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組織の構築と自生的秩序の進化(1)

----Hayek合理主義論と外国語(英語)教育1----

 

広島修道大学 柳瀬陽介

 

1. なぜHayek合理主義論か

 本論文の目的は、Hayekの合理主義論を検討することによって、外国語(英語)教育、とくにその言語観と教育制度観を捉え直すことである。論文の見通しを容易にするため、その捉え直しの主題を予め単純な対立命題の形で表わしておくとするなら、それは次のようになる。

(1a) 言語があってはじめて言語使用が成立するのか、それとも

(1b) 言語使用があってはじめて言語が成立するのか。

(2a) 精神は言語(使用)を構築するのか、それとも

(2b) 精神は言語(使用)と共に進化するのか。

(3a) 教師は学習者に言語(使用)を構築するのか、それとも

(3b) 教師は学習者に言語(使用)を進化させるのか。

(4a) 教師は授業を構築するのか、それとも

(4b) 教師は授業を進化させるのか。

(5a) 政策決定者は学習共同体・学校を構築するのか、それとも

(5b) 政策決定者は学習共同体・学校を進化させるのか。

本論文では、これらの命題を念頭におきながら論考を進めてゆきたいが、まずこの章では、外国語(英語)教育にとって、なぜHayekの合理主義論が注目に値するのかについて論述することにする。

 

1.1. 認知諸科学の流れ

 筆者はWittgenstein哲学の影響を受けて以来[柳瀬1991]、以前に自分自身従事していた古典的規則計算主義[デネット 1986] の有効性に対して疑念を抱いている。その疑念の明確化は、規則をめぐる論考で一部示してきた[柳瀬1992]。またフレーム問題の指摘[松原1990]や、規則における制約の考え[橋田・松原1994、橋田1994]の台頭にもWittgenstein的な考えの発展を見い出してきた[柳瀬1991,1996]。さらに近年の認知諸科学の発展をみるにつれ、筆者はWittgensteinと時代や地域的背景の多くを共有するHayekの思想に導かれていった。

 

1.1.1.  第二次認知革命と複雑性の議論

 並列分散処理(Parallel Distributed Processing)や結合主義(Connectionism)を主特徴とする1970年代末期から1980年代にかけての第二次認知革命は、それまでの古典的規則計算主義の前提から認知研究を解放しはじめた。コンピュータ・シュミレーションという手法・考え方は、フレーム問題を顕在化して、トップダウン的直列処理の原理的限界を示した。また脳科学からの示唆により並列分散処理の考えが現れ、実際にコンピュータ上でもそれは実現された。計算機科学はさらに原理的進展をもみせ、制約という考え方も結実された。

 制約の考え方は、複雑なシステムを構成するための原理といえる。複雑な認知的活動をロボットに実現させることは、中枢からの計算に基づいて直列的な指令を出すという旧来の手続き的な考え方に基づいていてはおよそ困難である。打開策は、外界の一部である「環境」の部分情報だけを認知主体とのフィードバック・ループに組み込むことであった。さらに計算機科学は、目的-手段構造や環境(フィードバック・ループ)設定も可変的とすることによって、認知主体を環境から独立して考える古典的計算主義を克服し、人類学的見地から明らかになってきた状況認知[Lave 1988]の流れとも通底しはじめた。

 認知主体に関するこの制約の議論と同型の議論は実は経済学にも見られる。完全競争などを前提とする新古典派経済学は、消費者があたかも全ての情報を有し、かつそれを計算し自己の効用を最大化すると考える。しかしこの考えも1980年代頃から同時多発的に顕著になってきた複雑性の議論によって深刻な挑戦を受けるようになってきた[塩沢1990、オルメロッド1995]。

 このように第二次認知革命から明らかになってきた考え方は、複雑性の科学につながるものである[塩沢1994]。実際、この考え方は計算機科学や経済学にとどまらず、脳科学、生物学、物理学、などの諸分野において進展しはじめている[ワールドロップ1996]。進展の具合は、すべての科学がそうであるように、明晰な論証と(広い意味での)実証によって少しずつ確かめられなければならない。だが各分野の最先端の進展を丹念に追うことは、優秀な専業的科学ジャーナリストにしてはじめて可能なこととなりつつある。私たちのように外国語(英語)教育を専門とする者にしても、限られた時間の中で自身の探究によって諸科学分野の最先端に通暁し、かつ外国語(英語)教育の問題を考えていくことは、非現実的といえるであろう2。他方、そうだからといって、一部の応用言語学的・心理言語学的研究にみられるように、旧態依然の研究スタイルに自足して事足れりとすることは、似而非学問的態度といえる[柳瀬1995,1996]。したがって筆者はこれらの拡散的に進展する諸科学を視野にいれつつも、むしろそれらに共有されると考えられる原理の方を遡及的に探究し、その原理的考察によって外国語(英語)教育の論考を独自に構築するという方法をとることとする。状況的認知における原理的考察を助けた鍵となる哲学は前期Heidegger[1927]のものであったが[Winograd & Flores (1986)、柳瀬(1994)]、この複雑性における鍵は、計画経済(ひいては全体主義体制)を批判し、知識の分散について早くから考察していたHayekであるといえよう3。かくして認知諸科学、ひいては複雑性の科学一般の進展を視野に入れた外国語(英語)教育学構築のため、Hayekの哲学を探究することとする。

 

1.1.2.  言語論の流れ

 認知諸科学一般の流れだけでなく、言語論という流れからみても、Hayek哲学の検討は有益であるように考えられる。

 アメリカ合衆国においては様々な歴史的要因により、言語学学科の研究者の約三分の一がChomsky言語学を専門とし、さらにもう三分の一の研究者もChomsky言語学の影響下にあるといわれる。言語学の「政治的抗争」によって、狭義の形式的言語学のスタイルをとらない研究者は、狭義の言語学学科から放逐されている[ニューマイヤー1994] 。日本においてもChomsky言語学の影響は、特に英語学(出身)の研究者の間で強いようで、Chomsky的な研究スタイルをとらない研究は研究にあらずといった理論的偏見を公言する研究者さえみられる[大津1993] 。だが言うまでもなく、外国語(英語)教育の研究者が、Chomsky的研究方法だけにしか目を向けないことは(それを毛嫌いすることと同様)賢明なことではない。したがって地域的偏向・理論的偏見からできるだけ自由に言語論の流れをみることを試みるならば、私たちは少なくとも三つの流れに気づくことになる。

 一つの流れは、言語論が古典的集合論の限界に気づきはじめたことである。Wittgenstein[1953]の家族的類似性に影響を受けたロッシュはプロトタイプの概念を前面にだすことによって、古典的集合論が要請する「カテゴリーに共通する要素」という考えを退けた。これによって言語学が考える「言語」も(少なくとも意味においては)、明確な境界線によって規定できるものではないことが自覚されはじめた。人間の言語が古典的集合論的に規定しきれるものでないという再認識4は、その後の言語研究の柔軟な発展に貢献したと考えられる。

