中国地区英語教育学会紀要 2007年 Number 37, pp. 111-120





インタビュー研究における技能と言語の関係について





広島大学 柳瀬陽介



1 はじめに

 本発表の目的は、英語教師へのインタビュー研究の遂行と受容において、英語教育学界が理解しておくべき論点を、現在進行中の二つのインタビュー研究(未公刊)の経験を基にしながら、理論的に整理することである。現在インタビュー研究の中で、筆者は、「技能」と「物語」というキーワードで総括できる問題意識を持つにいたった。そのうち今回は「技能」について考察する。インタビューで得られる言語とは、あくまでも技能(英語授業、あるいは英語習得)に関する言語であり、そこでは技能と言語の関係に関する理論的理解が必要だからである。


2 技能と言語

 英語授業あるいは英語習得といった技能に関する言語表現であるインタビューを適切に理解するためには、予め技能と言語の関係について理解しておかなければならない。はたして、(1)技能は言語で表現しつくせるものだろうか。(2)言語から技能を導き出すためには何が必要なのだろうか。また逆に、(3)技能を言語化するとはどのようなことだろうか。この章ではこれら三つの問題について、主に、Polanyi (1962)、光岡・甲野(2006)の論を通じてそれなりの答えを出す。
 ここで、これまで質的研究やインタビュー研究でほとんど取り上げられてこなかった、Polanyiと光岡・甲野を取り上げる理由を説明しておくべきであろう。日本において質的研究の入門書は、おそらく佐藤(1992)を嚆矢として、1990年代後半以降多く出版されることとなった。質的研究一般に関しては、ウィリグ(2003)、メリアム(2004)、波平(2005)など、フィールドワークとインタビューに関しては、佐藤(2002)、桜井(2002)、宮内(2005)など、それらの研究の記述法に関しては、やまだ(2000)、鯨岡(2005)など、教育研究での展開では平山(1977)、秋田他(2005)などがある。しかしこれらにおけるインタビューについての論考は、一般的なものにとどまり、技能、およびその技能と言語との関係を詳細に論じたものはない。英語教師の技能ということに注目をして、英語教育研究を進めるなら、技能と言語の関係に着目したPolanyiや光岡・甲野などの論考を取り上げる必要がある。

2.1. 精密科学の技能観

 現在、多くの英語教育学会誌が、数量的な研究を範としているように思える現状からすると、私たちは英語授業・英語習得といった技能も、究極的には精密な科学記述によって説明されると漠然と想定しているのかもしれない。科学で解明された技能の規則に忠実に従えば、私たちは優れた英語教師・英語使用者になれるというわけである。無論、ここまで明確に言い切る英語教育学者は少ないかもしれないが、彼/彼女らの無自覚な前提を明確化するためには、以下のポラニーのまとめは有益であろう(当人が漠然としか認識していないことを明確化(理念化)し、その帰結を示すことは、ヴェーバー(1998)に従うなら、社会科学の重要な任務である)。

精密科学が宣言する目的とは、形式化して提示され実証的にテストされる正確な規則の観点から、経験に対して完璧な知的制御を施すことである。もしその理想が十分に達成されるなら、すべての真理と誤謬をこれからは森羅万象の精密理論に帰することが可能であり、その精密理論を受け入れる私たちは、自分の個人的判断を働かせる機会から解放される。私たちは忠実に規則に従ってさえいればいいのである。(Polanyi 1962, p.18)1

 しかし、直感的に私たちは、技能習得はこれほどに単純なものではないと考える。私たちは「実践の知」や「臨床の知」といった言葉を、しばしば「科学の知」と対比的に提唱する。だが、それはどのような知なのか。言語化できる知なのか。できないとすれば、どこが、なぜ、どのようにできないのか。こういった認識論的問いを考察しなければ、私たちは精密科学の技能観を再びいつのまにか志向してしまうか、あるいは逆に、技能の神秘化という反動に陥るか、もしくはその両極端の間の、何も明らかにしない考察の渦の中に巻き込まれてしまうだろう。私たちは、私たちが直感的に把握している、技能と言語の間の齟齬をできうる限り解明しなければならない。次からはそれぞれに技能論を展開したポラニーと光岡・甲野の論を整理して、私たちの直感的な理解を明確なものにしたい。2.2では、ポラニーを、主に言語から技能へと到る道を明らかにした論者として捉え、2.3では光岡・甲野を、主に技能の言語について明らかにしたと対比的に捉えることにより、技能と言語の関係についての私たちの理解を深めることを試みる。

2.2 言語から技能へ

 マイケル・ポラニー(Michael Polanyi, 1891-1976)はハンガリーの物理化学者・科学哲学者・社会科学者であり、後年はイギリスで活躍した。彼は自然科学者としてのキャリアの中から、科学探究が単に「客観的」な知識や操作だけで構成されているのではないことを痛感し、その考察から、主著の一つである『個人的知識』(Personal Knowledge)では技能(skill)の分析を行なった。ここでは彼の分析のうちの「言語から技能」という方向で論ぜられた分析を整理することにする。
 ポラニーは、技能あるいは技芸(art)を導く規則(rule)をmaximと呼ぶ。Maximとはカント哲学に由来し、語用論ではグライスも採択した用語であり、日本ではしばしば「格率」(=「各人の採用する主観的な行為の規則」『大辞林 第二版』)と訳される用語である。ポラニーの論考が私たちに思い起こさせてくれるのは、この格率は技能・技芸遂行に洞察を与えてくれるが、格率を技能・技芸と置き換えることはできないということである。また、格率は技能・技芸に既にある程度習熟している者にしか理解もされないし、ましてや適切に適用されることもないということである。格率の適用には個人的判断が必要であるとポラニーは言う。格率とはそれを正しく適用することが技能・技芸の一部となる規則であり、その表現は当該技能・技芸について私たちの洞察を深めてくれるし、実践者へのよき導きともなるだろう。しかし格率と技能・技芸を等価視することはできない。

格率が興味深いものになるのは、私たちが技芸を正しく理解するからであり、格率そのものが技芸の理解と代替可能であるとか、技芸の理解を確定するなどということはない。 (Polanyi, 1962, p.31)

 実践者は、ある格率に従う場合、実は自ら自覚しないままにある一連の規則に従っている。逆に言うなら、自分がある一連の規則に従っていることを無意識に感知した時にはじめて実践者はある格率に従うことを選ぶ。これが「個人的判断」(personal judgment)であり、格率が技能・技芸に既にある程度習熟している者にしか理解も使用もされない理由である。格率に関する探究についてポラニーはこう言う。

この探究を行なうための手がかりとして、私はよく知られた事実を使おう。熟練したパフォーマンスの狙いは、その規則に従っている人が、自分が従っているとは知らない一連の規則に従っていることによって達成されるのだ。(Polanyi, 1962, p.49)

 しかし実践者が自覚できない一連の規則も、別に神秘的な規則ではなく、そのどれかに実践者が焦点をあわせれば、彼/彼女とてその規則に気づくことはできる。しかしこういった焦点的気づき(focal awareness)は、通常、人間は一時に一つしか持てない。その他の気づきは従属的気づき(subsidiary awareness)として無自覚・無意識に感知されるに過ぎない。もしある実践者が格率に意識的に従いながら(つまりは自らの認知的焦点をその格率に置きながら)、その際に普段は無意識に行なっていること(つまりは従属的にしか感知していないこと)にも意識的な焦点を置こうとするなら、彼/彼女の技能・技芸は麻痺し、十全な遂行は阻害されるだろう。個人的判断の材料となる、無自覚な一連の規則を「語りえない」(ineffable)とするのは、それらについて全くしゃべれないというのではなく、それらについて技能遂行の際にしゃべろうとすると、そもそもの技能が破壊されるということで、「適切には語りえない」ということである。

私には私が語り得ない知識があると主張することは、私がそれに関してしゃべることができることを否定するのではなく、私がこの知識について適切にしゃべることができるということを否定するものである。 (Polanyi 1962, p.84)

 技能の言語表現である格率が、技能を導き出すのに有効なのは、その格率だけに注意を払うのではなく、その格率に焦点を置きながらも、その他の事柄を従属的に感知しつつ、あくまでも、格率に従うのではなく、技能を成功させることを目指す限りにおいてである。実践者にとっては未知の技能獲得の状態を追求する中で、その格率を、その他の自覚的には感知できない事柄と溶け合わせることによって、初めてその格率は働く。格率は技能の手がかりでありほんの一部分であるに過ぎない。
 格率は、技能に統合されることによって有益なものとなる。格率と技能は等価ではない。技能は、格率には含まれない部分を常にもつ。技能の全てを格率化するということは、少なくとも一定の有限の認知能力しか持たない人間には望むべき事柄ではない。

実際、私たちが、ある技能パフォーマンスを、見ることであれ、自分自身やってみることであれ、自分自身で経験しないうちに、その技能の前提が、パフォーマンスに先んじて焦点的に発見されることはない。また他人にその技能パフォーマンスに関して明示的に述べられたとしても理解すらされないだろう。ある技能を遂行するとき、私たちはある種の前提に基づいて行為しているが、私たちはその前提を焦点的には知らず、その技能修得の一部として従属的にのみ知っている。 (Polanyi 1962, p.162)

 格率の前提は、私たちが技能をどのように成功させるかを分析することにより、焦点的に知ることができるようになるかもしれない。そうして、私たちが引き出すその成功の規則は、私たちの技能を高め、その技能を他人に教えることに役立つかもしれない。しかしそれはこれらが最初に、格率の元である技能・技芸に再統合されての話である。というのも、どんな技能・技芸も明示的な規則である格率だけに従っては実行されないからだ。格率は熟練したパフォーマンスの文脈の中で従属的に従われることによってのみ技能・技芸にとっての大きな助けとなりうる。技能の言語は、技能の一部であり、技能の全体性においてのみ命を得ていることを忘れては、私たちは言語と技能についてとんでもない間違いを犯すこととなる。

