達人セミナーin広島の報告(1998/8/18)

上記の集まりが8/1(土)に広島県立生涯学習センターで行われました。今回私は「英語学習における自由」という一時間の講演をさせていただきましたが、ここでは私が聴衆の一人として見聞したことの感想を書いてゆきたいと思います。

まずは島根県の田尻悟郎さんのワークショップについて。何度も言いますが、この人の話を聞く機会があれば、万障繰り合わせて是非聞きにいってください。ここでは私の報告が、かえって田尻さんの話のよさを通俗的なものにしてしまう可能性を怖れながら、断片的に田尻さんの話を要約してみます。

田尻さんは、中学生にはまず身体から英語を身につけさせようとします。「パンチゲーム」というやり方で、I do/ you do/ he doesなどといった機械的な約束事を徹底的に身につけさせ、そしてどんどん発展させてゆきます。それにしてもこの時の田尻さんの表情は絶品です。田尻さんがいつも授業であんなに豊かな表情を見せているとすれば、それはとりもなおさず授業の人間関係がよく、田尻さんも心身共に健康だということを示していると思います。勘のいい方なら、あの表情をみただけで、田尻さんが超一流の教師であることを理解すると思います。

このように田尻さんが英語習得で、理屈抜きの技能的側面を先行させるのは、中学生に理屈から入っても生徒が消化不良をおこすことが多いからだそうです。田尻さんは、生徒に「それ何?」とやっている事の説明・理屈を求められても、「後で説明するからね」と言って、その事を体得させるまでは説明はしません。「説明はねかしておいた後にするとおいしい」というこのやり方を田尻さんは「カレーライス方式」と呼んでいます(カレーライスもねかした後に食べた方がおいしいですものね)。

人工知能の「フレーム問題」で明らかになったことを、恥知らずなぐらいに単純化して言いますと、「理屈はいくらでもつく。理屈で解決してから前に進もうとすると一歩も進めない」とでもなるのかもしれません(うーん、やっぱり乱暴すぎる要約だなあ)。生徒をロボットにたとえるのは不謹慎なのですが、あえて言いますと、生徒に規則を覚えさせてそれらを適用することによって英語を使わせようとする(=適用モデル?)のではなくて、英語使用の部分部分は機械的に身につけさせておいてそれらを制御するために規則を覚えさせておく(=制御モデル?)方がはるかに現実的だとまとめられるのかもしれません。

この他にも「"Listen"という先生の声を聞いたら即座に唇の前に人さし指を立てて『シー』と言い左右を見る習慣を教えるだけで『静かにしなさい!』と怒鳴る必要がなくなる」というちょっとした工夫や、中学一年の授業でもほぼall Englishでやってしまう工夫、あるいは洗練に洗練を重ねたフォニックス-----ひょっとしたら中学初期のminimal essentialsって語順とフォニックスなのかしら----などの話もありますが、とてもここでは要約できません。是非直接話を聞くことをお勧めします。

田尻さんのような教師の話をビデオ録りできないものか、と思います。また私のような自称「英語教育研究者」も妙な理屈をこねる前に、田尻さんのような実践者がやっていることを正確に記述するべきではないかとも思います。全国にまだまだ多くいるはずのこのような実践を大切にしてゆきたいと思いました。

続いて報告しますのは安古市高校の池岡慎さんのcooperative learningに関するワークショップです。池岡さんはアメリカでの研修に基づいて、生徒の個性・個人差を活かす授業づくりを目指しています。露骨な言い方をしてしまいますと、ほとんどどのクラスにも「お客さん」が生じていると思います。授業についてゆけなくて、教師も静かに座っていてくれる以外の期待をほとんどかけていない生徒さんのことです。池岡さんはそんな現状を許し難く思い、違いと個性をもった一人一人が分散的に強調できるグループ作業の工夫を重ねました。読解の問題を解いてゆくのに、一人は音読役、一人は記録役、一人は偵察役、一人は調整役などと役割分担をしてやってゆきます。ワークショップですから私たち自身も体験しましたが、やはり今までの授業のイメージとはずいぶん違います。

この発表は、大きく私たちの学校文化全般にもかかわるものです。上の要約だけでは何のことかわからないかもしれませんが、この発表のもつ含意はこれから少しずつ育ててゆきたいと思いました。

それにしても事務局の佐伯邦章さん、その他ご尽力いただいた皆さん、お疲れ様でした。ゆっくりと夏休みをお迎えください。また特に主催の谷口幸夫さんには改めて感謝の意を表明したいと思います。一人の人間が志を持ち続け、それに周りの人間が共鳴した時に何ができるか、という点では感動的なものがあるといっても過言ではないと思います。


言行一致運動?(1998/6/2)

ずっと前に、ある方に勧めてもらった『「国語」という思想』(イ・ヨンスク著、岩波書店)は予想以上におもしろい本です。いずれ「書評」でも扱おうと思いますが、ここでは言文一致について少しだけ書きます。

同書の第2章によりますと、明治の近代日本の出発の際には、階級や地理によって深く分裂した話し言葉と、それとはかなり異なる行政語・文化語としての書き言葉の間に大きなへだたりがあり、「国民」的コミュニケーションを求める明治政府にとっては「国語」の問題は、大きな問題であったそうです。その問題を解決するためには、「地理的・階層的な言語変異にまったく汚染されていない」、「国語」という言語規範を理念としてもなねばならず、言文一致は、その理念を現実的にささえるべくして明治期に誕生した言語形式だそうです。

ひるがえって、現代。現代は、明治期に匹敵する変革の時代だと言います。「身内」だけでのコミュニケーションは、厚生省エイズ薬害などの数々の官僚の失敗、金融機関などの経営破綻、あるいは英語教育の十年一日どころか百年一日性を生んだともいえるのかもしれません。ウォルフレンさんや中島義道さんの指摘に従うなら、私たちは自らの行動(権力行使)を第三者にわかるように説明するaccountabilityや、自らの信念をこめた言葉を語り、その言葉に忠実であることを求められる<対話>を身に付けなければならない、といえるでしょう。現代日本の危機は、「身内」的、あるいは「国民」的コミュニケーションをこえた、世界的に通用するコミュニケーションを私たちが身に付けない限り打開されないとさえいえるのかもしれません。

世界的に通用するコミュニケーション、とは、言葉と行動を限りなく近付け、言葉に力をもたせることだと私は考えます。----(身内以外にはわからない)ホンネとタテマエの使い分けをしない。行動は必要とあらばできるだけ言葉で説明する。言葉で言ったことは、できるだけ忠実にそれを実行する。議論をし、納得したことには、たとえ不承不承でも従う。対等な<対話>の自由を死守する。約束は守る。規則は守る----こういった「言葉を大切にすること」が私たちには必要なのではないのでしょうか。明治の日本人が言文一致を必要としたように、平成の日本人は言行一致を必要としている、とはいえないでしょうか。

英語教師の一員として私は現代日本において「言行一致運動」をおこすべきではとすら考えます。

 

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「英語教師のアーツ&サイエンス」----達人セミナーin松山・その2----(1998/5/28)

達人セミナーin松山では、『英語教師の四十八手』(研究社)や『英語教育リサーチデザインシリーズ』(桐原書店)などで、英語教育の「アーツ&サイエンス」の両方を推進している、金谷憲さん----「さん」でいかせてください----(東京学芸大学)の講演が二日にわたってありました。

土曜は「サイエンス」(facts and figures)で、金谷さんは次のような問いを出します。

(1)中学、高校の教科書の英文量は、ぺーバーバックで何ページ相当か。それを授業の総時間数で割ると、一分間で、何語読んでいることになるか。

(2)中学生が読んだ120語のカタカナ英語を、50人のネイティヴがディクテーションする。正答率は何パーセントか?

金谷さんによりますと、「このようなデータをとった論文が少ない」といいます。英語教育では、「勘で物を言っているけど、意外に物をわかっていない」場合が多いので、「議論はデータに基づいて」することを推奨します。

この他にも、金谷さんは「異文化偏見」に関して実証的なデータをとった修士論文などを紹介しました。データの解釈や実験の仕掛けに関しては若干の質問したいこともありましたが、それは当然のことです。問題意識は面白いし、論理は通っていました。私は心理(言語)学の借用のような英語教育研究を一貫して批判していますが、このような研究は単なる心理学の亜流ではありません。実証的な英語教育研究と認めざるを得ないでしょう。問題意識が、心理学の問題意識ではなく、英語教育を考える際に必要になってゆくための問題意識だからです。

金谷さんは、「少しのデータですから、どう解釈できるかはわかりませんが…」としばしば前置きします。金谷さんが実証的研究を勧めるのは、英語教育では「議論はされるが、証拠はない。思い込みだけで、話しているのではないか」という批判精神からです。

こういった話を聞いていると、私も自分の主張を「注意しなければいけないのは、寸借の実験デザイン、いいかげんなサンプリング、安直な結果の解釈であり、実証的態度そのものではない」と明晰にする必要にかられます。「客観的に議論しよう。偏見(思い込み)をなくそう」という目的には私も全面的に賛成します。

ただ、ここで少し確認しておきたいことがあります。実証研究は非常に時間と労力と予算がかかります。まともな実証研究であればあるほどそうです。このことから考えられるのは、

(A)問題設定こそが大切:社会的・学術的に意義が高い問題を選ばなければ、きちんとした実証研究のための時間・労力・予算はすべて無駄になります。

(B)共同研究体制が大切:金谷さんは「大学の教員ではこのような研究はできない。現場の先生こそがこのような研究をやってほしい」と言いました。講演後、私が私的会話で「きちんとした実証研究は忙しい現場教員が一人で行うのは、ほぼ不可能に近いのでは」と問うと、金谷先生は「それはその通り。共同研究をどんどんやらねば」と言いました。納得。きちんとした問題意識に支えられた共同研究はどんどん大切になってくると思いました。

(C)手続きなどは副次的な要因:正直言いますと、私が修士課程にいたころは、「どんな研究テーマが英語教育にとって意義があるか」という問題意識以上に、「どのような手続きをもつ研究なら自分にも可能か」という方法論上の考慮が勝っていたとさえ言えるのかもしれません。修士論文を提出しなければならないという状況ではそのようなことは仕方がないと言い訳もできるかもしれませんが、研究者の態度としては決して誉められたものではありません。英語教育界も今後は、体裁だけ整えた「研究」(=英語教育の問題意識を欠き、読み手をほとんど意識していない業績用のレポート)に対して、厳しくあるべきとはお考えになりませんか?方法論的に瑕疵がないからいい論文なのではありません。現実的でしっかりした問題意識に支えられているからこそ、時間・労力・予算をかけるに足る厳密な方法論を採択するのです。問題意識と方法論の両方がきちんとしている限りにおいてのみ研究は良質でありえます。方法論だけにしか配慮していない論文は、問題意識だけの論文と同様、良質な研究とは言えません。

いずれにせよ大切なのは英語教育を「よく」するための議論であり、対話です。「実証」は、その議論・対話から片寄りをなくすための傍証に過ぎません。私としては、依然として、本末転倒に方法論だけに忠実な心理(言語)学の借用研究には批判的でありたいと思います。しかし、だからといって、上にあげられたきちんとした問題意識に支えられた実証的な英語教育研究を否定する愚はおかしてはならない、と自戒したいと思います。

また、懇親会で、金谷さんと話をしてわかったことは、金谷さんが学生に英語教育研究として適切なテーマを(共に)見つけ育てるために、実に多大な時間を使っているということです。「論文を書くための何かいい参考書はないのですか」という学生の懇願にも、金谷さんは、敢えて「そんなの読まずに自分で考えてごらん」と言うそうです。この対話を重ねるやり方は、時間はかかりますが正統的な教育方法だと私は思います。

日曜日は「アートの話」として、「新・英語教師の四十八手」を披露しました。主なテクニックはStrip StoryとLoud Speakerでした。

Strip Storyは、パラグラフをばらして一人に一文ずつ覚えさせ、互いに相談させて、パラグラフを再構成させるものです。受験問題によくある、文章の「並べ替え」を口頭でしかもall Englishで行わせるものと言えばわかってもらえるでしょうか。これもやってみると結構面白い。一人でやればテスト問題ですが、グループでやるとそれなりのコミュニケーション活動になります。「これでもディスカッションになるんです。『ディスカッション』と言えば、いつも原発問題などの堅い話題をもってこなくてはならない、と考えなくてもいいのではないでしょうか」という金谷さんの言葉が印象的でした。

Loudspeakerは、一人だけがヘッドホンをつけてシャドウイングし、その他の人間はディクテーションするものです。これもなかなか面白い。「サイエンス」と「アート」の使い分けとバランスを熟知した金谷さんの懐の深さを感じた二日間でした。

達人セミナーの最後は、フリートーク「英語教育なんでもトーク」で、私がコーディネーターでしたが、最初は私が発言を控えたのがよかった(^^)。「歌の実践をどうしたらいいのだろう」という若い男性教師の発言をきっかけに、清家さんが引っぱり、金谷さんが盛り上げ、若い女性教師が、実に豊かに実践を披露します。谷口さんに言わせると「今までのフリートークの中でも、一番盛り上がった部類に入るかもしれない」フリートークだったそうです。でしゃばらなくてよかった(^^;)----とはいえ、最後の10分で、しっり私は「バリエーションとテーマ」という話をしましたが、それは下に書いている通り。お粗末。

谷口幸夫さんの粘り強い推進力で全国で展開される達人セミナーによって、私は本当に多くのことを学ばせてもらっています。みなさんもお近くで開催される場合は、是非参加されることを心からお勧めします。

