随想98a

このページは1998年1/11から2/24までに掲載された随想を集めたものです。

新しい随想が次々に上に来る形態をとっていますので、初めてアクセスされた方は一番下までスクロールされてからお読みになることをお勧めします。

人名に関してはたとえどんな方であろうとも97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しております[実験的に、有名な人名でも例えば「ウィトゲンシュタインさん」などと表記しています(^^)]。

以前からもいろいろな方から様々なコメントを頂いておりましたが、1998/2/18より、私が一人で読んでおくだけではもったいないと思うコメントは、本人の承諾を得た上で、このページで公開してゆきたいと思います(これまでの貴重なコメントも今となってはハードディスク、フロッピー、紙ファイル等の方々に散逸してしまっていることを私は今後悔しています)。

もしコメントがありましたらyanase@ns1.shudo-u.ac.jpまでお願いします。


自己を運びて万法を修証するは?(1998/2/24)

ある所でお会いした方から論文を送っていただきました。その方は、海外研修にいく前と後での大学生の変化を調べたかったのですが、興味深いのはその方法でした。その方は、同じインタビューを(1)ビデオ録画する、(2)オーディオテープ録音する、(3)文字化する、という三つの方法で記録し、かつそれを三種類の人(学生の教師でもある研究者自身、インタビューされた学生自身、外部の観察者)に見せて分析を進めていました。観察者が違えば言うことは違うというのは十分予想できることでしたが、面白かったのは記録媒体が異なると、違ったことがわかってくる、ということでした。

現在の私の研究動機の一つは、過去の自分がやっていた心理言語学的英語教育研究への不満です。この論文を読んで、その不満の一部は、実験心理言語学的研究の多くが、ある種の指標(の実証)だけで、大きなモデルを証明しようとしているところにあるのではないのかなとも思い始めました。

「自己を運びて万法を修証するは迷いとす、万法すすみて自己を修証するは悟りなり」とは道元の言葉です。「自分の考え(モデル)を適用することによって、あらゆる事象を実証しようとする」態度と「あらゆる事象に学ぶことによって、自分の考え(モデル)を作り上げようとする」態度は、両方ともに必要なのかもしれませんが、道元の言葉を借用するまでもなく、英語教育研究には後者の重要性が強調されるべきだと私は考えます。


著作権法第32条「引用」について(1998/2/21)

書くことによって人間は自分を多少なりとも客体視できる、ともいいますが、私も下の「情報移動コストをゼロへ」を書いてから、改めて著作権法を読んでみました。(といっても法律文書は読みにくい(^^;))。といいますのも、自分の「書評」のコーナー(旧題「読書ノート」)が、それぞれの本の著者の著作権をおかすことになるのではないか、少し気になったからでした。著作権法では「引用」に関して次のように規定しています。

(引用)

第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

念のため著作権情報センターへ電話で問い合わせをしてみますと、同センターは「裁判所でないので個々の事例に関する最終的な法的判断は下せないのだが・・・」と断わった上で、「引用」に関しては、乱用を防止するために、次の三つの原則が共通理解としてあると教えてくれました。(以下は、電話を聞いて取った柳瀬のメモに基づく)

(1)必然性:報道、批評、研究などでその引用がされることに必然性がある。

(2)主従関係:報道、批評、研究などの地の文と引用された文の主従関係がはっきりしている。すなわち分量などの点でも、前者が主であり、後者が従である。

(3)文献情報:著者名、本の題名、出版社名などのいわゆる文献情報が明示されている。

これに基づきますと、本の要所を抜粋して----地の文なしに、引用文ばかり集めるということです----誰でもアクセスできるホームページなどに転載するのは、「引用」の乱用ということになると考えられます。

うーん、これは私も認識不足でした。従いまして、私も「トム・ピーターズ名言集」などのファイルは先程サーバーから削除しました。また今後とも書評などでも上のガイドラインに基づいて引用をするように心がけたいと思います。

何度も言いますが、今からの高度知識社会では著作権はますます大切な権利となってゆきます。私も少しずつではありますが、その法の精神を理解し、勉強をしてゆこうと思います。


情報移動コストをゼロへ(1998/2/19)

新しいコーナー「読書ノート」を開設しました。この背後にある考えを説明しますと、それは「情報移動コストを限りなくゼロに減らし、知的活動を知識創造・価値創造へとシフトする」ということになります。

従来の大学の(質の悪い)教育を例にとってみましょう。ごく大ざっぱに(かつ戯画的に)その過程を記述すると、(1)教授が書店にある情報を見て、ある本を購入しその本を読む、(2)教授がその本の要旨を講義ノートに手書きで転写する、(3)教授はその講義ノートを授業で黒板に板書する/あるいは朗読する、(4)学生は必死になってその板書/朗読を自分のノートに転写する、(5)学生はそのノートをもとに勉強する、といったところでしょうか。ここでは大学の教育の少なからずの部分が情報の移動に使われています。私の考えは、この情報の移動のコストをできるだけ減らすことによって、もっとみんな考える時間を作り出そう、というものです。

読書ノートはHTMLによって(2)-(3)-(4)のプロセスを一つにしてみる試みです。学生さんはもっと創造的に時間を使うことができるのではないか、教師としての柳瀬は、ますます加速する知識の陳腐化にあがなうために、これ以上に勉強し、自分の研究の付加価値を高めるようになるのではないか、と楽観しています。

同時にこの試みは研究者への働きかけでもあります。「読書ノート」みたいな試みを(著作権を遵守しながら)多くの人が行えば、読んだ本をまとめただけの報告を「研究発表」として学会で発表することなど恥ずかしくてできなくなります----英語教育界ではまだまだこんな発表も少なくありません。少なくとも私はそのような発表は自分自身の禁じ手としたいと思います。

情報移動コストを限りなくゼロに近づけることによって、各方面の知的レベルを上げる、というのが私の野望的なvisionです。


98年2月15日達人セミナーin広島の感想(1998/2/16)への直井さんのコメント(1998/2/18)

武蔵大学の直井一博さんから同文に関してコメントをもらいました。私だけが独り占めするのは惜しいと思いましたので、ここに本人の許可を得て転載します。

<教師の学習体験に基づく言語学習観>報告にあった諸先生方がそれぞれの授業実践を構成するにあたり、核となるものが これだと思います。不幸なことに教員養成機関で、こうしたことを論じることはまだ まだ少ないのではないでしょうか。古い話ですが、留学時代に履修した応用言語学の セミナーでまずまずはじめに議論したのが「言語の定義」ということでした。自分に とって言語とはどのようなものであり、それにどう向かっていくか(教えていくか) を履修者同士でディスカッションするというものです。言語の構成要素やその機能を 徹底的に話し合った記憶があります。当然ながら議論は「コミュニケーションとは」 という話題にも及びます。教師としてこのような基本概念をおさらいしておくことは 何にもまして大切です。それをふまえた上でそれらの中の何を生徒に体得してもらい たいか。報告されていた実践を繰り広げられた先生方はこのことを体験的に実行され ていると思います。それが前面に出ていないだけのことで、それぞれの実践にはこう した基本的概念に対する先生方の哲学、あるいは暗黙の仮定が読み取れます。  言語学的な言語観も大切でしょう。しかし、それを乗り越えて言語学習観を教師の 側で確立することは教師にとってさらに大切です。報告の中の先生方の言語学習観に 大いに敬意を表すると共に、それらが具体的に実際場面でどのような形をとっている のか、教育研究者として大いに明らかにしなければなりません。

<「楽しさ」を支えるもの>

「楽しさ」についてはこれまであまり真面目に議論されてこなかったと思います。私 見では楽しさにはいくつかの種類があると思います。(相互排他的というわけではあ りません。)

1) 満足できるということ(活動の意味がよくわかり、参加者が自分の中にその活動 の占める位置を見いだすことができること。) 2) 意外性(予想もしなかった展開、発見があること。軽い驚きを伴なう。驚きの内 容は、活動の持つ意味の他に、自分や周囲の人についての発見が含まれると思います。) 3) 自分と活動との関連が看て取れる(「私も参加しているんだ」という意識。) 4) 具体性(一般性、抽象性よりも、すぐに自分との関連を見つけられる。「これは 面白い!」という言い方にもあるように、「これ」として指させる、あるいは容易に 指示できる具体性が大切です。)5) 動機づけにすぐ転移できる(活動自体が面白い、となれば、学習者が残りの道の りを自ら探し出し始めることに連なりやすいでしょう。)

「授業」の前につけられる「楽しい」とか「おもしろい」とか「生き生きとした」といった形容詞も、手垢にまみれたままにせず、一度きちんと洗い直してみる必要があるのかもしれません。さもないと議論がどうも紋切り型で終わってしまいそうです。


「読む主体」、「語る主体」の問題(1998/2/12)への直井さんからのコメント(1998/2/18)

武蔵大学の直井一博さんから同文に関してコメントをもらいました。私だけが独り占めするのは惜しいと思いましたので、ここに本人の許可を得て転載します。

物語にせよ、新聞記事にせよ、一般に何かを語るとき、語り手と読み手が存在しま す。そして特に断りもなく「Aが〜した」と語ったりそれを読んだりします。よく 考えればそれは語り手がある場面に遭遇してそのように把握し、いくつかの可能な 言語表現形式のうちから一つを選んで「Aが〜した」と述べるのであり、読み手も それを暗黙のうちに受け入れていると考えられます。

言語を使えるためにはそのための言葉を使う訓練が不可欠です。英語教育の場で決 定的に不足しているのは、自分の立場で言葉を使うことであると考えます。

毎度のことで恐縮ですが、ITCで学生諸君が何を身につけて嬉しがっている(と 私が見ている)かというと、英語を自分の言葉として語ることだと思うのです。拙 いながらも英語で自分の思うことがなんとか表現でき、その手応えを友人同士で確 かめ合えるということだと思います。自分のことばとして、というところが大切で 、教師から与えられたものでない、自分で表現に先立つ内容を考えてそれを表現形 式に載せて伝えることができる。学生の楽しそうな様子を見ていると、こうした事 柄が少しずつ実感されているのだなと私も実感できます。もちろん、学生がここま で自分の行動を分析的に捉えているとは考えにくいですが。(というのも、皆英語 表現を駆使することで精一杯、というか、じっくり自分を省察しながら英語を話し ているようには見えないからです。)

運用力の高い学生は、英語で冗談やウソめいたことまで言えるようになります。こ れは黒崎さんの指摘にもあった、ある命題の否定を使えることでもあり、また現実 ではないものを仮定して言語を操作できるという段階に達していることを示してい ます。こうなると学生たちが英語で「人間らしい」ことばの使い手になっている、 と見ていて私も実感できます。

語る主体という問題は、本来私たちが日本語での生活で容易に実現している(はず )のことです。しかし、それを妨げる様々な壁があることも事実です。学校や教室 場面では日本語ですら語る主体ということが確立できていないのではないでしょう か。語る主体は「出る杭」として排除する傾向すらあります。自分が受け容れられ (て)いる、いないという認識は大きいと思います。自分が基本的に受け容れられ ていない場で、誰が思うことを自由に語るでしょうか。

こうした、私が直感的に感じる事柄はそれなりに大切なのでしょうか、それをどの ように概念化して教育的言説に組み込んでいくかは、私たちの大きな課題だと、直 井も考えます。

直井さんはITC(いわゆる「英語合宿」の運営に携わり、同時にその英語教育的意義を研究題材にしようとして私たちと共同研究しています。共同研究はまだ始まったばかりですが、少しでも形にしてゆきたいと思っています。


98年2月15日達人セミナーin広島の感想(1998/2/16)への津田さんのコメント(1998/2/18)

元・『現代英語教育』編集者の津田正さんから同文に関してコメントをもらいました。私だけが独り占めするのは惜しいと思いましたので、ここに本人の許可を得て転載します。

「先日お話をさせていただいたある方は、差別問題に関しては実に鋭敏な感 性でもって怒りを表している一方で、『著作権なんて無視して、バンバンやってゆけ ばいいんだよ』と言っていました」というところですが、こういう人って、まだいる んですね。著作権問題は我々編集者にとって非常に面倒臭いものではあるし、行き過 ぎがある部分もないではありません。たった3行の歌詞を引用するだけでも許可を求 めないといけない状況は、歌詞がいったん公になった場合、それはもうすでに個々人 のものでもある、というように私は考えるので、日本音楽著作権協会の方針には反対 です。しかし、客観的に見て、教員のおける著作権意識の欠如は、もうあきれるほど と言っていいです。雑誌の記事をファックスで送れ、と突然言ってくる人は少なくて も私は10人経験しているし(これが読者ならまだしも、どこかでちょっと読んだもの を思い出して言っているだけ。しかも、仕方がないので、送っても、何らのお返事も ない)、出版物の違法コピーはあまりに多いです。あまり言いたくはありませんし、 その状況を作り出した一端は、出版社のサービス合戦にもあるので、言いにくい部分 もありますが、教員は「もらい慣れ」すぎているのです。  

私はこの雑誌を担当することになる7年前、小学館で長く学年誌をやっていたある 方から、「教員にモノをあげてはいけない。またどんどん要求するから」とアドバイ スされました。著作権については、教員に特別のセミナーが必要と思うくらいです。