2.3 技能から言語へ

 次は、技能から言語へという方向で重要な考察をしている、光岡と甲野の技能論をまとめたい。光岡と甲野は共に現代の武術家であるが、各種の先入見にこだわらずに身体技能を探究している実践的研究者として捉えることができる。また甲野は、身体技能から見た科学の限界についても様々な考察をしているが(例えば、甲野(2004)、甲野・田中(2005)など)、今回は現時点での甲野の最新の技能論である光岡との共著に限って、彼らの技能論を整理することにする2
 武術だけでなく多くの技能は、ある形(あるいは型3)を真似ることから技能習得を目指す。しかしこの時、私たちは「形同実異」と「形異実同」に気をつけなければならないと光岡・甲野は言う。「形同実異」とは、学習者が表面上は先人と同じこと(=形)をやっているように見えて、実際は全く違うことをやってしまっていることである。外見は似ているが、その技能の目指すべき効果を全く失ってしまっている状態である。したがって形だけに注意を払うのではなく、「感覚」を働かせ、その「形」が、先人のやろうとしていることと同じような効果を持ちえているのかを絶えず検討することが必要と光岡・甲野は述べる(先ほどのポラニーの用語で語るなら、「形に焦点を当てるあまり、その際に必要な従属的気づき、および技能の全体性を見失うことをしてはならない」となろう)。しかしこのように感覚に頼ろうとしても、人間は自分に都合のよい感覚だけを取り込もうとする傾向がある。したがって、感覚に頼りすぎることも戒めなくてはならず、私たちは再び「形」に戻る必要がある。さらに一方で「形異実同」もある。形が異なっていても実質上は同じことを行なっている場合もあるからである。したがって形を完全に信用することもできず、私たちの認識は「永遠にループ」する。形だけでは間違うから感覚を頼りにする。しかし感覚も誤りうるから形に頼る。しかし形に頼ると、違う形での同じ効果を見失ってしまうから、感覚に頼る。しかし感覚も・・・というわけである。
 こうしてみると技能の習得とは、何か一つの形の習得ではないということが明らかになってくる。一つの形を通じて、感覚の働かせ方を学びながら、当意即妙に様々な行為を生み出してゆくことが技能習得の正体のように思えてくる。光岡・甲野は、「能力」とは、そのような創造的な生成であり、固定的な形の習得ではないと語る。彼らは「能力」を「言ってみれば測ることのできない無限のもので、百人いれば百人とも違うもの」(光岡・甲野 2006, p.85)とも表現する。「測れない」とは、測っても、それは単一の物差し(基準)による測定に過ぎず、「能力」の無限定的で柔軟な創造性は、そういった単一の視点では捉えきれないということを意味する。技能を語りつくそうとすれば、技能が破壊されてしまうように、能力を測りつくそうとすれば、能力が固定的に捉えられてしまい、能力の根幹と光岡・甲野が考える創造性が否定されてしまう4
 そもそも形からの学習(学び・真似び)が目指しているのは、固定的な「標準行為」(先ほどのことばでいうなら「形」)の習得ではなく、創造的な「典型行為」の習得であると光岡・甲野は説く。「標準行為」と「典型行為」は共に光岡・甲野の用語である。「標準行為」の習得とは、「各人各様の能力の形をある標準的な形に当てはめてしまうこと」(光岡・甲野 2006, p.87)である。これは形を強調するあまり、技能・能力の創造性を否定してしまうことである。それに対して「典型行為」とは、「自分がある行動を行なうとき、その特性や個性がそのまま表現され、空間的、時間的、構造的に最も適した状態が自然と現れた行為のこと」(光岡・甲野 2006, p.87)であり、その「典型行為」には「普遍性と特殊性が同時に存在している」(光岡・甲野 2006, p.88)。形から技能を学び、能力開発に到るとは、形を固定化し、「標準行為」を数多く覚えることではなくて、形を通じて、その時々の「典型行為」がいくらでも生成できるように、感覚を磨きながら心身の可能性を広げることなのである。
 このような技能習得・能力開発をするために、どのように私たちは、意識、ひいては言語を使うことができるのだろうか。そもそも技能や能力のために意識や言語は有用なのだろうか。光岡・甲野はこの点で、「確認」、「体認」、「認知」という言葉に独自の意味を込めて、意識や言語の活用についてまとめている。
 最初の「確認」とは、光岡・甲野が否定的に捉える行為である。「確認」とは、「自分の中にすでにある認識で、目の前の現実や相手の言うことを、自分の認識パターンに無理に当てはめようとすること」である。環境を軽視あるいは無視して、「自分の中で正しいと思い込んでいるものを、また正しいとすること」とも説明されている(光岡・甲野 2006, p.119)。「確認」の言語化は、「典型行為」の認識や「能力」の開発にはつながらず、可能性にあふれた「能力」を、固定的な「標準行為」(あるいは「形」)に変形してしまう言語使用だといえる。言うまでもなく私たちはこのような言語使用は控えなくてはならない。
 「体認」とは光岡・甲野が最も重要と考える行為であり、彼らはこれを「自分が行動するときにその行動によってもたらせるすべての情報に対して、意識によって是非善悪を決めず、取捨選択をせず、ありのままを認識すること」(光岡・甲野 2006, p.119)と定義している。「全体的な把握」であり、「何か特定のものを認識するわけではありません」、「何かよく分からない掴みどころのないものを、そのままに把握する」(光岡・甲野 2006, pp.60-61)というのも光岡・甲野の説明である。したがってこの「体認」の言語化は非常に困難なものである。
 だが、このことは、「体認」が認識不可能な行為であることを示さない。この困難の中で、「体認」についての理解を深め、その理解を少しでも理解しようとすることは、光岡も甲野も行なっていることである。この「体認」の理解の試みを彼らは「認知」と呼ぶ。「認知」とは「体認」の後に考え理解を深めようとすることであり、決して「体認」や行為の前や最中に考えることではない。光岡・甲野は行為している時には考えてはならないが、行為のあとには考えなければならないとも言う5(光岡・甲野 2006, p.186)。
 技能から言語への流れで考えるならば、ここでも技能の全体性は明らかであり、言語は技能を振り返ることにより、ようやく、なんとか部分的に紡ぎ出されるものであるに過ぎない。しかし言語は、人間が思考しコミュニケーションをするためのおそらく最良の手段であり、その言語使用(「認知」)は、技能の「体認」を深めることに役立つ。だが言語を不用意に使うなら、それは技能の可能性を、既知の固定的な例に(「標準行為」、「形」)に縮減してしまうことにもつながる。言語は、技能を理解しあう者同士が、それぞれに自らの感覚を探りながら、技能行為を振り返り、注意深く使用される限りにおいて、技能習得や能力開発のために役立ちうるとまとめられるだろう。

2.4 技能の言語の矛盾性

 こうしてみると、言語と技能の関係は、決して言語が技能を作り出すとか、技能は全て言語化できるといった単純な関係ではないことがわかる。言語は技能の中に統合されて、初めて意味を成すものであり、それは技能を理解する者同士でのみ通じ合うものである。しかも、言語が技能についての何らかの解明をするにしても、その解明は一面的なものであり、それは私たちが従属的にしか気づけないこと、あるいは「感覚」でしか気づけないことを表現していない。もしその表現されていないことを私たちが表現しようとすれば、今度はその焦点から外れた事柄が表現されないようになる。どの角度から言語表現しても、表現できない事柄は残る。言語表現は、表現できない事柄の条件に依存するのであるから、ある技能も、どの視点を取るかで、つまりはどのようなことを無言の前提とするかによって言語表現が異なってくるわけである。したがって、同じ技能についても、表面上矛盾するような複数の言語化(格率)が現れうる。それらは言葉面だけを取ると矛盾であるが、それらが前提としている語り得ない事柄を勘案にいれるなら、実質的な矛盾はない。
 ということは、逆に、技能についてのある言語表現だけを取り出して、それを金科玉条のように、どのような条件においても守られる規則・法則として扱うならば、それは決定的な間違いである。マニュアル墨守主義は誤りということである。科学的な一般法則は、その前提条件と適用限界を明らかにし、例外条件も明示しようとするが、科学的な装いをもって「技能の法則」のように提示されただけの言明は、しばしば、前提や限界や例外への関心も欠いたまま、一般性をもった主張として提示されることは、英語教育研究でもしばしば観察されることである(「英語上級学習者には○○が有効であることが実験的・統計的に実証された」といった一連の「中立的な」表現がその例にあたる)。そういった現況からすると、光岡・甲野の警句「具体的なもの、単一的なもの、標準的なもの、それらはすべて間違いである」(光岡・甲野 2006, p.63)という警句を私たちは深くかみしめなければならない。技能に関して、格率・規則・法則などの形で表現された言語は、一面的なものに過ぎず、それを絶対的なものと少しでも錯誤した瞬間私たちは決定的な間違いを犯す。私たちが、格率・規則・法則として具体的に、単一のものとして、物事の諸連関から切り離して認識したもの、あるいは、私たちが物事の変幻性を捨象して標準的なものとして認識したもの、これはらすべて物事の全体性から切り離された認識であるから、それを絶対的な認識と誤解して、それのみに依拠すれば、私たちは必ず間違いを犯す。短く言うなら、具体的なもの、単一的なもの、標準的なものを全面的な真理と捉えるなら私たちは必定的に誤るのである。
 こういった技能の言語の限界は、ある師がその弟子に言い放った、次のような警句によっても表現される。「私の言ったとおりにすれば間違いだ。しかし言うとおりにしなければもっと間違いだ」(光岡・甲野 2006, p.164)。格率に囚われてしまうのは愚かであるが、格率を無視するのは、一層愚かであるということである。先に「マニュアル墨守主義は誤りである」と書いたが、その文には「しかしマニュアルを否定することはさらに誤りである」といった文が続けられなければならない。
 この技能の言語の矛盾性はポラニーによっても認識されている。彼によれば、真に言葉を使いこなす者は、自らの言語が、異なるものを同じと言い放つ矛盾表現としての比喩のようなものであることを自覚し、次々に表面上は矛盾するようなことは言いながらも、全体的な統合性は常に保つのである。

真の語りの芸術家は、常に言語の比喩的性格を意識している。彼/彼女らは一つの比喩を使えば、それを次の比喩で正したり、補ったりすることを続ける。そうしてことばがお互いに矛盾することも許す。彼/彼女らが気をかけているのは、思考の統合性であり、確からしさなのである。(Polanyi 1962, p.94)

私たちはこういった技能と言語の関係、技能の言語の特徴を踏まえた上で、実践者が自らの技能について語るインタビューを解釈しなければならない。この章の最初に三つの問いが立てられた。(1)技能は言語で表現しつくせるか。(2)言語から技能を導き出すためには何が必要か。(3)技能を言語化するとはどのようなことだろうか。この時点でこれらへの答えを試みるなら、(1)'技能は言語では表現しつくせない。(2)'言語から技能を導き出すためには、技能の全体的な理解が必要である。(3)技能の言語化は、たとえそれが技能の一部に関するものであるとしても、注意深く行なわれれば、それは実践者の技能理解を深めうる、となろう。言語を持つ人間としては、技能の言語化を諦めず、それを注意深く行ない、注意深く読み解いてゆくことが賢明な選択であろう。次章ではそういった点から導かれるインタビュー研究での具体的な留意点をまとめる。


3 技能に関するインタビュー研究における留意点

 今までの論考を受けて、以下、三点にわたって、インタビュー研究における留意点をまとめておきたい。三つのポイントとは、3.1瞬時の想像的解釈者としてのインタビュアー、3.2体認の言語化のためのインタビュー、3.3避けるべきインタビュー内容からのマニュアル作成である。