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バリエーションとテーマ----達人セミナーin松山・その1----(1998/5/26)

1998年5月23-24日に 松山大学で達人セミナーが開催されました。以下はその感想を私なりにまとめたものです。

谷口幸夫さんは(筑波大学付属駒場中・高校)二日間で「授業のバージョンアップ」と「新・授業のバージョンアップ」を披露しました。まずは「つかみ」の冗談から谷口さんははじめます。続けて、音楽に乗せて、英語での月名を言わせる作業に移ります。

「つかみは重要」とは誰もが言います。しかし「つかみ」とは何でしょうか。また、なぜ重要なのでしょうか。

「つかみ」とは、話者と聴者が同じ「気分」になることを促す行為とは言えないでしょうか。「つかみ」で同じ気分になった後、それを共有することを常に促しかつ維持するため、授業は、リズム・パターンをもって進行されます。いい意味で「一体感」のある授業は、つかみ・リズム・パターンがある授業、とはいえないでしょうか。

でも同じリズムとパターンだけでは飽きてしまいます。パートやトーン(調子)を替えたりすることが必要になってくるでしょう。リズム・パターンに「バリエーション」を持たせるわけです。「バリエーションこそが演出、バージョンアップ」と谷口さんも言います。

こうして書いていると、私が音楽好きということも手伝って、私たちが音楽用語をメタファーとして使っていることに気づきます。「変奏曲」(variations)を例にとってみれば、変奏曲(バリエーションズ)とは、一つの主題(テーマ・パターン)を、聴く者を決して飽きさせることなく、少しずつ、様々に変異させる試みとも言えます。教師とて、無限の授業パターンを持てるわけではないのですから、そのテーマを十二分に活かすため、谷口さんのように様々な「バージョンアップ」を試みるべきでしょう。その糸口は達人セミナーでつかめばいいし、勘のいい方なら、優れた音楽を聴くだけでもその感覚はわかるはずだと私は思います。(この言い方はあまりに傲慢だから、今までたぶんこれは誰にも言ったことがないはずですけど、「くだらない研究発表を聞くぐらいなら、いい音楽を聴いた方が、よほど英語教育のためになる」というのは長年の私の信念です。このあたりが納得できない方は、どうぞバッハの「音楽の捧げもの」でも一度聴いてみてください!)。

ブラームスという音楽家は音楽的教養はものすごいのですが、メロディー(テーマ)という天賦の才にはめぐまれず、ヨハン・シュトラウスのようなメロディー・メーカーをうらやみ、敬愛したそうです。学校英語教師もブラームスと同じとはいえませんでしょうか。授業のテーマは、指導要領などの制約で自由に選ぶことがなかなかできません。自らが思いつくまま、好みのまま、テーマを変える授業ができないとすれば、ブラームスのように、一つのテーマを様々に変化・展開する職人芸を習得し駆使して作品を作り上げるわけです。「明日からすぐ役立つテクニック」ばかりを数多く追い求めても、それらを使いこなさなければ、やがて生徒にも飽きられるでしょう。その反対に、数少ないテクニックでも、バリエーションを重ねてゆけば、飽きられず、それどころか、そのテクニック(テーマ)の可能性を十二分に掘り起こせるようにもなれるといえるのかもしれません。

こういう問題意識から二日間の達人セミナーを観察していると、ある授業テクニックを「変奏」してゆくには、いくつかの要因(パラメータ)をいじくればいいことがわかってきました。これらの要因を、最初は機械的でもいいから、変化させて、そのテクニックがどのようになるかを考えてゆくと、誰でも多くのバリエーションを生み出せるはずです。(仮に、あるテクニックに5のパラメータがあるとして、それぞれが二つの値をもつとしても、2の5乗で32のテクニック変奏をもてることになります)。授業テクニックは、分析と学習により、職人的に誰でも習得できると私は考えています。

以下、私が観察できたパラメータ(とその値)を、重複をおそれず列挙しますと、

*困難度を変える(虫食いにする、用紙を折って情報を隠す、時間制限を設ける、等)

*パートを変える(列ごと、ペアごと、等など)

*ゲームにする(課題の「相手」を導入する、「競争」にする、等)

*組み合わせを変える(「私の授業では毎日席替えをする」(清家さん)、アルファベットを逆にならべさせる(大原さん)、リシャッフル(アナグラム)でアルファベット学習をさせる(大原さん)等)

*トーン(調子)を変える(BGM音楽を入れたり変えたりして気分を一新させる、次から次に出てくる小道具で演出する)

*指揮者を変える(いつも教師が質問を出すのではなく生徒に質問を出させてみる、キューを出す役とてしかり、等)

*チャンス(偶然性)を導入する(くじびき、interaction、即興会話、等を導入し、展開の自由度を増やす(その際には、あらかじめ語彙を用意しておくなどの配慮が必要))

*モードを変える(今まで机上でやっていたことを記憶と口頭でやらせる----例「Strip Story」など)

*個人活動をグループ活動に展開する(一人の頭の中だけでやっていたことを、複数の人間の音声コミュニケーションでやってみる----例「Strip Story」など))

*身体動作を導入する(スキットで身体動作をやることを促し、心身共にその言語表現に習熟させるなど)

*イベント化する(例えばスキットもコンテストにして、期日・観衆・順位などを設定して盛り上げる)

*画像・ホームページ・映画などの情報を導入する(これは清家さんの得意技なのですが、ケネディやヒトラーなどのの写真、「ゴッドファーザー」「屋根の上のバイオリン弾き」「アポロ13」などの映画を効果的に導入されると、本文の意味づけがビンビンに伝わってゆきます。中年にさしかかった私ですらこうなのですから、これらが思春期の生徒に与えるインパクトはすごいのではないかと想像します)

*教師自らが本文を拡張して作る(教科書の特に会話文などは、様々の制限により、不自然でおもしろくないものになっていることがしばしばあります。それなら誰でも納得がゆく会話文・物語文に教師が自ら英文を変えてゆけばいいわけです。なんならAETの力も借りながら、納得のゆく変奏をつくりあげましょう)

このようなパラメータを、少しずつ変えてみて、どれがうまくゆくかゆかないかを試してゆけば、誰でも教師としての力量を高めることができると思います。機械的な分析とその適用を私たちは決して馬鹿にしてはいけないと思います。

実際、バッハを最初のピークとするクラシック音楽の歴史の初期の部分は、テーマの展開、すなわち」「バリエーション」の歴史といえるのかもしれません。さきほど挙げたバッハの「音楽の捧げもの」でも、「ゴールドベルグ変奏曲」や「フーガの技法」でも聴いてください。それからハイドン、モーツアルトと時代を下って聴き進めてゆくと、「バリエーション」だけで、音楽がどれだけ豊かになれるかを実感できると思います。

しかし、少なくとも音楽では、ベートーベンあたりから「バリエーション」に質の変化が訪れたのではないかと私は素人ながらに思います。もちろんベートーベンやブラームスも「バリエーション」の音楽として聴くことは可能ですし、それはそれなりに正確なのでしょうが、バッハ以来の音楽家がバリエーションにバリエーションを重ねてゆくうちに、「テーマ」の意味合いが変わりはじめ、ベートーベンにいたっては決定的に「テーマ」が、それまで担っていなかった「人間性」というドロドロしたもの(?)を帯びはじめたように思います(フェアな比較ではないかもしれませんが、凡庸な演奏によるバッハと、例えばフルトベングラーによるベートーベンの交響曲を聴き比べてください)。その後音楽はベートーベンからワーグナーにいたる発展を示し、さらにはドビュッシーあたりから転機を向かえたのかもしれませんが、それはそれとして、ここで私がいいたいことは、英語の授業も、「飽きさせないため」に「バリエーション」を重ねてゆくうちに、質的変化がおこってきているのではないか、ということです。

とはいえ、これは多く観察される動きではありません。ですが、例えば、清家佐保さん(愛媛県の済美平成中学)の授業をみていると、英語授業を質的変化の兆しを感じてしまいます。

清家さんは、「教材の料理法(2)----教室から広がる世界----」のワークショップで、ある教科書の本文を見せて、「この本文を使って何ができるか?」と問いかけます。従来の達人セミナー的発想なら、「パートを変える」「ゲームを作る」といったものなのでしょうが(実際、私もそう問われた時にはそのぐらいの発想しかわきませんでした)、清家さんの授業展開は違いました。

清家さんはyonseiという本文の単語から----おそらくは語彙制限から仕方なしに使われた日本語の借用語から----、great grand father, immigrantまでを模造紙を使って英文で展開してゆきます。さらに「移民」の歴史を世代数から推測させます。(さらにはホームページでシアトルに地元の宇和島に関連した名前があることを発見したりもします)。「外への窓を開く」というのが彼女の授業のテーマなのです。

さらに清家さんは「移民の気持ちになってみよう」といって、JFKの写真を見せます。BGMにアメリカ国歌をかけながら、小道具で一人の生徒さんを自由の女神にしたりもします(!)。(このあたりは明治図書の『楽しい英語授業』に掲載しているそうです)。そうやって問題意識を高めておいて導入するのが、映画「ゴッドファーザー」で故郷で生きる術を失った主人公が移民してアメリカにわたる船から見える「自由の女神」。これはインパクトが強かった。「自由の女神」の象徴的な意味については、私もそれなりに理解していたつもりでしたが、本当にぐーっときました。

また"We lived in a small village in Russia, but one day some people came and said to us, 'Go away! We don't like you, because you are Jew.' They did bad things to us."といった教科書の、下手をすれば、一方通行の教条的な英文も、清家さんは映画「屋根の上のバイオリン弾き」のユダヤ人結婚式の宴に乱入し、テーブルをひっくり返し、婚礼の贈り物の羽布団を切り裂くロシア兵のシーンを見せることによって"They did bad things"の意味を考えさせます。「移民」とは何か、民族問題とは何か、といったことを考えさせ、ひいては「暴力」や「いじめ」について考えさせるきっかけにしたい、というのが清家さんの意図ではないかと私は理解しました。

慎重な見方からすれば、清家さんの授業は、狭い意味での「英語」の授業を超えつつあるのかもしれません。映画を見せるだけでは「英語」の練習にはならない。もっと「バランス」を考えるべきだという意見もあるかもしれません。実際、私も、「英語」の授業を「平和教育」や「人権教育」だけのものとして捉えることには反対します。しかし、私は現代日本においては、清家さんくらいに展開された授業が「英語」の授業として認識されるべきだと考えます。

折りからも日本のエリート達が、国の内外でaccountabilityを実行できず、さまざまな顰蹙を買い、実害をもたらしています。ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎も、アメリカでは下を向いたままの原稿読み講演しかしなかったと聞きます。私の個人的観察でも、興味・関心があまりにも自己中心的な若者が少なくないように思います。そういった過度の自己中心性は、社会にとってのみならず、その若者にとっても危機だと思います。

こうしたなか英語の授業の「テーマ」はどうあるべきでしょうか。「コミュニケーション能力の育成」という言葉で捉えきれるものなのでしょうか。清家さんの「外への窓を開く」というのは新しい----というより現代日本に必要な----英語教育の一つのテーマとはいえないでしょうか。

ベートーベンの音楽は当時の良識派やハイドンにすら、鮮烈すぎて、「これは音楽といえるのだろうか」という懸念を招いたと言います。しかし歴史から判断しますと、音楽の歴史はベートーベンの飛躍ぬきには考えられず、ベートーベンがいなかったら、音楽はどうなっていたかわからない-----ひょっとしたら停滞していたかもしれない----と言えるかもしれません。

慎重で良識的なバランス感覚は大切です。しかしバリエーションの駆使の中から芽生えてきた清家さんの新しい英語教育の「テーマ」について、もう少しみんなできちんと考えてみませんか?

