読書

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育の立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。また人名に関しては、どんな方に対しても「〜さん」づけで表記してます。2005年9月17日掲載分から、呼称に関しては、無原則(言ってみるなら、私の「気分次第」)とすることとしました。これまでの「〜さん」の原則は鶴見俊輔氏の影響でしたが、新しい(無)原則は内田樹氏の影響です(私って、ほんとに影響受けやすいのよね)。

もしこの小文を読んで興味がわいたら、是非ご自分でその本をご購入なさって、実際にお読みになることを強くお勧めします。


ユルゲン・ハーバマス(1968/2000)『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社ライブラリー) (2006/2/22)

下で取り上げた、『日本を滅ぼす教育論議』を読んでいて、基本的には同意できるものの、どうもひっかかるところがありました。その懸念を下では「cf ハイエク」という表現で短く表していましたが、これはハイエクの構築者的合理主義(constructivist rationalism)の批判と進化論的合理主義(evolutionary rationalism)の評価を指しているものです(ちなみに上のリンク先であるwikipediaにはこれらの概念の解説はありません)。しかし、その参照を示しても気持ちは晴れず、直前の『一下級将校の見た帝国陸軍』をまとめなおしたりしました。それでも何かしっくりいかなかったところに、出張の列車の中で読んだ本書が、かなり私の中のわだかまりを晴らしてくれましたので、ここで読後感が新しいうちにその簡単で選択的なまとめをしておきます(私はこのような仕事の仕方をして時間をうまく使っているのでしょうか、それとも優先順位をぐちゃぐちゃにしているのでしょうか)。なお本来なら、せめて引用箇所ぐらいは原書でチェックしておくべきでしょうが、現時点ではその作業もしていないことを付記しておきます)。

本書は、Habermas、日本語表記でハーバマス(あるいはハーバーマスとも表記されるので、検索には注意。入門書としては中岡成文『ハーバーマス』(講談社)がお薦め。文献リストはこちらあるいはこちら。)(2004年京都章受賞)の主著ともいえる『コミュニケイション的行為の理論 』に至るまでの彼の思考をコンパクトにまとめた書ともいえるかと思います。

ハーバマスは労働・目的合理的行為と、相互行為・コミュニケーション行為を根本的に区別します。私なりにそれらの概念をまとめなおしますと、次のようになります。
労働、もしくは目的合理的行為:与えられた条件の下で一定の目標を実現する行為。下位区分として、道具を用いた行為、もしくは合理的選択(あるいは両者の結合)に分けられる。道具を用いた行為は、経験的知識知識に基礎をおく技術的な規則にしたがって行われる。現実を有効に統制できるかによってこの当否は測られる。合理的選択は、分析的知識に基礎をおく戦略にしたがって行われる(したがって「戦略的行為」とも呼ばれる)。これは上位規則(価値体系)や普遍的公準から派生する命題を含み、この合理的選択・戦略的行為の評価は、価値と公準のたすけをかりておこなわれる演繹が正確によって測られる。この場合の言語は文脈にはめこまれない言語である。(69ページ)
相互行為、もしくはコミュニケーション行為:記号(主として言語)に媒介された相互行為(「制度的枠組」とも彼はこの本では表現する)。少なくとも二人の行為主体によって理解され承認された(社会的)規範に従う。この意味は日常会話のうちに客観化される。つまり、この行為が力を得るのは、規範が相互に了解されるときであり、規範の拘束力が一般に承認されるときに、これは安定したものになる。(70ページ)
この区分から、近代的社会とは異なる、伝統的社会とは何かが定義されます。

<伝統的社会>という表現は、現実の総体を----社会をも宇宙をも----神話的ないし宗教的ないし形而上学的に解釈する体制正当化の理論にうたがいのさしはまれることがなく、そうした確固たる基礎の上に制度的枠組がすえられていることを示唆している。<伝統的>社会は、目的合理的行為のサブシステムの発展が、体制正当化に有効に働く文化的伝統の枠内ににとどまるかぎりで存続するのだ。(75ページ)

