書評

ここでの私の読みに間違いがあったら「中庭」か、柳瀬へのメール(yosuke@hiroshima-u.ac.jp)でご叱責・ご批判ください。誤りはすぐに訂正します。

もし書評を読んで興味がわいたら、是非ご自分でその本をご購入なさって、実際にお読みになることを強くお勧めします。

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育研究を推進する立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。また人名に関しては、どんな方に対しても「〜さん」づけで表記してます。


宮崎芳三『文集III』(自費出版)(2003/5/6)

私のこのホームページでは、誰にでも入手可能な出版物を紹介することを原則としています。ですが、この本は例外です。本書の「はじめに」に相当する「では、さようなら」をお読みください。

(昭和六十三年春、架空の大学院在学生・終了生の集まりによばれたとして----)

みなさん、私の顔をよく見て下さい。両目を閉じているでしょう。だいぶ前から私は、こうして人前に出ると、両目を閉じるようになった。まずこの左の目。この目は病気にかかっている。病名は黄斑線維症。あまり聞かない病名だが、なんでも、網膜のいちばん奥の中心部に膜がはりついているのだそうだ。そのためモノがみなゆがんで見える。直線がひらがなのくの字にまがる。人のすがたがお化け屋敷のあのゆがんだ鏡のようになる。あけていられない。そこで閉じてしまう。だからモノを見るのに、右の目だけで見るということになる。たとえば右の目だけで本を読む。すると二時間も読んでいると疲れてしまう。とくに人と会うのはよくない。ひどく緊張して一時間ともたないのです。ためしに諸君、そこで左目をとじて右目だけで見てごらんなさい。すぐイヤになってくるでしょう。だから私は右目もとじてもかまわないときには、遠慮なしに右目もとじる。すると、いま諸君の目の前に立っている私のようなすがたになるのです。

だから私に同情せよ、と言っているのではない。ただこの私の顔をよく見てごらん、と言っている。長い間、ずーっと勉強していると、こうなるのだよ、と言っているのです。そうか、がんばって勉強し、その努力を休まずつづけていると、しまいにはこういうことになってしまうのか、と納得してほしいのです。私は、二十三年間、英国小説研究書誌をつくるため文献を読み続けてきた。どういう文献をどういう風に読んできたかは、全部で四冊ある『日本における英国小説研究書誌』を見てくれればわかる。その他に論文を書いた。研究発表もした。そういう全部をひっくるめた勉強の努力が、いま、諸君が見られる通りの結果を生んだのです。なるほど、この人のようにやるとこうなってしまうのか、と思って私を見て下さい。こういうすがたになってはいけませんよと私は言っているのではない。このいまの私のようになるのを覚悟して勉強しなさい、と言っているのです。こんなのはイヤであると思えば、勉強もほどほどにしたらいい。かまうものかと、と思うならば、そう思ってもいい。それぞれ覚悟をきめて勉強の道をすすむ上での、ひとつのたしかな目安として、この私の話をおぼえていて下さい。おぼえてくれと言うのは、もう私は、なにしろ両目をとじてウロウロしたくないので、人前には出ないだろうと思うからです。諸君は、たぶん、もう私の顔を見ることはあるまい。その、さようならを言いに、今日は出てきました。

たださいごに一言、両目をとじるようなことにはなってしまったけれど、命はとられなかった。どんなに勉強しても、それがもとで、命もとられてしまうということは、諸君、ないのです。その点だけを考えれば、なに、たいしたことない。その点を言えば、私は、年齢相応に元気だと言うことができる。そして私の本心は、あんなにがんばったのだから、目ぐらいわるくなるのも当然という気持ちがある。激戦を戦った兵士の、名誉の負傷だと思っているのです。だから心の底では満足している。私が諸君に同情をもとめないゆえんです。

ではさようなら。諸君には諸君それぞれが戦う戦場があるでしょう。好運を祈る。

どうでしょう。私は言葉を失ってしまいました。一応、肩書き上は同じ職業につく者として、私はひたすら首を垂れるしかありません。

この本は自費出版で200部ほど作られたそうです。私は著者と面識がないのですが、以前著者が出版された研究社出版の『太平洋戦争と英文学者』(http://webshop.kenkyusha.co.jp/book/b4-327-37676-0.html)という本を私がHP(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review99.html)で紹介させていただいたご縁からでしょうか、献呈を受けたものです。200部しかない貴重な本を私のような人間が受け取ってもよいのかとも思いましたが、とかく自身の志がぶれそうになる自分のような人間が大学の末席を汚している以上、きちんと読まねばと思い、拝読し、こうしてこのHPでも紹介させていただいている次第です。

私は著者のご専門である18世紀イギリス文学のことについて無知同然なのですが、それでもこの本に収められた書評の数々は大変面白く読みました。書評の対象の論文も、そのテーマも、その著者も私は知らないのに、書評を読んでいるうちに、すっと問題の核心に到達し、それでいて妙な気負いも衒いもなく、それどころか、読後に一種の清涼感すらあります。また読んでいて久しぶりに、文体というものを考えさせられた書物でした。

私はこのような本を書評する資格も力量もありません。ただ英語教師の一人として、この著者のような方のことを忘れないようにするために、ここにこの小文を記しておくこととします。著者にご興味の湧いた方があれば、ぜひ前述の『太平洋戦争と英文学者』(研究社出版、2200円)をお読みください。

太田洋 他 『英語力はどのように伸びてゆくか』(大修館書店、1900円)(2003/4/28)

実験的研究法は言うまでもなく優れた研究法ですが、唯一絶対の研究法ではありません。とりわけ条件統制のしにくい内容、多数の条件が相互作用を起こしていることが重要な内容において厳密な実験的研究法に固執することは、実験とは名ばかりで、実験方法のよさをまったく活かしていない研究をしてしまうことになりかねません。さらにはその実験介入が被験者の利益にかなわないものとなるなら、そういった「実験」を行うことに対する倫理的疑念さえ湧いてきます。

かくして、精緻な条件統制がしにくく、多くの要因が複雑に絡み合っている教室での学習を研究するためには、実験的手法は必ずしも適切なものとなりません。ましてや実験によって、通常の授業活動がしばしば中断されたり歪められたりしたら、それは好ましいこととはいえません。

こうして、厳密な条件統制をかけず、その代わりに、起こしたアクションの前後の変化をつぶさに総合的に記録して、多面的な記述をはかり、事象の全体像をつかもうとするアクション・リサーチが提言されました。私もこのアクション・リサーチの動きは歓迎されるべきだと考えています。

しかしこの本で取られている研究方法は、アクション・リサーチよりも控えめで堅実なものです。読んでみると、改めて私たちはこんなことも知らなかったのかということに気がつきます。アクション・リサーチや実験研究で介入を行う前に、まず私たちは事象をよく把握しなければならないというごくごく当たり前のことを思い起こします。そのように当たり前のことを当たり前のように明らかにしてゆく研究方法を著者は「考古学的方法」と呼びます。中学生の学習の記録を丹念に読み解き、そこから中学生の学習の様子を丹念に復元しようとするのが著者の研究スタイルです。

私たちの研究方法を分類すれば、実証的研究ということになるでしょう。しかし、実験的手法ではありません。

実際のデータを使って、それを整理分析しているから実証的研究と言えるのです。でも、何かの予測のもとに実験をして、予測通りになるかどうかを見るということはしていません。だから、実験的な手法を使っているわけではないのです。(14ページ)

こうした私たちの手法に一番似ているのは歴史学か、考古学の方法かもしれません。歴史学や考古学では実験をしてみることはできません。歴史学では、断片的な資料を読み合わせ、つなぎ合わせて、ある史実を掘り起こしてゆきます。考古学の調査では、出土した土器の破片を丹念につなぎ合わせてゆくことで壷や皿の原型を復元してゆきます。

考古学の仕事というのは、こうして復元された事実や土器などからその時代のあり様などに思いをいたす仕事だと思います。そうした作業の仕方に一番似た方法をこの研究プロジェクトではとったのです。英語学習研究の考古学的手法と言ってもよいのではないでしょうか。(15ページ)

この本はこういった研究方法のもと、中学生の英語学習記録をinput、 output、intake、文法、会話の持続力などの観点から整理分析し、中学生の「英語力」の実態を明らかにしようとしたものです。整理分析の際は、Excelはもとより、WordSmithやTEXTANAなどのコンコーダンサー、および統計ソフトのSPSSなどを効果的に使ったこの研究は、現場でもできる、いや現場でこそできる教育研究のモデルを示すものといえるでしょう。また今後の英語教育研究の参照となる基礎的データを提示した研究でもあります。私個人としては「語彙サイズ」という、今まで当然視されてきた概念を問い直して、改めてそれにアプローチした第四章、および「会話の持続力」という今まで等閑視されてきたトピックを扱った第六章を特に面白く読みました。

現場での研究を考えている英語教師の皆さんにお勧めしたい一冊です。


千田潤一監修、鹿野晴夫・大塚千春著『はじめてのTOEIC TESTトレーニング編』(丸善 1600円)(2003/4/12)

TOEICあるいはTOEFLを物差しとして英語教育を行おうという動きが加速しています。物差しがすべてではない、すなわち、TOEICやTOEFLの高得点獲得だけが英語教育ではないという健全な常識が忘れられていない限り、この動きは英語教育の近代化につながる歓迎すべきものだと私は考えます。今までの多くの英語教育は、惰性的に前の世代がやってきたことを繰り返すだけの前近代的なものでした。何を目標にして、その目標のためには何をすればいいのかという合目的的な思考があまりにも稀でした。

ともあれ、例えばTOEICを一つの物差しにしようとした場合(本年度からの広島大学の英語教育もそうです)、気をつけなければならないのは、教育の過程においてもその物差しばかりを使おうとすることです。結果と過程の区別をしないことです。目標とその達成のための手段を同一視してしまうことです。

アナロジーで考えましょう。子供の背を伸ばすことを目標(結果)とした場合、私たちが取るべき手段(過程)は子供にきちんとした食事を与え、のびのびと運動をさせることでしょう。私たちが行うべきことは毎時間ごとに、子供を身長計の上にのせることではありません。

一時間ごとに子供を身長計の上にのせて、子供の背を伸ばそうとすることの愚は誰でも直感的にわかりますが、似たようなことを私たち考えていませんでしょうか。

例えば野球チームに入る子供です。彼らのほとんどがまずやりたいのは、試合やフリーバッティングでしょう。いきなりランニングやノックを希望する子供は少ないのではないでしょうか。あるいは吹奏楽部に入部を希望する子供が思い描くのは、ステージの上で見事に演奏をする自分の姿でしょう。音程合わせをずっと行う姿を夢見て入部してくる子供は少ないと思います。さらには空手道場に入門してくる子供です。彼らがまずやりたいのは実際に相手と戦う組み手です。三戦立ち・前屈立ちといった見栄えのしない稽古を好む子供はいません。

ですが、優れた指導者は、そういった子供の自然な欲求は大切にしながらも、決して子供のいいなりにはなりません。年から年中試合ばかりさせる野球の指導者は、その野球部を強くする気がないのでしょう。いきなり初心者に全曲演奏をさせようとする指導者は、いい演奏をさせるという気がないのでしょう。子供に組み手ばかりさせる指導者は、空手という合理的な技術体系を教えるつもりがないのでしょう。指導者は必ず「基本」を充実させます。地味だけれど、目標(試合、演奏、組み手)を達成するためには重要な基本をやらせます。子供の意欲をとぎらせることがないように様々な工夫をこらしながら、基本練習を重ねます。基本を充実させることが、かえって目標達成のための近道だということがわかっているからです。この意味で、基本をせずに、目標行為を何度もやらせようとすることは、「指導」とはいえないと思います。それは技能を自得できる非常に才能に恵まれた学習者だけを伸ばし、大多数の学習者を挫折させる放任です。

同じことは英語習得に関しても言えます。ですが、多くの人が上の子供と同じように考えていませんでしょうか。「英会話ができるようになりたい」から「実際にネイティブと英会話ができる」英会話学校に行く、とか、「TOEICで高得点を取りたい」から「TOEICの実戦形式の問題集をやる」といったことです。私はこういった考えは、目標に目がくらんだ、賢明とはいえない戦略だと思います。目標達成にはまず「基本」という手段を充実させるべきだと考えます。

