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書評02

現場の教師の方へ:忙しい中でなかなかとれない研究時間を、このページを読むことによって効率的に使うことができたら私は幸いです。

英語教育研究者の方へ:どんどんこのページを利用してあなたなりの読解を試みてください。そしてできればあなたもこのように書評を公開して、英語教育界の知的レベルの底上げのためにご協力ください。

いずれにせよ、もし書評を読んで興味がわいたら、是非ご自分でその本をご購入なさって、実際にお読みになることを強くお勧めします。

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育研究を推進する立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。また人名に関しては、どんな方に対しても「〜さん」づけで表記してます。

<このホームページは、著作権法の遵守を心掛けて運営しています。とくにこの書評では著作権法32条の「引用」に基づきながらも、その乱用に注意して運営するよう心掛けています>


『カオスの紡ぐ夢の中で』----書評その2----(1998/3/17)

<「規則の科学」?>

「複雑性へのカオス的遍歴」では、規則の問題が取り上げられています。「デタラメさ」[=ランダムさ?]の問題から、金子さんは二つの立場を定立します。

[一つは、無限の知性を持った]仮想的な存在を背後に感じつつ、数理的な定式化を行い、そのあとでその影として現実の系についても何かを言おうとする立場。もう一つは、そのような無限の知性はないのだから、むしろ有限の知性を持った主体が規則を考え出していく過程を念頭において複雑さを理解しようという立場。(48)

金子さんは自分が後者の見方に立つと言った上で次のように言います。(ちなみに、私なりに言語の問題に引き寄せて、この二つの立場を比較しますと、前者はチョムスキーの生得性の議論、後者はウィトゲンシュタインの言語ゲームの議論につながると思います)。

これ[=後者の立場]はなかなかつらい。というのは、いったい誰にとっての規則なのかを問題にしなければならず必然的に「主観性」を相手にしなければならなくなってしまうからだ。そうなってしまうと、もはやこの場合、この人には複雑だけれど、別のケースでは複雑ではないという個別結果集のようになって、科学にはならなくなってしまうからだ。

しかし一方で、我々が相手にしているのは進化の中で生じてきた生物がどういう風に規則を見い出したり生成し、複雑さを感じているかである。その意味でたとえ、すべてに成り立つ複雑性判定規則が成り立たなくても、「我々の」科学としては十二分に意味を持ちうる研究を期待できる。むろんこれはたやすいことではない。そのためには、規則を判定する主体を組にした科学をつくらなければいけなくなる。ここではいかに規則が生成され進化してきたかを捉える、いわば法則を捉える法則を探る研究が必要とされるわけだ。(48-49)

言語研究にブレイクスルーが生じるとすれば、それは前者のチョムスキー的な方法によるのではなく、後者のようなウィトゲンシュタイン的方法によるのではないかとも思えます(注)が、そんなことを言うだけだったら誰でも出来ます。私としては少しでも私の論文の中で、こういった考えを形にしたいと思います(他に方法がない人間が川を埋めるために小石を投げ込むように・・・)

(注)その一端はコンピュータ・シミュレーションによる構成的実証研究に求められるのかもしれません(67)。

<部分と全体----古典的な問題のおさらい>

かつて修士課程にいて、今よりもっと馬鹿で生意気だったころの私は、リーディング、ライティング、リスニング、スピーキングそれぞれの心理的過程を解明し、その知見によって効果的な英語教育法を構築しようと考えていました(若かったのよ、当時はまだ(^^;))。その後、いろいろと読書と人生の両面で経験を重ねるにつれ、やはり全体は部分の総和でない、というか部分と全体の関係はそのように単純なものではない、ということがなんとなくわかってきました。

金子さんの本の次の部分は、そのころの自分に読ませたい一節と言えます。

部分を切り出すことは可能であり、それを集めれば全体がわかるという考えを多くの物理学者は疑わないことが多い。素粒子論研究者の一部には、自分達は究極の理論を研究しており、それがわかれば他の科学はその応用であるという考えを抱いている者すらいる。しかし、この考え自体は論理的にも歴史的にも正しくない。

もし、個々の要素の性質が集団の状況で変わりうるとすれば、上の前提は崩れてしまうし、そもそも、全体から切り離された個々の要素が考えられるという全体自体、最初に述べたように近似的なものである。しかも、物理がよってたつとされている量子力学自体、ある意味では、最終的には部分を切り離すことの不可能性を議論している(素粒子論研究は個々の粒子を切り離して考えられる、高エネルギーの物性の研究として興味深いと思う。ただし注意しなければならないのは、他の分野がここから導かれるとかいう論理は成立しないことである)。

また、歴史的にも科学の進展は、要素の性質がわかって、それを集めて全体の性質がわかるといった形では進んできていない。

たとえば、物質のマクロ(巨視的)な性質を扱う熱力学は量子力学よりも先に成立している。これはその中身の各要素がどうなっているかという知識なしで、温度、圧力、体積等といった量の関係だけから成立する、システムとしての理論である。

19世紀末、原子論の立場から熱力学を導く統計力学を作ろうとして、ミクロなレベルの現象が(古典)力学や電磁気学の理論と合わないことが見い出されてきた。ここで、マクロなレベルでの熱力学は疑わないで、むしろそれに合うよう、ミクロなレベルの理論を作り替えようとして量子力学への道が開かれたのである。つまり、要素から全体でなくて、全体から要素へという路線が成功を収めたのである。(73-75)

英語教育研究において何をマクロのレベルとし、ミクロのレベルとするかについては慎重な議論と、おそらくは多種多様の試行錯誤が必要でしょうが、少なくとも以前の私のようにミクロの心理学研究を積み上げればマクロの英語教育研究が構築されるという考え(野望)はあまりにも短絡すぎると、現在の私は結論します。

かくして現在私は哲学的に大きく英語教育を探究しようとしているのですが、金子さんは、そういった私のような態度にも危ういものを見ているようです。

今、複雑「系」を考えようとする際には、この教訓は示唆的であるが、そこで我々が考えるべきは、そういった一方向きの道ではない。全体を理解しようという空疎な「全体論」のかけ声に堕してはいけないのであって、全体と部分系の間の両方向の道を考えよ、ということであると思う。(75)

新たな自戒の言葉としておきたいと思います。

追記:金子さんはさらに「バーチャル・インタビュー」で、複雑系という言葉が安易に経営の話などに出てくることに不快感を示しています。

複雑系研究は部分と全体の間の相矛盾する相補的な関係を追求するものだから、そんな処世術みたになもんじゃないんですよ。仮に調和的関係が生成される場合があったからといって、それをもとに、組織はどうあるべきかとかいう一般的教訓を導くなんて、ちょっと科学研究というものを誤解してるんじゃないかと思います。(209)

さらに厳しい自戒の言葉として覚えておかねばと思います。

とはいえ金子さんは次のようにも言います。「うーん、十年以上も前に津田さん(津田一郎氏)と飲んでいて、科学とSFの間みたいなのを一度書いてみたいって言ったら、『間はない』って一言で言われたことはありますが」(205)。両氏による『複雑系のカオス的シナリオ』(朝倉書店)のせめて第一章でもきちんと読み直してみようとも思わされました。

<物語と自己言及>

先日リエンジニアリングの協同研究グループが5人になってから第一回目の合宿を行ったのですが、その中で吉田さん(松山大学)が、授業研究における、「語り」あるいは「物語」を強調していたのが印象に残っています。

同書には「小説 進物史観----進化する物語群の歴史を観て」がありますが、これが物語・語りに関わる自己言及性や、進化論一般について考えさせられるパロディ・メタファー・アナロジーなどが一杯で、知的に非常におもしろい読み物になっています。つい、ホフスタッターの『ゲーテル・エッシャー・バッハ』(白揚社)を読み返したくなりました。

ペダンティックになるつもりなど毛頭ないのですが、これからの授業研究やアクションリサーチでは、自己言及性が大きなテーマになっていくと思います。これが克服されないと、授業研究は単純な振り子のように、以前の「客観的な数量研究」へと舞い戻ってしまうでしょう。研究は振り子のように舞い戻るのではなくて、らせんのように上昇しなければなりません(らせんのように下降して結局は消滅したりして(^^;))。

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『カオスの紡ぐ夢の中で』----書評その1----(1998/3/13)

これはいい本です(金子邦彦著、小学館月刊総合文庫、495円)。もしあなたが文化を愛する人なら心からお勧めします。

文化を愛する、とはどういうことか。簡単に言い切ってしまえば、偏見が限りなく少なく、人生の至るところに楽しさ・喜びを見い出すこと、あるいは見い出すこと自体を愛することです。いくら大学に勤めていたって、「それは私の専門じゃないから」といったが最後、人の話を聞く意欲を失ってしまう人は、文化を愛する人とは呼べないと私は思っています。

著者の金子さんは、現在東京大学大学院総合文化研究科の教授(理学博士)で、複雑系がブームになるはるか以前から物理学の世界でカオスに着目していた人です。エッセイ集+小説(!)であるこの本は、カオスが通底テーマになっていますが、音楽の話あり、スポーツの話あり、文学の話あり、もちろん科学の話ありと、文化を愛する人ならワクワクしてしまう本です。

私は文化の程度は高くないのですが、それでも文化を愛することにおいては人後におちないつもりです(要は、知的ミーハーってことね(^^))。買って数ヵ月置いたままにしていたこの本をふとさっき手にとって読み始めたら、これがおもしろい。読みながら、「急いではいけない。急いではいけない。この本はゆっくり味わって読むべき本だ!」と思わず自分に言い聞かせてしまいました(日頃私はできるだけ本は速読するようにしていますが、いい本というのは速読を許しません)。

