書評01

このファイルは柳瀬が1997年11月2日から1998年2月11日にかけて読んだ英語教育に関連した本に関しての私的ノートです。

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育研究を推進する立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。

もしコメントがありましたらyanase@ns1.shudo-u.ac.jpまでお願いします。


『言語ゲーム一元論』を読んで(1998/2/11)

黒崎宏さんによる『言語ゲーム一元論----後期ウィトゲンシュタインの帰結』(1997年、勁草書房、220+xiiページ、2400円)を読みました。後期ウィトゲンシュタインの主張を的確にまとめた良書だと思います。同書の主張は次の引用に凝縮されるかとも思います。

我々の母なる大地は、この言語ゲームの世界であって、全てはそこにおいて考えられねばならない。そして、そこにおいて我々がなすべき事は、そこにおいて使われる言語の使用を<展望>し<記述>することである。我々はこの仕事を<文法の探求>と言う。かくして我々の仕事は<事象>の探求から<文法>の探求になるのである。(vi)

科学は、現象のいわば「consist in」の探究であるのに対し、哲学は違う。哲学は、言うなれば、現象を表す言葉の使用----言語ゲームの世界における具体的使用----を展望するのである。前者は「分析的」であるのに対し、後者は「展望的」なのである。我々は、哲学のこの仕事を<文法的>と言うのである。したがって我々が<文法的>と言うときの「文法」は、言語学におけるいわゆる文法とは全く違う。言語学におけるいわゆる文法が、どちらかと言えば、解剖学的であるのに対し、我々の言う文法は生態学的なのである。(vii)

抽象的すぎるでしょうか。それならば発話(「彼は痛いのだ」)の「意味」について述べた次の文章はいかがでしょう。言語学流の考えとは少し違う意味論を味わってみてください。

しかし勿論、その<痛みの振る舞い>が彼の<痛みの感覚>ではありません。我々は彼の<痛みの振る舞い>を根拠に「彼は痛いのだ」と言うのです。このような場合、我々は彼の<痛みの振る舞い>をその言明の「規準」と言います。ここで大切な事は、規準は意味ではない、という事です。「彼は痛いのだ」という言明は、<彼はしかじかの振る舞いをしている>という事を意味しているのではありません。(略)では、「彼は痛いのだ」という言明は何を意味しているのでしょうか。我々はここで、「彼は痛いのだ」という言明は何々を意味しているのだ、という形で、その<何々>を求めるべきではありません。我々は、我々の生活の中で「彼は痛いのだ」という言明が使えればよいのです。自分でも使え、また、他人の使用を理解できればそれでよいのです。(18)

「うーん、わかったような、わからないような。それにしてもなぜこのような議論が必要なの?」といったところでしょうか。実際私も以前はそのような感想をウィトゲンシュタインさんの哲学全体に対して持っていました。でも自分自身がどんどん心理言語学的アプローチの実験研究を重ね、それによって現実の英語教育の営みをよりよく理解するどころか、余計にどんどんと現実から離れていくことに気付いてから、ウィトゲンシュタインさんの言葉が無視できないものになってきました。ひょっとしたら言語学研究や心理言語学研究が対象にしているものは<虚構>ではないのかと思いはじめたのです。ウィトゲンシュタインさんは次のように自己問答します。

「それでも君は、結局は偽装した行動主義者ではないのか?それでも君は、基本的には心的事象を認めず、人間の振る舞い以外は全て虚構である、と言っているのではないのか」と言われるかもしれない----しかし、それは私についての誤解である。もし私が虚構について語るとすれば、それは文法的虚構について、なのである。例えば、<語の意味としての心的事象>という像は、文法的虚構であろう。しかし私は心的事象そのものを虚構であるとは、思っていないのである。(『探究』307節)

我々は、心的事象そのものを否定しようなどとは、思いはしないのである。(『探究』308節)

哲学における君の目的は何か? ---- それは、蠅に蠅取り壷から脱出する道を示してやる事である。(『探究』309節)

言語学における意味の「表象」、心理言語学における「心理過程」、脳科学における「脳内の状態」は、それぞれ心的事象として想定し、それを対象に研究することはもちろんできます。しかし、大切なのはそれらの事象の解明が、私たちの目標である英語教育の理解に役立つか、ということです。もしそれらの心的事象にこだわることによって私たちが英語教育の現実から逆に離れてしまうのなら、それらの心的事象は、(心的虚構ではないにせよ)文法的虚構として、きっぱりと捨て去ること、あるいは言語学者・心理学者・脳科学者に任せてしまう方が賢明なのではないでしょうか。

英語教育研究者の責任とは何なのでしょうか。心理言語学的方法をもっぱらの英語教育研究の方法としている英語教育研究者が、どのような<展望>を持っているのか皮肉でなく知りたいところです----でも、「一歩一歩やってゆけばやがて真理に到達する。なぜならこれは「科学」だからだ!」などというあまりにもナイーブな考えや、「まだ未熟かもしれないが暖かい気持ちで科学研究を見守ってあげよう」などという「教育的配慮」の言葉ならもう結構です。私が志向しているのはこの場合学問的論争だからです----。

とはいえ<文法的虚構>とはいま一つよくわからない。例えば意味の「心的表象」は必要な概念ではないか、とお考えの方も多いかもしれません。そのあたりを黒崎さんは、ウィトゲンシュタインさんの有名な「かぶと虫のたとえ」(『探究』293節)を引用しつつ、「必要な過剰」という言葉でもって解説します。特に86ページの解説など秀逸なものだと思いますので、ご興味のある方にはご一読をお勧めします。

「それにしてもウィトゲンシュタインさん(の威を借りた柳瀬)は否定的で破壊的なことばかり言っている。英語教育研究の発展のためにはもっと暖かい建設的な論考をするべきだ」----こういう批判は実はよく聞きます。ウィトゲンシュタインさんはこのように答えています。

我々の考察は、その重要性を一体どこから得ているのか。何故なら、我々の考察は、ただ興味ある全ての事を、即ち、偉大にして重要な事の全てを、破壊しているように見えるから(言わば、あらゆる構造物を、ただ瓦れきと塵芥のみを残して、破壊しているように見えるから)。しかし、我々が破壊しているものは、単なる幻影なのである。我々は、幻影を破壊することによって、幻影に占領されている言語の地盤を、露にしているのである。(『探究』118節)

私にしても、私の一連の心理言語学的英語教育学批判は、そういった研究によって占領された土地を更地にして、新しい、本当に現場のためになる建築物をつくるためのものです。今度もまた「英語教育達人セミナー」といった(業績にもお金にもならない!(^^;))集まりに行くのは、私の中にできた更地にとりあえずの小屋を建ててみるためです。いつかそういった試みは「英語教育研究のリエンジニアリング」という建築物に集積したいと思っています。

追記:同書の「ウィトゲンシュタインとフロイト----精神分析は科学であり得るか----」という章も英語教育研究の点からみて非常に興味深い論考です。いつかこれは私なりにまとめられないかなとも考えています。そういえばハーバマスもいわゆる『コミュニケーション理論』の本の中で確か精神分析を扱っていましたよね。英語教育の研究者は、人文・社会分野から多くを学びうると思います。自然科学だけが学問のスタイルだというのは偏見(認識不足)あるいは劣等感にすぎないと思います。


『2020年からの警鐘3』を読んで(1998/2/10)

同書(日本経済新聞社)を読みました。以下は印象的な文章の抜粋です。なお同書の1から3の文章をまとめたファイルをごらんになりたい場合はここをクリックしてください。

2020年。日本は高齢化や少子化で人口が減りだしている。経済のグローバル化は一段と進み、地球環境問題も深刻さを増しているだろう。それがみんな一緒にやってくるのに、日本は国の活力を失い、備えができないでいる。子供や孫達に夢のある社会を引き継ぐには、この国をどうつくり直せばいいのか。具体的な処方箋を書くよりも、国のありようを根本から問い直すことに力を注いだ。たどりついたのは、われわれ一人一人が自らを改革しないうちはこの国は再生しないということである。官と民、中央と地方、企業と株主・従業員といった関係を一新する。それが2020年に向けた改革だとすれば、最後は個人の生きざまとか、精神のありように行き着く。(『警鐘3-141』)

国際化時代を迎えながら海外勤務に消極的な勤め人が多いといわれるが、アンケート調査も、それを裏付ける結果になった。「勤務地は国内、海外どちらを選ぶか」の質問に、回答者の71.2%が国内と答えた。男女別では、男性が75.2%と女性の64%を10ポイント以上も上回り、国内志向が強い。若い世代ほど海外志向が強く、20代後半の女性は41%が海外を選んだ。(『警鐘3-67』)

