随想97

このページは柳瀬が1997年の9/15から12/31の間に書いた

エッセイを集録したものです

人名に関しては97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しております[実験的に、有名な人名でも例えば「ウィトゲンシュタインさん」などと表記しています(^^)]。この二つの点に関して読者の皆さんのご理解をお願いします。

もしコメントがありましたらyanase@ns1.shudo-u.ac.jpまでお願いします。


年の最後の日経社説(97/12/31掲載)

さあ、今度こそ年賀状を書かなきゃ。大掃除どころか掃除すらまともにやってないし、このままでは社会人・生活者として失格だ、と思っていると、年の最後になって日本経済新聞が社説に英語教育のことをとりあげました(「教師の再訓練と能力向上を図れ----英語を考える」。というわけで、いてもたってもいられず、また快楽機械の前に坐っております。皆さん、私は馬鹿です。

閑話休題。日経の社説が英語教育を取り上げたのは8/20以来です。その社説は言うべきことを明確に言い切ったもので、この欄でも以前取り上げました(「信頼されていない英語教育界」(97/10/01分))。今回の社説は前回のそれとくらべてずいぶん英語教育関係者よりのもので、関係者は抵抗なく読めるものとなっていると思います。主張は次の文章に凝縮されていると考えられます。

今、コミュニケーション重視の英語教育が標ぼうされているが、それが何たるかを真に理解し、生徒に教えることのできる知識、技能、経験、世界観を持った教師がいなければ絵に書いた餅(もち)である。教師不在のまま小学校から英語教育を始めるのも無謀だろう。

また「英語教育に対する英文科や言語学科の影響力がまだ強く、大学の教科の中で英語教育法が十分な市民権を得ていない」と、同社説が英語教育の独自性に理解を示していることは、私にとっても心強い限りです。しかし楽観ばかりしているわけにはいきません。確かに「だめなのは大学での英語教員養成課程」(斎藤美津子さん:国際基督教大学名誉教授)であり、「教職課程での英語教授法の授業時間が不十分」(金谷憲さん:東京学芸大学教授)なので、大学で英語教育関連の授業を充実させればいいとも思えるのですが、肝心の英語教育関係の授業を良いものにするのは、容易なことではないからです。

「容易なことではない」というのは次のような意味です----(1)単に私自身が勉強不足だから、適確にエッセンスだけを伝え、学生自身によく考えさせ行動させる授業を行う力をつけるのは困難だと思っている、(2)英語教育研究がともすれば閉ざされた「形式を整えただけの研究」になっているので、他の研究者(認知科学研究者:、脳科学者、心理学者、言語学者等)にも相手にされないし(「まだそんな研究やってるの」「どこにオリジナリティがあるの」)、また英語教育実践者にも期待されない(「その研究で何が言いたいの」「そんなこと当り前じゃん」)ことが多い(しかし皆さん「大人」だから公的にはそのような発言はめったにしない)。したがって英語教育研究がそのまま良い英語教育に関する授業に結び付くとは素直に思えない[あーっ、この発言でまた同業者に顰蹙をかってしまうんだろうな。でも職業人として正しいと思ったことは言い続けますよ。もちろん間違いは修正しますけど]、(3)その結果として、大学教員と現場教員の実質的な連携プレーがあまり成立していない。

しかし悲観ばかりするのも適切ではないでしょう。なぜなら(1)’個人の勉強不足は努力と情報ネットワークで改善ができる、(2)’action researchのように現実を志向する研究の動きもみられる(「英語教育研究のリエンジニアリング」もそういった試みです(^^;))。(3)’私が関わっているものだけをあげても「中四国英語教育ネットワーク」「英語教育達人セミナー」のように大学の研究者と中高の実践者が実質的に平等に連携している集まりがあるし、このような集まりはその他にもまだまだ全国各地にある、からです。

----ちなみに言いますと、(2)’のような研究や(3)’のような集まりが、今後、いかに英語教育の学界で「正統性」という「権威」をとるか、というのが鍵でしょうね。「権威」は人事や予算といった「権力」の基になります。どんな分野にも「政治」はあるものです。良い意味でも悪い意味でも。私は、少なくとも旧来の日本式スタイルでの「政治」は、個人的に好きではないし、得意でもありませんが、「政治」抜きで社会生活・研究生活・教育生活がおくれると思うほどの坊ちゃんではありません。やれやれ----

というわけで、今後ともに英語教育関係者は、良き研究をし、良き教育を行い、良き政治を目指し、折にふれて「良い」とは何かを自省することが必要、という平凡だけれど結構シンドイ主張でこの駄文を終わります。


妄想97/98(97/12/30掲載)

皆様に年末年始のご挨拶を申し上げます。さて今回は97年を私なりに振り返ってみたいと思います。まとめてみるなら柱は次の三本になります。

(1)情報化の進行:「知識量の増加」、あるいは「パラノイアしか生き残れない」

(2)日本文化の動揺:「fairな社会」、あるいは「第二の富国強兵・経済戦争」

(3)英語教育体制の変動:「一人一人を大切にする英語教育」、あるいは「二極化的荒廃」

まず(1)----情報化の進行:「知識量の増加」、あるいは「パラノイアしか生き残れない」----ですが、97年は情報ネットワークが大衆化しはじめた年として後年の記憶に残るのではないかとも思います。ますます多くの人が当り前のようにe-mailを使い始めました。私自身もこのホームページを開設しました。ネットワークによる情報交換により、私自身にしてもずいぶん仕事が進みました。以前では考えられないスピードと展開で協同作業が進みました。朝パソコンのスイッチを入れたら、協同研究者からのコメントや論考が来ている。ネットワークによるフィードバックがさらなるフィードバックを呼ぶ。いわゆるポジティブ・フィードバックです。

素晴しい知識社会の到来です----でも人間は人間にすぎないということをお忘れなく。知識欲というのは食欲なんかより身体の制約を受けにくいので、その分暴走しやすい性質を持っています。その結果コンピュータという「快楽機械」(鷲田『知の技術者宣言』青春出版社)の奴隷になってしまうことは十分にありえる話です。

情報化社会がこれまで以上に人間にストレスを与えるというのは十分ありえるシナリオです。トム・ピーターズは『経営破壊』を「パラノイアでなければ生き残れない」という引用から始めましたが、これは情報化社会の荒々しい一側面をいい当てた真実なのかもしれません。97年は私にとって情報革命の年でした。98年はそれを受けて、情報化社会の中にありながら、自分も他人も大切にする術----あるいは、情報技術を「命」を大切にするために使いこなす術----を覚えなければならないと思います。

次に(2)----日本文化の動揺:「fairな社会」、あるいは「第二の富国強兵・経済戦争」----です。経済を中心に97年は、これまでの日本のやり方に対する信頼ががたがたになりはじめた年でした。うまくゆけば、これまでの同族・血族・身内だけを優遇して、部外者・新参者・ただの人を疎外してきた日本の悪しき習慣が廃れて、(広い意味で)社会の一員である限り平等な機会が与えられ、各人の努力(と運)によって「公正な格差」がつくことを社会的に認知する、開かれた競争社会が到来するのかもしれません。

しかし、もし私たちの意識改革が進まず、世界的競争時代の過酷な現実ばかりが視界に入ったら、同族・血族・身内だけを守ろうとする「滅びにいたるリストラ」が進行するだけなのかもしれません。明治維新の富国強兵と戦後の経済戦争を、今度は日本国ではなく、同族・血族・身内を単位として繰り返してしまうのかもしれません。しかし、もし「富国強兵」や「経済戦争」が、既にある目標に「キャッチ・アップ」する戦略にすぎず、「開かれた社会」を必要とする情報化時代では全く通用しない時代錯誤のやり方だとすれば、そういった同族・血族・身内も、ますます閉ざされ、ひたすら衰退の道をたどるのかもしれません。私としては98年は、「国際化」というバブル時代の国粋主義的な言葉をきっぱりすてて、「開かれた社会(open society)」をキーワードに物事を考えてゆけないものかと思っています。

これらの(1)と(2)の要因をうけて(3)----英語教育体制の変動:「一人一人を大切にする英語教育」、あるいは「二極化的荒廃」----を考えてゆきましょう。97年は「英語が大学入試からはずれるかもしれない」というこれまでは「考えられなかった」可能性が浮上したり、小学校への英語教育導入計画が不明瞭なまま急速に話題にのぼった年でした。また広島県では「総合学科制」の導入などで特徴ある英語の科目が求められるようにもなりはじめました。英語教育体制はまちがいなく変わって行くでしょう。

良いシナリオは、英語教育が情報革命と開かれた社会の精神と実質を正しく受け継ぎ、一人一人----これは学習者だけではなく、教師も、関係者も含んだ意味で言っています----を大切にする英語教育が、各所の試行錯誤の中からほうぼうで生まれ始め、それらが進化をとげるというものです。

私の考える悪いシナリオは、英語教育が情報革命の実質だけを受け止め、開かれた社会の精神を理解しないというものです。その場合、英語教育は一部の人間(エリート)だけには整備されそれなりに効率も上がるものの、残りの「ただの人」には現在以上に荒廃した(英語)教育を申し訳程度に与えるだけになるのかもしれません。もし日本が他の国と大差ないのなら----私はこれを信じて疑いません----社会の極端な二極化、「不公正な格差」は社会の停滞を生み、しばしば暴力や犯罪を招きます。このシナリオは現在の日本で「恵まれた集団」にいる方々にとっても好ましくないシナリオだと思います。

「情報化社会」にしても、「開かれた社会」にしても、これらを理解し実践しようとすれば、英語ができることがいろいろなところで必要になってきます。しかもこれまでのようなお客さん気分のようなレベルではなくて、公正な競争社会の一員としてのレベル----かつて以上の高度なレベル----で必要になってきます。英語教育関係者の責任は98年にかけてますます大きくなってくるのではないでしょうか。


教員養成に関する大学の責任(97/12/25掲載)

12月25日のThe Daily YomiuriはThe Baltimore Sun紙のDavid Folkenfilkさんによる記事Teacher Training blamed for poor reading skillsを転載しています。同記事は、"Whole-language" methodが過大評価されるあまり、phonemesやphonicsが一部では無視されて、初等教育現場に混乱と識字力の低下が見られるようになったことを報告しています。

しかし同記事の最後の3分の1は大学と教育現場(現場教師・保護者)の意識の乖離についての報道になっています。教育問題の根幹の一つは、大学が現実的な研究・教育を行っていないところにある、というのがテーマのようです。識者の引用をそのまま転載しますと、"Teachers always report that their college education hasn't prepared them for the realities of the classroom", "Mainstream educators are being taught faulty ideas that will stand them in faulty stead when they get into the classroom. Basically, we need to start over. We need a systemic, sweeping change in the way teachers are prepared."といったものです。

これらの批判を受けて、アメリカの主な大学の教育学部長もメンバーに含むthe Holems Groupは次のように声明を出していると同記事は報告しています。

"No amount of excusatory rhetoric can exonerate the university's share of responsibility for the shortcomings of public education," the Holmes report stated. Colleges and universities that prepare teachers "should either adopt reforms that link their educational contributions closely with improved schooling for America's young or surrender their franchise."