津田さんは「辛辣な言い方ですし、我々とてスネに傷がまったくないわけではないのですが、本音なので載せていただ いて結構です」と言って、転載を許可してくれました。これからの高度知識社会・情報社会で、著作権に代表されるような知的権利を軽視すると、結局は社会全体が損をしてしまうと思います。私も少しずつ考えを深めてゆきたいと思います。

次は、大学教員にも積極的に参加して欲しい、というセミナーの話。まったく同感 。海老坂武という学者(フランス文学)の本に書いてあることですが、M.フーコーという人は、市民運動の集会などで、別にゲストとして呼ばれていなくても、参加し、そして、後ろの方に立ってメモをとっていたそうです。何でもないふつうの市民として参加していたのです。海老坂氏はそれを目撃して感動した、と書いています。英語教育の世界に必要なのは、フーコーのような知的な巨人だけではなくて、市井の人として行動できるフーコーのような存在なのです。『指導講師』として呼ばれなくても、あるいは自分が属しているわけではない研 究会であっても、自主的に研究会に参加して、じっと研究授業をみ、メモをとり、誰 にも知られずそっと家に帰り、それを自らの研究に生かしているというような大学教師。そういう人は一体どのくらいいるのでしょうか

この指摘は私にとってもきついです。私なら、黙っていればいいところを、何か一言目立つために言ってしまいそう(^^;)。そんな人を防ぐためにも、私は自分が司会をする時は、可能な限り、質問者に所属・氏名を言わせないようにしているのですが・・・


津田正さんの業績(1998/2/18)

1998年3月号で『現代英語教育』の編集から研究社内の他の部門に移った津田さんの業績について少し書きたいと思います。

ですが、その前に津田さんと私の関係について無駄話を少々。

最初は私は津田さんが編集長ということを意識していませんでした。ただ「『現代英語教育』は最近おもしろくなったな。(魚)さん[=津田さんのペンネーム]の編集後記は的確だな」とは思っていました。(考えてみれば、雑誌で編集長の存在を良い意味で意識したのは『噂の真相』と最近の『現代英語教育』だけでした)。

1994年に私は『模倣の原理と外国語習得』という本をまとめました。当時は「どうせこんなの書いたって、私の他の論文と同じで、黙殺されるだけだろうな」と半ば自棄になりながらも方々に送付していました(著者の権利で50冊は無料でもらえたのです)。はたせるかなあまり反応がなかった中、一本の電話は私を勇気づけました。

「もしもし研究社『現代英語教育』の編集の津田といいます。はじめまして。著書の送付ありがとうございました。残念ながら編集の方針上、送ってもらった著書を雑誌で取り上げることはできませんが、これに限らず、先生の論文は読んでいます。スタイルは独特で用語は難しいけど、言っていることは結構[いい意味で]当り前のことですよね。とりいそぎお礼まで」といったものでした。今までの研究生活の中でも最も嬉しかった瞬間の一つでした。

実は私は見知らぬ人に、「読みました」といわれるのが実は一番嬉しいです。その人は私の作品を、義理・縁故関係からではなく、個人の作品として読んで評価してくれたからです。津田さんとはそれからが始まりで、私はその後しばらくしての「英語教育学界“大人”養成講座」を皮切りに、何度か同誌に記事を書く機会をいただきました。

このように私は津田さんにいわば「発掘され」「育てられた」わけですが----それまで「君の書くことはよくわからん」等とばかり言われていた人間が、全国メディアに書いてみませんか、と言われた時の気持ちをご想像ください----、ここに津田さんの業績を書くのは、そのような個人的な理由からではありません。おそらくは、全国にちらばる数多くの読者と同様に、私は以下のような点を津田さんの編集の特徴として同誌を楽しんだからです。

(1)実践を軽視しない:英語教育界は結構保守的で、また真面目な先生が多いわけですから、無難に売り上げを落とさない雑誌をつくろうと思えば、大学の先生方による「海外研究最前線」みたいな記事を重視しておけばいいのかもしれませんが、津田さんは最初の1991年4月号の特集「<実践的>英語教育再入門」から最後の1998年3月号の特集「英語教育博覧会」に至るまで、一貫して現場のいわば「泥臭い」実践を軽視せず、積極的にとりあげてきました。「最後の特集では、人間的で泥臭く、生徒と一緒になって授業を作っているような先生方にご執筆いただきました。結局、私はそういう先生にこそ魅力を感じてきたからです」とは津田さんの最後の編集後記の一節でした。

(2)「困難校」の重視:確信はもてないのですが、それまでの英語教育とは、どこかエリートのもの、といった先入観がなかったでしょうか。津田さんは「しかし、困難校の英語教育を論ずることには、もう一つの重要な意味があります。日本の英語教育の歪み、矛盾が集中的に現れているのが困難校だという見方もできるからです」(1991年10月号)と述べ、1991年10月号の特集「「困難校」の英語教育」、1992年10月号の特集「続・「困難校」の英語教育」、1994年10月号の特集「英語教育以前の問題」、1996年12月号の特集「英語が全然わからない」というように何度も特集を組んでいます。「過去7年間、一番印象に残っている記事は何かと問われたら、私は躊躇なく、1991年10月号の「授業の「荒れ」にどう対処するか」[三浦孝さんの記事]を挙げます。」とは1998年2月号の編集後記ですし、また「生徒の顔を思い浮かべるとは従って、非常に具体的な行動であって、例えばそれは「生徒」というような何か抽象的な存在を思い浮かべることではないのです。教師はおそらく生徒という存在を裏切ることは出来ても、生徒の顔は裏切れないのではないでしょうか。なぜなら、もし教師がある生徒を裏切ろうとした時、その生徒の顔は、目の前で非常に具体的な形で歪むからです。あの子の顔、この子の顔というように、一つずつ生徒の顔を思い浮かべること。その教育的意義ははかり知れないと思います」という1994年10月号の編集後記は、私は今でもそれを読んだときの強い印象----「おお-っ、レヴィナス的指摘!」----を忘れることができないものです。

(3)受験の現実を無視しない:現実とは裏腹に「英語教育界」は、どこか受験界の出来事を「裏の世界」とみなすところが(今でも)あります。津田さんは、1993年1月号の特集「受験参考書の現在」----私はこの号は今でもよく覚えています----、1993年10月号での「それにしてもクジラの構文というのは、考えれば考えるほど奇怪な文章で、それがこれほど長年にわたり、英語教育の世界で語り継がれているというのは、驚くべき事態だと思います」という指摘、1993年12月号での「昭和28年発行の「英語教育」誌を見ていたら、「昭和28年度大学入試問題批判」というような特集が組まれていて、大学入試批判はずいぶん昔からあるんだなと驚きました。それから40年、今も大学入試は批判の対象となっているわけで、それだけ入試の中身も変わっていないということでしょうが、変わっていないのはそれを批判する側のスタイルもそうなのではないでしょうか。ざっくばらんに言って、怒っているか嘆いているかで、しかも今やその怒り・嘆きが生気を失って凍り付いているのです」、1997年5月号特集の「「伊藤和夫」の業績」および「ところで[伊藤]先生は言っておられました。大学の教師は偉そうな理想論を言うくせに、入学問題の正答も採点基準も示さない大学が何と多いことか、と。偉大なる「受験屋」のこの辛辣な言葉をどうか真剣に考えて欲しいと思います」という指摘などで、「裏世界」の市民権を確立しようとしてきました。

(4)社会的な問題を取り上げる:今でこそ大修館書店の『英語教育』も「アジアの英語」といった特集を組むようになりましたが、以前の英語教育界は社会的な問題にはどこか無関心だったと思います。津田さんは、最初の号から中村敬さんによる新連載「英語教育のイデオロギー」をはじめたり、1991年7月号の特集「英語教師のコクサイ化」では、「今月の特集は、「英語」教育というよりは、「社会」教育、あるいは「道徳」教育の範疇に入るような内容になっています。コクサイ化の問題を考える時、まず問題になるのは他者や社会に対する心の在り方や姿勢にほかならないと信じるからです」、「否定的な側面ばかり強調するつもりはありませんが、国際理解の問題を論じる時の口調があまりに楽観的過ぎる人間が多いと感じるのは、私の偏見でしょうか」と述べ、私たちがともすれば陥りがちな一本調子に釘をさしました。1992年4月号からの新連載「英語教育をめぐる現代日本的諸問題」、特に末延岑生さんの第1回も強烈でしたし、同年7月号特集の「広域採択制を注視せよ!」なども「業界のタブー」に触れかねない特集だったのではないかと私は思っています。一方で、1993年7月号の「あるビデオ英語教材会社の方が「業者と言われるとがっかりする」と言っていたことがあります。「自分としては英語の先生方とアプローチは違うものの、同じように英語教育の仕事に携わっているのに…」という言葉が印象的でした」という指摘などをしながら、1994年2月号特集の「英語教育と韓国・朝鮮」、1995年3月号特集の「「英語帝国主義」を考える」と社会的な視点を維持し続けました。

(5)偽善への警戒:上のような特徴からもわかるように、津田さんは「私自身、「これからの…」という言葉を特集の題名に使ったことがなかった、いや敢えて使わないようにしてきました。ついでにいうと、「転換期を迎えた…」「楽しい…」「役に立つ…」「生き生きした…」「子供」という言葉も、私にとっては禁止用語になっているのですが、今月とうとう禁止用語第二水準(!?)に属する「創造的に」という言葉を使ってしまいました」(1993年4月号)、「授業準備の負担を軽くするために」という議論はありますが、「手抜き」といわないところが生ぬるい。教育において「手抜き」はあってはならないという「良心」(これに「ギゼン」とルビを振る)が、「手抜き」と言い切ることを躊躇させているのでしょうが、こういう「良心」的な言い方が、徹底的に合理的に「省力化」を考えていることを妨げているという側面もあると思います」(1993年9月号)などと述べ、常に「善意」の危険性への警戒を怠っていなかったような気がします。「1) 英語について知っているから、あるいは英語が上手だからと言って英語がうまく教えられるとは限らない。2)英語について知らないのに英語が教えられるわけがない。3)英語の運用力がないのに英語は教えられない----というようなことを聞きますが、問題は誰がそれを言っているかです。というのも1)は英語教育学者が、2)は英語学者が、3)は英語運用力に自信のある人(native speakerを含む)がよく使う理屈のように思われるからです。(略)一見客観的に見える正論の蔭にも、かならず私情や自己正当化の意識が絡みついているものです。そのあたりをいつも監視しておくことは、不毛な足の引っ張り合いをなくすためにも必要な作業ではないでしょうか」という1995年8月号の指摘も私の記憶に残っていたものでした。

(6)ユーモア:最後に、津田さんの雑誌で私はこの特徴が一番好きだったのですが、津田さんはどこかで記事に遊び心を入れてゆきました。1993年4月号からの連載「英語教育探偵団」、1997年4月号からの連載「月刊新聞あかるい学級」などはその好例だと思います。

津田さんは批判精神・自己省察に長けた人ですから、私がこのようなまとめをすることをひょっとしたら好まないかもしれませんが、私は「評価すべきことはきちんと評価する」ということを自分の方針としたいと考えていますので、このようにまとめた次第です。このように評価する人間がいるということは、ひょっとしたら津田さんの編集方針を嫌った人もいるのかもしれません(特に良い意味でも悪い意味でも権威主義的な方々)。ですが、私は以上のような点で評価します。皆さんはいかがですか。

追記:中・高・大を問わず、「えっ、こんな熱心な先生までもが!?」と驚くほどに、英語教育の雑誌は購読されていません。ここでは津田さんだけを取り上げましたが、英語教育界には目立たないところで着実に努力を重ねている人がいます。誠実な努力には、できるだけ自分の時間とお金でもって評価をしてゆきませんか?

追追記:最後に津田さんに注文をすることが許されるなら、津田さんが取り上げた現場の先生の実践記事を再編集、再構成して単行本にしてほしいということです。従来の記事を再録するだけでなく、できればインタビュー、取材などを行って、現場の「泥臭い」英語教師を取り上げた本をつくり、それにISBNをつけることは文化的事業だと思います。もちろん単行本というのは採算が取れないとできない仕事でしょうが、みなさん、このような本なら買って、同僚・学生などに読ませたいと思いませんか?やや無責任に扇動しますが、みなさん、もしこの企画に賛同なさってくださるのなら研究社に「そんな本がでたら○冊は買うぞ」という約束----そのかわり必ず守らなければなりませんをe-mailや手紙で送ってくれませんか?少なくとも、このままでは全国の生きた文化遺産が再び忘れ去られ、英語教育の世界はまた勇気や希望を失いかねません。みなさん、自分が一番よいと思う行動を思いきってやってくれませんか?


