公開されませんでした。公開されたとしても距離的、時間的になかなかそれを見学できません。見学できたとしても、それは参加者の記憶の中に残るだけで、何度も見て検討し討議することは不可能でした。そうしてみるとこのDVDの発売は夢のようです。こういった商品がこういった良心的な価格で販売されるということは、それだけこういった実践を支持し大切に思う英語教師が多いこと、そして何よりこの6人のような英語教師が自ら機会を作り出して新しい世界を切り開いているということの現れです。何かと批判ばかりされる学校英語教育ですが、このDVDのようなプロジェクトが現実のものになることは学校英語教師の底力を示しているように思えます。

このDVDの背景や著者に関してはhttp://www.nakama.tv/index.cgiに詳しいので、ここでは私がこのDVDを見て感じたことを書きます。今回は上巻の一枚目についてのみです。

「解説」では中嶋さんが、このDVDを通じて訴えたいことを述べています。現在の多くの授業が「評価のため(だけ)の授業」になっていないか、教師の関心が「ハウツーばかり」になっていないか、というのが中嶋さんの懸念です。確かに文部科学省のいわゆる「絶対評価」の導入に伴う混乱から、多くの教師が評価項目の点検にばかり追われてしまい、肝心の目の前の生徒の指導に思うほど時間が割けなくなってきているという声は方々で聞かれます。あるいは各種研修会に熱心に参加する教師の授業が、新しく覚えた指導方法・活動(ハウツー)の寄せ集めとなってしまっており、その時間、その学期で何を目指しているのかがわからない実践になってしまっていることもよくあることです。中嶋さんはこの個性豊かな6人の実践の裏にある考え方を知って欲しいと述べます。

中嶋さんの解説によると、6人の共通点は(1)「自分らしさ」を大切にし、授業を心から楽しんでいる、(2)「学習者の立場」で考えている、(3)「プロジェクト(統合型の共同学習)」を大切にしている、ということになります。ですが、この他にもこのDVDを見ていくうちに共通の原理が次々に明らかになっていくのではないかと、私はまだ上巻を見ただけのこの段階でも予感できます。いや、6人がこのDVDという聖火を灯し、私たちのところまで運んできたのですから、私たちにとっては、この聖火を受け継ぎ、このDVDの記録が持っている可能性を掘り起こすことが使命だといえるでしょう。私のこのHPの紹介文はとてもその使命を十分に果たしているものではありませんが、まずは速報として皆さんに紹介をするものです。

話を中嶋さんの解説にもどしますと、授業は(a)4技能の基礎トレーニング、(b)表現内容、(c)言語形式(言語材料)、(d)表現意欲という観点から構成され、それが繰り返されることにより雪だるまのように学習者の力がついてゆくことを目指します。それは「ただ与えられた教科書を順番通りにこなしてゆくだけ」の授業とは全く無縁で、最初に3年間でどんな子に育ってほしいか、何ができるようになっていてほしいか、を明確にイメージし、その目的を達成するため、この年度、学期、月、週、授業で何をするべきかを計画するというのが中嶋さんたちのやり方です(Backward design)。

考えてみれば、このような目的合理的なやり方というのは他の分野ではきわめて当り前のことですが、これまでの英語授業では、ただ決められた事を今までと同じやり方でこなしてみて、それでできるようにならなければ学習者の才能・努力不足のせいにするという発想があまりにも多かったように思えます。もちろん目的合理性という考え方にも注意が必要で、あらゆることは予め計画でき、それを確実に実行することがよい実践だというのも明らかに歪んだ発想ですが(アクション・リサーチの考え方やショーンの論考などを思い起こしてください。実践者は予想外の進展に柔軟に対応できることが重要です)、それにしてもある程度の見通しと計画が必要なことは論をまたないでしょう。そしてこのある程度の見通しと計画というのは、しばしば見られるような「何月に何課をやって、次の月に次の課をやって」といった考えなしに形式的・自動的に作成される文書ではなく、教師の今までの経験や見聞から想像力を働かせて、目の前の学習者の未来の姿をイメージし、目的を達成するための合理的な方針を見い出し、現実的な日程を立てるということです。このbackward designの考え方も、官僚的な計画案の作成などとは無縁なものです。

