随想99b

1999/6/8-1999/10/1の随想です。

東海村事故でびびった男の話(1999/10/1)

[英語教育とは関係ない話ですので、興味がなかったら無視してください]

9/30(木)の夜、中日ドラゴンズの胴上げを見ようと嫁さんとナイターを見ていると「東海村で核燃施設で事故。野中官房長官が『危機管理上今までにわが国が経験したことのない事態』とコメント」(記憶で書いているから詳細は違っているかもしれません。以下同じ)というテロップが流れました。「ということは阪神大震災以上!?」と思ってしまいましたが、それでもソン・ドンヨルが最後のアウトを取るまでナイターを見てしまいました(^^; )。終了後あわててNHKを見ましたが、どうも「大変な事態らしい。でも一番の問題は状況把握がよくできていないこと」ぐらいしかわかりませんでした。「明日、ある研究会で東京に行く予定なのに、どうしよう」と考え始めたら、眠るタイミングをはずしてしばらくテレビを見ておりました。

翌朝「中性子のレベルは著しく下がった」との報道がありましたが、どうも落ち着きません。9時過ぎに近くの研究会関係者に電話してみますが、つながりません。東京在住の研究会関係者に「行こうか行くまいか迷っているんだけど」と言うと「CNNでも騒いでないし、大丈夫じゃないですか」とのこと。うーん。ところがテレビ朝日系の地方局が臨時特別報道番組をうったので「やっぱり、こりゃどうなるのだろう」と不安がつのりました。インターネットのヤフー・ニュースで情報を求めましたら「今回の事故は国際基準でいえばレベル4となる見込み」という速報が目をひきました。だから「臨界は一応終息」との発表があっても「一応」という言葉がやたらとひっかかってしまいます。11時過ぎに先程の人と電話がつながったら、その人は敏感な反応。折り返し東海村と東京都心部の直線距離(125キロ程度)と風向きを調べて教えてくれました。とはいえ東京株式市場と為替相場は安定しています。大騒ぎしなくてもいいのかもしれません。色々迷ったのですが旧友に会う夕方の約束の関係で決断をせねばならず、正午過ぎに新幹線に乗ることをあきらめ、旧友の会社にキャンセルを伝言しました。連絡のつく研究会の発表メンバーには欠席をする非礼を電話で詫びました。

午後3時に野中官房長官の半径10キロ圏の避難勧告解除が出ました。寝台列車に飛び乗れば翌朝に東京には行けますが、リスク回避を優先しました。

後から振り返れば私のこの判断は神経過敏の判断と笑われるのでしょう。また研究会の方々に対しては無責任なことをしました。申し訳ない。しかしそれはそれとして、このような判断は今後の人生でもしなければならないでしょう。今回の記憶が新しいうちに、今回の判断について反省・分析(?)して今後の参考(および皆さんの笑いのタネ)にしておきたいと思います。

(1)基本的な知識をもってないと混乱はますます大きくなる:今回私が知りたかったのは「私が東京に行っても大丈夫か?」ということだったのですが、そもそも放射能がどのように広がりどのように消滅するのか、中性子以外にどのような放射線の種類があるのか、スリーマイルの事故(今回のレベルより一つ大きなレベルの事故)やもんじゅの事故(一つ下のレベルの事故)の「後遺症」にはどんなものがあったのか、等などについて基本的な知識を欠いていたので、ニュースをみてもそれが確固たる判断へとつながりませんでした。

(2)日頃の臆見(偏見)が強い影響を持つ:基本的な知識がないので、今までに漠然と形成された見解が最後まで強い影響を与えました。「金融政策、阪神大震災対策、エイズ薬害等などにおいて日本政府は認識が甘いことが多い。ひどい場合は一番大切な情報を隠す」「週刊金曜日の連載で指摘され続けていたように日本の原子力の現場の管理はずさんであることが多い」という私の臆見(偏見)は強かったので、私は避難勧告解除のニュースでも安心することができませんでした。(また野中官房長官の最初の声明(「今までにわが国が危機管理上経験したことのない事態」)が、私の臆見(偏見)の中で逆に増幅して、最後まで強い影響力を持ち続けました)。

(3)相談相手がほしくなる:自分の認識と判断だけではどうしても不安になります。またNHKの報道しか見れない状況だと、どうしても政府発表優先になりますから、複数の異なる見解を聞きたくなりました。議論ができればベストです。自分と相手の判断の片寄りが議論によって明らかになるからです。ともあれ、複数の立場による判断を聞きたいというのが私の気持ちでした。このような気持ちは下手をすれば噂や憶測を求め作り出すという危険な事態を招きかねませんが、私の気持ちとしてはそう傾いたことをここに記しておきたいと思います。

今回の事故のような事態はたびたびおこることではないでしょうが、それにしても上の(1)(2)(3)のような性癖が自分にあることを十分自覚しておきたいと思います。対策としては

(1)’日頃からわが身に引き寄せて幅広く確実な知識をつけておく。極言するならどんな事件も自分には無関係ではないのですから。

(2)’ 臆見(偏見)が自分の判断プロセスの中で暴走するのを防ぐために、日頃からできるだけ相対立する見解・データを尊重する習慣をつけておく。「偏見がいけないのは、道徳的に好ましくないからだけでなく、端的に事実として誤っているからだ」ともよく言われます。

(3)’日頃から信頼に足る話し相手を大切にしておく。しかもそういった関係は日頃から複数人数によるネットワークで持っておきたい。今回私はネット検索で色々探したが、結局欲しい情報は見つからなかった。また、しっかりした意見と単なる噂を見極める習慣は日頃からつけておかなければならない。

ぐらいでしょうか。うーん、当り前のことですね(^^:)。結局は私は臆病者で、日頃の台詞とは裏腹に学問的な絆(あるいは研究会員としての義務)よりも自己保身にびくびくする人間であったことを、このような駄文でごまかそうとしているだけなのかもしれません。それに人間は一度決断を下すと、ますますその決断を正当化しようとする、というのも社会心理学の教えるところです。私は社会心理学者に格好のサンプルを提供しているだけなのかもしれません。おそまつ。

注)嫁から一言

けっ!エラそうにいっちょまえに、自己弁護してんじゃねえよ!なあにが社会心理学者のサンプルだってんだ!

 仕事からの帰り道、「あいつのことだ、『よし!決めた!もう、今日は(東京に)行かない!』なあんて言ってはみたものの、絶対、ぜえったい、うじうじうじうじ悩んでるだろうなあ」と思いながら帰宅すると、案の定。まあね、いつものことよ、いつものこと。あのときも、このときも、(どのときとは、あえて言いません)こいつは一旦決めた後で、うじうじうじうじうじうじうじうじ悩むんだ。んでもって、誰かに「君の決断は正しかったんだよ」と言ってもらえるまで、うだうだうだうだ言ってんだ。それに延々と付き合わされる私の身にもなってみろおおおおっ!!!  あーしんど。

と言うわけで、皆様、いつものことですのでこんなバカの言うことなんぞにお耳をお貸しにならぬよう。切に、切にご忠告申し上げます。(あーあ。こんなこと書くと、また怖い嫁って言われるんだろうなあ。いいもん、ホントのことだから。ふふふ)。

追記:10/2(土曜)の朝日新聞は市民グループ「R-DANネットワーク」が、事故現場から半径25キロの地点に住む会員をはじめ、東京、長野などからも放射線量測定の異常値は報告されなかった、という報道をしていました。こういった情報が欲しかった。どちらかというと批判的立場の組織からの情報が欲しかったわけです。こうしてみますと、私の今回の騒ぎは完全な神経過敏反応だったようです。

放射線の影響は「距離の二乗に反比例する」そうです。風向き等の影響もあるのでしょうが、今回はレベル4の事故で、直線距離にして25キロ前後なら全く大丈夫だったわけです。この数字は覚えておこうと思います。

追追記:10/3のテレビ解説で説明されるまで私は理解していなかったのですが、「放射性物質」、「放射線」、「放射能」は異なる概念です。「放射性物質」がなんらかの反応をおこすと「放射線」(=光)を放出します。そのように放射能を出しうること(=能力)を称して「放射能」というそうです。今回私が怖れていたのは「放射性物質」ということになります。今回の事故では「青白い光」は観察されたが、物理的な爆発はなかったみたいですから、少なくとも事故現場から離れた場所では放射性物質に関してはあまり懸念しなくてもよかったことになるのだと今の私は理解しています。


小学校への「英語教育」導入への態度表明(1999/9/10)

今日、ある方から小学校への「英語教育」導入――文部省の言葉の使い方なら「国際理解教育」や「英会話」などといった言い方になるのかもしれませんが、わかりにくいのでここでは括弧付きで「英語教育」としておきます――へのコメントを求められました。その直後に掲示板の「広場」を見ると、別の方からも私の意見を求められました。私は今まで不勉強から態度表明をはっきりしていませんでしたので、これをいい機会に、私の考えを書きたいと思います。

前者の方へはe-mailで下のようなコメントを送りました。

いくつかの研究開発校のすばらしい実践の裏には、パイオニア精神に支えられた教師の多大な時間と労力が隠れていることを忘れてはいけません。小学校の「英語教育」が全国規模で成功するためには、担当教師への組織的バックアップが必要です。教師自身の英語習得、指導法・教材開発のノウハウの共有、コミュニケーション理論の学習等へのサポートなしに全国の小学校で「さあ、とにかくやりなさい」となっても、小学校教師が中学・高校の英語教師よりもうまくやれるという保証はまったくありません。特に、子供の耳は敏感なだけに、妙な発音指導は厳禁です。また理念的にも「国際理解」とか「英会話」とかの通念的であいまいな言葉が飛び交うだけでは教育指導は長続きできません。文部省方針には「なしくずし的強引さ」が多いように思います。長期的視点の欠如は問題です。

字数制限のあるコメントでは意をつくしきれないところがあるので、以下補います。

私の態度は

(1) 現体制での「英語教育」の(ほぼ全面的といっていい)小学校導入には反対する。理由はサポート体制と理念上の合意が不十分だからである。

(2) しかし「各学校の創意工夫による」教育体制は支持したい。

(3) いずれにせよ、必要なのは制度的合意である。私は教育の自由化・分権化を支持する。

第一点ですが、上に述べましたように、現状の教師サポート体制はあまりにも貧困です。中学高校の教師に対しても十分でないのに、ましてや外国語教育未経験の小学校教師に貧困なサポート体制のままに「とにかくやりなさい」となってもそれは無理というものです。睡眠時間を削って勉強し、かなりの自腹を切って研修会に出かける現場教師を私は何人も知っており、その人たちを尊いと思っていますが、その人たちの美談を全国規模で期待するのは明らかに非現実的であり、政策としては無責任だと思います(注1)。

また、「英会話」とか「国際理解」とか耳あたりのいい曖昧な言葉だけでしか理念が理解されていないと、小学校の英語教育現場は混乱すると私は思います。「国際理解教育」は小学生にも飽きられる通念的な底の浅いものになるかもしれません。サポート体制も理念もないままの英語教育導入は、あまりにも場当たり的で、長期的にみれば大いなる無駄と損失を招きかねません。

しかし、第二点に入ってゆきますが、生物学的効率から言えば外国語教育は早いにこしたことはありません。ですから英語使用の重要性を実感している一部の学校・学級・家庭が早期英語教育を求めるのは当然だと思います。しかしそれは全ての学校・学級・家庭ではないでしょう(注2)。だから文部省は「各学校の創意工夫に任せる」と言っているのかもしれませんが、学校長、各教師、保護者の間で教育方針について納得の行くように話し合い決定する制度も文化もないところに、そのようなことを言われても、学校側は文句の出ないように横並び的に「英語教育」を導入するだけでしょう。しかし、これは第一の点で指摘した危険をはらんでいます。外国語教育の選択の自由は推進されるべきと私は考えますが、それには制度と文化が必要です。

これが第三の論点である制度的合意の意味するところです。文部省による中央集権指導体制を続けるのか、それとも自由分権体制に移行するのか。これは、ハイエクの理論的用語を借りるなら「構築者的合理主義」を信じ続けるのか、「進化論的合理主義」の妥当性を認めるのかという、哲学的な問題でもあります(これらの用語については、http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/hayek1.html等を御参照ください)。私の態度は、これに関しては明確で後者、すなわち自由分権体制・進化論的合理主義を選択します。前者の中央集権指導体制――一部の人間が指導要領を決めて、それを何人かの人が各県の指導主事にレクチャーし、今度は指導主事が各校の教師を指導する体制――は非効率で非効果的です。ですから予算も無駄遣いされやすく、とても現在の日本の財政状況では容認されません。マネジメント理論からしても、この体制は構成員の創意工夫が抑えられたリスク回避のマンネリになりやすく、良い体制とは言えません。

ですから大切なのは具体的にどのようにして自由分権体制に移行するかです。私は論文発表などで理論的に自由分散体制のよさを訴えていますが、もちろんそれだけでなく様々な具体的手立てや決定が必要です。しかし、何よりも大切なのは教育の自由分権体制を支持するという国民の明確な合意です。宣言、文書、法制化といった形での明確な合意でありその上での予算獲得です。これは教育における民主主義体制の再確認でもあります。話はずいぶん大きくなってしまったようですが、この根本がはっきりすることが小学校英語教育導入問題にとっての最重要課題だと私は思います。

(注1) 文部省はALT(外国人助手)の増加や塾や民間英語学校の活用でもって、このサポート体制の不備を乗り切ろうとしているようにも思えます。しかし来ては帰るALTは、確かに親善大使的な役割は果たすかもしれませんが、そのような体制ではノウハウの蓄積も容易ではありません。塾や民間英語学校の活用も特別予算という不安的な枠組みで行うのなら同様です。

