中嶋洋一『英語の歌で英語好きにするハヤ技30』明治図書2160円(2000/9/1)

中嶋洋一さんの四部作のゴールが出版されました。第四作などといいますと「好評だから連作したのであって、中身はどうせ今までの焼き直しみたいなものでしょう」とシニカルに構える方もいるかもしれませんが、それは大きな見当違いというものです。この本は中嶋さん自身が好きでたまらない歌(音楽)を最初の三章で扱い、最後の四章で中嶋実践の集大成ともいうべき英語の卒業文集(詩集)を扱っているせいか、非常に魅力的で、かつ具体的な示唆に富んだ素晴らしい本です。「中嶋さんの四部作でまず一冊読むとしたら?」と問われたら、私は『学習集団をエンパワーする30の技』をあげるかもしれませんが、「中嶋さんの四部作であなたが一番好きなのは?」と問われたら、この『英語の歌で英語好きにするハヤ技30』をあげることでしょう。

上に書きましたように中嶋さんは歌が大好きです。私も歌は大好きです。それよりも何よりも生徒も歌は大好きなのです。「でもいくら好きと言ったって、英語の時間に歌なんて」と難色を示す真面目なお方もいらっしゃるかもしれません。「英語の時間は音楽の時間じゃないのだから」というわけです。でもちょっと待ってください。英語ということばも、ことばの教育も、そもそも全人格的なものではないのですか?ことばを学ぶということは、あなたの頭と心と体が統合されてのことではないのですか?

中嶋さんはこう説きます。「書かれていることを、自分のことばで相手に伝えるように読むのが音読である」(24)。「歌は正に『音読にふさわしい教材』だ」(26)。練られた歌詞が、リズム・メロディー・ハーモニーに助けられながら、人格的身体によって表現される歌というのは、確かに「音読にふさわしい教材」と言えるでしょう。というより、歌は端的に私たちを感動させます。大人だってそうなのですから、ましてや思春期の生徒には感動が必要なのです。「英語教育内容」といえば、ついつい「不定詞」とか「現在完了」とか言ってしまいがちですが、中嶋さんは「英語教育内容」として歌を真剣に考えることを提案しています。現場教員のみならず、英語教育研究者にもいろいろ考えさせる本です。

とはいえ現場教員の中には「私も歌を授業で使ったけどうまくゆかなかった」とお嘆きの方も多いでしょう。そういう方こそこの本をお読み下さい。中嶋さんの細やかで組織的な配慮と工夫が惜しげもなく披露されています。この具体性は実践にとっての何よりの宝です。

しかしこの本はそれだけでは終わりません。第四章に英語による卒業文集(詩集)があるのです。この卒業文集は私もワークショップの時に一冊購入しました。機会ある時に教育学部の学生さんに見せますが、一様に絶句してしまいます。「これ本当に中学生が書いたんですか?」、「凄い。こんなことが学校教育でもできるんだ」といったのが学生さんの反応です。中嶋さんのクラスの卒業文集には生徒さんののびやかな、そして時に鋭敏な感性が、リズムをもった英文と味のあるイラストで表現されています。中嶋さんは言います。

「頭だけで考える詩ではなく、そこには、自分の目、耳、口、鼻、肌、手足で感じたことを心に響かせ、それが表現できるようになってほしい。/そのためには、感覚を鋭敏にしなければならない。/心が耕されなければ、感覚は鈍感なままである。/いじめ、非行、問題行動に揺れる学校の中で、もっと私たちは原点に立ち返り、心を育てなければならない。もっと積極的に彼らの世界に入り込み、人間性を通じ合い、心と心のつながりをもっていきたいものである。/詩は、その心と心をつなぐ」(148)

「そうは言われても、詩を読む授業だけでも難しいのに・・・」と尻込みされる先生のために、中嶋さんはこれまた彼の周到なステップを公開しています。英語教育を「教育」の面から考えたいとお考えの方には心からお勧めします。

この本には、生徒さんの作品や、保護者の方・生徒さんの感想などもいくつか紹介されているのですが、ここでは最後にある生徒さんの感想を引用します。クラスの卒業文集が完成した時の感想です。

「思わずグレート!と叫びたくなる本だ。みんなの魂がこもっている。自分もその中に入っていると思うと、なんだか泣けてくる。うれしいやら何やらでもうぐちゃぐちゃだ。この本は僕がじじいになっても、くたばって骨だけになっていても、ずっと側に置いておこうと思う。そうすればいつでも出中の3年生に戻れるし、共に卒業したみんなに会える!辛くなったり、苦しくなったりしたら、この本を読もうと思う。みんなの思いに励ましてもらおう」(176)

こんな台詞を一度でも自分の生徒から聞いてみたいではないですか!

中嶋洋一さんの実践の深さと広さと周到さに心からの敬意を表してこの本を皆さんにお勧めします。

追記:それにしてもこのように感性と人間性に対する深い洞察を持った本に『英語の歌で英語好きにするハヤ技30』といったタイトルをつけなければならないのは少し悲しい気がします。もっとも出版社に言わせれば「このようなタイトルでないと売れない」ということになるのでしょうが、それならそうで、英語教育界の体質を少しでも変えたいと私はいささかドン・キホーテ的に考えます。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


『英語教育のアクション・リサーチ』(ジャック・リチャーズ/チャールズ・ロックハート著、新里眞男訳、研究社出版、2800円)(2000/8/23)

「〜しさえすればよい」という宣託は魅惑的です。就職活動を控えた学生の資格取得から人生に行き詰まった人が陥るエセ宗教に至るまで、このような台詞は枚挙にいとまありません。しかし人生はそんなに単純ではありませんし、授業もまたそうです。「〜さえ学べば/マスターすれば、あなたの授業はよくなる」というのは誇張表現に過ぎないというべきでしょう。

英語教授法も、古典的な訳読法からの脱却から始まり、'the best method'の探求の時代があったものの、やはりそのような「万能薬」はあるべくもなく、英語教授法の本も「折衷法」(eclectic method)を「落とし所」にして記述が終わることが多いように思います。

どんなにいい方法も、'perfect'とは言えず、絶えず自分の状況(外部環境・自分の能力等)の中で振り返る(to reflect)ことをしないと、自分にとって有効な方法とはなりません。(これをお読みの読者の中に、「いくら講習会で教授法を習ってそれを真似しても、それがそのままうまくゆくことはない」とお考えの方も多いのではないでしょうか)。

しかし「振り返る」といってもこれが案外難しいものです。「あなたの授業を振り返りなさい/反省しなさい/省察しなさい/リフレクションしなさい」などと言われても、「まあ、こんなものです」とか「いつもうまくゆかないんです」といったおざなりの言葉しかでないか、思い付きだけの印象批評しかできないかもしれません。

私たちは授業を振り返る観点を包括的に知る必要があります。初心者なら「そうか、こんな観点もあるんだ」と啓発され、ベテランなら「うんうん、そうそう」と自らの経験を自覚させてくれるようなリストは必要です。そのような実質的な振り返りなしには、アクション・リサーチも何もあったものではありません。

本書は、そのような啓発と自覚を促進してくれる本と言えましょう。学校の英語科の本棚には必ず一冊は欲しい本です。研究授業を前にして途方にくれる方も、「アクション・リサーチ」をやってみようかと思う方も、読めばきっと様々なことを洞察するきっかけになる本だと思います。

この本はタイトルは『英語教育のアクション・リサーチ』となっていますが、原題が『第二言語教室における省察的教授』(Reflective Teaching in Second Language Classrooms)となっていることからわかるように、別段アクション・リサーチをやろうと思っていない人にも有益な内容になっています。「教師の信条」「学習者」「教師の意思決定」「教師の役割」「言語授業の構造」「インタラクション」「言語学習活動」「教室での言語使用」といった観点からの振り返りのポイントを具体的かつ豊富に提示しています。現場教師の皆さんの一読をお勧めします。現場教師の一人一人が自律的な力をつけることこそが、英語教育改善の最大のポイントだからです。いや、そんなことより、どうせ授業をするなら、自ら充足感を感じ、生徒に感謝される授業をしたいではないですか。そのためには、まず自らの授業を振り返りましょう。もちろん「この本を読みさえすれば、あなたの授業はよくなる」とは言いませんが。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


John Searle Mind, Language and Society: Philosophy in the Real World Basic Books (1998) (2000/7/20)

The Master Minds seriesの一冊であるこの本は、サールさんのここ20年以上の哲学的探究を非専門家にもわかるように簡潔に書き下ろしたものです。私は英語教育研究の見取図を得るための良書として読みましたので、ここに簡単な要約を記しておきます(抽象的な要約ですので哲学に興味のない方はこの項はどうぞ飛ばしてください)。

第一章で彼は自分が17世紀以来の啓蒙精神(the Enlightenment vision)の伝統に連なっているという立場表明を行います。そのような彼にとってポストモダニズムの一部(例えば極端な社会構成主義)の主張である「全ては人間の主観によって構成されている」といった反実在論を到底受け入れられないものとして退けようとします。ある意味でこの本は、こういったポストモダニズムとの戦いなのですが、サールさんのいいところは、ポストモダニズムを否定しようとするあまりの反動的な実在論に陥ることなく、物理的世界、心的世界、社会的世界の連続性とそれぞれの独自性をきちんと述べたところです。

第二章ではまず「心」(mind)を取り上げます。「心」はデカルトの二元論を不用意に受け入れてしまったら、「物」(body)とは異なる存在として捉えられ、科学では扱えないような存在にも思えてきます。サールさんの立場は明快で、「心」とは生物学的現象であり、その意味で物理的世界の現象であるというものです。しかし「心」には「内的、質的、主観的」(inner, qualitative, and subjective)という物理的世界では考え難い特徴を持っているようです。これをどう説明すればよいのでしょうか。

サールさんの論法はまず「水の流動性が水から切り離せないし、テーブルの固さがテーブルから切り離せないように、意識も私の脳から切り離せない」(41)と述べ、「心」と「脳」の不可分性をまず確認します。次に彼は存在論と認識に関しての区別を導入します。存在論の区別とは第一人称的存在論(first-person ontology / objective mode of existence )と第三人称的存在論(third-person mode of existence / objective mode of existence)の違いです。確かに意識(心)とは、たとえば私という人間によって経験されてこそはじめて存在するといえます。この点で意識の存在の仕方は第一人称的存在論を持ち、これは例えば外にある山のような第三人称的存在論の存在とは異なります。しかしそういった意味での意識の主観性は、意識が科学の対象となりえないことを導いたりはしません。なぜならば科学で大切なのは認識的客観性(epistemic objectivity)だからです。サールさんは意識は存在の様態が主観的なだけで、それに接近する時には客観的アプローチが取れると考え、意識の科学は十分可能だと主張します。

「心は主観的な存在だが、それに客観的にアプローチすることはできる」というのはそれほど滑稽な考えではありません。サールさんの出した例ではありませんが、刑事事件を考えてみましょう。検察は容疑者の「動機」を裁判官に客観的に示そうとします。もちろん「動機」といった気持ちはその容疑者にしか直接体験できないものです。しかしその気持ちの実在性は、数々の状況証拠や証言で、たとえ緩やかな意味にすぎないにせよ、「客観的」に立証することができます。もちろん残念ながら誤審もありますが、「容疑者がそう思わなかったと言っているんだから、そんな動機はありえない!」といった論法は認められないということはこの例でわかっていただけるのではないでしょうか(また同じ意味で自白至上主義もおかしいと言えます)。

またもう一つ注意しておきたいのは、サールさんが心の物理性を強調するあまり、「意識などというものは脳の状態に過ぎない」といった還元主義(reductionism)にも「意識などといった概念は科学の議論から消し去られるべきだ」といった消去主義(eliminativism)にも陥っていないところです。こういったサールさんの健全さは最後まで堅持されます。

第三章で意識(consciousness)、第四章で志向性(intentionality)と、心の二大側面について論じた後、サールさんは第五章で社会的世界(social universe)の独自性を論じます。社会的世界ももちろん物理的世界と連続したものですが、社会的世界は観察者依存的(observer-dependent)であることで、観察者独立的(observer-independent)である物理的世界と異なります。この観察者依存性は、集団的志向性(collective intentionality)、機能付与(assignment of function)、構成的規則(constitutive rules)で説明できるというのがサールさんの論です。社会的事実(social facts)はこのような特性を持つという点で生の事実(brute facts)と異なるわけです。社会的事実から物理的世界への依存性が減るにつれそれは制度的事実(institutional facts)と呼ばれます。

言語を扱う第六章では、第四章の志向性の議論を踏まえた上で、言語的意味(linguistic meaning)ではなく話者の意味(speaker meaning)を第一次(primary)のものと捉えます。話者の持つ志向性が根本にあると考えるからです。そしてその志向性は満足条件(conditions of satisfaction)によって解明できます。かくして、社会的事実も言語使用も「客観的」にアプローチできるわけです。

