書評

ここでの私の読みに間違いがあったら「中庭」か、柳瀬へのメール(yosuke@hiroshima-u.ac.jp)でご叱責・ご批判ください。誤りはすぐに訂正します。

もし書評を読んで興味がわいたら、是非ご自分でその本をご購入なさって、実際にお読みになることを強くお勧めします。

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育研究を推進する立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。また人名に関しては、どんな方に対しても「〜さん」づけで表記してます。


『総合的な学習につながる中嶋洋一の子どもが輝く英語の授業 第6巻 講演記録編』(中嶋洋一、バンブルビー・学研)(2002/3/29)

このDVDは(財)日本英語検定協会派遣講師事業'98帯広イングリッシュ・ハウス・ジョイにての中嶋さんの70分あまりの講演(ワークショップ)を中心に編集されたものです。

冒頭、中嶋さんは「英語を教え込む」のではなく、「言葉の大切さを伝え」、「生徒の成長を助ける」英語の授業をしたいと述べます。そのために中嶋さんは(1)子どもが意欲的になる授業とは?(2)子供が自信を持つ授業とは?(3)教師が楽しくなる授業とは?という問いを考え授業を作り上げてゆきます。「授業をcomfortableにし、試験をenjoyableにする」とも中嶋さんは言います。それらを実現するために中嶋さんは教師が(a)visionを持ち、三年間・一年間を通じてのゴールを設定し、(b)教科書を創造的に使い、(c)文法中心ではなくコミュニケーション中心に授業を作り上げることを強調します。このDVDをごらんになれば、この段落に述べられた中嶋さんの言葉の非常に深い意味を、具体的な授業実践を通じて味わうことができます。中学英語教師はもちろんのこと、高校英語教師の皆さんもぜひご覧になり、この中嶋実践のエッセンスを各自なりに体得してください。

さて中学英語三年間のゴールを、中嶋さんは「高校受験合格」ではなく「英語での卒業文集作り」におきます。これには当初保護者からも反発がかなりあったそうなのですが、その卒業文集を宝物のように家に持ち帰る我が子を見て、さらには我が子や友達による作品の質の高さを知って、保護者も最後には心から納得したそうです。もちろんその前提として、中嶋クラスの生徒の英語成績がよくなっていたことは言うまでもありません。

講演ではワークショップ的に、その卒業文集からの四つの詩を聴衆(英語教師)に提示し、どれが一番好きかを選ばせ、それを「評論家になったつもりで」隣の人になぜそれが良いかを伝えさせます。ここでは聴衆の英語教師が本当に楽しそうにその活動を行っていました。四つの詩はDVDのDATAに収録されていますから、ぜひここは皆さんも実際に詩を読んでどれが一番好きかを選んでみてください。「心が動く材料とそれを味わう観点を提供」する教師により、「言葉が心から出てくるようになる」様が自ら実感できます。実際の授業では中嶋さんは、さらに詩を「詩人になったつもりで」日本語にしてみるように指示します。さらにそれを「五人の友達と見せ合いこしなさい」と指示して、生徒に様々なことを気づかせた上でもう一度その翻訳を書き直しさせます。このあたりの指示の出し方は生徒の心の動きに非常に則したもので、中嶋さんがまさに子供に意欲を持たせることを心がけていることがよくわかります。

次に講演は、「深まりを育てる」ことにトピックを移します。よく生徒に「昨日の感想を英語で書いてごらん」と指示しても、生徒は"It was interesting."とか"I was tired."とぐらいしか書きません。そんな時中嶋さんは、多くの英語教師のように「もっと習った単語や構文を使ってみよう」などとは決して言いません。そうではなく、中嶋さんは「その時周りはどんな様子だった?」などと問い掛けます。デイヴィドソンさん風に言うなら、言語を使うことは、世界のありようと不可分に結びついていることを十分に踏まえた言語使用促進の指示を出しているわけです。言語使用がつながってゆくのは、言語使用が文法に従っているからというよりは、言語使用が世界のありように則しているからなのです。世界のありように心動かされて人間は言葉を連ねてゆきます。その連なりのなかで文法も重宝されるのです。コミュニケーションにおいて原初的なのは、世界の理解の仕方(デイヴィドソンさんの用語でいうなら即時理論passing theories)であり、予め定められた規則(デイヴィドソンさんの用語でいうなら事前理論prior theories)ではないのです。別の例を使うなら、中嶋さんは、仮に"have to"を扱った授業の後に生徒が自由作文で"I have to study hard tonight."としか書かなくても、多くの英語教師のように「そうそう、もっと多く"have to"を使った文を書いてみよう」などとは決して言いません。そうではなくて、「その状況が誰にもよくわかるように具体的に文を付け足してごらん」と指示します。ここでも中嶋さんは言語規則ではなく、世界のありように即することで言語使用を促しているわけです。Cohesion(文法的つながり)と異なり、形式的には学べないcoherence(文脈的つながり)も、こうすれば自然に学べます。中嶋さんの実践は、ご自身が英語をよく使っていることからくる、このような自然な言語使用が特徴的です。言語使用が、言語学的に偏ってはいません。「コミュニケーション重視」をうたいながら、依拠する理論が言語学理論だけ(あるいは言語学の応用としての心理言語学だけ)という英語教育研究者が多いので、このあたりの中嶋さんの自然さは強調しておきたいところです。

講演のトピックは次に音読に移ります。中嶋さんは音読を英語学習において非常に重要なものとして考えていますが、同時にただ「五回音読しなさい」では生徒は「やらされている」と感じてしまい、意欲を失いがちだということを知っています。こんな時、中嶋さんは三本のペンを教科書の上に縦に並べさせます。そうしますと当然見えなくなるところが出てきてそこを推測しながら読まなければならなくなるため生徒は懸命に読もうとします。さらに「三分後には隣の席に移動して、隣の席で置かれた三本のペンの配置のままで音読をしてもらいます」と指示をします。こうすると生徒は一層集中します。認知的負荷を巧みに変えることで生徒の意欲を高めるのが中嶋さんのやり方の一つです。

DVDではこの他にも、イラストを見て台詞を入れる、それを周りの人と交換する、さらには自分の作品に色鉛筆で塗って廊下に展示するなどの活動や、「うすのろ」と呼ばれるトランプゲームの要領で"I-my-me-mine", "行く-go-went-gone"などの活用形を一時間で完全に習得させてしまう活動、あるいはチャンクごとのリスト学習(一分でいくつ言えるかペアで競い合う)が紹介されていますが、これらについてはぜひDVDをご覧になり、さらにその内容を中嶋さんの著書である『学習集団をエンパワーする30の技』(明治図書)をお読みください。前にも述べたと思いますが、中嶋実践は外側だけを一知半解で真似しても必ずしもうまくゆきません。中嶋実践を支える思想や感性を深く理解するためにもDVDと本の両方に目を通すことを強くお勧めします。

というわけでこれらのノウハウに関してはここでは割愛しますが、これらを見て私が思ったのは、こういう中嶋さんのような発想は、自らが感じて動く(=感動する)ことのできる人でないとなかなか出ないものではないかというものです。また教師の人格という柱がなければ、これらの授業のノウハウは統一感のないテクニックの寄せ集めになってしまうのではないかとも思わされました。青臭いことを承知で臆面もなく申し上げますと、英語教師自身が英語を通じて少しでも素晴らしい人間になろうと努力していないと、これらのノウハウはどこかちぐはぐな実践にしかならないのではないかと私は考えます。

話をDVDの講演に戻しますと、中嶋さんは「チェーン・レター」という実践をワークショップ形式で公開します。公開されたバージョンでは三人が一組になっています。最初の人は賛否両論分かれそうな論題について自分の意見を書き"What do you think?"で文章を終えます。二番目の人は、その論題について最初の人と反対の意見を書かなければなりません。第三の人は、最初の人と二番目の人の意見を読み比べて、どちらに賛成するかの判断を下します。このように次々と「レター」を回してゆくわけです。この活動では生徒が自分の意見を書くために、人の意見から自然な模倣をするみたいです。DVDのDATAに掲載されていた生徒の感想が素晴らしかったのでここではそのうちの二つほどを引用しておきます。

いつもの勉強は、どちらかというとテストのためにしていたのかもしれません。しかし、このチェーン・レターはなんとか相手に英語で伝えようとする気持ちがあったので、今まで習ったことを使ってどんどん文が作れました。/読む方でも「この人はなんと言っているんだろう」と思うと、読みたくなって、自然と読むことができました。読めない単語も内容の流れから「こうじゃないか」と考えることができた。もう一度してほしいとものすごく思いました。ものすごく楽しかったです。(女子)

最初は1-2文しか書けなかった英文が後になると、5文ほど書けるようになった。1-2文しか書けなくて最初はとても悔しかったけど、人のをいろいろと読んでいくうちに分かってきてとてもすらすら書けるようになった。文法が間違っているかもしれないけど、すらすら書けて言いたいことが3/4ぐらいは英文に書けたと思う。後になって、自分の最初に書いたものを読むととてもおもしろいものや勉強になるなと思うような英文があったので、それも真似をしてゆきたいと思います。英文を初めて一生懸命に読んだ気がしました。(女子)

デイヴィドソンさんは解釈の際には、論理的制約に加えて、実証的制約と全体論的制約が働くので解釈が可能になるといいます。実証的制約と全体論的制約というのは、ここの例に合わせて言いますと、日頃自分が見聞きしていることや自分が知っていることとの関連性のこと、つまり「この人」や「内容の流れ」です。また生徒が自然な模倣をしていることは、「人のをいろいろと読んでいくうちに分かってきてとてもすらすら書けるようになった」という述懐に端的に現れているように思えます。

さて、講演の次のワークショップ活動は読みの活動です。この読みの活動も、中嶋さんは自然な言語使用に基づいて「目的もなしに私たちは読むことはしません」という前提からスタートします。ワークショップではネパールについて書かれたAとBという異なるプリントを渡し、参加者は後で隣の人にリポーターとして内容を伝えることを指示されます。内容を伝えるといっても漫然と伝えるのではなく、「日本と違うと思ったところに線をひきなさい」という指示に基づいての「へえっ」という驚きと「伝えたい」という意欲に支えられた伝達なのです。ですが中嶋さんは読んですぐに伝えさせるのではなく、「・・・はどうだったかな?」等と適当な質問を投げかけます。英語の読みが完全ではない生徒はそこで「どうだったっけ・・・」などと知的に"hungry"になります。そこで中嶋さんが「一分だけあげるから忘れていたことを思い出すために読んでごらん」と指示を出しますと、生徒はここではじめて「速読」を行うわけです。なるほど、「速読」は読者の内的必然性に支えられてはじめて可能になるというわけです。さらにこの活動では「読む」ことと「話す」ことがリンクされています。こういった活動の自然さが中嶋マジックの秘密の一つなのでしょう。

DVDのインタビューでは、この収録された講演の時、中嶋さんは「緊張して足がガクガクしていた」という言葉が印象的でした。とてもそうは見えなかっただけに私は少し驚きました。また中嶋さんは、中学生という必ずしも動機付けられていない人に学ばせることに最大限の配慮をしていることもよくわかりました。このあたり「読んでわからないのは読者が悪い」といったように論文を書きかねない大学教師は反省しておかなければいけないのかもしれません。

DVDには中嶋さんの本のイラストも担当している近藤真紀子さんの絵と詩が掲載されたセクションもあります。これはゆっくりと心で見て、何かを感じ取ってください。先ほども述べましたように、教師自身が少しでも素敵な人間にならない限り、学校教育はよくならないのですから・・・

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


『総合的な学習につながる中嶋洋一の子どもが輝く英語の授業 第5巻 基礎・基本編』(中嶋洋一、バンブルビー・学研)(2002/3/16)

このDVDは、9つのセクションと中嶋さんへのインタビューから構成されており、いわゆる「中嶋マジック」の基礎・基本が体系的に学べるようになっています。中嶋さんの授業の素晴らしさにため息しかでない英語教師の方も、この第5巻が訴えていることをよく考え、消化することによって自分の授業を改善することができると思います。

最初にその中嶋さんの基礎・基本のエッセンスを私なりに簡単にまとめておきますと、(1)知覚的訓練の徹底をすること、(2)大まかにいって、知覚的訓練から運動的訓練、そして認知的課題へと授業を順序だてること、(3)訓練・課題ごとの到達目標を明らかにすること、(4) ペア学習を中心として一人一人の生徒の存在を最大限活かすこと、(5)英語を英語の語順でチャンクごとに処理することを徹底させること、とでもなりましょうか。以下、各セクションについて述べながら、これらのポイントの意味を少しずつ明らかにしてゆきたいと思います。