(注2) 場合によっては英語教育よりも韓国語教育やロシア語教育あるいはポルトガル語教育を望むところもあるかもしれません。

追記:小学校で導入しようというのは「英語教育」ではない、「国際理解教育」とも「英会話」とも特定できない「総合的学習の時間」でありこれは「各学校の創意工夫に任されている」のである、というのが文部省の言い分なのかもしれません。しかし、このようにまるで「自由」が突然与えられても混乱するだけなのではないかというのが私の考えです。とはいえ「自由」そのものには私は賛成です。。現在発表されている学習指導要領以上の、明確な確認と宣言等が必要、と訴えるゆえんです。

追記2:この「随想」に関して「広場」に若干のコメントがつきました。以下のは兵庫教育大学の吉田さん(http://www.soc.hyogo-u.ac.jp/gengo/tyoshida/)の投稿です。ここに吉田さんの許可を得て転載します。

こんにちは。吉田達弘@兵庫教育大学です。柳瀬さんと津田さんの議論をおもしろく拝見しておりました。もっといろいろな人が意見を述べられてくるかなと思いましたが、静観?されている方が結構多いので、書いてみることにしました。思いつくままに、また、実践をみてきた「ベタ」の言葉なので、わかりにくいかもしれませんが、ご容赦ください。

まず、私の立場を明らかにしておきますが、私は96年頃から文部省の研究開発指定を受けている小学校へ、公開授業も含め何度かおじゃましています。特に、前任校のあった愛媛県の高浜小学校へは、5-6回お邪魔し、当時指導していた学生とともに、授業にも参加させてもらう機会があり、限られてはいますが、小学校の実態を見せてもらってきました。

その経験(つまり、開発指定を受けた学校に限られます)をもとにしていうと、開発指定校のなかで「うまくいっている」と思われる学校を取り巻いている環境を分析し、その環境を最低限保証しなければ、総合学習の時間への小学校への英語教育(英会話)の導入は難しいだろうということです。ここで言っている「学校を取り巻いている環境」とは、

1)学校を地域へ開いていて、父兄の声、地域の声を取り込む窓口を持っていること、

2)カリキュラム作成に学校レベルで取り組めること(開発主任、JLTだけに依存しない)、

3)児童を対象にした英語の指導が可能なALTなりJLTが配置できること

です。これらは最低達成されないと混乱を生じると思います。上の2)は、柳瀬さんが9/14の投稿の中で、教育内容の設定・変更を実施主体のレベルでおこなうという制度論と一致しています。また、開発指定校では、頻繁に父母との連絡を取り合い、(現在は)他教科を削減してまでおこなっている英語教育の是非をアンケートという形で取っています。そして、学校によっては、いつでも教室に来て授業をみることを可能にしている学校もあります。こういった学校での父母の英語教育への反応は極めて良いものになっています。この点では、柳瀬さんの制度論(3)も満たしていると思います。そして、実際の授業の成否は、どのようなトレーニングを受けてきた教師が担当するか(上の3))に依存しますが、これも過配で配置されたJLTだけに依存せず、文字通り学校ぐるみで研修しながら、授業、教材開発、カリキュラム開発に取り組んでいる学校がやはりうまくいくように思います。高浜小学校の山中先生(当時)が、「私たちは、英語教育については素人なのですが、児童の発達は毎日みているので、子どもたちにあわせた教材づくり、授業づくりについては自信を持っています。」とおっしゃっていました。あとは、この授業づくりの原理を、ALTやJLTと一緒にどのように英語の授業に応用していくかということになります。そして、開発期間を終了すると、3年間の試行錯誤の結果得られたカリキュラム提示されます。岡山県の千種小学校のカリキュラムは、中高の英語教師にはおそらく馴染みの薄い「単元学習」というカリキュラムを英会話の授業の中で作り上げました。非常にシステマティックなものになっていました。

さて、国レベルの制度にしても、最近の大学改革の中で、「総合学習の時間」でリーダーシップをとれるような教員を養成するコースの設置を考えている教員養成系学部もあると聞きます。(ただ、これは、大学のスリム化の結果、やらざるを得なかっただけの話という批判もあるでしょうし、小学校英語教師の免許状を出すコースとも違うようです。そこまで制度は変われていない)。また、幼児英語教育を民間で十数年おこなってきている私の知り合いは、大学などにも講師として招かれ、将来、幼児英語教育を担当する学生を指導したり、実際に小学校で授業を持っているということです(近々、教室にお邪魔する予定です)。やはり、ここでもなしくずし的に現実を作り上げている、今の教育の姿があるように思います。しかし、見方を変えれば、先に走ってしまった現実をサポートするような制度の整備もわずかながら、始まっているとも言えるのではないでしょうか。

ただ、「総合学習の時間」については、上意下達とはいえ、制度的に決定したことです(批判的精神は失ってはいけませんが)。関西では、先日、大阪府教委主催の総合学習についての研修会があったのですが、非常に多くの教員が押し寄せたという新聞報道がありました。柳瀬さんがHPのどこかに書かれていたこととは、少し違っていて、地域によっては、総合学習をどうしたらよいのかと真剣に考え始めている教員や学校はかなりあるようです。私が、お邪魔していた大阪の中学校でも、総合学習の前倒しの実施について、既に考え始めていまし、カリキュラムを試験的にいじり、英語を25分間授業にし、毎日実施するということを一つのアイディアとして考えているということを校長先生から聞きました。このような意識は、確かに学校によって違うのですが、一つには、学級崩壊ということばで報道されているように、授業の成立が困難になってきていて、一斉授業の限界がもう来ていて、教師もどうにかしなければ、という危機感が裏にはあると思います。(中学校での授業も、相当、きつい時代になってきたことを、教室に足を運んでみて、実感しています。)

私見ですが、小学校の「総合学習」の中に、英語教育を取り入れる学校は、実際は考えられているよりも少なくなるのではないでしょうか。もちろん、地域からの声によっては、方針を変える学校もあるかもしれませんが、現在のところ、どうも、環境や福祉といった教科枠を完全に取り払うことのできる領域への関心が高いように思えます。また、文部省はALTの増員を打ち出しましたが、例えば、私が上で挙げた1)-3)の環境を整えることは、そう簡単ではなさそうなので、英語よりは、環境、福祉、情報になってしまうかもしれないと思っています。いかがでしょうか。

もしコメントがありましたら「広場」(目的論関連)「中庭」(それ以外の話題)へお気軽にご投稿ください!


そうです、これは「革命」なのです。(1999/9/8)

「情報革命」「デジタル革命」という言葉も耳慣れたものになりましたが、やはりこれは「革命」--世の中をひっくり返すこと--だ、と最近改めて思うようになりました。

一つの誘因はホームページなどの個人メディアの台頭です。先日、東芝の不誠実なクレーム対応を告発したホームページが、全国メディアにもとりあげるようにもなり、東芝も態度を変えるようになるという事件がありましたが、ここ最近でも槇原敬之さんのCD回収を決めたソニー・ミュージック・エンターテイメントに反対するホームページやE-mailの動きが見られます(私自身もCD回収には反対です)。また掲示板「裏庭」にも別の企業の横暴な対応を告発する個人ホームページのことが紹介されました。このページには現在でも10万件以上のアクセスがあります。これらの事は一人一人の市民が、少なくとも潜在的には強大なアピール能力を手に入れたこと、既存の社会権力を動かすぐらいのパワーを手に入れたことを示しています。

もちろん、これらの事は郵便や集会といった既存の手段でも可能でした。しかしInformation Technologyはこれらの事を予想以上に容易かつ強力にしたわけです。もちろん、これからこのパワーの乱用・悪用もでてくるでしょう。しかし個人がパワーを手にしたことだけは間違いがありません。

二つめの誘因は極めて個人的なものです。私は大学で、ある事務仕事を請け負ったのですが、その仕事にはいくつものクロスチェックが必要で、なおかつ提出形式が決められていますから、どう少なく見積もっても数十時間、下手をすると百時間ぐらいかかりそうな仕事です。ワープロ、表計算、データベースのどのソフトを使ったものか迷っていましたが、ある人に表計算ソフトの小ワザを教えてもらったら、編集作業が一気に楽になる見通しがたちました。またいいウェブサイトも見つけたので、そこの資料を使うことで、色々な印刷資料をひっくり返しながら転記する手間も省けそうです。クロスチェックは主にE-mailでできます。これで数十時間の時間を研究にまわせます。この事務仕事を手書き、電話、ファックスで行なっていたら、と思うと恐ろしいかぎりです。

もちろんこれはインターネットが事実上無料の大学だからできることです。でもインターネット接続が実質上無料ということはアメリカならあたりまえです。さらにアメリカ商務省(http://www.ecommerce.gov/)は「オークションの世界で(ベンチャー企業の)e-bayがやったことを、我々は連邦政府の分野で行なう」とさらに仕事のデジタル化を推進させようとしています(注1)。私が実感しているようなほんの小さな効率改善でも、各家庭・小企業にいたるまでの全国レベルで行なえば、日本の生産性も劇的に上がるでしょう(注2)。

市民が気楽に集い、自由に討議するカフェが民主主義を育てたともいいます。Information Technologyは日本にも民主主義を根付かせる要因になるかもしれません。また、経済学のモデルに過ぎなかった「完全競争」(=単独では価格などの決定に影響力をもちえないほど市場参加者が多く、さらに市場への参入が自由であり、また各人が取引条件について完全な知識をもつ状態)も、現実味をおびてきました。民主主義と市場原理はますます加速し、日本も今までにない自由社会へと突入するのかもしれません。

英語教師としては、こういう意味でのアメリカの動きに注目しながら、色々と他の職業の方々と今後の日本社会のあり方に関して対話を進め、場合によっては行動をおこしたいと思います。

(注1)しかし、こんな台詞、日本の官僚なら絶対に言わないだろうなあ。なんせ「天下り」する方々なんだもの。「天下り」や「在野に下る」なんて言葉は一種の差別用語として放送禁止用語にすればいいのに。

(注2)この意味で、私は前からの主張であるインターネット接続の実質上の無料化(新聞購読料ぐらいの低価格で無制限接続にすること)を繰り返したいと思います。

追記:その後、上述の企業は役員が正式謝罪をする方向で解決に向かったそうです。それにしても驚いたのはホームページのアクセス数。数日たっただけでアクセス数は20万件を超えていました。ネット社会の「ポジティヴ・フィードバック」の大きさを知る思いです。

もしコメントがありましたら「広場」(目的論関連)「中庭」(それ以外の話題)へご投稿ください!


情報公開は「流れ」ではない(1999/7/25)

朝日新聞1999年7月19日大阪本社版は「『学力低下』を考える(下)」として刈谷剛彦さん(東京大学助教授・教育社会学専攻)と寺脇研さん(文部省政策課長)の対談を掲載しました。その中の寺脇さんの発言のいくつかは私の注意を引きました。以下引用します。

 (1)

寺脇:「新指導要領で中学卒業までには皆が分かるようにする」と言いましたが、学校の先生たちがそんな指導をしてくれるのが前提です。2002年になったら、わかんない子は一人もいないって状態を見せなきゃいけない。国民が文部省の教育改革を信じてついてったけれど、子どもが分かるようにならかなった瞬間に反乱でも起して文部省を焼き打ちするというくらいの話でしょう。それを先生方に認識していただきたい。

(2)

寺脇:ただ、これまでと今が劇的に違うのは情報公開という大きな流れができてきたことです。私がいまPTAでお話しているのは、あなたの学校に「2002年へ向けての準備ができていますか」と毎日聞きにいってください、学校側には答える義務がある、ということです。文部省が先生の考え方を変えるだけではなくて、住民みんなで考えて変えるしか道はない。

(3)

寺脇:中学校の選択科目は、学習指導要領より上のことを教えることが可能ですよね。指導要領は全員に共通して教えるミニマム(最低線)だってことですよ。

刈谷:ミニマムですか。そこまで明言されていませんでしたよね、今まで。

(4)

刈谷:最後にぜひ確認したいのですが、今日のお話は、寺脇さん個人のご意見なのか、文部省の考えなのか。

寺脇:文部省全体と私が違うことを言っていたら大変な問題になる。政策課長は文部省の教育改革政策に説明責任をもっていなきゃいけない。

 

さて私の感想です。私は揚げ足取りをするつもりはありませんし、文部省を不倶戴天の敵のように語ってヒーローを気取る趣味も私にはありません。それでも気になる所を念のため書きますと、まず(1)の「国民が文部省の教育改革を信じて」や「焼き打ち」といった表現です。「焼き打ち」という表現で、この発言全体が誇張のレトリックで書かれたように判断されますから、このような発言全体の扱いに困ります。(4)を素直に読む限り、今回の発言は政策課長としての文部省公式見解のように思えますから、もし文部省がそこまでに今回の教育改革に賭けているのなら、「焼き打ち」といった誇張表現ではなく、具体的に公約として述べてもらいたいように思います。具体的な公約なしに特定組織を「信じる」ことなんてできません。

具体的な公約となると、当然それには発言責任が、通常の発言より一層重くのしかかってきますから、現場教員の研修参加や事務量削減等を、その公約実現のために必要と考えられる限りにおいて文部省は具体的な手立てで現場教員に対して実行する必要がでてきます。