ということで、私はこの本をゆっくり読むことに決めました。ですから書評も読んだ部分ごとに、数回に分けて掲載することにします。

最初のエッセイは「科学は文化」。金子さんは、科学は通俗的には「もの」と結び付けられがちだけど、と前置きした上で次のように言います。

科学で大切なのは「ものの見方」「考え方」「論理」なのだ。(11)

そうすると、じゃあ科学と芸術とどこが違うんだ?と聞かれるかもしれない。実際はそんなに違わないと思う(むろん方法論、普遍性などで違いもあるけれど)。(11-12)

科学というのは世界の見方をつくるひとつの文化活動であって、その意味では芸術と表現形式はことなるけど根は同じものなのだ。(12)

科学はそんな「もの」の発見競争ではない。あ、こういう風に自然はみてとれるのかという、新しい世界観をつくっていく、もっと豊かで楽しい文化活動であって、唯一の絶対的心理の発見競争などではないのだ。(12-13)

ですが、金子さんは、そんな科学の世界も、まるでテレビの視聴率競争みたいになりかねないと釘をさします。論文の引用回数というのは、科学の世界での評価の一つの指標ですが、金子さんは基本的に「文化を測る一つの数など存在しようがない」(15)と考えます。

[理由の]最初は一列の上で順序をつけられるような一次元的な指標の不在だ。もし科学が絶対不変な真理の探究競争であって、ある理論がそれにどのくらい近いかという距離が決められるのであれば、誰が真理にもっとも近いかという判定もできるであろう。しかし、そのような絶対的な尺度は存在しないし、唯一の真理といった幻想は物理学者の間でもだんだん薄らいでいる。唯一の基本方程式があって万物はすべてそれから導かれる、というのはそう力んでみても虚しいことだろうというのは多くの科学者がすでに感じていることだ。学生の能力が偏差値という一つの指標で測れないのと同じように(15)

さて、これをどう読みます、みなさん。かつて植民地(インドなど)のエリートは、イギリス人以上にイギリス風に振る舞おうと、滑稽な程の努力を払って、結局イギリス人にもその国(=植民地)の人間にもなれなかった、とも言います。「英語教育学者」って、自然科学に憧れるあまり、もともと持っていたはずの柔軟さ・教養の深さ・文化の高さを失って、必要以上に----自然科学者以上に----狭量になってしまいつつあるのではないのでしょうか。これは「英語教育学者」だけではなく「生成文法学者」にも当てはまるというのは言いすぎ?

でも「英語教育学者」や「生成文法学者」の中にも柔軟で教養が深く文化の高さを持ちながら、かつ方法論的にも厳密であろうとする人がいます。そういう人を見極めるには、まずその人の論文自体がしっかりしたものであるかを確かめた上で、その人が日頃どんな風に他分野の人と話をするかを観察することだと思います。金子さんは言います。

他分野のことが評価できないというのはあくまで錯覚である。自分でオリジナルな研究をやっている人間であれば、1,2時間でも話を聞けばその人が彼(女)独自の世界観を持って(求めて)研究をしている人間かどうかはたいがいわかる。むろん、テクニカルな水準は専門家でないとそう簡単にはわからないが、それはその分野の専門家に聞けばわかることである。他の分野のことは神聖不可侵だ、などという態度は、科学者自らの首を絞めていく危険な態度だと思う。(17)

現場教師のみなさん、もし「専門家」がわけのわからない専門用語でわけのわからない話をしはじめたら、熱心かつ誠実に「もっとわかりやすく話してください」と言い続けてください。もしそれでもわからなかったら、頭が悪いのは、あなたではなく「専門家」の方だと思ってもいいのかもしれません。

う〜。眠たい。ここで書評その1は終わり。でもまだ17ページ分しか書評してない!

追記:と、えらそうなことを書きましたが、かくいう私はやたらと気が多いものの、肝心の専門の論文での緻密さがまだまだです。勉強しなくては・・・・


『英語科自学のシステムマニュアル』(1998/3/10)

全ての現場の中学英語教師の皆さんに同書(明治図書、1997年、1850円)を心からお勧めします。「随想」のコーナーでも以前書きましたように、私は田尻さんの話を達人セミナーで聞いて、本当に感銘を受けました。同書を読むことで、その時の話ではわからなかった事情も理解できたりしました。

この本のよいところは、徹底的に具体的なところです。私のような大学研究者が下手に実践のことを書くと、どうも理屈の上ではうまくいくみたいだが、実際にやろうとすると、どうも・・・といったモノになってしまいます。

その点、この本は田尻さんの汗の結晶ですから、実践上の貴重な情報があちこちにちらばっています。私のアンテナに引っ掛かっただけでも、自学帳でのコメントの働き(21)、先生を見る生徒の目(22)、市販の問題集の欠点(49)、語順指導の重要性(58)、自学パターンプラクティスの落し穴(69)、中学生にも高校生向けの和英辞典を勧める理由(74)、板書の「弊害」(77)、教科書の「使い方」(79)、ALTとの仕事分担(108)、学習者の自覚の意義(123)、テスト前のコメントの扱い(126)、などといった情報は英語教師が早く「当然の常識」とするべき事柄だと思います。

表現集プリント(58)や英問英答(疑問文の作り方とその答え方)(86)なども、新人英語教師の方は必見だと思います。

英語教育界は、こういった大切な事柄さえまだ共有されていないのではないでしょうか-----少なくとも私は読んで「うーん、なるほど。そう言われてみれば」と、学ぶところ大でした。英語教育界にもお互いに学び合う文化をつくりあげましょう。田尻さんもこう言います。

「苦労して作った授業案や教材などは皆で分け合いたい。よい案を取り入れれば、その分授業作りの負担が減り、生徒の自学を見る時間が増えるからである。

教師はお互い競争するものではない。自分の生徒さえよければいいというものではない。お互いが持っている知識や経験、ノウハウを交換し、少しでも生徒が成長するよう努めなければならない。全ての生徒が「あの先生には世話になった」「あの先生は私たちのために頑張ってくれた」という経験をしていれば、心ある大人が増えるだろう」(151)

この本は具体的助言に優れるだけでなく、一人一人の教員が孤立した自己利益のためではなしに、自分も他人も生き生きとできる社会のために、少しでも連帯しようと思わせる良書となっています。

ちなみに同書は次の言葉で終わっています。あなたもお読みになりませんか?

「最後に、最も感謝しなければならない人たちへ。生徒諸君、「ありがとう」。

そして、何もしてあげられなかった、私が若かった頃の生徒諸君、「ごめんなさい」。

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『ウェブデザインハンドブック』(1998/3/4)

「そろそろうちの学校/会社でもホームページを作成することにしたい。ひいては君、君は毎日e-mailを使っているそうだから、作成責任者になってくれたまえ」(^^;)、などと言われたら、迷わず同書(1997年、エーアイ出版、2000円)をお買い上げください。

ウェブマスターとは何か。コミュニケーションマスター、コンテンツマスター、システムマスターの役割とは何か。読み終えてみると「もっともだ」と思えるのですが、その「もっともなこと」すらたいていの組織では理解されていないと思います。雑誌WIREDは同書を「一部のウェブマスターの間ではバイブル扱いである」と報じましたが、確かに組織内での仕事をする人には必読の書でしょう。私のように個人のホームページを運営する人間にとっても非常に有益な本でした。

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『ボランタリー経済の誕生』(1998/2/26)

金子郁容さん、松岡正剛さん、下河辺淳さんらによる同書(1998年、実業之日本社、407ページ、2800円)を、現場で新しい発想の英語教育を実践しようとしている方への理論書としてお勧めします。

「ボランタリー経済」とはなじみのない言葉ですが、わかりやすく言うとそれは「教育からNPO活動まで、基本的には「すすんで人の役に立つ」ということでお金が回るというしくみ」(11)です。といっても同書は安直な金儲けの本ではありません。また、新たな構想を打ち出すだけの理想論だけでもありません。同書は「ボランタリー経済」の例を古今東西の事例に求め、その実態を実証的に知らせると同時に、現代の行き詰まり状態を打開するための理念と方向を示した本です。

「明日の授業にすぐに役立つテクニックが知りたい」という要請は、それ自体良心的なものなのかもしれませんが、そういった発想しかとらないのは賢明ではないと思います。第一、そのように発想が有効なのは、(1)社会自体が変化の少ない伝統社会であり、(2)既成の(英語教育の)営みが優れていることが判明している、という二つの条件を満たす時だけだと思います。現代の日本では(1)の条件も(2)の条件も満たしていないと思います。どうぞ、実践者の方もよりよい実践のためにはこういった理論(概説)書に注意を払ってください。

英語教育の研究者の方には、こういった社会的視点からの本をもっととりあげてください、と私は訴えます。本来英語教育は、「英語」という点では人文的であり、「教育」という点では社会的であるはずの分野だと私は考えます。ところがここ10年あまりの「実験研究」の流行で、英語教育界は従来もっていたはずの人文的教養を失い、社会的思考力はますます失い、かといってきちんとした自然科学的研究(の方法とエトス)をものにもしていない、という袋小路に追い込まれていると思います。よりよい英語教育を実践するためには社会的視点からの考察が不可欠です。ぜひ本書をはじめとした概説書でお互いに社会的思考力を身につけませんか?