 第二の流れは、言語論が私たちの身体や環境を考察の枠組みに入れはじめたことである。おそらくはLakoff & Johnson[1980]のメタファー研究を嚆矢として、私たちは私たちの言語表現が、いかに私たちのもつ身体図式によって規定されているかを学びはじめた。またReddy[1979]の導管メタファーの指摘で示されたように、ある種の言語使用は私たちの身の回りの環境の捉え方によっても誘発される。このように言語の問題は(例えばChomskyが考えたがるように)もっぱら脳内だけの問題と考えるのではなく、特定の身体や環境をもつ存在としての人間の問題として考えるべきであることが次第に自覚されてきた。少なくとも身体の問題は「認知意味論」[中右1994、吉村1995]や「認知文法論」[山梨1995]において言語学公認の問題となった。またこの第二の流れは先ほどの第一の流れと連動し、先験的で普遍的な説明方法を安易に前提はしていない。身体の使用や環境の捉え方に伴って言語使用の秩序が成立するという考えが言語学にも定着しはじめた。

 第三の流れは、言語論が言語使用の過程を主要な問題としはじめたことである。周辺諸分野に強い影響を与えたSperber & Willson[1986]の関連性(relevance)の考えは、あらゆる発話に対して唯一の意図された解釈を自動的に生成するような機械的な手順はないということを明らかにした。聴き手は可能な解釈のどれかを、認知的なcostとbenefitの関係からの関連性の原理に基づいて形成しうるのみである。言語使用の解明を具体的なプログラムあるいは手続きの説明によってはかるのではなく、過程における抽象的な原理にとどめておこなう言語論がここで打ち立てられた。計算機科学の制約の考えと同型の議論である。言語論も「先験的詳述は可能であり、また理論はそれを目指さなくてはならない」という思い込みから解放され、過程の原理的説明を目指すという研究方向が確立しはじめたと評価できるだろう5。

 こういった流れは、例えばWittgenstein[1953]、バフチン[1980,1988]、時枝[1941]などを先駆者とする言語論の系譜につながっているといえる。日本においても例えば尼ケ崎[1989]や深谷・田中[1996]らの著作によってこの流れは一層影響力を増していると考えられる。これらの古くて新しい流れを統括的に理解する原理の理解は、外国語(英語)教育の研究者にとって有益であろう。筆者はHayek哲学がそのような原理の理解を助ける一つの鍵だと考えている。

 

1.2. 英語教育における諸論争

 以上みてきたように、認知諸科学(および科学一般)や言語論においては新しい考え方が台頭している。ところが英語教育における諸論争においては、そのような兆しが少ない、あるいは新しい考え方が必要であるようにも思える。以下三つの事例を挙げてみたい。

 

1.2.1.  小学校への英語教育導入

 周知のように小学校への英語教育導入は、近年の英語教育界の最大のテーマの一つである。「これからの社会は、変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代である」という中央教育審議会の指摘[1996]を待つまでもなく、この問題は慎重かつ根源的に議論をつくすべきであると考えられるが、英語教育関係者の議論の多くは旧態依然であるようにすら思える。国立教育研究所外国語教育研究室室長として、学校教育や語学教育に関する5研究団体で話をする機会を得た渡邊[1994]は、英語教師の態度に失望の念を感じたことを表明している。それは「言語習得に管する世界の国々の実験結果や英語の普及度の状況から、日本でも小学校の段階から英語教育を導入するのが当然である、とただ一生懸命訴えるだけの英語の先生が多い」からである。渡邊によれば多くの英語教育関係者が、あたかも「英語のことだけを考えていればよい」かのごとき発言をし、小学校教育の他の要因との関連を考慮にいれていなかったという。私たち英語教育関係者のこのような態度は、選択か必修かという問題への関心の薄さにも反映されてるようである。公立小学校の英語教育の論点を整理した和田[1996]は、「小学校で英語教育を行なう場合、それは「必修」なのだろうか「選択」なのだろうか。このような疑問を呈すること自体が無意味と思われるほど「必修」が当然と考えられているようである」と述べている。

また小学校における外国語教育は「国際理解教育の一環として」行うことが中央教育審議会答申であるが、樋口[1994]は文部省の実験校でも「国際理解」の目標の下に実際になされていることは、西洋、特にアメリカの行事を取り上げることぐらいであったことを指摘し、英語教育関係者の問題意識の狭さを指摘する。樋口と同じ対談に参加した土屋[1994]も「本当は英語教育を前面に出したいんだけれども、英語教育では通りそうもないから外国語教育、外国語教育でも通らないようだから国際理解教育というオブラートで包んでいるという感じがする」と率直な意見を表明している。

 さらに同答申では、外国語教育は「教科として一律に実施する方法はとらない」とされている。確かに「学校や地域の実態等に応じて」(同答申)、柔軟に英語を導入している実験校例も若干報道されてはいる[NHK 1996]が、実際に導入された際にこの方針が実行されるかに関しては、懐疑的意見も多い。「弾力性に富んだ、自由度の高い学習指導要領が望ましい」との樋口の意見を受けて、和田[1994]は「でも、役人をやっていた感覚から言いますとね、小学校に、それほど柔軟な、別の言い方をすれば曖昧な指導要領ってできないでしょうね。」と語る。現代日本の教育関係者にとって明確に定義されていない教育という発想は馴染みがないものなのかもしれない。

 実際、我が国有数の英語教育の論客である若林[1996]も、国際理解教育の一環としての導入という答申内容が明らかになった後でさえ、「カリキュラムできていない」から導入には反対であると述べる。若林は次のような理由を第一に挙げて英語教育導入に反対する。

どのような英語をどのように教えるかが、まったくわかっていないのである。「英語を教えればいいだろう」などという浅薄な考え方では教育はできない。教育を行うのであれば、そこには、その教育の到達目標が明確に示され、その到達目標を達成するための手順が明示されていなければならない。「カリキュラム」である。小学校に英語を導入するためのその「カリキュラム」が、現在のところまったくゼロの状態である。

若林によればカリキュラムとは「明確に示された到達目標達成のための手順の明示」であり、それがない教育は教育とは呼べないことになる。

このような私たち英語教育関係者の発想は、「教科の枠を越えた横断的・総合的な教育活動の展開が、必要かつ有効であると考えられる」という中央教育審議会答申の基本認識とあいいれないように思える。であるがそれ以前に、私たちの発想が、実はかなり縛られているのではないかを検討する必要があると考えられる。「英語教師が英語のことしか考えていない」という一般的批判はさておくにせよ、カリキュラムとは「明確に示された到達目標達成のための手順の明示」だけしか意味しないのか、またそのようなカリキュラムなしには教育が成立しないのかどうか根本的に考えておかないと、日本の学校英語教育は「変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代」(同答申)にまったく対応できないシステムになるかもしれない。

 

1.2.2.  英語帝国主義論

 私たち英語教育関係者の発想法を考える際に、英語帝国主義論をめぐる論争も興味深い題材となる。誤解のないように最初に述べておくが、筆者は「英語帝国主義」の告発[津田1990、1993、1996、中村1993]は、近年の英語教育をめぐる論考のなかで最良のものの一つであると考え、高く評価している。特に中村[1994]の「実用主義的認識」に対する「理論的、理想論的認識」の提唱は、価値問題を扱う教育にとって避けて通れない問題を指摘した注目に値するものであると考えている。だが、週刊金曜日誌上での論争の展開は、その「理論的、理想論的認識」にすら問題があることを示しているように思われる。以下、後の議論のために簡単にその論争を振り返ってみたい。

