随想99a

1999年1月29日から1999年5月30日までの随想です。

新しい随想が次々に上に来る形態をとっていますので、初めてアクセスされた方は一番下までスクロールされてからお読みになることをお勧めします。

人名に関してはたとえどんな方であろうとも97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しております[実験的に、有名な人名でも例えば「ウィトゲンシュタインさん」などと表記しています(^^)]。


再び「科学的説明」と「比較の対象」について(1999/5/30)

下からの一連の話の続きです。「科学的説明」と「比較の対象」を再び対照的に解説したいと思います。

言語に関する「科学的説明」の一例としてチョムスキーの理論を取り上げてみましょう。チョムスキーは、英語や日本語といった「特定言語」の説明にはあきたらず、人間の言語に普遍的に当てはまる(はずの)「普遍文法」の説明を試みます。ここでは、私は「科学的説明」が(1)普遍的(universal)、(2)高階的(second-order)であることに注目したいと思います。

「普遍的」とは「その対象に関してあまねくあてはまる」ぐらいの意味です。「高階的」というのは「一つ高い次元で」ぐらいの意味ですが、念のため例をあげますと「キリン」「ゾウ」「シマウマ」というレベルに対する「動物」というレベルにでもなりましょうか。ここでは私は生成文法を「キリン」「ゾウ」「シマウマ」といった特定の種のレベルの研究ではなく、「動物」(あるいは「哺乳類」)といった一つ高い次元での研究をしていると理解しているわけです(他の箇所同様、間違いがあればご指摘ください)

これに対して「比較の対象」による説明は「普遍的」でも「高階的」でもありません(注1)。ある類例を「比較の対象」として示すことによって、被説明項を理解しやすくするのが「比較の対象」による説明の趣意です。ですから「比較の対象」は「その対象に関してあまねくあてはまる」モデルではありませんし(そもそもそのようなことは狙っていない)、何か一つ抽象度の上がったレベルの説明を提供しているわけでもありません。

こうして対比してみますと、「比較の対象」による説明はそれこそ「非科学的」で----- 一部の共同体においてはこの「非科学的」という言葉は、一時の「非国民」ぐらいのインパクトをもっています(^^)----何の役にも立たないようにすら思えます。しかし具体例で考えてみましょう。

例えばあなたがドイツ語を習い始めたとします。あなたは伝統的なドイツ語の文法書を使って勉強するかもしれませんが、「科学的説明」を好む教師から習っているなら、普遍文法の観点からまとめられた新しいドイツ語の文法書を使うかもしれません。実際こういった文法書は面白く、「言語」への関心は高まるかもしれません。しかしその文法書は、その定義上の制約からすれば少なくとも(注2)、普遍的で高階的な枠組み(=モデル)を使わざるを得ず、ひょっとすればあまり説明されないドイツ語固有の文法事象を扱いかねているかもしれません。またそもそもあなたは新たに導入された普遍文法の枠組みそのものの学習に当初とまどうかもしれません(注3)。

これに対して「比較の対照」による説明を得意とするドイツ語教師なら、英文法を通じてドイツ語を説明するドイツ語文法書を勧めるかもしれません(実際私もこのような文法書にはお世話になりました。また英語の語義を通じて説明する独和辞典にもお世話になりました)。この種の本の長所は、説明の枠組みが、既知の英語であり、その分説明がすらすらと理解しやすいというものです。もちろんこの枠組みは「比較の対象」に過ぎませんから、別段「英文法の全てがドイツ語文法にもあまねく当てはまる」などと主張しているわけではありません。とりあえずの見通しを提供するために著者は英文法という「比較の対象」を提示しているだけです。

なんだそれは「対照言語学」ではないか。「対照言語学」の方法は普遍性に欠け、抽象度も低いから十分な説明枠組みを提供できないので言語学の主流は「科学的」な生成文法へと移っていったのではないか!と反論したい方もいるかもしれません。「科学」の発達としてはそうかもしれません。ただ私は今、言語学の話でなく英語教育の話をしているのです。「科学」というよりは「工学」の話をしているのです。

「役に立つ」という概念がどんなに文脈依存的で曖昧であっても工学者にとっては「役に立つ」という指針が、「より高度の科学理論の応用している」と指針よりは重要です。「役に立つ」ことを考えない工学者は工学者ではありません。オーディオ製品でも「より高度の科学理論を応用している」だけの製品は次々に市場から姿を消してゆきました。オーディオ製品にとって大切なのは「どの科学理論を応用しているか」ではなく「どれだけ音楽をよく再生できるか」ということなのです(この議論はどのような工業製品にもあてはまります)。この「どれだけ役に立つか」という指針に従って人間と社会を深く理解しなければならないという点で工学は科学と異なります。工学と科学は関連していますが別の営みです。

話を「比較の対象」に戻しますと、「比較の対象」は別段普遍的であったり抽象的であったりする枠組みではありません。時には、一種のメタファーに過ぎない、と言えるでしょう。ただその限界がよく自覚されている場合は、「科学的説明」より「比較の対象」の方が「役に立つ」ことがあります(注4)。工学者同様、私たちは「より科学的」であるかどうかより「より役に立つ」ことを重視するとすれば、私たちの努力の主力は「科学的説明」に向けるのではなく、「比較の対象」を整備する方に向けるべきということになりませんでしょうか。「既に知っていたことを思い起こし、それを並べ変えること」というのがウィトゲンシュタイン的な言い方です。

偏見はよくないものです。私たちの行動に誤りが生じるからです。「科学(万能)主義」(Scientism)というのも偏見の一つです。

(注1)ついでながら書き添えておきますと、「理想化/理念化」(idealization)は「比較の対象」の説明でも行われています。ある具体事象を「類例」として理念化する際に、関連しない諸々の具体的諸事実を捨て去っているからです。これはprescriptive grammarと比べて理想化が少ないと一般に言われているdescriptive grammarにすらも何らかの捨象が見られるのと同じです(descriptive grammarにしろ実際の発話の言いよどみ等はノイズとしてデータから捨て去っていると私は理解しています)。

(注2)とはいえ、実際に「科学的説明」を志向する言語学者によるドイツ語の文法書があったとしても、その本が普遍文法の枠組みしか使わないということは考え難いのではないかと私は思います。その本が「役に立つ」----あいまいな言葉であることは認めます-----ドイツ語の文法書であろうとする限り、著者は普遍文法の枠組み以外の枠組みでも説明を加えることは十分に考えられることだと思います。現実的であろうとすれば折衷的にならざるを得ないのではないかというのが私の持っている先入見です。

(注3)とはいえ、正直私は(例えば慶応義塾大学の大津さんが計画しているとも聞くような)普遍文法の枠組みによる学習英文法の本の刊行を実は心待ちにしています。私を含めた英語教育関係者の言語理論の理解が「時代遅れ」であることが多いのは認めざるを得ないからです。

(注4)端的な例が、ライオンが何か知らない幼児に「ライオンとは動物/哺乳類の一種で・・・」と説明する方がよいか(科学的説明)、「ライオンは大きくて強いネコさん(みたいなもの)で・・・」と説明する方がよいか(比較の対象)といったものでしょう。しかしこれは例えに過ぎず、英語教育の議論をするのなら、具体的にどのような学習状況ではどのような科学的説明よりかはどのような比較の対象を使った方がわかりがよいか、といったことを徹底的に文脈に即して検討する必要があるでしょう。こういった検討の文脈依存性が高い以上、この検討は厳密な比較実験研究とはならないかもしれませんが(アクションリサーチにはなるでしょう)、それがこのような検討に意義がないことを意味するわけではありません。

追記:この随想に関してはいくつか「中庭」にコメントが寄せられました。以下にそれに対する私の返答の一部を再掲載します。

皆さん、貴重な時間を割いてのコメントをありがとうございました。色々考えさせられましたので、以下に感謝しつつ応答を書きます。まずは大和さんのコメントに対して

(1)

「比較の対象」ということから感じた素直な感想は、究極の1つを求めない立場なのかなぁ、もしくは、悪く言えばなんでもありの立場なのかなぁ、というものでした。

前半部分についてはその通りです。ですが後半のようないわゆる"Anything goes"の相対主義には自分はコミットしていないつもりです。前半部分の主張は即、相対主義を含意するのではないか、とお考えの方もいるかもしれませんので少し補っておきますと、私の立場は「究極の一つ」あるいは「唯一絶対」の立場を認めない点では相対主義の特徴を共有していますが、それぞれの具体的文脈、具体的目的、具体的人間(関係)の中では、(一つとまでは言い切れないかもしれないけれど)極めて少数の優れた説明方法(「比較の対象」)があるという点で"Anything goes"の相対主義とは異なると考えています。具体的な諸要因に忠実に考える限り合理的な推論・討論などは可能と考えます(=単なる教師のカンや思い付きの集積ではない)。もちろんその結論は「普遍性」はおろか「一般性」すらも「科学」の水準には ほど遠いものですが(もともとそのような「普遍性」などは狙っていない)、その結論は「役に立つ」と思います。

(2)

科学的説明に基づいた、もしくは説明のなされた、「比較の対象」というものは十分考えられるのではないかと思いますが、どうでしょうか?