そういった具体的な施策を十分にしないでおいて(2)のように「あなたの学校に「2002年へ向けての準備ができていますか」と毎日聞きにいってください、学校側には答える義務がある」とされても、それは学校現場を一層追いつめるだけのことになるかもしれません。このように発言する以上は、国民(特に現場教員)は文部省に対して上のような質問をする権利があり、文部省はそれにきちんと答える義務がある、答えるだけでなく必要とあらば方策を実施する責任があるということにならないでしょうか。

 とはいえ、私のような教育現場の人間は文部省を問いただすことに対しては正直言うと腰がひけてしまいます。文部省は、教育現場の様々な許認可権を持っているからです。文部省の裁量権は大きなものです(私が単に腰抜けというのも大きな理由ですが・・・・)。

私の主張は、情報公開をきちんと制度化する----つまり一定のフォーマットに即した情報だけはきちんと、万人に対して開かれた場所で公開して、それを他者評価の対象にする----というものです。ただその際に強調しておきたいのは(ア)情報公開の対象は学校だけでなく文部省も含まれること、(イ)他者評価に関しては、(公正な)評価する自由は与えるけれども、評価に基づいてその評価対象の行動を強制的に変更させる特定の権限は決して与えないこと、です。

 (ア)に関しては、私は(インタビュアーの刈谷さんと同様に)(3)の「指導要領は最低線」という発言に驚いたからです。もちろん、これに関しては私の不勉強もあるでしょう。私は仕事ですから一応文部省の見解はチェックするようにしていますが、個人的な事を言いますと正直、この仕事は得意でも好きでもありません。読まなければならない文書の表現がわかりにくいからです。自分の文章を棚に上げて申しますと、私は明晰・明確な表現を好みます。ところが文部省をはじめとした役所の文書は、どこからも言質を取られないことを主眼におくせいか、どうも曖昧で、結局何を言っているのか明確にはわからない文書が多いようにも思えます。そのような文書を読むことは私にとっては好きな仕事ではありません。

とはいえ、これは個人的なこと。話を元に戻しますと、この「指導要領は最低線」という見解は公式に表明されていたのかなと、私も慌てて文部省のホームページを調べてみましたがどうも見当たりません(私の見落としでしたらどうぞご教示くださいませ)。これをなぜ問題にするかといいますと、たまたま私は同日の朝日新聞を読んでいたからこの「指導要領は最低線」という情報を得ましたが、このように(路線変更ともいえるような)重要な情報は、万人にアクセスできる公式文書(含、ホームページ)で公開するべきと思うからです。

もちろんこれにも反論があるかもしれません。「お前は自分の仕事の怠慢を棚にあげるな。文部省関係者の発言を各種メディア、講演会などで注意深くチェックするのが教育関係者の仕事であろう」。しかしそうでしょうか。教育関係者が文部省関係者のいわば「政治記者」みたいになって張り付くことが仕事となるなら、それは教育関係者が現場に対して使うべき時間を横取りしてしまうのではないでしょうか。「人間関係」によって特定の教育関係者と文部省関係者の間に「癒着」がおきないでしょうか。「癒着」とは言わないまでも、本来緊張関係となるべき関係が「なあなあ」の関係にならないでしょうか。

さらに反論がくるかもしれません。「それならお前が役人をやってみろ。一気に万人に情報を公開すると、どんな混乱が生じるかもわからない。だから信頼できる人から少しずつ情報を開示していって、徐々に情報を浸透させるのだ」。なるほど。一理あります。しかしこの方法は権力側に有利すぎるのではないかというのが私の反論です。民主主義というのはいわば勢力均衡のゲームであり、そのルールの根底は特定権力の一人勝ちを許さないことにあると私は考えています。上のような選択的な情報開示は、権力側の言い訳・弁明を安易に許してしまい、その結果としてなぜ成功・失敗したかが曖昧になるので、社会の進化のためには逆効果だと私は思います。

別に私は官僚を(ルサンチマン等から)つるし上げよう等と扇動しているのではありません。その逆です。情報公開を大切にする社会とは、失敗に寛容な社会です。勇気を持って正直にかつ客観的に情報を公開するならば、たとえその試みが失敗しても、その教訓は数多くの第三者にも共有されます。だから社会の進化・革新が促進されるのです。私は「失敗は恥ではない。失敗を認めないのが恥だ。失敗は愚かでない。失敗から学ばないのが愚かだ」という言葉が好きですが、それはこのような考えに基づいています。

そもそも情報公開は「流れ」(=流行)ではないと私は考えます。私は針小棒大的に寺脇さんの発言の言葉じりを取り上げているだけなのかもしれませんが、(2)で寺脇さんは情報公開を「大きな流れ」と表現していますが、私は情報公開は「現代社会の大原則」だと表現した方がいいと思います。ここでいう現代社会とは、科学・民主主義・市場を重んじる社会のことです。「細かい所はお知らせできませんが、私は実験を成功させました。信じてください」では科学は成り立ちません。「私もなぜかよく説明できないのですが、この公約はきっとうまくいきます。だから私を男にしてください(^^)」では民主主義は茶番劇になってしまいます。「とにかく私の会社はうまく行っていますし、製品にも問題はありません。私の言葉が信じられないというのですか?」と皆が言えば市場は機能しません。情報公開は、止まりうるもの、方向が変りうるものとしての「流れ」ではありません。否定したら現代社会の営みの根幹が崩れてしまう、大原則です。

そのためにも情報公開は(文部省も含めて)制度化するべきというのが私の主張です。制度化せず、しつこく細かく聞いて来る者だけに情報を開示するようにすると、情報公開の原則は曲げられてしまいかねません(cf民主主義におけるロビイストの暴走)。「やってみたけど、やはり情報公開もだめだね。やはり『知らしむべからず。依らしむべし』だね」となっては私は科学・民主主義・市場を否定することにすらなりかねないとすら思います。情報公開の原則は否定されてはならないと私は考えます。

ですから情報公開の原則が歪められないようにするためにも(イ)「他者評価に関しては(公正に)評価する自由は与えるけれども、評価に基づいてその評価対象の行動を強制的に変更させる特定の権限は決して与えないこと」を強調しておきたいと思います。他者評価についての色々なエピソードを聞いておりますと、よくあるのが、評価者の権力が異常に強くなりすぎて、評価者がその権力を乱用することです(例として英国のOFSTEDをあげてもいいのではないかと私は思います。あるいは研究者の業績審査は乱用されかねないと米国人とオーストラリア人の私の元同僚は真顔で警告していました。二人とも信頼に足る人だと私は判断しています)。

原理的にも、特定権力の暴走を許さないのが、民主主義、ひいては市場や科学の大原則でしたから、評価者を一元化したりして、その評価に特定の権力をことさらに付与すると情報公開・他者評価の原則は、評価者独裁(?)体制への道を開いてしまいます。他者評価の評価は、あくまでも科学における一学説のように、民主主義における一主張のように、市場における一評判のように、多元的かつフェアに力を得るべき(あるいは失うべき)だと私は考えます。

繰り返します。情報公開はいつ変化するかもわからないような「流れ」ではありません。人類がここ数百年(あるいはそれ以上)をかけて明らかにしてきた、守るべき大原則です。教育界における「情報公開」も単にムードだけで語ってはいけないと思います。

追記:この小文の下書きをした後に事情通の方に尋ねてみると、「指導要領は最低線」というのは「総合的な学習の時間」にからめてよく発言されているそうです。私は、英語教育研究者としての私個人の勉強不足あるいは怠慢は素直に認めたいと思います。しかし、一般論でいうなら、公文書を見ただけでは趣旨がわからず、解説書や講演会を必要とするような「情報公開」の形はおかしいという主張は続けたいと思います。

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空虚概念としての「オリンピック能力」あるいは「コミュニケーション能力」 (1999/7/13)

私を含めて多くの人がオリンピックを見るのが好きです。オリンピック選手は皆誇らしげで、いかにも運動能力に長けているようです。運動能力といっても並の運動能力ではなさそうなので「オリンピック能力」とでも名付けてみましょうか。

あるスポーツ後進国が、自国選手のオリンピックでの不振を嘆き、状況打開のため、より幅広い選手層を求めて「オリンピック能力向上国民計画」を提唱したと想像してみましょう。スポーツ大臣は「オリンピックで勝つためにはオリンピック能力を向上させるしかない!」と力説します。その大臣の方針に従ってその国の学者達は「オリンピック能力向上国民計画」のための研究に着手しました。

「オリンピック能力向上国民計画」の研究を始めるにはまず「オリンピック能力」を定義しなければならないと多くの学者が考えました。「IOCが4年に一度開く競技大会の予選に残る能力」などという(分析的ではあるかもしれないけれど)ほとんど何も語っていない単なる言い替えのような定義ではだめです。オリンピック選手だけが持っているが、一般には明らかになっていない隠れた能力を特定できなければならないと学者達は考えました。「それには『オリンピック競技』の本質を解明する必要がある」ともある学者は主張しました。多くの学者がそれに同意し、学界は「オリンピック能力」「オリンピック競技」の「本質」や「定義(必要十分条件)」について議論を始めました。

「オリンピック競技の本質」については「競争」や「集中力を要する」といった意見が相次ぎました。しかし「競争」や「集中力」は別にオリンピック競技でなくとも培われるものですし(受験勉強も「競争」ですし、書道でも「集中力」は必要です)、これらの議論も決定打なしにずるずると続けられるにとどまりました。

「オリンピック能力の本質」については「筋力」や「運動能力」という意見が有力でしたが、「筋力」といったって「瞬発力」「筋持久力」や微妙な筋肉運動のコントロール力などと色々ありますし、なにより「筋力」はオリンピックだけでなくいわゆる力仕事でも必要とされているものですから、「オリンピック能力の本質」というわけにはいきません。「オリンピック能力は、運動能力だ」というのは何の解明もしないタチの悪い言い替えにすぎません。

「定義なんかどうでもいいんだ。実験研究を重ねればいいんだ」と主張する学者も多くいました。彼/彼女らは、身近なテストを「オリンピック能力」の指標として、各種トレーニング方法の比較実験を重ねましたが、その実験結果はまちまちで、とてもなんらかの真理を解明しているとは思えませんでした。また定義もなく指標も一致しないのですから、それらの実験結果は積み上げられることもなく、何年も違う人が同じ様な(でも肝心な所で一致しない)実験を繰り返すだけでした(「この実験は『オリンピック能力』の一部を扱っているに過ぎない」というのが学会発表の後によく聞かれる慨嘆でした。でもそれでいて誰もきちんとした定義はできなかったのです)。いずれにせよそれらの実験研究から導き出された向上計画で、「オリンピック能力」が----それがどんなものであれ----あまり上がったようには感じられませんでしたので、これらの実験系の学者にも世間の信頼はあまり集まりませんでした。

ここで立ち止まって考えてみましょう。否、「考える」以前に「見て」みましょう。「オリンピック能力」以前にそもそも「オリンピック競技」に隠された「本質」なんてあるのでしょうか。実際にオリンピック競技を見てみましょう。

オリンピック競技を思いつくがままに列挙してみましょう。100メートル走、障害走、5000メートル走、マラソン、三段跳び、棒高跳び、ハンマー投げ、重量挙げ、吊り輪、鞍馬、新体操のリボン競技、卓球、テニス、サッカー、バレー、バスケットボール、野球、水泳、 シンクロナイズド・スイミング、アーチェリー、射撃、ボクシング、レスリング、柔道、乗馬、等など(夏のオリンピックだけでもまだまだあります)・・・・。これらに共通する「本質」とは何でしょうか。仮にその「本質」をあなたが定義したとして、その「本質」を、非オリンピック競技であるラグビー、アメフト、クリケット、キックボクシング等などが持ち合わせていないことをあなたはどう説明しますか(非オリンピック競技までもオリンピック競技の「本質」を共有していると言っては、それはオリンピック競技の「本質」ではありません)。

ウィトゲンシュタインさんに倣ってこう言いましょう。-----「『オリンピック競技』という言葉がある以上、その『本質』もあるに違いない」などと考えるな。考えるな、見よ------

ここで見えてくるのは、ある競技とある競技では類似点が重なり、その類似点も他の競技との間では質を変え、あるいは消え去るという、「本質」も「明確な境界線」も持たない「家族的類似性」の連続にすぎません。これらの競技に共通点があるとすれば、それはIOCに採択されるようになったという歴史的経緯に過ぎませんが、そういった偶発的な共通点は、上の「オリンピック能力向上国民計画」で求められていた「本質」や「定義」ではありません。言い切るなら、オリンピック競技に「隠された本質」などありません。

それなのにあたかも「本質」を解明しなければ、一歩も前に進めないように考えてしまったのは、私たちの「哲学的混乱」に因ります。ここでは特に「意味のcompositionalityに基づく哲学的混乱」について語りたいと思います。

言葉の意味は、バラバラというわけでもなく、その構成要素の合成であることが多いです。例えば「白い車」という言葉の意味は、「白い」という言葉の意味と「車」という言葉の意味を合成すれば理解できます。しかしこの原則を乱用すると私たちは「丸い四角」という言葉の意味に困惑してしまいます。「丸い四角」なんてモノ(referent)は世界のどこを探したってありませんし、そんな観念・概念(idea/concept)なんてものも定義矛盾無しには想像することが困難です。この「丸い四角」といった言葉の「意味」の問題を解消するには----「解決」ではなく「解消」するには----ウィトゲンシュタインさんが提案するように、その言葉がどの共同体でどのように使われるかを観察し、その使用を理解することで十分です。「丸い四角」でしたら「哲学的な議論の中で、形容矛盾を語る時の例として使われる」等などの使用を理解できたら、その言葉の「意味」に関してはもうそれ以上の大きな問題はないわけです。「丸い四角」の「本質」を解明しようなどというのは哲学的混乱にすぎないといえるでしょう(ここでは意味論的混乱とも言えるとも思えます)。

