読書

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育の立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。また人名に関しては、どんな方に対しても「〜さん」づけで表記してます。2005年9月17日掲載分から、呼称に関しては、無原則(言ってみるなら、私の「気分次第」)とすることとしました。これまでの「〜さん」の原則は鶴見俊輔氏の影響でしたが、新しい(無)原則は内田樹氏の影響です(私って、ほんとに影響受けやすいのよね)。

もしこの小文を読んで興味がわいたら、是非ご自分でその本をご購入なさって、実際にお読みになることを強くお勧めします。
なお、柳瀬はこの「読書」のページに限らず、アマゾンへのリンクをたくさんはっていますが、これは単に読者の便益を考えてのことです。柳瀬はアマゾンとのいかなる商業関係(アフィリエイトなど)も結んでおりません。


吉田寿夫編著『心理学研究法の新しいかたち』誠信書房 (2006/12/28c)

この本の編著者である吉田寿夫先生は、ご自分の章である第十章の冒頭で次のように述べます。

のっけから辛辣なことを述べるが、さまざまな場で数多くの指摘がなされてきたにもかかわらず、現在のわが国の心理学界においては、先達が築いてきた研究法についての無知・誤知・理解不足に伴なう、妥当性の低い研究が偏在していると考えられる。また、「不当な研究法の伝染」とでもいうべき事態も生じており、過度の論理的飛躍を伴なう結論の提示が(多くの場合、無自覚なままに)数多く展開されているように思われる。そして、おそらくはその結果として、「へえー」とか「なるほど」といった感覚を抱かせてくれる論文や学会発表に出会うことが少なく、検討していることの意味についての問い直しをせずに、不十分な理解のもとに身につけた型を無批判に適用していると推察される、「研究ごっこ」といった言葉を思い浮かべてしまう研究も散見される。(244ページ)

このような憂うべき事態は、各大学が生き残りをかけて大学の運営にあたらなければならなくなってきている昨今の厳しい状況下では、質を重視せずに業績の量を目標とせざるを得ない力がこれまで以上に働きやすいために、今後、いっそう強まる恐れがあるのではないかと危惧される。このままでは、学会(ないし、学界)内では「なあなあ」で済んでも、他の領域の研究者や世の中からは評価されない事態に陥る(というよりも、そのような事態が深刻化する?)のではないだろうか。(246ページ)

おそらくは編著者のこういった強い問題意識に支えられて、この本は11人の著者が、量的研究、質的研究、そして量的vs質的の二項対立を超えるための方法について執筆したものです。
特に面白かったのは第二章の「測定の妥当性からみた尺度構成」。心理測定では「妥当性」や「尺度仕様書」がどれほど重要かということがよくわかります。第四章では今流行の共分散構造分析(Covariance Structure Analysis)(あるいは構造方程式モデリング(Structural Equation Modeling; SEM)についてのわかりやすい解説がなされます。しかし私には(この本の特徴である)「編者からの質問」がこの章では特に面白かったです。以下の(1)から(3)は共分散構造分析に限らず、統計を一種のブラックボックスとして使う研究一般にも当てはまる、編者吉田寿夫先生からの疑問です。

(1)想定した因果モデルがなぜ妥当だと考えたのかand/orなぜ他の影響過程を想定しなかったのか、という基本的なことについての議論がきわめて不十分な論文が多い。
(2)測定の妥当性の問題が、あまりにも軽視されている。特に、質問紙調査における、問われていることに対する回答者の内省可能性の問題や、反応バイアスの問題への考慮が非常に欠けている。また、「少数の項目で(α係数によって示される)信頼性が高い尺度を構成することは、想定している構成概念に関して偏った測定をすることにつながりかねない」ということが踏まえられていない。
(3)因果関係を明らかにするための説得力あるデータを収集することにつながる工夫・配慮に欠けている(たとえば、共通の反応バイアスの介在を防ぐために変数によって測定方法を変えることや、縦断的調査を行うこと、操作ないし道具的変数と呼ばれる変数を導入したりすることなど)。
(4)データに対するモデルの適合度が過度に注目され、適合度の値が大きいだけで意味あるモデルが提示できたと誤解しているケースが散見される(因果的に先行するものと想定した変数の後続の変数に対する説明力に。、あまり注意が向けられていない)。(108ページ)

「共分散構造分析という道具に振り回されずに、本来、心理学者としての味を出す(ないし、頭を使う)べきところにもっとエネルギーを注ぐべきだ」(108-109ページ)とも吉田先生は言います。
質的研究に関しては、第七章(當眞千賀子先生)の「形成的フィールドワーク」というのが、私たち英語教育の研究者が実践現場に関わるやり方に似ていると感じましたし、第八章(尾見康博先生)での次の指摘も、やはり当たり前だけれど大切なことだと思わされました。

マスデータ(たとえそれが十に満たない少数であっても、平均値を出したり、クロス集計したりすることによって、データ全体の特徴を端的に記述する場合すべてを含む)を用いて一般的知見を得る一方で、一般的知見に適合しない事例にも目を向け、可能であるなら、なぜ適合しなかったのかを探る視点を大事にしたいということだ(201ページ)

学部生の初学者が最初に読む一冊ではないでしょうが、ある程度心理学的な研究をやり始めた人は、この(編)著者らの論述に促されて、本来学問がもっているはずの面白さを予感できる(あるいは取り戻せる)のではないかと思います。

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小森陽一監修『研究する意味』東京図書 (2006/12/28b)

「英語教育学」というフィールドが、その名称にふさわしい研究をしようとするのなら、あるいはその名称により社会から期待される役割を少しでも果たそうとするなら、「英語教育学者」は、人文・社会諸科学の研究のあり方に深く学ばなければならないでしょう。この本は、「人文・社会諸科学の領域で、これから研究者になることをめざしている、大学生と大学院生を対象にして」構想されたものです。私は大学院生に読ませる本を探していて、この本に出会い、一気に通読しましたが、なにより私自身のあり方について痛切に反省させられました。私は、常々、私が現在の肩書きにふさわしい研究能力を持っていないことを痛々しく思っています。そのような私の仕事は「音感」にも書きましたように、愚鈍に学び続け、私のような者を後継者に選ばなくてすむように教育にも全力を注ぐことかと思っています。その意味で、これから「英語教育学」という看板で研究職につこうとする人にはこの本をぜひ読んでいただきたいと思いました。
「英語教育」という現象をその全体性を失わないままに捉えようとしますと、自ずと「ボーダレス」に複数の学問領域の知見を使わなければならなくなります。しかし一気にボーダレスの研究者を目指すことは危険です。経済学の金子勝先生は次のように言います。

私のゼミの大学院生には地道な実証をやらせています。最初は不満だったようですが、ようやく意味をわかってもらってきた。ディテールを語れないで、その領域をわかったような気になるのが一番まずいのです。拠点となる学問は極めないとダメだし、基礎学力も最低限必要です。研究者のルールも知らないといけない。(中略) 私はボーダーレスであることを誇りになんて全然思っていないし、むしろ新しい領域の方法や体系ができていないことを恥じています。(39-40ページ)

それでは「拠点となる学問を極める」こととは、どういうことなのか。少なくともその本質とは何なのか。英語圏文学・批評理論・フェミニズムの竹村和子先生は次のように言います。

人文科学で必要な研究力は、「読む」ことと「書く」ことに尽きると思います。読むというのは、読みながら考えることです。読みながら、いま読んでいるものがどういう枠組みのなかにあり、どの視点が足りないのかを考える。読書はたんなる受容でなく能動的なものです。(161ページ)
書くことは思考そのものです。論文を書くときには、緻密な思考をしています。文献や資料から得た情報を、自分の思考のなかにどれくらいアクティブに、どのくらい統合的に取り入れられるかが大事です。「御説ごもっとも、おもしろかったわ」で終わって、作者に同一化してしまったら、新しいものは何も出ません。(162ページ)

社会学・文化研究の吉見俊哉先生も次のように言い切ります。

問題意識は、何と出会い、どういう生き方をしてきたかという、その人のセンスがかかわってきます。その問題意識を言葉に表せるか、理論的に語ることができるか、論文にできるかは、才能というより修練にかかっています。要は、どれだけ本を読んできたか、どれだけ自分の力で物事を考えてきたか、どれだけ文章を書いてきたかなのです。(238ページ)

財政学の神野直彦先生も同じように読んで考えることの重要性を訴えます。

われわれは、宇沢先生のように<古典>を読み直し、現実を観察するしかないのです。<古典>を読んで考えるということが、社会科学の場合にはとくに重要です。われわれがやっているフィールドワークが自然科学の実験にあたるとすれば、社会科学では、先達がやった実験が<古典>だろうと思います。(290ページ)

現在主流の「英語教育学」では統計手法などのマスターに重きがおかれ、きちんと本を読み、考え、文章を書くことが軽視されているようにも思われます。しかし、この読み、考え、書くことをおろそかにしておくならば、「英語教育学」は社会に対してきちんとした発言ができないまま、「業界」内だけにしか通用しない言説を紡ぎ出し続けるのかもしれません。
神野先生は「研究者」を越えて、「知識人」について次のように語ります。

サルトルは、「知識人」は成っていくものであって、在るものではないと言っています。「知識人」に成っていくときに重要なのは、対他的に見ても正しいと思われる真理に自分がどれだけ忠実に生きていくか、ということではないかと思います。「知識人」はつねに真理に忠実に生きていこうとする人です。「研究者」という職業に就いていても、自分に与えられた役割のなかで研究し、それを「商品」として売って生活の糧にしている人は「知識人」ではなく「知的技術者」です。(284-285ページ)

しかし、と私は自問してしまいます。最悪なのは「知識人」をきどって「知的技術者」ですらない私のような人ではないのかと。「研究者」という肩書きのなかに「在る」者、その肩書きで禄を食む者は、まずはひたすらに「知的技術者」で在ろうと職業的努力を重ねるべきではないのか。そしてその職業的努力が一定の客観的結果を出し始めて後に、「知識人」に「成ろう」とするべきなのではないかと。
とはいえ、知識人に必要な資質は若いときから徹底的に鍛え上げておかねばならないことも真実でしょう。要は、一般教養に呑み込まれないように専門知識をつけながら、同時に専門知識に否定されないような一般教養を身につけておくことでしょうか。
四十歳を過ぎてこのようなことを考え込まないで済むように、英語教育の分野で研究者を志す方はどうぞ若い頃にこのような本をよく読み、考えて、討議しておけば、と老婆心ながら思います。

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佐藤優『獄中記』岩波書店 (2006/12/28)

佐藤優氏に関しては、宮崎学氏がしばしば取り上げるので注目していましたが、多忙に紛れ、そのままにしておりました。しかし2006年12月24日の毎日新聞書評で、大岡怜氏がこの本を絶賛しておりましたので、購入し、出張の際に読みました。期待は裏切られませんでした。
(佐藤氏の言葉を信じるなら)「国策捜査」によって----つまりは政治抗争的な理由だけの逮捕によって----514日間獄中で過ごした人間が、いかにその間、「人間としての尊厳を維持し続け」(39ページ)たか。彼は、(1)よきクリスチャンでありたい、(2)よき官僚でありたい、(3)よき知識人でありたい、ということを行動原理にします。この三つの行動原理に対して、(1)神に対して誠実でありたい、(2)日本国家(国益)に対して誠実でありたい、(3)知に対して誠実でありたい、という価値観をもち続けようとします(204ページ)。
(1)に関しては

ここで[=拘留で]人生の転換を余儀なくされることを神からの啓示ととらえるべきであろう。新しい人生を指向するべきである。誰かを憎む必要もないし、僕のことを悪く言う人たちについて僕から悪口や批判をする必要もない。もう一度、人間としての原点に立ち返って考えてみる必要があろう。(16ページ)

神学プロパーの勉強をした人たち以外に、「汝の敵を愛せ」という言葉ほど誤解されてきたイエスの言葉はない。まず、誰でも愛せということではなく、味方と敵をきちんと分けて、敵を愛せということである。(中略)敵意を知性的に克服することにより、見えてくるものがある。この見えてくるものこそが、政治闘争には敗れても、僕にとっては貴重なものなのである。(367ページ)

とも述べます。
(2)に関しては、(やや(1)と重なりながらも)次のように述べます。

「究極的なもの」とは信仰(むしろ信念といった方がよい)であり、希望であり、愛である。
国益のため、日本国民のために仕事をするといっても、それが外務省内の出世のため、世間での名誉のためということでは、出世に繋がらず、メディアで非難の合唱が起きれば、当該人物の国益観は崩れてしまう。国益に対する信念、日本の将来に対する希望、そして同胞である日本人への愛をもていれば、要するに「究極的なもの」が自分の中にあるならば、相当のことがあっても人間は崩れることはないと思う。(352ページ)

(3)に関してはこう述べます。

私は知識人というのは、自己の利害関係がどのようなものであるかを認識した上で(つまり、自分には偏見があるということを認めた上で)、自己の置かれた状況をできるだけ突き放してみることのできる人間だと考えています。この訓練が一般教養であり哲学なのだと思います。この訓練を欠いて知識や技法だけを身に付けると、自分の世界の切り口からしか他の世界を見ることができなくなってしまいます。(167-168ページ)

まさしく佐藤氏自身の次のような言葉を信じるなら、私もここで、この一冊の本を読んだだけで、佐藤氏を賞賛することは避けるべきなのかもしれません。

わかりが遅いのは悪いことではない。人間でも、政策でも、本当に理解し、納得できるまでは信じるな。日本人であれ外国人であれ高邁な理想を述べる政治家、外交官、学者でも、その人間がどうやって生活しているのか、自分より力のある者と弱い者に対する態度に極端な裏表がないか。時間をかけて見極めてから、判断をしてもおそくない。(245ページ)

しかし、私にとっては、この本の読書は貴重な経験でした。日本にこのような出版文化があることを本当にありがたく思いました。クリスチャン・公務員・大学人という点で少なくとも表面上だけでは似たところがある自分の、卑小さ・努力不足・自覚不足についてもずいぶん反省させられました。
この本は「思考する世論」に向けられた本です。より多くの人が一人の人間・日本国民・読書愛好家としてこの本を読み、メディアに踊らされずに自ら考える習慣を確固たるものとなればと思います。いや、それ以前に、私自身がきちんと物事を考える習慣を身につけねば。今の私は大学人とは名ばかりの、自らの専門であるはずの英語教育についてもきちんと考え抜くことができないでいる人間に過ぎないのですから。

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小林美代子『聞ける!話せる!英語力3カ月トレーニング』研究社 (2006/12/6)

私は人並みに愛国者であり、日本人を馬鹿にしたような物言いをする趣味はありません。ですが、以下の著者の空港での観察には私も同感です。

久しぶりに見るたくさんの日本人の顔を見て、びっくりしました。みんな何であんなに無表情で口元が締まっていないのでしょう!顔の下半分がだらりと締まりがなく、ひどい人は、口をポカンと開けています。(iii)

著者とて、英米礼賛・日本蔑視をしようと思っているわけではありません。しかし日本人の発音が世界的にも聞き取りにくいとされている理由の一つは、著者もいうように「英語の音声をしっかり出せるような顔ができていないこと」(iii)でしょう。「顔」といっても、造作のことではありません。筋肉のことです。「英語の音は強いリズムと強い呼気が要です。口の周りの筋肉を鍛えて強い息が出せるようにならなければ、英語らしい発音をすることはできません」(iii)と著者は述べます。
著者の小林美代子さんは、2004年に国際言語テスト学会最優秀論文賞を受賞するなど、極めて優秀な研究者です。私はイギリスのウォリック大学で最初に偶然お会いしましたが、英語で話をしていて、最初は日本人とは気づかず、彼女の研究室の本棚にある数冊の日本語の本を見て、「この方は日本語も読めるのかな」と思っていたぐらいです。その後は、折にふれ、親しくお話させていただき、私はいつも啓発されております。温厚なお人柄で、小林さんとの会話はいつも楽しいです。
この本はそんな小林さんが、これまでアマチュアの合唱団で経験した発声法とイギリスで受講したボイス・トレーニングのポイントを、英語に応用して三ヶ月トレーニングとしてまとめたCD付きの本です。優秀な研究者としての力量は本書のような実用書でも発揮され、トレーニングはとても具体的です。自分の英語の発音が、なかなかわかってもらいにくいと悩んでいる学習者の方、あるいはそういった学習者を担当されている教師の方は、ぜひ本書を手にとってみてください。

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レイ・ジャッケンドフ著、郡司隆男訳『言語の基盤 脳・意味・文法・進化』(岩波書店) (2006/11/28)

言語に関する包括的な概説書です。「言語の性質について何か発言したいと思うなら、このような複雑さがあることを認める必要がある」(20ページ)ことを痛感するためにも通読してみる価値はあるかと思います。私は正直、細かい議論についてゆけないところがかなりあったことを正直に告白しなければなりませんが、それでも言語に関する概念整理や大きな構図を得るためには非常に勉強になった本でした。ここではそのいくつかの点を書きとめておきます。

まずは概念整理、というより用語の使い方です。「心」(mind)という言葉は、一方では脳(brain)と同一視されたり、他方では(特に日本語の)日常語用法につられて神秘的なもの・ロマンチックなもののように扱われます。しかし認知科学における「心」とは「脳の機能的な組織および帰納的な活動を指す」ものであり、「その一部は意識に上ることもあるが、大部分は意識されないもの」(23ページ)です。心はあくまでも心の機能から定義されます。したがって人間のようなニューロンで構成された心もあれば、コンピュータのようにシリコン・チップで構成される心もありえます。また、言語学的に心の機能を表現したモデルも認知構造(cognitive structure)のモデルであり、心のモデルです。これは心の哲学での「機能主義」(functionalism)(言語学的な意味での機能主義にあらず)を基にした用語法であり、ジャッケンドフはこのような用法での心を「f-心」(f-mind)と呼び、日常語の「心」との混同がないように区別します。これにより彼は「伝統的な(かつFreud的な)心と神経学的な立場との間に記述上の中間地帯があることを明らかに」しようとしているわけです。
同様に「知識」(knowledge)という言葉も、認知科学での用法と日常語用法との間で混乱が生じがちです。チョムスキーが「言語の知識」という場合に、彼が意味しているのは、私たちが事実として意識的に知っていることではなく、私たちの言語行動の裏づけとなっている複雑な認知構造を指します。チョムスキーの「知識」は私たちが日常的に言う「知識」とは異なるわけです。この混乱を避けるため、ジャッケンドフはチョムスキー的な用法での「知識」にわざと目障りなマーカーをつけて「f-知識」(f-knowledge)と呼びます。
「規則」(rule)という言葉もやっかいです。日常用法での「規則」は、チェスの規則のように私たちが一つ一つ述べることができるものです。しかし言語学で言う「規則」は、言語学を勉強したのでない限り、基本的に無意識なものです(注)。もう一つの「規則」の用法は、物理学の「法則」に準じたものです。この考えをとるなら「例えば、惑星が次にどこへ行くべきかを知るために内在化された微分方程式を解くなどということがないのと同じように、話し手が文を作ったり理解したりするために内在化された形成規則や制約をもち出すということもない」(64ページ)とも説くことができます。しかしこれは「人間が言語使用者になり得る仕組を理解しようとする試みから遠ざかること」(65ページ)です。私たちは「話し手を規則性に従わせるようなものとして、心にあるのは何なのか、という問い」(65ページ)を大切にするべきです。かくしてジャッケンドフは文法の規則を「意識する心と物理的な神経細胞の中間的な形而上学的な領域に位置づけ」(65ページ)ます。つまりf-心の中です。
「学習する」(learn)という用語もジャッケンドフは機能主義的に理解します。チョムスキーは文法を「発明する」(invent)、「構成する」(construct)、「発達させる」(develop)、「考案する」(devise)、「獲得する」(acquire)などと表現していますが、ジャッケンドフは「学習する」をあっさり「f-知識をもつようになる」(80ページ)と言い換えます。

と、用語法についてはこのくらいにしておいて、本書の狙いの一つは上にも述べましたように言語の複雑さを具体的に示すことですが、そのことから第二言語獲得や霊長類の言語獲得に関しても明解な見解を提示します。

文献上では、第二言語獲得について、大人の学習者が普遍文法を使用しているかどうかという議論がかなりある(Flynn and O'Neil 1988)。この議論は、問題の設定が間違っているために、結論が出なかったのだと思う。すなわち、普遍文法を分解できない「文法箱」と考え、それをもつかもたないかというふうに考えているからだ。前に述べたように、普遍文法をさまざまな能力が集まったものと考えれば、臨界期の影響を受けやすいのはどの部分かということを正確につきとめることができるだろう。(114ページ)

白か黒か式の「霊長類のP(例えば、チンパンジーのサラ、ワショー、ゴリラのココ、ボノボのカンジ)には言語があるのか、またヒト科のHには言語があったのか?」というような問いには意味がないことになる。代わりに「言語の能力のどの要素を霊長類のPはもっているのか、また、どの要素をヒト科のHはもっていたのか」と問うことができるだけである。(277ページ)

この二つ目の引用は、第八章「機構に対する進化論的見方」からのものですが、言語を多元的に見ることによって進化論的見方を試みるこの章は、私が読んでいて一番ワクワクした章でした。


このように言語の複雑さを示すことは本書の重要な特徴の一つですが、それよりも重要な特徴は、統語論の扱いをチョムスキーのような「主流派」とは違えたところでしょう。「ここで追究したい代案は、言語は、一群のインターフェース・システムによって協調関係にある、いくつかの独立した組み合わせシステムからなるというものである。統語論もそのような組み合わせシステムの一つであるが、決して唯一のものではない」(128-129ページ)。かくしてジャッケンドフは、145ページの図5.4に示されるような、音韻構造、統語構造、概念構造の三部からなる並列機構を提案します。
また語彙についても、語彙項目を全体として統語構造に挿入するChomsky(1965)以来の生成文法の主流派と異なり、「語彙項目の機能はインターフェース規則の役割を果たすことであり、語彙目録全体はインターフェース部門の一部と見るべきなのである。この見方に従うと、語彙項目の形式的な役割は、統語的派生に「挿入」されることではなくて、一定の統語的構成素と音韻構造・概念構造との間の対応関係を確立することになる」(151ページ)と述べます。


と、翻訳を一読しただけで、このような備忘録的メモを作るような私などは、一知半解の最も危険な人種なのかもしれません。しかし一読して本当に面白い本でしたし、また何度か読み返したいと思いました。言語について考えるための重要な一冊としてこの本が翻訳されたことを心から喜びます。