97年11月上旬、横浜市の神奈川大学で開かれた留学生スピーチコンテスト。明治学院大学3年の中国人留学生、姜慧(22歳)は「沈黙する羊たち」と題してこんな体験談を話した。大学のゼミ。ある学生の発表に姜さんが質問すると、手元の教科書や参考書を読むばかり。「あなたの意見を聞きたい」と食い下がると、下を向いて黙り込む。ほかの学生もむっつりとしたままで、別の意見が出るわけでもない。最後は教授がたまりかねて助け舟を出してゼミは終了。当の学生は「キツーイ」と言いながら、苦笑いして教室を出ていった。あまりモノを考えていないのか、自分の意見を言わないし、わからないことがあっても口をつぐむ。これでは他者とコミュニケーションができないし、自分を高められるはずもない。「おとなしいだけの羊と同じ」。姜さんはそう思った。(『警鐘3-129』)

日本の若者を羊にたとえる姜さん。スピーチの最後にこう言った。「留学生はみんな、日本の学生を“かわいそうな人たち”と呼んで、交流するのをあきらめている」。大学生たちは、これをどう聞くだろうか。(『警鐘3-132』)

2020年にはそれでなくても「学歴」の価値は下がる。企業は何より、能力を基準に人を採用する。経済のグローバル化で国籍もそう問題にならなくなるだろう。そこでは、モノを考えず、学力も乏しい「学士」は競争力がないに等しい。学生だけではない。そんな「学士」しか送り出せない大学も、少子化で激しくなる生き残り競争に勝ち抜けない。外国の大学を相手にしたらなおさらだ。(『警鐘3-131』)

世界の中で、日本が比較的優位で輸出できるのは、感性というか、感じ方の特徴ではないか。例えば、今の若い人たちの音感は非常に近代的、西欧的でありながら日本的なところがある。そういう感覚が産業にも表れて、耐久消費財でも優れた物を作っている。日本人のこういう感性を輸出するできるようにするには、論理化の過程がなくてはならないが、そこが日本人は弱い。要するに日本人はまじめに議論していないのだろう。多文化の中で一つ選ぶには、自らの文化や感性といったかなりベーシックなことを、もっとじっくり考えていかなければならない。そうでないと、日本は他の文化と共存できないのではないか。(『警鐘3-225』)

ギスギスした競争をするより、官に仕切ってもらってみんな仲良くやろう、苦しくなったら助けてもらえばいい。そうやって「官主国家」をつくり、族議員をはびこらせ、果ては借金まみれの国にしてしまったのはわれわれ市民である。日本的雇用のなかで他人と競い合ったり自立したりしようとせず、企業の競争力を削いでいるのもわれわれ勤労者なのだ。(『警鐘3-142』)

取材班に読者からこんな投書が届いている。「政治家も官僚も悪いが、一番悪いのは投票にも行かず、何かあれば国に頼るか、非難するしかできない国民自身だ」。手ごたえはある。日本が危機的状況に陥った今こそ、次の世代のためにも、一歩を踏み出そう。(『警鐘3-144』)


『ボランティア----もうひとつの情報社会』を読んで(98/1/11掲載)

研究社の雑誌『現代英語教育』の2月号に『ボランティア----もうひとつの情報社会』(金子郁容さん、岩波新書)のことを書かせてもらいましたので、ここではその補足をしておきます。

「ボランティア」というテーマの同書をとりあげたのにはいくつか理由があります。

(1)ボランティアとは対等な人間の間で(のみ)成立するものです。ボランティアの関係では、助ける側もその善意を拒否されるかもしれず、自分の善意がかえって相手の迷惑になるかもしれないという懸念を抱きながら行動します。英語にかかわらず学校教師というのは、しばしば自らの善意の力を過信しているのではというのが私の意見です。ですから『現代英語教育』(97年4月号)でもかつて雑誌『噂の真相』を勧めたりしました。

(2)同書はボランティアを社会構成という点からも考察しています。その中でアダム・スミスさんの考えを金子さんは次のようにまとめます。

ただし、スミスの主張したのは、各自がそれぞれ、まったく勝手に利己心を追及すればいいという単純なものではない。スミスの研究活動の動機は、絶対権力による支配という硬直化した旧秩序に代わって、人々が、それぞれ自分の能動性と創意を発揮することが許され、それでいて全体として破綻しないような新しいタイプの社会秩序が可能であるということを示すということであった。

私は『現代英語教育』(97年6月号)では『日本/権力構造の謎』や『不機嫌な時代』を紹介して、少なくともこれらのオランダ出身のジャーナリストやイギリス出身の金融アナリストは、日本のシステムの綻びを痛切に感じていることを訴えました。しかしそのように訴えると、よく返ってきたのは「でもどう変わればいいというのだ」とか「今の秩序が崩れて自由社会/市場社会の考えが徹底すると日本は混乱するだけだ」といった反応でした。「自由社会」や「市場社会」の前提としてのボランティアという考えは、私たちが今後急速に学んでゆかなければならないことなのではないかと思います。

(3)同書はその副題を「もうひとつの情報社会」としています。『現代英語教育』8月号と10月号でお勧めした雑誌『WIRED』や『トム・ピーターズの経営破壊』を読んでいただいたらよくわかるのですが、情報社会は個人個人の自発的な創意工夫・提案・援助を網の目として広がっているものです。ボランティアは自由社会、市場社会のみならず、情報社会の前提でもあると思います。

(4)もちろんそんな自由社会、市場社会、情報社会を別の面から見れば「パラノイアしか生き残れない」(インテルのグローブ会長、ちなみに97年のTIME誌のMan of the Yearは彼でしたね)激しい競争社会でもあります。その競争社会を人間的、文化的な競争社会にするためには、一人一人が人間として心に感じたことに素直に勇気をもって行動する必要があるでしょう。その意味ではボランティアは現代社会に必須のものといえるのかもしれません。

「ボランティア」は学校の世界にも入りはじめ、一部には「ボランティア」が事実上「必修」のようにもなっているところもあるとも聞きます(詳しくは知りませんので、間違っているかもしれません)。「ボランティアは良いことだから必修にするべきだ」という意図(善意!)はわからないでもないのですが、やはりどこかひっかかってしまいます。英語教育界はある意味で「コミュニケーション」という言葉を薄っぺらなものにしたのではないかと私は常々思っています。私たちがよってたかって「ボランティア」という言葉まで薄っぺらなものにしてしまわないように留意しなければならないと思います。

美しい日本語で書かれた本でもあります。ご一読をお勧めします。


『思想としてのパソコン』を読んで(97/12/14掲載)

西垣通さんによる同書(NTT出版、298ページ、3300円)を読みました。情報化社会の問題を「いかに」というハウツーだけで考えて、「情報化社会のビジョンづくりは他人まかせ」にすれば「ただそこで巧みに立ち回る術のみを求める、精神的隷属状態に陥りがち」になると考える筆者が、パーソナルコンピュータの設計思想を築きあげた7人の論文を集めた本です。これからの英語教育を考える人には一読をお勧めします。

序章で西垣さんは、従来のメインフレームの関係者があくまでも人AI( Artificial Intelligence)を志向していたのに対してパソコン関係者はIA(Intelligence Amplifier)を志向しているという根本的な違い(--しかし両者は深いところでは通底している--)を明らかにします。

IAの思想が最も明確に述べられているのが第4章のエンゲルバートさんによる論文です。IAとは「複雑な問題状況にアプローチし、自分の必要に応じた理解をし、問題の解答を導くという、ヒトの能力を増すことを意味」(149)します。ですがエンゲルバートさんの独創的な点は、機械の能力とヒトの能力を同じ次元で考えるシステム工学的モデルです。西垣さんのまとめを引用しますと、

エンゲルバートはヒトの能力が「H-LAM/T」というシステムの中ではたらくととらえる。Hはヒト(Human)、Lは言語(Language)、Aは人工物(Artifacts)すなわち道具、Mは行動を組織立てる方法論(Methodology)、そしてTはLとAとMを効果的に運用するための訓練(Training)である。単にヒトの能力が言語や人工物によって増幅されるという常識的な見方ではない。ヒトも人工物もH-LAM/Tシステムの物理的部分にすぎないのであって、システムの能力は両者の結合能力に依存するというわけだ。(28)

