『中国地区英語教育学会研究紀要』(2005), Number 30, pp.167-176

アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析

 
広島大学 柳瀬陽介
 


1 本論文の目的
 本論文では、DVD 6-way Street(菅 他 2003)に見られる、公立中学校でのスピーチ実践(田尻実践)を、ハンナ・アレント(Hannah Arendt, 1906-1975)が『人間の条件』(The Human Condition, 1958)で示した哲学的枠組みを通じて分析する1。この狙いは、田尻実践を、アレントのいう活動(action)として捉え、それが公立中学校という空間でどのような意義を持つのかを明らかにすることである。本論文の主張は、スピーチ実践は、学習者が「多種多様な人びとがいるという人間の多数性」を持つ公立中学校の教室という空間で、その人がどんな人間(who)であるかを示す人間的な営みとなり、その営みにおいてそれまで学習者が学習してきた英語が、他の手段と代替出来ない語り(speech)としての活力(power)を持つに至り、教室空間が公的領域として成立する、というものである。本論文はこの主張の根拠としてアレントの論考を用い、証拠としてDVD 6-way Streetで収録されているMy treasureというスピーチ実践を用いる。

2 公立中学校スピーチ実践
 6-way Streetの上巻二枚目では、「Show and Tellの指導と評価」として、6名の優れた教師(菅正隆、北原延晃、久保野雅史、田尻悟郎、中嶋洋一、蒔田守)のそれぞれの実践が紹介されている。これらの実践を分析することは、公開され共有されているデータを基に考察をすることであり、英語教育研究の公共化のために重要である。これらのうち、本論文では特に公立中学校におけるスピーチ実践を考察の対象とする。理由は二つある。
 まずは、なぜ公立中学校を選ぶかに関してだが、それは公立中学校という空間が、校種の中で最も多種多様な人間が集まる場所であるからである。例えば私立中学校なら、その授業料負担ということで、生徒の親の社会階層はある程度限られるだろう。また(厳密には「公立」かもしれないが)国立大学附属校などにおいても、例えば遠距離通学を厭わない「教育熱心」な親を持つといったように、一定の傾向があると考えられる。また高校においては、たいていの場合は偏差値と進路選択による選別がなされ、生徒集団は比較的似通った者の集まりとなる。こういった点から考えると公立中学校は、親が裕福な生徒からそうでない生徒まで、本人に学力がある場合からそうでない場合まで、あるいは英語や進学に関する意欲が強い場合からそうでない場合まで、といったように(後に導入するアレント哲学の用語を先取りするなら)、「人間の多数性」(human plurality)を最も備えた空間となっている。その多種多様性ゆえに公立中学校での英語教育実践は困難に満ちているのだが、逆にいうなら公立中学校で英語教育実践が成功するなら、それは全ての校種における実践の希望となる。こうした理由から公立中学校における実践に特に注目することには意義がある。
 次になぜスピーチ実践を考察の対象とするかについて述べる。ここでの「スピーチ」(speech)とは、"a talk, especially a formal one about a particular subject, given to a group of people (LDOCE )"を指す日本語である。6-way Streetにおいては、スピーチ実践以外にshow-and-tellの実践も紹介されているが、show-and-tellとは、"a classroom exercise in which children display an item and talk about it"(Merriam-Webster)といった定義からもわかるように、どちらかというと低年齢向けの活動である。本論文では英語教育の人間的な側面に着目したいので、show-and-tellよりも本人の個性が強く出やすいスピーチ実践を考察の対象とする。
 そうして6-way Streetの中から実践を割愛してゆくと、残るのは北原実践、中嶋実践、田尻実践である。これらはすべて"My Treasure"というタイトルで、それぞれの生徒が大切にしているものについてスピーチをさせているが、北原実践は、ALTとの一対一のインタラクションであり、聴衆はALTのみである。複数の(多様な)人間に語りかけることを私たちはスピーチの定義としたので、ここで北原実践も割愛せざるを得ない。中嶋実践は十分に考察の対象としたいところであるが、この実践は中嶋自身の解説にもあるようにスピーチにおける「論理性」、「視線」、「プレゼンテーション」の重要性を指導した実践ともとらえられるので、本論文では、生徒の個性表現を最も促進していると考えられる田尻実践のみを考察の対象とする2
 田尻実践は、中学三年間の最後の英語授業に行われたスピーチ発表の様子を録画したものである。最初の女子生徒は、九年間続いている文通友達について、二番目の男子生徒は、部活で使っているサッカーボールについてスピーチをする。女子生徒は、彼女の地道な学習で築いた端正な英語で、男子生徒は、やや聞き取りにくい英語ながらも、満面の笑顔と破天荒のパフォーマンスで、それぞれの個性を聴衆に示す。だが最も注目に値するのは三番目の朴訥な男子生徒によるスピーチである。
 この生徒(A男)のスピーチを、田尻(2002)に従って、背景から再構成してみよう。この公立中学校は生徒数が1000人を超える大規模校で、生徒でごった返す廊下では、お互いよけることもせず、ぶつかっても言葉を交わすこともない。校門に立って朝の挨拶をする田尻に返事を返す生徒もほとんどいない。一年生を担当し、そのまま持ち上がることになる田尻は、生徒を育てて学校に温かさを取り戻そうと思ったが、一年の三学期では、めまいがおこるほど毎日問題がおきることとなる。二年になると多くの生徒がクラスに疎外感を感じるようになる。田尻はこれらの問題は、生徒同士がうまくコミュニケーションを取れないことに起因していると分析し、英語科はコミュニケーションの仕方を教える教科なのだから、「授業を通じて生徒同士が関わり合い、お互いを理解し、認め、支えあえるようにしてやりたいと考え、日々の授業作りに精を出した」と解説する。6-way Streetに収録されたスピーチ実践はこういった三年間の英語学習の集大成であり、A男のスピーチはその中でも最後のスピーチであった。
 田尻は、穏やかで優しい気持ちを持つ、見た目は地味なA男を、敢えて最後のスピーカーとすることを決める。彼は給食のかごや缶が残っていると、当番でなくても、だれも見ていなくても、無言で持っていく生徒であり、親とケンカして家を飛び出したクラスメートと出会った時には温かいジュースを差し出しながら説得する男でもあった。そんな彼は当初、おばさんに買ってもらった東京タワーのミニチュアを"My Treasure"として話す準備をしていたが、田尻は、A男の中学生活を振り返るエピソードを思い出させ、それに関連することをスピーチにしろと半ば強引に内容変更を指示したところ、A男は涙をぽろぽろとこぼし始めた。様々な思いが頭の中を駆け巡ったのだろう。彼は嗚咽した。収録されたスピーチは、そうして書かれ、何度も練習されたスピーチの本番である。
 スピーチの冒頭でA男は"My treasure is these water swimming goggles."と述べる。彼は朝五時に起き、スイミングスクールに通っていた。彼は水泳大会で競技中にそのゴーグルがはずれてしまい、散々な成績に終わり泣いたこと、しかしそれをバネに、中国地区大会に出場するまでになったことを英語で述べる。しかし、"But I kept thinking about my school life."と彼はスピーチを彼なりの朴訥な語り口で展開させる。彼の中学校の水泳部は弱小なため、彼はスイミングスクールで練習するが、そのため彼は一緒に帰宅する友達も持てない状況となる。そうなると昼間の教室でも一緒に話す話題がなくなり"I didn't like my school life."とまで彼は言い切る。このあたりの彼は必死で涙をこらえながら語っている。
 しかし彼はそこから、穏やかな笑顔でこう続ける。"But you were always kind to me. So I became aware that I don't need to worry. Now I have two treasures. These goggles gave me a good chance to make myself swim well. But if I didn't belong to this class, I would not go to school. So Class 3-9 is my another treasure. Thank you."このスピーチはクラス全員をして「感動した」と言わしめたと田尻は報告する。
 このようなスピーチ実践は、どのような人間の行為になっていると解釈するべきだろうか。筆者はアレントの哲学が、言語学・応用言語学では不可能な分析を可能にすると考える。

3 アレント『人間の条件』による分析の枠組
 本論文で取り上げるアレントによる1958年の『人間の条件』(The Human Condition)は、1951年の『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism)と並ぶ彼女の前期の主著である。『全体主義の起源』でその時代にとっての切迫した政治的問題を扱った後、彼女はこの『人間の条件』で、より根源的に人間のあり方について考察を加える。「行動的生活」(vita activa)の考察であるこの『人間の条件』と、「静観的生活」(vita contemplativa)の考察である晩年の『精神の生活』(The Life of the Mind)は、アレントの原理的人間考察の二大著書と言えるだろう。
 アレントは、「行動的生活」の「根本的な人間的営み」(fundamental human activities)として、労働(labor)、仕事(work)、活動(action)をあげる。労働とは、生命を生物として維持するための、「人間の肉体の生物的過程に対応する営み」(7, 19)3であり、「その努力の結果はただちに消費され、後に何も残さない」(87, 140)ことを特徴とする。労働は、有史以前の原始社会における主要な営みといえるだろう。
 アレントが労働の次にあげる人間の主な営みは仕事である。仕事とは、人間存在の非自然性に対応する営みであり、「すべての自然環境と際立って異なる、物の『人工的』世界を作り出す」(7, 19-20)と彼女は説明する。つまり仕事は、生物的生存のために必要な自然の営みではなく、単に生存のために消費されるだけにとどまらない何かを、自分の手で作り出すことである。仕事をする「工作人」(homo faber)は、「無限といってもいいほど多種多様な物を制作し、その総計全体が人間の人工物(artifice)を成す」(136, 223)のである。それら人工物は、「アダム・スミスが交換市場に必要とした『価値』("value")」を有する(136, 223)。人間は、仕事による人工物の制作によってこの地球の様相を単なる自然環境から一変させた。
 仕事においては、「目的(end)が手段(means)を正当化し、さらには手段を生み出し組織化」(153, 244)する。「最終生産物(end product)が、仕事過程(work process)そのものを組織し、必要とされる専門家、協働の規模、助手の数などを決定する。仕事過程を通じて、すべてがただ望まれた目的(end)に適合し有益であるかという観点からのみ判断され、それ以外の観点は入ってこない」(153, 245)のが仕事の特徴である。このように仕事は、ある目的のための合理性という観点から執行される。かくして「それ自身のために」("for the sake of")重要であるという「意味深さ」(meaningfulness)が失われ、「他の目的のために」("in order to")重要であるという「功利」(utility)(154, 245)だけが姿を現す。生産物は、交換される目的のための「市場価値」("marketable value")を持つのみとなり、物に「固有の自然の真価」("intrinsic natural worth")が失われてしまう(164, 260)。
 しかしアレントは労働と仕事だけを人間の営みとはしない。彼女は活動を重要な人間の営みと考える。活動は、人間が、他の人間との中で自分が「どんな人間」("who")であるかを明らかにする営みである。活動は、「物あるいは物質の介入なしに直接人と人の間で行なわれる唯一の営みであり、多数性(plurality)という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのは一人の人(Man)ではなく、多数の人びと(men)であるという事実に対応する」(7, 20)ものである。このようにアレントは「人間的」(human)であること、つまりは「人間の条件」(the human condition)の重要な一つを、多種多様な人間の中にいることと定義している。おそらくアレントが活動を最も「人間的」な営みと考えるのもこの理由からである4
 この活動は、語り(speech) 5と密接に結びついている。たしかに労働や仕事においても人間は語りを用いるかもしれない。しかしその場合の語りは、しばしば数字といった記号によって置き換えられるものにすぎない。だが活動は、語ることと密接に結びついており、ほとんどの活動は語ることを通じて行なわれる。活動と語りにおいて、「人びとは自分がどんな人間であるかを示し、その人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界に姿を現す」(179, 291)わけであるが、この活動は「言葉(words)によってこそ、人間に理解できるように明かされる」(179, 290)とアレントは説明する。たしかに「人間の行為(deed)は、言葉を伴わなくても、その動物的な身体的現れから理解されるかもしれないが、その行為を意味あるものにするのは、行為者が自分を活動する者として自認し、自分が何をするか、何をしたか、何をするつもりであるかを告知する語られる言葉だけである」(179, 290)わけである6
 アレントはこの活動としての語りを、「人間である以上止めることができない創始」(an initiative from which no human being can refrain and still be human)(176, 287)としてとらえる。労働や仕事は他人に委ねることができ、それでも人間は人間であることを止めることはない。だが、語りと活動のない生活は、人びとの間で生きるという人間の条件(多数性)を欠いている以上、人間的な生活ではないとアレントは主張する。やや単純な例を出すならば、遺産等により、労働も仕事もすることがない人間がいたとしても、その人はその理由ゆえに(羨望の対象となることはあっても)人間的な生活を送っていないとは必ずしもならない。だが、もしある人が全くの孤独の中に生き、他の人間との中で他人を理解し自らを示すことがなければ、その人は人間的な生活をしているとはいえない、というのがアレントの主張である。
 語りに代表される活動は、「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がどんな人間であるかを示し、自分自身を開示しさらけ出す」(186, 303)ことであり、活動の連鎖に自らを投げ出す勇気ある行動でもある。「活動と語りによって人間は自己自身を開示するのであるが、その場合、その人はその開示以前に、自分がどんな人間であるか知らないし、自らがどのように開示されるかを予測することもできない」(192, 311)わけである。
 人間にとって、世界のリアリティとは、他人にとって自分が何らかの形で現れることによって保障されるものである、とアレントは説く(199, 321)。つまり、労働と仕事だけに追われ、語りによる活動を欠く人は、人間としてのリアリティを奪われているに等しい。仕事に専念する「工作人」(homo faber)は生産物を、労働だけに従事する「労働する動物」(animal laborans)としての人は生命の維持を、それぞれ人間としてのリアリティよりも重要なものとみなし、活動としての語りを「怠惰、怠けるためのおせっかい、怠けるためのおしゃべり」(208, 333)として非難する傾向にある。しかし現れの空間における活動としての語りこそは、「自分自身のリアリティ、自分自身のアイデンティティ、周りの世界に対するリアリティ」(208, 333)を確立させるものである。
 活動が行なわれる空間には活力(power)が見られる。この活力こそが行為し語る人間にとってのリアリティの場である公的領域(public realm)を成立させるものである。活力は、「強制力(force)や個人的力量(strength)のような、不変の、測定可能な信頼できる実体ではなく、人々が共に行為する時に生じ、人々が離散すると同時に消え去る」(200, 322)ものであるにすぎないが、その特殊性ゆえに、物質的要因では説明しがたい驚くべき力を時に発する。人間的・政治的には少数の者の活力が、多数派の強制力や力量の集積をしのぐことは珍しくはない7。「いかなる理由であれ、自らを孤立させ共生(being together)に加わることない者はどんな者も、どれだけ個人的力量を持ち、孤立の理由がどんなに妥当なものであっても、活力を喪失し無力になる」(201, 324)とアレントは総括する。人は他人と共生する公的領域における語りと活動において活力という人間的力を手に入れる。
 アレントはそのような活力や活動(語り)を、強制力・個人的力量や仕事・労働よりも人間的に重要なものだと考える。「その人がどんな人間であるかということが、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり重要であると信じることは、人間的誇り(human pride)にとって欠くべからざる要素である」(211, 338)とアレントは説く。彼女の見解は、「ただ俗悪な人(the vulgar)だけが、卑屈にも、誇りを自分のなしたことに求めるであろう。このような人は、この卑屈さによって、自分自身の能力の『奴隷や囚人』になるのである。」(211, 338)というものである。この見解は業績や能力の多寡により人の「価値」が決まるとする仕事中心の現代社会においては反時代的な考えかもしれない。だが長ける者・病める者、天賦の才や運に恵まれた者・恵まれない者、順境の者・逆境の者、その他諸々の多種多様の人間が共生する人間の世界の特性(多数性)からするなら、このアレントの見解は、決して無意味な考えではない8
 現代の先進国は、労働の苦役からはずいぶん解放されたとはいえ、グローバル化された「メガコンペティション」での仕事に追われ、活動としての語りは、人間の営みとして十分その真価を認識されていないようにも思える。もちろん仕事にのみかかわる人間とて、交換市場(exchange market)という公的領域は持っている。しかし、そこではその人は、人格(person)としてではなく、生産物の生産者として他人に出会うにすぎない(209, 335)。マルクスが商業社会の非人間化および自己疎外(dehumanization and self-alienation)として非難したのは、このように他人との関わりを欠き、交換可能な商品に第一の関心をいだくことであった。このような状況において人びとが自分自身を示すことができるのは、家族との私生活の中か、友人との親密な関係の中だけ(210, 336)である。そこで家族や友人とうまく関係がもてなかった人の生活の人間的悲惨さは想像にあまりあるものがある。このような現状において、学校英語教育は何をなしうるのであろうか。