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(注)しかし英語教育の文脈では「言語学的規則」は、しばしば学校文法で教えられる規則を指し、それはあくまでも意識的なものとされます。このあたりの混乱を整理して、きちんと議論しなければと思います。


春原憲一郎・横溝紳一郎編著『日本語教師の成長と自己研修』(凡人社) (2006/11/7)

英語教育学も日本語教育学も第二言語教育という点で共通します。実際に共有されている文献や理論も多々あります。そうなれば相互交流はもっとあってもいいのではないでしょうか。お互いが自分に足りないものを相手に学んでもいいのではないでしょうか。
このような本を読むと、少なくとも今のところ「教師の成長」(teacher development)に関しては、日本語教育学の方が英語教育学より進んでいるのではないかとも思えます。
しかし「教師の成長」といったテーマは、教条的に語られれば終わりです。それは壇上からの退屈な説教集になってしまうでしょう。しかし、以下に紹介するような言葉遣いは、この本が、そのようにありがたすぎるぐらいに凡庸な本とは無縁のものであることを示しています。この本は生きています。

現場とは一言で言えば、出来事や事件、驚きや発見、疑問や問題が出来する<時>と<場>です。何かが起こる<時>、何かが出来する<場>が「現場」です。何か<事>を進めたり、変えたりするときに現場に戻れとか現場に足を運べとか、「現場」から始めろというのは、事件や事実の発生の様子を見届け、<事>の由来や推移の過程を知るためです。現場には多様性・可変性・固有性があり、理論には普遍性・一貫性・汎用性があります。理論のもつ普遍性・一貫性・汎用性を鍛えあげていくために、現場との相互作用は不可欠です。(春原憲一郎 125ページ)

「Japanese as a Second Language 『JSL』/第二の自分の言語として日本語を学ぶこと」は、地域社会で種子を根づかす、<根>を持つ可能性に向って開かれることです。同時に地域社会にとっては、地域を豊かにする、<豊饒化>する力になります。(春原憲一郎 186ページ)

一方で、グローバル言語の習得が生産財としてあり、就学、就職、昇進等、社会的上昇をするためには不可欠の条件となる国、地域もあります。グローバル言語が消費財としてある場合には英語や日本語という商品のセールスマンとして、生産財としてある場合には、国家や帝国の公僕としての立場をグローバル言語の教師は担います。この必要悪的な語学教育と語学教師のポジショナリティをギリギリまで認識することから、新たな言語政策と地域のコミュニケーション環境をデザインしていく道が生まれるのではないかという気がします。(春原憲一郎 190ページ)

では、新しい知識や技能を学んでさえいけばそれでいいのでしょうか。Rogers (1969)は、本当に教育されたものは、学び方を学んでいる者であり、自分自身を変化させ、適応することを学んだ者だと述べています。この主張にある「本当に教育された者」を「賢い教師」と考えると、賢い教師は、職務を遂行するための知識・技能の獲得の仕方(学び方)を学んだ教師であり、変化・適応を可能にするために動的な知的能力(学び方)を活かせる教師です。絶え間なく変化する環境にいる教師は、知識・技能そのものだけでなく、知識・技能の学び方を学び、それらをうまく使って自己変容(成長)に結びつけられる力も身につける必要があります。(奥田純子 202ページ)

「教師トレーニング」は、いわば「『この教え方を身につけなさい、そうしておけば大丈夫』という形で、教え方についてのある『型』を教師に身につけさせる」といったタイプの教師育成方法です。その場合、教師教育者には「その型をマスターさせて、その型のエキスパートへと導く」ことが求められます。それに対して「教師の成長」では、「ある型についての情報や知識を伝えた上で、それを自分の教える場でどのように使うのかについて考える力を養う」ことが、教師教育者には求められます。(横溝紳一郎 290ページ)

294ページから横溝さんは、メンタリングでのメンターの「聴き方」のコツを紹介していますが、これらはわかりきったようなことでありながら、存外に難しいものです。横溝さんは実際にこのような「聴き方」ができる人ですから、こういった紹介にも説得力があります。

英語教育も日本語教育も、担い手は教師という人間なのでしたら、私たちは人間、そして人間の成長への洞察をもう少し深めるべきと私は考えます。


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ヘンリー・ミンツバーグ著、池村千秋訳『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』日経BP (2006/11/3)

英語教育界でも、研究開発校などでは、修士号や博士号を持つ人間が現場のリーダーのように振る舞い、学士しか持たない人々をマネジメントするのが当たり前だといった風潮があります。外部から「指導助言者」が来て、現場に指示を出すといったことです。この風潮が正当化できるのは、修士号・博士号取得で培われた能力が、現場のリーダーシップ・マネジメントの能力に直結していると仮定できてのことです。しかしこの仮定は正しいのでしょうか。
ビジネスの世界ではMBA(経営学修士号)が、リーダー養成機関として幅をきかせています。しかし経営学のミンツバーグHenry Mintzberg)はこの傾向を痛烈に批判します。以下しばし、MBAと英語教育学修士・博士をパラレルに考えて、英語教育界におけるリーダー育成、教育・研究活動がどうあるべきかを考えてみたいと思います。

まずは言葉の定義から。ミンツバーグは「マネジメント」と「リーダーシップ」を同義語として用いています(17ページ)。そうして彼はマネジメントに関して次のような基本的見解をもっています。

マネジメントとは本来、「クラフト(=経験)」「アート(=直観)」「サイエンス(=分析)」の三つを適度にブレンドしたものでなくてはならない。サイエンスに偏りすぎたマネジメント教育は、官僚的な「計算型」のマネジメントスタイルを育みがちだ。一方、ビジネススクールで教育を受けた人間がアーティスト気取りでいると、「ヒーロー型」のマネジメントをおこなう傾向がある。
どちらも、もうたくさんだ。責任ある地位には、ヒーローもいらないし、官僚もいらない。必要なのは、バランス感覚のある献身的な人材。言ってみれば「関与型」のマネジメントをおこなえる人物だ。(12ページ)

「ヒーロー型マネジメント」と対比される「関与型マネジメント」は次のようにまとめられています。

(1)マネジャーに求められるのは、製品開発や顧客サービスに携わる人たちをサポートすることである。
(2)有能なリーダーは、ピラミッド型組織のてっぺんに腰掛けているのではなく、ネットワーク型組織のあちこちで活動する。
(3)戦略は、ネットワークの中から生まれる。人々が積極的に参加し、小さな問題が解決することを通じて、大きなことが成し遂げられる。
(4)戦略を実行するのは簡単でない。戦略の実行は、戦略の策定と切り離せないからだ。だから、上層部やアウトサイダーの押しつける不適切な変革案をはねつけるために、献身的なインサイダーの存在が欠かせない。
(5)マネジメントの仕事は、スタッフのポジティブなエネルギーを引き出すこと、したがってマネジメントとは、文脈に根ざした判断をおこない、人々を引っぱり込むことである。
(6)組織を改善したことによるご褒美は、組織内のすべての人間に行き渡らなくてはならない。重要なのは、人間的価値。その多くは、数字で計算できない。
(7)リーダーシップは、他人に敬意を払うことによって獲得する信頼である。(349ページ)

このような「関与型マネジメント」のマネジャーは次のような特徴を持ちます。

有能なマネジャーは、説明し、説得し、決断を下すだけではない。オフィスを飛び出して物事の渦中に首を突っ込み、ほかの人間を動かすことによって結果を生み出す。自分で直接、物事を見て感じ、経験し、試す。[ケーススタディーで学ぶMBAの]ハーバードの学生たちがしゃべり続けるとすれば、優秀なマネジャーは聞き続け、見続ける。(74ページ)

そうしてくるとリーダーシップという概念も、通念とは違ってきます。

リーダーシップとは、賢明な決定を下し、大きな取引をまとめることではない。少なくとも、私利私欲のためにそれをおこなうことでは断じてない。リーダーシップとは、組織の構成員に活力を与え、優れた決定をさせて業績を高めること。言い換えれば、人々がもともともっているポジティブなエネルギーを引き出すことだ。優れたリーダーは、権限を委譲するのではなく、部下のモティベーションを高める。コントロールするのではなく、理解する。決定を下すのではなく、手本を示す。これをすべて、まず自分自身が組織に本腰を入れ、ほかの構成員の参加を促すことによっておこなう。
このために不可欠なのは、リーダーシップの正統性だ。つまり、リーダーに従う人たちにただ受け入れられるだけでなく、敬われなくてはならない。(187ページ)

ミンツバーグは伊丹敬之のことばも引用します。

マネジメントとは部下を統制することではなく、部下の協力を引き出すこと。(392ページ)

そうなると次のような台詞もリーダーから出てくるようになります。

「以前は、『なにがみなさんの役に立つかはわかっています。みなさんがなにを学ぶべきかもわかっています。みなさんをどのように評価すべきかもわかっています』と言えることが自分の役割だと考えていました。でも、いまは『どうすればお役に立てますか』と申し出ることが役割だと思うようになりました」(451ページ)

こういったリーダーシップあるいはマネジメントは現場で学ばれるものだとミンツバーグは考えます。

マネジメントはクラフト(=技)の側面が大きい。クラフトの土台をなすのは経験。つまり、クラフトは実際の仕事を通じて学ぶしかない。要するに、考えてから行動するのではなく、行動してから考えるべきなのだ。
かなりの量のクラフトに、しかるべき量のアート、それにいくらかのサイエンスが必要とされる仕事----、それはなににもまして実践の仕事だ。マネジメントには、「唯一の最善な方法」などない。すべてケースバイケースで判断しなくてはならない。(22ページ)

責任を問われることもなく、行動を取るチャンスもない状況では、実務の場でなにがうまくいき、なにがうまくいかないかを自分自身で発見することなどできるわけがない。(79ページ)

マネジメントがサイエンスや専門技術なら、経験のない人にも教えられる。しかし、マネジメントはサイエンスでもなければ、専門技術でもないのだ。(21ページ)

ところがMBAでは、あたかもマネジメントはサイエンスあるいは専門技術かのように扱われているようです。少なくとも現場から離れて学べるものだと想定されているようです。かくしてそのような教育を受けたMBA所有者がリーダーとして現場に赴きます。その結果をミンツバーグは様々に報告しますが、彼の報告するデータはMBA所有者が会社をおかしくしているのではないかということを強く示唆しています(象徴的なのは、ベトナム戦争を悪化させたと『ベスト・アンド・ブライテスト』などでも評されているロバート・マクナマラRobert MacNamara) がハーバード・ビジネススクール卒業者で、「同窓生優秀賞」の第一回受賞者であるということです(128ページ))。しばしば企業の外からパラシュートで降りてくるようにやってくるMBA精神を体現したようなCEOは企業を破壊してしまうともミンツバーグは考えているようです。

破壊は構築よりはるかにたやすい。人間が生まれるまでには九ヶ月かかるが、人を殺すのには一瞬しかかからない。立派な組織をつくるには何年もかかるが、衰退させるには数ヶ月もあれば十分だ。民主主義社会を築くには何世紀もの期間を要するが、その土台を揺るがすには数十年でいい。リーダーシップという古くから存在するものも、MBA流のマネジメントという比較的新しいものによって簡単に破壊される恐れがある。私に言わせれば、教育、マネジメント、組織、社会に蔓延している腐敗----腐敗という言葉を私は軽々しく使っているつもりはない----の原因は、MBA教育にある。(95ページ)

ジョン・ラルストン・ソウルの著書『官僚国家の崩壊』に、ベトナム戦争時代の米国防長官ロバート・マクナマラに関してこんな記述がある。「あらゆる技術官僚に共通するのは、集権化への執着だ」。こう言われるのも無理はない。微妙な心理より数字、細かなニュアンスよりシステムを重んじるマネジャーは、未知の場所にパラシュートで舞い降りた場合はとりわけ不安になって、とりあえずコントロールできるものに片っ端からしがみつく。その結果、過度の集権化(部下に意思決定を任せるべきことまで自分で決めたがる)と過度の形式化(直接コントロールできないものをシステムによってコントロールしようとする)が生まれる。こういうマネジャーは、やたらと管理したがる半面、脈絡がなくなる。子供を厳しくしつけようとして思うようにいかず、言うことがころころ変わる親のようなものだ。(181ページ)。

人間は、骨と皮だけでできているわけではない。私たちには、魂や精神がある。同じように、会社も組織とシステムだけでできているわけではない。会社には、企業風土やそれぞれの強みがある。だとすれば、会社の歴史も文化も知らない人間がいきなりリーダーとして落下傘で降りてきたら、どんなことが起きるだろう。参加意識をもったインサイダーたちに、冷めたアウトサイダーをリーダーとして押しつけたら、どういう結果を招くだろう。コンサルティングや金融取引、転職以外に取り立てて経験のない人間は、会社にどんな影響を及ぼすだろう。なるほど、新しいホウキを使えばきれいに掃除ができる。しかし、問題はまさにそこにある。このホウキは、新しいアイデアを掃き入れるより、経験豊富な人材を掃き出すほうが得意なのだ。その結果、創造的な戦略なしに、無神経なダウンサイジングだけがおこなわれることになる(123ページ)。

MBAでは分析が徹底的に訓練されますが、リーダーシップやマネジメントは分析からのみ構成されるものではありません。分析を経ての統合の方が重要です。

統合はマネジメントの本質だ。マネジャーは個々の具体的状況の中で、一貫したビジョンや組織、システムに物事を統合しなくてはならない。だからこそ、マネジメントは難しいし、面白いのだ。マネジャーが分析をしなくていいというのではない。統合の素材は分析によって得られる。しかし、難しいのは分析よりも統合だ。(54ページ)

分析はしばしば理論に依拠します。分析理論もそれなりに正しいのでしょうが、その分析理論ばかりを振り回すと現場の真実を歪めてしまいます。

理論それ自体は、正しいということもないし、間違っているということもない。しかし、特定の理論を真実であるとして宣伝すれば、それはドグマになり、学習は洗脳になりはててしまう。絶対に正しい理論などありえない。理論は、いくつかのシンボル、たいてい紙に書かれた言葉の集合により表現されるが、それは現実を単純化したものにすぎず、真実そのものではない。(319ページ)

だからといって、ミンツバーグは、リーダーシップやマネジメントのための研究や教育は必要ないと考えているわけではありません。彼は現在のMBAのような形でない研究や教育を切望しています。

私が願うのは、マネジメントに真剣に取り組むスクールがたくさん登場することだ。今日の社会では、優れたマネジメントがどうしても欠かせない。そしてマネジメントの質を高めるには、本格的な教育機関がなくてはならないのだ。(524ページ)

そういった機関での研究と教育活動は、タコツボ的研究態度とは無縁なものでなくてはなりません。

ビジネスとマネジメントの研究者は、核分裂の研究をしているわけではない。研究のテーマはあくまでも、私たちの日々の生活に関わりのある事柄だ。そうである以上、研究結果は、知性ある実務家なら簡単に理解できるものでなければならない。この条件を満たさない研究は、優れた研究とは言いがたい。学者以外の人たちの理解を妨げる専門用語も、レベルの低い研究結果をごまかす煙幕の一つだ。(500ページ)

実務家は、学問分野の垣根などおかまいなしに、実世界での関連性を求める。その結果、アカデミズムの人間が恣意的に引いている境界線をまたぐ架け橋が生まれる・・・その過程で浮き彫りになるのは、アカデミズムの人間の島国根性だ。(511ページ)

こういったMBAをめぐる事情から、英語教育界は多くを学べるのではないかと思います。少なくとも「英語科」といった組織への良質な研究は必要でしょう(cf 組織学会)。いや、そういったことよりも、リーダーシップに関しては私たちは何千年も語り続けているのですから、もっと文学や歴史や哲学をはじめとした教養を深めるべきなのかもしれません。

なぜ、リベラルアーツ系出身者が成功するのか・・・入学試験で最もいい結果を残すのは、「しっかりした思考、構造的な関係、抽象的なモデル、象徴性の高い言葉、演繹的推論を特徴とする分野を専攻している学生」だ。学んできたテーマが抽象的であればあるほど、純粋な推論能力が高まる。そして、推論能力が高い人ほど、実用的な分野でもうまくやっていけるのだ。(488ページ)

英語教育界のリーダーを輩出すべき教育機関にいる私としては、いろいろと考えさせられた本でした。

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渡辺幹雄(2006)『ハイエクと現代リベラリズム』(春秋社) (2006/9/29)

 圧倒的に面白い本でした。読み始めたが最後、一気に一日で読み終えました。そしてその余勢をかって、今、この紹介記事を書いております。英語教育界は、私の論考も含め、前-理論的、非-理論的な「論考」が多いわけですから、このような本をきちんと読んで、そしてそれを契機として自分の頭できちんと考え抜いてから論を立てることが必要でしょう。決してハイエクを引用して偽の権威づけをするとか、ハイエク理論を教育へ単純に「応用・適用」しようとかいうのではなしに。
 それにしてもハイエク(Hayek)などという、一般には「市場主義のイデオローグ」と(誤解されて)いる経済学者の論考を、なぜ英語教育関係者が勉強しなければならないのか。私見では彼の論考は、第二言語教育政策や教員研修制度を考える際の一つの原理的視点を提起してくれます。
 第二言語教育政策についてはこうです。第二言語教育に関しては、様々な才能・学力・意欲・目的・信念・環境などを有した学習者が、英語やその他の第二言語を学ぼうとしています。その学習にどれだけの主観的労苦、客観的時間・金銭などがかかかり、どれだけの主観的満足、客観的報酬などが返ってくるのかは誰にもわかりません。本人にさえ、自分にはどれだけの才能・学力・意欲・目的・信念・環境などが恵まれ、どれだけの量の学習をどのような人を通じて達成するのか、ほとんど予知できません。それらの要素は、相互作用的に変遷しうるからです。少なからずのリソースが費やされるのにもかかわらず、本人にも第三者にもその結果が予知できない。さらには英語などの第二言語の「価値」も時代と共に変化します。こういった複雑で変動的で不可知ともいっていい膨大な相互作用条件のなかで策定されなければならないのが第二言語教育政策なのです。私たちはどのような原理をもってこれを考えてゆけばいいのか。
 教員研修制度に関してはこうです。優れた教員の知を、どのように他の教員に伝えればいいのか。どのような媒体で、どのような方法で、どのような場所で。そもそも教員の知とはどのような知なのか。記号化できる知なのか、記号化できない知なのか。その両方だとすればその境界はどこにひき、それぞれはどのように伝えられればいいのか。その知の伝達システムとはいかにあるべきか。こういった知識論が原理的に考察されなければ、教員研修も場当たり的になされるだけでしょう。
 本書は、京都大学に提出された学位論文(『ハイエクと現代自由主義』として春秋社から1996年に発刊)が、10年を経て改訂・増補・改題されたものです。きわめて良心的な学術書です。私はこのような本に接するたびに、研究者とはかくあらねばといずまいを正され、我が身の恣意と放漫を反省してしまいます。

 序論で著者はこう言います。

「市場の哲学」なるものがあるとしたら、おそらく、ハイエクの最大の貢献はそれをはじめて体系的に明示したことであろう。私の理解では、市場の哲学は二つの基礎の上に立っている。その一つは「知識論」であり、もう一つは「秩序論」である。(17ページ)

 本書(ひいてはハイエクと関連人物の哲学)の内容をここで十分に知らせることなど不可能ですから、ここではいくつかの引用をすることにより、本書の魅力を伝えたいと思います。改訂でさらに彫琢された表現により、著者の透徹した理解が伝わってくると思います。
 まず秩序論に関する引用からしましょう。

ハイエクによれば、無意識的で非-意図的な進化の結果としての道具、またそれによってはじめて合理性が可能になるような道具には、単に言語のみならず伝統、慣習、道徳規則、法、そして市場などが含まれる。それらは「我々の理解、願望や目的、そして感覚知覚の及ぶ範囲をはるかに超えており」、また「どんな個人の頭脳も、どんな単一の組織もけっして所有、発明することのできない知識を具体化し生み出す」(FC, 72)性質をもつという意味で「超越的」(transcendent)なのであり、明解な論理的整序を受け付けぬがゆえに批判的理性(思弁や経験による人為的な批判)のカバーしうる領域を超えていると考えられる。(86-87ページ)

ハイエクがノモスと呼ぶ領域に自生する秩序(それは複雑系である)は、必ずや超越的性格をもつ。それが生成・成長する過程について、我々は知らないことの方が多い。すでに述べたとおり、それを形成する諸力の大部分を我々は理解どころか知ることもできないのである。医学は進歩したが、我々はいまだ拒絶反応一つまともに押さえ込めない。こういうところでいかなる分析が可能なのか。それはハイエクが「原理説明」(explanation of the principle)と呼ぶ定性的分析でしかありえない。それは、いかなる条件の下でどんな結果が生じるかの原理的説明でしかありえないのである。(59ページ)

かくして、複雑系の分析において唯一可能な原理説明は、原理に抵触する行為を禁じる禁止命令を与える。(60ページ)

実は私は、大津由紀雄編著『日本の英語教育に必要なこと』(慶應義塾大学出版会)でも、「英語教育図書----今年の収穫・厳選12冊」(大修館2006年増刊号)でも、ハイエク哲学を(前者では明示的に、後者では密かに)下敷きにして論考を進めました。公立中高で英語教育に関わる教員だけ考えても6万人 、小学校と大学も合わせると目算でその倍程度の教員が存在することになります。ましてや英語教育を受ける中高生は700万人以上 、これに小学校の児童と大学等の学生を加えますと、これまた目算で1500万人以上となります。これだけの大規模な秩序を考える際には、複雑系・自生的秩序といった意味での「市場」----(「オイコス(家政)としての経済」も含む)通俗的理解とは異なる「市場」----のことを考えることは重要ではないでしょうか。