実際、シカゴ大学の102年もの歴史をもつある教育プログラムも"the department was too detached form children's classrooms"と結論づけられ、廃止に追い込まれたそうです。

おりから日本でも教育学部の学生定員が5000名削減されつつあります。ですが、この削減で終わりというわけでもないでしょう。今まで、私たち教育研究に携わる大学関係者は、現場の荒廃をどこか対岸の火事のように言いくるめる術(excusatory rhetoric)を無意識のうちに洗練させていたのかもしれません。しかしこのまま教育現場の荒廃と国家財政の危機が進行すれば、そのような「洗練された」語り口など一気に勢いを失ってしまうでしょう。今一度私たちは初心に帰って、自分たちの研究教育活動の社会的責任について考え直すべきでしょう----そうする余裕があるうちに。


神は死んだ、父は・・・?(97/12/22掲載)

日本経済新聞のコラム「大機小機」は短いものですが、それだけにパンチが効いたものであることが多く、私は愛読しているのですが、12月20日の「一隅」さんによる「アジアの『降伏』と米国」はことのほか興味深く読みました。同コラムはこう書きます。

それにしてもアジアの金融危機は国や企業経営のありように一つのモデルを示した。家父長的で情報を一部のエリートが独占する独裁型経営の多くが壁にぶつかり、代わってチアリーダー型のCEOのもとで権限委譲を進め、情報を共有する全員参加型の経営が競争力を持つ。グローバル市場とはF&F(自由でフロー重視)の世界のことで、その対極にあるR&S(規則とストック重視)型の経営に安住した企業は駆逐される。

市場経済を原理にする国なら、次の四本足で立たなければならない。(1)法による統治(2)腐敗がなく小さくて効率的な政府(3)対等な競争条件(4)情報公開と報道の自由----である。

私はハイエクを読んで以来、市場原理は経済の話だけに限られた原理ではなく、進化や自由社会の考えともつながる一般原理だと考えるようになりました。英語教育に関しても、(批判的に)市場原理・進化・自由社会といった観点からできるだけ考えるように努めています。そうしますと、上の四つは私にとってもキーワードになってきます。しかし乱暴な言い方をすれば、英語教育にしても、そもそも日本国にしても、上とは異なるあり方になっているとはいえないでしょうか。すなわち(1)’裁量による統治(2)’「善意」を語りながら大きくなり自己利権を生み出す政府(3)’規制により歪められた競争(4)’情報の独占と報道の遠慮----です。このやり方は、目標が、単一単純な場合はうまく行くのですが、価値観が多様になり、社会がこのように複雑で高度知識社会になりますとどうもうまく行かないといえるのではないでしょうか。

欧米社会は、私が思いつくままにあげても、フランス革命などでの王殺し、二ーチェの「神は死んだ」という告発、啓蒙的近代文明の地であったはずのヨーロッパでの第一次世界大戦、ホロコーストを生んだ第二次世界大戦、JFKというアメリカの「王」殺し、近代文明による環境破壊、ジョン・レノンの"God is a concept by which we measure our pain"という歌声、共産主義という善意的理性の崩壊などなどの様々な象徴的な出来事によって、「神」----善意と真実を一身に象徴する存在----はこの社会には実在しないこと、この社会とは人間によるものにすぎないこと、あるいは「人間」を構成している諸原理の複雑な相互作用の所産にすぎないこと、を少しずつ理解してきたのではないか、と私は考えています。もちろん欧米社会にも今でも神の実在を心から信仰する人はいますが、大きな流れにおいては欧米において「神は死んだ」と言えるのではないかと私は考えています。

アジアにおいては一神教的な考えは少ないので、そもそも「神は死んだのか」という議論がピンとこないのではないかと思います。しかしアジアには「父」----厳父であり慈父でもあり、家を治め導く存在----が強く存在しています。「父」は正しく、「父」に従うことが究極の解決策というような考えがアジアではまだ強いとは言えないでしょうか。

もちろん「アジア」といっても様々な文化があるのですから、上の意見は乱暴なぐらい単純すぎる意見でしょう。日本にしたって「父」の権威は第二次世界大戦の終了と共に消えてしまったのかもしれません。しかし多くの日本人はまだ「お上」の権威を信じているのではないでしょうか。

敗戦後に「一億総ざんげ」をしてしまい、近年において総理が投獄されても、大蔵省官僚が不正をしても、厚生省が血友病患者を見殺しにしても、阪神大震災やペルー大使館人質事件で政府の危機管理能力が低いことがわかっても、日本人は「お上」をまだまだ信じているのではないのでしょうか。今回の金融不安にしてもどうして数々の銀行から郵便局に貯蓄を移してしまうのでしょう。どうして外資系金融機関に預けたり、そもそも「円」を絶対視することを止めたりしないのでしょう。あるいは『週刊金曜日』の「裸の司法」というコラムでも書いていましたが、どうして日本のドラマは、現代劇にせよ時代劇にせよ、司法当局が腐敗したり誤ったりする題材を扱わないのでしょう。日本は「お上」という幻想をいつになったら捨て去ることができるのでしょう。

日経の同コラムは最後にこう書きます。

アジアの時代は復活するか、との問いにマレーシアのマハティール首相は「アジアの時代ではなく、グローバルな時代なら確実にやってくる」と言い切った。

発言が、まさに「アジアの父」の一人ともいえるマハティールさんのものだけに、この発言は重く感じられます。やはりフランシス・フクヤマさんが言うように「歴史は終わった」のでしょうか。ヨーロッパでは神が、アジアでは父が死んだのでしょうか。それともこの「アングロサクソン体制の勝利」が歴史のアダ花に過ぎないのでしょうか----英語教育からは離れたトピックになってしまいました。でも英語教師として英語と接している私にとってこのような文化的なトピックは、もっとも気になる話題です。


現代の日本語空間と英語空間(97/12/16掲載)

実は今風邪をこじらせて結構シンドイのですが、そんなこととはおかまいなしに今年も「世界の言語と文化」という複数担当科目で講義をする順番がまわってきました。今年は、「現在日本で英語を学ぶという意味を考えてもらうこと」を目的にしました。『2020年からの警鐘----日本が消える』『2020年からの警鐘(2)----怠慢な日本人』(日本経済新聞社編、1997年、日本経済新聞社)、『JAPAN2020 不機嫌な時代』(ピーター・タスカ著、1997年、講談社)からの引用に基づきながら、現在日本語空間(だけ)で生活するということがどういうことを意味しているのか、また英語空間がどのような光と影をもっているのか、ということについて考えを深めてもらうことを狙っています。これを機会に学生さんが新聞を読みこなす習慣をつけてもらえればとも思っています。上記の本の引用に興味のある方は「現代の日本語空間と英語空間」をクリックしてください

追記:12/18の19:00よりきちんとリンクがはれるようになりました。それ以前にアクセスした方、お手間をとらせました。


デジタル時代の英語教師(97/11/30掲載)

先日(1997年11月25日)広島県高等学校教育研究会英語部会尾三地区支部の1997年度研究大会で60分の講演をさせていただきました。ALTの方がいらしたので、だいたいの説明を英語で行い、伝え切れないニュアンスや補足の説明をするのに日本語を使いました。"The most exciting!"から「今晩帰ってもう一度よく今日の話の意味合いを考えてみたい」あるいは「今までもやもやしていたことがはっきり整理された思いがする」といった感想をいただきました。私は人間が単純ですから額面どおり言葉を受け取って嬉しく思いました。お呼びくださった方、送迎などの準備をしてくださった方本当にありがとうございました。私にとって話をさせていただくということは、自分の理解がどれだけ皆さんに受け入れられるかを直接知ることができる貴重な機会です。また会の前後の交流でもいろいろな現場の話が聞けて勉強になりました。その意味でこの会で一番勉強させていただいたのは私なのかもしれません。重ねて感謝申し上げます。

講演は「The End of English Language Education As We Know It----デジタル時代の英語教師----」というものでした。実はこの原稿は、数ヵ月前、あるところで活字にしてもらうことを夢見ていたのですが、それに失敗しましたので(^^;)、お蔵入りさせていたものを、改編したものです。話は大局的なものなので、学術論文にするには必ずしもふさわしくないものかもしれませんが、テーマはきわめて現代的で、私個人の(恥知らずの)身ビイキ的見解としては、できるだけ多くの英語教育関係者に読んでいただきたいと思っているものです。というより、早く私がこの講演でお話ししたことが、当り前のこととして認識されることを望んでいます。早くというのは、できれば今から数ヵ月以内で、ということを意味しています。それほどに世の中の変化は激しい、というのが私の認識です。