追記:この「新しいテーマ」も下手すればイデオロギー的に硬直したものになってしまうかもしれません(あわてて付け加えておきますが、清家さんはイデオロギー的硬直性とは無縁の、極めて常識的で良識的な人です)。しかし、私は英語教育は、このまま「生徒を楽しませる」テクニックのバリエーションを職人的に続けてゆけばいいとも楽観できません。(むしろ、ものすごく「真面目」に講習会通いをして「明日から使えるテクニック」を求め続けるようにすらみえる先生方には、なんだか違和感を感じてしまいます-----もっともこれは単なる私の偏見なのかもしれませんが----)。

例として、「ハングマン」について考えてみましょう。「ハングマン」とは、間違うごとに一筆ずつ書き加えてゆき、男が首をつった画になったらアウトになるお遊びです。達人セミナーのある先生によると、英語の課題を使って「ハングマン大会」をすると生徒は喜ぶといいますが、私はこれには断固反対したいと思います。私はジャズを通じて「黒人」のたどってきた歴史を知るにいたりました。リンチで首からつるされた黒人の歴史を、若干でさえ知る私は、感覚的にこういったテクニックは受け入れられません。正直私は生理的とすらいえる反発をこの授業テクニックから感じました。

しかし後でその先生に話を聞くと、AETは、むしろこのハングマンを好んで使い、黒人のAETも今まで一人いたが、その人も平気で使っていたそうです。私の考えすぎなのかもしれません。それでも私は教室でのハングマンは、どんなに教室が湧いたとしても反対したいです。どう考えてもいい趣味だとは思えません。ましてや教室においては。いや趣味の問題として語るべきではないのかもしれません。今のところはうまく表現できませんが、「ハングマン」は私の英語教師としての信念に合わないといえるのかもしれません。

ひょっとすると私はこのように発言することによって、言葉尻をとらえては大騒ぎする小児的正義感の悪癖にそまりつつあるのかもしれません。私はそのような小児的正義感は嫌いです。小児的正義感は、正義のためではなく、自分の欲求不満解消のためにしばしばなされていると私は観察しています。どの言葉の追及が、正当な批判であり、どれが小児的正義感の発露かを識別するには微妙で慎重な判断が必要です。そのようなきちんとした判断力を育てる努力もしながら、「ハングマン」という「授業を楽しくするテクニック」のことについても考え発言し続けてゆきたいと思います。

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文化増幅装置としてのコンピュータ(1998/5/15)

英語再履修のクラスでは徹底的に英作文による自己表現を試みているのですが、50分間、学生さんは本当に静かに集中してくれています。辞書の使い方も真剣です。タイトルをできるだけ学生さんにとって重要なもの・興味あることにして、かつお互いに回し読みをしているのが効を奏しているようにも思えます。

しかしこのクラスは、中学校と高校の英語教育があってはじめてできるものだな、ということも痛感しています。学生さんがある程度の文法と語彙をものにしています。そして何より机について長い時間集中する文化を身につけています。こういったものの上にたってはじめてこの授業は成立しているわけです。

同時に思うのは、このクラスにこそコンピュータが欲しいということです。コンピュータといってもたいしたことをやろうというわけではありません。学生さんが考え、書き、情報を探し、紙を回覧するという、このクラスでの紙、鉛筆、消しゴム、辞書、回覧の機能を、そっくり(ネットワーク化された)コンピュータでやりたいわけです。学生さんが持ち、今育て上げようとしている、自己表現の文化をコンピュータで増幅させたいのです。

コンピュータなら(ブラインドタッチができるとすれば)、構想、推敲、検索、追加、編集、回覧がずっと楽になります。学生さんの回し読みとコメントも、もっと多元的になるでしょう。文化こそは命です。文化があるところにコンピュータが導入されれば、引き継がれ、編み変えられ、作り上げられる文化の営みももっともっと活性化するでしょう。

逆に言いますと、文化のないところに、いくら最新鋭のコンピュータを導入しても、それは活用されないまま埃をかぶってしまうのかもしれません。スポーツで、最新鋭のトレーニング設備があっても「強くなろう」とする意気込みがなければ、それらは十分に活用されないのと一緒です。大切なのは文化です。

自己宣伝が続きますが、今私は、「広場」と「裏庭」という掲示板の運営にそれなりに腐心しています。あのコンピュータ技術でなんとか文化を育て上げたいと考えています。皮肉な言い方をすれば、それはそもそも私たちに「文化」があれば、の話になるのでしょうが、私はそれはあると信じています。

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大津由紀雄さんの「ちゃんと考えよう、なんで英語やるの」(1998/4/30)

4/25の達人セミナーin名古屋では大津由紀雄さん(慶応義塾大学)の「ちゃんと考えよう、なんで英語やるの?」という特別講演がありました。私が今回名古屋まで行った最大の動機はこの講演を聞いて、かつ大津さんと直接お話しをすることでした(注1)。私は以前にこのホームページで大津さんの考えに関して誤解をしていましたので、一言謝っておこう、というのもありました(^^)。

結果的に言いますと、行って本当によかったです。やはり人間は直接会って、話すのが一番です。私が大津さんや生成文法に関して持っていた誤解もかなりとけました。

また、私は個人的に大津さんの態度に非常に感銘を受けました。大津さんは私の問いかけに対して、一貫して真摯に、かつ学識豊かに応えてくれました。冗談などで議論を避けることもなく、そうかといって堅苦しくなることもなく、気さくに、私の質問・反論をむしろ歓迎しながら、議論を発展してくれました。私はこういう方こそ「先生」と呼びたいのですが、ここはこのページの方針と大津さんの提言にしたがって、以下も「大津さん」という呼び方を続けたいと思います。

講演は1997年5月25日に開催された関西英語教育学会第1回記念大会講演を基にしながらも、それ以降の大津さんの考えの発展を取り入れたものだそうです。大津さんによりますと、英語教育の目的論に関する論考を読んでも首尾一貫したものはほとんどないと言います。ですからcontroversial & provocativeに大津さんが目的論を試みるわけです。

大津さんの論では英語教育の目的は次の二つです。

(1)「国語」教育と連携して学習者にことばの世界の面白さ、豊かさ、怖さを気づかせる。

(2)ことばは人間に平等に与えられた種の特性であり、ことばに優劣はないことを学習者に気づかせる。(すべての個別言語は同質の原理に支配されている)。

大津さんの意見ではこの二つが大切で、敢えて言い切るなら「オーラル・コミュニケーションなど二の次!」だそうです(大津さんは時折議論を活性化するためにこのような言い切り方をします。私は以前、こういった言い切り方を額面通り取って大津さんの意図を誤解していました)。(1)はメタ言語意識の育成につながりますし、(2)は複数の価値観、言語の相対性など(ここのところメモが間に合いませんでした!(^^;))を気付かせることにつながります。

詳しいことは以前からの大津さんの論考や、今後発刊される関西英語教育学会(「開放」に掲げた北尾さんのホームページからたどれます)の紀要をご覧いただきたいと思いますが、ここではその時に私が大津さんにした質問ならびに補記事項を書いておきます。

最大の質問は、大津さんの構想している英語教育は、「メタ言語教育」ではないか、というものです(大津さんの答えはyesでした)。仮に大津さんの議論が首尾一貫して論理矛盾がないにせよ、それは言語使用を志向した英語教育の目的論(とくに首尾一貫した論考)を否定することもできないわけです。

ここのところの私のポイントは二つです。

(a)メタ目的論の必要性:大津さんの指摘(「英語教育に関する多くの議論は、論理構成がなっておらず、思い込みに基づいたものになっている」)によって、目的論が首尾一貫しているか、論理矛盾はないか、という視点から論考・批判されなくてはならないという点が再確認されました(また大津さんは単に指摘するだけでなく自分の立論で例示を試みています(注2))。

しばらくはこのレベルで目的論を考え直し批判しあうことが必要でしょう。しかし、先を急ぎ過ぎなのかもしれませんが、仮にこのレベルの批判をくぐり抜けたとしても、今度はそれぞれに首尾一貫している英語教育目的論(構成論)のどれを選択するか、複数の英語教育目的論をどう調停するか、という問題が残ります。このレベルの「メタ目的論」が今後は重要になってくるのではないかと思います。もしかするとこの「メタ目的論」などというのは政治学の領域に入ってしまうのではないかとも思いますが、それにしてもそういった論考が英語教育にとって重要なことは否定できないと思います。

(b)言語使用/言語/メタ言語の区別の必要性:英語科教育法などでも私が一貫して強調しているのは、言語使用/言語/メタ言語の区別です。私たちが日常的に従事している原初的な体験は言語使用の世界で行われています。そこへソシュール的な問題意識や、「国家」という問題意識が入り、言語使用が反省されると「言語」の世界が見えてきます(あるいは構成されてきます)。このレベルが学問的な意味でも政治的な意味でも「近代的」な言語学の言語観であると私は考えています。このレベルの「言語」をさらに反省的に考察したのが例えばチョムスキーであり、その結果Principles & ParameterやUniversal Grammarといった概念装置で様々な個別言語を、高次元から捉えることができました。これが私のいう「メタ言語」です。もちろん「メタ言語」はチョムスキー言語学にだけにとどまるものではありません。想定された「言語」を、現代言語学の諸概念によって、さらに反省的に捉えることによって見えてきた世界は「メタ言語」の世界だと考えていいと思います(注3)。

この区別に従いますと、「なんで英語やるの」と問いかける人の大半は言語使用を志向しているはず(だと私は想定しています)ですから、大津さんの目的論は、そういった人にとってはどこか納得できない議論に聞こえてしまうと思います。首尾一貫した言語使用レベルでの英語教育目的論を英語教育関係者は構築する必要があるのかもしれませんが、もしそれが構築されても、それがどのように現実世界に受け入れられるかという点で問題が生じてくるというのは上の(a)で指摘した通りです。

他に感じたこととしては、(1)(2)からは<私>という代替不可能な主体がすっかり抜けているということです。<私>が英語を通じてどう世界と他者と関わりあうか、というのが学習者にとっての最大の関心事であると私は考えていますから、この立論からは、大切なものが抜けているような気がしてしまいます。「なんで英語やるの」という問いに対して、答えがいつの間にか「ことばの世界の面白さ」や「言語学への招待(言語学の知見の紹介)(注4)」になってしまったのではないかという印象を私は個人的に受けました。ですから私はこの論が「生成文法的英語教育目的論」あるいは「科学教育としての言語教育」といった題だとしたらかなり肯定的に受け止めて、自分の考えの幅を広げたいと思います。ですが、もしこれが唯一真正な目的論として提出されたなら「ちょっと待って」と言わざるを得ないと思います----あわてて付け加えておきますが、大津さんも、そのような性格のものとしてこの立論をしたのではないと私は思っています----。

と、批判的なことを書きましたが、これは私が大津さんと大津さんの論を尊敬しているからです。敬意を払っているからこそきちんと議論し批判しあいたいのです。いずれにしましても、自分の思い込みから自由になって、論理構成をきちんとさせる-----ウェーバーのいう価値自由原理ですね(^^)-----ことは目的論においても重要である、という点は英語教育界の共通理解にしておきたいと思います。

(注1)私はできるだけ、様々な研究会に出て、異なる背景をもった人と話をしようと思っていますが、やはり動くのは中四国内が大半です。お金と時間がない、というのが理由です。他の地方のいろいろな研究会に入りませんか、とお誘いを受けるのは非常に光栄でかつ嬉しいのですが、お金と時間という極めて卑近な理由からyesと言えない時が大半です。お誘いいただきながら、私が色好い返事をできなかった皆様、ここに釈明とお詫びを申し上げます。その代わりといってはなんですが、私はこのホームページでできるだけ私の得た情報を公開し、英語教育界の活性化を私なりにはかることとします。

(注2)この立論を受けて、私としては大津さんの英語教育目的論の内在的批判を試みたいとも思いますが、それは大津さんの目的論が活字になってからにしたいと思います。講演を聞きながらの取った私のメモだけに基づいて批判をするのは、不必要な誤解を招くかもしれないと恐れるからです。

(注3)このあたりの論考をきちんとするためには、実はソシュールをきちんと読み直さなければなりませんが、私はそういった批判的読解を最近やっておりません。従いまして、ここでの柳瀬の論考は草案とお考えください(もちろん批判はいつでも歓迎します)。

(注4)大津さんは、科学の「方法」と「知見」(大津さんの言葉なら「科学によってわかった『事実』)の区別を明確にしようと試みているようです。ですからここで私が「言語学への招待」と言っても、これは、大津さんが「言語学教育」をしようとしているのではなく、言語学によってわかった言語に関する知見(「事実」)を学習者に気づかせようとしている、ということを意味しています。

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大津由紀雄さんの「ことばからみた心」(1998/4/30)

4/26の達人セミナーin京都で大津さんは「ことばからみた心----(ほとんど)例文なしで生成文法のもくろみがわかる----」という講演をしました。ここでは柳瀬が感じた点だけを述べます。

生成文法は、「生物学的必然により普遍的な文法属性に関する理論」としての普遍文法を扱います。言語に関するある種の情報はヒトという生物種に固有である(種固有性)と考えるわけです。

しかしここで思考実験をしてみたいと思います。宇宙のある星に人間と同じように、目、耳、鼻、口といった入出力器官を備えた生物がいたと仮定します。その生物は人間よりも高度な知性と科学力を持ち、地球に円盤に乗ってやってきました。そこでその生物は人間と接触します。さてその生物は人間の言語を理解するでしょうか?