4 公立中学校スピーチ実践の捉えなおし
 以上のアレントの考察を受けて、現代日本の英語教育を考え直してみよう。現在、英語の学習と使用は、グローバリゼーションの荒波にもまれる企業社会においては「サバイバル」のためとしての労働として捉えられがちである。まさに企業が、そして社員が「生き残る」ために英語は必要とされている。だが学校現場における生徒は、定義上、学校という空間で、生き残りのための労働を社会的に免除されている存在であるため、多くの企業人のように英語の学習と使用を必須の労働とみなすことはまずない。多くの生徒にとって英語の学習と使用は必然の労働としては立ち現れない。
 それでも、将来の「よりよい職」を求めて進学競争に自らの身を投げ出すつもりの一部の生徒は、英語使用が将来必要となるかもしれないと考え、英語学習を重要と考える。そのような生徒にとっての英語学習は労働ではなく、仕事である。英語学習にいそしむ生徒は、学校教師や塾教師などによって提供される英語学習計画に基づきながらも、一人一人自らを管理し、英語学習の成果という「生産物」を生み出す仕事に従事しているといえる。この場合の「生産物」とは市場に認証されるテスト結果という人工物である。英語は「受験のため」という言い古された言葉は、英語学習が仕事であることを裏付けている。また、文部科学省(2003)の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」が掲げる目標も、TOEFL、TOEIC、英検などといった、スコアによって市場価値を明確にする交換可能な「生産物」によって定義されている。「グローバル化」における「メガコンペティション」に対応するためには、このような数値目標によって英語教育を「戦略構想」の中に組み込まなければならないといった考えが文部科学省の見解なのであろう。
 かくして英語教育も、しばしばその「生産物」という目的を達成するための手段とみなされ、その目的のために最も効率がよい授業を作るという発想がしばしば取られる。こうして、学校で英語を学ぶことの「固有の自然の真価」は忘れ去られる。英語学習がもっぱら仕事として行なわれる教室は、財政的理由等により仕方なしに多数の人間が押し込まれている空間に過ぎず、生徒にとって、他の生徒の存在は特別な意味を持つものではない。学力、意欲、個性などにおける生徒の多様性は、時に教室の非効率性の源とすら捉えられかねない。クラスは「生産物」を達成する場所以外の意味を持たず、その達成そのものの意味も(生徒が自らの学習の主人となったという喜びを除けば)、一般社会でのそのテストスコアの交換価値と等しいものとなる。
 無論、現代社会において私たちは功利と無縁でいられない以上、英語教育を仕事として捉えることは重要、いやおそらくは必要である。目的意識を欠く前近代的な英語授業がまだ多いとされる日本の現状では、仕事としての英語授業・学習という観点は重要であろう。だが、仕事の発想が英語学習を支配してしまうならその結末は決して好ましいものとはならないであろう。「目的として定められたある事柄を追求するためには、効率的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考えを追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう」(229, 359-360)というのは、全体主義の恐怖を経験したアレントの言葉であり、この言葉を英語教育について語る際に引用することは大仰な印象を与えるかもしれない。だが、「ネイティブのように英語を喋る」という目的だけのために全精力を傾ける、英語に支配された学習者(=「俗悪な人」、「自分自身の能力の『奴隷や囚人』」)の本末転倒加減と悲喜劇は様々な者が指摘するところである(その代表論者としては中村敬や津田幸男などが挙げられる)。もし英語教育が、個人的力量としての測定可能な「英語力」の向上という目的だけの仕事としてなされ、公的領域の活力といった視点が全く忘れ去られるならば、英語教育は、個人的力量はもてど、自らの誇りをそれのみに求めるという意味で「俗悪」であり、共生を厭い活力を欠くという意味で「無力」な学習者を生産する営みとなってしまうといえるだろう。
 こういった状況の中、学校は、多数の人びとが結びつく公的領域としての機能を失いつつあると考えられる。その一方で、家庭の私生活や友人との親密な関係も、少なからずの生徒にとって不安なものとなっている。(物質的に豊かな社会での「引きこもり」は、「非人間化および自己疎外」の究極の姿である)。このような状況で英語を学ぶ生徒は、英語テストで高得点を取ることによってのみ、公的領域につながれる(しかし交換可能な、高得点でありさえすれば誰でもよい)存在となり、英語学習・英語使用そのものに意味を感じることができにくい。学習環境である教室・学校も、複数の人間がそれぞれに孤立・独居する場でしかなく、そこからは生徒一人一人のリアリティは奪われている。公的領域であるはずの教室・学校9からは活力が奪われている。さらには多くの生徒が、親密であるはずの家庭や友人関係(私的領域)にも自らのリアリティを感じることができないでいる。
 そんな中、田尻実践は、英語教育を、例えばA男という人間が、どのような人間であるかを、英語を通じて自他共に示す活動に高めた。この勇気ある活動によって、A男は自らの存在のリアリティを強く感じることができた。最初は無難なトピックのスピーチしか選ぼうとしなかったA男は、田尻の指導と教室でのスピーチで「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がどんな人間であるかを示し、自分自身を開示しさらけ出す」ことに成功したわけである。「活動と語りによって人間は自己自身を開示するのであるが、その場合、その人はその開示以前に、自分がどんな人間であるか知らないし、自らがどのように開示されるかを予測することもできない」とはアレントの言葉であったが、A男は、このスピーチを通じて、新たな自分を見出し、スピーチ以前とは明らかに違う人間へと成長した。この体験は、A男が仮に将来英語を全く使わない人生を送ったとしても、かけがえのない貴重な体験として彼の人生の糧となるであろう。こういった体験の意義は、様々な生徒が学ぶ公立中学校においては非常に大きい。
 その一方で、以前は荒れていた教室も、多数の人間がつながる公的領域として豊かに成立した。クラスはかつて荒廃し、お互いに刺々しいあるいはよそよそしい孤独な空間でしかなかった。だがクラスは、田尻の指導などを通じて段々と人間的な空間へと変化していき、三年間の最後では、第一の女子生徒は自らの文通相手というプライベートなことを安心してクラスの前で話し、第二の男子生徒は、破天荒なパフォーマンスでクラスを笑いの渦に巻き込み、第三のA男は、"I didn't like my school life. But you were always kind to me. So I became aware that I don't need to worry."と正直に気持ちを吐露することができるまでになった。これら三人の生徒の自己開示は、空々しい人間関係の空間では不可能である。いや、親しい人間空間の中でも勇気を必要とするものであろう。彼/彼女らは、このDVDには写っていない他の生徒共々、それぞれが勇気を持った自己開示をし、また聞き手もその開示を受容することで、このクラスという空間に、活力という、どんな制度も予算も、それだけではもたらすことのできない人間的な力が生まれたのである。
 A男がクラス全員を感動させたのは交換可能・測定可能な個人的力量としての「英語力」によってではない。市場価値的な「英語力」という観点なら第一の女子生徒のスピーチが一番と判定されるのかもしれない。だがこのDVDを見た者のおそらく全てはそのような序列化といった俗悪なことはしないであろう。またA男のスピーチが印象的なのは、彼が特技を持っていたからでもない。特技という点なら第二の男子生徒のパフォーマンスこそが、地味なA男のスピーチに勝ることになる。だがおそらく誰もそういった理由でA男のスピーチを第二の男子生徒のスピーチに劣ると判定などしないであろう。A男は、彼が開示した彼の存在とその開示の勇気を伝えるスピーチ、およびそれによって生じたクラスの活力によってクラスを感動させた。そして第一の女子生徒も、第二の男子生徒も、それぞれのやり方、人となり(who)に基づくスピーチによってクラスを感動させた。活動としての語りが、三年九組というクラスを唯一無二の人間的空間・公的領域に変えたのである。
 人が他の人々の中で生きるという「人間の条件」を英語教育において確立した田尻実践は、英語という学習言語に、語りが活動として本来持つ活力を与えたと解釈できる。田尻実践によって、もはや英語は生徒の人格の一部となっている。生徒はそれぞれが英語で自分自身を現している。つまりは英語で自分のリアリティを獲得している。もし英語教育の目的を「ネイティブ並の英語力をつけること」とだけしか捉えないのなら、帰国子女などを除いた全ての生徒は、英語教育の目的を達し得ない。いや、この点では指導する側の英語教師ですら、目的を達し得ないままに、英語教育の目的を掲げていることになる。だが、もし英語教育の目的を「英語において自分自身であること(Be yourself in English)」と捉えるなら、田尻実践の生徒は見事にこの目的を達成している。
 前にも述べたように、英語教育を仕事として捉え、英語力を、市場的交換価値を持つものとして捉えるという発想を私たちは現代社会において捨てることはできないし、また捨てるべきでもないであろう。だが、A男らのスピーチ、およびそれを可能にした田尻実践を、もっぱら交換可能・測定可能な仕事の生産物の観点から、例えば英検合格率、あるいは文法や発音の正確さや単位時間あたりの発語量などだけで、その意義を捉えようとすることは、英語教育の真価を見失うことである。田尻実践は、英語を学習材料から人格の一部に変えた。この実践では人格と英語は不可分である。田尻は、英語教育を通じて、生徒に活力を感じさせ、人間らしく生きることを教えている。この実践が現代の学校英語教育において持つ意味は大きい。
 アレント哲学による語り(そして、その一種としてのスピーチ)の分析は、標準的な言語学・応用言語学の分析とは全く異なるものである。言語学・応用言語学においては、チョムスキー以来、語りを「能力」の発現と考え、その諸相をcompetence, ability, capacity, capability, language faculty, proficiencyとった概念で捉えてきた(これらの差異についての詳細は、拙稿(2004)を参照されたい)。しかしこれらは全て個人的な概念であり、語りの社会的側面を捉えきれていない(McNamara, 1997)。アレントの用語で言うなら、言語学・応用言語学は、語りを個人的力量(strength)としてしか捉えていない。だがアレント哲学は公的領域での活力(power)という概念を提示し、言語学・応用言語学がその射程に入れていない語りと多数性(「人間の条件」)の関係を明確に説いている。さらに、アレントは語りを「人間である以上止めることができない創始」である活動としてとらえ、語りが人間的生活にとって本質的であることを明らかにした。人間の交わりの中で自らを開示することは、人間が人間的に生きるためには欠くべからざるものであり、そこでは語りが最も重要な役割を果たしていることもアレントが明らかにしたことである。加えて、活動の概念は、それが仕事や労働と異なることを明快に示すものであり、私たちはその理解により、現代の英語教育が取りがちな「生産物の生産」という発想とは異なる英語教育のあり方を明確に捉えることができる。
 アレント哲学によって、私たちは、田尻による公立中学校スピーチ実践がこのような意味で活力にあふれた語り・活動の教育となっていることを理解することができる。従来の言語学・応用言語学の枠組ではこのような分析は残念ながら不可能である。アレント哲学は英語教育の真価を分析する重要な枠組である。



1 アレント哲学の理解を深めてくれたThe Work in Progress Seminar: Hannah Ardent Sessionsのメンバー、特にRichard Parker(広島修道大学・法哲学)、柿木伸之(広島市立大学・哲学)に感謝する。
2 田尻実践の中でも、このスピーチ実践が重要であることは、2004年11月3日に一時間枠で、NHK教育テレビで放送された「わくわく授業スペシャル」の中でもうかがえる。この番組では、田尻が、生徒に自然の中で感じたことを5行詩の形で発表させる実践や、ニューヨークからのALTという異なる背景を持つ人にふるさと比田のよさを訴えかける実践が中心的テーマとして取り上げられた。これらはフォニックスや語順指導といった言語教授の集大成として組まれた活動で、生徒自らが感じ考えたことを、他の多くの人々(生徒・ALT)に語りかける広義のスピーチ実践になっている。
3 煩雑を避けるためThe Human Conditionからの引用ページ数は、括弧内の数字のみにて標記する。最初の数字が原著、次が訳書のものである。翻訳に関しては訳書を参考としたが随所で変更を加えている。
4 多数性を重要な人間の条件とするこの彼女の考えによれば、活動が行なわれる「公的領域」(public realm)こそが、人間が最も人間らしく生きられる空間であり、家庭などの「私的領域」(private realm)は、憩いの場であるという意味で重要ではあるが、「私的生活だけを送る人間や、奴隷のように公的領域に入ることを許されていない人間、あるいは野蛮人のように公的領域を樹立しようとさえしない人間は完全な意味での人間とはいえない」(38, 60)とアレントは考える。ちなみに'private'という語は、語源的に'deprived'、つまり「なにものかを奪われている」状態を意味すると彼女は解説している。
5 この「語り」の原語である"speech"は、"the act of speaking: communication or expression of thoughts in spoken words"(Merriam-Webster)といった最も基本的な意味でもって使われており、日本語でいういわゆる「スピーチ」よりも広い意味を持つため、訳語としてはより広い意味を持つ「語り」を選んだ。もちろん「スピーチ」は「語り」の一種である。
6 この点において、アレントの言語論は、言葉(words)を使うことが、言語行為(speech act)につながり、その言語行為において、私たちは相互理解を行なうというAustin (1961)の言語行為論と親近性を持つとも考えられる。この親近性から、アレントの"action"を("act"の同根語として)行為と訳すことも可能だが、ここでは定訳とも考えられる訳書での訳である「活動」を尊重した。
7 もちろんその逆の弾圧や「暴政」(tyranny 202, 325)も多いことも事実であるが、人間の世界では、人々の活力が一見圧倒的に見える強制力や個人的力量に勝ることがあるということは特筆されるべきである。
8そもそも「教育」は労働と仕事を目指しているのであろうか、それとも活動であろうか。あまりに単純化された対照は危険かもしれないが、こういった問いは、英語「教育」学にとって無縁であってはならないと筆者は考える。
9 もちろんアレントのいう公的領域とは、政治的空間としてのポリスであり、厳密には教室・学校は公的領域ではない。だが教室・学校は、家庭の私的領域と公的領域の間に私たちが挿入した制度であり、子どもにとっては公的領域を代表する空間である(Arendt, 1961, pp. 188-189)。

参考文献
Austin, J. (1961). How to Do Things with Words. Cambridge: Harvard University Press.
Arendt, H. (1958). The Human Condition. (2nd ed.). Chicago: The University of Chicago Press.
Arendt, H. (1961). Between Past and Future. London: Penguin Books.
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http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#060816

Supplementary material for Yanase's oral presentation in Asia TEFL 2006 International Conference (Seinan Gakuin University, Fukuoka, Japan) on August 19th, 2006.
This is basically a literal English translation of the above Japanese article. This English translation is NOT a final product, much less a final pa;er. This is to be thoroughly revised later.


Speech-making in a public junior high school in an EFL situation:
An Arendtian analysis of speech as action.

(A first draft, to be thoroughly revised later)

Yosuke Yanase, Hiroshima University


INTRODUCTION

On November 3, 2004, the national holiday of Culture Day in Japan, the national broadcasting cooperation (NHK) broadcasted a one hour special program featuring Goro Tajiri, an English teacher in an ordinary junior high school in Shimane Prefecture. Tajiri, the recipient of the Harold Palmer Prize, 2001, is one of the most respected Japanese teachers of English. He has been working in ordinary public junior high schools for more than 20 years, and his lessons have fascinated students, their parents and other English teachers throughout Japan, resulting in the national television program featuring his classes on that special day.
This article focuses on one aspect of Tajiri's lessons, speech-making, and analyzes it to see why his lessons appeal to the hearts and minds of many. I introduce the philosophy of Hannah Arendt for the framework of the analysis, as I believe her philosophy neatly captures the humanistic aspect of Tajiri's practice. As will be shown later, the standard concepts of theoretical and applied linguistics do not capture the humanistic aspect of Tajiri's practice as much as Arendt's philosophy does.