要約、といっても非常に断片的なものになりました。「そもそも志向性って何だ?」という方も多いと思います。ここではここでのこれ以上の説明は止め、いつか具体的な英語教育の論文で、このサールさんの哲学の見通しの良さを活かした論考を進めたいという希望を表明しておくに留めたいと思います。お粗末。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


中嶋洋一『中嶋洋一の英語がわかる・話せる授業 中学3年生編』汐文社(85分ビデオ)6800円(2000/7/11)

しばらく心身ともに消耗していたので、紹介がすっかり遅れてしまいましたが、中嶋さんのビデオ三部作の最後を、内なる喜びと共に紹介したいと思います。最初に簡単に内容を紹介し、次に私が考えさせられたことを述べたいと思います。

最初のセクションは「シャドーイングの訓練」です。ここでは中嶋さんの指示のうまさを特記しておきたいと思います。シャドーイングを中嶋さんは、最初はわかりやすく説明してやらせるも、次第に課題を難しくして、ついにはあえて生徒をつまずかせて、シャドーイングは単語を単位として行なうことが重要であることを体感させます。そうやってだんだんと、生徒は、数分前にはひょっとしたら聞いたことさえなかった「シャドーイング」という活動が自分たちでも「できるんだ」という達成感を感じはじめます。でもそこで終わらないところが中嶋さんの凄いところで、相手に任意のページを選ばせてのシャドーイングや背中合わせのシャドーイングといったように、中嶋さんは課題をどんどん変容させてゆきます。課題が変容する度に、生徒は内容に一層注意しようとしたり、耳にに全神経を集中させようとしたりと、シャドーイングの力を複数の側面から着実につけてゆきます。

このあたりの中嶋さんの様子は、まるでオーケストラに稽古をつける指揮者のようでした。オーケストラ団員は、指揮者の指示によって、自分たちの可能性を次々に発見してゆきます。指揮者の要求は最初は「できるかなあ、そんなこと」のように思える難しい注文かもしれませんが、指揮者の段階的で適切な指示により、団員は少しずつ今まで経験しなかったような音楽表現を身につけ、かつ団員同士にも連帯感が生まれてきます(注1)。同じように中嶋さんの生徒も、的確な指示により少しずつ方向づけられ、自信をつけ、連帯感をも培ってゆきます。このあたりの様子は、「次は何だろう」と、中嶋さんの指示を食い入るように聴く生徒の目の表情などから私はつかんだ思いです。ちなみに中嶋さんの指示はほとんどが英語。中嶋さんは活動に入る前から既に英語のコミュニケーションを行なっているのです。

次のセクションは「ビーンズ(豆)を使って発話能力を高める」です。ここの活動の主眼はcoherence(会話のつながり)を意識させ、いわばactiveなlistenerを育てることですが、中嶋さんはただ会話をつなげさせてゆくだけではなく、そこに「会話が発展する度に持っている豆を移動させなさい」という課題を加えます(注2)。これにより、生徒の会話にテンポが生じ(生徒は一つでも多くの豆を移動させようとする)、また間違いを過度に怖れる不安感も脇に置いておくことができます。後でも述べますが、時間を設定するということは、言語知識についての授業ならともかくも、コミュニケーション能力を身につける授業では本質的な要因なのかもしれません。

この「会話のつながりを意識させる」ことは、次のセクションで紹介される「マッピング」による図示でさらに意識的に学習されます。KJ法のように話題から話題を連想・発展させ、それを図にしてつなげてゆくこの方法は、英語という授業を離れても、ブレーン・ストーミングやノート・テーキングにも役立ちます。ビデオではビーンズからマッピングという順序で紹介されましたが、ビーンズはマッピングに比べて時間的制約が大きいことからして、実際の授業ではマッピングを十分浸透させてからビーンズを導入するのかとも思いましたが、このあたりは実際にやってみて加減を知りたいところです。

続くセクションは「チャンクの定着」です。「意味のまとまりごとに斜め線を入れてゆきなさい」という指導は、他所でもそれなりに行なわれているのかもしれませんが、中嶋さんはそれを組織的かつ計画的に行なってゆきます。まずチャンキングを行なう(斜め線を入れる)箇所はどういう箇所かということを、中嶋さんは六つに総括します。このあたり「そんなの適当でいいではないか」とおっしゃる方もあるかもしれませんが、このようにきちんと整理することにより、中嶋さんは生徒にも中嶋さんのような力をつけることを保障します。そしてさらにはチャンクごとの同時通訳訓練や、単語カードならぬチャンクカード(ワークシート)による表現練習で生徒の理解力や表現力をつけてゆきます。ここでも注意しておきたいのが中嶋さんが一つの活動には90秒(あるいはせいぜい120秒)という時間設定をしていることです。「中学校英語教師はストップウォッチを常に持ってくる」というのを新しい英語教育の常識にした方がいいのかもしれません。

次のセクションは「気づきを大切にする」。how to, when to, what to, where toなどの導入のモデル授業としても見ることができます。後でも書きますが、「頭から教え込もうとするのではなく・・・」というのは、中嶋さんの根本的な態度のようです。

次のセクションの「カルタによる指導」は、『学習集団をエンパワーする30の技』(明治図書)にも掲載されているものですが、このビデオでは中嶋さんのカルタ読み上げのスピードやテンポに注目したいと思います。おそらくたいていの方が思っているよりかは速いのではないかと思いますが、いかがでしょう。

続く「スキットをつくって演じる」「TV番組をつくる」という二つのセクションでは、生徒に英語創作をさせてしかも実演させています。「中三ともなると恥かしがるものですが、雰囲気をやわらげ、人間関係を構築することにより、表現活動につなげてゆきます」とは中嶋さんの言葉です(正確な引用ではありません)。現場の学級経営で苦労なさっている方なら、「こんな活動をこれほどの内容でできるなんて!」と驚かれるかもしれません。中嶋さんのビデオを見たある人が「なるほど凄いし、活動のさせ方もよくわかった。でも私のクラスの場合は、とにかく生徒が席についてくれないんだ」と言っていましたが、こうしてみますと「雰囲気をやわらげ、人間関係を構築する」ことがいかに重要かが再認識されます。

でも「雰囲気をやわらげ、人間関係を構築する」ことは小手先のテクニックではできないはずです。人間としての器量と英語教師としての信念に根差した、英語教師としての具体的な力量・技術がなければできないことです。確かに目の前の現実は厳しいわけですが、少なくともここに一人、富山県の極めて普通の中学校で、これほどの実践をした人間がいるわけです。しかもその人が本も出し、ビデオも出しているわけです。私たちとしては、それらから少しでも学び取ろうではありませんか。そしてまた、学問と出世を混同した妙なアカデミズムにも、安直な反アカデミズム的テクニック至上主義にも染まらず、「人間とは何か」「(現代社会で)生きるとはどういうことか」「教育とは何か」「英語教育とは何か」といった愚直な問いを忘れないでいましょう。「青臭い」と言われるかもしれませんが、教師までもが理想を忘れたり愚弄したりしたらおしまいだという気が私にはします。

話が大袈裟になりすぎました。話をビデオに戻します。続くセクションは「スピーチの指導」です。ここで中嶋さんは、話し手(スピーカー)の目標の一つは、(自分の話を聞いてくれる)聴衆をつくることだと述べます。生徒はペアで向かい合って、ジェスチャーや顔の表情も工夫してゆきます。

このセクションでさらに凄いのは、そうやって育てた生徒一人一人のスピーチを、「はい、よくできましたね」といわば聞き捨てることなく、他の生徒が聞きながらマッピングやキーワードでそのスピーチをメモし(日本語)、さらにはそのメモをもとに聞き手であった生徒に、オリジナルのスピーチを(近似値的に)reproduceさせることです。これには驚いた。私は前任校で大学生一年生にこれをやらせて少々鼻を高くしておりましたが、中学生でもできるとは!話し手には「聞き手をつくるための工夫」をさせ、聞き手には「話し手にもなれるための工夫」をさせる中嶋さんは、話し手と聞き手の両側面から「よいリスニング活動」をつくりあげているといえましょう。これは素晴らしい活動だと思います。

次のセクションは「ディベートの指導」。ここで中嶋さんは、肯定側・否定側を仮決めする→発言・発想に責任感を持たせる→日本語のブレーン・ストーミングをする→ALTとの協働で英文を作りそれを板書する→肯定側・否定側の役割分担を御破算にして新たな関心で英文を身につけさせる(しかも二分の時間制限で)→板書を薄く、軽く消して、かろうじて読めるか読めないかの状態にして生徒の自立を促す、といった手順で授業を進めています。ここには「英文を覚えさせるだけでは楽しくないし、応用も効かない」といった認識があるようです。大切なのは、論の観点の捉え方を実感し、英文発想のコツを体験し、その上で具体的な英語発話を身につけることだと考えられているようです。

最後のセクションは「英語の卒業文集をつくる」です。中嶋さんは、思い付きだけの断片的なタスクはよくないと言います。その場限りになりがちだからです。大切なのは最後のゴールの設定であり、そのゴール設定がはっきりしてこそ、途中過程のタスクも意義付けられます。中嶋さんが選んだゴールは、後輩にも残せる英語の卒業文集づくりです。ここでは時間の都合で三つの文章(詩)しか紹介されていませんが、その三つの作品は文も絵も驚くほどの深みをもったものです。感性に支えられた知性こそは、現代日本にかけているものですが----知性を欠いた表面だけの感性や、感性の働きと隔絶され暴走しがちな知性ばかりが横行しているのが現代日本であるような気がします----、ここにはそのすばらしい実現があります。最後の作品の文字と絵がアップになり中嶋さんによって朗読されたあと、ブラックアウトされた画面を見て、あなたは何を感じることができるでしょうか。

このようにこれら三本のビデオはどれも具体的で深みのあるものです。皆さんの中学校、あるいは高校、さらには教員養成の大学で、少しでも予算があればこのビデオシリーズの購入をお考え下さい。皆さんの英語教育に対するコミットメントの度合いに応じて、このビデオシリーズは皆さんに深いものを与えると思います。

発売元の汐文社の住所は東京都文京区本郷1-34-5。電話は03-3815-8421。ファックスは03-3815-8424です。この英語教育界の財産をできるだけ多くの人で共有したいと思います。

以下は蛇足ですが、私がこのビデオを見ながら考えたことです。

(1)「訓練」について:中嶋さんの授業活動一つ一つをとりあげてみれば、「私もそのように英語を習得した」という方も多いかもしれません。私もその一人です。シャドーイングはいつ頃始めたかは不明ですが、ずっとそれなりにやっておりました。Becauseで論理的に話題を展開させることは、大学一年生の時のイギリス人の先生に叩きこまれました(この方はいろんな意味で私の恩人です)。マッピングはKJ法や知的生産の技術やらでなんとなく身につけておりました。チャンク読みは高校生の頃、SIMの広告を読んで「そりゃそうだ」とばかりに一人で適当に実践しておりました。チャンクごとの記憶は大学のESSでやりました。スキット、ドラマ、ディベートもESSでやりました。

でもこれらは偶然と私の選択によるものです。私が偶然よい先生や本に恵まれ、大学の専攻を英語教育に選び、クラブ活動をESSに選んだからです。これらの偶然や選択----そしてそれらを可能にした私なりのコミットメント----がなかったら、私はこれらの技術の恩恵を受けることはなかったでしょう。私の英語力は今よりももっと低いものになっていたでしょう。

私の定義する訓練とはこうです。「訓練とは、熟練者・専門家なら当たり前にやっていることを、初心者・非専門家に、意識的かつ段階的に経験させ身につけさせることである」。中嶋さんの実践のいいところは、何の変哲もない中学校の生徒一人一人に、熟練者・専門家の自己訓練のエッセンスを経験させ、初心者を中級者に変えてしまうことです。この組織的な働きかけがなかったら、生徒のうちでもよほどの興味をもつとか、それなりの才能をもった生徒などでもなければ、ここまで英語力はつかなかったはずです。メソッド化された訓練は素晴らしい教育文化だなあと思います。このような中嶋メソッドが少しでも普及すれば日本人の英語の底力も確実に上がると思います。

(2)時間という本質的な要因:「言語知識」について学ぶのならともかくも、コミュニケーションを身につけようと思うのなら、活動に明確な時間設定をする必要があるように思えます。コミュニケーションは、現実的な時間的制約の中で行われます。参加者がそこで要求されているのは、一定の作業記憶量の中で、外部データ(見たり聞いたりしているもの)と内部データ(長期記憶に残っていること)を基に、先行する発言と文脈に関連する発話を、容認される程度の誤り・不正確さの範囲で実現させることです。ここでの合理性の原理は、完全な答えを求めること(最適性原理)ではなく、とりあえずうまくゆく応答を産出すること(満足性原理)です(cf.サイモンの議論)。人間の情報処理能力は最適性原理に基づいて行動するほどの能力はもちませんから、人間は満足原理によって自分の限られた情報処理能力をうまく(=満足いくように)配分させます。人々は、枚挙的に論理空間を総点検するような知性の働かせ方(例えば、IBMのディープ・ブルーの演算方法)などは通常行なわず、従来うまくいっていたパターンを少し適合させるとか、試行錯誤の中から適当な方法を見つけて、それを適宜フィードバックで修正しながら行なうなどをして、作業記憶のリソースを自分にとってうまく配分させるわけです。

