第33回中国地区英語教育学会

日程:2002年6月29日

会場:島根大学教育学部

 

第二言語コミュニケーションの成立基準とその英語教育学的示唆

 

(草稿)

 


1 はじめに

英語教育の目標の少なくとも一つがコミュニケーション能力の育成にあることに関しては異論が少ないだろう。しかしコミュニケーション能力論に関しても、必ずしも十分な合意は形成されていないし(注1)、そもそもコミュニケーションが成立しているということはどういうことか、ということに関しても十分な理解が共有されているかはについては疑問の余地は残る。例えば、Akmajian et al (1995)はコミュニケーション成立を、コードモデルによる説明を補完する形で説明するが、それは話者と聴者の双方が十分な言語知識を共有しているという、ソシュールのラング以来の言語学的前提を基にしてのものである。

(注1)例えばTaylor(1988), McNamara(1996)などの批判的レビューを参照されたい。またChomsky (2000)によるならばコミュニケーション能力論などは'a study of everything'とも称されるべきものとなり少なくとも自然科学の対象ではないとしている。

しかし、私たちが問題にしている第二言語としての英語教育で展開される多くのコミュニケーションは、話者と聴者の一方がネイティブ・スピーカーで他方が第二言語話者、あるいは話者と聴者の両方が第二言語話者の間でのことであり、そこでは十分な言語知識の共有が必ずしも前提とはされない。前者の例では第二言語話者がネイティブ・スピーカーからすれば言語知識を欠いているのとは明らかであり、後者の例では、それぞれがネイティブ・スピーカーのような言語知識を持ち合わせていないという点では共通しても、それぞれの言語知識が異なる可能性は十分に高いからである。こういった状況ではソシュール以来の言語学的発想ではないアプローチによりコミュニケーションを説明することが必要となる(注2)

(注2)本論で徐々に明らかにしてゆくように、筆者はデイヴィドソンの言語哲学が、第二言語コミュニケーションを解明するのに重要な役割を果たすと考えている。コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学に関する論考に関しては柳瀬(印刷中)を、コミュニケーションの現実とデイヴィドソン哲学に関する論考に関しては柳瀬(2001)を参照されたい。

ここで本論のテーマとなる「第二言語コミュニケーション」を仮に定義しておこう。この論文では、私たちは主に第二言語としての英語教育を念頭においているので、第二言語としてはもっぱら英語をその例として考える。本論文でいう第二言語コミュニケーションとは、上にも述べたように(1)話者と聴者のどちらか一方が英語のネイティブ・スピーカーで他方が第二言語としての英語話者の間でなされる「英語」を通じてのコミュニケーション、あるいは(2)話者と聴者の両方が第二言語としての英語話者の間でなされる、「英語」を通じてのコミュニケーションと定義される。そしてその際の第二言語は、第一言語に比べて何からの欠落や欠損があるものと仮定する。

これを今度は消極的に定義するならば、ネイティブ・スピーカー同士の「英語」によるコミュニケーション(例、アメリカ生まれの人間同士のコミュニケーション)と、片方が何らかの「英語」を話し、他方が全く「英語」を喋らない場合に成立しているコミュニケーション(例、土産物店で店員が英語を話し、客が日本語しか話さず、お互いが双方の言語の語彙・文法を全く知らないにも関わらず買物交渉が成功する場合)の間にある、何らかの形で「英語」を通じたコミュニケーションであるといえる。前者は第一言語コミュニケーションと呼ぶべきであり、後者は第二言語(この場合は英語)を使ったコミュニケーションと呼ぶのは適切ではない。

ただし、「英語」という鍵括弧付きの表現が示唆するように、第二言語話者の話す言語を「英語」と判定する基準に関しては必ずしも明確ではない。だがいわゆるネイティブ・スピーカーが話す「英語」にも揺れ(変種)がある。「英語」は世界各地に母語話者共同体を持つ言語であるからである。したがって、いわゆる「ネイティブ・スピーカー」というのも内包・外延のはっきりした概念ではない。さらに共同体の中にも地方的、社会階層的、個人的変種があることも言うまでもない。チョムスキーに言わせるならば、「英語」も他の自然言語同様、社会的に存在していると信じられているE-languageに過ぎず、自然科学的な意味では実在していない想定物に過ぎない。以上、留意条件を述べたので、これ以降は、「英語」の鍵括弧や「いわゆるネイティブ・スピーカー」という限定表現は、煩雑を避けるため原則として使用しないこととする。

