随想

新しい随想が次々に上に来る形態をとっています。

人名に関してはたとえどんな方であろうとも97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しております[実験的に、有名な人名でも例えば「ウィトゲンシュタインさん」などと表記しています(^^)]。


作り上げられた難しさ(2001/9/2)

SkyPerfecTVを視聴しはじめました。以前94年から98年まではPerfecTVを見ていたのですが、引越と留学のため契約を解除したら、日本を離れている間に、会社統合でSkyPerfecTVになり、チューナーが使えなくなって、そのままになっておりました。「日頃は忙しくてテレビを見る暇がないのだから、もういいや」というわけでした。ですが最近、せめて週末ぐらいは仕事から離れてリラックスしたいと強く思い始め、チューナーとパラボラアンテナ合わせて1万円のセットを購入しました。土曜の午後から日曜にかけて、最初の無料全チャンネル期間を活かして、阿呆のごとくチャンネルサーフィンをしておりました。

CNNやBBCが見れる喜びは、やっぱり「生の英語」を聞く機会が少なかった時代に英語を学んだ世代にとっては格別のものがあります。ディスカバリーチャンネルヒストリーチャンネルなどの教養ドキュメンタリーは高度な内容をわかりやすく提示してくれて世界に関する知識と英語に関する知識を連動して増やしてくれます。一方、スペースシャワーTVのチープな音楽エンターテイメントも私はやっぱり大好きです(残すことではなく、消費されることを前提とした音楽というものも私たちは時代に応じて必要としていると思います)。また、FOXは、今回私は初めて見たのですが、かなりおもしろいエンターテイメントチャンネルで、私はかなりはまってしまいました。「アメリカのテレビドラマにそまって馬鹿になっている」と批判されても仕方ないのかもしれませんが、私としては娯楽半分、英語習得半分でかなり楽しめます。カートゥーンネットワークも、要は子供向けのアニメ番組ですが、英語で見ると結構いい娯楽を兼ねた英語習得になります。こういった番組が一万円の初期投資と毎月2000-3000円程度の視聴料で楽しめるのは、本当に英語習得者にとってはいい時代だと思います。

またGLCというチャンネルは、以前は毎月の視聴料が確か2400円ぐらいしていたのでほとんど見たことがなかったのですが、今回改めて見てみるとずいぶんいい英語学習チャンネルです。私が見たのは英会話中級コースのOn Common Groundや英会話入門コースのEnglish 300などですが、どれも英語が自然(authentic)で、解説や説明は必要最小限にとどめられ、リラックスしながら英語のインプットを重ねることができます。また英語話者のボディーラングイッジなどの文化慣習なども自然に学べます。このチャンネルはパックセットにも入っているのでずいぶん安い値段で試聴できますから、今回は契約しようと思います(10月からは単独契約してもなんと月額200円です)。

そのGLCのすぐ隣のチャンネルは予備校講義中継のチャンネルなのですが、チャンネルサーフィンをしていて、GLCからそのチャンネルへ瞬間に画面が変わると唖然とするぐらいに異なる英語の世界が広がっていました。そこには、黒板に書かれた一つの英文に対して、「知覚動詞」とか「SVOC」だとかいう用語と、「受験問題の定番といえる問題ですね」などといった多くの日本語のコメント・解説を繰り広げる日本人英語教師の姿がありました。もちろんその説明は予備校教師としては優れたもので、私ももし自分が予備校教師だったらそのような説明を目指すかもしれないと思うものでした。ですから、私が言いたいのは、その英語教師やチャンネルへの悪口ではありません。私が言いたいのは、それがFOXやカートゥーンネットワークやGLCでの英語の世界とあまりにも異なっているということです。

日本の英語教師の先人たちは、真面目に英語を学習せんと、言語学を学び、英文法書を読み、「正しく」英語を理解し話そうとしてきました。いいかげんな説明では学校教育にならないとばかりに、正確な説明を目指し、言語学的な文法書の用語を導入してきました。また文法概念の把握が正確かを見るために数多くの文法問題を作り上げ、再生産し、また訳読という「正確な読み」を普及させてゆきました(注)。その中で多くの量の英語に接することと、英語の世界を楽しむことが忘れ去られてゆきました。

日本の学校英語教育界は----一部の例外的な教師の努力にもかかわらず----「英語の習得は難しい」という現象を作り上げていると改めて思いました。あれだけ「正確に」一つの英文を把握しなければ英語をマスターしたことにならないという認識を古いタイプの入試英語によって作り上げ、その認識を再生産し続けるなら、なるほど「英語は難しい」でしょう。通じない発音と多くの文法用語を叩き込まれ、なおかつ英語に接するたびに翻訳する習慣をつけられれば、自然なスピードで英語を使えることなど期待できないというものでしょう。でも最小限の説明を受けた上で、上のような番組をリラックスしながらどんどん試聴し、なによりも自ら英語の世界に入り込む楽しさと深さを学んだら、そんなに英語は難しいものではなくなると思います。

英語教育界は、私も含めて、「英語の難しさ」を作り上げているのではないかということを改めて反省し、学校英語教師がやるべき仕事を再編成しなければなりません。そのためには、学習指導要領にどうしても触れなければならないのですが、日曜の午後に書き連ねる雑文としてはここらで終えておきたいと思います。

(注)このいわゆる「正しさ」「正確さ」が意味していることを、デイヴィドソンさんの哲学などを通して論文で明確に語りたいと私は考えています。

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コミュニケーションの極から考える(2001/8/3)

英語教師は良い意味でも悪い意味でも言語学に強い影響を受けています。言語学は言語を「規則に支配された(rule-governed)もの」と前提しますから、英語教師もその前提をほとんど無批判に受け入れます。「英語という言語は規則に支配されているのですから、まずはその規則をきちんと覚えて、それを正しく適用してコミュニケーションを行いましょう」などと考えがちです。この考え方は、いわば言語の極から英語教育を考えていると表現できるでしょう。言語が成立することを出発点としそこに力点をおき、その力点である規則の習得のかなたにコミュニケーションを見ようとする考え方です。

ですが、実際の私たちの第二言語使用は、そのような考え方でとらえきれるものでしょうか。いや、少なくとも、この考えが唯一の考え方でしょうか。

言語学的に言語の極から考える考え方と、全く異なる考えを示し続けているのがデイヴィドソンさんです。彼の「徹底的な解釈」(radical interpretation)や「マラプロピズム」(=私たちは日常的に言い間違いを行うが、それにもかかわらず私たちはコミュニケーションを成功させてしまうこと)などの考え方は、英語教育をコミュニケーションの極から考える方法を示していると思います。

「またへ理屈を」とお嘆きの方もいらっしゃるかもしれません。そういう方にはぜひ次の文章を読むことをお勧めします。つばめ交通でタクシーの運転手をしていらっしゃるスティーブン アウトロウ・スプルールさんというアメリカ人の方が書いた文章です。文章の日本語はすべて彼の手によるもので、彼の日本語には一切手を加えてはいません。

始めまして。つばめ交通のスティーブと申します。私はタクシーの運転手です。私は今年で在日13年目に入りました。日本にくる前に日本語を勉強する事がなかったので、来日して基礎から覚えないといけない状態でした。その経験が私にとって非常に貴重な経験です。言葉が上手に使えない状態で生活する事によって人間は全て同じだということを再認識できた。日本人にも「言葉を不完全に使ったり、誤って使ったり、一切使わなかったりしてもコミュニケーションができる」という感動を知ってほしいと思っています。残念ながら多くの日本人は英語に関しての強い先入観があって、英語を楽しむ事ができない。

私は運転手になる前、5年間ほど英語の講師を務めましたが、日本人の英語に対しての先入観に気づいたのはタクシーの運転手になってからの事です。5年間で生活に不自由しない程度の日本語を身に付けましたが、タクシーの中でお客様との話しが何回も自分の日本語力以上のレベルになる事がありました。実は今でもとまどう事がある。それでも最終的にお互いに通じ合って、話しが楽しくできる。なぜかというと、人間同士でコミュニケーションしようとしていれば、お互いに努力するようになる。日本人に言葉の誤りを許してもらったり、無理に私の日本語を理解してもらったりして来ました。場合によっては子供に教えるくらい丁寧におしえて頂く事もある。日本人のお陰で私が日本語を話せるようになりました。実際に数年会っていないお客様が今年の6月に再び私のタクシーに乗りました。その時「あれから大分上達したねスティーブ君」と言ってくれました。今でも私は日本人のお陰で上達しています。

ただし、英語でお話ししてくれるお客様は非常に少ない。英語のできる方でも、ちょっとだけ話してくれるけど最終的には日本語に戻る。そしてある日、外国人の観光案内を頼まれてお迎えに行きました。その日、その外国人(ジョンさんと呼びましょう)を招いた会社の方が一緒について来ました。その日本人(田中さんと呼びましょう)はあまり英語ができなかったので、車の中やレストランの中、3人でお話しするときに私が通訳になってお話ししていました。だけど私がトイレに行って帰って来るときにびっくりしました。二人が熱心に話していました。すぐにテーブルに戻らずにしばらく見ていました。確かに田中さんの英語は片ごとでしたけど、ジョンさんと楽しく話しができていました。それにジョンさんは理解していた様に見えました。テーブルに戻るといきなり田中さんは日本語に戻り訳を頼みました。私は「田中さん、英語できるじゃないですか。英語で話そう」といったら、「とんでもない。ハローくらいしか言えない。」といわれました。「でも今話ししていたじゃない。上手だった」と言ったら、田中さんは正直に「やーそれはスティーブさんがいなかったから。スティーブさんの前で英語話すなんて恥ずかしいよ。」と言いました。

そのエピソードの前から日本人は英語を正しく話さなければ恥じだと思っている事に気づいていましたが、その日の田中さんの言葉で強く実感しました。

日本に来る前に旅やホームステイや留学で7ヶ国を訪ねた経験があります。タクシーを通して二十数ヶ国の人と英語で接した事があります。その中で勉強する割に英語力が一般的に一番低いのが日本人だと思います。それは勉強する年数と関係ないと思います。それは先入観のせいだと思います。日本人は「英語を正しく使えなかったらばかに思われる」と言うふうに思っている人が多い。ただ、言葉の「正しい」というのは文法や語彙ではない。言葉は単なるコミュニケーションの手段ですから、相手に言いたいことが伝わったら、それで「正しい」と思います。身振り手振りにルールは一つ:相手が理解するまで当たり外れでがんばる。言葉も一緒。日本人はこのことを理解するまで英語を楽しむ事ができません。

学校であっても、会話スクールであっても、日本で英語を教える全ての人の一番の責任は今までの日本人の先入観を破って英語をコミュニケーションの手段として教えることです。理科や数学と違って、ルールを教えることではなくて、美術のように人の感情を伝えるトレーニングのような教え方が必要。

私がつばめ交通に入社して2年でつばめグループの中につばめアメリカン倶楽部という英会話学校ができて、責任者として4年間勤めさせていただきました。そのつばめアメリカン倶楽部のモットーは

Open your ears, Open your mouth, Open your mind.

まさにコミュニケーションは耳を開いて、口を開いて、頭(心)を開く事から始まる。

「言葉を不完全に使ったり、誤って使ったり、一切使わなかったりしてもコミュニケーションができる」というのはデイヴィドソンさんの「徹底的な解釈」(radical interpretation)のまさに前提です。また、「言葉の『正しい』というのは文法や語彙ではない。言葉は単なるコミュニケーションの手段ですから、相手に言いたいことが伝わったら、それで『正しい』と思います」という表現もまさにデイヴィドソンさんの「マラプロピズム」における即時理論(passing theories)の考えを言い替えたものといえます。

とにもかくにもお互いに通じ合うことを出発点とし、そこに力点をおき、その片言のコミュニケーションの成立のかなたに「言語」の習得を見ようとする発想法は、日本の英語教師にとって必要なものとは言えませんでしょうか。なにしろ少なくともスティーブさんによれば、「日本で英語を教える全ての人の一番の責任は今までの日本人の先入観を破って英語をコミュニケーションの手段として教えることです。理科や数学と違って、ルールを教えることではなくて、美術のように人の感情を伝えるトレーニングのような教え方が必要」なのですから。日本人の英語力が他の国の人と比べて低いのは「勉強する年数と関係ないと思います。それは先入観のせいだと思います」というのがスティーブさんの考えです。あくまでも「言語」を出発点とするチョムスキーさんの言語論と、あくまでも「コミュニケーション」を出発点とするデイヴィドソンさんの言語論を比較対象しながら英語教育を考えている現在の私にとってこのスティーブさんの文章は非常に説得力のあるものに読めましたが、皆さんはいかがでしょう。

このスティーブさんの発表は8月8-9日に広島国際会議場(平和公園内)で開催される全国英語教育学会の賛助会員発表として行われるものです(つばめ交通様の学会に対するご理解とご賛助を心より感謝申し上げます)。上の原稿は予稿集に掲載されているもので、スティーブさんご自身の許可を得てここに掲載しました。全国英語教育学会は当日参加も可能です。ぜひぜひお越しください。

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これはいったい何の授業なのか(2001/6/17)

教育実習生の授業を見学する機会がありました。X君のその授業は、教育実習生としては平均的なもので私はこの文章で彼のことをとやかく言うつもりなどまったくありません。しかし「これはいったい何の授業なのか」と思わされました。また授業後そのX君と30分あまり二人で話をしたのですが、その時彼も「確かにさっきの僕の授業は、中学・高校時代に僕が嫌っていたタイプの授業でした。授業の準備をしているときは夢中でそのことに気づきませんでしたが、今それがわかって愕然としています。こんな授業なら何十時間やっても生徒は英語が使えるようにはならないと思います」と述べました。私も全くそう思います。こういった授業のタイプはX君に限らず多くの教育実習生や新人教師、あるいはひょっとしたら一部のベテラン教師にも共有されているのかもしれないと思いましたのであえてここで批判する次第です。

批判が具体的になるように、また私のこの批判も読者の皆さんによる批判の対象になるように、ここでは授業で実際に使われた英語の全文を掲載したいと思います。

<第一段落>Perhaps the greatest lesson children can teach us is to be in touch with the heart. When my daughter was six, she had a goldfish named Spanky. She never tired of watching him swim, calling me to see how he "blew kisses" at her with his puckered mouth. Spanky was the first one she greeted each day after returning from school, and I often overheard her telling him secret things, like her latest math grade and why she had to stay in at recess.