コミュニケーションを学ぶ際には、このような自分なりの情報処理能力の配分法を身につけることが必要であるというのが私の主張です。この学習は、自分なりの情報処理能力を対象としたものですから、一般的には教授できず、各自がそれぞれに自分の心身を通じて学ぶしかありません。それぞれに学ぶといっても、学ぶのは一定の時間制限の中での情報処理能力配分なわけですから、コミュニケーションの学びには時間制限が明確な活動が必要だというわけです。

なんだかいつもの癖でわかりにくい表現になったかもしれません。わかりやすく結論だけを言えば、skill-gettingの時はともかくも、skill-usingの活動には時間的プレッシャー(=時間制限)が必要だ、ということになりましょうか。何だか当たり前のことですよね。でもその当たり前のことを、ストップウォッチの使用や豆の移動、あるいはカルタゲームの導入などといった数々の工夫で、意識的に実行している英語の先生はどれぐらいいるでしょうか。繰り返しますが「英語教師はストップウォッチを持っているものだ」というのを新しい常識にしませんか。

(3)「聞く」ということ:心理学研究をやっている人の話などを聞きますと、たいていの場合、「聞く」ということは、その時に同時に脳内で起っていること(what accompanies listening)に研究の関心が集中しています。その時に周りでどんな状況が成立しているのか(what surrounds listening)やその聞く前に何が起り後に何が起るのか(what happens before and after listening)にはほとんど関心が向けられていません。多くの英語教育実践も大同小異です。「リスニング活動」は、いわば「ヒアリング検査」みたいになって、「文字通り何が聞こえたか」が中心の活動になってしまいかねません。

でも日常生活でのリスニングとはどういうことか、今一度思い起こしてみましょう。私たちが何かを聞く時、それは先行する私たちの興味・関心や現実的必要性に基づいて行われます。さらには、聞いたことに関して後に自分にどのようなことが要求されるのかという予想のもとにリスニングの精度を決めたりします。私たちはただ聞くのではなく、自分なりの歴史文脈の中で聞くのです。「おぉ、この話題か。これがどうなったというんだろう」などといった期待や予想と共に、また「これはあいつに教えてやろう」などといった意図と共に私たちは頭を働かせるわけです。私たちはマイクロフォンが音を拾うように、均一に音を拾ったりはしません。私たちは基本的に文脈と人間関係(共同体)の要求に応じて聞くのです。原則として、文脈と人間関係(共同体)によって要求される範囲に応じて、鼓膜からの情報を整理します。そのように、状況に応じた積極的な対応をリスニングと呼ぶのです。文脈や人間関係(共同体)からの必然性がない鼓膜からの情報獲得は、リスニングではなくヒアリングと呼ぶべきでしょう。

こういう意味でみると、中嶋さんの活動は見事にリスニングの活動だということがよくわかります。スピーチ活動を例にすると、生徒はそれまでの学習集団の高まりから、スピーカーが何を言うかを興味と期待を持って聞きます(人間関係(共同体))。さらにはそれをメモし、後にメモををまとめてreproduceするという活動(文脈)が作られていますから、その活動(文脈)に即した聞き方をします。リスニングの授業を作り上げるのは、リスニングの音声材料を用意するだけではなく、そのリスニングが必然性を持つような人間関係(共同体)と文脈を作り上げることだといえましょう。こういった発想は、実験心理学のような視点からはなかなか出てこないので特記した次第です。

(4)情報の伝達の問題なのか、人間の育成の問題なのか:中嶋さんの実践は、実に計画的で組織的で効果的ですが、ある意味必ずしも効率的ではありません。「効率的」というのは、「結局させたいのがこういう活動なら、最初にこう覚えさせておけばいいだけの話なのに」といった発想を意味する言葉としてここでは使っています。中嶋さんは、生徒にわざわざ気づかせたり、考えさせたり、試行錯誤させたりと、一見時間のかかることをやっています。しかしこれこそ「教育的」とはいえないでしょうか。教育とは結果だけの問題ではなく、結果と過程の問題ではないのでしょうか。教育を結果だけの問題として考えるということは、教育を情報伝達の問題として考えることです。学習者が知識を再生できることだけを教育と考えることです。そうしますと教育の成功とはいかに早く覚えさせるかということになります。早く覚える子が大切で、早く覚えられない子、そもそも覚えられない子は面倒な子ということになります。しかし教育は、特に義務教育はそのように捉えられるべきではないでしょう。早く覚えられない子、そもそも満足に覚えられない子もいるかもしれないということを(義務)教育の前提とするべきでしょう。結果だけで教育を考えるということは、そういった子を排除して考えてしまうということです。そうではなくて、過程そのものを意味あるものにすることが必要ではないでしょうか。もちろん結果はいい方がいいに決まっているのでしょうが、どんな結果になろうとも、それぞれの過程がそれぞれの子の人生にとって大切な経験になるように教育活動は設計されるべきではないでしょうか。教育は、情報の伝達の問題としてではなく、人間の育成の問題として考えられ、実行されるべきだと思います。私が言いますとただただ抽象的になってしまいますが、中嶋さんの実践はこういった考えの見事な具現になっているように私は思えます。

私は中嶋さんの実践を非常に高く評価していますが、それは中嶋さんの実践が、このようにコミュニケーションや教育、ひいては人間そのものを深くつかんでいるように思えるからです。もっともっと多くの人と中嶋実践について語り合いたいと思います。

(注1)と、オーケストラのことをあたかも熟知しているように比喩を使っていますが、私はオーケストラ経験など全くありません。(第一、楽譜すら読めない)。でも時折テレビなどで見るオーケストラの練習風景や、音楽家の書いたエッセイなどから、オーケストラ団員の様子はこのようなものだろうと推定してこの比喩は書きました。

(注2)この箇所に関して中嶋さんから訂正のメールをいただきましたので、それを掲載し訂正します。

「最後に、一つだけ訂正をさせてください。中3のビデオの中にビーンズを使った指導が出てきます。柳瀬さんの解説の中では、「話題を発展させられたらビーンズを一つ動かす」と書いてありましたが、それは誤解です。

相手に質問ができたらビーンズを一つ動かすというルールです。発展させるというよりも、相手に対してインタビューアーのように矢継ぎ早に質問をするということに慣れるのが目的です。ですから、マッピングよりも早い段階でそれを使わなければなりません。

子どもたちは相手の話を聞いていても、なかなか質問ができません。I see. Yes. で終わってしまうからです。ですから、相手の言っている情報からキーワードを拾って、それに対して質問をするという活動にしたつもりです。ビーンズを使うのは、人間には狩猟本能・獲得本能があるからです。何か具体的に(目に見えるもので)その到達度が確認できていく作業を取り入れることによって、子どもたちはとても意欲を見せます。これに慣れることで、マッピングに(かなり自由に聞いていける)つなげることができます。」

追記:この素晴らしいビデオの小さな瑕疵は、一部の箇所で音声が非常に小さくなってしまっていることと、字幕スーパーでinductiveとdeductiveが入れ替わっていることぐらいです。ですがこういった瑕疵はもちろんのことこのビデオの素晴らしさを妨げるものではまったくありません。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


中嶋洋一『学習集団をエンパワーする30の技』明治図書2000円(2000/6/24)

この本は「Only Connect」という言葉が、どれだけ深い意味を持っているかを具体的な教育実践を通して表しています。中嶋さんの実践は、言葉と言葉を、言葉と人を、人と人を、人と世界をつなげてゆきます。つながりが失われがちなこの世の中において、この学校英語教育実践は非常に貴重なものです。全ての現場英語教師、英語教育関係者にこの本を心から勧めます。もし読んでつまらなかったと思ったら私の職場へ本をお送り下さい。本の対価と郵送料を私が支払います。この本は中嶋さんの今までの本の中でも一番ではないかと思います。

この本を私が素晴らしいと思うのは次の四つの点からです。(1)英語教育の具体的な技術を教えてくれる、(2)言語教育を理論的に考えさせる、(3)荒廃した現代で学校教育を考え直させてくれる、(4)大人として子どもに学ぶことの重要性を痛感させてくれる。以下、これらの観点に従って、本書を紹介してゆきたいと思います。

(1)英語教育の具体的な技術を教えてくれる:この本が特に現場英語教師にとって素晴らしいのは、具体的な英語教育の技術が惜しげもなく、微に入り細に入り開陳されているからです。「英文を書くときは、文を一気に書く習慣をつける」(45-46)、「チャンクで英語をわかるようにする指導とそのコツ」(句構造を気づかせる、スラッシュ付け、同時通訳など)(50-67)、「聞く力をみるみるつける指導とそのコツ」(「シャドーイング、次の文の予測など)(74-78)、「読む力をみるみるつける指導とそのコツ」(腹式呼吸訓練、指し読み、相手を決めての音読、鉛筆隠しによる読み、BGM読み、表情読み、声優読み、クラス全員の協力による再現読み、クラス全員による音読テスト、表現読み(パントマイム訓練)、気づくための読みなど)(74-84)、「話す力をみるみるつける指導とそのコツ」(スモールトーク、マッピング、ジェスチャーゲーム、連想ゲーム、インフォメーション・ギャップ→意見の違い→理由の違い、など)(94-109)、「書く力をみるみるつける指導とそのコツ」(チェーン・レター、リレー・ノートなど)(109-129)、「カードで教室を騒然とさせる指導とそのコツ」(130-139)などの教育技術は、非常によく考えられ、配慮され、また実践による修正を受けた上で、計画されて説明されております。中嶋さんがいかに一つの文を他の文と、一人の発言をもう一人の発言とつなげるために腐心しているかがよくわかります。これらのいくつかは、私は中嶋さんのワークショップで実体験しましたので、自分自身でも実効性を実感しています。ワークショップ何日分にも相当する上の教育技術指南は、現場英語教師の宝となるでしょう。幸い中嶋さんのビデオでもこれらの教育技術のいくつかは紹介されていますから、是非ビデオもご覧ください。特にシャドーイングやカードゲームなどは、実施にあたってのスピードやタイミングが学べて特に有効です。中嶋さんの教育技術が本とビデオで相互補完的に学べるのは本当にありがたい限りです。

(2)言語教育を理論的に考えさせる(この項はやや抽象的ですので、抽象的な議論が苦手な方は(3)(4)の議論を先にお読み下さい):この本のいいところの二番目は、具体的な技術解説を通じて、言語教育のあり方について根本的な考えの転換を促していることです。従来英語教育という言語教育は、往々にして孤立した教育でした。「孤立」というのは例えば「言語」(英語)についてです。「言語は自律的(autonomous)な存在である」という近代言語学の大前提に依拠するあまり、私たちはとかく言語を、言語内の観点から教えてきました。言語内の構造的関係(統語論)がその代表例でしょう。もちろんそのような観点が悪いとか不必要というわけではないのですが、言語教育がそれだけに終始してしまうと、言語教育は近代言語学愛好者だけのためのものになりかねません。コミュニケーションとは基本的に別ものと規定された「自立した言語」の教育は、言語教育の一部であっても全てではありません。しかし従来は言語が「自律的に」、あるいは「孤立して」教えられてきたわけです。

それでは言語は何と結びつけばいいのでしょうか。「対象」というのが一つの答えです。この文章は論文ではありませんので、細部を省略して単純な言い方をしていますが、「対象」とは主には「世界」と「他人」、そして「自分自身」です。「世界」に関しては主に社会科や理科で学ばれるでしょう。もちろん英語の教科書の中にも「世界」は描かれます。ですが従来は、そういった内容がどこか付け足し的に扱われてきたきらいがあります。極端なことをいえば、言語教育で大切なのは言語材料であってテキストの内容ではないといった考えです。そういった考えに基づくと、内容(「世界」)と言語表現の結びつきなどは軽視されてしまいます。また「他人」に関しては、言語教育(ましてや外国語教育)とはまさに「他人」と結びつくためのはずなのに、教室内の「他人」は「隣に並んでいる同質の学習者」「敵対的ライバル」であったり、「いじめっ子」「いじめられっ子」であったり、「無関心な存在」「不可解な存在」であったりします。実際、どうでしょう。私たちはどれだけ自分の英語教育で生徒達を結びつけているでしょうか。将来他人に対して自分を開き、連帯できる人間に育てあげているでしょうか----具体的に授業を通じて。さらに「自分自身」ですが、これもどうでしょう。「私」へのこだわりはこれまでの英語教育にあったでしょうか。現在の自分が、過去の自分や将来の自分とどのような関わり・つながりを持つかというのは、自我形成中の子どもにとっては特に重要なことかと思いますが、英語のプラクティスの中で、そういった「私」のつらなりは重視されてきたでしょうか。「私」は一分前はTomであり、今はJaneになったりはしていなかったでしょうか。定められて与えられた和文の英訳で、自己表現力がつくと想定されてはなかったでしょうか。中嶋さんの実践は、こういった点から言語教育に根本的に改革を行なっております。