それでは(英会話のことはさておくとして)TOEICの高得点のための「基本」とは何か。

これに明確に答えることができない人が多いのが、現在の英語教育界の現状ではないかと思います。「基本」を具体的に定義(操作的定義)することができずに、「基本、基本」と繰り返してもそれは気休めにもなりません。

その点、この本の著者は明快です。「TOEICで求められている力は、学校英語で習う英語をナチュラル・スピード(自然な速度)で使いこなす運用能力(スピード処理能力・即応能力)です。学習内容の定着は、ゆっくり行っても不正確な状態(slow-inaccurate)からスタートします。これを、速く行っても正確な状態(fast-accurate)にすることが運用能力を向上させることです」(6ページ)と言い切ります。

この本はこの理念に基づいて、90日分の「基本練習」を具体的かつ親切に提示したものです(90日分の課題に音声CD付き)。基本練習は、350点/470点を目指す人、600点/730点を目指す人、860点/950点を目指す人、の三タイプ別にメニューが組まれており、この一冊で初級者から上級者まで対応できるように設計されています。メニューは体系的・段階的で、課題がはっきりしていますから自学自習ができます。メニューのうちのいくつかは、このHPの「随想」でも紹介したものですが、この本では、初級者・中級者・上級者別にメニューが組み立てられていますから、このメニュー内容を知るためにだけでも1600円を払っても惜しくないと思う英語教師も多いと思います。自学自習用にも、TOEIC対策の授業の教科書にも適した良書だと思います。英語学習者、英語教師のそれぞれの皆さんにお勧めします。

ついでながら申し上げますと、それではこの本さえあれば自学自習ができて、トレーナーは要らないのか。そうではないと私は考えます。例えば空手で考えてみましょう(もうしわけない。格闘技が好きなもので(^^))。最近の空手の入門書は充実していますし、ビデオもふんだんにありますから、空手は一人で修練できそうにも思えます。しかし現実にはたいていの人は道場に行きますし、また行くべきだと考えます。

いい師範(トレーナー)は、基本の大切さを熟知していますから、学習者が飽きたり挫折しないように、折に触れて基本の大切さを説いたり、自らの身体で示したりします。目の前で素晴らしいパフォーマンスを示して基本の大切さを理論的に説き、実践的に示す師範(トレーナー)の存在は学習者にとって灯台の光のようです。また学習者が自分では基本をやっているようでいても我流の癖で変なパフォーマンスをしていることはよくあることです。経験豊かな師範(トレーナー)は、決して矯正しすぎることもなく(矯正のしすぎはかえって学習者を混乱させます)、かといって放置することもなく(放置は指導ではありません)、学習者を励ましつつ、学習者に基本を体得させます。人間心理をよくわかった師範(トレーナー)は学習者集団を作り上げ、お互いがお互いを高めあう共同体を作り出します。学習者の発達段階に応じてメニュー設定を変え、徐々に実戦練習を導入するのも師範(トレーナー)の仕事です。

空手と同じように英語にもいいトレーナーが大切だと思います。いい空手選手も、そのままではいいトレーナーになれないように、上手な英語の使い手もそのままではいい英語のトレーナーにはなれません。英語教師は、トレーナーとしての訓練も自らに課すべきでしょう。

この本は英語学習者に格好のトレーニング内容を豊富に与えているだけでなく、英語教師にトレーニング方法を具体的に示している良書です。英語学習者にも英語教師にもお勧めするゆえんです。


内的感覚を取り戻す---高岡英夫さんの一連の著作を読んで---(2003/3/25)

齋藤孝さんの本を読んだのを機会に、高岡英夫さん(http://www.undoukagakusouken.co.jp/index2.html)の本を再び読み始めたのは私にとっていい転機となりました。

私は高岡英夫さんの本は、自分が空手をやり始めた80年代後半から熱心に読んでおり、90年代初めの『ハラをなくした日本人』(恵雅堂出版)や『意識のかたち』(講談社)などは、本当に深い洞察を明晰に語っているな、と感心して読んでおりました(ちなみに齋藤孝さんの主張はこのあたりの高岡英夫さんの主張の一部と非常によく似ております)。ところが90年代の中ごろの出版物、特に『天才の証明』(恵雅堂出版)などでは、高岡英夫さんが私の基準からすればあまりに神秘的すぎることを語り始めたので、以来敬遠しておりました。その後、さらに本も出版され、それなりにブームになっていることは本屋の本棚を見てもわかりましたが、いったん湧いた疑念を拭い去ることはできず、本を手に取ることはありませんでした。

そんな時に齋藤孝さんの本を読み、これは高岡英夫さんの本を再読せねばと思い、本屋に行き、最新刊の一つである『究極の身体』(DS社)を立ち読みしてみると、神秘的なところが姿を消し、なおかつ以前の主張が、人体の骨格や筋肉のあり方に基づいて具体的に、なおかつさらに深く展開されていたので、思わず購入し夢中で読みました。

そうして高岡英夫さんの著作に再び興味が湧き、『ユル ココロとカラダに効くリラックス体操』(朝日出版社)、『からだにはココロがある』(総合法令出版)、『武蔵とイチロー』(小学館文庫)、『高岡英夫は語る すべてはゆるむこと』(総合法令出版)、『「余分な力」を抜けば、人生が変わる!』(三笠書房・知的生き方文庫)、『ワールドクラスになるためのサッカートレーニング』(メディアファクトリー)、『高岡英夫の超人のメカニズム』(ぴいぷる社)などを次々に購入し読み進めました。

なぜこんなに夢中になって読んだのかというと、高岡さんの著作が「目からウロコ」のように私の認識を深め新たにしてくれたからです。といっても英語教育に直接応用が考えられるような知見が書いてあったわけではありません。しかし英語教育などといった人間の営みを根底のところで支えている身体と心のあり方が、さまざまなスポーツや武道などの例で解明され、高岡さんのなるほどと納得することの連続でした。

そういった高岡さんの主張を強引に私の言葉でまとめるなら----本来なら高岡さんの用語でまとめるべきなのかもしれませんが、高岡さんの用語を不用意に使って誤解を招きたくないので私の言葉でまとめます----、それは人間が本来持っている「内的感覚」を再発見し、それを自覚的に発展させることによって心身のパフォーマンスを上げるということになりましょうか。重力によって支配されている人間が直立しているという事実に基づいて、人間が持つ骨格と筋肉のつき方からして最も合理的な動き方を、武道やバレエなどの伝統技能はそれぞれの言葉で表現していました。それを高岡さんは彼自身の用語で統一的に説明してゆきます。その際に重要になっていくのが、行為者が自らの身体の中に明確な内的感覚を見出し、それを育て、それに従うことです。

と、私が拙い説明をしてもなかなかわかってもらえないかと思いますので、ご興味が湧いた方はぜひ『武蔵とイチロー』(小学館文庫)をお読みください。宮本武蔵が行っていただろうパフォーマンスを文献や肖像画から分析し、高岡さん自身がそれを実践し計測してもらう一方、その武蔵の復元されたパフォーマンスとイチローのパフォーマンスを比較した本です。文庫本ですから廉価ですし、少しでも自らスポーツなどで自覚的に身体を動かしたことがある人ならその主張を吟味することができると思います。

またもしあなたが心の哲学や認知科学における「意識」の問題に興味があれば、『からだにはココロがある』(総合法令出版)をお読みください。少なくとも私は極めてまっとうな議論をしていると思いました。理屈はどうでもいいから、具体的にどうすればいいのか知りたいとお思いの方は、『ユル ココロとカラダに効くリラックス体操』(朝日出版社)、『ワールドクラスになるためのサッカートレーニング』(メディアファクトリー)をお読みください。前者は特にスポーツなどに興味もない一般人のために書かれており、後者はサッカーを始めとしたスポーツ競技を行っている人のために書かれています。そうして高岡さんの主張に納得がいったら、現時点での主著といえる『究極の身体』(DS社)を読まれると面白いと思います。あるいは格闘技ファンでしたら『高岡英夫の超人のメカニズム』(ぴいぷる社)を読むと、今まで見てきた選手の動きが非常に具体的かつ理論的に解説されてありますので大変面白いのではないかと思います(ただしこの本には若干の神秘的主張が含まれています)。『「余分な力」を抜けば、人生が変わる!』(三笠書房・知的生き方文庫)は文庫本ということもあり、高岡さんの世界への適切な入門書といえるかもしれませんが、いきなりこれから読み始めるとたじろいでしまうかもしれません。『高岡英夫は語る すべてはゆるむこと』(総合法令出版)は少しでも合気道をやった人なら(私は半年余りだけ稽古したことがあるだけです)、非常に面白く読めると思います。

私がこのように夢中になって読んだのは、もう一つにはそれまでの自分の身体が、今から考えると、ごちごちに凝り固まっていたからでした。体調が悪いのを無視して、ひきかけた風邪は風邪薬を毎日飲むことでごまかし、ひたすら「仕事をせねば、仕事をせねば」とあせって無理しておりました。そのような時の常として新聞を読む気が失せ、音楽も聞く気にもなれない毎日でした。ですからそんな中、学生さんと飲む機会があった時には思わず「あと三ヶ月の命しかないというのなら、それはそれでかまわない。この現在から解放されるのならそれはそれでいい」と口走っておりました。今から考えますとその時は明らかに疲れていたのですが、その時はそういった疲れという内的感覚も「仕事をせねば」という観念で否定しており、そういった悲観的な言葉がこぼれることをなんら異常なこととも不健全なこととも考えず、自分にとっては極めて「自然」なことだと思っておりました。そんな不自然な自分にとって、高岡さんの本は慈雨のように体に染みたのかもしれません。

高岡さんの著作によって心身で感じる内的感覚の存在を思い出し、実際に体操をやってみるとずいぶん体調不良も直ってきました(もちろん、これは元々体調が復調していたところに体操をやっただけで、体操だけの力で体調が戻ったのかどうかは定かではありません)。この自分自身の心身の変化が私を高岡さんの本に対して一層夢中にさせたのだと思います。

高岡さんの著作を読んで起こった変化は、私の認識と体調だけに留まらず、スポーツ観戦にまでおよびました。従来私は、スポーツ観戦は格闘技しか見ず、他のスポーツはほとんど関心がありませんでした。スポーツ観戦が好きでたまらない妻は、オリンピックやワールドカップになってもスポーツを見ない私にあきれておりました。ただ私としては自分自身多少やる格闘技以外は見ても面白くなかったのです。妻は「どうして面白くないの?」とそんな私が理解できませんでした。逆に私は「どこが面白いのだろう」と妻が理解できませんでした。

しかし高岡さんの著作を読んで心身や運動の根本原理が多少とも明らかになると、スポーツを話題や結果ではなく、純粋なパフォーマンスとして見ることができ、俄然見るのが面白くなりました。たまたまテレビをつけたらやっていたスノーボードなど、それまでは見向きもしなかったのに、バランスを保つ選手の内的感覚が多少なりとも自分でも共感できるようになると非常に面白いものになってきました。選手の身体のあり方をわずかながらも感じることができると自分がやらないスポーツも見ていて面白くなってきました。また見ているだけである程度の結果の予想もできるようになりました(もちろん予想ははずれることも多いですが、以前は予想することすらできなかったので私としては大きな変化です)。

考えてみますと今までは、自分でやる格闘技以外のスポーツは、観念で観戦していたのでしょう。「話題になっているから面白い」、「新記録を達成したからすごい」というわけです。あるいは粗野な感情で観戦していたのかもしれません。「ひいきのチームが勝ったから嬉しい」、「痛みをこらえて頑張った。感動した!」といった観戦の仕方です。こういった観戦の仕方は、程度の差こそあれ「景気復活のためにはジャイアンツが勝たなければならない」、「自分の国のチームだけひいきする」といった観戦に通じるものがあると思います。ほんの少し前まで自分もそんな観戦しかできていなかったのにこんなことを言うのは愚かさの証明でしかありませんが、そういう観戦の仕方はスポーツ観戦としては非常に程度の低いものだといえるでしょう。

また、体操で体調が戻ってきて、本で学んだことを確かめてみたくなり、ひさしぶりにジムに行きましたら、それまではカロリー消費のための「ノルマ」でしかなかったランニングマシンでのジョギングが、自分の骨格と筋肉の動きを感じ取り調整する高度な身体運動に思えてきて、楽しくなってきました。それまではひたすら決められた時間を走ることだけや、マシンのスピードを上げることだけにしか興味がなかった苦行(?)が内的感覚を育むエクササイズになりました。