<第二段落>One Saturday she asked, "Do fish sleep?" Spanky was lying with his side at the bottom of the fishbowl. She cried so hard in my arms that I wished she had never loved him at all. But soon she mopped her face with her sleeve and said, "At least I had him for a little while." In her eyes I saw the beauty and growth that come from having loved with the whole heart. I had learned to be guarded with love for fear of being wounded. Love is more joyous than the hurt is painful, her heart was telling me. Let go and love. It's worth the risk.

<第三段落>Children teach us, too, about unconditional love. After my son spilled grape juice on a new camel-colored carpet, I let loose a barrage of angry words. Later I told him, "It was an accident. I was wrong to yell at you."

<第四段落>It's okay, Mommy," he said, winding his arms around me. "I love you when you're good and when you're bad." That moment pierced me with a lesson that has lingered ever since. We love most deeply when we love with the full and indiscriminate compassion of a child. [281 words]

X君が授業で行ったことはまず第一段落と第二段落のテープを聞かせた後、彼主導で話の内容を日本語で解説(発問は時折おこなわれたがそれらは全て日本語)し、授業後半部でも同じように第三段落と第四段落のテープを聞かせた後に日本語で解説を重ねました。50分の間で聞かれたまともな英語はテープによる朗読が一回だけ。英語の発話は教師、生徒ともにほとんど皆無の状態でした。

そこで授業後の私の質問となったわけです。「X君、僕はあなたと仲がいいから率直に聞くけど、今の授業はいったい何の授業だったの?生徒にどんな力をつけさせたかったわけ?」。授業の具体的なポイントを批判されるかと思っていたようなX君は最初は私のこの問いに面食らっていたようですが、すぐに「内容を理解させることを目指していました」と答えました。

なるほどそういった目標設定ならこのような授業展開になるのもわからないではありません。しかしそれならそれでもっとやり方はあるでしょう。仮にも「死」や「喪失」や「愛」を語るのなら、それにふさわしい語り方があるでしょう(私は学校教育の教科の一つとして英語教育が倫理的・道徳的側面を扱うことを否定するものではありません)。

また彼のやり方は、本文の「内容」を、本文の言語表現と具体的に結び付けないままに、だらだらと(かならずしも洗練されていない)日本語で語ったものでした。やや抽象的に批判をするなら、彼の授業は、かろうじてラングは扱っていてもパロール、あるいはlanguage in useを扱ってはいなかったと言えるでしょう。あるいはデイヴィドソンさんの用語を使うなら、即事理論を作り上げるといった意味での解釈がおざなりにされていたと言えるでしょうか。

具体的に言いましょう。といっても大きなポイントだけですが、--言いたいことは沢山ありますが、言い出すときりがありません--例えば第二段落のI had learned to be guarded with love for fear of being woundedです。教科書(実は問題集)ではbe guarded with loveに下線が引かれ、その意味は「(ア)愛でもって身を守る」、「(イ)愛情豊かに保護される」、「(ウ)愛に関して慎重になる」のどれであるかが設問としてあげられていました。これをX君は「(ア)(イ)(ウ)のどれでしょう」としか聞かなかったものだから、果たせるかな生徒は(ア)と答え、それで間違いと言われたので(イ)と答え、「もっとよく考えてみてください」と言われる始末でした(^^;)。ここはIとは誰か、過去完了になっているがそれはどんな体験以前のことなのか、woundedとは具体的にはどんな意味かなどのポイントをおさえながら、かつguardは通常against, fromなどと共起し、ここのwithは「〜に関して」の意味で使われているといった具体的に使用された言語として(パロールとして、language in useとして)解説しないと生徒はあまり納得しないでしょうし、この設問の答えは(ウ)であることはかろうじて告げられても、それを通じて具体的な英文の理解のやり方を学んだことにはならないでしょう。また同じ段落の最終文のIt's worth the riskに関してX君は素通りしてしまいましたが、このriskという語を、この文章の中でどう解釈するか、risk(「危険」)という語の今までの理解(デイヴィドソンさんの「事前理論」)を、どのようにこの文意に適うように再修正するか(デイヴィドソンさんの「即事理論」)、といった点は、もし「内容理解」を授業の目標にたてるのなら重要なポイントになるのではないでしょうか。

いわゆる「比喩」の扱いに関しても具体的にコメントしたいと思います。ざっとみても第一段落ではblew kissesが、第二段落ではthe beautyが、第四段落ではthe moment pierced me with a lessonが比喩(あるいは比喩的・拡張的な言語使用)になっていますが、これをX君はラングよろしく、すべて辞書の説明で片付けてしまいました。Blew kissesに関しては「blowは『何かを飛ばす』ですから、ここでは投げキッスですね」、beautyに関しては「先生は英英辞書で調べましたが、抽象的な意味にも使われるそうです」、pierceに関してはプリントで(彼は新出単語に関して、英英辞典の定義を書き写したプリントを配っていました)"if sound, light,pain etc, 'pierces' something, you can sudenly hear it, see it, or feel it"というラング的な意味を伝えていました。しかし、これは私個人の好みなのかもしれませんが、blowについてはさまざまな目的語を取る用例を教えることによりblowについても学ぶことができ、かつ比喩的あるいは拡張的な言語使用に関して理解を深めることもできたはずです。Beautyに関してはもっと文脈(例えば直後のthat come from having loved with the whole heart)と関連させて、解釈させれば特に英英辞典の定義に触れる必要もないと思います。Pierceに関しても実は私は同じように考えていて、pierceの様々な(字義通りの)用例を示した後、「the moment pierced me with a lessonとはどんな心境なのだろう」と尋ねる方が、「pierceの比喩的用法」を丸暗記するよりかは、よほど応用力がつくやり方になるだろうと思います。(注1)

以上、X君の授業目標であった「内容理解」を前提として批判をしました。しかしそれとは別の批判、つまり目標自体を問い直すこともできます。これも私の個人的信念なのかもしれませんが(しかし珍しい信念だとは思っていません)、英語の授業はもっといわゆる技能(skill)の育成に重点がおかれるべきと思います。そうしますともっと音読、リスニングを通じての穴埋め、ディクテーション、リスニングしての要約(ノートテーキング)、空所補充での英文要約完成、第一段落・第二段落を娘の立場から書き直して作文してみる、等など色々と課題は考えられると思います。そもそももっと教師が授業で英語を使うべきです。

「英語の力とは何か」というのはうざったい問いのようにも思えます。私の「解説」でのコミュニケーション能力に関する文献解題もやたらと議論ばかり続いているように思えるかもしれません。しかし「英語の力とは何か」「私たちは何を目指しているのか」といったことはきちんと把握していないと、学校英語教育は何をしているのかわからないまま、「効果的でない」と批判され続けてきた体制をそのままずるずると引きずることになりかねません。高校現場に未だ強い影響を与える大学入試問題も「まあ、これまでの傾向とあまり違った問題は出しますまい」などといった惰性で作成され続けるかもしれません。

もちろんそのような理論的把握とともに実体験も重要です。「英語ができる」ということが何を正確に意味するものであれ、自らの心身をもって「英語ができる」ようになった実感をもつことの重要性は強調しすぎることはありません。理論的詳述はさておき、自ら英語の力がついていれば実践でそう変なことはしないでしょう。しかし英語の力をつけるというのは、少なくとも数ヵ月単位、あるいは数年単位でのことです。その間の導きとしての理論的把握は重要だと言えるでしょう。

必要以上にX君の授業を悪く書きすぎたのかもしれません。しかし根本的な問いは大切にしたいのであえて書きつづった次第です。

(注1)これに関してはデイヴィドソンさんの比喩論をいつか「解説」に掲載したいと思います。彼の論の趣旨は、「文字通り(字義通り)の意味」と独立した「比喩的な意味」を設定するべきではない、という一見反常識的な、それでいてよく読むと説得力に富む主張です。

追記:後日それぞれ別の教育実習生による、高2のリーディング、高1の英語Iの授業も見せてもらいましたが、板書の仕方やプレゼンテーション技術のうまい下手はあっても、いわゆる「内容理解」(日本語による)を中心にしている点では同じでした。英問英答も多少はあったのですが、完全な文の形で問いをつくり、完全な文の形で答えさせようとするあまり、英問英答がやや儀式的になっている--授業活動の中に根付かずやや浮いている--ように思えました。英語を使って内容理解を促進させたいなら、そのような完全な形での英問英答だけではなく、教師が内容を別の平易な英語でパラフレーズしながら、時折そのパラフレーズを生徒に補わせるなどの方法もあります。

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コミュニケーションという革新(2001/5/20)

DavidsonさんのNice Derangement of Epitaphs(1985)とCommunication and Convention(1982)という論文を「解説」に掲載したのは、自分でもいい勉強になりました(注1)。後者の論文で掘り起こされ、前者の論文で精緻化された概念が事前理論(prior theory)と即事理論(passing theory)(注2)です。大胆にまとめてしまいますと、事前理論とは「コミュニケーションの参加者がそれぞれに、コミュニケーションが生じる以前にもっている言語と世界に関する斉合的な知識」となりましょうし、即事理論とは「コミュニケーションの参加者がそれぞれに、コミュニケーションが生じるに即して作り上げ修正してゆく言語と世界に関する斉合的な知識」となるでしょう。

事前理論は当たり前の概念のように聞こえるかもしれません。それはソシュールさんが想定したラングを思い出させます。ラングとは、社会的・言語共同体的に共有された知識体系であり、それはsynchronicに切り取られ、その時点では固定されたものとして想定されています。そういった社会的に共有された固定的な言語知識と、世界に関する同じような社会的に共有された固定的な知識をあわせたものが事前理論であるといってもいいかと思います(注3)。そういった事前理論があることこそがコミュニケーションの必要条件であり、事前理論を話し手と聞き手が共有しているからこそコミュニケーションが可能になるのだと私たちは想定したくなります。

しかしコミュニケーションはそのように単純なものではないということを指摘したところにデイヴィドソンさんの真骨頂があります。

仮にここで事前理論だけによるコミュニケーションを想定してみましょう。話し手と聞き手は完全に言語と世界に関する斉合的な知識を共有しており、それは固定しているわけです。聞き手は話し手を何の支障も労苦もなく完全に理解し、話し手は聞き手が何を知っているかについても完全に知っています。このような状況は、支障も労苦も何もないという点でコミュニケーションの理想状態のように思えますが、実はそれはコミュニケーションをもっとも必要としない状態でもあります。コミュニケーションからお互いに何も新しいことを学ぶことがないから、特にコミュニケーションを取る必要がないからです(注4)。

デイヴィドソンさんによればコミュニケーションの時に私たちは(おそらく常にといっていいぐらいに)即事理論を生み出していると主張します。例えばこの文章を今読んでいるみなさんは、それぞれに文章の主題のひとつである「デイヴィドソン」や文章の書き手である「柳瀬」について事前の知識をもっているわけです(世界に関する斉合的な知識:事前理論)。さらには「コミュニケーション」や「理論」といった語についても事前の知識をもっているわけです(言語に関する斉合的な知識:事前理論)。ところがデイヴィドソンさんのコミュニケーション論に関するこの文章を読むにつれ、みなさんは「デイヴィドソン」「柳瀬」「コミュニケーション」「理論」などなど多くの事柄に関する知識を刻々と修正していっているのではないでしょうか。それが解釈をするということだからです。文章(発話)というものは大筋においては真であると書き手(話し手)が信じている述べていることを前提的な原則として(cf Principle of Charityの考え)、生じている文章(発話)を、恣意的・刹那的ではなくそれまでの事前理論とできるだけ適う形で全体として斉合的になるように(cf Holismの考え)、事前理論を修正・改変しながら、あるいはまったく新しい理論をつくりながら、私たちは解釈を進めてゆきます。このように解釈に即して作られるのが即事理論なのです。

コミュニケーションの実態とは、実はこのように絶え間ない革新にさらされているのではないかというのがデイヴィドソンさんの主張だと私は理解しています。こういった主張はソシュールさんが「パロール」という概念で言いたかったことを無視して、彼の「ラング」およびその「ラング」に影響された言語観しかもっていない方にとっては、とても周辺的で、ひょっとしたら揚げ足取りの議論のようにすら思えるかもしれません。

しかし第二言語習得と使用、いやそれどころか第一言語学習(注5)、ひいてはそもそも私たちがコミュニケーション(議論・会話や読書などなど)から何かを学ぶということを考えてみますと、コミュニケーションは事前理論だけで説明できず、即事理論の概念も導入しないといけないことがよくわかると思います。

例えば第二言語の言語習得と使用としてのコミュニケーションを考えてみましょう。Aさんはネイティブスピーカーで、Bさんは英語を学習中のノン・ネイティブスピーカーです。両者の事前理論は同じだと想定することは到底不可能です(Bさんは「学習者」であり、その定義上、ネイティブスピーカーが持っているはずの知識を十全にもっていません)。それでもAさんとBさんがコミュニケーションをとるとするならば、それはBさんが自分の事前理論(言語と世界に関する「不完全な」知識)を刻々と修正・改変させながらAさんを解釈しているということに他なりません。またAさんの立場からみるならば、AさんとBさんのコミュニケーションが成立しているということは、Aさんが、Bさんがおかしている多くの誤り(文法的、社会言語学的、語彙的、発音上、あるいは単なる錯誤的な誤り、等など)を刻々と「BさんはXと言っているが、おそらくそれはY(あるいはX')を意味してるのだろう」と意識的・無意識的に補正しながら解釈しているということです(AさんがBさんの誤りの全てを、対話の中で明示的に正してから(「あなたはXと言ったが、それはY(あるいはX')のことか?」)、コミュニケーションをとっているとはとても現実的には想定できないからです。もちろんコミュニケーションに大きな支障をきたしそうな誤りに関しては、そのような明示的な修正をするでしょうが、例えばノン・ネイティブスピーカーの文法的な誤りや発音上の誤りを全て明示的に正すことなどは、よほど頭の固い外国語教師でもコミュニケーションにおいてはやらないことでしょう。