「オリンピック能力」という言葉にしても、「丸い四角」という言葉ほどではないにせよ、その物理的・観念的実体を求めても無益な言葉だと私は考えます。「オリンピック能力」なんて言葉は、せいぜい(出来の良くない)スローガンとして使われる、ということを理解しておればいいのであって、その「本質」や「定義」を求めたって、あるいは「本質」や「定義」を必要とする実験研究を重ねたって無駄だと私は考えます。

もちろん「オリンピック能力」を例えば「パワー」「スピード」「テクニック」「メンタル・コントロール」の四つの下位能力から構成されると「考える」ことは可能です。しかしそれぞれのオリンピック競技を「見て」みると同じ「パワー」でも重量挙げとマラソンではかなり異なりますし、「スピード」でも卓球と乗馬では異なります。「テクニック」も100メートル走とレスリングでは全く違うと言っていいでしょうし、「メンタル・コントロール」にしても射撃とバレーボールでは異なるというべきでしょう。

もちろん、繰り返しますが、これらが同じだと「考える」ことはできます。しかしそのように考えた末の、「オリンピック能力向上国民計画」に従って、様々な競技の選手が共通の「パワー」養成プログラム、「スピード」養成プログラム、「テクニック」養成プログラム、「メンタル・コントロール」養成プログラムを合同で受けさせられたとしたら選手は不平たらたらでしょう。(「本当にそうかな?」と思われたあなた、スポーツをあまりやったことがないのでは?)。

競技選手は、基本的にその競技構造に即したトレーニングをやります。ウェイト・トレーニングの重要性が最近叫ばれていますが、それとて各種競技に沿ったウェイト・トレーニング・メニューを組みます(もちろん極めて初心者レベルなら各種競技共通トレーニングプログラムも考えられますが、私は今、そのようなレベルのことは考えていません)。共通プログラムは、その思いに反して、競技能力の向上にあまり役立たないのではないかというのが私の主張です。そもそも「パワー」「スピード」「テクニック」「メンタル・コントロール」などといった「要素」も、一つのスポーツの中では密接に関連したものです。「これらの下位要素は、名称が違う以上、独立した異なる要素であるに違いない」と「考える」のは自由ですが、その考えが現実的かどうかを反省する必要はあるでしょう。

長々とオリンピックのことについて語ってきましたので、ここらで英語教育に話を戻しましょう。

「コミュニケーション能力」という概念も、「オリンピック能力」という概念同様、空虚なものではないか、というのが私の主張です。

私たちが「コミュニケーション」と称している言語使用を思いつくがままに、列挙してみましょう。これに関してはむしろ新しい学習指導要領は親切です。その「言語の働きの例」には「呼びかけ、あいさつ、紹介、相づちを打つ、感謝、歓迎、祝う、ほめる、満足、喜ぶ、驚く、同情、苦情を言う、非難、謝る、後悔、落胆、嘆く、怒る、説明、報告、描写、理由を述べる、申し出る、約束、主張、賛成、反対、説得、承諾、拒否、推論、仮定、結論付ける、質問、依頼、招待、誘う、許可、助言、示唆、命令、禁止」が挙げられています。ここに付け加えるとしたら「等など」という大切な末尾表現と、「これらの例は相互に独立したものではなく、互いに重なり合うことの多い例である」という留保条件です。これらに共通する「本質」は何でしょう。「主語と述語がある」----「命令」はどうでしょう。「情報伝達」----「あいさつ」はどうでしょう。「普遍文法に即している」----なるほど。でもそれは"Colorless green ideas sleep furiously"といった通常の意味では言語使用とは考えられない文にもあてはまるのではないでしょうか(つまり普遍文法はコミュニケーションの「本質」とは考え難いということです)。もちろんコミュニケーションの「本質」を「考えあげる」ことはできます。何らかの定義に、様々な留保条件を加えれば、それなりの「本質」はでき上がるでしょう。しかしそのようにして考えることに、どんな現実的な利点があるかを反省してみることは必要でしょう。

英語教育界の定説の一つは、「コミュニケーション能力」(Communicative Competence)をGrammatical Competence, Sociolinguisitic Competence, Discourse Competence, Strategic Competenceの四つの下位能力に分けて考えるというものです。もちろんこれにも諸説あり、四つでなく五つだ、という意見等もあるかもしれませんが、「コミュニケーション能力」を物理的あるいは観念的実体と捉える姿勢には変わりないと思います。何度も繰り返しますが、こう「考える」ことは自由です。しかし私たちは、「専門家」としては、自分の考えのpragmaticな帰結までに思いを馳せなければならないのではないでしょうか。「Communicative Competence(あるいは、Grammatical Competence/ Sociolinguisitic Competence/Discourse Competence/Strategic Competence)の養成プログラム」あるいはそれらの「実証的測定」「実験研究」が実際に有効かどうかに批判的であるべきではないでしょうか。そして何年やっても埒があかないのなら、自分の努力が足りないのでなく、出発時の前提(あるいは方向)そのものが誤っていたのではないか、と反省する必要はないでしょうか。

「そんな『役に立つ』ことばかりを考えてはいけない。何故なら研究の対象は『本質』だから」という反論にそれほどの力がない、ということは今までの議論でわかっていただけたのではないかと思います。「コミュニケーション」という言葉と「能力」という言葉を結び付けたからといって、「コミュニケーション能力」という言葉に実体化できる「本質」が必然的に生じるということはないのです。

もちろん「Communicative Competence(あるいは、Grammatical Competence/ Sociolinguisitic Competence/Discourse Competence/Strategic Competence)の養成プログラム」を作成してみれば、それはそれなりの効果は上げるでしょう。だが、その効果は「オリンピック能力養成プログラム」と同じぐらいの効果しかないのではないか、というのが私の推定です。各スポーツ競技者があくまでもその競技に即して考えるのと同様に、英語教師も具体的な一つ一つの「言語の働き」あるいは「言語ゲーム」に即して考えた方がいいのではないでしょうか。「パワー」という一般要因や、「文法」という一般要因を考えるのも、具体的な競技や言語ゲームの訓練を行った上で考えるべきではないかと私は思います。

「コミュニケーション能力」という言葉の乱用に注意しよう、というのが私の主張です。そういう言葉の使用には、「オリンピック能力」という言葉の使用と同じくらいのスローガン的な意味しかないと私は考えます。もし私たちが英語教育の「専門家」なのなら、「コミュニケーション能力向上をめざした指導」や「コミュニケーション能力の実証的測定法」といった言葉の使用には注意するべきではないでしょうか(たとえ全面的に禁止すべきとまでは言わないにせよ)。出来るだけ「コミュニケーション」ひいては「英語教育」を、一枚岩の概念としてではなく、具体的な言語ゲームの集合体として考えよう、というのが私の現在の提案です。

追記1:この「随想」は私の7月08日(木)付けの「広場」への投稿に基づいています。以下がその投稿です。

「言語ゲームの集合体としての英語教育」という論点の 説明をするため、さらに喩え話をします。

あるところに、とても仲良しの人たちばかりの国がありました。その国では皆仲良くなることがとても大切と考えられていたので、人々は、近所であつまってはスポーツゲームを行っていました。その中には、後に卓球と呼ばれるスポーツの原形(原始卓球)をやっている人々もいましたし、原始テニスをやっている人々もいました。原始バスケットボールや原始野球、原始ボクシング、原始体操などと、この国の人たちは本当にいろいろなスポーツを考えて実践していました。

でもこの国の人たちは、仲間内で仲良くなることに一生懸命だったので、他所の人たちと交流することがほとんどありませんでした。そのせいか、これらの原始スポーツには、ルールという形で、自分たちが何をやっているかをはっきりさせる習慣がありませんでした。仲間は皆仲良しなのですし、他所者は他所者として別のところで楽しくやっていればいいだけのことですから、わざわざルールなんてことを決めなくてもよかったのです。

でもこの国でも人々の「運動能力」を向上させなければならない、ということになりました。そのためにはそれぞれの場所でやっている(原始)スポーツやその指導を見て、お互いから学び合わなければならない、ということになりました。

最初にデモンストレーションをしたのは原始卓球の人たちでした。見終わった後、原始テニスの人がいいます。「動き方が足りません。動きが小さすぎます。これでは『運動能力』はつきません」。原始バスケットボールの人はこう言います。「大きな見落としがあります。あなたたちはチームプレーという『運動能力』の大きな側面を完全に無視しています」。原始野球の人は続けます。「私に言わせれば、チームプレーだけでなく、役割の分化が進んでいないところに問題があります」。原始ボクシングの人は嘲笑します。「『運動能力』の根幹は闘争です。その点でこのスポーツは不合格です」。「根幹はスピードです」と原始陸上競技の人は異論を唱えます。「パワーです」とは原始重量上げの人の発言です。原始体操の人は慨嘆します。「やれやれあなたたちは『運動能力』の美しさについて考えたことはないのですか」。

議論はいつまでたっても終わらないので皆は運動大臣の方を見上げました。運動大臣は「私もよく考えて、皆仲良く『運動能力』を向上させる計画を考えます。それまでは皆、お互いから学び合うように努力してください」と諭します。

科学者が来て言います。「君たちは『運動能力』の本質を見ていないね。身体運動は物理運動に他ならないんだよ」。こう言って科学者が示す運動方程式は、何人かの人々の関心を引きますが、大きな流れとなることはありませんでした。

仲良しの国の人々は、お互いの違いを認めることが嫌いでした。違いを認め合った上で、競い合うことも、自分を変えることも嫌いでした。皆は、自分と同じような仲間が大好きでたまらなかったのです。皆が同じようなことがこの国の美徳だったのです。

その後、その国の人々の『運動能力』向上計画がどうなったかは誰も知らないそうです。

おそまつ

追記2:心理学ではintelligence をめぐる議論に諸説あります。ある説は一般因子(g-factor)を唱えますし、ある説は7つの因子を、ある説は20以上の因子を設定します。私の考えは、こういった因子がいくつあるか、等といった問題は実証的な問題ではなく、哲学的反省を経てpragmaticに解消すべき問題だ、というものです。例えば教育の一般的効用について考えるなら、一般因子説を前提とする研究を行うべきといえるかもしれませんし、各教科の関連について考えるなら7因子説が適切かもしれませんし、教科の再編成を考えるのなら20因子説がいいのかもしれません。研究の用語も、言語に他ならないのだから、その言語使用のpragmaticな側面に着目しよう、というのが私の主張です。

追記3:後で指導要領をよく見てみたら「など」という表現はありました。上の文章を書くときに過去の新聞記事だけしか参照しなかったのがこの誤りの原因です。誤りを認めここに訂正します。(1999/7/25)

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科学、説明、理解、展望 (1999/7/6)

先日「手引」に追加したウィトゲンシュタインさんに関する論考を元に、「科学、説明、理解、展望」を連続的に捉え直してみたいと思います。

(1)科学:自分自身もかつてエンジニアでもあったウィトゲンシュタインさんは、十把一絡げに科学を否定することはしません。彼は科学と疑似科学を見極めようとし、例えばRaradayのChemical History of Candleなどの作品を賞賛する一方、JeanのMysterious Universeなどの作品を批判していたそうです。彼は、「科学」ではなく「科学万能主義(scientism)」を否定していたのです。科学をいたずらに崇拝し、それを全ての基準と考えることが、文化的衰退の原因でありまた兆候でもあると彼は考えていました。彼は科学を尊重しつつも倫理や芸術といった人間精神に関わることについて懸念をしていたわけです。

「科学万能主義」といいますと、どんな人もかぶりをふって否定するでしょうが、「研究の範は物理学である」とか、「物理的に同定できない対象は単に主観的な印象であるにすぎない」とか、「個別事例を扱ってもしょうがなく、一般性のある知見を目指すべきだ」といったら首肯する人も多いかもいるかもしれません。科学は専ら因果論的説明(causal explanation)によって現象を解明しようとしますが、ウィトゲンシュタインさんは、問題は科学的問題であるとは限らず、もし問題が哲学的問題なら、その問題に科学の方法を適用するのではなく、「展望」による洞察で問題を「解消」(dissolve)すべきと説きます(注1)。「科学万能主義」の影響下にあると、哲学でさえも、より壮大な理論の構築(construction of ever grander theories)を目指すべきで、概念の明晰化(clarification of concepts)などは二次的な事と考えがちになりますが、ウィトゲンシュタインさんはそれが誤りであることを示そうとします。しかしそうとはいっても科学の因果論的説明以外にまともな説明はあるのでしょうか。次にウィトゲンシュタインさんが「説明」について何を述べているかを確認しましょう。