講演内容にご興味のある方はここをクリックしてください。残念ながらレジメのままですが、要旨はご理解いただけると思います(もし、私のこの講演内容など、もう既にみんなわかっていることだ!と主張される方があれば、皮肉でなく私は嬉しく思います。それなら次の具体的行動にうつりましょう。しかも素早く確実に)。


Power to the People ----「英会話喫茶」について(97/11/30掲載)

1997年11月25日の朝日新聞は「英会話喫茶」の記事を掲載しました。「英会話喫茶」とは、音楽が流れたりして雰囲気は普通の喫茶店とは変わらないものの、英語のレベルに応じて初級者、中級者、上級者向けにテーブルが分けられ、それぞれのテーブルに英語圏出身の「講師」がついて皆が気軽に話をする喫茶店なのだそうです。「入学の時に授業料を一括納入することの多い英会話学校に比べ、いつでも行けて、いつでもやめられるので授業料に無駄がない」点が受けているそうです(同記事では大阪市西区の「英語カタコト喫茶WOODY HUT」、京都市右京区の「T&C」、大阪府池田市栄本町「K1」が紹介されていました)

私は個人的にはこのような流れを好ましく思っています。いやもっと加速するべきだとさえ思っています。日常の会話の技法とは本来、人から人へと信頼と共に伝わるものであると考えるからです(cfM.ポラニー『個人的知識』ハーベスト社をぜひお読みください)。教師一人対生徒数十人といった人数比をはじめとしたさまざまな規制にがんじがらめになった文部省管轄下の学校では、なかなかそういった技法が伝わりにくいのかもしれません。経営の観点から「講師」と「生徒」の間に信頼関係が時に成り立ちにくい(?)英会話学校でも難しいのかもしれません(皆さん、虚心坦懐に自問自答してみてください。皆さんの間で英語に長けた人は、どこでどうやって学んだ人ですか?)。そういった点で、informalで、それだけに個人的な信頼関係に基づいた「英会話喫茶」という新しい学びの場が出てきて、英語による日常会話の技法を学ぶ環境の選択肢が増えたのは学習者にとって朗報だと私は考えます。

ですが私は、この流れが一層進んで、日本の中でさまざまな言語による共同体が自然発生し、その中で日常の言葉の技法と作法が、経済関係とは独立して学ばれるようになればさらにいいと思います(この状況が一層進行するとアメリカの「標準語設定」のような問題がでてくるのかもしれませんが、日本が近いうちにそこまでいくとはあまり考えられません)。言葉は民衆(=people、私たち。それにしても「民衆」という言葉は響きが固いですね)のものです。言葉を教え伝えることは、できるだけ民衆の力に委ねるべきではないでしょうか。なにより民衆の言葉は生きています。生きる力に満ちています(例えば、方言で語られるモラルを、標準語での説諭よりも私はむしろ信じています。もちろん標準語による語りに生きる力がないというわけではないのですけど)。

言葉の学びが、より民衆の手に委ねられたとしても、それで学校の役割がなくなるとも思いません。学校は民衆の言葉の力を補完し発展させ跳躍させる、固有の役割をもつべきだと私は考えます。学校が民衆の力をそっくり代替できると考えてはいけないと思いますし、またそう考えることは論理的誤謬(?)ですらあるかもしれないと考えます。Power to the People.

追記:この点で私はCS放送PerfecTVのOkiDokiに注目しています。彼/彼女らの喋る言葉は、仮に「正用法」からはずれることがあるにせよ、まちがいなく彼/彼女らの身体に根付いている言葉だと思います(いや、別に私が個人的に、「マリリン」という番組に出ているシルヴィアさんのファンだからお勧めしているというわけではないんですけど・・・・(^^;;)。


「よい授業」とは(97/11/29掲載)

先週、英語科教育法の授業でCommunity Language Learningを扱いました。この教授法は、私が学部生として学んだときには今一つピンとこなかったのですが、佐伯胖さんや佐藤学さんの論考を経た今となっては、私にとって非常に興味深い考え方になりました。

ところがその私の個人的な思い入れとは裏腹に授業の討議は、なぜか今一つ盛り上がりません。そこで、というわけでもありませんが、『英語教育』12月号の記事をネタに菅正隆さんの話をしました。俄然学生が興味を示しはじめます。「発想を広げる」ということ、「創造的」であるということ、の意味を菅さんの実践に即して考えなおしながら、教師と様々な学習者から構成される「クラス」という学習共同体に話をもってゆき、『現代英語教育』12月号の岩本京子さんと楠部知佐子さんの記事を抜粋して朗読しました。教室がシーンと静まり、食い入るような目で私を見つめる学生も沢山出てきました。以下にあげるのはその朗読した記事の一部です(静哲人さん、田地野彰さん、三浦孝さんの記事もおもしろかったのですが、時間がなくて授業では紹介できませんでした)

岩本さんはこう言います。

「楽しい活気にあふれた授業をしてやりたいという善意からなのだけれど、教師は「いいクラス」を基準にして、授業はかくあらねばならないという思いを持ちがちである。その基準があると教師はどこかで生徒にむかって「このクラスはだめ。授業しにくい」というメッセージを送ってしまっているのだと思う。反応のないクラスを「いいクラス」に近づけようとして意図的に誉め言葉を多くしても、無意識の内に一方でそういうマイナスのメッセージを送っていると、生徒はどこかで嘘っぽさを感じてしまい、彼らの気持は教師に対して閉ざされていくだけだろう」

ノリの悪いクラスで気詰まりなのは教師だけでなく、生徒も気詰まりなのだ、と私が言うとうなずく学生が出てきます。

「大村先生のように生徒ひとりひとりに合った教材を用意することはできないし、クラスによって教材を変えることもできないけれど、授業のやり方をクラスによって変えるくらいはできる。中学や高校では同じ教材で同じ授業計画で数クラスを教えるのが当たり前のようになっていて授業準備の効率を考えればそれでもいいのだけれど、のりの悪いクラス用の授業計画をたててもいいと思う。授業のし易い活発なクラスに近づけようとするのでなく、そのクラスに合わせて授業の方法や手順を考える。同じ方法を取る場合はそのクラスにどこまで期待するか明確に意識しておく」

なるほど、といった顔つきをする学生がでてきます。

「教室で取り組む活動が多彩だと不思議なことに「どの活動についても一番よくできるクラス」というのがないのである。必ずそのクラスに合った活動があり、その時を捉えてこころからほめる----これをどのクラスに対してもしたいものである」

続いて楠部さんの記事を紹介します。

「私は一つの教訓を学んだ。あるべき授業とは、どこに出しても通用する授業では無く、それぞれのクラスに合わせて組んだ授業のことなのだと」

私の英語科教育法でのテーマの一つは「唯一最上の教授法を決定しようとすることの愚を理解する」ことなのですが、ここでもその論点を確認します。

「あるべき手順、指導法を知っておくことは必須だがそれに縛られてはいけない。豊かなストックを持った上で、その日のその時限の目の前のその生徒達と教師自身の状態を重ね併せてその場に最適の方法を選んでゆけること。それがしらけない授業への道であり、選択肢をどれ程持つか、そして経験と勘に裏打ちされた判断力の確かさこそが私たちが目指すものなのではないだろうか」

授業の終了時間が近づいてきました。いつものように学生さんにその日の感想を書いてもらいます。以下は、その感想のごく一部です。ほとんどの学生さんが上の記事に共感していました(共感できない、反対だ、などと書いてきた学生さんは皆無でした。ちなみに私の授業では、納得できないなら、正直にそう書くことを奨励しており、実際に批判的な感想をよこす学生さんもいつもなら数人はいます)

「クラスによって授業の仕方を変えるべきだという話は本当にそのとおりだと思いました。個人個人の性格が異なっているのと同様、クラスの雰囲気もクラスごとに変化があって当然だと思いました。でもそれと同時に、同じクラス内でも日によって元気の良さ、態度が異なる場合も充分考えられるので、そのへんがまた難しいなと感じました。私が今までにうけてきた授業でおもしろかった先生はどんな授業をしていたかを思いだすことは少しむずかしいけど先生と生徒たちがいい関係で授業ができていいたと思います」

「私の知っている先生で(中3の社会)こんな人いるのか!というくらいunbelievableな先生がおられました。その方は本当に単々と黒板に向かい一人で授業をやっているのではとさえ思うほど自己中心的でした。白、赤、黄のチョークを持ちひたすら黒板に書きつづり、少しも待ってくれず説明して、時間になると帰っていきます。うそではありません。全くひどい方でした。今日あの方が教えられていないことを祈ります」

「授業案をねりにねっても、それは机上の空論っぽい所があるかもしれないです。実際に教壇に立ったら、予定になかったこともおこるだろうし、異様にクラスの雰囲気が悪かったりするかもしれません。そういう時でも、生徒をひきつけて上手な授業をできるかが教師のうでのみせどころだなと思いました」

「今ごろ、時々、どのように教育実習をしようかと考えることがあります。多分、今日の話をきくまでは、どのクラスにも同じやり方でやるつもりだったのではないかと思います。(略)教育実習は、ただ教壇に立ってモノを教えることを実感するだけでなく、そのクラスから感じられる雰囲気をくみとって、それに応じたやり方をすることを体験するものでもあると思います」

「「研究結果でこの授業案がいいからこれを取り入れよう」と思う前に、先生方がそれぞれの授業案を考えた方がいいと思います。これが"whole person"として生徒を考えることだと思う」

「AとBのどっちの授業案がいいか、それで統計をとるのもいいと思いますが、あくまで参考であって、「AがよかったからAを採用しましょう」では、画一的で、個性を伸ばそうなどといわれている今日には不十分だと思いました」

