受験のハンディキャップ理論

―――受験勉強はなぜ役に立たないのか―――

小原 一馬(92年9月)

「こんな勉強一体何の役に立つんだろう?」

  高校受験、大学受験を経験したことのある方なら、これまでに何度もそういう疑問が頭の中をよぎることがあったでしょう。

  でも、そこで「こんな役にも立たん受験勉強なんてやめてやる」といって、受験から下りてしまう人は比較的少数です。多くの人は、そんな「どうでもいいことばかり訊ねる」入学試験を呪いながらも、受験勉強を続けます。受験勉強から得た知識自体は役に立たなくても、学歴そのものはやっぱり大切だということがわかっているからです。

  それで、割り切って思いっきり勉強できる人もいます。でも中には、「もっと理想的な入学試験もあり得るんじゃないだろうか」という問いが頭の中をくすぶり続け、十分に勉強に集中できない(あるいは、できなかった)という人達もいるようです。

  でも良く考えてみると、「受験勉強が役に立たない」ということと「学歴が役に立つ」ということとは、切っても切り離せない関係にあるのです。受験勉強が「役に立つ」ようなら、学歴は「役に立たない」し、学歴が「役に立つ」には、受験勉強は「役に立たない」ものであらざるを得ないのです。困ったものでしょう?

 

  ではそれがなぜなのか、その理由について、お話していきましょう。

 

1:雄シカの角の話

  ところで、あなたは雄ジカの角がなぜあのように、大きく立派なのか考えてみたことがありますか。

「えっ、シカだって。そんなものが、受験と何の関係があるんだ!」

  まあまあ、そんなこといわずに、今、ちょっと考えてみて下さい。

とっても深い関係があるんだから。

 

  ほかの雄と、雌を争うため、ですか?  いい線いってるじゃないですか。ダーウィンの答もそれでした。より正確には、大きな角を持った雄を雌が好むから、そうやってモテる雄は、たくさんこどもを残して、そうしてシカの角はだんだん大きくなっていったというふうに考えました。

  だから、あれは武器ではないんです。女の子をあらそって、ピストルで決闘するのとは、ちょっと違う。少なくとも、角=ピストルと考えちゃいけません。あれは、雄の強さのシンボルなんですから。

  だから、雄の大きくて立派な角を切り落としてしまったところで、本気で戦ったら、小さめの角しか持ってない雄には、勝てる相手じゃありません。でも、相手を一人倒しても、また次がやってきます。見くびられちゃってるんですね。そんなこと、いつまでも繰り返してられないし、雌だって、そういう戦いをいつも見ていてくれるわけではない。人の社会と違って、「あいつは一見大したことないけど、実はすごい」なんてうわさも広まらない。だから、一目見て、「こいつは強いんだ」とわかるような、証拠の目印が必要になるんです。

  でも、いくら雌にもてたいからといって、あんなものを常に頭に載せていることを、自分で考えて見て下さい。昔の侍大将が戦場でかぶっていた、大きな角飾のついた重い兜を、寝てる時も、ご飯を食べる時も、おふろに入る時も、頭にのっけているようなものです。かつらが、蒸すとかいうのとはわけが違う。実際、博物館に行けば、非常識なぐらい角を大きくして絶滅したヘラジカの仲間の化石を見ることができます。

 

  さてここで、発想の転換が必要です。こうやって、やたら重くて、頭からつんのめりそうになるような、困ったお荷物だからこそ、それを抱えられるということが強さのシンボルになるのじゃないでしょうか? (ツノ=セルフ・ハンディキャップ仮説)

  もし、体が十分に大きくなかったら、大きくて、よく目立つ立派な角なんて、上手に支え切れません。バランスを崩して、ふらふらしてしまうでしょう。でも、体さえ十分に大きければ、すなわちそのシカが強いシカであれば―――そりゃ、そんなものない方がもっと楽に決まってますけど―――なんとかその角を支えながら、きちんとシカらしい人生を全うできるはずです。

  一方また、グラファイトのような軽くて強い素材を使って、いくらでも大きな角を、体の小さな雄でもつけて歩けるとなったら、どうでしょう。はじめのうちは、雌もだまされるかも知れません。でも、そのうちに、そんな角など信用しなくなってしまうでしょう。そしてまた、体の大きな雄は、小さな雄との差が一目でわかるような、別のシグナルを開発するに違いありません。

  逆にいうなら、角というのは、そういうずるやはったりがきかないがゆえに発達してきたということがいえるでしょう。

  そんなツノに、学歴ってよく似てると思いません?

