教育研究と「実験」

 

以下に書きますのは、私が教育研究における「実験」についてなぜ批判的であるか、を解説するための議論(の引用)です。引用符(「 」)の後のアラビア数字(例、(1)、(2-3)等)は言及されている本の引用ページを示します。お読みいただければ幸いです。

 

(1)松田伯彦・松田文子編著『教育心理学研究法ハンドブック』(北大路書房、1981年、IV+344ページ)より

 

 同書は、第一章研究法、第二章研究例の検討、第三章論文・レポートの書き方、第四章教育心理学実験演習題目、第五章簡単な統計、の五章から構成されています。第一章の第一節「一般法則と個の理解」は次の文章から始まっています。

 

[引用:「およそ自然科学は、観察・調査と実験を通して、一般法則を見い出していくことによって、学問体系を形作っていくものであろう。心理学も自然科学を目指す限りにおいて、このことは例外ではない。ただし、心理学がそのような一般法則を求めるだけであってよいかどうかについては異論のある所であり、個人を個人として理解する、という研究法や立場も、特に臨床心理学や青年心理学などでは、否定しえないであろう。教育実践における教育心理学においても、自然科学的な観察法や実験法だけで研究が十分に行われうるか否か、議論のあるところであろう。(後略)」(1):引用終]

 

ここでのポイントは「仮に自分の研究を自然科学としての心理学とするならば、一般法則発見を目指すべきであるが、人間・教育を対象とする場合には十分な注意が必要である」といったものでしょうか。次に著者は疫学的方法が誤った一般法則を導き出す危険性を常にはらんでいる、と述べて次のように言います。

 

[引用:「このようなことは、原因(あるいは刺激)と結果(あるいは反応)の間に介在するのが無機物でなく有機体である時には、避けることのできない危険性である。なぜなら、ある有機体は他の有機体とまったく同じ、ということはありえないし(個体差、あるいは個体間変動)、ある瞬間の有機体は他の瞬間の有機体とまったく同じではありえない(個体内変動)からである。したがって、有機体を研究対象とする学問においては、個の理解を無視した実証はありえないことを、常に心しておく必要があろう。個体間・個体内変動共に、有機体の中で格段に大きい人間を研究対象とし、さらにその人間の諸側面の中でも、特に個人間・個体内変動の大きい人間の行動を研究対象とする心理学において、特にこのことは重要である。そして、教育心理学は、このような個体差や個体内変動をやっかい物扱いにするのではなく、尊重する立場に立たなければならないのである。さらに言えば、一つの個体の深い理解は、了解的に一般法則をも示唆するものであろう」(2-3):引用終]

 

私が英語教育研究での「実験」研究に批判的なのは、上のあたりの事情を尊重しない研究があまりに多いからです(逆に言うなら上の事情を踏まえた研究には敬意と注意を払います)。実際、英語教育に造詣が深いある心理学者は私との会話の中で「平均値ばかりとって、個々のデータをならしてしまうような研究では駄目だ。分散分析などを使っているようではいけない」と発言しています(ある学会の懇親会での会話で、録音していたわけでもないのでその方の名前は出しません)。私も以前心理学的な共同研究に参加させていただいたことがあります。その時は発言しませんでしたが心から実感したのはデータ処理を重ねるごとに情報量が減ってゆくことでした。教室での個々人の様子の観察からテストへ、テストの筆跡付きの解答の様子から採点へ、採点によるアナログ的判断から一元的な数値化へ、しかもその数値が間隔尺度でもないのに平均値算出がなされ、あの観察世界が一つの平均値に縮減されます。「数量化は多くの情報を隠蔽することによって成立している」というフッサールの言葉を後に知ったときは思わず膝を叩いたものでした。

 

松田・松田の書に戻りますが、同書は第一章第二節で心理学の実証的方法は観察法と実験法に大きく分けることができるとしています(ちなみに言いますと著者はその二つの中間段階として実験的観察法と観察的実験法を設定しています)。

 

[引用:「観察法とは、すでに述べたように、独立変数のあり様を、自然のままとし、なんら人為的な独立変数の統制を行わない研究法である。たとえば、「幼児の遊びは、どのような要因がある時、どのように現れるか」を観察法で研究する場合、とにもかくにも、幼児の遊びの現場に出向いて、その現場を観察・記録するのである。(中略)とかく、実験法だけが自然科学の研究方法であると考えられがちであるけれども、たとえば天文学の法則・理論は、もっぱら観察法にもとづいているわけで、決して観察法というものを軽くみてはならない。後に述べるような観察的実験法や実験法においても、人為的な統制からもれた、偶然の自然の独立変数の変化についての鋭い観察から、新しい知見が得られることも、決してまれではない。研究者たるもの、常に鋭い観察の目を養っておく必要がある」(5):引用終]