「言語」と「対象」(世界、他人、自分自身)が結びつくためには、実はその間に「言語使用者」としての「私」が存在しなければなりません(この場合の「言語使用者としての私」は、IとMeでいうならI、つまりは認識する主体としての私です。前の段落で扱われた私は認識される対象、つまりはMeとしての自分自身です)。「言語使用者」の私は大きく「心」の側面と「身体」の側面から考えることができます。中嶋さんの実践の素晴らしいところは、「心」と「身体」が連動しにくくなった現代の子ども、つまりは「感じたままに動く(=感動する)」ことが不得意になった子どもに対して、自分の心と身体を連動させる訓練を教育計画の中に挿入しているところです。パントマイムやジェスチャー・ゲームは単なる余興ではなく、将来の表現読みや自己表現のために「心」と「身体」を連動させる大切な訓練だと私は理解します。

さてこうして「言語」と「私」(心/身体)と「対象」の三者が結びつきました。しかしこれだけでは言語使用ではありません。本質的に社会的存在である人間は、他人と主として言語を通じて認識をゆるやかに共有させ、細かに違えながら結びつきます(注)。「ゆるやかに共有し、細かに違える」というのは、私たちは物理世界(the physical world)を基盤にして基本的に同じ対象を共有しているが、捉え方(=心の働かせ方)が微妙に異なるために認識が全く同じわけではない、ということです。ここに言語の成立基盤があり、コミュニケーションの効用があります。お互いの認識がゆるやかに共有されているがゆえに言語が成立し、微妙に異なるがゆえにコミュニケーションを通じてお互いの認識を調整し共有しようとする動機がめばえます。より広く深く細やかな認識は、より正しい世界認識であり、より正しい世界認識は私たちの生存に貢献しますから人間は言語によるコミュニケーションを発達させてきたと考えられます。中嶋さんの実践には、この言語によるコミュニケーションの原図があります。中嶋さんの実践では、言語と対象の連動的な提示を通じて、一人の生徒の心が彼/彼女の身体と結びつき、その心が言語によるコミュニケーションを通じて、他の生徒(の心と身体)に結びつきます。コミュニケーションを通じた学習集団によって、一人一人が高まり深められてゆきます。私が中嶋さんのこの本を言語教育技術の点だけでなく言語教育理論の点からも高く評価するゆえんです。「英作文=個人作業」などととかく思いがちな英語教師(129)は、特にこういった根本的な問題意識から(1)で述べた教育技術を再検討してみてください。

(3)荒廃した現代で学校教育を考え直させてくれる:このように技術的にも理論的にも優れた中嶋さんの実践は無から生まれてきたわけではありません。一現場教師として奮闘する中から生まれてきたのです。荒れた学校の職員会でベテランのS先生はこう言います。「毎日彼ら[=生徒]は6時間も授業を受けているんだ。固いちっぽけなイスに座ってだよ。どの授業も楽しくないとなれば、あなたたちなら我慢できるかね」(27)。こういった痛切な認識が、セルビー氏の「教える内容と教え方がハーモニーを奏でる時に、いちばん効果があがる」(155)といった言葉と共鳴しながら、生徒を選ぶことができず、まとめて引き受けなければならない「学校」という場所での英語教育実践へとつながってゆきます。「学校は、二つの大きな特性をもっている。一つは計画性で、もう一つは集団性だ」(149)というのは中嶋さんの言葉です。この言葉通り、中嶋さんの実践は計画性と集団性に基づいた実践と捉えることができます。私は中嶋さんの実践を通じてはじめて単なる「英語教育」ではない「学校英語教育」の存在に気づかされました。

(4)大人として子どもに学ぶことの重要性を痛感させてくれる:上のような認識に基づく学校英語教育は、生徒に鍛えられ、教えられ、修正を受けることによって現在のような中嶋さんの実践になったと私は推測します。実際にお会いしても、中嶋さんは絶えず他人から学ぼうとしている方ですし、その姿勢は生徒にも見事に引き継がれています。さらに「愕然とした少女のスピーチ」(185-195)をお読み下さい。組織生活に疲れを感じ、山崎豊子の『沈まぬ太陽』(新潮社)を読んでは嘆息をついていた私などは、まさに居ずまいを正されました。子どもは澄んだ目とまっすぐな感性を持っています。子どもを神聖視するつもりはありませんが、このことには間違いはないでしょう。大人と子どもは共に学び合わなければならない存在だということを改めて痛感させられました。

最後に、この本の素晴らしさを集約するような、中嶋さんの後書きの末尾を引用したいと思います。

「さて、何より感謝したいのは、荒れた学校で、私に授業とは何かを真剣に考えるきっかけをくれた子どもたちです。私の勤めた学校は三つとも荒れました。卒業式の練習中、仲の良かった番長をステージの上で注意して全校生徒の目の前で殴られて血だらけになったこともあります。その番長も交通事故で亡くなってしまいました。また、チェーンと木刀片手に他校をシメに行った20人の生徒たちを追いかけたこともあります。燃えた机が屋上から落ちてきて、一階から屋上まで息を切らせて駆け上がったこともあります。正座させられた教頭先生を助けに行って、椅子とナイフをもった長ランの生徒たちとにらみ合ったこともあります。

埼玉では、サッカー部の顧問でした。集まってくるのは、通称ワルの子どもたちばかり。でもウソをつかない彼らが好きでした。三月、卒業を目前にして、番長がバイク事故で爆死しました。その夜、部員50人で現場に行き、花や彼の好きだったおにぎりを備えてみんなで号泣しました。

本当のワルなんていません。みんなわかりたいのです。わかってほしいのです。授業になんとか出てほしい、どうしたら出てくれるだろうか。彼らをなんとか少しでもわかるようにしてあげたい。頭をひねって工夫するしかありませんでした。

そして、担任を離れて8年たちました。子どもたちと人間関係を築く、そして惹きつけるには授業で勝負するしかありません。

授業がおもしろくなったのは私の力ではありません。緻密なのは私の性格ではありません。みな子どもたちが教えてくれたのです。

私が今あるのはみな彼らのおかげです。本当に感謝しています。」(200-201)

私がこの本を心からお勧めしたい事情もわかっていただけるかと思います。

(注)このあたりをサールさん(John Searle)は著書のThe Construction of Social Reality (The Free Press)で、一貫した用語体系でうまく説明しています。この本もきちんと読んだら紹介したいと思います。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


中嶋洋一『中嶋洋一の英語がわかる・話せる授業 中学2年生編』汐文社(80分ビデオ)6800円(2000/6/3)

中嶋さんのビデオの2本目の紹介です。第一のセクションは「音読・速読を上手にするコツ」。ここでは音読が聞き取りをはじめとした英語の諸活動の基本になるとの認識から、「指し読み」「斉読」「個人読み」などの活動が相互に密接に関連しながら導入されてゆきます。ビデオにはありませんでしたが、テープに合わせて読むなどの活動などとも組み合わせれば、確かにこれは英語活動の根幹をなす練習になることでしょう。私も大学の一般教養で英語を教えているときには、「テープだけのリスニング」「本文を目で追いながらのリスニング」「リスニングしながら唇だけを動かす」「リスニングしながら小声で合わせて読む」「リスニングしながら普通の声で合わせて読む」「シャドウイングをする」「リスニングしながらメモを取る」「ディクテーションをする」「メモをもとにプレゼンテーションをする」といった活動を基本的にこれらの順番でやっていたので、このセクションの活動の有効性については実感があります。中嶋さんの実践ではさらに、クラスの前での発表とクラスでの評価があります。このビデオを通じていえることですが、中嶋さんは学習集団でしかできないことを実によく実践しています。クラスは下手をすれば、個人教授が予算的に不可能だから仕方なしにおこなっている一斉教授のように認識されがちですが、中嶋さんは、学習集団を作ることによって、個人個人が高まり、また個人個人がそれぞれに貢献することによって学習集団が高まるようなクラス経営をしています。このあたりの感覚は、ビデオ全体を通じて学びたいところだと思います。

第二のセクションは「コンピュータで創作童話をつくる」。これは短いセクションですが、これからはパソコンが「ハイテク機器」としてではなく「自己表現の道具」としてどんどん使われてゆくことを予感させるセクションになっています。キーボードのブラインドタッチは、学習指導要領のどこかに位置付けて確実に学習を保証すべき項目なのかもしれません。

第三のセクションは「スキットをつくる」です。長い実写で中嶋さんが、いかに「会話をつなげる」ために、「味付け」「感情」「アイコンタクト」を身につけさせようとしているか、また英語授業においていかに「内容のある活動」「参加したくなる活動」「場面を具体的に考えさせる」ことを重視しているかがわかります。中嶋さんは生徒がペア活動している教室をぐるぐる回っていますが、状況に応じて的確な指導を入れてゆきます。その時彼が「ストップ!」といってもなかなか生徒が活動をやめようとしないことからも、また何よりビデオに写った生徒の表情からも、生徒が自然体で集中していることがよくわかります。

第四のセクションは「歌を指導するコツ」です。英語の歌は教師にとっても生徒にとっても楽しいものですが、下手をすれば単なる息抜きになってしまいます。そうしないためには(1)速読訓練をすること、(2)ゆっくりとしたテンポで、しっかり音程をとらせながら歌わせることを、先にしておかなければならないというのが中嶋さんの主張ですが、詳しくはビデオをご覧ください。

第五のセクションは「自信をつけるスピーチ指導」です。他のセクションにもまして、ここの活動は凄いと思います。普通の中学校の二年生がこれだけできるというのは驚きといえるでしょう。視線の取り方、間の取り方など、コミュニケーションの基本も中嶋さんはきちんと指導しています。英語はおろか、日本語でもコミュニケーションが取れない若い人が少なくない昨今、このような実践は貴重です。英語教育を狭い意味での「言語」教育ととらえて、コミュニケーションはその「言語」の知識を適当に使えばできるようになるといった認識しかないと、このような指導はなかなか思いつかないのかもしれません。「言語」とは密接に関連しながらも、それとは異なる独自の論理をもった「コミュニケーション」の研究をきちんとしなければならないと私などは思わされました。なおこのセクションを深く理解するためには中嶋さんの『英語のディベート授業30の技』(明治図書)を読むことをお勧めします。実際、このビデオを見た人は、自然と中嶋さんの他の著書(『英語好きにする授業マネージメント』明治図書など)を読みたくなるのではないかとも思います。

第六のセクションは「研究授業を生徒発信型に変える」です。研究授業では、参観者は「透明なことになっているはずの異端な侵入者」になってしまっていることがしばしばですが、中嶋さんはそういった参観者を「未知の協力者」「社会につながる人」(cf正統的周辺参加)に変えてしまいます。この発想には一本取られた感じでした。参観者も生徒も、活動を通じて表情が柔らかくなってゆくこの実写は見ていて本当に気持ちがいいです。

第七のセクションは「テーマ学習」。これは生徒の作品を字幕とともに紹介するだけの短いセクションですが、ここでも生徒の「オリジナリティ」「自己責任」といった重要な概念がさらりと述べられています。こういった概念は中嶋さんの実践にとって重要な概念なので、ビデオを見る私たちはそれらの意味合いについてよくよく考えを深めたいと思います。

最後のセクションは「中学生にもできるディベート」。3人を単位にした「マイクロディベート」でも、中嶋さんは生徒に自己責任の感覚を植え付け、自分が孤立した無力な存在ではなく、集団の中のかけがえのない一人であることを実際の活動で実感させます。「集団の一人」といっても決していわゆる「歯車」のように代替可能な機械的な存在でなく、自分の貢献が目の前の相手を喜ばせたり、ひいてはクラス全体をもりあげたりもできる個人です。この「集団の中の個人」という感覚を、教条的・イデオロギー的な姿勢とはまったく無縁に教えている中嶋さんの実践は「学校教育」として重要です。アリストテレスを持ち出すまでもなく、人間が社会的な存在だということは、大人なら誰でも痛感していることです。「社会的」でありながら、どう「隷属的」でなく「個性的」であるか、いや個人が「個性的」であることを通じて「社会的」という言葉がはじめて積極的な意味を持ちうるということは、これからの日本が学ばなくてはいけない重要な課題だと私は考えていますが、民間教育産業がどうしても個人学習に集中しがちな現状からしますと、学校教育はそのような課題にきちんと取り組まなければならないと思います。中嶋さんの実践も単に「英語がしゃべれるようになった」「英検にもどんどん合格した」とかいう観点からだけでなく、そのような社会性の育成といった点からもどんどん評価し批判検討するべきだと私は考えます。