こうなりますと、「近代」とは、「目的合理的行為のサブシステムの拡大を恒久化し、もって、宇宙論的世界解釈による支配の正当化という高度な文化形式を疑問視するにいたる、生産力の発展」(77ページ)の時代とも認識できます。目的合理的行為が、伝統社会を近代社会に変えた、といえば、言いすぎでしょうか。その近代の生産様式はいうまでもなく資本主義的生産様式です。

以前の生産様式にたいする資本主義的生産様式の優位は、つぎの二点を根拠としている。第一に、目的合理的行為のサブシステムを持続的に拡大していく経済機構の整備、第二に、支配のシステムを、サブシステムの発展によって生ずる合理性の要求に適合させるような、経済的正当化の形態の創出。この適合過程をマックス・ウェーバーは<合理化>ととらえるが、そこには<下からの>合理化と<上からの>合理化という二つの傾向を区別することができる。(79ページ)

<下からの>合理化に関して、ハーバマスは次のように述べます。

[資本主義の]そうした展開をとおして、伝統的な関係はしだいに道具的ないし戦略的合理性の条件下におかれることになる。労働と経済的交換の組織、輸送、報道、通信ネットワーク、私法の制度、財務行政を発生源とする国家官僚機構などが力を発揮し、かくて、社会の下部構造が近代化を強制される。それは次第に生活の全領域を、軍隊、学校制度、公衆衛生制度、そして家族すらもとらえ、都市と地方の区別なく生活形態つまり下位文化を強引に都市化し、各個人がいつでも相互行為の連関から目的合理的行為へと心を<きりかえる>ことができるよう訓練するのである。(79-80ページ)

つまり私たちの関心事である英語教育、あるいはそれに関する議論も、目的合理性による<下からの>合理化にさらされているわけです。
一方、<上からの>合理化ですが、近代は、伝統社会の神話・公的宗教・習慣的な儀礼・体制を正当化する形而上学・伝統という支配を打ち壊しましたが、支配の構造は、形を変えて残っています。この支配を維持しているのが、近代の「イデオロギー」であり、そこには技術と科学(Wissenshaft。だから「学問」と訳されるべきかもしれない)が密かに重要な役割を担っているというというのがハーバマスの主張です。この、技術と科学による伝統社会のイデオロギー批判という形を取りつつも、実は自らの支配体制を正当化しようとしているという、隠蔽されたイデオロギーこそが近代のイデオロギーであるわけです。訳者の長谷川宏さんはこのように言います。

熱っぽいが空疎なイデオロギー闘争にかわって、冷たいが効果的な技術的合理性が、社会の、人間生活の、すみずみにまでその支配の手をのばしている。技術的合理性の拡大・深化というかたちをとるこうした脱イデオロギー現象こそ、もっとも現代的なイデオロギー現象なのだ、というのが著者ハーバマスの基本的な視点であり、標題でイデオロギーということばにつけられた括弧は、そうした逆説的な事態を表現するためのものにほかならない。(207-208ページ)

ハーバマス自身は、<上からの>合理化について、つぎのように言っています。

以前の正当化の形式が破損したあとに登場する、あらたな形式は、一方で、伝統的世界解釈の独断性を批判し、解釈の科学的正確を要求するが、他方ではしかし、体制正当化の機能を保持しているので、現実の権力関係が分析され公然と意識されることにたいしては、これを阻害しようとする。こうした経過をたどってはじめて、狭義のイデオロギーが発生する。それは、近代科学の要求とともに登場し、イデオロギー批判によってみずからを正当化することで、伝統的な支配正当化の形式にとってかわるのだ。イデオロギーはイデオロギー批判とおなじ根から発する。その意味では、前ブルジョア的な<イデオロギー>といったものはありえないのである。(81ページ) 