第一のセクションは「シャドーイングの説明」です。シャドーイングの何たるかが中嶋さんによって解説された後、教室の実写が始まりますが、その実写の中で見られる英語→日本語、日本語→英語の同時通訳の訓練は見事で、中学生からこれだけ大きな声で即座に、かつ自然に同時通訳が聞けるというのは、シャドーイングの訓練のたまものだと言えます。「中嶋マジック」の(いまや公然の)秘密の一つは、こういった基礎訓練の徹底にあると私は思います。また、実写の中で、生徒からALTのコリーンさんへの反応がない時の、中嶋さんの介入の仕方も巧みです。

第二のセクションの「シャドーイングから同時通訳へ」は、中嶋さんが知覚的訓練から運動的訓練、そして認知的課題へと、徐々に生徒にとっての負荷を上げながら訓練メニューを積み重ねてゆく方法を注意して学びたいところです。25分というやや長いセクションになっていますが、このセクションは見た後に、よくよく原理を考えておきたいセクションです。

最初は中嶋さんがゆっくりと英語を読みます。次の中嶋さんの音読は速いスピードで、生徒は指し読み(音読されているところを指でたどって、目の動きをスムーズにする訓練)を行います。次は教師と生徒の同時音読で、これは三回繰り返すことによって、生徒に達成感と自信を感じさせるようにもしています。こういった知覚的・運動的な訓練を行った上で、だんだんと頭を使わせる認知的課題へと中嶋さんは移ってゆきます。といっても、いきなり英語の得手不得手が分かれやすい認知課題に個々人を持ってゆくのではなく、ペアリーダー(英語が比較的得意な生徒)がパートナー(英語が比較的不得意な生徒)を導く形でのペア学習がまず導入されます。そしてそのペア学習は同時通訳訓練へと移行してゆきます。英語から日本語への同時通訳はペアリーダーからパートナーへという形で行われます。つまりペアリーダーが教科書の英文を音読すると、パートナーはその英文を見ることなく、聞いたはしから英文を日本語にするわけです。逆に日本語から英語への同時通訳は、パートナーからペアリーダーへという形で行われます。パートナーが教科書の英語を見ながら、その日本語訳を読み上げると、その日本語を聞いたペアリーダーがそれを英語に復元する形で通訳をするわけです。これはかなり高度な課題ですが、知覚的・運動的訓練を十分にこなした中嶋さんの生徒はどんどんとこれをこなしてゆきます。またこの知覚的訓練、運動的訓練、認知的課題は、チャンキング(意味のまとまり)ごとに英語を処理するという原則が貫かれたものであることにも注意したいと思います。「情報を後へ付け足す感覚を身につける」とは中嶋さんの言葉ですが、英語を英語の語順のままに、意味のかたまりごとに、処理してゆくことを中嶋さんは徹底しており、決して(旧来の授業でよくやられていたように)全文をひっくり返すように翻訳して英語を理解させたり発話させたりすることはしていません。これは、英語力をつける授業にとって、私は当たり前の原則だと考えていますが、未だ多くの英語授業でこれが徹底されていないので注意を喚起する次第です。

第二のセクションではさらに、相手の話のキーワードをとらえて質問する訓練が紹介されます。この訓練によって、生徒は話をつなげてゆくことを覚えます。この話をつなげる(=coherenceを見つけて発話してゆく)ということも、極めて高度な認知的課題ですが、これも相手の英語が安心して聞けるようになっているという知覚的訓練と、思うことがある程度そのまま英語になるという運動的訓練の前提があってはじめて可能になっていることだと私は思っています。また、聞かれた時には一言答えるだけではなく、必ず一文何かを付け加える、という中嶋さんによるルール設定も重要な役割を果たしています。

第三のセクションは「情報をつなげるマッピング」です。前のセクションで訓練したように、生徒は話のつながり(coherence)を見つけて発話するわけですが、そのcoherenceをさらに図示することによって生徒は自分にとってのcoherenceを一層明らかにしてゆきます。このマッピングはメモの方法としても優れていますし、確か立花隆も原稿をまとめる際にこのような手法を使っていたように記憶しています。何度もいいますが、話をつなげてゆくといった高度な認知的課題の遂行は、このような具体的な補助手段があってはじめて中学生にも可能になっているのだと思います。

第四のセクションは「グルーピングとナンバリング」です。人の話を書き取ったマッピングのメモから、話を英語で復元的に再生する準備として、マッピングの項目を整理し(グルーピング)、さらに論理的な順番をつけてゆきます(ナンバリング)。仕事柄、人前で話をすることが多い私もこれは良くやる手です。カラーペンなどを効果的に使い分けながら、話の分類をし、順序をつけてゆくことは、私のように性格的に厚かましく日本語をべらべらとしゃべりすぎるぐらいしゃべる人間にも補助手段として有効です。内気な中学生が慣れない英語で話をする時には、さらにより有効な手段となることは明白だと思います。これもスピーチ準備の定石として早く英語教師の常識にしたい手法だと思います。

第五のセクションは「スモールトークからリポーターへ」です。この15分間の教室実写では、パートナーの話を聞きながらのマッピング→(赤ペンでの)ナンバリング→自己練習(リポーターとしてのリハーサル)→クラス全員に対してリポーターとしてパートナーのことについて英語で語る、というプロセスが観察されます。この一連の流れの中で、中嶋さんが生徒に自己練習させるところにも注目しておきたいと思います。

第六のセクションは「メモを見ながら英語で話を再現する」です。ALTのいわゆるnatural speed(少なからずの大学生が、ついてゆけないあまり、ついつい寝てしまうスピードです!)を中嶋さんの生徒はマッピングでメモし、ペアでその話を英語で再現し、クラス全体でもその再現を確認する3分間ですが、このパフォーマンスは見事です。何も知らない人が、ここだけを最初に見たらきっとこれはヤラセではないかと思うのではないでしょうか。

第七のセクションは「ゲストとスモールトークを楽しむ」です。授業を観察に来た他校の先生たちと屈託なく英語で話す生徒さんの姿はそれだけでたのもしいものです。実は私もこの収録された授業の中にいたのですが、雰囲気は実にくつろいでいて、それでいて英語が飛び交う時間でした。最後は中嶋さんの指示の声が聞こえなくなるぐらいに生き生きと、騒がしいぐらいに英語が話されるというのは多くの英語教師にとって驚愕だと思います。この7分半は中嶋実践の確かさを裏づける何よりの証拠になっていると思います。

第八のセクションは「チャンクで英文が理解できるようになる」という19分のセクションです。中嶋さんは英語での「情報を付け足す」感覚を身につけさせるため、チャンクごとに英語を直聞直解・直読直解させることを徹底します。そのためには生徒自身がチャンクごとに英語を切ってゆくことができるようになることが重要です。中嶋さんは(1)接続詞の前、(2)疑問詞の前、(3)不定詞の前、(4)前置詞の前(ただしofは例外で、ofに関してはその句を丸括弧でまとめる)、(5)副詞句や連語の前(または後ろ)、(6)〜ingの前、にスラッシュを入れてチャンクを作るように指導します。(2)に関係代名詞が含まれていたり、(6)に現在分詞と動名詞が含まれていることからもわかるように、これらのチャンキングは英文法最優先の考え方ではなく、学力のない生徒もできるだけ英語の形からスラッシュが入れられるようにしたものです。この英文法にとらわれないアプローチは私も賛成です。例えば"I want time to play tennis."もI want time / to play tennisとチャンクに分けて、チャンクごとにそれなりに理解ができたり、あるいは発話できればいいのであって、この"to play tennis"という不定詞は形容詞的用法なのか、副詞的用法なのかなどというのは、中高生にとっては不要な問題だと私は思うからです。

話をDVDに戻しますと、上のチャンキングの原則を中嶋さんが講義した後、DVDは教室実写に移ります。教室では向井千秋さんに関する英語ビデオが流されて、生徒はそれをメモし、その内容について生徒同士で話し合って確認してから、教科書を開けて個々人で英文にスラッシュを入れてゆきます。このチャンキングがびっくりするぐらいの速いスピードで行われています。生徒さんが高度な英文処理能力を身につけていることがこのチャンキングからもうかがえます。次に中嶋さんは、少々とにかくわからない単語があってもそれはそのままにして英語を読ませて理解させます。次にペアでスラッシュの位置を確認させるわけですが、ここではペアリーダーとパートナーの役割が明確に決められていることにも注目しておきたいです。

最後の第九セクションは「新出単語をジェスチャーや板書で英語を使いながら説明する」という8分のセクションです。ここでは色などに関する日本とカナダの文化差も面白く導入しながら中嶋さんとALTとの英語の掛け合いが続き、その中で次々に新出単語が導入されてゆきます。生徒は目の前に見る板書・写真やジェスチャーと、自らが持っている常識や背景知識を総動員させて新出単語を理解してゆきます。私はデイヴィドソンさんの言語哲学で全体論的理解(ある語は、世界の中で使われる他の語との関連の中で理解されるのであって、個々別々に習得されるのではないという考え)が強調されるのをみてきましたが、ここでは自然とそのデイヴィドソン言語哲学のことが思い起こされてきました。いずれにせよ、この実写を見ると、教育実習生がよくやるような「それでは単語の意味を確認してみましょう」という儀式的な新出単語導入が、いかに退屈で生徒の生活・人生とかけはなれているかがよくわかります。

中嶋さんへのインタビューではペア学習についてとALTとの関係についての話が非常に興味深いです。ペア学習については、中嶋さんはいわゆる「わかる子」「わからない子」はどの教科にも存在することを前提として授業を考えようとしています。その存在を無視して一斉授業を強行しても「わかる子」「わからない子」の両方に不満が残りますし、かといって個別指導にしてしまえば一人一人に割ける時間がとても足りなくなります。このジレンマを解決するのが「わかる子」をペアリーダー、「わからない子」をパートナーにしたペア学習です。ペアリーダーはパートナーに決して答を言わないことを大原則として、ペアリーダーはパートナーに何とかして気づかせよう、わからせようと工夫をします。中嶋さんは10年以上このペア学習をやっていますが、特に「わからない子」にこれは好評だということです。中嶋さんの、一人一人の生徒の存在を最大限に生かすという教育哲学の具体化としてもとらえられるこのペア学習は中嶋実践の大きな柱の一つです。

ALTとの関係は「非常に仲がいいです。それは時々ケンカをするからです」と中嶋さんは笑って答えています。意見を対立させないとお互いが深まらないとも中嶋さんは言います。意見対立のあまり二日間口をきいてもらえなかったこともあるそうです。しかし、そういった意見の対立は必ず、お互いにとってそれまで見えなかったものを見せてくれると中嶋さんはいいます。

ALTとこのような関係を築くことこそ英語教師にとっての英語使用だと私は思います。主張をしなくてはならなくなるまで、教育実践にコミットし、それを何とか理解してもらおうと説得する(命令するでは決してありません)。説得の中で相手の論点も少しずつ見えてきて、お互いの相互理解をなんとか明日の授業のために果たそうとする----これらをすべて英語で行うことが英語教師が「英語を使う」ことではないでしょうか。時々は英字新聞に目を通すも、それはそのままの読みっぱなし。ALTとは、命令をするわけでもなく無視をするわけでもない、なあなあの関係を「英会話力」で維持しておいて、英語教育に関しては深い話はしない----これでは英語教師が英語を使っているとは言えません。私自身偉そうなことはいえませんが、ALTという同僚とどんどん英語教育について議論し、協調し、反発しながらも相手から学ばないと、いくらCNNやTIMEに目を通しても、英語教師は英語を自分のものにしていないと最近強く思うようになったので、このあたりの中島さんの語りには非常に共感しました。

以上、概要だけをまとめましたが、非常に中身の濃いDVDです。ぜひ一度ご覧ください。また、付録の資料集にある吉田達弘さん(兵庫教育大学)の文章は、授業観察について、いろいろと考えさせる非常にいい文章です。これもぜひご覧ください。


『総合的な学習につながる中嶋洋一の子どもが輝く英語の授業 第4巻 郷土・情報編』(中嶋洋一、バンブルビー・学研)(2002/3/5)