研究者はどこを向いて研究をしているのか----98年2月15日達人セミナーin広島の感想(1)----(1998/2/16)

同日10:30から17:00まで扇屋(広島市南区段原南1-19-9)で同セミナーが行われました。その前の日の福山が31名、同日の広島が72名の参加者を集めました(それぞれ講師・関係者を除く)。まったくの強制力も義理もない、自発的な集まりにこれだけの教員が集まったのは、私は驚くべきことだと思います。といいますのも、大学の「英語教育研究者」が自発的にセミナーを開き----権力・義理によって動員するセミナーではない、という意味です----これだけの人数を多種多様に集め、一睡もさせず、最後まで活発な参加を期待できるかどうかについて、私は心もとなく思うからです。私も含めた「英語教育研究者」は猛省するべきだと思います。

と同時に「もっと大学の教員にこういったセミナーに参加してほしい。現場の教員は理論や洞察を求めている」という声も複数の方から聞きました。中、高の教員だけでなく大学の教員も、もっとこういった集まりに参加してほしいと思います(また塾や予備校の教員ももっと来ていただけるとありがたいです)。広島でセミナーをおこなって、遠くは鳥取県や高知県から自腹を切って参加者が来るということは、現場教員の熱心さと共に、教師教育の状況の貧困さを物語っているとも思います。このような状況を大学の「英語教育研究者」は黙殺してはいけないと思います。

そもそも研究者はどこを向いて研究しているのでしょうか。達人セミナーなどの集まりでお会いする先生は、しばしば「私は生徒を向いて授業をしている。生徒を決して見捨てない」と誇りをもって発言しています。このような発言があるということは、逆にいうと実際は、他の少なからずの教師が自らの生徒を「あいつらはどうしようもない奴らだから」といって見捨てている現状があるからだと私は考えます。また少なからずの研究者も、「教育現場を扱っても業績にも何もならないから」といって見捨てているのではないでしょうか。

現在の日本の英語教育界では、「研究者が実践者を見捨て、実践者が生徒を見捨てる」状況になりさがっているのではないでしょうか。研究者も実践者も「上」(=権力者・お上・居心地のよい地位、等など)ばかりを見て、現場そして生徒を向いていないとはいえないでしょうか。研究者そして実践者はどこを向いて研究・教育をしているのでしょうか。「上」でしょうか。地位や業績認定を与えてくれる「指導教官」でしょうか。既得権益を共有する「身内」でしょうか。それともどこの誰とも目を合わせず、ひたすらに自分の原稿と業績表だけを見ているのでしょうか。

権力を社会から信託された人間が、自らの保身と「身内」の安泰ばかりを考え、権力をもたざる人間を黙殺する社会は、品位も何もない最低の社会だと思います。もしこの私の認識が正しいのなら、私はこのような権力構造に対しては、粘り強く怒り続けたいと思います。研究者の身分、すなわち予算と権限は、社会のためにあるものです。権力の恣意的使用は許してはいけません。

追記:大阪府長吉高校の菅正隆さんは、「教育は上を向いてするものでなく、生徒を向いてするもの」と言いました。私はこの言葉を何よりも自分を戒めるために覚えておきたいと思います。偉そうに上のような批判をする私にも「上」を向く傾向があるからです。


田尻悟郎さんの授業----98年2月15日達人セミナーin広島の感想(2)----(1998/2/16)

同セミナーで田尻悟郎さんの「生徒の間違いに学ぶ----自学帳の指導を通して」を一時間にわたって聞きました。一時間ではとても足りないぐらいでした。田尻さんの話を聞く機会があれば、是非万障繰り上げて参加することを私は心からお勧めします。

最近よく痛感することですが、優れた実践は、活字だけではなかなかわかりません。田尻さんのことは私もThe Daily Yomiuriや『現代英語教育』(島根大学の築道さんの熱のこもった紹介(2月号)と田尻さん自身の記事(3月号))を通じてある程度は知っていましたが、やはりお会いして長い時間をかけて話を聞かないとその凄さはわかりませんでした。とはいえ、「英語教育研究」を志向する人間の一人としては、そう感嘆しているばかりではいけないので、以下田尻さんの実践を私なりにできるだけ言語化してゆきたいと思います。

優れた実践者がしばしばそうであるように、田尻さんもいわゆる「経営困難校」(田尻さんの場合は中学校)に偶然配属されました。授業に行くと男子がいません。みんな体育館へ行っているのです。半分はバスケットをやっているのですが、半分はいじめられて泣いている状況でした。教師が「生徒の面倒をみてやろう」としても生徒は「どうせ俺は見捨てられている」「ほっておいてくれ」という始末でした。教室に集めても、生徒は5分も集中できません。ほとんどノートもとれない状況でした。

そういった中、田尻さんは、大分大学教育学部教授の柳井さんから「『自学帳』を中学英語でも使ってみたらどうだろう」という示唆を受けました。転機はそこからはじまりました。

その自学帳を田尻さんはセミナーにもってきてくれました。生徒が自発的に書いた英語による自己表現のノートです(田尻さんは、生徒のノートをcategoryAからDまでの4種類用意させています)。この自学帳の実物を見てください。口が開いてしまうぐらいびっくりするはずです。生徒が、何ということもなかったはずの普通の生徒が、大学受験生が真っ青になるぐらいの分量の英文を書き、自分の世界をつくりあげています。色とりどりのイラストに飾られた自学帳は、なんだか芸術的でもあり、セミナーにいた全教師が驚愕したといっても過言ではないと思います。

田尻さんは「教師は支援するだけ」と言います。自学帳はどんどん変化し、良質なものになったそうです。「生徒の持つ力は無限」とはよく言われる台詞ですが、田尻さんは見事にそれを「実証」しています(注1)。

最初、この自学帳は、生徒指導への効果が大きかったそうです。女子が最初に始め、女子が男子を引っ張り始めたそうです。その結果、松江までバスで2300円もかかる、塾が一軒もない地方の中学校で、英語検定3級に6割、4級8割が合格するようになりました。

英語教育研究者の皆さん、これでも田尻さんの実践は「非学問的」だから無視していいものでしょうか。「非学問的」とは、むしろそのようにして狭い自分の既成概念に固執する私たち英語教育研究者の態度そのもののことなのではないでしょうか。私たちはもう一度、教育現場を理論化するための観察の努力をするべきなのではないでしょうか。

本題に戻ります。田尻さんが語る話はとても具体的でした。"He can math"といった間違いはcanを「できる」と説明することから「・・・することができる」に変えるだけで少なくなる、becauseも「・・・だから」から「だって・・・だから」と説明を変えるとsoとの混同が減る、一年生は4割ぐらいが書き移しで間違いをしている、などと具体的エピソードが満載でした。この具体性こそは本当に実力がある人の特徴だと私は考えます。

英語による自己表現に関しては、話したい内容を持っていることと、語順を間違えないことの二つが重要だと田尻さんは主張します。

「だれが/は」「どうする」「何を/に」「どのように」「どこ」「いつ」「なぜ」(例、John /play /tennis/ like Becker/ in the park/ after school.)といった英語の語順のロジックを田尻さんは、色分けした軍手で指示します。右手は重要な要素、左手は前置詞ではじまる要素、と使い分けています。田尻さんは、最初に、現物を示してin the book, on the book, in front of the bookなどと散々ゲームでやります。「前置詞」という言葉を出すのは、そのずっと後です。田尻さんは必然的に単語を使わざるを得ない状況をもたらすわけです。そうすれば、生徒は語彙が多いことに困難を感じないとも田尻さんは言います。

次にデモを行ったのは「パンチゲーム」です。「中学一年生に理由はいらない」と田尻さんは言います。お互いに楽しんで英語(の断片)を口走るのです。そしてこの「パンチゲーム」は2年生になれば時制の変化などへと発展して行くのですが、田尻さんは本当に中学生の認知的特徴を自然とつかんでいるように思えました。

そういった田尻さんの授業を私なりにまとめるなら、次のようなものになります。

(1) ゲームにより身体での「体得」を先行させる

(2) 比喩・エピソード(「桃太郎伝説」)を一貫した方便として使って説明する。言語学的に「正しい」説明にはこだわらない。

(3) 身体での「体得」と比喩・エピソードの融合により、生徒を「納得・満足」させる。

(4) 語順のパターンを色わけした軍手で徹底させる。

(5) 語順のパターンを組み合わせることによって多種多様の文ができることを示し、生徒にやらせる。

(6)そうして言語(英語)を使用させ、言語使用により創造的な自己表現を生徒にどんどんやらせる。

「いきなり自己表現をやらせようとしても無理」、「トピックは細分化しろ、次に語順」、「モデルと小さなステップが創造性を生む」とは田尻さんの言葉ですが、実際そのような授業実践の中からでき上がってきた、生徒の自学ノートの出来は、先程も言いましたように息を飲むほどです。

このような見事な実践に対して、おそらく最も安直なコメントは「“正しい”文法説明をしないのはいかがなものか」といったものです。しかし、もしこのような田尻さんのようなやり方こそが、人間の外国語の理解・認知発達の様子だとしたらどうなのでしょうか。「正しい」説明の「正しさ」とは何に由来しているのでしょうか。少なくとも私には、田尻さんの実践は知的にチャレンジングな、わくわくする程の現象でした(注2)。

教師、研究者の一人一人が「上」ではなく、生徒を向いたら、そして向き続けることを諦めなかったら、この日本はずっと住みやすい場所になると思います。

発表が終わって、田尻さんとお互いに約束しあったのですが、私はいつか(いつまでに、とは明確に言い切れませんが)この田尻さんの実践をもっと観察し、きちんと分析して論文にしたいと思います。しかしもちろんのこと、田尻さんの実践は、一定の研究者の占有物ではありません。他の研究者の方もどんどん田尻さんの実践に注目してください。そして研究者の方々、お互いに自分の研究をもって競いあってゆきましょう。

(注1):「実証」とは実験をすることだけに限らないと私は考えます。「実証!実験!!」とばかり叫び続けるのを聞いていると、なんだか頭の固いイデオロギー集団を相手にしているみたいで私はいやです。そもそも「実証」が「検証」(verification)もしくは「反証」(falsification)の意味だけで使われているのならそれは科学哲学の考えからして、時代遅れの認識だと思います。(この論点は「英語教育研究のリエンジニアリングVer.2」である程度扱っていますが、今後もう少しきちんと論じたいと思っています)。

(注2):田尻さんの方針は「結果規準」という言葉でも総括できるかとも私は考えています。あくまでも結果がでるかどうか(=生徒ができるようになるかどうか)を規準に物事を判断し実行しているからです。この「結果規準」に対する言葉は「推定規準」とでもなりましょうか。「推定規準」とは、(たまたま)自分が持っている理論から、この規準を満たせばうまくいっているはずだ、いやそうであるに違いない、と推定することによって物事を判断し実行するやり方です。従来の英語教育界には、「文法をきちんと教えれば英語使用もうまくいくはずだ。いやそれ以外に考えようがない」や、「心理的過程を解明すれば英語教育は改善できる。いやそれ以外に方法が考えられようか」といった推定規準で物事を判断し実行することが多かったのではないか、と思います。私はそういった理論的思い込み(=偏見)が、時にいかに物事を見誤らせるか、ということに関しては、ウィトゲンシュタインさんの哲学からいろいろと教えられたつもりです。

追記:田尻さんの実践は、研究社の『現代英語教育1998年3月号』や明治図書の『英語科自学のシステムマニュアル』でも知ることができます。また広島修道大学の経済科学部で英語を教える田地野彰さん----この人は、柔軟な頭をもちしかも人格円満な素晴しい人です。こういった人がどんどん日本の英語教育界の前面に出てほしいと私は常々思っています----も語順に関して田尻さんと同じようなことを主張しています(講談社『英会話への最短距離』)。合わせてご一読をお勧めします。


原戸さん、藤井さん、長さんの報告----98年2月15日達人セミナーin広島の感想(3)----(1998/2/16)

原戸恵美さん(大竹市立大竹中学)は、「楽しいCreative Writingのすすめ」を報告しました。罫線のない無地ノートに書かせた生徒のcreative writingは「振り返ると自分の成長の後が見える」ものになっています。写真の切り抜きなども自由にノートに貼らせていますが、「切り抜きをもってこさせるだけで意欲が伸びる」と原戸さんはいいます。

原戸さんの報告を聞いて私が感じたのは、画像情報といった非言語表現の力でした。古いタイプの英語教育では、言語から言語への変換(例、「次の日本語を英語に直せ」)が主流でした。次に出てきたのが、非言語的世界の言語化でした(例、「次の漫画で表されているストーリーを英語で表現しなさい」)。ですが原戸さんの生徒のノートは----田尻さんの生徒のノートもそうでしたが----非言語表現(画像・色・構成)と言語表現が見事に棲み分けています。お互いがお互いを補って、ユニークな自己表現の世界を作り上げています。

考えてみたら日常の言語表現もすべてそうではないでしょうか。話し言葉では、顔の表情や声の調子などの非言語表現が重要にして不可欠な役割をはたしています。書き言葉においては世界への参照がこれまた重要にして不可欠な役割をはたしています。英語教育においても非言語表現の重要性を今以上に認識すべきではないでしょうか。「言語」は「言語」だけでは表現たりえないと思います。

原戸さんの報告で感じたもう一つのことは、教育関心の中心はやはり「人格」ということです。生徒の人格を中心に考えてこそ、言語表現もひろがるように私は思いましたが、みなさんいかがでしょう。

藤井哲也さん(大分市立大分中学)は「ディベートを使った積極的な言語活動のコツ」の報告を行いました。時間が30分しかなかったので、実践技術の説明だけで終わったのは残念な限りです-----研究発表も、実践報告も最低一時間を基準の時間とすることを私は提言したいと思います----。