かくして、この上と下からの「合理化」により、私たちは本来コミュニケーションによって語り合い了解し合うべき事柄まで、目的合理性(およびそれへの適応行為)に侵蝕されてしまいます。生活の中の言葉の力が失われ、目的合理的な物言いばかりが横行し、私たちをいつの間にか支配するのです。

こうして、一見すると、社会システムの発展が科学技術の進歩の論理に規定されているかのような情景があらわれてくる。つまり、このシンポから内在法則的に物的強制がうみだされ、機能的要求に応ずる政治は、その強制にしたがわざるをえないように見えるのだ。だが、この幻想がじっさいに固定したものになると、技術や科学の役割を宣伝の材料としてひきあいにだしつつ、なぜ現代社会では実践的な問題にかんする民主的な意思決定過程が効力をうしない、行政がしつらえたいくつかの管理方式のどれをえらぶかを国民投票で決定するというやりかたにとってかわられ<ざるをえない>か、その理由を説明し正当化することができる。この技術至上主義(テクノクラシー)のテーゼは、学問の水準ではさまざまないいかたで展開されている。が、それよりも重要だと思えるのは、それが背景イデオロギーとして、脱政治化された国民大衆の意識にもはいりこみ、支配を正当化する力をふるうことである。このイデオロギーは、コミュニケーション行為の関連体系や、記号に媒介された相互行為の概念にかんする社会の自己了解をさまたげ、それらの体系や概念のかわりに科学的なモデルを提出するうえで、独特の効力を発揮する。このイデオロギーの浸透につれて、人間は、社会的な生活世界にかんして文化的に自己了解することができなくなり、反対に、目的合理的行為と適応行為というカテゴリーのもとに物象化されていくのである。(90-91ページ)

こうして私たちはコミュニケーション(相互行為)を、目的合理的行為と取り違えてしまうのです。コミュニケーションが失われてゆくのです。

だが適応行為の増大は、目的合理的行為の構造のもとで、ことばに媒介された相互行為の領域が消滅していくことを、裏面からしめすものにすぎない。そのことに主観的に照応するのは、人間科学だけでなく、人間自身が、目的合理的行為と相互行為の差異を意識しなくなるという事実である。この差異を隠蔽する行為のうちに、技術至上主義の意識のイデオロギー的な力をよみとることができる。(93-94ページ)。

牽強付会を怖れず、英語教育(研究)の話をします。現在主流の、英語教育の研究では、英語教育を「実践」ではなく、「技術」と見なして、その効力を統計的に検証すること、その効力のメカニズムを「科学」で説明することを、よい論文と考えています。現場教師も英語教育を「技術」と思い込んで、「明日の授業にすぐ役立つノウハウ・テクニック」ばかりをを求める人が後をたちません。「反省的実践家」という概念も、ずいぶん前から紹介されているのにいまだきちんとは理解されていないようです(そのことの傍証としてあげてよいのか確証はありませんが、英語教育における「アクション・リサーチ」はずいぶん技術至上主義的・目的合理的であるように思えます)。しかし英語教育という「実践」には、目的合理性の網の目からはこぼれ落ちてしまうものがあるのです。私はそういった、にわかには語りえないものを、多くの優れた実践者との語り、まさにコミュニケーションの中から感じてきました。私はその、目的合理的にではなく、相互了解的に感得された「意味」を、改めて言語化し、その言語化で、現場教師が感じている「規範」、つまり「英語教育とはこうあるべきではないか」という思いを明らかにして、これを英語教育を改善する新たな力としたいのです。私が例えば田尻悟郎先生の英語教育実践を研究テーマに選んでいるのも、こういった理由が背景になっています(そして私はこの説明の仕方をハーバマスに学んだといえます)。
もちろん、私とて技術・科学、目的合理性を否定はしません。それは私がアレントを引用しながら論を進めた時(アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析(第3稿))にも強調しましたからここでは繰り返しません。ただ、今回、ハーバマスの言葉を借りて、繰り返したいのは、英語教育実践者が持つ豊かな語りとコミュニケーションを、英語教育研究者は、自分が無自覚に持つ(これがイデオロギーの真の怖さです!)狭い言語使用観(脱文脈化された目的合理的行為、あるいは技術・科学としての語り方)によって、根絶やしにしてはならないということです。英語教育研究者は現場への介入で、実践を歪めていませんでしょうか。さらには文部科学省用語を唯一絶対の価値体系と考え、その価値体系との整合性だけを論考の判断基準とするような一種の「合理的選択・戦略的行為」にも注意は必要です。文部科学省用語の必要以上の押し付けで、文部科学省の「代弁者」は、それ以外の可能性を根絶やしにはしていないでしょうか。コミュニケーションに関する専門家であるはずの英語教育研究者が、実は身近なコミュニケーションを破壊する張本人であったというのは笑えない悲劇です。
私が『日本を滅ぼす教育論議』を読んで感じた違和感も、こうまとめることができます。前近代的で、合理性のかけらもなく、恣意と既存の支配・権力体制だけを温存するような「教育論議」には、近代的合理性による分析でメスを入れ、「合理的」な議論にしなければなりません。ここは私も賛成するところです。しかしその場合の「合理性」とは、しばしば「目的合理性」に過ぎません。私たちはそこで与えられている「目的」を自明視することなく、私たちが学校・家庭・社会の生活で感じている意味を相互に了解しつつ作り上げる「コミュニケーション的合理性」(『コミュニケイション的行為の理論』で導入された用語)をも大切にしなければならないのです。
もっとも『日本を滅ぼす教育論議』の著者の岡本さんは、「おわりに」で次のように述べていますから、目的合理性の亡者などでは決してありません。