3.1 瞬時の想像的解釈者としてのインタビュアー

 第一のポイントは、インタビュアーは瞬時の想像的解釈者でなくてはならない、ということである。インタビューにおいて、実践者は自らの実践を語るわけであるが、実践者が語りなれている場合は、格率の形で、実践者は私たちに技能の言語を告げる。しかし、これはせいぜい、実践者の焦点的気づきを言語化したものであり、それは実践者の従属的気づきに統合されて始めて有意味なものになるものであった。実践者は、自分が投げ込まれた状況の全体性を感覚的に把握し、その中で個人的判断を働かせて、ある技能を遂行する。その個人的判断が技能遂行の基盤なのである。
 しかし、とりあえず実践者の語りや格率しか聞くことができないインタビュアーは、その言語化された表現から、言語化されていない実践者の従属的気づきを想像しなければならない。基本的にその想像は、インタビュー中に行なわれるから、インタビュアーはインタビューの瞬間ごとに実践者の実践を想像してゆかなければならない。このためには、可能な限り、インタビュアーは、実践者の技能を自ら実践している必要がある。最低限、インタビュアーはその技能に関して、長年の良き観察者であり、実践者の実践感覚が、推測的にでも想像できるぐらいの実践理解をしていなければならない。
 そうして実践者の語りや格率を瞬時に解釈して、その基盤を想像し、その想像に基づいて、インタビュアーは、実践者の従属的気づきを言語化するように努めなければならない。これが瞬時の想像的解釈者としてのインタビュアーとしての仕事の一つである。こういった問いかけにより、実践者も従属的には気づいていても、非自覚的であった事柄を思い起こすことができる。その想像が当たっていても、外れていても、インタビュアーおよびインタビューの読者は、技能の個人的基盤についての理解を深めることができる。問いかけが、見事に実践者の個人的判断の基盤を掘り起こした場合は、その解明は、インタビュアーとインタビュー読者だけでなく、実践者自身の実践理解を深め、それ以降の実践者の語りの表現をより精確なものにするだろう。こうした問いかけによる解明が、インタビューの醍醐味であり、そこでは関与者すべてが受益者となる。
 英語教育研究におけるインタビューにおいても、インタビュアーは、英語習得や英語授業といった技能・実践に関して、できるだけ深い理解をもっていなければならない。実際、筆者も、あるインタビューの深い意味を、筆者が二十年ぶりに第二外国語としてのドイツ語学習を再開してようやく得心する経験をした。この筆者の場合は、インタビューの後にドイツ語学習再開を行なったので、気づきは当然、インタビュー後のこととなったが、実践者が語っていた、英語教育における、英語が話せない生徒に対する教師の心理的配慮が重要であること、教師-学習者間のコミュニケーション回路を常に開いてそれに生徒を招きいれようとすること、基礎的文法・語法事項がレファレンス資料としていつでも通覧できるようになっていること、英語をできるだけ教室言語化としておくことが学習と定着を促進させることなどの重要性は、自分がドイツ語学習者として不安と無知の中で、教室で時間を過ごすにつれ、それらの深い意味がまざまざと実感されてきた。これらの経験と自覚が、インタビュー時に筆者にあれば、インタビューももっと有意義な展開ができ、解明も進んだはずである。こうしてみると、インタビュアーは、常に、当該技能・実践に関して経験を深め、なおかつその経験を、自分自身で言語化するように努めていなければならない。自らの技能・実践の言語化もおぼつかない者が、他人の技能・実践の瞬時の想像的解釈者およびその言語表現者になれるとは思えないからである。インタビュアーは、そのような自己訓練を重ねた上に、実践者の言葉の裏側・そして奥を瞬間に読み取り、それを問いかけの形で、技能・実践の協働解明を図らなければならない。

3.2 体認の言語化のためのインタビュー

 実践者が自らのことに関して語りなれていない場合、実践者の言葉は、格率のように整理されず、訥々と語られるだろう。これは、感覚的な実践の「体認」を言語化しようとすることであるから、無理のないことであり、インタビュアーはその場合、辛抱強く体認の言語化を援助しなくてはならない。辛抱強くというのは、インタビュアーが安直に凡庸な言葉を投げかけてしまえば、実践者は「まあ、そんなところです」といったように、自己探究から常套句的理解に逃げてしまうかもしれないからである。あるいは実践者は、インタビュアーを、平板な理解ばかりに自分を誘導しようとする者と見なすかもしれない。その場合下手をすれば、実践者はインタビューへの熱意を失ってしまうであろう。
 仮に実践者が、一見関係のないように思えるエピソードを語り始めたとしても、インタビュアーは性急に「話を戻して」しまってはいけない。そのエピソードこそが、技能・実践の際の「個人的判断」の土壌かもしれないからである。実践者は「物語」の形で、技能・実践を語ろうとしているのかもしれない。物語モードこそは、日常的な語りだからである。この点で、インタビュアーは物語という語りの形式についてきちんとした理解をもっておく必要がある6
 また、この体認の言語化が困難であることから、インタビュー記録においては、言葉になろうとしてなりきれない様子や表情も重要な情報として残されるべきということになる。語りの書き起こしにおいては、語りを標準語化・書き言葉化すること(「ケバ取り」)がしばしば行なわれているが、技能に関する言語化のインタビューにおいては、このケバ取りは逆効果になるだろう。インタビューは忠実に文字化されるべきだろうし、可能な限りビデオ撮影も行い、実践者の語りの様子や表情を後に何度も参照できるようにしておくべきであろう。語られ方を無視して、語られた言葉の字面だけを捉えて、言葉を標準化することや、言葉から言葉を引き出して、既成の物言いに改変してしまうことは断じて避けなければならない。

3.3 避けるべきインタビュー内容からのマニュアル作成

 実践者が格率の形で整理して語るにせよ、体認を言語化しようとして訥々と、あるいは迂遠にも思える物語形式で語るにせよ、インタビュアーが避けなくてはならないことは、インタビューを単なる「確認」の儀式にすること、つまり、偉大な実践を凡庸な常套句的理解へと変形することである。そのような「確認」は、娯楽商業誌のインタビューのように、「つまり○○が大切だということですね」と、解明でなく、解明の停止を促進する。そして、格率の語りを、「標準行為」のマニュアルへとさらに変形してしまう。そうして安直にマニュアルとされた格率に関しては、極言にも思える警句である「具体的なもの、単一的なもの、標準的なもの、それらはすべて間違いである」がふさわしいことは前に論じたとおりである。
 マニュアル化を避けるためには3.1で見てきたように、実践者の個人的判断の基盤を想像的解釈によって協働解明し、さらに3.2で見てきたように、未整理な語りを大切にすることが必要だが、ここではさらに、矛盾表現も大切にする、ということを付け加えておきたい。実践者の語りには、表面的な矛盾が珍しくないことも先に述べた通りである。それは語りの視点・焦点の置き方の違いにより生じるものであるから、それらの矛盾を抹殺しようとしてはいけない。「Aなのか、Aでないのか」と性急に結論を出そうとすることは、技能・実践の解明を止めることになりかねない。インタビュアーは実践者のいわば「仮想的弟子」として、実践者の言葉の意味合いを、その言葉に対してできるだけ忠実な態度を保ちながら、できるだけ想像的に解釈し、「矛盾を矛盾なく説明する」ことに努めなければならない。
 このように技能・実践が単純化されず、少なくとも表面的な矛盾が残ってしまうことは、技能・実践とは、上で論じてきたような意味での「能力」の発露であることからすれば当然ともいえる。ここでいう「能力」とは、無限定的で柔軟な創造性であり、「標準行為」を繰り返すのではなく、その時々の状況に応じた「典型行為」を生み出す力であった。この「能力」においては、形ばかりを似せようとした「形同実異」は避けられ、むしろ形は異なれども、きちんと目的を達する「形異実同」の方が勧められる。ここでは「Aをするべきであり、(Aではない)Bもするべきである」といった表面的な矛盾が生じる。表面的な矛盾は、標準的なマニュアル作成からは避けられるべきであるが、実践の理解においては避けることのできないことである。
 優れた実践者が講師となるワークショップでは、参加者である実践者が、講師に「○○の時にはどうすればいいのですか」と、実践状況の説明をほとんどせずに、また自分がどんな技能を持ったどのような人間であるかにも全くといっていいほど関心を払わずに質問をする場面がしばしば見られる。ここでは「○○の時には、××せよ」といったマニュアル的な「正解」が期待されているわけである。そういった場合、講師は、やや困惑しながらも回答を出すわけであるが、質問者は往々にして、その回答を鵜呑みにして、「○○の時には、××せよ」という格率ばかりに気を留める。自分の教室に帰った質問者はその格率で何回かの成功は収めるかもしれないが、その格率を支える個人的判断を欠いて機械的にその格率を実行しようとするため、たいていの場合は、多くの失敗を重ねるようになる。その結果、「あの講師の先生の言うことは役に立たない」と他責的になるか、「やっぱり自分は何をやっても駄目だ」と自罰的になる。言うまでもなく、他責的な態度も、自罰的な態度も、自らの成長の可能性を否定する態度である。だが残念なことに、こういったマニュアル的思考は英語教育界ではしばしば見られるものである。そういった中では、インタビューをマニュアルとして書こうとする傾向、インタビューをマニュアルとして読もうとする傾向がはびこりがちである。私たちはこのような怠惰な習慣に抗して、技能と言語の関係を適切に理解しながら、インタビューを行い、読み解かなければならない。
 英語教師へのインタビューとは、英語教師の技能に関わるものである以上、上のような技能と言語の関係についての洞察に基づいて注意深く行われなければならない。



1 翻訳は、翻訳書を参考にしたが、最終的には筆者による訳出である。
2 同書は対談本であり、発言はもちろん一人一人によるものであるが、ここではどの発言も二人によって生み出されたものだと考え、光岡と甲野の発言を分けることなく、すべて「光岡・甲野」の発言として取り扱う。
3 「形」と「型」を区別する立場に関しては、柳瀬(1992)を参照のこと。
4 Chomsky (1965)の古典的な「能力」(competence)も、無限の生成能力を持つという意味では「測れない」と解釈できる。
5 このあたりはSchön(1983)が報告している実践者のreflectionのあり方と重なる。
6 「物語」に関する考察は、今回は割愛し、後日改めて論考する。


参考文献
Chomsky, N. (1965). Aspects of the theory of syntax. Cambridge: The MIT Press.
Polanyi, M. (1962). Personal knowledge. Chicago: The University of Chicago Press. 
Schön, D. (1983). The reflective practitioner. New York: Basic Books.
秋田喜代美、恒吉遼子、佐藤学(編). (2005). 『教育研究のメソドロジー』 東京:東京大学出版会.
ウィリグ, C. 著、上淵寿、他訳 (2003) 『心理学のための質的研究法入門』 東京:培風館.
ヴェーバー、マックス著、 富永祐治・折原浩訳、立野保男補訳. (1998). 『社会科学と社会政策
にかかわる認識の「客観性」』 東京:岩波書店.
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やまだようこ(編著). (2000) 『人生を物語る』 京都:ミネルヴァ書房.