ヒトの知性の働きを相互作用的全体(Interacting Whole)(159)としてとらえるのが、このH-LAM/Tシステム(Human Using Language, Artifacts, and Methodology, in which he is Trained)(156)なのです。この点で英語教育の実践はどのようにとらえられるでしょうか。ひょっとしたら従来の「言語学習」の延長上でしかコンピュータを使いこなしていないという実践も多いのではないでしょうか。そもそもUsing LanguageどころかLanguageにしか興味がなく、実世界でのArtifactsやMethodologyにあまり関心が向いていなかったということはないでしょうか。ましてやLanguage, Artifacts and Methodologyを同時に相乗的に用いる訓練などには思いすらはせていなかったとはいえないでしょうか。英語「を」勉強し、コンピュータ「を」勉強し、ディベート「を」勉強しても、それらを全体的に使いこなすという新しい生き方を私たちは教えてきたのでしょうか。それどころか、極言をするなら、私たち自身が英語に、コンピュータに、はては ディベートに「精神的隷属」しているとは言えないでしょうか。

第5章ではネルソンさんが「設計」の思想について語ります。

西洋思想の中心的な伝統は、あらゆる観念に含まれた意味を明確にとらえようとしてきた(正確な意味がなさそうな概念、そしてまた不透明な状況を好む人々が、人文科学や「ファジー研究」に群がる。しかし、もともと意味があいまいなものごともある。ここには集団的な概念(「民主主義」や「女らしさ」といったこと)や設計思想「えーと、たぶん何とかして折り返せるだろう」といったこと)が含まれる。伝統的思考によれば、このような概念は、不適切に定義されたとか、不完全なものと言われがちである。ここでは言い回しを変え、意味の厳密でない原理を「柔軟な」原理と名づけたい。

これはものごとに新しい見方を与える。柔軟な原理をただの「未完成」とせずに、むしろもう一つの論理カテゴリーと考えよう----従来の固く厳密な原理とある程度類似しているが、演繹の対象にならないものと考えるのだ。(220-221)

ネルソンさんの言葉を続けますと、柔軟な設計とは「結果がつねに期待通りになると信じ込まず、意外なものが派生してきてもいつでも理解できるようにすること」(222)です。したがって

最終決定される原理は必ずしも、あらかじめものごとはこうあるべきだと定められた厳密な意味では、いわゆる「論理的な」ものでなくともよい。しかし、柔軟な形式で考えながら、そこでの相互関係はつじつまが合うように丹念に検討されるべきなのである。

設計者は、ユーザーが自分と同様でなければならないという先入観を一切捨てるべきだ。ユーザーは設計者と似ていれば報いられるが、そうでないとひどい目にあう。そういう設計をする設計者が多すぎる。目的はユーザーの役に立つことであり、自分の複製を想定してはならない。

バーチャリティ設計は、本質的に、操作の原理を設計することである。その原理の設計は、したがって柔軟な原理の生成、修正、相互形成とかかわってくる。

しかし、設計における最大の問題は、設計者があまりに性急に特定のルールや取り決めを定めてしまいがちなことだ。技術指向の人々は、ともすると一つ二つの原理にこだわり、終始しがみついて、構想を練り直す時期がきてもわからずにいる。

それどころか、技術屋にはこのバーチャリティという立場からの意見に対して聞く耳をもつ者すらわずかであることを、苦い経験で思い知らされた。柔軟なバーチャリティ設計は、技術の熟練とはまったく相いれないようだ。

インタラクディブ・システムの設計者は、たいてい技術に熟練しているが、技術に熟練すると、概して取り組む対象がキチンと定義され確定したものだという先入観をもつようになる。

これにたいし、芸術や創造的分野に熟練すると、デザインは(あるいは文章や映画は)流動的でさまざまな形をとり、何度も練り直してようやく最終状態にたどりつくが、それは前の段階のものとは似ても似つかないものとなりうる、と考えるようになる。後者の態度のほうが、インタラクティブ・システムの設計によほどふさわしいのではないだろうか。(223-224)

引用がやや長くなりましたが、皆さんは上の文章をどのように読まれました?私は何よりも私たちにとっての「インタラクティブ・システム」である授業の設計に関する文章として読みました。また論理演算とは別の形をとる知的活動としての芸術の意義を表現した文章として読みました。英語教育にはまだまだ問い直されるべき前提が沢山あると思います。

追記:私はこのようにもっぱら理屈ばかりで考えていますが、もちろんのこと世の中に本当に喜ばれるのは優れた実践です。その点で香川県教育センターの平尾さんの実践をご紹介します。不完全な翻訳ソフトを敢えて批判的に使いこなすという点を私は面白く思いました。(http://tokyoweb.or.jp/bike/ken's/hirao.html)。

追追記:パソコンとは言うまでもなくパーソナル・コンピュータの略ですが、日本の実践においてはコンピュータがあまり"personal"になっていない事例が多いようにも思えますがいかがでしょう。「守・破・離」で言いますと、マニュアル解説本のような「守」に関する記述は多くとも、パソコンを敢えて違うように使ってみる「破」の実践や、コンピュータを特段意識することなく使いこなしている「離」の段階の実践はまだまだ少ないように思います(少数の例外があることは熟知しています)。かくいう私も98年度前期の授業(夜間部短大)ではパソコンを全面的に使う予定ですが、どこまでパソコンを使いこなせるか、学生さんと一緒に試行錯誤してゆこうと思っています(案外「守」の段階でとまどうだけだったりして(^^;)。


『われ笑う、ゆえにわれあり』を読んで(97/12/04掲載)

お茶の水大学で哲学を教える土屋賢二さんによる『われ笑う、ゆえにわれあり』(文春文庫、261ページ、438円)の「はじめに」は次のように始まります。

以前から書きとめていたものがかなりの量になり、出版をしきりに勧めてくれる人がまわりにいなかったので、自分から出版を交渉した結果がこの本である。事前に何人かの人に読んでもらったところ、「面白くない」と言う者と、「つまらない」と言う者とに意見が分かれた。なお、公平を期すために、「非常にくだらない」という意見もあったことをつけくわえておこう。

ここまで読んで思わず吹き出してしまった人、すぐ本屋に走りましょう。クスリともしなかった人、お時間とらせました。そうです、世界には真剣に考えなければいけない問題が沢山あるのです。特に英語教育(研究)の世界はそうです。悪いのはすべて私です(^^)。


『知性はいつ生まれたか』を読んで(97/11/27掲載)

理論神経生理学者のウィリアム・カルヴィンさんによる同書(草思社、310ページ、1900円)は話題も多岐におよび、英語教師にとっては必ずしも読みやすい本ではありませんが、そのテーマの理解は私たちにとっても有益だと考えましたので、以下には同書の中心テーマを私なりにまとめてみました。

同書(原題How Brains Think)での主要な原理はダーウィン的プロセスです(307)。ダーウィン進化論の考えは自己組織性の考えにもつながるものですが、今だに多くの人から誤解されているとカルヴィンさんは考えているようです。「心にたいする機械論的なアプローチが、長いあいだ本質的な論点を隠してきた。(中略)時計のようにすばらしい人工物をつくるには、当然それを考えだすすぐれた設計者が必要であると考えられてきた」(12)とは彼の言葉です。こういった私たちの思い込み(構築者的合理主義)の誤謬については、私はハイエクさんの哲学(自生的秩序/進化論的合理主義)によって学びましたが、皆さんはいかがでしょう。もしまだこういった考えにおなじみでなかったら、ハイエク哲学について学ぶ(最良の解説書として、渡辺幹雄さんによる『ハイエクと現代自由主義』春秋社をお勧めします)か、ダーウィン進化論について学ぶ(私は決して進化論の専門家ではありませんが、私のイチオシはリチャード・ドーキンスさんによる『ブラインド・ウォッチメーカーズ(上)(下)』早川書房です。ぶっとぶぐらい知的にスリリングな本です)ことをお勧めします。最近の認知理論にはダーウィン理解が前提となっているような本が多いので敢えてお勧めする次第です。

カルヴィンさんは、彼なりにダーウィニズムを6点にまとめます(192-194)。ですが以下の番号によるまとめは、柳瀬によるものです。

(1)パターンを含む(典型例は遺伝子だが、ドーキンスさんによる「ミーム」もここでいうパターンに入ります。カルヴィンさんは「ミーム」のパターンは、思考と結び付いた脳の活動パターンかもしれないと言います)

(2)クローンが作られる(細胞分裂から人間の模倣にいたるまで、生物は複製を繰り返します)