その絡みで非常に印象的だったのが、中嶋さんが、生徒のパフォーマンスをしばしば他の生徒に判定させていることです。ディベートならどちらの議論の方が説得力があったか、というようにいわゆる「勝ち負け」で判定させています。このような判定は、妙な「思いやり」を強調する人からいわせれば「負けた人がかわいそう」とでもなるのかもしれませんが、中嶋さんは授業できちんと「よい議論とは何か」を教えていますから、生徒の判定も冷静で客観的なものです。一定時間内の考慮できちんと判断させることの教育的価値は強調しても強調しすぎることはないと思います。どうかすると大人までが周りの顔色ばかりうかがって「思いやり」「無難」の言葉の陰に隠れて責任回避をし、自分の個性を育てることを怠っている日本の現状でのこのような実践を私は高く評価します。

「ディベートでは、勝ち負けより、相手のいいところを学び、お互いに高まってゆくことを大切にしたい」とは中嶋さんの言葉です。このビデオは単なる教育技術の紹介の域を越えて、日本の学校英語教育がどうあるべきかということを考えさせ実感させる優れたビデオになっています。全ての学校英語教師に一見をお勧めします(注)。

(注)新人教師などは、最初見たら「とても自分にはこんな実践はできない」と思いこむかもしれませんが、それは中嶋さんの著書を読むなり、自分で考えて工夫をするなり、お互いに語り合って、知見を共有したりと、一歩ずつ進んでゆけばいいだけのことです。中嶋さんとて一晩でこのような実践ができるようになったわけではありません。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


中嶋洋一『中嶋洋一の英語がわかる・話せる授業 中学1年生編』汐文社(60分ビデオ)6800円(2000/5/28)

達人セミナーなどの優れた現場教師による集まりに行くと、しばしば本当に素晴しい先生に出会うことができます。そんな時は懸命にメモをとり、このような話とデモンストレーションを目にすることができた自分の幸運を喜びますが、同時に「このデモンストレーションを何度も見て学びたい」と思ったり「自分が行けないセミナーでも素晴しい実践があるのだろうが、いかんせんお金と時間がない」と思ったりします。「デモンストレーションがビデオになって流通していればいいのに」とは私が前から願っていたことでした。

そのようなビデオが実現しました。ISBN番号(4-8113-7322-7)を持っていますので、全国の流通網にのっています。また、ただ撮りっぱなしのビデオではなく、要所だけを編集した中味の濃いビデオです。しかも講師は、中嶋洋一さん----創造性と人間的な深さを兼ね備えた、日本の英語教育界が誇るべき現場教師----です。ここでは取り急ぎ、ビデオ三本シリーズのうちの第一作を見た感想を述べておきたいと思います。

このビデオの第一のセクションは「ペア・グループ活動の指導」です。このセクションは中嶋さんの授業実践の根幹をなす考えを表現していると思います。「授業を教師対多人数の生徒という一斉授業の枠組みで捉えるのをやめてみたら」とはよく言われますが、実際にやってみると生徒は混乱したり、クラス規律は崩壊したりすることもあります。中嶋さんはどのような仕掛けでそのようなマイナス側面を完全に回避し、クラスの生徒全員が、それぞれに熱中するクラスを作っているかが、このセクションでは実際のクラスのビデオ実写の中で語られます。「語られる」手段は、実写と共に流れる日本語字幕解説です。ここのセクションは時間的には長くありませんが、ここの日本語字幕解説の持つ意味は、深く何度も味わうべきものでしょう。

第二のセクションは「表現力を育てる」です。これも授業の実写で、私たちは自分が生徒になったつもりで、中嶋さんとALTのパフォーマンスを(疑似)体験します。最初の導入で、生徒が二人の英語でのジョークに自然に反応するのにつられて私も笑ってみていましたが、いつのまにか活動に入っており、しかも生徒にとって適切で無理のない課題が設定されているのには、授業展開のうまさを感じてしまいます。生徒にしてみれば、笑ったり、「何だろう」と思ったりしているうちに、いつの間にか集中して英語を聞いている、といった「中嶋マジック」にかけられた思いでしょう。この展開は素晴しいと思います。(注1)

第三のセクションは「自作スキットを演じる」です。生徒の非言語的自己表現には思わず微笑んでしまいますが、コミュニケーションの基礎をなすのが、このような非言語的な自己表現であり、かつコミュニケーションの不全が問題になっている現在、このような活動は単なる「お遊び」と見られてはならないと思いました。

第四のセクションは「何にでも応用可能なカードゲーム」。これは素晴しい。格変化や不規則変化動詞を、一時間で全員がマスターしてしまうという結果は、それだけ聞くと驚きですが、この実写ビデオを見ると納得してしまいます。以前、意識的な記憶よりも潜在記憶(他の活動をやりながら、刷り込まれた記憶)の方が、より多く記憶に残るという実験を啓蒙的な科学番組(テレビ)で見た覚えがありますが、脳科学的に言えばこれはどういうことになるのだろうと思わず探究心をそそられました。この記憶という点からだけでなく、「ゲーム」というのは英語教育が正面から取り上げるテーマだと思います。

第五のセクションは「よいビデオ教材をつくるためのコツ」です。これを見ると、ALTなどの協力があれば、「いい教材」を探したり待ったりする必要はなく、自分で作ればいいのだということがわかります。ビデオカメラが、想像力とフットワークを兼ね備えた教師の手にわたれば、まさに自分達のニーズにあった教材が得られることがわかります。生徒にこのようなビデオ教材を企画させ、ALTと話し合いをして作らせてもおもしろいでしょう。

第六のセクションは「生徒集会を企画する」です。先ほども少し述べましたが、他人とのつきあい方、ひいては自分自身とのつきあい方を学べないままに、紙の上の勉強だけを押し付けられがちな現代の生徒にとっては、このような生徒集会での活動は大切だと思わされます。英語教師も「教室」という物理的・心理的枠組みをいつでも越えることができる準備が必要なのかもしれません。

最後のセクションはシャドーイングです。日本語でのシャドーイング、目とペン先で英文を追う練習、シャドーイング、リスニング・コンプリヘンションと、中嶋さんは飛び入りクラスの生徒を熱中させ、生徒の技能を確実に向上させています。このシャドーイングに関する話はわたしも中嶋さんから聞いたことがあったのですが、こうして実際に生徒のパフォーマンスを見ると、この活動の有効性を実感する思いです。また、この活動の背後には、音読を英語学習の基本として考え、技能訓練を重視する中嶋さんの考えがあります。このセクションの日本語字幕解説の含意もよくよく私たちは考えたいと思います。

総じて言いますと、このビデオは中学英語教師のみならず、英語教育の実践者なら、見て相当啓発されることと思います。中嶋さんの著作を何度も読んだ私もかなり啓発されましたから、中嶋実践を知らない英語教師がこのビデオを見たら心底驚いてしまうことでしょう。繰り返して見たり、見て感想を語り合ったりする内容をもったビデオだとも思います。(注2) 一人でも多くの方が、このビデオを学校・個人でお買い上げになり、それぞれの英語教育実践を広げ、深めることを私は願っています。(注3) 「中嶋マジック」のノウハウを惜しげもなく公開する中嶋さんの雅量を賛え、それをビデオの形で共有できる現況を心から喜びたいと思います。

(注1)ただし、時折生徒の発話が「コーラス英語」になっているような気がします。ここで言う「コーラス英語」とは、みんなで声をあわせるために、独特の間延びしたイントネーションで発話される英語のことです。またペア活動でも、相手に聞き取りやすい英語にしようとするあまり、生徒の発話が日本語的に、全音節を等しく強調した英語になっている時もありました。(例えばThere is/are構文でもいつでもThere is/are を強形以上に長く強く読んでしまう、等)。これは日本語話者同士で英語練習をしている以上、仕方ないのかもしれませんが、少し気になりました。

(注2)唯一、このビデオに注文をつけたいことがあるとすれば、一部の実写部分が、ビデオカメラの手ぶれにより、画面が揺らいでしまうことです。ビデオ撮影はやはり三脚使用を原則とするべきかと思います。しかし、この点は、中嶋さんの実際の教室にカメラが入った意味合いの大きさを考えると小さな瑕疵だと思います。

(注3)「お買い上げ」とわざわざ言いましたのは、私はこのようなビデオ出版が、もっともっと振興されて、さまざまな実践がビデオになり市場にのることを期待しているからです。教育実践といった技能的な事柄に関しては、ビデオの果たす役割は大きいです。ここは新興市場を育てるためにも、皆が著作権を尊重することを訴えたいと思います。ですから、上の小文でも私はあえて具体的な情報はぼかした書き方をしました。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


横溝紳一郎『日本語教師のためのアクション・リサーチ』凡人社2800円(2000/5/23)

良書です。アクション・リサーチに関心をもつ人のみならず、現場でのよい実践研究を模索している方、効果的で組織的な教育実習・新人研修についてお考えの方など全ての人にお勧めしたいと思います。「日本語教師のための・・・」とありますが、日本語教育の中だけでしか通用しない議論などは皆無に近く、この本は日本語教育以外の分野の人にも読まれるべきだと思います。ましてや第二言語教育という点で共通する英語教育の分野の人には是非読んでいただきたいと思います。(実際引用文献の多くは「第二言語としての英語教育」の文献です)。

この本を良書とするのは、この本が、具体的で、広がりをもち、正直な記述をしているからです。

「具体的」に関しては特に第三章と第四章が優れています。第三章(「日本語教育におけるアクション・リサーチの実践報告例」)では、特に51ページから108ページにかけて、著者の横溝さん自身のアクション・リサーチが公開されていますが、三つのサイクルにわたって「プロセス・シラバス」の導入と実施を追いかけたこのアクション・リサーチは記述がとても具体的です。自ら教壇に立つ現場教師なら、たとえ「プロセス・シラバス」について無知であったとしても、これを読み終える時には、プロセス・シラバスの功罪を横溝さんの記述とともに追体験し、理解を深めることでしょう。横溝さんは、予想とは異なるように変化する状況へ迅速かつ合理的に介入し、そこからのフィードバックによって問題の理解を深め、さらなる行動へと実践を進めてゆきます。この記述がもつ説得力と私たちが感じる(教師としての)共感の強さは、実験論文では得難いものです。このような組織的なアクション・リサーチなら、様々なテーマで読んでゆきたいと多くの現場教師と研究者は思うことでしょう。また第四章(「アクション・リサーチを行なうために」)は、そのようなアクション・リサーチを進めるにはどうしたらよいかが、非常に親切に、手を取るようにして示されています。問題の設定の仕方、話し合いの深め方、観察・記録の仕方などが、通り一遍のリストにならず、リサーチを行なう人間の立場に立って書かれているのは、この著者自身が上に述べたような優れたアクション・リサーチをやっているからなのかもしれません。

「広がり」については、巻末の24ページにもわたる引用文献・参考文献のリストを一瞥しただけでも予感できると思いますが、その本領は第五章(「アクション・リサーチを深く理解するために」)で発揮されます。この章は非常に勉強になります。アクション・リサーチがどのような広がりを持つものかがわかり、アクション・リサーチに対する考えが深まります。第二章(「アクション・リサーチとは何か」)と合わせて読むならば、アクション・リサーチの姿が短時間で的確に理解できます。

「正直さ」については、第三章の横溝さんによるアクション・リサーチによく現れています。実験研究は、妥当性と信頼性を強調するあまり、「邪魔な」要因(=ノイズ)をあの手この手で排除し、かつ書き手の試行錯誤も一切見せずに、あたかも研究がはじめから最後まで終始一貫整然と進んだような書き方をしばしばします。これは言い過ぎかもしれませんが、実験論文をジャーナルに採択してもらおうと思ったら、いかに整然と見せるか、瑕疵がないようにみせるか、仮説がいかに一貫して変わらなかったか等を印象づけるための記述に腐心する人も多いのではないでしょうか。たしかにそうして出来上がった記述はスマートで短時間に読めますが、一方で実践者としての共感はなかなか湧いてきません。反面、ここに見られるようなアクション・リサーチでは、思いがけない結果や試行錯誤が正直に語られます。正直に語られ、記述するからこそ、冷静に問題は省察され、次のステップへと実践は深まってゆきます。もちろん次の実践とて、完全からは程遠いものなのですが、「完全な実践」を望むべくもないのが私たちの姿。完全な仮説なんて、実践・実験前はおろか、実践・実験後も得られないというのが私たちの姿です(詳しくはハーバート・サイモン『経営行動』ダイヤモンド社、等をお読み下さい)。私たちにせいぜいできるのは、よくよく予想をして実践し、その結果を謙虚にできるだけ組織的に反省するぐらいです。アクション・リサーチはそのようなプロセスであり、そこでは「正直さ」が大切だと私は考えています。また193ページや212ページあるいは第六章(「おわりに」)では横溝さんは自分の主張を正直に(もちろん根拠にもとづいた誠実なやり方で)開陳しています。このような正直さがこの本を無味乾燥さとは無縁のものにしているといえましょう。