「同じものは二度とつくれないものなんですね」

私は教授法の優劣に関する「比較実験」研究には一貫して懐疑的であり、批判的です。その理由は、比較実験は、比較する対象(この場合なら教授法)の同一性が保障されてはじめてなりたつからです。実験中の数カ月間にわたる教授法、あるいは実験空間以外でその教授法として認識され実践されている教授法の間に同一性が確保されてはじめて比較実験は意味をもちます。

ですがまず第一に私は実践者の一人として、数カ月間、あるクラスにある一定の(厳密に定義された)教授法を貫くということができません。教師としての感性がそれを許しません。どうしてもそのクラスに合わせて教授法をはじめとした当初の計画は変化(進化)してゆきます。教授法の比較実験研究で教師役を勤めた方、このあたりどうお感じになります?(私の同僚の体育の先生によると、体育の指導法の比較実験研究では、指導法の厳密な同一性が保てないことは暗黙の了解事項になっているそうです。「それなら実験結果は目安にすぎず、極論すれば『実験』など必要ないのではありませんか」と問うと、「それは考えの違いでしょう」という答えが返ってきました)

比較実験研究に批判的な第二の理由は、教授法が、教師や学習者あるいは学習環境が異なる中で、同一性が保てないのだから、ある実験結果を一般化することには意義が見い出せないからです。実験とはさまざまな現象を捨象して理念を純粋化して行うからはじめて意味があると私は理解しています。そしてその純粋化された理念が操作的に適用される時に実験結果は意味をなします。ですが研究対象の理念が、そもそも(純粋化して)操作的に扱うことに困難があるものなら、実験研究でなく、観察研究の方が望ましいのではないかと私は考えます。

第三の理由は「教師の力量」に関わるものです。上でも示唆しましたように、私は教師の力量とは唯一最上の教授法を正確に何度も再現できることでは決してないと考えています。いい授業とは、教師と一人一人の学習者と教材が相互作用と相互浸透を繰り返しながら、自己組織化してくるものだと思います。教師の力量は、いかに自分自身と一人一人の学習者と教材の間にフィードバック・ループをつくりあげ、それらをそれぞれに変化(進化)させ、他ならぬ「このクラス」を作り上げることだと考えます。優れた教師は、学習者(や教材)だけでなく自分自身をも必要に応じて変えることができる存在だと思います。よい授業とは、予め具体的に決定できるものではなく、さまざまな要因の相互作用の歴史から自己組織化するものだと考えます。よい授業について私たちが語りうるとすれば、それはその普遍的な像ではなく、その諸原理と諸原理間の関係、あるいは事後的な記述にすぎないと思います。この意味で複雑性の議論の理解は授業研究者には不可欠だとも私は考えています。

こういった考えから私は教授法の比較実験方法には批判的です。比較実験をやっている方のお考えを聞きたいところです。事は実験方法の瑣末な詳細に関わることでなく、授業や教育の根本に関わることだからです。

一方で私は実践者の方がこれからもどんどんと自由に自らの経験を(整理して)語っていただきたいと思います。その際に、「学者」の言うことが納得できないなら、どんどん批判したり無視してくださればいいと思います。英語教育に「知の最前線」があるとすれば、それは部屋にこもって本ばかり読んでいる人間のところにあるのではなく、現場で現実と身体ごとぶつかっている方々のところにあると私は考えます。

追記:誤解する方はいらっしゃらないとは思いますが、上のような議論で私が批判しているのは科学や実験という方法そのものではありません。それらを否定すれば私は大学を去らなければならなくなるでしょう。私が批判しているのは科学や実験という方法の誤った適用です。(「教育研究と実験」にご興味のある方はここをクリックしてください)


英語教育の情報公開(97/11/18掲載)

以前この欄で「研究開発学校での小学校英語教育の実践報告の公開を望みます」と書きましたら、ある方からある小学校での実践報告を送っていただきました。このホームページを始めてから、思いがけない時に思いがけない方から反応をいただき、私はその度ごとに力づけられる思いです。お送りいただいた方にこの場を借りてお礼を申し上げます。

で、この欄で、その実践の報告を・・・といきたいのですが、どうもこの報告は広く公開してはいけないような雰囲気なのだそうです。そういえば以前研究社の『現代英語教育』が調査をしたときも、情報公開を躊躇する学校が少なくなかったように記憶しています。堂々と情報を公開することができないので、個人から個人へとひそかにコピーが渡され、噂が広がってゆく・・・あれっ、これって、昔の東欧やソ連の話じゃないの?日本って民主主義国家でしょう。もしうまくいっていないことがあるのなら、それこそ貴重な情報です。どんどん情報を公開しましょうよ。それとも国策に反する情報は公にするべきでないとでも言うのかしら。でもそれは独裁国家での話でしょ。

おりからも今日の朝刊は教育課程審議会の「中間まとめ」について報道しています。文部省のホームページ(http://www.monbu.go.jp/singi/00000128/)を見ると次のような一節もうかがえます。

このような激しい変化が予想される社会において、主体的、創造的に生きていくためには、中央教育審議会の第一次答申においても指摘されているとおり、自ら考え、判断し行動できる資質や能力の育成を重視し、個性を伸ばし、国際社会に貢献できる人間を育成していくことが必要である。そして、そのためには、これからの学校教育においては、知識を一方的に教え込むことになりがちであった教育から、自ら学び自ら考える教育へと、その基調の転換を図り、子どもたちの個性を生かし、学び方や問題解決などの資質や能力の育成を重視し、実生活との関連を図りつつ体験的な学習や問題解決的な学習にじっくりとゆとりをもって取り組むことができるようにすることが極めて重要であるということである。

「総合的な学習の時間」(仮称)のねらいについては、各学校の創意工夫の下で行われる横断的・総合的な学習を通じて、自ら課題を見つけ、よりよく課題を解決する資質や能力の育成を重視し、自らの興味・関心に基づき、ゆとりをもって課題解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度の育成を図ることとする。また、知識内容を教え込むのではなく、情報の集め方、調べ方、まとめ方、報告や発表・討論の仕方などの学び方やものの考え方の習得を重視し、主体的な学習を推進するとともに、各教科、道徳、特別活動それぞれで身に付けられる知識や技能を児童生徒の中で総合化することをねらいとする。

もしこの方針が本気なのなら、まず教師の一人一人が「自ら考え、判断し行動できる資質や能力」を育てることができ、「自らの興味・関心に基づき、ゆとりをもって課題解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度」を持つことが大切です。文部省は是非教師が自由にものが言える環境をつくってください----いや、この言い方は正しくありません。主権者は私たち一人一人です。お互い自由に発言できる権利を(乱用することなく)尊重し、成熟した自由社会をつくりあげましょう。必要ならば勝ち取りましょう。

現在、日本の政治・経済・教育ともにズタズタと言っても過言ではないと思います。北朝鮮に亡命する日本人が出始める前に(^^;)、自由社会らしく情報公開を促進しましょう。

追記:このような情報公開の主張をすると、「『知らしむべからず。依らしむべし』の深い意味(cf安岡正篤)を知らぬ軽薄なエセ進歩的文化人め」とお嘆きの方もいるかもしれません(^^)。しかしハイエク哲学に(批判的に)納得する私としてはあくまでも情報の自由な流通の原則を支持します。ある知者(の集団)が、自らこそが社会を指導できると考え、世人はそれに忠実に従えと主張するなら、それこそがFatal Conceitです。研究者のはしくれとして私はそんなFatal Conceitを徹底的に批判します。

追記:小学校のなかでも、報道された直島小などは積極的に情報公開をしているようだというメールをいただきました。また以前の『現代英語教育』の調査で情報公開を躊躇したのは2校だったそうです(97/11/24)。


国語教育シンポジウムに参加して(97/11/16掲載)

国語教育の若手研究者の集まりである「福助の会」主催のシンポジウムに参加させていただきました。私は英語教育研究の立場からということで、「英語教育研究のリエンジニアリング(Ver.2)」を発表させていただきましたが、数々の交流を通じて私自身非常に勉強になりました(お世話くださった皆さん、本当にありがとうございました)。またいろいろな方に「おもしろかった」と言っていただいたのは私にとって励みになりました。ですが当然批判もいただきました。以下に書くのは、私にいただいた批判の中で印象に残ったものの一部です(「英語教育研究のリエンジニアリング」を読まれたことのない方は、上の箇所をクリックするか、この文章全体を読み飛ばして次の随想に進むことをお勧めします)。

ある方は学会批判をするにせよ、歴史的研究・分析は必要だと指摘してくださいました。とかく抽象論に流れがちな私にとっては覚えておかなければならない台詞だと思いました。

またリエンジニアリングの中に出てくる諸理論の整合性は大まかなところではよいと思えるものの、細部での不整合があるのではないかというご指摘と、私が最終的に依拠している理論(家)は何かというご質問もありました。時間がありませんでしたので、お互いに細部を具体的に検討することはできませんでしたが、私は次の様に答えました。(1)細部の検討は絶対に必要ですので、常に自分の課題にしなければならないと思います。(2)ですが、それをふまえた上で敢えて言えば、私にとっては英語教育の現実問題をうまく扱えるかどうかというのが最大関心事であるべきであり、理論解釈の正統性は(理論研究家にとっては許し難いことかもしれませんが)二義的であるべきだとさえ思います。(3)したがいまして、私は「最終的に依拠する」理論(家)を決めないことを方針としなければならないとさえ考えます。(4)英語教育研究者が仕える「デーモン」は、特定の理論(家)ではなく、英語教育の現実だと考えます。(1)に関しては謙虚に受け止めますが、同時に英語教育研究者としては(4)の態度は堅持したいと考えます(とはいえ、まだ私は「英語教育の現実」を具体的に捉えていないというのが現実です。これは本当に反省しなければなりません)。

その他にもシンポジウムの内外でいろいろな対話を楽しみ、様々なことを学んだのですが、今すぐにはそれを短くまとめることはできません。シンポジウムの内容をまとめる計画もあるとも聞きますのでそれに期待し、今日のところは、今一度関係者の皆さんにお礼を述べて、私としては報告にもならない単なる感想をしたためたということにさせていただきます。