 同誌での論争は主にジャーナリスト筑紫および一般読者の側と、英語帝国主義告発者の中村と津田の側の間で展開されたと整理できる。筑紫[1994a]が、不平等性を意識しながらも手段としての英語を使わざるをえないと述べると、中村[1994]は「理論的、理想的認識」に立ち戻る必要を訴える。さらに津田[1994]は批判と懐疑の精神がなければ私たちが差別の問題にも無自覚となりかねないと力説する。対して筑紫[1994b]および英語教師の松元[1994]は「文化の問題を「侵略」の加害者対被害者の関係だけでとらえること」は、問題を単純化しすぎるのではないかと、告発者の理論・理想だけでは問題を捉えきれないことを指摘する。加えて一般読者の高田[1994] は共通言語として人工語を採択することに「理論的には理解」を示しても、「現実問題として、背後にあるべき特定の人や文化・歴史をまったく感じさせない言語を、その効用のみを期待して、コミュニケーションの手段として利用できるまで習得することが可能だろうか。私自身はそのような味気ない学習などしたくないし、またできないだろう」と外国語学習の理屈だけでは割り切れない部分を表明する。さらに筑紫[1995]は、「アジア的価値観」の唱道者として、最も欧米的価値観に批判を繰り返すマハティールやゴー・チョクトンらがAPECでは唯一の公用語としての英語を流暢に使いこなすことなどを取り上げて「言語の問題が一筋縄ではいかないこと」を指摘する。またインターネットの普及や小学校への英語教育導入の提言を踏まえて筑紫[1996]は、「もはやノー天気に「国際化」を礼賛しておればよいという段階でもなければ、ただ「帝国主義」や「文化侵略」を言い立てるだけで実効がある状況でもない」と述べ、「この流れは不可避、不可逆だと私は思う。そういう考えは、現状追随だと当然批判があるだろうが、批判は現実の進行に何の効力も持たないだけでなく、本来「帝国主義」に反対してきたはずの論者が、対極の偏狭な「国粋主義」と手を結ぶ結果に陥りかねない」と指摘する。実際、津田[1996]を書評した堀部[1996] は、津田の批判を高く評価しながらも、「『西洋病』への処方箋」における津田の提言がナショナリズムの色彩を帯びてきていると評している。

 この論争を筆者なりに四点に集約してみよう。その際、簡便のために中村の言葉を借りて、両陣営をそれぞれ理想論者、実用主義者と称することにする。第一点は、実用主義者でさえ、批判としての理想表明(英語帝国主義の告発)には賛同・理解を示していることである。批判は妥当なものであり必要ですらある。ところが、現状批判としては理解できる理想表明も、その理想に基づいた計画を具体的にイメージする段になると、その理想だけでは割り切れない面があることを実用主義者は指摘する。理想によって複雑な現実の一部は明らかに批判されるが、その批判的視点のみからの計画によって新たな現実を構成しようとすると、それはそれなりに片寄った構成になるだろうという実用主義者の指摘が、論争の第二の集約点である。さらに第三の点として、理想論が現実の多様な複雑性を無視し続けると、その理想論自身が教条的なイデオロギーの色彩を帯びはじめるということが挙げられる。またこれは論争には示されなかったが、第四点として理想論は権力(power)を欲しはじめる可能性が高いということも指摘できるだろう。例えばもし英語帝国主義者の提案の一つのように、仮に中等教育でアジアの言語が選択用の外国語科目として開設されたとする。この時もし学習者全員がその新設アジア諸言語に見向きもせず英語を選択したら、理想論者はどう反応するだろうか。新設のためにかかった費用などからすれば、学習者が望まない外国語を結果的に「強制的に選択(!)」させるような結果におちいることも十分に考えられる。啓蒙にもかかわらず理想に従う者がいない場合、従わない人間は権力(power)をもって指導されるべきだと結論されることは想像に難くない6。

 これらの四点からしても私たち英語教育関係者が面している発想のジレンマが明らかになる。教育において、価値問題や理想を無視することはできない。だが批判としては賛同できる理想も、その計画的実現となると賛同できない場合もでてくるし、その理想自身が硬直化したり権力(power)奪取へと向かい、その理想からこぼれおちる面を圧殺する可能性も控えている。私たちが理想を語り教育を計画することは全体主義的結末につながる危険性を必然的にもっているのだろうか。ここにおいても私たちがHayekの哲学を検討する必要があるように思える。

 

1.2.3.. 山岡の批判

 英語教育に関する論争の最後の事例として、第二言語習得論の権威である山岡[1995]の、拙著『模倣の原理と外国語習得』[1994]の書評における批判と、それに対する筆者の応答[1995]を取り上げたい。

 山岡は拙著では問題点が拡散しがちであることを批判した上で、「学校教育とはそもそもどういうものであるか」を考察する。山岡は「実生活の中で子供が価値あることを学びとることは可能であるが、この場合の学習ははなはだ偶然的で偶発的で、ほとんど子供任せになる。自然に任せれば、学習そのものが成立しえないような劣悪な生活環境を強いられる子供もいるはずである」と述べる。したがって山岡によれば「学校教育の基本的発想」は「機会均等的で体系的で効率的な学習の場を用意しなければならない」ということである。山岡は「教材はロゴスとして存在している」と体系性を強調した上で、「意図的で人工的な教育的空間」においては効率性が重視されるべきであり、私たちは外国語教育の「教育的意義を認めるのであれば、それをすべての学習者に体験させるべきである」と主張する。

 上の段落に要約した山岡の批判に対して、筆者は「近代的学校教育観は現代日本の英語教育においても問題がないか」という見出しで短い反論を加え、「機会均等的」「体系的」「効率的」という言葉をもはや私たちは素朴に前提することはできないことを論じた。だがその後、山岡の批判を読み返すにつれ、山岡と筆者ではどこか根本的に発想が異なっている所があるのではないかと感じはじめた。

 例えば上の山岡の指摘にしたがえば「偶然的で偶発的」な「子供任せ」の学習は教育的でないことになる。だが学習理論における「学習」7ならともかくも、「学び」において偶然性、偶発性そして自発性は望ましくないものであろうか8。これに関しては例えば状況的認知論の知見からの議論9が望まれるだろうが、筆者としてはここで根本的な考え方の違いに注目しておきたい。教育制度あるいは教育内容という「秩序」の成立において、山岡は意図性、計画性(人工性)を当然の前提としているようである。だがそれらだけが秩序成立のあり方だろうか。この点についてもHayek哲学は私たちの思考の枠組みを広くしてくれるように思える。

 また、山岡は同書評の他所で「本来的に「優れた模倣」と「劣った模倣」という異なった心理的模倣の過程があるのではなく、共通した模倣の心理的過程が気持の持ちようで、覚醒された模倣となる場合と、猿真似に堕す場合に分れるのである」と主張する。この「共通した心理過程」に関しては、例えば、認知における感情(気持)の役割に関する一般理論を踏まえた上で、脳科学の実証的な知見によって議論されるべき問題であろう。だがここで筆者が問題にしたいのは根本的な発想の違いである。山岡は「共通した心理過程」という表現で、心理過程が共通することを当然の前提としているようである。だが「過程」とは共通して存在しうるものだろうか。少なくとも計算機科学の制約の考えや、発話理解における関連性の考えは、「過程」を特定できることに対して否定的であった。また複雑性やカオスの基本的考え方は「過程」を予測すること・特定することがおよそ不可能であることを根本発想としていた。過程が特定できないとすれば、「共通の過程」とは成立困難な概念となるのではなかろうか。私たち英語教育関係者は根本発想において再検討を要するのではないだろうか。