「OKチップス」という小道具は、「グッドモーニング」と言ってもしらけられてしまう雰囲気を打ち破るために導入したものです。カード交換(card exchange)というゲームは、自然な言語使用のための布石です。二日間のセミナーを通じて、私は小道具やゲームの重要性を再認識しました。ディベートといった創造的なことを行わせるまでには周到な準備が必要です。

セミナーの最後は長勝彦さん(墨田区教育委員会)によるワークショップでした。食べ物などの基礎語彙がないこと、文部省の「1000語程度」という規制のせいで、野菜はvegetable、魚はfishでしかなく、ナス、ブリ、サンマなどを表す英単語が教科書に出せないこと、文部省の語彙制限と自己表現の推進の間には深刻な矛盾があること、自己表現活動の中では語彙をどんどん与えることは決して学習の障害にはならないこと(むしろ事態は逆)といった主張は、十分うなずけるものでした。ここでも教育の具体的問題が、権力の行使に関する問題と密接にかかわっていることを再認識しました。

長さんの実践ではビンゴが有名です。ですがこれは単なる子供だましのテクニックではありません。「音声からの導入」、「自然に集中させる仕掛け」、「できる子が必ずしもトップになるとも限らない(運の導入、slow learnerへの配慮)」といったのはその背後にある考えの一部です。経験の中から編み出された授業技術には深いものがあります。

長さんのようなレベルでは、授業行為が相当な程度にまで凝縮されています。一人一人の教師と研究者が謙虚にこういった「泥臭い」(!?)実践に学べば日本の英語教育もずいぶんよくなると私は思います。


「ゲーム」に関する覚え書----98年2月15日達人セミナーin広島の感想(4)----(1998/2/16)

二日間のセミナーを感じて痛感したのは、創造的な言語使用にいたるためには、実に周到な準備が必要だということです。その中でも、適切なゲームを作り、授業に導入することは、非常に重要なことだと思いはじめました。以下に掲載するのは、今後ともに論考を深めるために現時点で暫定的に公開する、「ゲーム」の定義です。ご意見などを伺えたら幸いです。

ゲーム:お互いに楽しい時間を共有するための仕掛けであり、複数の制約(規則)から構成される。機能面からいうと、よいパフォーマンスを出さざるを得ない状況にもちこむ仕掛け、とも言える。複数の制約の組み合わせにより、展開が、理解できるが予測はできないものになる。制約・仕掛けそのものは珍しいものである必要はないが、ゲームの発展はしばしば新鮮なものとして認識され、これが「楽しさ」の源泉となる。

Creativityはそういった制約があって初めて実践されるし、またそもそも認識もされる。ゲームという仕掛けはcreativityの自由度を私たちが扱える程度に縮減する。

追記:インターネット社会での試行として、できるだけ私は自分が得た知識を、皆さんに共有できる形にして公開するように努めています。お互いがそのようにして知を共有すれば、社会全体の知的レベルが向上するのではないか、というのが私の考えです。しかしある方から「柳瀬さんのやり方だと、アイデアを盗まれるだけで、柳瀬さんは無駄骨をおるだけだよ」という忠告をいただきました。実際、私が単にお人好しなことをしているだけなのか、自己満足をしているだけなのか、私にはわかりかねていますが、当面はこの知の共有という試行を続けてゆきたいと思います。いずれにせよ、情報社会において、著作権は今まで以上に重要な権利になってゆくと思います。私のこのホームページに関しては、私の名前を出してくだされば、自由にコピーしてくださって結構ですが、著作権に関してはお互いきちんと考えてゆくべきだと考えます。先日お話をさせていただいたある方は、差別問題に関しては実に鋭敏な感性でもって怒りを表している一方で、「著作権なんて無視して、バンバンやってゆけばいいんだよ」と言っていましたが、私はその意見には賛成しません。


2月14日英語教育達人セミナーin福山の感想(1998/2/14)

広島県福山市市民会館で行われた同セミナーの感想を取り急ぎお伝えします。

主な講師は菅正隆さん(大阪府長吉高校)と長勝彦さん(墨田区教育委員会)でした。

菅さんの話を聞くのは私は二回目、長さんは初めてでした。現場でいわば身を張ってきた人の話は本当に深いです。二回目で、ようやくわかりかけてきたこともあります。長さんの話はせめて明日もう一度聞きたいと心底思いました。以下に書きますのはそのお二人に共通する特徴を私なりにまとめたものですが、やや菅さんのほうに記述の主眼は置かれています。

お二人の特徴は、まず時間意識が先鋭なことです。それぞれ首にストップウォッチをぶらさげ、「10秒で何ができるか」「三分間でどれだけのことが可能か」といった発言を重ねていました。実際、お二人の実践やビデオを見ると、それらのすき間時間で、どれだけ生徒が集中し、授業に向かう姿勢ができるか、ということが示され、改めて日頃の自分が時間感覚に鈍感であるかを思い知らされます。

次に気付かされたのは舞台意識です。これは教師には当り前の前提なのかもしれませんが、教師は人前でのしゃべりを職業としているわけです。従いましてそのしゃべり方は、いい意味で職業的なもの、機能的なものであるべきです。お二人ともに、視線の取り方、間合いの取り方、体をどう向けるか、といった点での意識が徹底しており、あたかも舞台に立つ役者のようでした。「教師が日頃話しているように話してどこが悪いの」というのはあまりにも素朴な考えなのではないかと私は思います。

次に言いたいのは目的意識の確かさです。後で述べますが、二人ともそれぞれの目的を明確に把握した上で授業を進めています。他人がやっているのが面白そうだったから真似している、などという安直な態度はお二人には無縁です。

次の特徴は小道具の自作です。これも後述しますが、お二人とも自分の力を何倍、何十倍にするために小道具を自作しています。既成品を絶対に使わない、というわけではないのですが、自分にとって一番使いやすいものを使うために、お二人はあえてさまざまな小道具を自らの手で作っているわけです。

最後の特徴は、出演者(=生徒)への気配りです。実に細かく柔軟に自分の授業に参加してくれる出演者(=生徒)へ配慮をしています。

以上のような特徴を確認しながら、私は「番組プロデューサーとしての教師」という比喩がお二人の授業(とくに菅さんの授業)を説明できるのではないかと考えました。。

この場合の「番組」とは、例えば長さんなら「質の高い授業を毎回保証するための一連の仕掛け」であり、菅さんなら「お互い楽しみながらcreativeな出会いをつくるための定番的仕掛け」のことです。

もし私たちが授業の度毎に授業をゼロから作り上げなければならないのなら、授業準備に追われてとても毎日まともな授業をすることをすることはできないでしょう。「番組」とは、そこに生徒を参加させて、ある程度の水準までは必ず満足させるようにするだけの仕掛けをした一連の授業行為の連続のことなのです。

そういった長さんの目的意識に対して、菅さんの目的は「英語を通じてお互い楽しむ」であることのようにも思えました。「楽しむ、なんて教育困難校特有のことだね」などという皮肉な声も聞こえてきそうですが、でもそもそもコミュニケーションは何のためにあるのでしょうか。まっさきにあがるのが、「情報伝達のため」という声です。人によっては情報伝達をもってコミュニケーションの議論を終える人もいますが、まあその他にも(感情の)表出機能や社交的機能をあげる論者もいますし、ウィトゲンシュタインなら20あまりの機能をあげ、その他にもある、とコミュニケーションの機能がopen-endedであることを示唆したりしています。しかし乱暴を承知でいうなら、コミュニケーションとは「お互いに楽しむため」といってもいい側面が多いのではないかと私は思います。授業実践者の間ではよく「授業でコミュニケーションをやろうとしても、それは嘘っぽく、どうしてもauthenticなコミュニケーションにならない」という声が聞こえます。しかしコミュニケーションを「お互いが(言語使用を通じて)楽しむためのもの」と捉えると案外自然なコミュニケーションが授業でも実現するのではないか、と私は菅さんの授業を見ながら考えました。

いずれにせよ、お二人ともそれぞれの目的意識にしたがって授業という「番組」をプロデュースします。そのステップは私が推定するところ、次のようなものです。

(1)アイデアを思い付きます:日常生活の小道具、たとえば絵葉書などから、これを授業に使えるのではないかといったことを思いつくわけです。

(2)パターンにまとめます:そのアイデアを生徒にスムーズにやってもらえるように、一連のパターンにまとめて、授業中の小さなネタとして試行錯誤を重ねます。

(3)システム化します:(2)の試行錯誤で、うまくいくパターンの組み合わせがわかってきますから、こんどはそのわかった黄金パターンをフォトコピーなどを多用して、すぐに自分の授業に部分的に導入できる「システム」にしてしまうのです。いったんシステム化し、そのコピーを沢山もっていたら、いろいろな状況下でその黄金パターンを簡単に再現できるようになります。

(4)さらにメディアを使いこなします:フォトコピーなどの印刷コピーにとどまらず、ビデオ撮影と編集を効果的に使って、自分の授業の一部分を映像メディアにしてしまいます。授業の一部でそのビデオを再生しながら、授業を進めることで、授業は飛躍的に効果的になります----これは菅さんなどの授業を見て是非実感してください----。菅さんの授業を見て、「マルチメディア時代」といわれながらも、私たちの多くは単にメディアに対して受動的であるにすぎないことを再認識しました。

(5)「番組」化します:印刷コピー、映像メディアコピーを作成したら、それらをどう効果的に使うか、といったノウハウを蓄積し、それを一種の「定番」、あるいは「番組」にしてしまいます。誤解してほしくないのは、ここの「番組」とは、生徒をあるプログラムにぶち込んでしまうことではなく、各人が個性を発揮しやすくするためにある一定のパターンを作り上げることです。例えていうならお昼の「笑っていいとも」という番組。番組はある一定のパターンに従って進められます。パターンに従うからといって、番組はいつも同じな退屈なものになるわけではありません。「友達の輪!」のコーナーなんか、この例の典型かとも思うのですが、番組はパターンがあるからこそ、出演者はのびのびと、「自由」に個性を発揮できるわけです。もちろん面白くないパターンは数ヵ月でお蔵入りになります。そうやってパターンを淘汰させ進化させることによって、プロデューサーは常に一定の質の作品を作り上げることができるわけです。

(6)番組を実際にスタートさせます:教師はプロデューサーに過ぎません。番組(授業)が始まれば、あとは出演者(生徒)の相互作用によって、番組(授業)の出来不出来は決まります。菅さんも言っていましたが、教師が予想もしていなかったような創造性を生徒は時に示します。一口に「創造性のある授業」などといいますが、そんなの何の準備もなしにいきなりできるわけはありません。(1)から(5)のステップは、「創造的な授業・言語使用」に至るための一つの有効な方法なのです。そうして教師は、後ろで控えるプロデューサーとなり、どこか改良すべきところはないかと、番組を冷静に観察もします。こうして教師は番組プロデューサーとして授業を継続していくわけです。こうした「番組」を作り上げることで、教師は自分の力を何倍、何十倍にもすることができると私は考えます。

と、私なりに長さん、菅さんの授業をまとめましたが、まとめながら私自身が、「見た授業にはもっと多くのものがあったのに・・・」と自分の観察力と表現力不足を痛感します。是非皆さんも優れた実践者の話を聞く機会を大切にしてください。そしてできればその授業を自分の言葉で記述表現してください。そういった地道な積み重ねが、多くの人の間でなされれば、教育を的確に語りうる用語も育ってくるのではないかと思います。

発表が終わった後、フロアから、「こういった授業は達人だからできるわけで、われわれ凡人は・・・」といった発言がありました。私はこの発言に反対します。例えばスポーツ記録をみてみましょう。年々記録は向上しています。しかしそれは年々私たちの体格がよくなっているからというわけでもないと思います。そうではなく、スポーツ関係者は、すぐれたスポーツ選手のパフォーマンスを記録し、記述し、分析して共有することによって、先人が10の時間をかけていたことを3の時間で達成するようになります。こうして省けた7の時間で私たちはさらに記録を上げるわけです。合理的なアプローチはスポーツだけでなく教育のパフォーマンスも必ず向上させるものだと思います。

まだまだ書きたいことは沢山あるのですが、明日も朝早いので、今日はこのくらいにしておきます。

追記:それにしてもこの「草の根運動」の継続の原動力である谷口幸夫さんには心から感謝したいと思います。私も私なりにできるだけのサポートをしてゆきたいと思います。こうしてすぐにホームページに感想をアップするのもその一つです。だから谷口さん、二次会はかんべんしてね(^^;)。


「現代日本において英語を学ぶ意味合い」の採点(1998/2/12)

「世界の言語と文化」というリレー講義の評価の一環として、上のタイトルのもとに書かれた学生さんのレポートを90遍あまり読みました。紋切り型の文章で「これからの国際化時代では英語を学ぶことはますます重要」などと書かれていると正直、辟易しましたが、なかには的確なもの、痛快なものもありました。以下、いくつかを原文通りに引用しますと、

一方で日本人は、「正しい英語」という概念に縛りつけられている。では正しい英語とはいったい何なのか?文法的に間違いのない発音が正確な英語というのか?/私たちが英語を学ぶ目的は、英語でコミュニケーションをはかるためである。「コミュニケートする」ということは「正しい英語」という単純な考え方を飛びこえ言語的・文化的認識と理解にもとづき、「異なる文化の間を自由自在に往来する」ということである。(法律学専攻1年)