また、「中間言語を使用している」という表現方法は便利であるが、本論では第二言語話者同士のコミュニケーションだけでなく、いわゆるネイティブと第二言語話者とのコミュニケーションも考察の対象とするので、中間言語という表現は、以後使用しない。いわゆるネイティブは、第二言語話者とコミュニケーションをしている場合においても中間言語ではない「英語」を使っているからである。また「中間」という形容詞は、第二言語話者の言語が、第一言語規範へと合致するまでの過程にあるといった含意を持ち、第二言語話者の言語が不全な言語であるかのような印象を与えかねない。こういった意味でも「中間言語」という用語の使用は避けることとする。

コミュニケーション論において、第一言語コミュニケーションだけを念頭において議論を進め、それをそのまま英語教育目標としてもつならば問題が生じる。問題の一つは、第一言語コミュニケーションを現実的目標(実際に到達しなければならない目標)としてもつ場合に生じる。第二言語というよりも外国語としてしか英語に接していない多くの日本人学習者にとって、そういった現実的目標はほぼ達成不可能とすらいえ、それが過剰な心理的負担となり、学習者に不要な劣等感や挫折感を植え付けてしまうことは1990年代以降のいわゆる「英語帝国主義論」が明らかにしたことでもある(注3)。第二の問題点は、第一言語コミュニケーションを理想的目標(実際には到達できないかもしれないが、限りなくそれに近づくべき対象)としてもつ場合に生じる。そうすれば公教育の場合、政治的正当化が必要となるからである。2000年に小渕元首相の私的懇談会がいわゆる「英語第二公用語論」を提唱した時、日本人が英語を高度に使用することを公共政策の目標としておくことの是非が議論されたが(注4)、第一言語コミュニケーションなみのコミュニケーションを英語教育の理想的目標として明確に述べるとするなら、それにはかなりの政治的正当化が必要であり、「英語第二公用語論」以降の議論を考えても、現状ではそのような正当化が成功することは疑わしい(注5)。もちろん理想的目標をどのような形でも明確に述べなければ、政治的な議論は生じないだろうが、それは問題を隠蔽するだけである。目標の明確化はおよそ合理的な計画のためには必要なことであるから、私たちは第二言語コミュニケーションを仮定義よりも明確に述べる必要があるといえよう。

また、本論文では英語教育の目標をコミュニケーション能力の育成とすることを前提として議論をしているが、「言語」の教育に強調をおく英語教育目的論の理論的言説は生成文法学者の大津由紀雄らによって提示されたが(注6)、コミュニケーションを目標におく理論的言説は筆者の知る限りない。ここにおいても第二言語コミュニケーションに関する理論的言説は必要とされている。

(注3)津田(1990, 1993, 1996, 2000)の議論、および田中・深谷(1998)の"My English"という論考などを参照されたい。

(注4)鈴木(2002)は、2000年初頭から始まった英語教育論争をまとめていて非常に便利である。

(注5)もちろん個人が自分自身の決定で第一言語コミュニケーションなみのコミュニケーションを自らの英語学習の目標として設定することは、その個人の自由意志に属することである。この論文ではあくまでも公教育という設定での英語学習について論ずる。

(注6)例えば大津由紀雄・鳥飼玖美子(2002)を参照されたい。

2 第二言語コミュニケーションの理論化

それでは上に述べた仮定義を、少しでも理論的に明確にすることをこの節では試みる。ここでは四種類の理論的定義を検討し、最後には一つに絞り、それを仮定義よりは一歩進んだ暫定的定義とすることにする。