 山岡は筆者の研究発表には「しばしば哲学者の名前が出てくるので、私はこれまでこれを敬して遠ざけてきた」と述べる。だが以上述べてきたような三つの問題を考える際にしても、私たちは自分たちが当然の前提としていることを再検討しなければならないことが示唆された。外国語(英語)教育研究者も哲学を敬遠し続けることは許されない。次の章ではHayekの合理主義論を探究することにしよう。

 

 

2. 組織の構築と自生的秩序の進化

 

 市場に関する深い洞察をもつ経済学者として、社会主義国家の計画経済の理論的困難性を論証し続ける一方、早い時期からナチズムおよびスターリニズムさらには社会主義的発想の全体主義性危険性を指摘していたHayekは、早い時期から著書『隷属への道』[1944/1992]や論文「真の個人主義と偽の個人主義」[1948/1986] 「社会における知識の利用」[1948/1986] において、狭い意味での「合理主義」の適用が社会的災厄を招くという主題を明らかにしていた。その主題は『科学による反革命』[1952/1979] 、『自由の条件』[1960/1987]などを経て『法と立法と自由』の第一巻『規則と秩序』[1973/1987]において精緻化される。この章では同巻のHayekによる用語を、後々の外国語(英語)教育研究のための概念装置として使えるように、筆者なりに整理しておきたい10。

 

2.1.  二種類のの合理主義

 Hayekは人間の諸活動(human activities)のパターンをみるには二つの考え方があるとする。一つは構築者的合理主義による考え方であり、もう一つは進化論的合理主義に基づく考え方である。

 

2.1.1. 構築者的合理主義

 Hayekは、私たちが科学的、政治的見解として広く受け入れている見解が、実はある社会的制度の形成(the formation of social institituions)に関する特定構想(a particular conception)に依拠している(5)ことを指摘する。この構想をHayekは「構築者的合理主義(constructivist rationalism)」11と命名する。構築者的合理主義では、「すべての社会的制度は意図的な設計(deliberate design)の産物であるし、またそうあるべきである」(5)と考えられる。この見解によれば、「人間の諸制度(human institutions)が、人間の目的(human purposes)のために役立つようになるのは、それらの制度が意図的に設計された(deliberately designed)時のみ」(8)であり、「私たちの行為(action)すべてが、周知の目的(known purposes)によって、完全に指導される(wholly guided)ようになるために、私たちは社会とその諸制度を再設計(re-design)するべきだということに常になる」(9)という。

 たいていの人にとってこれらの命題(propositions)は自明(self-evident)であり、およそ人間が思考する存在ならば、この考えのみがふさわしい(9)と考えている。これら構築者的合理主義はデカルトによって最も完全な形で表現され12、ホッブスによって社会的、道徳的議論において精緻化されたとHayekは述べる(9)

デカルトにとっては、理性(reason)とは明示的前提(explicit premises)からの論理的演繹(logical deduction)であったから、合理的行為(rational action)も、周知の証明可能な真理(known and demonstrable truth)によって完全に決定される(determined entirely)ような行為のみを意味するようになった。ここからほとんど必然的に引き出されてくるのは、この意味で真理であるもののみが成功を生む行為に導き、したがって人間に成果(achievements)をあげさせるものは、すべてこのように考えられた理性の行使(reasoning)の産物であるという結論である。このような仕方で設計されなかった制度や実践(practices)が有用性をもちうるのは、まったく偶然によるだけである。このような考え方が、伝統、慣習(custom)、歴史一般を軽蔑するデカルト派構築主義(Cartesian constructivism)の特徴的態度となった。人間の理性のみが社会を新たに構築する(construct society anew)ことを可能にするというのである。(10)

 構築者的合理主義者は、社会的制度は,人間が理性を行使して明示的に命題を演繹して人工的に作り上げるものであり、またそうでなくてはならないと堅く信じる。仮に社会的制度が自覚無しの慣習的なものであり、かつそれがうまく働いているにしても、それはまったくの幸運な偶然によるものであるにすぎない。ここにおいて、意図的な決定を示す「人工的(artificial)」という言葉は、人間の特質を描く形容詞として扱われ、そのような決定を欠くことを示す「自然的(natural)」という言葉と二分法的に対立させられている(20)。社会的諸制度における「秩序」とはあくまでも「作られた(made)」(35)ものであり、私たちが人工的に作るものであると構築者的合理主義者は考える。

 人工的に作るのであるから、当然そこには構築者たる精神(mind)が存在するに違いないと構築者的合理主義は想定する。だが、諸現象の規則性(regularity)すべてを、思考する精神の設計(the design of a thinking mind)の結果として、擬人的に(anthropomorphically)解釈するこの見解は、私たちの原始的な考えの性向 (propensity of primitive thought)に根ざしたものであるとHayekは指摘する(9)。18世紀から19世紀にかけて人間はこの擬人的思考からの解放を自然科学において達成した13。だがそれとは逆に人間・社会科学の分野においては、例えばサン・シモンやコントらのフランス啓蒙主義者によってこの擬人的思考は力を得て、「誤った偏見からの人間の精神(mind)の解放をめざす」、「理性の時代(the Age of Reason)」の支配的構想となった(9)。しかしHayekによればこのような考え方は、社会のような存在(entities)を人格化(personify)して考える原始的な「アニミズム(animism)」と、秩序の成立を設計(design)に帰して考える近代的な「作意主義(intentionalism)」「人工主義(artificialism)」「構築主義(constructivisim)」との融合であり、彼はこれを「擬人主義(anthropomorphisim)」と総括する(27)。

 ともあれ構築者的合理主義は、理性を明示的前提からの論理的演繹とみなし、「意識的理性がすべての特定の行為を決定すべき(conscious reason ought to determine every particular action)」と考える。したがってよりよい社会的制度は、ある人が意図的な配置(deliberate arrangement)をすることによって作られる。となるとその構築者は配置のための権力(power)をもつべきだということになり、社会の秩序(order in society)は、指令(command)と服従(obedience)の関係いかん、あるいは社会全体が、上位者(superiors)ひいてはある単独の最高権威者(single supreme authority)の意思(will)によって各個人の行為を決定されるような階層構造(hierarchical structure)をもっているかどうかに依拠していなければならない(36)、となる。これは、「秩序はシステム外の力によって(「外生的に」)のみ創造されるという信念(the belief that order can be created only by forces outside the system (or 'exogenously'))」から全面的に導出される権威主義者的(authoritarian)考えである(36)とHayekは指摘する。かくして構築者的合理主義は、無制限の権力(unlimited power)が私たちの望みを実現してくれるのだという感覚を私たちにあたえる(8)。