また私は月に二、三回空手道場の自主練習の日に行って、30分程度基本の型(といってもパンチとキック)を自分のペースで行っていましたが、それも近ごろは自分としてはエアロビクス・エクササイズといった感覚になってしまい、体重を減らすための「ノルマ」になっておりました。ところが、高岡さんの勧める体操で身体の奥の方にある骨格の感覚を多少なりともつかみ、筋肉の無駄な緊張を取り除くようにすると、今まで本で読んで理屈の上だけでわかっていた「放る」ようなパンチやキックが少しはできるようになり、今までできなかった体軸の回転などもすっとできるようにました。また、同じ量の練習をしても疲れ方が減ったように自分には思えます。さらに実際に翌日、翌々日の筋肉痛の部位は従来とは異なったものとなりました。

さきほどはスポーツ観戦のことを書きましたが、同じようなことは音楽鑑賞についてもいえると思います。多くの人が音楽を観念や感情で聞いてしまっている。観念で聞くと、指揮者が誰だから上手いはずだ、何年の録音の「名盤」だからいいはずだ、批評家がほめるから素晴らしいはずだ、などと思い込みばかりが先行し、素直に音楽に身をゆだねることができません。感情で聞くと、演歌のような盛り上がりの演奏ばかりを偏愛し(もちろんそのような演奏にもそれなりのよさはありますが)、微妙な音の響きを身体で感じることがなくなります。音楽も自分の内的感覚に忠実に聞くと、日本の「音楽界」の「普通の」聞き方とはずいぶんちがった音楽世界が現れるように思います。またステージ上の演奏者の身体の動きにもずいぶん興味がわいてくると思います。

このように身体のあり方は人間のさまざまな活動の基底となっているように思えます。英語教育の営みとて例外ではないと思います。それでは英語教育でどのようにすればいいのかと言われても私には現在具体的な知恵はありません。ただなんとなく今まで見たすぐれた実践には見るものの内的感覚に訴えるものがあったように思えるだけにすぎません。これからおいおいこの観点から自覚的に実践を振り返り観察し、知恵が湧いてくるのを待ちたいと思います。ここでは、とりあえず、英語教育に関して、私が感じてきている違和感を述べたいと思います。

私が違和感を覚えているのは英語教育にたまに見られる「ノルマ」主義です。10年ぐらい前でしょうか、ある学会でリピーティングか音読かの重要性を述べた発表がありました。すると英語教育界の「お偉い」先生が手を上げて、「何回繰り返せば言語習得にいたるのか、それは50回なのか100回なのか120回なのか、それを厳密に実験ではっきりさせなければ研究とはいえない」と発言しました。私はそれを聞いてとにかく唖然としてしまいました。

単純に考えても、どのような学習者が、どのような意味の、どのような長さと構造をもった、どのような言語表現を、どのような背景で、どのような心理状態で、どのような意識のもち方で、どのように繰り返すことによって、どういう観点で言語習得するのか、等などといった様々な概念を明確に規定しなければ実験とは呼べません。そもそもそのように複雑な命題は実験仮説にはならないと考えるのが「科学的態度」ではないかと私は考えます。

ただおそらくその時に私を唖然とさせたのは、私がその先生に対して感じた、言語に関する内的感覚のなさだったと思います。言葉の力を、自分の身体ごと感じ取る経験を持った人ならば、「何回繰り返せばいいのか実験で明らかにしろ」といった粗雑な考えは湧いてこないのではないか、と私は直感的に思いました。言葉の力は、そのように一律何回繰り返せばものになるといった、平均的で単純なものですか?

もちろん目安としては、「大体中学生には、一時間の授業の中で、教科書の本文なら何回ぐらい読ませるのが適当」という大まかな回数は実践の知恵として持つことができるでしょう。また学習者自身が「自分はこういった教材ならだいたい何回ぐらい繰り返せば暗唱できるようになる」といった経験的知恵も持つことはあるでしょう。ですがそれは「何回やればいい」といったように、外的な条件だけで、言語使用といった内的な感覚を伴う複雑な行為の成功を保証するような発想にはつながるべきではないと思います。繰り返しといった英語教育実践も、学習者の内的感覚を無視してはポイントをずらしてしまうように思えます。学習者の心の中で感じ取る言葉の内的感覚を無視した「ノルマ」による英語教育はどこかいびつなものだと私は思いますが、いかがでしょうか。

追記:身体について偉そうに書きましたが、私にいわゆる「運動神経」やリズム感がないことは私の身近な人ならみなよく知っていることです。なんとか人並みにできるのはフルコンタクト系の空手の動きだけです(それでも空手をきちんとやっている人から見ればお笑いのレベルでしかありません)。ですから上の文章からは、私のそのような貧困な身体能力を差し引いてお読みください。また私は観念の働きが強い人間で、次に直観が強く、感情や感覚の微妙さに弱いタイプです。ユングの好きな方なら「(内向的)思考-直観タイプ」といえばわかっていただけるでしょうか。少なくとも私は自分をこのように「観念的」に捉えています。上の文章はそのように観念的な人間が書いたものであることをお忘れなく。妻に上の高岡さんの話をしましたら、「なんでスポーツを見るのが楽しいといった当り前のことが、理屈を通さないとわからないのかが、私にはわからない」と言っていました(笑)。


齋藤孝『からだを揺さぶる英語入門』(角川書店、1380円)(2003/3/10)

最近、音読がマスコミをにぎわしています。このブームの中心人物は何人かいまして、まずは小学校教育において『本当の学力をつける本―学校でできること 家庭でできること』(文芸春秋)などのベストセラーで有名になったカリスマ教師、陰山英男さん(ちなみに陰山さんは来年度から広島県尾道市立土堂小学校の校長になります)、英語教育界で数年前から国弘正雄さんの「只管朗読」を現代的に復活させ『英会話・ぜったい音読』(講談社)をベストセラーにした千田潤一さん(このHPの達人セミナー報告でも紹介させていただきました)、脳科学の手法で音読の時の脳の状態をわかりやすく示した東北大学の川島隆太さん(代表作品(啓蒙書)として『自分の脳を自分で育てる』くもん出版)、などがよくマスコミにも登場します。そして『声に出して読みたい日本語』(草思社)などのベストセラーを出したこの齋藤孝さん(http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/index.html)も、音読ブームの中心人物の一人といえるでしょう。

「ブーム」というと警戒する方もいらっしゃるかもしれませんが、私は以下の三つの特徴がこの本をユニークなものにしていると考えています。

一つ目の特徴は身体性の強調です。齋藤さんはただ音読を勧めるだけでなく、身体のあり方に注意して音読をすることの重要性を強調します。「からだを揺り動かしながら英文を朗読することで、『日本語の身体』から『英語の身体』へのモードチェンジを技として身につけよう」(p12)といいます。「英語の身体」を考える際にわかりやすいのは、英語を表現するのにふさわしい身体性を多くの日本人が「恥ずかしい」と思っているということです。大きな身振りと強弱高低豊かな発声、つまりは演劇的な身体性に「ガイジンらしさ」を感じ取り、「自分は恥ずかしくてそんなことできない」と、身体を固くしたまま単調に英語を音読する学習者は私たちの周りに多くいるのではないでしょうか。齋藤さんによれば、「メリハリの利いた、抑揚のある身体性。緊張と弛緩の振り幅の大きな身体」(24ページ)が英語的な身体の根幹にあることになります。齋藤さんは、演劇的身体から出た英語は伝わりやすいと考え、音読をする時には、まずは立つこと、そして深く息をすること、さらには歩くこと、時折からだをほぐすことなどを指示します。「からだが不必要に冷えて、コミュニケーションが滞っている」(p116)ということを現代日本に対する実感として持っている齋藤さんのこの身体性の強調は、従来の音読論・音読実践に新しい次元を切り開いたものといえるかもしれません。

この本の重要な特徴の二つ目は、音読の材料にいわゆる「名文」を選んでいることです。齋藤さんは言います。

「何度も同じ文章を音読することで、その英文が技として身についてくる。しかし普通は、何度も同じものを読んでいると飽きてきやすい。そこでテキストの質が問題になる。私が子どもたちや大学生を教えてきた経験によれば、内容のある最高級の名文ほど繰り返しやっても飽きないということだ。易しい内容の薄いものを何度も繰り返して音読するのは、子どもでも耐えられない。反対に、シェイクスピアの文などは、超人的に上手な比喩でできているので、日本語訳で音読する場合でも何十回やっても子どもたちは飽きない」(p.46)

かくして齋藤さんは、この本を単なる抽象論に終わらせるのではなく、具体的な音読のテキストとするため、シェイクスピア、聖書、マザーグースからポール・サイモン、イーグルス、そしてネルソン・マンデラ、キング牧師、エイブラハム・リンカーンなどと27の「名文」を選んでこの本に掲載しています。従来「音読の材料は教科書」というのが英語学習においても通念になっていたような気もしますので、この「名文主義」は、英語音読実践に新しい風を吹き込むのかもしれません。この新しい風によって、英語力のスコア化に翻弄されつつある英語教育界が、英語使用文化がもつ言葉の深さをもう一度思い出せば、英語教育も単なる技能習得を超えた「ことばの教育」としての側面を豊かにできるのかもしれません(ちなみにこの「名文」には広島市秋葉忠利市長の「平和宣言」も入っているなど、単なる英米文化礼賛にはならないように注意されているようにも思えます)。

三つ目の特徴は、この本が「商品」として非常に丁寧につくられているということです。まずは齋藤さんの音読論が展開された上で、巻末には27の「名文」が、初心者用の注釈表記(発音のフリガナ、主語、動詞・助動詞、スラッシュ、リエゾン、押韻)、日本語訳、語句解説、背景解説などがついたカラー版のページに掲載され、さらにはフリガナ表記などを嫌う中級者以上のために、取り外しができる小冊子にそれらの「名文」がまとめられています。加えてこの本にはCDが付き、「名文」が端正な英語で朗読されています(この朗読の質は平均的な教科書朗読テープの質よりも高いと思います)。これで1380円という価格設定は非常に良心的であり、この本を買って後悔する英語教師は少ないのではないかと私は思います。

このようにこの本は良書として私も皆さんにご購入をお勧めしたいですが、若干気にかかることもあります。それは、音読における身体性の特徴や名文主義は齋藤さんが初めて強調したわけではないということです。英語教育界の方なら上の紹介を読んで、近江誠さん(『頭と体と心を使う 英語の学び方』、『英語コミュニケーションの理論と実際』、両方共に研究社出版)の主張を思い出された方も多いでしょう。

また身体論でいいますと、私は高岡英夫さん(http://www.directsystem.co.jp/index2.html)の従来からの主張を非常に思い出しました。この『からだを揺さぶる英語入門』の身体論は、それほど深くはなかったので、私は齋藤さんの身体論の中心作と考えられる『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス)を追加購入して読みましたが、そこでの多くの主張(というより中心思想)は高岡英夫さんが前々から明らかにしていたことでした。それなのに高岡英夫さんの名前が一切言及されていないことには私は納得がゆきませんでした。

このようにこの本は、完全にオリジナルな主張をしているとは必ずしも言えず、特に身体論に関してはわかりやすいところを述べただけになっているのかもしれません。ですが、それは英語教師がこの本を購入するのになんら躊躇する理由とはならないと思います。むしろ英語教師が、身体性そして言語文化の深さに気づくきっかけとして、この本は格好の買い物だといえると思います。英語教師の自己研修用としてもいい書だと思います。

追記:また身体論のついでに申しますと、高岡英夫さんと並んで深い身体論を展開している方に甲野善紀さん(http://www.shouseikan.com/)がいます(最近ですと、巨人の桑田投手の私的コーチになったことででも有名になりました)。甲野さんの身体論は、実際の動きを体験しないとわかりにくいところがあり、私もおぼろげながらしかわからないところなど多々ありますが、身体論に関してはまだまだ深い世界があるといえます。


深澤俊昭『英語の発音パーフェクト学習事典』(アルク、2800円:CD3枚付)(2002/12/6)

本書は1992年にアルクより刊行された『話せる聞ける英語の音(リズム)』に加筆・修正し、CDブック化を行った新装改訂版(2000年)ですが、神奈川大学外国語学部英語英文科教授である筆者は「はじめに」で次のように言います。