このDVDの最初の授業場面は「松本茂と中嶋洋一がクラス対抗ディベート授業に挑戦した」です。このディベートで特筆すべきは、中嶋さんがこのディベートを、それまでの指導・準備の集大成として位置づけていることです。このクラス対抗ディベートは、外部に披露するだけのパフォーマンスでは決してありません。生徒が覚えこんだ英語表現を外面上だけスラスラと言うだけの形だけのショーではなく、生徒がこれまでにつけてきた力と技術でもって自らの新しい可能性を探るイベントになっています。

その指導・準備の一部は、最初から二つ目の「Hint!」で見ることができます。中嶋さんは、生徒に、議論がかみ合うように反論させることを日本語と英語のそれぞれで学ばせています。ここでの中嶋さんとALTの先生のチームプレーは見事です。生徒が、必ずしもまとめあげられていない拙い日本語で表現した内容を中嶋さんとALTの先生が簡潔な英語にしてゆきます。勘のいい生徒なら、そのプロセスを目の当たりにするだけで、「なるほど、一見複雑な内容も、このようにすれば簡潔に表現できるのか」と、いわゆるstrategic competence(方略的能力:自分が持っている能力でもって、なんとか目の前にある課題に対処する能力)を疑似体験することができるといえます。さらに中嶋さんはそのプロセスの集大成である板書の英語を黒板消しで薄く消してゆくことで、表現の定着を促します。12分という長いHintになっていますが、必ず見ておきたい授業記録です。

さて、そういった指導・準備を経てのディベートですが、ここで中嶋さんはディベートをあくまでも教育ディベートとしてアレンジした形で実行し、生徒の力が十分に発揮でき、それによって生徒がさらに伸びることができるように工夫しています。そのアレンジの一つが、相手の立論をディベートの中で知らせるのではなくて、予め(授業の最初の10分)に知らせておくことです。たしかに本来のディベートの形式からすればディベートの中で相手の立論を聞き取って、それに即座に反応することが当たり前なのかもしれませんが、中学生にそれをやらせるのは無理というものでしょう。もちろん、中学生にもやらせればそれなりにやるのかもしれませんが、そのような課題設定では生徒の力を育てることはできないと中嶋さんは判断しているようです。その代わりに中嶋さんは生徒に10分の準備時間を与えるわけですが、この10分間を生徒はフルに使ってどう反論するかを準備しています。ここでは参加者全員がチームで、どう自分たちの力で効果的な反論をしてゆくかを準備するというstrategic competenceの育成を自らの力で行っているといえます。いずれにせよ、ビデオカメラを向けられても自然な表情で準備を続ける生徒さんの顔を見ていると、それだけで教師の一人として嬉しくなってきます。

そして実際にディベートの試合が始まると、「中学生でもここまでできるのか!」と英語教師なら驚いてしまうような英語討論が始まります。討論の流れは自然ですが、ここにも中嶋さんのアレンジが功を奏しています。ディベートでは通常、立論-Q&A-反論・・・等と詳細に話す順番と時間を決めて討論が行われますが、中嶋さんはあえてこの形式を崩して、5分という時間設定だけを残して、あとは生徒が手をあげて発言するに任せています。そうしますと、議論の流れが、予め予想されにくくなり、生徒はprefabricated speechでは対応できず、このディベートは、生徒の相手チームに勝とうとする熱意の中で、自然にstrategic competenceを訓練し発揮する場となっています(注)。

このクラス対抗ディベートで、ゲストとして重要な役割を果たしている松本茂さんへのロングインタビューもDVDには収められています。その中で松本さんは、中嶋さんのことを情報公開(他の教員に授業を公開している。生徒にも心を開いている。学外におけるネットワークを築いている)の点や、英語力の高さとそれによって自分自身の人生を豊かにしている点を評価していますが、これには私も同意見です。その他にも「英語教育に携わる人にアドバイスを!」のセクションで、松本さんは英語教育に関する自説を展開しますが、その意見には私は全く賛成で、異論を見つけることすらできませんでした。このインタビューの後半部分は一人でも多くの英語教師に見ていただきたいと私は思っています。

 

第二の授業場面は"A Vulture and a child"で、メッセージを持った一枚の写真(死にゆく少女の横にたたずむハゲタカを撮ったピュリッツアー賞受賞の写真)を見せて考えさせるPhoto Languageと呼ばれる方法で授業が展開されてゆきます。この一枚の写真があることによって中嶋さんの簡単な英語が生徒の心に染み入ってゆきます。いくら中嶋さんとて、写真の力なしにこれだけの説得力は出すことは困難なのではとすら思えるぐらいです。その写真に促された生徒の思考と日本語が、さらに中嶋さんの英語と絡み合い、一層集中した時間を作り出してゆきます。このあたりの中嶋さんの語りは巧みで、中嶋さんが怪談話も得意としているというどこかで聞いたエピソードもなるほどと思えるぐらいでした。間合いや緩急も含めて、見事なClassroom Englishとなっています。

黒板に貼られた写真が三枚になって、新聞記事が複数与えられた頃には、生徒は歩きながら新聞記事を読むぐらいにこのトピックに引き込まれています。そして一人で考え、書く時間が与えられると、生徒は自然に論題の肯定側、否定側に分かれています。ここでもまず日本語で考えさせ、それを言わせて、その英語表現を中嶋さんが黒板に書いてゆくという方法が取られますが、その英語は極めて簡潔で的を射たものでリピートもしやすいものです。ここでは中嶋さんの高度な日本語力と英語力が授業の基礎になっています。これらの板書を参照しながら生徒は授業の最後に簡単なディベートを英語でするにまで至るわけです。またチャイムがなってからの数十秒での最後のまとめと、余韻の残し方は見事と言いたいぐらいです。

インタビューでは中嶋さんは、教師が「発信」することの重要性を説きます。発信がさらなる受信を促し、関心のネットワークを広げてゆきます。発信というリスクを負うことによって初めて得られるものがあるというのは私も常日頃感じていることです。私たちも中嶋先生の心意気にはせめて負けないように自らの英語教育について発信してゆきたいと思います。その発信の中から、新しい秩序と新しい力が、思いもかけなかった形で生まれてくることを私は信じて疑いません。

(注)こういった自然な言語使用の場面で、デイヴィドソンさんのpassing theoriesやradical interpretationといった論点を考えると、彼が言いたかったことがよくわかります。デイヴィドソンさんの言いたいことは、学校英語教育の常識にどっぷりと浸かっていればわかりにくく、現実の言語使用を思い起こせば起こすほどわかりやすいものだと私は思っています。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


『総合的な学習につながる中嶋洋一の子どもが輝く英語の授業 第3巻 人権編』(中嶋洋一、バンブルビー・学研)(2002/2/27)

「実践的コミュニケーション能力という用語は独り歩きしているように思えます」と中嶋さんはこのDVDの中で言います。学習指導要領のこの用語も、ただむやみやたらと連呼されるだけでは英語教育の実質的変化はありません。ここで必要なのは使われる用語の概念的な理解なのです。

実践的コミュニケーション能力の概念把握の一環として、中嶋さんはコンテントの重視を訴えます。中嶋さんの「実践的コミュニケーション能力相関図」に従うなら、「内容がある→聞きたい・伝えたい→発展させたい(comfortableな集団で学ぶ・相手が大切にされる→self-esteemが高まる・empowerされる)→魅力のある人間に→内容がある・・・」と授業のサイクルが作られてゆきます。

私もこのようなモデル把握には大賛成です。「解説」ではいわゆるコミュニケーション能力に関する諸説をまとめましたが、そのまとめる過程で色々とコミュニケーション能力について考え、英語教育をとらえる視点が定まってくるのがモデル把握のいいところです。モデル把握はそれだけみていると観念の遊びのようにすら思えるかもしれませんが、中嶋さんのように実践と結びつくと、抽象的であるがゆえの総括力を発揮します。

さて、このDVDで紹介されている実践は、私も実際に観察した授業です(中嶋洋一さんの出町中学校へ行ってきました(2001/2/1))。こうして自分の見た体験とDVDでの視聴を比べてみると、やはり本当の生の熱気はなかなかカメラ越しには伝わらないというのが正直な感想です。このDVDを見るだけでも授業の熱気は十分に伝わると思いますが、実際のクラスの雰囲気はもっと熱く、集中し、そして高められたものです。

最初のシャドーイングでの導入の後、中嶋さんは観察者である我々教師を紹介し、我々と英語でsmall talkを行い、生徒にはその内容をメモさせます。ここでは生徒がなんのてらいもなく自然に英語を聞き取り、英語を通じて自然に彼らの認識を広げている様が印象的でした。これは日頃の訓練のたまものというべきで、英語にことさら身構えなくなったことは、大げさに言えば、生徒さんの人生の宝であるといえるでしょう。

こうして英語モードがシャドーイングで高まり、small talkで自然に落ち着いたら授業の本体の始まりです。性役割について予めとっておいたアンケートの結果(英語で表記されている)を中嶋さんとALTのコリーン先生が次々に紹介してゆきます。私が授業を実際に見学していたときは、この提示にただただ引き込まれて思わず見入っていただけだったのですが、このDVDでは、こういった時の演出のポイント(大切な部分は隠しておく。グルーピングでまとめておく。考えて欲しい所には寸劇をはさみこむ。提示順序を考えておく)が明示的に示されます。先ほどもいいましたように、生の熱気は記録媒体では完全には伝わりませんが、このようなポイントを理解するためにはこのDVDは非常によくできたものになっています。いずれにせよ、この提示は非常に「仕込まれた」もので、自然で円滑な授業のパフォーマンスは思考と計画と練習のたまものだということがよくわかります。

中嶋さんの授業は、演出と内容の両方が高度であるところが稀有な特徴となっています。授業の演出は素晴らしく、生徒は笑い、活動し、あっという間に一時間が終わる授業もたまにはありますが、それはしばしば内容の深まりを欠くものだったりします。あるいは逆に深い内容を訥々と伝えようとする授業もあるかもしれませんが、それは授業の演出など考えるべきではない、とするような価値観に支配された(?)ものである場合もあります。授業の内容と演出は中嶋さんのように両方共に追及するべきものでしょう。

こうして英語のアンケート結果提示とそれに伴う寸劇で、生徒の性役割についての問題意識を高めた後、中嶋さんはわざと男女別の6人グループを作らせ、日本語でこのトピックについて語らせます。その際にはワークシートも配っており、私などがよくやってしまうような、ただ「話し合いなさい」と指示するだけの活動ではありません。残念ながらこのワークシートの内容の詳細はDVDで見ることができないのですが、このような表面上では観察されにくい様々な水面下の具体的な工夫が中嶋さんの実践を支えているといえましょう。授業は表面を一通り見るだけでは決してわかるものではありません。

そうして日本語でトピックについて語り合い、内容を「深め合う」と(注)、生徒は元々の席に戻って話し合ったことを英語で周りの生徒に伝えます。この時までに、生徒はトピックに関する英語表現には多く接しており、かつ自分が言いたいことも十分に明らかになっていますから、この時間は「実践的コミュニケーション能力」を身につけるいい鍛錬の時間となっています。

やがて授業の終わりの時間が近づき、中嶋さんは授業のまとめに入ります。そこで改めて尋ねる"Are men better than women?"という問いに、授業の最初では冗談半分に"Yes!"と答えていた男子生徒も、ぐっと口ごもってしまいます。この一瞬のためらいこそは、様々なことに気づいた生徒が示す成長の確かな印です。

このDVDにもインタビューがついているのですが、その中で特に印象的だったことが二つありました。一つは、「授業中の真剣な表情は意図的に作り上げているのですか?」という問いに答えての「教師は役者です」という中嶋さんの言葉です。この場合の役者とはもちろん、ただステージに上がってやりたいようにやる存在ではなく、伝えたいメッセージを深く理解し、それを伝えるにはどうしたらよいのかを見る者の立場から考えて、自らの言葉と体の動きを訓練する存在です。私自身にしても、教室での私の言葉と体の動きが、主観的な表出だけに終わっていないか、反省しなければと改めて思いました。

もう一つ印象的だったのは、中嶋さんも学校が変わると最初は、その授業スタイルのユニークさから周りから奇異の目で見られたということです。場合によっては「英語の授業というのに、何をやっているんだ。こんなことでは入試対策が・・・」と校長や教育委員会に抗議する保護者もいたそうです。ある時は、校長に「始末書を書け」とまで言われたとか。しかしそんな状況の中でも中嶋さんは今までの自分の教育信念と教育経験に裏づけられた方法で授業をやりとおしてゆきます。そうしていると誰よりも生徒自身が「中嶋先生の授業はおもしろい」と保護者にも伝え始め、何よりも生徒の学力がついてきますから、中嶋先生がその学校を去る時には、最初は文句を言っていた保護者も「もっとこの学校にいて、弟や妹も教えてほしかった」と言うまでになるそうです。