さきほども述べたように、第一言語による成人間のコミュニケーションにでも即事理論は必要とされるのです。ましてや第二言語によるコミュニケーションには即事理論は必要です。そうしますと第二言語(外国語・英語)教育の目標は、デイヴィドソンさんの用語で整理するなら、事前理論と即事理論の二つであり、事前理論だけを目標と考えることは間違っているということになりませんでしょうか(注6)。第二言語教育いやそもそも言語教育は言語と世界について(注7)、通常に不変と想定されている知識だけを対象とするのではなく、それを修正・改変し、さらには新しい知識体系(理論)を作り上げてゆく「能力」も対象としなくてはならないのです。事前理論は記述しやすく説明もしやすいものですが、即事理論そのものはあまりにも推移的で多様であり、それゆえ記述や説明が(不可能ではないにせよ)わずらわしく、さらには即事理論を作り出す「能力」(注8)にいたっては記述や説明が絶望的に困難です。つまりは自然科学のトピックとしては即事理論(およびそれを生む「能力」)というのはふさわしくない概念です。しかし教育学的概念としてはこれを堅持しなければならない、というのが私の主張です(注9)。

最後にもっと極端な形で主張をしましょうか。「事前理論だけで外国語学習が成立する」、と考えるのは、「辞書と文法書をきちんと理解して暗記すればその外国語が使用できるようになる」と考えるようなものです。どんなに辞書と文法書が充実していても、おそらくその考えを実行しては外国語使用にはいたらないでしょう。およそ「効率的」におもえる事前理論/辞書・文法書だけによる外国語教育を、私たちは直観的だけにせよ退け、外国語教育ではどこか実際の文章を読んだり聞いたり、実際に発話したらり書いたり、といった、事前理論/辞書・文法書ほどには明確でないことやらせています。それが健全な知恵というものでしょう。「曖昧で科学の対象とはならないから」という理由で、その健全な知恵(理論的に言えば「即事理論」およびそれを生む能力)を捨ててしまうのはおよそ愚かなことといえましょう。

(注1)デイヴィドソンさんの文体は、チョムスキーさんの文体と同じで、最初はとっつにくいですが、よくよく読んでみますと、それは物事を精確に論ずるための文体であることがわかり、ある意味「美しい英語」とすらもいいたくなります。私の「解説」がそのようなデイヴィドソンさんの原文へと導く踏み台になればと思っております。

(注2)慶応義塾大学の田中茂範さんと深谷昌弘さんは『意味づけ論の展開』(紀伊国屋書店)において、prior theoryの訳語として「先行理論」、passing theoryの訳語として「当座理論」を採択しています(p.50)。私は、コミュニケーションという「事」の前と、その最中という対比を出すため、prior theoryの訳語として「事前理論」、passing theoryの訳語として「即事理論」を採択したいと思います。最初はpassing theoryを「当事理論」と訳していましたが、passing theoryはコミュニケーションにまさに即して修正されるわけですから「即事理論」の方が訳語としてはいいのではないかと今は思っています。

(注3)正確にいいますと、事前理論の議論ではあまり固定性は強調されていません。しかしCommunication and Conventionの論文における批判的検討の対象である慣習(convention)は、固定性(定期性;regularity)を有したものとして考えられています。またデイヴィドソンさんの事前理論は話し手と聞き手の間で必ずしも共有されたものである必要はないものとして想定されています。本文では私はソシュールさん的な事前理論観を提示したわけです。

(注4)現実的にはこれに近いコミュニケーションとして、機械的作業の言語ゲームが考えられます。ウィトゲンシュタインにならってそのような言語ゲームを想像するなら、AさんはBさんに1から10の整数のいずれかを告げて、BさんはAさんにその数だけレンガを渡す、といったものです。AさんとBさんの言語は「1,2,3・・・10」と作業の終わりを告げる「終わり」だけです。AさんとBさんはレンガのありかや置き場所について完全な知識を共有しています。この言語ゲームなら事前理論だけで説明できるかもしれません。しかしこの言語ゲームとて、どのように発生したのか、どのように(例えば)AさんがBさんにこの言語ゲームを教えたのか、そもそもAさんがどのようにこの言語ゲームを習得したのか、等などと考えると、AさんとBさんが最初からこの事前理論だけを共有していたと考えるのはとても困難になります。

(注5)ここでいう「第一言語学習」とはチョムスキーさんが厳密に規定している「言語獲得」を大きく超えた概念です。

(注6)Widdowson(1983)流に言うなら、外国語教育(いやそもそも言語教育)の目標はcompetenceとcapacityであり、どちらかを無視することは許されない、ということになるでしょう。

(注7)デイヴィドソンさんの事前理論、即事理論の考えには世界に関する知識が入っていることにも注意を喚起したいと思います。私たちが通常意味している「言語教育」は、狭い意味での「言語」を超えた、「言語」と「世界」(および両者のむすびつき)の教育であるということは、実践者には暗黙的に了解されていても(例、教材の内容・メッセージの選択が言語学習には非常に重要だと直観的・経験的に理解している実践者)、研究者や言語政策決定者には明示的には理解されてないことではないかと私は考えていますがいかがでしょう。

(注8)この「能力」はBachman(1990), Bachman & Palmer(1996)がいうstrategic competenceと似た概念だと考えることができると私は解釈しています。

(注9)ちなみにデイヴィドソンさんの議論のラディカルなところは、事前理論が限りなく少なく、ほとんど即事理論ばかりで成立しているコミュニケーションもあると言っているところです。未知の国へ行った人間(例えばフィールド言語学者)が成功させるコミュニケーションがその例でしょうし、それを理論的に考察したのがradical interpretation(「根源的・根底的解釈」あるいは「徹底した解釈」)の議論です。

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達人セミナーin広島で学んだこと(その2)(2001/2/28)

中嶋洋一さんの話から学んだ事を書き残しておきたいと思います。中嶋さんは「実践的コミュニケーションにおいては、いわゆる”会話力”ではなく、コンテント(話の中身・内容)の方がはるかに重要だ」と言います。中身のある「本物」を生徒に与えると、生徒は自然にもっと知りたい、質問したい、伝えたい、発展させたいと願うようになると中嶋さんは言います。しかしコンテントを与えるだけでももちろん不十分で、それを活かすためには、徹底的な技能訓練(トレーニング)が必要だと中嶋さんは言い切ります(このトレーニングの重視という点で、中嶋さんと千田さんの意見は驚くほど一致していました)。

その中嶋さんのトレーニング方法は達人セミナーin下関の方のワークショップで展開されましたが、それについてはビデオ『中嶋洋一の英語がわかる・話せる授業 中学3年生編』(汐文社)と著書『学習集団をエンパワーする30の技』(明治図書)を是非御参照ください(それぞれの解説はこのHPの書評の2000/7/11掲載分と2000/6/24掲載分にあります)。ここでは中嶋さんのメソッドが驚くほどにシステム化されていて、単なる思いつきや気分だけのやり方とは正反対のものだ、ということを改めて強く感じたことだけを述べておきます。

中嶋さんのワークショップに二日連続参加して改めて思ったのですが、中嶋さんはある意味、ほとんど「教える」ことをしていません。ここでいう「教える」というのは次のような否定的な意味での「教える」です。つまり私たちの多くは「教える」ことを目指すあまり、一方的にしゃべり続け、生徒がトレーニングする機会を奪っていませんでしょうか。また生徒を専ら話を聞いて理解するだけの受け身的な存在にしてしまって、生徒の自発性、自己決定、ひいては自己責任の感覚を根絶やしにしてはいませんでしょうか。生徒を烏合の衆のようにみなして生徒の個人差を否定し、彼/彼女らの興味・関心・知識を無駄にしていないでしょうか。「テストは結局一人で受けるのだから」とばかりに、生徒を孤立化させて、教室を生徒同士がお互いに伝え合い学び合うcomfortableな空間にすることを完全に失念してしまっているのではないでしょうか。こういった意味で私たちは教え過ぎていないでしょうか(正直な話、例えば私の学部三年生対象の英語学の授業は、こういった点で「教え過ぎ」です。素直に反省したいと思います)。

こういった達人セミナーの話を受けて、広島会場で私は「これまでの英語教育の常識は捨てた方がよいのではないか」とまとめました。

捨てるべき第一の常識はスピードに関する常識です。千田さんが示したビジネス界という英語教育のいわば出口で必要とされる英語のスピードは、これまでの英語教育の常識では明らかに「速すぎる」ものです。しかし千田さんは「速い英語などない。自然な英語があるだけだ」と言います。また中嶋さんは中学校という英語教育のいわば入り口で、これまたこれまでの英語教育の常識からすると「速すぎる」スピードでリスニングやスピーキングをやらせて、見事に成功させています。千田さんや中嶋さんが示す「自然な英語」のスピードこそがこれからの英語教育の常識になるべきではないでしょうか。

第二の捨てるべき常識は「英語を教えることができる」という過信です。私たちは英語は「勉強」するもので、かつ生徒は「勉強が嫌いで不得意」だから、私たちが教え込まなければならない、と思い込み過ぎていませんでしょうか。とにかく(いい)説明を重ねればいいのであって、それでうまくゆかなかったら、それは生徒の責任だと思っていませんでしょうか。千田さんや中嶋さんは、そういった考えとは正反対に、生徒の心と身体が自然と動き出すようにトレーニングをほどこしています。おりしも韓国のベストセラー『英語は絶対勉強するな』(サンマーク社)が日本でもベストセラーになっていますが(時間がないので書評では取り上げませんが、私もこの本はいい本だと思っています)、「英語は勉強するもの。教師の仕事は教えること」という常識には大きな揺さ振りをかけた方が、場合によっては捨て去ってしまった方がいいと私は考えます。

第三の常識は教材に関する常識です。これまでの常識では教材とは第一に文部科学省検定の教科書であり、私たちはそれに不満を感じながらもそれを「こなして」いました。でも中嶋さんにせよ池岡さんにせよ、どんどん教師自身が教材をつくっていっています。「他ならぬこの生徒達をよく知っているのは自分だ」という教師としてのよい意味での自負からか、生徒が思わず「感」じて「動」きだす(=感動する)ような教材を作り、あまつさえは生徒に作らせてもいます。「教材は与えられるものでなく、自ら見つけ、作り上げるもの」というのが新しい英語教育の常識になるべきなのかもしれません。

第四の常識は教師の職業意識に関するものです。特に千田さんや中嶋さんを見ていると、「プロ」であることを強く感じます。責任感、使命感、そしてそれらの信念を具体化する仕掛けのシステムなど、「さすがにプロは違う」と思わされました。自分を振り返ってみると自分も月給をもらっている以上「プロ」であるはずなのですが、私は自分の甘さを強く感じてしまいました。

以上のような点で私自身もまだまだ古い常識の方に多く足を突っ込んでいる人間ですが、これらとはいずれ決別しなければならないと私は感じました。

これらの圧倒的な内容のせいか、私のまとめの後にもった質疑応答の時間では若い人が「そうはいっても英語教育にも限界があるのではないか」「よい英語教師になるために必要な資質とは何か」といった自らブレーキをかけたような質問が続きました。それに対しては「限界を設定してしまっているのはしばしば自分自身です」、「この会場に来ているのなら、それだけで資質は十分ではないのでしょうか」といった答えが講師陣から返ってきました。この質問をする側と返答をする側の心理的違いは、やはり修羅場を経験したことがない人と、修羅場をくぐりぬけたことがある人の違いかと私は思いました。千田さんは懇親会で「あの頃は正直泣きながら勉強しました」と思い出話を淡々と語っていました。中嶋さんは「学校が荒れて、自分自身が登校拒否みたいになって、かろうじて「休む」という電話をすることをこらえて学校に行ってみると、同僚がごっそりと休んでいました」といった思い出を、これまた淡々と語っていました。修羅場とは試練の形をとった祝福なのかもしれません。中途半端な私がこんなことを言っても偽善になるだけですが、修羅場をくぐりぬけた人を目のあたりにするとそのようにも思えてきます。

と、なんだか変な話になってきましたが、これで今回の達人セミナーのまとめを終わります。最後に、このような出会いと学びを提供し続けている谷口幸夫さんに心から感謝いたします。本当にありがとうございます。

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達人セミナーin広島で学んだこと(その1)(2001/2/14)

達人セミナーin広島が2001年2月10日に県立生涯学習センターで開催され、102名の聴衆を迎え大成功のうちに終わりました。ここでは私がそこで学んだ事の要点を書いておきます。

午前中の発表は、谷口幸夫さん、道面和枝さん、池岡慎さんによるものでした。谷口さんは「もうだんだんネタがなくなってきました」と笑いながらも、Word Imagination(A:Something white, B:Snow. Something tasty, A:Steak. Something ...というようにして相互に単語を言い合うゲーム。Something to不定詞でもできる)や、"weather"という字群を使ったアナグラム(文字の並び替えで単語を作り出すゲーム。なんと30以上の単語が可能)、さらには英文をphraseごとに区切ったプリントを用意し、紙で隠したのを上から少しずつ見せて速読・eye movementの練習をさせる方法を紹介したりと相変わらずの実践的なアイデアを出し続けます。継続できる力こそ本当の力だと思わされました。

道面さんは単語見つけゲームを紹介します。これはお正月に関した単語(日本語)に関する説明を教師が英語で言い、それを聞いた生徒がカルタ遊びのようにできるだけ速くその単語をチェックするというものです。このゲーム、「なんだ、結局カルタね」と思われた方もあるかもしれませんが、実はこのゲームは「まず簡単な名詞をポンと言っておいて、あとからそれに関する説明を付け足す働き」を持つ関係代名詞の勉強をやった後にやるのがミソでして、しかも題材の選択も季節・生徒の興味に合わせてなされたものです。ここでは関係代名詞という言語構造、カルタゲームという教育方法、季節の話題という生徒の興味の三者が絶妙にブレンドされているのです。道面さんはさらに「このゲームでは勝つことに一生懸命になってきちんと英文が定着しない怖れがありますから」と考えて、このゲームで使った英文をライティング活動にもつなげてゆきます(ヒントに従って英文を完成させる)。現場の知恵というのはさまざまな要因を結び付け、発展させてゆくものだなと感心しました。