SPEECH-MAKING IN A PUBLIC JUNIOR HIGH SCHOOL IN JAPAN
Before we begin the philosophical analysis, we need to understand the context of Tajiri's practice, and the first step is to recall that Japan is an EFL country. Despite the strong focus on English teaching by the Ministry of Education, many students are complacent with the Japanese language, for it has a fully-fledged social function in Japan. It is more than possible to be socially and economically successful in Japan with no proficiency in English (English proficiency is desirable, but not essential). Furthermore, in the affluent society of Japan where physical survival is practically no problem, many students are not very much attracted by social and economic success. Students are not motivated to learn English unless they are particularly ambitious. For students in small towns in particular, English may be an international, but still quite a foreign language to them. Public junior high schools, moreover, are the places where students of different abilities, motivations and backgrounds are mingled, and it is the tacit understanding of many Japanese teachers of English that disciplinary and behavioral problems of students matter more than English lessons. Henceforth I will call this situation of Japan a strong EFL situation.
The speeches of Tajiri's students that we are able to see on publicly available material (DVD) (Kan, et al. 2003) were recorded in a large junior high school (with a student population of over 1,000) in the largest town of Shimane Prefecture. According to Tajiri's retrospect (2002), the population was too large for a public junior high school, and when Tajiri moved to the school, the school's atmosphere was far from pleasant and comfortable. Students never cared to say excuse me or sorry when they bumped into each other in the crowded corridors. Tajiri stood at the school gate every morning to say hello to every student passing through the gate, but most students ignored him. Assigned the role of a homeroom teacher from the first grade up to the third for the following years, Tajiri decided to establish a humanistic school culture. He decided that teaching English should contribute to the betterment of the class, for the aim of the subject, if only nominal for many Japanese teachers, is enhancing communication. Tajiri tried his utmost to make his English lessons opportunities for his studentsto care for, understand, accept and support each other. Speech-making was the last activity of the three years of Tajiri's English teaching and the presentations documented on the DVD were literally on the last day of Tajiri's lessons, just before the students' graduation from the school.
On the DVD, we see speeches by three students. The title of the speeches, My Treasure, is the same for all. The first student is a female who spoke about her long-time pen-pal with a highly articulate accent, which is remarkable in Japan given that she had no special experience or training other than Tajiri's lessons. The second is a cheerful boy who spoke about his love of football with a hilarious demonstration of playing football. Yet, the speaker we focused on here is the third, a boy with apparently no special features. He was in fact one of the students who did not have many friends in the class. He was modest, reserved, and kind-hearted, but not so popular. Tajiri (2002) reports that the student first chose a rather safe and unexciting topic for the speech. Tajiri, knowing who the student was, urged the student to speak honestly about his days at junior high school. On that persistent but genuine advice, the student released his repressed thoughts and began to sob. The third speech presented on the DVD is the result of the speech thus decided, written and practiced under Tajiri's guidance.
The speech begins with a statement "My treasure is these water swimming goggles." He used to wake up at 5 o'clock in the morning to attend a swimming school before going to the public school (he also went to the swimming school after classes were over). He tried hard to be a good swimmer, but in a competition, his goggles came off and he had a miserable defeat. With this memory in mind, he tried harder and finally qualified for the Chugoku District Competition. He was glad, but at the same time he realized who he was (or was not) in the class. He didn't have any particular friend to hang with, nor did he know anything to talk about with his classmates. When he says publicly in the speech, "I didn't like my school life", he was close to tears. All the viewers of the DVD that I know say they feel this moment to be stiflingly long.
Yet, the student holds back his tears, smiles in a gentle, honest way, and says: "But you were always kind to me. So I became aware that I don't need to worry. Now I have two treasures. These goggles gave me a good chance to make myself swim well. But if I didn't belong to this class, I would not go to school. So Class 3-9 is my another treasure. Thank you." According to Tajiri, all the students were moved by this speech and when the classmates reunite later after graduation, this speech often becomes their favorite topic. On the DVD we see some female students crying after the speech, and in fact when this DVD is shown to adult English teachers, some are literally moved to tears.
This article now aims to offer a philosophical framework to analyze this speech making. This kind of philosophical analysis will provide a new perspective on what is actually done (and should be done) in an excellent class in a strong EFL situation, where utilitarian persuasion often fails to make young adolescents learn English. I believe Hannah Arendt offers such a framework.


ARENDT'S DISTINCTION BETWEEN LABOR, WORK AND ACTION

Hannah Arendt (1906-1975) was born in Germany and studied under Husserl, Heidegger, Jaspers, and other prominent philosophers. Being Jewish, she left Germany for France in 1933 when the Nazis took control of the country. She finally settled in the United States and established a career as a scholarly writer. She is generally known as the author of the modern classic of political studies, The Origins of Totalitarianism (1951), but she was a philosopher throughout her life and the book we will focus on, The Human Condition (1958) constitutes one of the most distinguished analyses of the human being in the 20th century (henceforth for the ease of reference, I will simply use the abbreviation HC and a page number after each quotation from this book).
The book is an analysis of three fundamental human activities, labor, work and action. Labor is "the activity which corresponds to the biological process of the human body."(HC 7) It supplies the biological necessities. Gathering food, cooking and taking care of oneself and one's family are some typical examples of labor for human beings as animal laborans. The mark of labor is "that it leaves nothing behind, that the result of its effort is almost as quickly consumed as the effort is spent." (HC 87)
Work, in contrast, constructs "an 'artificial' world of things, distinctly different from all natural surroundings." (HC 7) As homo faber, we produce the products of work which will possess marketable value. (HC 136) Work is to be understood in utilitarian terms: the end product of work determines the means, and "during the work process, everything is judged in terms of suitability and usefulness for the desired end, and for nothing else." (HC 153) Therefore, work is usually done in order to attain utility. It is not done for the sake of itself: Its intrinsic 'meaningfulness' is lost. (HC 154) The products of work become commodities with marketable value that "has nothing to do with 'the intrinsic natural worth of anything.'" (HC 164)
Yet, labor and work are not the only activities that we are engaged in. The one that remains is action. In Arendt's special sense, it is mostly done through speech and "in acting and speaking, men [sic: throughout this essay I retain Arendt's original use of pronouns.] show who they are, reveal actively their unique personal identities and thus make their appearance in the human world. (HC 179)" Action is "the only activity that goes on directly between men without the intermediary of things or matter, corresponds to the human condition of plurality. (HC 7)"
Action, Arendt states, is "an initiative from which no human being can refrain and still be human (HC 176)". Human beings never cease to be so even if they are free from labor and work. Yet, if they are deprived of action, they are deprived of 'reality' or 'Being.' (HC 199) Arendt argues that they can only be human beings, i.e., not just animal laborans or homo faber, when they make their unique personal identities known to others in their presence. Hence, in action, human beings leave their private hiding place and show who they are, disclosing and exposing their selves (HC 186). They are not able to know or calculate beforehand by themselves whom they reveal, for it is only in the presence of others (who are beyond you, by definition) that human beings, in the human condition of plurality, can be human (HC 192).
Speech as action, not as labor or work, thus has a special meaning for Arendt. It has power, a public quality that is contrasted against private strength and impersonal force. Theories of communicative competence have various notions like competence, ability, capacity, capability, language faculty or proficiency (Taylor 1988, McNamara 1996), but they are all individualistic notions: they are the assessment of language use by the individual (McNamara 1997). In Arendt's terminology, such an individualistic notion is generally referred to as strength. Force, on the other hand, works according to the system of logic. A true deduction, for example, has force and determines the conclusion irrespective of the person engaged in the logical calculus. Power, in contrast, is beyond the individual (strength), not an impersonal notion (force), but an interpersonal notion. "Power is what keeps the public realm, the potential space of appearance between acting and speaking men, in existence. ... Power is ... not an unchangeable, measurable, and reliable entity like force or strength. While strength is the natural quality of an individual seen in isolation, power springs up between men when they act together and vanishes the moment they disperse. (HC 200: italics added)" Unlike strength and force, power is transient, not solely attributable to an individual or impersonal entity, but it is what unites people in the public realm as members of a community. Speech has power only when it is uttered genuinely to others in the context of a given community. "Power is actualized only where word and deed have not parted company, where words are not empty and deeds not brutal, where words are not used to veil intentions but to disclose realities, and deeds are not used to violate and destroy but to establish relations and create new realities. (HC 200)" Even someone with linguistic strength cannot show power and becomes impotent in the public realm if s/he isolates his/herself and does not partake in being together. Power is perhaps a more communicative (at least communal) notion than standard linguistic notions such as competence, ability, capacity, capability, language faculty or proficiency.
As mentioned above, speech as action reveals who the speaker is, and that is the source of power. Arendt believes that action and power are more important than labor and work, and strength and force from a humanistic perspective. "It is an indispensable element of human pride to believe that who somebody is transcends in greatness and importance anything he can do and produce. ... Only the vulgar will condescend to derive their pride from what they have done; they will, by this condescension, become the 'slaves and prisoners' of their own faculties. (HC 211)" This view appear to contrast with the value system of competitive meritocratic global capitalism, where English plays a major role, yet, in the human world of plurality which consists of haves and have-nots, advantaged and disadvantaged, and motivated and unmotivated, this is not perhaps such an odd idea.
In the contemporary world, our focus is often on the exchange market where the product of work is valued in terms of exchange value. The market is in fact a public realm, but people there meet not as persons but as impersonal producers of products and they are rarely interested in who others are. It is "this lack of relatedness to others and this primary concern with exchangeable commodities which Marx denounced as the dehumanization and self-alienation of commercial society. (HC 210)" Yet, English is often conceived of as the main vehicle of this commercial society. If school education is exclusively fixed to such a value system, students are only allowed to show themselves in the privacy of their families or the intimacy of their friends: the school ceases to be a public realm for them. Yet, what if they do not have a comfortable relationship with their family and friends? --Unfortunately this is often the case. What can school education do for those who are mostly deprived of essential action in a humanistic sense? Is school education, after all, merely a preparatory stage for the competition of the global economy? What can English teaching be about in a public school system in a strong EFL situation?


TEACHING ENGLISH IN A STRONG EFL SITUATION

Now we would like to examine the 'meaningfulness' of teaching English in a strong EFL situation through the framework of Arendt's philosophy. What is learning English for students in such a situation; labor, work or action?
To immigrants in an English speaking country who have to use English for their daily oral communication, the use of English may be labor, which 'leaves nothing behind.' English is needed only so long as it helps with survival in the English speaking environment, so even broken English is sufficient for many of them (hence the fossilization of their interlanguage). But this is not obviously the case in a strong EFL situation. Ordinary people with no English proficiency feel short of nothing in their lives. Business men and women in some international companies may be required to use English as labor (routine oral communication for business) or as work (producing business documents), but students are free from such activities. The appeal of the necessity to use English for labor or work in the 'internationalized' world (as is often said in Japan) is not so meaningful for many students in a strong EFL situation.
For some ambitious students in a strong EFL situation, however, English is felt to be necessary because they believe (or are persuaded to believe) that they will need it in the future, mostly for business or academic purposes. For them the use and learning of English is work. Their English needs to have marketable value, for they are not learning English for its own sake: they do so in order to attain utility. The products of learning English are often the results of tests such as TOEFL, TOEIC, or entrance examinations for prestigious schools. They are valuable as tickets for better careers. The Ministry of Education in Japan also seems to regard the use and learning of English as work. In the 'Action Plan to Cultivate "Japanese with English Abilities"' (Ministry of Education, 2003), it defines the goal of English education in terms of the scores of TOEFL, TOEIC or STEP (the Standardized Test of English Proficiency conducted in Japan).
Thus the classroom becomes a place where the product is produced, and 'everything is judged in terms of suitability and usefulness for the desired end, and for nothing else.' The 'meaningfulness' or power of using English is disregarded. Students are gathered in a classroom not to appreciate the plurality of their being but because the government cannot afford individual learning opportunities. (Efficient individual CALL systems would be a dream of the technocrats who only regard teaching and learning English as work.) Differences in abilities, motivations, and backgrounds among students are only noise factors in the efficient execution of study plans. Aside from the pleasure of becoming the master of their own achievement, students are satisfied with learning English only to the extent of their marketable value. Yet, because it is an exchangeable value, students themselves become exchangeable as a kind of product. Their unique identity is irrelevant in their English learning.
Of course in the modern world, nobody can afford to disregard utility, and it is not my intention to deny English learning as work altogether. However, if English learning is pursued only as work, disregarding the aspect of action entirely, some students become obsessive only about their market value in English and begin to take human pride in it, becoming 'the slaves and prisoners of their own faculties.' Nakamura (2004) and Tsuda (2003) describe such comical tragedies in the strong EFL situation of Japan. The humanistic aspect must be explicitly emphasized.
Yet, many schools in Japan are no longer a public realm for students, and the number of cases of hikikomori, a total withdrawal from any social interaction, is on the rise. Those students who live in an unstable relationship with their family and friends have nowhere to go. Intimacy has been lost in the private realm, as is Power in school. The students cannot feel the reality of their being.
Tajiri's classes should be evaluated in this context. He changed the work of English learning into the action of students' self-realization. The third student, in particular, who only chose a safe and low-risk topic first, was able to show who he was to the class and himself, discovering the reality of his being. Even if he does not use English at all in his future, this experience will remain 'meaningful' for his life. Also, the first and second students revealed themselves in ways that were not possible for them three years earlier. Through students' actions, the class became a public realm, gaining power, which no budget or institution alone can establish. The significance of this kind of experience in a public school must be emphasized in a strong EFL situation.
Tajiri's practice of speech making can be summarized as the education of the human condition of plurality. It gives students English as a powerful medium of self-discovery and community building. English is no longer an exchangeable product for Tajiri's students. It is part of their being and reality. English is learned and used for its own sake. I believe that this meaningfulness is a major factor that explains why Tajiri's lessons capture the hearts of many. If our framework is only utilitarian or individualistic, we fail to appreciate the humanistic aspect of Tajiri's education. I believe the concepts of theoretical and applied linguistics should be complemented by philosophical analysis such as that of Arendt.