(1)同じ話し方を共有する:最初に考えられるのは第二言語コミュニケーションの両者が同じ話し方を共有することである。これは発話を中心に考える最も通俗的なコミュニケーション観かもしれない。コミュニケーションのコードモデルの考え方も、コードの共有を重視している点で、この定義をコミュニケーションの必要条件としてとらえていると考えられる。しかしこの定義には二つの問題点がある。第一の問題点は「同じ話し方」を狭く取ると第一言語コミュニケーションに限りなく近くなってしまい、第二言語コミュニケーションの多様性をとらえきれなくなることである。だが、逆に「同じ話し方」広く取ってしまっても(「同じような話し方を共有する」)、それでは概念に幅が出すぎてしまい、この定義ではコミュニケーションの成立に関する説明が進まなくなってしまう。第二のより重要な問題点は、この定義が'saying without meaning anything'も含んでしまうことである。極論ではあるが、一方がある発話をし、他方がその発話をそのままオウム返しすることを連続すれば、この発話の連続は、上の定義は満たすがとてもコミュニケーションとは呼べない。この定義は第二言語コミュニケーションにおいても第一言語コミュニケーションにおいても不十分である。

(2)同じ話し方と同じ解釈の仕方を共有する:それでは話し方に加えて解釈の仕方も共有することを定義として考えてみよう。Aが発話したら、その発話の仕方はBそっくりで、BはAが解釈してほしいと望んでいる解釈を行い、かつ今度はBが話す場合も、その話し方はAと同じで、発話を聞くAも、発話をするBが望んでいる解釈を行うことが恒常的に続くということである。これは第一言語コミュニケーションにおいてはコミュニケーション成立の必要十分条件であるように思える。コードモデルが想定しているのもこういった定義であろう。だが上のAとBの状態は、言語慣習が一致していることを要求している。しかし第二言語コミュニケーションは言語慣習、少なくとも話し方を違える者の間でのコミュニケーションであった。同じ教室に学ぶ日本の中高生とて、決して同じ話し方をするわけではない。第二言語コミュニケーション成立の定義においては、「同じ話し方」についての条件を緩和する必要がある。

(3)それぞれの発話ごとに同じ解釈の仕方を共有できる程度に同じような話し方をする:それでは「同じ話し方」の程度を緩めて、少なくとも両者が解釈においては一致するような程度に両者が同じような話し方をする、と定義してみよう。つまりAが発話すれば、その発話の仕方は、それを聞くBの発話の仕方と異なるが、Bは発話者Aが望む解釈をすることに成功し、またBが発話しても、それはAの話し方とは異なるが、それにも関わらずAは発話者Bが解釈してもらいたいように解釈し、かつこういった解釈の成功が安定的に連続するほどにAとBの話し方が似ているという状態である。解釈の一致は必要だが、話し方の一致は必要でなく、解釈の一致につながる程度に近似していればよいということである。ここにおいては解釈の一致が第二言語コミュニケーションの必要十分条件であり、話し方の一致は必要条件でも十分条件でもなく、せいぜい話し方の近似が必要条件であるにすぎない。解釈の一致こそが第二言語コミュニケーションの鍵なのである。

この状態をもう少し詳しく考えてみよう。第二言語コミュニケーションの典型例は、(1)話者と聴者のどちらか一方が英語のネイティブ・スピーカーで他方が第二言語としての英語話者である場合と、(2)話者と聴者の両方が第二言語としての英語話者である場合であった。(1)の場合は、ネイティブ・スピーカーの発話の一部はスピードが速すぎたり、語彙や文法が難しすぎたりして、第二言語話者は、その発話の「文字通りの意味」(literal meaning)を理解する知識と能力は、有していないかもしれない。しかしそれにも関わらず第二言語話者は、次節で説明する要因に従ってネイティブ・スピーカーの言わんとすることの解釈に成功させる(実際、ネイティブ・スピーカーの発話の一字一句がわからずとも、解釈に成功する経験は多くの第二言語話者が有しているであろう)。逆に第二言語話者が発話する場合、彼/彼女の発話にはいわゆる誤用が含まれ、彼/彼女は「文字通りの意味」とは違う意味を伝えようとすることもしばしば起こるだろう。こういった時、ネイティブ・スピーカーはしばしば、発話の文字通りの意味に関わらず、それ反してまでも、第二言語話者の意図していた意味を、発話の意味だとして解釈するのである。(2)の場合では、第二言語話者である両者は、相手の発話の「文字通りの意味」が、相手が本来伝えたい意味であるかどうかに確証が持てないまま、相手が意図している意味を解釈しようとする(実際、しばしば第二言語話者は、お互いが「壊れた英語」(broken English)を使っているのにも関わらずコミュニケーションを成功させている)。