 

私の見るところでは、英語教育研究では、実験法と比べると、観察法が軽視されているようです(ひどい研究になるとデータ採集すらも他人任せでデータ採集の観察すらしていません)。きちんとした観察か理論(あるいはその両方)を欠いた実験研究は研究としては良質のものではありません。

 

次に著者は実験法について述べます。

 

[引用:「実験法においては、変化させられる独立変数である実験変数はもちろん、従属変数への効果を除去されるべき独立変数(剰余変数)についても、人為的に完全に統制されなければならない。すべて人為的に統制されるということは、同じ実験を何度でも再現でき、そのたびに(標本誤差を考慮しなければ)同じ結果が得られる、ということである。この再現性ということは実験法の最大の特徴であって、観察法は逆に完全に一過性であり、実験的観察法、観察的実験法はその中間に位置する」(後略)(17):引用終]

 

そして著者は上の統制条件を満たすための実験計画法を解説した後で、例として「教職歴(10年と0年)の違いが教授効果に及ぼす効果」(25)というテーマをあげます。結論部分だけ述べますと、

 

[引用:「とすれば、この種の研究においても、いわゆる実験法による研究というのは不可能であることが、実験変数の統制の面からだけでも明らかであろう。(改行)このように、教育実践に関係した研究においては、その性質上、厳密な実験法の不可能な研究課題も多く、それだけ観察法の比重が重いといえる」(25-26):引用終]

 

私が英語教育研究で「実験」の体裁をとった研究に対して批判的な意見を述べると、よく「実験で明らかになったことは多い」という一般論での反論が返ってきますが、そのような一般論における「実験」とは厳密な意味での実験を指すのではないかと私は考えます。したがいまして、そのような反論は、私が批判している、体裁を整えただけの「実験的」英語教育研究の擁護にはつながらないと考えます。繰り返しになりますが、私は英語教育研究においては観察法が重視されるべきだと考えます。(またきちんとした実験計画法に基づいた研究にはそれなりの敬意と注意を払いますが、そのような研究は統制条件のかけ方からすると「心理学」「生理学」等として呼ばれ、扱われるべきではないかと考えています。英語教育研究は心理学や生理学の亜流になるのではなく、それらの研究者と共同研究ができるような独自の視点と理論をもつべきだというのが私の考えですが、これについてはまた他の機会に詳しく述べることにします)。

 

(2)東洋著「教育における実験の問題」(1972年、『教育学研究』39.87-91)より

これは上に引用した(1)の書に教育心理学の研究例2として掲載されたものです。( )の数字は(1)における引用ページ数を示します。東は「教育における実験の困難性」と題して次のように述べます。

 

[引用:教育方法や教育課程の開発の基礎として、教育における実験の必要が認識されて年久しい。たとえば"Journal of Experimental Education"誌の刊行は、1932年にさかのぼる。それにもかかわらず、現在までのところ、いわゆる"科学的"な実験が教育の方法や課程の開発にいちじるしい貢献をしてきたとはいえない。長期かつ大規模な教育実験の例としてしばしば引用される8年研究にしても、その成果はほとんど現実の教育に影響を及ぼしていない。これに対して最近米国において大規模にこころみられたHead Start Projectsの多くは、Jensen(1969)の指摘するように、実験としては、何ら安定した結果を検し得なかったという意味で失敗であったといわざるを得ないにもかかわらず、現実の教育方法や課程に、将来にわたっても大きな影響を与え続けるであろう。教育はいまだに実験がもたらす知見とはあまり関係のない力によって動いているのである。(改行)これは、実験の結果を実践にフィード・バックするような体制や伝達路が十分にできていなかったことにもよるが、さらに、いわゆる"科学的"な教育実験の多くが、教育実験に本来内在する諸困難を回避したり無視したりしてきれいごとにまとめる傾向があったため、教育実践家の問題意識にかみ合わなくなったということにもよると思う。そこで、まず、教育という課題に実験的にとりくもうとする場合、比較的単純な心理過程の実験室的実験にくらべて、どういう困難があるかを列挙してみよう」(52):引用終]

 

この後で東が説明する困難点は1.従属変数の多義性、2.独立変数の交絡、3.統制群をもうける上での困難、4.能力処遇交互作用、5.倫理的社会的制約ですが、引用するととても長くなるのでこれ以上の引用は割愛します。さらに東は実験は彼の言う「ループI」「ループII」「ループIII」の中で組織的に研究計画・実験計画をたてることを提案しています。

もちろん彼は教育心理学者ですから、最終的には

 