池岡さんの発表は一時間にわたるものでしたが、これが盛りだくさんで、少なくとも三時間ぐらいはかけてしゃべってもらいたいお話でした。池岡さんの現場経験に基づいた教育信念が様々な機器の使用によって見事に展開します。リズムトラック(Zoom Rythm Track RT123)、スピーカー(Panasonic Twin Aero Hammer:ライン入力が二つあるスグレモノ)とMP3プレーヤーを巧みに組み合わせ、例えば「リズムトラックは、リズム感をつけさせるためというよりは授業をスピーディに進めるために使うんです」と言った発言にもみられるように、これらの機器に使われるのではなく、これらの機器を使いこなしていました。こういった「使いこなし」も、教育信念といった大きな目標があるからこそ可能だなということも思い知らされました。

池岡さんの発表は、他の優れた実践者の発表がすべてそうであるように、細部細部が統合され全体として大きなシステムになっています。今回はその全体像を私が説明できるほどにはまだ私が消化できなかったので、あと一点だけ学んだことを言うにとどめますが、それは教師のコンピューター・リテラシーも第二世代に入ったな、ということです。第一世代はテキストファイルの共有を学んだ世代です。それまでの各ワープロごとの閉ざされたファイル使用から、テキストファイルを使う事により他人のファイルを自由に使う事を覚え、フロッピー交換、インターネットでの情報収集などを熱心にやったのが第一世代だとすれば、池岡さんが示したのはその次をゆく第二世代のコンピューター・リテラシーでした。それはUSBの使いこなしです。池岡さんはUSB-Hubを使って、デジタル動画、デジタル静止画、アナログ音声、MIDI音を巧みに編集し、教材を作ってゆきます。USB-Hubを軸にしてパソコン上で様々なものが統合されてゆくのを見るのは、まさに新しい世代の到来を感じさせるものでした。

午後の最初は千田潤一さんでした。千田さんは英語教育コンサルティング会社である(株)アイ・シー・シーの代表取締役であり、TOEICフレンズクラブのシニアアドバイザーも兼任している方ですが、多くの方には「ベストセラー『英会話・ぜったい・音読』(講談社インターナショナル)の著者」といったほうがわかりやすいかもしれません。これまで企業や大学を中心に英語学習に関する講演・セミナー・カウンセリングを1400回以上こなし、受講者総数は4万人を超すというのは凄いものがあります。自由市場の中でのこれだけの実績というのには正直敬意を払うべきでしょう。

そして話は非常に面白いものであり、かつ私などは打ち砕かれる思いも感じるものでした。自分が中途半端な英語力で満足している事、自分にプロ意識が欠けている事を痛感させられました。

具体的な手法では音読筆写を紹介されました。音読筆写といってもただ漫然とやるのではなく、ある英文(You only live once)を30秒で何回声に出しながらノートに書けるかに挑戦しながらの音読筆写です。これが終わって一息ついたところで千田さんが「ところで皆さん、『人生は一度しかない』は英語で言うと?」と尋ねると全員が即座に"You only live once"とさらりと言います。なんら覚えようとしていなかったのに、もう心身全体で覚えてしまっているところが非常に印象的でした(この印象感はワークショップを実際に経験なさった方でないとわかりにくいかと思います)。千田さんは「英語の勉強は止めて、英語でトレーニングを始めろ」と言います(ちなみに私も最近読んで我が意を得たりと思った韓国のベストセラー『英語は絶対勉強するな』(サンマーク社)を、千田さんもいい本だとほめていました)。さらに千田さんの命名によるなら"Onput Training"となる同時通訳トレーニング法も公開されましたが、これについては千田さんが本を書く予定もあるとも聞きましたので、ここでは私が中途半端な紹介をすることは控えておきます。

千田さんは「私は英語は教えられない。英語の学びかたと英語の楽しさを伝えるだけだ」といいます。これも学校英語教師にとっては痛烈な一打だと思います。さらに千田さんは英語教育に関するグローバル企業と教育界の温度差を強調します。これについては千田さんが配ったプリントの表現をそのまま引用しますと、

「21世紀のグローバル社会でサバイバルするために日本の国際企業は身を切り、血を流しながら必死の経営努力を続けています。英語の必要性については議論の余地がありません。しかしながら、社会と学校の英語への取り組みには大きな温度差とスピード差があります。GUNPOINT(銃口)を前に英語を使わざるを得ない実社会と、教室と受験で英語が完結する学校との緊迫感・緊張感の差から来るのでしょうか?・・・そこには大きな”断絶”があります。」

別のプリントではTOEICの有効な活用法として「教員採用・入れ替え基準」として使うことを提言しています。

「中学730点、高校800点、大学860点。TOEIC公開試験を受験した英語教育関係者の平均点は715点。公開テストの平均点は、ほぼ560点だから英語教育関係者全体の平均点はさすがに高い。だが、学校教師別に見ると小学570点、短大571点、大学645点、中学658点、高校718点、英会話学校770点となっている。これは公開テストを受験した人の平均点だが全英語教師が団体受験した場合、平均点はほぼ130点下がると考えていい。実態は恐ろしく低い。教師は自分のレベル以上の教育はできない。人間性も大切だが、本基準導入によりさらに実社会の要請に応えうる質の高い教師の確保ができる。現時点で基準に満たない物には一年間の猶予を与え、それでも達することができなければ配置転換か退職勧告をする。雇用の確保や身分・待遇の保全を前提とした改革では何も変わらない。人間は身の安全を脅かすほどの緊張感が伴わないかぎり、あるべき方向に行動を起こさない」

「極端なビジネス界の意見だ」とお怒りの英語教育関係者の方も多いかもしれません。「ポストを脅かすことによる行動改善の是非を問いたい」と反論されたい方もいるかもしれません。しかしこれが現実感覚というものでしょう。私の勤務する大学でも任期制が一部導入され、終身雇用の前提がもはや教育界にいる自分の身にもあてはまらないことを日々実感している自分としては、複雑な思いこそあれ、こういった考えの様々な意味での強さを感じざるを得ません。

しかし千田さんは英語教師バッシングをすることを狙っているのでは全くありません。「私も一学習者の立場で、また企業の英語難民を救済する立場の人間として、そして6人の子を先生方に託さざるを得ない立場の親として、この問題を心有る先生方と一緒に考え続けていきたいと思います」というのが千田さんのメッセージです。そもそも英語教師に対する期待がなければ一日数十万のギャラで講演する人が、達人セミナーといったノーギャラの機会で講演をするわけはありません。千田潤一さんに代表されるようなビジネス界の方に私たちはこれから一層学んでゆき、そして英語教育界を少しでもよくしてゆきたいと心から思いました。

追記:私は千田さんの話に「本物」を感じましたので、翌日の達人セミナーin下関にも行きました。そこでは基本的に広島と同じ話をされたのですが、それでもまだまだ私は千田さんが持っていることの何十分の一も消化していないのだろう、と思いました。下関では広島で見せなかった同時通訳者の神様、西山千さんのビデオを見せてくれました。これは同時通訳者同士によるトレーニングセッションを撮影したものですが、場面は仲間の同時通訳者が見守る前で誰か同時通訳のデモンストレーションをする人はいないかとボランティアを求めたところでした。当然のことながら誰もが逡巡する中、さっと手を上げたのが西山さん。照れた笑顔を見せながら「いや、自分をテストしてみたいんです」とおっしゃって、見事な同時通訳を行いました。この時の西山さんは86歳。その場での最長老です。86歳にして「自分をテストしてみたいんです」と子供のように輝く眼で笑う西山さんのビデオ姿を見て私は涙が出るほど感動してしまいました。このビデオを見ただけでも私は下関に行った価値があると思いました。

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中嶋洋一さんの出町中学校へ行ってきました(2001/2/1)

中嶋洋一さんが教える富山県砺波市立出町中学校へ行ってきました(2001年1月29日月曜日)。校舎自体は、何の変哲もない典型的な地方都市の公立中学校の建物ですが、中は非常にきれいに使われていることが一目瞭然です。歩きながら整然とした感じを覚え、こちらの心まで静まってきそうでした。生徒の絵画作品や習字作品はもとより、生徒会選挙のポスターや各種掲示物もアート感覚にあふれたもので、私は一緒に見学に行った高知県の中学校の先生方と歩きながら「わっ、僕これ好き!」と思わず作品の前で立ち止まったりしておりました。

私は中嶋さんに最初に達人セミナーでお会いして以来、何回となく話を聞き、本を読み、ビデオも見てきたのですが、やはりまだまだ中嶋さんの実践の何分の一、いやひょっとしたら何十分の一も理解していなかったのではないかとも今回授業を見学させてもらって感じました。もちろん一回の見学でわかることも非常に限られたことです。人の営みを理解するということは奥が深いものだと思わされました。

以下、数点にわたって今回私が学んだことを書いてみます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。

>徹底した音読・リスニング・シャドーイング:中嶋さんの実践において音読とリスニングとシャドーイングは私の予想以上に重要な役割を果たしていました。ひょっとしたら音読とリスニングとシャドーイングは中嶋さんの実践の根幹をなしているといえるのかもしれません。私たちはまず二年一組に入っていったのですが、これがなんら特別の時間でもないのに生徒がペアになって音読・リスニング・シャドーイングを繰り返していました。二年生なら一年生時と二年生時の教科書を重ねあわせた合本を持って、生徒の一人がある課を音読。もう一人の生徒がそれを聞いて(リスニング)、聞いた端から口で再生してゆきます(シャドーイング)。この熱気には正直驚いてしまいました。私が中嶋さんの授業を実際に見に行こうと思ったのは、このような本やビデオでは伝わりにくい全体的な雰囲気を確認したかったからなのですが、最初から圧倒的な熱気を感じて私はやはり実際に見に来てよかったと心から思いました。

生徒の音読するスピードはかなり速く、シャドーイングする方も(時につまることこそあれ)それに負けないようなスピードで英文を口頭再生していました。しかもこれがチャイムが鳴って教師が入ってくる前の自主練習というのだから驚きです。何らかの理由によって、あるいは時にはわざと中嶋さんが遅く入ってきても(中嶋さんは通常は常にチャイム前に入室しているそうです)、生徒はこの活動を飽きることなく、それこそ一時間でもやっていると言います。この徹底的な訓練のおかげで、授業では中嶋さんやALTのKoreenさんのナチュラル・スピードの英語(日本の英語教育の「常識」からすると速すぎるぐらいのスピードの英語)にも、ほぼ的確に反応することができるのでしょう。

またもう一つ参観した三年一組の授業では、初出の教科書の英文にスラッシュをつけさせていましたが、そのスピードも私たちが驚くぐらい速いものでした。訳読の習慣がついた生徒や教員にとっては信じがたいスピードといっても過言ではないでしょう。さらにその英文をKoreenさん自身すらも速いと思うようなスピードで音読しますが、そのスピードに合わせてなんとか生徒も英文を音読しようとするから凄いものです。日本人の多くは英語を処理するスピードが遅いとはよく言われることですが、この中嶋さんのクラスで鍛えられた生徒はそのような批判を受けることはないでしょう。中嶋さんは特に最初の4月5月は徹底して音読・リスニング・シャドーイングをすると言います。これらの活動の徹底が非常に重要であることを私は痛感しました。

>学習集団を育てる:先に述べたような授業前の自習が可能になるのも、中嶋さんが用意周到に学習集団を育てているからのようです。中嶋さんは、生徒に「この人となら一緒に勉強してもよい」というアンケートを取って、それを元にしながらペアを決めます。うち一人にはペアリーダーとしてやってもらえるかを打診し、その同意を受けて任命します。ペアリーダーは日頃の活動の様子や成績などから総合的に判断し選んで打診をするそうです。そうして個々人の希望と同意のもとにつくられたペアではお互いがお互いをケアする関係がうまれます。

それでも次第に慣れるうちには、ペアリーダーがもう一人のペアを小馬鹿にしたような態度をとることもあるといいます。そんな時に中嶋さんは、必要に応じて怒鳴ることもいとわずに、そのようなことは絶対に許さないことをクラスに示します。時にはそこで授業を止めて職員室に帰ることもあるそうです(そうすると必ずといっていいほど、生徒が反省して授業を再開して欲しいと懇願にくるそうです。真剣かつ筋の通った怒りは必ず生徒にも通じるといえましょうか)。こうして学級が、ただの人の集まりから、お互いにケアしあい、一人一人できるだけ伸びてゆこうとする学習集団へと変容してゆきます。この自律的な規律に基づいた学習集団があってこそ、中嶋先生の様々な「仕掛け」も有効に働くのかもしれません。(逆に言うなら学習集団の基礎なくしていくらうわべだけの教授テクニックだけを真似しても必ずしもうまくゆかないと言えるでしょう。)

>メッセージとコンテンツの重視:中嶋さんは言語はメッセージを伝える媒体、自己表現と他者理解を相互におこなうための媒体という考えを重視しているようです。まるで、メッセージやコンテンツ(内容・中身)のない言語はもはや言語ではないといわんがばかりです。二年生の授業では比較級が扱われたのですが、その授業でも中嶋さんは前の時間に"Men are stronger than women" "Men should make more money than women"----Yes, I think so / I can't say / No, I don't think soといった12問の英語アンケートをやっておき、当日はその結果を模造紙にはってALTとの英語で掛け合いのトークやスキットをはさみながら次々にアンケート結果を英語で発表してゆきます。この時生徒はまさに身をのりだすようにして結果を見ますし、結果を告げる英語に従って実に自然に「エーッ?」といった声をもらしています。そうやって自分たちがもっているgender biasを目の当たりにした生徒に中嶋さんは、"Who is busier, father or mother?"と問いかけ、やはり女性の方が忙しくこまめに動いている家庭が多いことを確かめた上で"Why?"とたたみかけます。この時、生徒は実に真剣に困惑し、考え込んでいる顔をしていました。英語がまさに生徒の心をダイレクトにつかんでいるのです。見事な言語使用(language use)になっている授業だなと感心しました。言語用法(language usage)の見事なdisplayをする授業は珍しくありませんが、このようなauthenticな言語使用の授業は私は他にあまり例を知りません。