 次に知識論についての引用をします。まずは人間の知識は、記号化されコンピュータに搭載可能な知識を超えることについてです。

コンピュータはアルゴリズム、構文論、形式を超え出ることができない。一方、我々(そして市場)は超越の可能性をもつ。おそらく、その理由は我々が身体をもつという事実であろう。すでにアリストテレスが言っていたように、身体すなわち質料的存在は、つねに精神すなわち形相的存在の支配を免れていく、その無規定性を存在論的特徴としている。そしてポラーニに言うように、我々にとって意味を可能にしているのが身体を介した内在化ないし内面化であるとすれば、形式(形相)的存在としてコンピュータが、たとえその構文論をもって意味論を支配しようとしても、それはつねに構文論を逃れていくであろう。あたかも質料が形相の支配を免れるように。構文論は意味論を支配しようとする。しかし、そのつど意味論は構文論を逃れていく。この繰り返しはいつになっても止むことはない。構文論(=形相)はついに意味論(=質料)を制することができない。これこそがゲーデルの定理の存在論的意味であろう。したがって、それは強く脱-合理主義的な意味を負った定理でもある。そしてまたポラーニ的に言えば、我々が構文論-形式、分析、意味剥奪の論理----と意味論----内容、統合、意味付与の論理----の弁証法の可能性を具えていることが、我々をコンピュータから存在論的に区別し、同時にその超越的認識(アルゴリズムを超える)を可能にする要因なのである。そしてアリストテレスの言うように、経済学を含む実践学の知識(実践知)はつねに身体的=質料的知識であって、けっして形相的知識(理論知)の支配に下ることはない。(360ページ)
(注)ここでいうゲーデルの定理に関して、著者は、ゲーデル自身が語ったと言われる「人間の心はその数学的直観のすべてを定式化(ないし機械化)することはできない。すなわち、もしその一部の定式化に成功したとすると、まさにこの事実が新たな直観的知識をもたらす。例えば、この形式系の整合性である。この事実は数学の『不完全性』と呼ばれてよい」を引用しています。(355ページ)。またポラーニについては後述します。

あるいは「身体」を認めようとしない「知識人」の倣岸について著者はこう語ります。

市場は、それが身体に宿る知識、質料的な知識を利用可能にするシステムであるという点で、明らかに存在論的な機能も担っているのである。そして、社会主義的計画論者が最後まで理解できなかったのはこの知識の「存在論」であり、その背後にはかの合理主義的イデオロギーがあった。計画化の論理は精神(形相)による身体(質料)の抑圧を生み、身体としての知識、身体に宿るアートを不合理なもの、あるいは単なる無知として退けてゆく。社会主義がそのスローガンとは裏腹に労働者の労働からのいっそうの疎外を招くプロセスは、この合理主義イデオロギーの実践的(で必然的)な発現である。「現場の人間」の職業的アートを蔑み、科学的=技術的知識を偏重する(いな、偏重せざるをえない)計画経済の論理は、必然的に知識の、そして人格の差別化をもたらす(知識がつねに人格的=個人的知識であることを想起されたい)。科学的=技術的知識に溢れる「知識人」「インテリ」が熱心な計画経済論者であるのはしごくごもっとも。なぜって、計画経済の下で一番効率的に使えるのは彼らの知識なのだから。現場の人間にはその知識(=人格)を活かす機会など与えられない。むしろ、彼らの知識は軽蔑の対象である。ハイエクは言う。「この種の知識・・・・・を活かして、理論的な、もしくは技術的な知識をたくさんもった人たちに優る利益を得る者はみな、まるで尊敬に値しない行為をしたかのごとくに思われている」(IEO, 81/112)。知識人にとって、この種の知識は端的に不合理の現れ、オークショットの言う「一種の無知」、あるいは「無視してもかまわない」ものである。計画化が不首尾なのは、かかる不合理がいまだ排除されないからであって、ひとたび合理主義が勝利すれば、我々の社会は明確なヴィジョンとプランの下に組織されるであろう。しかしポラーニに従えば、個人的(personal)知識の排除はとりもなおさず個人の人格(personality)の排除である。そこでは、あらゆる労働者は固有性のない交換可能な客体となる。まさしく、アダム・スミスの言う「チェス盤上の駒」になるのである。知識の剥奪、それは人格の剥奪なのだ。ハイエクの知識論的転回は、市場が人間存在----形相を備えつつも質料性を免れない存在----にとって必須のメカニズムであることを示すことで、その存在論的な意味を解き明かした。そこに描かれたものは、まさしく「市場の哲学」なのである。(367-368ページ)

英語教育界にも「知識の剥奪、人格の剥奪」はありませんでしょうか。私はこの夏は「英語教師へのインタビュー研究に関する予備的理論考察----技能と言語の関係について----(草稿)」などで、身体やポラニー(私はこのカタカナ表記を使っています)について言及しましたが、英語教育界も身体、ひいては市場(!)について、表層的ではない原理的な考察を必要としていると私は思っています。


 本書の特徴の一つは、ハイエクと彼に関連する哲学を比較していることです。第二章では、ポパーとハイエクの親近性を前提とした上で、あえてポパーの「批判的合理主義」は、ハイエクの「進化論的合理主義」と異なり、人為的性格が強く、下手をすれば「優生学」にもつながりかねないことを指摘しています(84ページ)。第三章のオークショットに関しては、彼が、経済(economy)については、オイコス(家政)としてつねに政治(ポリス)に服従すべきというアリストテレス以来の<ポリス=オイコス図式>(以下<P=O図式>)を、アダム・スミスやハイエクのようには払拭することができなかったことを指摘します。

しかしスミスがそこ[=政治経済学]に見ていたのは、経済がもはや従来のアリストテレスの伝統、すなわち<P=O図式>では論じられないという、重大な歴史的転換であった。そしてこの歴史的転換を可能にしたのが、公的空間としての、そしてオイコスとポリスを包摂する「コスモス」としての「市場秩序」(market order)の出現であった(LLL, II 107-13/150-58)。この秩序はいわばオイコスとポリスの母胎であり、その主体(個人、結社、企業、そして政府)の活動の「場」を提供するのである。(133ページ)

第四章のポラニーに関しては、彼の知識論における弁証法的発展を指摘していたところが私にとっては斬新でした。著者はポラニーの認識論・知識論・存在論を次のように説明しています。

我々はここに、ポラーニがその「〜から〜へ」の構造論および存在論を、「事物とその意味」の関係に一般化しているのを見ることができる。言うなれば、先に触れた暗黙知の意味相が存在論と結合されているわけである。「事物に意味、すなわち我々が焦点的に意識している対象にかかわる意味を与えるのは、その事物についての我々の補助的な意識である」(KB, 182/232)。ポラーニは、事物からその意味へと向う認識の過程を「意味付与」(sense-giving)と呼んでいる。「外的事物に意味を与える場合」、「統合の過程によってそれは我々の身体に同化され、その程度に応じて、それは外的対象としてのその性質を奪われる」(KB, 184/235)のである。ここでは、事物はいわば「透明化」され、我々の注意は事物を通して(すり抜けて)その意味へと向けられるのである。他方、これとは逆の過程、すなわち「意味剥奪」(sense-deprivation)の過程も発生しうる。
(中略)
我々はかかる意味付与および意味剥奪の過程[に]おいて、そのベクトルを正反対にする二つの論理が働いていることを理解できる。前者においては、それは暗黙的統覚によって外的事物が具体的な性質を喪失し透明化してゆく内面化(内在化)の論理であり、我々はこれを「統合の論理」と呼ぶことができる。これに対して、後者においてはそれは事物を不透明化する「外面化」(exteriorizing)「客観化」(objectivization)あるいは「疎外」(alienation)の論理であって、我々はそれを「分析の論理」と名づけることができる。(202-203ページ)

もちろん、ポラーニは認識における分析の意義を否定しているわけではない。いなむしろ、彼は「統合」と「分析」が交互に反復されることによって我々の認識が深化するという、いわば弁証法的な発展の契機を重視している(ただしポラーニはこのことについては詳論していない)。(204ページ)


第五章のバーリンに関しては、彼とハイエクの親近性を「彼らの自由論は、全体主義----現代的には全体主義的デモクラシーないしデモクラシー的専制----の脅威からいかにして個人の自由を防衛するかにその知力のすべてを投入している」(278ページ)とした上で、「バーリンは法を権威の、あるいは主権者の意志ないし命令----ハイエクの言うテシス=「制定法」(statute)----としか見られなくなっている。彼は我々の法を二つに、すなわちノモスとしての「自由の法」(law of liberty)と制定法(テシス)とに区別して考えることができない」(285ページ)と指摘します。第六章の「社会主義者とハイエク」に関しては、「論争途上ハイエクの示した「知識論的転回」、すなわち経済問題とは分散した個人的(=人格的)知識をいかに効率的に活用するかの問題である、という問題提起は、論敵たる市場社会主義者たちにはまったく理解されなかった」(343ページ)などを指摘しています。
付章一「複雑さと社会科学」は非常に読み応えがあります。「複雑現象と単純現象との間にはなんら存在論的差異はない・・・あるのはただ、程度問題にすぎない。いやしくもハイエクは複雑系科学者であって、<科学>(自然科学)と社会(・人文)科学との間に、怪しげな二元論----方法/解釈学、説明/理解(了解)、物理科学/精神科学のごとき----を容れる余地はない」(386ページ)ということを基本的前提としながらも、著者は次のように述べます。

社会科学は「法則科学」ではありえない。それを法則科学たらしめようとする熱意は、必ず還元主義的作為を呼び込む。すなわち、第三項以下を切り捨てて二変数(二体)問題に加工したのち、結局は変数をばらして直積をとる(つまり線形化して重ね合わせる)か、系のでたらめな運動を前提に組織性を解消する(つまり平均して統計的に処理する)か、である。経済学でしばしば見られる「他が同じであれば」(ceteris paribus)も、この前者の典型と言える。こうすることで、我々は確かに二ないし三変数の間に単純な因果法則を発見することができるが、その代償は高い。なぜなら、それは「法則」という概念から意義を奪ってしまうからである(404ページ)

社会科学は複雑現象を、なかんずく人々の行為の予期せぬ(できぬ)結果を考究する。問題の核心は主体と客体、さらに主体と主体の関係である。そこでは内包的言語の使用は不可避である。しかも、クワインの言うように単に便宜の問題ではなく、原理的に不可避なのである。このような社会科学に特徴的な態度、すなわち内包主義(intensionalism)と主体中心主義を包括して、ハイエクは「主観主義」(subjectivism)と呼んでいる。(439ページ)

ハイエクにとっての心的言語と物理的言語は共約不可能(認識論的)であっても翻訳不可能(意味論的)ではなく、むしろ翻訳はいかようにでも可能なのであるが、どの翻訳もはなはだ不完全であるがゆえに社会科学(そして人文科学)ではとうてい役に立たないのである。(440ページ)

付章二「初版から10年後の補論」では様々な最近の研究を紹介していますが、社会主義者塩川伸明氏の「確かに、『社会秩序を自生的でなくつくることはできない、それをこわすのは危険だ』という主張には、否定しがたい説得力がある。しかし、その命題と、『計画的・人為的干渉さえなければ、必ず自生的秩序が生まれる』という命題とは論理的に同値ではない」(551ページ)の引用などが印象的でした。
「あとがき」では、ハイエクが自身の業績の中で最重要と述べた『感覚秩序』を十分には扱えなかったと著者は述懐しています。
ぜひ『感覚秩序』を基にした次の本を私などは期待したく思います。それは日本(そして世界)へのさらに大きな知的貢献になると信じて疑わないからです。


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デビッド・ヴァイス、マーク・マルシード著、田村理香訳(2006)『Google誕生』(イースト・プレス) (2006/9/28)

「積み上げると高さ70マイル(約112.6キロメートル)になる紙の束に含まれている情報を、0.1秒もかからないで検索できるようになったんだ」とペイジは言う。「ちょっとクールじゃないかい?」(155ページ)

「わたし個人としては、世界中のすべての情報がアイポッドのようなものに入っている状況が理想的ではないかと考えています。そのような情報がすべて、どこに行くにも自分と一緒にあって、それをいつでもアップデートできたら、どんなことになるでしょう?教授が口を開くよりも先に学生一人ひとりが答えを得ることができたら、教えるということにどんな変化が起こるでしょうか?」(393ページ)

ラリー・ペイジ(Larry Page)とサーゲイ・ブリン(Sergey Brin)という名前は世界史上に残るのかもしれません。

グーテンベルクが近代的な印刷機を発明してから、出版物は次々に出版されました。しかしそれらの出版物の情報は、せいぜい碩学の頭の中でつながっているだけでした。それをグーグルGoogle)は、コンマ数秒の時間で、誰でもがネット上にあるほとんどすべての情報を検索し、自らが求めている情報を次々に探り当てるテクノロジーを無料で世界に開放しました。「革命的」ということばはこのような変化を描写するために使われるべきではないでしょうか。

ペイジとブリンは、この革命を数年で起こしました。そしてこの革命はさらに加速度をつけているようにも思えます。グーグルはソフトウェアとハードウェアの両分野の先頭を走る唯一の会社です(5ページ)。

彼らの特徴を伝えることばは次のようなものでしょうか。

「あの二人は物事がどんなふうにあるべきかというヴィジョンに突き動かされていた。金儲けに動かされているわけではなかった」(81ページ)

「どんなときでも、うんざりするほどはっきりしていたのは、じぶんたちは正しいことをするんだと二人が真剣に考え、熱心に取り組んでいたことだ」(139ページ)

「邪悪になるな」(Don't Be Evil)(8ページ)

「頭のよさと人間性を併せ持った人物」、「一歩踏み出す前にエゴを抑制するのをいとわない人物」(166ページ)

「グーグルは、誰に対しても敵対的な態度を取っていない」とAOLのジョン・ミラーは言う。「ほとんどの会社はビジネスにおいて敵対する相手を必要とし、それによって自分たちのモチベーションを高めている」。一方、ブリンとペイジは、「自分たちの使命感によってモチベーションを得ている。二人は明らかに、まったく異なった考え方をしている。自分たちの描く未来像やビジネス目標によって突き動かされているのだ」。(325-326ページ)

「二人は、ただじっと座ったまま、『よし、次世代の検索エンジンを作り上げよう』と言っていたわけではなかった。興味を引かれる問題を解決しおうと努力していて、それをつづけるなかで、ふと気づくとすてきなアイデアに突き当たっていたんだ」(64ページ)

もちろんいかな天才とはいえ、二人だけでは世界を変えることはできません。彼らは多くの人を魅了し、説得し、納得させ、圧倒してグーグルを「たった五年で、大学院で取り組んだリサーチ・プロジェクトを、数百億ドルを稼ぎ出す地球規模の企業に変えてしまった」(23ページ)のです(注)。その波瀾万丈のプロセスに関してはぜひ本書を読んで、皆さんも仮想的にこの革命を体験してください。これ以上にエキサイティングな読書というのもなかなかないでしょう。

その波瀾万丈の中でも私にとって一番印象的だったのは、「図書館デジタル化プロジェクト」(第21章)です。グーグルは、ミシガン大学図書館、オクスフォード大学図書館、ハーバード大学図書館、ニューヨーク公立図書館、スタンフォード大学図書館の蔵書すべてをデジタル化しようとしています。スキャニングの問題はテクノロジーで解決しようとしています。茨の道に違いない著作権問題に関しては、訴訟費用はグーグルがすべて負担する(363ページ)ことで問題を打開しようとしています。このダイナミズムはすごい。
もしこのプロジェクトが成功すれば、5000万冊以上の本がデータベース化されます。それだけの巨大なデータが、グーグルで検索可能になった場合の知的生産性はどのようなものになるのでしょうか。私は頭がくらくらしてきます。(そして日本語文化はそのプロジェクトに入るのでしょうか!入らなかったとすれば・・・・)。

もちろんグーグルの革命を手放しで礼賛することは禁物であることは『グーグル・アマゾン化する社会』も伝えるとおりです。ですが、グーグルのインパクトを軽視することはもっと許されません。

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(注)その企業文化の一端は、「グーグルの特異性と強さ」(http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20060924)でもよくわかるかと思います。


追記(2006/10/2)
糸井重里(2004)『ほぼ日刊イトイ新聞の本』(講談社文庫) (2006/10/2)
もちろん日本にもワクワクするような集団というのはあります。その一例が「ほぼ日刊イトイ新聞」(http://www.1101.com/home.html)です。糸井重里さんの『ほぼ日刊イトイ新聞の本』(講談社文庫)では、彼がいかに49歳の時に初めてパソコンを手にしてから、その「ほぼ日刊イトイ新聞」を軌道に載せたかについての裏話が語られています。
この際も、彼は「コピーライター」でした。「コピーライター」という仕事を彼は次のようにまとめます。

つまり、アイデアを出して言葉にしていくこと。
そして、それを活かす方法を考えること。
そういうすべてのことがコピーライターの仕事だと思っている。
(中略)
「コピーライターはなんでもできるんだ」
と、ぼくは言いはって仕事をしてきた。
別に速く走ったり、高く跳んだりすることはできないけれど、アイデアとコミュニケーションにかかわることなら、なんでもできるし、やれなきゃダメなんだと考えている。(31ページ)

ですから日本版ネットバブルの時に、様々なオファーをかけられて、「おもわずグラッときた」にもかかわらず、彼はそういったネットバブルの人たちに対して基本的に次のように感じていました。

彼らはカネは持っていたかもしれない。
でもカネで何をしたいのかが、どうにも見えないのだ。カネの量の話ばかりだった。
(中略)「時価評価総額で日本一の企業を目指す」などというのを聞いても、それがなんのための目標なのか、まったくわからなかった。「はいはい、大きいですね」と言われたら、それでうれしいのかしらん?(209ページ)

文庫本という買いやすく読みやすいフォーマットで、糸井さんの経験のエッセンスが学べます。ネットのイノベーションの嵐も、結局は人間世界の出来事です。人間的な読み物としてぜひ気軽にお読みください。

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森健(2006)『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書) (2006/9/27)

梅田望夫(2006)『ウェブ進化論』ちくま新書も言うように、グーグルとアマゾンはWeb2.0の象徴的存在といえるでしょう。その圧倒的なサービスは多くのウェブ・ユーザーをとりこにしており、私も既にこれら抜きの知的生活は考えられません。しかし手放しの礼賛も危険かもしれません。懸念の一つはウェブ上での一極(あるいは少数)への集中であり、もう一つが個人の中での選好の一極(あるいは少数)への集中であると本書は説きます。
 ウェブ上での集中とは、少数のサイト(たとえばグーグルやアマゾン!)ばかりが使われるようになるということです。これはスケールフリー・ネットワーク(Scale free network)が前提となります。ネットワークは、素朴に考えればランダム・ネットワーク、つまりどのノード(結節点)からも同じように他のノードへと接続(リンク)されている構造を想像してしまいます。しかし実際のインターネット(ウェブ)は、スケールフリー・ネットワーク、つまり、ある特定のノードは段違いに多くのノードと集中的に接続され、他のほとんどのノードは少数の接続しかされていない構造になっています(著者は、全国の空港のうち羽田や大阪のような空港に集中的に便がつながることを例に説明しています)。このスケールフリー・ネットワークは、どんどん成長できますが、その際には、新しいノードは、既に多くの接続を持っている強力なノードと接続をするという「優先的選択」が行われます。もちろん新しいノードも「適応度」をもっていれば、多くの接続を獲得できますが、基本は、強力なノードはますます強力になる(「金持ちはますます金持ちになる」)となっています。複雑系科学でいうpower lawpositive feedbackあるいはlaw of increasing returnsです(ちなみに私は「収穫逓増」の英語表現が"increasing returns"であることを初めて知ったときは愕然としました。日本語の翻訳語ってどうしてこんなに難しいのよ(涙))。話題になっているという理由だけで認知度がますます上がるというのは、「ブログで話題のサイトBEST100」(http://buzz.ameba.jp/links/site/)といった現象でも確認できるのかもしれません。
 こういった集中は個人ユーザーにも見られるのではないかというのが著者の洞察です。それがパーソナライゼーションです。現在のWeb2.0のテクノロジーはユーザーの選択に応じて、ますますテクノロジーの方でその選好を進めて、ユーザーにとって「心地よい」環境を自動的に作り上げます(ミクシィをご存知なら、話は早いでしょう)。そういった状況では、使用者が自らと異なる意見を積極的に求めない限り、似たもの同士が集まりがちであり、そういった集団では同じ考えが極端に偏って共有される状況が生じかねません。著者はこれを「集団分極化」と呼びます(私は日本の政治系ブログを見ていていると強くこの傾向を感じるように思います)。
 ネットの世界では『「みんなの意見」は案外正しい』とも言われますが、それは意見の多様性、独立性、分散性、集約性が前提されている限りです。しかしもしネット全体でも、個人のネット利用でも、一極(少数)集中が加速すれば、多様性・独立性・分散性の前提が崩れ、歪んだ集約性で、意見が形成されるようになるのかもしれません。
 著者の森健氏はこういった考察を、多くの情報から展開しており、それがこの本を、単なるWeb2.0ブーム本とは異なるものとしております。新書というジャンルが想定している「一般読者」で、この本に700円という対価を払って不満に思う方は少ないと私は思います。ぜひお買い求めください。

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ちなみにグーグル・アマゾン化の近未来SFはhttp://www.probe.jp/EPIC2014/ols-master.swfで見られます。ぜひご覧の上、ミクシィのコミュニティ(EPIC2004)にお入りください。上のような懸念にもかかわらず、私はミクシィで、これまでのネット生活では考えられなかった新しい展開を楽しんでいます。


根井雅弘(2006)『物語 現代経済学』(中公新書) (2006/9/24)

 英語教育学の今後の発展の方向を考える際の材料として、他の「先行」分野の流れをみるということは私が心がけていることです。経済学に関しても、私はそういった関心から、素人として少しは経済学の啓蒙書は読もうとしています。
 この本は「経済思想の多様性」という立場から、現代経済学を物語風に語ったものですが、著者は「あとがき」で次のように述べています。

 一昨年の正月、若い頃お世話になった名編集者・早川幸彦氏から、「最近の経済学者やエコノミストの言説には失望しています」と添えられた年賀状を戴いた。それ以上のことは何も書かれていなかったので、早川氏の性格や人柄から想像するほかないのだが、おそらく、経済論壇の「流行」になびくかのように、「規制緩和」「民営化」「インフレターゲット」などにすぐに飛びついてしまう人たちへの失望感を正直に吐露されたのではないかと思う。
 論壇が活性化して経済学者がエコノミストが身近な存在になることは悪いことではないが、あるキーワードが新聞や雑誌に登場するほどの勢いで「流行」し始めたら、多少の警戒感をもったほうがよいというのが私のモットーである。本書で繰り返し説いてきたように、経済学の考え方は「多様」であり、ある一つの思想に基づいた制作で経済問題がたちどころに解決されるというようなマジックは決して存在しないからである。
 経済思想は多様だからこそ価値があるという考え方は、流行のキーワードを多面的に再検討し、隠された問題点や論点を浮かび上がらせることにもつながる。そして、教養のある方なら、経済学の意義とともにその限界にも気づくに違いない。かつて19世紀の偉大な知識人であったJ.S.ミルは、「経済学はいまだかつて人類に、自分だけの見地から忠言を与えようなどと大それたことを実行したことはない」(『ミル自伝』朱牟田夏雄訳、岩波文庫)と明言したことがあるが、専門化が進んだ現代でも、自己の主張や立場をもっと広い視野から眺めてみる心のゆとりは必要ではなかろうか。(204-205ページ)