こうしてみると第二言語コミュニケーションの成立にとって本質的であるのは「文字通りの意味」ではない。コミュニケーションが成功するのは、相手が本来伝えることを意図していた意味である。デイヴィドソンは、この意味を「第一の意味」(first meaning)と呼ぶ。(注7)第一言語コミュニケーションにおいてはほとんどの場合、文字通りの意味と第一の意味は同じであるかもしれないが(注8)、第二言語コミュニケーションにおいてはしばしば文字通りの意味と第一の意味は一致しない。この用語を使うならば、第二言語コミュニケーションの成立は、お互いの発話の、第一の意味を基にしての解釈が、安定して可能である程度に、両者が同じような話し方をすることと定義できるだろう(注9)。つまり第一の意味を基にした解釈の共有が第二言語コミュニケーション成立の必要十分条件であり、話し方の近似が必要条件である。

(注7)第一の意味というからには、第二の意味、第三の意味・・・があるのだろうかという推測は正しい。従来の用語の「文字通りの意味」、「話者の意味」(speaker's meaning)の存在も示すように、意味は重層的である。さらに「話者の意味」はいわゆる「深読み」によって複数生じる場合もある。これらの意味を全て理解することが、デイヴィドソンが使い、この論文でも使っている「解釈」(interpretation)の意味である。第一の意味とは、解釈に含まれるあらゆる意味(第二の意味、第三の意味・・・・)の全てが依拠する(というよりも、依拠せざるを得ない)意味のことである。

(注8)第一言語コミュニケーションにおいては、言い誤り(malapropism)などがない限り、文字通りの意味と第一の意味は一致し、ことさらに第一の意味を設定する必要はないように思われる。しかしこの言い誤りにもかかわらずコミュニケーションが成立することから、従来の言語慣習の共有を基にするコミュニケーションをラディカルに批判したデイヴィドソンの議論(Davidson 1985)は注目に値する。

(注9)ここで予想される反論に、「結局、第二言語コミュニケーションの成立もmutual intelligibilityに求められるものであって、これは第一言語コミュニケーションの成立と同じである」というものがある。しかし、第一言語コミュニケーションの成立は、第一の意味をことさらに想定する必要のないレベルでの文字通りの意味を基にした解釈の共有であり、第二言語コミュニケーションは原則として文字通りの意味とは相対的に独立した第一の意味を基にした解釈の共有であると区別できる。第二言語コミュニケーションにおいては第一の意味が重視される分、いわゆる文字通りの意味の役割は相対的に低くなる。

(4)それぞれの発話ごとに同じ解釈の仕方を共有する:しかしそれならばいっそのこと、同じような・似たような話し方を必要条件からも落としてしまうことはできないだろうか。実際、そのようなコミュニケーションがデイヴィドソンの考える根元的(radical)なコミュニケーションの姿である。彼は言語慣習の共有はコミュニケーションの必要条件ではないと言い切る。彼の出す最も極端な例は、片方が英語を話し、片方がシェルパ語(ヒマラヤ山麓に住むチベット系住民の言語)を話し、どちらも相手の言語を全く知らないながらも、コミュニケーションに成功する例である(Davidson 2001: 114)。だが、このようなコミュニケーションは、例えば英語という特定の言語を対象とする第二言語コミュニケーションの例としてはふさわしくないと(たとえ常識的な判断とはいえ)私たちは仮定義で規定した。またこれは第一言語コミュニケーションとも呼べない。これはまさに「コミュニケーション」の定義となる。第二言語コミュニケーションの成立を、第一の意味での解釈の共有のみとするまでに私たちは定義を絞り込むことはできない。

以上の考察から、第二言語コミュニケーションの成立は、「対話者相互が、安定的に第一の意味を基にしての解釈の共有が可能になる程度に、お互いが所定の第二言語を、似た話し方で対話を行うこと」とここで暫定的に定義される。最終的な定義は次節の問題点の検討を終えてから提示することにしたい。