英語教師へのインタビュー研究に関する予備的理論考察



ここでは2006年8月5-6日に高知大学で開催される第32回全国英語教育学会で柳瀬が口頭自由研究発表する「英語教師へのインタビュー研究に関する予備的理論考察」に関する資料を掲載します。


2006/8/1掲載:当日配布予定の資料

2006/8/5-6 高知大学 第32回全国英語教育学会

当日配布資料

英語教師へのインタビュー研究に関する予備的理論考察

----技能と言語の関係について----

柳瀬陽介(広島大学)
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/



1.はじめに

 本発表の目的は、英語教師へのインタビュー研究の遂行と受容において、英語教育学界が理解しておくべき論点を、現在進行中の二つのインタビュー研究(未発表)の経験を基にしながら、理論的に整理することである。現在インタビュー研究の中で、発表者は、おそらく「技能」と「物語」というキーワードで表現できる問題意識を持つようになった。そのうち今回は「技能」について考察する。インタビューで得られる言語とは、あくまでも技能(英語授業、あるいは英語習得)に関する言語であり、そこでは技能と言語の関係に関する理解が必要だからである。


2. 技能と言語

 英語授業あるいは英語習得といった技能に関する言語表現であるインタビューを適切に理解するためには、予め技能と言語の関係について理解しておかなければならない。はたして技能は言語で表現しつくせるものだろうか。言語から技能を導き出すためには何が必要なのだろうか。また逆に、技能を言語化するとはどのようなことだろうか。この章ではこれら三つの問題について、主に、ポラニー、光岡・甲野の論を通じてそれなりの答えを出し、インタビュー研究における留意点をまとめる。

2.1. 精密科学(ひいては科学主義)の技能観

 現在、多くの英語教育学会誌が、数量的な研究を範としているように思える現状からすると、私たちは英語授業・英語習得といった技能も、究極的には精密な科学記述によって説明されると漠然と想定しているのかもしれない。科学で解明された技能の規則に忠実に従うだけで、私たちは優れた英語教師・英語使用者になれるというわけである。無論、ここまで明確に言い切る英語教育学者は少ないかもしれないが、彼/彼女らの無自覚な前提を明確化するためには、以下のポラニーのまとめは有益であろう(当人が漠然としか認識していないことを明確化(理念化)し、その帰結も示すことは、ヴェーバーに従うなら、社会科学の重要な任務である)。

精密科学が宣言する目的とは、形式化して提示され実証的にテストされる正確な規則の観点から、経験に対して完璧な知的制御を施すことである。もしその理想が十分に達成されるなら、すべての真理と誤謬はこれからは森羅万象の精密理論に帰することが可能であり、その精密理論を受け入れる私たちは、自分の個人的判断を働かせる機会から解放される。私たちは忠実に規則に従ってさえいればいいのである。
The avowed purpose of the exact sciences is to establish complete intellectual control over experience in terms of precise rules which can be formally set out and empirically tested. Could that ideal be fully achieved, all truth and all error could henceforth be ascribed to an exact theory of the universe, while we who accept this theory would be relieved of any occasion for exercising our personal judgment: we should only have to follow the rules faithfully. (Polanyi 1962, p.18)

 しかし、直感的に私たちは、技能習得はこれほどに単純なものではないと考える。たしかに技能の全てを科学が解明するだろうと考え、英語教育研究が厳密な自然科学的方法だけで進められなければならないとするのは科学主義(scientism)の謗りを免れないだろう。実際、英語教育研究(第二言語習得研究)を質・量ともに比較にならないほどに凌駕する医学研究においても、科学的知見だけによって臨床の問題が解決するとは思われていない。米山(2005, pp. 183-185)は、学んできた医学的知識と数値で患者を診ることしかできない若い医者も、三十年くらい臨床経験を続けているとほとんどが、医学の限界と、西洋医学以外の存在を肯定するようになり、医者は患者から学ぶべきことが多いといった同じ結論に達してくる、と報告する。清水・甲野(2006, pp. 56-57)は、医療への科学的な働きかけを「医学」、実践的な働きかけを「医術」と呼び分けて次のようにまとめる。「医学」は「数字で扱える『平均的仮想人間』を想定することによって、実際の個人を扱うためのひとつの基準や参考としている」ものであり、「このような『医学』を上手に使って多様な人間を上手に扱うのが、『医術』であるはず」であり、「現代の医療現場における問題の多くは、医学をそのままの形で使おうとしたり、使えると誤解したこと」にある。つまり科学的な「医学」とは区別される臨床的な「医術」を正しく認識しないと医療現場の問題は続くということである。しかし「医術」とは何なのだろうか。科学的言語表現(およびその延長としての数学的表現)である「医学」にはどのような限界があるのだろうか。こういった問いを考察しなければ、私たちは精密科学(ひいては科学主義)の技能観を再びいつのまにか志向してしまうか、あるいは逆に、技能の神秘化という反動に陥るか、もしくはその両極端の間の、何も明らかにしない研究の渦の中に巻き込まれてしまうだろう。
 したがって、私たちが直感的に把握している、技能と言語の間の齟齬を私たちはできうる限り解明しなければならない。次からはそれぞれに技能論を展開したポラニーと光岡・甲野の論を整理して、私たちの直感的な理解を明確なものにしたい。2.2では、ポラニーを、主に言語から技能へと到る道を明らかにした論者として捉え、2.3では光岡・甲野を、主に技能の言語について明らかにしたと対比的に捉えることにより、技能と言語の関係についての私たちの理解を深めることを試みる。

2.2 言語から技能へ

 マイケル・ポラニー(Michael Polanyi, 1891-1976)はハンガリーの物理化学者・社会科学者・科学哲学者であり、後年はイギリスで活躍した。彼は自然科学者としてのキャリアの中から、科学探究が単に「客観的」な知識や操作だけで構成されているのではないことを痛感し、その考察から、主著の一つである『個人的知識』(Personal Knowledge)では技能(skills)の分析を行なった。ここでは彼の分析のうちの重要な部分であると考えられる、「言語から技能」という方向で論ぜられた分析を整理することにする。
 彼は、技能あるいは技芸(art)を導く規則(rule)をmaximと呼ぶ。Maximとはカント哲学に由来し、語用論ではグライスも採択した用語であり、日本ではしばしば「格率」(=「各人の採用する主観的な行為の規則」『大辞林 第二版』)と訳される用語である。さて、ポラニーの論考が私たちに思い起こさせてくれるのは、この格率は技能・技芸遂行に洞察を与えてくれるが、格率を技能・技芸と置き換えることはできないし、格率は技能・技芸に既にある程度習熟している者にしか理解もされないし、ましてや適切に適用されることもないということである。格率の適用には個人的判断が必要である、とポラニーは言う。

技能に関する章(第一部第四章)で、私は技芸の規則の興味深い性質について多くを語るつもりであるが、その技芸の規則を私は格率と呼びたいと思う。格率とは、それを正しく適用することが、技芸の一部となる規則である。ゴルフや詩の真の格率は、ゴルフや詩に関しての私たちの洞察を深めてくれるし、ゴルフや詩を実践する人びとにも価値のある導きとすらなるかもしれない。しかし、こういった格率をゴルファーの技能や詩人の技芸に代替させようとするなら、これらはすぐに不条理として自らの価値を貶めてしまうだろう。格率は、技芸について既にかなり知っていない者には理解されないし、ましてや適用されることもない。格率が興味深いものになるのは、私たちが技芸を正しく理解するからであり、格率そのものがその理解と代替可能であるとか、その理解を確定するなどということはない。私が科学的に導き出した格率を、別の人間は彼なりの帰納推論のために使って、私とは全く異なる結論に到達するかもしれない。この否定しようがない曖昧さのゆえに、格率は、私が既に述べたように、個人的判断の枠組みの中でしか機能できないのだ。もし私たちが個人的知識の重要性を認識するならば、私たちは個人的に知る限りにおいて有用である規則があるという事実に向き合うことができるし、そのような規則はそういった行為の一部としてにおいていかに役立つかということを実感することができるだろう。
In the chapter on skills (Part One, Ch. 4) I shall have more to say about the curious nature of rules of art, which I should like to call maxims. Maxims are rules, the correct application of which is part of the art which they govern. The true maxims of golfing or of poetry increase our insight into golfing or poetry and may even give valuable guidance to golfers and poets; but these maxims would instantly condemn themselves to absurdity if they tried to replace the golfer's skill or the poet's art. Maxims cannot be understood, still less applied by anyone not already possessing a good practical knowledge of the art. They derive their interest from our appreciation of the art and cannot themselves either replace or establish that appreciation. Another person may use my scientific maxims for the guidance of his inductive inference and yet come to quite different conclusions. It is owing to this manifest ambiguity that maxims can function only ---- as I have said ---- within a framework of personal judgment. Once we have accepted our commitment to personal knowledge, we can also face up to the fact that there exist rules which are useful only within the operation of our personal knowing, and can realize also how useful they can be as part of such acts. (Polanyi, 1962, p31)

ここで「個人的判断」と表現されたのは、その行為者(以下、実践者)にも把握されていない規則群に関する認識ともいえる。

この探究を行なうための手がかりとして、私はよく知られた事実を使おう。熟練したパフォーマンスの狙いは、その規則に従っている人に、自分が従っているとは知られていない一連の規則に従っていることによって達成されるのだ。
I shall take as my clue for this investigation the well-known fact that the aim of a skilful performance is achieved by the observance of a set of rules which are not known as such to the person following them. (Polanyi, 1962, 49)

 実践者は、ある格率に従う場合、実は自ら自覚しないままにある一連の規則に従っている、逆に言うなら、自分がある一連の規則に従っていることを無意識に感知した時にはじめて実践者はある格率に従うことを選ぶ。これが「個人的判断」であり、格率が技能・技芸に既にある程度習熟している者にしか理解も使用もされない理由である。
 しかし実践者が自覚できない一連の規則も、別に神秘的な規則ではなく、そのどれかに実践者が焦点をあわせれば、彼/彼女とてその規則に気づくことはできる。しかしこういった焦点的気づき(focal awareness)は、通常、人間は一時に一つしか持てず、その他の気づきは従属的気づき(subsidiary awareness)として無自覚・無意識に感知されるに過ぎない。もしある実践者が格率に意識的に従いながら(つまりは自らの認知的焦点をその格率に置きながら)、その際に普段は無意識に行なっていること(つまりは従属的にしか感知していないこと)にも意識的な焦点を置こうとするなら、彼/彼女の技能は麻痺し、十全な遂行は阻害されるだろう。個人的判断の材料となる、無自覚な一連の規則を「語りえない」とするのは、それらが全く語りえないというのではなく、それらを技能遂行の際に語ろうとすると、そもそもの技能が破壊されるということで、「適切には語りえない」ということである。