この中嶋さんの、事実に基づいた客観的な、堅い信念と不断の努力には完全に脱帽です。私自身にしても、とかく自分の信じることを「周りがわかってくれないからなあ」とか言いつつ、簡単にあきらめてしまって、自分の信念と経験を、現実の事実につき合わせて鍛え上げることを怠ってしまいがちです。真に耳を傾けるべき声を見極め、それ以外の声には惑わされない見識と強さが大切ということを改めて思わされました。

(注)このように世界のことについて学び、語り合うという点では、英語教育は国語教育や他の教科教育と連携する余地が多くあります。というより、トピックを中心として英語教育、国語教育、社会科教育などが連携するという発想は現在あまりないようにすら思えます。これから「総合的学習の時間」が定着するにつれ、学び、語り合い、改めて表現するというプロセスにおいて、日本語と英語の二つをうまく使い分ける教育内容を私たちは作り上げてゆくべきだと私は考えます。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


『総合的な学習につながる中嶋洋一の子どもが輝く英語の授業 第2巻 環境編』(中嶋洋一、バンブルビー・学研)(2002/1/27)

第2巻も深く豊か内容で、計り知れないほどの多くのことが学べたDVDでした。

冒頭のHINTで中嶋さんは学校教育では計画性だけではなく、集団性をも重視しなければならないと語りかけます。この集団性とは、ALTのKoreen Reeceさんの言葉を借りればpersonal relationships。さらに彼女の言葉を借りながら説明を試みるなら、中嶋さんの授業は、personal relationship, skill training, and topic presentationが必然的に融合したものです。

下手をすると英語の授業というのはこれら三つのどれもないものになってしまいます。教師-生徒、生徒-生徒、ALT-教師、ALT-生徒のどの間にもよそよそしくそらぞらしい関係しか築けていない授業。読んで訳して解説してでおわり、技能獲得は「家でやっておきなさい」で終わってしまう授業。平板な内容を、さらに退屈にして提示する授業、などです。あるいは三つのうちのどれかがあっても、全てがそろっていない授業も多いでしょう。人間関係はいいけれど、日本語での解説と雑談だけで終わってしまう授業。ガンガンに技能訓練をさせるけど、ノルマ、ノルマで殺伐な雰囲気の中、単調な作業を繰り返す授業。感動的な内容を提示するけれど、英語の授業なのか、現代国語の授業なのか、倫理の授業かわからない授業などです。中嶋さんの授業はpersonal relationship, skill training, and topic presentationが見事に渾然一体となっている点ですばらしいものです。

これら三つは考えてみれば、それぞれ別物のブロックのようなものではありません。これらの一つ一つは別々に授業に導入されるものではないのではないでしょうか。Personal relationshipが成立し安心感があるからこそ、skill trainingがあり、またskill trainingもpersonal relationshipを育むように課されるPersonal relationshipの中でtopic presentationが深められてゆく。Skill trainingがtopic presentationの流れの中にあるから、言語使用が自然で納得がゆき、またtopic presentationが豊かなものだからこそskill trainingに必然性がでてくるし、personal relationshipが確固たるものになる----こういった構造が中嶋さんの授業にはあるように思えます。

授業場面1の冒頭はシャドーイングの自習です。やがて入ってきた中嶋さんとALTのKoreenさんが掛け合いでteacher's talkを始めるのですが、この英語がnatural speedで、これまでの英語教育の「常識」からすると明らかに「速い」。しかし生徒は自然に的確に反応します。やがてそのteacher's talkは生徒が選んで話すsmall talkに、そのsmall talkはマッピングというメモ取りに、そのマッピングは赤ペンでのナンバリングという発表準備に、そのナンバリングは個人での発表練習に、その個人練習はレポーターとしてのクラスでの発表に、その発表はALTからの質問にとつながってゆきます(これらの用語がさす内容に関しては実際にDVDを見るか、中嶋さんの著作を読んで理解してください)。「全ての活動を意味あるものにする」という中嶋さんの授業のつながりは一貫しており、かつ発展的で、生徒をいつのまにか集中させ、技能を高めさせるものです。

そういった一連の活動から、生徒からすれば「いつのまにか」授業の本題(環境問題と不定詞)に入ってゆきます。中嶋さんがカナダの新聞の日曜版を取り出し、どうしてこんなに厚い新聞を出版するんだ、無駄ではないか、とカナダ出身のKoreenさんに問いかけると、彼女は反論してゆく中で「それなら日本の割り箸はどうなんだ。これこそ無駄ではないのか」と畳みかけます。やりとりの中で、近所のお好み焼き屋で一日に使われる割り箸の数→砺波市(中学校所在地)での一日の消費量→日本での一日の消費量→日本での一年の消費量と、具体的な数字が順追って出され、Koreenさんが自分のカナダの故郷に割り箸工場があって、カナダの木が日本の割り箸のために伐採されているのだと訴えかけてきます。このあたりの掛け合いはso entertaining and enlighteningとでも言うべきか、私も見入ってしまい、メモが取れませんでした。このやり取りは自然な即興に見えて、実はKoreenさんとの徹底した打ち合わせの結果として出てきたものです。そうして生徒が引き込まれたところで"We cut down a lot of trees to make wooden chopsticks."と中嶋さんが板書しますと、その英文は自然ですっと心に入ってくると同時に、発話としても必然性が高いので読んではっとさせられます。「今日は不定詞を勉強します」と言って、ばらばらと板書される相互関連のない不定詞の空疎で浮いた例文が提示される授業(私もそのような授業をしていました!)とは大違いです。

その英文は、すぐにチャンクごとに処理することを指導され、技能的な側面の基礎も築かれます。Koreenさんとのやり取りはその後も二転三転し、生徒の心は動き、さらに"We need to think about the environment."といった板書もされたところで、中嶋さんは生徒にペアで日本語で語り合わせて内容の理解と認識を深めてゆきます。

この展開を見て感じたことは、このテーマ内容は、中嶋さんの世界に対する関心(愛情という言葉すら使いたいところです)に支えられたものだということです。とってつけたおざなりの認識に基づいてだと、これだけ深く心に入ってくる授業展開はできないと私は思います。

授業はさらに、これまで数時間の学習を、ポスターを見せて「振り返り」をさせた上で、"I want to", "We need to"を使いながら感想をペアで言わせ、それをライティングの課題(宿題)へとつなげてゆきます。

深く充実した50分でした。見た後私は、まるでスポーツをした後のような心地よい疲労を感じました。こんな授業を、一年を通じて受けるということは、生徒の人生にとって宝になると大げさでなく思いました。

授業場面2も、環境問題と不定詞の導入・訓練が統合された中学二年生の授業です。日本での包装は過剰でないかとKoreenさんが中嶋さんに問いかけ、やり取りの中で"In Japan people use a lot of packaging to wrap the food."という文が導入されます。しかしこの導入の前に、生徒は中嶋さんとKoreenさんの掛け合いを通じて実世界経験を(仮想的に)体験していますから-やり取りを通じて、実世界経験を思い起こして心が動いているということです-生徒は不定詞が入った文を、不定詞という文法用語を聞くこともなしに、とても自然に吸収してゆきます。例文の提示だけでなく、チャンクごとの処理の指導、生徒に消化不良を起こさせないための振り返りの時間などを取っているのは先ほどの授業と同じです。

環境に関する高度な対話が英語でなされ、それを生徒が理解していっているのを見るとこれが中学二年生の授業とは思えないほどです。現場教師の皆様に、このDVDをぜひALTと一緒に見ることをお勧めします。授業自体は英語使用が多いのでALTにも十分わかるはずですし、日本語でしか知りえない背景情報を英語でALTに説明することはまたとない自己研修となるはずです。

授業場面でなく、中嶋さんの教育哲学に深い影響を与えたレイチェル・カーソンのSense of wonderという文章の紹介、生徒の卒業文集の一部公開、印刷資料集の解説(Koreenさんの文章と関典明さんの文章は非常に勉強になります)等と、このDVDは、日本の英語教育をこれまでとは違う高い次元に引き上げるだけの潜在力をもったものです。ぜひ一度ご覧ください。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


『総合的な学習につながる中嶋洋一の子どもが輝く英語の授業 第1巻 国際理解編』(中嶋洋一、バンブルビー・学研)(2002/1/8)

あの中嶋洋一さんの授業実践が全6巻のDVDになりました。これは偉業です。中嶋実践自体も偉業ですし、それを効果的に編集しDVDにしたことも偉業です。言ってみるなら一流選手がすばらしいプレーを見せ続けただけでなく、それを自ら記録・分析した理論書を書いたようなもの。これは日本の英語教育史に残る作品です。

この偉業がDVDというこれからのフォーマットで記録されたことも喜びたいと思います。DVDプレーヤーの普及率は現在、まだまだ不十分で、私もこのDVDが出ることを知ってあわててパソコン用のDVD-ROMプレーヤーを買ったぐらいですが、この作品はDVDの特性をよく活かして、随所にHINTやDATAを挿入し、視聴者はそれをクリックすることによって、画面を見ただけではわからない授業の背景がわかるようになっています。字幕も効果的に多用され、私たちはひょっとしたら実際に授業を見学する以上に、立体的に中嶋実践を理解することができます。これまでの中嶋さんのワークショップや本やビデオで学んでいた私も何度も「なるほど」と大きくうなずきながらDVDを見ました。また、付録の印刷資料集には実際に授業を参観した蒔田守さん、肥沼則明さん(共に筑波大学付属中学校教諭)や中嶋さん自身の解説もあり、これがまた非常に勉強になります。全ての英語教育関係者に心からお勧めします。何度も見て、中嶋さんの本を読み返し、また見直す価値があります。英語教師はこの作品を見るためだけにでもDVDプレーヤーを買う価値はあると私は思います。もしこの作品を見てつまらないとでも思う人があれば、いつでも私の所にメールを送ってください。DVDを買値で私が引き取ります。

私のHPでは全巻を一巻ずつ視聴してその感想を書き連ねてゆくことにします。本日は第1巻の「国際理解編 ネパールってどんな国?」です。

授業の全体を通じているのは、中嶋さんの哲学ともいえる教育方針です。すなわち、生徒の自己決定を促し尊重し、自己責任の感覚を芽生えさせ、クラスのdiversityを育み、一人一人の生徒にとってcomfortableな学習空間を作り上げることです。

こうして言葉にしてみると一文で表現できることなのかもしれませんが、これを実践することは容易なことではありません。生徒の興味を引き出し、意欲を湧き立たせ、それを自信に変えるための細かな仕掛けは、プリントを取りに行かせるところやジャンケンをさせるところから、教材の選択や提示の仕方、ALTとのチームワークに至るまで、実に深く的確な人間への洞察に裏づけられたものです。これらの数々の仕掛けが、見事な授業マネジメントによって統合され、まるで自然に進んでゆきます。しかしこれは中嶋さんの感性と知性の結晶の結果の自然なのです。兵庫教育大学の吉田達弘さんも言うように、いわゆる「中嶋マジック」は決してマジックではなく、一人一人の生徒の個性を育てるためのきわめて合理的なシステムなのです。

またスポーツ選手のたとえを使うなら、中嶋さんは情熱とセンスだけですばらしいプレーをするだけではなく、自他を客観的に分析することによってさらにそのプレーを進化させることのできる選手だと言えるでしょう。このような英語教師が私たちの同時代にいて、しかも彼がこのように分析・編集された記録を残したというのは、日本の英語教育界にとってなんという僥倖でしょう。

たとえを続けますと、偉大なスポーツ選手のプレーや、偉大な作曲家の作品がそうであるように、中嶋さんの実践は合理性に支えられたアートといえるものです。それらは、細部から全体に至るまで理にかなっていますが、その細部の選択と全体の統合は、その人の持っている全てが結びついた人格によってなされています。これらのアートは全人的なものであり、合理的でありながら、同時に人間から人間への訴えとなっています。他人が、イチローの打法の真似をしてもよい打者になれないように、バッハの作風の真似をしようとしても駄作しかかけないように、中嶋さんの実践も、外からだけ真似しても身につかないものといえるでしょう。中嶋さんの実践には、中嶋さんがこれまで出会った全ての人との交わり、読んだ全ての本の知性、聴いた全ての音楽の感動、訪れた全ての土地の教えなどが核にあると言っても過言ではないと思います。中嶋実践は、私たちが自分の実践と比べて自分の情けなさに落ち込むためのものではなく、私たちが自分と自分の生徒との授業を共に作り上げようと私たちを勇気づけるものだと私は思います。