[引用:「概括的にいって、教育実験は可能か可能でないか、教育実験はどういうものであらねばならないか、といったことにあまり論議をついやすのは不毛に思える。実験結果の評価、特にその真偽性と一般性をどうおさえるかについて、技術的な水準で良心的かつ厳密でありうるならば、実験はおこなうべきであり、有益であるといってよいと思うのである」(60):引用終]

 

と述べて論文を終えています。しかしここで大切なのは彼が「技術的な水準で良心的かつ厳密でありうるならば」という条件節で何を意味しているかを理解することです。少なくとも上に引用した点は考慮されていることが含意と考えていいでしょう。実験的な英語教育研究がこの条件を満たしているかどうかという点では吟味が必要でしょう。私が一部の実験的英語教育研究を批判するとき、批判するのはそれらが実験研究だからであるからなのではなく、実験研究の名に値しないと考えられるからなのです。技術的な水準で良心的かつ厳密でないのならば、実験はおこなうべきで有益であるとは言えないのではないでしょうか。

 

 

(3)佐藤学著「『パンドラの箱』を開く=『授業研究』批判」(世織書房『教育学年報1 教育研究の現在』、1992年、63-88)より

 

佐藤には多くの著作があり、できればそれらに広く目を通していただきたいと考えていますが、ここでは彼の「教育研究」に対する考えがまとまって述べられていると思われる上記論文から引用します。彼の批判は「1960年代以降の産物」(65)である「授業研究」(=「授業を固有の理論研究の対象とし、経験科学の方法でその過程の法則的な理解や技術原理の一般化を求める意味での「授業研究」」(65))ですが、以下の引用を読めば、彼の批判も、上述の批判の系譜に属することがご理解いただけるのではないかと考えています。

 

佐藤は彼が言う「授業研究」とは「一まとまりの「神話」を形成していた」(70)と主張します。それらは、

 

[引用:「(1)授業の過程(「教授=学習過程」と呼ばれた)は、合法則的な過程であり、法則定立学としての「授業の科学」が成立可能であるという前提(授業過程の法則的認識の神話)。また、その「科学的な法則」は、学習と発達の心理学研究を基礎として解明されるという前提(学習概念の心理学主義)。(2)授業の過程は合理的な技術で構成されており、すぐれた授業の一般化により合理的技術の体系化が可能であるという前提。言い換えれば、教科内容の特殊性、教室の文脈の特殊性、子どもの認知の特殊性、教師の特性を越えた一般的な授業の理論(一般教授学)が存在しうるという前提(普遍的教授学の神話)。(3)「授業の科学」(一般教授学)が成立する以上、「教科教育学」も固有の理論領域で成立するという前提(教科教育学の神話)。(4)授業の実践の開拓者は教師であるが、授業の科学的理論的研究の専門家は教育研究者であるという前提(授業研究者の主導性の神話)」(70):引用終]

 

です。佐藤はこれらに反論を加えます。

 

[引用:「まず(1)の前提は、あまりにも素朴で単純な「授業」の理解に起因している。授業は、複雑な社会的文脈で展開される複合的な諸価値の実現と喪失の過程であり、心理学で基礎づけられる過程は対象の一面を反映しているに過ぎない。さらには、仮に心理学研究の法則が明示された場合にも、その適用で実践が説明しつくせるものでないことも明らかであろう。(2)の前提も、素朴な理論信仰と技術信仰からきている。はたして、医療技術を一般化し「医療技術学」の建設がなされれば、現実の医療が改善されると考える人がいるだろうか。医療以上に、知識基礎となる諸理論の成熟を欠き、医療以上に複雑な内容と文脈で展開されている授業において、ありえないことだが、仮に「教授技術の一般化」が行われ、一般的技術原理としての「教授学」が建設されたとしても、それらが形式的模倣以上の効果をどれほど発揮するかは疑問であろう。(3)の前提は、二重の矛盾を内包してきた。まず第一は、「一般教授学」と「授業研究」の成立が危ぶまれれば、「教科教育学」の成立も存在基盤を失う意味においてである。第二には「教科教育学」の研究の担い手が、教科教育の実践家と該当する教科の学問・文化の専門的研究者から教科教育研究を専門とする研究者に移行するにつれ、その研究が、教室の実践領域からも学問と文化の専門領域からも遠ざかってきたことである。たとえば、音楽教育(学校教育より広い)とは独自に「音楽科教育学」なるものを樹立する自体を想定してみれば、いかに矛盾が深刻であるかを想起できるだろう。(4)の前提は、「授業研究」の理論の建設者は教師の実践を指導できるという、研究者の素朴な理論信仰、教師の仕事の複雑さと困難さに対する無理解、および、教師に対する信頼と敬意を欠いた傲慢な権威的態度を基礎としている。その素朴な理論信仰と権威的態度の破綻も明らかである。もし、授業が「科学的理論」と「合理的技術」の適用過程であるならば、「授業研究者」こそ実践のパイオニアであっただろうし、そうなるべきであった。しかし、彼らは、授業を自己の研究の資料として活用はしても、自ら教室に入り教壇に立つことはしてこなかったからである」(71):引用終]