 この構築者的合理主義は、抽象(abstraction)に満足していない(29)。Hayekによれば、抽象概念(abstract concepts)とは「私たちの精神(mind)では十分に支配できない(not capable of fully mastering)具体的なものの複雑性(the complexity of the concrete)に対処するための一つの手段」(29)なのであるのだが、構築者的合理主義者の信奉者はこのことを認識していない。彼/彼女らは、秩序は精神(mind)によって構築され作り上げられると信じ、その構築に基づく指令を具体的に作成するべきだと考える。規則は、諸現象の因果関係を明らかにするものであり、私たちはその規則と目的を組合せて指令を作成し、それを実行することによってはじめて秩序を作り上げることができる、とされる。したがって学問研究は、規則の発見によって因果関係を説明するべきであり、社会機構はそれらの因果関係の説明に基づき、かつ目的にかなった指令を出し、それらがきちんと服従されるよう権力(power)を行使するべきだという帰結に構築者的合理主義は到達する。

 たしかに「相対的に単純な現象の場合(少なくとも単純な「閉鎖系(closed systems)」を近似的に隔離できる場合)」(16)には、特定の出来事(particular events)を説明し(explain)予測する(predict)こともうまくいき、上の構築者的合理主義の考えも間違いとはいえないであろう。だが「理論を非常に複雑な現象(very complex phenomena)に応用する(apply)段になると」(16)、科学は事実面での無知(factual ignorance)という壁にぶちあたる。因果説明的な科学理論は、複雑な現象のごく一部を、閉鎖系あるいはそれに近い単純系と想定して構成されているのであるから、その理論構想からこぼれおちた事象にあふれる現実に応用されても頓挫するだけである。指令ひいては構築は因果的説明的な科学に基づいて設計されるのであるから、こうしてみると、構築者的合理主義者が想定する社会の秩序形成は閉鎖系だけで成立するものであり、現実世界においては妄想でしかないことが明らかになる。構築者的合理主義で社会の秩序が作り上げられると考えるのは、(「全体主義」という政治的な難詰以前に)、知的な誤謬(error)である。

 Hayekはこの構築者的合理主義者たちに特徴的な、すべてを見通すことができると信じる誤謬を、「通観妄想(synoptic delusion)」(14)と呼ぶ。彼/彼女らは「関連する事実のすべてはある一つの精神(mind)に知られており、特定事実(particulars)に関するこの知識から一つの望ましい社会秩序(a desirable social order)を構築することができるという虚構(fiction)」(14)にもっぱら依拠して議論を組み立てる。Hayekはいう。「「とても秩序正しく、可視的(visible) で、非常に理解しやすい」ためにこのようなアプローチから生まれる美しい計画(the beautiful plans)に魅せられている人はすべて、通観幻想の被害者であり、これらの計画の見せかけの明快さは計画者が自分の知らない事実をすべて捨象したからであるということを忘れている」(15)。

 こうして私たちは、Hayek哲学によって、私たちの多くが無自覚にもっているだろう構築者的合理主義の諸特徴と限界を知るにいたった。次は構築者的合理主義と対比的に規定された進化論的合理主義を検討することにしよう。

 

2.1.2.  進化論的合理主義

 先に述べたように私たちはとかく「自然的」という概念と「人工的」という概念を二区分的(dichotomous)な対極概念として考える。しかしHayekによれば元々のギリシャ語には「自然による(by nature)」をあらわすphysei、「慣習による(by convention)」をあらわすnomo、「意図的な決断(by deliberate decision)」をあらわすtheseiの三つの区別があった。しかし後年の学者は、しばしば最後の二つの意味を区別しなかった。また紀元後二世紀のラテン語文法学者のゲリウスがphyseiとtheseiというギリシャ語にnaturalisとpositivusという言葉をあてて以来、その影響は多くの欧州言語におよんだ(20)という。

 かくして秩序は「自然的」に成立したのか、(意図的な決断によって)「人工的」につくられたのかのどちらかであるという思考法が広く普及したが、18世紀のマンデヴィルやヒュームは、人間の意図的な設計・構築によって作られたのではないが、それでも人間の影響を受けている、「自然的」とは呼べない第三の範疇があることを明確にした。これは後にファーガソンによって「人間の行為の結果ではあるが、人間の設計の結果ではないもの(the result of human action but not of human design)」と叙述され、後の理論的社会諸科学の対象を提供することになった(20)。

 こういった秩序は「成長した」(grown)とも称せられるが、Hayekは概ね「進化(evolution)」という表現を使っている。だが「進化」という言葉は社会科学の分野ではとかく誤解を受けやすい。Hayekは主な二つの誤解をあらかじめといている。

 第一の誤解は、「進化」という言葉を正統なダーウィン進化論とではなくて、「社会ダーウィン説(Social Darwinism)」と結び付けて考えることから生じる。スペンサーらの社会ダーウィン説の論者は、ダーウィンの進化論を社会現象に適用したが、その際論者は選択の過程(process of selection )がはたらく(operate)対象を、もっぱら生得的な生物学的特徴(innate biological characteristics)と、生理学的遺伝(physiological inheritance)によるそうした特徴の伝達(transmission)に集中して考察をしてしまい、選択過程が社会的制度の形成につながる文化的伝達においてはたらくことに関して考察することをないがしろにしてしまった。たしかにダーウィンの進化論は前者の伝達にかかわるものであるが、Hayekは、進化論の考え方は、後者の伝達にも適用されるし、人間・社会の諸分野においてはむしろ後者の文化的伝達に力点をおくべきだと考えている(23)14。

 第二の誤解は、進化論を「進化の法則(laws of evolution)」から構成されると考えるところからくる。「進化の法則」という表現は、しばしば「進化の過程は、特定の段階や局面を必然的に進行する」とか、法則を適用することにより「未来の進化の道筋が予測できる」(23)とかいうことを含意するが、これらはまったくの間違いであるとHayekは断言する。Hayekはいう。

進化論自体は、あまりに数が多くて全体像がつかめない無数の特定の事実に結果が依存している過程を説明(account)しているにすぎず、それゆえ、未来についての予測には至らない。その結果、私たちは「原理の説明(explanations of the principle)」」または、過程がたどる抽象的パターン(abstract pattern)を予測することにとどまるのである(24)

つまりHayekが「進化」という言葉で意味しているのは、具体的には特定も予測もできず、原理的・抽象的なパターンでしか理解できない過程である。社会的諸制度の秩序の形成は、複雑すぎて私たちには具体的には特定できない。したがって私たちは複雑な開放系(open system)の科学的探究においては、個々の特定の因果関係を説明しようとするのではなく、抽象的な原理の解明をめざすべきだという考え方が生じる。これが「進化論的合理主義(evolutionary rationalism)」である(6)15。現代の私たちはカオスや複雑性の考えにより、このようなアプローチに慣れようとしているが、Hayekははるか前からこのような合理主義を自覚しそれに形を与えたきたといえるだろう16。Hayekはいう。

俗説とは逆に、科学は特定事実の知識から成り立っているのではない。非常に複雑な現象の場合は、その理論が私たちに具体的な出来事の予測の力を与えようというのであれば、私たちが知らなければならない特定の事実の全てを確かめることの実際的不可能性(practical impossibility)によっても、科学の力は限定される(15)。