これはその通りです。私が意図しながら、「随想」では説明しきれなかったことは、「科学的説明」を特権的地位から引きずりおろした後に、それを説明手段・枠組みの一つの候補として、具体的かつ合理的に英語教育研究の一つとして考えるということです。念のため述べておきますと、チョムスキーがどこかで書いていたことをそのまま生成文法家の意見としてとらえますと(例えば)「社会言語学などは科学ではなく、おもしろいエピソードの集積に過ぎない」となります。このように厳密に「科学」を捉えることの長所はもちろんありますが、そのように厳密な「科学」が英語教育の研究にとって特権的な地位を占めるべきと考えることには私は賛成できません。

(3)

「比較の対象」という考え方を用いる対象は、英語教育『研究』ですよね?例によれば、そのようにも取れますし、授業の中での説明の一手段としての比較、といった捉え方もできそうでしたので、どちらを焦点に当てて(もしくは両方というのも勿論あるのですが)いるのかをはっきりさせていただきたかったです。

私が主に関心を持っているのは「英語教育『研究』」の方です。もちろん具体的な英語教育の方にも関心は持っているのですが,少なくとも現在は前者の方を私の主な仕事にしようとしてます(「リエンジニアリング」も私は「英語教育『研究』」を対象にして考えています)。とはいえ今回の「随想」ではそのあたりがきれいに峻別されないままに語られていなかったのかもしれません。反省したいと思います。ご指摘ありがとうございました。

次に高橋さんのコメントについてです。

(1)

「科学的説明モデル」と「比較の対象」、あるいは「より科学的」と「役に立つ」は排他的なアプローチ / 概念と捉えるべきではないのではないか。

これについてはまったくその通りです。「科学的であり、かつ役に立つ」事例はそれこそいくらでもあります。私が伝えきれていなかったことをここで述べますならば(ア) 多くの人が論考について「科学でない」→「非科学的だ」→「そのような論考には意味がない」と短絡しているようだ(科学万能主義の裏返し)(イ) しかし「科学でない」としても「批判的」な論考、あるいは「批判的かつ実証的(裏付けをとっているぐらいの意味)」な論考はある(前者の例として例えば哲学、後者の例として例えば歴史研究や社会学等)(ウ) 英語教育関係者は(ア)の思い込みをすて、「批判的」あるいは「批判的かつ実証的」な研究に主力を注ぐべきだ(科学をやる人間は他にもいるが、英語教育を具体的に研究する人間は他にはあまりいない)(エ) その上で科学から学ぶことがあればそれは謙虚に学ぶが、自分が「科学者」だとは自己規定しない(その自己規定があまりにも自分を束縛してしまうから)といったものです。ただその際に

(2)

ここで気になるのが、科学的説明=難解な説明、という図式が伺われることです生成文法を専門にしている、というとステレオタイプ的なイメージで、やたら難しい説明をしたがるように思われることがありますが、ちょっと心外だったりします

という高橋さんの指摘が正しく示しているように、反動的な「反科学主義」(科学を科学であるが故に遠ざけようとする短絡的・非合理的な考え方、ぐらいの意)を招きかねないような書き方には十分気をつけなければならないと思います。(これまた十分反省して今後気をつけたいと思います)ただでさえ、(日本の)教育界には「反知性的」な態度が蔓延しやすいとも言われています。私の主張は上でいうなら(ウ)であって、決して「科学的だ」 →「だからそんな研究は役に立たない/無意味だ」等といった新たな短絡的衝動を助長するものではない、ということをわかりやすく一貫して伝えなければならないとも思います。

(3)

「科学的説明」とは、ひとつの考え方として「体系的な知識ときちんとした論理に基づいた説明」と捉えてみると、得るところが多いものではないでしょうか。「科学万能主義」というのはよくないと思いますが、「役に立つ」ことを目指すあまり「科学的な考察」から得られるものを無視する方向に走るのもどうかという気がします。

この引用に関しても私は賛同することは上の説明でお分かりいただけるのではないかと思います。(引用の前半2行は私の言う「批判的(かつ実証的)な態度」に相当します)

ただここで補っておきますと、私の言説は一部の教育現場の極端な考えと、科学万能主義を 信じる人たちの極端な考えの両方を否定しているということです。前者は極端な例ですと「とにかく明日の授業で使えることを教えろ。具体的に指示してくれ」といった声になってあらわれてきます。それに対して私は「実際の現場は複雑すぎて、とても明日あなたが一年二組でどんな手順で授業をするべきかを具体的に指示することはできません。少なくとも学問的妥当性をもっては」などと言い続けています。一方で「学問的妥当性を持つには、私たちの論考は厳密な意味で科学とならなければならない」という考えも私は否定しています。それではあなたは何をしているのか、などとなりますと、このホームページのあちこちや今までの発表論文から推測していただけるかとも思いますが、私は英語教育研究の問題点の整理などを行っています。

(4)

教育の「テクニック」の向上にはつながるかもしれないが、その教育の中身についてはおざなりにされてしまう可能性があるような気がするからです。そして、こういう方向性について個人的にはかなり危惧しています。(その危惧については、現在、改築中の自分のウェブページで公開する予定です----時間ができれば。)

この危惧については何となく予感的にわかる気がします。私が生成文法の大津由紀雄さんから学んだと考えていることの一つは、この(何というか)「ことば」という「教育の中身」についてです。高橋さん、ホームページ期待しています(ただあまり無理しないで下さいね)

 

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「比較の対象」としての色見本(1999/5/25)

下の二つの随想で「比較の対象」について述べました。この小文では「比較の対象」を、色見本という例を使って説明したいと思います。

ある人が建築家に家を注文したとしましょう。「壁は青色にしたいんですけど」。「青色?壁をですか!?」当惑した建築家は色見本(注1)を取り出すでしょう。「お客さんの言う『青』って、こんな色のことですか、それともこんな色?」と建築家は色見本をめくりながら、客の意味するところを理解しようとするでしょう。これが色見本の一つの使われ方です。実際にお客さんが頭の中に描いていた色は、その色見本とは少し異なっているかもしれません(そのお客さんに鋭敏な色彩想起能力があると仮定しての話ですが)。また建材屋さんが実際にもってきた壁材の色具合も色見本の色とは、子細に見れば様々な点で異なっているかもしれません。でもお客さんは満足するでしょうし、建築家はコミュニケーションがうまくいったことに安堵するでしょう。これが「比較の対象」としての色見本の使われ方の一つです。

ところがここに「建築法の科学」の構築を目指す自称研究者が現れたとします。「この色見本は明らかに不完全である。自然界の色が200種類ぐらいに分類されるなどとは乱暴もはなはだしい。物理学が教えるように色を可視光線の波長と考え、色見本は今よりはるかに細分化されなければならない。いや、そもそも、外界の光線の波長と脳内の表象さらには神経回路との対応関係をはっきりさせねば完全とはいえない」などと仕事中の建築家に熱っぽく語りかけたします。

私が建築家なら「わかったから、あっちに行って遊んでいらっしゃい」とでも言って適当にあしらうかもしれません。確かにある意味で、200数種類の色見本は「不完全」ともいえるでしょう。しかし建築の日常では、その色見本はコミュニケーションの誤解をそれこそ「完全に」解消します。むしろそれ以上の色見本を使われたら(現在の技術レベルでは少なくとも)建材屋は注文に応じきれず、客も色を識別できずに困惑するかもしれません。ここでは科学的な意味で「完全」を目指す色彩理論/モデルよりも、実際の生活に根差した「比較の対象」としての色見本の方が好まれるといえるでしょう(注2)。

英語教育研究者は、研究の結果としての、このような「比較の対象」の提示を目指すべきだ、というのが私の意見です。このことは、私たちは「自然科学的説明モデル」の発見を自称して、結局(例えば)心理学の真似事をするべきではないということも含意します。「自然科学的説明モデル」においては、新しいことの「発見」こそが鍵です。しかし「比較の対象」の提示においては必ずしもそうではありません。「比較の対象」のためには、私たちの現実を深く思い起こすこと、その現実を語る言語について注意深く反省すること、その反省によってそれまでの不用意な言語使用を正すこと、もっと私たちの現実の目的に即した言語使用を行うこと(そもそも私たちの目的とは何なのかを想像し創造すること)、さらにはその結果明らかになった視界を他人にも共有してもらうように論の形に仕上げること等などの方がはるかに大切です。

現状のように英語教育研究が心理学の真似事のようなことだけをやっていたら英語教育研究は袋小路に陥ると思います。このままでは英語教育研究は「身内」以外には相手にされない、リストラ候補の研究分野になるのではないかとも懸念します。(私が予算決定者ならば、真似事の心理学は捨てて本物の心理学だけを残します----脳科学しか残さないとまでは言わないにしても----。また私が現場教師ならば、真似事の心理学は聞かずに先輩教師の体験談に耳を傾けます)。従来の私の否定的批判に加えて、今回「比較の対象」という代替案を提示してみる次第です。反論、批判、質問をお待ちしています。

(注1)実際の色見本を私は昔ちらりと見たことがあるだけなのでよく知りませんが、200色ぐらいの色がパラパラとカード式に並べられているものを私は「色見本」として語っています(それとも色見本にはもっと沢山の種類の色があったのかしら?)

(注2)もちろんその「研究者」が科学理論に基づいて色彩をお客の前で連続的に調節指定し、かつその色を自動的に建材塗料の色彩とするオンライン工場でも設計したら、建築家としての私も彼/彼女の話に耳を傾けるでしょう。しかしその場合彼/彼女は、私たちの生活様式を深く理解している「工学者」と呼ばれるべきでしょう。彼/彼女の設計を可能にしたのは、新たな自然科学上の「発見」ではなく、自然科学上では既に知られていることを「思い起こし」て並べ変えたことです。所定の人間の生活と既存の知識を思い起こした点で彼/彼女は、純粋な自然科学者というよりは工学者だと考えます。私の意見は、英語教育研究者は、自然科学の知見に関わるにせよ、それは自然科学者として関わるのではなく、工学者として関わるべきだ、というものです。

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「科学的説明モデル」と「比較の対象」(1999/5/25)

「あなたは研究の結果、何を提示しようとしているのですか」と問われれば多くの人が「科学的説明モデル」と答えるでしょう。その研究が対象としているあらゆる事象を説明できる科学理論こそは研究者のあこがれ、とすら言えるのかもしれません。(もちろん説明にも例外事象はあるでしょうが、例外は例外として説明できる説明構造を研究者が求めていることに変わりはありません)。

教授法の研究をしている人にも上のことはあてはまるのかもしれません。ある教授法がいいと信じている人が、統制された実験を行おうとするのは、その教授法がどんな場合でも有効だろう、ということを証明したいからだと私は理解しています。(「アクションリサーチ」(注)をやっている人なら、自分の信念が一人よがりのものでないことを確かめるため「裏付け」をとっているだけだ、と言うかもしれません。なるほど、それなら、それはそれなりに(程度の問題こそあれ)「実証的」な研究として私も納得できます。ですから、ここではそういった「裏付け的実証研究」ではなく「科学的実験研究」の批判を行います)

あなたが「科学的説明モデル」を志向する限り、定義上あなたはより一般的、普遍的な説明を求めざるを得ません。なぜならそれこそが科学の進歩の指標の一つだからです。さらにあなたは(これまた定義上)より物理的(physical)な記述を求めざるを得ません。これも現代科学の主流である自然科学の構成用件の一つだからです。となると、教室での生徒のことばの学びに興味を持っていたはずのあなたも、いつのまにか「人間が種として生得的に持っている(はずの)言語知識」の議論ばかりしている自分に気付くかもしれません。また、よいリーディングの指導法を考えようとしていたあなたも、いつのまにか心理言語学を超えて医学部のMRIといった計測装置を借りなければならないと焦っている自分に気付くかもしれません。