 

佐藤は新しい授業の研究の諸前提を提言します。

 

[引用:「(1)授業の過程は、教師と子どもの文化的・社会的実践の過程であり、したがって、価値中立的な過程ではありえず、政治的、経済的、社会的、文化的、倫理的諸価値の複合的な実現(あるいは喪失)過程である。(2)授業の過程は、合理的技術の適用過程でなく、教師においては、複雑な文脈で展開される実践的な問題解決の過程であり、高次の省察と判断と選択を要求される意志決定の過程である。(3)「授業の科学」「教授学」「教科教育学」という固有のディシプリンは存在しない。「授業の研究」と「教科教育の研究」は、複合的な教育問題の生起する対象領域を示す概念であり、それらの領域は、まず、教師の実践的研究として成立する対象であり、次に、研究者においては、多様なディシプリンを基礎とする個別研究と共同研究として具体化される対象である。(4)したがって、教育学研究としての授業の研究は、特定のスペシャリストの専有領域ではなく、すべての領域の研究者の総合研究の場である。また、教師の行う授業の実践的研究と教育研究者の行う授業の理論的研究とは、同一の対象を共有しつつ、その課題と責任において別の領域を形成すべきものであり、同時に協同すべきものである」(72):引用終]

 

もし私たちが行うのが「心理学」でなく「教育研究」なのならこのような前提から出発したほうがはるかに有効だと私は考えています(ですからもしあなたが心理学者であるのなら私のこの議論は他人事として読んでください)。

 

今までのすべての議論を私は次のようにまとめます。


(1)教育・人間に関する「実験研究」には多くの制約があり実施には注意が必要である。

(2)したがって(英語)教育研究は、実験法より観察法を重視するべきである。

(3)実験は「技術的な水準で良心的かつ厳密」である限りにおいてなされなければならない。

(4)しかしそのような仕事は教育研究者の仕事というよりは心理学者の仕事といえるだろう。

(5)(英語)教育研究者はスペシャリストを標榜するあまり、亜流の心理学者等になってはいけない。

(6)(英語)教育研究者は自らの領域を開放し、実践者および各種の専門研究者との協同のなかで研究を進めるべきである。


最後の項目などは今までの「教科教育学」の自己破壊のようにも思えるかもしれません。しかし理論にしろ、組織にしろ必ず変革を繰り返すものです。再生のための自己破壊を拒む枠組みは時の流れと共に衰退し消えてゆくでしょう。私は厳密な実験研究には敬意を払います。ですがそれは実験研究の性質上、例えば心理学あるいは生理学等と認定されるべきであり、それらの学会・ジャーナルで批判的に評価されるべきだと考えます。教科教育学/教科教育研究がエセ心理学者、エセ言語学者、エセ哲学者等の生息地になってはいけないと考えます。まだ言葉が足りないかも知れませんが、こういった事情が私が「実験的」教育研究に対して批判的である理由です。

(作成97/10/25)


以下は「読書ノート02」からの転載です。このトピックに関連すると思われましたのでコピーしました。

『協同するからだとことば』(1998/2/19)

お茶の水大学生活科学部教授の無藤隆さんによる同書(1997年、金子書房、vii+205ページ)は「認識と文化 全14巻」のうちの一冊であり、心理学、社会学、教育学、文化人類学などの研究者にむけて書かれた本です。はしがきでは、同書の理論的概要を

「考えの中核は、G.H.ミードの理論を出発点として、エスノメソドロジーに範を取った相互作用分析、アフォーダンス理論にヒントを得ての「身体知」の考えや、オートポイエーシス理論にヒントを得ての「自己生成理論」にある」(iii)

と述べていますが、同書は「相当の時間を掛けてのフィールドワークなり観察なりがあることも述べておきたい」(iv)という正当な自負のもとに書かれた本でもあります。

序章で無藤さんは(少なくとも現在)主流である心理学の考えに距離をおいた自分達のアプローチを説明します。まずは「科学的」研究では、時に無邪気なぐらいに想定される「能力」という概念です。

「生活とは必ず特定の場での特定の活動への適応である。そこで繰り返し出会い加わる活動に対して有能に振る舞えるようになることはその基底にあるとされる能力の変容を意味するとは限らないのである。実際、生活の中で有能に見える場面もあるし、そうでない場面もある。日常化したからといって、有能に行動できるとするのは、単なる誤解に過ぎない。場面の選び方によって振る舞いのレベル(それをどう決めようと)は様々に変わってくる」(4)