 考えてみれば、私たちはなぜか知らずに従っている無数の規則によって社会的秩序を維持している(私たちにとって言語はその好例だろう)。「私たちの全文明は、私たちがデカルト派の意味では真であるとは知りえないことを多く信じている(our believing much that we cannnot know to be true in the Cartesian sense)に依拠しているし、また依拠せざるをえない」(12)といえる17。合理主義を構築者的合理主義のように、あくまでも精神(mind)によるすべての意識的掌握と考えるなら、進化論的合理主義を抱くHayekや彼の先駆者であるマンデヴィルやヒュームは「反合理主義者(anti-rationalists)」ということになるのかもしれない。しかしもし合理主義が「理性をもっとも効果的に活用する(to make mind as effective as possible)」ことを意味するのなら、Hayekらこそが合理主義者である。構築者的合理主義者の虚構を複雑系に適用するのは端的に誤りであるのだから、Hayekに言わせれば、構築者的合理主義は「非理性的(unreasonable」(29)である。

 進化論的合理主義においては、すべてを設計・構築する特権的な単独の精神(mind)18は想定されない。進化論的合理主義においては、精神(mind)とは世界の外に独立して存在し、世界(の一部)を構築するものだと考えるデカルト派二元論は想定されない。Hayekはいう。

精神(mind)は、人間が住む自然的・社会的な周囲の状況(surroundings)への適応(adaptation)の一つである。精神(mind)は、社会の構造を決定する諸制度(institutions)と絶え間なく相互作用(interaction)するなかで発展(develop)してきた。精神(mind)とは、精神がその中で育ったのであって決して作ったものではない社会的環境(environment)の産物であると同時に、制度(institutions)に働きかけて制度を変更するようなものでもあるのだ。精神(mind)は人間が社会のなかで発展し、自分が所属する集団の存続の可能性を高めてきた習慣や実践を習得した結果である。すでに十分に発展していた精神(mind)があって、それが社会での存在を可能にする諸制度を設計したのだという構想は、人間の進化に関して私たちが知っていることに反するものである。(17)

デカルト派の思想家とは違って、Hayekにとって精神(mind)は単独で世界の外に存在するものではない。精神(mind)は、精神(mind)と環境、および精神(minds)間の相互作用性と、その連続による発展の中でのみ存在するものである。端的に言うなら、精神(mind)は社会-文化-歴史的な存在である19。

 こうしてみると理性の仕事は、精神(mind)を最大限に使用して事象を掌握することではなく、精神(mind)の限界を自覚すること、すなわち、精神(mind)がどこまでを制御(control)でき、どこからは自身では完全に制御できない諸力(other forces)に依存しなければならないかを判断すること(29)である。複雑系においては、私たちが単純閉鎖系において配置(arrangement)によってもちうる権力(power)に比べて、はるかに小さな権力(power)しかもちえない(41)。その精神(mind)の権力の見極めが理性の仕事である。したがって進化論的合理主義は、ある精神(mind)が大きな権力(power)をもつことを要請しない。Hayekはいう。

理性は一つの規律(discipline)、つまり成功をよぶ行為の可能性の限界についての洞察にすぎない。理性はしばしば、私たちが何をしてはならないかを教えてくれるにすぎない。私たちの知性(intellect)では現実をその複雑性のままに捉えられないからこそこの規律は必要なのである。(32)

進化論的合理主義は、ある特定の精神(mind)が権力(power)をもちすぎることに警戒することを要請する。社会的諸制度が発達するのはある精神(mind)が権力(power)をもつことによってではない。もしそうなれば私たちは、その単一の精神(mind)の知性だけに、複雑な世界における私たちの運命をゆだねてしまうことになる。もしそのように一つの精神だけに全面的に依存し、その精神の知識と意志(will)が全てのことに決定を下すなら、その決定はこの精神にとって周知で消化されたものだけによって下されることになる(49)。複雑な世界においてそれは「極度に原始的」(49)で無謀であり、また権力(power)の暴走を招きかねない危険な試みである20。そうではなくて社会的諸制度は、個々の主体(agent)が、相互作用の中で適応するためにさまざまな選択を繰り返しその選択の結果を何らかの形で後に伝えること、つまりは進化することによって発展すると進化的合理主義は考える。個々の主体がなすべきことは、一つは自分の適応のための選択をしつづけることであり、もう一つはその自由な選択を阻むような仕組みの台頭を阻止することである。

 だが、自由な選択が保障されることは、それほど簡単なことでもない。歴史的にみれば、私たちは初期資本主義の「自由競争」が一部の人々に悲惨で絶望的な状況しか与えなかったことを知っている。現代資本主義社会においても、ある企業が独占体制を完成したら、消費者は選択できず、商品の発展も止ってしまうことも私たちは知っている。またアクセルロッド[1984]はコンピュータ・シュミレーションで、各種のプログラムが適応して進化してゆくさまを明らかにしたが、その際にも初期状況がある一定のプログラムだけであれば何の進化も変化もおきないことも示された。こうしてみると少なくともある種の社会的諸制度においては何らかの形で、進化的合理主義がはたらくように、人間が理性をはたらかせなければならないことが予感される。人間の諸制度において、ただ放っておけば進化が生じると考えるのは誤りであろう。構築者的合理主義の過剰適用が通観妄想であるとすれば、進化的合理主義のそれは自由放任主義であろう。健全な意味での進化的合理主義は、自由放任主義を含意しない。

 以上二節にわたって検討してきた二種類の合理主義の概要は下の表1のように整理される。

 

 

 

 

構築者的合理主義

進化論的合理主義

 

表明者

デカルト、ホッブス

マンデヴィル、ヒューム

 

社会的制度観

人工物(「自然」と対立)

人間による行為の結果

 

社会的制度の成立

意図的設計の産物

人間による設計の結果ではない

 

秩序

作り上げる

進化する

 

設計者

精神(擬人主義的思考)

不在

 

理性

明示的前提からの論理的演繹

精神の限界の自覚

 

合理主義の意味

意識的理性が行為を決定

理性の効果的活用

 

働きかけ

構築者による配置

個々人による選択

 

権力

拡大

制限

 

抽象

抽象への不満

複雑性と取り組む手段

 

説明

因果の説明

原理の説明

 

適用系

単純な閉鎖系

複雑な開放系

 

過剰適用

通観妄想

自由放任主義

 

 

表1:構築者的合理主義と進化論的合理主義

 

 

 

 

2.2.  二種類の秩序

 前節に述べた構築者的合理主義と進化論的合理主義にそれぞれ対応する秩序(order)が組織(organization)と自生的秩序(spontaneous order)である。なおこの場合の一般概念としての「秩序(order)」は、他の論者によっては時に「システム(system)」「構造(structure)」「パターン(pattern)」などと言われる用語である(35)。Hayekはこの「秩序」に「様々な種類の多様な諸要素が相互に密接に関係しあっているので、私たちが全体の空間的時間的なある一部分を知ることから残りの部分に関する正確な期待、または少なくとも正しさを証明できる可能性の大きい期待を持ちうる事象の状態」(36)という定義を与えている。21

 