(2)説明:確かに科学では、対象を分析的に定義し、 演繹的-法則定立的科学(deductive-nomological sciences)としての規範にそって説明を行います。そのような科学の因果論的説明は強力な説明方法ではあるでしょう。しかし「説明」は一種類だけでなく多様だとウィトゲンシュタインさんは説きます。直示的定義(実際に事物を差し示すこと)、表現を言い替えること(paraphrase)、対照的に表現を言い替えること(contrastive paraphrase)、例を沢山考え出すこと(examplification)、一連の実例を示すこと(series of examples)、等なども「説明」であり、これら日常的に認められた説明に、欠陥があるとか、それが不完全だとかいうのは偏見だとウィトゲンシュタインさんは考えます。これらの説明の機能というのは、それらの説明なしでは生じてしまうだろう誤解を除去したり回避することにあります。科学の分析的・因果論的説明のように、これらの説明が「理解」を「構成する」(=完全な説明が、そのまま完全な理解の表象となっている)ことはありませんが----そもそもウィトゲンシュタインさんはそのような表象の考えには反対しています----、実際の私たちの営みに関連した事例において誤解がなくなれば、それはそれなりに問題がないわけです。ウィトゲンシュタインは(神ならぬ人間にとって)、そもそも「完全」という概念も目的・状況に依存した概念だとも考えます(The concept of completeness is purpose and circumstance relative)。ウィトゲンシュタインさんが、科学的説明とは異なるものとして前面に出したいのは、「展望」に基づいて見慣れた風景を捉え直し、知的困惑を取り除く「理解」です。そのような「理解」は科学的説明のように、新しい証拠や隠された因果的過程の発見は必要としないのです。次項で「理解」についてもう少し考えてみましょう。

(3)理解(understanding):多くの人、特に多くの心理言語学者が抱いている「理解」とは、哲学者ロックさんに代表される考えに基づいています。その考えによるならば、言葉の「意味」とは、その言葉の話し手が持っている「観念」あるいは「イメージ」であり、「コミュニケーション」とは話し手が聞き手の頭の中に話し手が持っていた「観念」あるいは「イメージ」と同じもの(あるいは似たもの)を作り上げる因果論的プロセスということになります。「理解」とは聞き手が話し手と同じ(あるいは似た)心的表象を作り上げることということになります。

ウィトゲンシュタインさんの「理解」は、上の考えとは根本的に違っております。といっても彼は「反-心理主義(anti-psychologism)」を標榜して、いわゆる心的な現象を全て否定するような愚挙に出ることもなく、「非-心理主義(non-psychologicalims)」の理解論を展開します。ウィトゲンシュタインさんによれば、ある言葉を理解するとは、例えばその言葉に適切に反応することであり、またその言葉を適切に使いこなし、自ら説明すること等などの言語使用を指します。つまり、理解において重要なのは、その言葉を聞いた時に聞き手の頭の中で何が起こっているか、ということでなく、その言葉を聞いた後に聞き手がどのように振る舞えるか(またその言葉がどのような経緯を踏まえて聞き手に伝えられたか)ということです。言い替えるなら、「理解」という概念にとって大切なのは、その「理解」の瞬間でなく、その「理解」の前後にどんな事が起こるかということなのです。ウィトゲンシュタインさんの「理解」は瞬時的な出来事でなく、いわば歴史的な出来事なのです。またロックさんは、専ら「頭の中」で何が起こったかを重要視しましたが、ウィトゲンシュタインさんはむしろ「頭の外」すなわち話し手と聞き手をとりかこむ文脈(言語ゲーム・共同体)を重要視します。換言するなら、ウィトゲンシュタインさんの「理解」にとって大切なのはは、コミュニケーションに(「頭の中」で)「伴う(accompany)」ものではなく、コミュニケーションを「取り囲む(surround)」ものなのです。

もちろん「理解」あるいは「コミュニケーション」の瞬間に、頭の中では何か起こっているはずだと主張する事は可能です。実際、私たちの頭の中では何かが起こっているはずであり、脳科学者が「理解」に特有のニューラル・ネットの発火パターンを「発見」するという事態も十分に考えられます(注2)。しかしそのような「発見」は、たとえ人間の理解の必要条件ではあっても(例、「あるニューラル・ネットの発火がなければ、人間に理解は不可能」)、その発見自体は「理解」について何も語ってくれません。私たちが(ある特定の言語ゲームの中で)ある言葉を理解するということはどういうことか、という問題は、頭の中に隠されたものを「発見」することによって「解決」される問題ではなく、その言語ゲームを「思い起こす」ことによって「展望」を得て、「解消」すべき問題なのです。

こうして「理解」が「頭の中」から「頭の外」へ出ると、「理解」を数々の種類の日常的な「説明」と関連して語ることができます。「理解」とは「心理プロセス」でも「心的表象」でもなく、ましてや脳科学者の発見を待たなければ語ることができないものでもありません。ある言葉の「理解」は「どのようにその言葉は説明されているか」「ある言語ゲームで私たちがその言葉の使用を適切と認める場合の基準にはどんなものがあるか」「どのような範囲の反応を私たちはその言葉への反応として許容するか」といった、誰の目にも明らかな(しかし必ずしも自覚しているとはいえない)具体的な問題となります。このように「理解」をめぐる問題が、非神秘的で明白な問題になったのも、私たちが(今までのウィトゲンシュタイン哲学的説明により)「展望」を得たからです。

(4)展望(overview):「展望」とは数々の(言語ゲームに即した)説明によって導かれる「理解」であり、一種のゲシュタルト転換(a Gestalt-switch)です。分析的-因果論的説明でない、日常的な説明は、それ自体で自足した説明を構成しているわけではありませんが、その説明によって、被説明項が、(説明に使われた)「比較の対象」との共通点と相違点等に光を当てられることによって、被説明項という私たちの言語ゲームの不安定要素が安定します。分析的-因果論的説明が私たちの日常の言語ゲームから基本的に独立したものであるのに対して、日常的な(多くは「比較の対象」を使った)説明は、私たちの言語ゲームの中に埋め込まれているといえるでしょう。

「展望」が提供するのは、私たちの言語ゲーム内での具体的な目的に即した「一つの秩序(an order)」であり、「唯一真正なる秩序(the order)」であるわけではありません。「物事はこうなっているはずだ!」という思い込みはしばしば科学的発見の原動力となりますが、下手をすれば独善へと堕してしまいます。独善の代替案は、決して「何でもあり」の相対主義(=「真理」なんて存在しない)ではなく、「静かに言語的事実を熟考すること(the quiet weighing of linguistic facts)」であり、その結果その熟考が科学へと発展すればそれはそれでよく、科学へと発展せずに、日常生活内での「理解」にとどまってもそれはそれでよく、私たちは「科学か、恣意か」や「唯一の真理か、何でもありの相対主義か」という誤ったジレンマに悩む必要はないわけです。

このように私たちの疑似問題・命題(例、「科学か、恣意か」、「脳内プロセスの解明が英語教育研究に必要だ」)が解消するのが哲学の効用です。疑似問題・命題は哲学的混乱から生じます。まとめも兼ねて、その哲学的混乱の主な源を列挙しますと、(a)現象的な特徴を物事の本質と勘違いしていしまう(例、「この頭の中の閃きが理解だ」「心に感じているこの思いが意味の正体だ」等)、(b)「一般性への渇望(craving for generality)」により現象の家族的類似性(familiy resemblance)が見えなくなってしまう(例、「個別事例をいくら記述したって何にもならない」「いったん(分析的)定義をしたら、それ以外の事例は考えないでいい」等)、(c)自然科学と張り合おうとして(the emulation of science)無闇に問題を複雑にしてしまう(例、「英語教育研究にも心理言語学・脳科学は必要だ」「心的プロセスの解明がなければカリキュラム研究もできない」等)、(d)理性の「無条件なるものの探求(the quest for the unconditioned)」(cf. Kant)により、現象の背後にあるものをどこまでも追及しようとする傾向(例、「教師が納得しただけではだめで、英語教育研究を科学にしなければならない」「役に立つだけではだめだ」等)、(e)言葉の表面上の性質からの誤った類推(「『考える』という活動があるのだから、『考え』という心的表象も存在しているはずだ」等)、(f)ある言語ゲームを他の言語ゲームに押し付けること(例、「心的現象も、物的現象を語るように語られなければならない」等)、(g)通俗的なイメージに引きずられる(例、「『頭の中で起こっていること』を研究対象にしてどこが悪いのですか」「英語教育研究者が脳科学をやったっていいじゃありませんか」等)、等などです。

一つ一つの考えに衝動的に賛成したり反対するのでなく、注意深く考えて、あたりを見回し、私たちの言語ゲームのあり方を思い起こすことによって、不必要な問題を捨て去ることを勧めているのがウィトゲンシュタインさんの哲学です。英語教育研究にもウィトゲンシュタインさんの哲学のような考え方が必要だというのが私の十年来の主張です。

(注1)もっと正確に言いますと、ウィトゲンシュタインさんは、科学の問題ですら「展望」によって解消できるものもあると考えているようです(cf.Boltzmannさんの引用)。

(注2)このあたりは本来なら心の哲学のidentity theoryの考えやInterpretationalismなどの考えを比較しながらきちんと論考を進めなければならないのですが、ここでは割愛します。

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中嶋洋一さんの「仕掛け」(1999/7/5)

下の随想「中嶋洋一さんのワークショップ」の続きです。

中嶋さんのお話は、全体の見通しがはっきりしている(「気付き」「観点」そして「メッセージ」)だけでなく、細部のいわゆる「仕掛け」がとても具体的です。私がメモできた中嶋さんの「仕掛け」をいくつか述べてみましょう。

(1)学習者個人を大切にする:中嶋さんは、たいていの場合「○○について語りなさい」と選択の余地のない指示を出すのではなくて、「○○、△△、□□、××」の中から一つ選んで、それについて語りなさい」と、学習者の「自己選択」を大切にします。そしてその語りを聞く生徒にも「あなたが大切と思ったことを聞いてメモして、レポーターになったつもりで3番目の人に伝えてください」などと指示を出して、生徒の「自己決定」を促し責任感をうえつけます。また生徒が書いた事に直接反論させたりコメントをつけさせたり、また生徒自身の事について語らせたりするなど、常に生徒一人一人がそれぞれ異なる役割を行い、自分なりの他の人とは違う貢献をさせようとします。「クラスのなかのdiversityを促進する」「一人一人の違いが認められて始めて生徒のself-esteemは高まる」とも中嶋さんはいいます。また「班で代表が一人発表するなんて残りの生徒にとってはあまりおもしろくないことです」という中嶋さんの言葉にもはっとしました。確かに班から一人ずつ発表させるというのは、あまりに教師寄りのマネジメントかもしれません。中嶋先生は、具体的に生徒を個人として尊重し、それによって英語の授業の質を上げているといえるかもしれません。

(2)感性を総動員させるような指示を出す:中嶋さんはよく「詩人になったつもりで訳してみよう」「絵本作家になったつもりで台詞を考えてみよう」「声優になったつもりで読んでみよう」などという指示を出します。そうしますと生徒はおざなりの言語使用を止め、例えば"Tomorrow"という詩のタイトルも「あなたの未来」や「きっとくる」と表現します。「『明日』なんて気の抜けた日本語を生徒は使わなくなります」とも中嶋さんは言います。もちろん中嶋さんは指示を出すだけでなく、日頃から、どのような言語使用が感性豊かな言語使用なのかを自分の言語使用(朗読の仕方、日本語の使い方等など)で生徒に示しています。またご自身も生徒も積極的に、芸術的というか自分の気持ちが素直に出てくるのを助けてくれるようなイラストや写真をあちこちに使っています。こんな目立たない「仕掛け」あっての指示なのですが、こういった要因があいまうと、生徒の感性は驚くほどの深さや優しさを示します(このあたりの具体例は、中嶋さんの著作----後日書評します----で是非ご覧ください)。

(3)論理性を育成する指示を出す:中嶋さんの指示は感性を育むものだけでなく、「観点」に着目させ論理性を育むものがあります。「レポーターになったつもりで」とか「評論家になったつもりで」などというのがその例です。「単に言われたことを伝えるだけではなく、第三者によさをはっきり伝えるために、気付きを観点毎に整理して話しなさい」などと中嶋さんは、生徒に要点を的確に話させるように仕組みます。「『あっ』と思うところがあったら蛍光ペンで線をひきなさい」などという具体的な指示も中嶋さんは怠りません。「論理性は抽象的に育つものではなく、身近な工夫(箇条書や四色ペンの使用、等など)を続けることを通じてはじめて身につくもの」というのは私の信念でもあり、常にそういった工夫を自分でも続けるようにしていますから、私はこれも「その通り」と中嶋さんの方針に強く共感しました。

(4)互いから自然に学び合う状況を作り出す:中嶋さんは、生徒が気付かぬうちに、お互いの技術を真似したり「盗んだり」するような状況を作り出すのが巧みです。「チェーンレター」という仕掛けでは、最初はろくろく英文が読めなかった生徒が、友達のメッセージの展開を知り、それに参加しようと自発的に感じる中で、長い英文を書けるようにすらなります。さらに中嶋さんは、生徒のいい表現などはすかさず「教科通信」に掲載して、かつ生徒がそれぞれに「いいなあ」と思った表現に線を引かせたりしています。詩の訳出でも「この人の作品を読んでみたいし、またこの人に読んでもらいたい、と思う友達を三人選んで、お互いに作品を見せ合いこしなさい」と指示を出して、その後に「友達の作品を読んで学んだことをもとに、自分の作品をさらによくしてみてください。ただし消しゴムは使わずに」などと指示を出して、互いから学び合うことによって、自分の作品を常に向上させようとします。

(5)「作品」としての英語:さきほどから「作品」という言葉が何度かでてきましたが、中嶋さんは、生徒の英語や日本語を、単なる添削・採点の対象とは決して考えず、「作品」として尊重し、かつ育てあげようとしています。卒業文集がその集大成です。私も実費で購入させてもらいましたが、これは島根県の田尻悟郎さんの生徒の作品同様、驚くほど質の高い「作品」となっております。「これを一つの『教科書』にしているんですよ」とも中嶋さんは言いましたが、先輩のこんな作品に接し、かつ自分なりの英語の作品を三年間で作り上げる中嶋さんの生徒は本当に幸せだし、自分達に誇りを持てるだろうなと思いました。