私はこのような一般化・抽象化された「能力」という概念が実は空虚なものではないかという批判精神を、過去の自分の心理言語学的研究(の失敗)やウィトゲンシュタインさんの哲学から学びましたが、無藤さんは次のように続けます。

「そこで選択肢は大きく二つあることになる。基底にある能力を、出来る限り生活や文脈の影響を受けないように調べるか、むしろいっそ、生活や文脈自体を調べるかである。科学的研究としてはあるいは前者の方が価値が高いかもしれない。ごく少数の「変数」の検討で極めて多くの行動が説明できる可能性があるからである。だが、もし普段の生活場面での子どもや大人の振る舞いに関心があるのだとして、その理解や予測が問題であるならば、基底にある能力をいくら調べても何もそこから生まれない危険もある。影響を受けるから排除した生活や文脈こそが重要なのだから、それを排除した研究から得られるものは少ないからである。だとしたら、たとえごたごたとしていようと、個別的な生活や文脈の様子を込みにして、子どもや大人の振る舞いを調べ、概念化していく必要がある。その結果がたとえすっきりした法則にならないとしても、それが実態であり、その実態を知ることが研究のそもそもの動機であるならば仕方のないことである」(4-5)

無藤さんは自分の立場を明らかにします。

「保育について知見を深めたいのであれば、保育場面を丁寧に見ていけばよいのだし、学校の授業について知りたいのであれば授業を丁寧に見ていけばよいのである。その見ていくことで十分研究は出来、研究論文として成り立たせることが出来るのだということがまさに近年明らかになりつつある」(5)

私たちも英語教育研究において上の(いわば当然の)ことを「実証」してゆかねばと思います。無藤さんは「科学的研究」の横暴さ(!?)に少し釘をさします。

「実験的な検討や質問紙調査などは、もし保育や教育や家庭内の問題を解明すると称するのであるならば、その現実の場における問題との関連性を個別的実証的に示すべきである。研究の関連性を示す義務はそれらの(通例心理学で正統とされる)側にある。現実の場における実践を直に扱っている研究は自らの存在理由を示す立証責任は本来はないはずである。そうせざるをえないのは、単に既存の学界への義理立てと共に、「科学的研究」に対する世間のイメージによるのであろう。科学とは明快にして単純な「原因を見出し、それを治療することにより問題を解決することだといったイメージである。しかし、そのような悪玉がいる問題ばかりで生活が成り立っているのではない。多種多様な事情が錯綜しているのを解きほぐすしかないことも多数ある」(5)

心理学よりはるかに現実的である必要がある英語教育研究に従事している皆さんは上の引用をどう読みますか?

第1章で無藤さんは、ルーティンを取り上げます。

「そのルーティンを通して、そのルーティンの実行のみならず、新たな語彙とか、言語行為の条件とかを学び、さらには、文化やそこでの約束ごとを学ぶのだと言われる。その獲得で重要なのは、文化的に有能な他者(通常は親)との相互的なやり取りであり、そこで大人側が子どもを主体として取り扱い、一層そうなれるように援助することである。それは言い換えれば、単に注意の焦点を共有するだけでなく、注意の焦点を構築し、広げ、課題構造に組み込み、さらには、文化的に認められる形へと向けていくことである」(20)

英語教育でもゲームという一種のルーティンが用いられますが、ひょっとするとこの方法はコミュニケーションというあまりに複雑で自由な行為を学習者が取り扱うことができる程度に複雑性と自由度を縮減する仕掛けとも言えるのかもしれません。無藤さんは続けます。

「この過程は、共同注意から共同解釈(joint construal)へと到ることである。相手のどの発話・行為にも意味があると想定し、その意味を探り出し、また解釈の結果を相手に提供し、確認していくことである。相手は自分の発話・行為について同様のことを行っているはずである。それを文字通り受け取れば膨大な解釈作業となり、いわゆる計算の爆発を起こしてしまう。とてもリアルタイムで処理できる推測の量ではない。それを行えるとすれば(そして行っていると想定せざるをえないのだから)、推測を大幅に縮小するための様々な約束ごとやらルーティンがあるはずである。会話の規則なども含め、たくさんのその種のものがあり、子どもでもそれをすぐに操れるようになる。その過程で、初期に重要な役割を果たすのは、ルーティン・フォーマットの確立である。それを通して、文脈や前提の理解について習熟していく。あるところまで来れば(特にその場を離れての指示のことばを理解できるようになると)、関連性の原則を用いて、相手の言うこと・することを解釈できるようになる。文化が象徴的な水準でのフォーマットを提供してくれるからである」(21)