現代はコンフォーミズム(体制順応主義)の時代だと著者達は認識しています(17)。

このような社会のなかの個人は好むと好まざるとにかかわらず、何らかのチャネルで既得権益の恩恵に浴している。そこでは、問題を解決するはずのボスが問題を放置することにメリットを見出し、そのほかのものは問題を見過ごすことでおこぼれにあずかるという、コンフォーミズムのひどい状況がある。しかもこのような利権の仕掛けはそのつど保身のために維持され、しっかり強化されてきた。そこにあるのは固定された閉じた世界のなかでの恩恵の与えあいである。そこでは「なれあい」と「もたれあい」が危険な釣り合いをとり、保護と脅しの「談合社会」が度し難い依存体質を蔓延させている。(29-30)

さて私たちの英語教育界はどうでしょう。「他人事とは思えない」と考える私は単にひねくれているだけでしょうか。「社会の一部だけが潤い、全体としては不利益につながるシステムがなかなか改まらないのは、既得権の持ち主が配分を決めているからである。人のことはほおっておくことが保身のために有利だから、その構造にあえて挑戦するドン・キホーテや佐倉惣五郎も出てこない」(31)と著者達はいいます。「社会の一部だけが潤い」という句や「既得権」という言葉に「一旦得た地位の上にあぐらをかくこと」という意味を読み込みますと、これは(私を含めた!)「英語教育界」のことを指しているようにも私は思えましたが、いかがでしょう。

そうすると「現状打破のために市場原理を!」という声が聞こえてきますが----私もハイエク的な意味でそう主張しています----、「市場の失敗」を「政府の失敗」と共に懸念する著者達は、「政府か、市場か」という二者択一的思考を捨て去り、「政府も、市場も」というアプローチをとることを提唱します。

それにしても文化に「市場」が必要なのか、と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、著者達の認識は「文化が経済につながらなければ納得のいく社会運営はできそうにない」(34)という現実的なものです。そのことを踏まえた上で、「経済=文化」を創発するしくみとしてボランタリー・エコノミーをとらえます。

<ボランタリー・エコノミー>は多様な「つながり」をつくっていく動向である。それは規模にあらわれるのではなく、接続にあらわれ、プロセスにあらわれる。つながりは自発的である。そこには何らかの「財」(金銭・物財・情報・知恵・エネルギー・時間)がもちよられ、共有され、編集されていく。その編集のプロセスが新しい情報と価値を生み出していく。<ボランタリー・エコノミー>は、このようなつながりがもたらす価値生成のプロセスそのものである。(34-35)

同書のよい所は、上のような主張を抽象論だけにとどめるのではなく、室町時代、江戸時代、そして平成の日本にある共同体、あるいは現代イタリアの地方公共団体のあり方にその実例を見い出していることです。実例の存在は私たちを力づけます。「NPO(=Non Profit Organization)としての寺子屋」や「フリースクールとしての私塾」という認識は、私たち教育関係者をはっとさせます。「日本の近世教育システムはそうとうにユニークであり、かつ、人材を育成するためのどんな多様性と相互性をも呑み込んでいくフレキシブルな度量に満ちていた」(303)という指摘にも私たちは勇気づけられます。

「政府・行政による一定の関与を残しながら、自発的で相互的なサービスが提供されるように教育サービスを<相互編集市場化>するための一つの試策として」(311)、同書は「教育クーポン制」(=国が教育サービスという限定された使途についてのみ支払い可能なクーポンを発行し、それをサービスの受益者に無償で交付するシステム)を提唱します(注1)。「教育予算の92パーセント(五兆八千八百七十九億円)に相当する部分については、基本的にはクーポン化が可能である」(311)という試算は私たちを驚かせると同時に未来への希望を与えます----私はこれを読んでワクワクしました!----。この制度の導入によって「民間教育機関・公的教育機関・NPOをふくむ多様な教育機関は、教育サービスの「カスタマー・サティスファクション度」をめぐって競争をおこすことになり、提供される教育サービスの質が上がることが期待」(312)され、「先生の教育にたいする自発的な意欲と工夫が学校経営を支えることになるから、教育機関内部で、教育に意欲をもつ先生の存在が評価されやすくなる」(312)ことが期待されるからです。教育クーポンは、単なる「お金」ではなく、「文化通貨」であり「教育通貨」である(313)のです。

もちろん教育クーポンを導入しさえすればよいというわけではなく、そこには情報開示、モニタリング、評判システム、情報のフィードバックなどが必要とされます。教育クーポンの考え自体は新しいものではないのですが、「ボランタリー経済」という理念から幅広く事象を論じる同書は、この「教育クーポン制」という考えにも新しい生命を吹き込んだともいえましょう。

同書は、様々な「ネットワーク」により新しい英語教育を目指している方への良質の理論的指南書となると私は考えます(注2)。ですがもしあなたが、同じく金子郁容さんによる『ボランティア----もうひとつの情報社会』(岩波新書)をお読みでなかったら、まずこの岩波新書を最初に読むことをお勧めします(この新書の書評は「書評01」のファイルに掲載しています)。

(注1):「教育クーポン制」あるいは「バウチャー」は、通常は「教育の市場化」の文脈で語られます。私も教育の市場化を原則として支持していますが、その支持はこのような制度をにらんでのものです。

(注2):ただし同書には巻末の参考文献表が一切ありません。さまざまな「つながり」を志向するこの本にとって、これは重大な欠点だと思います。


『生成文法』(1998/2/24)

岩波講座「言語の科学」の第6巻である同書(1998年、岩波書店、xxii+234ページ)は、類書に比して「生成文法理論の本来の目標や射程を中心にした」(ix)点で異なる概説書です。著者は田窪行則さん、稲田俊明さん、中島平三さん、外池滋生さん、福井直樹さんの5人です。記述には多少の重複がありますが、気になる程のものではありません。

私が英語教育(研究)に携わる者としてこのような本を取り上げるのは「Chomskyのアプローチに賛成してそれを利用するにしても、反対して別の理論を立てるにしても、経験科学として言語の研究をするためには、生成文法の正確な理解が不可欠であると考えられる」(ix)といった主張を額面通り受け取っているからです。ですが英語教育研究者として、限られた研究時間を今後共に生成文法家の主張に耳を傾けることが果たして有効なことであるのかについては私はかなり疑問をもっています。

それでも私が全く無視できずにこのように生成文法の本に時間を割くのは、生成文法研究が、時にその正当な範囲を越境して、英語教育研究(の一部)に取って代わろうとしたり、あるいは英語教育研究のような分野の意義を不当に貶めることがあると思っているからです。

従いまして以下は、私が生成文法という企てがどのようなものなのかを、英語教育(研究)を推進する立場から私なりにまとめたものであり、生成文法家による生成文法家のための書評などとは無縁のものです。

 

かつてマックス・ウェーバーは「学者」に予言者や救世主を求める傾向を厳しく批判した『職業としての学問』の最後でこう言いました。

「そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」に----人間関係のうえでもまた職業のうえでも----従おう。このことは、もし各人がそれそれの人生をあやつっている守護霊(デーモン)をみいだしてそれに従うならば、容易にまた簡単におこなわれうるのである」(尾高邦雄訳『職業としての学問』岩波書店、1936年、74ページ)

私の「日々の要求」とは「日本の英語教育の現実」のはずです。ですから私はその現実へと導いてくれる学問上のデーモンを見つけるべきでしょう。それでは生成文法家のデーモンは、そういった英語教育研究者のデーモンとしてふさわしいものでしょうか。彼/彼女らのデーモンを探り当てるために、以下のような記述に注目してみましょう。

「言語はさまざまな側面からとらえることができるが、科学、それも自然科学の対象として考えた場合に、考えられる言語の側面は非常に限られる」(x)

「Chomskyは、言語の研究方法として方法論的な自然物主義をとるとしている(Chomsky 1995)。すなわち、言語をあたかも「もの」であるかのごとく扱い、最終的に、物理学がなしとげたような真の説明理論をめざすのである」(xv)

生成文法家のデーモンの一つはどうやら「科学」、それも物理学に範をとる「自然科学」のようです。そこでは言語を「もの」として取り扱うことが目指され、言語を「人間が他者や世界と関係づく媒体」など見る考え方などはその性質上排斥されるようです。

引用を続けましょう。

「言語を操るということは、その言語を話し理解する能力を話者がもつことであるのは当然であるが、生成文法ではそのような言語能力の実体が話者の脳内に貯蔵されている言語知識(knowledge of language)にあると仮定する」(4)

「このように、生成文法は「実在論」(realism)の立場をとり、その探究の対象は実在の言語知識である」(5)

もう一つのデーモンは「実在論」のようです。ですが注意したいのは、ここで「実在論」といっても、生成文法家の実在論は、「学的手続きを経て、帰納的に得られた」「実在性」(平凡社『哲学事典』597ページ)に関わる自然科学的な実在論であるというよりは、中世の「普遍論争」における「実在論」に近いように思えることです----私見です。ご批判があれば反論ください----。中世では「唯名論」に対して、「普遍すなわち類、種の概念が個物にたいして時間・位階的に先在するとする「概念」実在論」(平凡社『哲学事典』597ページ)が主張されたと言います。「言語使用/運用に先だって能力/言語知識があるはず(いやそれ以外に事態は考えようがない)」「個別文法に先だって普遍文法があるはず(いやそれ以外に事態は考えようがない)」と主張する生成文法家のデーモンは概念実在論----マルクスに言わせるなら「カトリック教会の要求によく合致した観念論的立場」(平凡社『哲学事典』597ページ)の中世的実在論----に極めて近いと私は考えます。他の経験的自然科学に比べて生成文法は、観念性がいい意味でも悪い意味でも高いような気が(少なくとも私には)していました。「概念実在論」「中世的実在論」(注1)が生成文法のデーモンではないか、と考えることによって私は少し生成文法の性格がつかみやすくなったような気がしますが、皆さんはいかがでしょう。

次の引用を見ましょう。

「例えば、構造主義的言語学におけるような経験論的な立場を前提にすれば、言語資料の分析がその中心になり、脳に内在する生得的な言語機能の特性などは研究の視野にそもそも入らない。生成文法は言語に関するより根源的な問いへの解答を求めているのである」(44)

「どちらのアプローチが言語が持っている根本的特性をよりいっそう明らかにし得たかはほとんど自明であるように思われる」(165)