(6)SubjectからProjectへ:総じて言いますと中嶋さんは「英語」という教科を、単なる暗記科目から、全人格的なイベントへと転換させています。「SubjectからProjectへ」とは少し前に教育学関係者の間で流行した言葉でしたが、私のように未熟な研究者はそれをスローガンとして唱えるだでで、"project"の内実を捉えきることができていませんでした。中嶋さんの実践は、"project"の見事な実例です。日本の英語教育界は中嶋さんのような実践を持っていることを心から誇りに思っていいと思います。皆さんも中嶋洋一さんの話や著書に接する機会があれば、是非その機会を逃さないようにすることをお勧めします。

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言語ゲームの集合体としての英語教育(「90年代の空手技術書から考える英語教育目的論」改題)(1999/7/4)

申し訳ありません。話の糸口を思いっきり趣味で選びました(^^;)。でもそこから英語教育目的論に絡めたお話をしてみたいと思います。

『最強の極真空手城西テクニック編』(山田雅稔著、スキージャーナル社)や『極真空手・城南支部強さの秘密』(広重毅著、ベースボールマガジン社)や『勝つ!ための空手』(石井和義著、ベースボールマガジン社)などの90年代に出された空手の技術書を見ていると、空手技術書の長足の進歩ぶりに驚きます。20年前に出版された空手の技術書が、様々な空手のポーズの写真を列挙しただけのものだったことと比べると、これらの技術書はそれぞれの技とコンビネーションの原理とコツ、よくある悪い例との比較などを連続写真等で示したり、長期トレーニング計画の立て方やメンタルトレーニングのやり方(および留意点)を明確に示したり、と、空手を練習している人なら、何度も読み返して自分の練習に役立たせる良質なreference bookとなっています。

もちろんこれらの技術書の向上の背後には空手技術そのものの向上があります。ではなぜ、そのような目を見張る向上が可能になったのか。ここではその要因の一つとして「ルール」を取り上げようと思います。

本来武術には「ルール」などは存在しません。「殺す」「殺される」といった関係では(その後に生じる社会的制裁・軋轢などを除いて考えると)、技術に関して守らなければならない「ルール」などはありません(むしろ通念的に「ルール」のように思われている事柄の裏をかくことが、実際の命をかけた戦いでは重要になるでしょう)。

しかしそのようなルール無用の技術は、もちろんのこと練習で使う訳にはいきません。おのずとそのような技術は個人練習となるか約束事としての数々の限定付の約束稽古で練習せざるを得ません。残念ながら(一部の天才を除くならば)そのような練習だけで技術が実戦的に向上することはあまりない、ということは格闘技界の(夢もロマンもない)常識的理解というところでしょう(cf『八極拳はなぜ勝てたのか』ベースボールマガジン社)。

単純な思い込み的な「理屈」では捉えきれない事実を学ぶには実際に本気で技を掛け合ってそのフィードバックから学ぶしかありません。そのためには試合をする必要があります。ルールを定めて、そのルール以外のことはとりあえず考えずに、その範囲内だけでルールに基づいて公正に、試し合いを重ねてゆくことにより、具体的な知見だけでなく、一般原理も明らかになってゆきます。90年代の良質な空手技術書は、ルールに基づく現代空手の所産といえるでしょう。

ルールが定まると、目的が定まります。「どんな時にでも対応できるように武術の技を練習する」というスローガンは聞こえはいいですが、実際は、練習している本人も練習の意味を十分に自覚しないままに行う伝統型の繰り返しだけになってしまうことが多いです。それに反して、ルール内に限定して練習を行うと「ルール内で相手を倒すためには何をすれば最も合理的か」という観点から、新しい練習方法(サンドバック打ち、(単なるウェイトではない)パワーリフティング、中距離走、等など)が出てきたり、新しい技(鎖骨打ち、肩打ち、レバー打ち、縦拳、内股蹴り、奥足への下段蹴り、等など)が出てきます。さらに試合を重ねることによって伝統的な練習方法の価値が、その原理(再)発見とともに見直されたり(三戦立ちでの練習、立禅、四股踏み、等など)、他の分野の技術の重要性が発見されたり(ステップワーク、等)します。

ルールが定まると、目的が明確になり、上で述べたように練習方法が合理的になるだけでなく、参加者と観衆の多い大規模の大会運営が可能になってきます。大規模な大会をすることによって、その空手技術は多くの人にも強さが納得がいき、かつ社会的にも認知される技術になってゆきます。内輪だけで独善的なルールをつくっていましても、仮にその目的に即している限りにおいては「合理的」な練習を行っても、多くの人が見て「あんなの『強さ』と関係ないよ」とか「確かに殺傷能力はあるかもしれないが、あんな『強さ』を社会的に認知するわけにはいかない」などと思われたら大規模な大会は開催できません。内輪だけの小さな試合だけしかやらないとフィードバックによる進化は期待できず、技術も向上しません。

しかしいいことばかりはないもので、ルールが定められてその枠内だけでやっていると、武術が目指している『強さ』という点では「あれ?」と思うようなところも出てきます。護身術でしたら本来体重別の戦いなんてナンセンスですし、フルコンタクト空手の試合でも、お互いに顔をつきあわせるような距離にいながら相手を掴むことも顔面に手や頭で攻撃を加えることもしないことなどはナンセンスといえるのかもしれません。それではルールを拡大して、限定を少なくすれば、バーリトゥードやシュートボクシングのように常人ではできないような格闘技になりますし、またそれらの格闘技とて、身の回りにある武器を使わない、急所攻撃を認めないなどで、武術本来の戦いのあり方とは異なっています。

さてここでこれまでの話と英語教育の話を(いつものように強引に(^^;))絡めてみましょう。武術でいう(どんな状況にも対応できる)「強さ」は、私たちがよくいう「英語力」(あるいは私個人は好きな用語ではありませんが)「コミュニケーション能力」に相当します。「英語力」がある人は、会議では雄弁で、パーティでは優雅であり、それでいて映画も小説も楽しみ、手紙も論文も見事に書き分けたりします。しかしそんな「英語力」なんて、日本にいて学ぶ限り、不可能とまではいわないまでも、非現実的です。そんな「英語力」を目指して英語教育のシラバスを組んでも、漠然・漫然としたものになって、その結果妙な劣等感を生み出すぐらいでしょう。

そこでそのような非現実的な目標設定するのをやめて、具体的なルールに裏付けられた目的を(複数)設定します。ディベート、スピーチ、ドラマ、ディスカッション、ロールプレイ、オーラル・インタープリテーション、リーディング・グループ、e-mailコミュニケーション、手紙を書く、電話で話す、自己紹介をする等など(本当に「等など」です!できるだけ多様な言語ゲームを想起しましょう!)を様々なバラエティーを認めて行うわけです(例えばディベートだって何人制にするか、命題をどんなものに限定するか、どんなエビデンスを採択するか、ジャッジのあり方をどうするか、等と様々なバラエティーがあります)。

このようにして、英語教育を一枚岩のものとして考えることを止め、「英語力」を、数多く(countless)の、相互に関連し合っているが、それなりに独立した言語ゲームの集まりと考えるわけです(cf family resemblance)。集まりといっても、ウィトゲンシュタインさんが「町」の例えで示すように、(行政的にはともかくも)、どこからどこまでが「町」と明確な境界線で示されるような集合体(cf古典的な集合理論の考え)ではなく、各種共同体によって細かな捉え方は異なるものの、だいたいのところでは合意が形成されている、曖昧な境界線しか持たない概念として「英語力」を捉えるわけです(このあたりのウィトゲンシュタインさんの考え方はチョムスキーさんの普遍文法の考えとは全く異なります)。

そして各言語ゲームの中では、その言語ゲーム内の具体的なルール(=価値感の具体化)に基づいて、徹底的に合理的に技術を進化させるわけです。ただその際に大切なことは、一つあるいは有限の数の言語ゲームだけを固定的にとらえてそれ(ら)を強制しないことです。言語ゲームは、それなりにある時点では独立しているものの、「空手」がそうであったのと同様に、時代によって、関連言語ゲームとの交流によって、進化して姿を変えるものなのです。英語教育も皆が皆例えば「2人制ディベート」ばかりをするのではなく、ある教室ではある活動を、別の教室では別の活動を、とバラバラに行い、かつ時に大きな大会を開催して、他から参加者だけでなく観客も呼んで、技術の向上と進化に努めるわけです。ある教室・授業では、目的限定の練習をするが、全体的・長期的に考えるならば、その目的とルールだけにこだわらない態度を育成し、英語教育の別の言語ゲームを選択することを生徒に促し、指導者には言語ゲームを進化(融合や分化など)させ、英語教育を常に再編成させることを促すわけです。

考えてみれば、現状のいわゆる「文法中心」の「受験英語」というのも一つの言語ゲームです。これはこれなりに予備校などを中心に目的限定で合理化がはかられていますが、問題はこれが英語教育の唯一の(大きな)目的のように思われていること、また社会的認知をあまり得ていない(cf「受験英語はあのままの形ではあまり役立たない」という声)にもかかわらず、他の言語ゲームがルールも制度も整備されないままに対抗言語ゲームとして育っていないので、受験英語言語ゲームが進化の圧力(変化、淘汰など)をあまり受けていないということです。

これから大学受験がますます社会的力を失ってゆくでしょうから、今が好機です。今のうちに、英語教育関係者が、それぞれの信念に従って、自分がよいと信じる英語教育の「言語ゲーム」の「ルール」(具体的な行動様式に具体化された価値観)を明らかに記述し、それを多くの人に訴えて、社会的認知と参加を得るように自分の英語教育言語ゲームをさらに進化させるわけです。学習者は、それぞれがいいと思う言語ゲームに参加して、到底自分で到達はできないが、遠い理想として予感される(総合的な)「英語力」へと努力してゆくか、自分の目標を「これで十分」と限定して、自分が選んだ英語教育言語ゲームに専心するわけです。

行政サイドがやることは(1)言語ゲームに関する一般禁止規則を設けることと(2)進化を援助するような制度の整備を図ることです。(1)については「○○をせよ」という積極的な指示が、その○○が「英語力の向上」という総合的なものでも、ある特定の英語教育言語ゲームでも(例、いわゆる「受験英語」「英会話」)、国民全体からの支持を受けることも不可能でなおかつ、国民一人一人のそれぞれの(それぞれに定義された)英語の力の総和もあまり上がらないのですから、行政としては「差別を助長するような英語教育はしてはならない」「人権を軽視するような英語教育はおこなってはならない」「特定の宗教やイデオロギーにのみ奉仕するような英語教育はおこなってはならない」等といった否定的な一般禁止規則を示し、その遵守を促すことが行政するべき仕事だと私は考えます。同時に(2)で示したように、各英語教育言語ゲーム実行単位が自分の目的を正確に把握して合理的な努力を行っているかどうかをチェックするために、そのシラバスや大会の「ルール」の情報公開義務を課すわけです。この場合、行政は(1)に反しない限り、目的そのものに立ち入ってはいけません。あくまでも各言語ゲーム実行単位の目的は(1)に反しない限り認めておいて、その情報の公開だけを迫るわけです。また行政がその情報の判断をしてもいけないと思います。その情報の判断は、市場原理的に英語教育の各参加者にゆだねるわけです(cfハイエクの進化の議論)。

こうして英語教育目的の多元性を正式に認定した上で、それぞれの言語ゲーム単位が進化するように、英語教育関係者が努力すれば、日本の英語教育の全体の状況も、より健全に、かつ効果的になると私は考えます。

日曜日の午後に興に任せて打った文章なのでわかりにくいところもあるかと思います。特に空手のたとえは、空手に無縁な人には親切ではなかったかもしれません。しかし、それこそ、この論を進化させることができたら(たとえそれが淘汰されても)ありがたいと思います。

英語教育目的論のための掲示板「広場」への投稿を引き続きお願いする次第です。

追記1:少し近いたとえを使いますと、私の提案は「運動能力」なるものを一般的・一枚岩的に考えるのをやめて、それを各種スポーツの集合体と考えようということです。「運動能力」を目指したカリキュラムが散漫になりがちなのに対して、特定期間にはある特定のスポーツに集中して、という事を繰り返している方が、かえって結果的に「運動能力」も高まるのではないか、ということです。もちろん各種スポーツは、様々な所で重なりあい、種々の所で異なりあっている連続体として考えるべきです(cfウィトゲンシュタインさんの「ゲーム」についての論考)。

追記2:言語ゲームの集合体として英語教育を考えることは、いわゆるNotional-Functional Syllabusとは異なります。「言語ゲーム」は、複数のfunction(al expression)で構成されるからです。しかもその構成は、適宜柔軟に変化するものです。

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中嶋洋一さんのワークショップ(1999/6/30)

6/27の達人セミナーin岡山で中嶋洋一さん(富山県砺波市立出町中学校)のワークショップ「高まり、広まり、深まりがうまれる授業をつくる----ディベートに至る道づくり」に参加しました。これがよかった。本当によかった。大阪の菅正隆さん、島根の田尻悟郎さん、(そして少し若いけど)愛媛の清家佐保さんもそうですが、中嶋洋一さんの話を聞く機会があれば是非足を運んでみてください。きっと英語教育の深くて細やかな営みについて多くのことが学べるでしょう。