生成文法学者なら「できない」と答えるでしょう。実際に大津さんも(私の記憶が正しいならば)「できないと答えざるをえない」と言いました(講演後の私的会話)。しかし、私はそれだけの知性と科学力をもち、入出力器官が同じで、その生物が音声でコミュニケーションをとっているとしたら、その生物が人間の言語を理解できないとする合理的な理由はないと考えます。

生成文法学者は言語の特性を遺伝子プログラムに求めますが、私はそれは言語というシステムが自律したときに自生的に成立している特徴だと考えます。線状の音声記号体系を使う限り、人間の言語の文法以上の効率的な文法を考えることは難しいと思います。人間の文法が唯一の文法のあり方ではないにせよ、人間の文法は合理的なシステムの一つであることは間違いないと思います。その生物が、高度な知性を人間と同じ様な入出力器官で達成している以上、その生物が人間の文法と同じ様な、あるいは非常によく似た文法を持っていても不思議はないと思います(逆に言いますと、そのような言語を持たない限り高度な知性を達成できるとは考え難い、となるかとも思います)。

人間の言語の文法は、進化論的な合理性を有していると考えられます。言語を、進化するオートポイエーシス・システムとして捉えると、人間の言語の特性を無理に生得性の点から考えなくてもすむと思います。

もちろん上の議論は思考実験に他なりませんが、これを遺伝的アルゴリズムを使ったコンピュータ・シミュレーションで何万・何十万世代と進化を重ねてゆき、人間の言語と同じ様な特性が自生的に創発すれば、それは生得性への強い批判になりえます(注)。シミュレーションとは、演繹、帰納、アブダクションとも違う、新しい知性の発展形式です。今後ともに自然科学的研究の発展を注意深く見守ってゆきたいと思います。

あと、生成文法と混同されがちなのが認知言語学であり、両者の違いはモジュール性を認めるかどうかである、と大津さんは説明しました。「前提の優劣は、前提自身に関する議論で決めるのではなく、それぞれの前提がもたらす帰結によって決定せよ」というのを方針にすると(私はこういった方針の立て方をウィトゲンシュタインに学んだつもりです)、今後は生成文法と認知言語学がもたらす知見の違いによって、両者の研究を比較するべきだということになると思います。

それから「生成文法の戦略」という話もおもしろく聞きました。チョムスキーは「わかるところから攻めてゆく」ということを方針にしているらしく、(1)統語論と意味論、(2)文文法と談話文法、(3)文法知識とその使用、(4)文法知識と脳、では、それぞれ前者を優先しているものの、決して後者を無視しているわけではない、従って「生成文法は言語使用を考慮しない」や「生成文法は言語学の研究対象を不当に矮小化している」といった批判は的外れだそうです。私は、なるほど、と思わされましたが、一方でそれぞれの問題に関しても、前者から後者へというアプローチが唯一のアプローチであるわけではない、とも思いました。しかしそのように他のアプローチがありうることを指摘するだけではいけないわけで、学問研究としては具体的な知見を出さなければなりません。その意味で生成文法が優れていることは否定のしようがないと言わざるをえません。

実は大津さんはこの日は一日中しゃべりっぱなしで、午後は「ディベートはこう身につけなくっちゃ!教えなくっちゃ!」では、御自身のESS時代のエピソードなどもまじえながら、public speakingのあり方から説明し、burden of proofや evidence & warrantなどの話を非常にわかりやすくしてくれました。このあたり大津さんが、scienceの人であるだけでなく、artの人であることもわかり非常に感銘を受けました。また私自身も大学時代はESSに在籍し、public speakingやdebateを少しかじっていましたので、この講義はとても懐かしく、またいかに現在の自分がその当時ESSで学んだことに負っているかを再認識しました。Public speakingやdebateは、ESSとかいう偶発的な機会によって学ばれるのではなく、大学教育で組織的に学ばれるべきではないかとも思います(>ね、三熊さん(^^))。大津さんのディベートの話を詳しくここで述べてもいいのですが、それは「計画はあるのだが本業が忙しくてなかなか書けない」大津さんのディベートに関する本の発行に期待することにしたいと思います。

総じて言いますと、非常に有意義な二日間でした。この達人セミナーの推進者である谷口さん、また谷口さんのmentorである長さん、さらに(ある意味で最も地道でシンドイ)事務局の仕事をしてくださった名古屋の坪井さん、京都の瀬川さん、横川さんに今一度感謝をしたいと思います。皆さんのご尽力で学ぶことができたことを私は様々な形で色々な人に伝えてゆきたいと思います。

(注)大津さんによりますと、そのような議論は最近の本ですとRethinking Innatenessといった本で論考されているそうです。

追記:京都でお会いした溝畑さん、お話できて楽しかったです。でも黒板に書かれていたアドレスではホームページではサイトが開けませんでした。もし、これを読んでいたら連絡をくださいませんか?

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サジェストペディアを使った授業実践(1998/4/28)

4/25の達人セミナーin名古屋へ行ってきました。パソコンを持って行ったのですが、肝心のACアダプターを忘れたので、結局手書きでメモをとる羽目になりました(^^;)。以下は、不十分かもしれませんが、その時のメモに基づく感想です。

表題の発表は、愛知教育大学付属高校の鈴木基伸さんによって行われました。壁に生徒の作品や、国旗、ポスターを貼った中、鈴木さんはハミングをすることによって授業を始めます。鈴木さんは、まず新学期にハミングで授業を始め、みんながハミングを共有した後で、「ほらこの歌(In time of silver rain)は教科書の裏表紙にあるんだよ」と示し、教科書を大切にしようね、というメッセージを知らず知らずのうちに伝えるそうです。このようにdelicate, subtle, peripheralがサジェストペディアの特徴で、意識させずに生徒を巻き込んでゆくのだそうです。ポスターにしても、わざと雲形にきったりして、文字通り「四角四面の授業」にならないように工夫するのだそうです。

鈴木さんは、ここ3年ほど自分のことをJohn Chapmanと呼んでおり、生徒も鈴木さんのことをJohnとかChapmanとか、あるいはChapと呼ぶそうです。また生徒にも授業中に使う"stage name"を選ばせ、その名前にどんどん想像力を膨らませさせて、架空のidentityを作り上げてゆくのだそうです。女子生徒が男性のidentityを作り上げてもよく、出身国や年齢も自由だそうです。こうして「自分にとって居心地のいいidentityを作らせ」表現に自由度を与えるのが鈴木さんの狙いです。「仮面をかぶると心の仮面がとれる」とも鈴木さんは言います。

次には"I am a happy man"という歌を一緒に歌います。ところが、これは、はからずも、be動詞の変化をマスターするための歌になっています。delicate, subtle, peripheralの原則はここでも生きているわけです。"concentrative psychorelaxation"というのもサジェストペディアのキーワードだそうです。

"Artistic means"というのもキーワードの一つで、その例としてConcert Readingを鈴木さんは披露しました。そのうちの一つはactive concertで、ロマン派か古典派の曲(注1)を背景に聞きながら教師がテキストを朗読します。生徒は自由にペンやマーカーでテキストに書き込みをするのだそうです。もう一つはpassive concert。こんどはバロック音楽(注2)を背景に聞きながら、生徒はただテキストを聞き込みます。「言葉に音楽の力が加わった時はすごい」と鈴木さんは言います。

このように徐々にクラスづくりをしてゆくと、みんなで即興で(連歌のようにして)英語の詩も作れるようになるそうです。詩といっても、The spring is warm / the summer is hot / the fall is cool / the winter is cold / this is not a poem(^^)などといったナンセンスなものも含めてのものですが、それにしてもそこまでに自由な雰囲気が作れており、自然に英語の発話ができるようになるというのは凄いことだと思います。

達人セミナーで色々な授業を見ていると、視覚と聴覚の両方で、いやそれらを通り越して教室の文化としてartが授業の中で活かされているなあ、とつくづく思わされてしまいます。Artがfreedomをもたらし、それがexpressionを生む、あるいはartがimaginationをよび、それが新たなcommunityを作りsympathyを育てる、とも言えるのではないかと思いました。

それにしてもやはり授業の話は最低1時間ぐらいかけて聞かないとその真価はわからないと思います。各種英語教育学会の理事の方、ご配慮いただけませんか?発表時間20分というのはあまりにも短すぎると思います。

(注1)今回はモーツアルトのバイオリン協奏曲(何番かは忘れた)でした。私は実は音楽の方に聞きほれてしまって、英語がほとんど聞こえなかったのですが、鈴木さんによると、それはそれでいいのだそうです。しかし、この音楽の曲はすべて創始者のロザノフによって指定されているそうです。こいつは驚き!

(注2)でもこれはバッハか誰かのオルガン曲でした。バロックとはいえ、これは強烈な曲でした。(^^)

追記:「日本サジェストペディア学会」のサイトはhttp://www.big.or.jp/~jas/です。ご興味のある方はごらんください。

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大人はもっと正しく怒ろう(1998/4/18)

この4月からアストラムラインという新交通システム(電車)で通勤していますが、昨日マナーの悪い高校生が乗る車両に乗り合わせました。私は車両の一番隅に座って本を読んでいたのですが、7〜8人の高校生が、対面席の両側から脚を組んでだらしなく座り狭い車両を一層狭くしていました。やがてある駅でどっと人が入り込んでも、投げ出した足を引っ込めようともしません。その足の間をくぐり抜けようやく中に入り込んだ、大きな荷物を抱えた中年女性が、「その席、空いていますか」と尋ねると、高校生が「カバンがあるけえ、空いてないよの〜」と言い、周りの高校生もへらへら笑って、結局その女性は立ったままでした。

この時点で私は相当腹が立って、よほど注意しようかとも思いましたが、行動はおこしませんでした。私自身がその女性に席を譲ろうかとも思いましたが、こんなアホ高校生に屈したと思われても嫌だったので、そのままずっと本を読んでおりました。

本を読んでいた、といってももちろん、その間観察は続けておりました。乗り合わせている高校生は、二つの高校からの生徒で----高校名は後で特定できましたがここではあえて公表しません----、ある高校からの二人がとりわけ態度が悪い。さきほどのカバン云々を言った高校生は私の右三つ隣りで、直接姿は見えませんが、声の調子から、小柄な野郎だということはわかります。それに対して私の斜め向かいに座っていた生徒は、身長178cm、体重80kgぐらいで、体は大きいのですが、肉のつき方からして、まったく鍛えていないことがよくわかります。目つき、しゃべる時の口元の動きなどから、体がでかいことだけで通している、大甘野郎だということはわかります。靴は爪先に鉄を入れていることを誇示したものを履いています。体つきとこの靴で相手をびびらせようという魂胆なのでしょう。もう一つの高校の生徒は、この二人ほどは態度は悪くないものの、甘やかされたガキ特有の横着さをもっており、その別の高校の二人の勢いに乗じて、横着な態度で座っておりました。

やがてとりわけ無礼な二人の高校生が降りる時になりました。ところが体のでかい方の高校生は、立ち上がるや、荷物を抱えて立たされていた中年女性の後ろから、「ムカツクんだよ、ババア」とつぶやいて、その女性を後ろから突き飛ばしました。女性は窓に手をついてようやく転倒することだけは避けていました。

「コラ!何をする!!」と、私は思わず大声で怒鳴りました。それまでの怒りが爆発したのです。シーンと静まりかえる車内。その高校生も振り向き、座ったままの私と視線が合います。当然のごとくのにらみ合い。無言のまま数秒は続いたでしょうか。このあたりは理屈ではありません。犬のケンカと一緒です。私としては腹の底から怒っていましたから「殺す」ぐらいの言葉しか頭の中にはなかったと思います。やがてその高校生が視線をはずし、ホームにでてゆきます。私はそのまま本に視線を落としましたが、ホームでその高校生が連れの高校生に何か言っているのが聞こえます。相手をするのも馬鹿らしいのでそのまま本を読んでおりますと、「あの黄色い本の奴か」などと声が聞こえてきます。そのまま本を読んでおりましたが、ふと気配を感じて前を見ますと、小柄な高校生(おそらく例のカバン野郎)が窓越しに私を見ております。こうなりゃまたガンの飛ばし合いです。数秒間私は無言のまま、にらみつけました。やがてドアが閉じると、その高校生は窓をバンバン叩きます。一駅分私と同席しなければならなくなったもう一つの高校生は「あいつも、問題児よの〜」などと言っております。こいつらも同じように情けない奴だと思いましたが、あえて何も言いませんでした。やがてその高校生も降り、その中年女性と私は黙礼をして別れました(本来なら、きちんといたわりの言葉をかけるべきだったのかもしれません)。

誤解はないと思うのですが、私はこれを武勇伝として語っているのではありません。もし本当の器量人なら、高校生が「カバンがあるけえ、空いてないよの〜」などと言った次の瞬間に席を立って、その女性の代わりに「兄さん、席空けとくれ」といったまま、どっかとそこに座りこみ、女性を私の席に座らせて、後は私の気迫で高校生に一言も言わせないようにすることぐらいはできるでしょう。また、でかい高校生が女性を後ろから突き飛ばしたら、次の瞬間にその高校生を一発で殴り倒し、効果的な一言で一喝し、周りの人間の誰にも「あ〜っ、ボウリョクだ〜」等というフヌケタ言葉を言わせないぐらいの気迫でその場を制圧することぐらい、本当に度量のある人間ならできるでしょう。私がそのぐらいのことをしたのなら、それは武勇伝になるかもしれないでしょうが、私の今回の行動はそういったものとはほど遠いものです(またそのくらいの行動が瞬時にとれる人間は、決して自分から「武勇伝」などという恥ずかしい話などしないでしょう)。また私は静かに高校生の体つきを観察し、彼等が体を鍛えていないことを確認していました。もしあれが、引き締まった体をしたヤクザだったら怒鳴り付けていたか、それとも他のどんな行動にでていたか(あるいはでなかったか)わかりません。私の今回の行動は私なりの狡猾さを経てのものです。

また、もしこれを「柳瀬は以前少しだけ空手をやっていたからそんなことができるのだ」と思われてもそれは誤解です。こういった行為は本来「マッチョ」(注1)などとは無縁の行為だからです。私には人生で本当に恥ずかしいと感じた瞬間が何回かありますが、その一つはある音楽好きの華奢なイギリス人男性(格闘技はおろか、運動もほとんどしない)と話していた時に訪れました。その人がある駐車場に車をとりにいくと、そこではヤクザが自分の女らしき女性を殴っていました。その細いイギリス人男性は思わず片言の日本語で「ヤメナサイヨ、ダメデショウ!」と怒鳴ったそうです。当然ヤクザは「何っ!」といきりたちます。その場は事情を知った駐車場管理者が必至でイギリス人の方を止めて(^^)、それ以上の騒ぎにはならなかったそうですが、それにしてもそのイギリス人は女性が殴られているのを許すわけにはいかなかったそうです。