 

2:学歴=シカの角理論

  これまでの話をまとめて見ましょう。

  まず、雄は、雌やほかの雄に対して、自分の強さをわかってほしい。

もちろん、弱いと思われるよりは、単なる間違いでも、強いと思ってほしいのです。一方、雌や、ほかの雄達は、その雄の強さを正確に見極めたい。雌は、自分の子のことを考えると、より強い雄と一緒になった方が得だし、雄は、相手がもし自分より弱そうなら、そいつの雌をとっちゃうために、けんかをしかけるでしょう。強そうなら、さっさと逃げてしまった方がいいし。

  でも、もし角も何もなかったら、相手の強さというのは、ちょっと見ただけじゃいまひとつわからない。だからといって、戦ってみるのは、リスクが大き過ぎる。じゃあ、ずるとかはったりのできない、強い方が必ず勝つような、ゲームをしよう。

(自分の体の大きさで耐えられる)角の大きさ比べというのは、そうしたものなんですね。

 

  でも、考えてみて下さい。相手に、自分を評価してもらいたい、相手が、どの程度のやつか見極めてやりたい、そんなこと、僕らの日常の中にいくらでもあることです。でも、そういう時、それを直接表現できる場合というものは、限られているでしょう。例えば、愛情。

  でも、それを間接的に表す手段というものはあります。

  ひとつは、もし、相手を裏切ったら、その時には、どのように罰しても構わない、というような許可を与えること。すなわち、しっぺ返しを可能にすることです。狼が、相手に対して全く敵意がないことを示すために、自分の最も弱いところであるおなかを、相手のまえに晒すようなものがそれでしょう。

  もうひとつは、さきに見たようなハンディキャップを自分に課すことです。

  O・ヘンリーの有名な短編に「賢者の贈り物」というお話があります。恋人達が相手の宝物(女の子の長い髪、男の子の金時計)をひきたてるようなものをクリスマスの贈り物にするために、自分でその髪や時計を売って、失われた髪のための髪飾りと失われた金時計のための鎖を交換するというお話です。

  一見、愚かなことのようですが、こうした話に作者が「賢者の贈り物」の題をつけたのは、皮肉でも何でもなく、偶然のこうしたできごとがこれ以上ない、気持ちの表現になるということをいいたかったのだろうと思われます。

  お返しの期待を込めたような、実質的に役に立つ贈り物は、(贈り物などでなく)単なる交換でしかないのだということでしょうか。

 

  さて、受験勉強と学歴に戻りましょう。僕らが、人と出会った時に、こいつはどの位できるやつだろうか、ということを判断するための情報は、非常に限られています。もちろん、何とか会社の部長さんとかいう肩書きでもよいのですが、それらは何らかのかたちで規格化されている必要があります。そのうえで、学歴(あるいは入学時の偏差値)は最もよい基準になります。

  もちろん問題は、規格化だけではありません。まず、人の潜在的な能力を直接的に表現することは、ほとんど不可能に近いのです。

  そこで、彼らのもつ能力ができるだけ直接効いてくるようなところで、ハンディキャップの材料を用意してやります。受験生達は、そのハンディキャップを自分に耐えられる範囲内で、背負っていきます。これが、受験勉強だということです。

  もし、受験勉強が(シグナルとして以上に)役に立つものであれば、みんなどこまでも勉強をしてしまって、能力のシグナルとしては使えなくなってしまうでしょう。

それでも、このシグナル・ゲームから、下りることはできないのです。もし、下りたら最後、「下りなきゃならないだけの能力しかなかったのだ」と判断されてしまうのですから。

 

参考文献

Bourdieu, P. 1979  La Distinction ,  Édition de Minuit,  (1990 石井洋二郎訳『ディスタンクシオン  I・II』  藤原書店)

___.  1980  Le Sens Pratique,  Édition de Minuit, (1988,1990 今村仁司・湊道隆訳 『実践感覚 1・2』 みすず書房)

Grafen, A.  1990  "Biological Signals as Handicaps"  Journal of Theoretical Biology 144: 517-546

Henry, O 1901 The Gift of Magi

Spence, A.M. 1973  "Job Market Signaling"  Quaterly Journal of Economics 90: 225-243

Thurow, L.C. 1975 Generating inequality : mechanisms of distribution in the U.S. economy. Basic Books, (1984 『不平等を生み出すもの』 小池和男, 脇坂明訳. 同文舘出版)

Veblen, T.  1899  The Theory of Leisure Class : An Economic Study in the Evolution of Institutions, Macmillan Company (1961 小原敬士訳 『有閑階級の理論』 岩波書店)

Zahavi,A.   1975  "Mate Selection: a Selection for a Handicap" Journal of Theoretical Biology 53: 205-214

 

 

現在(99年)から見てのコメント

僕の原点の一つですね。当時、教育に関する短いエッセーをまとめて一般向けに出版しようという企画があり、そのために書いたものです。でもその企画自体はつぶれてしまったので、未発表です。

参考文献はあとから付け加えました。オリジナリティはそんなにないですね。理論は、スペンス=ザハヴィをそのまま踏襲し、しかもスペンスの学歴=シグナルという理論は、サローの職待ち行列理論やスクリーニング理論としてさらに発展していました。ただ、あえてオリジナリティを訴えるとすれば、学歴というシグナリングの「制度」の淘汰と進化というような、ヴェブレン的発想が見え隠れしていることぐらいでしょうか。シグナリングから見たヴェブレンとブルデューの理論については、現在未発表の論考で検討してます。発表をお待ちください。またここで出てくる「賢者の贈り物」のような、贈り物とヒューマニズムの関係については、その後、拙稿(1997)で考察してます。