(3)パターンがしばしば変化する(突然変異、複製の際のエラー、リシャッフルの際の混成によってパターンが変化します)

(4)コピー競争がおこる(限られた環境空間を占有するため、数々の変異体は競争的にコピーを繰り返します)

(5)変異体の相対的な成功が多面的な環境の影響を受ける(ダーウィンのいう「自然選択」が変異体の繁殖に影響を与えます)

(6)次世代の性質は、どの変異体が繁殖可能な年齢まで生き残って配偶者を見つけられるかに基づく。

これが英語教育(研究)とどう関係あるのかといぶかる読者の方も多いかもしれません。しかしダーウィニズムが自己組織性などと同じように一般理論なのだとしたら、英語教育(研究)にもインパクトはあると考えられます。例えば、まだこれは単なる思いつきに過ぎないのですが、模倣による言語習得の過程を上の(1)-(5)で説明・記述することは可能ではないでしょうか(言語習得で(6)をどう考えたらいいのかは私は今のところ見当がつきません)。言語習得研究に詳しい方、ダーウィニズムは言語習得研究の中でどう扱われているのでしょうか。どなたか教えてくださいませんか?(たしか最近Communication and Evolutionとかいう本が話題になっているようですが・・・)

カルヴィンさんは同書の試みを次のようにまとめます。

ダーウィン的プロセスは、少なくとも生物学者のあいだでは、一つの創造のメカニズムとして広く理解されている。1000年単位で無秩序な変異から質の高いものを形づくる場合に、そうしたコピー競争がいかに強力かを理解するまで、たっぷり一世紀もかかってしまった。ここ数十年で、その同じ過程が日単位や週単位で機能するケースもたしかめられるようになった。免疫反応がより適合する抗体をつくりだすような場合である。この新皮質のダーウィン・マシンがミリ秒から分単位で動くことができるのは、単に時間スケールが変わったためにすぎない。われわれは、ダーウィン的プロセスが達成しうることに関して理解したことを、進化生物学と免疫学から、思考と行為の時間スケールへと適用の範囲を広げなければならない。

われわれの精神生活に関するウィリアム・ジェイムスの見解は、長いことなおざりにされてきたように思う。しかし、科学者を含む多くの人々が、ダーウィニズムとは単なる適者生存論であるという、薄っぺらな見解を支持しつづけている(遺憾ながら、ダーウィン自身も自分の理論の柱となる六つの本質のうちで、五番目だけを自然選択と呼んでこのような混乱に寄与している)。私が本書でしようとしたことは、ダーウィン的プロセスの本質のすべてを一つにまとめ、進化が加速される側面もあわせて、そのようなプロセスを霊長類の大脳新皮質で実行する特異的な神経メカニズムを描き出すことにあった。(278-279)。

もとより理論の安直な適用に関しては警戒するべきですが、英語教育・学習の現象を虚心坦懐に観察すると、案外ダーウィン的プロセスが見い出されるのかもしれません(このテーマについてはもうちょっと温めて育てることはできないかとも思っています。まだまだ五里霧中の段階ですが・・・・)

追記:同書の70ページは「解釈の水準」について述べています。

ものごとを要素に還元すること----物理学者たちの合言葉----は、要素が体系のなかの適切な水準にあるかぎり、すぐれた科学的手法だ。だが、熱心に還元しようとするあまり、意識物理学者は、科学の幅広い特徴の一つである「解釈の水準」(しばしば「メカニズムの水準」と関係がある)についてはまるで聞いたことがないかのようにふるまう。認知科学者のダグラス・ホフスタッターは、水準について適切な例を示している。彼は、交通渋滞の理由は、一台の自動車そのもの、あるいはその構成要素には見い出せないと指摘する。交通渋滞は自己組織化の一例で、のろのろ運転が極端な形の疑似安定----交通渋滞のような、システムの一時的な安定状態----を完成したときに、より存在が認めやすくなる。交通渋滞は、自動車の構成要素の欠陥によって引き起こされることもあるだろうが、「点火プラグの欠陥」では、分析の水準としてあまり適切だとは言えない----合流、適当な車間距離、運転手の反応時間、交通信号の設置、そして運転手が坂道でアクセルを踏みそこねたことなどのほうが、明確な分析に適している。(70)

英語教育研究にとって適切な「解釈の水準」とは何なのでしょうか。そろそろこういった基本的なことをきちんと整理しませんか?(ちなみに、上にも出てきたホフスタッターさんの『ゲーテル・エッシャー・バッハ』(白揚社)はお読みになりました?『ブラインド・ウォッチメーカーズ』もぶっとぶぐらいの凄い知的パワーをもった本です)

追追記:同書の最終章ではAIの今後について語っていますが、この話題に関してはM.モラヴェックさんによる『電脳生物たち----超AIによる文明の乗っとり』(岩波書店)をお勧めします。本当に凄い時代(になりそうだ)だと思わされる本です。

追追追記:「音楽は、脳がどのようにはたらくかを、自分に説明するために行う努力だ。バッハの音楽はわれわれをとりこにするが、これは人間の心を聴いているからである」(200)----カルヴィンさんは神経生理学の議論の中でこの引用を出しているのですが、私はその議論の流れとは完全に独立して、この引用に捉えられ、とりこになりました。私って軽薄?


『心はどこにあるか』を読んで(97/11/24掲載)

すぐれた哲学書は、今まであまり念頭にも浮かばなかった疑問を投げかけることによって、私たちの問題理解をより広く深いものにすることを助けてくれます。ダニエル・デネットさん著、土屋俊さん訳『心はどこにあるのか』(草思社、294ページ、1900円)は、哲学者のデネットさんが、様々の具体的な科学の知見に基づいた「心の哲学(philosophy of mind)」を展開する試みの書です。

邦題は「心はどこにあるのか」となっていますが、原題はKinds of Mindsです。個人的には、「さまざまな種類の精神」あるいは「さまざまな知性」と訳した方が、同書の試みをよりよく表現できたのではないかとも思いましたが、もちろん訳者には訳者なりの深い配慮があったのでしょう。

「哲学」というと一部の人は聞いただけで毛嫌いしてしまいますが、優秀な科学者は必ずといっていいほど自らの研究のなかで哲学的問題を扱っていると私は認識しています。哲学を表面的に毛嫌いするならだけならともかくも、哲学的思考を一切拒否するなら、その科学者は、科学的思考を一切拒否する哲学者同様、優秀な研究者とはいえないと思います。

同書は、さまざまなmind(s)のあり方を示し、過度に単純化された科学的/哲学的理解によって、私たちが物事を捉え損なうことを防いでくれます。

第1章は、同書が進化論的視点をとることによってmindsのありさまについて説明を試みることを宣言します。第2章では、デネットさん自身はこの表現を使っていませんが----これは彼の意図的戦略なのでしょうか----「自己組織性」の原理を説明し、人間にしても、「何兆もの巨大分子機械の集合物」(51)でありながらも"mind"を持つ(としか考えられない)存在であるという一見矛盾するような事態を説明します(ちなみに、デネットさんは"mind"を想定することがナンセンスではない存在を包括的に「志向的システム」(56)と呼んでいます)。私たち人間にしても、さまざなな動物にしても自らきちんとした説明ができない(明示的なrepresentationをもたない)ものの、進化の過程を経て得た行動原理をもっているわけです(デネットさんはこういった行動上の根拠を「自由浮遊的根拠」(97)と呼びます)。

第3章では「機能主義」の考え----なにかを心たらしめるのは、それがなにから構成されているかではなく、なにかをすることができるかである、という考え(125)----の基本的正しさを認めたあとで、それが過度に単純化されて、人間の身体的要因を軽視しすぎると、俗流の心身二元論に舞い戻ってしまい、脳を特権化した臓器とみなしてしまう心脳同一説につながると指摘します。第4章以下でデネットさんが明らかにするようにそのような考えはmind(s)のあり方をうまく説明できません。