3 定義の理論的問題点

しかしこの定義には問題点が隠れているように思われる。問題点の一つは文字通りの意味を通り越した、第一の意味を基にしての解釈の共有を、第二言語コミュニケーション成立の必要十分条件としたため、その必要十分条件が充たされたかどうかは、一見、聴者の心の中だけで展開する私的(private)で公共的(public)にはわからないことのように思えることである。第二言語コミュニケーションは参加者それぞれが個人的に成立したと思い込むことによって成立しているだけのもので、そこには第三者から見ての成立の認定などは考えられないのだろうか。第三者的に第二言語コミュニケーションを観察する言語教師は、何ら正しい判断をできないのだろうか。参加者の一方が「わかった」といえば、もう一方の参加者(第二者)や第三者はその判断をただ受け入れなければならないだけなのだろうか。

この問題は、第二言語コミュニケーションの特徴である話し方の不一致にもかかわらず、お互いがお互いを理解をするという一見説明しがたい問題を解消することで、同時に解消される。言語の不一致にもかかわらず、コミュニケーションが成立したということは、言語以外の要因がコミュニケーション成立に貢献したと考えられる。「文脈の助けを借りて推測した」というのはよくある説明だが、この説明では殆どなにも解明されない。もう少し理論的な説明がここでは求められる。

デイヴィドソンはこのように言語慣習が十分に共有されていない状況でコミュニケーションが成立することを説明するのに、寛大の原則(principle of charity)という概念を導入した(注10)。寛大の原則とは、相手の発話が真理(truth)に基づいていることを前提とし相手の発話に現実的な意味で最大の合理性を仮定することである。

(注10)デイヴィドソンの問題意識はコミュニケーションあるいは第一言語コミュニケーションであるのだが、第一言語コミュニケーションにおいても解釈の確定は容易なことではない。その困難の詳述は、第二言語コミュニケーションを主題とする本論では省略するが、第二言語コミュニケーションは第一言語コミュニケーションよりも解釈が困難であることは今までの論考からも明らかであろう。したがってこの寛大の原則の役割は第二言語コミュニケーションにおいては一層大きいことになる。

これは哲学者だけが好むような机上の原則ではない。もしこの寛大の原則を前提としないなら、つまり、もし人が真理概念に全く(あるいはほとんど)基づかずにことばを使っていると仮定したら、ことばが意味をもつということが成立しなくなるからである。アナロジーで考えよう。しばしば色が変わるものには私たちは固有の色があるとは言わない(例えば鏡だが、私たちは通常、鏡には固有の色があるとは言わない)。同じようにことばについて、寛大の原則が成立しないとなれば、ことばは世界のありようや私たちの信念(beliefs)などとの関連において真(true)であるかどうかという真理条件とも無関係に発話されることになり、それではことばが固有の意味をもつことなど期待できなくなる。

もちろん固有の色/意味があるということは、厳密に固定された色/意味があるということでは必ずしもない。色の場合でいうなら、バラの赤い色も光のあたり方によって色合いを変化させる。しかしそれは例外的な場合というべきで、私たちは、通常バラを赤いと言う。同じように「寛大の原則」も話者の錯誤や悪意によって裏切られる場合はあるが、話者はほぼ常に世界と信念と意味の連動において真理を告げようとしており、解釈者はそのように仮定したうえで解釈をするべきだと前提しなければ、そもそも、ことばが何かを意味するという現象が、私たちが経験しているような形では成立しないことになる(注11)。

(注11)もちろん疑問文や命令文、皮肉や嘘あるいはフィクションは真理を語っているわけではないが、これらはすべて真理を前提としている。疑問文はある事態が真理であるかどうかを尋ねているのであり、命令文はある事態が真理として成立することを要求しているわけである。皮肉の効果は文で表された事態が真理ではありえないことがわかることであり、嘘とは文で表現されるある虚偽の事態を真理だと信じ込ませることである。フィクションは、語られる事態を真理だと仮定した上で語られる発話である。寛大の原則は、ほぼあらゆる言語行為の前提となる原則であると考えられる。

それではこの寛大の原則にしたがって、いかにして私たちは相手の発話に現実的な意味で最大の合理性を仮定するのだろうか。説明のために寛大の原則を、対応の原則(principle of correspondence)と斉合の原則(principle of coherence)に分けよう(Davidson 2001: 211)。(注12)