英語教育の教室にも沢山の「ルーティン・フォーマット」があります。しかし上のような視点から捉え直されたことはあるでしょうか・・・とはいえ、一知半解のコメントはこれ以上控え、無藤さんのまとめを見ましょう。

「ルーティンとここで呼んでいるものは、対人的な相互作用を可能にするものであり、その意味で、始めからそこに協同性を含み込んでいる。たとえ、知識として十分に持っていないとしても、互いにそれを補う動きをしたり、物理的な状況からの助けがあったりして、協同的な関係が実現できる。その上で、協同的な関係を維持し発展させる協同的な過程を成り立たせることを子どもが学ぶことが可能になるだろう。協同的な過程がルーティンのそのままの実現と同じではおそらくなく、もっと微妙な意味の分節化を求められ、また意味解釈をめぐっての交渉が必要になるはずである。だが、少なくとも、その過程は、ルーティンが大枠としてあれば、相当に容易になるに違いない」(27)

私はいろいろな実践(特に中学・小学)を見せて頂くにつれ、「ゲーム」あるいは一定の枠組み(=ルーティン)は、英語教育の余興でなはく、むしろ本質的な活動ではないかと思い始めていましたが、どこからどう切り込んでよいのかわかりませんでした。無藤さんのような考え方は一つの洞察を与えてくれるように思います。無藤さんの知見を安直に「応用」することなく、しかし洞察を得ながら今後とも英語教育について考えてゆきたいと思います。

第2章から第6章は、具体的な子どもの分析で、英語教育との関連は少ないように私は感じました(もちろんこれは私の読解力・洞察力が足りないだけなのかもしれません)。しかしビデオカメラの具体的な設定法や記録の取り方などは教室観察にもおおいに役立つ情報となっています。

終章で無藤さんは研究を理論的に総括します。まずは知の身体性についてです。

「小さい子どもの発達が身体的な基礎を持っていることはある意味では常識であるが、問題はいかなる形での身体性かにある。本書で主張したいのは、身体と物との動的な関係が基礎にあり、特に相手との身体的な呼応の関係も含めれば、他者と協同するのも同じ過程なのだということである」(181)

続いて無藤さんは「揺れ」という論点を提示します。

「もう一つの大きな主張は、その動的な関係は揺れを子どもの行動・関わりに持ち込むということであり、同時に、その揺れを通して協同性(もっと一般にはある状況での安定した活動)を可能にする型通りの行動(ルーティン)があるということである。ルーティン的行動を可能にする機構として、揺れがありながら安定させた活動を可能にする比較的容易に小さい子どもでも実行できる仕組みがあるのである。それは、その場にある物や相手との対応する関係である」(181)

「ルーティン」は時に「儀式」と呼ばれたりして否定的に語られますが、その違いを生んでいるのはひょっとしたらこの「揺れ」の存在なのかもしれません。あるいは「型」の習得が創造的な使用に展開するのはこの「揺れ」のおかげなのかもしれません。ですが速断は避けて続けて無藤さんの総括を聞きましょう。

「もっと一般的に本書で展開したい考えを述べれば、行為(動き)の連鎖自体に発達の実態をとらえるのである。すなわち、行為の連鎖の中から変容が生まれるのであり、その変容とは新たな行為の連鎖に他ならない。発達とはその変容の連続である。その上で、協同を、コミュニケーションシステムと思考のシステムとを、幼児において別物ではなく、対象に対する身体的な動きのシステムとして一体化しているところから、徐々に分離する過程にあるととらえるのである。そこでは、相手との関係においては、自他は同質のものとして、協同の関係に貢献する。対人的自己とはそのような関係のあり方を指す。協同の関係から離れて自らの思考過程に自己言及したときに、思考システムが独立するのである。分離の過程における重要な契機が、対象への動きに支えられつつそこから遠ざかることばのコミュニケーションであり、また相手との協同性がつまずいた際のことばの働きである。本書では幼児期の終わりにわずかに見られるものである」(187-188)

いかに「ゲーム」や「授業」といったルーティンから、コミュニケーションという自由で創造的な言語使用が生まれるのか、いやそもそも生まれうるのか、といった問題は上の点から考えてみれば糸口がつかめるのではないでしょうか。

次に無藤さんは河本英夫さんの『オートポイエーシス----第三世代システム』(1995年、青土社)を引用しつつ自説を展開します。河本さんの本は、決してわかりやすい本ではないのですが、無藤さんの今までの論を基にして読むとこれが実によくわかります。抽象的な理論を理解するコツは、徹底的に具体的な問題を思い起こしながら読むことだということがよくわかります。