もしあなたが言語学をやっていると自覚なさっているのなら、あるいは脳科学をやるのだと覚悟なさっているのなら別段問題はありません。あなたの研究者は言語学研究あるいは脳科学研究として、それぞれの学界で評価され、あなたも言語学者もしくは脳科学者として自己の存在意義を確立させればいいだけのことですから。しかしもしあなたが英語教育研究を行っている英語教育学者だと自称されるのでしたら、私は(少なくとも直観的に)何かがおかしいのではないか、と思ってしまいます。知性の行使が足りない、というのではなく、知性が不適切な使われ方をしているのではないか、と感じてしまうのです。

「とはいえ、科学的説明モデルでなければ何ができるというのだ」という反論が聞こえてきそうです。英語教育研究における科学的説明モデルの不適切性を直観的に述べても、あるいは「精密であればあるほど刃物がいいというわけではない。木こりがメスでなく斧を選ぶように」などと比喩的に述べても、英語教育研究者が英語教育研究として何をするべきかを示さないと、この小文も建設的とはいえないでしょう。

ウィトゲンシュタインさんの「比較の対象」(an object of comparison)という概念が、「科学的説明モデル」の代案とならないか、というのが私の考えです。「比較の対象」という概念は(索引で調べるかぎり)『哲学的探究』の二つの節に出てきます。

Our clear and simple language-games are not preparatory studies for a future regularization of language ---- as it were first approximations, ignoring friction and air-resistance. The language-games are rather set up as objects of comparison which are meant to throw light on the facts of our language by way not only of similarities, but also of dissimilarities. (130)

ここで彼が'our clear and simple language-games'といっているのは、『哲学的探究』の最初のあたりで、アウグスチヌスさんの過度に一般的な言語習得論を論駁するために彼が提示した言語使用の類例(型)のことです。ウィトゲンシュタインさんは敢えて体系的な理論構築を回避したとは多くのウィトゲンシュタイン論者が言うところですが、彼が出した類型は全ての言語使用を総括あるいは代表する説明モデルではなく、この場合はアウグスチヌスさんの困惑を解消するという具体的な目的のために-----明らかに物を見るために(get a clear view)----提示した「比較の対象」にすぎないわけです。この「比較の対象」によって、私たちは類似点や差異が明らかに見えるようになればそれで十分なのです。

ウィトゲンシュタインさんは続けます。

For we can avoid ineptness or emptiness in our assertions only by presenting the model as what it is, as an object of comparison ---- as, so to speak, a measuring-rod; not as a preconceived idea to which reality must correspond. (The dogmatism into which we fall so easily in doing philosophy.) (131)

この「比較の対象」とは、例えていうなら、「ものさし」みたいなものです。私たちはあるものの長さを測って生活の便をはかりたい時、ものさしを使います。ものさし自体は真直ぐなものですが、それによって測られるものまでもが真直ぐでなくてはならないわけではなりません(例、愛犬の体長を測る、等)。ものさしはあくまでも「比較の対象」であって、全てがそれに正確に対応していなければならない全ての表象ではないわけです。

BlackwellのA Wittgenstein Dictionaryは、ウィトゲンシュタインさんのCulture and Valueという本にも「比較の対象」という概念は出てくることを私たちに教えます。その説明の一部を抜粋しますと、

Goethe's plant-morphology uses a fictional primordial plant as an archetype by reference to which the morphology of all plants can be understood. Spengler emulates Goethe by comparing cultural epochs to families and claiming that cultures have archetypal life-cycles. While Wittgenstein acknowledges Spengler's influence, he accuses him of dogmatism (CV 14-19, 26-7). Insted of insisting that cultures must conform to his scheme, he should have treated these 'achetypes' (Urbilder) or 'ideals' (Vorbilder) as 'objects of comparison': they do not characterize the phenomena but determine a possible scheme for viewing them.

ウィトゲンシュタインさんは、モデルに関してスペングラーさんよりは控えめ(あるいは慎重)なわけですが、ゲーテさんと彼等には類似点があります。

What is common to these thinkers is the idea that there are forms of understanding other than the causal explanation of the deductive-nomological sciences; and that one can shed light on a diverse multitude of phenomena without discovering anything new, by arranging what is already known in a way which clarifies the links or interconnections.

前の随想でも「思い起こす」ことと「発見する」ことの差を述べましたので、ここではその点は繰り返しません。ここでは「演繹的-法則定立的科学の因果的説明」の思い込みから私たちが自由になることが存外困難であること、自由になるためには「比較の対象」といった代替の思考スタイルに習熟しなければならないことを述べておきたいと思います。

「比較の対象」の例としては他にも、将棋とチェスの例が考えられます。仮にあなたが将棋は多少知っているが、チェスのことは皆目しらないとしましょう。その際、私が将棋について語り直してあなたに将棋のことを思い起こさせることは、たとえチェスの完全な説明にはなってないにせよ、役立つことではあるでしょう。ここで私は「チェスのルールは全て将棋のルールに変換/還元されなくてはならない」と想定しているわけではありません。ただ(例えば)「チェスなんて高尚なゲームは私にはできない」と頑なになっているあなたにチェスとは何かを教えようとしているだけです。

A Wittgenstein Dictionaryは続けます(ウィトゲンシュタインさんのいう'grammar'とは「言葉の使い方の総称」ぐらいの意味をもった用語です)。

The purpose of a perspicuous representation is not to display grammar as it is, but to bring about a Gestalt-switch by highlighting a new aspect of the use of our words. Perspicuous representations do not purport to be exclusive or even correct, they aim only to remove the influence of certain disquieting aspect of grammar, in the hope of allaying philosophical puzzlement: 'Look at it this way . . . , if that doesn't calm you down, look at it that way . . . '

「比較の対象」と「演繹的-法則定立的科学の因果的説明」の違いにせよ「そんな話などまどろっこしい。英語教育をよくする処方箋を示せ!」「結局何をしろというのだ!」とイライラしている方もいらっしゃるかもしれません。しかしあえてゆっくり考えることをお勧めする次第です。

追記:書いているうちにだんだんとオヤジが入ってきたので思い切って書きますと、要するに現代は誰も「聞いちゃいねえ」時代なのかもしれません。誰も(おそらく私も含めて)自分が言いたいことを声高に叫ぶことはあっても、じっくりと時間をかけてある人の人格に耳を傾けたり、ある人の書き物に「書かれなかったこと」を読み取るなんてしない時代なのかもしれません。増大する富と生産物の中で、唯一といっていいほど益々(比較的に)希少になっているのは人間の時間だからです。せめて大学ぐらい、まともに聴くことと、まともに読むことを教えなければとも思いますが、それすらも反時代的なのかもしれません(なんせ「慌ただしい時代」だからなあ)。むしろ「待つ」美徳の育成は、音楽などの芸術活動や、育児などの日常生活に求めるべきなのかしら。まあ、ともあれしばらく私はウィトゲンシュタインさんの言いたかった事に耳を傾けようと思います。

(注)ここでのアクションリサーチの記述は不十分なものです。以前「書評98」の欄でも書きましたがアクションリサーチのきちんとした理解は、英語教育関係者にとって重要な課題だと思います。少なくともアクションリサーチを亜流の実験研究と混同してはいけません。

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慌ただしい時代に(1999/5/23)

教育学部に移っていわゆる「専門」の授業ができるので、それが仕事の喜びになっています。給料は減り、各種手当も減り(個人図書費はなんとゼロ)、朝8:30には机についている毎日となりましたが、それでも自分が勉強したいことを教えることができる----共に学ぶことができる----喜びは格別のものです。

授業の中でも私は、ウィトゲンシュタインさんの解説書(「手引」を参照)を使っての授業(学部4年生対象)をとりわけ楽しんでいます。「英語で哲学」というのも、教員・学生双方にとって、思ったほど障害ではなく、むしろ教育学部英語科の授業としてはふさわしいものになっているのではないかと自分では楽観視しています(もちろんこのあたりはきちんと学生さんの意見を聞くべきでしょうが)。

ウィトゲンシュタインさんを自分一人で読んでいた時と違って、それを通じて授業をするとなると、何度も何度もウィトゲンシュタインさんの本とその解説書を読み直し、自問自答した上で、英語教育の学生さん向けに自分なりに言い替えた適切な質問や例を考える必要がでてきます。これが私にとって非常に勉強になっています。

その中で段々とわかってきたのは「注意深くあること」の大切さです。「注意深くあること」によって-----ちなみにウィトゲンシュタインさんはこのような言い方はしておりません----哲学的困惑や疑似科学的誘惑(注1)から自由になれる、というのが私なりのウィトゲンシュタインさん哲学の(一つの論点)の要約です。哲学的困惑や疑似科学的誘惑というのはやっかいなもので、鋭い頭の良さをほこる人ほどそれらに捉えられてしまいます(逆に私のように頭が鈍いと、それらから離れることが比較的容易となります)。

英語教育の問題にしても「科学的」であろうとすればするほど、「教授法Aは効果があるか?実験的実証は?例外があるとすればどんな場合か?他の要因との関係は?追実験は?」や「ディベート能力とライティング能力の相関は?前者を訓練すれば後者は向上するか?そもそも両者の正確な操作的定義は?」となったり「リーディング能力の根幹は何か?単語認知だとしたらその単語認知の差はどこから生じるか?正字法知識との関連は?」となったり、さらには「心理言語学の次は人工知能研究か?それともやはり脳科学か?脳科学なら脳科学にどこまで入り込むべきか?」などとなって、やればやるほど(あがけばあがくほど)次々にやるべきことが細分化されて登場し、その結果当初の英語教育の実践感覚から離れてゆき、それでいて自然科学としては認められがたい中途半端な業績となってしまうことが多いように私には思えます-----少なくともこれが私が大学院生と議論して得ている印象です(注2)。

これらの疑似科学的誘惑に駆られた研究は「衝動的」であることが多いように思います。「科学的にならなければならない」「問題は実験仮説の形に変換されなくてはならない」「問いと答えは(個別的なものでなく)一般的なものでなくてはならない」「結果は白か黒でなくてはならない」といった衝動です。そしてまた、これらの衝動は、この慌ただしい時代に似つかわしいものです。「慌ただしい時代」というのは皆が「こんな現状はどこかおかしい」と思いながらも、日々増幅する形式的仕事に追われ、さらに「結果を出せ。目に見えるような形で/書類に書けるような形で結果を出せ」と急き立てられて、落ち着いた吟味と静かな心を失った時代のことです。