この第1巻ではネパールを題材にして、生徒が思わず引き込まれ、その中でより知識と能力と自信を増した自分を発見する様が記録されています。まるでジャズのマイルス・デイヴィスが、ヒップ・ホップという言葉ができる前にヒップ・ホップの最高傑作を作り上げてしまったように、中嶋洋一という人は「総合的学習の時間」という制度が定着する前に、「総合的学習の時間」の傑作を作り上げてしまったのかもしれません。哲学者のデイヴィドソンさんは、言語について知ることと世界について知ることが実は不可分につながっていることを哲学的に論証しましたが、中嶋さんはそれを見事に教育実践で示しました。

このDVDには授業映像だけではなく、中嶋さんのインタビューもあります。その中で、中嶋さんも昔は「ここは入試に出るぞ」と教え込むタイプの教師であったが荒れた中学校で立ち往生したこと、それで教師の自信を失いかけてきたときに、あるツッパリの生徒が持ってきたビリー・ジョエルのオネスティという曲に、かつて英語の歌が大好きだった自分を再発見し、荒れていた生徒に純粋な感性と知性の胎動を発見したことが自分の転機になったこと、を語っています。中嶋さんは「全ては荒れた子どもたちが教えてくれた」と言っていますが、これは真実の言葉だと思います。中嶋さんは逃げなかった人です。人は困難な状況から逃げずに真摯に立ち向かうことによってどれだけ偉大なことをなしうるかを中嶋さんは示していると思います。

全国の英語教育関係者の皆さん、今のおかれた状況がどんなに厳しいものであれ、あるいは退屈なものであれ、そこから逃げずに自ら信じる理想の英語教育を少しでも形にしてゆきましょう。少なくとも私はこのDVDからそんな元気をもらいました。

追記:このDVDは、個人で購入する方には2002年3月までの期間限定・完成記念特別販売で各巻3,500円、全6巻セット20,000円で販売するそうです(問い合わせ先:バンブルビー(担当 村松) 電話03-5750-7760、ファックス03-5750-7761)。学校購入および2002年4月からの個人購入は、各巻9,800円、全6巻セット58,800円です(問い合わせ先:学研 文教事業部 電話03-3726-8566、ファックス03-3726-8626)。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


『高校英語教育構造改革論』(金谷憲編、青木優子・田嶋英治・中村正美・野口宏・本多綾子・右田邦雄・八島等 共著、開隆堂、1905円)(2002/1/8)

日々は慌しく過ぎてゆきます。教師自ら考えたり、想像力をはばたかせたりする気力も下手をすれば失せがちです。しかし、本書の編著者はこう言います。

たとえ日々の実戦は現実にがんじがらめに縛られているとしても、理想を描くイマジネーションをなくしてしまっては、縛られているだけで終わってしまう。今は荒唐無稽に思われても理想像を紡ぐという作業をしなければ、英語教育の方向性は出てこない。理想像が描かれなければ、それに向けてどのような努力をすればよいかがわかってこないからである。 / そして、理想像を紡ぐとき、その理想像というのはある程度の詳細さまで具体的に考えられたものでないといけない。理想像は実現不可能なものではなく、それに向かって皆が努力できるようなものでなければならない。(iii)

本書は著者たちが理想の夢と現実の制約のどちらも忘れずに共同で書き上げた高校英語教育案です。(1)英語(外国語)という教科をそれ以下の科目に分けない、(2)オーラル・コミュニケーションのタスク(スピーチ、ディベート、ディスカッション)を学期ごとに決めて繰り返し生徒に課す、(3)オーラル・コミュニケーションのタスクが進行している中で、一定の間隔を置いて文法の授業を設ける、という三つを大きな特徴としています。各章を詳しく読んでゆくと、理想像といいながら存外、現実にも実行可能な考えがあることに気づかされます。著者の一人も示唆しているように、英語教育の現状について不満ばかりを言うのは、自分の努力不足を棚上げにしているだけなのかもしれません(p.188-189)。

しかし、それでも敢えていえば、こういった試み----教師がお互いに英語教育の理想を考え、現実案を紡ぎ出し、実行し、そしておそらくは失敗し、修正するといった試行錯誤という別名をもつ進化----はもっと促進されるよう体制改革を進めるべきではないでしょうか。国が一律に教育方針を確定し、教科書会社を制限し、現場教員を指導するという体制は、変化の少ない小さな国なら有効な方法なのかもしれません。あるいは政治的に未成熟で不安定な国には必要な方法なのかもしれません。しかし現代日本は、そのような中央集権的な方法が有効であるためには、大きくなりすぎ、多様になりすぎているのではないかと、私は考えます。

文部科学省→都道府県教育委員会→各学校→各教師というヒエラルキーは、状況に応じて迅速に自己修正をするにはあまりにも巨大すぎる単位であるように思えます(そもそもこのヒエラルキーに「自己」というアイデンティティを感じるにはよほどの特殊な想像力が必要とはいえないでしょうか)。「日本人にとって必要な英語力」という規定が一律にできるほどに一人一人の日本国民のニーズが同質的であるようにも思えません。日本国民は、国の制限がなければ、何をしでかすかわからないほどに未成熟であるようにも思えません。歴史教科書の例にもみられるように、日本には自己修正を可能にするだけの言論の自由があるように思えます。長いスパンでみたとき、英語に関する指導要領の拘束は緩やかになってきていますが、それでも少なくとも高校に関してはもっと規制緩和を徹底し、各学校の教師集団や各教科書会社に、思い切ってやりたいことをやらせ、失敗させ、そしてその失敗から学ばせ、英語教育を多元的に進化させるべきではないかと私は考えます。この本は、現場の英語教師にそういった力が十分にあることを明白に示しているように私は思います。

とはいえ、「でも、それなら大学はどうなのだ。指導要領の拘束がない大学では理想の英語教育がなされているのか」と問われれば一言もありません。私を含めた大学人は少なくとも今までは自由にあぐらをかいていたと言われても仕方ないのかもしれません。しかし淘汰の圧力が急速に高まっている大学は、これからはもっと大胆に変わるでしょう。少なくとも大学にはその変わるリスクを負うだけの自由がまだあります。

大学の例でもわかるように自由は必ずしも進化を保証はしません。しかし自由は進化の必要条件であることだけは確かです。日本の英語教育の改革は、中央の強権発動によるよりかは、教師集団・教科書会社の多元的な進化による方が望ましいと考えますし、少なくとも一部の教師や教科書会社にはそれを可能にするポテンシャルがあると私は信じています。

話が妙にそれましたが、私たち英語教育関係者はお互いにもっと責任をもって英語教育の理想を語り、行動し始めるべきだと考えさせられた本でした。ご一読をお勧めします。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


『決定版!授業で使える英語の歌20』(井上謙一、北原延晃、久保野雅史、田尻悟郎、中嶋洋一、蓑山昇共著 開隆堂 3800円)(2001/6/25)

このCD二枚つきの美しい本は、執筆者の企画と熱意と、編集者の工夫と労力が見事に相乗効果を発揮した、読んで楽しく、授業で使って役に立つ素晴らしい本だと思います。

英語の授業の中に歌を活用することは、だんだんと授業の余興から授業の一活動となってきたように思います。それを示しているのが、本書のような本の発行で、この他にも私が持っている本では宮崎哲也さんの『カラオケイングリッシュ』(星雲社、1000円)、角山照彦さんの『LOVE SONGSで学ぶ英語リスニング』(星雲社、2000円)などがあります。『カラオケイングリッシュ』は宇多田ヒカル、小柳ゆき、鈴木あみ、倉木麻衣、安室奈美恵、浜崎あゆみといった日本人歌手の歌をとりあげた点が非常にユニークです。生徒は今なら喜んでこれらの歌に学ぼうとするのではないでしょうか。(また著者の主張であるhttp://members.tripod.co.jp/TMiyazaki は教育関係者は一度は見ておくサイトだと思います)。『LOVE SONGSで学ぶ英語リスニング』の方は東芝EMIから発売されているコンピレーション・アルバム「LOVE RING BEST」の中から12曲を選曲したのが素晴らしい発想で、このことにより教師は様々なCDを探すことなく一枚のCDを購入することでこの本に取り上げられている全ての歌をカバーすることができます。

本書はさすがに「決定版!」と銘打つだけあって「永遠に歌い続けられるに違いない、スタンダードな曲」を様々なところから集め、しかもそれを一枚のCDでは見事な歌唱と演奏を開隆堂さん主導で新しく録音し、もう一枚のCDではボーカルなしの演奏(つまりはカラオケ演奏)とCD-ROMによる歌詞(テキストファイル)、ワークシート(PDFファイル)、ウェブサイトなどのデータを入れています。20の素晴らしい歌に関する二枚のCD(-ROM)を読者は自由自在に使えるわけですから3800円という価格も納得がゆきます。これだけの歌について著作権交渉をし、演奏の手配をし、データをそろえるなどというのは相当な労力が必要だったはずです。編集者の努力を讃えたいと思います。

しかしこの本の原動力となったのはなんといっても執筆者の企画と熱意です。それらがよく現れているのは次の田尻悟郎さんの文章でしょう。

生徒は「何かを知りたい」、「何かできるようになりたい」という願望を持っており、特に興味を引かれたものや、それができることによってプラスになることがあると知ると、がぜんやる気を出してきます。歌にはそんな生徒の心をつかむ魅力があります。/ 歌を選定するときには、いくつかの観点が必要です。(1)教科書の内容に関連していること(戦争と平和、人間愛、家族愛など)、(2)生徒に読解させたくなるような歌詞であること、(3)目標文法事項が頻出する、あるいはコーラスの部分に含まれていること、(4)聞き取りの教材としてタイムリーであること / このような観点から曲を選ぶと、生徒は、歌詞の意味を考えることが読解力をつけ、一緒に歌ったり歌詞を覚えたりすることが読解や作文の基礎となりうることを知るようになります。(p.58)

こういった執筆者の見識は、それぞれの歌の訳詞と解説に具体的に詳しく示されています。96ページからの「お薦め曲リスト」も非常に便利です。少なくとも各学校の英語科には一冊備えておくべき本だとも思います。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


『脳のしくみがわかれば英語は自然にできるようになる』(大島清・KKベストセラーズ 1200円)(2001/6/3)

スポーツ関係者にとって生理学の知識は必須です。筋肉にはどんなものがあるのか、筋肉が「働く」とはどういうことか、筋肉が「大きくなる」とはどういうことか、等などのことを知らなければ効果的なトレーニングはできません。それどころか知識なしには逆効果のトレーニングさえしてしまいかねません。だからスポーツ関係者は生理学の基礎知識を身につけます。

だからといってスポーツ関係者が皆生理学者だというのではありません。スポーツ関係者は生理学の結果をいわば消費するだけで、自ら生理学の最前線を開拓するわけではありません。むろん科学としてそういった開拓は貴い試みですが、スポーツ関係者にはもっと大切なことがあります。それは各々のスポーツ競技の構造や心理などを具体的に理解し、その具体的な理解に即してトレーニング方法などを開発することです。生理学者が即、優秀なスポーツトレーナーになれるわけではありません。スポーツトレーナーは生理学の知見に基づきつつも、各々の競技について具体的な展開を図らなければならないのです。

同じ事が教育関係者と脳科学についてもいえると思います。教育関係者は脳科学の結果を学びつつ、それに基づきながら、あるいはそれに反しないようにしながら、各々の領域の教育方法などについて具体的な展開をしなければなりません。教育関係者は自ら脳科学者にはならないものの、脳科学の知見を学びつつ、自らの領域に関する理解を深めなければなりません。私は近い将来脳科学は教育学部の基礎教養になると信じて疑いません。

『脳のしくみがわかれば英語は自然にできるようになる』はきわめて平易に書かれた啓蒙書です。英語教育関係者の一般常識確認の書としてお勧めします。同じような意味で『記憶力を強くする』(池谷勇二・講談社ブルーバックス 980円)もお勧めします。心理学者が書いた記憶に関する本とは一味違って、同書は私たちの心/脳に関する知識と洞察を深めてくれます。脳科学に関しては知見の消費者としてこれからも読書を続けたいと思います。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


山田光顕『英語 確実に身につく技術』KAWADE夢新書・河出書房新社 本体667円 (2001/3/20)