私には私が語り得ない知識があると主張することは、私がそれに関してしゃべることができることを否定するのではなく、私がこの知識について的確にしゃべることができるということを否定するものである。この主張そのものが、私が知っていることを的確にしゃべることができないことがあるということの評定である。
To assert that I have knowledge which is ineffable is not to deny that I can speak of it, but only that I can speak of it adequately, the assertion itself being an appraisal of this inadequacy. (Polanyi 1962, 84)

 技能の言語表現である格率が、技能を導き出すのに有効なのは、その格率だけに注意を払うのではなく、その格率に焦点を置きながらも、その他の事柄を従属的に感知しつつ、あくまでも、格率に従うのではなく、技能を成功させることを目指す限りにおいてである。実践者にとっては未知の技能獲得の状態を追求する中で、その格率を、その他の自覚的には感知できない事柄と溶け合わせることによって、初めてその格率は働く。格率は技能の手がかりでありほんの一部分であるに過ぎない。

未知のものを見よ!」、とポーリァは言う。「最終目的を見よ。狙いを思い起こせ。何が求められているのかを見失うな。自分がそのために働いているものを心に思い浮かべよ。未知のものを見よ。結論を見よ」これ以上に強調すべき助言はない。未知のものを見よという説諭が本当に意味することは、私たちは知られているデータを見るべきだが、データ自体を見るべきではなく、未知のものへの手がかりとして見るべきだということである。すなわち、未知のものへの指針として、あるいは未知のものの部分として見るべきだということだ。これらの知られている特定のものが、知られていないものと互いにそして共に存在している様態の理解へと私たちは、絶えず感覚を研ぎ澄ませるべきである。こういった暗示的理解によって私たちは、未知のものが本当にそこにあり、それは本質的にはそれについて知られていることにより規定されており、さらにそれは、問題によって課せられた課題をもすべて満たすことができるということを確信するのである。
'Look at the unknown! ---- says Polya---- 'Look at the end. Remember your aim. Do not lose sight of what is required. Keep in mind what you are working for. Look at the unknown. Look at the conclusion. No advice could be more emphatic. (...) The admonition to look at the unknown really means that we should look at the known data, but not in themselves, rather as clues to the unknown; as pointers to it and parts of it. We should strive persistently to feel our way towards an understanding of the manner in which these known particulars hang together, both mutually and with the unknown. By such intimations do we make sure that the unknown is really there, essentially determined by what is known about it, and able to satisfy all the demands made on it by the problem. (Polanyi 1962, p.118)

格率は、技能に統合されることによって有益なものとなる。格率と技能は等価ではない。技能は、格率には含まれない部分を常にもつ。技能の全てを格率化できるということは、少なくとも一定の有限の認知能力しか持たない人間には望むべき事柄ではない。

実際、私たちが、ある技能パフォーマンスを、見ることであれ、自分自身やってみることであれ、自分自身で経験しないうちに、その技能の前提が、パフォーマンスに先んじて焦点的に発見されることはないし、また他人に明示的に述べられたとしても理解すらされることはないだろう。ある技能を遂行するとき、私たちはある種の前提に基づいて行為しているのだが、私たちはその前提を焦点的には知りえていず、その技能修得の一部として従属的にのみ知っているのである。その前提は、私たちが問題になっている技能をどのように成功を達成するか(あるいは私たちが信じている成功を達成するか)を分析することにより、焦点的に知ることができるようになるかもしれない。私たちが引き出す成功の規則は、私たちの技能を高め、その技能を他人に教えることに役立つ----しかしそれはこれらの原則が最初に、格率の元である技芸に再統合されての話である。というのも、どんな技芸も明示的な規則に従っては実行されないのだが、そのような規則は熟練したパフォーマンスの文脈の中で従属的に従われれば技芸にとっての大きな助けとなりうるからである。
Indeed, the premises of a skill cannot be discovered focally prior to its performance, nor even understood if explicitly stated by others, before we ourselves have experienced its performance, whether by watching it or by engaging in it ourselves. In performing a skill we are therefore acting on certain premises of which we are focally ignorant, but which we know subsidiarily as part of our mastery of that skill, and which we may get to know focally by analysing the way we achieve success (or what we believe to be success) in the skill in question. The rules of success which we thus derive can help us to improve our skill and to teach it to others ---- but only if these principles are first re-integrated into the art of which they are the maxims. For though no art can be exercised according to its explicit rules, such rules can be of great assistance to an art if observed subsidiarily within the context of its skilful performance. (Polanyi 1962, 162)

技能の言語は、技能の一部であり、技能の全体性においてのみ命を得ていることを忘れては、私たちは言語と技能についてとんでもない間違いを犯すこととなる。

2.3 技能から言語へ

 今度は、技能から言語へという方向で重要な考察をしている、光岡英稔と甲野善紀の技能論をまとめたい。光岡と甲野は共に現代の武術家であるが、各種の先入見にこだわらずに身体技能を探究している実践的研究者として捉えることができる。また甲野は、身体技能から見た科学の限界についても様々な考察をしているが、今回は現時点での甲野の最新刊である光岡との共著に限って、彼らの技能論を整理することにする(注:同書は対談本であり、発言はもちろん一人一人によるものであるが、ここではどの発言も二人によって生み出されたものだと考え、光岡と甲野の発言を分けることなく、すべて「光岡・甲野」の発言として取り扱う)。
 武術だけでなく多くの技能は、ある形(あるいは型)を真似ることから技能習得を目指す。しかしこの時、私たちは「形同実異」と「形異実同」に気をつけなければならないと光岡・甲野は言う。形同実異とは、学習者が表面上は先人と同じこと(=形)をやっているように見えて、実際は全く違うことをやってしまっていることである。外見は似ているが、その技能の目指すべき効果を全く失ってしまっている状態である。したがって形だけに注意を払うのではなく、「感覚」を働かせ、その「形」が、先人のやろうとしていることと同じような効果を持ちえているのかを絶えず検討することが必要と光岡・甲野は述べる(先ほどのポラニーの用語で語るなら、形に焦点を当てるあまり、その際に必要な従属的気づき、および技能の全体性を見失うことをしてはならないである)。しかしこのように感覚に頼ろうとしても、人間は自分に都合のよい感覚だけを取り込もうとする傾向があるので、感覚に頼りすぎることも戒めなくてはならず、私たちは再び「形」に戻る必要がある。しかし一方で「形異実同」もある。形が異なっていても実質上は同じことを行なっている場合もあるからである。したがって形を完全に信用することもできず、私たちの認識は「永遠にループ」する。形だけでは間違うから感覚を頼りにする。しかし感覚も誤りうるから形に頼る。しかし形に頼ると、違う形での同じ効果を見失ってしまうから、感覚に頼る。しかし感覚も・・・・というわけである。
 こうしてみると技能の習得とは、何か一つの形の習得ではないということが明らかになってくる。一つの形を通じて、感覚の働かせ方を学びながら、当意即妙に様々な行為を生み出してゆくことが技能習得の正体のように思えてくる。光岡・甲野は、「能力」とは、そのような創造的な生成であり、固定的な形の習得ではないと語る。彼らは「能力」を「言ってみれば測ることのできない無限のもので、百人いれば百人とも違うもの」とも表現する。「測れない」とは、測っても、それは単一の物差し(基準)による測定に過ぎず、「能力」の無限定的で柔軟な創造性は、そういった単一の視点では捉えきれないということを意味する。このあたりは、ポラニーの「技能は語りえない」を思い起こさせる。技能を語りつくそうとすれば、技能が破壊されてしまうように、能力を測りつくそうとすれば、能力が固定的に捉えられてしまい、能力の根幹と光岡・甲野が考える創造性が否定されてしまう。
 そもそも形からの学習(学び・真似び)が目指しているのは、固定的な「標準行為」の習得ではなく、創造的な「典型行為」の習得であると光岡・甲野は説く。「標準行為」と「典型行為」は共に光岡・甲野の用語であり、「標準行為」の習得とは、「各人各様の能力の形をある標準的な形に当てはめてしまうこと」(光岡・甲野 2006, 87ページ)である。これは形を強調するあまり、技能・能力の創造性を否定してしまうことである。それに対して「典型行為」とは、「自分がある行動を行なうとき、その特性や個性がそのまま表現され、空間的、時間的、構造的に最も適した状態が自然と現れた行為のこと」(光岡・甲野 2006, 87ページ)であり、その「典型行為」には「普遍性と特殊性が同時に存在している」(光岡・甲野 2006, 88ページ)とも光岡・甲野は語る。形から技能を学び、能力開発に到るとは、形を固定化し、「標準行為」を数多く覚えることではなくて、形を通じて、その時々の「典型行為」がいくらでも生成できるように、感覚を磨きながら身体の可能性を広げることなのである。
 このような技能習得・能力開発をするために、どのように私たちは、意識、ひいては言語を使うことができるのだろうか。そもそも技能や能力のために意識や言語は有用なのだろうか。光岡・甲野はこの点で、「確認」、「体認」、「認知」という言葉に独自の意味を込めて、意識や言語の活用についてまとめている。
 最初の「確認」とは、光岡・甲野が否定的に捉える行為である。「確認」とは、「自分の中にすでにある認識で、目の前の現実や相手の言うことを、自分の認識パターンに無理に当てはめようとすること」(光岡・甲野 2006, 119ページ)である。環境を軽視あるいは無視して、「自分の中で正しいと思い込んでいるものを、また正しいとすること」(光岡・甲野 2006, 119ページ)とも説明されている。「確認」の言語化は、「典型行為」の認識や「能力」の開発にはつながらず、可能性にあふれた「能力」を、固定的な「標準行為」に変形してしまう言語使用だといえる。言うまでもなく私たちはこのような言語使用は控えなくてはならない。
 「体認」とは光岡・甲野が最も重要と考える行為であり、彼らはこれを「自分が行動するときにその行動によってもたらせるすべての情報に対して、意識によって是非善悪を決めず、取捨選択をせず、ありのままを認識すること」(光岡・甲野 2006, 119ページ)と定義している。「全体的な把握」であり、「何か特定のものを認識するわけではありません」、「何かよく分からない掴みどころのないものを、そのままに把握する」(光岡・甲野 2006, 60-61ページ)というのも光岡・甲野の説明である。したがってこの「体認」の言語化は非常に困難なものである。だが、このことは、「体認」が認識不可能な行為であることを示さない。この困難の中で、「体認」についての理解を深め、その理解を少しでも理解しようとすることは、光岡も甲野も行なっていることである。この「体認」の理解の試みを彼らは「認知」と呼ぶ。「認知」とは「体認」の後に考え理解を深めようとすることであり、決して「体認」や行為の前や最中に考えることではない。光岡・甲野は行為している時には考えてはならないが、行為のあとには考えなければならないとも言う(光岡・甲野 2006, 186ページ)。(注:このあたりはDonald SchonがReflective Practitionerで報告している実践家のreflectionのあり方と重なる)。
 技能から言語への流れで考えるならば、ここでも技能の全体性は明らかであり、言語は技能を振り返ることにより、ようやく、なんとか紡ぎ出されるものであるに過ぎない。しかし言語は、人間が思考しコミュニケーションをするためのおそらく最良の手段であり、その言語使用は、技能の「体認」を深めることに役立つ。だが言語を不用意に使うなら、それは技能の可能性を、既知の固定的な例に(「標準行為」)に縮減してしまうことにもつながる。言語は、技能を理解しあう者同士が、それぞれに自らの感覚を探りながら、技能行為を振り返りながら、注意深く使用される限りにおいて、技能習得や能力開発のために役立ちうるとまとめられるだろう。