 著者によればアメリカ経済学は、1982年の段階で既にに佐和隆光氏が『経済学とは何だろうか』(岩波新書)(←懐かしい!私も昔読みました)で述べているように、主流派経済学が「制度化」されてしまい、異端派やラディカル派が辺境の地に追いやられてしまう(169ページ)ものです。主流派以外の経済学者は「いばらの道」を選択するに等しかった(168ページ)わけです。しかしそうして制度化された経済学は、「近年、アメリカで経済学の人気に翳りが見え始めたことを学会が憂慮」(174ページ)する事態になり、Journal of Economic Literatureが1991年に、American Economic Reviewが2001年に経済学の教育法に関する調査報告を出すまでになります。前者の報告では、「大学院における「コースワーク」は、現実世界での諸問題との関連にあまり考慮を払っておらず、テクニカルなものの習得に重点が置かれた結果、直感的な経済分析の能力が開発されずに終わっている」(175ページ)とされています。さらに「非主流派」の人々がよく投稿するJournal of Economic Issuesは2003年に、現在では「経済学原理」の教科書は、「代替的アプローチ」に配慮したものがごく少数に過ぎないことを指摘し、"a multi-pradigmatic approach"を提言しているそうです(175-176ページ)。また、世界的な経済学専門誌『エコノミック・ジャーナル』は前世紀末、創刊百周年記念号を出版しましたが、その中で20世紀後半の理論経済学の発展に寄与した人たち(フランク・ハーン、森嶋通夫、エドモン・マランヴォーなど)が、「いずれも経済学の数理化の限界を指摘し、21世紀においては、経済学も社会学や心理学などの隣接領域の成果を積極的に取り入れるべきだと主張している」そうです(161ページ)。
 こうした現状から著者は次の文章をこの本の結びのことばとしています。

ここでいわれているような「他者」を介在させること、私の言葉でいえば、自分の考え方を「相対化」すること----これが、現代の経済学界に最も欠けている要因であるように思えてならない。経済学者は、主流派経済学に批判的な「代替的アプローチ」の存在に無知であってはならないばかりか、もっと歴史学や社会学などのような隣接領域の学問にも敬意を払うべきではないだろうか。アメリカ経済学会の内部でさえ、十数年前から、経済学教育がテクニックばかりに偏りすぎているという反省がなされているとき、それをそのまま日本の土壌に植えつけようとするのは、きわめて視野の狭い研究者の大量生産につながりかねない。私はそのことを一番憂慮している。(180ページ)

 まさに「学問栄えて知が滅ぶ」ような状態を著者は警戒しているわけです。

 こういった経済学のあり方を、英語教育学がたどるかもしれない未来の一つの可能性と考える想像力を私は禁ずることができません。日本の多くの英語教育の学会で、ただただ時流に迎合している論や、現実世界を深く見ようとせず統計上のテクニックばかりに傾倒する研究が多いこと、あるいは数量的な研究を「制度化」し、それ以外の研究を学会誌から事実上追放していることなどは、もうこのホームページの読者には繰り返してお伝えする必要もないでしょう。
 しかしそういったあり方だけが英語教育学会のあり方ではありません。例えば私は今年8月17日から20日にかけて西南学院大学で開かれたAsia TEFLの2006年大会に参加し、19日には発表もしましたが、その学会では、日本の英語教育学会ではあまり見られない質的研究も、代替評価の研究も、社会・文化的な研究も、マクロな政治・経済構造を考察する研究も、特段変わったものとしてでなく、当たり前に発表されていました。
 また9月23日には広島大学大学院教育学研究科日本語教育講座が創設20周年記念行事を開きましたが、その分科会は「文化理解と日本語教育」、「言語学習の心理と支援」、「日本語の構造と言語行動」の三つに分かれたものでした。私は「文化理解と日本語教育」に参加しましたが、英語教育の学会では考えられないぐらい広い視点からラディカルに日本語教育が語られました(私は聞いていて、「あら日本語教育ではこのような語り方もアリなのね。うらやましい」と思いました)。プログラムで見る限り「言語学習の心理と支援」分科会は英語教育学会でもよく見られるようなアプローチ(ただしもっと実学的)でしたが、「日本語の構造と言語行動」では近年なんだか英語教育の学会で急速に力を失っているようにも思える言語学・言語論・言語哲学的なアプローチが多彩に展開されているようにも思えました。
 もちろん、多彩な発表が行われさえすればいいというものではありません。もし多彩な発表が、タコツボ的関心しか持たない研究者によって行われ、それが同じタコツボ的関心を持っている研究者にだけ熱心に聴かれるようになったらそれは悲惨なものとなるでしょう。学会は多数の発表からいかにして自分と同じタコツボの研究者を見つけるかだけのものに成り下がってしまいます。タコツボ研究は研究者の数においても広がりを持たないでしょうから、その少数の人間にだけ考察・討議される研究の質は上がらないでしょう。かくして質の低いタコツボ研究が、他の大多数の学会員の無関心を基盤にして「学術的研究」として発表され出版され、それによって研究者の身分が決定されることになります。これなら「主流派」という標準的スタイルを「制度化」した方がましだという意見になってしまうでしょう。
 しかし特定の研究スタイルだけが、英語教育といった複雑な現象の「制度化された標準」となることの危険は、私たちが経済学の現状から推察すべきことでしょう。そうすれば、どうしたら私たちは多彩な研究を活かす学会を作ることができるのか。
 私の答えは実に常識的で単純なことです。それぞれの学会員が自分とは異なる発想やアプローチに敬意を払うのです。そしてその敬意に基づいて、自分の発想やアプローチから素朴な疑問を発するのです。もちろん同じ発想・アプローチをもつ研究者のテクニカルな質問を禁ずる理由などありません。それはそれで尊重しながらも、いわば「研究上の他者」からの問いかけを大切にし、それに真摯に答える習慣をつけるのです。また、発表者も、「研究上の他者」に対しても読んでもらえるように、自分の論を、せめて論文の序論や考察・結論では広い読者層にまともに訴えるような書き方で展開するのです(注)。そうした開かれた対話や執筆ができる研究者こそを教養ある研究者として高く評価する文化を学会が醸成するよう意図的・積極的・具体的に努力するわけです。
 学界・学会とは私たちが作り上げるものです。英語教育学においても、私たちはもっと学界・学会のあり方に対して自覚的になって、青いことをいうようですが、良心的に行動しませんか?

(注)このことは序論、考察、結論などで大風呂敷を広げることを意味するのではありません。ぜひ伊丹敬之(2001)『創造的論文の書き方』有斐閣をお読みください。


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金出武雄(2004)『素人のように考え、玄人として実行する』(PHP文庫) (2006/9/23)

頭がよいとはどういうことか。
それは博覧強記とか、議論で人を煙に巻くというものではなく、現実世界で問題解決ができること。
それでは現実世界で問題解決するとはどういうことか。
それは「素人のように考え、玄人として実行する」こと。

この本は、カーネギー・メロン大学で20年以上活躍している日本人研究者(ロボット工学)によって書かれた「素人のように考え、玄人として実行すること」についての本です。視野狭窄に陥らずに、自由な発想と柔軟な構想力で問題を設定し、あまたの専門知識を駆使して、その構想を緻密に実現することこそが、問題解決に必要なのです。
英語教育という分野も、現実世界に働きかけ、結果を出す実学であるべきという点で、工学とは高い親近性を持ちます。短いエッセイで構成された読みやすいこの文庫本を、英語教育関係者もぜひ一度読んで、研究の喜びや興奮、そして奥深さを感じておくべきかと思います。

工学における構想力に関して著者は言います。

構想力の重要さは研究者にも同じである。世の中の問題はおおむね難しいので、その問題を最も一般的な形で解くというのはまず不可能である。
特に、工学的な問題の場合は、自分でつくった問題を解くわけだから、構想力は一層重要である。実現したい目標や解明したい現象を取り出す。その取り出し方が(1)広すぎず、狭すぎず、(2)使うべき仮定や予備条件が少なすぎず、多すぎずにである。その基準は結局、結果が役に立つかである。(69-70ページ)。

現実に常に試されながら、高度なバランスをどう図るかを思考実験してゆく力が問題解決においては重要なわけです。

現実にある問題を自分の頭で考えて「何とかする」という訓練をしなければ、いくら専門的な知識があっても、思考力、判断力、そして挑戦する意欲という知的体力は生まれない。(153ページ)

最近、自由作文などで創造能力を測ろうという入試がある。私に言わせれば本当の能力はそんな抽象的な作文ではわからない。自分で勝手なことを考え、勝手なことを書くのは誰でもできる。
本当の能力は具体的な現実にある問題を解く能力である。(154ページ)

「実学」を標榜する英語教育学者は謙虚に耳を傾けることばかと思います。

著者は論文を書くことについても述べます。

もうすでに気づいておられると思うが、論文、書き物の優劣は言葉ではない。研究内容そのものとともに、それを決めるのはおもに構想力と構成力である。構想力は「何がどうしてどうなって」というストーリーを作る力であり、構成力はその構想にしたがって、一貫した記述、用語、スタイル、図表を作り、配置する力である。これらがしっかりしていれば、言葉は自然とついてくる。構想力について述べてきたので、一言だけ構成力について述べる。
構成力を支えるのが言葉であり、言葉づかいのテクニックである。それだとて、テクニックというより、「読者に親切であろう」、つまり、余分なことを考えなくて済むようにしてあげようとする気持ちが基本である。読者が見たり、読んだ瞬間にどう思うかを考え、それが自分の言いたいことと一致するようにすれば自然と読みやすくなる。(258ページ)

酒井聡樹(2006)『これから論文を書く若者のために(大改訂増補版)』(共立出版)を読んでも思ったのですが、どうも人文・社会系の論文よりも、自然科学系の論文の方が、読者に配慮し読みやすくすること、読んでいて面白いと思わせる物語(ストーリー)を作ることを大事にしているように私には思えます。自然科学の激しい競争が、研究内容だけでなく、研究の表現にも一層の進化を促したのでしょうか。この著者も随所で推理小説(ミステリー)の書き方を話題にします。私たち人文系の人間は、こういう点でも自然科学の研究者に謙虚に学ぶべきでしょう。
この本は短いエッセイ集ですので、様々なトピックが語られますが、その中には教育もあります。著者は研究者としてだけでなく、教育者としても超一流なようです。

「何回説明したらわかるんだ!」
子供や部下に向って、こう怒鳴った経験はないだろうか。しかし、果たして、悪いのはお子さんであり部下なのだろうか。私は学生によく、
「わからせてから説明する方法を考えろ。説明してわかってもらうのは難しいのだ」
と言っている。一般に、説明はわからせるためにするものと思いがちだが、本当はそうではない。(209ページ)

考えさせる教育はすなおな素人発想に通ずる道であり、記憶と反復学習は玄人実行を可能にする力である。ゆとりの教育か詰め込み教育かといった理念論争をしていても始まらない。このごろはあまりはやらないが、弁証法的に言うならば、ゆとりの教育と詰め込みの教育の対立概念を止揚する解決法が「素人発想、玄人実行」の考えなのではないか。そのためには何をするべきか。
われわれ教育者は円周率といった重要な概念の一つ一つについて、その考えのもとを教える効果的な方法を発明する必要と義務がある。そういう方法なしに、考える力のつく問題解決学習は実現できない。
毎年毎年、何百何千といった学校や大学のクラスで同じ基本概念が教えられている。成功したやり方、あまりうまくいかなかった経験を交換し改良する活動が教育界にもっとあってよいし、そういう活動をこそ政府は資金を出して奨励すべきである。いいアイデアには、賞金を出す、商品化して普及させるくらいの度量があってよい。
一方、記憶と反復のスキル学習の成否は、ここの学生・生徒の習熟度に応じた練習をどれだけ数多くするかによる。それを効率よく実行するためには、コンピュータを使った新しいテクノロジーをもっと積極的に利用すべきである。(189-190ページ)

また20年以上アメリカの研究界でトップを走ってきた著者の英語に関するコメントも秀逸です。英会話は「外国人にしてはうまいな」と思われるぐらいがちょうどよく、ある程度以上になったら自分の分野の本を読んでおくほうが合理的であるとか、英語で聞いた数字は絵にして思い浮かべて絵のまま計算せよとか、あるいは、英文は、副詞・副詞句・副詞節・形式主語などから書き始めるのではなく、本当の主語となる名詞句から始めよ、などといったアドバイスには私はなるほどと思わされました。

読みやすく、わくわくしながら深いことが学べる文庫本です。ぜひお買い求めの上お読みください。

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トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳(2006)『フラット化する世界(上)(下)』日本経済新聞社 (2006/9/20)

 「グローバリゼーションの現在、英語力向上は不可欠である」というのは、多くの英語教育関係者の不問の前提であるようにも思えます。その前提からSELHiや小学校英語教育の導入などが議論され、計画されてゆきます。しかし、グローバリゼーションだとなぜ英語力が必要なのか、そもそもグローバリゼーションとは何なのか、といった問いがないままに、とにかく英語力向上ばかり叫んでいても、それぞれが勝手に思い込んでいる「英語力」の向上ばかりを語るだけで、なかなか議論は収束しませんし合理的な計画も立ちません。ここは回り道に見えても、グローバリゼーションについての理解を確かなものにすることが必要でしょう。
 この本は『レクサスとオリーブの木(上)(下)』の著者であるニューヨーク・タイムズ社記者の著者(トーマス・フリードマンThomas Firedmanが、2000年以後の急速なグローバル化(彼のことばによるなら「フラット化」)をまとめたものです。グローバリゼーションとはいうまでもなく複雑で錯綜した現象ですが、それに対して見通しを得るためにアメリカを中心とした世界各国でこの本は読まれています。私は先日読み終えましたが、もっと早く読んでおくべきでした。ここでは私が大切だと思った点のみをご紹介します。


グローバリゼーション3.0
コロンブスが航海に乗り出し、旧世界と新世界の間の貿易が始まった1492年から1800年頃までをグローバリゼーション1.0と著者は呼びます。次のグローバリゼーション2.0は大恐慌と二度の世界大戦によって中断したものの、おおまかにいって1800年から2000年です。ですがテクノロジーの急速な進歩と普及、そしてそれに伴なう社会の変化が新しい時代をもたらしたと著者は考えます。それが2000年以降のグローバリゼーション3.0です。この本はこのバージョン3.0のグローバリゼーションを「フラット化」ということばで説明しようとするものです。ちなみに、この3.0というような言い方は、Web2.0といった用語を容易に連想させます。2000年以降の急速なウェブ革命を実感していない方はぜひ梅田望夫(2006)『ウェブ進化論』ちくま新書をお読みください。『ウェブ進化論』、『富の未来』、そしてこの『フラット化する世界』は、べつにドクトリン(doctrine)として信じ込む必要はありませんが、とりあえず世界の多くの人たちが現状を把握するために持っている大きな仮説として一応は知っておく必要があるのではないでしょうか。


世界をフラット化した10の力
著者は次の10の要因が世界をフラット化したとまとめています。言い換えますと、この10の要因を理解することで、著者のいう「フラット化」がどのようなものかがわかるでしょう。ここでは多くのテクノロジー用語やビジネス用語が出てきますが、こういった用語に親しんでいることが、現在では不可欠な教養の一部となっていると私は思います。少なくともテクノロジーやビジネスに嫌悪感を抱かないことは必要です。(以下、[ ]内は柳瀬の蛇足です)。

(1)ベルリンの壁の崩壊と、創造性の新時代:1989年11月9日(9月11日との奇妙な対象関係に注目!)のベルリンの壁崩壊で、世界は中央集権の計画経済を行う独裁政治の支配から、民主主義とコンセンサスを大切にする自由市場志向の統治へと大きく傾斜した。
(2)インターネットの普及と接続の新時代:TCP/IP, FTP, SMTP, POP, HTML, HTTP, SSLといったプロトコルは、どんな種類のコンピュータも接続するという、それまでには考えられなかった魔法を可能にした。[私たちはこのような用語の技術的詳細までもは知らなくても、これらの用語に慣れ親しんでおくことは大切でしょう]
(3)ワークフローソフトウェア(Work Flow Software):多くのビジネスが標準化され、大陸と大陸との間ででも共同作業が可能になった。[これは日本ではまだあまり浸透していない文化ですが、今後はこの方向を追求し、合理化を進め、ますます創造的なことに私たちの時間を向けるべきでしょう。ちなみに私は日本の新興ネット企業についてあまりいい印象をもっていませんが、それはそれらの技術力が高くないからです。この場合の技術力とは、私の場合、もっぱらユーザーとして感じるインターフェイスの感覚で判断しているものです。ユーザーが何を望んで、どのような可能性の中で作業をするかという想像力が十分ではないので、私などは画面のあちこちを見たり、画面を戻ったりしているうちに、作業結果が消えたりして何度も不満を感じました。アメリカ企業のサービスはこの点、日本の企業のサービスよりも優れていることが多いように私は思います。日本はネットの「こっち側」(目に見える機械)が、アメリカはネットの「向こう側」(目に見えないソフトウェア)が得意だというのは、『ウェブ進化論』の分析ですが、確かにそうだと思わされます]。
(4)アップローディング(uploading):ダウンローディング中心だったウェブ世界にみるみるうちにアップローディングが普及し、ブログ、ウィキペディア、ポッドキャスティング、オープン・ソース・ソフトウェアなどが社会に影響を与えるようになった。[日本でも早晩、こういったアップローディングの力は社会体制を変えるようになるでしょう。アメリカのように信頼できる政治ブログが数多く多彩にできればと私は強く願っています。またこういったアップローディング文化では、個人が今まででは考えられなかったほどの影響力を持つようになります。信頼される個人がたくさんネット社会に出て、彼/彼女らの相互作用でますますネット社会の信頼が高まり、さらに多くの信頼できる個々人をアップロード文化に招き入れることが日本でもできたらと私は思っています]
(5)アウトソーシング(outsourcing):Y2K問題でアメリカは、それまで見向きもしなかったインドのエンジニアに高度なアウトソーシングを依頼するようになった。[私は日本の学校は事務作業をどんどんアウトソーシングするべきだと思います。"Subcontract everything but your soul!"とは以前のトム・ピーターズの檄で、私たちはあまり調子に乗るべきではないでしょうが、しかし多くの教師が事務仕事や書類仕事にあえいでいる現状からすれば「アウトソーシング」という用語は私たちの使用語彙に定着してもいいのではないでしょうか。もちろんその前に不要な事務や書類をなくすことが必要ですが!]
(6)オフショアリング(offshoring):社内での特定の限定的な機能のアウトソーシングから、中国への工場そのもののオフショアリングが始まるようになった。[アメリカの雑誌などを読んでいると、本当に中国経済を脅威と感じていることが伝わってきます。現在、日本では中国のことがとかく靖国を中心にしてしか語られないのが私はとても残念です]
(7)サプライチェーン(supply-chaining):ウォルマートのような企業は、仕入先、小売店、諸費者のあいだでの水平な共同作業を行うことを可能にするサプライチェーンを作り上げ、企業価値を高めた。MITのある教授は「品物を作るのは簡単だ。サプライチェーンとなると、非常に厄介だ」と言う。[以前なら二週間から一ヶ月ぐらいはかかっていた本の発送が、一日二日で済むようになったアマゾンも強力なサプライチェーンを持つ企業かと思います。もちろんこういった企業では労働者を搾取しているのではないかといった批判がありますから、私たちは諸手を上げてこういった企業を礼賛することはできないのかもしれませんが、こういった「グローバルな最適化」という高度な問題の重要性を私たちはもっと考えるべきでしょう。またこの著者は「デルの紛争回避理論]というのを唱えていますが、これはデルに代表されるような高度なサプライチェーンをグローバルな規模で維持することは、関係者すべてにとって重要なことであるというものです。そのサプライチェーンを破壊するような紛争や戦争を起こす国は、サプライチェーンを一時的に分断するだけでなく、その咎により、グローバルなネットワークからの信頼をなくし、競争力を失ってしまいます。かくしてサプライチェーンで結ばれた企業を持つ国々は紛争をできるだけ回避しようとするというのが彼の主張ですが、この主張は『<帝国>』の主張と重なるようで、私はそれなりに当たっているのではないかと考えています)]。
(8)インソーシング(insourcing):例えばUPSといった企業は、各種の企業を内に取り込み、製造、梱包、集配、財務プロセスを分析して(再)設計し、その仕事を代行するが、その取り込まれた企業のブランド名は残す。これによってどこからどこまでがUPSか、取り込まれた企業かがわからないようなシームレスな組織ができる。[これは私がこの本を読んで、一番衝撃的でラディカルな発想でした。この本によりますとアメリカで東芝ラップトップの故障を修理しているのはUPSだそうです]
(9)インフォーミング(in-forming):グーグルという検索技術のパイオニア集団は、知識のあり方を一変させた。[私などは、グーグル抜きの知的生活など考えられません。というより、私はイライラしている時など「紙など送ってくるな!グーグル(ウェブおよびデスクトップ)で検索可能な状態になっていない知識など、死蔵されるのがオチだ!」などと一人毒づくこともあります。グーグルに関しては、私たちはもっと注意を払うべきかと思います]
(10)ステロイド(the steroids):より高度なコンピュータ、ナップスターで有名になったファイル共有テクノロジー、スカイプで有名になったIP電話、テレビ会議システム、コンピュータ・グラフィックス、ワイヤレス・テクノロジー、などの「ステロイド」はフラット化を加速するだろう。[正直、私はこういった比較的新しいテクノロジーをまだ使っていないのですが、自分がtechnophobiaにだけはならないように注意したいと思います]



これからの教育
 仮にこのようにフラット化された社会においてビジネスで生き残れる人材を育成することを教育の目的の一つとするなら(「仮に」の話です)、教育は「自分の仕事がアウトソーシング、デジタル化、オートメーション化されることがない人」を育てなければならない、となります。そういう人材は(1)超一流の「かけがえのない、もしくは特化した」才能ある人々、(2)地元に密着してその地域を知り尽くした人々、(3)新ミドルクラスに三分類されます。その新ミドルクラスは