ここでは「根源的」や「根本的」といった言葉に注目したいと思います。これらの言葉は、ここでは価値づけられた言葉として使われていますが、この価値は、先ほど見た、いわゆる「言語知識」が言語学の課題であるという仮定のもとになりたっていることを忘れないでおきたいと思います。私が思うところ、生成文法家の特徴は、技術的な議論だけでなく、自らの研究こそが言語研究の本質であるといった議論にも長けていることだと思います。前者の議論に関しては私は何も言えませんが、後者の議論に関しては批判的であり続けたいと考えます。生成文法の言語観は唯一絶対のものではなく、それどころか英語教育の現実の問題を考えるにはむしろ邪魔ともいえると私は考えているからです(=後期ウィトゲンシュタイン的批判)。後者の議論の一例として次のように他の考え方を批判するものもあります。

「そのような主張は、「類推」がどのような場合に働きどのような場合には働かないかに関する精密な制約なしでは意味のない空虚な仮説となる」(15)

この引用が前提としているのは、「仮説は事象の前に精密にたてられるものである(=事象は予め精密に予測できる)」ということだと思います。その前提を共有する限り、例えば「類推」も「意味のない空虚な仮説」になるのかもしれませんが、複雑性等の議論を読みますと、その前提は簡単に共有できるものではない、とも考えられてきます。また、もし「類推」が現実世界との交渉の結果により経験的に学習されることだとしたら、その定義上、上のような前提は受け入れることはできません。ここでも生成文法の卓越性は、彼/彼女らのデーモン(ここでは「本質主義」、「単純性」「先験主義」(?))に導かれる限りにおいて出てくるものだということを確認しておきたいと思います。

また同書には

「このような、精神・脳の特性とは無関係に想定されている言語運用とその産物としての言語表現をE-言語(E-language)と呼ぶ。したがって、このような言語観に立てば、「文法」とはE-言語の分析あるいはE-言語に関する記述ということになる。そのような研究においては、E-言語の基本的な特性の探究や母語話者の持つ言語知識の解明などという問題はそもそも生じない。まして、言語知識はどのようにして発生するのか、という問いも存在しない」(23)

という記述もありますが、例えばコネクショニズムの考えをとっても、言語の「基本的な特性」や「言語(知識)がどのようにして発生するのか、という問い」について従事することは十分可能だと私は考えます(実際そのような研究はあります)。ただその場合、必ずしも「基本的な特性」や「言語(知識)がどのようにして発生するのか、という問い」が生成文法家が望むような形で定式化されない、ということだけであって、生成文法だけが可能な言語研究だと、生成文法家がもし示唆しているのなら、私はその示唆は明らかに行き過ぎだと思います。(注2)

とはいえ、それら一連のデーモンを導きの光とする限りにおいては、生成文法はおそらく最上の試みと言えるでしょう。英語教育研究に従事する者として、そのようなデーモンを自らのデーモンとしない私でも、そのことだけは認めざるを得ないでしょう。

ですが、仮に生成文法家のデーモンを認めるせよ、次のような「瞬時獲得モデルと理想化」の前提に関しては私はいまだかつて説得力を感じたことはありません。どうして「瞬時獲得」を前提(理想化)としなければならないのか納得がいかないからです。

「言語知識の研究において実際の言語運用に見られる様々な要因を捨象して言語能力のみを抽出しようとしたように、言語獲得モデルにおいても、経験科学の方法における理想化を行っていることになる。そして、そのような理想化により初めて言語獲得の本質が分かると主張しているのである」(45)

どなたかこの前提に基づいて研究を進めている方、この前提の効用を説いてくださいませんか?さもないと私は「生成文法は、言語使用に関してはともかくも、言語獲得に関しては一定の成果を得ている」という主張を素直に聞き入れることはできません。「言語獲得」という用語がこのように使われることに得心がゆかないからです。

しかし一方で、この本では生成文法の現在の課題も正直に語られています。

「生成文法は、最終的には、脳内の神経モデルとの対応づけをめざすとしても、現在はまだ、生成文法と脳生理学は独立して研究をせざるをえない。(略)また(略)、言語処理やコミュニケーション理解に応用するには、かなり研究が進まなければ役に立たない」(xvii)

「全体でいくつのθ役割があるのかということについては、現段階では研究者の意見は一致していない」(121)

「しかしながら上述した構図でもって、初期の変形文法がたくさんの変形規則を設けることによって達成したのと同程度の記述的妥当性が保証できたか(あるいは現在の生成理論も含めて、できているか)は定かではない。説明的妥当性に関心が移行するにつれて取り扱われる構文の種類が限定され、それらの構文だけに基づいて説明的妥当性を満たすような理論の構築が試みられている。(略)文法理論が目指すところは、記述的妥当性か説明的妥当性のいずれかを満たすことでもなければ、それらをほどほどに満たすことでもなく、両方を十全に満たすことである。説明的妥当性に関心が移行した結果、記述的妥当性が軽視されてきている嫌いがあることは否めない(注3)」(93)

「しばしばChomskyが言うように、われわれの分野はいまだに「Galileo以前」の状態にあり、物理学を中心とした自然科学が経験した「科学革命」は、残念ながら言語学においてはまだ起こっていないのである」(208)

このように自らの研究に足りていないところを率直に公開できるのは、この生成文法という企てが健全なものであり、これらの生成文法家が良心的でもある証拠であるともいえると私は思います。そうした生成文法の試みに私は敬意を払います。しかし敬意を払うということは服従するということではありません。英語教育研究は、生成文法とはきちんと一線を画しておくべきだと私は考えます。

(注1)言うまでもなく、「中世的」という言葉は揶揄の言葉ではありません。古い時代の思想法がすべて揶揄の対象だったら、「プラトン的」や「アリストテレス」という言葉はもっとひどい揶揄の言葉とならなくてはいけません。

(注2)総じて言いますと、同書の第1章の「したがって」といった表現のいくつかには私は説得力をあまり感じませんでした。

(注3)ちなみに別著者による172ページの別見解も参照してください。


『文化心理学入門』(1998/2/23)

波多野誼余夫さんと高橋恵子さんによる同書(1997年、岩波書店、x+198ページ)は1980年代の終わりのころから発展しはじめた文化心理学の現状を手短にまとめた入門書です。全体は10章から構成されているため、一つ一つの章の記述はやや浅いものになっていますが、これは入門書ということで仕方のないことでしょう。記述は平易で読みやすいものになっています。

英語教育関係者には次のような記述が注目に値するのではないでしょうか。

発達心理学においては、普遍性がさらに強調されてきたきらいがある。これは、さまざまな発達が年齢と相関していることが少なくなかったためであろう。実際、発達心理学の多くの研究の結果は、何歳では何ができ、それが何歳になるとどう変わるのかといった年齢依存的な記述であり、しばしばそれが説明であるかのように受け取られてきた。もう少し洗練されたタイプの理論化では、さまざまな分野における発達段階が設定された。(略)/実際には社会・文化が異なれば、ある段階が存在しなかったり、別の段階を設定しなければならないことはよくあるし、場合によっては二つの発達段階のどちらがより成熟したものであると考えるかが文化によって異なる、といったこともありうる。いずれにせよ、従来の心理学は心の普遍的な側面を強調するあまり、それが社会・文化によって変化する側面を軽視してきたといわざるをえない。(12-13)

特に小学校への英語教育導入に関する議論で「識者」が「英語教育/アルファベットは○歳から導入することがよいことが科学的実験からもわかっている」などという発言をするのを聞くこともありますが、私はこういった発言には注意が必要だと常々考えていました。少なくともそういった発言は上の発言と共に慎重にとらえられるべきでしょう。

教育に対する視点として文化心理学は何を提供するのか。(略)/第一に、学校の位置づけである。(略)文化心理学からの教育的示唆の第一は、学校の役割を相対化せよというものであろう。/第二に、学校での教育実践は、文化全体との整合性を持たない限り、有効ではありえないという点の確認である。教育内容や方法の効果に関する普遍主義的な見方から、一見有効なできあいの教育パッケージをそのまま輸入・輸出しようとする試みは必然的に失敗するというのが、文化心理学の説くところである。(186)

この二点は、実験系認知心理学の形ばかりの借用が横行する英語教育界においてはことさらに強調されるべきだと私は考えます。


『発達心理学入門』(1998/2/21)

岡本夏木さんと浜田寿美男さんによる同書(1995年、岩波書店、x+257ページ、1650円)を英語教育に携わる現場教師と研究者のすべての皆さんに心からお勧めいたします。

同書は良書が多い岩波書店の「子どもと教育」シリーズの中の一冊ですが、その中でも極めて優れて良心的な本だと思います。「心理学のことを勉強したいけど時間がない」という人は是非この一冊をお選びください。

同書は教育関係者に発達心理学の概観を伝える入門書です。一般に入門書とでは、その分野の「知見のすばらしさや、それに参加することの意義がかなり楽天的に語られる」(255)ことが多いのですが、同書は現在の発達心理学が抱える問題点や課題もいつわらずに表明しています。とはいってももちろん、これは徒な自虐趣味によるものではなく、二人の著者がまっすぐに現実と学問の間のギャップを見つめ、社会の中に生きる研究者として、これから発達心理学に関わる人に希望を托しているからに他なりません。

この自己宣伝を極力排した良心的な態度は、二人の著者の出自にも関係があるのかもしれません。同書は「飢餓状態の中で心理学を学び始め、(中略)さまざまな流派の影響に右顧左眄しながら結果的にみると細々と発達心理学をつづけてきた」(256)一人の著者と、「学園闘争の中で、研究と学問のあり方を問いつづけ、その後も発達心理学の隆盛の中にひたることを拒み、その中身そのものを批判してゆくことを発達心理学者の仕事として自らに課してきた」(256)もう一人の著者の共同作業によるものです。この、よい意味での緊張関係が、同書の出来上がりのよさにつながったのではないかと私は考えます。