英語評価のリエンジニアリング(97/11/11掲載)

朝日新聞97年11月10日版は、第11面のおよそ四分の一を使って香川県の研究開発校である直島小学校の英語教育の試みについての記事を掲載しました。私は直接はこの実践のことを知らないものの、人から話を聞いていたり、ビデオを見せてもらっていたりしたので、ことさらに興味深く読みました。

その記事のポイントを私なりにまとめますと、(1)「教え込む姿勢」をとっている時は結果が思わしくなかった、(2)リズムを取り入れることにより事態が好転した、(3)教員の事前準備はたいへんなものだった、(4)中学校の英語教育への橋渡しが今後の課題である、となります。

ここではごく簡単なコメントを加えておきます。(1)については小学校のみならず当てはまることだと考えます。情報・知識が氾濫する時代には、「学びたい」という意欲が自然と学習者に湧かない限り、学習はことさら無味乾燥なものになりやすいと考えます。(2)についても優れた英語の授業ではいつも言えることで、優れた実践は必ずと言っていいほど、英語という言葉の身体性を強調しています。近江誠先生の名著の表現を借りれば、(協調的に)「頭と心と体を使う」学びこそは、優れたことばの学びの必須条件であるというのが私の確信です。(3)は、今後の大きな課題になると思います。研究開発校という条件下で教員増がなされても大変だったのですから、もし英語教育が全国的に導入されれば、いろいろな現場で混乱と挫折感が生じるのではないかと懸念します。もし2003年から何らかの形で外国語(英語)を小学校に導入するとしたら、ものすごい急ピッチで準備をしなければならないと考えます。最低限、各県の研究開発校の指導案などの資料は、印刷物やWebで公表する必要があると私は考えます。少なくともWebなら、テキストファイル転換などによりワープロ資料も簡単に公表できますし、公開に伴うコストも最小限におさえられます。研究開発校の教員の負担増をむやみにに望んでいるつもりはないのですが、一考をお願いしたいと思います(もしかしたら私が知らないだけで、結構公開されているのかもしれませんね)。

(4)は英語教育研究者にとって大きな課題だと思います。多くの小学校の英語教育の試みでは、試験による評価のない「遊び」による実践を行っています。自発性、創造性の面から、「遊び」は教育にもっと導入されるべきで、むしろ「遊び」から教育を捉え直すべきだとも考えますが(cf.京都大学の矢野智司先生の論考)、これを高校入試、大学入試に象徴される中等教育の「評価」の体制とどう折り合いをつけるか、というのはきわめて現実的で重大な問題です。

多くの場合「評価」は、(A)言語の諸研究の知見に基づく、具体的な教育内容の事実の論理と、(B)教育学的論考に基づく、教育の目標・理想に関する規範の論理と、(C)テスト論やテスト実施条件などに基づく、テストの現実の論理が、相互に影響を及ぼし合い、その結果としての(世俗)権力システムをつくりあげることになりがちです。従来、英語教育の「評価」は、「受験英語」として批判される、妥当性が疑問視される(世俗)権力システムをつくりあげてしまいました。この愚挙----と敢えて言っておきます----を繰り返さないためにも、小学校への(何らかの形での)外国語(英語)教育導入を機会に、評価を考え直し、再デザインする必要があると思います。そもそもなぜ英語を評価しなければならないのか、という根本的な点からスタートする英語評価の「リエンジニアリング」が求められていると思います。評価論に詳しい方、どうお考えですか?

追記:11月11日の朝日新聞第1面は、文部省と教育課程審議会が、中学校の外国語(英語)に関して、「週あたり3単位を必修とし、さらに学校の判断で1年生には1単位時間、2、3年生には2単位時間まで選択授業として上乗せできるように検討する方針を固めた」と報道しています。私はdecentralizationとempowermentという原理から、この方針に賛成します。もちろんその際には「学校の判断」が正確に何を意味するのか、およびそれには学習者およびその保護者の判断が含まれるのか、等といった点での批判的吟味が必要であることは言うまでもありません。私たち一人一人が自ら持つ(べき)powerを自覚し、その行使に関して相互の議論を重ねるべき、というのが私の意見です。その意味では、仮に上の方針が「学校の判断によって、英語授業は2単位を限度に増加も削減もできる」となっていたとしても私はその方針に賛成するつもりです。

追追記:ある方から次のようなコメントをいただきましたので、上の本文を一部修正し、かつその方のコメントの一部を下に紹介させていただきます(97/11/12)

「本来、教育でevaluation というとそれは、教育プログラムがうまくいくかどうかを見るというように、用語を使うそうです。本来はそれで、教育プログラムの反省をするはずのものだそうです。が、日本では学習者の能力判定のみに帰せられ、「ものさし」代わりに用いられてしまいます。これは柳瀬さんの言う、「世俗化した権力システム」にある人を位置づけるための道具になり下がっているのです。教育プログラムの設計資料、反省材料であれば、担当者がそれを材料として、プログラムを改善するためのもののはずですが、全然違う使い方をされてしまっているのが、日本のテスト主義だと思います。検定試験によって、何級を持っている、と言うだけで、何かを客観的に表しているような錯覚に陥り、「あの人は英検○級だから」とか「彼はTOEFL △点だから」と聞いて、何となくわかったつもりになり安心してしまう。偏差値も元来の意味を離れて人口に膾炙してしまったものです。(中略)「評価」とは「価値」の問題に他ならないのですが、これを教師の「意思決定」のために用いるという研究者もいます」


情報量の爆発と問題意識(97/10/28掲載)

下のエッセイで「英語教育学」をスピーキング論、リスニング論、評価論、教師論、などの下位項目から成り立つと考える体系意識に関する批判的見解を表明しました。誤解を受けるかもしれないのでもう少し補足説明をしておきます。

上のような下位項目主義の前提は、英語教育という複合的な全体も、(1)分割すればよりよく理解できるだろう、(2)分割できればその下位分野に限っては十分な調査ができるだろう、といったものかと理解します。(1)はデカルト以来の近代の思考原則ですが、近年複雑性の考えに見られるようにこれにも批判的検討がはじまっています。ですがこのテーマは大きすぎてとても扱えませんので、ここでは(2)の検討に限定します。

例えば私の出身大学では数十にもおよぶジャーナルを定期購読しています。院生は毎年それぞれ雑誌を割り当てられて、それらを読み、それぞれのすべての記事の要約をすることを求められました。この企画の狙いは、院生の要約を集合させれば英語教育に関する全体像がつかめるだろうというものだと推測します。

ですが私はその狙いは果たされない時代になってきたのではないかと考えます。いくら数十のジャーナルを購読しても、それは狭い意味での英語教育に関連したジャーナルに限られます。ところが最近の研究をみても、英語教育に関連があるのは、それらの雑誌論文だけでなく、たとえば認知科学、人工知能研究、人類学、教育学、認知心理学、あるいは社会学だったりしています。それらの分野への配慮が組織的に欠落していくことは英語教育研究の発展のためには好ましくないのではないかと考えます。

その点で興味深いのはコンピュータデータベースの積極的な利用です。実際、私の同僚は、自分のコンピュータからハーバード大学図書館のコンピュータにアクセスし、例えば「これら3つのキーワードを合わせ持つ論文をさがせ」などと命令します。それに対してハーバードのコンピュータが「ハーバード大学図書館にあるすべての電子データの中で検索条件に合致するのは次の6本の論文です。テキスト全文が必要ですか」などと反応してくるので、yesと答えて彼は論文を手にするわけです。他の大学の友人の話では数千円ぐらいの出費を覚悟すれば図書館員がそういったサービスをしてくれるとのことです。また『複雑系』(新潮社)を読んでも、例えばラングトンなんかもコンピュータデータベースを駆使して、気象学、数学、考古学などのおよそ関係ないと思われる分野の中から彼のアイデアに合致する論文を見つけ、「人工生命」という新しい概念をゼロからつくりあげていっています(ちなみに同書は研究者のドキュメンタリーとしても一級の作品です。私なんか読んでて目頭が熱くなることすらありました!)。

情報化時代はここまで来ているわけです。この傾向はもっと加速するでしょう。文献研究にも新しいスタイルが必要だと考えます。手当たり次第に論文をゼロックスコピーして要約するというスタイルはもう古いのではないでしょうか。

新しいスタイルの考え方はこうです。情報が爆発的に増えてゆく時代に、人間の手で情報を隅から隅まで扱おうというのは非現実的です。大切なのは問題意識です。アイデアです。独自の視点とキーワードさえあれば、それを手掛かりにコンピュータデータベースで一気に文献検索し、それらを手掛かりにしながらreview論文を書くわけです。「よく調べたでしょう。ほめて下さい」式の文献研究は今からは時代遅れだと思います。

別の言い方をしますと、このスタイルは今までの縦割りあるいは階層方式での分割による読解をやめて、アイデアによって結び付いたハイパーリンクで文献を関連づけて読解してゆくということです。

問題意識と問題設定、オリジナルなアイデアこそが研究の源です。いい時代になりつつあると私は思います。

追記:その点でいいますと現在刊行中の英語教育研究リサーチ・デザインシリーズ(発行河源社、発売桐原書店)の試みを私は評価します。「教室からの問題提起」といった章を最初の方にもってきているからです(同シリーズは英語教育研究者にとっての必携書だと思います)。ただし同シリーズの力点が実験法に傾き過ぎているように思える点では私は批判的であることも付け加えておきます。

追追記:このようなハイパーリンクによる研究のあり方に関連する「英語教育研究のリエンジニアリング」のVer.2を公開します。ご興味があればここをクリックしてください。


現実的な英語教育研究のために(97/11/01分その3)