第4章ではさまざまなmindsのあり方を、情報処理の進化の階層に基づいて区別します。上の議論ででてきたような、mindが脳だけに限定される生物は、低次の知性しか発揮できません(これが心脳同一説を人間の研究に適用することが不適切である理由です)。デネットさんは、mindに関する理論家にちなんだ生物分類の命名を行います。第一の種類は「ダーウィン型生物」(150)で、選択された遺伝子型によってのみ行動が規定されます。第二は「スキナー型生物」(153)で、遺伝子に加えて、試行と強化によって行動が規定されます。第三は「ポパー型生物」(157)で、行為の選択肢を事前に検討する内部的選択環境を持つことによってより安全に行動します。愚かな試行で自らの命を失うことなく「仮説がかわりに死んでくれる」(155)わけです。第四は「グレゴリー型生物」(175)で、それは自らの環境にさまざまな「道具」を見い出し、作り出すことによってmindを強力なものにします。その最大の道具が言語であり----ちなみに、古い本では「言語は道具である」という考えがもっぱら否定的に取り扱われますが、「人間は道具を使いこなしながらも、同時に道具によって人間自身がつくられている」というのがハイデガーさんや認知科学研究の指摘です----、この言語という道具により、人間は他者の経験をも自らのものとすることができるようになったのです(ちなみにウィトゲンシュタインさんも『確実性について』で同様の議論をしています)。

こういった分類は、決して議論のための議論ではありません。英語教育にしても「英語教育理論は人間を上の分類のどの種の生物として扱ってきたか」という視点から捉え直すことができるでしょう。「こいつらの頭では無理だ(!)」という乱暴な意見はダーウィン型生物としてしか学習者をみていないといえるでしょうし、パターン・プラクティスの安直な適用は(言うまでもなく)スキナー型生物としての把握でしょうし、現在の英語教育の主流にしても、せいぜいポパー型生物としての把握にとまっているといえるでしょう。英語教育でのコンピュータ実践も、グレゴリー型生物の把握をしていないものが大半だ、というのが私の意見ですが皆さんはどうお考えですか。

第5章では、上の議論に基づいて、「人間が高い知性を持っているのは、自分の認知作業を、可能な限り環境そのものにゆだねてしまう習慣があるためである。つまり、外界につくった一連の周辺装置に心(いわば知的活動)を代行させてしまうのである。装置は人間の思考の変化の過程を整理し、強化し、保護しながら、意味を蓄積して処理し、再表現してくれる。広く行われている「ゆだねる」という習慣が、動物としての人間の脳の限界からわたしたちを解放してくれているのである」(225)といった主張がされます。こういった生物にとって「外部環境」と「内部環境」の境界線は、必ずしも皮膚である必要はなく、「それはむしろ、可搬的であるか、そしてそれゆえ偏在[柳瀬注:「遍在」の誤り?]的であるか、それゆえ制御しやすいか、よりよく知られているか、そして主体にとって役に立つように設計されることが多いかというような基準によって区別される」(236)わけです(cf橋田さんと松原さんの制約理論)。デネットさんはさらにこう言います。

人間は「目印」や「索引」[柳瀬注:言葉による概念などを指す]を脳のなかに保管し、実際のデータはできるだけ外界にあずけてしまう。住所録から図書館、コンピュータ、そして友人の輪まで、あらゆるものが利用される。人間の心は脳に限定されていない。それどころか、万一、外的な記憶の道具を奪われてしまったら、いちじるしく能力が失われるだろう。少なくとも、眼鏡を取り上げられた近視の人と同じくらいの障害を感じるだろう。データや道具を外界にゆだねてしまえばしまうほど、ますますその周辺的な道具に頼らざるを得なくなるのである。しかし、練習を重ねて、道具がうまく使えるようになれば、人間は道具がなくてもやっていける自信を持つようになる。問題を頭のなかに吸収して、外的な道具を駆使することで鍛えられた想像力で、問題を解決できるようになるからである。(240-241)

これを読んでヴィゴツキーさんを思い出す方も多いかもしれません。また英語教育の「達人」は道具と一体化しているということも以前この欄で述べました。いずれにせよ、英語教師を「環境設営者」と考える視点を充実させるためにも、知性への理解は不可欠だと再認識しました。英語教育におけるコンピュータ実践にしても、上の引用からだけでも、コンピュータが「可搬的であるか、そしてそれゆえ遍在的であるか、それゆえ制御しやすいか、よりよく知られているか、そして主体にとって役に立つように設計されることが多いか」といった基準でもって選択し使用するという視点が得られます。

第6章では、デネットさんは、いわゆる「無意識の思考」を「知的ではあるが思考のない行動」(255)と称し、いわゆる意識的な思考と区別します。さらに彼は「心的内容が意識されるのは、それが脳の特別な部位に入るからでもなければ特別な力を持つ不思議なメディアに変換されるからでもなく、他の思考との競争に勝って行動を制御する権利を獲得し、長期的な影響をおよぼせるようになるからである」(256)と述べます。意識的な規則学習と言語使用の関係については私も論文を書いたりして、考え続けていますが、ここで得られる視点は、ある思考が存在するにいたるのは、(変化する)環境のなかでの行動を通じてだ、という視点です。いわば「真空空間」での学習・思考に対しては、私たちはもっと批判的になってもいいのではないでしょうか。

その他、この本にはさまざまな優れた喩え、メタファーがあり(39、93-95、115)私たちの思考の幅を広くしてくれます。英語教師にとって決して読みやすい本ではないかもしれませんが、その論点は英語教育にも大きく関係していると私は考えます。


『子どもたちの言語獲得』を読んで(97/11/16掲載)

小林春美さん、佐々木正人さんの編著による同書(大修館書店、viii+280ページ、本体2300円)を読みました。第二言語習得論に関心をもつ英語教育研究者には一読をお勧めしたいと思います。

同書は「いま、言語獲得研究にとって重要なのは、言語獲得が起きる『場』を生態学的に捉え、綿密に観察することではないだろうか」(i)という方針で編集された本です。ですから生成文法系の言語獲得研究とは色彩をかなり異にしています。第1章(小林春美さん)と最終章である第10章(佐々木正人さん)がこの本の研究をまとめて伝えています。

第1章ではチョムスキーさんの理論をおさえながらも、トリガーによるパラメータ設定を詳しく考えるとそれが「統計的計算に基づいて設定される」(13)という「帰納的推論に基づいて設定されるものになってしまう」(13)という指摘や、「ウィリアムズ症候群」(20)の子どもや「刺激の貧困」(30)に関するトマセロさん(Tomasello----最近よくこの人の名前を見るような気がします)の解釈を紹介することによって、チョムスキーさん流の言語獲得論に対して一定の距離を保っています。その結果としてピンカーさんの『言語を生みだす本能』(日本放送出版協会)での「言語は生得的かどうか」という問題設定が必ずしも適切でないことを主張しています(26)。

「身振りとことば」を扱った第3章では著者の喜多壮太郎さんが「ことばの発達には、言語の獲得とともに、言語と非言語的認知の接点の仕組みの発達が不可欠である」(70)という論点を数々研究で具体的に示しています。「語彙の獲得」を扱った第4章では著者の小林春美さんが「事物に対する子どもの行動と発話を縦断的に観察することにより、子どもが物の名前を獲得するとは、子どもにとって実際にどういうことか調べることができる」として「第一に、どの物においても、子どもがその物の名称を言えるようになる以前に、物に特殊的な操作(慣用操作)を行うことが確かめられた」(104)ことを報告しています。こういったことはウィトゲンシュタインさんの言語ゲーム論を読んでいる者にとっては新しい知見ではないのですが、それでもこの論点を具体的に捉えたこの研究の重要性がいささかでも減じることはないと考えます。むしろ英語教育研究者としてはこのことばの身体性をどれだけ自覚的に授業の中で考えてきたかということを反省するきっかけにもなったと考えながら私は同書を読み進めました。

第5章は岩立志津夫さんが文法獲得を扱っていますが、「制約」の議論の有効性を認めつつもそれに対して批判的見解も同時に持っている(129)点などでも、一部の生成文法系の言語獲得論とは違う雰囲気を感じました。

「障害児のことばの発達」を扱った第8章の小椋たみ子さんの記述の中では一般論ですが「ことばの獲得が遅れている子どもは、ことばだけでなく非言語コミュニケーションでつまづいている場合が多い」という指摘が印象に残りました。ことばの身体性とならんで人間の関係性は、これから英語教育実践者・研究者が積極的にとりあげなければならないテーマだという思いをあらたにしました。第10章では佐々木正人さんが(この用語は使ってはいませんが)言語の「存在論的反省」から始めてアフォーダンス論へと展開してゆきます。主張の総括部分を引用しますと、