鍵括弧があるところを見ると、この学生さんは何かの本を引用したのかもしれませんが、全般的にきちんとした立論をしていたように私は判断しました。

このような状況の中において、今、企業だけにとどまらず日本は大変革を強いられている。にもかかわらず、こうした自分の状況を把握していない日本人が大多数なのも現状だ。/私たちは、日本にいること=日本語を知っていればよい、と考えているが、もうそのような時代は終わった。英語やその他の外国語を学び、また同時にそこから外国を学びとり、そしてその事により外国から見た日本、世界の中の日本を知る事によって、これから日本がどういった方向に進んでいくべきか、又は進めていかなければならないかを、きちんと読みとっていかねばならない。(教育学専攻2年)

この学生さんは「そのような時代は終わった」と言っていますが、考えてみますと、内向きから外向きに転換したことは、幕末・明治期、第二次大戦後にもあったわけで、外を向いて内を正すことは日本の得意技といえるのかもしれません。

現2月2日においての日本は、はっきりいって最悪だ。今までもバブル崩壊、官僚汚職、教育問題といろいろ取り沙汰されてきたが、一度に大きな事件が、しかも次から次へと連日起こっている。あまりの展開の早さに人々は食傷気味。「もううんざり・・・」の声が聞こえてきそうだ。(略)その中で私が最も気になったのが、30日の国会中継「衆議院予算委員会参考人質疑・日興証券問題」である。私は今まで国会中継を見たことがなく、面白いテレビ番組もなかったのでしぶしぶ見ていたのだが、これが意外と面白い。ほとんど娯楽番組なのだ。責める議員に逃げる新井将敬・日興関係者。これが国会で答弁されうるべきものか!?と疑いたくなる。そのうえ、ヤジは飛ばすが、自分の言葉が議員には全くない。何とも情けない話である。/(略)中学・高校でも全授業時間の半分が英語に費やされていっても過言ではない。しかし、英単語5000語知っている生徒でも作文が苦手という子が多いのもまた事実なのである。橋本首相に分かるように日本人は言葉はおろか、自分の意志、意見さえも見失いつつある。/(略)今、アジアでもどこでも英語のマスターには力を入れている。日本でそうあっても決しておかしくない。でも、そもそも何のために言葉はあるのか・・・?意志のない話は全く意味を成さない。日本はもうそのことに気付いていいはずである。(国際政治専攻1年)

このような感性と常識をもった学生さんがいる限り、私は若い世代に期待します。


「読む主体」、「語る主体」の問題(1998/2/12)

上のレポートで、次のような指摘もありました。英語だけが互いの共通語である韓国の人と旅先で話さなければならない状況にあった学生さんの指摘です。

ちょっとした珍しい建造物や食物の感想を述べる程度なら良いが、私はもっと彼と話したいと思った。でも心の中であふれる感情の全てを伝えることなど出来なかった。私の頭に浮かぶ英語は"rather than ..."などの文法用語ばかりで、言葉ではなかった。私は、中国で学んだ中国語の場合、頭にきちっとした中国語の文章が思い浮かぶ。しかし、私達が今まで学んできた英語は、文法や単語ばかりに捕われる勉強法だった。

決して珍しい指摘ではありません。しかし、この指摘にどう現実的に対処してゆけばいいのか。そのために学問的考察はどう役立つことができるのか。この点で興味深いのは先日お知らせした黒崎宏さんの本の中の一節です。

私が文章「p」を読むと、そこに命題『p』が成立し、<私>という読む主体は消えます。<私>は命題『p』である、という訳です。『論考』には「私は私の世界である」(5・63)という断章がありますが、今の場合は、「私は私の読む命題である」という訳です。文章「p」は、私に読まれることによって、私の読む命題『p』になったのです。そして、そこには私が、「私の」という形で、いわば内在しているのです。そして私は、私の命題『p』になる事によって、事実<p>を見る(知る)のです。

確かに私は、或る意味では、文章「p」を見る事が出来ます。そしてその文章の、文章としての良し悪しを判断することが出来ます。しかし私は、一度その文章を読み出せば、私にはもはやその文章は見えません。それどころか、私に読まれる事によって命題になった命題『p』も見えません。見る事が出来ません。その代わり私には、命題『p』が表している事実<p>が見えるのです。言うなれば私は、命題『p』に内在する事により、命題『p』と一体になって、それが表す事実<p>を直接見る(知る)のです。そして、そうであるとすれば、「命題『p』は、それが表す事実<p>を直接見る(知る)のだ」と言える訳です。何故なら、私と命題『p』は一体なのですから。

ウィトゲンシュタインは『論考』で、こう言っています。

「Aはpを語る」は「「p」はpを語る」の形をしている。(5・542)

ここにAは、「語る主体」のことです。したがってここには、「語る主体」と「読む主体」の違いはあるものの、上記の私の考察と同じ考察が示されています。「語る主体」Aが事実<p>を語る、という事は、「語る主体」Aが自己の外なる文章「p」でもって事実<p>を語るのではありません。「語る主体」Aは、言わば文章「p」と一体になり、そこに命題『p』を成り立たせ、そして命題『p』となって、事実<p>を語るのです。「語る主体」は透明になり、命題『p』が事実<p>を語る、という訳です。

したがって事実とは、実は、そのような命題によって語られる事実であり、その意味でそれは命題的事実----一般的に言えば「言語的事実」----なのです。まず言語とは関係ない客観的事実があり、それを外から文章で語るのではなく、事実とは、初めから本質的に命題的なのであり、だからこそ私は事実を命題で語り、また、文章を読んで事実を知る事ができるのです。確かに命題は事実の外にありますが、しかしその命題は、或る意味で、事実に内在もしているのです。(23-24)

いきなりの引用なので、呪文のように聞こえた方もいらっしゃるかもしれません。でも例えばオーラル・インタープリテーションなどをやってらっしゃる方ならピンとくるかもしれないと思って転載しました。今後の私の仕事は(1)この文章を英語教育用に構成しなおす、(2)その文章(概念装置)でもって英語教育の現実のより深い理解を促す、といったところでしょうか。上にあげた学生さんの焦燥感も少しは緩和できる授業づくりにも役立ちたいと思います。少しずつ、勉強を重ねてゆきたいと思います。


求められる「語り部」(1998/2/11)

1998年2月10日の日本経済新聞はラグビーの平尾誠二さんの「求められる『語り部』」というエッセイを掲載しました。以前に引用した押井守さんの主張に重なるところがあるので、平尾さんの文章も引用します。

指導者となってスポーツの様々な現象を言語化することに関心を持つようになった。この作業はこれからとても注目されると思う。難しい作業ではある。キックの仕方ひとつとっても、言葉で教えると苦労することが多い。ついビデオとかに頼りたくなる。しかし言葉ひとつでイマジネーションが爆発的に広がったりするのも確かなのだ。

もちろん、コミュニケーションの本質は言葉の数や内容だけではない。その言葉をかけるまでに、いかに有効な状況を作っておくかも大事な要素である。(略)

これからは「語り部」がもっと求められると思う。良い語り部とは比喩や例えなどを用いて、物事の本質を効果的に伝えることができる人のことだ。それはコミュニケーションにおける一つのスキルでもある。そのスキルを積み上げていけば、新しいコーチングスキルが開けてくるのでは、とひそかに考えている。

どうも特に最近、言語化の重要性について考えることが多くなりました。みなさんはいかがですか。


オンライン討論会「大学入試に英語は必要か」のサイト(98/2/10)

朝尾幸次郎さん(東海大学)らが中心になって、1月17日(日)から1月31日まで2週間にわたって開催されたオンライン討論会「大学入試に英語は必要か」の議論が残されたサイトを訪れました。(http://www.lb.u-tokai.ac.jp/bbs/)

すばらしい企画です。

今回のこの討論会が素晴らしいと思うのは、各発言者が(1)対等な立場で、(2)ある程度の分量の文章でもって責任ある発言を重ねられ、それが(3)朝尾さんらの手腕で見事に整理されてるからです。みなさんもまだもしご覧になっていなかったら是非訪れることをお勧めします。

先日『現代英語教育』誌で「この人に賞をあげたい」という特集がありましたが、私なら「英語教育の既成の概念に揺さぶりをかけた津田正さん(『現代英語教育』元編集長)と、未来の英語教育のインフラづくりをやっている朝尾幸次郎さん(東海大学)」に差し上げたいな、と思っておりました。同サイトを訪れてこの思いは確信に変わりました。


非常勤の方との英語教育セミナー(98/2/10)

2月7日(土)に広島修道大学法学部主催の英語教育セミナーを行いました(主催者は学部長)。これは日頃お話しをすることのない非常勤講師の方をお招きし、法学部での英語教育について率直に語り合う会合で、基本的に一年に一度やっております。長野オリンピック開会式テレビ観賞という誘惑を振り切って(!?)、セミナーにお越し頂いた方々には今一度この場を借りて厚く御礼を申し上げます。

大学の英語教育はその多くを非常勤講師の方に依存しています。学生にとっては常勤講師だろうが、非常勤講師だろうが関係ありません。ところがそのように重要な役割を担っている非常勤講師の方へのケアが徹底していない大学は多いと思います。例えば

(1)大学や学部の教育の方針・レベルなどを伝える公式の機会が少ない(もっともそのような教育方針そのものがはっきりしていない大学も少なくないのが現状かと思います)

(2)大学や学部の教育の現状を他の同僚に伝える公式の機会が少ない(良心的な非常勤の方は個人的に色々と情報交換をしていますが、その発言は多くの同僚教員あるいは大学当局には伝えられないままです)。

(3)良心的でいい授業をする非常勤の方を厚遇する事務的な手立てがない(良心的な人もいいかげんな人も「平等に」処しているのが多くの大学の現状だと思います。常勤の場合もそうです。公正な評価に基づく厚遇は私は当然なことだと考えますが、もとより教育方針さえはっきりしない現状で、そのようなことは期待薄です。ですが優秀な非常勤の方には、身分保障や教育・研究サポート、給料などの点で好条件を与えるべきだと思います)

私の勤務校は上記の点において少しずつ努力を重ねています----今回のセミナーもその一環です。また学生による授業評価も任意で実施しています----が、まだまだ満足のゆくものではないと私は考えています(特に(3)の組織的事務対応の欠如には改善の余地が多いと思います----これは勤務校を愛するがゆえの批判です----)。

非常勤の方も対等な教育メンバーとして、評価すべきところは評価し、注意すべきところはお互い注意しないと、良心的な教員ばかりが四苦八苦して、いいかげんな教員が(常勤・非常勤を問わず)涼しい顔をして大学教育を内部から崩壊させてゆくと思います。

おりしもefljという英語教育関係者のメーリングリスト(http://langue.hyper.chubu.ac.jp/eflj/)では関東地区の複数の有名私立大学が、日本人の非常勤英語教師の契約更新を大量に打ち切り、代わりに「ネイティヴ・スピーカー」を大量に雇うという出来事に関する話題が続いています。英語教育に関して、各大学当局が何らかの積極的な姿勢を示したという一般的な意味でなら評価できる動きなのかもしれませんが、もしこの動きが「とにかくネイティヴに会話をやらせておけ」というだけの見識を欠いた動きなのなら、大学教育の荒廃は一層進むだけでしょう。

改革において大切なのは見識であり、それを表現して公共の理念にすることです。非常勤の方を対等な教育メンバーとして、議論に参加していただけるように手当てを施すことは大学当局にとってそのためにやるべきことの(多くのうちの)一つでしょう。

追記:このセミナーで上倉一男さんと面識を得ました。早速ホームページを拝見すると、それはサリンジャーなどに関するきわめてセンスのよいページでしたのでご紹介します(http://www.st.rim.or.jp/~fugitive/)。また「英語教育研究のリエンジニアリング」の共同研究者である平本さんもこの程ページを開きましたのでこれもご紹介させていただきます(http://member.nifty.ne.jp/hiramoto/index.html)


現代日本の階級差別と議論の欠如(1998/2/7)

少年によるナイフを使った犯罪が数多く報道され、教育問題に改めて国中の関心がそそがれる中、1998年2月8日の日本経済新聞は教育面で、一橋大学教授の久富善之さんの「英国の教育改革に学ぶ----官僚統制こそ批判対象に」を掲載しました。結論部分は次のようになっています。

官僚機構の省益、権限への執着はすさまじい。自己反省や自己改革を官僚機構に期待するのは期待薄かもしれない。かといって「選択・市場の導入で教育界は活性化し、画一性が打破され、自由な学校になる」という「市場万能」論にも立てない。学校自治とセットで市場化策をとった英国では「不利なものがより不利に」という格差拡大が深刻になり、社会的公正が改めて課題になっている。

このままいくと日本の教育改革はもっと悲惨で、「規制緩和」の掛け声の下に、子供たち全体に対する教育の公的保証のレベルダウンと格差の拡大が起こって、官僚機構は排除されず現場の窒息状況は変わらないということになりかねない。学校長の権限拡大も改革課題になっているが、生徒、父母、住民、教職員が参加した学校自治が伴わなければ、官僚機構への抵抗力となれないだろう。