また三年生のsmall talkという活動では、生徒が自由に好きな人を見つけて、予め指定された話題の中からどれかを選んで話をするのですが、これには授業参観をしている私たちも参加しました。私は三人の生徒さんと話をしたのですが、どの生徒さんと話した時も私たちは目と目を合わせて、genuineな話し合いができました。「習った構文を使ってみる」というような発話ではなく、自然と話し掛け、耳を傾ける関係ができるのです。いわば見知らぬ私とでも、このように自然な対話が英語でできるというのは凄いことだと思います。方法はシンプルでも内容は非常に深く豊かであるのが中嶋さんの授業の特徴です。

>自由で自律的になるための訓練:授業中、いや授業前からの生徒の集中力は物凄いものがあります。シャドーイングは真剣だし、メモ(マッピング)を書くのも速いし、机の移動なども迅速です。また中嶋さんも笑顔になっている時間より、厳しい顔をしている時間の方が圧倒的に多いです。単純に考えるとこれだけ集中したら疲れきってしまうのではないかと思い、二三人の生徒に授業後尋ねてみましたが、皆「授業は楽しい」と答えています。

秘密は、これらの活動が生徒が自由で自律的になるための訓練になっていることだと私は考えました。殺人マシーンを作り上げる軍隊の訓練なら「右向け右、左向け左」「急げ、急げ!もっと急げ!!」などの指示の連続で、指示を受ける方は肩に力が入り、眉をつり上げながら、ひたすら自分の内なる声を圧殺して上官の指示に従います。中嶋さんの施す訓練はこれとは全く異なります。中嶋さんの指示にはほとんどすべて生徒の自己決定の余地があります。全員が決められた課題を一様に行うのではなく、生徒一人一人、あるいはペア一つごとが、例えば英語課題のトピックや課題遂行のスピードなどを自分(たち)で決めます。そんな自己決定に基づく課題遂行だからこそ、生徒は自発的な向上心を発揮させ、授業を「楽しい」と感じるのではないでしょうか。

>アウトサイダーとしての中嶋さん:中嶋さんは「自分はアウトサイダーだ」といいます。自分が中学生、高校生の頃は英語の歌が好きで、歌を通じれば英語もマスターできるのにと思って、先生にお願いしても、先生は英語の時間に歌など全く使わず淋しい思いをしたり、浪人時代は自力で現在の形に近い英語学習法を発見・体得したり、新任教師時代はベテラン教師に「歌を使うぐらいなら単語テストをやれ」と言われたりと、中嶋さんは自分の英語学習法・教育法が英語教育の体制側に認められない思いを持っていたようです。しかしそのうちに自己表現を授業の核におく英語教師に出会ったり、カナダのグローバル・セミナーで学んだりしながら実践を深め、改善を繰り返し、現在のスタイルに至ったといいます。「失敗があったから現在の自分があるんですよ」と中嶋さんは笑っていいますが、私はここに重要なポイントがあるように思われます。

英語授業のやり方も、既成のやり方を「このようにやれ!」とばかりに教え込まれたら、教師はある意味で失敗をすることがありません。失敗とは自分なりの予測や仮説があり、それがはずれたからこそ感じられるものです。既成のやり方を教え込まれてそれを機械的に実践するだけの教師は、言われた通りにやっているだけで、そこに自分なりの「こうしてみたらうまくゆくのではないか」という予測も仮説もありません。予測や仮説がないということは、現実のフィードバックから何も学ばないということです。「私は言われた通りにやりました。その結果はこのとおりですが、これは私の責任ではありません」というわけです。それに対して「アウトサイダー」は、自分のやり方が体制側と異なるだけに、授業の失敗の責任を転嫁する先がありません。すべて自分で引き受けなければなりません。だから真剣になります。予測や仮説も立てなければなりません。さもないと授業の失敗という自分の責任がますます重くのしかかってくるからです。

新人教師を育てるということも、生徒を育てることと同じなのかもしれません。自己責任を与える、つまりは(ある程度の)自由を与えて、失敗を許容することによってはじめて成長できるのではないでしょうか。昨今、英語教師の質の向上が説かれることが多いですが、それが「ベスト・メソッド」の押しつけに終わるのなら、私たちは善意が悲劇を招くという人間社会のアイロニーをまた繰り返してしまうことになるのかもしれません。

忙しい中の授業見学を許してくださった中嶋さん、生徒さん、そして砂田校長先生をはじめとした出町中学校の皆さんのご厚意に少しでも応えるため、私なりに学んだと思ったことをまとめました。出町中学校の皆さん、本当にありがとうございました。

追記1:時間があったら言わせてもらおうと思っていた出町中学校の生徒さんへのメッセージをここに書いておきます。三年生の授業を見ながらメモを残していたものです。

You are the third grade students. So you have to say good-bye to your friends and this school soon. You have to go separate ways.

But don't be sad! You have learnt three important things in life through Nakashima sensei's class.

The first is friendship. You have had a good time, a bad time a pleasant time and a hard time together. Nobody can take that time away from you. It's always yours in life.

The second is power to learn. You have learnt from Nakashima sensei not only English but also power to learn. You can now learn a lot of things, even through English, all by yourself and for yourself. The power to learn is very valuable in life.

The last but not the least is belief in yourself. English was difficult for you first. But now, you can listen, speak, read and write English. Is it Nakashima sensei who learnt English? No, it's you. You learnt it. You did it. You can believe in yourself. You can do many things if you work really hard. That's something you have learnt through Nakashima sensei's class.

Well, good-bye everyone. I sincerely hope your life will be truely yours, enjoyable and meaningful.

追記2:中嶋先生から後日メールで、二年一組の比較級の授業で使った英語アンケートとその答えの一部、および私たちが観察した次の授業での生徒さんの感想の一部を送っていただきました。以下掲載します。比較級の授業をなさる先生方、参考になさってください。

1) Men are stronger than women. Boys : Yes, I think so (47%) Girls : I can't say.(42%)

2) Women are kinder than men. Boys : Yes, I think so.(47%) Girls : Yes, I think

so. (35&)

3) Men are more active than women. Boys : Yes, I think so. (62%) Girls : No, I don't think so.(78%)

4) Women are smarter than men. Boys : Yes, I think so. (70%) Girls : Yes, I think so. (70%)

5) Men should be cool and fun. Boys : Yes, I think so. (53%) Girls : Yes, I think so. (100%)

6) Women should be pretty. Boys : Yes, I think so. (55%) Girls : I can't say. (53%)

7) Men must work harder than women. Boys: Yes, I think so. (47%) Girls: Yes, I think so. (58%)

8) Women must work harder than men. Boys: I can't say. (47%) Girls: No, I don't think so. (47%)

9) Men are better leaders than women. Boys: Yes, I think so. (65%) Girls: Yes, I think so. (42%)

10) Women take care of children better than men. Boys: Yes, I think so. (80%) Girls: Yes, I think so. (80%)

11) Men should make more money than women. Boys: Yes, I think so. (47%) Girls: Yes, I think so. (58%)

12) Women should stay at home. Boys: Yes, I think so. (55%) Girls : No, I don't think so. (90%)

「女子は男子に比べて、とても窮屈なことを言われているとわかった。僕たちも言っていると思う。この授業で、僕が今までそういうことを言ってきた人に謝らなければならないと思った」(男子)。「私は、よく父母から「女なんだから、おしとやかにしなさい」「家事をしなさい」「礼儀よくしなさい」こんなことばかり言われます。でも、私は木登りが大好き。料理よりも木工の方が得意だし、好きな色は黒と青、嫌いな色はピンク。逆に弟は、読書が好きで掃除、洗濯が得意。色は赤色が大好き。男だから、女だからなんて、絶対に関係ない。能力だった変わらないから、女の人もどんどん活躍するべきだと思います。先進国が性差別なんて聞いてあきれますよね。もっと互いに理解し合うべきだと思います」(女子)。女の人で力がある人、夢のある人、創造力(想像力)のある人がいても、「家で家事をしなければいけない」と言われるのであれば、社会で活躍できない。男の人も手が器用で家事が得意だとしても 、「男は力が強く、仕事ができて、出世しなくてはいけない」と言うのは、その人たちがもつ才能や個性が全く生かされなくなって、人生が辛いものになってしまうと思う。昔の習慣で大切なものはあるけど、こういう差別は私たちの時代でなんとか変えていきたいと思う」(女子)。「お母さんばかりが辛い目にあって、そんなの変だと思う。男だって泣いたっていいと思うし、料理をしてもいいじゃないか。昔は、どうして「男のくせに」「女のくせに」と言われるんだろうって考えたけど、今はあまりにも生活に密着しすぎていて、気づかなかった。いつか、男も女も、家事を分担して、自由に職業を選べる日が来たら素敵だと思う」(女子)。「性差別をすると、世の中から物事をいろいろな見方をする人が減っていき、逆に頭が堅い人が増えると思います」(男子)。

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うわべだけの国際化と歴史の大きな流れ(2000/12/27)

「国際化」という言葉は、文部省をはじめとしたお役所が好んで使う言葉の一つです。しかしこの言葉はやはりうわべだけの言葉ではないかと思うことが最近ありました。

先日のことです。ある若い人が私の勤務する講座を訪問してくれました。彼は日本の高校を出た後、思い立ってアメリカのある州立大学に入学し、来年の5月にはそこを卒業する予定だそうです。「リスニングなどで苦労することはありませんでしたか」と私は思わず聞いてしまいましたが、「日本にいる時にテレビの二か国語放送などで英語を聞いていましたから講義などで苦労することはありませんでした。もっとも地元の人の英語は最初はわかりにくかったですが」と答える彼を前に、私は彼の才能を差し引いて考えるにせよ、自由意志とメディアの力が合わされば英語学習はかなり進むという私の持論の強い証拠を得た思いでした。

英語学習についてはともかくも、彼が私の勤務する講座を訪れてくれたのは、日本の英語教員免許状を取りたいからでした。彼はビジネスには興味がなく、日本の英語教育を身近な所から改革することを自らの仕事としたいと語っていました。彼のように信念を持ち、おまけに人柄もよく、また抜群に英語ができる人材なら、どんな学校だってのどから手が出てあごがはずれるぐらい欲しいことと思いますが、彼はこのままではどこの学校でも正式な英語教師としては雇用されません。日本の英語教員免許状を持っていないからです。

免許状を取得するには、具体的にはどのくらいの単位を必要とするのだろう、科目等履修生といった制度で簡単に取得できないものかと教務課に問い合わせてみますと、「詳しい事は彼の卒業証明書の取得単位の詳細を見なければわからないが」と前置きはしたものの「そう簡単には免許状は取得できないでしょうね」というのが答えでした。

これに類したことは私の以前の勤務校でも経験したことがあります。そこではニュージーランドの大学と提携を結んで、そこへの留学で取得した単位を正式に単位認定し、卒業所要単位に入れていました。ところがニュージーランドでの英語学習の単位を教職課程の「英作文」などとして認定しようとしたら文部省からクレームがつきました。詳しい言い方は忘れましたが「教職に関する単位は日本の大学で開設された単位でないと認めがたい」とか言うものです。例によってこれは文書ではなく口頭による「指導」で、かつ「認めがたい」とかいった曖昧な表現だったのですが、そうでなくとも文部省は教職課程に関しては私立大学に厳しい態度を取る、と私たちは認識していましたので、私たちはおとなしくその「指導」にしたがって、ニュージーランドでしっかり勉強をして英語の単位をとった学生に、「教職用の英語の単位は日本でもう一度取り直してください」と告げました(私たちの腑抜けぶりをお笑いください。しかし許認可権を持つ官庁からの口頭指導というのは怖いものです。文書でない分、担当官の裁量の度合いが強いとは思うのですが、従っておかないと後でさらにどんな口頭指導が来るかもしれないと思うと私たちはびびってしまいました)。

これら二つのケースから私が言いたいことをまとめます。教員免許のために必要な日本の教育法規などに関する単位や日本の実情に基づいた教育実習などの単位は、もちろん海外で取得した単位で代用するわけにはいかないでしょう。しかし英語に関する教職科目なら海外(英語圏)で取得した英語関連科目で十二分に代用できるのではないでしょうか。第一のケースならどんな大学ででも「基本的に教育法規関係と教育実習関係の単位を取得すればOKです」と即答できるぐらいの体制が、少なくとも英語教員免許なら当たり前と私は思います。冒頭に書きましたようにお役所は「国際化」という言葉が好きです。しかしその実態はアメリカをはじめとする海外の大学卒業資格を認めず、単位取得にも数々の制限があるのです。巷に言われている「アメリカでたとえPh.Dを取ってきても、日本の公的機関では大学卒としてすら認定されない」というのは真実です。日本では日本の文部省が認可した大学を卒業していないと、公的には大学卒として扱われないわけです。

これはコンプレックスの現われではないのかというのが私の推測です。一方で「国際化」を推奨し、アメリカなどの制度を真似しなければと焦る一方、実際には数々のシステムを「日本だから」といって保護し特権化し、海外のシステムを「日本でないから」といって冷遇するというのは、まさに錯綜した感情(complex)の現われとは言えないでしょうか。12月22日に出された「教育改革国民会議報告」(http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/houkoku/1222report.html)ででも「教育基本法の改正の議論が国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない」といった「言うまでもない」ことを言わなければならないほどに、「日本人 」「伝統文化」「家庭、郷土、国家」といった言葉が要所要所で使われています。現代の教育の混乱を専ら教育基本法のあり方のせいにするような論調があるのには私は何だかおかしなものを感じてしまいます。