私はこの話を酒を飲みながら聴いていたのですが、その時は本当に心から自分が恥ずかしく情けなかったです----ちなみにそのイギリス人は、自慢をすることなどとは無縁の謙虚な人です----。私はその時空手の道場に通っていたのですが、自分がそのような行動はとれないことがわかっていました。私はその事を正直に告げ、「もし相手がマフィアでもそうしていたか」と尋ねました。そのイギリス人はこともなげに「もちろんそうだ」と答えます。横にいた別のイギリス人も当然だと答えます。彼等によるとそんなことは文化的に許されないことだからだと言います。このような勇気は、体力のあるなしとも無関係なのです。ちなみに私も何人かの親しい人に、このアストラムラインの件を話しました。ある私が尊敬するある女性は、彼女なら中年女性が席を断わられた瞬間に「ちょっと、あんたら、その汚い足をどけんさい!」と怒鳴ると答えました(実際その女性はアストラムラインでは何回か高校生を叱責しているそうです)。このような勇気は体力とも性別とも関係がないのです。

これは文化の問題です。いやこの言い方は誤解を招く。これは生き方の問題です。私の問題であり、あなたの問題です。

アリストテレスか誰かの言葉に「怒ることは誰でもできるが、正しく怒ることができる人は少ない」という言葉がありましたが、何に対して怒るのかで、その人を判断することはできるでしょう。些細なことに目くじらを立てるのか、不正に「だって仕方がないでしょう」と訳知り顔に薄笑いをするのか、それとも上に述べたイギリス人や女性のように、勝ち目のことなど全く考えずに怒るのか----。何に対してもやたらと怒る人間はおそらく欲求不満がたまっているだけなのでしょうが、怒りを全く忘れた人間は腑抜けです。その人がどんなに周りから「先生」と呼ばれていても、正しい怒りを志向しない人間を私は「大人」としては認めません。「友人」とも呼びません。逆に老人だろうが子供だろうが、男だろうが女だろうが、強健者であろうが障害者であろうが、正しく怒ることを学び実践しようとする人には、私の方から友人と呼ばせてください、とお願いします。あるいは弟子入りします。

と偉そうな言い方になりましたが、前にも書きましたように、私にもまだ相手の体つきを観察して、殴りあいになっても勝てるかを計算する狡猾さなどがあります。しかし相手がどんな人間であれ、その場から目をそらさずに見つめること、「不正は許さない」という目で見つめることだけはやめたくないと思います。これなら誰にもできるはずです。不正を犯す人間も、一人二人ならともかくも、周り全ての人間にそのような目で見つめられたら、いたたまれないはずです。決して見て見ぬふりをしてはいけません。それは卑怯な人間のすることです。見つめて、勇気があるならさらに行動をとりましょう。

かつて日本は礼節の国として知られていました。ところが今はどうでしょう。これは何が悪いのか----が悪いのです。あなたが悪いのです。大人はもっと正しく怒りましょう(注2)。

(注1)ちなみに私は、ある人にIntellectual machoと称されていますが、これには思わず苦笑してしまいました。だって私の語彙の中では「インテリ」という言葉は「無責任野郎」の代名詞であり、「マッチョ」という言葉には「馬鹿」という意味しかないからです(^^)。自分の心の中では「そうあるまい」と思っていても、外からはそう見えているのだな、と自分の自惚れ具合を反省することができました。どうぞその呼称は使い続けて下さいませ。それから「空手」=「マッチョ」ぐらいにしか考えていない方がいればそれは偏見です。直してください。私は知識の少ない人にはその言葉を使いませんが、偏見を直そうとしない人は、平気で「バカ」と呼びます(^^)----あ〜っ、こんな言い方するから、また空手が偏見を持たれてしまうのかな。逆効果かしら(^^;)----。

(注2)私はそのように態度が悪い高校生にたまたま電車で会っただけに過ぎませんが、そのような高校生と毎日接している先生も多いでしょう。ひょっとしたらこのホームページの読者にはそのような先生は少ないのかもしれませんが、もしそのような方をご存じなら、「私たちは少なくとも町中では協力します」とお伝えください。そのような高校生に何が社会で許され、何が許されないかを教えることは、英単語暗記なんかとは比べ物にならないぐらい、はるかに大切なことです。私はそのような高校で、時に殴られながらも自らの誇りをかけて生徒に取り組む先生に対する敬意だけは忘れたくないと思います。そんな先生を見捨てて何が英語教育ですか。

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さてどうします?(1998/4/4)

「英語教育学」者の皆さん、また憎まれ口をたたきます(^^)。

「やられましたね」

私が「心理言語学的英語教育学」から離れていった理由はこのホームページの色々なところで書きましたから省略しますが、確かまだ言っていなかった理由が一つあります。それは「計測機器の不足」でした。私が主にreviewしていた1980年代のpsychology of reading研究ですら、視線の動きを追尾する機械が実験には必要になってきました。反応時間の測定ぐらいなら自分でプログラムを作ってパソコン上で行えますが-----それでも複数の心理学者から、キーボードでの反応時間測定には誤差が多いと批判されました----視線追尾装置まではとても利用することはできません。「こりゃ駄目だ」と私は思いました。科学の世界は厳しいものです。良い計測装置を持っている人間には勝てません(革命的理論でもあれば別でしょうが、自分がそんな天才ではないことぐらいいかに生意気な私でさえもわかっていました(^^))。

さてそれから10年、英語教育研究の世界では、まだ被験者にディスプレイを見せてキーボードをたたかせています(^^;)。しかしその間、英語教育研究という閉ざされた沼ではない、「自然科学」という大海では、いつもながらの暴風雨に耐え、何隻もの船が沈没するのもものともせずに、航海が続けられてきましたので、航海技術は格段に進歩しました。その成果は着々と世間に公表され始めました。ATR(人間情報通信研究所)----日本認知科学会が開催された時私も施設見学をしました。早いうちに自分が「自然科学」とは異なる知的探究を始めて本当に正解だったと再認識しました----による『英語リスニング科学的上達法』(講談社ブルーバックス、1600円)もその一つです。計測機器の使いこなしは英語教育研究者に比べてさすがに上手です。「やられましたね」とは「英語教育学者」以外の著者によるこの本の出版のことを指しています。

ブルーバックスにはこの他にも自然科学者による英語での発表技術の本『理系のためのサバイバル英語入門』など、普通の英語教師ではとても書けないようなレベルの高い本があります。さて英語教育研究者のみなさん、あなたにしかできないこととは何ですか?

日本経済新聞の特集「水面下の景気」(1998/4/3)の指摘を待つまでもなく、デフレ懸念が本格化しています。今後の国の予算削減も必至でしょう。もし私が予算策定者だったら、いいかげんな研究予算なんか徹底的にカットします。自然科学の真似事のような研究をやっている分野など徹底的にリストラします。1960年代頃から本格的に立ち上がった「英語教育学」もこれからどうなるのでしょうか。徹底的に自己の存在意義を問い直し、自己改革をせねば、その存亡すらあぶないというのが私の意見です(もっとも「和」を大切にするこの国は、誰も傷つけず、文教予算の徹底的なリストラも断行することもなく、「英語教育学」も安泰なのかもしれません。----でもそんな調子なら国全体があぶないぞ!私も貯金(といっても小金だよん(^^;)のもっと多くを米ドルに換えておけばよかったのかしら----でも為替相場の先行きはなかなか読めないからなあ----。

さてあなたはどうします?やはり徹底的に「科学」としての英語教育学を志向しますか?独力で?チームワークで?それとも・・・?

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「普通のおじさん、変なおじさん」(1998/3/30)

「言語研究の知、言語教育の知、言語教育研究の知」の草稿を公開しましたが、誤解をおそれず、たとえを使ってその趣旨を説明しますなら次のようになります。言葉は(いつものように)過激ですが(^^)、しばし辛抱強くご理解のための努力をお願いできませんか?

言語研究をやっている人は「偉いおじさん/おばさん」かもしれないが、教育は「普通のおじさん/おばさん」がやっているし、また「普通のおじさん/おばさん」の論理でしか教育はできない。「偉いおじさん/おばさん」の論理と「普通のおじさん/おばさん」の論理は異ならざるをえない。これは「偉いおじさん/おばさん」の方が「普通のおじさん/おばさん」より尊いとか、「普通のおじさん/おばさん」の方が知的に劣るということではない。「偉いおじさん/おばさん」の知と「普通のおじさん/おばさん」の知は異なる。

だから「普通のおじさん/おばさん」は、「偉いおじさん/おばさん」の指示を待つことなく、自分達で知恵を出せばいい。しかし知恵を絞ろうとすると、突飛なことも考えなくてはならない。そのうちに専ら突飛なことを考える人は言語教育研究をする「変なおじさん/おばさん」と呼ばれるようになるかもしれない----はい、そうです志村けんを思い出してください(^^)----。が、「普通のおじさん/おばさん」は「変なおじさん/おばさん」と話を続けることによって、より現実的になれるのかもしれない。

もちろんこれはたとえに過ぎませんから、理解以上の誤解を招いているかのかもしれません。でも、もし何か上のたとえにひっかかるものがあったら、草稿を読んでいただけませんか?

ちなみにウィトゲンシュタインさんの哲学は「普通のおじさん/おばさん」の知の復権をはかったものだとも言えると思います。「変なおじさん/おばさん」の発生はオートポイエーシス論の乱用です!?(^^;)

「言語研究の知、言語教育の知、言語教育研究の知」の草稿はここをクリック。

追記:口頭発表では「三振」に関する比喩も使いました。「普通のおじさん/おばさん」は審判に三振を宣告されたら悔しそうにベンチに下がるだけです。もし「偉いおじさん/おばさん」が三振を宣告されたら、彼/彼女は審判に「君はなぜ野球では三振であり5ストライクアウトにならないかわかっているのかね。これは野球ルールの歴史的変遷をたどるだけでは説明できず、球技に普遍的な原理を・・・」と説明をし始めるかもしれません(^^)。その時審判は「偉いおじさん/おばさん」に退場を宣告するでしょう。「普通のおじさん/おばさん」がやっているのは野球だからです。これに対して「変なおじさん/おばさん」は野球が終わった後、「ねえ、ねえ、5ストライクアウトにした方がゲームがおもしろくなるんじゃない?なんだったら塁を一塁と二塁だけにしようよ」と話しかけるような人です。パ・リーグのDH制導入などに見られるように、「普通のおじさん/おばさん」がより楽しく野球をするためには、適度に「変なおじさん/おばさん」と仲良くした方がいいのではないか、というのが私の考えです。

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ペナントレースを勝ち取る理論(1998/3/30)

3/14の英語習得部会で使ったたとえの一つに「ペナントレースを勝ち取る理論」というものがあります。英語教育における「科学的研究」に対する私の考えをはっきりさせるためにここに再録します。

例えばバッターの手袋を「よく」しようとしたら、科学実験が有効でしょう。より軽く、手にフィットしながら、熱摩擦にも強い素材を作るためには、数々の科学実験が必要です。そのためには科学理論が必要です。

それなら、外野手の守備練習方法はどうでしょうか。私は野球の専門家ではないので、ここからは想像で物を言うしかないのですが、外野手の守備の時の走り方を観察する限り、ただ単に10キロ走るよりは、インターバル・トレーニング(と言うんでしたっけ?)で、20メートルをダッシュして、しばらく流して軽く走り、さらに20メートルダッシュをする方が理にかなっていると思います。

「その練習効果の差を知るために実験が必要ではないか!」と主張する方もいるかもしれません。うーん。私は、これはいわば競技構造を理解すれば、別段比較実験などしなくとも効果の程は自明かとも思います。「自明」という言葉はあまりに乱暴でしょうか。でも私が野球のコーチだったら、比較実験に労力をさくよりは、(大リーグのコーチがやっているように)、一人一人の選手の様子(筋肉のつき方、心肺能力、体の柔軟性、パーソナリティ等など)を観察・理解したいと思います。

ですから、練習法の比較実験の必要性は、あるとも言えない、ないとも言えないということにしておきましょうか。ですが、もし誰かがもっと大きなレベル、つまり「試合に勝つ科学理論」やそのための「実験」などを語り始めたら「ご冗談を」と言うでしょう。

だいたい、手袋のレベルでも、個人の好みや体質(汗っぽいのか、手の皮が厚いのか、等など)で左右され、「よい手袋」をあるひとつの科学理論・実験で決定できることなどできないのです。練習法にしても、コーチと選手がその練習法にどのような知識・態度をもって導入するのか、選手の体力構造はどうなっているのか、キャンプのどの段階でどのくらいの量をこなすのか、など沢山の関連する要素があります。まさに複雑な世界なのです。まして長期にわたるペナントレースを勝ち取る理論やそれを作り上げるための実験など成立するわけはありません(注)。

まもなくプロ野球も開幕します。順位予想もいろいろやられていますが、私たちはそれは「お遊び」として聞いています。もし「理論研究」で順位予想をする自称「科学者」が登場すれば、私たちはその人を「トンデモ学者」としてバラエティー番組に呼ぶことでしょう。

ひるがえって英語教育研究の世界ではどうでしょうか。もうさすがにだいぶ少なくなりましたが、「科学的英語教育研究」を称して、ペナントレースとまではいかずとも、「どのピッチャーからもどんな状況でも必ずヒットを打つ万人のための一般理論」のレベルのことを語っている人は、まだいるのかもしれません。私はそのような「一般理論」は通俗的なものでしかありえず、科学たりえないと思います。私は「科学」という言葉に敬意を払い続けたいので、そのような「一般理論」には「科学」という言葉は使いたくありませんが、皆さんはどうでしょう。

(注)またもし仮にそんなものがあったとしても、12球団すべてがそれを学んだとしたらどうなるかという問題もあります(^^)。

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寓話:野球コーチの留学(1998/3/30)