ウィトゲンシュタインさんの哲学は、ある意味でそのような衝動から私たちを解放する術です。彼は「思い起こす」ことと「発見する」ことの区別をします。「水素の分子構造は?」といった問いなら「発見する」ことによってその問いに答えるべきでしょうが、「時間とは何か」といった問いならば、何か新しいことを発見しようとするのではなく、自らの生活を注意深く思い起こすことによって----既に知っていたことを並べ直すことによって----解消するべきではないかと彼は言います。「理解とは何か」「意味とは何か」「言語とは何か」といった問いも、「発見する」ことで「解決」するべき問いというよりは、「思い起こす」ことで「解消」するべき問いではないか、というのがウィトゲンシュタインさんの意見です。

(科学的)英語教育研究を目指そうとする私たちにしても、自らが設定した思い込みに身動きがとれなくなっている----探究の結果生じた考えでなく、自らが要請した思い込みに絡め取られている----とはいえないでしょうか。あなたも、時間と空間の中でのみ起こりうる言語使用を探究するはずだったのが、いつのまにか非時間的かつ非空間的な「言語」のことばかり語っているのではありませんか?それは(自然科学となることを究極的に目指している)「言語学」ではあっても、あなたが多くの英語教育関係者と共に志向している「英語教育研究」とは異なっているのではないでしょうか。あなたが誤ったのは、今回の実験ではなくて、(狭い意味で)「科学的であろう」としたまさに第一歩目だったのではないでしょうか。

もちろん「科学」でない、ということは「反科学的」であることを必ずしも含意しません。「科学的」でなくとも「批判的」な研究は可能です(それどころか「科学的」ではないが「実証的」である研究だってあります)。そのような「批判的」な研究は、「科学的」研究のようには白と黒をはっきりさせるものではないかもしれませんが、もともとあいまいで流動的なら、それに「白黒をつけなくてはならない」と考えること自体が誤りといえないでしょうか。

とはいえ「慌ただしい時代」です。流行の適当なキーワードと白黒はっきりした結果を文書に書かなければ、忙しい研究予算決定者の目や、ひどい場合には学会誌のレフリーの目にも、あなたの論文はとまりません。かくして衝動は蔓延し、慌ただしい時代は一層慌ただしくなります。「哲学とはこういった知的誘惑との闘い」というのがウィトゲンシュタインさんの姿勢です。この慌ただしい時代に、せめて大学の英語教育研究室では、ウィトゲンシュタインさんの哲学等をそれこそ「ああでもない、こうでもない」と吟味することは大切なことだと私は考えます。

ウィトゲンシュタインさんが言っていることを、さらに私なりに大幅に言い替えますと、彼は、こと人間が関わることに関しては(注3)、「説明モデル」としての科学理論、ではなく「比較の対象」としての理念型が適切である、ということになるかとも思います。この「比較の対象」という概念については、それこそもう少し注意深く考えたいと思います。ご興味のある方はウィトゲンシュタインさんの作品の抜粋をご覧ください。

8/18-19に小倉で開かれる「全国英語教育学会」でこのあたりのことを発表しようとしているので、私も日曜の午後にこのような小文を書かなくては!という衝動にかられてしまいました。今日はここらへんで止めて、先程から流している「非衝動的な音楽」(?)にゆったりと身を任せたいと思います。

(注1)ここでいう「疑似科学的誘惑」とは、本来科学では適切に対処できない問題にまでも科学的方法を適用しようとする試みを意味します。ハイエクのいう「科学主義」(Scientism)と同意と考えてくださっても結構です。

(注2)もちろん例外的に優れた(科学的)英語教育の研究もあるのでしょう。そのような研究をご存じの方は、皮肉でなく是非教えてください。私自身勉強したいですし、適切ならばこのホームページでも紹介したいと思います。

(注3)もう少し正確に言いますと「こと(科学の媒体でもある)言語使用が、自己言及的にテーマとなっている場合に関しては」とでもなりましょうか。

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美徳を疑え(1999/5/14)

ある人がある所でこのような話をしたと間接的に聞きました。

「皆さんはとかく文部省を悪者のように言うが、役人は本当によく働いている。30才台半ばの係長クラスなど、毎晩帰るのは午前2時で、終電もないからタクシーで帰っている。それでも翌朝は必ず10時には役所の机についている。そんな役人がつくった計画だ。前向きに従ってほしい。」

間接的にしか聞いていないので細部は違っているかもしれませんが、だいたいこのような話だったようです。なるほど、ものすごい勤労です。彼/彼女等の心身の疲れを考えると、同情したくもなります。

だがちょっと待ってください。この勤労は美徳でしょうか。美徳だとしても、これは疑い抜きの美徳でしょうか。教育の計画がそのような毎日を送る彼/彼女等によって作成され、日本国民はそれに従うという構図になにか----不健全とまではいわないまでも----不自然なものを感じませんでしょうか。

家族とまともに話さない毎日。こちらの忍耐力をためしているようにわずかしか口を開かない子供の発話をじっと待つこともない日々。夕日の時の風向きがどのようなものかを実感することもない暮らし。観葉植物のわずかな変化など観察する余裕もない暮らし------文書処理という限られた知性の行使だけの毎日。そのような人生を送っている人々の集団が日本のエリートであり、日本を導いているのだとしたら、何かどこかにおかしいところがあるのではないかと私は思ってしまいます。

日本のエリートの皆さん。私は門外漢ですから好き勝手なことを言います。何よりも自分の生活のために闘ってください。エリートである皆さんこそが人間らしい生活をしてください。「法律の多い国は無能な法律家の多い国」ともいいます。エリートである皆さんの努力で、他ならぬあなた方の仕事を減らしてください。そうすれば文部省の意向を受けて働く私たちの仕事も減るはずです。共に徹底的な合理化で仕事を減らし、人間らしい文化的な暮らしをしたいと思います。教育に関する仕事をする人間には、それは必要なことだと私は考えます。

追記:上に引用した発言は現役役人の発言ではありません。念のため。またこの発言は、公開の場でなされたものではないと私は理解していますので、これ以上の発言者の特定は控えます。また、私のこのエッセイは特定の個人批判が目的ではありません。(1999/5/18)

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注意深く、大胆に (1999/5/8)

新しい職場に移って一ヶ月あまりたちました。非教員養成系学部(法学部)から、教員養成系学部へ移ってみて感じたことがいくつかあります。

一つは、英語教育がいわばフルタイムの仕事になったら逆に英語教育に関する想像力が萎みかけた、ということです。毎日、英語教育関連の教育活動、行政事務仕事をやっていると、なんだかそれだけになってしまい、空いた時間に英語教育に関して抜本的に構想し直したりする想像力の行使をしなくなっている自分に気付きます。このホームページにしても(逃避のためか)音楽のことばかり書いていた一ヶ月でした。この事態は何とか打開しなければなりません。さもないと役に立たない「専門バカ」になってしまうのではとも思えます(まあ、今はただの「バカ」ですが)。

もう一つ感じたことは、大学院生とのゼミで、ガンガン議論をするので、毎週スパーリングをやっているように思えることです(でも院生の皆さん、もっとガンガンやろう!)。さらにたとえて言うなら、これまで一人で(非教員養成系学部で)サンドバック相手に練習ばかりやっていたのが、道場(教員養成系学部)で練習を始め、他の道場生とどんどん練習試合ができるようになって嬉しいような気持ちです。この体験から感じるのは、議論は注意深く具体的に行わなければ、結局誰も説得することができない、ということです。(またこの「注意深さ」という美徳の重要性はWittgensteinの読解でも再認識する思いです)。これまでの私の論考がとかく大雑把になりがちだったのでこれはいい薬になっています。授業では院生の批判ばかり行っていますが、自分の論文も、注意深く具体的なものにしなければと自戒したいと思います。

感じたことの最後の点は、事務行政仕事の煩雑さです。もちろんこれには私が着任したばかり、ということと、着任した学部に改組計画があるといった要因が重なってのことですが、それにしてもなかなか時間が取られます。大学教員が事務に追われて研究ができないなんて本末転倒もはなはだしいことです。これに関しては大胆に事務仕事を合理化しなければならないと思います。事務行政仕事には最小の時間しかかけないことを自分の誇りとしたいと思います(cf.「方針」のページ)。折りからもTimes Higher Education Supplement (April 16, 1999)のある記事は英国と米国の大学事情を比較してこう慨嘆します。

Indeed, those professors [in the U.S.] who show particular distinction are rewarded with promotions that give them more time to teach and write and protect them from the distracting demands of administration. In Britain, the reverse is true ---- and the situation is getting worse. In part this is because the more eminent and promoted British academics become, the more administration they are expected to undertake. And in part, it is because the insistent and growing demands from the government for accountability bring with them ever more committees and meetings.

It is this debilitating combination of inadequate resources and excessive bureaucracy that underlies both the proletarianisation of British academic life and the increasingly pervasive culture of accountability and productivity. But these developments are lethal to any serious culture of creativity. For most hard-pressed academics, who lack adequate time and resources, research and writing are relegated to a low-level, residual activity, to be fitted into those few hours or days when there are no more pressing obligations.

日本でもこれから大学改革の波は激しくなってゆくと思います。改革がどのように進もうと、教員を勉強から遠ざけるような改革には、断固として、それこそ「闘って」ゆきたいとすら思います。研究・教育においては注意深く(されど想像力の行使は大胆に)、事務行政仕事の合理化は大胆に行動してゆきたいと考えます。

ひさしぶりに小文を書いたら少しはすっきりしました。せめて今から少しはcreativeな時間を過ごしたいと思います。

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合理性と善意 (1999/3/31)

「地獄への道は善意で敷き詰められている」-----20代前半で、「教室」という「善意」に満ちあふれたと想定されている空間のことばかりを考えていた私にとってこの言葉は強烈でした。人の善意が、全知ならざるその人には避けられない一面性によって、悲劇へと転化しうるという認識は、夢見がちな若者だった私にとって苦い良薬となりました。

そんなうちに広島修道大学の法学部で仕事を得て、法律学科や国際政治学科の同僚の言動を見ていると、ことさらに「合理性」、とりわけシステムの構築・維持による合理性ということに関心がいくようになりました。ごくごく身近なことから言いますと会議のやり方も印象的でした。「この会議は○時○○分を終了予定時刻に設定しています」という開会時の宣言もそれまでは聞いたこともなかったものでしたし----ダラダラやるのが会議とばかり思っていました(^^;)-----、ある別の話題が会議中に出ても、それについて各自が個人的な印象・感想を言い合う前に「その話題についてはこの会議体が討議する権限をもたないのでは?」と司会が「論議の花を咲かせる」おしゃべりを(微笑みと共に)制したりするのはとても新鮮でした。