とはいえこの本の素晴らしさは、著者の人柄にもとめられるべきでなく、もちろんこの本が示す発達心理学の内容によるものです。以下、簡単に同書の内容を紹介し、私なりの、英語教育(研究)を推進する立場からのコメントを付け加えてゆきます。

Iの「発達研究への誘い」で著者は、発達研究の位置づけについて概説します。これは私自身知らずに少し驚いたことなのですが、「発達心理学」という名称は比較的新しいもので(以前は「児童心理学」の名称の方がよく使われていた)、日本で「日本発達心理学会」が設置されたのも1989年だそうです(5)。心理学における発達研究の必要性は、心理学が各領域で「個々の機能や能力を独立したものとしてとらえ、より詳細にその中身をしらべようとする方向へ進みがち」(10)であり、「さまざまな機能や能力間相互の関係には目をつむることになる」(10)ことから生まれます。「発達的研究の欠落した心理学は、あたかも歴史性を無視した政治論や経済論と同じよう」(10)だとは著者の弁です。

IIの「発達心理学の歴史」では、「子ども」が発見された(=子どもは「小さな大人」ではない、という考えが普及し始めた)時代が、産業革命により、個々人が共同体からひきはがされ、生存競争の中に放り出された時代であるという指摘(29)から、20世紀初頭の三つの流れ(=「知能テストの開発」、「条件反射学説と行動主義」、「精神分析学の誕生」)をおさえ、ピアジェの「発生的認識論」、ワロンの「発生的存在論」を解説します。

ここで「発生的」「認識論」「存在論」などという(哲学的な)用語がでますと、一部の方はそれだけ敬遠されるかもしれませんが、これは「発達」を研究するためには必要な理解です。たとえば「ことば」(日本語や英語)というものは現在の私たちにとって当たり前すぎるぐらい当たり前の現象ですが、発達研究とは、例えばその「ことば」が当たり前でない子ども(学習者)を研究する試みなのです。「当たり前が当たり前でなかったところに還元して考える、発達心理学の究極はそこにあると言って過言ではない」(47)と著者は言います。

IIIの「発達心理学の今」では現在の発達研究の考え方を比較的よく反映していると思われる研究をいくつか紹介しています。ここではその中でも特に英語教育と関連がある「表現の発達研究」(98-121)を取り上げます。

「認知と言語」などと言うのは以前から注目されているテーマですが、「認知と言語を並列的な二者としてとらえるのではなく、むしろ認知系と表現系という二つの側面の中に、言語がそれぞれにどう関与し、両者を活性化してゆくのか、またそれとともに言語に対する認知と言語による表現そのものがどのように発達してゆくかという観点からの解明が必要な時にきている」(101-102)と述べます。チョムスキー派の言語学者が「言語学」の領域をますます、よく言えば純化、悪く言えば狭量なもの(?)にして、彼/彼女らのいう「言語学」がどんどん言語の現実的な問題関心から遠ざかってゆく現状で、このような姿勢をとる発達心理学は、英語教育研究の大きな味方になってくれるのではないかと期待されます。ですが速断は避け、同書に戻りましょう。

最近の研究の中で特に重視されてきている点の一つは、「「話し手-聞き手」関係」(106)だそうです。「ことば、ひいてはコミュニケーションは、当然、話し手と聞き手(送り手と受け手)という関係を前提として成立して」(106)います----「そんなの当たり前だ!」とお怒りの方、どうぞチョムスキーの言語観を思いだしてください----。そうしますと「間主観性」もしくは「相互主体性」(=「自分と他者を互いに主体として感じとる関係」(106))の解明が言語の研究の一つの論点となるわけです。

しかも大切なのは、ここの「他者」とは誰でもよいというのではないことです(107)。例えば、赤ちゃんは、「好きな人」(=「愛着」(attachment)の対象となる人)との「情動の交流や音声や動作のやりとりを通して、ことばの獲得に欠かせないさまざまな諸要件を身につけてゆく」(107)わけです。著者は言います。

「そこでは、「模倣」ということが重要な役割を果たしています。コップの扱い方や呼び方も、お母さんのそれらの模倣を通して身につけてゆくからです。しかも赤ちゃんは誰をも模倣するのでなく、自分も好きな人と同じでありたいという願望の上に模倣が成立してゆくわけです。赤ちゃんは、模倣によって、好きな人に自分を重ね合わせてゆきます」(108)

私は、外国語習得の体験談を聞けば聞くほど、模倣の果たす役割が重要であることを認識しつつも、いわるる言語学関係の理論書では模倣を(必要以上に)軽視していることに得心がゆきませんでした。そんな時に読んだ前期ハイデガーの認識論と存在論(『存在と時間』)は、私の漠然とした認識に枠組みを与えてくれるもので、私はこの『存在と時間』を読んだからこそ拙著『模倣の原理と外国語習得』を書き上げることができたのですが、そこでも上のような事態は外国語習得の事態として描かれています。

話は本題にもどりますが、著者は、赤ちゃんが、模倣だけでなく、「好きな人と経験を分かちあい共有すること」(108)を喜ぶことも指摘します。「自分と好きな人の重ね合わせ(自他の二重化)がコミュニケーションの成立や、言語獲得、言語的理解を可能にしてゆく大切な土壌となる」(110)ことを著者は明らかにします。英語教育におきましても、こういった「土壌」は、「英語以前の問題」「生徒指導の領域」「非学問的問題」として、正面から扱われてこなかったのではないでしょうか。英語教育関係者はこの点を真剣に反省すべきだと私は考えます」。

次に著者があげる論点は「象徴機能の形成」(110)です。子どもは個人差はありますが一歳半から二歳前後にかけて本格的に(しかもかなり急激に、組織的に)話し始めます。このことに関する現在の定説は「「象徴機能」が一応形成され働き出すことが、言語行動を可能にする最大の原因」(110)だそうです。象徴機能とは、「ある事象や事物を、それと異なるものでもって表わす働き」(110)「ことに、その表わされる事象や事物が現前しない所で、それを表わすことができる働き」(110)ですが、その象徴的表現の兆しは、「ことばに先立って「身ぶり」の形をとって表われて」(111)、「模倣としてみられた動作が、単なる模倣としてではなく、表現のための身ぶりとして用いられ始め」ます。まとめますと、まず身ぶりが、人との遊び的場面等で発生し、やがてそれに音声がことばが伴い、次第に「動作的要素がうすれてことば表現へと重点が移って」(112)ゆくわけです。ですが「その動作的要素は消滅するのではなく、子どもの心の中に内化されてゆく」(112)と著者は指摘します。こういった発達がもっともよく見られるのが「ごっこ遊び」です。

次の論点は「他者に向けてのことば・自分に向けてのことば」(113)です。三歳から四歳頃になると子どもは「自分の行動を、ことばに翻訳したり、またことばに従って自分の行動プログラムを作ってゆくことも可能」(113)になります。子どもは、自分の親しい「好きな人」が自分にかけてくれたことばを、やがて自分で自分に向けて使い始めるわけです。こうして子どもは自分の中に、「自分に「語りかける自分」と、それを「聞く」自分という二人の自分を持つ」(114)になってきます。(このトピックは従来「内言」として知られていますが、「この内言化の過程の重要性は、古くから注目されながらまだよく分かっていません。その際は、自己と他者の関係の内化が不可欠なことがようやく指摘され出した現状です」(114)と著者は留意をよびかけています)。

次の論点は「ことばのことば化」です。学校教育では「一次的ことば」に加えて「二次的ことば」が要求されきます。この「二次的ことば」は時に「方言と共通語」の問題とも関連してきます。

さて、例えば小学校で英語教育がなされる場合、英語はどんな「ことば」として教えられるのでしょうか。あるいは中学校では実際に英語がどのような「ことば」として扱われているのでしょうか。

(小)中学校が「一次的ことば」としての英語教育を行い、高校・大学が「二次的ことば」としての英語教育を行っているのでしょうか。私は個人的にはそのような棲み分けがよいのではないかと考えているのですが、実際には極端な場合、中学校の出来るだけ早い段階から「二次的ことば」として英語を教えて大学受験に備える一方で、肝心の大学では「英会話が大切」とばかりに「一次的ことば」へと舞い戻りしているのではないでしょうか。どこか本末が転倒しているように私には思えます。

発達心理学の現状を取り上げたIIIは、最後に心理学や発達研究を考える際の観点を列挙します。それらは(1)生物的----文化・歴史的、(2)能力論的----行為論的、(3)個別機能的----全人格的、(4)個体論的----関係論的、(5)単一化的----多様的、(6)法則定立的----個性記述的、(7)実験(テスト)的----生活的、(8)平均化的----個別化的、(9)短期的----長期的、(10)科学的----意味的、という10の観点です(146)。英語教育研究も、無意味な固定化・権威化を防ぐためにこれらの対立の意味合いをよく考え続けてゆきたいと思います。

IVの「発達心理学の課題」では、「人間の学としての心理学は、その人間の生きる時代を離れて考えることはできません」(150)という著者の姿勢を一層明確にします。

まず著者は、大学で「発達心理学」という看板を立てていると、およそ子どもに関わるあらゆる問題が持ち込まれますが、「正直なところ、発達心理学の専門知識でもって答えられることは多くありません」(158)と語ります----ですが、ここであわてて補っておきますと、この著者は様々な社会的問題に関わっているもっとも良心的な学者の一人です。いわゆる「理論家」が不貞腐れた自負心でもって吐いている台詞と混同してはいけません----。それなのにマスコミや世間の「専門家信仰」(159)は根強く、断言的な口調で語る「専門家」がいると安易にそちらになびいてゆきます。著者は、まずその傾向に注意を呼びかけます。