良心的で良識的な良書です。私はこの本がamazon.co.jpの和書売り上げの一位になっていたので興味を持って買って読みましたが、売れて当然と思いましたし、またこのような本はもっともっと売れてほしいとも思いましたのでここに紹介します。「英語の勉強をしたいのだが、どうしたらいいのだろう」と悩む学生さんや社会人の方にどれか一冊だけを勧めるとしたら、私は現時点ではこの本を勧めます。

良心的というのはこの著者が英語学習について自ら経験し成功したこと、および彼のホームページ(「英語はこう攻めろ!」http://village.infoweb.ne.jp/~fwif2034/ )で得た多くの質問やコメントを基にこの本をまとめているからです。数々の英語学習手段に関しても正直に意見を述べていますし、「『教える側』の立場からではなく『学習者』の視点から、上達のためには何が必要なのか、できるだけわかりやすく伝えたい」という著者の願いはこの本を通じて達成されていると思います。

良識的といいますのは、著者が非英語専攻学部出身で金融会社で英語実務を行いながら英語に接しているという極めて実際的な生活感覚からこの本を書いているということからきています。松本道弘さんの英語上達法の本などには私もずいぶんお世話になりましたし参考にさせていただきましたが、そのような本は、ともすればカリスマ的な指示で、英語学習者を「私もかくあらねば!」と奮起させるか、「私にはとてもここまでは」と実施する前から落伍させるかのどちらかの結果に陥りがちかとも思います。この本は決して高所大局から語らず、必要以上の甘い言葉も厳しい言葉も使わずに一人のユーザーとしての語りを一貫させています。心からこの本をお勧めする次第です。

それにしても気になるのがこの本のような良心的・良識的態度、そして現実的な指示・提言が、私を含めた英語教育研究の人間にも共有されているかということです。英語教育研究に従事する人間は必要以上に高飛車か悲観的であったり、非現実的に科学的(あるいは哲学的)装いをまとった物言いをしていませんでしょうか。折しもチョムスキーさんは最新刊で次のように言っています。

Science is a very strange activity. It only works for simple problems. Even in the hard sciences, when you move beyond the simplest structures, it becomes very descriprive. By the time you get to big molecules, for example, you are mostly describing things. The idea that deep scientific analysis tells you something about problems of human beings and our lives and our inter-relations with one another and so on is mostly pretence in my opinion ---- self-serving pretence which is itself a technique of domination and exploitation and should be avoided. (N.Chomsky The Architecture of Language.)

私は英語教育研究を仕事とする者ですが、その仕事が、チョムスキーさん流に言うならば、単なる見せかけであるばかりでなく、他人を支配し利用する術となってしまっているのではないか、という疑問は未だにぬぐいさることができません。良心的、良識的で現実的な仕事を勇気を持って行わなければと思いながらも、ともすればその初心がぐらついたりしてしまいます。志を忘れず、心して仕事をせねばと思います。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


(再読)下條信輔『意識とは何だろうか』講談社現代新書680円(2001/1/22)

良い本の可能性を汲み尽くすなどということはなかなかできないものです。何度も読み返して、その度ごとに自分の理解を新たにしてゆく努力(と喜び)を重ねるしかありません。今回は、同書の「脳の犯す錯誤と、脳をめぐる錯誤」という表のストーリー(5)ではなく、「脳は、そして心は、孤立しているか」という裏のストーリー(5)をおよばずながらも追ってゆきたいと思います----短くまとめるために詳細を省略しながら、要所要所は下條さんの表現を直接使っております。興味のある方はぜひ実際に本を読んで下さい----。ちなみにそのストーリーのあらましを予め書いておけば、それは

脳は孤立した存在ではなく、身体を支配し、逆に身体に支配されます。この身体は一方で脳の出先機関であるとともに、その基礎でもあり、さらに脳にとっての環境の重要な一部を構成します。このように脳は(したがって心も)世界と連動し合い、反響し合い、取り込み合う存在なのです。(5)

ということになります。

しかし「脳は世界と連動している」などというととても非科学的に聞こえるかもしれません。実際、脳科学研究の一つで、サルの頭頂葉のMT野に電極を刺してニューロンの発火活動をみますと、知覚課題(点パターンがどちらの方向に動くか判断させる)の成績はニューロン群の発火の相対的強弱からきわめてよく予測できました。それどころか、サルが課題を間違えた時は、やはりニューロン群もそのように発火します。さらに、ニューロンに刺した微小電極に弱い電流を流すと、そのニューロン活動のようにサルは知覚判断をします。(71)つまり心の働きは脳の働きに他ならないと言えそうなのです。このことは人間の健常者のメンタル・イメージでも同じです。色や形をありありと思い浮かべるときは視覚皮質で活動が記録され、メロディをありありと思い浮かべるときは聴覚皮質に活動が記録されるのです。(74)こうしますと「錯誤」とか「イリュージョン」といったものは、脳内の神経過程のレベルでは存在しない(「蒸発」してしまう)ことになります。ミクロの世界は生化学的法則が支配しているのです。心は脳の働き(脳が作り出すもの)のように思えます。どうして「脳が世界と連動している」などと言えるのでしょうか。

ところが人間の記憶を調べてゆくと事情はそう単純ではないことがわかってきます。ペンフィールドは(てんかん患者の)側頭葉に微小電極を刺し、刺激を与えてみました。そうしますと記憶の「フラッシュバック」が起きました。つまり回想シーンがありありと再現されたのです。(77)しかしその「記憶」はずいぶんあやふやなものでした。実際にありえないような内容の「記憶」が報告されたり、同じ脳内部位を再度刺激してみても、前とはまったくちがう記憶内容が報告されたりしたからです。(78)

これは記憶の「能動的な再構成説」と一致します。有名なのはコートルの「白い手袋」です。コートルの脳裏には「祖母の屋根裏部屋の隅で、何本かのクラリネットに覆いかぶされるようにして置かれていた手袋」が、いまでもありありと思い浮かぶといいます。祖父の使っていた手袋です。ところが彼は実際にはその手袋を見たことはないのです。コートルは以前父親が人生について語ったテープをあらためて聞いたところ祖父の手袋について語っている部分が妙に印象に残ったからそのような「記憶」が残っているのです。(82)

下條さんは次のようにまとめます。

さて、この手袋の記憶は、いったいどこにあるのか、とコートルは問いかけます。もちろん彼の頭の中に、と人は答えるでしょうが、それだけでは尽きません。もともと父の記憶の中にあったからこそ彼にも伝わったのであり、したがって父の頭にもあったことになる。またテープに記憶しておいたからこそ、彼が聞き、印象にとどめることもできたわけで、だからテープの中にもあるといえる。またコートルはこの話をあちこちの講演でしているので、それは聴衆の心の中にあるともいえる。

それから(ここから先はコートル自身はいっていませんが)、祖母に会ったり、クラリネットを見たりするたびに祖父の白い手袋を思い出すとすれば、祖母やクラリネットは「白い手袋」の記憶装置の一部、それも強力で不可欠な一部だ、といえないこともない。このように、手袋の記憶は頭の中の一部に「痕跡」として孤立して存在しているものではなく、周囲の環境、本人の経歴、その他あらゆるものにもたれかかるかたちで、成り立っているのです。(82-83)

このことは幼児期の体験をよみがえらせるには、たとえば古いぬいぐるみにふれたり、身を屈めて幼児と同じ目線の高さで風景をながめるといいことからも納得できます。脳ばかりでなくからだも、記憶と想起の必要条件(85)となりそうです。

このように脳が環境に適合するようにいたった経緯の総体を下條さんは脳の「来歴」と呼びます。人間があらかじめ持っている遺伝情報と発生それと初期の神経系の形成は「来歴」の中核ではありますが、それだけではなく、それぞれの時点でどのような環境要因がはたらいたか、またそれぞれの時点までにどのような身体機能が獲得されており、それがどのように感覚経験を変えたのか、さらに現在の環境が、過去の環境とどれぐらいちがい、その現在の環境と脳が、身体を介してどのようにかかわりあうのか----こうしたことをすべて含み込んでいるのが「来歴」という概念なのです。(91)

このことを言い換えるなら脳は環境を「脳化」するとなるのかもしれません。人間や動物が経験を通して環境内の事物に意味を見出すことは、環境を脳の出先機関としているといえるのかもしれません。環境は記憶の外部装置といえましょうか。(97)

この「来歴」は生得説にも経験説にも加担しません。遺伝も環境もはじめから分離不可能な関係にあり、ダイナミックにカップリング(連結)されているからです。重要なのはむしろ、脳の過去の総体、このダイナミックなループの連鎖の総体が、現在という瞬間の脳の刺激に対する反応にどのように反映されているのか、それが身体や環境世界の連続性にどのように依存しているのかという点なのです。(99)脳の機構は身体に根ざしている(embodied)、脳の機能は環境世界の文脈の中に位置づけられている(situated)とも表現できます。下條さんはまとめます。

結局、身体や環境世界から切り離された脳は、半分だけしか脳ではない。より正確に言うなら、固有の来歴も含めて完全に切り離したなら、それはもはや通常の意味での脳ではないのです。脳の一部の機能を特定しようとすると、それが成功すればするほど、実は脳の来歴(過去)と外部の状況(現在)によりかかっている、そういうパラドクスがあるのです。(128)

脳を孤立させて考えることには無理があるといえましょう。この考えの発展は、認知科学の歴史的進展にも対応しています。下條さんのまとめを少々長くなりますがそのまま引用します。

まず最初に、伝統的な認知主義がありました。いわゆる機能主義、あるいは古典的人工知能(AI)などがこれに入ります。この立場によれば記憶=貯蔵庫であり、想起とはデータベースからの記号の読み出しにほかなりません。問題解決は、論理的推論にみによって遂行され、認知は中央の制御を受けます。環境とは単なる問題領域のことであり、ましてや身体などは入力デバイスにすぎない、とされたのです。

認知科学の第二世代は、いわゆるコネクショニスト(結合主義者)の立場です。たとえば、ニューラルネットの理論がその例です。この立場によれば、記憶とはパターンの固定であり、想起とはそのパターンの復元です。問題解決はパターンの補完と変形と考えられ、認知は中央集権的に進められるというよりは地方分権的、分散的なものとみなされます。しかし環境と身体は、依然として周辺に追いやられていました。

これに対して、もっとも新しいエマージェンティスト(創発主義者)の立場では、これまで認知の周辺にすぎなかった身体や環境世界が、知性の「創発」を可能にする外部装置として、重要な意味を帯びはじめます。そして先にも論じたように、その境目もより連続的なものとなります。ネオロボティクスや一部の認知哲学が、この立場の推進者です。

エマージェンティストの立場は、記憶、問題解決、認知の分散性などについてはコネクショニストの伝統を受け継ぎながらも、それを大きく超え出ています。コネクショニストたちが認知をあくまでも脳内に限定しようとしたのに対して、身体と環境世界の役割を強調し、それらの間の本質的なダイナミクスを通して問題が解決されると考えます。身体は環境とともに、認知の切り離せないループであり、知性の積極的な資源なのです。(156-157)

さて今まで「世界」「環境」「環境世界」などと述べてきましたが、当然それらには「他者」も含まれます。この観点から子どもの言語習得を考えてみますと、私たち大人は子どもに「そういうときはうれしい、というのよ」「泣いちゃだめ。痛くてもがまんしなさい」などというように、外から内部に情動を見立てて、それに名前を与えること(166)をしています。「皮肉なことに、感覚や感情の主観的体験という、もっともプライベートにみえることが、実は他人が自分を他人として見るときの記述を倣い、自己を他人として見ることによってはじめて成り立つ」(166)のです。このような学習は、まさにヴィトゲンシュタインの述べた「言語ゲーム」の獲得にあたります。「このような学習の仕方以外に、感覚的語彙や主観的経験の語彙の学習の方法は考えられず、現に子どもはそうやって学習している。だとすれば、意識の起源に身体と環境世界があることは明らかです」(173)と下條さんは述べます。

以上、『意識とは何だろうか』を「脳は、そして心は、孤立しているか」という裏のストーリーから、下條さんの表現を抜き書き引用することによって、追ってみました。それにしても英語教育研究にとってこのような話が何になるのでしょうか。「こんな難しい話を聞いても明日の授業には役立たない」のでしょうか。