そんな日常からの影響も多少はあって、英語教育の営みも、各個人の先生の「善意」だけに頼っていてもだめなのではないか、「善意」がかえって仇になることはないのか、と私の英語教育に関する考えも少しは変わってゆきました。また90年代前半に隆盛をほこった(?)「英語帝国主義論争」も英語教師の「善意」を疑わせるのに強いインパクトを持ちました。ハイエクにひかれたのもこの延長線上です。「善意」----特に特定個人の「善意」----の暴走を恐れ、どんな個人もその人一人だけでは動かすことが出来ない無人格的なシステムを作り上げることが、英語教育にとっても重要なことではないかと考えましたし、その考えは現在も基本的には変わっていません。ことさらの「善意」に頼らなくても運営されるシステムこそは歴史をもつ存在の智恵ではないかと現在も考えています。

しかしハイエクを読み進めるにつれ、彼が特定の「善意」に頼らないシステムについて考えていても、善意一般の存在を否定したりしているのではないということが少しずつわかってきました(本来ならここで具体的にハイエクの言葉を引用すべきなのでしょうけれども今はその準備がありません)。法学部の経験でも、皆が「無人格的」----あるいは「法の女神」のような意味で「盲目的」----なシステム的運営を目指していても、その間からかいま見える「善意」-----小さな具体的な行為で現れるので「善意」としか総称できそうにもない様々な振る舞い----を感じざるを得ませんでした。「合理性」こそは私たちが追求しているものでしょう。しかし「善意」こそは私たちが否定できないものであるようにも思えます。

「善意」と「合理性」そのものは独立しています。全く善意に満ちあふれながら非合理的な行為や、限りなく合理的な悪行を考えることができる(否、実際に存在している)ことからもそれはうかがえるというものでしょう。しかし、これが、私たちのあるべき生活において、「善意」は「合理性」を補完するのか、それとも「善意」は「合理性」の前提なのか、となると今の私は容易に答えを出すことはできません。ただ両方とも存在しなくてはならない、と言うのみです。

1999年3月31日で広島修道大学の法学部から退職することになりました。「法学部で学んだことは?」と尋ねられたら今の私なら「合理性と善意のそれぞれの、それぞれなりのありがたさです」と答えるでしょう。このように多くのことを学ばせていながら、また派遣研究にも出していただきながら、今の時点で去るのは、恩を十分に返せないままでの退職ということになりますが、この恩はせめて新しい職場で今まで以上に研究と教育に集中して、せめて間接的にでも広島修道大学へ返してゆきたいと思います。

新しい職場は広島大学の教育学部です。合理性と善意のどちらも無視することなく研究と教育に励みたいと思います。

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知識人の役割(1999/3/25)

ある会合で大蔵省主計局主査の神田眞人さんによる招待講演「実務家からのことば」がありました。結論から言いますと、これがとてもよかった。このホームページの古くからの読者の方なら先刻ご承知のように私は「官僚」という言葉にはあまりいいイメージをもっていないのですが、この講演はそれを吹き飛ばして余りあるものでした。ここではその講演の中の「知識人」----「致死奇人」じゃないぞ、Macintoshの馬鹿!----についての話の要点だけをまとめます(文章責任は要約した柳瀬にあります)。

世論のemotionalな暴走を牽制し、counterbalanceとしての長期的かつ抽象的思考を提供するのが「知識人」の役割である。現代日本では学者は自分の研究の蛸壷に逃げ込むか、大衆と同化し評論家になるかのどちらかに傾いていることが多く「知識人」としての役割を果たしていない。また日本にはquality paper等の知識人のforumもない。知的エリートが存在しない(もしくはその存在を認めない)のは、世界的な観点からすれば歴史的にも地域的にも極めて特殊なことである。実務家の一人としては、日本の学者----特に文系の学者----に頑張って欲しいと願わざるを得ない。しかし日本のアイロニーの一つとして、憲法で守られている分野の競争力が弱いということがある。皆さんの自浄作用を期待します。

このように話を骨組みだけにすると、当日の神田さんの真摯な態度は伝わってこないかもしれませんが、神田さんは皮肉や高慢さ等とは全く無縁に明晰に知識人論や他の話題を展開しました。日本のタブーの一つはエリート論で、これに下手に手を付けると世評の袋叩きにあうか、元東大の西部ススム----漢字を失念!----さんみたいに暴走(あるいは迷走)しかねません。しかし自らの役割を自覚しない学者は税金/授業料泥棒と言われても仕方ないとも思えます。

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生き残りをかけた研究者間の戦略的提携----英国ウォーリック大学からの報告と私的展望----(1999/3/9)

以下は、ある会合で行う口頭発表(15分間)の草稿です。

1 報告:市場経済の中での進化:ここでは、ウォーリック大学での私の体験と、新聞雑誌の報道等に基づいて報告をします。

1.1. 一般的傾向:競争を支える制度:大学人は研究と教育のそれぞれで競争的にならざるを得ないように制度化されているように思えました。公式の制度としては、外部からの審査が定期的にあります。研究出版状況はもちろんのこと、定期試験の採点状況といった教育活動もチェックされますので、大学人は研究・教育で怠けようとしても怠けられません。また非公式の制度としても、各学科の掲示板にはスタッフの主要出版物の表紙が貼られています。学科ごとの研究セミナーの開催もさかんで、ない方がおかしいぐらいです。どの教官も(仮にタテマエだけにせよ)「質問はいつでも歓迎する」と言います。これらの審査を高等教育においてもOfsted (Office of Standard Education----'of'ではなく'for'だったかもしれません----)にやらせろ、という声すらありますが(c.f. THES Feb.5, 1999)、初等・中等教育ではOfstedの一部が暴走したことも事実です。また選択による淘汰の結果として、学科が閉鎖されることは珍しいニュースではありません。

1.2.哲学:Restructuringによる再生:サッチャー政権の間に職業的哲学者は三分の一に減ったと言いますが、Ray Monkによると哲学の人気は少しずつ上がっていると言います。再生の理由の一つは、哲学が他の分野と提携した学位を増やしたことにあります(Philosophy and Psychology, Philosophy with Education等)。哲学内の雰囲気についても、分析哲学の伝統は残っていますが、それだけでは駄目だという雰囲気があり、大陸哲学やポストモダンを(英国流に)捉え直そうとしているようにも見受けられました。

1.3.文学研究:Reengineeringの最中?:米国では文学研究の博士号をもっていても大学の職を得られる者は約三分の一だと言われています。しかも大学での雇用条件はますます厳しくなっています。そういった状況下、文学研究に関する根本的な見直しが提言されていますが、まだまだ定着するには時間がかかりそうです(c.f. 柳瀬のホームページの「書評」、あるいは文学研究と社会史研究等の融合)。また最近の話題としてはOxford University Pressが現代詩の出版から撤退するというものがあります。

1.4.第二言語としての英語教育:産業としての繁栄:ESLは英国にとっての一大産業となり、どこも実務で忙しくしているようです。臨床的な教師教育研究は日本よりは定着度が高いものの、未だ研究の主流とはなっていないような印象を受けました。

2.私的展望:Missionを批判的に自覚した上での戦略的思考の重要性:ここでは、上の事項と常識的な現代理解から、私なりの展望を述べます。

2.1.経営学の常套句:アメリカ経営学では、missionの自覚、core-competenceへの特化、相補・競争的なstrategic alliance、virtual teamによる変幻自在の活動、最大の資産としてのbrandのmanagement等を繰り返し強調します。

2.2.Anthony Giddensの時代認識:'The Third Way'というスローガンで、Tony BlairのブレーンともなったGiddensは、現代をmarket fundamentalismとdemocracyの緊張的対立の時代として捉えています。

2.3.私見:現在の日本の学界は市場経済的思考へと傾斜しはじめましたから、研究・教育の経営がますます重要になると思われます。ですが市場原理主義への反動も十分に考えられます。市場原理主義は、無価値的に結果を求める科学技術的発想と相性がいいので人文系研究者も科学技術的発想に(よい意味でも悪い意味でも)ますます傾斜しかねませんが、その行き過ぎは、短絡的思考と後にそしりを受けることになるのかもしれません。

追記:学術一般に関する定期刊行物としてTimes Higher Education Supplementと Times Literary Supplementを購読する習慣を英国で身に付けました。両紙のウェブサイトはそれぞれhttp://www.thesis.co.ukhttp://www.the-tls.co.ukです。


学習指導要領のウィトゲンシュタイン化?(1999/3/2)

高校の新学習指導要領案が報道発表されました。昨年に中学校の案が発表されていますから、これで2003/2002年からの日本の中等教育の方針が確定されたといえます。

外国語(英語)についていえば、やはり「言語の使用場面の例」(注1)と「言語の働きの例」(注2)の存在が目を引きます。「言語材料」(文型等)だけによる抽象的な内容の確定に、これらが加わって、外国語(英語)教育の内容が一気に身近になった感じです。

後期ウィトゲンシュタインについて少しでも知っている方なら、この指導要領を見て、『哲学的探究』の中の、言語(使用)の多様性に関する有名な一節(第23節)を思い出すかもしれません。一般に科学的志向では、対象をできるだけ抽象化します。私たちの「ことば」をI-languageにまで抽象化した生成文法はその一例と言えるでしょう。前期のウィトゲンシュタインも、「文」とは何か、「命題」とは何か、と考え続け、『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus)で彼なりの結論に到達しました。ところが、数々の人生経験(地方での教師経験)などを経た後----その人生経験が直接の原因ではないにせよ----、後期では大きく哲学的態度を転換(注3)させ、抽象化・一般化により抜け落ちてしまう多様性の方に着目しはじめました。(原文はドイツ語)。

Review the multiplicity of language-games in the following examples, and in others:

Giving orders, and obeying them ---- /Describing the appearance of an object, or giving its measurements ----/Constructing an object from a description (a drawing) ----/Reporting an event ---- / Speculating about an event ----/Forming and testing a hypothsis ---- / Presenting the results of an experiment in tables and diagrams ---- /Making up a story; and reading it ---- / Play-acting ---- / Singing catches ---- / Guessing riddles ---- / Making a joke; telling it ----/ Solving a problem in practical arithmetic ---- / Translating from one language into another ---- / Asking, thanking, cursing, greeting, praying.

---- It is intersting to compare the multiplicity of the tools in language and of the ways they are used, the multiplicity of kinds of word and sentence, with what logicians have said about the structure of language. (Including the author of the Tractatus Logico-Philosophicus).