私たちはこのように、いつも作り変えられつつある「ニッチ」(niche)[アフォーダンスの集合するところ]で生きている。この環境への新しい参加者、つまり、ことばの獲得途上にある子どもを取り囲んでいる環境は、それ自体独特に変形された物と場所と出来事であり、子どもの見ている前で大人たちが共同して行っていることも物と場所と出来事を変形することである。子どもとはこのように修正されつつある周囲に取り込まれながら、そこにあるアフォーダンスを長い時間をかけて発見していく存在である。アフォーダンスを共有するためにあることばの獲得は、このようにアフォーダンスが注意深く配置されたところで進行する。(251)

となります。英語教育関係者は授業環境のデザインに関してアフォーダンス理論から大きな示唆が得られると思います。

第二言語習得論に関心をお持ちの英語教育研究者の皆さん、もし皆さんのデーモンがチョムスキーでないのなら同書をお読みになることをお勧めしたいと私は考えますが、いかがでしょう。


『コンピューター綴り方教室』を読んで(97/11/14掲載)

この欄で『インターネットの子どもたち』を取り上げたら、ある方から「あの本もいいけど、私はこちらの方が好きだ」と言って勧められたのがこの近藤真先生による『コンピューター綴り方教室』(太郎次郎社、206ページ、本体2000円)でした。私も入手はしていたものの「積ん読」状態でしたので、これを機会に読んでみました。国語教育の実践報告ですが、英語教師としても読んで本当によかったと思いました。

同書は、生徒たちの生の声・生の作品と、先駆者たちの言葉(金田一春彦、青木幹勇、茨木のり子など)・作品(正岡子規、北原白秋、与謝野晶子など)と、教師である著者の近藤先生の言葉と人生が織り成した、中学教育の一つのありさまです。地に足がついて、芯からの力強さと美しさが感じられる実践報告です。

ここで使われているコンピュータは古いMS-DOSの16ビット機。アプリケーションもワープロとデータベースぐらいです。しかしコンピュータが実に生活の一部になって、授業実践を支えています。こういうコンピュータの使い方ができる人こそコンピュータ・リテラシーが高いと言えるのでしょう。近藤先生はこう言います。

コンピューターは買ったらどんどん使うこと。あっという間に値が下がってしまうから、使わないともったいないよ。コンピューターでこんなことしたいな。そう思ったときが買いどきだ。ただしコンピューターはあくまで君がなにかをするための道具であって、インテリアじゃない。ファッションの一部にするなよ。コンピューターですぐれたなにかをつくることがカッコイイのであって、コンピューターそのもの、コンピューターを扱うこと自体はカッコイイことでもなんでもないんだよ。君が作りたい、表現したいなにかを見つけることがいちばん大切なことさ。(50-51)

英語教育でのコンピュータ利用も、結局は英語教師の「人格的知識」と「人格的感性」次第だと思わされます。その意味で英語教師はもっと芸術に思いを馳せるべきではないのかとも考えます。「芸術とは、何か『高尚』なものでもなく、生活に余裕ができた時に飾りとして取り入れるものでもなく、生活の困窮の中ですら、いや困窮の中にあればこそ、なくてはならないもの----生活と生命に力を与えるもの」、というのは私の好きなある音楽評論家の言葉です。「自己と他者、自己と世界(自然)という関係を新たなパターンに作り替えることによって、生の階層の統合を実現する」とは矢野先生による芸術の意義の総括でした。英語教師にとって、自分の授業にどれだけ生に力を与えるという意味での芸術性があるのか反省することはこれからの時代の課題になってくるのかもしれません(何より私自身にとって大きすぎるぐらいの課題です)。でもいきなり授業の芸術性と言われても何のことやら・・・・そう正直に戸惑ってくださるあなたになら、同書の実践は導きの糸になってくれるでしょう。情報化時代の英語教師に一読をお勧めします。


『ソクラテスのダブル・バインド』を読んで(97/11/12掲載)

あるシンポジウムの機縁から、京都大学の矢野智司先生による『ソクラテスのダブル・バインド----意味生成の教育人間学』(世織書房、ix+289ページ、本体2600円)を遅ればせながら読む機会を持ちました。ベイトソンのコミュニケーション論を鍵にして、人間の意味生成に迫った本です。残念ながら私には同書を客観的に書評する力がありませんので、ここでは英語教育研究者の一人としての私が最も共鳴した箇所を引用しながら、私の雑感を述べたいと思います。( )の数字は同書の引用ページです。

コミュニケーションとは言うまでもなく英語教育の中心課題のはずです。ところがその論考は残念ながら浅い通俗的なものが多いようにも私は感じています。そういった英語教育関係者にとって、矢野氏の次の総括は非常に示唆的です。

私たちは通常、私と世界、私と他者とを二項対立的に区別し、実体としての「私」が実体としての「世界」や「他者」に働きかけると考える。たとえば、「私が斧で木を切る」といった言い方に慣れている。しかし、二章でも詳しく述べたように、私が斧で木を切るということは、木-目-脳-筋-斧-打つ-木のシステムが形づくられていることを意味する。斧のそれぞれの一打ちが、前回、斧が木に付けた切り目によって制御されるという自己修正的プロセスが、このシステム全体によってもたらされるのである。この回路を循環しているのは、力やエネルギーではなく、差異を作りだす差異としての情報である。そこで、先の例をより正確に言い直すならば、[木にある差異群]-[網膜に生じる差異群]-[脳内の差異群]-[筋肉の差異群]-[斧の動きの差異群]-[木に生じる差異群]・・・・・と表わすことができる。

このように情報が、ネットワーク内で変換されていく回路がフィードバック・ループで、このフィードバック・ループからなるシステムの自己修正過程を、ベイトソンは精神プロセスと呼ぶ。自己組織化するシステムは、この精神プロセスにほかならない。

このように考えるとき、これまで自己と呼ばれていたのは、孤立した実体ではなく、それを取り巻くさまざまなシステムとのコミュニケーションで統合されているコミュニケーション・システムとして考えることができる。「私」=意識には、このプロセスの全体性を理解することも、制御することもできない。それというのも、「私」が成立するためには、思考と意識の経済性から、始めに意識的になされたものは、無意識レベルに沈み込むことが不可欠である。歯を磨くことや、歩くことは習慣となる必要がある。そしてまた、メッセージを枠づけ解釈するフレイム、あるいはそのフレイム群から成り立つ自己システムも無意識のなかに沈んでいる。そこで、意識は精神プロセス全体のなかで、かなり小さな部分に限定されている。無意識レベルをすべて意識化することは不可能である。

精神プロセスから捉えたとき、意識の働きは選択性部分性を特徴とする。生=精神プロセスは、人間の体や心あるいは森の生態系にしても意のままにならぬループのシステマティックな全体のうえに成り立っているのにたいして、意識はそれらのループのうち、人間の目的的企てが誘うことのできる(これが「選択性」)、短い弧の部分(これが「部分性」)しか捉えることができない。そのため、意識の発展としての科学は操作が可能な短い因果系列に焦点を絞り研究することから、たとえば殺虫剤散布によって天敵に致命的効果を与えてしまい、かえって害虫を増加させてしまうように、生態系の動的均衡を崩すことになる。目的合理性を特徴とする意識は生にたいしても破壊的作用を及ぼす。

このような孤立した意識を癒すこと、意識と無意識の生の階層を統合することが必要となる。無意識におけるコミュニケーション(一次過程)は、自己と他者、自己と世界(自然)という関係を新たなパターンに作り替えることによって、生の階層の統合を実現する。ベイトソンは、このような生の統合を<優美>(grace)を呼び、芸術の意義をここに認めようとした。(104-106)

どうでしょう。こういった文章を読み慣れていない方は、ひょっとすると難しく感じられたかもしれませんが、私たちの日常生活(例、スポーツ、会話)などを内省すれば、すぐに納得できることだと私は思います。コミュニケーションを自己-他者-世界を統合するシステムと見ることから、英語教育のコミュニケーション観も大きな変容を受けるのではないでしょうか。

矢野氏はさらに「遊び」を論じます。

「これは遊びだ」というメタ・メッセージが自己言及的であり、不可避的にパラドックスを引き起こすこと、そのパラドックスを超えて広いメタ領域を創造することを遊びと捉えた。アンリオが回避しようとしたパラドックスに遊びの秘密があったといえる。ここでのパラドックスは、これまで通常述べられてきたように悪循環をもたらすものではなく、生成、非連続な飛躍をもたらすものとして捉えられている。この飛躍によってもたらされた領域は、安定し、確定したものではなく、絶えず意味を増殖する運動の場である。この生成する領域は、メタファーの例で見たようにどのような意味を生みだすか予見不可能であり、既成のコードを逸脱していく。ここに遊びのもつ自由さと、創造性を見ることができる。