・「偉大な共同作業者・まとめ役[=一日24時間、週七日稼動するサプライチェーンで働く世界中の様々な人々を取りまとめられる管理職]」
・「偉大な合成役(シンセサイザー)[=異質な知識を組み合わせイノベーションを図れる人々]」
・「偉大な説明役[=複雑なことをわかりやすく説明できる人々]」
・「偉大な梃入れ役[=コンピュータをまさに最適のところで使える人々]」
・「偉大な適応者[=スペシャリスト、ジェネラリストを超えて、持ち場や経験の範囲が徐々にひろがるのに合わせて技術力を応用し、新たな能力を身につけ、人間関係を築き、まったく新しい役割を担うなんでも屋(Versatilists)]」
・「グリーン・ピープル[=環境問題に敏感な人々]」
・「熱心なパーソナライザー[=仕事に個性を加えて魅力を生み出す人々」
・「偉大なローカライザー[=グローバルな能力をローカルなニーズに適合させる人々]」

といったものであると著者は言っています(第六章)。

 こういった世界で重要な能力を著者は、(1)学ぶ方法を学ぶ、(2)好奇心と熱意を持つ、(3)人とうまくやる、(4)右脳的なもの(芸術的手腕、感情移入、大局的なものの見方、学識を超えたものの追求)と考えています。しかしながらここで慌てて付け加えるべきは、これらは伝統的な意味でのいわゆる「学力」があっての話です(この本では「掛け算ができなくてソフトウェアが作れるという人間に会ったことはない!」というビル・ゲイツのことばを引用しています)。
 仮にこの著者の分析を前提としますなら、日本の教育はどのように考えることができるでしょうか。ある意味で「ゆとり教育」は、こういった力を目指したものだったといえるでしょう。しかし私などが大学の現場で感じることは、必ずしも上のような資質を持った学生は多くはないということです。さらに個人的意見を述べますと、教育がますます「指導と評価の一体化」というスローガンに引きずられ、教師は(できれば数値で)評価できることだけを指導の内容と考え、生徒は「どうしたら何点もらえる」と、学びをあたかも労力と成績の交換契約のように考えているように思います。テレビゲームや携帯電話あるいはネット掲示板やミクシィなどの娯楽手段の多様化に伴ない、一人で静かに自発的に、特に何の対価も求めずに読書をするという文化は非常に低調になっています。またこの本でも著者は音楽などの芸術教育の重要性を強調していますが、音楽や美術といった科目は削減という話こそ聞け、振興という話はとんと聞きません。「ゆとり教育批判」(あるいは非難)と評価至上主義が高じて、短期的に計測できることだけが教育の中身だと考えるようになり、さらには学校がそれを制度化してしまえば、私たちはますますグローバリゼーションへの対応力を失ってしまうような気がします。教育者は、あまり時流や流行語にばかり囚われることなく、できるだけ複眼的に、大局的に物事を考えるべきではないでしょうか。



重要な政治の役割

こういったグローバリズムは、しばしば経済至上主義、市場原理主義とも呼ばれます。たしかに私たちも果てしない知的競争をする生活は送りたくありません。著者はフラット化は「思いやりのあるフラット主義」(compassionate flatism)を目指さなければならないと言います。

フラット化するこういう世界では、政府と政治家の任務がいままでになく重要になる。グローバリゼーションを受け入れ、複雑に入り組んだ政策の中で、より公平で、思いやり深い、平等主義的な社会のあり方を理解する必要がある。といっても、従来の福祉国家を強化するのではないし、それを捨てて市場の暴走を許すのでもない。現状に合わせた体系に作り変えて、国民の展望や教育やスキルやセーフティ・ネットを充実させ、フラットな世界のよその国の個人と充分に競争できるようにする。思いやりのあるフラット主義とはそういうことであり、五つの行動領域を中心に組み立てられる。その五つとは、政治的リーダーシップ、「雇用される能力」の強化、フラット化への反動に対する緩衝材を用意すること、グローバル企業を通じた社会改革運動、家庭における子育てである。(下、129ページ)

私自身、日本においてここ数年間で顕著になった格差の問題は看過できない問題だと思っています。しかしそれでは政府支出を増やしてお金をばらまこうにも国にお金がない。お金は主に、企業のグローバルな競争の中でしか入ってこない。となると反グローバリズムを叫ぶだけというのは問題の解決になりません。いかにグローバルな競争力を高めながら、しかしいかに人間が品位と尊厳を保てる社会を作り上げるか。言い換えるなら著者のいう「思いやりのあるフラット主義」を、単なる美辞麗句に留めずに、いかに具体化してゆくかということが重要かと思います。この本を読んでひしひしと感じるのは、いかにアメリカがフラット化という大競争において中国やインドなどの新興勢力に呑み込まれずに競争力を保ってゆくかという覚悟です(このような覚悟をもし額面どおり信じていいのなら、このことからも「グローバル化=アメリカ化=アメリカ支配」とは言えないことがわかると思います)。しかし、日本はアメリカほどのトップとしてのの覚悟も矜持もなく、中国やインドほどの気迫も野心もない状態です。これからのますますのフラット化で日本やヨーロッパのいわゆる「先進国」がどのような運命をたどるのかについては楽観はできないと思います。
 しかしいかに一国が「思いやりのあるフラット主義」を追求しようとも、地球規模では、フラット化から取り残され屈辱を感じ「イスラム・レーニン主義」(著者はアルカイダのユートピア的全体主義と自己認識は、宗教的というより政治的な事象だと考えています)(下、288ページ)にはしる一部のイスラム過激派などは後を絶ちません。また中国が本格的に生産・消費活動を始めた場合の環境破壊・エネルギー不足は重大な問題となります。こうしてみると政治は、国内的にも国際的にも重要なのです。また、国内政治と国際政治の間に線が引きにくくなったのが現在の政治なのでしょう。


文化の問題

グローバリズム批判は、しばしば地域文化への侵蝕への批判としても展開されます。グローバリズムがローカルな文化を破壊するというわけです。しかし著者はグローバリズムはそのように単純なものでもないし、善と悪の問題でもないと考えます。

しかし、一部の批判勢力の話を聞くと、無神経な資本主義、グローバルなブランド、ファーストフード、消費志向をひろめて、それまで栄えていた居心地のいい温かな地域のコミュニティや産業、文化を押しのけてしまうことのみかが、グローバリゼーションであるかのようないい方をしている。グローバリゼーションの力が、あちこちで頻繁にそうしたことをやっているのは確かだ。しかし、資本主義や市場主義、自由貿易を押しひろげることだけが、グローバリゼーションなのではない。グローバリゼーションは純然たる経済現象ではないし、経済のみに影響をあたえるのではない。もっと幅広く、深く、複雑な現象であり、新しい形のコミュニケーションやイノベーションがそこに含まれている。仕事、知識、エンターテイメントを共有するさまざまの形のグローバルなプラットホームを生み出すことが、世界のフラット化なのである。グローバリゼーションの破壊的な効果を心配するのは筋が通っているし、たいへん重要でもあるが、個人に能力を授け、また、われわれの豊かな文化をもっと豊かにする能力があることに目をむけなかったら、人間の自由と多様性にプラスの効果があるのを見落としてしまう。世界のフラット化がかならず文化を豊かにし、保存するなどというつもりはない。ただ、文化を破壊するとは限らない、といいたいのだ。グローバリゼーションを批判する勢力の話を聞くと、そういっているとしか受け取れない。グローバリゼーションの鉄則はきわめて単純だ--すべてが善だと考えたらり、すべてが悪だと考えたりするのであればグローバリゼーションを理解したとはいえない。グローバリゼーションは権限や能力をあたえるとともに奪う。均質化するとともに個別化する。民主化するとともに、独裁制のあらゆる性状を内在している。グローバル市場についても、インターネットやグーグルについても、同じことが当てはまる。(下、325-326ページ。一部改訳)

このグローバリゼーションの善悪無記性、あるいは両義性は、私にますます『<帝国>』の概念を思い起こさせます。上述の10の力でスタート・加速したグローバリゼーションという一種の世界帝国化現象は、善でもあり、悪でもあります。ということは善でも悪でもありません。グローバリゼーションはテロリズムや環境問題で破綻するかもしれませんが、おそらくはこの傾向は大きな世界史的潮流としてこれからもこの方向で動いてゆくでしょう。いや未来予測をしているのではありません。とりあえずはこのように仮説を立てておいた方が現実的ではないかということです。そうなるとグローバリゼーションという世界帝国化に対応しつつ、その世界帝国を、人間らしい社会にすることが私たちにとって大切なことになります。その意味で、私たちは一方で「マルチチュード」とも称される多種多様な存在ですが、他方で「世界市民」として共通の課題をもつ人間とも規定できるでしょう。いやそう自己規定するべきではないでしょうか。グローバル化、フラット化でいかに人間的に豊かな社会を作り上げるか。そのためには自己の競争力をつけながらも、国内的にも国際的にも貧困や屈辱の廃絶を目指さなければならない。紛争や戦争はできるだけ回避しなければならない。環境的に維持可能な社会を作り上げなければならない。そのためには、私たちはもっともっと国内外のことを知り、伝え合い、語り合い、問題解決する必要があります。英語はその際に、唯一では決してないにせよ、重要な役割を果たすと思います。
そういった意味合いで、私は日本の英語教育も推進したく思います。


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伊丹敬之(2001)『創造的論文の書き方』有斐閣 (2006/9/17)

自然科学においては測定は命です。理論と物理的実在の間の明確な対応関係があることが、自然科学の基本です。しかし社会科学、ましてや人文科学では、そのように明確な対応関係はありません。ですからいきおい社会科学や人文科学においては、厳密な測定(およびそれを前提とする厳密な計算)よりも、どのように問題を捉えるかといった、仮説形成や理論的考察の方が大切かと思います。しかし英語教育関係者が日頃目にする研究ガイドは、これまで、どちらかといえば自然科学を志向しようとするものが多く、複眼的な仮説形成や大胆で革新的な理論考察について説いた本は少なかったように思います。そういうことも手伝って、これまでの英語教育研究は、アンケートといった雑な測定と、それ用には過剰とも思われる厳密で複雑な統計計算(もちろんコンピュータが代行)と、測定以下にお粗末な仮説や理論で構成されるものが多かったのかもしれません(いつものように、私は自分の研究のことは棚に上げて語っております)。

こういった現状において、本書を英語教育関係者が読む意義は大きいと思います。
現在の私の考えは、論文を書こうとする学生は、

(1)まず、戸田山和久(2002)『論文の教室 レポートから卒論まで』(NHKブックス)を読み、いわゆる「感想文」と「論文」の違いを知り、
(2)それから本書を読んで、レポートと論文の違いを学び、そして自分で論文テーマで格闘しながら、何度かこの本を読み直し、
(3)ある程度テーマが定まってきたら、酒井聡樹(2006)『これから論文を書く若者のために(大改訂増補版)』(共立出版)を読んで、論文の書き方についてもう少し具体的に学ぶ、


というプロセスを踏めばいいのではないかと思います。

経営学を研究する著者は、まずはしがきにおいて「論文の書き方とは、つまるところはものの考え方なのである」(ii)とずばりと本質的な規定をしたあとで、次のようにも述べます。

「いい研究」とは、多くの人が意義あると思える原理・原則に、たくみに迫ったものである。そして「いい文章」とは、自分が発見したあるいは自分が真実と考える原理・原則がなぜ真実と言えるのか、説得的にかつわかりやすく述べたものである。(2ページ

これが伊丹先生の「創造的論文」の定義で、本書はこのような創造的論文の書き方(ということは考え方)を学ぶために書き下ろされたものです。

以下、研究の仕方、文章の書き方について、私が捉える本書の要所を抜き出してみます。



研究の仕方

研究を進める上で、従来の理論を勉強することは不可欠です。伊丹先生はその理論の勉強には二つの段階があると言います。

 だから、理論の勉強をするというのは、結果として、どういうことを学ばなければいけないかというと、理論的言語、理論的概念で記述されているその理論の世界で、概念間の相互関係がどうなっているか、という勉強。つまり理論そのものの内容を理解するという勉強で、これが第一段階。
 第二段階は、そういう理論がどういう現実から抽象化されてきたかという、その抽象化と理論化のステップも勉強する。そこまで勉強しておくと、整理ダンスを作る職人さんの代わりができるようになる。(39ページ)

英語教育界では、理論的な言説が少ないこともあって、第一段階の勉強も怠りがちですが、第二段階の勉強はそれ以上に軽視されているように思います(「整理ダンスを作る職人さん」というのは既存の理論を勉強した上で、どうしてもその枠組みには当てはまらないと思える事象を整理するために理論を修正する研究者の喩えです)。この第二段階の理論の勉強を、しっかりと自分で考えながらやっておかないと、伊丹先生が勧める次のような本の読み方はできないことになります。

 私が、能力が高いだろうと思う人にお勧めしたいのは、アンバランス方式で、多分、最初は、事実の知識から始まって、しかしその後やはり理論の本を読んでみて、また知識にいくというジグザグを是非おやりなさいと。いちばんまずいパターンは、事実を知る前に理論の本をとにかく全部一ぺん読んでみる。その後に、現実の知識の収集にかかるという、このやり方はぜひおやめなさいと言いたい。それをやっちゃうと、既存の理論の目でしか見られなくなる。既存の理論で混濁したレンズをはめて、現実を見ることになるから、とてもじゃないけど、素直に面白い仮説を思いつくことができなくなってしまう。
 一方、理論を無視して、現実ばかり最初に追いかけるというアプローチもぜひやめてください。誰もそんなに頭はよくありません。ただ事実の海に溺れて、溺れ死ぬだけですと、そういう感じでしょうかね。(109-110ページ)

しかしこの「ジグザグ方式」を英語教育界で常日頃実践している人はあまり多くないようにも思えます。多いのは次の「仮説検証型」です。

もっと直截的に、理論が仮説の萌芽どころか仮説そのものを提供してくれていて、仮説そのものを提供してくれていて、論文の主な仕事はその仮説が正しいかどうかの証拠の提供、というような場合もある。典型例としては、「アメリカで株式市場の効率性仮説の検証を行った研究がある。同じ仮説が日本の株式市場でも成立するかどうか、日本のデータで確かめてみよう。」
 この場合、仮説は育ってくるのではなく、すでにどこかで育った子供を養子にもらうようなものである。子育ての苦しみと幸せと教育的貢献をいっさい経験しないのであるから、ある意味ではもったいないやり方である。
 理論から生まれる萌芽から出発すると、仮説検証型の研究になることが多い。その仮説が検証の努力を大量に注ぐほどの価値のあるものであるなら、それは十分意義のある研究である。しかも、仮説検証型の研究は、研究の方法論を教わるときには典型的な研究の仕方として紹介されることも多い。(そのためか、仮説検証型の研究で、仮説そのものは養子としてもらってきたもの、というような研究が多すぎるようにも思う。)
 しかし、仮説検証型だけが研究だと思わないようにした方がいい。とくに、仮説やそのベースになる理論の基礎が自然科学ほど堅牢ではないことが多い社会科学の分野では、意味のある仮説が育つことが大切だと私は思っている。もちろん、正しさの証拠のかけらもないような仮説は空想にすぎないことはすでに指摘したとおりだが、一方で「意義の小さい」仮説の「厳密」な検証という「摩訶不思議な」研究がいかに多いことか。(150-151ページ)

でも正直、「摩訶不思議な」研究ばかりが横行しているのが現在の英語教育界だと私は感じています。
これはひとつには、学生だけでなく、研究者までもが、研究テーマについて徹底的に考え抜くという苦しみを回避しているからでしょう。学生も研究者も、すぐにお手軽なテーマをどこかから借りてきて、それを「実証」すれば論文として認められるという文化を私たちは形成してしまったのでしょう。しかしこんなことを続けていれば、英語教育界は社会からの信頼を失ってしまいます(もう、失っているとの声もあり(笑))。私たちは、観察と理論でジグザグと進みながら、苦しみながらも考える文化を育てなければなりません。



論文の書き方

論文の書き方に関しても伊丹先生は二段階の書き方を勧めます。

 自分の思考プロセス、自分が作業でたどった時間プロセスを、繰り返しても仕方ないと思っても、自分なりに論理構成だと思うもので一ぺんとにかく書いてごらんなさい。それが第一段階。そこで書いたものをじっと見て、この結論を他人様に説得的に伝えるにはどういう書き方をしたらいいか、ということを次に考えなさい。その結果できるのが、第二段階の文章です。
 その第二段階で他人様に見せる文章ができてくるんだけど、その時に気を付けなければいけない最大のポイントは、自分が考えるプロセスで考えたことのすべてを書く必要は全くないということです。ましては、あれこれ考えた時間の順序どおりになぞるような書き方は絶対にしてはいけない。そういう場合には結論からスタートすべきであって、こういう結論を最終的には納得してもらいたい、そのためにはこういうふうに言わなければいけない、というふうに考えて、不必要だと思うことはどんどん切らなければいけない。(65-66ページ)


伊丹先生は、第一段階での文章は「レポート」に過ぎず、「論文」は第二段階の文章になっていなければならないといいます(69ページ)。これも私たちの耳に痛いことばです。

また伊丹先生は、研究をし、論文を書くというプロセス全体を、起承転結という形で説明しています。起は「テーマを決める」、承は「仮説と証拠を育てる」、転は「文章に表現する」、結は「止めを打つ」です。文章を書くことがどうして転なのだろうと私は最初いぶかしく思いましたが、起と承は自分の頭の中でのプロセスだったのだが、転で知的作業が他人へと向うという意味で一転するのだという伊丹先生の説明(139ページ)には得心しました。

結の「止めを打つ」もおやっと思わせる表現ですが、これは論文の最後でどのような主張を行うべきかということです。あまりに禁欲的になり、何の含意も引き出さずに単純なまとめをするのはもったいない話(231ページ)ですが、オーバー・ジェネラリゼーションを行って政策展望などを滔々と語っても問題があります(232ページ)。ここでの伊丹先生の助言は、

「自分を広げようとするな、自分は何の一部であるかを考えよ」(235ページ)

というものです。つまり自分の狭い知見を拡大して、ひろく一般論を強引に展開するのではなく、自分の今回の限定的な研究は、巨大な知の世界ではどのように位置づけられるかを冷静に見極めるということです。

伊丹先生はこのようにして論文を書き進めるご自分の「ふだんの心がけ」を次の五つにまとめます。

(1)本質は何かをつねに考える。(2)狭く入って、深く掘る。(3)鳥の目と虫の目を、使い分ける。(4)スピーディーに思考実験をする。(5)言葉を大切に使う。

どれも至言です。こういった私たちの研究生活にとっての核が明解に説かれたこの本は、英語教育関係者も何度も熟読玩味するべきものかと思います。ぜひお買い求めの上、手元において繰り返しお読みください。

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英語教育図書----今年の収穫・厳選12冊 (2006/9/14)

現在発売中の『英語教育2006年10月増刊号』に、「英語教育図書----今年の収穫・厳選12冊」という記事を書かせていただきました。書評では私なりに、(1)その本を持っていない人には、本を買うべきかどうかの判断を助けること、(2)その本を既に一読した人には、もう一度読み返してみようと思わせるように、本の構造や背景を明らかにしたり、解釈の可能性の幅を広げたりすること、を目指しました。ぜひともお読みください。

以下は、そこで紹介した12冊です。
村野井仁『第二言語習得研究から見た効果的な英語学習法・指導法』大修館書店、羽藤由美『英語を学ぶ人・教える人のために』世界思想社、山田雄一郎『英語力とは何か』大修館書店、ゾルタン・ドルニェイ著、米山朝二/関昭典訳『動機づけを高める英語指導ストラテジー35』大修館書店、田中茂範・佐藤芳明・阿部一『英語感覚が身につく実践的指導』(大修館書店)、三浦孝・中嶋洋一・池岡慎『ヒューマンな英語授業がしたい!』研究社、樋口忠彦・金森強・國方太司編『これからの小学校英語教育』研究社、バトラー後藤裕子『日本の小学校英語を考える』三省堂、村端五郎・高知県田野幼小中連携英語教育研究会編著『幼小中の連携で楽しい英語の文字学習』明治図書、瀧沢広人『中学英語!訳読式授業からの挑戦』明治図書、小島昌世編著『授業づくりで変える高校の教室3 英語』明石書店、富山真知子編『ICUの英語教育』研究社

あ、それから私は関係者ということで選考の対象から外しましたが、
是非゚+。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。+゚買って゚+。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。+゚くださいね、下の二冊。

("`д´)ゞ ラジャ!!