中嶋さんのキーワードは「気付き」「観点」そして「メッセージ」。これを私なりに言い換えますと、「感性と論理性を相乗的に磨きながら、自分と相手の個性を育みあうことを学ぶ」となります。中嶋さんの授業は単なる思いつき的な「テクニック」の集積ではなく、中嶋さんなりの教育理念で一貫したシラバスの遂行を援護する「仕掛け」に満ちたものです。中嶋さんの話は教育上の信念と経験からくる自信に満ちあふれています。いくつかのその場しのぎのアイデアを披露しているような話とは無縁なものです。

中嶋さんとお話ししてわかったのですが、このような教育上の信念を抱くようになったきっかけは、ある国際的な集まりで日本人青年がほとんどといっていいほど発言できなかったことを見たことだそうです。その集まりの共通語は英語だったのですが、日本人青年は皆まず「英語」を話そうとしてしまい、自分の「メッセージ」が後になってしまって(もしくは消えてしまって)、文法や発音にしどろもどろになっていたそうです。当然の如く他の国の青年は、まず自分の価値観や主張を全面に出し、こちらに「メッセージ」を伝えてきます。もちろんそれは「言いっぱなし」「聞きっぱなし」ではなく、「私はそうは思わない」「なぜそんな風に考えるのか」と相手の「メッセージ」に正面から向き合い、それに絡ませて自分の「メッセージ」を伝えようとします。日本人青年にはそれができない。次第に仲間外れになる日本人青年の姿に中嶋さんは愕然としたそうです。

そういった体験や、オランダでの英語教育研修(生徒の生き生きとした自己主張の姿を目のあたりにした)を経て、中嶋さんは日本での研修でディベートを学び、中嶋さんの授業は現在の形をとりはじめました。その核を表現するなら、やはり中嶋さんがいうように「高まり、広まり、深まりがうまれる授業」となりましょうし、私なりに表現するなら「感性と論理性を相乗的に磨きながら、自分と相手の個性を育みあうことを学ぶ」となります。いや、下手な私の言い換えより、やはり中嶋さんの表現の方が的確です。中嶋さんは資料の表紙にこう書いています。

English Class / Challenging, / Connecting, / Sharing, / Full of diversity, / Filled with comfortability, / Joyful, / Interactive, / Global, / Empowering all the learners, / Having self-esteem. / Such an English class is my dream

私の拙いこの小文しか読んでない方の中には「なんだ美辞麗句ばかり」と思った方もひょっとしたらいるかもしれません。しかし中嶋さんのワークショップを経験した私にとっては、一句一句が納得できます。

それでは具体的に中島さんの授業の様子を見てゆきましょう。(続く)

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基準としての諸言語ゲーム(1999/6/29)

下の教育実習についての文章に対して武蔵大学の直井さんがコメントを寄せてくれました。その主旨を私なりにまとめますと、(1)教師が身体表現技能を身につける場をどこに確保するか、(2)技芸としての英語と知識としての英語の教授のバランスをいかに保つか、(3)何故柳瀬は下の随想に示されたような基準で批判をするのか(批判基準が高すぎはしないか)、ということになろうかと思います。

(1)と(2)に関しては、直井さんも言っていますし、また私もかねてから主張していますように、きちんと制度にのせて訓練の場を確保し教授計画を立てるべきでしょう。もし現状の体制が、自由競争による秩序に基づいたものだったら、(最小限の義務だけを規定した)制度はあまりいじくらずに、個々の機関の変化というか進化(そしてその結果としての淘汰)に期待すればいいのでしょうが(注1)、良い意味でも悪い意味でも、現体制は計画による秩序を重んじていますから、英語教員免許状取得のための教育課程(大学)や学習指導要領(中高)を変えていかない限りあまり変革は期待できません。とはいえ学習指導要領とて以前の随想「学習指導要領のウィトゲンシュタイン化?」(1999/3/2)でも述べたように「言語の使用場面の例」や「言語の働きの例」が導入されたりなどと、より現実的になってきているように私は思いますし、またこれは私も国立大学に来るまでは知らなかったのですが、文部省は毎年のように国公立大学長宛に大学の教育課程の改善に関する研究の募集をしています。私も身体技能的側面を強調するなら、そのような研究で具体的に制度提言をするべきでしょう。ですが言い訳をするわけでもないのですが、そのような制度提言は私個人の能力と時間的余裕を越えます。誰かの研究を待つと同時に、私の方としては共同研究パートナーを求める次第です(注2)。

と、ここまでの記述で直井さんの(1)と(2)には間接的に答えたにせよ、(3)何故柳瀬は下の随想に示されたような基準で批判をするのか(批判基準が高すぎはしないか)という問いはまだ残っています。これに対しては、私は「諸言語ゲーム」を基準にするので下の随想に示したような批判をする、とお答えしたいと思います。

それでは、「諸言語ゲーム」を基準にするということはどういうことか、となってきます。まず「諸言語ゲーム」について確認をしてみましょう。ウィトゲンシュタインが言語ゲームについて言及している主な節(『哲学的探究』)は以下の通りです。

I shall also call the whole, consisting of language and the actions into which it is woven, the "language-game". (7)

「言語ゲーム」とは(狭義の)「言語」だけにとどまらず、(これまた狭義の)「非言語的」行為と、「言語」が折り込まれた活動の総体を指します。「言語生活」といってもいいと思います。

And to imagine a language means to imagine a form of life. (19)

この考えに従いますと、言語について想像するということは、しばしば「生活形式」----文化的に規定された言語使用のパターン----を想像するということになります。もちろん例えば生成文法学者のような言語学者ならば、「言語の自律性」を主張し、「言語」は「文化」や「社会」から独立して考察することができるし、またそうするべきだと説くでしょう。私も「言語の自律性」は認めます。少なくとも統語現象の(一部)は、「文化」「社会」「コミュニケーション」などの要因からは説明できないと思います(注3)。ただこれは日常的な言語感覚とは(良い意味でも悪い意味でも)異なる感覚だと考えています。

たとえで説明しましょう。数学者にとって「数」は自律した研究対象です。「数」の形式的特性は、それ自体の論理で説明せざるを得ない独立した(研究)対象です。ですが、その他の多くの人々にとっては、「数」とは独立した自律的対象というよりは、様々な要因と絡み合った(大きくはあるが一つの)要因です。例えば税理士にとっては(消費税計算の)1.05という数字、(小売値でよく使われる)980(円)という数字、(箱単位でよく使われる)12(=1ダース)という数字は、特別の意味を持っています。この「特別の意味」は(純粋)数学からは決して出てこない、社会的なものです。そもそも「税」「小売」「箱単位」といった概念そのものも数学とは無縁なものです。税理士は、数学の自律した形式的論理に従わないと四則計算すらできませんが、一方でその形式的論理に従っているだけでは税理士として数を扱っているとは言えません。税理士にとって数を考えるということは、数の自律的・形式的論理を考えることだけでなく、商業活動・徴税活動という生活形式を考えることでもあります。この例えは、(狭義の)言語学者と、その他の(言語教育者も含んだ)言語使用者についてもあてはまると思います。言語使用者にとって言語について考えるということは、それと不即不離に結び付いた生活形式を考えるということであるのです(注4)。

Here the term "language-game" is meant to bring into prominence the fact that the speaking of language is part of an activity, or a form of life. (23)

ここではgameとspeakingがイタリックになっていることに注目したいと思います。「言語」という言葉でなく「言語ゲーム」という言葉を使うということは、「言語」とこれまた対比される「言語使用」(注5)が、人間の生活の一部であることを強調するためなのです。

It is interesting to compare the mulitiplicity of the tools in language and of the ways they are used, the multiplicity of kinds of word and sentence, with what logicians have said about the structure of language (Including the author of the Tractatus Logico-Philosophicus.) (23)

こういった言語観はチョムスキーさんや前期のウィトゲンシュタインさんとは異なるものですが、これはどちらかが優れている/劣っているという問題ではなく、pragmaticにどの言語観を選ぶべきか(=どの言語観をとった方が自分が抱える問題解決に役立つか)という問題になるべきだと考えます。

まとめてみますと、狭義の「言語」でなく「諸言語ゲーム」を基準にするということは次のことを含意すると考えられます。

(A)狭義の「言語」にとらわれず、具体的な言語ゲームを営めることを基準とする。

(B)その具体的な言語ゲームは、何か唯一真正なものではなく、複数の諸言語ゲームである。

(C)複数の諸言語ゲームは、何種類と限定できるものでなく、数え方によっては種類の数も変動するし、場合によっては加えられる言語ゲームもあれば、減らされる言語ゲームもある。言い換えるなら、言語ゲームの完全なリストは存在できない。

(D)諸言語ゲームの選択は、そのそれらの言語ゲームを行うことの必然性が学習共同体によって感じられることによってなされる。「共同体」「感じられる」といった(とりわけ)境界線のはっきりしない概念を持つ言葉の使用によっても示唆されているように、この選択は柔軟なものであり、フィードバックによって変化・進化する。

話を(3)に戻しますと、私が教育実習生の授業を批判したのは、私がこのように「諸言語ゲーム」に基準をおき、実習生の授業からは何の言語ゲームも想像しがたいように思えたからです。「言語」の授業でもなく「言語ゲーム」の授業でもない中途半端な授業のように思えたからです。もっとも私の言い方ががきつすぎたのではないかといった実際上の問題は残るかもしれませんが、理論的にはこれが私の判断の基準です。

(注1)ここでは自由競争による進化についてやや悲観的な書き方をしましたが、それでもある会社が準備しているコミュニケーション重視の英語テストは、プロトタイプモデルを見る限りなかなかよさそうです。もちろん、それの商業化には色々な課題があるでしょうが、英語教育界とて自由競争からは無縁ではありません。

(注2)共同研究となると誰とでもというわけにはいかないでしょうから、もしそういう方がいらしましたら計画書を公開して下されば幸いです。

(注3)それでも私は自律的な「言語」は生得的な/物理的な問題としてよりは、自己組織性による自律システムの進化の問題として考えるべきではないか、と考えている点では生成文法学者とは考えを異にしていると思っていますが、残念ながらこの件に関しては勉強が足りず、これ以上議論をすることはできません。

(注4)言語学者にとってさえも、「言語」を考えるということは、言語学学界において公認されている「言語」についての語り方という生活形式も考えるということであると言えるかもしれません。そうなりますとウィトゲンシュタインの指摘は(狭義の)言語学者にも当てはまるものだといえるでしょう。

(注5)"Do you speak English?"という例が端的に示しているように英語のspeakもドイツ語(原文)のsprechenも「(言語を)使う」という包括的意味を持っています。

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続・教育実習生の授業を見て(1999/6/18)

 先日(6/16)に広島大学附属高校で教育実習生の授業を見ました。同校の先生方には教育実習生も含めて本当にお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。

さてここでは授業を見て感じたことを5点ばかり書きます。

第一は「他の英語表現との対比による理解」という点です。テキストは、自らの孫娘を事故でひき殺してしまった祖父の悲嘆にくれる姿を、カメラマンがどうしても撮影することができなかったという話だったのですが、そのヤマとなるところで"Yet I couldn't make my hand fire the flash and intrude on the poor man's island of grief."という表現がでてきます。"Intrude on"が新出表現だったこともあって教育実習生がこの表現をテキスト読解前に取り上げたのですが、その説明が"I hope I'm not intruding on you but could you spare me a moment?"といった非常に「軽い意味」での例文だっただけに、本文でのインパクトが伝わりにくくなってしまいました。ここでは"intrude on"を"interrupt"といった(既知の)類義語と対比させながら説明すればよかったと思いました(cf.「比較の対象」)。もちろん巧みな日本語翻訳でこの語のニュアンスを伝えることもできるのでしょうが、英語使用を授業の目的とするなら、「他の英語表現との対比による理解」を実際の例文に即して促す方がよいのではないかと私は思います。

第二点は、それに関連して、「もっと英語に即して、具体的に授業を進めるべき」ということです。上の引用文の"the poor man's island of grief"を実習生は「この『島』というのは何でしょう。そう『島』というのは水で囲まれていますね。このおじいさんの悲しみに誰も近寄り難かったということでしょう」とさらりと過ごしてしまいましたが、こういった所は"No man is an island, entire of it self." (John Donne)の引用や"The park is a little island of peace in the noisy city", "The university is the last island of democracy in this country"といった比喩的用法の実例を(プリント等で)出してもよかったのではないかとも思います。ある学生は「私ならこのislandがどこを指すのか、教科書の挿し絵を使って実際にislandと思われる部分に丸を描かせる」と発言していましたが、私の考えは英語教育は「鑑賞」を目指すあまり下手な現代国語の授業のようになってはいけない、英語教育はあくまでも英語に即するべきというものですから、授業の他の部分をできるだけ手短にして英語を具体的に教えたいと思います。(注1)

第三の点は「教理問答(catechism)かコミュニケーション」かということです。皆さんの注目を引きイメージを喚起するために「教理問答(catechism)かコミュニケーション」かという言い方をしましたが、要は「自由度のない定型発話をするか、自由度の高い対話をするか」という対比です。対比したといっても私の意見はどちらかが正しくどちらかが誤りというのではなく、両者の使い分けをしなければならないということです。ですが今回の授業ではこの二つが授業者にも無自覚なままに混用されていたので授業がスムーズに進みませんでした。実習生の発問の多くは前の時間に確認した「正答」、次の行に書いてある「正答」を言わせるものでした。指名された生徒が即座に答えられないと実習生が「覚えてない?」と合いの手を入れるか「○○ではなかったんでしょうか」と実習生自ら答えたり、期待とは違った答えがでると「もっと大切なことはなかったでしょうか?」と「正答」を促したりする口癖からもこういった態度はうかがえました。教師は専ら生徒にsanction(認証・制裁)を与える役に徹していました。ところが急に態度を変えることもなく実習生は「このタイトルにもなっているperfect pictureとはどんな写真のことだと思いますか」と自由度の高いopen questionを発問します。そんなふうに急にコミュニケーションを促されていても今の今迄教理問答の完成によるsanctionで拘束を受けていたわけですから、自由な発言はできるわけありません。教理問答の文化・文脈とコミュニケーションの文化・文脈は異なります。その目に見えにくい文化・文脈を育てることなく発問だけをopen questionにしてもうまくゆきません。