外国語の習得は、母国語の強烈な影響の下で行われるため、どうしても外国語の音を母国語に引きつけて聞き、また母国語の音で外国語の音の代用をしてしまいます。「通じない英語」の最大の原因が実はここにあるのです。たとえ文法に詳しく、単語を多く知っていても、耳と口とが日本語の音のままでは無理なのです。(p.3)

さらに筆者は「資料編」で次のように日本における英語教育の問題点をまとめます。

  1. わが国には「沈黙は金、雄弁は銀」というような思考があって、これがひとり歩きをし、話す行為を重視せずむしろそれを低く見る傾向があった。
  2. 上の1とも関係して、インプット(入力)を重視しアウトプット(出力)を軽視する傾向があった。
  3. これまで外国の学問・文化を、主として文字を通じて取り入れてきたという経緯があった。
  4. 学問が象牙の塔にこもり、実践的なものを軽視する傾向があった。
  5. 上の4とも関係して、外国語の学問が文学を中心とした文字を通じてのものであった。
  6. 英語の音声指導はいままでほとんど行われてこなかった。これは文法の指導ができるできる先生はいても、次の7-9と関係して、きちんとした音声の指導ができる先生がきわめて少なかったことによる。
  7. 音声の指導に必要不可欠な「音声学」を、単に小手先の技術的なものとしてしか見ない傾向が強く、学問としての認知度が低かった。
  8. 音声学を専攻した研究者・教員がきわめて少なかった。そのため英語を専門に学ぶ大学の学科でも、そのカリキュラムに理論と実践の学である英語音声学、日英対照音声学等の教科を持つことがきわめて少なかった。
  9. その結果、英語の専門学科で行われる英語教員の養成が、英語の音声研究・教育をまったくといってよいほど無視した中で行われてきたため、英語の音声指導の力に欠ける英語教員が大量に養成された。
  10. 英語の音声を自信をもって指導できる教員の数が少なく、しかも1クラスの生徒・学生数が多く、かつ学校教育が受験に重点を置いたものであったため、望ましい教育成果が生みだされなかった。

    要するに、「使えない英語」の根本的な要因は、日本の英語音声教育が羅針盤を持たない船のように、音声学を持たない英語教育にあったといってよいでしょう。羅針盤がないために、日本の英語教育は難破船のように漂い続けているのです。(p. 234)

    問題は、わが国における英語教育が、音声教育のための基本的な方法論をいまだに確立していないということなのです。(p. 237)

こういった問題意識に基づいて、筆者は本書の全243ページと付属のCD三枚(70分、61分30秒、26分30秒)を費やして理論的・体系的であり、かつ非常に具体的・実践的な音声教育の教科書を作り上げました。

本書は、英語の音を身につけたいと思っているすべての人たちのために作られました。発音を初歩から学びたい人をはじめ、英語の資格試験を受ける人、大学などで英語を専攻している人、そして、英語を教えている人で実践的な発音指導法を学びたいという人まで、どのような立場の人でも目的に応じた使い方ができるように工夫されています。(中略)

本書は、日本語を母国語とする人の立場に立って、その母国語の影響によって生ずる音の壁を乗り越えて、短期間で確実に英語の音を習得するための方法を体系化したものです。著者自身が英語の発音に挑戦したその実体験、専攻した音声学、そしていろいろな年代層の人や、いろいろな国の人たちに英語と日本語を教えた経験との融合から生まれました。(p.3)

とは「はじめに」で筆者が述べていることですが、この言葉に偽りはありません。筆者の30年以上にわたる研究と実践のエッセンスが見事に凝縮されています。

全体の構成は9つのPARTからなり、それぞれ、1「リズム」(英語は強弱の差をつけて話され、英語独自のリズムが生じる)、2「イントネーション」(英語はイントネーション言語といわれ、日本語にはない複雑なイントネーションの使い方がある)、3「連結」(単語が滑らかにつながっていく現象がある)、4「同化」(音が変わってしまう現象がある)、5「短縮形」(is, has, will, notなどが他の単語について短縮形になった場合、発音が変わる)、6「破裂の消失」(破裂音があっても、実際には破裂が起こらない場合がある、7「脱落」(母音や子音の発音が省略されてしまう現象が起きる)、8「子音連続」(日本語と違って、母音が入らずに子音だけが続く場合がある)、9「母音・子音の区別」(区別しにくい音がある)となっています。

それぞれのPARTには複数のSECTIONが設けられ、ひとつひとつのテーマが詳しく具体的に解説されます。まず第一ページ「POINT」でCDを聞きながら音の特徴をつかみ、次に第二ページ「解説」で日本語音声の特徴との比較も含めた、懇切丁寧な説明がなされます。続く第三ページ「EXERCISES」ではCDを活用しながら実際に読者が学んだことが身についているかチェックするようになっています。最後の第四ページ「解答・解説」もおざなりなものではなく、発音記号などをかゆいところに手が届くように示した非常に親切なものになっています。この二色刷りの4ページ構成は非常に見やすく使いやすいレイアウトになっており、読者のことを大切に考えた編集となっております。

PARTの項目を見てもおわかりのように、この本は伝統的な英語音声学ではあまり重要視されてこなかったリズム、イントネーションといった超文節音素論と、実際の発話の動きの中での調音を具体的に解説しCDでデモンストレーションしている点で、非常に優れています。

といっても伝統的な母音・子音の記述・分析も無視しているわけではなく、音声器官の図示や、全発音記号の解説(例、[i:]唇をしっかりと左右に引き、舌を緊張させて「イー」と言う」、[p]「カッパ」の「(パ)」の音。パ行の音の息を止める音、等など)、紛らわしい音をはっきり区別するための発音クリニックなども備えています。

とはいえ本書の主眼は上に述べたような動きの中の調音です。それ以前の個々の音の調音に自信がない方は講談社ブルーバックスの『英語スピーキング科学的上達法』(1600円、Windowsで動くCD-ROM付)を購入されることをお勧めします。この本の最大の特徴は付属のCD-ROMで、コンピュータ上で、音の調音の仕方が子音なら実写画像とコンピュータグラフィックスで、母音なら実写画像とMRI画像で示されます(さらにLとRの音に関しては解説つきの3Dグラフィックスが用意されています。)。またクリックひとつで発音が何度も繰り返されることも非常に便利です。この本はCD-ROMがむしろ主で、本はおまけぐらいに考えてもいいのかもしれません。ともあれ、母音・子音のそれぞれの発音の仕方に関してはこの『英語スピーキング科学的上達法』でかなり自学自習ができます(注)。

これら『英語の発音パーフェクト学習事典』(アルク)と『英語スピーキング科学的上達法』(講談社ブルーバックス)は、自分の英語発音に自信がもてない英語教師の皆さんにお勧めしたいのはもちろんのこと、発音に自信がある英語教師の皆さんにも、その技能を他人(生徒)に的確に伝えるための言語とノウハウを学ぶためにもお勧めしたく思う良書です。

また、ネット上では「英語・発音・語彙」 http://www.scn-net.ne.jp/~language/というHPが驚くほど充実しています。こちらも一度ぜひアクセスしてみてください。

(注)ただ、発展機能として備えている、マイクを使ってのコンピュータ音声判断機能には不安定なところもありますので、私は3D画面とクリックによる音声再生に絞ってCD-ROMを使用した方がいいと思っています。

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大木崇『「英語で書く」基本が身につく本』(研究社、1700円)(2002/9/19)

英語で論文や報告書を書かなければならない時、あなたはどうしますか。いきなり英語で書き始めてもいいのでしょうが、心理学の高野陽太郎さんが主張するように、慣れない外国語を使う時は、その言語使用に頭を使ってしまって、思考をすることの方になかなか頭がまわらない(「外国語副作用」あるいは「外国語効果」)ということが考えられます(注1)。そうすると下書きは日本語で行った方がよいのかもしれません。

実際、私が直接面識をもっている中で、最も優秀な方の一人は、日本よりもむしろ海外での方が知名度が高いぐらいに国際誌に英文論文を頻繁に発表していますが、その方は最初は日本語で論文を書き上げてそれを英語に直すそうです。「日本語でないときちんと考えられないから」というわけです(注2)。

かくしてあなたは日本語の論文や報告書を目の前にします。あとはそれを英語にすればよいだけです。ところがこれが意外に難物です。あなたの日本語は、日本語としてそれなりにこなれた表現なので、それを直訳すると、どうもぎこちない英文にしかならないのです。あるいはあなたが日本語の書類を英訳する仕事をおおせつかった場合でも似たようなものです。あなたは手にした日本語文の長さや曖昧さを前に、直訳ではまともな英文にならないことを直感したりします。

私たちは直接英語で文章を書くことを覚えるか、日本語をうまく英語に直す術を覚えるしかなさそうです。前者に関してはともかく、後者に関しては強い味方が出ました。同書です。

著者の大木さんは1941年東京生まれ。1964年に国際キリスト教大学を卒業した後、カナダに移住し1966年にブリティッシュ・コロンビア大学経済学修士号を獲得。以後、レスブリッジ大学助教授を経て、アルバータ州政府で、経済政策立案の仕事で英文実務に20年以上従事。1995年に経済分析、市場調査のコンサルタント会社を設立した方です。ネイティブの英語を添削することも仕事の一部というそうですから、英語教師として私はため息が出てしまいそうになります。ものすごい英語の使い手もいるものだと、自らの英語力のなさを改めて痛感したりします。

しかし大木さんが2001年4月から2002年3月まで広島修道大学に客員教授として来日していた際に、私は共通の友人を通じてお会いさせていただきましたが、その飲みの席での大木さんは謙虚で穏和で快活な読書好きといった面持ちで、私がその経歴から勝手に想像していたイメージとは全く異なった柔和な方でした。広島修道大学では経済学の講義の他に英作文の授業も担当されていたのですが、その時の講義録がこの本の基となったものです。

大木さんは「あとがき」で自らの英語遍歴を短く語ります。

私は、英語を母語とする人の書いた実務文を手本にして実務文を書こうと努力しましたが、なかなかうまくいきませんでした。私の書いたものは、どうしても稚拙なものになってしまいます。結局たどり着いた結論は、英文を小文に分解してみるということでした。日本語で考えたことを英語の小文で書き、小文をつなげることで、論理の明確な英文を書くことにしました。日本語の小文の内容を、それにできるだけ対応した英語の基本文型を使った小文で表現することによって、膨大な英語の文型と慣用的な言い方を初めから覚えていなくても、日本語で考えたことを英語で表現することが可能だとわかりました。(中略)10年ほど前に、私の働いていた州政府はプレイン・イングリッシュを正式に政府の実務文の規範とすることに決定し、私たち職員も、プレイン・イングリッシュの講習を受けることになりました。講習を受けるにあたって、受講者は自分の書いた報告書を講師に提出しました。驚いたことに、講師は私が書いた報告書をプレイン・イングリッシュの見本として選びました。英文を書くときに、私が必要に迫られて実践していたことが、プレイン・イングリッシュの基本と似通っていたのです。(p. 166)

プレイン・イングリッシュとは、現在、英国、米国、カナダ、オーストラリアの連邦政府の多くの部門で、公式文書の書き方の原則として採用されている英語の書き方です。特に米国では、1970年代から連邦政府でプレイン・イングリッシュを採用する部門が出てきました。1998年にはクリントン大統領が、同年10月以降に連邦政府が新しく作成する文書はすべて、プレイン・イングリッシュで書かなければいけない、という大統領令をだしたそうです。さらにプレイン・イングリッシュは民間の企業でも、報告書やマニュアルの書き方として採用されてきて、最近はインターネット上のホームページの英文の書き方としても普及しているといいます(pp. 94-5)。

大木さんはこの本で、日本文を小文に分解して英文で表現するという原則と、このプレイン・イングリッシュの原則を合わせた、まさに日本人のために書かれた英文の書き方の基本を示しました。そこでは日本語と英語の発想の違いが確認され、英語の基本的な文型が概観されますが、その概観が従来の学習文法書と一味も二味も違うのは、それが「英語を書く」という視点、具体的に言えば「小文と小文をつなぐ」という視点から捉え直されていることです。例えば副詞(句)、従属節、関係詞、分詞といった文法事項も、小文と小文を読みやすい長さを持った英文にするための技術として説明・例示されています。