さらに推測を重ねますなら(もはや邪推というべきでしょうか)、これには占領時期に多感であった世代のコンプレックスがからんでいるのかもしれません。歴史の授業では少しも習いませんでしたが、私が私的に伝え聞いた話や読んだ本によるならば、占領時期にはやはり、占領軍兵士による婦女暴行などがあり、それに対しては日本の警察はほとんど無力だったと聞きます。また軍国主義一掃の名の下、武道も弾圧され、ひどい場合は道衣や帯などの武具も目の前で焼かれたと言います。そのようなことを直接に体験したならば、「日本の文化を守らなければ」といきりたつのも不思議はないのかもしれません。

確かにこれらの体験は敗戦国の常とはいえ、辛く不幸で本来あってはならない体験でした(下の追記を参照のこと)。しかし時代は進み、時代は変わったというのが、私の正直な思いです。

私は婦女暴行を決して認めたりはしません。しかしアメリカの占領政策・文化政策などをきっかけに日本の女性が解放され自由になりそして強くなったのも歴史的な事実です。武具を焼くなどの蛮行も認めませんが、その後武道も少しずつ復活しました。さらには柔道のように国際化したり、空手のようにムエンタイ(タイ式キックボクシング)やボクシングやブラジリアン柔術のよさを取り入れ、世界的に認められたりと、もはや現代の武道の隆盛は「伝統」によるというよりは「進化」によると言うべきではないかと思います。大切にすべき「日本」があるとすれば、それは伝統のイメージによって作り上げられた「日本」ではなく、他の国と同じように相互交流の中で進化し模索する「日本」ではないのでしょうか。

と、戦前・戦中生まれの人のせいにするような論を述べましたが、「日本」に関するコンプレックスと障壁は戦後生まれの私たちによっても作られているのかもしれません。大学人にしても「本格的な国際競争にさらされたらどうなるかわからない。ひいてはなんとか色々な制約をつくっておいて自分の地位を確保しておかないと・・・」と心の底では思っているのかもしれません。私とて例外ではありません。

「グローバリゼーション」といえば異論もありましょうが、人間の相互交流の進行は否定できない歴史の大きな流れです。その流れに蓋をするような無理はやがて破綻するでしょうから、少しずつでもこの大きな流れに適応できるようシステムを、そして自分を変えなければと思います。

追記(2001/1/13):たまたま読んでいた本(伊藤精介『銀座 名バーテンダー物語』晶文社)に上に関連した話が書いてあったので、以下簡単に記しておきます。(  )の中の数字は同書のページ数を指します。

話というのは終戦直後のRAA (Recreation and Amusement Association)、日本名で「特殊慰安施設協会」(136)のことです。当時「進駐軍が上陸してくると大変なことになる。日本の婦女子の貞操があぶない。"性の防波堤"としての慰安施設を緊急につくる必要がある。ついては慰安婦の絶対数が足りないので、玄人の女性はもちろん、素人の女性も広く集めなければならない。この緊急国策の手伝いをしてほしい」(136-137)といった政府の方針が定められたそうです。この必要性を強調したのは国務大臣の近衛文麿で、閣議決定(昭和20年8月21日)をふまえて内務省警保長名で各県の警察署長宛に「外国駐屯軍慰安婦施設等整備要領」という秘密の通達が出され、RAAがつくられたそうです(142)。表向きは「新日本女性に告ぐ!戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。ダンサーおよび女事務員募集。年齢18歳以上、25歳まで。宿舎、被服、食糧全部支給」(137-138)という形で募集をし、「一人の女性が一日に40人、50人という兵隊の相手を」(138)するはめになったそうです。しかし、そのRAAも「翌21年の3月、GHQの指令ですべてオフ・リミットになりました。性病が蔓延したことと、そういった公娼制度は日本の民主化によろしくないという理由からです。最盛時には実に7万人、閉鎖時でも5万5千人もの女性たちがRAAの名の下に働いていたそうです」(139)というのが同書の記述です。

読者の皆さん、特に女性読者の皆さんを不快な気持ちにする意図は全くないのですが、これも歴史の一コマとしてきちんと伝えるべきかと思ったので抜き書きした次第です。こういった時代を生き抜いた年配の方々が「アメリカ」や「日本」に対して錯綜した感情を持つとしても不思議はないと言えるのかもしれません(軽率な言い方をするつもりはありません。読者の皆様のご理解を乞います)。

なおこういった記述は、橋本嘉夫『百億円の売春市場』採光新社、福島著『戦後雑誌の周辺』筑摩書房、真壁著『東京闇市興亡史』草風社、マーク・ゲイン『ニッポン日記』などにもあるようです。

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人格的な若い人々(2000/10/26)

所属学部で学生生活委員長としての仕事をしています。そのせいで、様々な学生さんと接することができます。本日も、新入生歓迎合宿のための学生実行委員の集まりに出ました。そこで学生の実行委員長を決めたのですが、それが上級生からではなく下級生から選ばれたので、私は少々驚き、私より上の世代の先生はうろたえてしまいました。そこでつい「下級生から選んで大丈夫?下級生がトップだと上級生が協力しないということはないの?」と聞くと、上級生の一人が「僕達は、常に前の代を越えたいと思ってきたし、下級生にも僕達を越えてほしいと思っていますから、全然気になりません。下級生から尋ねられたら僕達の経験は伝えますが、伝統を伝えるとかいう感覚はありません」とてらいも気負いもなく答えました。

実はこの前、英国に行ったときも、そこで長年日本人の大学生に接している複数の英国人英語教師から異口同音に「90年代に日本人の若者は変わった。内気で個性がないというそれまでの日本人のステレオタイプはまったくといっていいほどあてはまらなくなった」と聞いたばかりでした。若い人の多くが、年功序列といった権威体制を気にもかけずに、一人一人の個性----言ってみるなら人格----を大切にするようになってきたのでしょう。

私は英語教師として広い意味の西洋文化を学び、自由で民主的な社会を愛し理想とするようになってきました。自由で民主的な社会とは、言い替えるなら、個性・人格の発揮と人権の擁護を大切にする社会です。

今の日本は、政党政治の行き詰まりを見ても、赤字国債の累積を見ても、完了しない機構改革を見ても行き詰まっています。今の大人の多くは、明治人の気概もなく、戦後直後のたくましさもなく、バブル期のあぶく銭も失い、宗教心も政治的理想も持ちえないままに、旧来の権威と権力によりすがることだけで自分を保とうとしている人間です。若いみなさんの、一人一人の人格を見極め、一人一人の自由を大切する態度で、古い日本の旧世代を圧倒してください。それが日本の希望です。

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イギリス三大学訪問印象記(2000/10/14)

私が勤務している広島大学教育学部の(通称)「英語科」の5カ月留学プログラムに参加する学生さんを引率するためにイギリスへ行ってきました。彼/彼女らは単位交換によって、このプログラムに参加しても四年間で大学を卒業します。

最初に訪れたのはエディンバラ大学です。実は私はスコットランドに行くのは初めてだったのですが、美しい町なみと地元の人達の外国人に対する寛容な態度が非常に印象的でした(夜にライトアップされた風景はまさに絶景でした)。エディンバラ大学は古い大学で、町の中心部にあります。学生は、いたるところにあるパブや店などに囲まれながら学生生活を送るわけですが、学生を育てるのは大学だけでなく、町の様々な人々だということを強く再認識しました。エディンバラ大学で学ぶ学生さんは町の暮らしからもきっと多くのことを学んで帰ってくるでしょう。

次に訪れたのはウォリック大学ですが、これは町から離れたところに作られた大学です。だから、というわけでは必ずしもないのかもしれませんが、この大学のArts Centreは本当に素晴しいものです。ホール、スタジオ、シネマ、ギャラリー、パブをそなえ、毎週様々な演劇、コンサート、映画、展示、朗読会などのイベントがあります。学生さんは低料金でこれらのイベントに参加できます。私の好きな音楽イベントだけ挙げても、London Morzart Players, Czech National Symphony Orchestra, City of Birmingham Symphony Orchestra, Moscow Radio Symphony Orchestra, Philharmonia Orchestra and the Choir of King's College Cambridge, Remember Shakti (John McLaughlin), The Australian Pink Floyd Showなどなどがあり、このアートセンターが「ロンドン以外では最高」という風評もまったくその通りだと思いました。この大学の音楽サークル活動は非常に充実しているので、私は音楽をやる学生さんに、是非サークルに参加するように勧めました。もちろん教育・研究面でも医学部を新設したり、MBAを充実させたりコンピュータ学部を新設したりと、この大学の勢いには素晴しいものがあります。以前私もここに滞在したこともあって、やはり非常に印象に残った大学でした。

最後に行ったのは、ランカスター大学です。これは町と大学との関係でいいますと、ちょうどエディンバラ大学とウォリック大学の中間みたいな感じで、町から少し離れたところに大学があります。キャンパスの緑の美しさは素晴しいものでした。この大学では他の大学にもまして、きめこまやかな指導・オリエンテーションが印象的でした。留学生を責任をもって預かり力をつけさせようという姿勢が、具体的な手だてによく現れていました。

外国語の教育は、なんのかんの言いましても、やはりその言葉が話されている国で受けるのがベストかと思います。私自身は学生時代に貧乏でしたので留学は夢物語で、その分コンプレックスからの反発心で日本で英語を習得しようと努力しましたが、もしお金と時間が許すなら留学するに越したことはないということは正直に認めざるを得ません。もちろん「留学しさえすれば英語が上手になる」というのも幻想に過ぎませんが、お互いで話をする時すらも英語を使って、とにかく5カ月は英語だけでとおそうとしている勤務校の学生さんを見ていると、うらやましく、また頼もしく思いました。

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アクション・リサーチを制度化しよう(2000/9/24)

8月の全国英語教育学会の時に思ったことを今書きつけておくことにします。

アクション・リサーチが中心的な話題になった問題別討論会では、とにかくアクション・リサーチを普及させることが大切だといった発言がありました。その発言をなさった方と、後で話をしたのですが、その方は英語教育でのアクション・リサーチが、しばしば批判的視点を欠いていること、および従来の実験研究に類似した形でしか行われていないので洞察を軽視しがちなことを熟知した上で、「それでいい」とおっしゃっていました。最初から難しいことを言ってはアクション・リサーチは普及しない、というのがその方の論点でした。

「アクション・リサーチは実は結構シンドイもので、実施にはかなりの労力がかかることは自分も承知しているが、最初からそんなことを言っていては誰もアクション・リサーチをやりたがらない。最初は実験研究まがいの『骨抜き』のアクション・リサーチでもいいから、とにかく多くの人にやってもらうことが重要だ」というのもその人の弁でした。

その現実的な認識には、正直なるほどと思わされるところがありました。確かに学会に参加しているような熱心な英語教師にすら難しい・シンドイと思われたら、アクション・リサーチはなかなか普及しないかもしれません。物事は最初はとにかくやりはじめるべきで、レベルの向上はその人口の裾野が広がってはじめて期待できるというのも世の常なのかもしれません。アクション・リサーチによる教師の自立とエンパワーメントは、是が非でも勝ち取るべきものという観点からも、やはりとにかく普及第一を考えて「アクション・リサーチ、アクション・リサーチ」と連呼をするべきなのかもしれません。

しかし一方で、少数かもしれませんが、きちんとしたアクション・リサーチをする試みも日本に見られます。8月の全国英語教育学会でもそのような発表はありました。その発表者は「現場教師が一人で授業・校務を行ないつつアクション・リサーチを行なうのにはかなりのエネルギーがいる。記録を取り続けるだけでも大変だ」とおっしゃっていました。ですが、「それでも、教師としての成長という点では、自分で言うのもおこがましいが、遅刻や私語の多い翌日の授業のことを考えると気が重くなっていた昔と、一学期を通じて遅刻ゼロになった現在を比較すると、多少は自分も教師として成長できたのかもしれない」というのもその発表者の述懐でした。私はその述懐に静かな感動を覚えました。

さてここで問題です。一方では、アクション・リサーチは普及させるべきです。全国各地の多くの英語教師が反省的実践を経たゆるぎない自信と実力をつけることは、学校英語教育にとって何よりも重要なことと言えるでしょう。しかし他方で、アクション・リサーチは、真剣に行なえば、現場英語教師にかなりの負担を強いるものです。そのことを前面に打ち出せば、アクション・リサーチの普及は遅れるかもしれません。やはり(言葉は悪いですが)「骨抜き」の「お手軽」なアクション・リサーチを前面に出すしか方法はないのでしょうか。

他にも方法はあるはず、というのが私の考えです。アクション・リサーチを制度化して実施するというのがその一つです。

例えば、新人教員は、最初の一年は先輩英語教師のアクション・リサーチの研究助手としての時間を割く事を、公式の仕事とするというのはどうでしょうか。そうすれば、失われがちな、教員同士のつながりも復活させることができます。しかもこのつながりは、「先輩が後輩を教える」という旧来の一方的な形ではなく、「先輩が自らを省察し成長する姿を見て、後輩が学ぶ」という率直で民主的な人間関係を促進するつながりです。先輩教師は、後輩の援助によって、少ない負担でアクション・リサーチを遂行できます。後輩は、そういった援助(正統的周辺参加)を通じて、英語教師の仕事とはどういうことかを少しずつ実感しながら学ぶ事ができます。そうやってアクション・リサーチを実施して、その成を公表することも制度化すれば、英語教師の自律も促進されないでしょうか。

あるいは大学院生や学部生がアクション・リサーチの研究助手になるのでもかまいません。学生が現場に研究助手として入ることを公式に認めるようにすれば、学校も風通しがよくなるし、学生もずいぶん勉強になるのではないでしょうか。もちろん研究助手になるのは教員養成系の大学教員でもかまいません。私自身としてももっと現場を知りたいです。英語教育の現場を通して自分の研究を確かめたいです。

いずれにしても、この私の提案の要点は、制度化することです。アクション・リサーチの援助を公式の仕事と認定することによって、新人教員・学生・大学教員は、堂々と英語教育の現実に学ぶ事ができるようになります。先輩教員も、ひょっとしたらあるかもしれない気後れを断ち切って自己省察と自己成長へ進むことができます。互いに学び合う文化を醸成することができます。衆知を集め、助け合うつながりができます。