2.4 技能の言語の矛盾性

 こうしてみると、言語と技能の関係は、決して言語が技能を作り出すとかいった、単純な関係ではなく、言語は技能の中に統合されて、初めて意味を成すものであり、それは技能を理解する者同士でのみ通じ合うものである、といったことがわかる。しかも、言語が技能についての何らかの解明をするにしても、その解明は一面的なものであり、それは私たちが従属的にしか気づけないこと、あるいは「感覚」でしか気づけないことを表現していない。もしその表現されていないことを私たちが表現しようとすれば、今度はその焦点から外れた事柄が表現されないようになる。どの角度から言語表現しても、表現できない事柄は残る。言語表現は、表現できない事柄の条件に依存するのであるから、ある技能も、どの視点を取るかで、つまりはどのようなことを無言の前提とするかによって言語表現が異なってくるわけであり、同じ技能についても、表面上矛盾するような複数の言語化(格率)が現れうる。それらは言葉面だけを取ると矛盾であるが、それらが前提としている語り得ない事柄を勘案にいれるなら、実質的な矛盾はない。
 ということは、逆に、技能のある言語表現だけを取り出して、それを金科玉条のように、どのような条件においても守られる規則・法則として扱うならば、それは決定的な間違いである。マニュアル墨守主義は誤りということである。科学的な一般法則は、その前提条件と適用限界を明らかにし、例外条件も明示しようとするが、科学的な装いをもって「技能の法則」のように提示されただけの言明は、しばしば、前提や限界や例外への関心も欠いたまま、一般性をもった主張として提示されることは、英語教育研究でもしばしば観察されることである(「被験者は英語上級学習者」といった一連の「中立的な」表現がその例にあたる)。そういった現況からすると、光岡・甲野が紹介する、次の警句を私たちは深くかみしめなければならない。

「具体的なもの、単一的なもの、標準的なもの、それらはすべて間違いである」(光岡・甲野 2006, 63ページ)

技能に関して、格率・規則・法則などの形で表現された言語は、一面的なものに過ぎず、それを絶対的なものと少しでも錯誤した瞬間私たちは決定的な間違いを犯す。私たちが、具体的に、単一のものとして、物事の諸連関から切り離して認識したもの、あるいは、私たちが物事の変幻性を捨象して標準的なものとして認識したもの、これはらすべて物事の全体性から切り離された認識であるから、それを絶対的な認識と誤解して、それのみに依拠すれば、私たちは必ず間違いを犯す。短く言うなら、具体的なもの、単一的なもの、標準的なものを全面的な真理と捉えるなら私たちは必定的に誤るのである。
 こういった技能の言語の限界は、ある師がその弟子に言い放った、次のような警句によっても表現される。

「私の言ったとおりにすれば間違いだ。しかし言うとおりにしなければもっと間違いだ」(光岡・甲野 2006, 164ページ)

格率を墨守しようとするのは愚かであるが、格率を無視するのは、一層愚かであるということである。先に「マニュアル墨守主義は誤りである」と書いたが、その文には「しかしマニュアルを否定することも誤りである」といった文が続けられなければならない。
 この技能の言語の矛盾性はポラニーによっても認識されている。彼によれば、真に言葉を使いこなす者は、自らの言語が、異なるものを同じと言い放つ矛盾表現としての比喩のようなものであることを自覚し、次々に表面上は矛盾するようなことは言いながらも、全体的な統合性は常に保つのである。

'The true artists of speech', writes Vossler, 'remain always conscious of the metaphorical character of language. They go on correcting and supplementing one metaphor by another, allowing their words to contradict each other and attending only to the unity and certainty of their thought. (Polanyi 1962, p.94)

私たちはこういった技能と言語の関係、技能の言語の特徴を踏まえた上で、自らの技能について語るインタビューを解釈しなければならない。技能は言語では表現しつくせない。言語から技能を導き出すためには、技能の全体的な理解が必要である。しかし、技能の言語化は、たとえそれが技能の一部に関するものであるとしても、注意深く行なわれれば、それは実践者の技能理解を深めうる。言語を持つ人間としては、技能の言語化を諦めず、それを注意深く行ない、注意深く読み解いてゆくことが賢明な選択であろう。次節ではそういった点から導かれるインタビュー研究での具体的な留意点をまとめる。


3 技能に関するインタビュー研究における留意点

 今までの論考を受けて、以下、四点にわたって、インタビュー研究における留意点をまとめておきたい。五つのポイントとは、(a)瞬時の想像的解釈者としてのインタビュアー、(b)体認の言語化のためのインタビュー、(c)避けるべきインタビューの「マニュアル化」、(d)臨床的研究の必要性、である。

(a)瞬時の想像的解釈者としてのインタビュアー
 第一のポイントは、インタビュアーは瞬時の想像的解釈者でなくてはならない、ということである。インタビューにおいて、実践者は自らの実践を語るわけであるが、実践者が語りなれている場合は、格率の形で、実践者は私たちに技能の言語を告げる。しかし、これはせいぜい、実践者の焦点的気づきを言語化したものであり、それは実践者の従属的気づきに統合されて始めて有意味なものになるものであった。実践者は、自分が投げ込まれた状況の全体性を感覚的に把握し、その中で個人的判断を働かせて、ある技能を遂行する。その個人的判断が技能遂行の基盤なのである。
 しかし、とりあえず実践者の語りや格率しか聞くことができないインタビュアーは、その言語化された表現から、言語化されていない実践者の従属的気づきを想像しなければならない。基本的にその想像は、インタビュー中に行なわれるから、インタビュアーはインタビューの瞬間ごとに実践者の実践を想像してゆかなければならない。このためには、可能な限り、インタビュアーは、実践者の技能を自ら実践している必要がある。最低限、インタビュアーはその技能に関して、長年の良き観察者であり、実践者の実践感覚が、推測的にでも想像できるぐらいの実践理解をしていなければならない。
 そうして実践者の語りや格率を瞬時に解釈して、その基盤を想像し、その想像に基づいて、インタビュアーは、実践者の従属的気づきを言語化するように努めなければならない。これが瞬時の想像的解釈者としてのインタビュアーとしての仕事の一つである。こういった問いかけにより、実践者も従属的には気づいていても、非自覚的であった事柄を思い起こすことができる。その想像が当たっていても、外れていても、インタビュアーおよびインタビューの読者は、技能の個人的基盤についての理解を深めることができる。問いかけが、見事に実践者の個人的判断の基盤を掘り起こした場合は、その解明は、インタビュアーとインタビュー読者だけでなく、実践者自身の実践理解を深め、それ以降の実践者の語りの表現をより適格なものにするだろう。こうした問いかけによる解明が、インタビューの醍醐味であり、そこでは関与者すべてが受益者となる。
 英語教育研究におけるインタビューにおいても、インタビュアーは、英語習得や英語授業といった技能・実践に関して、できるだけ深い理解をもっていなければならない。実際、発表者も、あるインタビューの深い意味を、発表者が二十年ぶりに第二外国語としてのドイツ語学習を再開して得心する経験をした。この発表者の場合は、インタビューの後にドイツ語学習再開を行なったので、気づきは当然、インタビュー後のこととなったが、実践者が語っていた、英語教育における、英語が話せない生徒に対する教師の心理的配慮が重要であること、教師-学習者間のコミュニケーション回路を常に開いてそれに生徒を招きいれようとするが必要であること、基礎的文法・語法事項がレファレンス資料としていつでも通覧できるようになっていること、英語をできるだけ教室言語化としておくことが学習と定着を促進させることなどは、自分がドイツ語学習者として不安と無知の中で、教室で時間を過ごすにつれ、それらの深い意味がまざまざと実感されてきた。これらの経験と自覚が、インタビュー時に発表者にあれば、インタビューももっと有意義な展開ができ、解明も進んだはずである。こうしてみると、インタビュアーは、常に、当該技能・実践に関して経験を深め、なおかつその経験を、自分自身で言語化するように努めていなければならない。自らの技能・実践の言語化もおぼつかない者が、他人の技能・実践の瞬時の想像的解釈者およびその言語表現者になれるとは思えないからである。インタビュアーは、そのような自己訓練を重ねた上に、実践者の言葉の裏側・そして奥を瞬間に読み取り、それを問いかけの形で、技能・実践の協働解明を図らなければならない。

(b)体認の言語化のためのインタビュー
 実践者が自らのことに関して語りなれていない場合、実践者の言葉は、格率のように整理されず、訥々と語られるだろう。これは、感覚的な実践の「体認」を言語化しようとすることであるから、無理のないことであり、インタビュアーはその場合、辛抱強く体認の言語化を援助しなくてはならない。辛抱強くというのは、インタビュアーが安直に凡庸な言葉を投げかけてしまえば、実践者は「まあ、そんなところです」といったように、自己探究から常套句的理解に逃げてしまうかもしれないからである。あるいは実践者は、インタビュアーを、平板な理解ばかりに自分を誘導しようとする者と見なすかもしれない。その場合下手をすれば、実践者はインタビューへの熱意を失ってしまうであろう。
 仮に実践者が、一見関係のないように思えるエピソードを語り始めたとしても、インタビュアーは性急に「話を戻して」しまってはいけない。そのエピソードこそが、技能・実践の際の「個人的判断」の土壌かもしれないからである。実践者は「物語」の形で、技能・実践を語ろうとしているのかもしれない。物語モードこそは、日常的な語りだからである。この点で、インタビュアーは物語という語りの形式についてきちんとした理解をもっておく必要がある(注:物語に関する考察は、今回は割愛し、後日改めて論考する)。
 また、この体認の言語化が困難であることから、インタビュー記録においては、言葉になろうとしてなりきれない様子や表情も重要な情報として残されるべきということになる。語りの書き起こしにおいては、語りを標準語化・書き言葉化すること(「ケバ取り」)がしばしば行なわれているが、技能に関する言語化のインタビューにおいては、このケバ取りは逆効果になるかもしれない。インタビューはベタに文字化されるべきだろうし、可能な限りビデオ撮影もし、実践者の語りの様子や表情を後に何度も参照できるようにしておくべきであろう。語られ方を無視して、語られた言葉の字面だけを捉えて、言葉を標準化することや、言葉から言葉を引き出して、既成の物言いに改変してしまうことは断じて避けなければならない。

