貨幣としての美人

―――  一元的価値観の誕生  ―――

小原一馬(92年10月)

  きれいな人というのが世の中に存在している。

  一体どうして、ある種の人々がきれいで、ある種の人々がそうでないなんていうことがあるのだろう?

  そんな素朴な疑問を僕はずっと持ち続けていた。

 

1:美人観の恣意性

「あの人、きれいな人やねえ」

「せやねえ」

  ぼくらにとって、女性の美しさほど確実な美しさは他にない。

  絵や音楽、美しいものは他にいくらでもあるけど、それらの美しさは比較的個人的なものだ。ある人が感動するようなものが、他の人にとって何の意味も無い、場合によっては不愉快ですらあるといったことはよくある。

  しかし、美人は違う。あるひとつの文化圏の中で、美人観は普遍的なものだ。ある人が、誰かをきれいだなと感じた時に、それに反するような感じ方をする人と出会う機会は、滅多にないといってよいだろう。

「あのひと確かに美人やけど、僕の趣味やないよ」  そうしたことはありうる。でも、その場合だって、その人が美人であることは否定されないのだ。

 

  これだけ確実なものであれば、そうした美しさが、それを持つ人の属性であると感じられてしまうのも当然だろう。ある人の実体的な形での美しさが、汎コンテクスト的に存在する。それが僕らの実感だ。

  しかし僕らは同時に、美人観が時代と共に移り変ってきたこと、また、それがそれぞれの文化圏ごとに異なったものであり得ることを知っている。そうしたものとして、ある人の美しさというものは本来、関係的な概念であるはずだ。そして、そのような事実は同時に、僕らの持つ美人観もまた、ある種、恣意的なものではなかろうかという疑念を抱かせる。

 

  もちろん、「ありうる美人観」というものが、自然選択を受けた遺伝情報によって限定されているということはあるだろう。

  こうした種類の研究は始まったばかりだが、少なくとも、女性の「美しさ」と「若さ」の強い相関は、通文化的で普遍的な性質であるということがいえよう。そして、これは女性の出産能力というものを考慮した場合、生物学的に見ても納得のいくものである。

  しかし、他の動物との比較という見地に立てば、ヒトという種において、性的な魅力の明確な変異が、女性(雌)によって(も)担われているということは、全生物の中でかなり特異な例であることも確かである。というのも、自分のこどもに対して直接的な労力の出費を強いられる雌の場合、一個体当たりの可能な産子数の変異は、雄の場合のそれと比較してはるかに小さいからだ。華麗な羽を持つ孔雀も、立派な角を持つかぶと虫、それらはみんな雄である。雌はいつも地味な格好をしている。

 

  確かに、子供の成育に男性の積極的なケアが必要とされるというヒト独特の事情があることは認めねばならない。こうした事情が、女性間の男性獲得競争を引き起こし、それが性淘汰となって、性的魅力のシンボル発達のランナウェイ過程を発動させたことは明らかだ。ヒトの近縁種には見られない、女性の乳房の肥大という現象はそのようにして起こったものといえよう。

  しかし、顔の美しさというものはそれとは違う。それは、顔を構成する各部分の組み合わせ(バランスの良さ)として現れるもので、それ自体遺伝するものではない。自然選択は、そうした「良い」組み合わせの安定化の方向に働き得るとはいえ、同型勾配の害も合わせて考えれば、美人は、遺伝的に多様な集団のあらゆるところに生ずるだろうことが予測される。その場合、美人の自然選択は起こり得ない。

  ゆえに(社会)生物学的に見れば、美人観というものは(おおむね)恣意的なものであろうことがいえる。

 

  一方、文化的にはどうであろうか。例えば葛藤理論風に、ある人の容姿がその身分・階級のシンボルであるとは、考えられないのだろうか。

 

  例えば、(食生活の強い影響を受ける)歯並びやあごの形など、後天的な要素に関してはそのようなこともいえよう。特にアメリカのような高度資本主義社会においては、歯並びは歯列矯正の普及(ならびにそれが、金銭的なコストとなること)によって、そのようなシンボルとして用いられるようになりつつある。

  しかしまた、それが例外的な事例であることも確かだろう。基本的には、美人というのは、生まれつきものであり、しかも遺伝しない。よって、遺伝的・文化的に再生産される階級集団において、美人だけは、どのような階級にもランダムに発生するものと考えて良いだろうと思われる。実際、美人であることは、階級の上昇移動の主要な手段のひとつとしてあり続けてきた。(それがどのくらいの頻度であったかはわからないが。)

 

  ゆえに、女性の美しさというものは、共時的には恣意的な尺度であると考えても構わないはずだ。これで準備は整った。ここからが本題だ。

  それではなぜ、そのように本来、恣意的な尺度が、確実なものとして僕らに共有されてしまうのはどのようにしてなのだろうか。

 

2:交換可能性 

「彼女はどちらかといえば平凡な顔だちだった。

でも僕は彼女の顔だちの中に『自分のためのもの』

を感じることができた」    村上春樹  「国境の南、太陽の西」

 