この本はしばらく英語から遠ざかっていたが、仕事や課題で英語を書かなければならなくなった社会人あるいは学生が英語で書く基本を(再び)勉強するには格好の本です。英語教師にとっても基本事項を確認し(あなたは句読法(punctuation)の使い分けをうまく説明できますか?)、詳しい解答例のついた練習問題をこなすことでかなり高度な英作文の勉強をすることができます。そこでは日本語では名詞を連ねて、例えば「情報通信最先端国家」と表現しても意味はよく通じるが、それを英語で"an information communication leading-edge nation"と直訳しても非常にわかりにくいので"a nation with advanced information and communication technologies"と表現する、といった具体的なノウハウも学ぶことができます。

良書です。たまたま私が著者と面識があるからいうわけではないのですが、読み継がれてロングセラーになるべき良心的な本だと思います。日本人の英語は"gobbledygook"で"does not make sense"だとこれ以上言われないためにも同書で英語を書くことの基本をマスターしたいと思います。

注1:高野陽太郎「外国語を使うとき---思考力の一時的な低下」、海保博之・柏崎秀子編著(2002)『日本語教育のための心理学』新曜社

注2:Miyuki Sasaki 'An Introspective Account of L2 Writing Acquisition' in D. Belcher and U. Connor (eds.) (2001) Reflections on Multiliterate Lives. Multilingual Matters Ltd

追記:その後、大木さんは、HPを開設し(http://www.engedit.com/index.html)そこではボランティアで英文添削も開始しました。ぜひアクセスしてみてください。

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JACETオーラル.コミュニケーション研究会『オーラル・コミュニケーションの理論と実際』(三修社、3200円)(2002/9/18)

人間は言語によって思考をより正確に行い、それを他人に伝達しようとしますが、その伝達のやり方には多様な可能性があり、いくつかの伝達方法はアートとして発展してゆきました。アートとは練り上げられた技術の集積であり、その良さを理解する人々の文化によって支えられています。

一方、最近の英語教育はテクノロジー的発想を取ることが多いです。例えばTOEICの○○点を目標とし、どうすればその目標を効率的に達成できるか、というわけです。これはこれで進歩でしょうが、反面、言語使用のアート的側面が軽視されると、その資格試験で表される「(英語)学力」も、その人の人格と身体と結びつかず、「試験成績はいいのだろうが、どうも実際の場面での英語に説得力がない・・・」と評されるような学習者も出てきかねません。

同書は、スピーチ、オーラル・インタープリテーション、ディベート、リーダーズ・シアター、はてまたミュージカルといった言語アートの文化を教育し、それによって学習者の英語力向上と自己実現を行っている9人の教員によってかかれた本です。

同書は、大学や高校で実際にこのような活動を実践している教員や、ESSなどでこれらの活動に従事している学生さんにとっては、理論的な深みと具体的なノウハウを教えてくれるかけがえのない本となるでしょう(特に付記されている多くの資料は貴重です)。また、これから自分の授業に幅をもたせたいと思っている教員(志望者)にはこれからの方向を示してくれる導きの本となることでしょう。

個人的には、第2章の「わたし」発音(=明瞭性(intelligibility)を中心課題としながら、信頼の置ける、または思い入れの強いサンプルの飽くなきモデリングの過程で、自身のもつ日本人としての肉体的、言語的特徴との間で「折り合いをつけた」結果できあがった発音)や指導者論(=presenter, explainer/persuader,conductorのみに止まらず、communication partner, managerともなる)、または第4章のプロソディー指導の理論的記述などを面白く読みました。

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石田秀雄『わかりやすい英語冠詞講義』(大修館書店、1600円)(2002/9/5)

冠詞というのは日本人英語学習者にとっての躓きの石です。英語を相当学習したつもりでも、書いた英語をネイティブ・スピーカーにチェックしてもらうと、冠詞に関して結構正されたりしてしまいます(またネイティブ・スピーカーによっても判断が異なったりするので話は余計にややこしくなります)。

冠詞をマスターしようと一念発起して、冠詞の用法を例文で丸暗記しても、aがある場合、ない場合の両方があったりして、「両方の場合がある」とはわかっても、それらを使い分けることができません。やはり母語において冠詞(および可算名詞・不可算名詞)の使用になじみのない日本人が習得するには、冠詞の使用を原理的に理解することが一番の近道のように思えます。冠詞の使用を固定的に考えてリスト学習を試みるのではなく、冠詞の使用を創造的で柔軟なものとして捉えて「ここにこのように冠詞が使われているということは、どのようなニュアンスを出したいと言語使用者が思っているからだろうか」と冠詞の使用を原理的に理解した上で、言語使用を細やかに解釈してゆくことが重要だと思います。

この本は、認知言語学の知見などを援用しながら、やさしく丁寧に冠詞の使用を原理的に理解させ、言語使用を細やかに解釈することを可能にしてくれる本です。下の引用は可算名詞・不可算名詞をめぐっての箇所からのものですが、この本の全体的な姿勢をよく表していると思います。

「重要なのは、むしろ話者が対象をどのようにとらえているのかという認知のあり方だと言ってよいでしょう。対象の外見は、われわれの認知のあり方に多大な影響を与えていることは確かですが、話者自身が対象をどのようにとらえているかという主体的な態度こそが、可算名詞か不可算名詞かを選択する上で決定的な役割を果たしているのです」(p. 62)

つまり冠詞の使用とは---というより、これは(純粋に統語的側面以外での)言語使用一般についていえることでしょうが---、話者が事態をどう解釈しているかをその冠詞(言語)使用に託して伝えている問題であり、どこかの第三者機関(例えば冠詞辞典)が機械的に正誤の判断を下す問題としてはとらえるべきではないということです。この点、この本の帯につけられている「この単語にはtheがつくのか、aがつくのか、それとも無冠詞か」という広告文句は極めてmisleadingだと言えましょう。そうではなくて「この単語にtheをつけるとどんなニュアンスになるのか。Aならどうか。無冠詞ならどうか」というのがこの本が伝えたい冠詞に関する態度だと私は理解します。

英語教師として教壇に立つなら一度は読んでおくべき本だと思います。とはいっても、この講義をそっくりそのまま高校生相手に再現することを勧めるわけではありませんし、この本の説明を金科玉条のようにして冠詞使用の「正誤」についてばかり語る一言居士になることを勧めるわけでもありません(「文法談義」はやたらとするが、自分で英語は読まないし、ましてや書かないという人はあなたの周囲にはいませんか?)。冠詞を習得するということは、冠詞の使用を通じて、他の英語話者の認識を理解し、他の英語使用者に自らの認識を伝えることに習熟するということです。こういった習得は、原理的説明を暗記するだけではなされません。原理的説明の「適用」を、実際の言語使用において、世界の中の事態とそれに対する言語使用者の認識に即して理解しなければ、原理的説明は丸暗記された死文になってしまいます(このあたりについては拙論「規則習得とコミュニケーション(草稿)」をご参照いただければ幸いです)。著者も言います。

「本書において展開してきた議論は、冠詞のしくみについて考える上でのささやかな一歩にすぎないことは言を俟ちませんが、それでも今後遭遇するかもしれない多種多様な問題に対処するための手掛かりを、多少なりとも示すことはできたのではないかと思います。しかし、冠詞の使い方を自家薬篭中のものとするには、皆さん自身が英語を実際に使用することによって、多くの用例に当たっていく以外に方法はありません」(p. 229)

「どの冠詞を用いたらよいのかという問題には、本書の中で繰り返し述べたように、対象の解釈という話者自身による主体的な認知活動が入り込んでくるだけでなく、聞き手との間で共有している知識をつねに考慮に入れておくがどうしても必要になります。そのため、冠詞についての完全に予測可能な規則、絶対的な規則といったものを一般化あるいは定式化することは不可能に近いという事実も、ぜひご理解いただけたらと思います。」(p. 233)

英語を使用する際に、冠詞に注目することで、英語使用の深みが増すことを教えてくれるこの本は、英語教師およびその志望者にとっての良書だと思います。

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三浦孝、弘山貞夫、中嶋洋一(編著)『だから英語は教育なんだ』(研究社、2400円)(2002/5/5)

良心的な本が出版されました。学校の「英語」の時間は、実は「教育」なのだ、という当り前のことを思い起こさせ、そしてあなたの授業を、生徒と現代社会のためのものに変える具体的なノウハウが書かれた本です。

それでは改めて「教育」とは何か。「はじめに」にはこうあります。

21世紀の日本の英語教育論議は、「使える英語」一辺倒の様相をますます濃くしている。(中略)教育の目的の半分が、職業技術を含めた過去の文化・技術の後世への伝達であるならば、残る半分は過去の大人が成し遂げ得なかった価値・文化・技術の創造でなければならない。それは、全世界の被造物がより豊かに、平和に、幸福に共生できる壮大な夢の実現へと向かう道であり、それこそが教育の目指す普遍的価値である。グローバルな時代だからこそ、辺境の一見ちっぽけな教室の授業実践さえもが、こうした全世界的な夢の出発点となりうるのである。価値ある夢や信念や愛あればこそ、人間はみすみす不利な状況にも飛び込んでまで道を切り開くのであり、そのエネルギーは打算に生きる者の比ではない。

このような普遍的価値に教育が結びつかない場合、それは不毛の教育と呼ばなければならない。京都の少年による小学校校庭無差別殺人や佐賀のバスジャック殺人をはじめとして、高校や大学の途中までいわゆるエリートコースを歩いてきた青少年が挫折して、自己内部の混乱の突破口として通りすがりの人を殺傷する事件がここ数年相次いでいることは、この不毛を象徴している。彼らは、学業に真の価値や喜びを見出す機会を与えられぬまま、世渡りの道具として不毛な「勉強」にまい進し、やがてその不毛な教育が約束してくれていた見返りが自分に与えられぬことを看破して愕然とし、パニックに陥ったのである。今こそ、子どもたちは打算でなく人生そのものを豊かにしてくれる教育を求めている。本書は、英語教育がどのようにして普遍的価値と結びつくのかを探求することによって、その叫びに応えようとするものである。

この宣言に、心動かされた方はどうぞ今すぐこの本をご注文ください。「でもそんな高尚なことを言われても・・・私はとにかく授業がまともに成立することを望んでいるだけなんで」と後込みされる方は、どうぞこの本の「第3部指導法編」を最初にお読みください。実践でためされた具体的な授業のノウハウがたくさんつまっています。でもそこで本を閉じることだけはやめてください。ぜひ「第2部実践編」を読んで、授業のノウハウの背後にある----だからこそ表面的な指導法研究会ではなかなかわかりにくい原理を心で感じて納得してみてください。そして「第4部体験編」を読んで次の言葉をかみしめてください。

授業のノウハウは、たとえて言えば樹木の葉である。葉は研究会で比較的容易に集められるが、葉だけを何千枚収集しても、それだけでは断片の山にすぎない。葉が機能するためには、一本貫いた幹(理念)が必要である。では幹はどうしたら手に入るか、実はこの幹だけは他人から譲り受けることができない。幹は教師が生徒と英語との関わり合いの中から、自分で育ててゆくしかないのである。(p. 191)

そうして初めて(あるいは改めて)「はじめに」と「第1部理念編」をお読みください。そして「精神の自由を保つために、高い学問の力をつけなさい」(p. 3)、「それまでは見下していた生徒たちが、実は本当に偉い人達だということがわかり、目からうろこが落ちる思いがした」(p. 16)といった言葉の深い意味をかみしめてください。

良書です。出版を喜ぶと同時に、この本であつかわれているような内容を英語教育の「学会」で取り上げることが非常に困難な状況に英語教育「学者」の苦汁と欺瞞を感じます。

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Alex Kerr "Dogs and Demons: The Fall of Modern Japan" (Penguin Books) (2002/5/3)

「発信型」の英語教育をお望みの方、朗報です。ここに現代日本の姿をあますことなく伝えてくれる本が出ました。もっとも「発信型」の英語教育をお望みの方は、この本の副題を見て、「そのような日本を私たちは世界に発信したいのではない!」と怒られるかもしれません。しかしあなたがどんなに日本は(まだまだ)素晴しい国だと考えて、仲間内で熱く語り合っても、これがペンギンブックスの本として世界の英語話者に伝えられる日本の姿なのです。ぜひぜひご一読ください。そして必要なら反論をしてください。そうしてこそ英語教育も「受信から発信へ」などという極端から極端へはしることを勧める単純すぎるスローガンから卒業し、相互理解/相互対話型へと進むことができます。