これで日本語出版市場でもアクション・リサーチについての本が複数入手することができるようになりました。アクション・リサーチに関する理解が深まることによって、「理論と実践」というタテマエに新しい血が通うようになることを心から祈ります。なりふりかまわぬ競争社会においてタテマエは死守しなければなりません。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


林田明大『心が技術に勝った--「雀鬼流」学校改革』三五館、定価1300円(2000/5/7)

卒業生は、送り出した後は対等な市民であり、卒業後にまで師弟関係を強要するのは間違いだと思います。尊敬されない師は離れられて、忘れられて、あるいは軽蔑されて当然でしょうし、私は教師としてそういった結果は静かに受け入れるべきだと思います。逆に、卒業生の方が、仕事などを通じて人間的に急成長するのを目のあたりにすることもあります。その時は私は謙虚に教えを乞いたいと思いますし、またそうしているつもりでもあります。

現在の職場の卒業生は教師になる人が多いです。折しもこの連休中は「少年」による凶悪事件が続きましたが、目に見える問題行動を起こす生徒だけでなく、静かに傷ついたり、また逆に密かに心に刃をはびこらせている生徒をかかえた学校に勤めている先生方は本当に偉いと思います。「科学」はそのような人間的営みに基本的には無力ですし、また「科学」がそのような営みに取って代わることができると考えるのは錯誤だと思います。ウィトゲンシュタインさんが『論理哲学論考』と『哲学的探究』を通じておそらく言いたかっただろうことを、私なりに言い換えますと、「大切なことは『科学』を通じて明晰に語れることは、およそ明晰に語り、『科学』を通じて明晰に語りえないこと、すなわち『生きること』に関しては駄弁を止めて、自他の『生きること』を示すことである」となりましょうし、「知を愛するということは、説明や演繹を弄することでなく、説明や演繹に惑わされない記述を行うこと(=示すこと)である」とも言えましょう(繰り返しますが、これらはウィトゲンシュタインさんの正確な引用ではありません)。

この本(『心が技術に勝った--「雀鬼流」学校改革』)は「生徒が先生のことを殴る」「校舎を壊す」「他校との集団決闘」「仲間と町に行って、高校生を襲う」「バイクの無免許運転」「万引き」「いじめ」「家庭内暴力」「茶髪や金髪にする」「保険室まで登校する生徒」「不登校の生徒」「無気力、無感動、無責任の生徒」が当り前の中学校に赴任した一教師が、どう学校を立ち直らせていったかというドキュメンタリーです。その教師の背後には、「裏」のマージャン勝負で20年間無敗だった桜井章一さんの生き様があります。心ある方の一読をお勧めします。「マージャン師の影響を受けている教員の話?」と口元を歪ませた方は沈黙をお願いします。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


佐野正之編著『アクション・リサーチのすすめ』大修館書店、定価1800円(2000/4/29)

このホームページでもアクションリサーチに対する関心などは何度か述べてきましたが、今回日本語でもアクションリサーチに関する良質の本が手に入るようになりました。本書を広く英語教育関係者にお勧めします。特に「どうしたら、お題目だけでない研究が共同でできるか」と模索している研究主任教師の方、「大学での講義やゼミは、内容が抽象的で、現場の実態とはかけ離れている」と考えている研修参加者の方、「押しつけではなく、各自の問題意識をもとに、足が地についた研究をしてほしい」と願っている管理者の方などに読んでもらいたいというのは著者の願いであり、私もそれには大賛成です。

「そうはいっても忙しいし、お金もないしなあ」と逡巡なさっている方は、本書の第四章を立ち読みすることをお勧めします。第四章は奥山竜一さん(山形県教育庁北村山教育事務所指導課指導主事)によるアクションリサーチの実例です(「『聞く・話す』活動を通して書く力を伸ばすアクション・リサーチ」)。このアクションリサーチはまさに地に足がついた感じで、私も記述に共感し、進められてゆく分析に納得しながら面白く読み進めました。このような研究なら多くの現場教師の方も「読んでみたい。やってみたい」と思われるのではないでしょうか。この第四章を面白く思ったなら次に第三章(「資料収集の方法と場面」)を読んで、それから改めて第一章から最後まで読み進めることはいかがでしょうか。いずれにしましても、第二章(「アクション・リサーチの定義と方法」)は読んでおくべきだと私は考えます。理論は、迂遠に思えても、実践を重ねてゆくと必ず大切になるからです。浅薄な理論理解で最初の方向を誤ると後でとんでもない所にたどりついてしまった自分を発見することになりかねません。

その関連で、アクションリサーチと実験室的研究の違いについて、ここで私の考えも書いておこうと思います。といいますのも、いまだにアクションリサーチには偏見が多く、アクションリサーチと聞いただけで「駄目、駄目!」とかぶりをふったりする方が散見されるからです。

アクションリサーチにおける立証方法というのは、たとえていうなら、人物採用の時の人物評価に似ていると私は考えます。例えば、あなたの職場で一人誰か新人を採用したいと考えます。当然いい人に来て欲しいわけですから、できるだけ客観的な人物評価をしたいわけです。「客観的」という言葉を不必要に厳しく取るならば、実験室的状況を作り出して実際に複数の候補を職場で働かせてその様子を比較観察して判断することがベストであり、判断はそれにのみ基づいて行なうべしと考える人も出てくるかもしれません。しかしそのような一時採用は現実的に実施困難です。仮に実施したとしてもその短期間の試行中は、候補者は短期間ということをいいことに異様にいいパフォーマンスを見せつけるかもしれません。またその試行中の課題と候補者の適性を考えますと、短期間の試行でこれから何年にもわたってやることになる仕事の全側面について客観的な判断を下したとはあまり言えないことになります。実験室的条件を厳密にとろうとするならば試行期間には、職場の同僚は、相互作用を排除するため、候補者に近寄ってはいけないようにするべし、という計画がたてられるかもしれません。しかし職場の同僚とどうコミュニケーションをとるかということも実は大切な仕事の一側面です。

ここでのポイントはこうです。「実験室的研究」の意図は良いものの、その意図が現実に達成されるかとなると、それほど確実なものではないということです。少なくとも完全ではないということです。「実験で証明されたのだから、絶対に正しい」というのは賢明な判断ではないというのが私の主張です。

それでは人物採用は、くじ引きや早い者勝ちでやるべきでしょうか。これまたナンセンスです。私たちがやれることは、人物評価で必要なことは何かをよく考え直して、できるだけ組織的に人物評価の資料を集め、判断することです。資料を集めるといっても、数値化された資料だけを集めるならば、それは偏った資料収集方法でしょう(テストの点数や論文の数が最も多い人を採用するという方法は、「公正」に見えて、実の所は思慮の努力と責任を怠った判断方法かもしれないと私は個人的には考えております)。質的な資料も集めます。さらに資料から判断をする際に、さらに新たな判断材料が欲しくなれば調査もします。こちらから積極的に働きかけて資料を得ることもします(例、面接時における質問)。このようにしてできるだけ組織的に資料を集め判断し、それを公開したならば、誰もそれが「実験室的でないから」と非難することはないでしょう。これは「客観的な判断であった」といってもいいと思います。社会的に必要とされているアカウンタビリティーはこのレベルであると私は考えます。

逆に言いますなら、あまりに実験室的研究ばかりを追求しようとすると、現実をあまりに偏った見方で見てしまうようになるといえるのかもしれません。佐野さんが同書であげている例は自由英作文のフィードバックに関する実験室的研究です(26-)。仮に厳密な実験計画に基づいて、ある種類のフィードバックがよいと結論づけられたとしても、その研究では次のことが問題があると佐野さんは述べます。長くなりますが引用します。

(1)一回の調査で、教師の訂正が一番効果があったとしても、一年間継続した場合に同じ結果になるとは限らない。教師の訂正があたりまえになると、訂正された部分だけを直し、他の部分は見直しさえしなくなり、結果としてモニターの力を弱めることになるかもしれない。継続して調査しないと結論は出ない。

(2)フィードバックが誤りの訂正に矮小化されている。教師による指導を初稿と再稿の間に行なうよりは、再稿は生徒同士で内容に重点を置いてコメントをさせ、書き直した後で教師が誤りやすい言語項目を全体に指導したり、例を示して説明したり、個々の生徒の質問に応じたりすることも可能である。フィードバックの多様な可能性を探ることが、実践的にはより意味があるが、その点が無視されている。

(3)生徒対教師の関係が、「書く人」「調べる人」と固定されてしまい、本当の意味での書く活動にならない怖れがある。書きたい人に書きたいことを書くのが本来の書くコミュニケーションだとすれば、不自然な活動を押しつけることで、書く意欲を失わせ、人間関係の構築の機会も奪ってしまうかもしれない。

(4)英作文は誤りのない英文を書くことが一番大切で、内容は二の次という誤った考えを植えつける恐れもある。(27-28)

あまりに「実験、実験」と強調し、他の種類の研究方法を排除するなら、上のような錯誤をおかしてしまうかもしれません。これは日本では佐藤学さんが紹介して有名になったショーンさんのThe Reflective Practioner(1983)などの著作でさんざんに論証されていることです。英語教育研究は研究としては後発ですので、劣等感があるのか、不当に実験室的研究を崇め、他の研究スタイルを貶めているような気がしますのであえて引用した次第です。

とはいえ、現場教師の方には、そんな論争はどうでもいいことのように思えるかもしれません。この本は第四章のようなすぐれた現場的な研究をするための実践的な本ですので、どうぞご興味のある方は第四章を先に読んでみてください。そしてさらに興味をもったら、この本でも再三引用されているBurns (1999) Collaborative Action Research for English Teachers, Cambirdge University Pressをお読みください。JALTのThe Language Teacher (December, 1999)の書評者(Marie Clapsaddle)も"wonderfully ballanced", "even if this were the only book I had read about AR[=action research], I would have a very good foundation as wll as an adequate stock of practical ideas to help me start my own project".(43)と述べるように非常に優れた本です。

さらに述べますと、ハワイ大学に8年間在籍し、アクションリサーチの大家でもあるCrooksさんの元でも学んだ横溝紳一郎さんも、アクションリサーチに関する本を日本語で近日中に出版します。私が関わっているプロジェクトでもアクションリサーチに関する原稿を共同執筆して公開します。アクションリサーチへの理解がより一層深まることを願います。

理解が深まるにつれ、「よいアクションリサーチ」「悪いアクションリサーチ」「まがいもののアクションリサーチ」の見分けが私たちにもつくようになると思います。少なくとも「実験室的研究だから善い/悪い」「アクションリサーチだから善い/悪い」というような言い方は止めませんか。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


築道和明・田尻悟郎 Talk and Talk Book 1&2(正進社 それぞれ学校納入定価520円、自習用CDはそれぞれ480円:一括採用の場合はCDが一枚無料)(2000/4/5)

これは凄い。私が知る限りの英語教材の中で、これは断然ベストです。日本の子供の英語教育事情を熟知した筆者(大学の築道和明さん、中学の田尻悟郎さん)によって編纂されたこのテキストは、非常に使いやすいことが一目瞭然で、また積み重ねにより子供に着実に力がつくだろうことも如実に想像できます。中学生用の教材をお探しの塾関係の方、よい教材をお探しの小学校英語教育関係者の方、補習用教材をお探しの高校英語教育関係者の方、やりなおしのための教材をお探しの成人英語教育関係者の方、全ての皆さんに心からお勧めします。これは私がたまたま二人の筆者を知っているから申し上げているのではありません。私は自分個人の責任をもってこのテキストを素晴らしいテキストと申し上げます。どうぞお買い求めください。お買い求めの上、万が一にでもつまらないとお思いの方があれば、どうぞテキストを私の所まで送り付けてください(739-8524東広島市鏡山1-1-1広島大学教育学部)。それぞれにつき500円の図書券をお送りします(20円はまけてね。だって現金書留は高いんだもの(^^;))。

このテキストは「授業中は大きな声で英語を話そう」、「日本語は使わないようにしよう」、「たくさんの友だちと会話しよう」という三つの約束をまもった上で、順番にユニットをこなしていく構成になっています。各ユニットは一ページ。でもカラーのイラストと写真に助けられた数多くの英語表現で、学習者はかなりの数の自然で有意味なパターンプラクティスをこなすことができますし、自己表現がからんだコミュニケーションプラクティスをこなすことができます。