  社会から切り離された形での、極めて個人的な恋愛(そしてその結果としての自己再生産)というものを中心にみるなら、僕らの女性評価の方法は、人それぞれに異なっていた方が良いはずだ。もし女性の容姿と、その人の遺伝的・文化的性格が無相関なのであれば、容姿のような情報にとらわれることは、自分の遺伝的・文化的情報の再生産にとって、コストにしかならない。(多分、その結果として考えて良いのだろうが)心理的な満足感を考えても、自分の選んだ(選ばざるを得なかった)配偶者をそれぞれの価値観上で、最も高く評価できるということは理にかなったことだ。

  しかし、現実に僕らは女性の容姿にとらわれる。帰謬法に従って考えるなら、最初の前提がおかしいのだ。すなわち、僕らの恋愛は(一見それが、その当事者だけの問題に見えようと、)外の世界にしっかりと結びついた社会的行為なのである。従って、上のようなことがそのまま言えるのは、離れ小島に二人きりという極限的状況におかれた場合に限ら

れる。

  社会的賛同の得られない個人的評価は、自己満足に過ぎない。僕らが恋愛に求めるものが、単なる自己満足にとどまるものでないのであれば、(そしてあり得るその自己満足を敗者の論理であると切り捨てるのであれば、)恋愛は自己目的的行為ではない。すなわち、それは別の何物かに交換されることを前提として存在しているということになる。

 

  さて、この「何物か」とは、社会的威信という極めてあいまいなものなのであるが、ここで重要なのは、この社会的威信は金で買える、すなわち開かれた市場の中の一商品であるということである。故に、恋愛対象としての女性は、社会的威信というものを媒介として、この広い交換体系の一部として位置付けられうることになる。

  しかし、個人的な評価の集合体である、多元的尺度としての「容姿」は、貨幣による一元的尺度を持った、商品の一般的交換体系と、そのままでは結びつき得ない。だが、ひとたび、「容姿」の多元的尺度の中から歴史的偶然によってひとつの尺度が取り出され、社会的威信との結びつきが(はじめはあいまいな形であろうが)社会的に認識されるようになると、自己強化的回路によって、その尺度がひとり歩きするようになる。

  それはこういうことだ。

  ここに100円玉がある。この100円玉の「価値」は、この100円玉を市場に持っていけば、100円分の何かと交換してくれるだろうという「思いこみ」が、人々に共有されることによって生じる。

 

  そのような「思いこみ」が十分に広まっている時、50円玉>100円玉という価値観を持って、その世界で自分の価値観における所有物の増大を目指すと、その世界の交換体系において、その人の持つ資産は半分(以下)になってしまう。自分の存在が、身の回りの世界との種々の交換に従属している時、そのように自分の価値観を押し通すことは、自分の存続可能性を危うくする。ゆえに、ひとつの広がりつつある価値観は、それ以外の価値観をのみ込んで行き、最終的に一元的尺度ができ上がることになる。

 

 

美人というものが、この世の中に存在する理由もまた、資本主義のうちにあったのだ。

 

参考文献

井上章一 1991『美人論』 リブロポート

岩井克人 1993 『貨幣論』 筑摩書房

蔵琢也 1998 『なぜ、ヒトは美人を愛するのか』 三笠書房

村上春樹 1979 『風の歌を聴け』 講談社

___. 1988 『ダンス・ダンス・ダンス』 講談社

___. 1992 『国境の南、太陽の西』 講談社

Simmel, G. 1900 Philosophie des Geldes Duncker & Humblot (1978-1981『貨幣の哲学』元浜清海, 居安正, 向井守訳 白水社)

 

現在(99年)から見てのコメント

これも「受験のハンディキャップ理論」と同じ企画のために書いたもので、同様の理由でやはり未発表です。

これも参考文献はあとから付け加えました。岩井(1993)と蔵(1998)は最近読んだのですが、どちらもそれぞれの分野における最良の成果といえるでしょう。岩井さんの本は、一章あたりでは「そんなことわかってるよ」というような議論なんですけど、それがいつのまにか非常に大胆な結論への布石になっており、見事としかいいようがありません。また、この『貨幣論』で展開されているポジティヴ・フィードバックを重視する発想の源流については、拙稿1998 で論じています。

蔵さんの本は、大変読みやすい一般向けの本ではありながら、同種の本(竹内久美子など)とは比較にもならぬ、学術的に信頼性のおけるようなデータをこれでもかというくらい盛り込んでおり、説得力があります。

で、僕自身のこの小論のオリジナリティは、これらの論考が発表される前にそれらの結論を結び付け得ていることにあるものだと思います。もっともこの小論での「美人には適者生存的な生物学的根拠はない」という前提に、蔵さんは当然反論するでしょうが。

また途中に引用している村上春樹ですが、彼はここで示した「資本主義的」美人観と対立するような立場を処女作『風の歌を聴け』(1979)以来つらぬきとおしていました。しかしこの『国境の南、太陽の西』(1992)で主人公は、「自分のためのもの」を感じていた妻から去って、資本主義的美人(「島本さん」)へと向かっていってしまいます。それは『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)における「高度資本主義経済」との妥協宣言後の村上春樹を象徴しているのかもしれません。ちなみにこのようなシステムからの自由はジンメルの社会学の中心的テーマでした。このような資本主義的システムと対立するヒューマニズムについては、拙稿1997を参照。