もし、論理階型を厳密に区別しながらコミュニケーションしている世界を仮定すると、そこには遊びもユーモアも詩もない世界であろう。そして、あるのは果てしなくトートロジカルな会話の繰り返しであるにちがいない。ただ繰り返されるルーティン化した意味と、解釈枠組みに組み込まれるだけの情報からなるコミュニケーションのなかで、人間は生きることができない。遊びは日常のコミュニケーションを切断し、解釈枠組みを改変し、不断に意味を生みだし、生に輝きをもたらす。このように見るとき、遊びはコミュニケーション研究のさまざまなテーマのうちの一つではなく、意味生成という人間学の中心的課題を解明するための重要なテーマだといえる。(121-122)

今度はどうですか。直前の段落のコミュニケーションの指摘などは、英語教師としてぞっとしてしまうほどのリアリティをもった指摘ではないでしょうか。英語の授業とはひょっとすると「遊びもユーモアも詩もない世界」なのかもしれません。小学校の英語教育実践から芽生え始めた英語教育における「遊び」を私たちは、低俗な「学識」で窒息死させないようにしなければなりません。

矢野氏はユーモアについても語ります。

言い替えれば、ユーモアはメタファーや遊びと同様、これまでそれぞれ孤立していたパターンの間に新たな関係、メタ・パターンを創造する働きであるため、意味生成を引き起こすことを意味する。二章(54頁)で述べた癒合的同一化の論理を生きることができ、なおかつコンテクストの差異を混同しないということである。自身の解釈図式を柔軟に改変していく人間は、特定のコンテクストにしがみつく独断に陥ることのない自己批評的人間であり、しかも相対主義からの懐疑にも陥らない創造的人間ということができる。(165)

もし英語教育研究者にユーモアがないとすれば、それは重回帰分析の適用上の誤りよりも深刻な問題だと思います(^^)。しかし私はそれほど悲観もしていません。大阪の菅先生が高校生にやらせた英語漫才「ABCの歌」を是非ご覧ください。私は見て、ぶっとんで、ものすごく勇気づけられました。


関わりあう人(97/11/09掲載)

研究社の雑誌『現代英語教育』の12月号に「英語教師の魂」という小文を書かせていただきました。そこでお勧めした本は、朴慶南『命さえ忘れなきゃ』(岩波書店、本体1900円)と、山本おさむ『どんぐりの家(第1巻〜第6巻)』(小学館、本体825円〜829円)です。ここでは特に後者のことについて、スペース制限のある雑誌コラムでは書ききれなかったことについて述べます。

この本を勧めるにあたってはいささか躊躇しました。漫画だからというわけではありません。漫画にも愚劣なものから優れたものまでいろいろあります。それはどのジャンルでも同じこと。(それでも・・・とこだわる権威好きの方には、同書は第24回日本漫画家協会優秀賞ならびに第26回博報賞(教育特別賞)を受賞したことを伝えておきます)。

躊躇の理由は、「柳瀬は、ろう(重複)障害の実態を何も知らないのに本だけ紹介して、いいかっこばかりしている」という批判が今にも聞こえてきそうだったからです。たしかにそうかもしれません。しかしこの本に描かれている事態を多くの人にも知ってもらいたいと思う気持の方がまさって掲載を決意しました(私自身、この作品を読むまで、ろう(重複)障害のことをまるで知りませんでしたが、その知識の欠如は私の英語教師としての存在の脆弱さにつながってたと今では考えています)。

勧めるといいましても色々な観点からの勧め方があります。同書を一市民として他の市民に勧めるというのも一つ観点ですが、私はやはり一人の英語教師として他の英語教師へ、という観点で同書を勧めたいと思います。

といいますのも、同書には英語教師の原点に触れるテーマが流れているように思うからです。よく「英語教師は英語の教師であると同時に、ことばの教師でもあらなくてはならない」と言われます。それを敷衍すれば、「ことばの教師は、ことばの教師であるためには、『関わりあう人』であらなくてはならない」となると、私は思います。

同書は、ことばの教育・コミュニケーションの教育という観点からみますと、「豊かな国」であるはずの日本で、社会から組織的に疎外されて関わりを拒絶されたろう重複障害者に、どう教師が関わりあい、時に絶望しながらも力をつけていったか、というドキュメンタリーでもあります。関わりあいがなければことばも生まれません。関わりあいがなければ人間は人間として存在することすらできません。私たちが英語教師としてどれだけ生身の生徒と関わりあっているか----この反省がない所にいくら「コミュニケーション重視の英語教育」などというスローガンを唱えても、それは実のないアダ花にすぎないと思います。私たち英語教師は教室でも教室の外でも「関わりあう人」たりえているのでしょうか。

いずれにせよ、この本ほど、ことば・コミュニケーション(の欠如)ということ、ひいては、ことば・コミュニケーションの権利、あるいは人間の権利について考えさせられる本はあまりないと思います。「英語教師の魂」というやや大袈裟なタイトルまでもつけて同書を勧めた理由はこういったところにあります。

追記:英語教師としては、これらの作品を読んで、ろうの方々が直面した「日本語(口話)と日本の手話との権力関係」が、非英語話者が直面している「英語と他の言語との権力関係」に重なって見える思いがします。ですが安直な類比は、ろう障害と英語支配のそれぞれの問題をかえって歪曲化してしまうのかもしれません。少し時間をかけて英語教育の問題としてこれらの問題を考えてゆきたいと思います。

追追記:山本おさむ氏の作品には『遥かなる甲子園』(双葉社アクションコミックス)というものもあります。ことばの教師に広く一読をお勧めします。「ことば」とは何か、「教育」とは何かを深く考えさせる作品です(私もこの駄文ぐらいには考えがまとまったものの、まだまだこれらの作品が提示するテーマを消化しきってはいません)。私は恥ずかしながら今まで聴覚障害のことについてほとんどまったく何も知りませんでした。今でも知っているとはとても言えません。ですが私は仮にも「ことばの教師」を名乗っているわけですから、これを機会に少しずつ学んでゆこうと思います。

追追追記:こういった「権利」の問題を私たちの「魂」として堅持する一方で、私は情報生産システムとしては市場原理の有効性を主張したいと思います。矛盾だと言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これが私の現実感覚です。トム・ピーターズ『トム・ピーターズの経営破壊』(TBSブリタニカ、本体1553円)を『現代英語教育』10月号で勧めましたが、『どんぐりの家』の問題意識と『トム・ピーターズの経営破壊』の問題意識は共存させなければならないと考えています。お互いの人権を尊重しあった上で、創造的な競争によって豊かな社会を作り上げ、どんな人間も人間らしい暮らしができるような社会を育てたいというのが私のナイーブな考えです。(「トム・ピーターズ名言集はここをクリック」


『インターネットの子どもたち』を読んで(97/11/04掲載)

三宅なほみによる同書(岩波書店、vii+199ページ、本体1200円)を教育現場に関わるすべての皆さんにお勧めします。もしあなたが「コンピュータなんて結局は機械のことでしょ」と考えて、この新しいテクノロジーに関して消極的でしたら、なおのことお勧めします。同書が扱っているのは技術的な事柄でなく、教育のあり方、学習のあり方、私たちのあり方といった根本的な問題だからです。

実際、この本は方々で様々な人によって推奨されてきました。私も読もう読もうと思いながらも、つい読みそびれていましたが、やはり色々な人が勧めている本にはそれだけの理由があります。買って損する本ではありません。ぜひ、ゆっくり時間をかけて読んでください。この情報量の爆発の時代に、ゆっくり読む栄誉に値する本はおのずと少なくなってしまいますが、同書はその栄誉に値する数少ない本の一つと思います。ゆっくり読んで、これからの教育・学習のあり方にゆっくり思いをはせてください。できれば一緒に色々と考えて実践してゆきましょう。

松山大学の吉田さんは「あれだけ深いことをこれだけやさしく書けるとは、やはり三宅なほみさんは凄い」と言っていましたが、私もそれに同感です。また同書の第5章は「インターネットで英語を学べるか」ですが、これがまた秀逸です。私のような英語教育研究者などが書く文章よりも、はるかに素直に深いところをつかみ取って、それをさらりと示しています。まさに脱帽です(私は新たな職探しをしたほうがいいのかしら・・・・^^;)。

この本はいい、いい、と連呼しているこの小文は書評のテイをまったくなしていませんが、本格的な書評をしたためる余裕も力もない私としては素直に「あなたもぜひ読んでみませんか」という気持ちを表明しておくにとどめておきます。