2.2.1. 組織

 この項では最初に「組織」(organization)を説明しておこう。これは構築者的合理主義に基づいた秩序を表わす理念型である。すなわち「組織」とは、ある精神の設計により構築された、「構築物(construction)」、「人工的秩序(artificial order)」、あるいは「命令による社会秩序(directed social order)」を意味する(37)。この言葉は比較的新しく、フランス革命の頃に一般的に使われるようになったらしく、やがては「ナポレオン時代の息吹(spirit)となり、近代社会主義の始祖たちであるサン=シモン信奉者やオーギュスト・コントの「社会の再構築(reconstruction of society)」のための計画(plan)における中心概念となった」(53)。英語の世界では「一つの明確な目的のための体系的な配置(a systematic arrangement for a definite purpose)」を表わす専門用語として1790年頃に一般的に使われるようになったし、また後にはドイツ人が、自らが他国民より優れていると信じる際にこの用語をしばしば使ったともHayekはまとめる(54)。

 この「組織」という用語は、あくまでも理念型を表わすのであって、現実の実体を指すのではない。実際の何らかの実体においては「組織」と「自生的秩序」の両方の秩序の性格が観察されるであろう。だが誤解をおそれず敢えて組織の典型例を挙げるなら、それは政府(government)などの制度(institituions)や、企業(corporation)などの団体(associations)などになるだろう(46)。これらの秩序は、自生的秩序の力にも依拠しているが、主には、ある目的(purpose)のために人間が設計したことによって形成されたと考えられるからである。

 この組織に関わる者がもつ目的はある特定のものである。あまりに抽象的で広すぎる目的、あるいは相反する複数の目的の存在は、組織の設計・構築を困難にする。したがって組織に関わる者は、典型的にはある一つの目的のために組織を設計・構築し、それを発展させようとする。組織における価値(value)は、その目的を実現することである。

 組織における規則(rules)も抽象的ではありえない。特定の目的を実現するために具体的に割り当てられる指令(commands)が組織における主要な規則である。各構成員の仕事は指令によって残されたギャップを埋めるだけである。

 このように組織が成立するための前提条件は、まず目的が明確に規定されること、次にその目的を指令によって実現する権力(power)が存在することである。組織の存続は目的と権力が維持されることによって可能になり、組織の発展はその目的をもった権力の設計(design)による「干渉(interference)」「介入(intervention)」によって可能になると考えられる。

 

2.2.2. 自生的秩序

 そういった組織に対する理念型が、進化論的合理主義に基づく「自生的秩序(spontaneous order)」である。この用語はもともとM.ポラニーによるものといわれるが、考え自体は古代ギリシャの時代からあり(=cosmos)、自然科学の領域では「サイバネティックス(cybernetics)」において「自己組織的または自己増殖的システム(self-organizing or self-generating systems」と呼ばれているとHayekは言う(37)。

 この自生的秩序はある分野によってはあまねく認められているし、他の分野によってはまだ誤解されているとHayekは言う。

言語や道徳が昔のある天才(some genius)によって「創造された(invented)」と信じられていた時代もあったが、今では誰でもが、言語や道徳は誰もその結果を予見することも設計することもなかった進化過程の所産(the outcome of a process of evolution)であることを認識している。しかし、他の分野では、多くの人たちの相互作用のパターンが誰かが意図的につくった(deliberate making)ものではない秩序を示しうるという主張を疑う人もまだたくさんいる。特に経済学の分野では、アダム・スミスが彼の時代の言語で、人が「自分が全然意図してもみなかった目的を促進するに至る(led to promote an end which was no part of his intentions)」かを叙述するために使った、「見えざる手(invisible hand)」という表現に、理解しがたいあざけりをあびせている批評家がまだいる。(37)

Hayekのこの記述から20年以上を経て、言語学の分野においては天才(genius)ならぬ遺伝子(gene)プログラムによる言語の設計を強調するChomsky22の言語論の隆盛を目にし、経済の分野においては旧ソ連や北朝鮮の計画経済の壊滅的状況を目撃した私たちは、各分野における自生的秩序の理解の違いに関しては少しHayekと意見を異にするかもしれない。だが「多くの人の行為の所産ではあるが人間の設計の結果ではない秩序だった構造がある」という自生的秩序の発見と共に「社会理論(social theory)が始まったのであり、またこの発見によってこそ社会理論は一つの対象(object)をもつにいたった、といっても過言でない」(37)というHayekの指摘の重要性は変わらない。私たちの課題はそれぞれの分野においてこの自生的秩序の考えを正しく理解することだろう。

 自生的秩序の典型例は、人間界においては最も広い意味での「社会」(47)、自然界においては様々な複雑な秩序があげられるであろう。私たちが確認してきたように前者はある精神の設計によるものではなかった。「社会」とは特定の個人の思いをはるかに越えた動き方をする。だれも社会全体を予測することも制御することもできない。また後者の自然界の例にしても私たちはそれを「各要素を意図的にしかるべきところに配列することによってではなく、その形成へと導く傾向のある既知の諸力に乗じることによってのみもたらすことができる(could bring about only by availing ourselves of the known forces which tend to lead to their formation, and never by deliberately placing each element in the appropriate position)」(39)だけである。Hayekの例を続けるなら、「私たちは、結晶の格子とか有機化合物を作り上げているベンゾール環を基礎とする体系ができるように個々の原子を配列(place)して、結晶や有機化合物をつくりだすことは絶対にできない。しかし、原子に自らそういう配置をとらせる(they will arrange themselves)諸条件をつくりだすことはできる」(40)。

 これらの自生的秩序においては全てに共有される単一の目的は存在しない。そもそもこれらの秩序は「つくられたものではないがゆえに、当然特定の意図(a particular purpose)を持つとはいえない」(38)わけである。自生的秩序は「異なる多様な目的を首尾よく追求する」(38)ことを可能にし、かつそのように複数の異なる目的が様々に追求されることによって成立する秩序である。各主体は各自の判断に基づいて様々な目的を追求する。また目的を変更することもある。この意味で自生的秩序は目的自由である。

 様々の異なる、時には相反する諸目的が共存するのであるから、自生的秩序における価値は、特定の目的の実現ではありえない。ここにおける価値とは、この自生的秩序自身を可能にし発展させることである。自生的秩序を可能にするものは自由、自生的秩序を発展させるものは進化である。自由と進化が自生的秩序における価値である。

 自由と進化を価値とするのであるから、規則も、両者を阻害するようなものであってはならない。特定の主体や目的だけを増長させたり排除するような指令は自由と進化に反するため、自生的秩序にはそぐわない。したがって一般的・抽象的な規則がありうるだけである。規則は特定の目的からは独立している。また規則は全てが積極的である必要もない。自由と進化を達成するためには、「○○をせよ」という積極的(positive)な規則を連ねる方ではなく、「(自由と進化を妨げる)××をしてはならない」という消極的(negative)な規則を示す方に重点を置かねばならない。積極的な規則は、結局のところ自由を所定の行為をする自由だけに留めてしまい、かつ所定以外の他の多くの行為を(少なくとも語用論的には)押し留めてしまうからである。これを少しでも回避するためには許されている自由の記述内容を増やさなければならないが、そのためには行為者はその規則の膨大な記述を読んでから行為しなければならず、行為者の自由(そしてひいては進化)は拘束される。自生的秩序においては、規則の記述は、積極的なものを明示的に枚挙する方向にではなく、消極的なものを示すに留める方向に進められなければならない。