日本におけるこれまでの教育論議は、本書の中で述べてきたように、ロジカルな筋道を欠くもの、抽象的で具体性を欠くもの、断片的で総合性を欠くものなどが多いが、「誰を日本人と呼ぶのか?」「将来の日本をどのような国にしたいのか?」といった基本的な課題から、改めて議論をしなおすべき時期に来ている。(237ページ)

今回、ハーバマスを読むことで、私自身はずいぶん頭の中が整理されたように思います。今後も英語教育の豊かな実践を読み解くために、理論的な書物の読解を進めてゆこうと思います。

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山本七平(1987)『一下級将校の見た帝国陸軍』(文春文庫) (2006/2/18)
以前から思っていて、最近は確信に変わっているのは、英語教育の改善のためには、個々の教師の力量向上だけでなく、組織プレーが必要だということです。組織プレー、つまりマネジメントについて英語教育関係者はきちんと学ぶ必要があると思います。で、この秋から特に思いを強くし始めたのが、日本におけるマネジメントを理解しようとしたら、帝国陸軍の歴史について学ぶことが有効な一つの方法だということです(決して唯一の方法ではありませんが)。帝国陸軍(そして海軍)こそは、当時の日本のエリートが率いた集団であり、その集団の文化は、今でも日本の様々な点で生きているように思われます。その集団が犯した失敗を理解・分析することは、現代日本の私たちにとって重要なことの一つであると考えます。
以下はこの秋に読んだままになっていた標記の本に関する私自身のための備忘録です。この本の重要な用語だけを私なりにまとめてみました。これらの用語は、著者の山本七平さんが、自分自身の経験の中から、帝国陸軍の特徴を表すために使った言葉です。