半藤一利『昭和史1926-1945』(平凡社)/保阪正康『父が子に語る昭和史』(PHP文庫) (2006/8/28)

加藤紘一議員宅の放火事件に関して、後年の記録のために、本日のWikipedia記述より引用しますと、次のようになっています(http://ja.wikipedia.org/wiki/加藤紘一)。

2006年8月15日17時55分ごろ、山形県の加藤の実家および事務所が火事により全焼した。隣接する加藤の自宅は延焼を免れた。消防の消火活動中に、腹部を自傷して血を流している東京都内の右翼団体構成員(65)が発見され、集中治療室に搬送された。警察は、この男が実家に暮らす加藤の母親(97)の留守中に実家に侵入、放火したものと見て捜査を進めている。加藤は当日の午前中にテレビ各局の番組に出演し、小泉純一郎の靖国神社公式参拝を批判する発言を繰り返したので、その事と火事との関係が取り沙汰されている。

 私は加藤議員の主張に関しては、ここでは問題にしません。私が問題にしたいのは、主張の如何にかかわらず、言論を封殺しようとして、テロが行なわれることが日本では、決して珍しくないということです。さらに私が今回特に慄然としたのは、ネットなどで、靖国参拝賛成論者の一部が、このテロを是認・容認するような言葉を次々に発しているからです。
 私はこのようなテロ是認・容認を非常に遺憾に思います。言語コミュニケーションを教える人間として、言論へのテロ是認・容認は断固として認めるわけはゆきません。私は以下の文章をホームページの表紙に掲載しました(注)。決してテロリストとその賛美者を肯定したくなかったからです。


加藤紘一氏の実家への放火犯人、およびその放火を是認する人びとを、
私は決して愛国者とは呼びません。

暴力・扇情・劣情・匿名暴徒的発言などで言論を封殺しようとする人びとは、
その主張の内容の如何を問わず、
日本という国の品格を下げていると私は考えます。


 私には悲観傾向がありますが、それを勘案するにせよ、1990年代の不況から2000年代の貧困層の増大を背景に、小泉首相の絶叫型スローガン政治は、どこか怖ろしい社会の動きに命を与えてしまったのではないかという懸念を私はどうも拭い去ることができません。時代の閉塞感を、暴徒的高揚と陰湿な排他感情で誤魔化してしまおうとする空気を私は感じているような気がしてなりません。
 
 というわけで、列車の移動が続いたここ数日で昭和史に関する本を二冊読みました。
 一冊は半藤一利氏による『昭和史1926-1945』(平凡社)です。半藤氏は、1930年東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、取締役などを経て作家となった方です。この本を、上記の問題関心から読むと、私は暫定的に次のような仮説を立てることができます。

(ア)スローガンは国民的熱狂の素地を作る。
(イ)メディアは国民的熱狂をコントロールが利かないものにまでしてしまう。
(ウ)国民的熱狂が公的な言論統制の後押しをする。
(エ)公的な言論統制が進めば悪法が国民に迎え入れられる。

 (ア)スローガンは国民的熱狂の素地を作る、に関しては、「満蒙は日本の生命線である」が例としてあげられます。これは当時の満鉄副総裁の松岡洋右氏が、「昭和4年8月に京都で行なわれた「第三回太平洋問題調査会」で満州問題を権威のように語って獅子吼したために、非常に流行ったのです。・・・おもしろいもので、うまいスローガンがあると国民の気持ちが妙に一致して同じ方向を向くんですね」(61ページ)と、半藤氏は述べます。
 (イ)メディアは国民的熱狂をコントロールが利かないものにまでしてしまう、に関しては、当時の新聞が、新興のラジオとの商業的競争に打ち勝つため、どんどんと読者を煽るような記事を書いたことが指摘できます。詳しくは同書を読んでほしいのですが、「世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心きわまりなかったんです。そして満州国独立案、関東軍の猛進撃、国連の抗議など新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしてゆき、民衆はそれらに煽られてまたたく間に好戦的になってゆく」(76ページ)と半藤氏は述べます。「事変の起こったあと、[毎日新聞]社内で口の悪いのが自嘲的に"毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争"などといっていましたよ」(81ページ)というエピソードや、戦後「天声人語」で名を馳せた朝日新聞の荒垣秀雄氏の今では信じられないような軍部礼賛の記述(81-82ページ)も紹介されています。かくして松岡洋右氏が国際連盟から脱退したときも、新聞はそれを礼賛し、「日本国民は「今や日本は国際的な被害者であるのにさながら加害者のごとくに非難されている」と信じ、ますます鬱屈した孤立感と同時に「コンチキショウ」という排外的な思いを強め、世界じゅうを敵視する気持ちになりはじめるのです。排外主義的な「攘夷」思想に後押しされた国民的熱狂がはじまりました」(110ページ)となります。
 (ウ)国民的熱狂が公的な言論統制の後押しをする、については、昭和10年の美濃部達吉・東大教授の「天皇機関説」の問題視、岡田啓介総理大臣による「国体明徴」が出され、「この先、日本は万世一系の天皇が統治し給うところの神国である、という大基本ができあがり、そこから逸脱する言論などはたちまち罰せられるようになりました。心ある人は皆、口を閉ざすようになりました」(139ページ)と半藤氏が述べるような事態に到りました。
 そうして(エ)公的な言論統制が進めば悪法が国民に迎え入れられる、という段階に日本は陥落してゆきます。昭和16年の、治安維持法、国家総動員法、言論出版集会結社等臨時取締法、軍機保護法、不穏文章臨時取締法、戦時刑事特別法などです(315ページ)。こうして日本は、戦争に突入してゆきました。
 この本を終えるにあたって、半藤氏は次の五つを教訓としてあげています。

 第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。熱狂というのは理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史全体をみてきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人びとを引っ張ってゆき、流してきました。(499-500ページ)

 二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。(500-501ページ)。

 三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力をもち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。(502ページ)。

 そして四番目に・・・・国際社会のなかの日本の位置づけを客観的に把握していなかった、これまた常に主観的志向による独善に陥っていたのです。(502ページ)。

 さらに五番目として、何かことが起こったときに、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした。(502ページ)

まとめてみるなら、戦前の日本は、熱狂に駆られ、観念遊戯に陥り、他の意見を聞かず、大局観と複眼的思考を失ってしまった、といえるでしょうか。この歴史は、二度と繰り返してはいけません。
 この本は、半藤氏が語りかけるように、また、意思決定の様子を「見てきたかのように」記述するので、非常に読みやすい歴史の語りとなっております。まだ読まれていない方はぜひご一読ください。500ページ余りが一気に読めます。


 次に読んだのは(といっても、まだ私は前半だけなのですが)、保阪正康氏による『父が子に語る昭和史』(PHP文庫)です。保阪氏は1939年北海道札幌市生まれ、同志社大学文学部社会学科卒業後、出版社勤務を経て、著述活動に入っています。
 この本の中で、上の問題意識に重なる箇所を、以下、いくつか引用してみます。

 日清戦争、日露戦争では、日本軍兵士の規律は保たれていたし、必要以上の戦闘行為は決して行なわなかった。日本軍にはサムライの精神(それはフェアプレイということだが)があると、外国のジャーナリストは報道しているほどだ。
 それが満州某重大事件[=張作霖爆殺事件]の決行者たちにはまったく見あたらないのだ。河本や東宮の伝記を読んでいくと、自分たちは国のことを思って正しいことを行なうのだから、なんら天地神明に誓って恥じることはないというのである。独りよがり、近視眼的な発想、それが昭和陸軍のスタートの段階にひそんでいたことは知っておかなければならない。(38-39ページ)。

 たとえ結果が悪くても、動機が純粋であれば正しい、という風潮がこのとき[=五・一五事件]に異様なほど高まっている。この考え方は、近代社会にはなじまないだろうが、昭和史には一貫してこの考えが流れていることを、君たちにも見ぬいてほしいのだ。
 これはなにも右翼に限ったことではなく、左翼にも通じている。日本の左翼もまた、戦後の歴史の中では動機が純粋だったということで、いくつかの非人間的な行為を免罪にしていることに気づくはずだ。
 国内でのこういうテロ行動は、たしかに社会のなかにある不気味さを生んだことは事実だ。政治家はテロが怖くて、なかなか陸軍や右翼に反対しづらくなる。財閥の巨頭のなかには、右翼の大物に資金をわたし、右翼のテロ行動が自分に及ばぬように画策する者まであった。昭和天皇の側近たちでさえ、自分たちの命が狙われるのでは、と不安に思った者もいたほどだ。(68-69ページ)

 日本人は、討論や議論を好む民族ではないといわれてきたが、それは対立点をだしあってじっくりと話し合い、そこから調整点をさがしだす習慣をもっていなかったということでもある。和をもって貴しとするというのは、いかにも日本的発想だが、しかしこれがひとたび政治の領域にはいればひとつの考えだけが幅をきかし、それ以外は認めないとの独善になる。
 この時代をいまこうしてふり返ってみると、あまりにも「国論一本化」に狂奔した時代があったと驚かされるだろう。こういう時代には良質の個人主義など育つわけはない。そこからは大胆な発想などもでてこないとわかるはずだ。
 国民は上からいわれたことをそのまま諾々と受け入れてしまう。他人と異なっているのは怖いという感情をもつ。(119ページ)

 特攻隊として死んでいった学徒たちの手記を読むと、ときに私は涙がでてくる。彼らは、自分の与えられた時代のなかで従容として運命を受けいれ、そして死んでいった。彼らの死を犬死などというのを私は許さない。天につばするようなものではないか。
 しかし、特攻という戦法を考えだし、それを学徒らに強いた軍事指導者の罪はより重い。
 本土決戦、一億総玉砕を唱えた軍事指導者は、戦争を美学としてとらえ、「戦死」をカタルシスとして美化していった。戦争での死を、独りよがりの美学にしてしまった。そして小学生、中学生に「おまえたちは二十歳まで生きると思うな。死をもって御国に奉公しろ」と叫んだ教師もまた、美学のなかに身を置いて自己陶酔にふけっていた。(162-163ページ)。

上の引用を、私なりにまとめます。戦前の過ちは、独善の中で自らを「純粋」と自己陶酔し、異なる意見を文字通り抹殺し、ますます自分たちの妄想の中に生きることでした。これを避けるには、絶えず自己への批判精神を失わず、異なる意見を、異なるがゆえに尊重し、常に広い視野、長期的な展望で物事を考えることを進めることです。

さて、現代の日本はどうでしょうか。
 幸い本日28日に、小泉首相は加藤氏宅放火事件に関して「暴力で言論を封ずるのは決して許されることではない。こういう点については厳に我々も注意しなければならない。戒めていかなければならない問題だ」、「言論は暴力で封殺してはならない。これは大いに、国民に分かるように、様々な分野で周知していかなければならない。言論の自由がいかに大切かがよく分かるように、注意していかなければならない」と記者団からの質問に答えています。また安倍官房長官も28日の記者会見で「仮に加藤議員の言論を弾圧し、あるいは影響を与えるような行為であるとすれば許されない。そういうことに言論がねじまげられてはならない」と語ったそうです(http://www.asahi.com/politics/update/0828/002.html)。(ただし、これは夏休み中とはいえ、事件がおこって約2週間後になって初めて出たコメントです)。
 しかし私はやはり悲観主義者なのでしょうか、

(ア)スローガンは国民的熱狂の素地を作る。
(イ)メディアは国民的熱狂をコントロールが利かないものにまでしてしまう。

が気になって仕方ありません。(ア)は、「小泉ワンフレーズ・ポリティックス」で、戦前の熱狂とは比較にならないにせよ、私たちはスローガン連呼の力を思い知ったところです。(イ)に関しては、英語教育に関して、数々の良識的発言をしている渡部昇一先生も月刊誌Will(http://web-will.jp/)2006年10月号で「靖国批判派を永久に黙らせる100問100答」という記事を書いています。
 主張の内容はさておき、反対派を「永久に黙らせる」とは何事でしょう。これは、どう考えても品性ある言葉とは思えません。私の語感では、これはゴロツキが素人をびびらせる時に使う台詞です。あるいは少し前の左翼過激派(=テロリスト)の「殲滅」といった言葉遣いと同類でしょう。しかし、現在、このような記事が堂々と掲載され、そのような雑誌や本は本屋の一角を占めています。
 熱狂ではなく理性を。陶酔ではなく客観を。単眼ではなく複眼を。頑迷ではなく理解を。排他ではなく共生を。劣情ではなく品性を。偏狭な国粋主義ではなく健全な祖国愛を、そして国際協調を----英語教育も、こういった良識的な態度を涵養するために行ないたいと考えます。私たちが日本語に加えて、英語も(できれば他の外国語も)学び、そして実際にその新たな言語でコミュニケーションを行なうことによって、日本国民がより良識的な国民として、世界各国の市民から敬意を払われるようになりますように。
 私は、こんな当たり前のことを書かざるをえないと感じる自分が、滑稽なぐらいの悲観主義者であることを切に祈ります。


(注)数日後、私は、たまたま読んでいた本に関連する記述を見つけたので、下の文章もホームページの表紙に追加して掲げました。

アレントは、全体主義の政治力学の特性を体制全体で特定のイデオロギーを実現していくことに求めている。実現するものの内容は、イデオロギーによって示されている。したがって、自然法や実定法は否定され、この運動法則が法律のような力を発揮する。AといったらBと、BといったらCといわねばならないイデオロギーの演繹の強制力がこの運動法則の根源に潜んでいる。(中略)
 イデオロギーが縦の原理だとしたら、横の原理はテロルに求められる。テロルが目指したのは、人間の共属空間を破壊することである。テロルは、それぞれ異なった人間同志の共生を否定し、巨大な一者を形作ろうとする。(129ページ)
 もうひとつ重要な点として、アレントは全体主義を大衆社会との関連で捉えていることがあげられる。アレントは、民衆と大衆を、健全な良識と共通感覚をもった民衆と社会的な絆を喪失し原子化した大衆とに注意深く区別している。彼女によれば、都市へ集まってきた人びとの画一性と原子的孤立が全体主義の肥沃な土壌になるのである。そして、この根無し草の民をプロパガンダによって組織化し、支持者にしたときにナチズムが成立し、大衆の社会的絆の回復と一貫性への欲求を基底に、イデオロギーのプロパガンダが効果を発揮し、大衆を包含していくのである。つまり、一貫した体系を具え、「それぞれの観念に固有の論理のゆえに、歴史の全過程----過去の神秘、現在の錯綜、未来の不確実性----を知っているふりをする」イデオロギーが、経験的現実である見えるものを信じず、固有の論理をもつ想像に身を置く大衆の性格に適応するのである。(131ページ)
寺島俊穂(1990)『生と思想の政治学----ハンナ・アレントの思想形成』芦書房

追記:その後の報道、およびネットで見つけた文章を記録のために掲載しておきます。(2006/8/31)

(読売新聞) - 8月31日3時2分更新より
靖国問題「加藤発言不満で放火」…逮捕の右翼が供述

 山形県鶴岡市の加藤紘一・元自民党幹事長(67)の実家と事務所が放火され、全焼した事件で、現住建造物等放火などの疑いで逮捕された右翼団体「大日本同胞社」構成員堀米正広容疑者(65)(東京都新宿区歌舞伎町)が「加藤氏の発言を不満に思い、放火した」という趣旨の供述をしていることが30日、わかった。
 加藤氏は、小泉首相の靖国神社参拝に批判的な発言を繰り返していた。鶴岡署は、こうした加藤氏への不当な反発から犯行に及んだ疑いを強め、追及する。
 堀米容疑者は「中に誰もいないことを確認して玄関から入った。一人でやった」と供述。今回の事件に組織的関与があった形跡はなく、県警は単独犯行の可能性が大きいとみている。


2006/08/18神戸新聞の社説より http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000091767.shtml
 気になるのは、最近、ほかにも類似した事件がくり返し起きていることだ。
 先月、東京の日経新聞社に火炎瓶が投げられた。靖国神社のA級戦犯合(ごう)祀(し)に対する昭和天皇の不快感を示す発言メモの存在を報じた翌日だった。首相の参拝を批判した財界人宅に銃弾が届いたこともある。
 テレビで発言すると抗議の電話を受けたという加藤氏は「ここ数年、世の中が変だと思うところがある」と話している。
 批判や異論は許さず、力ずくでも排除しようとする。知らないうちに、そんな風潮が生まれているのだろうか。だとすれば、ゆゆしい事態というべきだろう。
 自由な意見表明、自由な議論が押さえ込まれる世の中にしてはいけない。捜査の進展を見守りながら、与野党からは事件への批判が出ている。当然だ。言論活動は政治家としての命であり、首相靖国参拝への賛否を超えて厳しく対処してほしい。
 わたしたちも、身近で変調が起きていないか、目配りを絶やさずにおきたい。同じ色に染まってしまう社会の怖さは、そう遠くない過去に身に染みたことだ。


2006/8/19 東奥日報の社説より http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2006/sha20060819.html
 この数年、北朝鮮の拉致や中国との問題で自分たちとは違う考えの政治家、外交官、経済人にカミソリの刃を送ったり、家に発火物を仕掛けるといった行為が繰り返されてきた。
 加藤議員には三年前にも「建国義勇軍」を名乗る差出人から北朝鮮問題に関する姿勢を批判した文書とともに、実弾が送りつけられている。
 昭和天皇の靖国発言メモを最初に報道した新聞社に火炎瓶が投げ込まれる。県庁の裏金問題や、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関連施設への課税問題に絡み、関係自治体に「殺してやる」という電話や脅迫状が届く。陰湿なこれらの事件が起きたのは、つい最近だ。
 太平洋戦争が始まる前の一九三〇年代に五・一五事件、二・二六事件が起こる。青年将校らが時の首相などを殺害してテロへの恐怖心が広がる。政治家は腰が引け、軍部に何も言えなくなる。テロという暴力はマスコミや国民の神経もまひさせ、開戦へ突き進ませた。
 ノンフィクション作家の保阪正康氏が著書「あの戦争は何だったのか」でそう指摘した暗い時代の「恐怖の連鎖」が現代に再現されないよう、連鎖を断ち切らなければならない。


2006/8/23 加藤紘一氏のホームページより http://www.katokoichi.org/
たぶん、彼[=放火犯]もいろんな意味での閉塞感があったでしょう。割腹自殺を図った直前、実家の近所にある食堂で最高の品――1300円の天丼――を1時間かけて食べています。そのあとにはポケットに500円しかありませんでした。そして、車の助手席には、雑誌『SAPIO』が転がっていたといいます。
些細なことがきっかけで、異常な行動に出る人が増えている社会になっていやしまいか。そんな思いがよぎりました。家庭の絆が薄れ、会話が減っている。地域社会の人間のふれあいも希薄になった。派遣社員が増えるにつれて会社への帰属意識が薄れ、退社後に上司と若者がビールをいっしょに呑むことも少なくなってきた。決して現実と乖離したイメージではないと思います。
自由になったといえば、自由になったのだけれど、糸の切れた小さな風船がいっぱい漂っているような、物理学的にいえば自由になった電子があちらこちらを走り回っているような……自由になった浮遊物の集合体としての社会では、ちょっとした力とか磁場が働いたり、そよぐ程度の風が吹いたくらいでも、グラッと動いてしまうのではないでしょうか。そんななかで、若者がオウム真理教に引っ張られてしまったり、“セカチュー”(『世界の中心で、愛をさけぶ』)が売れているとなるとまたたく間に320万部のヒットとなる現象が起こる。韓流ブームというと、おばさまたちは一斉に「ヨン様」になるし、小泉劇場に酔うし、政治家が隣国に対して強い言葉を言えば、一斉にそれに流れる。少し心配な世の中になってきたと感じています。
今、我々が立っている社会の土台が、もしかしたら0.8度くらい、ちょっと下り坂へと傾き始めているのかもしれません。ほんの少しですから、誰も気づきませんが。戦前、日本社会は少し下り坂に向かっていました。それを誰も気づかないまま、精一杯対応しているうちに、だんだん加速していってしまった。スピードが出てしまえば、誰もそれを止められません。ひとつ方向にわーっと皆が動くから、それと逆のことを言う人間が自由にものを言えなくなる。自由な意見、活発な発信ができなくなった社会のなかで、過去の日本は大きな間違いを犯していったのです。

桜井章一『壁をブチ破る最強の言葉』(ゴマブックス)(2006/8/24)
私が私淑している表現者とは、内田樹先生であり、甲野善紀先生であり、そしてこの桜井章一先生といえるかと思います。
この新刊は、桜井先生の著作の中でももっとも読みやすく、またまとまっているといえるでしょう。
人生・仕事・社会に関する短いエッセイ集です。鋭敏な感性をもつ心身がいかに大切かということがよくわかります。
心酔しているつもりもないのですが、私は共感するところばかりで、逆に全くいつものように本に線を引くことができませんでした。

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アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー『富の未来(上)(下)』(講談社) (2006/8/22)

AsiaTEFLの2006年大会(西南学院大学)に参加して再認識したことの一つは、少なくとも日本・韓国・中国といった国では、英語教育は、英語圏の人々と仲良くなろうという動機よりも、学習者がグローバリズムの時代において、単純労働階級ではなく、知識労働階級に属しようという動機に強く支配されているということでした(関連した発表をした中国からのある発表者に、このことを尋ねても"Absolutely"という答えが返ってきました)。
昔なら、「先進国」に生まれただけで、経済的にはなんとか暮らしていけたのかもしれません。しかし、グローバリゼーションで競争が地球規模になった現在、「先進国」に生まれただけでは安心できません。高度知識社会に対応できる能力を持ち、知識労働階級に属さない限り、経済的な安寧は保障されないといっていいのかもしれません。また逆に、「開発途上国」であっても知識労働階級に属することができれば、以前とは考えられないほどの大きなチャンスに恵まれているのかもしれません。無論、こういった議論には、経済的な成功のみを語り、内面的な幸福感をないがしろにしているという批判は必要でしょう。また、「先進国」「開発途上国」を問わずに貧困層が面している経済的悲惨さから目をそらしてはなりません。
とはいえ、現在、英語教育を語る際に、グローバリゼーションのことを無視することは許されません。
だが、グローバリゼーションとは何か?
この本はトフラー夫妻なりの答えであり、この本が世界中で読まれているということは、こういった考えをとりあえずの仮説として、グローバリゼーションは進行していると思ってもそう間違いではないでしょう。

ご承知のように、トフラー(夫妻)は、これまでの人類の歴史を、第一の波(農業革命)、第二の波(産業革命)、第三の波(情報革命:ポスト産業社会)の三区分で考えています。いうまでもなくグローバリゼーションは第三の波の中にあります。
著書『第三の波』が書かれたのは1980年ですから、その時と現在の認識で異なるものといえば、Information Communication Technologyが飛躍的に進歩したという点がまずあげられなければならないでしょう。産業革命が「工作機械」(機械を作る機械)によってまったく新しい水準に飛躍したように、現在は(スーパー)コンピュータ、ソフトウェア、インターネットという知識を生み出す機械(「知識工作機器」)によって情報革命もさらに加速しようとしています(上、42ページ)。
この中で、今後の富(wealth)----単なる「金銭」という意味ではなく、いわば「可能性が集積したもの」(上、48ページ)----が、どのような革命的変化を遂げるか、というのがこの本の主題です。

トフラー夫妻は、グローバリゼーションが、ますます安価な労働力を求めての競争になることはないという基本的な考えを持っています。知識経済においては、工場がある国での政治・社会的安定、労働者のスキル・能力が重視されるわけですから、グローバリゼーションにおいて見られるのは「最低を目指す競争」よりも「最高を目指す競争」である(上、143ページ)というのが夫妻の考えです。
また知識というのは、物体と違って、無限に複製が可能(同時に複数の「場所」に存在にすることが可能)ですから、これまでの工業製品製作の考え方では知識経済は十分に捉えられません。「知識は非競合財であり、使ってもなくならず、無形であり、したがって計測するのがむずかしい」(上、274ページ)のです。さらに現在の金銭経済は、生産消費者(prosumer:トフラーの造語:「単に物を購買するだけでなく、その言動が生産活動に深い影響を与えている消費者」といった意味)のコミュニケーション活動に依存しています(上、285ページ)。つまり、「現在は、経済と社会の複雑さが体制全体にわたって飛躍的に高まる歴史的な転換期」(下、51ページ)です。ニュートン力学が主流だった時代の物理学をモデルにしたこれまでの経済学は、大幅に変わらなければならないだろうとトフラー夫妻は考えています(上、274ページ)。