しかし、ここで私は、新指導要領が、後期ウィトゲンシュタイン哲学の体現だと言っているわけでもありませんし、また仮にそれが体現だとしても、それが手放しで喜べることだといっているわけではありません。タイトルの最後に「?」をつけたのはこれらの保留点があるからです。

まず、新指導要領と後期ウィトゲンシュタイン哲学の違いですが、前者は(まがりなりにも)教育内容項目を枚挙したリストである----と私は考えています----のに対して、後者は、そのような完全な枚挙は不可能だ、と強調しているところです。実は上の引用は第23節の後半であり、前半は次のように書かれています。

But how many kinds of sentence are there? Say assertion, question, and command? ---- There are countless kinds: coutless different kinds of use of what we call "symbols", "words", "sentences". and this multiplicity is not something fixed, given once for all: but new types of language, new language games, as we may say, come into existence, and others become obsolete and get forgotten. (We can get a rough picture of this from the changes in mathematics.)

Here the term "language-game" is meant to bring into prominence the fact that the speaking of language is part of an activity, or of a form of life.

新指導要領は言語(使用)の多様性を示した点で、後期ウィトゲンシュタインに通じますが、教育項目の枚挙というその根本性格においては、全く異なります。

次に、仮に指導要領が、もっと柔軟になり、「後期ウィトゲンシュタイン化」したとしての話となりますが、私は基本的に外国語教育の自由化に賛成していますので、その意味では指導要領の拘束性の弱まりは前進だと考えますが、その反面、それは手放しで喜ぶこともできないのではと少々懸念しています。

それは「理念の喪失」を怖れるからです。私はハイエクの言うように、自由選択の中から生じる(はずの)自生的秩序を信じています。しかしそれはまだまだ、経験に基づいた信頼というより、学問的な信仰といった方がいいものかもしれない、と自分自身で警戒しているからです。さらにはハイエクの自由への立論は、西洋近代の啓蒙理念の伝統と慣習を前提としています。それらが成熟していない(かもしれない)日本でいたずらにハイエクを信奉するのも怖いような気もどこかでします。

またウィトゲンシュタインにせよ、彼の後期作品である『哲学的探究』は、前期作品である『論理哲学論考』と合本にして出版されるべきだ、としています。後期ウィトゲンシュタインが多様性を強調し、超越的論考を相対化したとしても、倫理といった超越的なものを後期で捨てさったとは考え難いと思います(注4)。

外国語教育が公教育、さらには義務教育として語られる場合には、教育の「理念」あるいは「理想」といった古めかしく大仰な言葉を捨て去るわけにはいかないと思います。

中学英語の指導要領の「目標」からは、「国際理解の基礎を培う」という文言が削除されました。これはその目標の重要性がなくなったことを意味しているのでしょうか。それともその重要性にかかわらず、英語教育関係者がその目標を(形而上学的にも具体的にも)発展できなかったからでしょうか。英語教育をめぐる論考は一方で徹底的に具体的・実践的でありながら、他方できちんと形而上学的・哲学的でもある必要があると私は考えます。

(注1)「言語の使用場面の例」には「電話、旅行、買い物、パーティー、家庭、学校、レストラン、病院、インタビュー、手紙、電子メールレシテーション、スピーチ、プレゼンテーション、ロール・プレー、ディスカッション、ディベート、本、新聞、雑誌、広告、ポスター、ラジオ、テレビ、映画、情報通信ネットワーク、朗読、スキット、劇、校内放送の番組、ビデオ、作文」が挙げられています。

(注2)「言語の働きの例」には「呼びかけ、あいさつ、紹介、相づちを打つ、感謝、歓迎、祝う、ほめる、満足、喜ぶ、驚く、同情、苦情を言う、非難、謝る、後悔、落胆、嘆く、起こる、説明、報告、描写、理由を述べる、申し出る、約束、主張、賛成、反対、説得、承諾、拒否、推論、仮定、結論付ける、質問、依頼、招待、誘う、許可、助言、示唆、命令、禁止」が挙げられています。

(注3)もう少し正確に言いますと、前期ウィトゲンシュタインと後期ウィトゲンシュタインの関係は「転換」というよりか、「発展」といった方がいいと現在の私は考えています。

(注4)前期ウィトゲンシュタインにとって、倫理などの超越的な事柄は、敢えて語らなかった、最重要の論点でした。

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Imagination, logic and strategy (1999/2/23)

議論好きのオーストラリア人の同僚が尋ねていわく、「日本人にはimaginationとlogicとstrategyが欠けているというエッセイを読んだが、どう思う?第二次大戦の戦い方から現在の政治に至るまで、これらが欠けているのではないか」。

「うーん、でも戦時中の兵器の細かな工夫から現代の工業製品の多彩さを見る限り、imaginationに欠けるとは思えないし、それらの製品を実現するのも、(少なくとも細部の)logicなのだから、前二者は当たっていないのでは。でもstrategyは確かにないのかも・・・」とは私の弁。

先日(1999/2/14)、達人セミナーin大竹がありました。そこでは達人セミナーでは初めてバズ・セッション(一種のブレーン・ストーミング)が仕組まれて、一人一人の教師が持っているアイデアを、皆で一気に共有することができました。そのアイデアの一つ一つを検討すると、日本人にはimaginationが欠けているとはとても言えないと思わされました。

ただ、あまりの多くのアイデアを前にして、途方にくれるような感じも覚えたことは否定できません。数々のアイデアも、logicによって構造化あるいは体系化されていないと、整理がつかないで未消化のままになるような気もします。また、長さんの「どんなアイデアも継続することが大切。継続がなければ、それは教師の遊びか自己満足に過ぎない」という言葉も、皆を納得させましたが、この「継続」も、ただ闇雲に続けるのではなく、何のために何を長期目標としてやるのかというstrategyがあっての継続と理解しますと、私たちにlogicとstrategyが欠けているというのも、あながち外れているとも言えないような気がします。もちろん英語教育目的論の未成熟もstrategyに基づいた思考の貧困を指していると言えるでしょう。

「明日の授業にすぐ役立つこと」も大切ですが、logicとstrategyを大切にしないと、英語教育をめぐる言説は、もはや悲劇でも喜劇でもない、退屈な繰り返しになってしまうのかもしれません。

追記:とはいえ、まずは継続が大切で、その継続の中からlogicもstrategyも確かなものになるとも言えます。その点で私は達人セミナーの主導者である谷口さんや、事務局の方々(今回は大竹の道面さんと原戸さん)への拍手は惜しみたくないと思います。上の小文も達人セミナーへの批判ではないことは言うまでもありません(実際、バリエーションで、少しずつ新しい側面を示している谷口さんは立派だと思います)。

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Metaphysicsと英語教育研究 (1999/219)

ウォーリック大学の哲学科でスピノザさんの哲学を勉強できたことは、私にとってかなり大きなことだったように思います。以下の英文は、The Blackwell Companion to Philosophyの中のスピノザさんの哲学についての説明を適当にまとめたものです。興味ある方はご一読を、興味ない方は英文をとばして、その後の日本語文をお読みください。

If Descartes was the leading light of the modernist movement, Braruch Spinoza (Benedict de Spinoza) was its most perfect expression. By developing Descartes' vision of a new, scienfific understanding of things to its ultimate conclusion, he produced an account of God, the universe and humanity's place in it which was of unparalleled breadth, consistency and beauty. "God or Nature", as he famously calls it, is the one substance that exists, and which is expressed simultaneously both as extension and as thought; God is the single unchanging reality which underlies all the phenomena of experience, and which a perfect science would reveal. God is not the creator of the world, but the world itself ---- not the world as we experience it, but the world as it really is, in itself. God or Nature creates the world not as something external to itself, in the way that a potter creates a pot, but as an expression of itself, in the way that the nature of matter, as described by the fundamental laws of physics, creates the physical universe and everything in it, and as the nature of thought, described by the fundamental laws of psychology, creates the mental universe and all it contains. This God or Nature is the omnipotent, omniscient, omnipresent being which necessarily exists, which it is our highest blessedness to know, and which to know is perfect freedom.

いきなりこんな説明を読んでも、何のことかわからないだろうと思いますし、実際私も講義でスピノザさんについて学び始めた最初の数週間は「?」といった感じでした。しかしStephen Houlgateさん(教授)の講義----これは本当に素晴しい尊敬すべき講義でした。教師としては、あんな講義ができるぐらいに勉強したいものだと、心から思わされました----が進むにつれ、だんだんとスピノザさんの哲学がわかってくると、同時に(西欧)近代合理主義の精神がどんなものか、についての理解が深まったように思えてきました。そしてある日、気がついてみると、以前は理解しがたかったウィトゲンシュタインさんの前期の作品『論理哲学論考』がずいぶん楽に読めるようになっていました。さらには以前には専ら反発をおぼえていたチョムスキーさんのresearch programmeに(自分でも少々驚いたことに)共感すら感じるように思えてきました----それでも自分はチョムスキーさんのresearch programmeに乗ろうとは思いませんし、下で認めたような間違いもしでかしますが(^^;)、それはさておいて----。

日本の土壌で「形而上学」----多くの人も認めるように、わかりにくい訳語ですね----というと、屁理屈の典型のように聞こえます。でもmetaphysicsは、(広い意味での)physicsをやる限りにおいて、必ず出てくるものだと思います。ここをおろそかにしておくと、実証的な学問とて、決して前進しないと思います。

現在「広場」では英語教育目的論が、「中庭」では『現代英語教育』の休刊が話題になっています。両方に共通しているのは、英語教育研究の、一貫した筋のなさ----metaphysicsの貧困----です。英語教育目的論においても、このままでは一種の「不戦勝」で、チョムスキーさんの言語学に裏付けられた(と要約していいのかしら?)慶応大学の大津さんが提唱している目的論が、唯一、首尾一貫した目的論として残るのかもしれません。英語教育研究においてもきちんとしたmetaphysicsが必要なように思います。

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ESP(English for Specific Purposes) (1999/2/15)

英語教育目的論というのは厄介なものです。語らないことが最も賢明なのかもしれません。実際私はある先生に「柳瀬君もあまり多方面に書き散らすことをしないで、きちんとした論文を書きなさい」という忠告を受けました。これについてはその通りだと思いましたし、できるだけ今後は自分の主著となるべき論文の執筆に時間を費やそうと思います(でもまだまだ構想段階です(^^;))。しかし、すき間の時間を使って、やはり様々な人とコミュニケーションを重ねて英語教育の文化を高めてゆきたいとも欲張りに考えてしまいます(^^;;)。以下は、現時点での私の考えで、簡単に言いますと、英語教育は(自然状況における自然言語の教育である限り)選択性に基づいた多様で特化したESPになるべきだ、ということになります。