官僚機構と市場の力をともに抑える公共性の新しいあり方が、世界の教育改革の中で模索されている。

ここで問題にしたい論点は次の二点です(注1)。

(1)現代日本の「階級差別」を撤廃しない限り現状打開はできない:現代日本を幕末の日本にたとえる見解を近年よく聞きます。日本証券アナリスト協会の元会長である上条俊昭さんは『2010年日本の落日』(1997年、東洋経済新報社、234ページ、1500円)で開国という大事業をやりとげた老中の阿部正弘に注目しています。阿部は開国という大事業を成功させるため当時としてはとても大胆な戦略を用意しました。それは、身分や門地にとらわれることなく、優秀な人材を抜擢して活用することです。勝海舟も抜擢された人材の一人です。階級差別の撤廃が優秀な人材を育てたのです。

ひるがえって、現代日本。現在も「階級差別」は残っています。上条さんが指摘するのは「キャリア-ノン・キャリア」間の差別です。たしかに封建時代のように生まれた時点での身分の違いが一生続くほどのひどさではありませんが、それでも22、3才での試験成績で残りの人生の身分・権限・収入などが決まってしまうという点では、不合理でおかしい制度、つまりは階級差別になっていると私も思います(20才ぐらいまでの成功や失敗は親の要因(遺伝子・環境・財産など)によることが多いこと、であるが人生経験というのは20才以降の社会生活で個人が自分自身を律することによって深まること、決してペーパーテストだけでは予測できないこと、などが私がキャリア-ノン・キャリア差別を「おかしく不合理」だと考える理由です)。文部省にも見られる「官僚統制」「上意下達」の考えは、こういった「おかしく不合理」な階級差別意識----彼/彼女らの側と私たちの側のそれぞれにある意識----に支えられているといえないでしょうか。官僚のキャリア組は、確かに若くて親の要因が大きく影響した時のペーパーテスト成績は抜群によかったが、それ以上でもそれ以下でもないこと、世界はもっと複雑で人生はもっと深いことを、キャリア官僚だけでなく、ノン・キャリア組も、そして何より主権者である私たち一人一人が徹底的に理解しないと、教育改革も一層の混乱をもたらすだけなのかもしれません。

(2)対等な人間間の議論を習慣としない限り無力感が蔓延する:そうして「指導」「統制」を排しても、徹底的な議論がなければ、現場は混乱するばかりです。無力感が蔓延するかもしれません。議論の習慣が必要です。でも議論とは声が大きい者が勝つものでも、短気に感情を爆発させる者が勝つものでもありません。そもそも議論は「勝つ」とかいった考えとは無縁の真理追求のためのコミュニケーションです。議論を習慣づけるだけでなく、議論というコミュニケーションの特質を私たち一人一人が深く理解しない限り私たちの社会はもっともっと悪くなるのではないでしょうか。

(注1):私は、ハイエクらをもっと研究し「市場原理」の理解を深めた上で、教育界への「市場原理」導入について批判的に、しかし積極的に考えるべきだと思っていますので、現段階の日本の教育界がいたずらに「市場原理」をタブー化することには警戒したいと思っていますが、その論点は今ここでは扱いません。

追記:上にキャリア-ノン・キャリアの差別のことについて書きましたが、もちろん現代日本の差別はそれだけに限るものではありません。たまたま私が最近読んだ本では、プロレスラーの長州力さんの半生を描いた、辻義就さんによる『反骨イズム』(1997年、アミューズブックス、245ページ、1500円)は圧倒的におもしろかったです。長州選手が在日韓国人であるということは24年間マスコミのタブーでした。私もそんなこと一つも知りませんでした。しかしこの本で描かれた長州選手の光と影を知って私は一層長州選手のファンになりました。

差別の問題を黙殺したまま、個人主義やコミュニケーションについて語ることは不可能であり、不誠実でもあるのではないかとも思います。


入試問題方針の公開(1998/2/6掲載)

急速な少子化で、大学入試は段々無効化してきています。それでも大学入試が英語教育に与える影響というのは、まだまだ残っていると思います。以下は、私が大学入試(英語)に関してどう考えているかを、あくまで一般論として述べるものです。

(1)大学入試は大学の主要な教育活動の一つである:大学入試とは、入学者選抜をするだけのものではありません。それぞれの大学が、どのような学力をもつ学生を欲しているのか、ということを高校現場に宣言する活動でもあります。その大学は、どんな英語力が、大学生活とそれに続く社会生活で必要とされていると考えているか、が入試問題の形で集約されます。そういった入試問題準備を高校生に促すことによって、大学は大学教育でより高度な学習を行うことを可能にする----はずです。

そうなりますと、従来より一歩踏み出して、大学は入試問題(とその解答)を公開するだけでなく、入試問題に関する方針を宣言し、広く社会にその見識を問うということも考えられます。「私たちは、現代社会においては、以下のような理由で、以下のような英語力が重要であると考えます。よって、英語入試問題は以下のような原則に基づいて毎年出題します。また、私たちはこの入試問題で高得点をとった受験生には以下の教育カリキュラムで一層高度な学習を約束します」といった宣言を大学の内外にして、入試を実行するわけです。

このような宣言がありますと、高校生には啓蒙活動を行うことになります。受験産業界には安定した教育方針を知らせることにより、より良質の進路選択を促すことになります。入試問題作成者には恣意的な問題作成を牽制することになります。入試問題関連者には入試問題批判の基準を与えることになります(入試問題批判も、授業批判と同じように、時に基準を欠いた的外れなものになることがあると私は考えています)。

もちろんそういった宣言は毎年の試行を経て、少しずつ修正してゆけばいいものです(もちろんその際には修正の理由を明記したほうがいいでしょうが)。また、その宣言は各大学ごと、というよりは各学部ごとに異なったものである方がいいと私は考えます。入試問題方針の宣言は大学にとって重要な教育活動だと思います。大学はもっと入試に人材と手間とお金をつぎ込んでもいいのではないかと考えます。

(2)大学入試は大学の主要な広報活動の一つである:大学が直接・間接に受験生に向けて出版するもののなかで、入試問題はおそらく最もよく読まれるものでしょう。これは大学にとって絶好の広報の機会です。上に述べたような宣言に基づいた入試ならば、その大学の教育への姿勢(と能力!)を如実に伝えることができます。高校教師、予備校教師の方々もまだ入試問題には関心を払ってくださっています。宣言によって一定の姿勢と基準を示す大学には、高校教師、予備校教師の方々も、思い切って評価と批判を公にできるのではないでしょうか。「この大学の英語入試問題に関する見識は以下の理由で評価できる/できない。昨年のこの問題はその良い/悪い例である」といったコメントは、具体的であるだけに、建設的なコミュニケーションを生みやすく、大学教師と高校教師、予備校教師の間の連携を密にすることができると私は思います。また方針・見識がはっきりしていると入試問題批判も、誤植探し・アラ探しなどといった(必要ではあるが)瑣末なものだけにとどまらず、教育の議論へと発展させることができます。具体的な理由づきで入試問題を誉められたとしたら、それこそはヒモ付きではない、本当の賞賛です。大学にとってこれほどの名誉と宣伝はありません。

ではなぜこのような入試問題方針の公開は今まで少なかった----少なくとも私は知りません----のでしょうか。いくつか思いつくままに理由を列挙しますと、

(a)18才人口の増加:今まで大学には何もしなくても受験生がきたわけです。そのように競争があまり必要でないところに新しい試みは根付きません。

(b)問題作成能力開発の欠如:大学教員は、通常入試問題作成に関する訓練を受けていません。また予備校の模擬試験作成に見られるような、コンペ方式による問題作成もあまりないと理解しています(あくまでも一般論です)。このように、訓練も競争の機会もなければ、方針の確定といった見識など生まれてくることはあまり期待できません。

(c)匿名性:問題作成は極秘裡におこなわれなければなりません。誰がどの学部のどの入試(入試は年一回ではない)のどの問題をつくっているのか、そもそもその人は問題の作成に関わっているのかといった情報はもらしてはいけません(ですから私もこの小文はそれなりに注意して書いているつもりです)。この匿名性は必要なことなのですが、その反面作成者の認知欲求(いい問題を作って、自分の教育的功績を認めてもらいたい、という気持)を小さなものにしてしまいます。匿名性を第一義とする作成システムでは入試問題はとかく「持ち回り仕事」となりやすく、「例年通りの無難で誤植のない試験が一番」となりがちだと思います。

(d)本質的議論の回避:英語教育をどう考えるか、といった本質的な議論はかなりシンドイものです。場合によっては、自らの体験談と体験談のぶつかりあいだけになってしまいます。ともすればお互いの主観的な教育信念(というより偏見)のぶつかりあいになりケンカさえおこりかねません(^^;)。英語教育を客観的に語る術を私たちはまだ熟知していません。そうなると「お互い当事者なんだから、難しいことは言わず、無難な問題を例年通りつくりましょう」という結束が成立します。外からの批判に対して当事者は「問題作成の苦労を知らない者が何を言う!」といった発言で結束します。これは入試問題作成者の人間性がとりわけ低いことを示しているのではなく、単に彼/彼女らが問題作成を客観的に語る術を知らないことを示していると私は考えていますが、どうでしょう。

以上のような理由から、これまで入試問題改革はあまり進んでこなかったように私は考えています。ですがこれからの時代が、人口減時代、サービス業の国際競争化時代、可処分所得の減少時代、であるのなら、入試と呼ばれる大学のマーケティング・顧客開拓も変わらざるを得ないでしょう。

ですが入試改革は、これまで多くが、入試科目の削減、一芸入試などの耳目をひく(だけの)もの、といったように反教育的な効果を持ちかねないものに終わってしまいました。この傾向がこのまま続けば、国力の低下にまでつながりかねません。国力の低下は公的サービスの低下、人心の荒廃、住みにくい暮らしにつながります。(1),(2)といった方針を踏まえつつ、(a)~(d)といった要因を勘案して、システムを根本的に変えるような入試改革が必要なのではないでしょうか。

一般論は述べました。ですが、現実は雑事に追われて疲れる一方の毎日です。英語教育関係者としてやるべきことを少しでもいいからやらなければならないという思いだけは忘れずにいたいと考えるだけが精一杯の現状です。


「権威」と「指導」を排する----中四国ネットワークの感想・その1(1998/1/26掲載)

第二回の英語教育・中四国ネットワークの集まりが1/24に岡山の山陽女子高校で行われました。以下はそれに参加した私の感想です。

この集まりの基本理念は、(1)私たちは、英語教育の新しい流れを作ることを目指します(2)私たちは、地域・年代の差を越えて、オープンなネットワークによって結ばれています(3)私たちは、様々な明確なテーマを定めて、ワークショップと対話を行います(4)私たちは、本音で悩みや夢を語り、明日への活力と希望を見い出します(5)私たちは、実践と理論、分析と評価を踏まえて、発進していきます(6)私たちは、自由に柔軟にこの会を運営します、です。

私も個人的には、率直な自由さこそが真理探究のためには必要と考えています。そのためには不必要な権威を排除し、「指導」という一方的な関係(=「偉い先生方に授業のやり方をご指導いただく」といった態度)を排することが必要です。ですから私は今回のコーディネータとして、発言する際には肩書き・名前を言わないようにお願いしました(肩書き・名前で発言を聞く前から先入観を得ることがないようにしよう、もしおもしろい意見だったら後で話しかけてお互い自己紹介をすればよい、という考えです)。またできるだけ異論・反論を歓迎するように心がけました。といっても発表者を罵倒したり、発表のあらさがしを奨励したのではありません。そうではなくて、お互いに対等な人間としての敬意をもちつつ、自由という秩序をつくりあげることを私のコーディネーターとしての役割と考えて、率直な語り合いを促進したつもりです。


実践の言語化:状況、技術、限界、そして理念----中四国ネットワークの感想・その2(1998/1/26掲載)

午前中のワークショップ(1)は、広島の佐伯邦章さんの実践報告を基に語り合いました。「リズムにのって英語楽習」ということで、リーディング、フレーズごとの英日・日英訳、ビンゴ、単語カルタ、単語ディクテーション、ラップなどの活動が次々に指示されます。活動のリズム・テンポは佐伯さんが完全に掌握しています。実際私は記録のためメモをとりながら活動をしていたのですが、ある意味で佐伯さんのリズム・テンポから逸脱することができず、途中からメモに専念し、活動には参加せず観察と記録に徹しました。

最初に抱いた感想は、佐伯さんの授業のやり方ががなんだか達人セミナーの谷口幸夫さんのやり方に似てきたな、ということです。デモンストレーションが終わって少しずつ質疑応答をするにつれ、次のようなことがわかってきました。

佐伯さんの狙いは、とにかく意欲をなくしがちな生徒に「参加させる」ことだそうです。その背後には、授業をやろうとしてもなかなか教科書すらもってこない状況があるわけです。ですから、まずは参加させる、やる気をおこすことが大切で、そのために手を変え品を変え次々に活動を指示しているのだそうです。

私はそれを聞いて得心がいく思いでした。といいますのも私個人の感覚としては、授業者(佐伯さん)に完全に時間のリズムとテンポを支配されているのが、少々苦痛にも思えたからです。ある意味ではこれは、佐伯さんの授業では「生徒が集中している」と言えるのかもしれませんが、他方で、このような学習体験ばかり続けてきたら、卒業後の学習者の(自己)学習観はどうなってしまうのだろう、と懸念を覚えたからです。