こうしてみるとアクション・リサーチが「協働的」(collaborative)であるべき、というのは必然の流れなのかもしれません。アクション・リサーチをとにかく普及させて、誤解と幻滅を招いてしまうよりは、一見遠回りのようですが、アクション・リサーチの実施を制度化する方が有効ではないかというのが私の考えです。

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Confirmation, affirmation, and double vision (2000/8/18)

第26回全国英語教育学会埼玉研究大会が成功裡に終了しました。何よりも事務局の方々に感謝をしたいと思います。本当にありがとうございました。

さて、この大会ではアクション・リサーチという言葉があちこちで見られました。私の発表もそうでしたが、タイトルの中や、キーワードの中にアクション・リサーチという言葉が見られる発表が複数あり、かつ問題別討論会の一つ(「授業研究」のあり方)ではアクション・リサーチが中心テーマになって討議が行なわれました。

その問題別討論会でフロアーのある方が「アクション・リサーチでは、厳密な仮説検証をどのようにしておこなっているのか」という質問がありました。私はこの質問は不適切な質問と考えましたので、パネリストが応答した後、私もフロアーから挙手して以下に述べるようなことを発言しました。

上のような質問は、アクション・リサーチの本質を取り違えたものだと私は思います。アクション・リサーチは現実の実践状況で行われることを第一義にしているものです。そこではconfirmationよりaffirmationの方が、affirmationよりdouble visionの方が優先されなければなりません。

Confirmationとは仮説検証(あるいはrefutation)のことです。仮説検証では通常、ある一つの要因が効果を持つかどうかを検証するために、その要因の有無だけで異なるようなグループを作ってそれらを比較します。その要因以外の要因はランダムなノイズにして統制しなければなりません。しかし実践状況では、往々にして仮説の要因以外の要因が発生し、実験デザインを乱そうとします。

ここで仮説実験研究をやっている人間とアクション・リサーチをやっている人間の態度が分かれます。仮説実験研究をやる者にとって、最も大切なのは仮説です。ですから彼/彼女は仮説が当初の実験デザインのまま残るように、他の要因に「汚染された」被験者は実験から排除したり、できるだけ他の要因が介入しないように工夫に工夫を重ねて、仮説の純粋性を守ります。繰り返しますが、彼/彼女にとって最も大切なのは仮説なのです。

ところがアクション・リサーチをやっている人間は、基本的には実践者です。目の前の実践を「よく」することが彼/彼女にとって最も大切なのです。仮説検証のための実験デザインは彼/彼女にとって二の次に過ぎません。例えば、もしリーディング速度を上げるための教授方法仮説に基づいて授業を重ねてゆくうちに、ある生徒が自主的に課外教材を読みはじめたら、実践者ならその生徒を励まし、誉めて、クラス全体を自発的読書の方向へ導こうとするでしょう。しかしもし彼/彼女が仮説実験者なら、そのような生徒の自発的な行動は禁止(制御)しなければなりません。純粋な比較にならなくなってしまうからです。自主的読書を禁止(制御)するのがあんまりというのなら、それらの生徒を被験者から除外しなければなりません。それらの生徒を誉めて、その習慣がクラスに広がることは、実験期間中は止めなければなりません。

これがconfirmationとaffirmationの違いです。仮説検証実験者があくまでも仮説がconfirmされるかdisconfirmされるかに興味を持ち、それ以外のことが起るのを避けなければならないのに対して、実践者は、自分が(信じる仮説に基づいて)起こした行動の結果の全て----予期していた結果も予期していなかった結果も含めての全て----に責任を持ち、その結果全体がよい方向に向かうように工夫します。こうして彼/彼女は自分の行動をaffirm(あるいはうまくゆかない場合はnegate)するのです。

しかし実は実践者が自分の行動をaffirmばかりしようとすることは必ずしも好ましいことではないのです。自分の行動を過信してしまいがちになり、見るべきものが見えなくなってしまいかねないからです。実は他の視点から自分の実践を見ると、改善するべき点が多々あることに気づくことが阻害されてしまうのです。これがaffirmationよりdouble visionが大切ということです。Double visionとは自らが信じる仮説に従って状況の変化を見ながらも、同時にその仮説が適切でない可能性にも従って状況を見ることです。優れた実践家は、自分の信念・行動を大切にしつつも、常にdouble visionを持って、「状況との対話」を繰り返し、自分と状況が持つ新たな可能性を模索しています。

アクション・リサーチにおいてもdouble visionが一番大切と私は考えます。その次にaffirmationです。Confirmationは言ってみるならば「できればもうけもの」ぐらいだと思います。アクション・リサーチにおいてconfirmationは本質的なものではないのです。常に様々な可能性に対して開かれた態度で実践を深めてゆけば、たとえ実践が(きわめて残念なことに)うまくゆかなくとも、実践者はその失敗から様々なことを学べます。仮説検証実験研究では通常、仮説が検証されないと研究としては失敗とされますが(少なくともジャーナルには採択されにくいでしょう)、アクション・リサーチではconfirmationもaffirmationもできなくとも、そこに真摯な反省に基づく気づきがあれば、それはそれなりのアクション・リサーチとして認められます(もちろんaffirmationがうまくゆかない時に実践者は道義的・心情的責任は強く感じるでしょうし、また感じるべきでしょう)。ですがその痛手とともに実践者とその報告を聞く者は成長を遂げることができるのです。

仮説検証にとってはconfirmationこそが重要。Affirmationは実験デザインの堕落であり、double visionは(少なくとも実験中は)避けるべきことです。この優先順位はアクション・リサーチの優先順位と正反対です。実験研究の論理でアクション・リサーチを裁断することの誤りがお分かりいただけたでしょうか。また私は、現実の学校を舞台にして厳密な実験研究を行なうことは研究の面ではほぼ不可能であり、教育の面では倫理的じっくり検討すべきことと考えますが、いかがでしょうか。

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現実上の最善と理論上の最善(2000/8/18)

(この文章は上の続きです)

問題別討論会では、フロアーの私の発言に対しての質問がフロアーからありました。その方の趣旨は、アクション・リサーチの報告で例えばリーディング速度の右上がりのグラフを示しながら、実はそのグラフは実験計画法に従って得られたデータでないのはmisleadingではないのか、といったものでした。データを出すなら厳密な実験計画法に従ったものでなければならない、というのがその方の趣旨だったようにも思えます。

私の答えはこうです。現実世界での「実証」あるいは「立証」のあり方を思い起こしてみましょう。

たとえはあまりよくないのですが、犯罪の立証です。一つの立証は、犯人がまさに犯罪を犯す瞬間を複数の人が目撃し、なおかつ物証(証拠写真、指紋など)を取ることです。犯人と利害関係のない複数の人間の目撃証言と物証があればほぼ完全な立証といえるでしょう。しかし全ての犯罪がこのように目撃されるわけではありません。たいていの犯罪は犯行後に知られます。その場合の立証方法つまりは第二の立証方法を思い起こしてみましょう。

検察が行なうことは数々の断片的な証拠(電話の交信記録、足跡、アリバイの欠如、等など)を慎重に集めて、事件を再構成することです。その際、容疑者の「動機」といったものも重要ですが、この「動機」とて、容疑者の台詞をそのまま鵜呑みにするわけもいかず、容疑者がその動機をもつにふさわしい歴史を持っていたかを、丹念に、これまた断片的な証拠・証言を集めて調べて容疑者の「動機」を推定するわけです。この第二の立証方法の証拠・証言は、第一の立証方法の証拠・証言と比べると直接的ではありません。しかし、多くの事件の現実ではこれが最善なのです。たとえ一つ一つは断片的であれ、それらを積み重ね、その推定に「合理的な疑い」をはさむ余地がないことが裁判を通じて明らかになれば、私たちは犯人を特定するわけです。もちろん極めて遺憾なことに誤審・冤罪はあります。ですから法務に関わる者は誤審・冤罪をゼロにするために日夜努力しています。それでも、人間のなすこと、誤審・冤罪はゼロにはならないでしょうが、誤審・冤罪が廃絶されないからといって、この第二の立証方法を認めなければ社会は混乱するでしょう。

混乱の一つは犯罪の増加です。なにしろ直接の目撃証言と物証がなければ起訴すらされないのですから、社会は事実上の無法状態になりかねません。それではその混乱を避けるために、「五人組制度」を復活強化させてお互いがお互いを常に監視する社会を作り上げましょうか。あるいはもっとSF的に各個人の脳にチップを埋め込み(名前はLittle Brotherとでもしましょう)、政府当局は犯罪の疑いが少しでもあればすぐにそのチップの情報をスーパーコンピュータでモニターできるようにしましょうか(いわゆる「盗聴法案」をテクノロジー的に発展させるわけです)。そうすれば直接の目撃証言や犯行者のチップ情報が得られ、誤審・冤罪はなくなり、おそらくは犯罪も少なくなるでしょう。しかしそれは「素晴らしい世界」でしょうか。とんでもない。人間の自然な営みを破壊する暴挙です。愚かな意味でしか「善意」を理解しないテクノクラートによる人間社会の抹殺です。

話は少し大袈裟になりましたが、同じようなことが教育現場における実験研究/アクション・リサーチにいえないだろうか、というのが私の言いたいことです。確かに立証方法としては厳密な実験デザインの方が望ましいに決まっています。しかしそのような厳密な実験デザインの教育現場への適用はほぼ不可能です(注)。そこへもってきて実験研究を強行しようとするなら、現場はかき乱されてしまいます。学習者はconfirmationのための材料となります。教師と学習者の自然な営みが破壊されてしまいます。佐藤学さんがかつて言ったように「教育研究栄えて授業が滅ぶ」という状況が到来しかねません。青臭い理想論を言うようですが、学校は実験場ではなく、学習者の自己実現の場であり、私たちは学習者の援助・指導者なのです。

もちろん、私とて、アクション・リサーチに対するいわゆる「実験派」の人たちの懸念がわからないわけではありません。実験デザインもないのにデータをとって「○○は効果があった」などと吹聴(一般化)することは許されないことです。丁度警察が「ホシをあげよう」と功をあせって冤罪を増やしてしまうように、アクション・リサーチを自称する人たちもdouble visionよりaffirmationを優先させたら「○○には効果があることが、アクション・リサーチでも実証!」等と誇大広告まがいの報告が続いてしまい、研究の面でも教育の面でも逆効果になるでしょう。こういう事態も避けなければなりません。

結論を述べます。厳密な実験デザインによる実験研究は理論的には最善ですが、それは教育現場では適用不可能ですし、また適用させるべきでもありません。教育現場では現実上の最善手段(の一つ)であるアクション・リサーチを正しい理解の上で行なうべきです。理論上の最善と現実上の最善を混同するのは厳に慎むべきだと考えます。

(注)英語教育関係者が行なっている心理学的研究で、きちんとしたランダムサンプリングをした上で被験者を選んでいる実験を私は寡聞にして知りません。また概念を定義する際も、理念的に必要十分条件を導き出して定義した研究も私は見たことがありません(実際にそのような研究をご存知の方は是非お知らせ下さい)。たいていの「実験研究」は、知り合いの学生・生徒を被験者にして、入手しやすいテストを行なって、ある概念(例えば「リーディング力」)に関して「実証した」と称しているのが現状ではないでしょうか。私が実験研究として信頼をおいているのは生理学あるいはそれに準ずるレベルでの実験研究です。

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アクション・リサーチの合理性について(2000/8/6)

ここでは2000年 8月9日(水)の第26回全国英語教育学会埼玉研究大会での口頭発表の要旨を述べます。ハンドアウトはこちらをどうぞ。正式な論文としては後日どこかで公刊するつもりです。

 この発表が狙うことは、アクション・リサーチに関する偏見を取り除くことです。ある研究が「アクション・リサーチだから駄目」ということはありませんし、また「アクション・リサーチだから良い」ということもありません。そんなこと当り前だとおっしゃる方も多いかもしれませんが、実際、上のようなコメントは私が直接、間接に複数の人から聞いたものです。またジャーナル投稿に際しては「このアクション・リサーチは実験計画法に従っていないから研究として認められません」というコメントが返ってくるとも聞きます。こういったコメントはナンセンスであることをここでは論証したいと思います。アクション・リサーチには実験室内実験研究とは異なった合理性があるのです。ここではそのアクション・リサーチの規範を呈示します。

 この発表の方法論ですが、「デザイン」「実践」「心」「教育」の特徴に関する哲学的考察からアクション・リサーチのあるべき姿を導出する方法をとります。ESL文献のみならず、アクション・リサーチの源流の文献と哲学の文献を共に読み解いて、単なるアクション・リサーチの紹介ではなく、独自の哲学的論証を行なうつもりです。(文献情報はハンドアウトをご覧ください)

1 アクション・リサーチの可能性

1.1 応用言語学の課題

 応用言語学の登場時から応用言語学は、複雑な現実世界問題を取り扱うものとして規定され、単なる言語学知見の適用や、表面だけの形式主義とは一線が画されていました。 ところが応用言語学の一つの柱であったはずのSLA(Second Language Acquisition)はどんどん現実問題から離れています。応用言語学がどのような形を取るのを明らかにするのは容易な問題ではありませんが、本発表はアクション・リサーチの規範を示すことでこの課題に取り組みます。

1.2 アクション・リサーチの課題

さて、そもそもアクション・リサーチとは何でしょう。ここではその有名な定義を出します。「アクション・リサーチとは、ある社会的状況内の複数の参加者によって行われる自己省察的な探究の一種であり、その目的は、自らの実践、その実践の理解、その実践が行なわれる状況、の三者の合理性と正義に関して改善を行なうことである」です。アクション・リサーチは二つの目標(改善と関与)と、三つの領域(実践、実践の理解、実践の状況)を持つというのも重要な特徴です。しかしESL(English as a Second Language)でのアクションリサーチには実は片寄りがあります。もうすぐ発売される『英語教育2000年10月増刊号』(大修館書店)で、私はこう書きました。「このように英語圏のESL関係者の少なからぬ者が、アクション・リサーチをとかく実践の技術的向上に関するものとしてとらえる傾向があることは、Crookesが1993年の時点で指摘した状況が、いまだに変らずにいるということでもある」。ここでは「合理性」をキーワードにアクション・リサーチを哲学的に考察してそのような片寄りの是正に貢献したいと思います。「哲学的考察だなんてまどろっこしい」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、このような主張(justification)は、新しい研究枠組には必要です。