そうではない、と私は考えます。このように科学的にも哲学的にも深められた研究を知ることにより、私たちは自らの英語学習観・英語教育観を振り返ることができます。私たちは自覚している、いないは別にして、それぞれの素朴な英語学習理論・英語教育理論を持っており、それが私たちの英語教師としての行動に大きな影響を与えています(「何度も書いて覚えろ!」が口癖の教師の英語学習理論・英語教育理論はどんなものでしょうか)。このまとめは、同書の面白さ・深さのほんの一部をかすったに過ぎません。興味を持った方の同書の一読・再読を繰り返しお勧めする次第です。それを通じて、私たちの英語習得のありようを私たちが深く思い起こしたら、英語教育もずいぶん改善されると思います。

追記:信原幸弘さんの『考える脳・考えない脳』(講談社現代新書660円)の最終章も「脳は、そして心は、孤立しているか」というテーマを扱っています。ここではその結論部分だけ引用しておきますので、ご興味のある方は、ぜひこの本もお読み下さい。

脳は、構文論的構造を欠くニューロン群の興奮パターンの変形装置です。脳はそのような変形によって、さまざまな心の働きをその内部に生じさせます。しかし、脳はそれだけではなく、そのような変形をつうじて、外部の環境のなかに外的表象を作り出し、それを操作することもできます。とくに、発話のような構文論的構造をもつ外的表象を作り出し、それをその構造にもとづいて操作することもできます。脳はこのようにして構文論的構造にもとづく思考を産み出すのです。つまり、脳は、構文論的構造にもとづく思考という、脳の内部では生じない思考を、その外部の環境のなかに生じさせるのです。

「思考」という言葉が構文論的構造をもつ表象の操作だけではなく、そのような構造をもたない表象の操作をも意味すると解されるなら、脳も考えます。脳は、構文論的構造をもたないニューロン群の興奮パターンの変形により、よいアイデアやすばらしい解決をパッと思いつかせるような思考活動を脳の内部で行うのです。

しかし、「思考」という言葉が構文論的構造をもつ表象の操作に限定されるなら、脳は考えません。脳は身体をつうじて、外部の環境のなかにそのような思考を産み出す働きをするだけです。「つぎの日曜日はどこへ遊びに行こうか。つぎの日曜日は給料日まえだ。それでも、どこか楽しいところへ行きたい・・・」と発話しながら意識的に考えるとき、この思考は脳のなかで行われるのではなく、発話という形で環境のなかに産み出されるのです。

構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、脳のなかではなく、環境のなかで行われます。それは脳の働きによって生じますが、脳のなかに生じるのではなく、身体をつうじて外部の環境のなかに産み出されるのです。

そうだとすれば、脳と身体と環境はひとつの大きなシステムを形成していると考えることができるでしょう。構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この大きなシステム全体によって産み出されるのです。すなわち、脳の働きが身体を動かし、それによって環境のなかに構文論的構造をもつ表象が作り出され、それを脳が知覚して新たに身体を動かし、等々というふうにして、表象の操作がなされるのです。構文論的構造にもとづく思考は、脳と身体と環境からなる大きなシステムによって、そのサブシステムである環境のなかに産み出される思考なのです。

心の働きのなかには、脳の働きのみによって脳の内部に生じるものもありますが、そうではなく脳の働きによって身体をつうじて環境のなかに生じるものもあります。したがって、心の働きのすべてが脳の働きだというわけにはいきません。心は脳を超え出て、身体をつうじて環境にまで及びます。身体や環境がなければ、心は完全な形では成り立ちません。脳と身体と環境からなる大きなシステムが心なのです。(205-207)

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


岩波新書編集部編『英語とわたし』岩波新書700円(2000/12/9)

各界で活躍する20数名の人による英語に関する体験的エッセイです。内容や主張は一見、多種多様。「『書くこと(=ライティング)』なんて、まったく無視していいと僕は思っています」という鴻上尚史さんから、「読み書き重視の英語教育の復活を」と主張する上野健爾さん、あるいは「私が英語を使用するのは、ほとんどの場合、日本文学についての話をするときである」と述べる小森陽一さん、といった具合です。

しかし、これらのメッセージは、実はそれぞれの人がpersonal(=個人的、人格的)に英語を自分の人生に取り込んでいるという点で一貫しています。彼/彼女らは「これからの日本のため」とか「教養の一つとして」とかいった理由ではなく、各人の職業上の必要や感性や興味の導きにしたがって、それぞれの形で英語を使いこなして(あるいは使いこなせずに苦労して)います。

ですから大切なのは英語ではなく人間の中味という点で、これらのエッセイはほぼ共通しているように思えます。それは「国連で尊敬される人は、英語を含む外国語が流暢だから尊敬されるのではない。むしろ、その人のいうことが、公平で正しかったり、複雑な事柄を納得できるしかたで分析することができるからである」という明石康さんの言葉や、「彼ら[=私が英語を使って個人的に付き合っている人々]は知的で、寛容で、私たちの使うことばがいささか時代遅れであっても、使い方に少々の間違いがあっても、そんなことより、こちらが今、何を考えているかにはるかに大きな関心を抱く人々だからである」という清水真砂子さんの言葉に代表されると思います。

そういった見解を総括するのが、小林陽太郎さんの(1)自分の具体的な興味や、関心と関係づけて学び、また教えること、(2)英語はあくまでもコミュニケーションの手段であることを教える方も、学ぶ方も共に忘れぬこと、(3)文章でも会話、生きた英語に降れる機会を多く持つこと、というまとめになるのかもしれません。こうしてみますと「たしかに『英語』の効用はダントツに大きいかもしれない。だがそれを何も『国力』と結びつける必要はないのではないか。いや、そうした発想こそ、21世紀にはふさわしくないのかもしれない。むしろ『言語文書』(注)の選択が個々人の自由に開かれていることこそ、望ましいはずだ。もちろん、英語のヘゲモニックな位置は今後とも変わらないかもしれない。でもだからこそ『言語文書』の多様な選択を保証していくさまざまな工夫が必要となってくるのではないか」という姜尚中さんの主張が改めて非常な説得力を持ってくるように私には思えてきます。

「国民」のことを考え、全体的な計画を立て、実行しようとする発想や善意を徒に否定するのも軽薄なのかもしれません。しかし一方で教師が日々接しているのは「国民」ではなく、それぞれが一人一人の顔を持った個人です。英語学習や英語使用に取り組んでいるのも「国民」でなく、一人一人の他ならぬ<私>です。「英語教育」という公的な試みも、個々人を最大限活かす方向を向くべきだと私は考えます。その方向を取り続けることが結果的に「国民」を大切にすることや「国力」を育てるにもつながると思うのですがいかがでしょう。

私は英語教育に関しても「全体主義的善意」を警戒します。

(注)本文(198ページ)では「文書言語」となっていますが、これは「言語文書」の誤りだと思いますので、ここでは「言語文書」と書いておきます。なお「言語文書」というのは福沢諭吉の言葉だそうです。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


信原幸弘『考える脳・考えない脳』講談社現代新書660円(2000/12/3)

「コネクショニズム」や「並列分散処理(PDP)」といった用語は聞いた事はあっても、その含意するところをきちんと理解している人はそれほど多くないのではないでしょうか。私も実はそういった人間の一人です。でもこの本のおかげで、少しは「コネクショニズム」の意味合いがわかってきたような気がします。

本書の構成ですが、その中心テーマであるコネクショニズムの説明を第二章におき、第一章はコネクショニズムに先立つ古典的計算主義の説明にあてています。第三章では直観、および意識と無意識をテーマにして、コネクショニズムの説明力を披露します。第四章は「フレーム問題」をテーマにして、これまたコネクショニズムによる説明を試みます。第五章では、「心のありか」を問い、心を脳内のみの活動と捉える事の困難性を論証します。ここでは、英語教育関係者が最も興味を感じると思われる第三章の議論の二つを紹介して、この本の面白さの片鱗を伝えることを試みます。

私たちはある文を与えられると、ほぼ即座にその文が適格か非適格かを告げる事ができます。これは母国語では顕著ですが、習熟した外国語でも可能です。私たちはある種の英文を見ても即座に「どこかおかしい」と直観的に判断することができます。この直観的判断能力は、英語の場合、文法書と辞書に基づいて学んだわけですから、意識的に文法規則を適用して適格性を推論する能力が、無意識化されて獲得されたと私たちは考えがちです。しかし本当にそうだろうかと信原さんは問いかけます。

ここで信原さんが意識のメカニズムと考えている古典的計算主義のメカニズムと、無意識のメカニズムと考えているコネクショニズムのメカニズムを、少し簡単に説明しておくことが必要になります。古典的計算主義は、心の状態は「表象」(=何かを表す働きをするもの)からなりたっており、その表象が「構文論的構造」を持ちながら(=日常言語や人工言語のような文法構造を持ちながら)推論が進められることを「計算」と呼び、その計算の働きを知性と考えるわけです。一方、コネクショニズムは「表象」を想定する点では古典的計算主義と同じですが、コネクショニズムにおける「表象」は、ニューロン群の興奮パターンと捉えられています。この興奮パターンは、その各ニューロンが別のニューロンに興奮を伝える事によって、別のニューロン群に新たな興奮パターンを引き起こします。この推移は、古典的計算主義のような「構文的構造」をもった形式的な推移ではありません。興奮パターンは、ある一定のニューロン群の中に複数存在することができますから、コネクショニズムのメカニズムのメリットは表現効率が高く、その分「速い」処理が可能なことです。一方、古典的計算主義の計算は構文的構造を持つため、その構成要素の数が多くなると、規模が大きくなり処理が「遅く」なりますが、構成要素を自由に組みかえて、全く新しい表象を作り出せるというのがメリットとなります。

さて話は、外国語における直観的判断でした。私たちは1960年代以来、心をコンピュータになぞらえて考える事になれてしまっていますから、古典的計算主義を心の唯一のあり方だと考えがちです。ですから「無意識のプロセスとは意識的プロセスが自動化されたもの」といった考えが絶えないわけです。しかし脳のニューロンについて私たちが理解を深め、コネクショニズムのメカニズムを学び、その表現効率の高さ、処理の速さを考えると、意識的で遅いプロセスと無意識で速いプロセスは、そもそもメカニズムが違うのであって、前者は古典的計算主義のメカニズム、後者はコネクショニズムで代表させるのが妥当ではないかという考えが生まれてきます。これが信原さんの考え方です。したがって信原さんは、外国語の場合でも最初こそ、意識的な推論によって判断するも、数々の文法文を文法文として読み聞く----これが日常の言語使用の姿です----につれ、ニューロンの興奮パターンとして文を処理するようになり、古典的計算主義のメカニズムからコネクショニズムのメカニズムへと、メカニズムの切り替えが起こると主張します。私たちが外国語に習熟した時に示す直感的な判断力は、コネクショニズムのメカニズムで説明されるべきであり、古典的計算主義の意識的なメカニズムの「自動化」や「高速化」や「無意識化」などで説明されるべきではないというわけです。

今度はテニスの技術習得で考えてみましょう。初心者は「高めのボールは腕をたたんで打つ」などの規則を覚え、それを適用しながらテニスを行ないますが、その動きはぎこちなく、うまく行きません。一方、熟練者は規則など一切思い浮かべないで自動的に反応してうまくゆきます。この違いも、「規則の自動化」といった古典的計算主義だけに偏った考え方をしない方がうまく説明できるというのが信原さんの主張です。

コネクショニズムの処理は、各ニューロンの興奮の伝播によるものですから、連続的なものです。テニスで言いますと、ボールの知覚はボールを打つ運動とつながっており、切り離す事ができません。いったんボールが入力されると、ボールの知覚に続いて必然的にボールを打つ運動が生じるわけです。逆に言いますと、ボールがよく打てるようになるとボールがよく見えるようにもなるわけです。こういった特徴は熟練者の特徴であり、この特徴はコネクショニズムのメカニズムでならうまく説明することができます。信原さんは第三章でこう結論します。

「一般に、わたしたちは、どのような無意識的な過程であれ、それを意識的な過程になぞらえて考えがちです。しかし、そうするまえに、まずはコネクショニズム的な過程として考えてみるべきでしょう。直観を可能にする無意識的な過程も、熟練の技を可能にする無意識的な過程も、コネクショニズム的な過程として自然に理解できます。おそらく、その他の無意識的な過程も、同じようにコネクショニズム的な過程として自然に理解できることでしょう。無意識的な過程については、古典的計算主義よりも、コネクショニズムのほうがふさわしいと考えられます」(130)

信原さんが211ページを尽くして語ろうとしたことを、このように短い文章で伝えようとしたので、わかりにくくなってしまったのではないか、誤解を招くような表現になってしまったのではないかと危惧します。ご興味を持った方の御自身でのご一読を心からお勧めする次第です。特に第二言語習得論をなさっている方などにとっては、コネクショニズムは必須の知識のように思えるのですが、いかがでしょう。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