無藤さんは最後に心理学の方法論に関して再び論じます。

「心理学での指標の多くは、リアリティに確かに基づいているとは言えない。行為のレベルでの何に対応しているかが分からない。相関が有意だとか、その数値が大きいといったことは、具体的な行為のレベルでの示唆を与えない。モデルに指標の解釈が依存し、しかもそのモデルが多数併存している段階では、その特定のモデルに与しないものにとって実は研究はほとんど意味をなさない。多くの数量化はそのようなあやしげな指標に基づいている。評定の行動的基礎もあやしいし、行動的な指標もその意味が多義的過ぎる。具体的な行為の中での検討に絶えず引き戻しつつ分析すべきである。/だが、それはその指標を取ることがいけないと言っているのではない。どんな指標でも役立つが、その意味の検討をさらに勧めるには具体性に戻らなければならないと言っているのである。方法論として観察が優位に立つと言っているのでもない。幼児の場合にはそうであるべきだと思うが、それは対象により当然変わる。思考システムが相対的に独立すれば、それ自体をことばを通して聞き出すことにも意味がある。問題はどの方法もどの指標もそのままで実体化すべきでないというところにある。あらゆる方法を用い、表象的概念的な偽りを脱構築しなければならないのである。しかし、そのために、最も基本となるのは、現場において実際に起こっていることをともかく眺め丁寧に詳細に記述し、疑問が湧けば、再びそのことを行って、もっと詳しく記述することなのだと思う。/あらゆる方法は、より詳しく語るための手だてである。現実は多様だし、おそらくそこで働いている「連鎖」も多数並行しているだろうから、方法や視点の切り口により違うものが浮かび上がってくるかもしれない。あるいは、おなじものの違う面が出てくるかもしれない。それらを総合しつつ考えねばならないのはもちろんである。そして、再び繰り返すが、その際に、現場にあって、素朴に眺めたり感じたりすることを含めなければならないのである。「再詳述可能性」をどうやって組み入れるのかを考えつつである」(196)

「科学的」な実験による英語教育学に従事していると自負している皆さん、上をどう読みますか。もしこれを、柳瀬はまた他人の説の「お墨付き」を得て得意になっている、としか読まなかったら悲しい限りです。

とはいえ私もまだまだ現場の観察が足りません。どうにかして研究の時間をつくりださねば、と思います。


以下は「言葉」からの転載です。このトピックに関連すると思われましたのでコピーしました。


以下は「書評」からの転載です。このトピックに関連すると思われましたのでコピーしました。

『もう一つの社会心理学----社会行動学の転換に向けて』(1998/4/13)

同書(Kenneth J. Gergen著、杉万俊夫他監訳、ナカニシヤ出版、4800円、1998年)は実は最初に松山大学の吉田さんから勧められたのですが、最初は「社会心理学」という言葉にひっかかって、しばらく本棚に横たわったままでした。しかし、読み始めるとすぐにわかったことですが、この本は原題(Toward Transformation in Social Knowledge)が示すように、社会科学に関わる者全てに向けて書かれたものです。もしあなたが英語教育研究の方法論について真面目に考えているのでしたら是非一読をお勧めします。逆にもしあなたが単に惰性で英語教育研究に携わっているのでしたら読むことは決してお勧めしません。私が「言葉」のコーナーに転載したような言葉に怒りをどこにぶつけることもできずに憤然とするだけになりかねないからです。

訳者たちは「実証主義への素朴な信憑が支配的な社会心理学の現状を考えるとき、徹底的に、社会心理学----とりわけ、これまで、圧倒的に、社会心理学の中心であったアメリカ発の社会心理学----に内在した上での、批判的考察を身近なものにすることが必要と思われた」(292)ことを翻訳の動機としています。きちんとした本です。興味を抱いた方は、この書評だけで済ませることなく、是非同書をお買い上げの上、熟読ください(松山大学の吉田さんも書評を書いています----吉田さ〜ん、私はPDFをまだインストールしていないので、書評をまだ読んでないよ〜----。

同書の立場は「新ウィトゲンシュタイン的とでも言うべきもの」(xxvii)とGergenさんは言います。彼は様々な社会心理学研究の事例などを出しながら、二つの結論を出します

(1)任意の理論命題は、経験的に実証(反証)される:人間の行為パターンの広範かつ急速な変動を認めるならば、人間の行為についてどんな理論仮説を立てようとも、その理論仮説は、支持することも、反証することもできる。したがって、仮説の実験による検証とは、基本的に、仮説を確実に支持(反証)するような時間・場所・集団を見極める研究者の能力を試すものにすぎない。