また、もし皆さんが、自分が訪れた諸外国の生活文化の豊かさや街なみの美しさを経験して、どうして現代日本にはそのような豊かさや美しさがないのだろうと、心ひそかに思っているのならこの本は必読書です。

この本は、私にとって久しぶりに「読むのが止められない」本でした。日常生活の合間をぬって、電車の中やちょっとした待ち時間に読み継ぎました。何度も心が痛む思いがし、ため息が出たりする一方で、幾度となく意を強くし、なるほどと納得したりして最後まで充実した読書体験をしました。この本については実は大修館書店『英語教育』7月号の「英語教育時評」についても文章を掲載する予定ですので、ここではそこで述べた私が最も言いたいことには触れず、コラム記事ではスペースの関係でとうてい掲載できない印象的な原文を引用しながら、この本を紹介しようと思います(ちなみに、私は著作権は大切にしてゆかなければならない考えだと思っていますので、私が書いた商業原稿は一切このHPには(再)掲載しません。またこのHPの文章は全て推敲なしのいわば書きなぐりの文章ですが、お金をもらって書く文章は必ず一、二か月構想を練って、何度も書き直して書くようにしています)。

さて、この本の中心テーマは、なぜ日本は過去、世界有数の美しく可能性に満ちた国であったにもかかわらず、現在のように凋落してしまったのかというものです(「現代日本のどこが悪い!」と反発する方こそ、この本をお読みください。著者は、私たちがあまりに日常的であるがゆえに見過ごしていることを次々に指摘してゆきます)。

The key question is: Why should Japan have fallen into any pitfall, when the nation had everything? It reveled in one of the world's most beautiful natural environments, with lush mountains and clear-running streams pouring over emerald rocks; it preserved one of the richest cultural heritages on earth, receiving artistic treasure from all across East Asia, which the Japanese have refined over the centuries; it boasted one of the world's best educational systems and was famed for its high technology; its industrial expansion after World War II drew admiration everywhere, and the profits accumulated in the process made perhaps the wealthiest nation in the world. / And yet, instead of building the glorious new civilization that was its birthright, Japan went into inexplicable tailspin in the 1990s. (p. 4)

この原因を、著者のカーさんは日本が従来の方向転換をすることができないことにあると見ています。

But while the experts marveled at how efficiently the well-oiled engines were turning, the ship was headed toward the rocks. Japan's cleverly crafted machine of governance lacks one critically important part: brakes. Once it has been set on a particular path, Japan tends to continue on the path until it reaches excesses that would be unthinkable in most other nations. (pp. 16-17)

その「従来の方針」の一つとしての「国土開発」は、今や「土建国家」あるいは"State-sponsored vandalism"と称されるまでに肥大してしまいました。

At \80 trillion, the construction market in Japan is the largest in the world. Strange that in the dozens of books written about the Japanese economy in the past decades, it it hard to find even a paragraph pointing out the extent to which it depends on construction. And even fewer observes seem to have noticed the most interesting twist: that from an economic point of view the majority of of the civil-engineering works do not address real needs. (p. 19)

"Doken kokka": The colossal subsidies flowing to construction mean that the combined national budget devotes an astounding 40 percent of expenditures to public works (versus 8 to 10 percent in the United States and 4 to 6 percent in Britain and France. (p. 20)

日本では官僚に対する国民のチェックがない(というより働かない)ので、この傾向は止まりません。

In Japan, where ministries rule with almost no supervision or control by the public, bureaucratic inertia is an irresistible force. The world of official policy functions like a machine that nobody knows how to stop, as if it had only an "On" button, no "Off." (p. 22)

ある意味、20世紀は全体主義(ファシズム/ナチズム、共産主義)の失敗を目のあたりにした世紀だといえるのですが、この教訓は日本ではあまり学ばれていないようです。

There is a moral to the story, and it strikes at the root of authoritarian societies everywhere. The Soviet Union under Brezhnev, Japan under its bureaucracy -- each is an example of a society that believed it had achieved eternal balance: central planners had everything under their control. (p. 89)

このような「民主国家」ならぬ「官主国家」を作り上げてしまった要因としてはジャーナリズムの不全があります。日本で「調査報道」がほとんどなされていない、いやひょっとしたらマスコミが敬遠しているかもしれないことを示す例の一つとしては次のエピソードが紹介されています。

Shioda Hiroyuki, the chief editor of Tsukuru magazine, says, "Investigative reporting isn't rewarded." In fact, it is often punished. Kawabe Katsurou is the reporter who in 1991 led TBS Television to investigate the trucking company Sagawa Kyubin's connections to gangsters and politicians. By 1993, prosecutors had filed charges against Kanemaru Shin, one of the nation's most powerful politicians, and soon thereafter the government fell. But far from rewarding Kawabe, TBS transferred him to the accounts department in 1996, and eventually he quit. Today, he survives precariously as a freelance journalist. (p. 112).

日本のジャーナリズムの大半は権力者が伝えたいことだけをそのまま伝えるだけの媒体になりさがっているのではないかとすら思えてきます。

The function of the press today is to publicize modern O-sumitsuki issued by major companies and bureaucrats. it means that you must read the newspapers with great care, as it's easy to mistake official propangada for the real thing. Okadome Yasunori, the editor of the controversial but widely read monthly Uwasa no Shinso (Truth of Rumors), says, "With such a close relationship between the power and the media, journalists can be easily manipulated and controlled. Just study the front-page articles of major Japanese dailies. They are almost identical. Why? Because they just print what they are give." (p. 113)

このように一面的な情報しか知らされず、そしてそれが故に「幸せ」である (Ignorance is bliss!)日本国民の状況をカーさんは次のように例えます。

Japan is like the spaceship in 2001: A Space Odyssey. The computer Hal runs all life systems aboard the ship with benevolent wisdom, speaking to the crew through the public-address system in a resolutely calm and cheerful manner. Later, when Hal goes mad and starts murdering people, he continues to placidly assure crew members in an unwaveringly upbeat voice that all is well, wishing them a good day. In Japan, articles in magazines paid for by the bureaucrats who cement over rivers and lakes assure the public that their natural environments is still beautiful. Bureaucrats at Donen instruct children that plutonium is safe to drink. Every day in Japan we hear the soothing voice of Hal telling us not to worry. Since 1993, the government has predicted economic rebound every year, despite an ever-deepening recession. In February 1999, as the nation prepared to inject $65 billion into the banks, with the prospect of even larger bailouts ahead, Yanagisawa Hakuo, the chairman of the Financial Revitalization Committee, announced, "By the end of March, the bad loans will be completely cleared and we will have confidence at home and overseas." Problem over, have a good day. (p. 120)

かといって官僚が皆「狂っている」わけでもなく、悪人であるわけでもないでしょう。内実は高級官僚といえども、連日深夜まで働かされ、家庭生活も文化生活も殆どないまま数十年「奉公」をして、「せめて定年後ぐらいは少しいい思いをしたい」と思っているだけなのかもしれません。しかしそういった「天下り」が次々に特殊法人や公益法人といった形で制度化されてゆくと、それはどんどん増殖・増大してゆきます。

While amakudari in private industry have garned most media attention, there is another, even more influential type: amakudari who run the vast web of semi-government agencies through which subsidy money trickles downward. The largest and most powerful of these are the tokushu hojin, "special government corporations," almost half of whose directors are amakudari. After these directors retire from tokushu hojin, they descend another rung, becoming directors of a second group of agencies, koeki hojin, or "public corporations." These agencies function with hardly any public scrutiny, and they are protected by ministry colleagues who look forward to enjoying amakudari benefits when their own time comes. (p. 134)

こういった官僚への権限集中には歴史的背景もあります。

Japan's bureaucracy is like this. Before World War II, the bureaucrats had already consolidated power but had to share it with the armed forces and the big zaibatsu business cartels. After the war, with the army and the zaibatsu discredited, politicians, the press, and the public consigned their fate to bureaucrats, allowing them near-dictatorial powers and asking no questions. (pp. 158-9)

ここであえて全体主義的発想(あるいは権威主義的発想)を肯定し、「権限の中央集中のどこが悪い。うまくゆけばいいでないか」と反論してみましょうか。実際、戦後復興期において、日本の官僚性はうまくいっていたようなののですから(しかし一方で日本官僚は本田宗一郎の起業の邪魔をしていたことなども忘れてはいけません)。これに対する反論は、「権限が一箇所に集中していると、そこが失敗すると目も当てられない状況になる」というものです。あるいは失敗せずとも、中央が見落としたところが、分権体制では考えられないほどに駄目になってしまいます。日本官僚が見落としたことの一つが「観光」という、自国を美しくし、他国からの訪問者の心を豊かにさせる文化です。「日本は世界有数の美しい国」というプロパガンダは次のような冷徹な数字の前に崩れさってしまいます。

The number of foreign visitors to Japan, never large, has grown only sluggishly, from about 3.5 million in 1990 to 4.5 million in 1999. Japan ranks thirty-second in the world for foreign tourist arrivals, far behind Malaysia, Thailand, and Indonesia -- and light-years behind China, Poland, or Mexico, each of which admits tens of millions of tourists every year. Fore all the literature about Japan's international role, it's sobering to realize that Japan has very nearly fallen off the tourist map. Every year more people visit Tunisia or Croatia than visit Japan. another way to assess the amount of tourism is the number of foreign visitors against national population. In Japan, the ration is only 3 percent, ranking eighty-second in the world. (The corresponding number for South Korea is more than double: 8 percent.) (p. 183)

また、私たちは日本の至るところにある電信柱に慣れっこになってしまっていますが、

Japan is the world's only advanced country that does not bury telephone cables and electric lines. (p. 197)

といった指摘を前に、私たちの街なみに対する美意識は問い直されるのではないでしょうか。

カーさんは実は美術品収集家でもありますから、次のように日本の「美」について裁断します。

The historian Gibbon, an expert on the rise and fall of empire, wrote, "All that is human must retrograde if it does not advance,." Thirty or forty years ago, Japan had all the earmarks of modernism: technical finesse in manufacturing, clean cities, trains that ran on time. For bureaucrats, architects, university professors, and city planners, Japan seemed to have the perfect formula, and it needed only to develop on a grander scale along established lines. It was so deceptively reassuring that few observers noticed that time had stopped. Confident in their belief that their country had "got it right," Japan's leaders firmly resisted new ideals, whether domestic or foreign. Lacking the critical ingredient, change, culture in Japan took on modernism's outward forms but lost its heart. Without new attitudes and fresh knowledge, the quality of life in cities and countryside, as Gibbon could have predicted, did indeed retrograde. This is the paradox of modern Japanese life: that although it is known as a nation of aesthetes, there is hardly a single feature of modern Japan touched by the hand of man that one could call beautiful. (p. 216)

このまま日本は坂道を転がるように凋落を続けるのでしょうか。そうかもしれない、とカーさんは考えています。

Prewar history and Japan's present rush toward environmental and fiscal disaster indicate a fatal flaw in Japan's social structure. The emphasis on shared responsibility and obedience leads to a situation in which nobody is in charge, with the result that once it is set on a certain course, Japan will not stop. There is no pilot, nobody who can throw the engines into reverse once the ship of state is under way; and so it moves faster and faster until it crashes onto the rocks. (232)

日本の財政に関しても恐ろしいことは、その状況が悪いこと以上に、それがどれぐらい悪いのかが正確にわからないこと(あるいは正確にわかることを権力側の多くの人間が回避していること)です

Quantifying Japan's debt crisis is not easy, because its debts are so well disguised that nobody knows the exact figure. (p. 256)

これに続く256-7ページの記述はぞっとするような記述です。

このような官僚性の肥大、ジャーナリズムの不全を支えているのが、国民の考え方を作り上げている教育です。

The inability to slow down or turn back from disastrous policies has been Japan's core problem in the twentieth century, so it is natural to wonder why. This brings us to education, which shapes the way people ask questions of themselves and their environment. (p. 282)

カーさんは、ここで、厚生省の中で厚生省と闘い、左遷され、懲戒解雇された宮本さんの記述を引用します。

Driving through the English countryside, you see many sheep grazing on the hillside, which brings a feeling of peacefulness. This peacefulness is exactly what the bureaucrats want to obtain in Japanese society. But I want to emphasize that they want this peacefulness because their ideal image of the public is one where people are submissive and subservient. With such a group of people are essay to control, and the system does not have to change. How do the bureaucrats manage to castrate the Japanese so effectively? The school system is the place where they conduct this process. (p. 285)