八田玄二『リフレクティブ・アプローチによる英語教師の養成』(金星堂、2500円)(2000/11/17)

これは素晴らしい本です。これから教育実習に出ようとする大学生、自信が持てない新任教師、いつのまにか新任教師を指導するようになった中堅教師、教員養成にかかわる大学教師----これらの方全てに心から一読をお勧めします。ご一読の上、面白くないと思われたら、どうぞ私の職場にこの本をお送り下さい。私が本代と郵送料をお返しします。

この本を私が高く評価するのは、これが著者と様々な人々による声を正直に取り上げた本であり、その正直さは経験と理論に裏打ちされており、文章表現の力となって読者に伝わって来るからです。教育界というのは、どうも文部省用語や学界流行語をちりばめただけの紋切り型の文章が少なくありません。そういった文章を読むたびに、私は文章が頭と心と身体のどこにもひっかからずにするりと通り抜ける思いがし、文章を読む喜びを全くといいほど感じる事ができません。ですが、この本はそういった惰性的な文章とは正反対にあります。かといって、情熱とも偏愛ともつかぬような「熱い思い」で一気呵成に迫って来る文章でもなく、著者の30年近くの高校教師経験と数回の留学と10年の大学での研究・教育の厚みが静かににじみ出て来る英語教師養成のための現実的な本です。以下、印象に残った文を引用しながら、この本の姿勢がどんなものであるかを紹介したいと思います。

第一章は教育実習生の体験についてです。このようなトピックではとかく、指導教官は名人的存在、教育実習生はひたすらに教えを乞う存在としての役割が与えられ、とかく言動はその役割期待に基づいて行われがち(したがって妙に儀式的)なことが多いと私は思いますが、ここでは授業がうまいベテランのY先生の授業の現実を直視した教育実習生S子さんの言葉が引用されます。

「授業ではOHPが使われ、終始、ものすごいスピードと迫力があり、生徒はとても緊張しているようでした。活動的で挙手も多く、生徒が英語で応答する場面が多いように思えました。しかし、よく教室の隅々まで見てみると、出来ない生徒はあまり活動していなくて、先生に何か言われると、怒られているように萎縮していました。授業後、書き取りテストの監督に行ったら、その出来の悪いこと!やはり、全員が分かるようにすることはとても難しいことだと思いました」(12)

このように教育実習生のよい意味での批判的な態度を示しながらも、著者はその教育実習生自身の英語教師像が「世間で喧伝されている程度の"願望"であるかもしれない」と指摘し、教育実習生を徒に若き力として誉めそやす図式からも逃れています。

第二章はインタビューにより新任英語教師の世界を探ります。

「3人の女性教師が共通して抱く危惧は、自分は生徒になめられているのではないかという事である。鈴木は、生徒との最初の出会いの時に仲良くなり過ぎたたために、かえって彼らになめられたと思い、吉田は、クラスの中の白けた集団を前にして言いようのない自己嫌悪に陥る。このように、明らかになめられている、という辛い実感にさいなまされながら、さりとて、生徒を意のままにすることもできず、一方では、教師になる前から自分の胸の中で膨らませてきた理想の教師像と、現実の自分とのズレがますます大きくなって行くことに苛立ちを覚える。同時に、彼らはそのような状況を招いた原因が、自分の未熟さ、あるいは生徒の学習や行動パターンが正確に読み取れないことにあるとは認識せずに、むしろ他の要因に求めようとする。」(31)

このあたりの文章にはっとする教師の方も多いのではないでしょうか。著者はこれらの新任教師に3ヶ月にわたって指導・観察をしたベテラン教師の声も紹介します。

「吉田さんの場合も、自分がこれまで歩んできた人生と、目の前にいる40人、50人の生徒一人ひとりの人生といかに調整をするか、その接点が決まらないところがあるんじゃないでしょうか。今、それを探っている最中かな」(42)

こういった言葉には、私はぐぐっときたのですが、皆さんはどうでしょう。

第三章は英語教師の実践的知識を解明する章です。新人とは違って、細かな授業案などは用意せずに、それでいて(あるいは、それだからこそ)当意即妙に授業をこなすベテラン教師の言葉を著者は引用します。

I think about only the idea that I want to get across. Not the exact words. I couldn't or I wouldn't be able to do something word for word, you know, like a script. I have to know what I'm talking about. ... Now having taught for a long time I have a lot of materials already available. And so the problem generally is deciding what to omit rather than what to put in. (56)

ベテラン教師がある意味で授業細案を書けない(書かない)のは、書くべき事がたくさんありすぎてとても紙の上に書ききれないからです(逆に新人教師が授業細案を書けないのは書くべき事が思いつかないからです)。ベテラン教師は状況に合わせて、その豊富なレパートリーの中から、自分にとってベストと思われる方策をとりあえず試し、それをさらに微調整あるいは方向修正しながら授業を進めてゆきます。このあたりの事情を著者は次のように表現します。

「有能なベテラン教師は、過去の教室での経験を通して得られた実践的知識体系を最大限に活用して、瞬時に決断を下し、問題を一つ一つ解決してゆく術を心得ている。ある難しい局面に立った時、すでに自分が知っていることや経験をしていること(旧いフレーム)に照らし合わせて、眼前の状況の意味付けを行い、時を失することなく新たなフレームを用意し、アクションに出る。教師はリアル・タイムで展開する状況に合わせて、必要に応じて旧いフレームを打ち壊したり、新たな修正や補修を加えながら、さらにフレームを拡張し強化してゆくのである。」(77)

ドナルド・ショーンさんらが表現している実践知のあり方を端的に表現したいい文章だと私は思いますが、いかがでしょう。

第四章はリフレクションとオブザベーションについてですが、ここでも著者は批判的態度を崩しません。

「日本の学校では、研究授業は現職教育の一環として年間スケジュールに組み込まれ、初任者研修、校内研修などの形で頻繁に実施されている。また、全英連や語研などの英語教師の全国大会においても、それぞれの地方の代表的な英語教師の模範授業は、多くの見学者を集めるメイン イベントである場合が多い。しかしながら、それらは単にベテラン教師の授業を「見学」するのみで、本当の意味での「オブザベーション」の機会ではない。我が国では、システマティックな授業観察の伝統が比較的浅く、教員養成や現職教育の中でその方法論が論じられることはあまりない。応用言語学的アプローチのみに依存しがちな英語教育のあり方に、本来の教育学的な知見を取り入れることが急務であると思われるゆえんである。」(102)

このあたり私はかなり同意したいのですが、皆さんはどうでしょう。

第五章では、ひょっとしたら日本の近未来となるかもしれない英国の教員養成事情が語られます。80年代の後半から始まった英国の一連の教育改革の特徴を、(1)大学の教員養成のカリキュラムにおいて、理論のインプットと実践の占める割合が逆転し、現場での実習が著しく増加した、(2)理論のインプットに代って、実習生が授業を反省(リフレクション)することにより、個人的な体験を体系化する方向に変ってきた、(3)大学と実習校との関係が、従来の縦の関係から横の関係に変わり、両者が対等の立場で教員養成に関わるようになった、の三点に集約したM.Wilkin(1992)の論を著者は紹介した(133)後、著者はこれを「新しい方向」としてただ単に誉めそやすのではなく、「現場教師が教員養成の専門家としての知識と経験を十分持っているか」、「教職経験のない実習生が、果たして自分の授業について正しくリフレクションをすることができるか」という克服すべき二つの問題を指摘します(134)。

このようにこの本は惰性や極端に堕することなく、あくまでも経験と理論に基づきながら冷静に多声的(=多角的・多面的)に英語教員養成の現実をとらえた好著です。この本が広く英語教育関係者に読まれる事を私は願ってやみません。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


黒崎宏『ウィトゲンシュタインが見た世界』新曜社、1900円(2000/9/9)

この本はちょっと時間が空いた折りに読みはじめたら、するすると吸い込まれるように最後まで読んでしまった本です。文章は非常に平明です。

第一章でウィトゲンシュタインさんの略伝を示した後、黒崎さんは第二章で前期ウィトゲンシュタインさんの人生論・宗教論を扱います。前期のウィトゲンシュタインさんの『論理哲学論考』(以下『論考』)は、しばしば形而上学的論理学の本として取り扱われますし、実際私も(きちんと読み込めていないこともあって)そのように同書を理解しようとしていましたが、黒崎さんは論理学を進めた先をも取り上げます。「もしも人が、永遠という事を、限りない時間の持続という事ではなく、無時間性という事であると理解すれば、現在に生きる人は永遠に生きる」(『論考』6.4311)という命題や「芸術作品は<永遠の相の下に>見られた対象である。善い生活とは<永遠の相の下に>見られた世界である。これが、芸術と倫理のつながりである」(『論考7.10.16)という命題をあげたこの章はウィトゲンシュタインさんの哲学の全体像をつかむのに非常に役立つように思えます。

第三章で黒崎さんは、「純粋な持続(echte Dauer)」を後期のウィトゲンシュタインさんの哲学を理解する鍵の一つとして指摘しそれについて論考します。「コミュニケーション能力」という言葉を批判的に検討したいと考えている私はこの章を非常におもしろく読みましたし、「精神的存在としての私という自己は、その実体性を失い、言語ゲームの中に<言語的存在>として解消してゆく」という言葉は、72ページでは非常に説得力をもって伝わってきました。

第四章はウィトゲンシュタインさんのいわゆる「告白」について書かれてあり、私は色々なことをはじめて知りました。また、この章を読んで私も『カラマーゾフの兄弟』を読みたくなりました。今度長い出張があるからその時に持っていこうかしら。

第五章はウィトゲンシュタインさんの科学論で、147ページの主張には賛同しましたが、どうもその他の箇所では「(科学による)説明」という言葉をウィトゲンシュタインさんの用法に引きつけすぎて論じているようにも思えました。最も「ウィトゲンシュタインの科学論」というタイトルだからこれでいいのでしょうが。

最後の第六章はある大学での講義を再構成したもので、再び科学論を取り上げています。記述の中では、

「「因果性」とは何かという事は、それ自体大きな問題である。しかしここで大切な事は、<原因>と言われる事象は<結果>と言われる事象に対し論理的に独立な別個の存在である、という事である。これは、<原因>と言われる事象は<結果>と言われる事象に言及せずに記述し理解し得る、という事である。ところが、「志向性」は違う。例えば、「週末に原稿を書き上げよう」という<意図>は、<週末に原稿を書き上げる>という未来における<意図>の実現に言及せずには、その内容を記述する事も理解することも不可能なのである。これは、本人自身にとってさえ、そうである。この事を私はここで、<意図>は「志向性」を持っている、と言うのである。」(203-204)

「えてしてわれわれは、科学の描く世界を真理の世界であり、実在の世界であると思い込む。そしえ、我々のこの現実世界を、その現れ--現象--と考えるものである。しかしこれは、大変な転倒である。実際には、<言語ゲームの世界>であるこの現実世界こそが、その有りのままにおいて真理であり実在なのであり、科学が描く世界は、現実世界を「科学的方法」と言われる或る観点から描いた、一種の抽象画に過ぎないのである。そして両者の間にずれが生じれば、修正されるのは言うまでもなく科学が描く世界の方なのである。」(206)

「ライルは『心の概念』の中で言っている。「人間は人間である。これは同語反復であるが、時には思い出す価値がある」」(207)

といった箇所が印象に残りました。

総じていいますとウィトゲンシュタインさん、および彼の哲学が示した問題群(言語、心、説明、科学等など)を理解するには、読者である私たち自身がそれらの問題群に関するテクニカルな知識を持つだけでなく、芸術に親しみ人生を考え、よりよく生きることを目指さねばならないのではないかと思わされる本でした。テクニカルな知識を過小評価するつもりは毛頭ありませんが、特に教育研究をやっている人間にとっては、このことは案外重要なのかもしれません。

黒崎さんは「この本は、ウィトゲンシュタインについて、名前くらいは知っているがその哲学についてはあまりよく知らない、という人を念頭において、書かれている」(4)と言っていますが、やはり、ウィトゲンシュタインさんの出した問題群を自分でも考えたこのある人でないとこの本は難しいかもしれません。しかしもしウィトゲンシュタインさんの問題意識が一度でも自らの琴線に触れたことのある方でしたら、この本は是非お勧めします。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


<書評2000へ>

<書評99へ>

<書評98へ>

<書評02へ>

<書評01へ>

<表紙へ>