(c)避けるべきインタビューの「マニュアル化」
 実践者が格率の形で整理して語るにせよ、体認を言語化しようとして訥々と、あるいは迂遠にも思える物語形式で語るにせよ、インタビュアーが避けなくてはならないことは、インタビューを単なる「確認」の儀式にすること、つまり、偉大な実践を凡庸な常套句的理解へと変形することである。そのような「確認」は、娯楽商業誌のインタビューのように、「つまり○○が大切だということですね」と、解明でなく、解明の停止を促進する。そして、格率の語りを、「標準的行為」のマニュアルへとさらに変形してしまう。そうして安直にマニュアル化されたインタビューに関しては、極言にも思える警句である「具体的なもの、単一的なもの、標準的なもの、それらはすべて間違いである」がふさわしいことは前に論じたとおりである。
 マニュアル化を避けるためには(a)で見てきたように、実践者の個人的判断の基盤を想像的解釈によって協働解明し、さらに(b)で見てきたように、未整理な語りを大切にすることが必要だが、ここではさらに、矛盾表現も大切にする、ということを付け加えておきたい。実践者の語りには、表面的な矛盾が珍しいことも先に述べた通りである。それは語りの視点・焦点の置き方の違いにより生じるものであるから、それらの矛盾を抹殺しようとしてはいけない。「Aなのか、Aでないのか」と性急に結論を出そうとすることは、技能・実践の解明を止めることになりかねない。インタビュアーは実践者のいわば「仮想的弟子」として、実践者の言葉の意味合いを、その言葉に対してできるだけ忠実な態度を保ちながら、できるだけ想像的に解釈し、「矛盾を矛盾なく説明する」ことに努めなければならない。
 このように技能・実践が単純化されず、少なくとも表面的な矛盾が残ってしまうことは、技能・実践とは、上で論じてきたような意味での「能力」の発露であることからすれば当然ともいえる。ここでいう「能力」とは、無限定的で柔軟な創造性であり、「標準行為」を繰り返すのではなく、その時々の状況に応じた「典型行為」を生み出す力であった。この「能力」においては、形ばかりを似せようとした「形同実異」は避けられ、むしろ形は異なれども、きちんと目的を達する「形異実同」の方が勧められる。ここでは「Aをするべきであり、Bをするべきでもある(Aをするべきではない)」といった表面的な矛盾が生じる。表面的な矛盾は、標準的なマニュアル作成からは避けられるべきであるが、実践の理解においては避けることのできないことである。
 発表者は、優れた実践者が講師となるワークショップにしばしば参加するが、そういった場合、参加者である実践者が、講師に「○○の時にはどうすればいいのですか」と、実践状況の説明をほとんどせずに、また自分がどんな技能を持ったどのような人間であるかにも全くといっていいほど関心を払わずに質問をする場面によく出会う。ここでは「○○の時には、××せよ」といったマニュアル的な「正解」が期待されているわけである。そういった場合、講師は、やや困惑しながらも回答を出すわけであるが、質問者は往々にして、その回答を鵜呑みにして、「○○の時には、××せよ」という格率ばかりに気を留める。自分の教室に帰った質問者はその格率で何回かの成功は収めるかもしれないが、その格率を支える個人的判断を欠いて機械的にその格率を実行しようとするため、たいていの場合は、多くの失敗を重ねるようになり、「あの講師の先生の言うことは役に立たない」と他責的になるか、「やっぱり自分は何をやっても駄目なんだ」と自罰的になる。言うまでもなく、他責的な態度も、自罰的な態度も、自らの成長の可能性を否定する態度である。だが残念なことに、こういったマニュアル的思考は英語教育界ではしばしば見られるものである。そういった中では、インタビューをマニュアルとして書こうとする傾向、インタビューをマニュアルとして読もうとする傾向がはびこりがちである。私たちはこのような怠惰な思考に抗して、技能と言語の関係を適切に理解しながら、インタビューを行い、読み解かなければならない。

(e)臨床的研究の必要性
 このように、一筋縄ではゆかない技能のインタビュー研究ではあるが、これからの英語教育の発展のためには、こうした技能・実践の言語化は必要であろう。優れた実践者の「体認」を、他の実践者に直接伝えることはできない。だからといってそこですべての試みを放棄することは愚かであり、私たちは人間にとっておそらく最高の思考・コミュニケーション手段である言語を、その限界まで最大限に活用し、優れた実践者の「体認」を、私たちもできるだけ理解しやすいようにする必要がある。以下は、筆者のインタビュー研究において、ある優れた実践者が語った言葉である。「語り」として、ケバ取りをしないままに引用する。

いや、やっぱり僕は大学改革が必要だと思いますよ、特に教育学部。教育学部、いまから教員を育てるには、今は50パーセントしかできていないと思うのですよ、大学のやっていることが。何かというと、英語教授法を教えているんだけども、それから心理学の線もあるんだけど、心理学というのはわりと学問的すぎて、実際的ではない。その意味で、それこそ現職教員が事例報告、あるいはこういうときは生徒はこういうことを考えていますよということ、体験的なことを大学の中にお伝えして、それを大学の先生方が分析されながら、かみ砕いて、学生さんに教えていくという、その現職教員と大学の先生方の交流が少ないので、ここらへんの臨床的な情報を大学の先生に入れて、大学の先生が、われわれは肌で感じていることが多いので、それをしっかりとかみ砕いてもらって、学生さんに伝えてもらう。それができていないから、英語とか技術を教えることも50パーセントはできているけども、そこらへんの、例えば研修会で、いろんなスキルを習って、授業でやってみたらうまくいかなかった。やっぱりそこのあいだが切れている先生方の特徴だと思うんですね。あの先生がうまくいったから、自分がうまくいくとは限らないというのがやっぱり子どもたちが違うから、子どもたちがいま、この子たちはそういう状況ではないだとか、受け入れる状況だなと、そういう判断をやっぱりやっていかないといけないから、それをいまから大学でどうして現場とつないでいくか。

 まさに筆者は、光岡・甲野が警戒した「確認」を怖れながら、この引用をまとめなければならないが、これからの英語教育の発展のためには、現場英語教師は「肌で感じていること」をできるだけ大学研究者に伝えて、大学研究者は、それを現場経験のない学生あるいは新人教師にも「噛み砕いて」伝え、そういった人たちも、できるだけ、「この場合は教えられたとおりにやっていいのか」という個人的な「判断」ができるようにしなければならない。こうして現場の実践者と、現場を理解する研究者、そして他の現場で働く、研究論文の読者である実践者がつながれば英語教育の発展も見込めるだろう。技能の言語化というインタビューの問題を英語教育関係者が適格に理解しておくことは、英語教育の発展のためには欠くべからざることである。

参考文献はここでは省略します。




2006/6/21掲載:発表要綱に掲載予定の資料


英語教師へのインタビュー研究に関する予備的理論考察

柳瀬陽介(広島大学)

キーワード:質的研究、インタビュー、物語


1.はじめに

本発表の目的は、英語教師へのインタビュー研究の遂行と受容において、英語教育学界が理解しておくべき論点を、現在進行中の二つのインタビュー研究の経験を基にしながら、理論的に整理することである。現在インタビュー研究を中で、発表者は以下の三点の問題意識を持つようになった。
(1)技能について:インタビューで得られる言語とは、あくまでも技能(英語授業、あるいは英語習得)に関する言語であり、そこでは技能と言語の関係に関する理解が必要である。
(2)物語について:インタビューの語りは往々にして物語の形を取るのであり、その物語理解を科学的論証の理解と混同しないことが必要である。
(3)専門性について:インタビューは実践者の全てに関わりうるものであり、関心を狭義の「英語教育学的観点」だけに閉じ込めることは、かえってインタビューの英語教育学性を損ねる怖れがある。
この発表では、(1)の技能についてはマイケル・ポラニー、(2)の物語についてはジェローム・ブルーナー、(3)の専門性については佐藤学の論考を主に参考にしながら、発表者が進めている実際のインタビュー研究に基づき質的研究のあり方についてできるだけ具体的に論点を解明することを試みる。


2.技能について

2.1 ポラニーによる技能と言語の理論的考察

(a)科学的技能観:精密科学の考えが目指すのは、形式的に表現され実証的に検定された正確な規則によって人間の経験を完全に知的にコントロールすることである。そこでは人間は人格的判断(personal judgment)から解放されることが目指されている(Polanyi 1962, p. 18)。しかし科学性において第二言語教育よりもはるかに進んでいる医療においても、科学としての「医学」は、「数字で扱える『平均的仮想人間』を想定することによって、実際の個人を扱うためのひとつの基準や参考としている」(清水 2006, p. 56)だけであり、個別ケースへの対応は実践者の感覚を重視した「医術」が必要であるとも主張されている。
(b)技能(技芸)の言語としての「格率」:技能(skill)あるいは技芸(art)を行なう場合には、従うべきmaxim(カント、グライスの流れをくむ用語として「格率」(=「各人の採用する主観的な行為の規則」『大辞林 第二版』)と訳す)がしばしば語られる(日常語でいうなら「コツ」にあたる)。格率は技能・技芸遂行に洞察を与えてくれるが、格率を技能・技芸と置き換えることはできない。格率は技能・技芸に既にある程度習熟している者にしか理解もされないし、ましてや適切に適用されることもない。格率の適用には人格的判断が必要である(Polanyi 1962, p. 31, p. 162)。
(c)技能の人格性:「人格的」(personal)というのはポラニーの用語であり、彼はこの用語を、「主観的」と「客観的」の分裂を超越する言葉として使っている。つまり私たちの判断や行為や知識は、それらを正しく行なおう(持とう)とする個人的な情熱に導かれているという点では主観的であるが、その際に自らを超え、自らとは独立した諸条件に身を委ねるという点では客観的でもある。「人格的」とは、このように同時に主観的でもあり、客観的でもあるような私たちの知を形容する言葉である(ibid, p. 283)。したがって、本論文での「人格性」という言葉は、通常用法のような「有徳性」や「道徳性」を含意するものでは必ずしもない。
(d)実践者の言語と自己投出:格率(あるいはコツ)は、実践者の言葉として人格的なものであり、実践者のよりよい実践への情熱(主観性)と、実践時の諸条件(客観性)により支えられている。情熱は、実践者がその格率の言語表現に実践の成功を賭けていることにより表されている。これは自己投出(commitment)とも表現される(ibid, p. 61)。また格率が実践の外的諸条件に支配を受けていることからは、他人が格率を聞く場合に、その格率の言語表現だけに注目することは誤りであることが導かれる。格率を聞く者は、当該実践に理解を示しながら、格率の言語表現を通じて、その実践そのものを見なければならない。これが実践者の自己投出を経て表現された格率が私たちに要求することである(ibid, p. 116)。
(e)格率に表現されない技能の側面:技能とは、実践者が全ては掌握できない、つまり実践者にとっては無自覚な一連の規則に従うことによって達成されている(Polanyi 1962, p. 49)。私たちが格率(コツ)と呼んでいる規則は、私たちが従っている規則のごく一部である(私たちは自らが従っている規則を全て自覚できるほどの認知的能力は持ち合わせていない)。ポラニーは定義(格率や規則も一種の定義である)に関しても、定義は常に定義されていない理解に依拠していると述べている(ibid, p. 49)。これは「<規則に従う>ということは一つの実践である」というウィトゲンシュタインの哲学とも呼応する(ウィトゲンシュタイン 1976, p. 163)。技能習得とは、格率の暗記だけには決して還元できない。
(f)技能伝承・技能習得とは:技能は、時折、格率表現に助けられながらも、基本的には師匠(master)の例示によって学ぶ(learn by examples)。技能を習得しようとする者は、師匠の例を観察しそれに倣いながら、無意識に一連の規則を学ぶ。その無意識に学ぶ規則の中には、師匠すら自覚していないものもある(Polanyi 1962, p. 53)。技能の言語表現である格率は、技能実践への理解と共になって初めて適切に適用されうる。