(2)「決定的実験」などありえない:伝統的には、実験は、競合する仮説のいずれをとるべきかを決定するという重要な役割を果たすものとされてきた。言いかえれば、実験とは、競合する説明の決着を着ける場であることが、自明視されてきた。この考え方は、広い範囲にわたって研究戦略の指針となっている。(略)[しかし]もし、実験が完璧に行われたとしても、そこからわかるのは、今観察されたパターンは何か別の過程で説明できるだろう、ということだけである。任意の理論仮説はいつかどこかで支持されうる、という前提を受け入れるならば、実験至上主義(experimentum crucis)の試みは全く生産的ではない。(43-44)

どうでしょう、へ理屈のように聞こえるでしょうか。しかしGergenさんは、社会心理学研究などの様々な事例を引いた上で、上の結論に達しています。是非同書はじっくり読んでください。

上に関連してGergenさんは、「ロスが手を伸ばしてローラの髪をすっと撫でる」という一見単純な行為が、実はどんなに同定することが難しいかを例証して、次のようにも言います。(1)行為は、一旦同定しても、無限に改訂されてしまう。(2)ある行為を同定するということは、その原理からして、経験的に確定してしまえるようなものではなく、絶えず変容する解釈の相互依存的なネットワークにもっぱら依存している。(3)あらゆる行為には、同定するのに複数の仕方があり、それらの間の優先順位は決定できない。(第2章第1節)

このようにGergenさんは素朴な実証主義を徹底的に論破しますが、彼は単に破壊のための破壊をしているのではありません。

科学者が、自分は「単に事実を報告しているだけだ」などと表明するのは、誤りであり、ごまかしでもある。理論家が直面するのは、「この記述はどれぐらい正しいか?」という問題ではなく、「ここで選択した理論的言語は、社会の中でどのような機能を果たすのか?」という問題である。理論的説明は、どんな活動を保持し、作り出し、破壊するのだろうか。言語的説明は、どのように、そして、何の目的で、社会の中で使用されるのか。この観点からすれば、理論と実践との間には、基本的な区別はない。理論的作業は、実践のあり方も規定する。理論とは、いろいろな結果を伴う行為の形態に他ならない。(115-116)

かくして彼は「理論の優劣を決める新しい基準」(143)として「生成的能力」を提唱します----もちろんチョムスキーとは無縁です(^^)----。

生成的能力とは、社会の前提そのものを疑い、現代の社会生活そのものを疑い、「当り前」とされていることを疑い、そして、その結果、社会の中に新鮮な代替案を生みだす能力である。このような生成的能力をもつ理論、すなわち、生成的理論によってのみ、議論が生み出され、社会を変容させることが可能となり、最終的には、社会の秩序そのものを変化させる道が開けるのである。(143)

そのような理論を作り上げるために、Gergenさんは(1)少数意見の明示化、(2)常識的枠組みの極端な拡張、(3)アンチテーゼの探求、(4)新しいメタファーの探求、といった指針を出しています。

さて、このような指針をどう思われます?「そうか、そろそろ実験からは手を引いて、メタファー表現にでもはしろうか」と思ったら、私としては「ちょっと待ってください」と言いたいです。

先日「広場」で、ある方が「データ派の反論求む」と誘ってくれていましたが、案の定と言うべきか、少なくとも今までのところいわゆる「データ派」の方からの反論はありません。そのような状況を目の前にして私が懸念しているのは、このまま英語教育研究が悪い意味での主観的なものに安直に転換してしまうことです。安直に「実験」に流れた人は、安直に「メタファー」などに流れるのかもしれません。英語教育(研究)の具体的な事例を元にしての具体的なきちんとした議論が必要ではないかとも私は思います。

どこで読んだのか忘れましたが、新しい考えというのは、(1)無視される、(2)しぶしぶ認められるものの主流ではありえないと冷遇される、(3)いつのまにかそんな考えは昔から知っていたとばかりに多数の人間に採択される、という順を経て普及し、そして結果駄目になる、という説を読んだことがあります。英語教育研究の「実験批判」の考えも、このような経路をたどるのでしょうか。自覚のないまま流行で研究をやっている(と信じている)人を私は尊敬できません。「実証研究」のあり方についてももう少しきちんと議論しませんか?「実証研究」についてもGergenさんはこう言います。

われわれは、この伝統的な仮説検証を批判するわけであるが、仮説検証の名の下に行われている研究者の行為そのものを捨て去れと言っているのではない。われわれが言いたいのは、その研究者の「実証的」行為は、決して仮説検証のためのものではありえないということである。では、何のための行為か----それは、理論に表現力を与える(vivification)ためのものである。言い換えれば、それは、理論の実証のためではなく、理論の例証のためなのである。(279)

どのような議論でも全くないよりかはましなのかもしれませんが、できれば英語教育(研究)の具体的な事例に即した議論をしませんか?

もしコメントがありましたら「広場」のコーナーにお気軽にご投稿ください!


<表紙へ>