REFERENCE
Arendt, H. (1958). The Human Condition. (2nd ed.). Chicago: The University of Chicago Press
Kan et. al, (2003) DVD 6-way Street Volume 1 available from http://www.nakama.tv/index.cgi
McNamara, T. F. (1996). Measuring second language performance. London: Longman.
McNamara, T. F. (1997). 'Interaction' in second language performance assessment: Whose performance? Applied Linguistics, 18 (4), 446-466.
Ministry of Education, Japan. http://www.mext.go.jp/english/topics/03072801.htm
Nakamura, K. (2004) Naze "Eigo"ga Mondai Nanoka中村敬『なぜ「英語」が問題なのか』三元社
Taylor, D. S. (1988). The meaning and use of the term 'competence' in linguistics and applied linguistics. Applied Linguistics, 9 (2), 148-168.
Tsuda, Y. (2003) Eigo Shihai towa Nanika 『英語支配とは何か―私の国際言語政策論』明石書店



以下の原稿は草稿の第2稿です。

アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析

広島大学 柳瀬陽介

 

1 本論文の目的

 本論文では、DVD 6-way Street(菅 他 2003)に見られる、公立中学校でのスピーチ実践(田尻実践)を、ハンナ・アレント(Hannah Arendt, 1906-1975)が『人間の条件』(The Human Condition, 1958)で示した哲学的枠組みを通じて分析する1。この狙いは、田尻実践を、アレントのいう活動(action)として捉え、それが公立中学校という空間でどのような意義を持つのかを明らかにすることである。本論文の主張は、スピーチ実践は、学習者が「多種多様な人びとがいるという人間の多数性」を持つ公立中学校の教室という空間で、その人が何者(who)であるかを示す人間的な営みとなり、その営みにおいてそれまで学習者が学習してきた英語が、他の手段と代替出来ない語り(speech)本来の意義を担うというものである。本論文はこの主張の根拠としてアレントの論考を用い、証拠としてDVD 6-way Streetで収録されているMy treasureというスピーチ実践を用いる。

2 公立中学校スピーチ実践

 6-way Streetの上巻二枚目では、「Show and Tellの指導と評価」として、6名の優れた教師(菅正隆、北原延晃、久保野雅史、田尻悟郎、中嶋洋一、蒔田守)のそれぞれの実践が紹介されている。これらの実践を分析することは、公開され共有されているデータを基に考察をすることであり、英語教育研究の公共化のために重要である。これらのうち、本論文では特に公立中学校におけるスピーチ実践を考察の対象とする。理由は二つある。

 まずは、なぜ公立中学校を選ぶかに関してだが、それは公立中学校という空間が、校種の中で最も多種多様な人間が集まる場所であるからである。例えば私立中学校なら、その授業料負担ということで、生徒の親の社会階層はある程度限られるだろう。また(厳密には「公立」かもしれないが)国立大学附属校などにおいても、例えば遠距離通学を厭わない「教育熱心」な親を持つといったように、一定の傾向があると考えられる。また高校においては、たいていの場合は偏差値と進路選択による選別がなされ、生徒集団は比較的似通った者の集まりとなる。こういった点から考えると公立中学校は、親が裕福な生徒からそうでない生徒まで、本人に学力がある場合からそうでない場合まで、あるいは英語や進学に関する意欲が強い場合からそうでない場合まで、といったように(後に導入するアレント哲学の用語を先取りするなら)、「人間の多数性」(human plurality)を最も備えた空間となっている。その生徒の多種多様性ゆえに公立中学校での英語教育実践は困難に満ちているのだが、逆にいうなら公立中学校で英語教育実践が成功するなら、それは全ての校種における実践の希望となる。こうした理由から公立中学校における実践に特に注目することには意義がある。

 次になぜスピーチ実践を考察の対象とするかについて述べる。ここでの「スピーチ」(speech)とは、"a talk, especially a formal one about a particular subject, given to a group of people (LDOCE)"を指す日本語である。6-way streetにおいては、スピーチ実践以外にshow-and-tellの実践も紹介されているが、show-and-tellとは、"a classroom exercise in which children display an item and talk about it"(Merriam-Webster)や「生徒に珍しいものをもって来させて説明させること。『見せてお話』(小学校低学年の教育活動)」(『リーダーズ英和』)といった定義からもわかるように、どちらかというと低年齢向けの活動である。本論文では英語教育の人間的な側面に着目したいので、show-and-tellよりも本人の個性が強く出やすいスピーチ実践を考察の対象とする。

 そうして6-way streetの中から実践を割愛してゆくと、残るのは北原実践、中嶋実践、田尻実践である。これらはすべて"My Treasure"というタイトルで、それぞれの生徒が大切にしているものについてスピーチをさせているが、北原実践は、ALTとの一対一のインタラクションであり、聴衆はALTのみである。複数の(多様な)人間に語りかけることを私たちはスピーチの定義としたので、ここで北原実践も割愛せざるを得ない。中嶋実践は十分に考察の対象としたいところであるが、この実践は中嶋自身の解説にもあるようにスピーチにおける「論理性」、「視線」、「プレゼンテーション」の重要性を指導した実践ともとらえられるので、本論文では、生徒の個性表現を最も促進していると考えられる田尻実践のみを考察の対象とする2

 田尻実践は、中学三年間の最後の英語授業に行われたスピーチ発表の様子を録画したものである。最初の女子生徒は、九年間続いている文通友達について、二番目の男子生徒は、部活で使っているサッカーボールについてスピーチをする。女子生徒は、彼女の地道な学習で築いた端正な英語で、男子生徒は、やや聞き取りにくい英語ながらも、満面の笑顔と破天荒のパフォーマンスで、それぞれの個性を聴衆に示す。だが最も注目に値するのは三番目の朴訥な男子生徒によるスピーチである。

 この生徒(A男)のスピーチを、田尻(2002)に従って、背景から再構成してみよう。この公立中学校は生徒数が1000人を超える大規模校で、生徒でごった返す廊下では、お互いよけることもせず、ぶつかったとて言葉を交わすこともない。校門に立って朝の挨拶をする田尻に返事を返す生徒はほとんどいない。一年生を担当し、そのまま持ち上がることになる田尻は、生徒を育てて学校に温かさを取り戻そうと思ったが、一年の三学期では、めまいがおこるほど毎日問題がおきることとなる。二年になると多くの生徒がクラスに疎外感を感じるようになる。田尻はこれらの問題は、生徒同士がうまくコミュニケーションを取れないことに起因していると分析し、英語科はコミュニケーションの仕方を教える教科なのだから、「授業を通じて生徒同士が関わり合い、お互いを理解し、認め、支えあえるようにしてやりたいと考え、日々の授業作りに精を出した」と解説する。6-way Streetに収録されたスピーチ実践はこういった三年間の英語学習の集大成であり、A男のスピーチはその中でも最後のスピーチであった。

 田尻は、穏やかで優しい気持ちを持つ、見た目は地味なA男を、敢えて最後のスピーカーとすることを決める。彼は給食のかごや缶が残っていると、当番でなくても、だれも見ていなくても、無言で持っていく生徒であり、親とケンカして家を飛び出したクラスメートと出会った時には温かいジュースを差し出しながら説得する男でもあった。そんな彼は当初、おばさんに買ってもらった東京タワーのミニチュアを"My Treasure"として話す準備をしていたが、田尻は、A男の中学生活を振り返るエピソードを思い出させ、それに関連することをスピーチにしろと半ば強引に内容変更を指示したところ、A男は涙をぽろぽろとこぼし始めた。様々な思いが頭の中を駆け巡ったのだろう。彼は嗚咽した。収録されたスピーチは、そうして書かれ、何度も練習されたスピーチの本番である。

 スピーチの冒頭でA男は"My treasure is these water swimming goggles."と述べる。彼は朝五時に起き、スイミングスクールに通う生徒であった。彼は水泳大会で競技中にそのゴーグルがはずれてしまい、散々な成績に終わり泣いたこと、しかしそれをバネに、中国地区大会に出場するまでになったことを英語で述べる。しかし、"But I kept thinking about my school life."と彼はスピーチを彼なりの朴訥な語り口で展開させる。彼の中学校の水泳部は弱小なため、彼はスイミングスクールで練習するが、そのため彼は一緒に帰宅する友達も持てない状況となる。そうなると昼間の教室でも一緒に話す話題がなくなり"I didn't like my school life."とまで彼は言い切る。このあたりの彼は必死で涙をこらえながら語っている。

 しかし彼はそこから、穏やかな笑顔でこう続ける。"But you were always kind to me. So I became aware that I don't need to worry. Now I have two treasures. These goggles gave me a good chance to make myself swim well. But if I didn't belong to this class, I would not go to school. So Class 3-9 is my another treasure. Thank you."このスピーチはクラス全員をして「感動した」と言わしめたと田尻は報告する。

 このようなスピーチ実践は、どのような人間の行為になっていると解釈するべきであろうか。筆者はアレントの分析が、大きな手がかりとなると考える。

3 アレントによる労働、仕事、活動の区別

 アレントはドイツに生まれ、マーブルク大学でハイデガーやブルトマンに、ハイデルベルク大学でヤスパースに、フライブルク大学でフッサールに師事するが、ナチズムがドイツで勝利を収めた1933年にユダヤ人である彼女はドイツから亡命しパリに移る。彼女はその後1941年にアメリカに移住し本格的な著作活動を開始した。本論文で取り上げる1958年の『人間の条件』(The Human Condition)は、1951年の『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism)と並ぶアレントの主著である。『全体主義の起源』でその時代にとっての切迫した政治的問題を扱った後、彼女はこの『人間の条件』で、より根源的に人間のあり方について考察を加える。「行動的生活」(vita activa)の考察であるこの『人間の条件』と、「静観的生活」(vita contemplativa)の考察である晩年の『精神の生活』(The Life of the Mind)は、アレントの原理的人間考察の二大著書と言えるだろう。

 アレントは、「行動的生活」(vita activa)の「根本的な人間的営み」(fundamental human activities)として、労働(labor)、仕事(work)、活動(action)をあげる。労働とは、生命を生物として維持するための、「人間の肉体の生物的過程に対応する営み」(7, 19)3であり、「その努力の結果はただちに消費され、後に何も残さない」(87, 140)ことを特徴とする。労働は、有史以前の原始社会における主要な営みといえるだろう。

 アレントが労働の次にあげる人間の主な営みは仕事である。仕事とは、人間存在の非自然性に対応する営みであり、「すべての自然環境と際立って異なる、物の『人工的』世界(an "artificial" world of things)を作り出す」(7, 19-20)と彼女は説明する。つまり仕事は、生物的生存のために必要な自然の営みではなく、単に生存のために消費されるだけにとどまらない何かを、自分の手で作り出すことである。仕事をする工作人(homo faber)は、「無限といってもいいほど多種多様な物を制作し、その総計全体が人間の人工物(artifice)を成す」(136, 223)のである。それら人工物である物は、「ロックが財産となるのに必要とした耐久性(durability)、アダム・スミスが交換市場に必要とした『価値』("value")、マルクスが人間本性の証と信じた生産性(productivity)」を有する(136, 223)。人間は、仕事による人工物の制作によってこの地球の様相を単なる自然環境から一変させた。

 仕事は人間のあり方も変える。人間は、労働においては自然に依存し、労働は生存を続ける限り終わることがない。後に説明する活動において人間は、他の人々にそれぞれ依存する。活動には始まりはあっても、それが他の人々に投げかけられるため終わりをもたない。だが仕事においてはいわば人間は自己完結している。制作は「明確な始まりと予見できる終わりをもっている」(143, 233)からである。工作人は、自然物から人工物を作り出すことにおいて自然の主人(master)となり、自分自身と自分の行いの主人ともなる。

 仕事においては、「目的(end)が手段(means)を正当化し、さらには手段を生み出し組織化」(153, 244)する。「最終生産物(end product)が、仕事過程(work process)そのものを組織し、必要とされる専門家、協働の規模、助手の数などを決定する。仕事過程を通じて、すべてがただ望まれた目的(end)に適合し有益であるか(suitability and usefulness)という観点からのみ判断され、それ以外の観点は入ってこない」(153, 245)のが仕事の特徴である。このように仕事は、ある目的のための合理性という観点から執行される。かくして「それ自身意味のある理由のために」("for the sake of")重要であるという「有意味性」(meaningfulness)が失われ、「ある目的のために」("in order to")重要であるという「功利」(utility)(154, 245)だけが姿を現す。生産物は、公的領域(public realm)で交換される目的のための「市場価値」("marketable value")を持つのみとなり、物に「固有の自然の真価」("intrinsic natural worth")が失われてしまう(164, 260)。

 しかしアレントは労働と仕事だけを人間の営みとはしない。彼女は活動を重要な人間の営みと考える。彼女のいう活動は、自然の中の生存でも、人工物の制作でもない。活動は、人間が、他の人間との中で自分が「何者」("who")であるかを明らかにする営みである。活動は、「物あるいは物質の介入なしに直接人と人の間で行なわれる唯一の営みであり、多数性(plurality)という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのは一人の人間(Man)ではなく、多数の人びと(men)であるという事実に対応する」(20, 7)ものである。このようにアレントは「人間的」(human)であること、つまりは「人間の条件」(the human condition)の重要な一つを、多種多様な人間の中にいることと定義している。おそらくアレントが活動を最も「人間的」な営みと考えるのもこの理由からである4

 この活動は、語り(speech) 5と密接に結びついている。たしかに労働や仕事においても人間は語りを用いるかもしれない。しかしその場合の語りは、しばしば数字といった記号によって置き換えられるものであり、さらには労働や仕事は、全くの沈黙のうちに、強制力(force)や個人的力量(strength)を行使することによってなされうる。しかし活動は、語ることと密接に結びついており、ほとんどの活動は語ることを通じて行なわれる。活動と語りにおいて、「人びとは自分が何者であるかを示し、その人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界に姿を現す」(179, 291)わけであるが、この活動は「言葉(words)によってこそ、人間に理解できるように明かされる」(179, 290)とアレントは説明する。たしかに「人間の行為(deed)は、言葉を伴わなくても、その動物的な身体的現れから理解されるかもしれないが、その行為を意味あるものにするのは、行為者が自分を活動する者として自認し、自分が何をするか、何をしたか、何をするつもりであるかを告知する語られる言葉だけである」(179, 290)わけである。つまり活動としての語りは、その人が、どんな特質、天分、才能、欠陥を持った「なに」("what")であるかではなく、「何者」("who")であるかを示すのである6

 アレントはこの活動としての語りを、「人間である以上止めることができない創始」(an initiative from which no human being can refrain and still be human)(176, 287)としてとらえる。労働や仕事は他人に委ねることができ、それでも人間は人間であることを止めることはない。だが、語りと活動のない生活は、人びとの間で生きられるという人間の条件(多数性)を欠いている以上、人間の生活ではないとアレントは主張する。やや単純な例を出すならば、遺産等により、生存のための労働をすることもなく、制作のための仕事をすることがない人間がいたとしても、彼/彼女はその理由ゆえに(羨望の対象となることはあっても)人間的な生活を送っていないとは必ずしもならない。だが、もし彼/彼女が全くの孤独の中に生き、他の人間との中で他人を理解し、自らを示すことがなければ、彼/彼女は人間的な生活をしているとはいえない、というのがアレントの主張である。

 語りに代表される活動は、「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がだれであるかを示し、自分自身を開示しさらけ出す」(186, 303)ことであり、終わりなき連鎖に自らを投げ出す勇気ある行動でもある。「活動と語りによって人間は自己自身を開示するのであるが、その場合、その人はその開示以前に、自分が何者であるか知らないし、自らがどのように開示されるかを予測することもできない」(192, 311)わけである。

 人間にとって、世界のリアリティとは、他人にとって自分が何らかの形で現れることによって保障されるものであって、すべての人間にとっての現れを私たちは存在(Being)と呼ぶ、とアレントは説く(199, 320-321)。つまり、労働と仕事だけに追われ、語りによる活動を欠く人々は、人間としてのリアリティ・存在を奪われているに等しい。仕事に専念する工作人(homo faber)は生産物を、労働だけに従事する労働する動物(animal laborans)としての人間は生命の維持を、それぞれ人間としてのリアリティよりも重要なものとみなし、活動としての語りを「怠惰、怠けるためのおせっかい、怠けるためのおしゃべり」(208, 333)として非難する傾向にある。しかし現れの空間における活動としての語りこそは、「自分自身のリアリティ、自分自身のアイデンティティ、周りの世界に対するリアリティ」(208, 333)を確立させるものである。

 このような空間には活力(power)が見られる。「活力とは、言葉と行為が袂を分かつことなく、言葉が空虚でなく、行為が動物的(brutal)でない場合、言葉が意図を隠すためでなく、リアリティを開示するために使われ、行為が関係を侵害し破壊するためではなく関係を確立し新しいリアリティを創造するために使われる場合にのみ実現する」(200, 322)とアレントは規定する。この活力こそが行為し語る人間にとっての現れの場である公的領域を保つものである。活力は、「強制力(force)や個人的力量(strength)のような、不変の、測定可能な信頼できる実体ではなく、人々が共に行為する時に生じ、人々が離散すると同時に消え去る」(200, 322)ものであるにすぎないが、その特殊性ゆえに、数や手段といった物質的要因では説明しがたい驚くべき力を時に発することである。人間的・政治的には少数の者の活力が、多数派の強制力や力量の集積をしのぐことは珍しくはない7。「いかなる理由であれ、自らを孤立させ共生(being together)に加わることない者はどんな者も、どれだけ個人的力量を持ち、孤立の理由がどんなに妥当なものであっても、活力を喪失し無力になる」(201, 324)とアレントは総括する。人は他人と共にする公的領域における語りと活動において活力という人間的力を手に入れる。