さて実践の紹介に移ってゆきましょう。最初は「聞く・話す活動の指導と評価」です。ここでは中嶋さんと蒔田さんの実践に注目したいと思います。

中嶋さんの最初の実践は中学二年生へのリスニング指導です。ALTの自然なスピードの英語に中学二年生は対応しており、まずはこれだけで多くの人には驚きだと思いますが、この「マジック」を可能にしている大きな要因の一つが、リスニングを「ただ何度も聞かせるだけ」の活動とせずに、実に細かな仕掛けとフィードバックを入れている中嶋さんの工夫にあることはDVDを見ているうちによくわかります。

すべては基礎トレーニングあってのことでしょうが、中嶋さんはいわゆる「リスニング」を分析して、細かく具体的な活動で様々な角度・難易度からリスニング可能にさせるように仕向けます。最初はALTがとにかく自然なスピードでプレゼンテーションするのですが、中嶋さんはALTの英語が少しでもわかりにくいと見るや、うまく英語で問いかけや解説を入れてあげます。ALTに反応を求められて生徒が困惑していたら、付け足すように英語を補ってあげて発話を促します。そうして生徒が英語をある程度聞き終えたら、その英語の内容をどの子にも確かなものにするためにペアで(日本語で)チェックさせます。さらにはその確認された内容を再び英語表現につなげるために、その英語を文やチャンクごとにリピートさせ、最後に通して聞かせます。中嶋さんの凄いところはここで終わりにしてしまうのではなく、ここまで全員のレベルを上げた上で、さらに先ほどまでの英語に新たな情報を追加した英語をALTに語ってもらい、その新情報を聞きとらせかつペアでチェックさせるところです。

こういった活動を、もし分割せずに、最後の段階の英語(最終目標)を最初から何度も聞かせてゆけばどうなるでしょうか。「頑張って何度も聞けば、そのうちにわかるようになる」というわけです。しかしそのような粗野な根性論的アプローチは、ある程度の才能と実力を持っている学習者には有効かもしれませんが、どこかでつまずいてしまっている学習者にはいたずらに挫折感を植え付けるだけに終わると私は考えます。中嶋さんのいうbackward designは根性だけを強調する工夫なしのアプローチとはまったく異なるものです。

中学校三年生への実践はスピーチ(show and tell)です。ごく普通の公立中学校の生徒が次々に英語で自己表現をしてゆきます。Eye contactやbody languageも少々ぎこちないとはいえ、きちんと行っています。こういったparalinguisticなコミュニケーションは現実世界では重要であるにもかかわらず、学校教育では案外どこでも指導されていないだけに、私はこの中学生のパフォーマンスに注目してしまいました。確かにparalinguisticあるいはnon-verbalなコミュニケーションというのは、狭義の「言語」からは離れるものです。英語教師が「言語」の教師なのなら、こういった周辺的な要素は扱わないというのも一つの態度でしょう。ただ誰が英語教師を(そのような狭い意味での)「言語」の教師と定めたのですか。またそう定められているとして、その根拠は何ですか。パフォーマンス的な側面は、現状では全く無視されたり冷笑されたりするか、逆に妙にそればかりが強調されたりするかと、両極端にぶれることが多いと私は考えていますので、ここでも私たちは適切な目標設定と指導方針の発見を行ってゆかなければならないと思いました。

話を中嶋さんの実践にもどしますと、ここでは中嶋さんの実践のもう一つの特徴である、活動が有機的に連関していることがよくわかります。A,B,C...と次々に活動が続いても、それらの活動は決して単発に行われるだけのものではありません。「ハウツー」ばかりにしか目がいっていない教師の授業は、この点が悪く、次々に多彩な活動が展開されるものの、それらのつながりがわからず、傍目から見ても、それだけ多くの活動をなぜ展開しなければならないのかがよくわかりません。生徒もとにかく指示に従っていろいろな活動は行ったが、一連の指導を通じてどんな力がついたかわからず、彼/彼女らからは「英語の授業はゲームばかりで楽しいよ」といった感想だけしか聞かれなくなります。中嶋さんのshow and tellでは発表場面だけ取り上げても、「発表してそれで終わり」ではなく、発表を聞く生徒はキーワード法やマッピング法といったやり方でメモを取り、show and tellを4-5人分聞いたところで、それらの内容をペアで確認しかつ英語でreproduceすることを試みます。「後でoutputをするという意識がinputの質を高める」というのがここで見られる考え方です。ここでも活動はただその順番で並べられているわけではありません。