1.3 合理性についての予備的考察

しかし「合理性」とは何でしょう。ここではノーベル経済学賞受賞者でもあるサイモンさんの定義を紹介しますなら、「合理性とは、行動を、行動の帰結を評価する価値システムの観点から選択することであり、意識的か無意識的とか、意図的か非意図的とか、主観的か客観的とか、個人的か組織的とかいうのは、合理性の本質的な基準ではない」ということになります。このように合理性はある価値システムを含んだものですから、合理性は、特定の観点ごとに考察され、評価されるべきであり、唯一真正の合理性を想定するべきではありません。本発表ではデザインの合理性、実践の合理性、心の合理性、教育の合理性を明らかにし、それらをアクション・リサーチの規範として呈示します。これら「デザイン」、「実践」、「心」、「教育」は、諸文献の批判的読解の中から浮かび上がってきたもので、アクション・リサーチの4側面( Plan, act, observe, and reflect)をとらえる際のキーワードでもあります。

2 デザインの合理性

何か--例えば私たちの場合なら「授業」--を作り出す術である「デザイン」は、従来とかく大学のカリキュラムから追われてきました。原因は大学が学問的respectabilityを追い求めたからです。デザインは学問にならない、あるいはデザインは自然科学の結果を応用すれば自動的に成立すると想定されていたのです。しかしデザインは可能性(the contingent)を扱う点で、必然性(the necessary)を扱う自然科学と異なるのです。人工物(=デザインされて作られたもの)と自然物はつながっているが、前者には目的が内在しています。そしてその目的は、目的と人工物と環境の関係の中で達成されます(人工物はインターフェイスと見ることができるわけです)

さて「目的」ですが、それも「唯一の目的」が与えられているなどという単純な構造は持っていません。「唯一の目的」などというのは言葉の綾にすぎません。目標の階層構造はゆるやかであいまいな結びつきをもつのです。「リスニングの力をつける」という目的は、「英文の短期記憶」「単語の記憶」「スピーキング」「ライティング」といった目的と絡み合っています。それらは「コミュニケーション能力の育成」という上位目的と浸透するように絡み合っているといえるでしょうし、また「人格の完成」というさらなる上位目標も下位目標に浸透しているといえるでしょう。

 まとめてみましょう。

 デザインとは、目的と外部環境のインターフェイスとなる人工物を作ることです。デザインは自然法則に従うが、目的の実現という自然科学法則とは別の論理をもちます。また目的は単一不変のものでなく、多層的で曖昧なものです。

 デザインの合理性とは、(1)自然法則を前提としたものであり、自然法則を対象としたものではありません。(2)目的-内部環境-外部環境の関連の中に現れるものであり、内部環境を孤立させたうえで考察されるものではありません。(3)単一不変の目的を追求することではなく、一連の目的を追求することです。

 アクション・リサーチにおけるデザインも、したがって(1)自然法則そのものの検証・発見するためのものでなく、(2)教育目的と教育文脈から独立した教育デザインを行なうことでもなく、(3)派生効果を黙殺し単一の効果だけに注目するものでもありません。(アクション・リサーチは、単なる問題解決ではないのです)

 アクション・リサーチにおけるデザインは、その人工物(例、授業)が、どのように教育目的と教育文脈の中で作用し、全体としてどれだけ「望ましい」方向に向ったかという合理性で判断されるべきです。

3 実践の合理性

 従来、「実践」はとかく「理論」と相反するものとしてとらえられがちです。「技術的合理性」(Technical Rationality)の考え方がこの傾向を助長しているといえます。しかし複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤は、実践にとって不可避の特徴です。アクション・リサーチは複雑な状況でのマネジメントであるともいわれます。アクション・リサーチはこのような「実践」を正面から扱うものです。

実践状況では「問題解決」だけでなく「問題設定・発見」も重要です。技術的合理性だと、問題「解決」を重んじて、問題「設定」を忘れてしまいます。またそもそも目的が曖昧だと「問題解決」もできないのです。実践において、行動の選択肢はそこに在るのではなく、作り上げなければならりません。このような「実践」は「技術的合理性」の考えでは説明できません。

それではどのような説明が可能でしょうか。「行為内省察(Reflection-in-action)」によって実践者は問題状況に対処している、というのがショーンさんの答えです。実践内での合理性は変化する状況に対応するものであり、技術的合理性の前提では説明できないのです。このプロセスは「状況との対話」と呼べます。

実践者の合理性の整理をしてみましょう。

(1)実践者はとにかく自分が解ける問題を設定しようとします。実践者は自分が設定した問題を理解し、またそれを変革しようとします。やがて意図しなかった結果が生じますが、その意図しなかった結果を好むか、好まないかが重要です。

(2)実践者は過去の経験を、演繹するべき科学法則としてではなく、それぞれに似て非なる「比較の対象」としてとらえます。

(3)実践者は実践者なりの「厳密」な実験を行ないます。

(3a)探索的実験(exploratory experiment ) 「とにかくやってみよう」

(3b)試行検証実験(move-testing experiment )「やってみた結果が全体として気に入るか」)(to affirm or negate)

(3c)仮説検証実験 (hypothesis-testing experiment) 「仮説の確証・不確証を調べる」(to confirm or disconfirm) 。

というのが実践者の「実験」のやり方です。しかし実践者には仮説を実現させるべきという倫理的責任があります(それともあなたは「授業が失敗してもいい」とでも思っているのですか?)。また実践内での仮説検証は自己予言成就的(=とにかく仮説を実現させるまでやる)でも中立的(=実験結果がどっちに転ぼうがかまわない)でもありません。実践者は状況の中にいるわけであり、実践での仮説検証実験では、仮説は実践者に関連したもの、具現化できるものでなくてはならないことからしても、実験室内の仮説検証実験と実践者の仮説検証実験は異なると言えます。

(4)実践者はagent/experientとしてのスタンスを持ちダブル・ヴィジョン(double vision)を有しなければなりません。ダブル・ヴィジョンとは、自らの仮説がもたらす結果全体に配慮しながらも、その仮説そのものが適切でない可能性にも目を開いていることです

まとめてみましょう。

 実践とは、行為内省察に導かれ、問題解決と問題設定・発見を繰り返す、一連の行為です。実践者は、自らの認識で状況をとらえ、状況との対話でそれを修正し続けます。実践は複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤と共にあり、実践者は問題を完全解決せずにmanageします。

実践の合理性とは、(1)実践者が自分で実践できる範囲の試行に限定すること、(2)confirmationよりもaffirmationを、affirmationよりもdouble visionを優先させることであり、(3)実践の改善のみならず実践の理解の改善も重視することです(一つの実践が明らかにするのは「法則」ではなく、一つの「比較の対象」にすぎません)。

 アクション・リサーチにおける実践とは、単なる問題解決ではありません。実践者は、自らの認識を対象に一切反映させない「中立の」介入者ではありません。実践状況は一義的に解釈されるべきではなく、一面的な介入の成功は必ずしも実践全体の成功を意味しません(その仮説の側面が改善されても全体として授業が悪くなればどうしようもありません)。

 アクション・リサーチにおける実践とは、実践者があくまでも可能な試行であり、実践者は仮説検証にこだわらず、試行による全体的な変化に注目し、目的-実践-状況の連関の理解を重んじなければなりません。したがってアクション・リサーチの実践は、実践者がどれだけdouble visionを堅持したかという合理性によって判断されなければなりません。アクション・リサーチにとってaffirmationは第二義、confirmationは第三義にすぎません。

4 心の合理性

 アクション・リサーチは単に教師を対象とした研究ではありません。 アクション・リサーチは実践者の内面も対象とします。しかし心へのアプローチ(主観的接近)と身体へのアプローチ(客観的接近)を対立・分離させて考えてしまう二分法的思考は根強いです。Ochsnerさんは(1979: 53-80)は法則定立的科学(nomothetic science)と解釈学(hermenoutic science)の二分法をふまえた上で、応用言語学者はこれらをあたかもバイリンガルのように使い分けるしかないと主張します。Nunanさんも"the truth exists 'out there'"という立場と"truth is a negotiable commodity contingent upon the historical context within which phenomena are observed and interpreted."という立場の二分法を認めた上で、 自らは後者を支持すると宣言しています。

 ですがこういった二分法的思考は、アクション・リサーチを単に解釈上の問題、主観的印象の表明に貶めかねません。アクション・リサーチにおいても真理は重要です。自然科学と対立・分離された解釈学には(1)「客観的」な基準を放棄しかねない、(2)因果説明を排除するあまり、社会的現実(social reality)を無視しかねない、(3)イデオロギーなどの'false consciousness'をそのまま認めてしまいかねないなどの限界があるのです。

 合理性の弁証法的見解(a dialectical view of rationality)を取るというのが CarrさんとKemmisさんの解決法ですが、「弁証法的」という言葉は多義的でmisleadingであり、Searleさんのアプローチの方が明晰だと思います。。

 Searleさんによれば、「心」(特に「意識」(consciousness)と「志向性」(intentionality))は、第一人称的存在様式をもつ(=当事者に経験されてはじめて存在したといえる)が、そのような存在様式にも認識的客観性(epistemic objectivity)を持ってアプローチすることができます。その一つが満足条件(conditions of satisfaction)を満たすかを客観的にチェックする方法です。ある人がある考え・信念などを有するというのなら、それは同時に多くの条件を満たしているということです。その満足条件の充足具合によって「心」も客観的にアプローチでます。(「生徒の自発性を育てる」信念を持っているはずの教師は、どのような指名の仕方や課題・宿題の出し方をするか具体的に考えてみましょう)

 また「行為内知」(Knowing-in-action)の観点からも、実践者の知っていることは行為に顕在し、それには第三者からの客観的な観察も可能であることがわかります。

まとめてみましょう。

 心とは、ある人間の主観を主な舞台としますが、その存在は数々の満足条件の検討や、その人の行為の吟味によって客観的にアプローチできるものです。この場合の客観的というのは、「方法論を持って」「組織的に」などと言い換えることができます。

 心の合理性とは、心が有するある志向性が、どれだけそれに伴う満足条件を満たしているか、どれだけ行為に顕在化しているかで判定されます。

 アクション・リサーチにおける行為者の心とは、行為者だけによって特権的に語られるべきものではありません。また、還元主義や消去主義によって存在を否定されるべきものでもありません。

 アクションリサーチにおける行為者の心とは、どれだけ研究者がそれに伴う満足条件を想起でき、それを行為者の自然行動や誘導されたテスト状況で観察できるかという合理性で判定されます。ここがアクション・リサーチの研究者の腕の見せ所です。

5 教育の合理性

 前に、目的の階層構造はゆるやかで曖昧な結び付きを持っていると書き、相互浸透もあるように書きましたが、教育においては、特に目的と過程に本質的差はありません。教育においては、目的だけでなく、過程も教育の見解、価値、美徳を体現したものでなくてはなりません。はやい話がいくら教育的な目的を掲げようが、その目的達成が洗脳を通じて行われればそれは教育とは呼べません。

また教育はしばしば学校で行われますが、学校のような「制度化された教育」(schooling)は常に「教育」(education)の観点から批判されなければなりません。制度はどうしても自己保存の論理を持ちはじめ、それはしばしば教育の論理と葛藤をおこすからです。

 しかし多くのESLのアクション・リサーチでは教育の「状況」について考察することが落ち、「教育」の観点からの批判が軽視されています。アクション・リサーチを通じて、当事者間の対話とコミュニケーションを促すことが重要です。そしてその対話とコミュニケーションは実践に返さなければなりません。アクション・リサーチはただ解釈するだけの歴史研究とは異なるのです。

まとめてみましょう。

 教育とは、達成目的のみならず達成過程も「教育」的であるように不断に努力される一連の営みです。この場合の「教育」とは、私たちの共通理解からを起点としてやがては現存の制度を超えて問いかけられるべき概念です。

 教育の合理性とは、目的と過程がいかに「教育」的かということです。

 アクション・リサーチにおける教育とは、目的達成の単なる効率化ではありません。また現存の教育制度内での行為に限られたものでもありません。

 アクション・リサーチにおいて教育は、目的と過程の「教育」性を、アクション・リサーチを通じての対話とコミュニケーションで、いかに探求してそれを実現させようとしてゆくかという合理性で判断されなければなりません。

6 アクション・リサーチの規範

6.1 アクション・リサーチと呼ぶべきでない研究

次のような研究はアクション・リサーチと呼ぶべきでないと私は主張します。

>教育の目的と文脈から独立した単一の教授法則のみに関心をよせる研究

>一つの仮説の検証のみを追求して、他の派生要因などを無視する研究

>実践者が特権的語り手として無制限に語る研究、および実践者の語りを無条件に禁ずる研究

>現体制内での改善だけを考えて、教育の状況に対して目を向けない研究。解釈だけで終わり、次の行動へのつながりがまったくない研究。

6.2アクション・リサーチとして推進するべき研究

次のような研究をアクション・リサーチとして推進すべきと私は考えます。

>実践が、どう教育目的や教育文脈、また他の実践と相互作用をするかに予め着目しておく研究

>望ましい結果を実現させる中での一連の変化について理解を深める研究

>実践が充足すべき満足条件を多く想起し、それらの充足具合を自然状況やテスト状況で的確にチェックする研究

>対話とコミュニケーションによって「教育」のあり方を明らかにして、理想の教育を少しでも具体化しようとする研究

 アクション・リサーチにはアクション・リサーチなりの規範があります。アクション・リサーチの「流行」の中で、アクション・リサーチを単なる「統制群のない実験研究」にしてしまってはなりません。またアクション・リサーチを「実験計画法に沿っていない」からという理由で研究の場から排斥するのは不見識です。「このアクション・リサーチは実験計画法に従っていないから研究として認められません」というコメントはナンセンスです。私たち英語教育関係者、特に論文の評者は、応用言語学の一つの柱としてのアクション・リサーチにおける合理性のあり方を理解しなくてはならないと思います。

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