この点を踏まえた上でとりあげられる論点の一つは「発達ということの表と裏」です。著者は言います。

「私たち発達心理学などを専門にしているものは、子どもの能力をいかにして発達させ、障害をいかにして克服させるかというところに目がいきやすいものです。しかし、よく考えてみれば、人は能力発達のために生きているのでも、障害克服のために生きているのでもありません。能力の有る無し、障害の有るなしにかかわらず、人は与えられた手持ちの力を使い、やむをえざる無力を引き受けて生きている。このありのままの生きる場を離れたところに「専門」というものが別個にあるのではないのです。このことを底のところでしっかり見きわめておかないと、専門性もときに凶器になります」(164)

別の箇所では著者はこうも言います。

「人は無力な赤ちゃんとして生まれ、無力な年寄りとして生涯を終えます。そしてその赤ちゃんと年寄りのはざまでも、人はときに障害をこおむり、病におちいります。それらの無力さはいずれも、当然のこととして共同性によって引き受けられ、支えられねばなりません。それは倫理道徳(ゾレン)の問題ではなく、人間の事実(ザイン)の問題です。力を伸ばして自立するという自分の押し出し方に目を奪われれば、人の育ちの過程に個体能力発達の筋しか見えてきませんが、人が本来的にもっている無力さに着目すれば、そこにはおのずと人どうし共同性の事実が浮かび上がるはずなのです」(197-198)

英語教育が小学校に導入されようとする現在、英語教育関係者が深く心に刻んでおかなければならない言葉だと思います。(それとも「科学」という言葉は、こういった言葉を無視してよいほどに「ありがたい」ものなのでしょうか。それなら、その「ありがたさ」は、何に由来しているのでしょうか)。

ニーチェ的追及はさておいて、本筋に戻ります。著者は「共同性の問題----個と類」も取り上げます。心理学は一般的に人間の振る舞いを「個体単位で説明されるもの」(176)と考えていますが、著者はこれに根本的疑問を投げかけます。心理学の定説ではS-O-R(刺激--生体--反応)のモデルが大前提としての枠組みとなっています。ところがこのモデルでは「相手」という存在が単なる刺激(S)としか捉えられず、そのことが「人間のように複雑な生き物でなくて、小さな魚や虫でもこのことは問題」(178)になることを著者は指摘します。仮にS-O-Rモデルでロボットを作り、生物の振る舞いを再現できたとしても、それは「他者の存在を予定し、他者を相手にした対でもって、はじめて完結する」(182)個体を越えた存在になるとも著者は表現します。その他にも、模倣の原型ともいえる赤ちゃんの「共鳴動作」(coaction)(186)やまなざしを交わすこと(189)などの事例を通して、「相互主体的な関係」(190)のモデルを提唱します。

著者は「意味」という論点も出します。「学校で学ぶことの意味」「働くことの意味」「訓練の意味」などは著者が障害者の現実なども踏まえたうえで考察したものであり、通り一遍のご教説とは無縁の説得力をもったものになっています。

むすびの「子どもたちの生きる場にせまる心理学を」では、時代と社会に向けて開かれているはずの発達研究も、「大学というところで飯を食っている研究者にとっては、下手をすれば、その研究の全体がどこでどう閉じようと、制度の上でその生活が支えられているかぎり、どうでもいいということになってしまいがち」(236)という現状----大学関係者以外にはあまり知られていない現状----を再指摘します。現在の発達心理学が「能力発達論的な枠組みに囚われて、子どもの生きている世界を描くだけの枠組みさえ用意しえていないのではないかとの懸念」(244)を抱きつつ、著者は新たなパラダイムを開くことへと希望の糸を紡いでいきます。245ページからの参考書リストも良心的です。英語教育関係者にとっても必読の書といってもいいでしょう。是非ご自身でお読みになり、周りの方との議論を深化させていってください。

それにしてもこのように魅力的な発達心理学に私たち英語教育関係者は、今後どのようにつきあってゆけばよいのでしょうか。

過去の反省に学ぶなら、決して安直な「応用」はやらない、ということです。数年前の発達心理学の研究論文を一種の「聖典」として英語教育研究の進むべきゴールに設定して、その仮説・枠組みを無批判に援用し、無闇矢鱈と「英語教育でも当てはまるかどうか実証するための実験」を重ねても、それは単なる猿真似による業績稼ぎであり、現実的でも学問的でも理論的でもありません。そんな論文を書いて喜ぶのは、業績表を形式的に満たすことができた執筆者当人だけで、その他の人にとってそれは税金の無駄遣い(国公立大学はもちろん私立大学にも国庫助成はなされています)であり、人材の浪費でもあります。

私が従来から考えているのは二つの大きな道です。一つは、英語教育研究者が批判的に発達心理学の文献を読みこなして、あくまでも英語教育の視点から、独自の発達研究を構築すること、もう一つは、英語教育研究者が、発達心理学者と共同研究するだけの枠組みを提示することです。前者は「王道」といえるのかもしれませんが、その構築には10年単位の時間が必要でしょう(ちなみに私は「哲学」でこの道をたどろうとしていますが、まだまだ時間と努力が必要です----。その点、後者の方が好ましい様にも思えますが、枠組みを作り上げるだけの知的体力が私たちにあるのか、時に不安になります。

英語教育に携わる人材も時間も予算も限られています。お互いに効果的な議論を積み重ねて、少しでもよりよい研究をめざしましょう。


『協同するからだとことば』(1998/2/19)

お茶の水大学生活科学部教授の無藤隆さんによる同書(1997年、金子書房、vii+205ページ)は「認識と文化 全14巻」のうちの一冊であり、心理学、社会学、教育学、文化人類学などの研究者にむけて書かれた本です。はしがきでは、同書の理論的概要を

「考えの中核は、G.H.ミードの理論を出発点として、エスノメソドロジーに範を取った相互作用分析、アフォーダンス理論にヒントを得ての「身体知」の考えや、オートポイエーシス理論にヒントを得ての「自己生成理論」にある」(iii)

と述べていますが、同書は「相当の時間を掛けてのフィールドワークなり観察なりがあることも述べておきたい」(iv)という正当な自負のもとに書かれた本でもあります。

序章で無藤さんは(少なくとも現在)主流である心理学の考えに距離をおいた自分達のアプローチを説明します。まずは「科学的」研究では、時に無邪気なぐらいに想定される「能力」という概念です。

「生活とは必ず特定の場での特定の活動への適応である。そこで繰り返し出会い加わる活動に対して有能に振る舞えるようになることはその基底にあるとされる能力の変容を意味するとは限らないのである。実際、生活の中で有能に見える場面もあるし、そうでない場面もある。日常化したからといって、有能に行動できるとするのは、単なる誤解に過ぎない。場面の選び方によって振る舞いのレベル(それをどう決めようと)は様々に変わってくる」(4)

私はこのような一般化・抽象化された「能力」という概念が実は空虚なものではないかという批判精神を、過去の自分の心理言語学的研究(の失敗)やウィトゲンシュタインさんの哲学から学びましたが、無藤さんは次のように続けます。

「そこで選択肢は大きく二つあることになる。基底にある能力を、出来る限り生活や文脈の影響を受けないように調べるか、むしろいっそ、生活や文脈自体を調べるかである。科学的研究としてはあるいは前者の方が価値が高いかもしれない。ごく少数の「変数」の検討で極めて多くの行動が説明できる可能性があるからである。だが、もし普段の生活場面での子どもや大人の振る舞いに関心があるのだとして、その理解や予測が問題であるならば、基底にある能力をいくら調べても何もそこから生まれない危険もある。影響を受けるから排除した生活や文脈こそが重要なのだから、それを排除した研究から得られるものは少ないからである。だとしたら、たとえごたごたとしていようと、個別的な生活や文脈の様子を込みにして、子どもや大人の振る舞いを調べ、概念化していく必要がある。その結果がたとえすっきりした法則にならないとしても、それが実態であり、その実態を知ることが研究のそもそもの動機であるならば仕方のないことである」(4-5)

無藤さんは自分の立場を明らかにします。

「保育について知見を深めたいのであれば、保育場面を丁寧に見ていけばよいのだし、学校の授業について知りたいのであれば授業を丁寧に見ていけばよいのである。その見ていくことで十分研究は出来、研究論文として成り立たせることが出来るのだということがまさに近年明らかになりつつある」(5)

私たちも英語教育研究において上の(いわば当然の)ことを「実証」してゆかねばと思います。無藤さんは「科学的研究」の横暴さ(!?)に少し釘をさします。

「実験的な検討や質問紙調査などは、もし保育や教育や家庭内の問題を解明すると称するのであるならば、その現実の場における問題との関連性を個別的実証的に示すべきである。研究の関連性を示す義務はそれらの(通例心理学で正統とされる)側にある。現実の場における実践を直に扱っている研究は自らの存在理由を示す立証責任は本来はないはずである。そうせざるをえないのは、単に既存の学界への義理立てと共に、「科学的研究」に対する世間のイメージによるのであろう。科学とは明快にして単純な「原因を見出し、それを治療することにより問題を解決することだといったイメージである。しかし、そのような悪玉がいる問題ばかりで生活が成り立っているのではない。多種多様な事情が錯綜しているのを解きほぐすしかないことも多数ある」(5)

心理学よりはるかに現実的である必要がある英語教育研究に従事している皆さんは上の引用をどう読みますか?