蒔田さんの実践はWhat am I?(「20の扉」として知られているゲームで、適切な質問を通じて発表者が何(のふりをしているの)かを当てる言語コミュニケーション)の変遷をビデオを見せながら解説するものです。このゲームは96年に肥沼さんが蒔田さんの勤務校である筑波大学付属中学校にもたらしたものです。その肥沼さんの96年の実践と99年の実践をビデオで比較してみると、同じゲームなのにまったく違ったように見えます。99年の方が、BGMも入ったりと、よい意味でエンターテイメント的要素が入り、楽しい活動になっています。何よりも生徒の手がどんどんあがっているのが目につきます。

ただこのようなビデオを見て決して誤解してはいけないのは、この活動はいわばハイライトであり、この活動のために基礎トレーニングにはじまる多大な準備がほどこされているということです。このハイライト部分だけみて、「あのような遊びばかりでは力はつかない」とか「あれだけゲームで英語が使えるのはもともと学力があるからだ」と速断するのはどうぞおやめください。

ビデオは次に98年の蒔田さんのWhat am I?に移ります。ここで私にとって最も印象的だったのが、蒔田さんの英語使用がいわば「プロのしゃべり方」になっていたことです。英語の授業をオール・イングリッシュで進める教師はもはや珍しくありませんが、蒔田さんの英語は、ただ文法と発音に正確な英語を話しているだけのものではなく、相手に聞かれること、理解されること、見られることを明晰に意識した語りになっていました。よい司会者のような語り口といいましょうか、英語が完全に蒔田さんの人格の一部となり、蒔田さんの意識が英語の内部構造ではなく、聞き手に完全に向けられて、指示にせよ、合いの手にせよ、コメントにせよ、蒔田さんの表現のすべてが聞き手にとって最適なものとなるようにコントロールされていたものでした。もちろんコントロールされているといっても、それは見ためには極めて自然なもので、見る人によってはそれがあまりに自然すぎて、記憶に残るのは「よくわかった。面白かった」といったことだけになるのかもしれませんが、私はこれは自覚的な自己訓練のたまものではないかと思いました。このあたり蒔田さんにお話する機会があれば確かめてみたいと思います。このDVDをご覧になる皆さんもぜひ蒔田さんの英語の語りにご注目ください。そしてこのような英語の語りをぜひ自分のものにしましょう。

蒔田さんはこのゲームも、生徒や同僚との協力で少しずつ進化したものだと言います。BGMのドラゴン・クエストのテーマも生徒が持ってきたものだと言いますし、相互授業参観をしている同僚からの助言でルールを少しずつ英語学習のために役立つよう改善したりしたと言っています。優れた実践とは実践者一人の力でできるものではなく、学習者や周りの人とのコミュニケーションを取る中で育ってゆくものだということを再認識させられました。

蒔田さんのこのゲームの2000年の実践は、発表者の位置からの撮影によるものです。つまり画面にはゲームに参加している生徒の顔ばかりが写るものとなっているのですが、この映像からは生徒が楽しみながらどんどんと英語を使っている様子がよくわかりました。英語を使うといっても、ぎこちなくしぼりだすように習った単語を並べているのではなく、生徒の身体と表情が柔らかく、ゲームの進行の中で本当に自然に英語が表現されていました。少なくとも私がこれまで日本で見た学習者の英語発話の中で、これが最も自然で真正(authentic)な英語使用だったような気がします。

北原さん、久保野さん、菅さんの実践に関しては、私にとっては残念なことに生徒のパフォーマンスだけしか見えないものでした。しかし、北原さんに関しては、先ほども述べた非言語的なパフォーマンスの指導に関する取り組みが、久保野さんに関しては指導の段階性が、菅さんに関しては教師も生徒も徹底的に授業(のハイライト)を楽しむことが伝わってきました。これらの実践に関しては、もう少し字幕などで勤務校の事情といった背景情報が伝えられていたら、実践の持つ意味合いがもっとわかるのではないかと思いました。私は菅さんの実践に関しては、以前話を聞いたことがあったので、その背景も多少知っており、この実践のもつ意味合いも多少わかりますが、下手をすると菅さんの実践は「すごい行動力ですね」とか「大阪の人はやっぱり面白いですね」とかいったおざなりの言葉だけで片付けられてしまうのではないかと多少危惧してしまいました。

次のセクションは「読む・書く活動の指導と評価(1)」で、第一枚目には北原さんの実践が収録されています。私はこのDVDの一枚目に関しては、この実践がある意味最も実行しやすく、またいわゆる「コミュニケーション能力」以前の「英語学力」に直結しているだけに、その意義がわかりやすいものではないかと思いました。