(注12):ただしデイヴィドソンは真理論に関しては、単純な対応説(実在論)にも、極端な斉合説(認識論)にも組しておらず、タルスキの真理論に基づいたそれらのいわば中庸的な真理論をもっている(Davidson 1990)。

対応の原則とは、話者が語ることは、それが物理的対象であれ、心理的対象であれ、広い意味での世界の何かに対応しているということである(注13)。この原則により、話し手と聞き手は世界の中にある共通の何かを志向するということになる。この共通の対象のありようという制約により解釈は狭まる。聴者は話者が対象について真理に基づいたことを語っていると前提するからである。話者と聴者がそれぞれに異なるものでなく、同じものを対象としているということは、両者の間でのコミュニケーションが成立する、つまりは両者がそれぞれの相手の発話が真理に基づいていることによって保障される。それぞれが異なるものを志向していたら、(偶然の一致は除くならば)およそ話はかみ合わず、相手の発話に合理性を見出すことは困難になるであろう。お互いが同じ対象を志向してこそ、小さな相違が意味あるものとして浮かび上がる。つまりは大まかな意味で両者が相手を、基本的に真であることを語っていると想定でき、かつその想定に基づいて、自らの言語知識によってはわかりえない発話も解釈することができるのである。

(注13)ここで心理的対象はもとより、物理的対象であれ、正確に指示することが困難であることに気づかれる読者も多いだろう(例えば「最近の若い者」が指示する対象を正確に確定することは不可能である)。この理由から、デイヴィドソンは単純な対応説を退けている。彼がまがりなりにも対応説に加担するのは、言語が何らかの形でそれが指す対象と結びついているという緩い意味においてのみである。

寛大の原則のもう一つの側面は斉合の原則である。斉合の原則は、私たちが持っている様々な信念は体系をなしており、その体系において私たちの信念は同じような--私たちが合理的とみなすような--つながりを持っているということである。私たちは個々の対象についての信念に関して基本的に真であるだけでなく、信念の体系においても基本的に真なのである。この斉合の原則により、聴者は、自分が持つ合理性を話者に投影して、その合理性にかなう解釈をおこなう。ここで考えられる極端に相対主義的な反論は、それぞれの合理性が大幅に異なり「共約不可能」である可能性があるというものであるが、「共約不可能」という事態はコミュニケーションが成立しているならばありえない事態である(コミュニケーションが成立している、つまりは解釈が一致しているが、実はお互いは共約不可能であるというのは明らかな矛盾である)。かくして両者は共通する合理的な信念体系を有することになる。この合理的な信念体系の制約により解釈は狭まる。このように世界と合理的な信念体系の共有により解釈はかなりの程度まで狭まり、コミュニケーションの成立を助ける。この合理的な信念体系の共有という点でも真理概念は重要な働きをしているのである。(注14)

(注14)また、デイヴィドソン(Davidson 2001)が指摘するものに、私たちは話す言葉が表面上は違えども、人間という生物としての生理的条件を共有しているということがある。私たちがコミュニケーションの際に自然に示す表情が、コミュニケーションの解釈を助けていることには異論はないであろう。しかし議論の運びとしては、この生理的反応も、私たちが知っていること(信念)として考えられるので、生理的条件の共有は議論の上では斉合の原則の中に含めることができる。ここでは議論としては別項目を立てずに、生理的条件の共有の事実というコミュニケーションにおいて目立ちやすい事象を確認のために指摘するにとどめる。

このようにコミュニケーションの成立は世界と合理的な信念体系という、話者と聴者が共有するものによって、真理概念を通じて助けられている。第二言語コミュニケーションでは言語の知識が一致しないのだから、これらの共有された、つまりは公共的な要因によって、真理概念に基づいた解釈が定まるわけである。従ってコミュニケーションにおける解釈は、個人の心の中だけで完結する私的なものではない。それは公共的なものであるので、コミュニケーションの成立は当事者だけでなく、世界と合理的な信念体系を共有し、真理概念に基づいた第三者によっても適切に判断される。第二言語コミュニケーションの暫定的定義には、真理概念の働きが加えられなければならない。