3/14-15のリエンジニアリング合宿(^^;)終了後、武蔵大学の直井さんと話していて、使った寓話(比喩)をご紹介します。

ある国は野球のレベルが低く、オリンピックで大恥をかいてしまったので、政府は野球コーチに予算を与えて、その国の野球レベルを上げることを計画しました。スポーツ大臣は幸か不幸か「科学」に憧れていたので、「野球とは還元するところ、物理学の応用である」との信念のもと、コーチを大学の物理学科へ留学させました。

「アメリカ大リーグの様子を見にいきたかったなあ」と独り言をつぶやきながらもコーチは物理学科の学科長に会いに行きました。その学科長、物理学の大御所ではありましたが、野球のことはほとんど知りませんでした。「教授、私は野球のレベルを上げるためにここに学びに来ました。話を聞くところ『力学』ぐらいが私にはふさわしいと思います」、「『力学』!?、君はニュートン力学のことを言っておるのか。あれなど現代物理学のうちには入らん。『大統一理論』とはいかずとも、君、せめて相対性理論と量子力学ぐらいは学びたまえ」、「いや教授、お言葉ですが、私にはそこまでの物理学は必要ありません」、「えーい、馬鹿者め!おまえは物理学がわかっておらん!!」、「教授、あなたは野球がわかっておりません」

あまり出来はよくないかもしれませんが、言語研究を「応用」にするにせよ、それは言語研究の論理(だけ)で行われるべきでなく、「応用」される教育のことをよくわかっていなければならない、という趣旨の寓話のつもりでした。お粗末(^^;)。

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アクション・リサーチ/実践研究に関する疑問と告白(1998/3/18)

佐野正之さん(横浜国立大学)が大修館書店の『英語教育』で「アクション・リサーチの進め方」という連載を始めました。私自身も、自分の英語教育研究を「リエンジニアリング」して見えてきた方向が、何よりも授業現場なのですが、これまで、いわゆる「アクション・リサーチ」についてほとんど何も知らなかったので、興味深く読み始めました。今日は、これを機会にアクション・リサーチについての疑問と告白を私なりにまとめてみたいと思います。

ですが、その前に、同記事の(一部)の簡単な要約を。佐野さんは、AllwrightさんとBaileyさんの1991年の研究を引きながら、教室で行われるリサーチを四つに分類します。

(1)応用言語学の実験(controlling) [+structured, +controlled]

(2)アンケート調査(measuring) [+structured, -controlled]

(3)事例研究(watching) [-structured, -controlled]

(4)アクション・リサーチ(asking/doing) [-structured, +controlled]

アクション・リサーチは「教室はそのままにして、教師が生徒に働きかけ省察と実践をしてゆく」もので、「教師が教えながら同時に調査や実験を繰り返すことによって、自らが抱えている問題を解決し、指導力をも高める研究」(40)だと佐野さんは説明します(注)。

さてここで疑問が出てきます。実はこの疑問は、複数の方が口にしていた疑問なのですが、素朴にいって、この「アクション・リサーチ」が日本でいうところの「実践研究」とどう違うのか、ということです。違うなら違う、同じなら同じ、と、どちらでもいいのですが、この「アクション・リサーチ」は、日本各地でこれまで連綿と行われてきた「実践研究」----例えば私はこのホームページで紹介させてもらったような現場教員の方による研究を意味しています。あるいは「法則化運動」もこの範疇に入ると私は思います----を統合し(あるいは逆に前者が後者に統合され)、日本の英語教育研究者なりにアクション・リサーチ/実践研究を進化させていかなければ、アクション・リサーチも単なる流行言葉として終わるのではないかと思います。何よりそうしないと多くの人は「アクション・リサーチ」を単なる舶来用語と捉えて、それに説得力を感じません。また、もし同じようなことをやりながら「アクション・リサーチ派閥」と「実践研究派閥」なるものができて相互の交流がなかったら、これは大きな社会的損失です。

次に私個人が、アクション・リサーチ/実践研究に関して以前に持っていた偏見を告白したいと思います。(告白しますのは、そうすることによって私自身が、その偏見を克服したいし、万が一みなさんの中に私と同じような偏見を持っている人があれば、考え直してほしいからです)。

偏見といいますのは、「実践研究には一人よがりなものが多い」「だから学問にならない」というものです。昔の私は、教室の現実を知らないことも手伝って、この偏見を基に、「科学的」(と当時思っていた)心理学的研究を志向しました。その顛末は方々で書きましたのでここでは省きますが、私が懸念しますのは、このような偏見は今でも少なからずの人(特に研究者)に共有されているのではないのか、ということです。

私は、達人セミナーや中四国英語教育ネットワークの経験などで、実践報告にも、優れて説得力をもつ報告(=単なる主観的思い込みを脱した研究な報告)があること、実践研究も「客観性」----注意を要する言葉です!----を志向できると思い始めましたが、まだその予感を方法論的に明確にすることができません。できれば私の片寄った頭だけでなく、英語教育界で分散・協調的に、この問題を考えることができないかとおもって、この文章を書いています。

この問題をきちんと取り扱わないと、いつまでたっても研究者と実践者の溝は埋らないと思います。深い溝は、研究者にとっても実践者にとっても不幸なことです----また最大の被害者は生徒です----。アクション・リサーチ/実践研究の方法論を今以上に明確にし、その「客観性」(あるいは「公共性」)を定立することは、英語教育界にとって重要な課題の一つであるように思いますが、いかがでしょう。

(注)Nunanさんによるとアクション・リサーチは次の6段階のステップを踏むと、佐野さんは解説をしています。(1) Problem Identification, (2) Preliminary Investigation, (3) Hypothesis, (4) Plan Intervention, (5) Outcome, (6) Reporting。このうち(6)は、ひとりよがりを避けるために重要と佐野さんは解説しています(41)が、私はもう少し説明がほしいと思ってしまいました。

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生成文法的言語使用への警戒感(1998/3/11)

昨晩、佐々木さんという方から「広場」へ投稿をいただきました(佐々木さん、改めて、はじめまして。できればお互いに「〜さん」でやってゆきませんか?)。

「歯科医によるセンター試験批判」の中の生成文法学者に関連すると思われる記述には誤解があるのではないか、というご指摘でしたので、簡単に私も「広場」にレスを書いておきました。

そこにも書きましたが私は生成文法という試みに、どうも警戒感を抱いてしまいます。例えば、本日手元に届いた日本認知科学会の紀要である「認知科学」(Vol.5 No.1. March 1998)には大津由紀雄さん(注1)の書評(今井むつみ『ことばの学習のパラドックス』共立出版)が掲載されています(92-93)。書評自体は良心的で的確なものと思うのですが、私が気にかかるのは次のような箇所です。

「ことばの学習のパラドックス」という題名は若干誤解を招きやすい。たしかに「ことば」は単語の意で用いることもできるが、やはり「語意の学習のパラドックス」というのがふさわしい題名ではないだろうか」(93)

大津さんは、以上のことだけしか言っていないのですが、もし万が一[ここからは私の勝手な想像です!]、上の発言が「『ことば』という言葉は、やはりI-languageあるいはUniversal Grammarを対象にした時にのみ使うべきだ」という含意をもったものならば、私は個人的に反対したいと思います。

私は以前に「書評01」の欄でも、生成文法学者が「言語」という言葉をどのように使うかについて注意を促しておきました(注2)。専門用語の使い分けはもちろん必要ですが、日常言語のそれなりに棲み分けられた多様性を私としては大切にしたいと思います。

「ことば」という言葉は、日常言語に属すると私は個人的には感じています。「ことば」が「言葉」「単語」「words」の意味で使われても、私個人としては別に違和感を感じないのですが、皆さん、いかがでしょう。

以上、私の考え過ぎでしたら、これにまさることはありません。

(注1)私は大津さんとは全く面識がありません(直接に大津さんを知る方からは、いい先生であるということを聞いているだけです)。言うまでもないことですが、ここで大津さんの名前を直接引用するのは、私の発言の責任を明確にするためで、大津さん個人を批判するつもりはありません。議論では当たり前のことですが、私が興味があるのは論点です。個人間の抗争には全く興味がありません。もし上の私の指摘を、人事対立や派閥抗争へと変換し煽る人がいれば、私はその人に強く抗議します----こんなこと本当は言う必要ないんですけどね(^^;)。議論の文化をお互いに成熟させましょう!

(注2)書評01から当該箇所を引用します。

「ここで英語教育研究者としてはやはり生成文法の言語観に注意しておきたいと思います。生成文法の言語観に関する端的な表現はたとえば「生成文法の研究対象は『言語』ではなく、文法である。Chomskyは『言語』というのは随伴現象であるとまでいいきっている」(60)などに見られます。言うまでもなくこれは(いい意味でも悪い意味でも)私たちの常識的な言語観とは異なるものです。ですが生成文法学者は、そういったI-言語の考えを(彼/彼女らとしては正当なことですが)当然の前提として、「I-言語、以後、わずらわしさを避けるため言語と呼ぶ」(61)とさえも表現しています」。

私は個人的には、「言語」という言葉を、常に「I-言語」と読み替えることを要求する言語使用は、やりすぎだと考えます。

追記:これをアップした直後に佐々木さんからの再投稿に気付きました。「普遍文法の知識を教育することは大津先生の考えにはないようなのです」とのことです(下の「歯科医によるセンター試験批判」を参照してください)。私のこの誤解に関しては、私が大津さんの(関連)論文の全てを読んでいなかったことが原因です。反省して、ここに私が誤解をしていたことを取り急ぎ認めます。でも大津さんに関してはそうだけど、私の「歯科医によるセンター試験批判」での論旨は生きている!----と、結構しつこい(^^;)。

追追記:上に人名に関してはたとえどんな方であろうとも97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しておりますと宣言しておきながら、この文章では思わず「大津先生」と書いていたことに先程気付きました。どこかで腰がひけていたのかな(^^;)。原則を大切にするため、「大津先生」を「大津さん」に変えます(1998/3/13)。

追追追記:その後大津さんから「広場」へ投稿があり、上の私の懸念は全くの誤解であると説明をされました。柳瀬が過度の懸念をしていたことをここに認めます。

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Network is THE power----そのためのシステム的思考を!(1998/3/10)

『英語科自学のシステムマニュアル』の書評を書きながら痛感したのですが、現代ではとりわけNetwork is THE powerといえるのではないでしょうか。達人セミナーやその後のつながりを通じて、同書を理解できるようになった自分の縁が本当にありがたいです。私も私なりにこのもらった縁をさらに他の人に開いてゆこうと思います。

デジタルテクノロジーでネットワーク化が加速しはじめました。個人が、自分の保身や、身内の安泰ばかりを考えるのではなくて、自分自身を社会的存在として自覚して、英語教育の改善のために自発的に動いてゆければと考えます。少なくとも英語教育界では、自分の業績しか考えていない研究者や、自分の安泰しか興味しかない教師、それに、ある成果を囲い込んだり独り占めしたりしようとする業者は、軽蔑されるといった文化を作り上げませんか?

といいますのも、デジタルテクノロジーが台頭してきたとはいえ、まだまだネットワークの発展には犠牲的ともいえるボランティアが必要だからです。たとえば広島県の高校教師である佐伯邦章さん。この方の尽力なしには広島での達人セミナーも、それ以後の色々な動きも、全く不可能でした。でも佐伯さんは特に謙虚な方ですから裏方に徹しています。時に見せる少し疲れつつも微笑みを投げかける表情が痛々しいぐらいです。

ネットワークのために尽力する人を評価する文化をつくりあげましょう。評価といっても、官制の勲章じゃないんですから、年功序列・国立優先みたいな何も考えていない形容矛盾でしかない「評価」ではなくて、一人一人が、それぞれ最も適切と思う形で、感謝あるいは協力をするわけです(cf『ボランティア』岩波新書)。言い古された言葉ですが繰り返します。一人一人の力は小さくとも、それが合わされば大きな力になります----これこそが、健全な自由主義・民主主義の意味だと私は考えます。

とはいえ、ある程度の合意がないと、(開放的な)連帯の力は大きくなりません。情報過多の現代では特にシステム的思考でもって連帯しなければならないと思います。

「情報化」「マルチメディア時代」といいます。しかし現実は質の低いゴミのような情報ばかりが目立ったり、異なったメディアで同じ事柄・表現方法を使ったりしているのが現状ではないのでしょうか(注)。私たちの情報文化は成熟していません。このままでは「インターネットはからっぽの洞窟」「儲かるのはマイクロソフト社とインテル社だけ」ともなりかねません。

文化は他人任せにしてはいけません。私たち一人一人が、それぞれ得意な方法で、かつ自覚的に自分達の文化を作り上げましょう。

それでは具体的にどうすればいいのか。私の考えを言わせてください。

現在の英語教育界は、優秀な英語教員にあまりに多くのことを望み過ぎていると思います。よい授業をし、それをまとめて本にし、遠くの地にまで出かけて講演をし、さらに「そんなことは私にはできない」という聴衆とねばりづよく語り合う。たとえて言うならこれはある「タレント」(=才能をもった人)に、いいパフォーマンスをやって、なおかつそれを自分でカメラ撮影して、編集し、各局に売り込みにいって、契約をとってくることを望んでいるようなものだと思います。

テレビ業界だって、タレントの他に、たとえばタレントを発掘するスカウト、タレントの才能をさらに磨く各種インストラクター、タレントのスケジュールを調整するマネージャー、番組の企画を作るプロデューサー、実際の番組作りの指揮をするディレクター、その補佐をするアシスタントディレクター、さらに具体的な貢献をする大道具係・小道具係、照明係、カメラクルー、音楽係などと様々な機能に特化し機能的なシステムをつくっています。

英語教育界もそろそろ自分達を自覚的にシステム化するべきではないでしょうか。そのためには何よりも、自分達の使命(mission)は何か、得意なこと(= core-competence )は何か、自分には何が欠けているのか(=何をoutsourcingすればよいのか)を客観的に自覚し記述して、コミュニケーションをはかり、有機的で開放的なネットワークをつくる必要があります。

幸い英語教育界には、私が知るだけでも大阪府の菅正隆さん、愛媛県の清家佐保さん(松山大学の吉田さんが彼女の実践については詳しいです)、島根県の田尻悟郎さん(島根大学の築道さんが彼の実践については詳しいです)といった一流の「タレント」あるいは「コンテンツ」を持った人がいます。達人セミナーの谷口幸夫さん、法則化運動の柳井智彦さんのような優れた「プロデューサー」もいます。広島県の佐伯さん、岡山県の斉藤さん、山口県の福井さんのように、地道だけれどとても大切な働きをしている「ディレクター」もいます(またこれらの方は自分自身優れたコンテンツも持っています)。私がお会いするいわゆる「業者」の方もそのほとんどが情報化・大競争時代による英語教育界の再編成になみなみならぬ関心をもっています。私たちがもう少しシステム思考的に自覚的に動き、デジタルテクノロジーを駆使したオープン・アーキテクチャーを分散・開放的に気付けば英語教育界はどんどんよくなると私は考えます。

よいアイデアを社会的に育てる文化をつくりあげましょう!他ならぬ私たち一人一人の手で!