 その活力は行為者がどのような人間であるかを明らかにすることであることは、上に述べたとおりであるが、アレントはそのような活力や活動・語りを、強制力・個人的力量や仕事・労働よりも人間的に重要なものだと考える。「その人が何者であるかということが、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり重要であると信じることは、人間的自負(human pride)にとって欠くべからざる要素である」(211, 338)とアレントは説く。彼女の見解は、「ただ俗悪な人(the vulgar)だけが、卑屈にも、自負を自分のなしたことに求めるであろう。このような人は、この卑屈さによって、自分自身の能力の『奴隷や囚人』になるのである。そして、そこにただ愚かな虚栄しか見られないとき、このような人たちは、実際、自分自身の奴隷となり囚人となるのであるが、それは、他人の召使いになるのと同じぐらいつらく、いや、おそらくそれ以上に恥辱的であるということがわかるであろう」(211, 338)というものである。この見解は生き残りを至上とする「労働者の社会」や、業績や能力の大小により人の「価値」が決まるとする仕事主義の社会においては異端の考えかもしれない。だが長ける者・病める者、天賦の才や運に恵まれた者・恵まれない者、順境の者・逆境の者、その他諸々の多種多様の人間が共生する人間の世界の特性からするなら、このアレントの見解は、決して無意味な考えではない8

 現代の先進国は、労働の苦役からはずいぶん解放されたとはいえ、グローバル化された「メガコンペティション」での仕事に追われ、活動としての語りは、人間の営みとして十分その真価を認識されていないようにも思える。もちろん仕事にのみかかわる人間とて、交換市場(exchange market)という公的領域は持っている。しかし、そこではその人は、人格(person)としてではなく、生産物の生産者として他人に出会うにすぎない(209, 335)。マルクスが商業社会の非人間化および自己疎外(dehumanization and self-alienation)として非難したのは、このように他人との関わりを欠き、交換可能な商品に第一の関心をいだくことであった。このような状況において人びとが自分自身を示すことができるのは、家族との私生活の中か、友人との親密な関係の中だけ(210, 336)である。そこで家族や友人とうまく関係がもてなかった人の生活の人間的悲惨さは想像にあまりあるものがある。このような現状において、学校英語教育は何をなしうるのであろうか。

4 公立中学校スピーチ実践の捉えなおし

 以上のアレントの考察を受けて、現代日本の英語教育を考え直してみよう。現在、英語の学習と使用は、グローバリゼーションの荒波にもまれる企業社会においては「サバイバル」のためとしての労働として捉えられがちである。まさに企業が、そして社員が「生き残る」ために英語は必要とされ、それ以上の意味はあまり認識されていない(もちろん企業が利益追求のための組織である以上、この英語認識への断罪的批判は有効ではない)。だが学校現場における生徒は、定義上、学校という空間で、生き残りのための労働を社会的に免除されている存在であるため、多くの企業人のように英語の学習と使用を必須の労働とみなすことはまずない。多くの生徒にとって英語の学習と使用は必然の労働としては立ち現れない。

 それでも、将来の「よりよい職」を求めて進学競争に自らの身を投げ出すつもりの一部の生徒は、英語使用が将来必要となるかもしれないと考え、英語学習を重要と考える。そのような生徒にとっての英語学習は労働ではなく、仕事である。英語学習にいそしむ生徒は、学校教師や塾教師などによって提供される英語学習計画に基づきながらも、一人一人自らを管理し、英語学習の成果という「生産物」を生み出す仕事に従事しているといえる。この場合の「生産物」とは市場に認証されるテスト結果という人工物である。英語は「受験のため」という言い古された言葉は、英語学習が仕事であることを裏付けている。また、文部科学省の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」が掲げる目標も、TOEFL、TOEIC、英検などといった、スコアによって市場価値を持つ交換可能な「生産物」によって定義されている。「グローバル化」における「メガコンペティション」に対応するためには、このような数値目標によって英語教育を「戦略構想」の中に組み込まなければならないといった考えが文部科学省の見解なのであろう。

 かくして英語教育も、しばしばその「生産物」という目的を達成するための手段とみなされ、その目的のために最も効率がよい授業を作るという発想がしばしば取られる。こうして、学校で英語を学ぶことの「固有の自然の真価」は忘れ去られる。英語学習がもっぱら仕事として行なわれる教室は、財政的理由等により仕方なしに多数の人間が押し込まれている空間に過ぎず、生徒にとって、他の生徒の存在は特別な意味を持つものではない。学力、意欲、個性などにおける生徒の多様性は、時に教室の非効率性とすら捉えられかねない。クラスは「生産物」を達成する場所以外の意味を持たず、その達成そのものの意味も(生徒が自らの学習の主人となったという喜びを除けば)、一般社会でのそのテストスコアの交換価値と等しいものとなる。

 無論、現代社会において私たちは功利と無縁でいられない以上、英語教育を仕事として捉えることは重要、いやおそらくは必要である。目的意識を欠く前近代的な英語授業がまだ多いとされる日本の現状では、仕事としての英語授業・学習という観点は重要であろう。だが、仕事の発想が英語学習を支配してしまうならその結末は決して好ましいものとはならないであろう。「目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考えを追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう」(229, 359-360)というのは、全体主義の恐怖を経験したアレントの言葉であり、この言葉を英語教育について語る際に引用することは大仰な印象を与えるかもしれない。だが、「ネイティブのように英語を喋る」という目的だけのために全精力を傾ける、英語に支配された学習者(=「俗悪な人」、「自分自身の能力の『奴隷や囚人』」)の本末転倒加減と悲喜劇は様々な者が指摘するところである(その代表論者としては中村敬や津田幸男などが挙げられるであろう)。もし英語教育が「(測定可能な)英語力の向上」という目的に奉仕する仕事としてしか捉えられないとしたら、「英語力」に優れる者の思い上がりと、「英語力」に劣る者に貼り付けられた不当な悲惨さ、および仕事としての職務上、それらに気づいてはならないとされる英語教師の人間的鈍感さは看過できないものになるであろう。

 こういった状況の中、学校は、多数の人びとが結びつく公的領域としての機能を失いつつあると考えられる。その一方で、家庭の私生活や友人との親密な関係も、少なからずの生徒にとって不安なものとなっている(「引きこもり」はその不安の究極の姿である)。このような状況で英語を学ぶ生徒は、英語テストで高得点を取ることによってのみ、公的領域につながれる(しかし交換可能な、高得点でありさえすれば誰でもよい)存在となり、英語学習・英語使用そのものに意味を感じることができにくい。学習環境である教室・学校も、複数の人間がそれぞれに孤独に独居する場でしかなく、そこからは生徒一人一人のリアリティ・存在は奪われている。公的領域としての教室・学校9からは活力が奪われている。さらには多くの生徒が、親密であるはずの家庭や友人関係(私的領域)にも自らのリアリティ・存在を感じることができないでいる。

 そんな中、田尻実践は、英語学習を、A男という人間が、どのような人間であるかを、英語を通じて自他共に示す活動に高めた。この勇気ある活動によって、A男は自らの存在のリアリティを強く感じることができた。最初は無難なトピックのスピーチしか選ぼうとしなかったA男は、田尻の指導と教室でのスピーチで「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がだれであるかを示し、自分自身を開示しさらけ出す」ことに成功したわけである。「活動と語りによって人間は自己自身を開示するのであるが、その場合、その人はその開示以前に、自分が何者であるか知らないし、自らがどのように開示されるかを予測することもできない」とはアレントの言葉であったが、A男は、このスピーチを通じて、新たな自分を見出し、スピーチ以前とは明らかに違う人間へと成長した。この体験は、A男が仮に将来英語を全く使わない人生を送ったとしても、かけがえのない貴重な体験として彼の人生の糧となるであろう。こういった体験の意義は、様々な生徒が学ぶ公立中学校においては非常に大きい。

 その一方で、以前は荒れていた教室も、多数の人間がつながる公的領域として豊かに成立した。クラスはかつて荒廃し、お互いに刺々しいあるいはよそよそしい孤独な空間でしかなかった。だがクラスは、田尻の指導などを通じて段々と人間的な空間へと変化していき、三年間の最後では、第一の女子生徒は自らの文通相手というプライベートなことを安心してクラスの前で話し、第二の男子生徒は、破天荒なパフォーマンスでクラスを笑いの渦に巻き込み、第三のA男は、"I didn't like my school life. But you were always kind to me. So I became aware that I don't need to worry."と正直に気持ちを吐露することができるまでになった。これら三人の生徒の自己開示は、空々しい人間関係の空間では不可能なものである。いや、親しい人間空間の中でも勇気を必要とするものである。彼/彼女らは、このDVDには写っていない他の生徒共々、それぞれが勇気を持った自己開示をし、また聞き手もその開示を受容することで、このクラスという空間に、活力という、どんな制度も予算も、それだけではもたらすことのできない人間的な力が生まれたのである。

 A男がクラス全員を感動させたのは交換可能・測定可能な「英語力」によってではない。市場価値的な「英語力」という観点なら第一の女子生徒のスピーチが一番と判定されるのかもしれない。だがこのDVDを見た者のおそらく全てはそのような序列化といった俗悪なことはしないであろう。またA男のスピーチが印象的なのは、彼が特技を持っていたからでもない。特技という点なら第二の男子生徒のパフォーマンスこそが、地味なA男のスピーチに勝ることになる。だがおそらく誰もそういった理由でA男のスピーチを第二の男子生徒のスピーチに劣ると判定などしないであろう。A男は、彼が開示した彼の存在とその開示の勇気、およびそれによって生じたクラスの活力によってクラスを感動させた。そして第一の女子生徒も、第二の男子生徒も、それぞれのやり方、人となり(who)によって、クラスを感動させた。活動としての語りが、三年九組というクラスを唯一無二の人間的空間に変えたのである。

 人が他の人々の中で生きるという「人間の条件」を英語教育において確立した田尻実践は、英語という学習言語に、語りが本来持つ固有の活動としての活力を与えたと解釈できる。田尻実践によって、もはや英語は生徒の人格の一部となっている。生徒はそれぞれが英語で自分自身を現している。つまりは英語で自分のリアリティ・存在を獲得している。もし英語教育の目的を「ネイティブ並の英語力をつけること」とだけしか捉えないのなら、帰国子女などを除いた全ての生徒は、英語教育の目的を達し得ない。いや、この点では指導する側の英語教師ですら、目的を達し得ないままに、英語教育の目的を掲げていることになる。だが、もし英語教育の目的を「英語において自分自身であること(Be yourself in English)」と捉えるなら、田尻実践の生徒は見事にこの目的を達成している。

 前にも述べたように、英語教育を仕事として捉え、英語力を、市場的交換価値を持つものとして捉えるという発想を私たちは現代社会において捨てることはできないし、また捨てるべきでもないであろう。だが、A男らのスピーチ、およびそれを可能にした田尻実践を、もっぱら交換可能・測定可能な仕事の生産物の観点から、例えば英検合格率、あるいは文法や発音の正確さや単位時間あたりの発語量などだけで、その意義を捉えようとすることは、英語教育の真価を見失うことである。田尻実践は、英語を学習材料から人格の一部に変えた。田尻は、英語教育を通じて、生徒に活力を感じさせ、人間らしく生きることを教えている。この実践が現代の学校英語教育において持つ意味は大きい。アレント哲学を理解することは、田尻実践の真価を分析することを可能にしている。

1 アレント哲学の理解を深めてくれたThe Work in Progress Seminar: Hannah Ardent Sessionsのメンバー、特にRichard Parker(広島修道大学・法哲学)、柿木伸之(広島市立大学・哲学)に感謝する。

2 田尻実践の中でも、このスピーチ実践が特殊なものでないことは、2004年11月3日に一時間枠で、NHK教育テレビで放送された「わくわく授業スペシャル」の中でもうかがえる。この番組では、田尻が、生徒に自然の中で感じたことを5行詩の形で発表させる実践や、ニューヨークからのALTという異なる背景を持つ人にふるさと比田のよさを訴えかける実践が見られる。これらはフォニックスや語順指導といった言語教授の集大成として組まれた活動で、生徒自らが感じ考えたことを、他の多くの人々(生徒・ALT)に語りかける広義のスピーチ実践になっている。

3煩雑を避けるためThe Human Conditionからの引用ページ数は、括弧内の数字のみにて標記する。最初の数字が原著、次が訳書のものである。翻訳に関しては訳書を参考としたが随所で変更を加えている。

4多数性を重要な人間の条件とするこの彼女の考えによれば、活動が行なわれる「公的領域」(public realm)こそが、人間が最も人間らしく生きられる空間であり、家庭などの「私的領域」(private realm)は、憩いの場であるという意味で重要ではあるが、「私的生活だけを送る人間や、奴隷のように公的領域に入ることを許されていない人間、あるいは野蛮人のように公的領域を樹立しようとさえしない人間は完全な意味での人間とはいえない」(38, 60)とアレントは考える。ちなみに'private'という語は、語源的に'deprived'、つまり「なにものかを奪われている」状態を意味すると彼女は解説している。

5 この「語り」の原語である"speech"は、"the act of speaking: communication or expression of thoughts in spoken words"(Merriam-Webster)といった最も基本的な意味でもって使われており、日本語でいういわゆる「スピーチ」よりも広い意味を持つため、訳語としてはより広い意味を持つ「語り」を選んだ。もちろん「スピーチ」は「語り」の一種である。

6 この点において、アレントの言語論は、言葉(words)を使うことが、言語行為(speech act)につながり、その言語行為において、私たちは相互理解を行なうというAustin (1961)の言語行為論と親近性を持つとも考えられる。この親近性から、アレントの"action"を("act"の同根語として)行為と訳すことも可能だが、ここでは定訳とも考えられる訳書での訳である活動を尊重した。

7 もちろんその逆の弾圧や「暴政」(tyranny 202, 325)も多いことも事実であるが、人間の世界では、人々の活力が一見圧倒的に見える強制力や個人的力量に勝ることがあるということは特筆されるべきである。

8そもそも「教育」は労働と仕事を目指しているのであろうか、それとも活動であろうか。あまりに単純化された対照は危険かもしれないが、こういった問いは、英語「教育」学にとって無縁であってはならないと筆者は考える。

9 もちろんアレントのいう公的領域とは、政治的空間としてのポリスであり、厳密には教室・学校は公的領域ではない。だが教室・学校は、家庭の私的領域と公的領域の間に私たちが挿入した制度であり、子どもにとっては公的領域を代表する空間である(Arendt, 1961, pp. 188-189)。

参考文献

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Press.

Arendt, H. (1958). The Human Condition. (2nd ed.). Chicago: The University of

Chicago Press.

Arendt, H. (1961). Between Past and Future. London: Penguin Books.

Arendt, H. (1963). On Revolution. London: Penguin Books.

菅正隆, 北原延晃, 久保野雅史, 田尻悟郎, 中嶋洋一, 蒔田守. (2003).『どの子も英語が好

きになりたい 6-way Street 何を教えて何を学ぶのか(DVD上巻・下巻)』. 東京:バンブルビー&メディアコム.

田尻悟郎. (2002). 「心を育てる授業を追求して」. 三浦孝・弘山貞夫・中嶋洋一編著

『だから英語は教育なんだ』東京:研究社

津田幸男. (1990). 『英語支配の構造』. 東京:第三書館.

津田幸男. (2003). 『英語支配とは何か』. 東京:明石書店

中村敬. (1993). 『外国語教育とイデオロギー』. 東京:近代文芸社.

中村敬, 峯村勝. (2004)『幻の英語教材----英語教科書、その政治性と題材論』. 

東京:三元社

ハンナ・アレント著、志水速雄訳. (1994). 『人間の条件』. 東京:ちくま学芸文庫.

ハンナ・アレント著、引田隆也・齋藤純一訳. (1994). 『過去と未来の間』. 東京:みすず

書房

ハンナ・アレント著、志水速雄訳. (1995). 『革命について』. 東京:ちくま学芸文庫.