次に定義の理論的問題点の二番目に移る。それは、解釈は一致し得ないのではないかという懸念である。解釈には不確定性(indeterminacy)が残るように思われる。解釈は狭まるのであって、完全に一致するものであるとは思えない。不確定な解釈が第二言語コミュニケーション成立基準となることに問題はないのだろうか。

しかしながらこの解釈の不確定性は現実的には大きな障害にはならない。私たちは実際上満足がゆく範囲にまで解釈の幅を狭めたらコミュニケーションは成立したとみなしている。社交的なコミュニケーションなら解釈の幅は比較的に広いままコミュニケーションは進められるだろうし、裁判における罪状認定ならば解釈の幅は誤審を許さないまでに狭められてコミュニケーションは進められるだろう。いずれにせよ、解釈の不確定性はコミュニケーションが進むにつれ減少する。むしろ解釈の不確定性は、さらにコミュニケーションを促すといえよう。解釈の不確定性は程度の差こそあれ、現実には残る。従って、第二言語コミュニケーション成立の暫定的定義の解釈の「共有」には「近似的」といった限定句が必要となるであろう。

以上の二つの理論的問題点を検討した後の、第二言語コミュニケーション成立の最終的定義は、「対話者相互が、安定的に第一の意味に基づく解釈の近似的共有が可能になる程度に、お互いが所定の第二言語を、似た話し方で、真理概念に基づいて対話を行うこと」となる。この理論的定義は、「第一の意味」概念の明示的な導入において第一言語コミュニケーション定義と異なり、「解釈の近似的共有」を基準とすることにおいて、発話を中心にして考える通俗的コミュニケーション定義と異なり、「真理概念」の重要性を説くことにおいて、従来の言語学的・応用言語学的発想、あるいはコードモデル的コミュニケーション観とも異なる。

4 理論的検討から得られる示唆

以上の理論的な検討から、「第一の意味」、「解釈の近似的共有」、「真理概念」が第二言語コミュニケーション成立には重要であることがわかった。これら三つの重要性を考えることにより、第二言語コミュニケーションを成立させることに関する示唆が、以下のように三つ得られる。

(1)様々な英語話者をコミュニケーションの相手として選ばなければならない:第二言語コミュニケーションは原則として文字通りの意味ではなく、第一の意味における解釈によって成立するのであった。このことは、第二言語学習者は英語共同体の言語慣習に合致しなければならない、という時に過剰なまでに意識される観念から、私たちを解放する。これまでの英語教育では、英語共同体(典型的には、戦前においては英国の教養階級、戦後においては米国の中産階級)での「文字通りの意味」が規範となっていた。もちろんこれからも英語共同体が持つ社会的・経済的・政治的な力の魅力に応じて、その共同体の規範は魅力を持ちつづけるであろうが、「世界英語」の考えが普及する現在、私たちは教育的目標としては、ある特定の英語共同体の言語慣習への合致ではなく、世界中の英語話者と第一の意味を安定的に相互理解することへと置き換えることができる。

しかしそのためには様々な英語話者をコミュニケーションの相手として選ばなければならない。第二言語コミュニケーションが教室内の固定されたメンバーの間だけにとどまるならば、コミュニケートされる内容はしばしば既知のものとなり、真理概念を適用して解釈をする以前に了解されてしまうこととなる。また学習者の話し方の固有の癖がメンバーに認知されてしまえば、それはその教室の中では通じるものの、外では第一の意味を取ってもらえない化石化された表現となることはいうまでもない。学習者が時に「日本式発音」と言われるような英語共同体と異なる言語習慣を身につけるとするなら、その話し方は、その言語習慣を共有しない他者との第二言語コミュニケーションによって、その存在意義を確かめられなければならない。その他者には、英語を母語としない第二言語話者も積極的に含まれるべきであることは言うまでもないだろう。英語共同体から離れた言語習慣は、その使用者のナショナリズムや批判意識(英語帝国主義批判)などによっては正当化されない。固有の言語習慣はコミュニケーションの安定した成立によってのみ正当化される。安定した成立は様々な英語話者をコミュニケーションの相手として選ぶことによって試されるのである。