2.2 技能と言語に関するインタビュー研究の具体的な注意点
(a)語りの根源を理解する:インタビューの語りは、英語授業という技能・技芸に関する言語なのであるから、その根源にある実践をインタビュアーは絶えず理解しようとしながら語りを聞かなければならない。これには日頃からインタビュアーが英語授業を観察するとか自ら実践しておくことが重要である。実際、発表者も、あるインタビューの深い意味を、発表者が二十年ぶりに第二外国語としてのドイツ語学習を再開して得心する経験をした(教師の心理的配慮、教師-学習者間のコミュニケーション回路、レファレンス資料の通覧性、目標言語の教室言語化の重要性など)。ある意味、インタビュアーの技能・技芸理解の力量に応じて、インタビューの語りは意義をもたらすとすらもいえる。このことからするなら、インタビュアーは日頃から技能・技芸の観察・実践を積み重ねておく一方、インタビュー時には、インタビュイーのいわば「仮託的弟子」として、彼/彼女の言語の意味を、実践を想像しながら、出来るだけ引き出そうと努力しなければならない。
(b)語りの自己投出の動きを捉える:語りは実践者の実践理解の表現であると同時に、実践への情熱の表現である。このことからすれば、インタビュアーは、語られた内容だけでなく、語られた様子にも注目しなければならない。インタビュー書き起こしにおいては、語りを下手に標準語化・書き言葉化(「ケバ取り」)することには注意しなければならない。語り手は、真摯にインタビューに答える場合は、自らの自覚されていない感覚を言語化しようとすることもある。語られ方を無視して、語られた言葉の字面だけを捉えて、言葉を固定化することや、言葉から言葉を引き出して、既成の物言いに改変してしまうことは避けなければならない。
(c)語りの自己投出の扱いに気をつける:また実践者は、インタビュアーへの信頼度に応じて、実践をめぐる現実をできるだけ正直に語ろうとするため、プライベートなことや公開できないことを語ることもある(発表者もそのようなエピソードを数多く聞いた)。インタビュアーは研究公開において、インタビュイーの不利になることは絶対にしないことを確約し、そのためにあらゆる工夫と努力をすると共に、その信頼関係の中から、できるだけインタビューにおいては語り手の自己投出を表現してもらうようにしなければならない。
(d)インタビュー研究の人格性を自覚する:インタビューの語りは実践者の人格的な語りであるが、それをまとめるインタビュー研究は、研究者の人格的な理解と表現による語りであることを自覚しなければならない。研究者は彼/彼女の実践に関する主観に起因する情熱と客観に制約される現実把握が相互作用する限りにおいて、インタビュイーの語りを理解できるにすぎない。インタビュイーの人格性(語り手とは誰か)だけでなく、研究者の人格性(語りについて判断し選択しているこの自分とは誰か)を自覚し、それを表現しなければならない。


3. 物語について

3.1 ブルーナーによる論証と物語の対比

(a)論証と物語の関係:ブルーナーは、論証(argument)と物語(story)は相補的だが、どちらか片方には還元できない異なる認知機能(cognitive functioning)、二つの異なる自然種(natural kind)と規定している。
(b)論証:論証は、真理(truth)により人を説得するものであり(Bruner 1986, p. 11)、典型的には科学者の仕事である。したがって形式的・実証的証明の手続きに依拠し、テスト(検定)を必要とする(ibid, p. 14)。論証が呈示するのは、人間の意図や困窮などとは関係のない、文脈独立性(context independence)を有した普遍な世界であり、「存在」("existence")である(ibid, p. 50)。
(c)物語:物語は、実感(lifelikeness)あるいは迫真性(verisimilitude)により人を説得するものであり(ibid, p. 11)、人文学者(humanist)あるいは詩人(poet)の仕事(ibid, p.53)である。物語に、科学に要求される反証可能性(ポパー)などを求めるのは筋違いである(ibid, p.14)。物語は「仮定法化」(subjunctivize)に頼る。物語の典型としての文学を機能をブルーナーは次のようにまとめる。

芸術としての文学の機能とは、テキストが指し示しうるジレンマ、仮想上のもの、一連の可能世界に私たちを導くものであると私は論じようとしてきた。私は「仮定法化する」という用語を使ってきたが、それは世界を固定化、凡庸化から救い、再創造をしやすくするためである。文学は仮定法化し、異化し、当たり前のことをそうでなくし、知りえないものをそうでなくもし、価値に関する事柄をより理性と直感に開放するのである。文学とは、この精神において、自由、光、想像力、そしてもちろん理性の道具である。これは長く暗い夜の中での私たちの唯一の光である。(ibid, p.159)

物語は、文脈感受性(context sensitivity)でもって、見る者の立場やスタンスにより変容する世界(the world as it changes with the position and stance of the viewer)あるいは可能世界(possible world)を描き出す(ibid, p.50)

3.2 物語に関するインタビュー研究の具体的な注意点
(a)一般性に基づく適用を求めない:質的研究には、しばしば「これは一つの事例に過ぎず、一般性・普遍性を欠くものである」といった批判が浴びせられるが、こういった批判は、「すでに行動科学の土俵の上での議論」(鯨岡 2005, p. 45)である。インタビューで語られる物語を、読者は自らの想像力を使って「もし自分がその立場だったら」と「仮定法化」しながら、物語の迫真性を実感するのである。鯨岡は質的研究を「エピソード記述」と称した上で次のようにも言う。

いま議論しておきたいのは、私たちが可能的に他者の世界に開かれていること、それゆえ、他者の一つの体験の提示が、我が身にも起こり得る可能的真実であると受け止めることができること、逆に、エピソード記述はその読み手の開かれた可能性に訴えかけるものであることを認めることです。これによって、従来の再現可能性や検証可能性、あるいは信頼性といった、行動科学の枠組み内の認識論とは違う、エピソード記述の方法論に固有の認識論を構えることができます。(鯨岡 2005, p. 47)

私たちは、科学的論証を読むやり方でインタビューの物語を裁断してはならない。また物語を、理論を応用するように、安易に応用しようとする愚も犯してはならない。教師の仕事は、「応用」にとどまるものではなく、想像力と判断力を要する創造的なものであることを再認識する必要がある。
(b)語り手以外の人間の役割を自覚する:物語としてのインタビューを読むということにおいては、読み手に多くが要求される。そもそもインタビュー自体、語り手が一方的に語るものではなく、語り手がインタビュアーと協働的に物語を構築してゆくものである(桜井 2002)。物語の語り手と聞き手によって共同生成されるダイナミックなプロセスとして物語を語り直すことによって新しい意味が生成され、物語を語ることが、個人の物語を超えて、現世代から、次の世代や未来世代へのコミュニケーションとして、世代と世代、時代と時代をつなぐ働きを担う(やまだ 2000)ともいえる。私たちはインタビューの聞き手であり、インタビュー研究の書き手である研究者の存在を自覚させるような文体でインタビュー研究を行なわなければならない。


4. 専門性について

4.1 佐藤学が構想する授業研究のあり方

過度の専門化・科学化への警鐘:佐藤学(1992, p. 72)は次のように述べて、「教科教育研究」あるいは「授業研究」が必要以上の専門化・科学化を図ることが、授業の実体から目をそらすことになりかねないことに警鐘をならしている。
(a)授業の過程は、教師と子どもの文化的・社会的実践の過程であり、政治的、経済的、社会的、文化的、倫理的諸価値の複合的な実現である。
(b)授業の過程は、合理的技術の適用過程でなく、高次の省察と判断と選択を要求される意志決定の過程である。
(c)「教科教育の研究」は、複合的な教育問題の生起する対象領域を示す概念であり、まず、教師の実践的研究として成立する対象であり、次に、研究者においては、多様なディシプリンを基礎とする個別研究と共同研究として具体化される対象である。
(d)したがって、教育学研究としての授業の研究は、特定のスペシャリストの専有領域ではなく、すべての領域の研究者の総合研究の場である。

4.2 「英語教育学」を超えなければならない英語教育学
もし私たちの追求するものが、「英語教育学」という専門の確立ではなく、英語教育の現象の解明であり改善であるのなら、私たちは、従来、専門化と科学化に傾斜してきた「英語教育学」の枠組みからはみ出る事象も積極的に探究し、必要に応じて他の「専門」の研究者との協働も行なわなければならない。


5. 引用文献
Bruner, J. 1986 Actual minds, possible worlds. Harvard University Press. 田中一彦(訳) 1998 可能世界の心理 みすず書房
Polanyi, M. 1962 Personal knowledge. The University of Chicago Press. 長尾史郎(訳) 1985 個人的知識 ハーベスト社
ウィトゲンシュタイン 1976 哲学探究 大修館書店
鯨岡峻 2005 エピソード記述入門 東京大学出版会
桜井厚 2002 インタビューの社会学 ライフストーリーの聞き方 せりか書房
清水宣明 2006 斎の舞へ 仮立舎
佐藤学 1992 「パンドラの箱」を開く=「授業研究」批判 森田尚人・藤田英典・黒崎勲・片桐芳雄・佐藤学(編) 教育学年報1 教育研究の現在 世織書房 pp. 63-88.
やまだようこ(編) 2000 人生を物語る―生成のライフストーリー ミネルヴァ書房


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