文部科学省. (2003).「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/15/03/030318a.htm

 

以下の原稿は、2004年8月8日全国英語教育学会第30回長野研究大会で口頭発表するための資料です。まだ草稿ですので、引用はしないでください。

 

 

アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析

 

柳瀬陽介 広島大学

 
 

1 本論文の目的

 本論文では、DVD 6-way Street(菅 他 2003)に見られる、公立中学校でのスピーチ実践(特に田尻実践)を、ハンナ・アレント(Hannah Arendt, 1906-1975)が『人間の条件』(The Human Condition, 1958)で示した哲学的枠組みを通じて分析する(注1)。この狙いは、スピーチ実践を、アレントの哲学的考察により<活動>(action)として捉え、それが公立中学校という空間でどのような意義を持つのかを明らかにすることである。本論文の主張は、スピーチ実践は、学習者が「多種多様な人びとがいるという人間の多数性」を持つ公立中学校の教室という空間で、その人が何者(who)であるかを示す人間的な営みとなり、その営みにおいてそれまで学習者が学習してきた英語が、他の手段と代替出来ない語り(speech)本来の意義を担うというものである。本論文はこの主張の根拠としてアレントの論考を用い、証拠としてDVD 6-way Streetで収録されているMy treasureというスピーチ実践を用いる。本論文の批判的評価は、この主張-根拠-証拠の結びつきによって見えてくる英語教育の新たな解釈と、その結びつきの整合性を吟味することによってなされると筆者は考える。

 

2 公立中学校スピーチ実践

 6-way Streetの上巻二枚目では、「Show and Tellの指導と評価」として、6名の教師(菅正隆、北原延晃、久保野雅史、田尻悟郎、中嶋洋一、蒔田守)のそれぞれの実践が紹介されている。これらの実践を分析することは、公開され共有されているデータを基に考察をすることであり、英語教育研究の公共化のために有効である。これらのうち、本論文では特に公立中学校におけるスピーチ実践を考察の対象とする。理由は二つある。

 まずは、なぜ公立中学校を選ぶかに関してだが、それは公立中学校という空間が、校種の中で最も多種多様な人間が集まる場所であるからである。例えば私立中学校なら、その授業料負担ということで、生徒の親の社会階層はある程度限られるだろう。また(厳密には「公立」かもしれないが)国立大学附属校などにおいても、例えば遠距離通学を厭わない「教育熱心」な親を持つといったように、一定の傾向があると考えられる。また高校においては、たいていの場合は偏差値と進路選択による選別がなされ、生徒集団は比較的似通った者の集まりとなる。こういった点から考えると公立中学校は、親が裕福な生徒からそうでない生徒まで、本人に学力がある場合からそうでない場合まで、あるいは英語や進学に関する意欲が強い場合からそうでない場合まで、といったように(後に導入するアレント哲学の用語を先取りするなら)、「人間の多数性」(human plurality)を最も備えた空間となっている。その生徒の多種多様性ゆえに公立中学校での英語教育実践は困難に満ちているのだが、逆にいうなら公立中学校で英語教育実践が成功するなら、それは全ての校種における実践の希望となる。こうした理由から公立中学校における実践に特に注目することには意義がある。

 次になぜスピーチ実践を考察の対象とするかについて述べる。ここでの「スピーチ」(speech)とは、"a talk, especially a formal one about a particular subject, given to a group of people (LDOCE)"を指す日本語である(「演説」という訳語は、日本語として大仰な含意を持つので「スピーチ」という言葉を訳語とする)。6-way streetにおいては、スピーチ実践以外にshow-and-tellの実践も紹介されているが、show-and-tellとは、"a classroom exercise in which children display an item and talk about it"(Merriam-Webster)や「生徒に珍しいものをもって来させて説明させること。『見せてお話』(小学校低学年の教育活動)」(『リーダーズ英和』)といった定義(つまりは私たちの共通理解)からもわかるように、どちらかというと低年齢向けの活動である。本論文では英語教育の人間的な側面に着目したいので、show-and-tellよりも本人の個性が強く出やすいスピーチ実践を考察の対象とする。

 そうして6-way streetの中から実践を割愛してゆくと、残るのは北原実践、中嶋実践、田尻実践である。これらはすべて"My Treasure"というタイトルで、それぞれの生徒が大切にしているものについてスピーチをさせているが、北原実践は、ALTとの一対一のインタラクションであり、聴衆はALTのみである。複数の(多様な)人間に語りかけることを私たちはスピーチの定義としたので、ここで北原実践も割愛せざるを得ない。中嶋実践は十分に考察の対象としたいところであるが、この実践は中嶋自身の解説にもあるようにスピーチにおける「論理性」、「視線」、「プレゼンテーション」の重要性を指導した実践ともとらえられるので、本論文では、生徒の個性表現を最も促進していると考えられる田尻実践のみを考察の対象とする。

 田尻実践は、中学三年間の最後の英語授業に行われたスピーチ発表の様子を録画したものである。最初の女子生徒は、九年間続いている文通友達について、二番目の男子生徒は、部活で使っているサッカーボールについてスピーチをする。女子生徒は、彼女の地道な学習で築いた端正な英語で、男子生徒は、やや聞き取りにくい英語ながらも、満面の笑顔と破天荒のパフォーマンスで、それぞれの個性を聴衆に示す。だが最も注目に値するのは三番目の朴訥な男子生徒によるスピーチである。

 この生徒(A男)のスピーチを、田尻(2002)に従って、背景から再構成してみよう。この公立中学校は生徒数が1000人を超える大規模校で、生徒でごった返す廊下では、お互いよけることもせず、ぶつかったとて言葉を交わすこともない。校門に立って朝の挨拶をする田尻に返事を返す生徒はほとんどいない。一年生を担当し、そのまま持ち上がることになる田尻は、生徒を育てて学校に温かさを取り戻そうと思ったが、一年の三学期ではめまいがおこるほど毎日問題がおきることとなる。二年になると多くの生徒がクラスに疎外感を感じるようになる。田尻はこれらの問題は、生徒同士がうまくコミュニケーションを取れないことに起因していると分析し、英語科はコミュニケーションの仕方を教える教科なのだから、「授業を通じて生徒同士が関わり合い、お互いを理解し、認め、支えあえるようにしてやりたいと考え、日々の授業作りに精を出した」と解説する。6-way Streetに収録されたスピーチ実践はこういった三年間の英語学習の集大成であり、A男のスピーチはその中でも最後のスピーチであった。

 田尻は、穏やかで優しい気持ちを持つ、見た目は地味なA男を、敢えて最後のスピーカーとすることを決める。彼は給食のかごや缶が残っていると、当番でなくても、だれも見ていなくても、無言で持っていく生徒であり、親とケンカして家を飛び出したクラスメートと出会った時には温かいジュースを差し出しながら説得する男でもあった。そんな彼は当初、おばさんに買ってもらった東京タワーのミニチュアを"My Treasure"として話す準備をしていたが、田尻は、A男の中学生活を振り返るエピソードを思い出させ、それに関連することをスピーチにしろと半ば強引に内容変更を指示したところ、A男は涙をぽろぽろとこぼし始めた。様々な思いが頭の中を駆け巡ったのだろう。彼は嗚咽した。収録されたスピーチは、そうして書かれ、何度も練習されたスピーチの本番である。

 スピーチの冒頭でA男は"My treasure is these water swimming goggles."と述べる。彼は朝五時に起き、スイミングスクールに通う生徒であった。彼は水泳大会で競技中にそのゴーグルがはずれてしまい、散々な成績に終わり泣いたこと、しかしそれをバネに、中国地区大会に出場するまでになったことを英語で述べる。しかし、"But I kept thinking about my school life."と彼はスピーチを彼なりの朴訥な語り口で展開させる。彼の中学校の水泳部は弱小なため、彼はスイミングスクールで練習するが、そのため彼は一緒に帰宅する友達も持てない状況となる。そうなると昼間の教室でも一緒に話す話題がなくなり"I didn't like my school life."とまで彼は言い切る。このあたりの彼は必死で涙をこらえながら語っている。

 しかし彼はそこから、穏やかな笑顔でこう続ける。"But you were always kind to me. So I became aware that I don't need to worry. Now I have two treasures. These goggles gave me a good chance to make myself swim well. But if I didn't belong to this class, I would not go to school. So Class 3-9 is my another treasure. Thank you."このスピーチはクラス全員をして「感動した」と言わしめたと田尻は報告する。

 このようなスピーチ実践は、どのような人間の行為になっていると解釈するべきであろうか。筆者はアレントの分析が、大きな手がかりとなると考える。

 

3 アレントによる<労働>、<仕事>、<活動>の区別

 アレントはドイツに生まれ、マーブルク大学でハイデガーやブルトマンに、ハイデルベルク大学でヤスパースに、フライブルク大学でフッサールに師事するが、ナチズムがドイツで勝利を収めた1933年にユダヤ人である彼女はドイツから亡命しパリに移る。彼女はその後1941年にアメリカに移住し本格的な著作活動を開始した。本論文で取り上げる1958年の『人間の条件』(The Human Condition)は、1951年の『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism)と並ぶアレントの主著である。『全体主義の起源』でその時代にとっての切迫した政治的問題を扱った後、彼女はこの『人間の条件』で、より根源的に人間のあり方について考察を加える。

 アレントは「根本的な人間的営み」(fundamental human activities)として、<労働>(labor)、<仕事>(work)、<活動>(action)をあげる(注2)。<労働>とは、生命を生物として維持するための、「人間の肉体の生物的過程に対応する営み」(7, 19)(注3)であり、「その努力の結果はただちに消費され、後に何も残さない」(87, 140)ことを特徴とする。<労働>は、有史以前の原始社会における主要な営みといえるだろう。逆に言うなら現代において、人間が<労働>だけに追われることは、アレントによれば人間的だとはいえない状態であり、彼女はこれを「貧困」(poverty)と呼ぶ(Arendt(1963: 60))。あるいは、人間が、自ら行うことを「第一義に自分の生命と自分の家族の生命を維持する方法にすぎないと考え」(46, 71)、社会が「ただ生命の維持のためにのみ存在する相互依存の事実だけが公的な重要性を帯び、ただ生き残りにのみ結びついた営みだけが公的領域に現れるのを許されている形式」(46, 71)に他ならないなら、その社会は「労働者の社会」(a society of laborers)と呼ばれるべきであり、この意味では、「サバイバル」や「家事」に追われてその他の人間的な営みをする余裕を失ってしまった人々を多く抱える現代日本などは「労働者の社会」という性格を帯びているのかもしれない。

 アレントが<労働>の次にあげる人間の主な営みは<仕事>である。<仕事>とは、人間存在の非自然性に対応する営みであり、「すべての自然環境と際立って異なる、物の『人工的』世界(an "artificial" world of things)を作り出す」(7, 19-20)と彼女は説明する。つまり<仕事>は、生物的生存のために必要な自然の営みではなく、単に生存のために消費されるだけにとどまらない何かを、自分の手で作り出すことである。<仕事>をする<工作人>(homo faber)は、「無限といってもいいほど多種多様な物を制作し、その総計全体が人間の人工物(artifice)を成す」(136, 223)のである。それら人工物である物は、「ロックが財産となるのに必要とした耐久性(durability)、アダム・スミスが交換市場に必要とした『価値』("value")、マルクスが人間本性の証と信じた生産性(productivity)」を有する(136, 223)。かくして人間は、人工物の制作によってこの地球の様相を単なる自然環境から一変させた。

 <仕事>は人間のあり方も変える。人間は、<労働>においては自然に依存し、<労働>は生存を続ける限り終わることがない。後に説明する<活動>において人間は、他の人々にそれぞれ依存する。<活動>には始まりはあっても、それが他の人々に投げかけられるため終わりをもたない。だが<仕事>においてはいわば人間は自己完結している。制作は「明確な始まりと予見できる終わりをもっている」(143, 233)からである。<工作人>は、自然物から人工物を作り出すことにおいて自然の主人(master)となり、自分自身と自分の行いの主人ともなる。

 <仕事>においては、「目的(end)が手段(means)を正当化し、さらには手段を生み出し組織化」(153, 244)する。「最終生産物(end product)が、仕事過程(work process)そのものを組織し、必要とされる専門家、協働の規模、助手の数などを決定する。仕事過程を通じて、すべてがただ望まれた目的(end)に適合し有益であるか(suitability and usefulness)という観点からのみ判断され、それ以外の観点は入ってこない」(153, 245)のが<仕事>の特徴である。

 このように<仕事>において人間は自己完結しているが、その<仕事>の成果である生産物は、それ自身で完結することは少なく、他の生産物との手段-目的の連鎖の中に絡め取られ、それ自身の価値を失ってゆく。<仕事>の最終生産物は、それを作り出す手段と製作過程の目的(end)ではあっても、それ自身で完結した目的となることはない。それはさらなる目的を達成するための手段となる。「すべての物が手段に堕し、それに固有の独立した価値を失う」(156, 249)わけである。かくして「それ自身意味のある理由のために」("for the sake of")重要であるという「有意味性」(meaningfulness)が失われ、「ある目的のために」("in order to")重要であるという「功利」(utility)(154, 245)だけが姿を現す。しかし、ある目的が、さらなる別の目的に役立つための手段となるという、功利の連鎖は終わることがなく、人間は功利そのものを正当化する原理を失ってしまう。「功利の功利とは何か」ということに答えられない功利主義の困惑を抱えたまま、私たちは手段-目的の連鎖の中に絡め取られ、結果的に自らの<仕事>の意味を見失ってしまう。生産物は、公的領域(public realm)での「市場価値」("marketable value")を持つのみとなり、物に「固有の自然の真価」("intrinsic natural worth")が失われてしまう(164, 260)。<工作人>は制作において自己完結しているかもしれないが、<仕事>の意味に関しては、市場での交換価値に頼るだけとなる。こういった<仕事>は、産業革命、さらには(アレントの時代には実像を現していなかったが)情報革命、グローバリゼーションを経て、商品を生産し市場で交換すること、さらにはその過程を、さらなる効率化という目的のための手段とすることに毎日追われる、近代社会における人間の主要な営みと言えるかもしれない。私たちの思考も、この<仕事>の発想に強い影響を受けていると言える。

 しかしアレントは<労働>と<仕事>だけを人間の営みとはしない。彼女のいう<活動>は、自然の中の生存でも、自然からの人工物の制作でもない。<活動>は、人間が、他の人間との中で自分が「何者」("who")であるかを明らかにする営みである。<活動>は、「物あるいは物質の介入なしに直接人と人の間で行なわれる唯一の営みであり、多数性(plurality)という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのは一人の人間(Man)ではなく、多数の人びと(men)であるという事実に対応する」(20, 7)ものである。このようにアレントは「人間的」(human)であること、つまりは「人間の条件」(the human condition)を、多種多様な人間の中にいることと定義している。おそらくアレントが<活動>を最も「人間的」な営みと考えるのもこの理由からである(注4)。

 この<活動>は、語り(speech)と密接に結びついている(注5)。たしかに<労働>や<仕事>においても人間は語りを用いるかもしれない。しかしその場合の語りは、しばしば数字といった記号によって置き換えられるものであり、さらには<労働>や<仕事>は、全くの沈黙のうちに、強制力(force)や精神的・身体的力(strength)を行使することによってなしうる(効率のみを考える管理者には、語りを、<労働>や<仕事>の単なる邪魔と考えるものも少なくないであろう)。しかし<活動>は、語ることと密接に結びついており、ほとんどの<活動>は語ることを通じて行なわれる。<活動>と語りにおいて、「人びとは自分が何者であるかを示し、その人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界に姿を現す」(179, 291)わけであるが、この<活動>は「言葉(words)によってこそ、人間に理解できるように明かされる」(179, 290)とアレントは説明する。たしかに「人間の行為(deed)は、言葉を伴わなくても、その動物的な身体的現れから理解されるかもしれないが、その行為を意味あるものにするのは、行為者が自分を<活動>する者として自認し、自分が何をするか、何をしたか、何をするつもりであるかを告知する語られる言葉だけである」(179, 290)わけである。つまり<活動>としての語りは、その人が、どんな特質、天分、才能、欠陥を持った「なに」("what")であるかではなく、「何者」("who")であるかを示すのである(注6)。