複雑なものも実は単純な要素の組み合わせからできています。筆者の一人の田尻さんの生徒による英語自己表現を私も見たことがありますが、その時も出来栄えに驚くと同時に、それが一つ一つは簡単なことの、綿密な実に綿密な組み合わせによって達成されていることに気付きずいぶん感心したものです。今回のこのテキストは教材であり、理論書ではありませんが、眺めているだけで、著者のそういった言語教育理論が自らを語りかけてくるようです。使いやすい極めて優れたテキストだと主張するゆえんです(注1)。Book 1のユニットは44。Book 2は54、計98。使用語彙・語句数はBook 1で749、Book 2で495、計1244。これらをユニットのステップにそって、どんどんプラクティスを行ってゆけば学習者にはかなりの表現力はつくでしょう。なにより授業が楽しくなりそうです。「中学英語で会話は十分」というのは、このような教材でもってはじめて言えることでしょう。

とはいえ、この本は、「読んで訳して」を授業の主眼においている人にはまことに使いにくいものでしょう。しかし「読んで訳して」では英語の力がつかないことはもはや周知のこと。このようなテキストで教師が自己改革を図ることが必要でしょう。この本では、いわゆる「本文」は最小限に抑えられ、ほとんどが有意味表現と自己表現のための紙面です。年間を通してこのテキストの狙いにそって活動を展開させてみてください。私は実は全ての中学校英語教科書を知っているわけではありませんが、私が知っているどの検定教科書よりも私はこのテキストの方がいいと思います。出版社のホームページアドレスはhttp://www.seishinsha.co.jp/index.html。所在地は〒112-0014東京都文京区関口1-17-8、電話は03-5229-7651(営業部)、FAXなら03-5229-7650(営業部)。ぜひ一度現物をご覧ください(注2)。

(注1)ですが私はこれを最近入手しただけで自分で実際に教材として使ったことはありません。念のため)

(注2)ただ一つだけ注文を付けさせていただくなら、簡単なフォニックスが欲しかった。もちろんCDも安いので生徒は音声に容易に触れられるでしょうが、簡単なフォニックスを示した表が巻末にでもあれば、入門者や低学力者も読みの力を一層確実にできるのではないかと私は思いました。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


トーマス・フリードマン著、東江一紀・服部清美訳『レクサスとオリーブの木(上)(下)』草思社(それぞれ定価1800円)

小渕首相の私的懇談会「20世紀日本の構想」に端的に表現されているように、日本人の英語使用やグローバリゼーションへの焦りは、英語教育関係者よりも、ビジネス関係者・科学者等の方がはるかに大きいように思えます。少なくとも世界の一部は、英語教育関係者の想定以上に変化しているのかもしれません。時代が変りつつあるのかもしれません。

時代が変るということは、物事の前提が変るということです。常識が変るということです。ある種の本は、その新しい常識を明確な形で示し、世界的なベストセラーになります。私にとってそのような本は、例えば『第三の波』であり、『パワーシフト』であり、あるいは『歴史の終わり』であったり『トム・ピーターズの経営破壊』であったりしました(うーん、アメリカ寄りだなあ(^^;))。この『レクサスとオリーブの木』は私の認識の中ではこれらの本に続く書です。ニューヨーク・タイムズ社の記者が「グローバリゼーション」とは何であり、何をもたらしうるのかを具体的に語った本です。

これらの本は新しい常識を示すだけでなく、ベストセラーとして、説得力ある語り口を持っています。この本は、たとえて言うなら『パワーシフト』の豊富なエピソードと『トム・ピーターズの経営破壊』の挑発的なユーモアを足して二で割ったような語り口を持っています。私は読んでいて何度も声をあげて笑いましたし、何度もぞっとしたりしました。

「レクサス」とは、チャンスさえあれば誰でも欲しがるような新しい商品・サービスの象徴です。「オリーブの木」とは、古くから人々が慣れ親しんでいる昔ながらの生活様式の象徴です。グローバリゼーションとは、たとえて言うなら、誰もがレクサスを見せられ、それに憧れ、かつ多くの人がレクサスに乗ってオリーブの木をなぎ倒しているものの、そのレクサスを運転している人こそオリーブの木を大切に思っているといった、矛盾をはらんだ、しかし止めがたい世界史的な流れのことです。もはやかつての米ソのような拠り所となる大ボスは存在し得ず、昆虫のように群がりそして去ってゆく「電脳投資家集団」によって、世界各地の企業・機関は大競争の中に放り込まれてゆきます。このグローバリゼーションという現象は、もはや理念的に反対したり、不平や皮肉をいったりする対象ではなく、現実の前提とするべき対象なのかもしれません。グローバリゼーションも、それに伴う一時的な反動と共に、もはや誰にも止められない流れになったのかもしれません。

このグローバリゼーションを理解する鍵は技術と金融です。技術はともかく、金融といえば、英語教育関係者の中には拒否反応を示す人も少なくありませんが、技術が新しい道を開き、金融が多くの人をその道に導き、やがて経済・政治ひいては文化や教育までもが変ってゆくというのが、グローバリゼーションの現実なのかもしれません。私も素人ながらも技術や金融の変化に興味・関心を抱くことは、時代を理解する上で大切だと考えています。これから社会に出ようとする学生さんにはぜひ勧めたい本です。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


下村澄監修『新教育産業』産学社、1300円 (2000/2/12)

卒業間近のゼミ生(四年生)の一人が民間の英会話産業に就職予定です。次の年のゼミ生(三年生)にも今の時点で民間教育産業を希望している学生さんがいます。私たち教育学部の人間は学校教育の事について考えることが多いですが、民間教育産業の事について考えることも私たちの仕事の一つです。

『新教育産業』は就職希望者のための「最新データで読む産業と会社研究シリーズ」全14冊のうちの一冊です。取材をよくやっており、具体的情報が沢山あり、1300円という価格設定は非常に良心的だと思います。もちろん就職希望者のためのガイドですから、情報はポジティブなものに偏りがちなのかもしれませんが、そういった点を留意した上でこの本を読むことは、これからの教育のあり方を考える上で非常に有益だと思います。

読んで一番印象的だったのは、どの企業も文字通り「人材こそ命」「人が全て」という方針を徹底させていることです。「人材として欲しいのは『達成意欲の高い人』、『自信のある人』、『社交性のある人』などです」(32)「株式公開も、優秀な人材を採用したいということが最大の目的だったのです」(33)と語る(株)京進をはじめとして、どの企業も具体的な工夫で人材獲得、新人研修、管理職育成を行っています。もちろんこの本に取り上げられた企業は非常に勢いのある企業ですから、これらと平均的公立学校を比べることはフェアな比較ではありませんが、公立学校は、これらの企業に学ぶことが多いと私は思います。

さらにこれらの企業の経営力も印象的です。「設立後数年を経て、類塾では急速な人材拡大時代を迎えるが、それを契機に、経営に関する全情報を所員全員へ公開することのできる『経営データシステム』をつくり上げた。それは、「権力を廃棄した共同体では、状況や問題の共有=『共認』が、集団を統合する上で最も重要である」という認識に基づくものであった」(74)といのは(株)類塾に関する記述ですが、多くの企業がチームワークを非常に重視しています。今まで学校教育をめぐる言説では、教育は「教師の個人芸」のような雰囲気がありましたから、この雰囲気を一度はくつがえすためにも、学校教育の人間はこれらの企業のチームワークからも学ぶべきだと思います。

もちろんこれらの企業は、教育的理念を明確なミッションとして掲げています。これらの企業は単なる金儲け集団ではありませんし、単なる金儲け集団が伸びることができるほどビジネスは甘くはないと言うべきでしょう。「文化としての数学を、中高生に教えたい。文化を育む場をつくりたい」(60)というのは(株)SEG。「ことばの学習がすべての教科の土台になる」(147)という考えに基づいて「国語科・英語科発声発表会」を行っているのは(株)みしょう。「現在の若者の理工系離れを十年以上前から深く憂慮し、西日本の塾で初めて本格的な理科実験室を完備」(150)したのは(株)英進館。どの企業も教育を真剣に考えているようです。これらの企業の教育に対する考えが、民間企業の考えであるというだけで、公立学校の教育に対する考えに劣るというのは偏見に他ならないでしょう。

しかし、特にこれから就職しようとする人にとって気になるのはこの業界の未来です。(株)東進はこう考えています。「受験産業としての塾は、やがて石炭産業の辿った道を歩むことになるでしょう。少子化がさらに進行し、大学が広き門になると共に、入試制度も根底的に変われば、原則として受験ニーズは限りなく収縮していくからです。が、よく考えてみれば、受験ニーズは縮小しても、国民の教育ニーズが縮小することはありません。資源のほとんどない日本が、国際化の進む中で豊かで文化的な生活を維持していくためには、人的資源を活用する、即ち教育投資によって、国民の知的・技術的レベルをどんどん高めていく以外に道がないからです」(200)。私も私なりの判断を下すにはもう少し慎重に考える必要があります。とはいえ、教育を考える際に民間企業を除いて考えることは、もはや不適切です。ご興味を抱く方にこの本の一読をお勧めします。

最後に自戒の言葉として一言。英語教育の論文も、仲間内だけでなく、このような企業の方に面白く役に立ち、考えさせられた等と思われてこそ本物といえるでしょう。きちんと勉強して、説得力のある論文を書かなくては。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


宮崎学『「中国マフィア」日本人首領の手記』徳間書店1600円(2000/2/12)

これは宮崎学さんが個人的な信頼関係から入手した手記を基にして書かれたノンフィクションです。小説の『血族』が各方面で話題になっていますが、私はついつい読む機会を失っておりました。『血族』よりも薄く、読みやすく、フィクション性をできるだけ排したこの本を偶然本屋で見つけ立ち読みしはじめたところ、引き込まれるように読み始めてしまい、購入し読了しました。

宮崎学さんは「本書の執筆を終えて」の最後にこう書きます。

今の日本人のなかに他のアジアの人々と同レベルで付き合える人がどれほどいるのだろうか。日本人はアジア人でないように思っていたり、日本人はアジアの頂点にいるかのように考えている場合が多い。アジアのなかで、見事なまでにアジア人として生きてきた「日本人」の手記に包含されているものは、とてつもなく奥が深い。(326)

これを読んで、「そうそう、僕らはアジアの人達と仲良くしなくてはならないんだよね」と明るい微笑みを持って賛同してくれる方は、おそらく宮崎さんの言葉の意味をまだ捉えていないのだと思います。ここで宮崎さんのいう「アジア」とはベトナム戦争やクメール・ルージュの大虐殺を経験し、難民や犯罪との共存を切実な問題として日々対処している「アジア」です。

日本語のメディアばかり読んでいると、虐殺や難民、あるいは犯罪といった問題は遠い世界の出来事のように思えます。でも例えば半年でもTIME誌を眺めた人なら、その写真報道だけで、これらの出来事は日本語メディアで伝えられていないだけで、現実の世界で生々しく起こっている出来事だということがわかるでしょう。宮崎学さんの著書は、日本語の読み物には珍しく「現実」を伝えてくれるような気が私にはします。少なくとも私は宮崎学さんの文章を読み始めて以来、例えば大江健三郎さんような「インテリ」の文章なんかは読む気にもなりません。

宮崎学さんや、彼が激賞するヤン・ソギルさんの『血と骨』(幻冬舎)などを読むと私はニーチェさんを思い起こしてしまいます。しかもなんだか肉体的に。短期間とはいえ私はヨーロッパに行って教会の影響の大きさを実感しましたが、同時にその教会文化を全てひっくり返そうとしたニーチェさんのすさまじさも感じてしまいました。「右頬を打たれたら左頬をさしだしなさい」「貧しき者は幸いである」等というメッセージを伝える神は死んだと宣告したニーチェさん。彼の予言通りキリスト教文化はここ一世紀で力を失いました(もちろん現在、その反動の動きもありますが)。キリスト教にとって代わって「万民救済」のシンボルとなったマルクス主義も実質上の生命を失いました。「神」は二度死んだのです。「神」なき現実を生きる生物としての人間とはどんな生き物なのか----宮崎学さんの著書は、少なくとも私にとってそんな問題意識を書き立てる本です。

「教育」を考えるなら、一度はこういった「現実」を考えてみなければと思います。また市場原理・進化論や、「脱魔術化」(disenchantment)としての近代を信奉する人間としては、それらの帰結としての「現実」もきちんと考えておかなければならないと思います。もっとも私のような机上の徒にとって、「現実」とは読書から得られたヴァーチャルリアリティに過ぎません。つまりは私も「インテリ」です。読者の皆さん、ご用心を。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