この引用から、カーさんはやや戯画的に日本の教育を描写します。骨組みだけ示しても、反発する方がいるかもしれませんので、このあたりはぜひ同書をしっかりお読みください。

Lesson One is the importance of moving in unison. (p. 285)

Lesson Two is to learn that it is a crime to be different. ... The natural corollary of Lesson Two, unfortunately, is xenophobia. (p. 286)

独立した批判的思考を教える可能性を多くもった大学も機能していないようです。

Edwin Reischauer comments, "The squandering of four years at the college level on poor teaching and very little study seems an incredible waste of time for a nation so passionately devoted to efficiency." (p. 301)

さらにカーさんは、福田和也さんの評論を引用します。

One could say that social control in Japan has come to invade the private realm to an extreme degree. Of course "control" does not take place if we have only people who want to control. It's a necessary condition to also have a majority of people who wish to be controlled. It's the same mechanism that sociologists call "voluntary subjugation." That is, people who wish to be controlled struggle to bring about control over themselves. it's related to the fact that children in high schools and students in universities never tire of having their teachers advise them what to do. Japanese college students are not adults who bear rights and responsibilities -- they should all be called "children." (p. 311)

こういった日本からは、見かけ上の自由さと豊かさと裏腹に、才能を持った人から流出してゆきます。

Many refugees are people who are at the top of their professions. An inventor like Nakahara Shuji is nothing less than an international technology superstar, and yet he had no choice but to leave Japan. We are not dealing with the poor and disadvantaged here, or with the politically oppressed, such as those who fled Nazi Germany or China after the massacre at Tiananmen Square. it must surely be unique in world history that a free and wealthy society in a time of peace has become unattractive to the brightest and most ambitions of its own people. But this is what the stranglehold of bureaucracies and entrenched systems in Japan is achieving. (p. 342)

こういった日本にとっての最大の問題はやはり官僚制だとカーさんは考えています。

An indurated bureaucracy is Japan's single most severe and intractable problem, responsible for bringing the nation to the brink of disaster in the 1990s. The Ministry of Finance, for all its mistakes, is just one of many government agencies, and the damage it has done cannot compare with the Construction Ministry' s burying the nation under concrete, the Forestry Bureau's decimating the native forest cover, the Ministry of International Trade and industry's needlessly damming the Nagara River, or the Ministry of Health and Welfare's knowingly allowing 1,400 people to become infected with AIDS. (p. 359)

しかし、この官僚制の肥大はもう誰にも止められないのかもしれません(だからこそ私は現在国会で審議されている「個人情報保護法案」「人権擁護法案」という甘い言葉をつけた言論統制法案に強く反対しています。こんな法案まで通ってしまったら本当に日本に未来はなくなると思います)。

One of the sharpest observation made by Karel van Wolferen is that the Japanese bureaucratic system has never relied on public approval for its legitimacy and power; it works in a separate dimension, far above and removed from the democratic process. (p. 361)

日本はまた失敗を繰り返すのでしょうか。

One may easily draw parallels between the collapse of the Taisho Renaissance of the 1910s and 1920s and the Heisei Depression of the 1990s. In both cases, systems of inflexible government and education stifled a generation of freedom and creativity. The same mechanisms that caused Japan to veer off course before World War II -- a ruling elite guiding a system aimed single-mindedly at expansion -- are at work today. (p. 382)

「日本は明治維新と戦後復興で二度の世界の奇跡を起こした」とはよくいわれることです。しかしながら一方で「日本は大東亜戦争と経済バブルで、二度も全体主義的発想の過ちを犯した」とも言えないでしょうか。

Japan's twentieth-century history is not that of a nation that has successfully adapted to modernity but one that has twice maladapted, with calamitous results. (p. 382)

たしかに日本について悲観的な本です。しかし、こういった日本にもまだ希望の灯が残っているとしたなら、その一つはこの本のまさに最後の二段落(pp. 384-5)に示されていると思います。私がここで紹介したのはこの本の骨組みだけに過ぎません。ですが、この本の真価は示されている多くの具体的なエピソードにあります。ぜひご自身でご一読し、そして最終の二段落をかみしめてください。

もしあなたが英語が読める人間で、日本を愛する方でしたら、是非お読みください。

追記:上の文章を書いた翌日(2002年5月4日)の日本経済新聞の第一面は「独立行政法人に財投:特殊法人改革後も供給」という記事を掲載しました。それによりますと「財務省は特殊法人改革で独立行政法人に組織形態が変わる16機関に対し、必要に応じて財政投融資による資金供給を続ける方針だ。・・・経営効率化を目指した独立行政法人に財投資金が入れば、特殊法人改革の趣旨に反する恐れもある。・・・独立行政法人は政府の補助金で運営している。財投も受ければ事業肥大化などのチェックなどが働きにくくなり、独立行政法人の性質が特殊法人と変わらなくなる可能性もある」とのことですが、「可能性もある」というのは控えめ過ぎる表現だと思います。

財投(財政投融資)については、上の書評では引用をしておりませんでしたが、やはり引用しておきたいと思います。官僚は小泉の「構造改革」とやらの背後で(あるいはそれ以前からの「改革」の背後で)、着実に「焼け太り」をしていると私は思います。これ以上、チェックの入らない権力を野放しにしていては日本があぶないと思います。

Zaito works like this: The government grants tax exemptions and other preferrential treatment to postal-savings accounts managed by local post offices; interest on postal-savings deposits is consistently higher higher that in the private sector. Lured by these higher interest rates and by the convenience of banking at post offices, the Japanese people have put more and more of their money into postal savings, to the extent that by the end of the twentieth century they accounted for about a third of all bank deposits in Japan. (p. 151)

In 1999, the \52.9 trillion Zaito program amounted to two-thirds of the money disbursed in the official "first budget." The beauty of Zaito, form MOF's point of view, is that it flows from an inexhaustible pool of public savings and is largely invisible to politicians and the press. So far so good. The problem is that the people who manage Zaito are the same "brilliant, creative, tenacious, public spirited" MOF men who have run Japanese banks into the ground. With an endless supply of money at their disposal and no public accountability, the fifty-seven tokushu hojin and other agencies on Zaito support have racked up debts as they have spent trillions on all these wasteful monuments and shell agencies supporting ex-bureaucrats. (p. 152)

追追記:2002年5月12日の日本経済新聞は、財務省が公益法人向け補助金を、今後二年間で補助金の四分の一に相当する五千億円程度の削減を目指していると報道しました。公正を期すため、ここに追記しておきます。

追追追記:その後、この本の翻訳書は『犬と鬼』として講談社から発刊されました。

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杉本卓・朝尾幸次郎『インターネットを活かした英語教育』(大修館書店 1800円)(2002/4/26)

この本の刊行を心から喜びたいと思います。

第一の理由は、著者に、長年英語教育界で良心的な活躍をされてきた朝尾幸次郎さんに加えて、情報教育・認知科学・メディア論を主な研究のフィールドとされている杉本卓さんが入っているからです(鬼に金棒!)。この新しい知的刺激は英語教育研究にとっての素晴らしい貢献となっております。

いきなり話が脱線して恐縮ですが、英語教育界というところは、日本の他の分野と同様、いやひょっとしたらそれら以上に守旧的なところです。ある全国学会であった本当の話ですが、ある若手研究者がアメリカの認知科学研究を的確にまとめながら英語授業研究のあり方に関して発表をしました。ところが発表が終わった後、英語教育界の長老格とも言える人がその若手に近づいて言うには「あまりわけのわからない研究を紹介してはいけません。他分野の研究というのは、英米の応用言語学者がきちんと引用してから、日本で紹介するべきです」---その若手は驚きましたし、私もこれを後に聞いた時は絶句してしまいました。

もちろん英語教育界にも開放的で柔軟な人もいます。しかし英語教育界の大勢は、ビジネス界の話も聞かず、認知科学界の話も黙殺しているように私は思えます。お互いが「英語教育学の人間」と認め合っている人の言動ばかり注目しているといえませんでしょうか。

本書はそのような英語教育界に一つの風穴を開けてくれたといえるでしょう。英語教育以外の教育研究ではもはや常識といっていいような知的財産である「近藤真さんの短歌・俳句データベース実践」、「Travel Buddy Project」、「社会構成主義・状況論」、「『構成』としての学習」、「状況に埋め込まれた学習」、「師匠-弟子関係」、「just-in-case learningとjust-in-time learning」、「Computer Supported Collaborative Leaning(CSCL)」といった概念が、この本では具体的に語られ、かつ「コラム」で的確にまとめられています。これらの概念は英語教育界においてもぜひ共有財産にしたいものです。

私がこの本の刊行を喜ぶ二つ目の理由は、この本がインターネットの導入を通じて、「英語を学ぶ・教えるということがどのようなことなのか、そもそも人が学ぶとか教えるというのはどのようなことなのか、道具と学ぶこととの関係はどのようなものなのか」(iii)といった本質的な問題を、観念的にならずに具体的に考えているからです。

またもや脱線して英語教育界の悪口を言わせてください。英語教育界ではちょっと理論的な発表があると、すぐに「それが明日の授業にどうつながるのだ。私たちが知りたいのは授業で何をすればいいかということだ」という声があがることがあります。もちろんそのような批判を受けることが妥当な、屁理屈だけの発表----私の研究とてそうなのかもしれません----、あるいは、屁理屈を実験と統計で隠したような発表も多いでしょう。しかし、同時にあまりに繰り返されるそのような声に私は強い懸念を抱くことも多いです。

失礼を承知である例え話をさせてください。あなたが高校生の家庭教師をしているとしましょう。ところがその高校生は詰め込み式のスパルタ進学校に通っており、毎日小テストに追われ、その小テストをクリヤーしないと彼は進級できません。勉強を基礎から教えようとする家庭教師のあなたに彼は言います。「先生、そんな理屈なんかどうでもいいんです。僕にとって大切なのは明日の小テストです。明日の小テストで何点取れるかが大事なのです。ここに明日の予想問題があります。まずこの答を教えてください。僕はそれを覚えます」。彼の必死の訴えにあなたはうろたえて、予想問題の答を告げることをあなたの家庭教師としての仕事にしてしまいます。かくして彼は無事進級します。さて、あなたは良い家庭教師だったのでしょうか。

寓意は明らかだと思います。英語教育研究も「すぐに役立つ」ことばかりを考えるだけではなくて、少しは根本的なところから考え直すことが必要なのではないか、ということです。この本は、まさにそのような根本的な考察を、抽象と具体のいいバランスを保ちながら行っています。インターネットに関しても「私たちがめざさなければならないのは、数年先、技術の進歩により古くなり、使えなくなる知識や技能ではなく、いつまでも真実として光る洞察」(p.15)なのです。「お金をかけ、技術を尽くしたのだから学習効果が上がるはずだという思い込みが私たちにはあるようです。LL教室を設置してそれで効果があがらなければ、設備が不十分だと考えて、さらに高機能の機器を導入する。それでさらに失敗すれば、もっと高価で最新の設備を導入するということを繰り返してきたのが、これまでの視聴覚教室ではなかったでしょうか」(p.16)という著者の指摘にうなずく人も多いと思います。いや私たちはテクノロジーを新しいおもちゃのように喜び、やがては忘れてしまい、次のおもちゃは何かと探している子供のようなのかもしれません。インターネットに関しても本質的な思考は必要です。

とはいえそのような本質的な思考とは観念論ではありません。それは海外とメール交流をする時は、必ず本や百科事典でその国のことを学んでからにする(そしてそれはなぜか)、古い「英作文」教育しか受けていない非ネットワーク経験者は"by the way"などのつなぎのことばを使って、とにかく思いつくことを書き連ねることが多い(そしてそれはなぜか)、会話は発言者と受信者が交互に役割交代をしているのではない(そしてそれはなぜか)、従来の教室での会話学習は会話の中身にあまり意味を見出していなかった(そしてそれはなぜか)、オンラインによる学習で伝統的な作文能力が伸びたかと聞くのは、車の運転講習で乗馬の技術が向上するかと尋ねるようなものだ(そしてそれはなぜか)、「自分の頭だけでやらねばならない」という考えと「すべて他人に委ねてやってもらう」という考えの間に「様々な道具を使い、自分で理解し考えながら、自分のやりたいことを成し遂げる」という考えがあってもいいのではないか(そしてそれはなぜか)、といったことを具体と抽象の間を何度も往復しながら吟味することなのです。