 アレントはこの<活動>としての語りを、「人間である以上止めることができない創始」(an initiative from which no human being can refrain and still be human)(176, 287)としてとらえる。<労働>や<仕事>は他人に委ねることができ、それでも人間は人間であることを止めることはない。だが、語りと<活動>のない生活は、人びとの間で生きられるという人間の条件(多数性)を欠いている以上、人間の生活ではないとアレントは主張する。やや単純な例を出すならば、遺産等により、生存のための<労働>をすることもなく、制作のための<仕事>をすることがない人間がいたとしても、彼/彼女はその理由ゆえに(羨望の対象となることはあっても)人間的な生活を送っていないとは必ずしもならない。だが、もし彼/彼女が全くの孤独の中に生き、他の人間との中で他人を理解し、自らを示すことがなければ、彼/彼女は人間的な生活をしているとはいえない、というのがアレントの主張である。

 <活動>としての語りは、他の人間との関係の中で行なわれる以上、人は単に<活動>の語りの行為者(doer)であるだけでなく、その反応を受ける受難者(sufferer)でもある。語る者は、語る主体ではあるが、同時に、他人という自らのコントロールを超えた者に理解されるという受動的存在でもある。また、<活動>の語りは、創始ではあるが、それは終わりという限界を持たない。新しい<活動>は自分にもはねかえり、他人にも影響を与える。<活動>は人間関係の網の目の中で反応を呼び、その反応がさらなる反応を呼ぶわけである。またその一連の反応がどのようになるかを私たちは予め知ることはできない。これは自分のコントロール圏の中で完結する<仕事>と好対照である。語りに代表される<活動>は、「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がだれであるかを示し、自分自身を開示しさらけ出す」(186, 303)ことであり、終わりなき連鎖に自らを投げ出す勇気ある行動でもある。「活動と語りによって人間は自己自身を開示するのであるが、その場合、その人はその開示以前に、自分が何者であるか知らないし、自らがどのように開示されるかを予測することもできない」(192, 311)わけである。

 この<活動>が行なわれる空間(space)を、アレントは古代ギリシャの伝統にならってポリス(polis)と呼ぶ。これは、「共に活動し、共に語ることから生まれる人々の組織」(198, 320)であり、「共に行動し、共に語るというおの目的のために共生する人びとの間に生まれるのであって、それらの人びとが、たまたまどこにいるかということとは無関係」(198, 320)である。アレントはこの空間を人間存在にとって非常に重要なものだと考える。すべての人間は行為する能力や語る能力を持つが、古代における奴隷や外国人、現代において賃仕事(job)やビジネス(business)に追われる者などの多くの人間はこのポリスという空間に生きていない。この空間を奪われているということは、リアリティ(reality)を奪われているということであり、これは人間的・政治的に言うなら現れ(appearance)を奪われていることである。人間にとって、世界のリアリティとは、他人にとって自分が何らかの形で現れることによって保障されるものであって、すべての人間にとっての現れを私たちは存在(Being)と呼ぶ、とアレントは説く(199, 320-321)。つまり、<労働>と<仕事>だけに追われ、語りによる<活動>を欠く人々は、人間としてのリアリティを奪われているに等しい。<仕事>に専念する<工作人>(homo faber)は生産物を、<労働>だけに従事する<労働する動物>(animal laborans)としての人間は生命の維持を、それぞれ人間としてのリアリティよりも重要なものとみなし、<活動>としての語りを「怠惰、怠けるためのおせっかい、怠けるためのおしゃべり」(208, 333)として非難する傾向にある。しかし現れの空間における<活動>としての語りこそは、「自分自身のリアリティ、自分自身のアイデンティティ、周りの世界に対するリアリティ」(208, 333)を確立させるものである。

 このようなポリスという空間には活力(power)が見られる。「活力とは、言葉と行為が袂を分かつことなく、言葉が空虚でなく、行為が動物的(brutal)でない場合、言葉が意図を隠すためでなく、リアリティを開示するために使われ、行為が関係を侵害し破壊するためではなく関係を確立し新しいリアリティを創造するために使われる場合にのみ実現する」(200, 322)とアレントは規定する。この活力こそが行為し語る人間にとっての現れの場である公的領域を保つものである。活力は、「強制力(force)や精神的・身体的力(strength)のような、不変の、測定可能な信頼できる実体ではなく、人々が共に行為する時に生じ、人びとが離散すると同時に消え去る」(200, 322)ものであるにすぎないが、その特殊性ゆえに、数や手段といった物質的要因では説明しがたい驚くべき力を時に発することである。人間的・政治的には少数の者の活力が、多数派の物理的力や身体的力をしのぐことは珍しくはない(注7)。「いかなる理由であれ、自らを孤立させ共生(being together)に加わることない者はどんな者も、どれだけ身体的力を持ち、孤立の理由がどんなに妥当なものであり、活力を喪失し無力になる」(201, 324)とアレントは総括する。人は公的領域における語りと<活動>において活力という人間的力を手に入れる。

 その活力は行為者がどのような人間であるかを明らかにすることであることは、上に述べたとおりであるが、アレントはそのような活力や<活動>・語りを、物理的力・身体的力や<仕事>・<労働>よりも人間的に重要なものだと考える。「その人が何者であるかということが、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり重要であると信じることは、人間的自負(human pride)にとって欠くべからざる要素である」(211, 338)とアレントは説く。彼女の見解は、「ただ野卑な人(the vulgar)だけが、卑屈にも、自負を自分のなしたことに求めるであろう。このような人は、この卑屈さによって、自分自身の能力の『奴隷や囚人』になるのである。そして、そこにただ愚かな虚栄しか見られないとき、このような人たちは、実際、自分自身の奴隷となり囚人となるのであるが、それは、他人の召使いになるのと同じぐらいつらく、いや、おそらくそれ以上に恥辱的であるということがわかるであろう」(211, 338)というものである。この見解は生き残りを至上とする「労働者の社会」や、業績の多寡により「価値」が決まるとする<仕事>主義の社会においては異端の考えかもしれない。だが長ける者・病める者、天賦の才や運に恵まれた者・恵まれない者、順境の者・逆境の者、その他諸々の多種多様の人間が共生する人間の世界の特性からするなら、このアレントの見解は、決して無意味な考えではない(注8)。

 現代の先進国は、<労働>の苦役からはずいぶん解放されたとはいえ、グローバル化された「メガコンペティション」での<仕事>に追われ、<活動>としての語りは、人間の営みとして十分その真価を認識されていないようにも思える。もちろん<仕事>にのみかかわる人間とて、交換市場(exchange market)という公的領域は持っている。しかし、そこではその人は、人格(person)としてではなく、生産物の生産者として他人に出会うにすぎない(209, 335)。マルクスが商業社会の非人間化および自己疎外(dehumanization and self-alienation)として非難したのは、このように他人との関わりを欠き、交換可能な商品に第一の関心をいだくことであった。このような状況において人びとが自分自身を示すことができるのは、家族との私生活の中か、友人との親密な関係の中だけ(210, 336)である。そこで家族や友人とうまく関係がもてなかった人の生活の人間的悲惨さは想像にあまりあるものがある。このような現状において、学校英語教育は何をなしうるのであろうか。

 

4 公立中学校スピーチ実践の捉えなおし

 以上のアレントの考察を受けて、現代日本の英語教育を考え直してみよう。現在、英語の学習と使用は、グローバリゼーションの荒波にもまれる企業社会においては「サバイバル」のためとしての<労働>として捉えられがちである。まさに企業が、そして社員が「生き残る」ために英語は必要とされ、それ以上の意味はあまり認識されていない(もちろん企業が利益追求のための組織である以上、この英語認識への断罪的批判は有効ではない)。だが学校現場における生徒は、定義上、学校という空間で、生き残りのための<労働>を社会的に免除されている存在であるため、多くの企業人のように英語の学習と使用を必須の<労働>とみなすことはまずない。多くの生徒にとって英語の学習と使用は必然の<労働>としては立ち現れない。

 それでも、将来の「よりよい職」を求めて進学競争に自らの身を投げ出すつもりの一部の生徒は、英語使用が将来必要となるかもしれないと考え、英語学習を重要と考える。そのような生徒にとっての英語学習は<労働>ではなく、<仕事>である。英語学習にいそしむ生徒は、学校教師や塾教師などによって提供される英語学習計画に基づきながらも、一人一人自らを管理し、英語学習の成果という「生産物」を生み出す<仕事>に従事しているといえる。この場合の「生産物」とは市場的に認証される形でのテスト結果という人工物である。英語は「受験のため」という言い古された言葉は、英語学習が<仕事>であることを裏付けている。また、文部科学省の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」が掲げる目標も、TOEFL、TOEIC、英検などといった、スコアによって市場価値を持つ交換可能な「生産物」によって定義されている。「グローバル化」における「メガコンペティション」に対応するためには、このような数値目標によって英語教育を「戦略構想」の中に組み込まなければならないといった考えが文部科学省の見解なのであろう。

 かくして英語教育も、しばしばその「生産物」という目的を達成するための手段とみなされ、その目的のために最も効率がよい授業を作るという発想がしばしば取られる。こうして、学校で英語を学ぶことの「固有の自然の真価」は忘れ去られる。英語学習がもっぱら<仕事>として行なわれる教室は、財政的理由等により仕方なしに多数の人間が押し込まれている空間に過ぎず、生徒にとって、他の生徒の存在は特別な意味を持つものではない。クラスは「生産物」を達成する場所以外の意味を持たず、その達成そのもの意味も(生徒が自らの学習の主人となったという喜びを除けば)、一般社会でのそのテストスコアの交換価値と等しいものとなる。

 無論、現代社会において私たちは功利と無縁でいられない以上、英語教育を<仕事>として捉えることは重要、いやおそらくは必要である。だが、<仕事>の発想が英語学習を支配してしまうならその結末は決して好ましいものとはならないであろう。「目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考えを追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう」(229, 359-360)というのは、全体主義の恐怖を経験したアレントの言葉であり、この言葉を英語教育について語る際に引用することは大仰な印象を与えるかもしれない。だが、「ネイティブのように英語を喋る」という目的だけのために全精力を傾ける、英語に支配された学習者(=「野卑な人」、「自分自身の能力の『奴隷や囚人』」)の本末転倒加減と悲喜劇は様々な者が指摘するところである(その代表論者としては中村敬や津田幸男などが挙げられるであろう)。もし英語教育が「(測定可能な)英語力の向上」という目的に奉仕する<仕事>としてしか捉えられないとしたら、「英語力」に優れる者の勘違いと、「英語力」に劣る者にもたらされた不当な悲惨さ、および「職務上」、それらに気づいてはならないとされる英語教師の人間的鈍感さは看過できないものになるであろう。

 こういった状況の中、学校----その典型としての公立中学校----は、多数の人びとが結びつく公的領域としての機能を失いつつあると考えられる。その一方で、家庭の私生活や友人との親密な関係も、少なからずの生徒にとって不安なものとなっている(「引きこもり」はその不安の究極の姿である)。このような状況で英語を学ぶ生徒は、英語テストで高得点を取ることによってのみ、公的領域につながれる(しかし交換可能な、高得点でありさえすれば誰でもよい)存在となり、英語学習・英語使用そのものに意味を感じることができにくい。学習環境である教室・学校も、複数の人間がそれぞれに独居する場でしかなく、さらには多くの生徒が親密であるはずの家庭や友人関係にも自らの存在を感じることができない。

 そんな中、田尻実践は、英語学習を、A男という人間が、どのような人間であるかを、英語を通じて自他共に示す<活動>に高めた。この勇気ある<活動>によって、A男は自らの存在のリアリティを強く感じることができた一方、以前は荒れていた教室も、多数の人間がつながる公的領域として豊かに成立した。A男がクラス全員を感動させたのは交換可能・測定可能な「英語力」によってではない。彼が開示した彼の存在とその開示の勇気、それによって生じたクラスの活力によってである。<活動>としての語りが、三年九組というクラスを唯一無二の人間的空間に変えたのである。

 人が他の人々の中で生きるという「人間の条件」を英語教育において確立した田尻実践は、英語という学習言語に、語りが本来持つ固有の<活動>としての活力を与えたと解釈できる。A男のスピーチ、およびそれを可能にした田尻実践を、もっぱら交換可能・測定可能な<仕事>の観点から、例えば英検合格率、あるいは文法や発音の正確さや発語量などだけで、その意義を捉えようとすることは、英語教育の真価を見失うことである。田尻実践は、英語教育を通じて、生徒に活力を感じさせ、人間らしく生きることを教えている(注9)。この実践が現代の学校英語教育において持つ意味は大きい。

 

1 アレント哲学の理解を深めてくれたThe Work in Progress Seminar: Hannah Ardent Sessionsのメンバー、特にRichard Parker(広島修道大学・法哲学)、柿木伸之(広島市立大学・哲学)に感謝する。

2 <労働>、<仕事>、<活動>という語は、アレントが本を通じて定義・説明している重要な専門用語なので<>と共に表記することとする。その他の<>で挟まれた語も、アレントが特別な意味を込めた用語であることを示す。

3 煩雑を避けるためThe Human Conditionからの引用ページ数は、括弧内の数字のみにて標記する。最初の数字が原著、次が訳書のものである。翻訳に関しては訳書を参考としたが一部変更を加えている。

4 したがって個人的な気晴らしにとどまる「趣味」などをアレントは「根本的な人間的営み」としては考えていない。多数性を人間の条件とするこの彼女の考えによれば、<活動>が行なわれる「公的領域」(public realm)こそが、人間が最も人間らしく生きられる空間であり、家庭などの「私的領域」(private realm)は、憩いの場であるという意味で重要ではあるが、「私的生活だけを送る人間や、奴隷のように公的領域に入ることを許されていない人間、あるいは野蛮人のように公的領域を樹立しようとさえしない人間は完全な意味での人間とはいえない」(38, 60)とアレントは考える。ちなみに'private'という語は、語源的に'deprived'、つまり「なにものかを奪われている」状態を意味すると彼女は解説している。この点、元々個人的な気晴らしの「趣味」についても、多くの人が、それが高じるにつれサークルを作ったりホームページの掲示板を開いたりして、趣味を「私的領域」から「公的領域」へ自発的に移すのは、「公的領域」が人間の自己実現のために非常に重要であることの例証となっているように考えられる。

5 この「語り」の原語である"speech"は、"the act of speaking: communication or expression of thoughts in spoken words"(Merriam-Webster)といった最も基本的な意味でもって使われており、日本語でいういわゆる「スピーチ」よりも広い意味を持つため、訳語としてはより広い意味を持つ「語り」を選んだ。もちろん「スピーチ」は「語り」の一種である。

6  この点において、アレントの言語論は、言葉(words)を使うことが、言語行為(speech act)につながり、その言語行為において、私たちは相互理解を行なうというAustin (1961)の言語行為論と親近性を持つ。この親近性から、アレントの"action"を("act"の同根語として)<行為>と訳すことも可能だが、ここでは定訳とも考えられる訳書での訳である<活動>を尊重した。

7  もちろんその逆の弾圧や「暴政」(tyranny 202, 325)も多いことも事実であるが、人間の世界では、活力が物理的力や身体的力に勝ることがあるということは特筆されるべきである。

8 そもそも「教育」は<労働>と<仕事>を目指しているのであろうか、それとも<活動>であろうか。あまりに単純化された対照は危険かもしれないが、こういった問いは、英語「教育」学にとって無縁であってはならないと筆者は考える。

9  文部科学省の用語ならこれは「生きる力」となるのだろうか。

 

主な引用文献

Austin, J. (1961). How to Do Things with Words. Cambridge: Harvard University Press.

Arendt, H. (1958). The Human Condition. (2nd ed.). Chicago: The University of Chicago Press.

Arendt, H. (1963). On Revolution. London: Penguin Books.

菅正隆, 北原延晃, 久保野雅史, 田尻悟郎, 中嶋洋一, 蒔田守. (2003).『どの子も英語が好

きになりたい 6-way Street 何を教えて何を学ぶのか(DVD上巻・下巻)』. 東京:バンブルビー&メディアコム.