第1章で無藤さんは、ルーティンを取り上げます。

「そのルーティンを通して、そのルーティンの実行のみならず、新たな語彙とか、言語行為の条件とかを学び、さらには、文化やそこでの約束ごとを学ぶのだと言われる。その獲得で重要なのは、文化的に有能な他者(通常は親)との相互的なやり取りであり、そこで大人側が子どもを主体として取り扱い、一層そうなれるように援助することである。それは言い換えれば、単に注意の焦点を共有するだけでなく、注意の焦点を構築し、広げ、課題構造に組み込み、さらには、文化的に認められる形へと向けていくことである」(20)

英語教育でもゲームという一種のルーティンが用いられますが、ひょっとするとこの方法はコミュニケーションというあまりに複雑で自由な行為を学習者が取り扱うことができる程度に複雑性と自由度を縮減する仕掛けとも言えるのかもしれません。無藤さんは続けます。

「この過程は、共同注意から共同解釈(joint construal)へと到ることである。相手のどの発話・行為にも意味があると想定し、その意味を探り出し、また解釈の結果を相手に提供し、確認していくことである。相手は自分の発話・行為について同様のことを行っているはずである。それを文字通り受け取れば膨大な解釈作業となり、いわゆる計算の爆発を起こしてしまう。とてもリアルタイムで処理できる推測の量ではない。それを行えるとすれば(そして行っていると想定せざるをえないのだから)、推測を大幅に縮小するための様々な約束ごとやらルーティンがあるはずである。会話の規則なども含め、たくさんのその種のものがあり、子どもでもそれをすぐに操れるようになる。その過程で、初期に重要な役割を果たすのは、ルーティン・フォーマットの確立である。それを通して、文脈や前提の理解について習熟していく。あるところまで来れば(特にその場を離れての指示のことばを理解できるようになると)、関連性の原則を用いて、相手の言うこと・することを解釈できるようになる。文化が象徴的な水準でのフォーマットを提供してくれるからである」(21)

英語教育の教室にも沢山の「ルーティン・フォーマット」があります。しかし上のような視点から捉え直されたことはあるでしょうか・・・とはいえ、一知半解のコメントはこれ以上控え、無藤さんのまとめを見ましょう。

「ルーティンとここで呼んでいるものは、対人的な相互作用を可能にするものであり、その意味で、始めからそこに協同性を含み込んでいる。たとえ、知識として十分に持っていないとしても、互いにそれを補う動きをしたり、物理的な状況からの助けがあったりして、協同的な関係が実現できる。その上で、協同的な関係を維持し発展させる協同的な過程を成り立たせることを子どもが学ぶことが可能になるだろう。協同的な過程がルーティンのそのままの実現と同じではおそらくなく、もっと微妙な意味の分節化を求められ、また意味解釈をめぐっての交渉が必要になるはずである。だが、少なくとも、その過程は、ルーティンが大枠としてあれば、相当に容易になるに違いない」(27)

私はいろいろな実践(特に中学・小学)を見せて頂くにつれ、「ゲーム」あるいは一定の枠組み(=ルーティン)は、英語教育の余興でなはく、むしろ本質的な活動ではないかと思い始めていましたが、どこからどう切り込んでよいのかわかりませんでした。無藤さんのような考え方は一つの洞察を与えてくれるように思います。無藤さんの知見を安直に「応用」することなく、しかし洞察を得ながら今後とも英語教育について考えてゆきたいと思います。

第2章から第6章は、具体的な子どもの分析で、英語教育との関連は少ないように私は感じました(もちろんこれは私の読解力・洞察力が足りないだけなのかもしれません)。しかしビデオカメラの具体的な設定法や記録の取り方などは教室観察にもおおいに役立つ情報となっています。

終章で無藤さんは研究を理論的に総括します。まずは知の身体性についてです。

「小さい子どもの発達が身体的な基礎を持っていることはある意味では常識であるが、問題はいかなる形での身体性かにある。本書で主張したいのは、身体と物との動的な関係が基礎にあり、特に相手との身体的な呼応の関係も含めれば、他者と協同するのも同じ過程なのだということである」(181)

続いて無藤さんは「揺れ」という論点を提示します。

「もう一つの大きな主張は、その動的な関係は揺れを子どもの行動・関わりに持ち込むということであり、同時に、その揺れを通して協同性(もっと一般にはある状況での安定した活動)を可能にする型通りの行動(ルーティン)があるということである。ルーティン的行動を可能にする機構として、揺れがありながら安定させた活動を可能にする比較的容易に小さい子どもでも実行できる仕組みがあるのである。それは、その場にある物や相手との対応する関係である」(181)

「ルーティン」は時に「儀式」と呼ばれたりして否定的に語られますが、その違いを生んでいるのはひょっとしたらこの「揺れ」の存在なのかもしれません。あるいは「型」の習得が創造的な使用に展開するのはこの「揺れ」のおかげなのかもしれません。ですが速断は避けて続けて無藤さんの総括を聞きましょう。

「もっと一般的に本書で展開したい考えを述べれば、行為(動き)の連鎖自体に発達の実態をとらえるのである。すなわち、行為の連鎖の中から変容が生まれるのであり、その変容とは新たな行為の連鎖に他ならない。発達とはその変容の連続である。その上で、協同を、コミュニケーションシステムと思考のシステムとを、幼児において別物ではなく、対象に対する身体的な動きのシステムとして一体化しているところから、徐々に分離する過程にあるととらえるのである。そこでは、相手との関係においては、自他は同質のものとして、協同の関係に貢献する。対人的自己とはそのような関係のあり方を指す。協同の関係から離れて自らの思考過程に自己言及したときに、思考システムが独立するのである。分離の過程における重要な契機が、対象への動きに支えられつつそこから遠ざかることばのコミュニケーションであり、また相手との協同性がつまずいた際のことばの働きである。本書では幼児期の終わりにわずかに見られるものである」(187-188)

いかに「ゲーム」や「授業」といったルーティンから、コミュニケーションという自由で創造的な言語使用が生まれるのか、いやそもそも生まれうるのか、といった問題は上の点から考えてみれば糸口がつかめるのではないでしょうか。

次に無藤さんは河本英夫さんの『オートポイエーシス----第三世代システム』(1995年、青土社)を引用しつつ自説を展開します。河本さんの本は、決してわかりやすい本ではないのですが、無藤さんの今までの論を基にして読むとこれが実によくわかります。抽象的な理論を理解するコツは、徹底的に具体的な問題を思い起こしながら読むことだということがよくわかります。

無藤さんは最後に心理学の方法論に関して再び論じます。

「心理学での指標の多くは、リアリティに確かに基づいているとは言えない。行為のレベルでの何に対応しているかが分からない。相関が有意だとか、その数値が大きいといったことは、具体的な行為のレベルでの示唆を与えない。モデルに指標の解釈が依存し、しかもそのモデルが多数併存している段階では、その特定のモデルに与しないものにとって実は研究はほとんど意味をなさない。多くの数量化はそのようなあやしげな指標に基づいている。評定の行動的基礎もあやしいし、行動的な指標もその意味が多義的過ぎる。具体的な行為の中での検討に絶えず引き戻しつつ分析すべきである。/だが、それはその指標を取ることがいけないと言っているのではない。どんな指標でも役立つが、その意味の検討をさらに勧めるには具体性に戻らなければならないと言っているのである。方法論として観察が優位に立つと言っているのでもない。幼児の場合にはそうであるべきだと思うが、それは対象により当然変わる。思考システムが相対的に独立すれば、それ自体をことばを通して聞き出すことにも意味がある。問題はどの方法もどの指標もそのままで実体化すべきでないというところにある。あらゆる方法を用い、表象的概念的な偽りを脱構築しなければならないのである。しかし、そのために、最も基本となるのは、現場において実際に起こっていることをともかく眺め丁寧に詳細に記述し、疑問が湧けば、再びそのことを行って、もっと詳しく記述することなのだと思う。/あらゆる方法は、より詳しく語るための手だてである。現実は多様だし、おそらくそこで働いている「連鎖」も多数並行しているだろうから、方法や視点の切り口により違うものが浮かび上がってくるかもしれない。あるいは、おなじものの違う面が出てくるかもしれない。それらを総合しつつ考えねばならないのはもちろんである。そして、再び繰り返すが、その際に、現場にあって、素朴に眺めたり感じたりすることを含めなければならないのである。「再詳述可能性」をどうやって組み入れるのかを考えつつである」(196)

「科学的」な実験による英語教育学に従事していると自負している皆さん、上をどう読みますか。もしこれを、柳瀬はまた他人の説の「お墨付き」を得て得意になっている、としか読まなかったら悲しい限りです。

とはいえ私もまだまだ現場の観察が足りません。どうにかして研究の時間をつくりださねば、と思います。


『現代英語教育』1998年3月号(1998/2/18)

同号の特集「英語教育博覧会」は永久保存する価値があります(願わくば、誰かがそこで「展示」された生徒のノートなどをホームページに画像で掲載せんことを!)