それではコミュニケーションを促すためにはどうすればいいのでしょうか。これが私の第四点である「生徒の発言を育てる」です。実は上の発問に対してもある生徒は「自分が正しかったと思えるような写真」「誰も傷つけない写真」などとなかなかいい答えをしていたのですが、準備していた「正答」にばかり思いがいっていた実習生は「もっと大切なことに気付いた人はいないでしょうか。誰か?」とその生徒の答えを育て損ねてしまいました。もしコミュニケーション(自由度の高い対話)を育てようとするなら、生徒の発言をよく聞くだけでなくその発言を育てる術を私たちは学ばなければならないでしょう。コミュニケーションにおいて大切なのは「正答」でなく、自他共にお互いの発言を育てることだと思います。

こう話を進めてゆくと、英語教育界では「やっぱりコミュニケーションが大切だ」ということで話が終わりがちなのですが、自由度のない発話にも大きな役割があるというのが私の意見です。私の第五点は「身体技能の育成」です。この実習生に限らず、どうも実習生の授業には身体的訓練の時間が少ないように思います。私の意見は「英語を習得するということは、日本語と唇や舌や顎の動かし方、息継ぎの仕方まで異なる身体技能を身につけるということ」というものですから、私個人は英語の授業では身体的訓練を重んじます。前任校の英語の授業では大半が身体的訓練だったと言ってもいいと思います。今回の教材の場合、テーマがよく、empathyを感じやすいものでした。英語教材にはビジネス文書のような機能的なものを使えという意見もありますが、今回のような教材は心情表現を学ぶには格好のものです----たとえ商談とはいえ、口頭コミュニケーションで心情表現は重要です----。ところがこの授業では、仮にテープリスニングと(おざなりの)音読はあっても朗読がまったくなかった。この教材を活かす一つの方法は朗読(オーラル・インタープリテーション)なのに、と私は思ってしまいました。とはいえ私とてこの教材をうまく朗読しようとするとかなりの準備が必要です。ましてや生徒にうまく朗読させようとすると大変な準備が必要です。しかし英語教師は体育教師や音楽教師に学ぶことによって、自分の身体と生徒の身体を、自己と世界の表現を的確に円滑に行うことができる「芸術的身体」----大袈裟すぎる言葉でしょうか----に転換する術を学ぶべきだと思います。

この意味では近江誠さんの『頭と心と体を使う英語の学び方』(研究社出版)は連綿と読み継がれるべき本だと思います。英語教師の皆さんに心から一読をお勧めします(注2)。

と、色々批判をしましたが、この実習生は本当に真面目に努力をする学生です。他の実習生の話では、彼は連日ほとんど寝ることもなく授業の準備をしていたそうです。その意味で彼は一番大切なことをマスターしているわけですから、後はただがむしゃらに努力をするのではなく、考えながら努力することを少しずつ学べばきっといい教師になると思います。

Sさん、頑張ってください。研究授業本当にお疲れ様でした。

(注1) もちろんこれにも異論があって例えば「日本語表現力を付けることも英語教育の一環である」という意見もでるかもしれません。私もその意見自体に反対することはありませんが、ここで言っておきたいことは明確な英語教育目的論の欠如が、授業の話を不用意に混乱させてしまうということです。英語教育目的論は私たちが企図する英語教育という営みに固有の問題です。掲示板「広場」で手を変え品を変え粘り強く続けたいと思います。

(注2) 私の『模倣の原理と外国語修得』という本はある意味で近江誠さんの『頭と心と体を使う英語の学び方』へのトリビュートです。英語教育界はもっと地に足を付けて正直に英語習得について語るべきだと思います。

もしコメントがありましたら「広場」(目的論関連)「中庭」(それ以外の話題)へご投稿ください!


教育実習生の授業を見て(1999/6/8)

昨日、教育実習のお礼とご挨拶を兼ねて広島大学付属福山高等学校へ行き、そこで教育実習生(広島大学の学部生)の授業をいくつか見学することができました(英語科の先生方、お世話になりました)。同校の生徒さんの整然とした態度はとても印象的でしたが、ここでは実習生の授業を見て感じたことを書き連ねておこうと思います。

一番強く感じたことは、授業の展開の仕方やカードなどの小道具の使い方などが、私の時代と比べてはるかに上手になっているということです。実は一つだけ、授業展開にまるで工夫がない実習生の授業があったのですが(「このhowの意味は何でしょう」「In factの意味は何ですか」などといった発問が延々と続いた)、その実習生はある授業で英語科教育法の授業(後期)の単位を取得していないとのことでしたので、この展開や小道具使用の巧みさは英語科教育法の授業に由来するといっても決して内輪褒めにはなりすぎないのではないかとも思いました。

ですが(その実習生の授業は例外として)、同じようにそれなりに巧みな----もちろん実習生にしては、という意味です----授業運びを見ていると、否応なしに、実習生個人個人の「英語力」の違いが授業の違いとなって現れてきます。

ある学生さんは比較的英語力があるらしく(後で聞くとTOEFLなら600点を越すそうです)、それなりに授業は滑らかに進んでゆくのですが(注1)、同じ教材を使って同じような展開で教えていた別の実習生の授業は、どうも取り上げる項目が「教科書の新出単語だから」といったおざなりな理由によるもので、「なぜこの項目を教えたいのか」という必然性が参観している私には伝わってきませんでした。英語でのコミュニケーション体験が広く深い人は----私のいう「英語力の高い」人です----、自らの体験から表現の微妙さ、強さ、ひいては怖さをいわば身体的に把握しているから、扱う項目を信念を持って教えますし、生徒に質問されても当意即妙に答えることができます。逆に英語力の低い人は、そのような感覚や信念を持っていませんから、どうしてもマニュアル的な授業となり、下手をすれば「納得」とは無縁な教育活動となってしまいます。

格闘技でたとえてみましょう----出た!筋肉のたとえだ!!----。格闘技の技術は弱者を強くする技術です。ですが、いくら技術を知っていても、その技術を支える体(筋力、柔軟性、持久力等など)ができていないとその技術はうまく実行できません。仮にある技だけ練習していても(左ジャブの練習ばかりしても)、体全体を作り上げておかないとその技は決して使えません(いくら左ジャブが打ててもフットワークがきちんとできなければ決して相手に当たらない。ディフェンスができなければ自分が打つ前に打たれてしまう。持久力がなければ息切れしてしまって左ジャブどころではない。パワーがなければ得意の左ジャブが当たっても全く効かない)。格闘技の選手は例外なく基礎鍛練を大切にしますが、それは技を支える体が何よりも必要だからです。

さらに格闘技の話を続けますと、私のように格闘技を中途半端(以下)にしかやっていない者が、自分より30キログラム以上重い人間をKOすることは、はなはだ困難です。実際私が道場に通っていた頃、元プロ野球選手の体の大きな人が入門してきましたが、ちょっと約束組手をしただけで私は「これはかなわない」と思いました。格闘技の基本はパワー(=重さ×スピード)です。技(タイミングや体の動きのこつ)だけでは、単純なパワーになかなか勝てないというのが格闘技の(非情な?)事実です(注2)

ここで話を英語の授業に戻します。英語授業の基本は英語力(=英語コミュニケーション体験の広さと深さ)といえないでしょうか。その英語力さえある人なら、あまり英語科教育法のことを知らなくてもそれなりに授業はできます。広くて深いコミュニケーション体験を持っているネイティブ知識人による授業がいい例です。英語科教育法をよく学んでいても、根本の英語力がないと、その授業は英語科教育法に無知なネイティブに「負ける」(注3)のかもしれません。これが英語授業の非情な事実とはいえないでしょうか。

ここから言えるのは何か。教育学部の学生はやはり何よりも英語力をつけることを基本に勉強するべきでないか、ということです。この「英語力」の増強ということは、私は「コミュニケーション体験を広く深くすること」と定義しましたものの、それでも具体性に欠け、どのように「英語力」をつければいいのかは初心者はこの定義からはわかりにくいかもしれません(cf私のホームページの「教育」のコーナー)。またこの「英語力」というのはつけるのに時間がかかります。少なくとも年単位でつけるものとすら言えるかもしれません。それでもこの英語力が一番大切なのではないか、というのが今の私の意見です。

「それでもどんなに英語力をつけてもネイティブの知識人にはとてもかなわない」という嘆息が聞こえてきそうです。でも、それだからこそ英語科教育法を学ぶべきなのです。英語科教育法をきちんと考えて身につければ、少なくとも英語の授業という言語使用に限っては、(英語科教育法を何も知らない)ネイティブの知識人以上の授業が可能です(注4)。あたかも、身体的には決して恵まれていない人が格闘技の習得によって、自分よりも大きな身体を持った人間を制することができるように。

学部生にしても(私のような)現役教師にしても日頃英語力つけるためにどんなことをしているか----ひいては英語力を高めることでどれだけ人生を豊かなものにしているか----ということが英語教育の根本問題であるような気がします。

(注1)それでも、この学生さんにしても日本語の発話量が多い。英語使用が授業の眼目ならば、もっともっと英語の発話とinteractionを増やせばいいのにと私は思ってしまいました。

(注2)これはフルコンタクト空手では大山倍達先生の「パワー空手」という合言葉が示しています。大山先生は徹底した現実主義者で空手にウェイトトレーニングを早くから導入した人の一人です。もっとも大山先生が「技は力の中にあり。力は技の中にあり」と言っていることからもわかりますように、フルコンタクト空手が単なる馬鹿力の出し合いだというのはとんでもない誤解です。また中国拳法でも発勁(全身の協調による合理的なパワーの出し方)を重んじ、いわゆる「立禅」(これは日本式の言い方)などの基礎鍛練を重視しますから、「格闘技の基本はパワー」という命題は(留保条件がいくつかはつくとせよ)正しいと思います。

(注3)格闘技のたとえを使いましたので、授業にあたかも勝ち負けがあるかのように書いてしまいましたし、日本人英語教師とネイティブの英語教師がまるで敵対関係にあるかのように読んでしまった方もいるかもしれませんが、それらはもちろん私の本来意味するところではありません。

(注4)実際に自分がネイティブスピーカーだ、という事実だけで英語教師になっている人も散見されますが、そんな人の授業より良い授業をすることは十分可能です。

追記1:広島大学付属福山中・高等学校の有志の方は西日本英語指導法研究会福山支部を運営しています。福山近辺の方はhttp://www.hiroshima-u.ac.jp/japanese/fukuyama/eigo/eigo.htmlをご覧ください。

追記2:それにしても教科書の英文には自然なリズムを欠いた文が見られるように私は思っています。例えば Kirihara Shoten SPECTRUM English Reading (p.28)は、第一文目が"In 1893 Henry Ziegland, of honey Grove, Texas, left his sweetheart, who killed herself."と始まり、読者はいきなり重要人物二人の登場、二人の別離、一人の自殺という重要な情報を知らされます。いくら本文が短くなくてはならないという制約はあってもこれは読みにくい文章構成だと私は思います。またKairyudo Sunshine English Course I (p.33)には"Four seniors trying to look as serious as bankers sat behind a long table."という文がありますが、これは"Four seniors sat behind a long table(, ) trying to look as serious as bankers."の方がはるかにわかりやすいし自然だと思います。もちろんこれらの例は私がたまたま接したものですから、特にこの二つの教科書の英文が不自然だというわけではありませんので念のため。(また私のこの感覚の方が間違っているかもしれません。その際はご指摘ください)

追記3:上の「追記2」に対して桐原書店広島営業所の羽田さんから下の投稿を「中庭」にいただきました。出版社営業職の誠実な対応例として印象を受けましたし、上の批判のフォローをする意味もあって、その投稿を転載します。

柳瀬先生、kiriharasyoten SPECTRUM English Reading につきましてご評価をいただきありがとうございました。早速編集部に伝えます。次の改訂となると、2003年の新課程用のものとなり、今の題材がそのままのこるかどうかはわかりませんが、先生からご指摘いただいた、「重要な情報がいきなり複数出てくる」ことにつきましては、高校生が読む英文として適当か、または、学習するであろうこの時期に読むものとして適当か、などを勘案しながら作らなければならない検定教科書として当然考えて行かねばならないことだと思います。色々考えがあってこの題材を取り上げたのだとは思いますが、よりよい教科書を目指して行くために、編集部でも議論するよう話したいと思います。

 私たちは営業職ですので英語のことは皆目分かりませんが、日々高等学校にお邪魔して、ご採用いただいている自社版のご評価、他社版の優れているところ、などを先生方から教えていただき持ち帰っています。その情報が私たちの「命」です。先生方からいただくご評価に、ネガティブもポジティブもありません。すべていただいて帰っています。確かに耳に痛いご評価もありますが(多いですが)これはチャンスです。問題点が明らかになったわけですし、改良によってまた信頼関係が深まる(のではないか)と思います。これまでもこれからも、ずーーっとこの繰り返しです。またよろしくお願いいたします。

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