田尻悟郎. (2002). 「心を育てる授業を追求して」. 三浦孝・弘山貞夫・中嶋洋一編著 『だから英語は教育なんだ』東京:研究社

津田幸男. (1990). 『英語支配の構造』. 東京:第三書館.

津田幸男. (2003). 『英語支配とは何か』. 東京:明石書店

中村敬. (1993). 『外国語教育とイデオロギー』. 東京:近代文芸社.

中村敬, 峯村勝. (2004)『幻の英語教材----英語教科書、その政治性と題材論』. 東京:三元社

ハンナ・アレント著、志水速雄訳. (1994). 『人間の条件』. 東京:ちくま学芸文庫.

ハンナ・アレント著、志水速雄訳. (1995). 『革命について』. 東京:ちくま学芸文庫.

文部科学省. (2003).「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/15/03/030318a.htm

 

以下の資料は、第30回全国英語教育学会(会場JA長野)2004年8月7-8日の際の、口頭発表用資料です。

アレント『人間の条件』による公立中学校スピーチ実践の分析

 

柳瀬陽介 (広島大学)

 
キーワード:スピーチ、6-way、公立中学校
 

1 本発表の目的

 本発表では、DVD 6-way(バンブルビー)に見られる、公立中学校でのスピーチ実践を、ハンナ・アレント(Hannah Arendt, 1906-1975)が『人間の条件』(The Human Condition, 1958)で示した枠組みを通じて分析する。この狙いは、スピーチ実践を、アレントの哲学的考察により<活動>(action)として捉え、それが公立中学校という空間でどのような意義を持つのかを明らかにすることである。本発表の主張は、スピーチ実践は、学習者が「多種多様な人びとがいるという人間の多数性」を持つ公立中学校の教室という空間で、その人が何者(who)であるかを示す人間的な営みとなり、その営みにおいてそれまで学習者が学習してきた英語が、他の手段と代替出来ない語り(speech)本来の意義を担うというものである。本発表はこの主張の根拠としてアレントの論考を用い、証拠としてDVD 6-wayで収録されているMy treasureというスピーチ実践を用いる。本発表の批判的評価は、この主張-根拠-証拠の結びつきによって見えてくる英語教育の新たな解釈と、その結びつきの整合性を吟味することによってなされると発表者は考える。

 

2 公立中学校スピーチ実践

 6-wayの上巻二枚目では、「Show and Tellの指導と評価」として、6名の教師のそれぞれの指導によるスピーチ実践が紹介されている。このうち田尻と北原は"My Treasure"というタイトルで、それぞれの生徒が大切にしているものについてスピーチをさせているが、標準的なスピーチの形を取っているのは田尻実践である(北原実践は、ALTとの一対一のインタラクションであり、聴衆はALTのみである)。田尻実践は、中学三年間の最後の英語授業に行われたスピーチ発表の様子を録画したものである。最初の女子生徒は、九年間続いている文通友達について、二番目の男子生徒は、部活で使っているサッカーボールについてスピーチをする。女子生徒は、彼女の地道な学習で築いた端正な英語で、男子生徒は、やや聞き取りにくい英語ながらも、満面の笑顔と破天荒のパフォーマンスで、それぞれの個性を聴衆に示す。だが最も注目に値するのは三番目の朴訥な男子生徒によるスピーチである。

 この生徒(A男)のスピーチを、田尻(2002)に従って、背景から再構成してみよう。この公立中学校は生徒数が1000人を超える大規模校で、生徒でごった返す廊下では、お互いよけることもせず、ぶつかったとて言葉を交わすこともない。校門に立って朝の挨拶をする田尻に返事を返す生徒はほとんどいない。一年生を担当し、そのまま持ち上がることになる田尻は、生徒を育てて学校に温かさを取り戻そうと思ったが、一年の三学期ではめまいがおこるほど毎日問題がおきることとなる。二年になると多くの生徒がクラスに疎外感を感じるようになる。田尻はこれらの問題は、生徒同士がうまくコミュニケーションを取れないことに起因していると分析し、英語科はコミュニケーションの仕方を教える教科なのだから、「授業を通じて生徒同士が関わり合い、お互いを理解し、認め、支えあえるようにしてやりたいと考え、日々の授業作りに精を出した」。6-wayに収録されたスピーチ実践はこういった三年間の英語学習の集大成であり、A男のスピーチはその中でも最後のスピーチであった。

 田尻は、穏やかで優しい気持ちを持つ、見た目は地味なA男を、敢えて最後のスピーカーとすることを決める。彼は給食のかごや缶が残っていると、当番でなくても、だれも見ていなくても、無言で持っていく生徒であり、親とケンカして家を飛び出したクラスメートと出会った時には温かいジュースを差し出しながら説得する男でもあった。そんな彼は当初、おばさんに買ってもらった東京タワーのミニチュアを"My Treasure"として話す準備をしていたが、田尻は、A男の中学生活を振り返るエピソードを思い出させ、それに関連することをスピーチにしろと半ば強引に内容変更を指示したところ、A男は涙をぽろぽろとこぼし始めた。様々な思いが頭の中を駆け巡ったのだろう、彼は嗚咽した。収録されたスピーチは、そうして書かれ、何度も練習されたスピーチの本番である。

 スピーチの冒頭でA男は"My treasure is these water swimming goggles."と述べる。彼は朝五時に起き、スイミングスクールに通う生徒であった。彼は水泳大会で競技中にそのゴーグルがはずれてしまい、散々な成績に終わり泣いたこと、しかしそれをバネに、中国地区大会に出場するまでになったことを英語で述べる。しかし、"But I kept thinking about my school life."と彼はスピーチを、演出とは無縁の、彼なりの朴訥な語り口で展開させる。彼の中学校の水泳部は弱小なため、彼はスイミングスクールで練習するが、そのため彼は一緒に帰宅する友達も持てない状況となる。そうなると昼間の教室でも一緒に話す話題がなくなり"I didn't like my school life."とまで彼は言い切る。このあたりの彼は必死で涙をこらえながら語っている。

 しかし彼はそこから、穏やかな笑顔でこう続ける。"But you were always kind to me. So I became aware that I don't need to worry. Now I have two treasures. These goggles gave me a good chance to make myself swim well. But if I didn't belong to this class, I would not go to school. So Class 3-9 is my another treasure. Thank you."このスピーチはクラス全員をして「感動した」と言わしめたと田尻は報告する。

 このようなスピーチ実践は、どのような人間の行為になっていると解釈するべきであろうか。発表者はアレントの分析が、大きな手がかりとなると考える。

 

3 アレントによる<労働>、<仕事>、<活動>の区別

 アレントは三つの根本的な人間的営み(three fundamental human activities)として、<労働>(labor)、<仕事>(work)、<活動>(action)をあげる。<労働>とは、生命を生物として維持するための、「人間の肉体の生物的過程に対応する営み」であり、「その努力の結果はただちに消費され、後に何も残さない」ことを特徴とする。<労働>は、原始社会における主要な営みといえるだろう。

 <仕事>とは、人間存在の非自然性に対応する営みであり、「すべての自然環境と際立って異なる、物の『人工的』世界(an "artificial" world of things)を作り出す」。<仕事>をする<工作人>(homo faber)は、「ロックが財産となるのに必要とした耐久性(durability)、アダム・スミスが交換市場に必要とした『価値』("value")、マルクスが人間本性の証と信じた生産性(productivity)」を有する様々な物を作り出す。仕事においては「目的(end)が手段(means)を正当化し、さらには手段を生み出し組織化」する。「最終生産物(end product)が、仕事過程(work process)そのものを組織し、必要とされる専門家、協働の規模、助手の数などを決定する。仕事過程を通じて、すべてがただ望まれた目的(end)に適合し有益であるか(suitability and usefulness)という観点からのみ判断され、それ以外の観点は入ってこない」のが<仕事>の特徴である。かくして、人間は<仕事>を行う<工作人>である限り、手段化を行ない、その手段化によって「すべての物が手段に堕し、それに固有の独立した価値を失う」わけである。<仕事>の最終生産物は、それを作り出す手段と製作過程の目的(end)ではあっても、少なくともそれが使用のための対象物(object for use)である限りは、それ自身で完結した目的となることはない。それはさらなる目的を達成するための手段となる。いわば有意味性(meaningfulness)が失われ、功利(utility)だけが姿を現す。しかし、ある目的が、さらなる別の目的に役立つための手段となるという、功利の連鎖は終わることがなく、人間は功利そのものを正当化する原理を失ってしまう(「功利主義の困惑」)。生産物は、公的領域(public realm)での「市場価値」("marketable value")を持つのみとなり、物に「固有の自然の真価」("intrinsic natural worth")が失われてしまう。こういった<仕事>は、産業革命、さらには(アレントの時代には実像を現していなかったが)情報革命、グローバリゼーションを経て、商品を生産し市場で交換すること、さらにはその過程を、さらなる効率化という目的のための手段とすることに追われる、近代社会における人間の主要な営みと言えるかもしれない。私たちの思考も、この<仕事>の発想に強い影響を受けていると言える。

 しかしアレントは<労働>と<仕事>だけを人間の営みとはしない。彼女は<活動>を、人間が、自分が「何者」("who")であるかを明らかにする営みとする。<活動>は、「物あるいは物質の介入なしに直接人と人の間で行なわれる唯一の営みであり、多数性(plurality)という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのは一人の人間(Man)ではなく、多数の人びと(men)であるという事実に対応する」ものである。

 この<活動>は、語り(speech)と密接に結びついている。たしかに<労働>や<仕事>においても人間は語りを用いるかもしれない。しかしその場合の語りは、しばしば数字といった記号によって置き換えられるものであり、さらには<労働>や<仕事>は、全くの沈黙のうちに、強制力(force)や精神的・身体的力(strength)を行使することによってなしうる。それに対して<活動>は語ることと密接に結びついており、ほとんどの<活動>は語ることを通じて行なわれる。<活動>と語りにおいて、「人びとは自分が誰であるかを示し、その人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界に姿を現す」わけであるが、この<活動>は「言葉(words)によってこそ、人間に理解できるように明かされる」とアレントは説明する。たしかに「人間の行為(deed)は、言葉を伴わなくても、その肉体だけの物理的現れから理解されるかもしれないが、その行為を意味あるものにするのは、行為者が自分を<活動>する者として自認し、自分が何をするか、何をしたか、何をするつもりであるかを告知する語られる言葉だけである」わけである。つまり<活動>としての語りは、その人が、どんな特質、天分、才能、欠陥を持った「なに」("what")であるかではなく、「何者」("who")であるかを示すのである。

 アレントはこの<活動>としての語りを、「人間である以上止めることができない創始」(an initiative from which no human being can refrain and still be human)としてとらえる。<労働>や<仕事>は他人に委ねることができ、それでも人間は人間であることを止めることはない。だが、語りと<活動>のない生活は、人びとの間で生きられるという人間の条件(多数性)を欠いている以上、人間の生活ではないとアレントは主張する。<活動>としての語りは、他の人間との関係の中で行なわれる以上、人は単に<活動>の語りの行為者(doer)であるだけでなく、その反応を受ける受難者(sufferer)でもある。また、<活動>の語りは、創始ではあるが、それは終わりという限界を持たない。創始は反応を呼び、その反応がさらなる反応を呼ぶわけである。またその一連の反応がどのようになるかを私たちは予め知ることはできない。「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がだれであるかを示し、自分自身を開示しさらけ出す」語りは勇気ある行動でもある。

 この<活動>が行なわれる空間(space)を、アレントは古代ギリシャの伝統にならってポリス(polis)と呼ぶ。これは、「共に活動し、共に語ることから生まれる人々の組織」であり、「共に行動し、共に語るというおの目的のために共生する人びとの間に生まれるのであって、それらの人びとが、たまたまどこにいるかということとは無関係」である。これは、「私が他人の目に現れ(appear)、他人が私の目に現れる」出現(appearance)の空間とも言える。この出現において人間は自らの存在(Being)を保証するリアリティを得られる。だが、<労働>と<仕事>だけに追われ、語りによる<活動>を欠く人々は、人間としてのリアリティ(reality)を奪われているに等しい。<仕事>に専念する<工作人>(homo faber)は生産物を、<労働>だけに従事する<労働する動物>(animal laborans)としての人間は生命の維持を、それぞれ人間としてのリアリティよりも重要なものとみなし、<活動>としての語りを「怠惰、怠けるためのおせっかい、怠けるためのおしゃべり」として非難する傾向にある。しかし出現の空間における<活動>としての語りこそは、「自分自身のリアリティ、自分自身のアイデンティティ、周りの世界に対するリアリティ」を確立させるものである。「その人が何者であるかということが、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり重要であると信じることは、人間的自負(human pride)にとって欠くべからざる要素である」とアレントは説く。彼女の見解は、「ただ野卑な人だけが、卑屈にも、自負を自分のなしたことに求めるであろう。このような人は、この卑屈さによって、自分自身の能力の『奴隷や囚人』になるのである。そして、そこにただ愚かな虚栄しか見られないとき、このような人たちは、実際、自分自身の奴隷となり囚人となるのであるが、それは、他人の召使いになるのと同じぐらいつらく、いや、おそらくそれ以上に恥辱的であるということがわかるであろう」というものである。

 現代の先進国は、<労働>の苦役からはずいぶん解放されたとはいえ、グローバル化された「大競争」での<仕事>に追われ、<活動>としての語りは、人間の営みとして十分その真価を認識されていないようにも思える。もちろん<仕事>にのみかかわる人間とて、交換市場(exchange market)という公的領域は持っている。しかし、そこではその人は、人格(person)としてではなく、生産物の生産者として他人に出会うにすぎない。マルクスが商業社会の非人間化および自己疎外(dehumanization and self-alienation)として非難したのは、このように他人との関わりを欠き、交換可能な商品に第一の関心をいだくことであった。このような状況において人びとが自分自身を示すことができるのは、「家族との私生活の中か、友人との親密な関係の中だけ」である。そこで家族や友人とうまく関係がもてなかった人の生活の人間的悲惨さは想像にあまりあるものがある。

 

4 公立中学校スピーチ実践の捉えなおし

 以上のアレントの考察を受けて、現代日本の英語教育を考え直してみよう。現在、英語学習は<仕事>として考えられがちである。「英語ができる日本人」としての目標は、TOEFL、TOEIC、英検などといった、スコアによって市場価値を持つ交換可能な「生産物」によって定義されている。英語教育も、しばしばその生産物という目的を達成するための手段とみなされ、学校で英語を学ぶことの「固有の自然の真価」は忘れ去られる。さらに、学校----その典型としての公立中学校----は、多数の人びとが結びつく公的領域としての機能を失う一方で、家庭の私生活や友人との親密な関係も、少なからずの生徒にとって不安なものとなっている(「引きこもり」はその不安の究極の姿である)。このような状況で英語を学ぶ生徒は、英語試験で高得点を取ることによってのみ、公的領域につながれる(しかし交換可能な)存在となり、英語学習そのものに意味を感じることができにくい。学習環境である教室・学校も、多数がそれぞれに独居する場でしかなく、さらには多くの生徒が家庭や友人関係にも自らの存在を感じることができない。

 そんな中、田尻実践は、英語学習を、A男という人間が、どのような人間であるかを、英語を通じて自他共に示す<活動>に高めた。この勇気ある<活動>によって、A男は自らの存在のリアリティを強く感じることができる一方、教室も多数の人間がつながる公的領域としてより豊かに成立した。人が他の人々の中で生きるという「人間の条件」を英語教育において確立した田尻実践は、英語という学習言語に、語りが本来持つ固有の<活動>としての活力(power)を与えたと解釈できる。A男のスピーチ、およびそれを可能にした田尻実践を、もっぱら交換可能な<仕事>として、例えば文法や発音の正確さや発語量などだけで、その価値を測ろうとすることは、英語教育の真価を見失うことである。

 

主な引用文献

Arendt, H. 1958. The Human Condition. The University of Chicago Press.

ハンナ・アレント著、志水速雄訳 1994. 『人間の条件』ちくま学芸文庫

田尻悟郎 2002. 「心を育てる授業を追求して」. 三浦孝・弘山貞夫・中嶋洋一編著 『だから英語は教育なんだ』研究社

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