そういった中、グローバリゼーションの最先端を行くアメリカが世界に送っている本当のメッセージは「変化の教え」だとトフラー夫妻は言います。

変化の遅い社会に暮らす世界各地の数十億人にアメリカが送っている主要なメッセージはこうだ。変化は可能だ。それもはるかかなたの将来にではなく、いまの世代が生きている間に、遅くとも子供の時代には・・・・。
この教えでは、変化が良いものになるのか悪いものになるのかは問題にしない。この点の解釈では意見が分かれるだろうし、対立も起こるだろう。それでも、変化が可能だとする考え方自体が、世界各地の多くの人びとにとって、とくに貧しい若者にとって革命的である。そして無数の例に示されているように、変化は不可能だと考えているかぎり、未来をつかみとるための行動を起こそうとする人は、まずいない。(下、22ページ)

現代では、想像力さえ尽きなければ変革のチャンスはいくらでもあるとトフラー夫妻は考えています(下、74ページ)。
もちろんこの変革の際に、弱者そして貧困層を無視することは許されません。しかしそれは下向きの発想で行なってはいけないと夫妻は言います。

貧富の格差の縮小なら、貧乏人の生活水準をまったく引き上げなくても、金持ちを貧しくすれば達成できる。これに対して産業革命は貧富の格差を劇的に拡大したが、同時に貧困を減らした。全員が平等に前進するようにする試みはいずれも悲惨な結果を招いてきた。したがって第一の目標は、生活水準を引き上げて絶対的な貧困から抜け出せるようにすることにおくべきであり、その際に貧富の格差が拡大するかはどうかは無視するべきだ。(下、185ページ)

「ちょっと待って」と留保を述べたい気持ちに私も駆られます。このような考えは暴走して、格差正当化のための単なるイデオロギーに転じやすいからです。実際、「数字」のようなデータを見ても、ここ最近の日本は、労働社会を二分し、主として知識労働に従事する正規雇用と、主として単純労働に従事する非正規雇用の格差を増大させ、後者を無視したような政策となっているのではないか、という気がしてなりません。また、上述のような知識経済においては、何よりもすべての国民に十分な教育を供給することが国として第一になすべきことだと思えます。しかし、公教育へのてこ入れは不十分であるように私には思えます。現実は、知識労働・正規雇用の親が、多くの私費を投じて塾や私立学校に子供を通わせることにより、子供を知識労働・正規雇用層に入るためにおそらく不可欠な高等教育へ送り込み、そういった私財を持たない親の子は、十分な高等教育を受けることすら難しくなりつつある、といったものではないでしょうか。
ですがそう懸念する間にも、グローバルな競争は一層激化しているというのも現実なのかもしれません。もちろん経済だけが人生ではありませんが、経済をまったく考えない人生というのも特異なものでしょう。
英語教育は、こういったグローバリズムの光と影の中で考え抜かれ、実践されなければならないと再認識されます。

と、いつものように英語教育の文脈でこの本の紹介をしましたが、この本は、大学生には専攻の如何を問わずお薦めしたく思います。あなたが大学でたとえAばかりの成績を取っても、世界の多彩な出来事を読み解く形で書かれたこの本を読める知的感性・知的意志がなかったら、あなたの大学生活は失敗だったと言ってもいいのではないかと私は思います。ぜひご一読を。

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三浦孝・中嶋洋一・池岡慎(2006)『ヒューマンな英語授業がしたい!―かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする』大修館書店 (2006/7/23)

この本は、手にとって数ページ読んだ時から、大修館書店『英語教育増刊号』の特集書評で取り上げさせてもらおうと思っていました。ですからその書評記事を書くまでは、このホームページで紹介するわけにはゆきませんでした(ホームページで書いたことを商業原稿にそのまま掲載するのは義理を欠く行為だと私は思っています。少なくとも徹底的な編集は必要です)。先日、その書評記事の第一稿を書き終えたので、ここではようやくその記事にはスペースの限界で書けなかったことを書きます。

それはこの本は、コミュニケーション重視の英語教育への反対論者にこそ読んでほしいということです。

「反対論者」としてここにお名前をあげるのが適切なのかどうかは私には必ずしも定かではないのですが、文体論の斎藤兆史(さいとう・よしふみ)先生などが提示する英語教育論は傾聴に値するものだと思って拝読しています(例えば斎藤兆史・野崎歓(2004)『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』東京大学出版会、齋藤孝・斎藤兆史(2004)『日本語力と英語力』中公新書ラクレ)。特に私などは、いわゆる「英語教育学」批判など、「あっ、どうぞ、もっともっと言ってやってください。私なんかが言ってもあまり効き目がないもので(笑)」などと応援してしまっているのですが、どうも「コミュニケーション」の概念に関しては違和感を覚えてしまいます。
といいますのも、斎藤先生らは、俗流の「コミュニケーション」概念、つまりはせいぜいが「実践的な聴き取り・会話能力」(斎藤・野崎(2004:14)だけを意味する「実践的な英語教育」を批判するあまり、その批判は正しいものの、あまりにコミュニケーション概念をその俗流理解だけに留めてしまったまま論考を進めて、深い意味での「コミュニケーション」を目指した英語教育の様々な可能性に対して目を閉ざしているように思えるからです。
この)『ヒューマンな英語授業がしたい!』には、そのような浅い概念理解を超えた、より深い意味でのコミュニケーションを目指した英語教育が、原理的考察に始まり、実際的なカリキュラムや活動例にまで展開されています。
私は上の斎藤先生の見解把握について誤解をしているのかもしれません。それならそれで誤りを指摘されればすぐに撤回します。私は「論争」の形を借りた個人的対立などは無意味だと思っていますから、純然と論点だけを明確にしたいです。ここで明確にしたい論点は単純で、

俗流の浅い概念把握は、質の高い議論、ひいては優れた実践から私たちを遠ざける

ということです。
私たちはすでに、「文法」という言葉で何を意味しているのか明確に自覚していない方々の間での「文法は必要だ、いや不要だ」といった「論争」あるいは「論戦」に辟易としています。そのような「論争」あるいは「論戦」は不毛で、時間の無駄以下のものであり、私たちを憔悴させるだけのものだと思っています。
私はそういった愚を「コミュニケーション」においても繰り返したくはありません。
ですから、この本をぜひ読んでくださいとお願いする次第です。とりわけ「コミュニケーションなどと言っているから、英語教育はダメになった」といったことをおっしゃる方に。

と、あたかもこの本がコミュニケーションの理論書であるかのような印象を与えかねない紹介を私はしてきたのかもしれませんが、もちろん、この本は、現場の中・高・大の英語教師の日々の実践のために書かれた良書です。私はしばらく前からこの本を私のホームページの表紙でお薦め本として掲載しています。
まあ、三浦孝・中嶋洋一・池岡慎といった固有名の意味を知る人には、何の紹介も要らない本でしょうが。

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追記
英語教育における「コミュニケーション」に関する丁寧な論考としては、「地道にマジメに英語教育」の2006.7.17.の記事、「なぜ『コミュニケーション重視』なのか」(http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/Why_Com.html)、および2006.7.20. 「『オール・イングリッシュ』を成り立たせるものは」(http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/All_English.html)の記事が面白いです。


「小学校からの英語導入で子どもたちをどう育てるか」 (2006/7/17)

Benesse教育研究開発センターの広報誌BERDが2006No.5で「小学校からの英語導入で子どもたちをどう育てるか」の特集を組みました。質の高いロングインタビューが多く掲載されていますので、ここでもお知らせします。
しかしこれでPDFが「重く」なくなって、快適にこのような情報が無料でサクサク得られるようになったら、確実に出版業は変わるだろうなあ。PDFが軽くなる(あるいは他のいいソフトが出る)のは近い将来実現されそうだし・・・

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大津由紀雄編著『日本の英語教育に必要なこと』(慶應義塾大学出版会) (2006/7/11)

 今年も大修館書店『英語教育 増刊号』の「英語教育図書----今年の収穫・厳選12冊」という原稿を書かせていただきました。その増刊号が店頭に並ぶのは9月中旬で、今、私は第一稿を送ったところです。私はこの年間総括的な書評を、非常に光栄な仕事と思っておりますので、本の選択に関しましてはできるだけフェアにやろうとしております。したがいまして、私が共著者として関わった本は、基本的に選から外し、番外編として短く言及するだけにしました。
 しかし私が部分的に加わっただけで、その選からもれてしまうというのは、他の共著者に対しては、不当なことをしているのかもしれません。そこでここでは、中嶋洋一, 幸若晴子, 大津由紀雄, 柳瀬陽介, 佐藤礼恵 『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること かつて15歳だった全ての大人たちへ』 ベネッセコーポレーション同様に私が薦めたい、本書の紹介をしたいと思います。

本書の目次は次のようになっています。

はじめに
T 英語教育政策を考える
原理なき英語教育からの脱却を目指して―言語教育の提唱 大津由紀雄  
英語教育の原理について 柳瀬陽介  
英語を「教えない」ことの意味について考える 市川 力  
英語支配論による「メタ英語教育」のすすめ 津田幸男  
計画的言語教育の時代 山田雄一郎  
モノリンガリズムを超えて―大学までの外国語教育政策 古石篤子  
持続可能な未来へのコミュニケーション教育 鳥飼玖美子  
多文化共生社会に対応した言語の教育と政策―「何で日本語やるの?」という観点から 野山 広  
日本の英語教育の現状と課題 菅 正隆  

U 〈小学校英語〉を考える
小学校での外国語教育―期待すること、考慮すべきこと バトラー後藤裕子  
公立小学校における英語教育―議論の現状と今後の課題 大津由紀雄  
小学校英語の必要性の主張のあとに必要なこと 直山木綿子
小学校での英語教育の意義と課題 田尻悟郎  
小学校英語の現状と今後の展望 菅 正隆  

V ことばの教育を考える
英語教育の目的―入門教育か運用能力の育成か 波多野誼余夫  
対談 ことばの教育をめぐって 安西祐一郎/大津由紀雄 

ここではそれぞれの論の中で、私の印象に残った点を短く紹介します(以下、敬称略)

「原理なき英語教育からの脱却を目指して―言語教育の提唱」で、大津は、「言語(あるいは、「ことば」)やそれを使うことはかくなるものである」という信念にも似たものを「素朴言語学」(cf. folk physics, folk psychology)と呼びます(例、「日常会話というのは決まり文句から成り立っている」)。大津は、「小学校段階では、その「素朴言語学」を打破するため、言語直観の利く母語を利用して、その構造(仕組み)と機能(働き)についての意識を高めることが大切です」(27ページ)と主張しています。

「英語を「教えない」ことの意味について考える」で、市川は、「教えない」英語教育の特徴を、「気づかせる」、「捨てる」、「教えられない領域の存在を認める」としています(62ページ)。実践者なら首肯する人も多いのではないでしょうか。

「英語支配論による「メタ英語教育」のすすめ」で、津田は従来の英米文学研究や英語学を批判した後、英語教育学についても次のように述べます。これに限らず、刺激的な論考です。

しかし、英語教育学にも問題があります。それは、「英語力を向上させる」ということだけにすべての関心が集まっている点です。ほかの問題を見ていないのです。これは「英語かぶれ」と「英語オタク」を生み出しているだけです。それは、本来の教育というものとは程遠く、「英語力向上エンジニアリング」といったものに陥っています。(72ページ)

「計画的言語教育の時代」の山田は、いつもにもまして、良識と理性に基づく落ち着いた論を展開しています。最近お会いする機会があったので、「あの文体は、漱石ですよね」と確認を求めると、「いや、昔、市民相手に漱石の講義をしていたので、自然と文章がああなってしまうんですよ」と山田先生はおっしゃっていました。

「モノリンガリズムを超えて―大学までの外国語教育政策」の古石は、次のように述べて、日本の論議が「英語か国語(日本語)か」に陥ってしまうことに警鐘をならしています。

現在猛スピードで変化している世界は地球規模の画一化をもたらしている一面もありますが、同時にますます多極化・複雑化しています。つまり、ひとつの論理(モノロジック)では読み解けない世界が私たちの周りに拡がってきているのだということをこそ、まずきちんと認識すべきです。(116ページ)

「持続可能な未来へのコミュニケーション教育」の鳥飼では、クラムシュ(Claire Kramsch)の「エコロジカル(ecological)な外国語教育」、「異文化レテラシー」(intercultural lieteracy)、あるいはグローバル・ネットワーク社会(global networked society)に即した、生態学的(ecological)かつ超文化的(transcultural)な論考に着目しています。

「多文化共生社会に対応した言語の教育と政策―「何で日本語やるの?」という観点から」で、野山は、2005年8月の「初等中等教育における国際教育推進検討会報告」(文部科学省初等中等教育局国際教育課)が、様々な見識を示しているのに、なぜ2006年3月の中央教育審議会の答申の中で、総合学習の一環として、英語教育の導入がすすめられているのかわかりません(163ページ)、と現状を批判しています。

「日本の英語教育の現状と課題」で菅は、信頼できるデータを引用し、「英語は[中学校の]すべての学年において、最も理解されていない教科と言わざるを得ません」(174ページ)としています。英語教育関係者が無視できない論考です。また英語教員に必要なものは、(1)情報収集能力、(2)指導力、(3)愛という主張も説得力があります。

「小学校での外国語教育―期待すること、考慮すべきこと」で、バトラー後藤は、小学校での外国語導入の三パターン、(1)外国語体験プログラム(Foreign Language Experience/exploratory, FLEX), (2)小学校外国語プログラム(Foreign Language in the Elementary School, FLES), (3)イマージョンプログラム(Immersion)などを明らかにしています。

「公立小学校における英語教育―議論の現状と今後の課題」で大津は、自身の信じる言語教育の実践例を紹介し、こうした実例集を作成中であり、「英語に自信のない小学校の先生方に安心して利用していただけれうようなものにしたいと考えています」(224ページ)と述べています。これには本当に期待したい思いです。認知科学者・言語学者ならではの英語教育への貢献というのはあるはずだからです。

「小学校英語の必要性の主張のあとに必要なこと」で直山は、常々子どもを見ている者としての深い言葉を語っています。次の箇所は引用させてください。

私たちの生活を振り返ってみると、ますます言葉がなくても不便なく生活できる場面が増えてきました。コンビニエンスストアに行けば、何も言わずに商品をレジに差し出せば、買うことができます。電車に乗るには、言葉を使わずとも券売機で目的地までの切符を買うこともできます。このように人と言葉でかかわらなくても、生活ができる場面が増えてきています。子どもたちの生活を見ていても、うまく自分の思いが言葉で表せない場面が教室で多く見受けられます。このように、人と言葉でかかわることがだんだん少なくなるということは、生きていく力が弱くなっていくことだと考えます。すなわち、私たちは、自分自身がどんな人で、どんないいところがあるのかなどという自分の存在に対する確かな認識は、人とかかわる中で行なわれ、この自分への確かな認識こそが、この情報があふれる現代社会で主体的に生きていくために必要だからです。現在は、情報があふれ、どの情報が自分にとって有益であり、どの情報を選択するかは、自分自身への確かな認識がなければできないと考えます。(230ページ)

「小学校での英語教育の意義と課題」の田尻は、さすがに優れた実践者で、なるほどと思わせる指摘を多くしています。例えば、私企業カリキュラムと公立小学校との齟齬について(243ページ)。あるいは、小学校教師を疲弊させないためには、文部科学省、各種審議会、関係諸機関が協力し、全国一律の指導目標、到達目標を提示することの重要性(253ページ)。さらには小学校英語教師の教員養成ができる大学教員の養成が急務であること(256ページ)。また、小学校での文字指導について(257ページ)。いずれも傾聴に値する指摘だと思います。

「小学校英語の現状と今後の展望」でも菅は、「現在、全国に小学校は約2万3000校あり、小学校の先生は約40万人おります。ここをまず押さえてほしいと思います」(265ページ)などと、冷静な態度を崩していません。この章は特に引用したい数字・データがたくさん掲載されています。

「英語教育の目的―入門教育か運用能力の育成か」は、波多野先生の、公の席での最後の発言となったものです。ご冥福をお祈りします。

「対談 ことばの教育をめぐって」では安西の見識が見事です。私などが言ってしまってはかえって失礼にあたりますが、実にバランスのとれ、かつ深い見解を示しています。特に「語力」の議論における「判断力」の概念などは、私は今後の言語教育の課題の一つになるかと思います(というより私は昔から「判断力」は人工知能研究においても哲学においても重要概念であることに注目していたつもりです。最近ですと、アレント(『精神の生活』)をきっかけにして、カントの議論を理解しようとしましたが、まだまだ、というより、全くまだこの「判断力」概念には歯が立ちません)。

「語力」の概念は、「人に自分の意志を伝える力」ということです。ことばを使って意思を伝えるということですね。その中には語彙、リズム、文法、文脈を利用することなどいりいろなことが含まれますが、なかでも特に大事なことは判断力だと思います。この場合の判断力とは、ことばを選択する力、あるいはどういう文章を口に出せばいいか、あるいは書けば、相手にきちんと、しかもインパクトをもって伝わるかということの判断力です。言語使用における判断力が中心だと考えています。(286ページ)

本書は、『小学校での英語教育は必要か』、『小学校での英語教育は必要ない!』に続く、大津由紀雄編著・慶應義塾大学出版会による三部作のフィナーレを飾るものです。小学校英語教育に関して、「イケイケドンドン」的なムードが強かった時に、広範囲からの人材を募り、言葉のよい意味で「批判的」に英語教育を考えた充実したシンポジウムを三年間連続して開き、この三部作の著作を刊行した、今回のこの大津由紀雄編著・慶應義塾大学出版会シリーズは、日本の英語教育史上に残る仕事だと私は確信しています。


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追記:
ついでながら拙稿「英語教育の原理について」についても簡単に説明します。ホームページでこのように大量の文章を公表している私としては、読者からお金を取って読んでもらうISBN付きの出版物に文章を書くときには、どうしたらいいのだろうといつも考えます。今回私がとった原則は、(1)『日本の英語教育に必要なもの』というタイトルに引かれてこの本を手に取った一般読者の期待に応えるような、幅の広い論考を提示すること、(2)何年もたった後に読んでもらっても有益なように、現代の時代状況を具体的に書いておくこと、(3)繰り返し読んでもらっても有益なように、適度に抽象性の高い議論をしておくこと(適度な抽象性をもった文章からは多様な展開が可能だと私は信じています)、(4)お金を出して買ってもらったり、図書館に入ったりするのにふさわしい程度の文章の質を持つこと、の四つです。まあ、どれだけ達成されているかは私自身には判断できませんが、これが私の意図でした。
私の具体的な結論に関しては、「こんなのラディカルすぎる。無理だ」と考える人と、「いや、こうあるべきでしょう。実際、現状は一部こうなってますし」と考える人に分かれるかもしれません。ですが、私はそれなりに現場を見て、優れた実践者に数多く会い、かつ、民主主義の価値を信じている者として、この本に書いたような結論を持つにいたりました。


清水宣明・甲野善紀『斎の舞へ(いつきのまいへ)』 仮立舎 (2006/7/5)

 「第二言語習得研究も科学として成熟し始め・・・」といった声を時折聞くようにもなりました。たしかに論文は以前より多く刊行されるようになってきています。しかしその研究の質も量も、医学研究の質と量には及ぶべくもないというのが正直なところでしょう。医学部の六年間で教えられる学問の総体、つまりはその世界的な広がりと奥行き、規模、学会数、ジャーナル数、予算といった量的側面、そしてそれらすべてにおける質の高さに関しては、第二言語習得研究はどうあっても医学にかないません(こう言い切ってしまうと第二言語習得研究者の中にはご立腹なさる方もいらっしゃるかと思いますが、医学研究の優位というのは事実でしょう)。
 さて、そのような医学も、第二言語習得研究と同じように、「現場」に奉仕することを志向しています。医学は医療現場、第二言語習得研究は教室現場です。もちろん医学そのものの目的は、例えばその下位区分である生理学や病理学、微生物学、生化学、薬理学、免疫学にしても自律的なもので、「現場への応用」を第一義に考えているわけでもないでしょう。第二言語習得研究も「現場への応用」のためにやっているのではないことは、例えば日本の「第二言語習得学会」の「発足の趣旨」(http://www.intsurf.ne.jp/~ykt/purpose-J.html)を見ても明らかです。
 しかし、だからといって、医学や第二言語習得研究が「現場」と無関係に発展することは、社会的には望まれていないでしょう。市民が医学に莫大な税金を投入することを許すのは、医学が究極的には医療現場に役立つようにと期待されているからです。同じように第二言語習得研究にも社会的には現場への貢献が期待されています。また実際、第二言語習得研究者も現場へのリップサービスをしばしば行なっていることは周知の事実です(冷たい言い方をすれば現在、そのようなリップサービス抜きに研究予算を獲得することはかなり困難です)。
 そのように現場への奉仕という究極的な志向を共有しながらも、第二言語習得研究よりは、はるかに科学的に優れた医学ですが、この科学としての医学が、医療現場に問題なく貢献しているのかということについては、米山公啓(2005)『医学は科学ではない』(ちくま新書) などの一般書でも冷静に報告されているとおりです。科学としての医学は、臨床の医療の問題をすべて解決してくれるわけではありません(注)。というより、科学としての医学への過信が、臨床での諸問題を引き起こしているとすらいえるかもしれません。

 医学部を卒業したばかりの医者と三十年間も臨床医学をやってきた医者では、病気や医療に対する考え方はまったく違っている。
 医者になったばかりのころは、もちろん臨床経験がないので、学んできた医学的知識と数値で患者を診ることしかできない。
 それが優先されてくると、数値で患者を評価することが可能だと信じてしまう。
 それは前述してきたように、いまの医学は細分化し、細胞、遺伝子というレベルで病気を論じていて、なかなか、患者が人間としてもっとダイナミックなものであると気が付けなくなってしまう。
 六年間の医学教育では、どうしても検査や数値優先の教育になってしまい、最近でこそ臨床診断できる医者や、患者への思いやりという教育もしているが、それも実体験ではないので、知識として持っていることは難しい。
 若い医者に患者が不満を持ってしまうのは、そのあたりの視点が問題になるのだ。
 しかし、医者も三十年くらい続けているとほとんどが同じ結論に達してくる。
 それは医学の限界と、西洋医学以外の存在を肯定するようになること、医者は患者から学ぶべきことが多いと気が付くのだ。
 医学部教授の退官記念のエッセイ、あるいは退官後に書かれた文章などにそれが非常に多い。数十年も臨床医学をやればやるほど医学の不十分さを理解することになる。高齢の医者の価値はそこにあり、それを患者が求めるのだ。
 医学が不確実であることを理解している医者こそ、患者が求める医者なのではないだろうか。若い医者をいかにそこまで教育していくかが、重要であろう。(米山 2005 183-185ページ)