ジェームス・トレフィル著、家泰弘訳『人間がサルやコンピュータと違うホントの理由』日本経済新聞社、2000円。

同書は邦題こそ安っぽいものの、中味は脳科学、動物行動学、人工知能研究、複雑系の議論のエッセンスを見事に語り尽くした良書です。人間の知性に興味のある方全てにお勧めします。著者と訳者は実は物理学者です。しかし彼らの語り口は非常に巧みで的確です。おそらく著者は日頃から異分野の学者との対話を楽しみ、それを読書で深めて自分のものにしているでしょう。様々な分野の知見を、健全な態度で議論しながら吟味し、一定の判断を加えてゆきます。その際、自分や他人がどのような種類の議論をしているのかを著者が十分に自覚しているので、読んでいる人間も煙にまかれるような思いをすることがありません。思考実験やたとえも巧みです。控えめのユーモアも、それが控えめでなおかつ知的なだけに非常に好感が持てます。

同書の議論を私なりに簡単にまとめますと、チンパンジーなども確かに「心の概念(theory of mind」を形成する。つまり「自分以外にもそれぞれが独自の情報をもつ『心』を備えた存在があることを理解できる」(73)。さらにピグミーチンパンジー(ボノボ)になると、「二歳半の人間の子供のレベル」の言語能力を示すが、「人間において真の言語能力はこれよりものちの年齢から始まることを思い起こしてほしい」(101)。また、人間の知性をコンピュータにたとえることが流行したが、「もしも1950年代のコンピュータ研究者たちが脳の働きを理解していたならば、そもそも彼らはそれをコンピュータにたとえたりはしなかったであろうし、それらの関係について誤った概念が生まれることもなかたであろう」(226)。それはコンピュータは人間の知性のごく一部だけを取り上げてシミュレートしているからである。人間の知性は独自の問題を呈していると考えるべきである。独自の問題としての「心の哲学」ではデネットさんが意識の問題を否定したり、チャルマースさんが意識の問題を解決不可能とみようとしているが、それらの議論にはそれぞれの勇み足がある(第12章)。人間の知性や意識の問題は、否定するべきでも神秘化するべきでもない。それらは科学で扱うべきだ。とはいえ、科学で扱うとはいっても脳の複雑性の問題からすると、系の複雑性がある程度以上に達してしまうと、(1)その系の機能を果たしているのが何であって、それがどのように働いているのかを知ることが原理的に不可能になる可能性、(2)系をもはや構築できなくなるということを示す法則が見い出される可能性、(3)仮に構築したとしても、その中の個々の部品と最終的なふるまいとの関係があまりに複雑となるため、その系の性質が実際にどのようになるか予想できないという可能性、などがある(第14章)、といったことになります。

このように抽象的にまとめてしまうと、「何のことかわからない」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、一般読者向けに書かれたこの良書は、これらのトピックへの最良の導き役の一つとなると思います。このような本が良質の翻訳(注)で読める日本語話者の幸運を喜ぶべきか、このような本の翻訳を待たずに本屋で直に手にとることができる(一部の)英語話者の幸福をうらやむべきか・・・いずれにせよ科学の進展は目覚ましく、良書は次々に刊行されています。

(注)ただし哲学者のSearle という名前を「シアール」と表記するのはおかしいと思います。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


リタ・カーター著、藤井留美訳『脳と心の地形図』原書房、本体2400円(2000/1/10)

前期、後期を通じての英語学の講義で、AkmajianのLinguistics (MIT Press)という本をテキストに使っているのですが、その最終章がLanguage and the Brainなので、その準備も兼ねて昨年終わり頃から脳に関する本を読み進めておりました。本書はその中でも、私のような脳科学の素人にとって最適の入門書の一つと思いましたのでここに紹介します。

本書で特筆すべきは、著者のカーターさんのわかりやすく、かつ様々な症例やエピソードで読者をぐいぐい引き込んでゆく筆力と、豊富なカラー図版です(実際、これだけカラー写真が随所に使われて2400円というのはおそろしく良心的な価格設定だと思います)。カーターさんは「インディペンデント」、「ニューサイエンティスト」などで活躍する医療ジャーナリストで、「メディカル・ジャーナリスト・アソシエーション賞」を二度受賞しているそうです。カオスや複雑性の話題の時もそうでしたが、このような最先端科学分野を包括的に、かつわかりやすく記述するのは、よほどの力量をもった大御所の科学者か、その分野を専門にする科学ジャーナリストでないと困難なのではないかと私は考えます。また藤井留美さんの翻訳も良質のものだと思います。私が読んだある類書は、医学部教授によって書かれたもので、それはそれなりに面白かったのですが、例えば言語学用語の翻訳が定訳語ではないために、意味こそ通じるものの、どうも読みにくさを感じました。この本ではそのような苛立ちとは無縁に快適に本を読み進めることができました。科学の本の、著者としてのジャーナリストや、訳者としての専門翻訳家の価値は、もう少し社会的に評価されてもいいと思います。確かに「偉いのはオリジナルな仕事をする人」というのは大原則でしょうが、これだけ科学が多岐にわたって、なおかつめまぐるしく発展する現代においては、わかりやすくまとめ、的確に伝え、おもしろく物語る技能にも社会的な評価を与えるべきだと思います。

本書の内容は、右脳と左脳、大脳辺縁系、感情、知覚、言語・コミュニケーション、記憶、意識といった幅広いもので、1998年に書かれた本にふさわしく新しい知見が伝えられています(脳科学の本を何冊か読んで私が得た教訓の一つはできるだけ新しい本を読むべし、ということです)。この本で学んだ興味深い内容を伝えようとすると、その記述は大部になりますので、ここでは私の全般的な感想だけ述べますと、計測機器の発展で急速に加速した脳科学の進展は私たちの生活を大きく変えるだろうということです。心理学理論も大きく変わるでしょうし、フロイトらの精神分析学も多くの英米の学者が主張するように完全に過去の遺物となってしまうのかもしれません。私たちの倫理や偏見も脳科学の客観的な知見により変わるでしょうし、それに伴って法学も変容するでしょう。音楽や美術の理解に関する美学理論も影響を受けるでしょうし、何より教育に関わる言説も大きく変わらざるを得ないでしょう。

もちろん脳科学の本格的な進展は始まったばかりですので、軽率な一般化は禁物です。ですが無視はできません。それぞれの分野の人が、それぞれの立場から、批判的に本書のような優れた啓蒙書を読み、社会全体で脳科学に関する理解を高めてゆく必要があるのかもしれません。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


中嶋洋一『英語好きにする授業マネージメント30の技』明治図書、本体1960円(2000/1/3)

本の善し悪しは、しばしば最初のページを見ることによってわかります。著者が日頃から志をもっていれば、その思いが最初のページに溢れんばかりに表現されるからです。もし著者がただ惰性や便益のために本を表したのならその態度はそのままに出ましょうし、仮に空威張りをして虚勢をはった言辞を連ねたとしても、それは後につづくページの記述によってすぐに裏切られるでしょうから、やはり最初のページはその本を表すといってもいいでしょう。

さて同書の最初のページ(「読者の皆さんへ」)の一部を引用します。

教師が一番元気が出るのは、生徒が授業にのってくれたとき。そして、一番疲れるのは、授業がうまくいかないとき。「授業」こそが元気の源です。

教師が元気になれば、生徒たちも元気になります。生徒たちを元気にすれば、教師も元気になれます。生徒を英語好きにするには、まず教師が元気になることです。

生徒指導で疲れておられる先生、授業がうまくいかなくて悩んでおられる先生、生徒との人間関係に悩んでおられる先生、そんな先生方に「元気になっていただきたい」という願いをこめてこの本を書きました。(3)

中嶋さんは「まえがき」でさらに続けます。

新学力観が導入された時に、「楽しい授業」が現場で誤解されたような気がする。まず、単発のゲームが横行するようになった。ゲームを使うことは喜ばしいことだが、そこに目的がなければ子どもを混乱させるだけである。(中略)単に文法を学ぶためのゲームでは、中学生、高校生という知的好奇心が旺盛な子どもたちを満足させることはできない。深まりがないと飽きてしまうからだ。Information gapからopinion gapへ、そしてreasoning gapへと発展していかなければ学びは楽しくはならない。思考を伴う、自分の意見を言うことがゲームの中に生かされれば、活動に必要感が生まれてくる。

また、授業中、子どもたちがわいわい言いながら活動していけば、内容はともかく、コミュニケーションに積極的でよいと評価された。研究授業でも、ALTとのTTでショーのような授業が盛んに行われた。かくして、うわべだけの楽しさを追い求めた結果、学習規律が崩れていった。成績が二極化していった。現場は、ますます混乱していった。(4-5)

私はこの本を良書と思います。全ての英語教師に心からお勧めしますし、「日本の英語教師はみんな駄目だ」と言う方がいれば「どうぞこの本をお読みになってから、そのような台詞をはけるかどうか改めてお考えください」と言いたい思いです。

この本は教師が「全体のビジョンをしっかりと最初にもたないと、思いつきの、付け焼き刃の指導で終わる」(50)という中嶋さんの基本思想に裏付けられた授業経営の具体的な手引き書です。中嶋さんの実践が本物であることは、本の各所に挿入された生徒の英語作品の写真コピーでわかりますし、彼の基本思想は、本の全ての具体的な記述に表れているといっても過言ではありません。私は過去に中嶋さんの話を二回ほど聞いていますから、本の記述の中にはすでに聞いた事柄もありましたが、それでも本として改めて読み直すと、再び違った角度から納得したりしましたし、初めて見た英語科第1学年年間指導計画(105)には驚かされましたし、テストの合計点は記録簿に記入せず、大問ごとの小計だけを記入する(117)などといった小さな工夫にもなるほどと感心したりしました。自らの教育観を顧みるために「教師年表をつくってみよう」という提案(50-)にも大賛成です。私がおもしろいと思った箇所を具体的にここに書こうとすると、あまりにも多くの箇所について言及しなければなりませんから、ここでは以下の三点だけ述べたいと思います。

第一は、この本をどのように読むかということです。この本は速読したり、中味を(例えば英語科教育法などのテストなどのために)暗記したりする本ではないでしょう。ゆっくりと、できれば色々な人と感想を語りながら読みたい本です。また教師として学期が進むにつれ、年度が終わるにつれ読み返してみたい本です。中学生に英語を教えていない私でも、考えさせられ、気づかされ、振り返らされる思いです。この本を片手に、「ここには同意する」、「ここはよくわからない」などと自覚的かつ批判的に、語り合うことはとてもいい勉強になると思います(現場教師の方、もし興味があれば一緒に半日ぐらいの読書会を行いませんか?)。中嶋さんは机上の空論は語らず、この本にある具体的記述は全て彼の実践に裏付けられていますが、それでも「これは私にはできないかもしれない」といったように正直に語り合うことは重要だと思います。中嶋さんとて最初からこの本のような実践ができていたわけではありません。この本を元に英語教育について正直に語り合うことは重要だと思います。

第二に述べたいことは、この本から浮かび上がってくる中嶋洋一さんという一人の人間から学ぶことです。

教師の言うとおりやる子をかわいがり、反発する子を疎んじる。「自分の仕事はテストができるようにすること。それなのに、あれだけ詳しく説明したのにテストが書けていない。あれほど言ったのに、宿題をやってこない。ちぇっ、一体何をやっているんだ」。私が新任の頃、このように「悪いのは全て生徒」という考えだった。当然、生徒たちの考えていることには気づけない。自分中心の見方しかできないからだ(25)

というのが中嶋さんの若い時代の自己評価です。それが中学校から小学校へと移り、再び中学校へ戻るも学校の荒れを経験し、さらに研修で外国人青年と日本人青年の違いにショックを受けたり、等と様々な経験を重ねて現在の中嶋さんがあります。私は中嶋さんに実際に会って、その魅力を感じていますから、ことさらに中嶋さんを「個人崇拝」しないように意識的に心がけていますが、それでも中嶋さんの教育実践記述を読み進めてゆくと自然と中嶋さんという人間に興味が湧いてきます。歴史をもった人間という文脈の中にこそ教育技術は活かされます。別にみんな中嶋さんのようになろうというのではなく、中嶋さんの今までのキャリアを想像力で補いながら共感的に理解してこの本を読み進めるというのは、私たち一人一人にとっていい勉強になると思います。

述べたいことの第三は、第7章に描かれる人間像です。この本の各所には中嶋さんが影響を受けた人の話が出てきますが、特にこの章の、尾木直樹さんや野口芳宏さんなどの話はまさに居ずまいを正される思いです。私のような人間は単なる口舌の徒にすぎないということが痛いほどわかります。教育というのは生徒と教師の出会いでもあり、教師と教師の出会いでもあるということが納得させられます。

この本は中嶋さんの旧著よりもさらに内容的に深まり、体裁的に見やすく読みやすくなった好著です。皆さんのご一読を心からお勧めします。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


<書評99へ>

<書評98へ>

<書評02へ>

<書評01へ>

<表紙へ>