追記:このあたりの考えに関して、1998/3/6に「方針」のコーナーに記述の追加をしましたので、ご興味のある方は「方針」のコーナーもご覧ください。

(注)このホームページにしても単に従来の活字文化の延長線上にあるだけなのかもしれません。今後とも実験的試行を重ねてゆきたいと思います。

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段ボール4箱810円(1998/3/9)

本の処分をすることにしました。「さようなら村上春樹のハードカバー!」などと少し感慨にふけりながらも、集めた本は段ボールでたっぷり4箱。でも古本屋にもってゆくと、カバーがとれた数冊は即座に断わられて、しかも引き取り価格は810円。!!!----それにしてもこの10円という端数は何なんだ(^^;)----。

まあ考えてみますと現代という時代は、どんどんと情報が古くなる。おまけに紙の本というものは、カサもはるし、日焼けもするし、カバーがやぶれたりする。仕方ないのかもしれません。

一方、情報がデジタルだと、更新が簡単、保管にスペースがいらない、記録の劣化がない----日本もアメリカなみに2〜3000円をプロバイダーに払えば、インターネットを使い放題という状況になれば、紙の出版産業は大変動を被るでしょうね。

それにしても日本の通信料金は高い!日本人がワープロと表計算ソフトしか使っていない間に、アメリカ居住者は、Internet ExplorerをActive Desktopでバンバン使い、グループウェアでデータを広く共有し頻繁に更新する----なんせ市内通話料金が無料なんだもの!----このままでは日本はどんどん取り残されるぞ!

こんな中で私たちは何ができるのでしょうか。箇条書きにしてみますと、

(1)政治に関してもっと怒りをあらわにする。政・官・財が癒着しているかぎり日本はまともにならないぞ!

(2)日本にも来るべきOCN時代を前に----来なかったら本当にヤバイよ、日本は----、一足早くOCN状態にある大学人はインターネットを最大限に活用する実験的試行をバンバンやる。電話料金が安くなった時に一般ユーザーがインターネットにアクセスした瞬間、感激するぐらいのネットワークを英語教育に関して作っておく。

(3)英語教師は、自らのノウハウを他人に伝えられるように、最低、授業ノートはデジタル化(現状ではテキストファイルかHTML文書)しておき、かつ(こちらの方が大切なのですが)、自分のノウハウを客観的に説明伝達する訓練を自分に課しておく。「デジタル」は連帯のための合言葉だと思います。

(4)出版業界は、テレビの進出で自分のあり方を模索し、最終的には棲み分けに成功したラジオ業界のように、自らの進化を遂げるため、アメリカのあり方に学ぶ。そして徹底的に自分の頭で考える----英語教育にとって各種メディアはどのように棲み分けたらいいのでしょう、あるいはどう連携すればいいのでしょう---キーワードはここでも「デジタル」です!

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歯科医によるセンター試験批判(1998/3/6)

英語教育に関するメーリングリストefljで得た情報によりますと、 群馬保険医新聞は、『歯科医療に関した大学入試センター 試験の出題内容に異議あり』と題する群馬県保険医協会歯科会 からの報告を掲載しました(1998年1月26日)。請求したファックスを基に、その報告を私なりに要約しますと第5問は「英語的にはまったく問題はない」ものの、歯科医としては設問の登場人物である歯科医の「歯科医学的知識の稚拙さと、治療方針に重大な疑問を抱かざるをえず」、さらには日本の歯科開業医に対して偏見を植え付けたりする懸念がある会話があるなどと批判しています。

私はこういった問題は今後増えてくると思います。高度知識社会化する現在では、各方面で求められる英語力は、(たとえ専門分野に限られたものだとしても)とても高いものになってきているからです。実際、講談社ブルーバックスの『理系のためのサバイバル英語入門』や中公新書の『理科系のための英文作法』などの内容はすばらしいものですが、それらの本は英語の教員でなく、実際に国際学会で活躍している自然科学者によって書かれています。英語教師の一人として、私は、「とても自分ではこんな本は書けない」と正直思ってしまいます。

このような状況でどのように考えるべきでしょうか。大きく分けると二つの方向があると思います。

(1)英語教育/教員/入試は「英語」だけに専念する:現実世界の「内容」に関わることはできるだけ避け、英語教育/教員/入試は、「英語」という「言語」だけをもっぱら対象にする。

(2)現実世界での英語使用をできるだけ反映し、英語教育は英語教員だけでなされるもの、という従来の前提を破棄し、英語教育/教員/入試のチームには、少なくとも何人かの英語教員以外の英語使用者を必要に応じて加える。

このうち、私は(1)は滅びにいたる道だと思います。万が一にもないとは思うのですが(注)、もし日本の英語教育界が(1)を目指したら、ますます社会と遊離した「英語教育界のための英語教育」になってしまうと思います。となれば(2)ですが、分野の異なる人間とのチームワークとは一朝一夕にできるものでもありません。英語教育関係者には今まで以上の幅広い教養と、人間的交渉力が求められると思います。

(注)しかし、以前「英語帝国主義は、普遍文法の点から英語(等)の言語教育を教えることで克服できる!」とする主張を読んだことがあります。もし万が一「センター試験で言語の本質を問うため、普遍文法の観点から、英語力を問う」等と称して、長い埋め込み文を読ませたり、非文法文を見つけさせたりする出題がなされるべきだ、などと主張する人があれば、私は「悪い冗談はやめましょう」とでも言うつもりですが、皆さんはどうお考えでしょう。私は生成文法家が多用する「本質」「普遍」「真の」「自然科学として唯一の」といった言葉の暴走を実はものすごく怖れています。

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鳴門教育大学英語科授業研究グループによる英語科授業研究I・研究論叢(1998/3/6)

この論叢はいい出来上がりになっていると思います。少なくとも読んでなるほどと思ったり、うーんと考えたりしました。自戒の言葉としても書きますが、二流、三流の言語学・心理学・哲学めいた「論文」を読むより、はるかにおもしろかったです。Producerとしての今井さんの功績に拍手をおくります。近日中にインターネットでも全文公開するとも聞いています(今井さんのサイトはhttp://www.naruto-u.ac.jp/~himai/imai.htmlをクリック)。

こういった良質の研究は全国各地にあるのだと思います。私たちがやらなければならないことは、こういった研究をつなげてネットワークにして、分散的・社会的に論文執筆することだと思います。いかにすぐれた個人がいても、孤立していれば彼/彼女の能力は活きないと思います。良質な論文を執筆する社会的な体制を作り上げてゆきたいと思います。

簡単にその中の論文にコメントを加えます。小学校英語教育における文字指導に関する論文は、最も伝えるメッセージをもった論文だと思いました。読み終えて、文部省が指導要領を決めるという体制の無理さを改めて痛感しました。どんなに頭がよい人が役人になったとしても、中央集権体制・権力による指令伝達体制は、一人(あるいは数人)の頭に、全国民の運命を委ねるという無謀な体制だと思います(cf.ハイエクの議論、特に『隷属への道』春秋社を参照のこと)。日本の「民度」は極めて高いと思います。小学校への英語教育導入も、この民間による分散的で多様な試みを最大限活かせるように権力構造を修正し、同時にその試みを共有できるネットワークを私たちの力でつくりあげるべきだと私は考えます。「自由」という言葉をキーワードに英語教育を捉え直したいと個人的には考えてもいます。

Flint Systemに関する論文に関しては、「なぜ今更Flintなの?」と読む前に思ってしまいましたが、後半でMoskowitzのカテゴリーを修正する提案がでるにいたっては「そうだ!やれ、やれ!!」と思わず共感しながら読み進めました。こういった著者なりの独自の読みこなしこそが研究のオリジナリティだと思いました。

センター試験に関しての論文に関しては、研究テーマが多すぎて総花的になってしまったような気がしました。社会的にはとても重要なトピックだけに、いい研究の視点が必要だなと、自分も含めて反省させられました。

中学校英語の語彙選定に関する論文でも、改めて文部省による中央集権=指導体制の無理さに思いをはせてしまいました。語彙選定に関しては比治山大学の馬本さんも、近日中に論文を書くとのことですが、私としては、「そもそもなぜ語彙選定が必要なのか、本当に必要か、必要としたらそれは何のために、誰のために?」といった根本的・抜本的な論考----でたワンパターンのリエンジニアリングだ(^^;)----を読みたく思いました。

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デジタル社会おそるべし!(1998/3/4)

ここ半年あまり「サーバーが欲しいけど、金も時間も技術も知識もない!」と一人でぶつくさ言っておりました。「UNIXかLinuxを導入すればいくらかかるのかな?ノウハウはどうやって学べばいいのだろう」などと考えながら私は何度本屋をうろちょろし、書籍を買い求めたことでしょう。

ところが、です。先程、「リンク」のコーナーの開設準備のためネットサーフィンをしておりましたら、何と月200円で、私がサーバーに求めていた機能の一つである「掲示板」(CGI技術)を開設してくれる業者を見つけました。30分で私の懸案事項は解決しました。ひょっとしたら私は何十万円ものお金と何十時間もの時間を節約できたのかもしれません(いや、これでは一桁少ないのかもしれない・・・・(注1))

おそるべしデジタル社会!

Outsourcingという言葉をよく聞きます。Visionとimaginationが最大の財産とも言います。"Subcontract everything but your own soul"とはトム・ピーターズの本の中の台詞でした。現代とは、自らのmissionを明確に自覚し、社会の変化に柔軟かつ迅速に対応できなければ、それまで何年もかけて苦労して身につけた技術も知識も一瞬のうちにほとんど無価値になるかもしれない時代なのかもしれません。

誇張しているように聞こえるでしょうか。しかし大学というOCN状態(コンピュータネットワークにつなぎ放題でもお金がかからない)の場所にいると、上のような気持ちに時になります。

私としては、何万人ものネットワーク管理者のボランティアに支えられているこのOCN状態を、大学教員の特権と考えるのではなくて、社会から信託された機会と捉えて、これからもよりよい社会づくりのためのホームページ作成の試行錯誤を続けてゆきたいと思います。

それにしてもおそるべしデジタル社会。私と同じようにコンピュータの技術的知識をほとんどもっていない皆さん、どうぞデジタルテクノロジーの可能性には注意を払っておいてください。 Missionを自覚し、imaginationでvisionを描き、それをcommunicationで他人に伝えてoutsourcingに成功すれば、自分の知的能力を何千倍にも増幅できる時代なのです!(注2)

追記:などと偉そうなことを言いましたが、実は現在私は肝心の論文が書けずに苦しんでおります(ホームページが論文からの逃避の手段になっていたりして(^^;)。情報洪水の中に溺れることなく自分の研究を育てなくては・・・・

(注1)私がサーバーに求めている機能は、掲示板機能だけでなく、イントラネット(正確にはエクストラネット)機能もあるわけですから、月額200円でサーバーが不必要になったわけではありません。それにしても月額200円は安いでしょ。ご興味のある方は「投稿」のページの下にある「掲示板作成」をクリックしてください。(ただしその業者との契約に関してのリスク管理はご自分でおとりください)

(注2)日本の情報化の最大のネックの一つが電話代の高さだと思います。市内通話が無料のアメリカはプロバイダーに月額20ドル程度を払うだけでOCN状態です。それに引き替え日本は38000円!このままじゃ、アメリカと日本の競争力格差は拡大する一方ですよ・・・・・

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会社経営ごっこ?(1998/2/28)

「いやー、毎日忙しくって研究がなかなかできないんですよ」-----こう私がふともらしたとき、国際政治学が専攻の私の同僚の方は私をこっぴどく叱ってくれました-----「柳瀬さんは今何歳だい?あなたの学問はそのくらいで極められるほど底の浅いものなの!?」----その時は「そんな事言ったって実際大学の仕事が忙しいんだから!」と実は反発したのですが、考えれば考えるほどその方の言うことの方が正論です。私は数カ月後にその先生に手紙を出して「私が間違っていました。ご叱責ありがとうございました」と謝罪と感謝をしました。