 英語科教育法を後期担当しています。毎回学生に授業の感想を書いてもらっているのですが、その中で「個人的に知り合いになったAETが孤立して悩んでいます。沢山AETを受け入れても、受け入れ体制がしっかりしていないとどうしようもないのでしょうか。そのあたりの状況に関する研究はないのですか」という質問がありました。改めて自分がそういった現実的な知識をもっていないことを認識させられました。

 AETの受け入れ状況については個人的なエッセイは時折目にしますが、しっかりした調査研究はあるのでしょうか。もしご存じの方があれば教えていただければ幸いです。私の知る限り英語教育の学界では案外こういった現実的なトピックが少ないような気がします(私のこの認識が間違っていることを祈ります)。

 ひょっとしたら現実的な英語教育研究が少ない遠因の一つは、「英語教育学」という体系意識なのかもしれません。「英語教育学」を、たとえばスピーキング論、リスニング論、ライティング論、リーディング論、評価論、教師論、教材論等などの下位部門から構成されているものだと考える発想があることは、広島大学や東京学芸大学の出版物からも推測できます。学問は体系的であるべきだ、という発想があること自体は否定しませんが、この発想をとる限り、英語教育学の各下位部門は、たとえば心理学、認知科学、統計学、教育学、言語学などのいわば「親学問」の亜流であらざるを得ない運命をとらざるを得ないのではないでしょうか。よく「**学>教育**学>英語教育**学と階層が下がるごとにレベルが低くなる」とも言われます。「英語教育学」は亜流の研究であらざるを得ないのでしょうか。

 そうしますと必要なのは「英語教育学」という体系意識を捨て去ることなのかもしれません。英語教育に関する研究を、「英語教育学」という名前をかざすことによって、あくまで固有の学問として考えることをやめるわけです。英語教育に関する研究をすべて自前でやりとげようという思いは尊いのかもしれませんが、課題の大きさ・複雑さと英語教育研究者の数の少なさを考えればそれはあまりに非現実的な思いなのではないでしょうか。思いきって、心理学者、認知科学者、統計学者、言語学者、コンピュータ科学者等などの各種専門家に任せられるところは任せてしまって、英語教育研究者はその任せる際の協同研究の枠組み作り、コーディネイトに徹するというのはどうでしょう(今までの多くの英語教育研究は「紹介」「応用(実はコピー)」ばかりで独自の枠組み設定ができていなかったと思います)。英語教育研究をトピック・問題ごとに様々な研究者、実践者が協同して集う領域として積極的に開放することこそが、英語教育研究を現実的にし、かつ学問的にも高度にする方法だとも思えます。たとえて言うなら保護貿易主義から自由貿易主義への転換と言えましょうか。「英語教育学」という名を捨てることは、英語教育研究者の自殺ではなく、英語教育研究者の生き残りと発展のための創造的破壊であるという考えは過激すぎるでしょうか。

皆さんはどうお考えですか。ついでながらお知らせしますとこの話題にも関連する新しいページ(「教育研究と『実験』」)を新設しました。ご興味がありましたらここをクリックしてください。


韓国「大学修学能力試験」を読んで(97/11/01分その2)

 研究社『現代英語教育』11月号は、韓国での「大学センター入試」に相当する試験問題を全文掲載しています。全文掲載という公表は、下手な研究論文よりはるかに多くの情報を伝えてくれるように思います。以下は私の感想です。

 「言語使用」の試験:東京外国語大学助教授の根岸氏は同誌で同試験を見ての感想で、「私が初めてこのテストを見たときに強く感じたのは『このテストはプロの作ったテストだ』ということである」と述べています(同誌24ページ)。テストの精密な設計図(test specifications)が背後に感じられるというのがその趣旨のようです。私の感想は、このテストは「言語」の試験でなく「言語使用」の試験であるというものです。

 「言語使用の試験」といいますのは、言語が私たちの生活世界から(言語学的に/命題論理的に)抽出された形で問われているのではなく、あくまでも私たちの言語使用の生活世界に埋め込まれた形で問われているからです。以下少しずつ説明させてもらいます。

 (1)リスニングでは、まず最初に設問があり、学習者は予め目的をもってテスト文を聞くことができます。TOEICの試験では最初にテスト文をとにかく聞かせ、その後に設問が出て、学習者は記憶を頼りに正答を探すというやり方になっています。ここでの前提はリスニングした命題内容はすべて処理・記憶され、その処理・記憶にともなって設問に答える、といったものでしょうか。しかしこれは私たちの言語生活とは明らかに異なった人工的な状況だと考えます。私たちは何かを聞くとき、すべての文を同じように処理・記憶するわけではありません。それまでの文脈や聞き手の期待されている(社会的)役割にしたがって、私たちは選択的に聞きます。韓国のテストはこの点ではより自然な試験だといえるでしょう。(2)また、この(1)のポイントは、例えば5番、9番、12番のような問題でさらに具現化しています。テスト文を一回だけ選択的に聞くこのテストは、テスト文を二回聞かせて、細部の命題内容を問う一部の日本のリスニングテストよりはるかに自然な言語生活に近い良問だと思います。(3)脱文脈化した文法・語法問題、発音問題の類が一切ありません。文法事項が問われている場合も必ず文脈に即した形で問われています(例えば19番、44番)。「言語の試験というよりは言語使用の試験」というのはこういう点でも明らかです。(4)文字通り生活世界における言語使用の知識を問う問題もあります(例えば、37番、38番)。繰り返しますが「言語」の試験ではなく現実世界での「言語使用」の試験なのです。(5)リーディングの試験も言語生活に即したものです。例えば48番、50-51番は、現実世界でのノートテイキングに即した問題形式でとても自然です。

 試験作成者の英語力:以上のような事から、私の推測を言わせていただきますと、この試験の作成者の英語力は、かなり高いのではないか、ということです。この場合の「英語力」とは、言語学/英語学に通じているとか文学的教養があるとかいうことは必ずしも意味していません。英語による生活の量が多く質が高い、というのがここでの「英語力」の意味です。そういった意味での英語力が高い人は、言語教育の行い方が自然で無理がありません。文法書や辞書の記述を、文字通りに取り上げて組み合わせたパズルのような問題をつくることがありません。授業を行っても、質問も生徒への反応もきわめて柔軟で人工的ではありません。英語教育を語る者はとにかく英語力がなければ話にならない、というのが私の持論です。

 古藤氏の大学入試批判:同誌のもう一つの特集は「予備校教師の入試論」でした。その中でも河合塾講師の古藤氏の文章は大学関係者必読だと思います。「私大の受験料のわずか数分の一で、模擬試験では丁寧な添削を行ない、個人個人の成績をさまざまの角度から分析し、今後の学習方針を与えてくれる。おまけに分厚い解説までついてくる。これに比べれば、大学入試はただのヤラズブッタクリ。商道徳からすれば許されぬことだ」という指摘はまことに正論であるだけに看過できません。守秘義務があるのであまり多くを語れないのですが、大学は入試の改善を個人のレベルで行なうのでなく、組織レベルで行なうべき時期に来ていると思います。組織的労力配分が適切になされていない中での個人的努力は、しばしば当人の挫折感と、努力を厭う周りの人間の意識的無理解だけを生む結果に終わります。とはいえ、これも大学人の言い訳にすぎないのかもしれません。結局足りないのは勇気でありガッツ(!)なのかもしれません。


10月10日達人セミナーin松山の感想(97/11/01分)

 上記セミナーに参加しました。私は2回目です。形式ばらずに話し合えるところが良いと思い、今回も参加しましたが、収穫は予想以上でした。

 清家先生と菅先生:谷口幸夫先生(筑波大学付属駒場中・高)のパワーもいつも通り凄いものでした。柳井先生(大分大学)の熟練はさすがに法則化運動を10年近く継続されているだけのことはあり勉強になりました(私は一つのことを長年継続している方には敬意を表します)。しかし敢えてお勧めしたいのは清家佐保先生(愛媛県済美平成中学校)と菅正隆先生(大阪府長吉高校)のお話です。お二人の話(できれば1時間以上)が聞けるのなら万難を排しても聞きに行くことをお勧めします。清家先生は新設の私立中学校で、それこそ一から理想の英語授業を考え、実行し、現実からのフィードバックを受け、さらに想像力と行動力で授業を発展させています。セミナーではそれを裏話を交えながらの時系列での説明でしたが、中学校英語教育の可能性の豊かさを感じさせる話でした。"Relevant"をキーワードにした展開、身体をsynchronizeさせる視聴覚教材の使い方、実際の言語生活への洞察の深さ、見事なレアリアの使い方など、学ぶべきことは沢山あります。菅先生については、私は以前に何度かお会いしたことがあり、ご著書も読ませていただいていたのですが、本格的に話を聞くのは今日が最初でした。やはり本だけではこの人の授業はわかりません。是非実際に話を(ある程度時間をかけて)聞くことをお勧めします。「私はゴッコは嫌いなんです」「こんなのがテストでもいいんじゃないでしょうか」といった菅先生のさらりとした言葉にはものすごく深い経験と日常生活/人生への洞察があるように思います。