実は、そういったことは佐伯さんも重々知っていたことでした。わかった上で、あえて最初の方便として上に述べたような高速な活動の指示をしていたわけでした。

これらのことら次の二つが言えると思います。

第一点は、実践報告の三分の一ぐらいは勤務学校などの状況説明にあてるべきではないか、ということです。従来とかく実践報告では、その実践技術そのものに関する説明(あるいは比較実験結果)が中心になってしまい、勤務学校の状況説明、ましては学習者(一人一人)の状況や、さらには授業者の言語観、教育観、英語力、気性などの状況説明は省略されてきたのではないでしょうか。しかし私は状況を無視した技術適用など無謀なような気がします。

医療技術でたとえてみましょう。たしかに医療技術そのものの説明は大切です。しかし、もしその医療技術がどのような状況で使われるべきなのかに関する説明がなければ、その技術は乱用・誤用され、かえって患者の様態を悪くするかもしれません。授業の技術についても同じで、報告の三分の一ぐらいの時間は技術を適用するにいたった状況の説明・記述に徹するべきではないでしょうか(次の三分の一が技術そのものの説明、最後の三分の一が技術の限界(いわば「副作用」)についての説明、といった時間配分が私は適切だと考えますが、いかがでしょう)。

第二点は、その第一点のために必要なこと、すなわち授業の「技術」に関する言語化が必要、ということです。もちろんart的側面をもつ技術のすべてが言語化されると私が考えているわけではありません。しかし技術を、とにかく「憧れの授業者」からひたすらに「真似」することものと考えると危険ではないかと思います。さきほど述べた技術の乱用・誤用のことを私は言っているわけです。少なくとも技術の裏話、功罪、影響などに関しては比較的容易に言語化し記述できるのではないかと思います。次にその技術の限界についても言語化し自覚したいものです。そのためにはその技術の理念やよってたつ価値観についても自覚的に記述する必要があるでしょう----このあたりから、そのような「記述」とは可能か、などといった哲学的な問題が出てきますが、今はそういった議論は一切省略します----。面倒くさいことを言っているようですが、こういった言語化なしには技術の(健全な)共有は不可能だと思います。言語化による客体化・相対化のないところには、好みによる愛好集団内での共有しかありえません。そしてそのようなタコ壷内的共有は「技術の共有」とは言えないと思います。技術の「評価」、授業の「評価」といったものも、技術や授業の言語化の後にはじめて可能だと思います。不十分な言語化しかされていない「評価」は好嫌の個人的表明に過ぎないとも思います。教育の世界にもaccountabilityが必要であると私は考えます。

そうして言語化が進み、私たちが言葉を作り上げ鍛え上げ、記述がより合理的になれば、ようやく授業の実践報告もマックス・ウェーバーがいう社会科学の領域に入ってゆくのではないでしょうか。

英語教育研究が志向するのは、価値の押し付けも無視もせず、価値の連関を客観的にとらえる試みである。英語教育研究は、ある研究対象に対して、その人が持っている(はず)の「理念を指摘し、その論理的な帰結を追究することによって、その人が欲したり選択したりする目的が、どういうつながりと意義を持つかを知らせる」ことを目指す。価値の問題を排除しないことによって、はじめて価値から「自由」になって、実践的な問題にアプローチすることが可能になる。

というのは私の「英語教育研究のリエンジニアリングVer.2」でのまとめですが、言語化を進めることによって授業はその実際の理念が明らかになってくるでしょうし(授業は教師が思い込んでいるようになっているとは限らない)、授業の不合理さ(目標とする価値達成に反する授業行為の存在)も明らかになってゆくでしょう。「授業実践は学問にならない」というのは間違いだと思います。私としては少しでも言語化を促進し、議論のなかで記述を鍛えてゆきたいと思います。


Master of Ceremony ---- 中四国ネットワークの感想・その3(1998/1/26掲載)

午後のワークショップ(2)は岡山の斉藤泰成さんによる山陽学園大学の3年生を使ってのマイクロティーチングでした。発表の「ボランティア」を募っての、岡山弁、高知弁(男言葉、女言葉)での訳出やshadowing、さらにはBGMを使っての黙読・音読などの授業展開が主な特徴でした。

斉藤さんの授業を私は「Master of Ceremony」と「理解の基準としてのイントネーション・音楽」という言葉で総括したいと思います。

まずMaster of Ceremony ---- performing to manage discipline and moodという視点です。日本語でいう「司会」に似た役割として英語のMaster of Ceremonyという言葉があります。私は斉藤さんがまさにMaster of Ceremonyであるように思えました。私は斉藤さんと何度かお話ししたりお酒も飲んだりして、そのお人柄をある程度は知っているつもりでした。ですが授業の時の斉藤さんは、いつもの「素」の斉藤さんとは少し異なります。「手を挙げたいという気持ちは僕には見えてくるんだ」「そこの眠たそうな君、えっボランティアしてくれるのかありがとう(笑)」「よし、これ以上困らせたらアカン」などと発表の「ボランティア」を募り生徒に前で発表させるも、生徒がトラブルを抱えたら援助者となる斉藤さんは明らかにある役割を演じているようです。生徒の出身を聞いて生徒の緊張をといたりする斉藤さんは教師というより司会、さらにはMaster of ceremonyのようでした。「司会」よりも「Master of Ceremony」という言葉を使いたいのは、斉藤さんが多くの日本の「司会」と異なって(?)、この教室授業という社会的舞台(ceremony)の規律(discipline)と雰囲気(mood)を管理・運営(manage)するのに、実に具体的に心をくだくという役割を見事にはたして(perform)いたからです。

斉藤さんは一方で「ホックをとめろ。挨拶はきちんとしろ」と口うるさく言う一方で、「生徒のことは何でも許せる」と言います。そこには「素」の自分から意識的に超え出て、教師という社会的役割を果たそうとする職業的努力が見られます。そういった斉藤さんを見ていて浮かんだ言葉はMaster of Ceremony ---- performing to manage discipline and moodでした。


Criterion of Understanding ---- intonation or music ---- 中四国ネットワークの感想・その4(1998/1/26掲載)

斉藤さんの授業の特徴の二つめは、英語テクストの理解をはかる基準が、いわゆる標準的な英文和訳だけではないということでした。

一つの基準は、少なくとも直接引用文は方言で語らせるということです。生徒が妙にかしこまった標準語(というか辞書の訳語による合成文)で訳すと、「アカン、アカン」と斉藤さんは生徒をとめて、その生徒がもっとも気持ちを込められる方言で訳させるようにします。身についた方言というのは、自然なイントネーションと力をもっています。斉藤さんは生徒の言葉のイントネーションと力を理解の一つの基準としているようでした。

第二の基準は、「音楽」によるものです。斉藤さんは「予習しながら本文を読んで、どんな気持ちがしたかな。僕が今からかける音楽の気分と合っているかな」と生徒に問いかけて、トロイメライをBGMにしながら本文(原爆少女に関する話)をテープで聞かせます。実はその直前まで、斉藤さんは生徒と観察者一同を爆笑の渦にまきこんでいたのですが、一転して私たちは音楽と共にテクストの世界に引き込まれてしまいました。「予習の気分とこの音楽を聴いた気分は同じだった?」と斉藤さんが再び問いかける時には、私たちはテクストの世界に「投げ込まれて」いました。

その他にも斉藤さんはいわゆるread and look upをやるのですが、その時も「もっと、僕に語りかけてください」といったりしています。また「僕自身気づかないうちに悲しみのあまり声が落ちたら、生徒の声も自然に落ちた」ことも多々あるそうです。

こういったBGMという(純粋)音楽や、イントネーション・「語り」という言葉の音楽は、授業の添え物のように考える方もいるかもしれません。しかしハイデガーが情状性(Befindlichkeit)という言葉で表わそうとしたように、私たちが「投げ込まれる」(=被投)「気分」とは、私たちのあり方(=「世界内存在」)にとって根源的なものであるように思えます(拙著『模倣の原理と外国語習得』をご参照いただければ幸いです)。斉藤さんのイントネーションと音楽に関する洞察は、単なる表面的な授業のテクニックとして片付けるべきではないと思います。


危機的状況での高揚感---- 中四国ネットワークの感想・その5(1998/1/26掲載)

ネットワークの集まりの最後はミニ・シンポジウム「授業、講義とstudent centered」でした。司会の中村浩路さん(岡山商科大学)は、教育をめぐるきわめて危機的な状況を豪放磊落な形で描写します。パネラーの吉田達弘さん(松山大学)は、Student centeredを一方的に肯定してしまうのではなく、それへの疑いからはじめます。

確かにTeacher-centeredでは教師は知識の保有者・伝達者であり権威者です。学習はしばしば将来に向けてなされる貯蓄のようなものとして現在の楽しさ・意義は後回しにされます。それに対してStudent centered教材の個別化、評価の個別化が進み、「自立した学習者」「学習者ストラテジー」といった概念が賞賛されます。その一つの極として吉田さんはO'Malley & Chamot (1990)のいわゆるコンピュータ的情報処理モデルの学習者観を挙げます。

しかし、そこで吉田さんは、「それならなぜ教室でいっしょに学ばなければならないのか」という問いかけをします。そこから吉田さんは、授業観、学習観の変更(Person centered)をBurden and Williams (1997)を基にしながら説明します。

吉田さんは私の友人でもありますから、あからさまに褒めるのには若干の抵抗がないわけではないのですが、彼のいいところは自らの授業の実践をきちんとしていることです(今回の実践は電子版Student Timesを使ったリーディンググループとプレゼンテーション)。その実践感覚に基づいて彼は本を選び、読みこなしていますから、言うことに説得力があります。何だか株の予想屋のような言い方になってしまいますが、吉田さんは「買い」だと思います。近いうちにブレイクするし、また英語教育界は彼のような研究者を大切にしなければならないと思います。上に私が要約したことも吉田さんがいつか論文にすると思いますので、私たちはそれを心待ちにしておきたいと思います。

その他、丸田温子さん(香川県立丸亀高校)は、彼女にとってのmentorから学んだ学習法を共有したい、と言っていました。また彼女もやはり方言の日本語使用を大切にしているそうです。生徒の感情を大切にしながら、カウンセラーとしての顔、学級担任の顔を使い分けているそうです。「英語教育」が妙に「科学化」しようとするとこうした情動的・人格的側面はとかく切り捨てられますが、こういった側面を正面から取り込みつつ、かつ英語教育であるような実践と研究を作り上げたいものだと思います。

最後に瀬田幸人さん(岡山大学)は、教科書を編集した人間としての立場から「やはり英語を中心に、武器に勝負していただきたい」と主張しました。「最近は文系より理系の学生・教員の方が英語学習に熱心」という指摘も印象に残りました。

閉会の挨拶は能登原昭夫さん(山陽学園大学)がしました。「教育が本当にかわりつつある」、「『共有』がこのネットワークのキーワード」、「英語を学ぶ喜び、英語を教える喜び、その両方について語り合い共有する喜び」「信・知・心を共有する縁(えにし)」といった言葉が印象的でした。

確かに現在は日本の様々な側面が危機的状況にあります。しかし同時に危機は新しい可能性を生みつつある、という気持ちを私は抱きました。このようなネットワークに皆さんも参加されませんか?また中四国が遠いというのならご近所で作るというのはいかがでしょう。

追記:結局mobioNXは売らずに自分で使いこなすことにしました。今回のネットワークの記録は、mobioNXを大量データの高速入力マシンとして使うことによって可能になったものです。またテクノロジーの活用という点では、桐原書店のご好意で同社のサーバーの一部を借りる話を進めています。この一連の感想も柳瀬のホームページだけでなく、桐原書店のサーバー(「英語教育ネットワーク」)にも掲載することにします。

追追記:上のほうで技術の言語化について書きましたが、手元に届いた雑誌WIRED日本版1998年3月号のアニメーション監督押井守のエッセイ「ぼくがしゃべり続ける理由」が目にとまりました。彼はいい映画の真似をするだけでは必ずといっていいほど失敗すると述べたあとで次のように言います。

なぜそのカットが格好よく見えるのかという理解に到達するためには、そのカットが成立している映像的な要素の理解だけではなく、映画という文脈の中で成立している、ある種の意味作用までを理解しなければならない。

それは言い換えれば<他人に語り得るレベルになって初めてそれは自分のものになる>ということだ「このカットがなぜ、ここに必要なのか?」ということを現場の人間に納得させられるだけの理解に到達していて、初めて<技術>と言い得る。そうでなければ、世界観が変わり、キャラクターが変わったら、もう通用しなくなってしまう。それでは、ただのパロディだ。

そして、その点に常に意図的であり続けるためには、他人と語らなければいけない。自分のスタッフと自分のイメージについて語って、相手にわかってもらうことで、初めて<言葉>だといえる。

ぼくが現場でしゃべり続けているのは<自分の中でイメージを理論化する>ためだ。相手がわかる比喩で語れていないということは、自分のものになっていない証拠だ。堅い概念として語っても納得されない。それを噛み砕いて、納得させることが自分が理解している証拠になる。だからぼくは、しゃべり続けなくてはならない。言語化しつづけなくてはならないのだ。

まさに私が授業の技術について言っていたことと同じことが書いてあったので、少々(喜びの感情とともに)驚き、引用した次第です。


ごめんなさい!二次会は一切ご勘弁を!!(1998/1/26掲載)