以来「忙しくて研究どころではない」というのをできるだけ禁句にしようとしてきました。最初におこなったことは私生活の時間ををできるだけ削減することでしたが、それでは心身共に追い込まれてしまい、結局は研究の質も著しく低下してしまいました。

私は、一昨年から「総合企画課」というところに行政配属されたのを機会に、企業経営の本を読み始めました。今まで知らなかった世界ということもあって、読む本読む本が面白く、おそらく読んだ本は50冊ぐらいにはなっていると思います。総合企画課の仕事はこの3月で終わりますが、これはいろいろな意味で私にとって貴重な体験でした。

というわけで以下は、自分を、研究部門、教育部門、行政部門、私生活部門を抱える一つの会社----もちろん各部門にはそれぞれ沢山の「課」があります----とみたてての「会社ごっこ」です。でも、どう自分という「会社」をいかにうまく「経営」してゆくか、という視点は、私にとって今や重要な視点になっています。

1998年2月28日の日本経済新聞の「大機小機」というコラムは「21世紀の金融像」という題で、アメリカと日本の銀行の業績格差を生んでいる違いを短くまとめました。以下、引用とコメントを書きます。馬鹿な比喩にしばらくおつきあいください。

(1)米銀の場合、顧客に最高の金融サービスを提供するという目的、経営上の優先順位、インテグリティ(誠実さ)、チームワークといった企業文化など、いわゆる企業理念が極めて明確である。(略)日本の金融機関の場合、目的さえ必ずしも明白ではなく、企業理念はあいまいなままで、公表はまれである。

うーん、私もこのホームページを公開・運営することでこの点を改善しようとしていますが、まだまだ・・・といったところでしょうか。

(2)米銀は強力かつ効率的な組織を構築している。(略)邦銀は、できることとできないことの区別があいまいで、組織が総花的となり、脆弱な部分を内包しているため利益率も低い。

「できることとできないこと」----これも結構難しいですね。私の場合は手を広げすぎて「できないこと」に時間をついやしすぎるのかもしれません。研究職は今のところ市場による淘汰のプレッシャーがありませんから、「できること」だけに特化して、いわゆる自分の狭い「専門」の研究だけをやっている方が処世術としてはいいのかもしれません。でも社会に相手にされない研究なんてするのもなあ、と妙な色気を出してしまいます。

(3)米銀が新金融商品や技術開発に巨額の資金と十分な人材を投入しているのに対し、邦銀の場合、不良債権の償却に追われ新商品開発に十分な資源を投入することができない。

私の場合、自分が昔やっていた「形だけ整えた実験的研究論文」の批判という「不良債権」を抱えているから、自分の研究が今一度生産的になっていないのかなあ(^^;)。

(4)第四に、米銀大手行がマーケットリスクやオペレーショナルリスクの計量的管理を含めた総合リスク管理システムを構築しているのに対し、日本の最先端銀行でも信用リスクの計量的管理にどうやら着手した段階にとどまっている。

うーん、教育や人文系の研究などといったものの結果は数量化しにくいからよくわからないのだけれど、ひょっとしてこのホームページでも辛口コメントを流すことによって、私はこの業界での生き残りを難しくしているのかしら(^^;;)。でも正しいと思った事を主張しなくて、何が研究だ、教育だ、とも正直思います。


達人セミナーその後(1998/2/25)

「達人セミナーで感じたことをどんどんそれぞれに記述してゆきましょう」と私は提案していますが、この度、馬本勉さん(比治山大学)が彼のホームページに感想を掲載しました(http://ipr.hijiyama-u.ac.jp/~umamoto/のNEWSのコーナー)。また以前に紹介しました平本哲嗣さん(高松大学)のホームページ(http://member.nifty.ne.jp/hiramoto/index.html)も同セミナーの感想をアップしています-----ちなみに平本さんのホームページは彼のユーモアのセンスがよく出ていて私は好きです----。同じセミナーをそれぞれがどのように記述しているかという点からも興味深いかとも思います。ぜひご覧ください。

私の好きな本に『ジャック・ウェルチのGE革命』(1994年、ティシー・シャーマン著、小林陽太郎監訳、東洋経済新報道社、2233円)という本があります。ジャック・ウェルチさんという人物が、いかに徹底した企業改革----「リストラクチャリング」や「リエンジニアリング」などは彼がやったような企業改革を理論化したものです----を成功させたかというドキュメンタリーですが、その中でジャック・ウェルチさんは、改革のためのコミュニケーションは、徹底して「しつこく」やらなければならないと述べています。企業という権限組織でさえ、改革するためには徹底的なコミュニケーションが必要なのですから、私は英語教育界といった世界を変えるには、さらに徹底的にしつこく一貫してコミュニケーションを続けなければならないと思っています。皆さんももし現状の英語教育界には変革が必要だと思うのでしたら、どうかそれぞれによいと思う可能なやり方でコミュニケーションの努力を「しつこく」続けてくださいませんか?一人の力は小さくとも、それがネットで分散的につながればそれは健全な社会的力へと育ってゆくと思います。

その他にもホームページではインターネットを使った中学校英語教育実践(http://tokyoweb.or.jp/bike/ken's/hirao2.html)や、小学校英語教育実践の観察記録に優れた吉田達弘さん(松山大学)のホームページ(http://www.matsuyama-u.ac.jp/~tyoshida/)など私が知っているものだけでも色々といいものがあります。皆さんもどんどんホームページを公開したり、リンクをはったり、よいと思うホームページにはコメントを寄せるなど、どんどんとよりよい英語教育のためのネットワークを充実させるためのうねりに参画していただけませんか?

ちなみに達人セミナーは3/21に山口で開かれます。事務局の仕事をボランティアしてくれている福井貴己さん(長門市立俵山中学校)は以下のお知らせを転送してくれました。-----ちなみに事務局の仕事とは一番しんどい仕事なのかもしれません。私のようにそのような労苦から逃げ回っているような人間(^^;)は無視しても、事務局の仕事をやってくれている人には感謝を忘れてはならないと思います----。

英 語 教 育達人セミナー in 山口---- 中国・四国地区のネットワークをめざして

新学期を迎え、気分も一新、益々ご清栄のことと思います。さて、1998年3月21日(土)に山口市において、「明日の授業に活かせる」を合い言葉にしております「英語教育・達人セミナー」を開催することになりました。

達人セミナーとは、指導法に関するワークショップ中心のセミナーであり、授業ですぐ使えるワザやアイディアなどの情報交換を主目的としています。同時に、英語教育に関する悩みやトラブルなどを、カジュアルな雰囲気のもとでお互いに相談しあえる場所と時間を提供しようとも考えています。また、我々の活動は非営利を大前提とし、関係者はボランティア精神で活動に関わっています。それゆえ英語教育界の「草の根運動」と自負している次第です。

 今回は、英語教師の知恵袋こと、長勝彦先生(墨田区教育委員会)をお迎えし、中学・高校の授業ですぐ応用できる「コロンブスの卵」的なアイディアをワークショップ形式で紹介していただきます。また、山口大学教育学部附属山口中学校で精力的に実践を行っている藤田讓二先生からも、具体的な指導テクニックやワザを発表していただきます。今回も「実用度120%」と言える有益なセミナーとなること間違いなしです。

 この時期、何かと多忙とは存じますが、ぜひともご参加いただき、今後の授業へのヒントにしていただけたら幸いです。皆様のご来場を心よりお待ちしております。 

達人セミナー事務局 谷口幸夫

  ★日 時: 1998年3月21日(土)

10時30分〜16時30分(10時より受付け開始)

  ★場 所: 山口大学教育学部附属山口中学校(山口市白石1-9-1)

        JR「山口」駅下車、北へ徒歩約20分。バス・タクシー等が便利です。

★主 催: 英語教育・達人セミナー実行委員会 (代表:長 勝彦)

   中・四国ネットワークの会(代表:能登原昭夫)

       個が生きる英語授業研究会(代表:福井貴己)

★参加費: 受付で2,000円(資料代含む)をお支払いください。

★申込み: 事前の参加申し込みは特に必要ありません。

★協 賛: 桐原書店、桐原ユニ、開隆堂出版、研究社出版、文理、

        ミニワールド、世界出版研究センター、DHC、他

  ★備 考: 昼食は会場近くの飲食店をご利用ください。

  ★問合せ: 当セミナーに関するお問い合わせは下記までご連絡ください。

   <山口> 福井貴己 TEL: 0837-29-0834 (学校) 0837-22-8522 (自宅)

   <事 務 局>  谷口幸夫 TEL: 03-3411-8144 (学校) 0423-95-8554 (自宅)

<当日連絡> 事務局・谷口  TEL: 030-31-57899

私はこの日は勤務校の卒業式があるので参加できませんが、このセミナーの成功を心より祈念しています。事務局の福井さん、頑張ってね!


「英語科教育法」のレポートを読んで(1998/2/25)

同クラスの評価のために、学生さんに書いてもらった「書評」と「私の夢の授業案」の二種類のレポートを読みました----ああ、シンド(^^;)。前者で概念的な理解力を、後者で想像力・表現力を評価しようというのが狙いです。(ちなみにこのクラスでは、毎週進むテクスト(英文で10-15ページ前後)の要約の提出も義務づけています。これは端的に英語力を評価するのが狙いです)

印象的なのはやはり学生さんの想像力・表現力が年々向上しているということです。今年は「異性をくどくための英語表現の習得」とか「30才女性のための英語を使っての料り教室」などの実践案が印象的でした。教師としては、そういった奔放な想像力の発揮を学生さんのヴィジョン作りのために奨励しつつも、それを実現させるために必要とされるはずの様々な手立てに目を向けさせ、「夢」を「夢」のままに終わらせないためには、徹底的な具体的手立てと抽象的思考の両方が必要だということを気付かせなければならないと思っています。


英語教師よ、コンピュータで力を手にしよう!(1998/2/25)

「私の夢の授業案」のレポート(形式は自由)を見ていて、感じたことは、絵のうまい学生さんなどは、私から見ればうらやましいの表現力をもっているということでした。できればそういった絵などのソフトはデジタル化してパソコンやサーバーで管理し、後々いろんな人が使えるように標準化しておくといいのではないか、と思います。(この点、私は平本さんhttp://member.nifty.ne.jp/hiramoto/index.htmlの「英語教育にもUNIX精神を!」という主張には賛成しています。

もちろんソフトは画像情報に限りません。テキスト情報もどんどんデジタル標準化して公開すべきだと思いますが、英語教師の使うテキスト情報は著作権の点から、公開しての使用には慎重であるべきものが多いかとも懸念します。自分自身で書いたイラスト教具なら著作権は自分にあるのですから、安心して公開できるとも思います。

コンピュータ・ネットワークを使って、社会のために貢献する人を育て、その恩恵をもって各人がそれぞれにさらなる社会貢献をするような文化を、私たちの力でつくりあげませんか?自己利権・自己保身ばかり考えるエリートに支配される社会はもううんざりです。コンピュータをよりよい社会づくりのために使いましょう!


善意のネットワークと「お金」(1998/2/25)

「英語教育界にもUNIX精神を!」とはいえ、気になるのはUNIXやLinuxにしても、あの希代の経営の達人ビル・ゲイツによるWindowsNTに駆逐されるかもしれない、ということです。すくなくとも私たちはブラウザが、善意にあふれたMosaicから、Netscape Navigatorへ、そしてInternet Explorerと覇権が移動したことを目にしています。もしUNIXやLinuxも有名無実のものになったら、私たちは「利権のネットワークは善意のネットワークを駆逐する」という命題を受け入れなければならないのかもしれません。

しかし独占状態は大多数の人間にとって好ましい状態ではありません。それではいかにして独占状態を排して「善意」のネットワークを発展させるか?

誤解を怖れず私なりの考えを言うなら、それは「善意」のネットワークを運営する人間にお金を支払うということです。このことは97年度のエッセイ「10月10日達人セミナーin松山の感想(97/11/01分)」の「優れた実践者に支援を」でも述べましたが、私は社会のための優れた試みをする人間には経済的にもサポートする社会が好ましいと考えています。「お金を」といっても、多額である必要はなく、それぞれの人間が少額を自分の判断で払うわけです。多様な人が、様々な人々から分散的にincentiveとしてのお金を得る社会の方が、独占業者が多額の金を固定的に得る社会より、はるかに健全な発展が期待できると思います。

こうして「お金」の話をすると、「善意のネットワークに、お金などという『汚い』話を持ち込むなんて」と眉をしかめる人もいるかもしれません。しかし、もしMosaicの逸話が現代の教訓だとしたらどうなのでしょう。また、お金の話をおおっぴらにはしない一方で、もし陰では自分の既得権益をしっかり握って離そうとしていなかったら(あるいはそれに半ば意図的に気付いていなかったら)、私はそちらの方がはるかに「汚い」と思いますが、いかがでしょう。

ある心理カウンセラーは「お金と性をどれだけ品よくオープンに語れるかがその人の成熟度を示す」と言いました。上のような私の提言は、私の下品さを示しているだけなのかもしれませんが、よりよい文化を育てるためには、お金にかかわることもおおっぴらに話し合う必要があると私は思います。

追記:そういえば『ボランタリー経済の誕生』という本も買ったきり、本棚に置いていました。いつか機会を見つけて読もうと思います。


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