しかし、ここでは何よりも私のような研究者・教師への戒めの言葉として同号から次の言葉を転載しておきたいと思います。

その意味で、自分も含め研究者を自認する人に言いたい。英語教育の最前線たる現場で日々、実践の工夫をこらしている授業者と連帯し、問題意識を共有できない研究なら、実証的研究であっても何でも空虚である。(36)

筆者は研究開発指定校で出された研究報告を集めて、読んでいる。多くの大学教師に共通する感想だが、そこに書かれている「言葉」、現場独特の「言葉」、「表現」が分からないのである。文章を読んでも、全然頭の中へ入らない気がする。/言葉のわかりにくさという問題は、現場教師の側にだけあるのではない。大学教師が使う「言葉」のまた独善的であること、やたらに難解で実質がないことも糾弾されるべきであろう。現場の先生が大学教師の書いた論文や本を読む気がしないというのも、分かる。いわゆる空理空論、スマートな「おしゃべり」、華麗な語彙をちりばめた、ただの文筆力による言葉遊びに過ぎないものがある。(37)

以上、松川禮子さんの特別記事「英語教育研究の未来」より

他方で、ALTとかなり高度な会話をしたり、日夜CNNやBBCを視聴したり、英字新聞や英語雑誌を読んでいるのに、授業では英語をほとんど使わず、生徒にも英語を話させ、書かせて、実際に使わせることを全くしないという英語の先生が結構いるのである。(略)以上の先生方に似たタイプの先生方が、難しい英語教育関係の理論書を読んでいる人達や、「英語教育界」という不思議な世界で活躍している人達の中に見受けられる。教育にたずさわっていながら、生徒に目が向いていないのではないかと感じられる。理論や実践例を多く知っていて研究会などで積極的に発言するが、生徒の様々な活動の姿が見えてこない人達である。(38)

以上、新里眞男さんの特集記事「英語教師はいま何をすべきか」より。

どちらの発言も自戒の言葉としておきたいと思います。


『ことばと学び』(1998/2/18)

お茶の水女子大教育学部教授内田伸子さんによる同書(1996年、金子書房、vii+216ページ)は、語りかけるようなスタイルで書かれた入門書です。忙しい中でなかなか読書の時間がとれない中・高の先生方、そして小学校の英語教育に関係する皆さんに一読をお勧めします。

以下は同書の簡単な要約ですが、注意していただきたいことを予めお知らせしておきますと

(1)要約では内田さんの本が示す世界が、必然的に抽象的な文に集約されますが、どうかその抽象的な要約を読んだだけで、この本が示す世界をわかったつもりにならないでください。大切なのはその要約にいたるまでの世界のありようを広く深く知ることであって、抽象的な表現を徒に操ることではありません。内田さんの本の真価はむしろそのような抽象的な文に至るまでの世界のあり方を描きだしているところにあります。

(2)上のことにも関連しますが、どうぞ抽象的に昇華された結論を安直に「応用」して例えば英語教育実践を行ったりしないでください。失敗したときに犠牲になるのは学習者です(時に教師は失敗に気付かない場合すらあります)。そのような「応用」はいわば演繹思考による行動です。演繹はご承知の通り、最初の命題内容から少しも命題内容が増えないままになされる推論形式です。生半可な理解に基づいてある命題を「応用」するということは、世界をその狭く浅い知の鋳型に強引に入れ込むという愚を犯すということです。どうぞ、まずは同書が示す世界の理解を心掛け、英語教育実践への「洞察」は期待しても、安直な「応用」を試みる愚は避けてください。

それでは要約に入ります。

第1章「学ぶ」では佐伯胖さんや佐藤学さんの指摘などをひきながら、ヘレン・ケラーの事例の再解釈を行い、教室を「教師と子どもとの個のつながりをつくることから始めなくてはならない」(14)ことを指摘します。

第2章「話す」では、「人の表情を読み取り、自分でもそうした表情をする」「生まれたときから赤ちゃんに備わっている」「共鳴動作」(24)を紹介したり、「身振りは環境(内部環境・外部環境の両方を意味している)とのかかわりで出現してくるが、この身振りに身近な大人が、応答を与えてくれるという経験が介在してはじめて伝達の道具、すなわち「身振り語」として機能し始める」(26)といった指摘を通じて、「子どもが言語的なやりとりを通してことばを学ぶということは、単に語彙や文法の習得にとどまらず、一個の人格をもった人間として他者とかかわりあうしかたを学ぶことを意味している。さらに、そのことばを話す人々のものの考え方や感じ方を理解することであり、文化を学ぶことにも通ずるのである」(28-29)という主張を確固たるものにしています。またヴィゴツキーの「外言」(=伝達の手段としての言語)と「内言」(=思考の手段としての言語)の区別を紹介した上で(32)、各種の観察実験の様子を要約し、ことばが行動をコントロールするまでの二つの質的転換期があることを指摘します。一つは「他人のことばによって行動がコントロールされる他律的段階から自分自身のことばが自分の行動をコントロールする自律的段階へ」(35)の転換期、もう一つが「ことばの音刺激的側面が行動のコントロールに関わる段階から意味的側面が働く段階へ」(35)という転換期です。内田さんはまた「言語は思考や認知などの知的機能を支えるだけでなく、自我や意志力の中心的な担い手としての役割を果たすようになる。また、内言が成立するのにともない、自分の中にもう一人の自分が存在するようになる」(35)と総括します。二つの転換期の指摘は、小学校英語教育(特にゲーム実践)を観察する際の一つの仮説的枠組みを提供しているように思えますし、後ろの総括は英語教育における学習者と英語(表現)の関係を反省する視点を与えてくれるように思えます。

第3章の「読み書きする」では、内田さん独自の縦断的調査や他の調査報告などから「幼児期にあっては、文字が学ばれる時期や、文字習得の遅速ということよりもむしろ、読み書きの機能につながるような内面がしっかりと育っているかどうかが問題にされるべきなのではないかと思われる」(66)、「問題なのは、文字を書けるかどうかではなくて、文字で表現したくなるような内面の育ちの方が子どもにとってははるかに大きな財産になるのではないだろうか」(69)と控えめに結論しています。英語教育の世界も、「集束的な思考力」(70)ばかりに着目して「拡散的な思考力」(70)を軽視する傾向があるだけに、看過できない指摘だと思われます。

第4章の「学校文化になじむ」では子どもが書きことばになじむ様子を観察し、「書くことに伴う行動」(73)、と作文をする際の「読み返し」(76)にそれぞれ五つの段階があることを発見しています。その結果言えることは「書きことばで伝えたいことがらを表現するということは、自分自身が考えていることをはっきりと自覚し、対象化して捉えるということを促すこと」(78)と結論します。また岡本夏木さんの「一次的ことば」(=二次的ことば以前の話しことば)と「二次的ことば」(=書きことばを覚えはじめてからの書きことばと話しことば)の区別、および二次的ことばの習得は「苦しくて困難な仕事」という説(79)を批判的に紹介しながら、子どもが主に学校で出会う書きことばが子どもに質的変化をもたらすことを指摘します。また高木和子さんの「言語適応」の研究を紹介しながら、内田さんは「「聞き手にわかるように話そう」「読み手にわかるように書こう」というような意識が自然発生的に出てくるとは考えられない。実際に聞き手や読み手の役割をとることを通じて育っていくものなのだ。子どもにとって「苦しくて困難な仕事」を「楽しくやりがいのある仕事」へと変えていくのは、教師の適切な援助に負うところが大きい」(91)と結びます。

第5章「わかる」では、様々な実験研究、観察研究、教育実践から、「「わかった」と心から納得できるような読みの水準にまで達する」のは「子どもの読みを教師が主導権をもって成否を決めていくのではなく、子どもも教師もいっしょになって、互いの読み方の違いを知り、互いの読みを交流させるうち」(122)にあるのではないかと結論します。内田さんは、ある教育実践のビデオを見て「「教師の介入をなるべく少なく」とは言っても、子どもの読解力が低いうちは教師はかなりきめ細かな介入をするようである。「理解する」というのは字面をなぞればよいのではなく、自分の経験と関係づけて、「なるほど」と心から納得できるまで、経験と文章を行きつ戻りつすることなのだという、一種の読み方のモデルを提供してやる」(120)と総括していますが、この総括も第5章の主張を凝縮している文章なのかもしれません。

第6章「本を読む・映像を読む」では、「本を読む、新聞を読むなどの活動によって言語や論理などの分析的な力が養われる。しかし、映像の情報処理には感性や情緒を培う可能性を含んでいる。言語による分析的な力はこうした感性や情緒の支えなしには十分に機能することはできない。知性と感性が合わさって心は働くことができるのである。知性と感性の両方がよくバランスがとれたときに、人は単なる「理解」を超え、心から「納得して」情報を受け入れることができる」(141)と述べます。(余談ですが、私も以前、いくつかの中学英語教育の実践を見ているうちに「言語表現と非言語表現の棲み分け」が気になったことがありますので、この章も読み飛ばすことができませんでした)

第7章「考える」では、「ことばをつくりだすということは考えていることを単純に反映するものではない。それゆえ、ことばは既成服のように思考に着られることはできない。つまりことばは既成の思考の表現に奉仕するものではないのだ。思考はことばに転化するとき、けずり直されたり変形させられたりする。思考はまさに、ことばによって行われ、実現されるのである」(176)というヴィゴツキーの一節を引用したりしながら、「書くことによって認識が深くなる」ということへの考察を深めています。「考える」「書く」という創造的行為についても私たちはもう少し考察を深めなければならないようです。

その考察は第8章の「想像する」につながり、最後の一節である「学校のあり方、先生の支援の仕方が明日に向かって一歩ずつ前進し、社会や文化をも前進させる想像力豊かな人格へと子ども自身が成長するかどうかの鍵を握っているように思われる。そのためには、先生方が、子どもたちの心の中で今何が、起こっているか、何に葛藤を抱いて迷っているのかを推測できるような、豊かな想像力の持ち主になることが不可欠なのではないかと思う」(211)へと至ります。

全体を通じて表現は平易で、内田さんの研究者と教育者の両方としての姿勢が伺える良書となっています(注)。英語教育の世界では、どうも理論言語学の「応用」としての心理言語学/言語心理学や、実験系の心理言語学の研究に従事する人は多くとも、長時間の現地調査が必要な発達心理学的研究に従事する人はまだまだ少ないようにも思えます。この偏りを是正するためにも同書のような発達心理学系の書物の読書は私たちにとって必要なことではないでしょうか。

内田さんもいうように「子どもたちは、今とても疲れて」います。小学校への英語教育導入が、一層子どもたちを疲れさせ、子どもたちの世界を荒廃させることにならないようにするため、私たちはもっと「ことばと学び」の世界について理解を深める必要があると思います。これをお読みの皆さんも、この要約をさらに引用して物知りを気取ることなく----そんなことないか(^^;)----ぜひこの本や類書を熟読し、世界をより広く深く観察するきっかけとしませんか。

自戒の言葉なのですが、観察の裏付けのない観念的な言葉の暴走を私は怖れます。

(注)学術研究書ではない入門書とはいえ、同書の文献情報の提示は親切でないありません。これはこの良書の数少ない欠点の一つだと思います。


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