中四国ネットワークの懇親会が終わった後、斉藤さんを中心に心から二次会に誘ってくださったのですが、実は私は逃げるように帰ってしまいました(^^;)。失礼に関してはお詫び申し上げます。ですが、これを機会に私としては「二次会には一切出ない」というわがままなポリシーを表明し、今後実行してゆこうと思います。

酒を飲み交してはじめて築ける人間の絆があるということも承知しています。しかし私としましては、できるだけ見聞を広めることによって自分の研究を深めることを至上命題としたいと思っています。ですから私は学閥などにこだわらず、できるだけ多くの種類の研究会に顔を出そうとしています。いろいろなところで縁ができて二次会に誘っていただけるのは、本当に光栄なのですが、二次会参加は重なると、私の健康、時間、金銭の点でかなり負担になってしまいます。言うまでもなく健康、時間、金銭は研究活動にとって非常に重要なものです。あそこの二次会には出るが、ここの二次会には出なかった、などというのは失礼をすることにもなりかねません。したがいまして私は今後研究会の懇親会には出ても、二次会にはどんな研究会の二次会でも出ないことを自分の方針としたいと思います。ご理解のほどをお願い申し上げます。


センター試験問題----その題材について----(98/1/20掲載)

1/17にセンター試験の英語が実施されました。英語のセンター試験問題は年々良くなってきているようにも思えますが、もちろん完璧というわけではありません。幸いなことに私は同問題の作成者が誰(らしい)ということを一切知りませんので、ここで安心して短いコメントを加えたいと思います。

同試験を大問ごとにごく大ざっぱに区分すると----細かく言い出すと区分が不可能になりますので敢えて大ざっぱな区分をしています----、話し言葉の側面に60点(第1問、第5問)、文法的側面に40点(第2問)、書き言葉(特に複数の文から構成されているtext)の側面に100点(第3問、第4問、第6問)と配点されています。この比率には特に異論はないのですが、気になるのは書き言葉関連の問題内部の配点です。

第3問の題材はごく初歩的な自然科学(天文学、生活科学、心理学----といってもそれぞれ本当に常識的内容に過ぎない)、第4問の内容は心理学(ただし主眼は表の読み取り)、第6問は小説となっています。配点はそれぞれ、20点、27点、53点となっています。一見してわかることは(少なくとも今年の問題には)、(1)社会分野の内容が全くないこと、(2)小説以外の人文分野の内容も省略されていること、です。

これらはひょっとすると現在の日本の英語教育界の関心状況を反映しているのかもしれません。すなわち伝統的な英文学の体制を引きずりながらも、新興勢力は心理学にもっぱら興味をいだくが、社会分野(政治、経済、法律、人権問題、歴史などの諸分野)への配慮は足りない、という私が個人的に感じている英語教育界の状況です。言うまでもなくセンター試験は、英語教師のためのものではなく、国民全体のためのものですから、今年の問題のように書き言葉の問題の大半が心理学と小説でしめられる(それぞれ34点と53点で、配点比率で87%)ことは好ましくないと私は考えますがいかがでしょう。まして現在の英語使用状況をみると経済・ビジネスを中心とした社会的な側面を無視することはどうかと思いますし、冷戦終了後の世の中を考えると文明論(例えば、経済体制論と人権問題などの連関)などの総合的な社会的題材も重要だと思います。

もちろん、センター試験は「英語」の問題であって、「題材」について問うものではないという反論もできるでしょうが、文章題材によって読解のパフォーマンスも変わるというのは実験研究を待つまでもなく自明のことであると私は考えます。また、センター試験は高校・予備校の教育内容に対して多大な波及効果をもちます。最後の大問を分割し、二問にして内容にさらなる多様性をもたせるなどの処置が今後のセンター試験問題には求められるのではないかと私は思います。


介護等体験特例法----中央指導の「ボランティア」----(98/1/14掲載)

本日勤務校で、介護等体験特例法に関する文部省からの説明を受けた教職員による説明会がありました(上意下達というやつですね(^^))。同法の制定の趣旨は、

義務教育に従事する教員が個人の尊厳および社会連帯の理念に関する認識を深めることの重要性にかんがみ、教員としての資質の向上を図り、義務教育の一層の充実を期する観点から、小学校又は中学校の教諭の普通免許状の授与を受けようとする者に、障害者、高齢者等に対する介護、介助、これらの者との交流等の体験を行わせる措置を講ずるため、

だそうです(ふーっ。それにしてもお役所の日本語はわかりにくい。高学歴で頭がいいはずのお役人なのに、どうしてこんな日本語しか書かないのだろう)。

趣旨はよくわかります。「人間である、という、ただそれだけの理由」の重みがわかることは教員としても、市民としても必須の教養だと思います。しかし最後の「体験を行わせる」というところがどうもひっかかります。

法の考えは、とにかく小・中学校教員になろうとする人には選択の余地無くボランティアをやらせるならば、そのうち人間の尊厳や社会の連帯への理解も深まるだろうということだと思います(いろいろな経過措置はとられるそうですが、考えとしてはそうだと私は理解しています)。わからないわけではないのですが、私が懸念するのは、この制度で「ボランティア」という言葉・文化が内部から崩壊してしまうことです(もちろん同法では「ボランティア」という言葉は使われていませんが、同法が推奨している行為は、通常「ボランティア」として認識されている行為だと考えますので、こういった懸念を抱いているわけです)。

なかばボランティアを教員志望者に強制しているため、現場ではさまざまな混乱と問題が予想されます(この「いろいろと大変だろうけど、とにかく4月からやりなさい」というのは文部省の得意技のようですね(^^;))。法で定められている以上、各種福祉施設は、教員志望者を受け入れることが期待されます。しかし、初心者が手伝いに来る、ということは、普段働いている以上の苦労を、受け入れ側が引き受けるということでもあります。日程調整だけでも大変です。事務仕事もかなり煩雑になるでしょう。

もし、これが純粋なボランティアだったら、ボランティア志望者は、相手を気遣い、相手の都合に合わせて援助をするでしょう。双方が双方の都合を考えながら柔軟に、よりよい世の中を目指してゆきます。その中で人間らしい感性も磨かれ、忍耐、寛容といった美徳も習得されるものだと考えます。

それではなぜ、純粋なボランティアが育たないのか。一つにはまだ日本は中央集権体制が強すぎるからだと私は考えます。例えばもし教員採用の権限(power)が学校長や教員に委譲されていれば、(そしてその権限の乱用防止の工夫が構造的になされていたら)、教員志望者も全国一律の条件で「ボランティアをしなければならない」ということはなくなると思います。権限を与えられた人間が柔軟にかつ責任をもって評価を下して採用を決定すればいいわけです(もちろんその権限を行使した人間は説明責任(accountability)を担います)。権限を与えられた人間が主体的に頭を悩ませ、行動し説明する。それを監視する者も社会のための権力行使とは何かという難問を考え続ける----そうすれば、自発的で定型的でない(本来の意味での)ボランティアを私たちは評価することができます。逆に権限委譲(と権限乱用予防)がなされていないなら、私たちは一定の条件を満たしているか、という官僚的な判断(というより判断以前のチェック)しかすることができません。

日本でもボランティアという文化を育てるべきだと考えます。しかしそのためには分権化を推進しなければなりません。私たち一人一人が権力に対して自覚的でなければなりません。人々にempowermentがなされてない国では、ボランティアは「教育勅語」や「望ましい人間像」に権力を与えるという最悪の結果すらも招きかねません。

とはいえ、法は法。同法は4月からの入学生・科目等履修生に適用されます。関係者の一人としてはこの法によって私たちの文化がこれ以上悪くならないように、いろいろと考え、行動してゆきたいと思います。場合によっては法の改正を考えなくてはならないのかもしれませんが、しばらくは様子をみましょう。主権者は私たちです。


西洋文明の普遍性?(98/1/14掲載)

TIME誌の1998年1月19日号にイラン大統領のMohammed KhatamiさんがOn the Virtues of the Westというエッセイを寄稿しています。主要部分を引用しますと、

We can say with great assurance that a society intending to reach development cannot succeed without understanding Western civilization and the spirit of Western civilization. Societies unfamiliar with this spirit shall never succeed in introducing a positive change in their lives.

Freedom is the essence of growth and development, but the path to freedom is risky and rough. I am of the view that thought cannot be contained and if we live in a free atmosphere, opinisons shall balance each other and logic shall prevail.

発言がイランの要人によるものであるだけに耳目を引きます。かつて私が最初に『歴史の終わり(上)(中)(下)』(フランシス・フクヤマ著、三笠書房知的生き方文庫)を読んだときには、科学技術とリベラルな民主主義の普遍性に関する主張にかなり抵抗を覚えましたが、その後いろいろと見聞を深めたり同書を読み返してみたりすると、その主張にはだんだんと説得されてくる思いです。英語教師の皆さん、あなたはどうお考えですか?「西洋文明」に関してどう批判的かつ的確に考えられるか、というのは英語教師として必須の教養だと思います。機会がありましたら議論しましょう。それこそ自由に。


「英会話学校で話せるようになる?」(98/1/11掲載)

1/7(水)の朝日新聞は「英会話学校で話せるようになる?」という小特集を掲載しました(執筆は長谷川学さん)。「何時間やったら話せるようになりますか」というのが長谷川さんの一貫した質問だったようで、それに対してベルリッツ法人営業部統括部長の大岡文雄さんは「一般論は難しいですね」と断わったうえであえて言うなら「一対一のレッスンで120から150時間前後」と答え、NCB英会話教習所の中川正信さんも「小人数グループで150から200時間」、 NOVAの猿橋さんも「100から200時間」と答えています。そこで専門家代表として尋ねられたのが東京学芸大学の金谷憲さん。しかしこのような大ざっぱな質問に答えることは私たちとしてもできないわけで「責任もってご紹介できるような一般的な定説はないんですよ」と答えています。

とはいえ、これは質問が大ざっぱと言ってすましておけばすむ問題だけでもなさそうに思います。ひょっとしたら私たちの言語習得研究が細かすぎるのではないか、統合の見込みのないままに細分化だけしてしまって、言語(I-language)ばかりに注目し、言語習得する「人間」を記述する認識方法を諦めてしまっているのではないか、と個人的には思っています(このあたりを3/14(土)に開かれる広島大学英語教育学会の第二言語習得部会でまとめてみたいと思っているのですが、それはまた別の機会に)。

確かに現在のような言語習得研究のあり方では、上のような質問は「大ざっぱ」すぎて「学問的」には何にも言えないでしょう。しかしそれでは何もできないのか。そんなことはないはずです。

たとえばこういうデータベースはどうでしょう。ある有志がWeb上にサーバーを開いて、データベースフォーマットを公開します。そこにアクセスした人に、その人の英語学習歴を各自インプットしてもらうわけです。データベースは随時更新・公開され、誰でもそのデータベースを利用して、条件検索などができるようにします。アクセスする人間の全てが情報を共有できるようにしてデータを集めるわけです。

もちろん質の低い情報を集めても何も意義あることはでてきませんから、データベースのフォーマット(質問の仕方)は、何度かのパイロットスタディを経て吟味しなければなりません。またいたずらでインプットをする人を排除するような仕組も必要でしょう。様々な技術的な問題はあります。でも誰かが本気でやれば、ユニークで貴重なデータベースができるのではないでしょうか。

もしかすると英会話学校などでは、そういった独自のデータベースを自分のところでもう作っているのかもしれませんね。そういうデータベースがあるとアドバイスも的確になります。まさに情報は力ですね。でも、できればどなたか公開データベースをお作りになりません?社会に役立つデータベースになると思うのですが・・・・


「英語教育 中四国ネットワーク」のお知らせ(98/1/11掲載)

「英語教育 中四国ネットワーク」の集まりが1/24(土)の10:00-16:30に岡山市の山陽女子高校で開かれます(その後懇親会もあり)。

この集まりは96年の10/26に開かれたものの第二回です。このネットワークの考え方は次のようなものです。

(1)私たちは、英語教育の新しい流れを作ることを目指します。

(2)私たちは、地域・年代の差を越えて、オープンなネットワークによって結ばれています。

(3)私たちは、様々な明確なテーマを定めて、ワークショップと対話を行います。

(4)私たちは、本音で悩みや夢を語り、明日への活力と希望を見い出します。

(5)私たちは、実践と理論、分析と評価を踏まえて、発進していきます。

(6)私たちは、自由に柔軟にこの会を運営します。

私は個人的には、この会はどの集まりにもまして、参加者が対等にしかも素直に話ができる集まりではないかと思っています。顧問は能登原昭夫さん(山陽学園大学)、代表世話人は斎藤泰成さん(岡山県立瀬戸高校)、世話人は佐伯邦章さん(広島県立至誠高校)、丸田温子さん(香川県立丸亀高等学校)と私です。また全くのボランティアで広島営業所の羽田充宏さんをはじめとする(株)桐原書店の方々に事務的なサポートをしていただいております(この尽力には本当に感謝しています)。この会は必要以上に大きくすることはすまい、との判断から研究社や大修館書店の雑誌には広報しませんでしたが、もちろん前回にいらっしゃらなかった方を大歓迎します。もしご興味があれば桐原書店広島営業所(電話082-252-2112)までお問い合わせください。


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