授業でインターネットを使っている人、あるいはこれから使おうという人には必読の書だと思います。きわめて有益なサイトの情報もあります。お勧めの良書です。

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金谷憲『英語授業改善のための処方箋 --- マクロに考えミクロに対処する』大修館書店 1800円(2002/4/16)

良書です。全ての英語教育関係者がお読みになることを心からお勧めします。授業を改善したいがどうしたらいいのかわからない英語教師の皆さんは、購入してレファレンスとして机の上に置いておくことをお勧めします。これから英語教師になろうとしている学生の皆さんは熟読して、この本に書かれているような内容を新しい英語教育の常識にしていただきたいと思います。読みやすくて内容が豊かな良書です。

この本は、副題の「マクロに考えミクロに対処する」が的確に表現しているように、日本の英語教育が置かれている状況を大きく把握した上で、具体的な授業のやり方を細かく教えます。このマクロとミクロのバランスがいいです。英語教育界にはマクロの話は好むがミクロの話を無視する人や、ミクロの話には熱狂するがマクロの話にはてんで興味がない人は多いですが、マクロとミクロの二つの視点を持ち合わせた人はなかなかいません。金谷憲さんはこのバランス感覚を高度なレベルで持ち合わせている人ですから全国の多くの英語教育関係者に信頼されていますが、この本はそういった良さが見事に表われている本です。

Part Iはマクロな分析に費やされます。日本に住む人間の多くにとって英語が「外国語」であることで生じる困難点は、英語に関して(1)差し迫った必要がない、(2)触れる量が少ない、ことであると認識し、そのための処方箋として(1)ニーズを作る、(2)接する英語の分量を増やす、ことを方針とします。

そういった方針に基づいて現実の教室でできるミクロな改良を金谷さんはPart IIで詳しく述べます。ここがこの本の主な内容です。この内容が豊かだから、私はこの本を英語教師の机の上に置いてもらいたいと上で述べたわけです。

話はとても具体的です。まずはどの教科書でも出てくるダイアローグ。これをどう扱うか。金谷さんが提案するのは、教科書を背中にして立たせること、ダイアローグは変えずにダイアローグの場所・心理状態を変えること、(ビデオがあれば)アフレコを行ってみることです。あるいはテープの使い方としても、シャドーイング、Last Sentence Dictationなどを勧めます。読み教材も、Look Up and Translateや、教科書を閉じさせての要約や、(様々な課題を与えて)繰り返して読ませることや、和訳直後の英文再生などを解説します。書き写す活動にしても、Look Up and Writeを勧めます。これらを従来の授業のレパートリーに加えて、臨機応変に使いこなせば、授業もずいぶん改善されるはずです。またこれらの提案は、全国様々の教師の体験に裏づけられたものですから、アドバイスも細かく、授業実践に非常に役立ちます。提案の多くは私も達人セミナーなどで目にしたものですが、こうして改めて文章で解説されると、よくよく納得できます。ワークショップはわかりやすく感激もしますが、案外そこで学んだテクニックは身についていないことも多々あります。やはり文章で理解し、その文章を常に手元に置いておくというのは大切なことです。

インプットの量を増やすことについても、金谷さんは、速読の時のタイムの計り方の詳しいコツや、多読の時の指示のコツ(例、他人への紹介シートを作る、「読み始めて面白くないと思ったとき、よくわからないときなどは最後まで読まなくてもよい」というルールを作る、リーディング・マラソンを行う)などを紹介します。オーラル・コミュニケーションに関しても、ディベート・ディスカッション・スピーチにおいては資料としてインプットを与えることの重要性を説きます。このPart IIは是非折にふれ読み返して、これらの手法を授業の常識にしたいものです。

Part IIIではマクロに考え、ミクロに対処するにあたっての英語教育界の問題点を整理します。その問題点とは「単純文法訳読派」と「単純オーラル・コミュニケーション派」の不毛な対立です。ここでいう「単純文法訳読派」とは、「文法は文法書にあり」と思っており、「文法の定着」と「文法について知ること」を混同している人たちのことです(ちなみに私は最近Chomsky(1965)の第一章を再読しましたが、これをきちんと読んでもこのあたりの混同はなくなると思います)。彼/彼女らはオーラル・コミュニケーションに関しても浅薄な理解しかしておらず、それは「お遊び」でせいぜい簡単な英語に過ぎないと思い込んでいるわけです(ここでもコミュニケーションに関する理論的理解の不足が英語教師に悪影響を与えています。とはいえ「オーラル・コミュニケーション」などという他では聞かれない用語を出した文部(科学)省にもその責任はあると私は思います)。一方で、「単純オーラル・コミュニケーション派」は、文法は知らなくてもコミュニケーションはできると、これまた浅薄で誤った言語コミュニケーション観を持ち、コミュニケーションとは結局「役に立つフレーズ」を覚えることだなどと考える人たちです。こういった考えにしか基づいていない人たちが「コミュニケーションだ」、「いややっぱり文法訳読だ」といくら議論を繰り返しても英語教育は改善などされません。

そのような不毛な対立を止めて、金谷さんは授業の工夫をしない教師には研修を受けさせ、工夫をする教師にはもっと自由を与えることを訴えます。しかしここらで明らかになる英語教育界の実態は情けないものがあります。研修についていうなら、40年あまりの教員生活で義務づけられた(つまりは保証された)研修期間は二週間程度しかありません。教師の自由という点では、多くの場合、授業改善をしない教師が、創意工夫をする教師の足をひっぱります。英語教育界には厳しい批判が向けられるべきだということには私は賛成しますが、一方で「英語教師が諸悪の根源だ!」などというスケープゴート作りには私は反対します。英語教育の改善には創意工夫だけでなく、時間とお金が必要です(注)。改革のための自由を制度的にも保証しなければ、英語教育の進展は、少数の個人の犠牲的な人生によってしかなされません。そのような進展は、その人たちの健康や家庭生活の修復が効かなくなったりするか、他の人たちに足を引っ張られるかによって、やがて終わってしまうというのが現実です。

話はずれてしまいましたが、英語教育をマクロに考え、ミクロに対処することを勧めるこの本の姿勢は英語教育界にとって重要です。一読あるいは購入を心からお勧めします。

(注)日本のお役所は、「お金が必要」となると、すぐに建物を立てたり機器を購入したりはしますが、その後のケアや人材育成にはほとんど見向きもしないことが多いです。私がここで必要だと言っている時間とお金は、英語教師という人間を育てるための時間とお金です。


『小学校でなぜ英語?』大津由紀雄・鳥飼玖美子(岩波ブックレットNo.562 480円)(2002/4/2)

四月を迎え2002年度も始まりました。2002年度は学校教育にとって様々な改革が行われる年度ですが、その一つに「小学校での英語教育」があります。「小学校での英語教育」といっても、これは著者らが同書の冒頭で指摘するように、小学校での「総合的学習の時間」における「国際理解教育」の一環として「たとえば英会話などを実施できる」と新しい学習指導要領が言っている事態を指しているに過ぎません。ところがそういった趣旨が深く考えられること無しに「早期英語教育、英会話」と浮き足立っているところに著者たちは懸念を抱いています。というより著者たちの立場はいわゆる「小学校への英語教育導入」には当初から反対で、「もっと早く、もっと積極的に反対の論陣を張るべきであった」(p.2)と考えています。しかしその意見が通らなかったことを悔いるだけではなく、もう一度「あたりまえ」のことと考えられてきたことがらについて、基本に立ち返って再検討するのがこの本の狙いです。「『もう決まったことだっから』と黙っているのではなく、異論を唱えつづけることによって、既定路線を批判的に検討する機運が生まれ、人間の思想の根幹をなす「ことば」について真摯な考察がなされることを心から期待するものです」(p.67)というのは著者たちの最後の言葉ですが、この本はそういった静かな批判的理性の行使を平明な言葉で見事に示している本といえましょう。

著者たちは文部科学省が2000年度に作成した『小学校英語活動実践の手引』の認識----「国際理解」と「外国語会話」の関係について、「現在、世界の多くの場面で使用されている言語であることや子どもが学習する際の負担等を考慮して」「英語を取り上げること」とし、さらに「国際理解を進める具体的な学習活動」として「外国語会話」、「国際交流活動」、「調べ学習」などをあげ、「外国語会話」をするにあたっては、現在の世界で主流である英語を「歌、ゲーム、クイズ、ごっこ遊び」などをとおして教えるなら、子どもの負担にもならないし、コミュニケーション能力の育成になるという認識----を、「そこには、コミュニケーション能力とはいったい何をさすのか、という基本的な考察はなく、21世紀の世界で台頭しつつある、アメリカ主導のグローバリゼーションに対する反感や反論についての配慮もありません」(p.7)と批判します。「国際理解」をいうのなら、まずは世界の多様性を小学校で教育し、異質なものへの寛容な心を育てることが肝心、というのが著者らの見解です。そういった根本的な理念的考察を欠きながら、他方では具体的ノウハウも準備も十分にないまま「総合的学習の時間」の「国際理解」が「要は『英語教育、つまりは英会話』なんでしょう」とばかりに各小学校の自由裁量で行われることは、日本の英語教育全体にとって逆効果であるのではないかというわけです。

さらに著者たちは、英語は「早く始めるほどよい」というのは根拠が存外に薄弱な通説に過ぎないことを数々の事例から示します。「信頼できる教師を確保する見通しもないまま、また実践例の十分な調査研究もないまま、はじめられようとしている小学校での英語教育は、わたくしたちの目には危険な人体実験としか映らないといっても過言ではありません」(p.28)というのが著者たちの弁です。続いて著者たちは「コミュニケーション能力」の概念を検討し、その中に言語学的知識が不可欠の要素として働いていることを示します。「当たり前ではないか」と英語教師なら言うかもしれませんが、一方で「コミュニケーション重視」という言葉がスローガンとしてのみ働き、これまた浅い理解で「文法軽視」を招いているのも事実です。ここで大切なのは浅い理解にしか基づいていない議論を熱く行うことではなく、著者たちが示しているような冷静な理解に基づいた議論を静かに行うことなのです。蛇足ですが、私もコミュニケーション能力について色々と書いています。少なからずの人がそれを読んで「何を難しいことばかり言っているんだろう。現実の処方箋こそを私たちは求めているのに」と思うのかもしれませんが、本当に現実を打開しようとすれば、実は忍耐強くゆっくりと概念を正確に理解し、その正確な理解に基づいて正しく議論を進めてゆくことが必要だというのが私の立場です。

話を同書に戻しますと、著者たちは現状を次のように概括します。

日本の最近の状況を見ると、小学校から英語をやればきっと皆、英語をしゃべれるようになる、という大いなる期待だけが先走っていて、小学校で何をやり、中学・高校では何を教え、大学ではどのような英語を学ぶのか、という議論がなされていません。中学は、高校受験による英語教育のゆがみを指摘し、高校は大学入試が英語教育改善を妨げていると批判し、大学では基礎力がはなはだしく欠如したまま入学してくる学生にあきれ、結局、唯一の解決は小学校から始めることだ、となっているかのようです。

しかし、まず何よりも必要なのは、日本人がいったい何のために、どのような英語を習得するべきなのか、目的と到達目標について考え論議し合意を形成することです。それがなければ英語教育といっても、ただそれぞれの段階でばらばらな教育をすることで終わり、効果もあがりません。(pp.40-41)

こういった反省に基づき筆者たちは、「学校英語教育は何を目指すべきなのか」を根本的に考え、具体的に提言します。その提言にみなさんが、賛同するかどうかは実際にみなさんが同書をお読みになるのを待ちたいと思いますが、少なくともその考察と提言の展開のやり方には一様に好印象を受けることと思います。この本は論証のスタイルにおいても私たちが学ぶべきものを持っているように私は思います。

この4月から実際に小学校で「英語教育」に携わっている方は、同書や同書を紹介するこの小文に対して、「せっかく、明日の授業をはりきってやろうとしているのに」とご立腹かもしれませんが、長期的な視野は、短期的な視点同様、何事にも欠かせないものです。小学校「英語教育」関係者こそぜひお時間をとってお読みください。70ページのブックレットですから、そう時間はとらないはずです。もし多少でも日本の英語教育について真剣に考えたいのなら、この薄い中に豊かな内容と健全な批判精神を、明晰な表現で平明につづった同書をお読みになることを心からお勧めします。


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