(2)コミュニケーションは解釈とそれに基づく反応によって深められなければならない:コミュニケーション活動の焦点は、発話ではなく、発話がいかに解釈されるかにおかれなければならない。解釈こそがコミュニケーションの成立基準であるからである。いわゆる「言いっぱなし」に終わってしまう言語活動は、コミュニケーション活動とは呼べない。第二言語教師は、課題設定において、いかにして発話させるか以上に、いかにしてその発話の解釈を明らかにさせるかに工夫をこらさなければならない。上に解釈は私的なものでなく公的なものであると述べたが、その公的な性格を利用して、聴者はただ聞いて解釈を心の中で行うだけでなく、積極的にその解釈を表に出し、発話者や第三者にその解釈の正当性を示さざるを得ないような課題設定をすることが教師にとって重要である。

また解釈は近似的にのみ共有されるものであった。その近似度を十分に高いものにするものには、その対話を深めるように、聴者が話者の発話を深めるような反応を仕向けるように教師は課題設定をする必要があろう。教師はそのようにコミュニケーションを深めるために適切なトピック設定、必要な語彙・表現の補助的提示などの具体的な工夫をこらさなければならない。

(3)世界と信念体系の共有は明示的になされなければならない:言語知識の不足にもかかわらず第二言語コミュニケーションを成立させるのは真理概念に依拠することによってであった。真理概念は、いわば真空中に成立するものでなく、世界との対応関係と諸信念間の斉合性によって成立するものであった。したがって、第二言語コミュニケーションにおいては、共有する世界のありようと信念の結びつきは明示的に示されなければならない。

このことの重要性を端的に示すのがあるインターネット実践である。杉本・朝尾(2002)によると、ある教室は、ある外国の学校の生徒とのインターネット交流協定を結ぶことができたが、いくら協定があれども、そのインターネットを通じてのコミュニケーションは、最初の定型的な自己紹介を過ぎれば、深まることもなくやがてはうやむやに終わってしまった。そういった経験に学んだ英語教師は、インターネット交流協定を結んだ国については、コミュニケーションを始める前に徹底的に百科事典などで調べることを生徒に指導した。そうして明らかに共有されるようになった世界と信念によって、コミュニケーションが促進されるようになった。コミュニケーションは言語の共有や伝達手段の確保によって促進されるのではない。共有する世界と信念体系に対して真理概念をもって向かうことによってコミュニケーションは促進されるのである。

またある実践者(田口 2001)の英語授業も世界と信念の働きを活かしたものとなっていた。その教師は助動詞mustを導入するのに、自動車の運転手席の写真を見せ「あなたはドライバーです」と生徒に想像力を働かさせた上で「止まれ」の交通標識を示す。そこで"Oh, stop! You must stop."と初出の表現を導入した。初出にもかかわらずこの表現を'must'のニュアンスとともに生徒が理解したのは、写真の提示や運転をすることに関する信念体系の想起を背景に、そういう状況で真である発話とは何であるかを推測したからである。写真や、信念を想起させるための「ごっこ」設定は、教室を活気付けるための「色物」と見なされるべきではない。それらは真理概念を働かせるための重要な言語教育的設定なのである。

教科書についても同じようなことがいえる。英語教科書においては、本文のみならず、補注・イラスト・写真なども英語教育内容として本格的に考えられるべきである。そしてそれらを本格的に活用する指導法も考えられなければならない。教科書作成過程においては、多くの場合、本文執筆者とイラストレーターは独立して作業を進めているかもしれない。しかし、もし第二言語コミュニケーションを、教科書を題材にしても成立させようとするなら、教科書編集者は本文とイラストなどの従来「添え物」とされてきたものの間の関係を意識的とらえて効果的に編集しなければならないだろう。

以上三点が、今回の理論的考察から現時点で得られる示唆である。英語教育の改善のためには、実践の実証化だけでなく、理論化も必要である。また理論はできるだけ実践の文脈の中で語られなければならない。本論文は第二言語コミュニケーションをテーマとした理論構築とその理論の文脈化の試みであった。

 

 

主な参考文献

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津田幸男 2000.『英語下手のすすめ』東京:KKベストセラーズ

柳瀬陽介 2001.「デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』第47巻第一部(pp.55-60)

柳瀬陽介(印刷中)「コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学」

 

 

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