(1) 目的論は、その論の妥当性でもって、他人を説得させる形になっていなくてはならない[民主主義体制での教育であるので上意下達の形での命令的な目的論は好ましくない]

(2)論の妥当性を示す命題には三種類ある。(a)科学的/客観的な方法で真偽が判定できる妥当性の命題(例、「言語Aの推定使用人口は○○人である」等)。(b)ある社会/共同体の伝統的規範に即しているかいないかで正邪が判定できる妥当性の命題(例、「この社会/共同体では○○年前から、Aという伝統を保っている」等)。(c)主観的に誠実であるかどうかでしか判定できない妥当性(例、「このAという小説は本当におもしろい」等)[ハーバマスのコミュニケーション論の主張を私なりに言い替えたものです。正確な意味でのハーバマスの引用ではありません]。

(3)外国語教育については、日本には、たとえ英語教育といえども(b)で擁護できる程の伝統的規範はないと考えられます[英学の伝統には敬意を払いますが、それが国民レベルで擁護されている規範となっているかどうか疑わしいと思います。日本は良い意味でも悪い意味でも日本語で自足しているので、外国語(英語)使用の共同体が-----在日韓国人共同体などを除くなら-----非常に少ないわけです]。また(c)で、いくら「英語は楽しい!」と主張しても、それはその主張の聞き手が話し手の誠実性に、共感的納得を示さない限り、力はありません。残るは(a)ですが、これに関しては英語使用の効用を客観的に述べる(例、「科学論文の○○%は英語で書かれている」。英語を通じての商業活動規模は○○ドルであり世界最大である」、等)ことができ、その主張が方法論的に裏付けられている限り、その妥当性は認めざるを得ませんが、これとて、もし聞き手(学習者)がその活動共同体(科学論文共同体、商業活動共同体)に参加するならば、英語の効用は高い、という条件つきの妥当性に過ぎません。

(4)上までの論考を、まともに受けて考えますと、外国語(英語)教育の目的論は、(a)に即した形なら、その効用を最大化するようなEnglish Specific Purposesになるべきだと考えられます。その場合、各人にとっての効用を最大化する形で、できるだけ多様な種類の英語教育があることが望ましいと考えられます。(b)に即した形なら、翻訳文化などの英学の伝統への招待、(c)に即した形なら、主張者なりの英語使用への招待となります。いずれにせよ、この論理に従うなら、(a)にせよ、どの種類のESPを選ぶのかを選択することになりましょうし、(b)や(c)なら完全選択性(どの種類の英語教育も一切拒否することも可能)ということになるでしょう。ここでは市場原理の特徴とも言える分業(様々な種類の英語教育)とフィードバックによる進化(選択淘汰による英語教育の自己改良)が見られるシステムになると考えられます。

(5)ただし、上の議論はあくまでも自然言語の自然な使用状況を前提とした外国語教育論であり、もし外国語教育を特定の言語(E-language)の教育ではない普遍文法(I-language)の教育だと考えるなら、その外国語教育は慶応大学の大津さんが提唱しているような形をとるのかもしれません。ただ私は「特定の言語教育でない外国語教育」という形なら平泉試案の「世界の言語と文化」(でしたっけ?)といった社会的な教育の方が、----今は証明する余裕はありませんが(a)のような妥当性の意味でも----効用が高いと予感しています。

(6)ただしさらに留意条件を付け加えますならば、上の立論はハーバマスの妥当性要求の議論を、離散的に(歪めて)捉えたものに過ぎません。ハーバマスがたしか言っているように、コミュニケーションを(a)(b)(c)の妥当性要求が多次元的に交錯する討論の継続とするならば、上のような、極端な結論には到達せずに、合意を求めて、英語教育目的論とカリキュラムをつくりあげるべきだと考えることもできます[現状追認的意見です]。ですが、どう転んでも、英語教育の目的について討論を重ね、深めるべきということは言えるでしょう。

追記(1999/2/18):慶応大学の大津さんが、上の私の記述の誤りをしてくださいました。確かに上の一部の記述は間違いと言われても仕方がないと思います。ここに自らは反省しつつ、大津さんには感謝をしながら、大津さんの投稿を掲載します。

柳瀬さんの随想ESPの中に、I-language, E-languageという術語が出てきます。それぞれ、普遍文法、特定の言語(個別言語)と等価なものとされていますが、これは間違いです。I-lgのIはinternal, individual, intensionalの意味で、個々の話者の脳に内蔵されている言語知識をさします。これは従来、生成文法の文献で「文法」と呼ばれていたものです。ただ、「文法」という術語は内蔵されている文法を言語学者が再構築したものも指す(これは意図的ですが)ので、混乱を避けるため、I-lgという術語を導入したのです。ですから、獲得の初期状態(生まれたとき)にあってはI-lgは普遍文法ですが、その後、経験を取り込んで個別(言語)化されていく言語知識、そして、安定状態にあっては(おとなの)言語知識を指します。E-lgはexternal, extensionalの意で、ちょっと面倒なのですが、思い切って大胆に言えば、文法が生成する文の集合を指します。このあたりのことはThe Minimalist Program (MIT Press)の第1章を見てください。ちなみに、この本は難解とされており、事実、かなり難解ですが、第1章はコーヒーとブラウニーを横において、メモを取りながら読むとそれなりに理解できます。

最後にひとこと。この投稿の意図は柳瀬さんのあげあしとりをするためのものではありません。柳瀬さんのエッセイの文脈では、I-lg,E-lgという術語を引き合いに出す必要はないにもかかわらず、引き合いに出されたこれらの術語が誤用されているとあっては、つまらぬいちゃもんをつけられる恐れがあるからです。わたくしも最近、脳のことについて書くことがあるので、ひとごとのようには思えないのです。

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ウォーリック大学哲学科での研修内容報告(99/2/15)

広島修道大学の厚意による派遣研究で、1998年9月1日から1999年1月19日まで英国ウォーリック大学(The University of Warwick)の英語教師教育センター(Centre for English Language Teacher Education)で客員研究員(Visiting Fellow)として滞在し研究を進める一方、同大学哲学科(Department of Philosophy)のディプロマ・コース(Diploma Course)の授業を聴講し、研究の基礎を固めました。この派遣研究に対しては、広島修道大学に対して、深く感謝をいたします。以下は、大学に出した報告書のうち、皆さんにとって興味があるかもしれない、哲学科での研修内容報告です。

「心の哲学」(Philosophy of Mind)のコースではデネット(Dennet)やデイビッドソン(Davidson)を中心とした、研究の動向を、幅広くかつ時に掘り下げながら学びました。英語教育の焦点が、言語からコミュニケーションへ、コミュニケーションからコミュニケーション能力へと移行している中、言語と心の関係を中心テーマとするこのコースの聴講は、英語教育研究者として、絶好の研修となりました。私はこの領域におきましては、主にウィトゲンシュタインに依拠しながら論考を進めていましたが、今回、彼の遺産を批判的に継承している現代英米の心の哲学を学び、今後の研究の方向性が一気に明らかになった思いです。

「心理学の哲学」(Philosophy of Psychology)では研究プログラムの立て方について、反省的かつ批判的になることを学びました。その中で規範的プログラム(normative programme)が研究プログラムにおいて果たす中核的な役割を、各種心理学研究の検討を通じて実感できることができたのは大きな収穫でした。西洋的な形而上学の伝統を持たない日本においては、理論の前提となっている形而上学的論考は、とかく無視・軽視・当然視されていますが、この批判的検討が研究を長期間にわたって発展させるためには必要であることを学びました。

「社会科学における説明」(Explanations in the Social Science) では、クーン(Kuhn)が科学哲学において与えた衝撃の大きさを学びました。上述した形而上学的伝統の欠如も手伝って、日本では研究プログラムの共約不可能性や、いわゆる「ポストモダン」は、それほど抵抗なく受け入れられているようですが、西洋的伝統の中では、例えばポパー(Popper)的なるものとクーン的なるもの、あるいは「モダン」と「ポストモダン」は、絶えず緊張関係の中で語られているような印象を受けました。

「近代哲学の歴史」(History of Modern Philosophy)は、一見すると英語教育研究とは最もかけ離れているように思えるかもしれませんが、実際のところは私の研究生活にとって最も深い所で影響を与えたコースであったように私は考えています。私の聴講したTerm1では、スピノザ、ライプニッツ、ロックを学びましたが、その中心は、講師自身も認めていたようにスピノザでした。スピノザは、最近までは、デカルトの影に隠れてあまり注目されていませんでしたが、近年、その形而上学的立論の堅固さと、その帰結である心身論や倫理学の内容的妥当性などから、重要視されている哲学者です。講義ではスピノザが、簡単には反駁しがたい定義や公理を立論の出発点におくことから、どれだけの形而上学的議論を発展させているか、ということをスピノザに倣って追体験する形で説明がなされました。上から述べていますように、日本ではとかくこのような形而上学的議論は軽視されますが、私たちが「論理」にしたがって学問を進めて行こうとする限り、妥当な形而上学的立論は、いわば「万力の力」を持っているのだということを痛感しました。こうしてみますと、哲学科での研修成果は、西洋的伝統における合理性と理性の強さを肌身で感じることができたこと、と要約されるのかもしれません。

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Virtual realityとしての歴史と共同体(1999/2/10)

歴史(縦のつながり)と共同体(横の連帯)に支えられないと、とてもまともな知的活動はできない----これが最近痛切に感じていることです。歴史と共同体の知的活動に依拠して考えることによって、人はより広くより深く考えます。個性などというものも、それが注目に値するものになるためには、歴史と共同体の流れの力を使わなければなりません。

ただここで考えておきたいことは、「歴史」も「共同体」も、手に触れることができるモノ(実体)ではなく、コミュニケーションによって想定される想像の産物だ、ということです。ある場所に生まれて育ったからといって、それだけで歴史と共同体の流れの中にいるわけではありません。「昔はこうだった」「あの時あの人がこうしてくれたから今の私たちがある」「あんなやり方はよくない」「この人の功績はすごいね」「ねえねえ、聞いた?」といったコミュニケーションの継続により歴史意識も共同体意識も生まれてくると私は考えます。

歴史も共同体も、コミュニケーションによって成立するのならば、それらは時間と場所の制限を越えることができます。実際、どんな時代の歴史でも現代の意識から語り直されていますし、共同体意識はメディアによってしばしば作られます。