事大主義:「大に事(つか)える主義」。権力者の言うことには(少なくとも表面上)無批判に従い、弱い立場の人間には理不尽・無礼な態度さえも取る行動様式。第三者から見るとこの態度豹変は異常とまで感じられるが、事大主義者にとっては、大に仕え、小を蔑むという原則は一貫している。
員数主義:「員数」とは本来は、物品の数を意味するだけであり、「員数検査」とは、一般社会での「棚卸し」と同じことであるが、帝国陸軍では、この員数検査が非常に形骸化し、実質はともかく書類の上で員数が合っていればよいという傾向が強くなった。「数さえ合えばそれでよい」が、員数主義の基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義が員数主義の基本となった。したがって「員数が合わなければ処罰」から、「員数さえ合っていれば不問」といった実質軽視・現実逃避の悪しき形式主義が跋扈した。
私物命令:命令が本来あるべきように、系統的に上から末端まで下がってくるのではなく、ある上官個人が命令権を私有化し、その私有化に基づいて恣意的に下す命令。帝国陸軍では小さなレベルから大きなレベルに至るまで私物命令が横行したと言われている。
気魄誇示:ヒステリカルな強がり演技によって他人に影響を与えること。帝国陸軍では芝居がかった大言壮語とジェスチャ、ひどい場合は罵詈讒謗の連発を行う者がしばしば影響力を持つようになった。敗戦が色濃くなった末期には、本来、冷静な判断をしなければならない師団長なども、このような「気魄誇示屋」に心理的に依存してしまい、自分の専門分野にも「気魄誇示屋」の介入を許すようにして自らの本来の職務から逃避した。

もしある組織で、「上の言うことには一切反論するな」(事大主義)、「とにかく書類を合わせておけばよいのだ」(員数主義)、「必要とあらばうまく言いくるめて下にやらせておけ」(私物命令)、「要は声を大きくして主張すれば意見は通るのだ」(気魄誇示)といった行動様式が見られるのなら、それは、自覚の有無を問わず、帝国陸軍の悪しき伝統を引きずっているのであり、その組織は破滅へと向かっているのかもしれません。小さな組織から大きな組織に至るまで、現代の日本の組織は、敗戦の歴史に学んでいるのでしょうか。

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岡本薫(2006)『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書) (2006/2/17)

著者(元OECD国際公務員)は「はじめに」で次のように述べます。

 過去二十年以上にわたり、政府部内だけでなく各方面において、このように様々な改革論議が長く展開されているにもかかわらず、政治、行政、経済界、学会、ジャーナリズム、市民団体など、日本の各界における教育論議の多くは、抜本的な改革・改善を実現できておらず、いたずらに「すれ違い」や「カラ回り」を続けている。
 本書は、このような状況を踏まえ、政府部内も含めた日本の各界における種々の教育論議が、実効性のある改革の実現にむすびついていないことについて、その背景・原因を分析・整理したものであり、その目的は、建設的な論議の展開を促すことのみにある。(3-4ページ)

かくして著者は(良い意味での)近代的合理主義に基づく思考法により、これまでの「教育論議」を、「『現状』の認識に関する論議の失敗」、「『原因』の究明に関する論議の失敗」、「『目標』の設定に関する論議の失敗」、「『手段』の開発に関する論議の失敗」、「『集団意思形成』に関する論議の失敗」----つまりまとめてしまうなら「マネジメントの失敗」という視点から解説します。
不毛な教育論議の当事者である(はずの)私たち教育関係者は、この短い新書を一読し、私たちが陥りがちな論議のパターンを再認識し、まともな議論が教育に関してもできるように、私たちの言語文化を育てるべきでしょう(もちろんあまりにひどい「教育論議」に関しては黙殺するしかありませんが)。

ただ少しだけ気になったのが、諸外国の教育関係者との議論から見た場合の「日本人どうしの議論の不思議さ」には、筆者が指摘する上記のような、非合理的ものもあるでしょうが、決してそれだけではなく、日本特有の事情によるもの(つまり日本というコンテクストでは「合理的」なもの)もあるでしょうし、ひょっとしたら日本が世界にむしろ誇るべきもの(つまり近代合理主義の考えからは意義が十分に理解されないが、深い伝統の知恵に支えられているもの cf ハイエク)もあるかもしれないということです。

私たち言語教師は、教育関係者という点だけでなく、言語の教育者という点で、二重の意味で、議論を明晰かつ有効に行う義務があります。上記の五つの失敗パターンを取りあえずのチェックポイントとして、自他の「論議」に注意したいと思います。

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