 「達人(?)」の特徴:仮にこういった方々を「達人」と呼ぶなら(この呼び方に抵抗を持たれる人もいらっしゃるかもしれませんが、ここではこう呼んでおきます)、「達人」の特徴は次のようなものだと思います。(1)周りの人間に信頼されている:思いきった実践をするためには、周りの人に信頼されていなければなりません。「達人」はスタンドプレーばかりをやる人間ではなく、やるべきことを人並み以上にやっている人です。(2)ソフト・ハードの使い方がうまい:使い方といってもマニュアルに載っているような取扱方法のことを言っているわけではありません。たとえば菅先生の「6秒で読んでみよう」という時のストップウォッチの使い方(これにはオチがある)。谷口先生のテープレコーダーの聞かせ方。清家先生の写真の使い方。「達人」は言語生活・言語使用を深く理解した上で、決してソフト・ハードに使われることなく、臨機応変にそれらを使いこなしています。ある言い方をするなら、それらのソフト・ハードをとりあげられたら「達人」も単なる教師になってしまうでしょう。それほどに達人はソフト・ハードを自分のものにしています。(3)心身統一:心と身体を同調させること、そのためにたとえば音楽や時間設定、あるいは人間への興味をうまく活用することが「達人」の特徴です。柳井先生のインタビューゲームは、単なる情報伝達・交換といったレベルを超えた、新しい次元でのゲームだったと思います。(4)状況設営の巧みさ:人間の知性は「状況」の中で最もよく働きます(cf認知科学の状況論)。「達人」はそのことをおそらく無意識のうちに理解し、単なる「教室」を「言語生活世界」に変えます。そのための小道具や仕掛けに非常に工夫をこらしています。(5)にじみでる人格:特に清家先生や菅先生の授業を見ていると、その人の人格が見えてきます。この場合の人格とは、その人の一生を通じて試されてきた、行動のための信念/素朴理論といった意味です。自分が生きてきた上で、これは非常に大切だと思う、だから生徒にもそれを学びとって欲しい、という信念が確固として存在していますから、アイデアが単なる思いつきやその場しのぎのものではありません。テクニックも究極のところは人格だ、ということを改めて思い知らされました。

 ビデオによる共有:こういった「達人」の授業の深さは、活字ではなかなか伝わりにくいと思います。是非実際に会って話をするべきだと思います。しかし実演者、参加者ともに生身の人間で時間にもお金(交通費・宿泊費)にも限界があります。そこで提案なのですが、是非こういった優れた実践者の実演などはビデオ化して流通させるべきだと思います。たとえばセミナーには協賛で出版社が数社来ていましたが、せっかく来られるのなら、家庭用ビデオで十分ですから講演・実演を録画しておき、ちゃんと講演・実演者と契約を交し、採算ラインギリギリの低価格で流通マーケットにのせるというのはどうでしょう。たとえば1980円ぐらいでしたら教員も自腹を切って買おうという気になります(またこういった低価格だったら違法コピーも少なくなってゆくでしょう)。ビデオはある意味で本よりも情報量が多い。研修会になかなか行けない教員にとっては貴重な教材です。また従来こういった「達人」のあり方は、「達人」の周りにいるわずかの人にしか学ぶ機会がなく、いつしか忘れ去られてしまいがちでした。低価格でのビデオ化はそういった文化遺産の保護でもあります。

優れた実践者に支援を:またビデオには低価格でもいいから価格をつけるべきだ、と強く主張したいと思います。理由は、優れた実践、既成概念を超える新たな試みを行うにはお金がいるからです。たとえば清家先生でも沢山の小道具を自前で買いそろえています。いろいろな場所にも出かけていって感性を磨くことも必要です。もちろん教員にはある程度の研究費が支給されていますが、それは微々たるもので、また(私に言わせれば)悪平等的に、意欲ある者にも怠け者にも等しく支給されるものです。それでは創造的な試みに対するincentiveにはなりません。私はもっと市場原理を導入し、社会に貢献している実践者をもっと柔軟に、もっと公明正大に報いて、彼/彼女らにもっと新しい試みをしてもらうように促すべきだ、と思います。(またビデオを流通にのせることによって実践がより広く知られるようになると、実践者は余計に新しいことを試みざるをえなくなります。これもメリットです。繰り返すようですが私は市場原理は一般的に公明正大な競争を促す優れたシステムであると認識しています)

英語教育研究のあり方:優れたテクニックには人格の裏打ちがある、といったことを先程述べましたが、そういった点からしますと、一部の教育方法の比較実験研究はいかにも薄っぺらです。たかだか数クラスの数カ月を「統制」して実験した結果、AよりBの方法が優れていることが統計的にも保証されました、と聞いても私はあまり信じる気はありません。現実はもっと豊かで複雑で深いと思うからです。一部の科学的外見だけを整えた英語教育研究は、ますます実践者の豊かな「常識」を忘れさっているような気がします。研究は、私たちがもつ(臆見という意味ではない、いい意味での)「常識」を解明するべきであって、「常識」を排除するべきではないと考えます。ましてやそういった「常識」を忘れて、論文のための論文生産の技術にだけ長けた人間が大学という知的権力を握り、教育界を牛耳るならばこれは由々しき問題です。英語教育研究が「非科学的」とかいう通念で、優れた実践者の邪魔をしたりすることだけは、断じて許すわけにはいきません。それは実践者への蔑視であり、また何よりも(真の)科学者への冒涜です。


10月6日教育課程審議会方針について(97/10/15分その2)

 10月7日の朝日新聞は教育課程審議会(文相の諮問機関、三浦朱門会長)の総会で示された方針をきわめて短くではありますが掲載しています(10/8現在文部省ホームページには議事録掲載なし)。それによりますと(1)中学の外国語を選択から必修に改める、(2)「聞く」「話す」を重視し、生活で使える外国語を目指す、(3)文型や文法や語彙は基本的なものに厳選する、(4)小学校の外国語(英語)は、3年から導入される「総合的な学習の時間」の国際理解教育の一環として実施する、といったことが主な点です。

 (1)中学の外国語を選択から必修に改める、に関しては、「名称を実態に合わせる」という点では進歩だと思います。(その他の点でのコメントは複雑になるのでここでは割愛します)。

 (2)「聞く」「話す」を重視し、生活で使える外国語を目指す、については、言語学的に規定された「言語」観から脱却し、生活世界での言語使用を重視した姿勢を示した点で、私はこれを評価します。現代の英語教育界は言語学の影響を受けていすぎるというのが私の基本的見解です。

 しかし(3)文型や文法や語彙は基本的なものに厳選する、はあまり評価しません。言語使用の観点ではなくて、(言語学的)言語の観点から英語教育の内容を規定しようとするこの発想は、上の(2)の動きに(おそらくは必要以上の)ブレーキをかけているのではないかと考えるからです。

 また(4)小学校の外国語(英語)は3年から導入される「総合的な学習の時間」の国際理解教育の一環として実施する、に関しては、また実態から離れた名称(文部省用語)をつくってしまった、と後世の人から言われる結果に終わるかもしれない、という懸念を表明しておきたいと思います。「国際理解教育」という言葉がいまだに概念を熟成させることに成功していないように感じるからです。実際私がたまたま見た日本テレビ「ズームイン朝」では「2003年から小学校で英語教育」というテロップでニュースを流していました。一般人には「国際理解教育」などという用語は通用していないとみるべきでしょう。さてここでどう考えるか。一つにはこれでいい、あたりさわりのない言葉でごまかして英語教育を導入してしまえという考え、また別の考えでは英語教育なら英語教育とはっきり宣言しろという考え、さら別の考えでは国際理解教育とは大切なことで英語教育と混同してはいけない概念だという考えもあるでしょう。いったい私たちが小学生に求めたいのはどれなのか。文部省は曖昧な言葉で、諸陣営による果てしない議論を丸めこんでしまうから賢明だと言うべきなのか、あるいはその逆だと言うべきなのか。みなさんはどうお考えになります?私は徹底的に議論を重ねて、現代世界における私たちのあり方を深くとらえることが必要だと思います。

 それにしても小学校への国際理解教育/英語教育導入で一番気になるのは教師養成・教育です。中高教員でも質の面ではまだまだと批判されているのに(中高の教員の皆さん、失礼!ハイ、大学教員はもっとひどいです!!)、これに加えて優れた小学校教員をどうやって養成するつもりなのでしょうか。教員の妙な発音で耳の敏感な子供に妙な英語の癖をつけてしまうことはないのか、「中学校から英語をやっているのに・・・」という繰り言が「小学校から英語をやっているのに・・・」という繰り言に変わるだけではないのか、などと心配事は絶えません。

 


「産学の協力」は堕落ではない!?(97/10/15分)

 産業界と学界の協力、などという言葉は従来否定的な含意をもっていました。「学者としての良心を産業資本家に売りおって!」とまで言えば時代がかってしまいますが、学者たるもの実世界とは一線を画して研究室にこもるべきだ、という意識はあったと思います。

 かつての社会主義的文化の強い影響力という要因はさておくにせよ、確かに産業界と学界が結び付くことへの警戒感にはそれなりの妥当性があったのかもしれません(また、今もあります)。しかし、現代の英語教育界ということで限って考えてみますと、必ずしも産学の協力は堕落ではないと思えます。むしろ産業界と協力できることは優れた学者の特徴の一つかもしれないとさえも思います。

 まず第一の理由は、英語教育産業界の変動です。情報革命で、情報の大洪水が私たちを襲おうとしています。そんな時代に迷惑なのはつまらない低品質の情報です。昔はそんな情報を売ることでも商売になりました。情報の流通が困難だったからです。情報は印刷製本でもして配送しなければ消費者の手に届きませんでした。ファックスはずいぶん便利な発明品でしたが、あのペラペラの紙はどうも加工編集しにくいものです。そこへ通信革命。大量の情報が瞬時に配信されます。しかもon demandで。消費者は選択の幅が一気に広がります。今までは教科書にしたって「よろしくお願いします。これわが社の手帳です」式の営業、あるいは「帰宅したら大きな小包。あけてみれば教科書見本の山」式の営業、さらにはもっと低級の(失礼!)営業が幅を効かせていました。だって消費者に情報がなかったんだもん!でも情報革命が進行すると、質の低い情報は淘汰されます。企業はこれまでになく高品質の情報を提供する必要があるのです。いや、高品質だけでは足りない、というのは世界中の企業が痛みと共に学びつつあること。新しい価値をつくりあげなけばならないのです。高品質や新しい価値を求めると、企業は自然と高い研究能力をもった人間・機関の助言を必要とするようになるのではないでしょうか。(ちなみに言うなら、情報革命以前の英語教育界での産学の協力は、学者が名前を貸してハクづけするだけでも十分だったといえるでしょう。まあ、それなら確かに堕落ですね----もちろん一部の良質の例外を除いての話です!誤解しないでくださいね!!でも情報革命以後はそんなレベルでの連携は「産学の協力」の名に値しないと思います)