その北原さんの実践を私なりの言葉でいささか強引にまとめるなら「基礎的入出力訓練」(Basic Input/Output Training)の徹底と言えましょうか。北原さんは語彙や基本表現といったコミュニケーションの基礎材料を徹底的に学習者に入力し、かつその入力を(さまざまなやり方で)即座に出力させる訓練をほとこしていました。

中学一年生への実践は「動詞40語のinput」です。北原さんは中学一年生にとっての土台となる動詞40語を選定し、それをリズムマシーンのリズムに合わせて発音しながら次々にテンポよくカードで提示します。生徒はその発音の聴覚入力とカードの視覚入力をもとに、これまたテンポよく再生します。リズムがありますから、発音の強弱も英語らしいものになります。またCard Snatching Gameでは壁に貼られた単語のカードを、教師の発音と同時にカルタのように取ってゆくゲームです。応用として、一度に2-3語の発音をして複数のカードを取らせたり、単語ではなく、その狙いの単語を含んだ文を発音して、単語カードを取らせるといった方法が示されていました。Fly Swatting Gameはカードを机の上において、そのカードをハエ叩きで取るゲームです。

いずれにせよこれらの実践では聴覚入力を即座に視覚入力と結び付け口頭出力すること(単語のリピート)、聴覚入力を即座に視覚出力と結び付けること(カルタ取り)といった形で、ある英語表現の入力と出力を徹底的に繰り返し、それらの英語表現を即座に理解し表現できるようになることを目指しています。単語を見てその発音と意味を即座に想起する単語認知という作業は、熟練者にとってはごく当り前のことで、「読むこと」とはそんな簡単なことよりもっと高次の活動だと考えがちですが、「読むこと」は単語認知などが自在にできるといった基礎を土台として成立しているものです。母国語でもこの基礎づくりは必ずしも容易ではないのですから、ましてや外国語ではこの基礎づくりは徹底的に訓練されなければなりません。北原さんはその訓練をゲームといった形で楽しく徹底しています。もっともっとこういった活動は普通の英語授業に取り入れるべきだと私は考えます。ただこのDVDでは、例えばFly Swatting Gameではカードに何が書かれているのか(英単語か、絵か、それとも日本語か)といったことや、詳しいルールはどうなっているのか(ポイントなどはどうカウントしているのか)といった事が少しわかりにくかったです。このあたり、ぜひ字幕やDVDの別画面、あるいは解説のパンフレットや別売の解説本などで説明していただけたらと思いました。

中学校二年生と三年生への実践では、教科書の本文を(1)repeating, (2)paced reading, (3)shadowing(開本と閉本)という段階ごとに何度も何度も再生させている様子が映されていました(私の不器用な用語ならば「集中的入出力訓練」(Intensive Input/Output Training)を徹底しているということになります)。

二年生の実践では前の時間に(1)-(3)を徹底した本文を自分なりに少しアレンジ(編集)して、つなぎ言葉を入れたりして、次々とペアで会話してゆきます。英語は基本には教科書ですが、細部を創意工夫で加工しているので、北原さんはこれを一種のスピーキングの活動としてとらえています。三年生では(1)-(3)の後に、生徒は教師のcueやジェスチャーなどを手がかりに本文を口頭再生します。こういった集中的入出力訓練は、コミュニケーション活動の前段階として、英語授業でもっと徹底されるべきだと考えました。ちなみに北原さんはバーコード読み取り式の英語再生機を使っており、テープレコーダーのように巻きもどしに時間がかかるといった無駄を授業から省いています。バーコード読み取り再生というのはやはり便利なテクノロジーだと思わされました(もちろんそのような機械がなければ教師が発音すればいいだけのことですが)。

ただ私が少し混乱したのは(2)paced readingと(3)shadowing(開本)の違いです。(2)は、開いた教科書を見ながら、聞こえてくる英語音声入力とともに本文の英語を読み上げる訓練と理解しましたが、それですと(3)の教科書を開いたまま(開本)の'shadowing'とどう事なるのか私は混乱してしまいました(ちなみに狭い意味でのshadowingは、視覚入力なしの状態(閉本)で、音声入力を即座に口頭再生出力するものです)。

以上報告したのは上巻の一枚目についてです。二枚目についてはまた後日ご紹介いたします。

(その2へ続く)

追記:このDVDのお求めはバンブルビー&メディアコムのホームページ(http://www.bumblebee.jp/)を通じて、または直接同社に電話(03-5750-7760)、ファックス(03-5750-7761)、あるいはメール(bee@blue.ocn.ne.jp)してご注文ください。


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