 自生的秩序の成立の前提条件は様々の異なる目的を選択する多様な主体(agent)である。そして各主体が選択の自由を保障され、それぞれの利益にかなう選択をすることによって、有利な選択はますます有利になる。またその選択が好まれすぎて、逆に問題を生じるようになっても、選択の自由があれば、主体は他の選択を行うことができ、システム全体の老朽化が防がれる。選択の自由の保障は自生的秩序の存続条件である。自由選択が累積されて、さらには選択肢自体が変化してゆくなら、システム自身が自己更新され、さらにシステムの環境一般に対する適応性が高まる。すなわち進化である。自生的秩序の発展条件は選択による進化であるといえる。

 以上二項にわたって記述された二種類の秩序、組織と自生的秩序の特徴は表2のように対比される。

 

 

組織

自生的秩序

 

典型例

官僚組織

社会

 

目的

特定の目的に基づく

目的自由(各主体の適応)

 

価値

特定の目的の実現

自由と進化

 

規則

特定化された指令

目的から独立した一般的規則

 

前提条件

目的と権力の存在

多様な主体の存在

 

存続条件

目的と権力の維持

選択の自由の保障

 

発展条件

設計による干渉・介入

選択による進化

 

 

表2:組織と自生的秩序

 

 

 

以上、第一部である本論文では現状分析と概念整理を行った。言語観、教育制度観に関する論考は第二部において展開することとする。

 

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柳瀬陽介(1995a)「『英語教育学』の閉塞について」『松村幹男先生御退官記念論文集』

渓水社 所収

柳瀬陽介(1995b)「書評への応答」『英語教育研究37・38合併号』広島大学英語教育学会

柳瀬陽介(1996)「制約的規則観の外国語教育学的帰結----研究プログラムと規則論の再検 討」「広島修大論集第36巻第2号」

吉村公宏(1995)『認知意味論の方法』人文書院

和田稔(1996)「公立小学校の英語教育:その論点を整理する」『現代英語教育1996年5

月号』研究社出版

若林俊輔(1996)「教育をもっとまじめに考えるべき」『週刊金曜日7月12日号』金曜日

ワールドロップ、M著、田中三彦・遠山峻征訳(1996)『複雑系』新潮社

渡邊寛治(1994)「公立小学校での英語教育に思う」『現代英語教育1994年12月号』研

究社出版

Wertsch , James V. (1991) Voices of the Mind: a Sociocultural Approach to Mediated Action Harvester Wheatsheaf (田島信元他訳(1995)『心の声----媒介された行 為への社会文化的アプローチ』福村出版)

Winograd, Terry & Fernando Flores (1986) Understanding Computers and Cognition Ablex Publishing Corporation: New Jersey (平賀譲訳(1989)『コンピュータと 認知を理解する』産業図書)

Wittgenstein, Ludwig (1953) Philosophische Untersuchungen Basil Blackwell (藤本隆 志訳(1976)『哲学探究』大修館書店)

Wittgenstein, Ludwig(1969) ber Gewiァheit Basil Blackwell (黒田亘訳(1975)『確実

性の問題』大修館書店)

 

 

1 第一部である本論文では理論面を扱い、応用的考察は第二部に任せることとする。

2 もちろん研究者として勉強不足の姿勢を正す倫理的な批判に対しては常に謙虚でなくてはならないことに関しては多言を要しない。

3 筆者のHayek発見のきっかけは塩沢[1994]による。

4 この認識を、例えば人間の言語をあくまでもUniversal Grammarによって規定されるものとするChomskyの言語論と比較されたい。

5 GB革命以後のChomskyも「規則」から「原理」に研究対象を移した点で評価できるが、彼の研究枠組みにおいては過程の独自の重要性はほとんど抜け落ちている。

6 ここにおいて筆者は、理想主義的な革命政権の暴走という一般図式を、やや安直に適用しているのかもしれない。

7 心理学の通説的「学習」理論に対する根源的な批判に関しては、例えば佐伯[1995a,1995b]を参照されたい。

8 ここにおいて私たちは「はいまわる経験主義」と揶揄された戦後日本の教育運動を再検討する必要があるように思われる。

9 だが後述するように教育とは人為的な営みであり、私たちはその「人為」に関して理解を深めてから議論をするべきであろう。状況的認知論の安直な「応用」は賢明ではない。

10 以下簡便のため、同巻からの引用は括弧内の数字によって原著のページを示すことによって表わすこととする。

11 訳書では「設計主義的合理主義」であるが、筆者なりに正確を期して「構築」という訳語を使う。なおこの他にもmind(知性/精神)、deliberate(熟慮の/意図的な)、purpose(意図/目的)、guide(誘導する/指導する)、reasoning(推論/理性の行使)、intentionalism(意図主義/作意主義)、arrangement(取り決め/配置)、directed(指令的/命令による)、commands(命令/指令)などの語において、後者の訳語を採択した点においても訳書の翻訳と異なっている。

12 デカルト自身の思想と、後年通説となった「デカルト主義」の思想の違いには注意が必要であるが、ここでは深入りしない。

13 このあたりの概説に関してはHayek[1952/1979]を参照されたい。

14 この進化論の文化的伝達への適用に関しては、例えばダーウィン進化論者のドーキンズ[1991]も議論を展開している。彼は、ダーウィン主義は遺伝子という狭い文脈に閉じ込めてしまうには、あまりに大きな理論だと考え、文化伝達の単位あるいは模倣の単位として「ミーム(meme)」という概念を提唱して論考を進めている。

15 これは正統的なダーウィン進化論理解であると考えられる。ダーウィン進化論の理解に関しては、筆者はドーキンズ[1991,1993]、河田[1989,1990]マイアー[1994]などを参考にしている。

16 つまりこの進化論的合理主義は、いわゆる「ラプラスの悪魔」を否定する意味で複雑性の考え方とつながっている。また単一原因ではなく複数の諸縁の相互作用を重視する点では進化論的合理主義は仏教哲学の縁起説の考え方とも通底している。

17 行為と知識の関係に関してはWittgenstein[1969/1975]を参照されたい。

18 ここでの「精神」という訳語は'mind'の符牒であるに過ぎない。筆者は'mind''の訳語としての「精神」に必ずしも満足していないので、「精神」という日本語が一人歩きすることを防ぐため、以下煩瑣を厭わず「精神」という訳語には(mind)という言語併記を行う。

19 精神の社会性、文化性、歴史性に関しては他にもWertsch[1991/1995]などを参照されたい。

20 ここにおいて私たちは全体主義国家や計画経済の破綻という20世紀の教訓を前提としている。

21 最初に大まかに区分をしておくなら、「正確な期待が可能な事象の状態」は比較的単純な秩序である「組織」に相当する定義部分であり、「正しさを証明できる可能性の大きい期待を持ちうる事象の状態」は比較的複雑な秩序である「自生的秩序」に相当する定義部分であると考えられる。

22 生成文法派の内部からでもピンカー[1995]はChomskyを、進化のダイナミズムを軽視している点で批判している。

96.10.14 14:23


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