 第二の理由は、英語教育学界の不振です。ほうぼうで言っているのでまたか、とお思いになるかもしれませんが、今の英語教育学界には、業績のため外見だけをととのえた、(ある先生の言葉を借りるなら)「ちょろちょろちょろっと実験をやった」論文が多すぎます----でもかくいう私の論文は単なる屁理屈!?----。このような研究なら「英語教育学者」なんていらない、となるかもしれません。いずれにせよ研究予算のカットは十分ありうるシナリオです。そうなると予算確保のためだけにせよ学者は企業との協同研究に目を向けはじめるのではないでしょうか。いや、協同研究は予算確保のためだけではありません。これからの厳しい競争時代にどこの企業がつまらない研究に金を出すでしょうか。求められているのは優れて現実的な学問研究です。企業との協同研究が成立する、ということはその研究に市場価値があるということです。(繰り返しますがあくまでも協同「研究」であって、協同「事業」、協同「出資」ましてや協同「詐欺」ではありません!)。考えてみれば、これだけ英語産業が栄えているのでしたら委託研究はもっとさかんであってもおかしくないと思うのですがいかがでしょう。

 私は研究社の雑誌『現代英語教育』97年10月号に書いたとおり、英語教育界は「ビジネス」の論理から学ぶことがたくさんあると思っています。私にとってビジネスの論理とは、第一に契約によるフェアな関係です。「私は良質なサービスを提供します。ですから当然の対価をください」というのがビジネスの契約だと思っています。もし産学の協力がそのようなフェアな関係による協力であり、かつ英語教師が自分の「魂」(cf『現代英語教育』12月号掲載予定エッセイ)を忘れないのなら、産学の協力は英語教育研究者にとっての堕落ではなく試練であると思います----それにしてもこの段落には自己宣伝が多いね。宣伝、広報も大切だけど肝心の研究をしっかりやらなくっちゃ----。


第28回中国地区英語教育学会に参加して(97/10/1分その2)

 9月27日に広島大学学校教育学部で同大会が開かれました。以下は久しぶりに参加した私の個人的な感想です。

 厳しい状況認識:総会の会長のあいさつも、懇親会の元会長のあいさつも厳しいものでした。会長は英語教育状況の最近の激変を述べ、元会長は「古くて新しい問題」という台詞で自分の勉強不足・英語教育学の構築不足をごまかしてはいけないと述べました。その通りだと思います。相互批判と対話を学会員の職業的義務とするべきだと思います。「業績稼ぎのための研究」にも「世間に媚びているだけの論考」に対しても厳しい態度で望むべきだと思います。

 それにしても「英語教育学」とは何なのか:懇親会では博士論文を完成された二人の先生と結構長い時間議論する機会にめぐまれました。中心テーマはいまだもって「英語教育学とな何か」でした。現実の営みに根差しながらも、かつ学問的に厳密でなければならない。現実性を重視すれば状況に埋め込まれた私見表明にとどまってしまう。学問性という言葉にあせれば、他分野の亜流・借用に終わり、かえって学問的認知を受けないものになってしまう。何をもってよい英語教育研究とするのか、という基準・枠組みを私たちは批判的に共有する必要があると思います。そうしないと英語教育学の論文出版は、査読者にしか読まれない茶番劇に終わるでしょう。

 発表のおもしろさと「オリジナリティ」:発表の中にはシンガポールの英語教育の現状を報告したものがありました。私個人もずっと興味をもってきたテーマですし、一般社会の色々な人から情報を求められるテーマでもありましたから、たいへん面白く聞きました。シンガポールでは英語教育に関して明確にLanguage is for communicationと言い切ったうえで、英語をas the medium of instruciton / the working language / the key to the information ageとして認識していることや、小学校五年生から三種類のコースに選別されること(英語と母語ともに第一言語レベルを目指すEM1、英語が第一言語レベルで母語が第二言語レベルを目指すEM2、英語が第一言語レベルで母語は口頭会話レベルでよいとするEM3の三コース)などが特に興味をひいた事実報告でした。(発表内容のすべてがデジタルコピーでネット上で共有されれば私たちの知識レベルも上がるのに!ネットは巨大な整理棚です!!)それにしましても、このような報告は、たとえばこれからの小学校の英語教育を考える意味でも非常に役立つ大切なものだと思うのですが、研究としては「オリジナリティ」がないと批判を受けてしまいがちです。私にしてみれば、ちょっと実験手法や被験者を変えただけで「オリジナル」であるとのたまう発表の方がよほど批判されるべきだと思います。研究の「オリジナリティ」という規範は大切だと考えますだけに、「英語教育研究のオリジナリティ」について共通理解を築き上げなければならないと思います。

足りないのはデータベース?:上のような問題を打開するのに必要なものの一つはデータベースだとも言えます。世界各地、日本各地で似たようなことをチョコチョコやっているばかりでは何十年たっても同じことの繰り返しで、丁度記憶が薄れたころに同じテーマがそれこそ「古くて新しい問題」として再登場するだけだからです。しかしデータベースも活用されなければ意味がありません。また多量のデータはかえって問題の所在をぼやかしてしまうことにもつながります。そうなると必要なのは「古典」----繰り返し繰り返し参照され、その度に新しく深い見識を生みだす本----といえるのかもしれません(そのような意味での英語教育の「古典」とは何なのでしょうか)。さらに言うなら、「古典」はある偉大な人間に書かれるものであると同時に、同時代人の議論・討論によって鍛え上げ育て上げられるものでもあります。どんな偉大な作品も、他人に発見し吟味されなければ「古典」にはなれません。その意味ではやはり必要なのは相互批判であり議論の習慣と言えるのかもしれません。


信頼されていない英語教育界(97/10/1分)

 8月20日の日本経済新聞の社説はこう始まっています。

「日本人の英語能力が不十分なことは政府が認めている。平成8年版「国民生活白書」は、英語能力検定試験トフルの日本人の平均点は横ばいで、アジアの中でも相対的に低下しており、「日本人は読めるが話せないとよく言われる。しかし読む力も十分でない」と警告している。

 この指摘自体は英語教育界にとっては実は別に目新らしいことではありません。しかし看過できないのは次の箇所です。

しかし本当の問題は、英語能力とは何なのか、それと「聞く」「話す」とはどうかかわるのか、コミュニケーション(能力)とは何なのかの認識が明確ではないことだ。その上で、どのような英語をどう教えるべきなのかになると、混乱はもっとひどいようだ。学習指導要領やその解説書を読んでもそれこそ要領を得ない。ほとんどの英語教師はこの分かりにくい文書に目を通そうとしないのだと聞いた。

同社説は次の主張で終わります。

いまどんな英語能力が必要かを実際に知っているのは、英語教師よりもビジネスマンなどの一般の人たちである。英語教育は、もはや英文科や言語教育の専門家、文部省に任せておくことではない。広く各界の人々の積極的な参画がぜひとも必要だ。

 以上抜粋した社説を私なりにまとめますと(1)英語教育の効果は上がっていない、(2)英語教育の専門家はきちんとした処方箋を書きえていない、(3)英語教育を英語教育界だけに任せてはいけない、とでもなりましょうか。少し厳しい要約ですが、このくらいが世間の認識だと思うべきでしょう。

 英語教育界では、(1)に関しては、トフルの結果の解釈をめぐって少し議論がおこっていますが、英語教育界は基本主張としては謙虚に認めるべきだと私は思います。(2)に関しては反省しなければなりません。英語教育界は「コミュニケーション」といった基本概念をきちんと分析して公表し、一般知識人の批判をあおぐべきでしょう。上のような社説が出ればすぐに「社説を書くのは勉強してからにせよ!せめて○○や△△を読め!!」と英語教育関係者のみならず一般の人からも批判がでるくらいを目指すべきでしょう。(3)も素直に認めるべきと考えます。英語教育界はもっと他の世界の人間とコミュニケーションを図らなければなりません。あまりにも「お仲間的」な集会が多すぎると思います。コミュニケーションとはそもそも予定調和的なものではなく、互いが批判し否定される中で新しい自分を発見する過程であると認識しています。英語教育界はそういう意味ではコミュニケーションが下手です。それだからこそ他の世界の人とのコミュニケーションが必要だと私は思います。コミュニケーションなしの信頼など考えられませんから。


未来を予測する最良の方法とは、未来を自分で作ってしまうことだ(97/9/15分)

 小学校への英語教育導入、中学校での心の荒廃、高校での学力差、大学改革の混乱、アングロサクソン市場原理体制の中での日本経済の苦闘、マルチメディアの急速な発展とそれに伴うパワーシフト----まだまだ色々と言えるのですが、英語教育が直面している状況は安易な選択を許さない厳しいものだと思います。これからどうすればいいのだろう、いや今どうすればいいのだろう、という現代の悩みから英語教師だけが免れているはずはありません。でもそう考えても途方にくれてしまう、というのが正直なところでしょう。

 私も実際途方にくれています。特にインターネットなどの発展で情報が個人では処理できないぐらい入ってくるようになると、このような状況で自分に何ができるのだろう、と時に無力感にさいなまされることもあります。しかしそのような無力感は裏を返せば自分が万能の解決案を示せるかもしれないという驕りから来ているわけでもあります。ハイエクの言うように、私たち一人一人は限定された視野と知識と合理性をもって試行錯誤を続けてゆくべきでしょう----社会が深い意味で自由である限り、という条件はつきますが。

 でも自分独自の視野に限ったとしても未来が見えない。完全な未来予測は望むべくもないものの、ほんの少し先さえわからない。そこで出てくるのがタイトルに掲げたアラン・ケイの言葉です。各々やれることを勇気と誠意をもってやってゆきましょう!


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