情報革命は私たちのあり方を変える、ということを痛感する毎日です。


『言語の科学入門』を読んで(97/11/03掲載)

岩波講座「言語の科学」の第一巻として『言語の科学入門』(松本裕治・今井邦彦・田窪行則・橋田浩一・郡司隆男共著、岩波書店、Xv+188ページ、本体3400円)が発刊されました。現代の言語研究のありさまを伝える良質の概説書となっています。以下に書きますのは、私が英語教育研究者(のはしくれ)として、つまりあくまでも英語教育研究を推進する立場から、同書をどのように読んだかという私的な報告です。( )内の数字は同書の引用ページ数を表わしています。

同講座はあくまでも言語を「自然科学的な方法で研究する」(V)ことを目的としたシリーズです。その中で同書は同講座全体の入門も兼ねている本となっています。同書の第1章は「言語とは何か」ですが、基本的にはチョムスキーの生成文法の言語観の概説になっています。ですからいわゆるI-言語を専らの研究対象とし、E-言語は「派生的な疑似現象」(24)としています。生成文法は「生身の人間とは異なった『抽象的・理想的人間』を前提にしている」(24)からです。もちろんこの前提にはそれなりの根拠があり、それは1.5の「言語の自律性」で述べられています(ちなみに私は27ページで報告されている実験のことは知りませんでした。この実験は「言語の自律性」への強力な追証といえるでしょう)。

続いて第2章では「言語学のめざすもの」として、比較言語学、構造言語学、生成文法の概説をしますが、やはり力点は生成文法におかれています。ここで英語教育研究者としてはやはり生成文法の言語観に注意しておきたいと思います。生成文法の言語観に関する端的な表現はたとえば「生成文法の研究対象は『言語』ではなく、文法である。Chomskyは『言語』というのは随伴現象であるとまでいいきっている」(60)などに見られます。言うまでもなくこれは(いい意味でも悪い意味でも)私たちの常識的な言語観とは異なるものです。ですが生成文法学者は、そういったI-言語の考えを(彼/彼女らとしては正当なことですが)当然の前提として、「I-言語、以後、わずらわしさを避けるため言語と呼ぶ」(61)とさえも表現しています。

英語教育研究者はこの(しばしば隠れた)前提に注意しなければなりません。たとえば同書の18-23ページでは「言語獲得」(ちなみに同書では「言語習得」という用語は使われていません)の問題を扱って、例によってというべきか、模倣では言語獲得を説明できないと主張しています。しかしここでの「言語獲得」とはあくまでも「I-言語の原理と媒介変数の設定」をさしているのであって、それ以降の言語使用の習得(E-言語に関する議論)に関しては関係のない議論です。「言語学者も模倣は駄目だといっている」というのはあまりにも短絡した通説だと私は考えます(拙著『模倣の原理と外国語習得』をご参照いただければ幸いです)。

また生成文法研究者の言語獲得研究は「他の認知体系とは切り離された言語機能をよりどころとして、他の認知体系から独立した言語能力を獲得する」(23-24)研究であるという前提も忘れてはいけません。英語教育研究者が対象とする言語使用の習得は、むしろあらゆる認知体系が相互作用しながらの過程ですから、この点からいっても生成文法の言語獲得研究を安易に英語教育研究に適用・借用することには注意が必要といえるでしょう。このことは生成文法研究者も承知していることで、たとえば「したがって、言語の使用やコミュニケーションの問題と言語知識の問題(I-言語の問題)とは、一応独立した問題とみなしたほうがよい。我々がなぜ、いかにして言語を使ってコミュニケーションができるのか、に関しては、生成文法とは別の理論が必要である」(76)と述べられています。「応用言語学」が何をさすのかについては議論が絶えませんが、「応用言語学」をそのまま「英語教育研究」と考えることに対しては、こういった点からすると注意が必要だといえます。

第3章「言語への情報科学的は、一転して「自然言語処理」「計算言語学」という工学・基礎科学的アプローチがなされます。私見では、「制約」(constraint)や「事例に基づく翻訳」(example-based translation)の考え方などは、(生成文法などに較べて)はるかに英語教育研究に対して示唆的であると考えています(拙論「制約的規則観の外国語教育学的帰結」をご参照くだされば幸いです)。少なくとも心理言語学研究をやっている方は、同章の図3.3のインパクトをどうとらえているのでしょうか。個人的には気になるところです。また限定合理性(bounded rationality)は「知にまつわる多くの研究分野における共通の難問」(106)としてとらえる必要があるとの主張にはまったく同感です。しかしこのように(比較的)私たちに親和性の高いと考えられる工学的アプローチでも常識をうまく扱いえないことを著者は明らかにしています(122)。私たちは工学的アプローチを安直に適用することに対しても注意しておかなければなりません。

第4章「言語科学の提唱」は、タイトルが示唆するほどには斬新な内容はなく、一般的な総論だけに終わったように思えます。ですがもちろんこの読解は私の愚かさを証明しているだけのものなのかもしれません。

総じての感想は、生成文法が己のアプローチ・言語観を明確にするにつれ、その他のアプローチ・言語観も差異が明らかになってきているということです。私たちはそれらの差異に敏感であることから英語教育研究を豊かにできると考えます。くれぐれも安直な応用・借用は避けるべきだと注意を促しかつ自戒しておきたいと思います。


『複雑系思考法』を読んで(97/11/02掲載)

『複雑系思考法』(吉田和男著、イーストプレス、本体価格1500円、222ページ)を複雑系に関する優れた入門書としてお勧めします。著者は京都大学経済学部卒で、大蔵省、大阪大学経済学部助教授を経て現在京都大学経済学部教授です。中心的な研究テーマは「非線形数学の応用」です。大蔵省での実務経験や、陽命学を教える「桜下塾」(おそらく私塾だと思います)での経験が生きているのかどうかは定かでありませんが、同書の説明は非常に具体的でわかりやすいものです。複雑系に関する本は玉石混交かとも思いますが、同書はわかりやすさと、背後にある学識の確かさの点で最良の部類に入る本だと私は思います。

しかし、Webではどんな人が読んでいるかわかりませんので、少しだけ留意事項を書いておきますと、同書はほんのわずかですが「共時性」や「間人主義」への言及がありますので、こういった考えにアレルギーを持っている方はこの本に抵抗を感じるかもしれません。また入門書とはいえ、科学・哲学・経済学・進化学などに全く興味も知識も持っていない方がいきなり読まれても難しいのかもしれません。しかしこのように偉そうに言う私も実は数学の素養に欠けているわけで、例えば107ページにでてくる「ホッカー・プランク方程式」に関する知識など全く持ち合わせていないのですが、前後の文脈からおおよその理解はできます。私としては広く一読をお勧めしたい本です。

それにしてもなぜこのホームページの主な読者である英語教育関係者にお勧めしたいのか。それは複雑系の考え方が、私たちの凝り固まった知的枠組みをいったん解体し、物事を「あるがままに見る」こと----問題の多い表現だということは熟知しています----を助けてくれるからです。

もちろん複雑系の考えの通俗化には批判的な意見もあります(そのうちの多くの意見には私も納得せざるを得ません)。ですが例えば青土社の予定している新シリーズ『複雑系の科学と現代思想』の「刊行のことば」にもあるように、複雑系の考え方が、「直線的な因果律に支配された科学の研究方法そのものを一新」して、「この問題系が内蔵する大きな広がりと未来が浮き彫り」になれば英語教育研究も益するところ大だと考えます。

今から思い返せば微笑ましいぐらいなのですが、私は修士課程に入った頃、「これからは統計学とコンピュータの知識が不可欠だ」と考えて、BASICで簡単な統計プログラムをつくったりして結構興奮してました。BASICの知識は、構造化プログラミングに関する初歩的な理解という財産を除いては、現在の私にはあまり役立っていませんが、統計学やそれに関連した実験計画法の知識は、今では少々錆び付いてしまったものの、それでも有効な知識として今の私の考え方に役立っています。もとよりこれからも私は勉強を続けて行くつもりですが、「これから必要な知識」は何なのでしょうか。非線形数学とUNIXの知識でしょうか。それともそういった「これから必要な知識」とは単なる知的虚栄心の現われなのでしょうか。英語教育研究に関わる大学院生の人はどうお考えですか。いずれにせよ「少年老い易く、学成り難し」。中年に成りかけた私は笑えない状況です。時間を大切に勉強しなければと改めて思わされます。


<表紙へ>