ベネディクト・アンダーソンさんが『想像の共同体』の中で紹介しているヘーゲルさんの言葉ですが、近代人は朝の礼拝の代わりに毎朝新聞を読みます。新聞を読むことによって、近代人である私たちは、共に喜び怒り哀しみ楽しみます。こうしてメディアによるコミュニケーションによって、私たちは、一度も会ったこともないしこれからも会うこともない人達と共同体意識を共有します。そしてその共有された共同体意識がさらなるコミュニケーションを喚起し、そのコミュニケーションが書き留められて歴史になります。

さて現代は情報時代です。そしてこの傾向は加速しています。活字メディアにせよ、電波メディアにせよ、電子メディアにせよ、ますます安価に便利になってゆきます。その傾向は自己増幅的に加速するとも考えられます。

以前の日本では、英語を使おうにも、英語による共同体も英語による歴史も殆どありませんでしたから、どうもそらぞらしいものでした。どうしても「用もないのに英語を学ぶ」ような感じがぬぐえず、無理して(日本人同士で)英語共同体をつくろうとしても、それは流れから断絶された沼のようなもので、いつか停滞してしまうものでした。ところが、海外体験が増え、なおかつメディアによる英語のコミュニケーションにより、その体験が継続・増幅されるようになると、日本に住んでいても、海外に居住する人と、英語による共同体と歴史の感覚を持ち、育てることも可能になってきます。Virtual realityとしての共同体であり歴史です。

ただ日本という国は、人口も多く経済力もあるため、たいていの場合日本語で自足してしまっています。日本語以外による共同体に属する必要性もあまり感じないですみます。日本語だけでも商売はそれなりにできますし、テレビを見てもおもしろいし、読書もそれなりに楽しめます。

でもここで、あそこで、と日本にいながら英語を通じての共同体に属している人はあちこちで少しずつ増えているような気もしますがいかがでしょう。

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英語による知的生活 (1999/2/7)

下に書きましたように私は英国で英語による知的生活にとても満足しました。今後のことも考えると、4月から英語中心の知的生活へ本格的に移行してゆこうと考えています。授業だけでなく、私生活でも知的楽しみは英語を通じてのものにしてゆけないかと考えています(新聞・雑誌の購読、一般的興味による読書など)。日英両語で今までもやっていたのだし、今後も日本語を使わないわけにはいけないのだから、「英語中心」なんて格好をつけなくても、と御批判の方もいるかもしれませんが、このように考えるには理由があります。

それは、英語中心にしなければ-----かなりの日本語の知的生活をあきらめなければ-----、まともに英語で文章が書けるようになれない、ということです。私は英語教師として、ある程度の英文は書けますが、それは文体の点からすると、とても稚拙な文章です(それがわかるぐらいの文体感覚は私も英語に関して有しています-----また、今回英語で論文も書きましたが、文体以前の冠詞などの誤りはやはり避けられませんでした)。いくら「論文は中味」とはいえ、文体が洗練されていないと、まともには読んでもらえないことは事実です。自然科学に比べて人文系の学問ではその傾向は一層強いといえます。人文系で、ある程度の文体で書こうと思ったら、硬軟とりまぜ、書き言葉から話し言葉まで、その違いをわかりながら、幅広く読書し、話を聞き、対話を重ねてゆかなければなりません。事実上、日本語による読書生活をかなりあきらめて、日本語による新聞・雑誌・本の読書を必要最小限に抑えて、その分の時間を英語による読書についやさないと、とても私は英語で文体感覚をもって書けるレベルにまではいかないと私は推定しています。英語中心の知的生活にして、それに伴う相乗効果で、自分の英語のレベルをどんどん上げていかないと、知的受容はともかくも、知的生産はとても英語でできないと考えます。

英語教師にとってのリスクの一つは、自分の英語力を人々の前に晒すことです。「何だ、こんな英語力しかないのか」と見切られる可能性が、特に日本にいると強いからです。でも英国で、移民から留学生から、常勤の地位を持ち働く人までも含めて、時に間違いをおかしながらも、第二言語としての英語を通じて仕事を行い、そうすることによって自分の仕事の可能性を広げていっている人々を目のあたりにしますと、英語教育者としての自分は、日本語市場の中だけに留まることで、何を得て何を失っているのだろうと考え込んでしまいました。

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日本の感性(1999/2/6)

英国の数ヵ月の生活で、日本の学術出版物が恋しくなることはありませんでした。日本では部分的にしか書かれていない事柄が、英語の学術出版物では入門書から専門書に至るまでの様々なレベルで易しく詳しく書かれているわけですから、私の英語力の拙さによる読書スピードの遅さといった要因をさしひいても、英語での(学術出版物)読書生活は極めて楽しいものでした。またTimes Literary SupplementやTimes Higher Education Supplementといった週刊の出版物は本当に楽しめるもので、日本でも購読できるように帰国直前に申込をしました。

こういった知的生活では、日本は恋しくなかったものの、感性の点では、日本の感性を恋しく思いました。まずは音楽。クラシック音楽は英国でも聴き続けましたが、それだけでは何だか満たされないものがありました。日本の軽音楽を聴きたい、しかもテレビやラジオで次から次へと流れるように、浴びるように聴きたいと、これは結構真剣に感じていました。

それから食事。日本食はいい、ということを私は何度も日本以外の国で生まれた人から聞いていましたが、確かにそれは単なるお世辞ではないのでは、と思いました。単に慣れ親しんでいるから日本食が恋しい、というだけでなく、こまやかで鋭敏な感性に支えられた日本の食文化は世界に誇れるものではないかとさえも考えるようになりました。

次に工芸品。ある博物館で、西洋工芸品の展示が続く中、突然日本の「のれん」の展示に出くわした時は、その色調や構成に本当にはっとさせられました。その他にも日本美術のよさを再確認した思いを何度もしました。また、その工芸の伝統は今でも生きているような気がします。英国で見たSonyのパソコン(VAIO)は、単なる工業製品以上のものを感じさせました。また小型オーディオでは日本製品が圧倒的に強く、そのデザイン感覚も(一部の例外は除くと)かなり洗練されたものであると再確認した思いです。

それから接客。ここでも日本の感性の文化を感じた思いです。私の限られた経験では、英国では一部の高級店にでも行かないと、あまり客の立場にたったサービスを受けられませんでした(英国ではよく'consumer rights'という言葉をよく聞きましたが、'consumer satisfaction'という言葉は殆ど聞きませんでした)。

これら感性的な事柄について、もちろん英国でも素晴しいものはあります。ただそれはどちらかというと個人的になされるもので、日本のように文化的に、自己組織的に支えられて、集団的に比較的高いレベルが保たれているわけではありません。

上のことからどんなことが言えるのでしょうか。誤解を怖れず書いてみますと、(1)日本の感性の文化は比較的高い。(2)だが、それは「日本人」が血統的に優れているとかいった原因によるものではなく、日常生活習慣----つまりは文化----として、お互いに感性の洗練度を日々高めているからであろう。(3)この感性の文化は、他の国でも喜ばれる可能性が高い。(4)この感性の文化を、「日本人らしさ」として民族的に閉じ込めてしまわずに、合理的に他の文化の人々へ説明すれば、日本文化も世界で尊重されるし、文化の結実である製品も世界で愛されるであろう、とでもなりましょうか。

「日本人らしい思いやりの心」といった言葉で表される習慣も、「他人の視点から出来事をシミュレートできる認知的能力」といった四角四面の言葉で言い替えて、その四角四面性によって他の文化の人々にも理解してもらうようにこころがけたら、日本文化の将来も決して暗いものではないと思います。日本文化の底力は、他の文化の力と同様、人類の財産だと思います。

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縦のつながり、横の連帯 (1999/1/29)

5カ月足らずですが、英国Warwick大学で派遣研究をおこなって、先日帰国しました。そこで得た知見には様々なものがありますが、ここでは取り急ぎ、最も強く感じたことを書きます。

私は専ら日本で教育を受けた英語教師でした。英語教師とはいえ、日本語での読書・討論経験の方が(特にここ数年は)多かったので、知的活動の多くはこのホームページのように日本語で行っていました。しかし今回英語で教育を受け(Warwick大学のCentre for English Language Teachers' Educationでvisiting fellowとして滞在しながら同大学の哲学科でdiploma student/visiting studentとして哲学の授業を受けました)、英語で討論し、英語で研究発表をし、英語の定期刊行物で知的好奇心を満足させる生活を続けて、英語での知的生活にもずいぶん親しむことができました。

そこで感じたことは、多くの人が口にしながら私自身は体で感じていなかったことでした。それは英語を通じての知的活動の幅は広く、奥行きは深いということです。

といっても知的活動を行う日本人が怠慢だということを意味したいわけではありません。ただ端的に、世界の多くの知的活動が英語によって行われている、そのことによって英語での知的活動が日本語で行う知的活動に比べてはるかに充実しているということです。哲学を例にとっても英語教育研究を例にとっても、英語を通じてやった方がはるかに容易で、かつ深いところまで行けます。約1億人の日本語読者市場と(一説によるならば)約10億人の英語読者市場の差は歴然としています。

市民革命、産業革命、植民地支配をリードしたイギリス。その覇権を20世紀に引き継ぎ情報革命とバイオ革命で21世紀を切り開こうとしているアメリカ。歴史的親近性からその両国と連携する旧英国連邦諸国。ここ数百年の歴史的蓄積と現在の覇権にひかれて次々に英語への依存性を高める世界各国----この歴史という縦のつながりと、英語を媒介とした共同体という横の連帯の強さには物凄いものがあります。当り前のことなのですが、今回はそれを日々の経験で実感してきました。

さてそれではどうするか。日本人女性と結婚し日本の職場で働く私としては日本語を捨てるわけにはいきません。ましてや私が仕事と選んでいるのは「日本の」英語教育を良くすることですから、そのために語りかける言葉としての日本語は必要不可欠です。ですが、研究・教育のためには、歴史的蓄積を持ち、かつ切磋琢磨の競争をしている共同体の言語を自らの研究・教育言語とした方が効果的というのも事実といえるでしょう。「日英両語を使い分ける」というのが答えなのでしょうが、その使い分け方は、一口で言うほど容易なものでもないでしょう。

今のところ考えているのは、4月の新年度からは研究・教育言語を基本的に全て英語とすること、それに伴って研究・教育に特化したホームページを英語で新設し、世界各地の研究・教育者と連帯・競争する途を開くこと、時事・社会的問題について語り考えるためにはこのホームページを日本語で残すことです。今しばらくはその準備をしてみたいと思います。

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