 科学化を志向する第二言語習得研究の未来の理想像の一つは医学研究といえるのかもしれませんが、たとえ未来の第二言語習得研究が現在の医学研究の質と量を獲得したとしても(これは"a big if"というやつです)、このことからしますと、現場への貢献に関してもそれほどバラ色であるとは考えられません。
 この本(『斎の舞へ』)の第一著者である清水宣明先生も群馬大学大学院医学系研究科講師として、基礎医学の立場からレトロウィルスの分子生物学を研究しながらも、配偶者の看護士や、友人の臨床医、あるいはその他様々の交流のなかから、医療現場における「医学」のあり方について疑問を抱いています。そういった中で、清水先生が会ったのが甲野善紀先生(http://www.shouseikan.com/)(Wikipedia解説)です。甲野先生の武術とそれに関する考えに接した清水先生は、以来、甲野先生に堰を切ったように手紙を送ります。その手紙を読んだ甲野先生が出版を勧め、甲野先生も短い章を加筆したのがこの本です。
ここで私は、教室という現場を考えざるを得ない英語教育研究の立場から、この本を紹介します。ですからこの紹介はこの本のごく一部についてのものにすぎません。ご興味を持たれた方はぜひ本書をご購入の上、熟読してください(以下の引用は全て同書からの引用です)。
 まず清水先生の科学に対するスタンスを紹介します。それは----当たり前のことですが----単純な科学信奉者でも愚かな反科学主義者でもないというものです。ただしこの当たり前のスタンスを「学界」と呼ばれる「業界」できちんと保てている人はそれほど多くないと思います(注2)。

私は、一方的に科学を悪者にするつもりはない(悪者にした方が書くのも楽だし、おもしろおかしく書けるが)。すでに述べたように、全ての事象には必ず表と裏ができるし、表が大きければ、それだけ裏も大きくなる。実際には、表と裏とを見分けることは困難である。事象は常に動いているから、固定的な物言いはできない。そういった表と裏の弊害をうまく中和していくのが、ものごとを全体として感覚的に扱うということだと思う。科学的方法によって得られた知見は、常に全体に還元してやらなければならない。全体を見ながら、科学という方法論を上手に使わなければならない。科学とは、そのようなものだ。(203ページ)

 つまり科学とは、現実世界においての使い方の習熟を必要とするものであるわけです。科学の知識を得ることが、即、現実世界への有効な働きかけとなるわけではないといえるでしょう。それでは、科学とはどのようなものでしょうか。清水先生は医療への科学的な働きかけを「医学」、実践的な働きかけを「医術」と呼び分けて、「医学」は「数字で扱える『平均的仮想人間』を想定することによって、実際の個人を扱うためのひとつの基準や参考としている」ものであり、「このような『医学』を上手に使って多様な人間を上手に扱うのが、『医術』であるはずだ」(56ページ)と述べます。「現代の医療現場における問題の多くは、医学をそのままの形で使おうとしたり、使えると誤解したことにある」(57ページ)というのが清水先生の見立てです。

 科学としての医学は医療のマニュアル化を目指し、現代の医療現場は、どんどんとマニュアル化の流れが強くなっているようです(医療界に限らず、これが現代の流れなのかもしれません)。ですが、医療をマニュアルでことたれり、と考えることは「医術」の役割を否定することです。「医術」の否定は現場への被害という結果を生むだけに看過できません。「医術はマニュアル化できない。医療は、二人として同じではない人間、ひと時として同じではない人間を人間が扱うためのものだ。うまく扱えるかどうかはマニュアルで決まるのではなく、あくまでも医療者の医術で決まるのである」(58ページ)と清水先生は言います。

 もちろんマニュアルが無意味だとまでは清水先生もいいません。それは実践者に一つの参考、例示、あるいは基準を示してくれるからです。ただ、マニュアルを墨守しさえすればいいと考えて、実践者が自ら感じ、考えることを放棄してしまうことに問題があるのです。私たちは、「感覚」、つまりはマニュアルを参考にしながらも、自分の中で感じる「振れ」を自覚しながら実践にあたり、「理屈ではなしに、こうやるとうまくいく、こうやると危ないということが自然にわかるようになる」(93ページ)ことを重視しなければならないのです。
 まとめてみましょう。マニュアルは「科学的」に作られるものですが、それは「平均的仮想人間」を想定して作られたものであり、それを実践者という一人の個性と背景を持った人間が、これまたある個性と背景をもったある人間としての相手に適応する時は、実践者が相手との関係の中で、感覚を鋭敏にし、それまでの経験から学んだ、容易には理論化・言語化できない部分を大切にしてゆかなければならないわけです。しかし清水先生は、このような「科学的マニュアルの補完物としての感覚」、といった見方よりも、はるかに大きな問題を提起します。はたして科学は、現実や実践という複雑な(というより混沌とした)事象を理解することに対して、適切なアプローチであろうかということです。清水先生はまず科学をこう捉えます。

科学は、明解な論理性(わかりやすい対応関係)と再現性が必須条件であり、目指すものである。必ず単純化という指向性を持ち、行き着くところ、数式として表せるのが理想である。従って、事象をそのままの形で表したり理解したりするためには、本来、向かない方法論である。向かないどころか、事象をそのまま扱うことを前提としてはいないのだ。「事象そのもの」は変数が多すぎるからだ。さらに、それらの変数を導くための関数も多過ぎる。事象は、そのまま見るには複雑すぎる。科学という方法論は、事象を人間にわかりやすい形に「変型」することである。いかに上手に変型させることができるかが科学の質を決める。それが科学の進歩ということだ。従って、科学的発見や知見というものは、事象そのものの「真理」や「真実」などとは、全く関係ないことである。(109ページ)

「科学という方法論は、事象を人間にわかりやすい形に『変型』すること」、あるいは「科学的発見や知見というものは、事象そのものの『真理』や『真実』などとは、全く関係ないこと」というセンテンスは、それだけ取り出したら誤解を招きそうですが、ハーバート・サイモン(Wikipedia日本語解説英語解説)の「科学は情報の集積によって進むのではない。科学は情報を組織化し圧縮する」などという言葉などからしても首肯できるものです。科学が私たちに提示する「現実」の姿は、せいぜい単純化された図式の中での平均値であり、それを実際の現実に戻すには、私たちの側で、科学化の中で失われているものを補う必要があるのです。
 いや、複雑な事象に対応するためには、科学を感覚で補うのではなく、むしろ感覚を科学で補うぐらいに考えた方がよいのかもしれません。少なくともこの可能性は否定したくありません。しかし、分析、科学、マニュアルというものを重んじるのが現代社会です。でもそのような現代社会だからこそ、感覚の重要性を再認識するべきではないのでしょうか?

 複雑なものを複雑なままで扱うことは、科学という方法論を用いる限り難しい。「複雑」という考え方自体が、分解分析を前提としている。事象を分解せずにそのまま扱う方が、実は理解しやすいし、効果も大きいのかもしれない。ただ、それは測定ということができないから、程度がわからない。程度がわからなければ進歩はわからない。進歩がわからなければ評価ができない。評価ができない方法は、現代社会ではなかなか認められない。責任問題も絡む。普通はそのように考える。そのような理由から、全体を全体のまま扱うことは難しいとされ、敬遠されてきた。
 それを扱えるのが「感覚」である。感覚をうまく用いれば、事象を分解せずにそのまま扱うことができる。一方、そこでは数字の上下による評価と満足は諦めなくてはならない。また、そこで得られることがらも、進歩や発展という概念では扱えないかもしれない。しかしそれは、現代社会の数字による一元的価値観から多元的価値観への転換のきっかけになる可能性を含んでいるように思える。事象への全体的な感覚的掌握は、人間の心の幸せにもつながるものなのかもしれない。(127ページ)

 「『人間の心の幸せ』なんてもはや科学じゃないね」と思われた方もいるかもしれません。しかし教育は「人間の心の幸せ」を目指しているのではありませんか?教室は学習者と教師が幸せな気持ちで学ぶところなのではありませんか?少なくともあなたは教師としてそんな教室にしたいと思いませんか?もしそうならば、科学的方法だけが英語教育研究のアプローチだという偏見から少し解放されませんか?科学だけが私たちの唯一の知のあり方ではないわけです。私たちの実践者としての感覚を、もっと大切に捉えてゆきませんか?
 と、私はいつものようにこの本を、英語教育研究の推進という立場から読みましたが、もちろんこの本はそのような読者を想定して書かれたものではありません。この本は、清水先生が「斎の舞」(http://www.ts-de.com/itsuki/)を見た感動から、『斎の舞へ』といったタイトルを付けられていますから、このタイトルだけを見ても、どのような読者が想定されているかはわかりません。私なりに、この本を面白く読むだろうと思う人をここで列挙すれば、

・自ら考え、感じることを楽しんでいる人、
・身体運動や芸術の奥深さを感知している人、
・「説明責任」、「アカウンタビリティー」といった最近の風潮に胡散臭さを感じている人、
・医療や介護の現場で疑問を感じている人、
・大学での研究のあり方について問題意識を持っている人、
・科学を尊重しながらも、現代社会でそれにまとわりついている妙な感じに違和感を覚える人、

といったところになりますでしょうか(しかし、最もこの本を読んでほしい人は、上の項目にNoと答え続ける人なのですが)。
 もちろん現代日本における甲野善紀先生という存在の意義を感じている人にもお勧めします。しかし、この本は、甲野先生の礼賛本ではないことは、241-242ページなどの記述からもわかります。甲野先生が指摘している、現代における科学の一面的に偏った使われ方は、おそらく間違いであったと言ってもいいだろうが、だからといって、そのアンチテーゼである甲野先生の方法が自動的に正しいとは限らない、というわけです。甲野先生のアプローチは、「科学と同じように、全面的に正しいことはあり得ないし、よい面だけ見ることも許されない。よい面を見たいのならば、それと同じだけの悪い面の存在を認め、見つめなければならない」(242ページ)とも清水先生は言いますですが、それと同時に、清水先生は、甲野先生が、そういったことを自覚・前提し、また公言しながら稽古を進めていることも指摘しています。
 「あれっ、この清水先生というのは、科学批判じゃなかったの?甲野先生ファンじゃなかったの?」と思われた方は、この本はまだ読まないほうがいいかもしれません。清水先生の「VERTIGO」(空識別失調=飛行機を操縦していてどちらが空でどちらが海かわからなくなること)(12-25ページ)に翻弄されてしまうだろうからです。しかし、これは深い意味で知的な本です。私はこの本が現代日本でロングセラーになることを切に願います。

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(注)もちろん私は科学としての医学をかなり信頼しています。私には二十年来の持病がありますが、その症状を抑えているのは私が毎日服用している薬です。「薬がなかったら、あなたは今頃死んでいるはずだよ」とは私のかかりつけの医者がしばしば言う台詞です。また私がうつ病にかかった時に、その症状緩和に役立ってくれたのは抗うつ剤と精神安定剤でした。その服薬がなければ私はどうなっていたかわかりません。しかしその両方の病気に対して現代医学は対処療法しか提供できないことも事実です。
(注2)Scientisim(科学主義)のWikipedia解説からリンクがはられていたSusan HaackのScience, Scientism, and Anti-Science in the Age of Preposterismという文章(http://www.csicop.org/si/9711/preposterism.html)は、「学界」という「業界」の現在の有様を落ち着いた態度で批判的に書き上げたよい文章でした。

追記(2006/7/11)
仮立舎のホームページ(http://www10.ocn.ne.jp/~keriusha/)では、甲野善紀先生や、私を含めた読者のブックレビューが読めるようになっております。


Yoshiyuki Nakata (2006) Motivation and Experience in Foreign Language Learning Peter Lang (2006/6/30)

兵庫教育大学中田賀之(なかた・よしゆき)さん(Ph.D, Trinity College, Dublin)(兵庫教育大学HPでの紹介教育・研究紹介)に私が最初にお会いしたのは、2004年のある研究会の時だったかと思います。私はお会いした時から、中田さんの柔軟な知性に非常に印象を受けました。その後、2005年の全国英語教育学会での中田さんのシンポジウム発表を聞いたり、個人的にもお話させていただいたりして、私は中田さんは、理論と現実の両方の性質を的確に把握した稀有な方だと確信し、とある研究グループにもお誘いしました。その研究グループは、大学人、現場教師から構成されるものでしたが、そこでも中田さんのプレゼンテーションは素晴らしいものでした。なかでもある大学人の方(名前は伏せますが、その見識において英語教育界で非常に尊敬されている方です)と中田さんの質疑応答は非常に質の高いもので、全ての参加者はその対話を楽しみました。
専門家とは、その専門の知識を誇る者でなく、その専門の知識の限界をわきまえる者であると私は考えています。自らあるアプローチを取り、そのアプローチでできうる限りの探究はするけれど、同時にそのアプローチの限界を知り、その他の視点からの異なるアプローチに対しても開かれた態度を取りうる。そして実際に複数のアプローチを組み合わせてできるだけ探究を進める。そういった方こそ私は専門家という呼称がふさわしいと考えています。
さて、その専門家がPeter LangからMotivation and Ecperience in Foreign Language Learning (ISBN 3-03910-534-5)を上梓されました。私はまことにもったいないことに本日その高著を恵贈されました。私がこの本を読むのには、しばらく時間がかかりますので(ちょっと現在、各種締切仕事を抱えております)、せめて、ここで速報的に、この公刊のみをお知らせします(以下の英文は、Peter Langからの公開情報(実際の本の裏表紙に掲載の説明)です)。
中田先生、ご出版おめでとうございます。

Book synopsis
Until now, there has been relatively little research on the links between motivation and learning experiences within the domain of language learning. This volume attempts to fill that gap.
It explores the developmental processes of intrinsic motivation and of autonomy in foreign language learning and investigates the links between learners' educational experiences and ways in which such learners develop certain types of motivation. The book draws on various sources in educational psychology and philosophy, including Dewey, Vygotsky, Bruner, Deci, Ryan, and Weiner.
The book conceptualises language learning motivation and offers an overview of motivation research, both in educational psychology and in language learning. The author reports on research findings from studies of qualitative or interpretative and quantitative approaches, whose participants were EFL Japanese university students, and offers proposals for helping learners to motivate themselves.

Contents
Contents: Conceptualising Motivation - Motivation in Language Learning: Research Review - Focusing on the Learner's Mental Processes - Motivation in the Classroom: A Social Constructivist Perspective - English Learning Motivation in the Japanese Educational Context - Methodological Issues in Language Learning Motivation Research - A Quantitative Investigation of Motivation - A Qualitative Investigation of Motivation: The Teaching Project and Methodology - A Qualitative Investigation of Motivation: Results.

About the author(s)/editor(s)
The Author: Yoshiyuki Nakata is an associate professor of English language education at Hyogo University of Teacher Education. He teaches English at undergraduate level and theory of English language teaching at graduate level. He received his PhD from Trinity College, Dublin. His research interests include language learning motivation and teacher/learner autonomy.

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音楽の友人が『15(フィフティーン)』に対してくださった感想 (2005/5/25)

私の音楽の友人が、『15』に次のようなコメントを私信メールでくださいました。ご本人の許可を得て、ここに掲載させていただきます。

柳瀬さんこんにちは。○○です。

本を有り難うございました。このところ超多忙ということもありまして遅まきながら少し感想の筆をとります。本の内容に押されて読み飛ばすことが出来ず時間がかかってしまったことを言い訳しておきます。(本当なんですが。笑)

実にユニークな本で感服致しました。私はこの世代の子の親でもありますので余計です。

饒舌であるはずはない15歳が饒舌になることが難しい英語を使って詩を書くという着想がまず面白いです。そして生まれ出たものは饒舌な大人が絶対に書けないような雫のような作品です。芸術として完成された詩と言うよりもエッセンスをポツポツと置いて行くようなものが生まれています。
そして更にその訳を、それこそ言葉のプロである詩人が訳するというのも面白い考えですね。それによって明らかになることもあるようです。
出来上がりをみると子供の「素材」から立派な「詩」ができました。一種のコラボレーションなんでしょうが子供の作ったものは未熟で舌足らずではあっても彼らにしか出来ない確かな詩の素を含んでいたのでしょう。それは英語で書くといった手法で初めて抽出が可能になったものかもしれません。

最初はCDのブックレットでも読むように原作−訳詞という見比べながら読み始めたのですが、あまりに左右の発するものが違うので、悪いけど縦に読み換えました。
つまり生徒のものだけを先に読むようにしたのです。
モーツアルトのオリジナルテーマを聴く時そのシンプルさに打たれますが、時に何か加えたくもなり、それが故にヴァリアントが存在するわけです(作曲者自身そのつもりで書いていますね)しかし結局元のものが懐かしくなることも多い。そのように感じまして、この詩集も左右同時(少なくともセンテンスバイセンテンス)には読みたくなかったのです。
子供の詩に共通する何かだけを先に拾いに行こうという意図です。
そうした後で訳に移るとまるで全く違った世界に入るようでした。
他の読み方もあるでしょうけど僕はこのやり方がこの本にピッタリ。後の方ではいろいろなスタイルが工夫されていましたけれどね。

「饒舌でない」原作は何故か みな悲しげに、あるいは苦しげに感じたのですがどうしてでしょう。
個人的な記憶から想像すると、あの年代では多分これから訪れるであろう未来に対する期待やあこがれよりも去り行きつつある自分(子供の最後の部分)に強い名残惜しさを覚えているからではないでしょうか。
少なくとも自分はそうでした。去りゆくものを見送る悲しみと苦しみのようなものが。

またまたモーツアルトですが彼の最良の作品はみな無常観を喚起し「悲しい」のですが何かそれと共通するような感覚・・・。
敏感で傷つきやすい未熟な感性、
しかしその時にしか感じ得ない確かなインスピレーションが存在し、消滅して行く。
そのことを一番良く知っているのは当の本人。
だからこそ、それを失うことに不安ばかりでなく強い悲しみを覚えるのではないだろうか、と。
子供でもない大人でもない分水嶺的な移ろいゆく不安定さから生み出されるもの。
考えてみたら大変な年代かもしれません。

本のもう一つのコンセプトである「かつて15歳だった大人がそれを顧みる」というやり方の意義も、そういった失われたものの存在−あるいはまさに失われて行くという感覚−を再確認できるということにあるように思います。
逆説的ですがこれは失った者にしかわからない、少なくともその存在については失いつつある者には漠然とした捕らえがたい感覚でしかないが失った者にとっては、それが全体として見えるのではないか、などと想像します。
もちろんもはや実体は無い過去のものですが。
詩の訳も、そういった事を分からせてくれる役割をしてくれたようです。

これは、やはり言葉の教育者としての視点を別にしても15歳を過ぎた人のための本かな。違っているでしょうか?。

最終章の座談会は番組が変わったような印象で一転して教育者としてのディスカッションでここは親として神妙に拝読させて頂きました(笑)。もっと日常的でしたね。

良いひとときを過ごさせてもらいました。有り難うございました。
またお会いしましょう。

また、これまた私の音楽の友人であるphobeさんはご自身のブログで次のように書いてくださいましたhttp://phoebe.jugem.cc/?eid=241

素敵な本に出逢いました!

『15』

お世話になっている柳瀬さんが、著者のおひとりでHPでの紹介を読ませていただいていたのですが、想像していた以上に素敵な本で、うれしい驚きの連続でした。

15歳の生徒さんたちの英語の詩からは、繊細さ、鋭敏な心の揺れ、ユーモア、切実な想い、いろんなものがこちらに響いてきます。練り上げられた言葉の豊かさ。彼らの柔らかい心の動きをみごとに掬いあげた、詩人の幸若晴子さんによる訳詩が、またすばらしい。もぎたての新鮮な言葉を読むよころびがあります。

彼らの英詩をめぐって、5人の方たちが「言葉」や「教育」などについて対談されている部分も、大変よみごたえがあり、考えさせられました。
物事を考える、表現する伝える、そして理解する上で、言葉を逃れて生活することはできません。それを正確に使う技術を磨くこと、そして美しい言葉を生みだす心をはぐくむこと。

「授業を通してわかったことは
英語は‘勉強’なんかじゃなく、“ことば”だということ

教科書の紙面を埋めるだけの単語の羅列じゃなくて
単語は一つ一つ生きている“生もの”だということを肌で感じた

生きていることばで、世界中の人たちとおしゃべりできたら
どんなに素敵だろうって心から感じた」

こんな幸せな気づきを生徒さんに与えてくれる授業、すごいなぁ。
そのヒントが、この本の中にあります。ぜひ多くの人に手にとっていただければ、と切に思いました。

言葉が、いつの日も争いの種を生むものではなく、世界を美しく豊かなものにしてくれるものでありますように。

私は、自分にはもったいない友人に恵まれております。感想をくださったお二人にはこの場を借りて改めて感謝します。


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アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著、水島一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳(2003/2000)『<帝国>』以文社、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著、幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修(2005/2004)『マルチチュード』(上)(下) NHKブックス (2006/4/25)

 私が臆面もなくこの紹介文にタイトルをつけるとしたら、それは
「インターネット、ポストモダン、そしてあろうことか左翼!」
とでもなるかと思います。
 「インターネット」という言葉は、90年代中頃には衝撃を持っていました。例えば「ハイパーリンク」という概念に、軽薄な私は興奮していました。「ポストモダン」という言葉は80年代には輝きを持っていました。少なくとも大学生・大学院生だった私などは、何も分からないままに知的な大騒ぎをより近づいて見ようとしていました。70年代頃までは「左翼」という言葉には力がありました。中高生だった私は朝日や岩波の正義を疑うことなく前提としていました。
 ですが、今や「インターネット」という言葉に衝撃を感じる人などいません。それが当たり前の日常だからです(注)。「ポストモダン」という言葉も、含羞を持った表情と共にでないと今や恥ずかしくて使えないような気さえします。「左翼」など死語になったとすらいえるかもしれません。せいぜいそれは「サヨク」という表記で現在生きながらえているだけなのかもしれません。
 しかしネットでの表現・コミュニケーション活動が知的生活の大きな部分を占めるアメリカの人文系インテリにとっては、「インターネット」も「ポストモダン」も、現在を分析的に総括するためには不可欠な現実概念であり、「左翼」も未来への行動指針を得るためには重要な概念に思えるようです。
これらの本は、日本語への翻訳書ではイタリア人のネグリAntonio Negri)が第一著者のようになっていますが、原著(英語)ではハート(Michael Hardt)が第一著者です。両者のことをほとんど知らない私がこのようなことを言うのは、全くの推測にすぎませんが、これらの本においてはアメリカ人のハートのライフスタイルの影響は大きいのではないかと思います。
 私がなぜそう考えたのかと申しますと、それはこれらの本を面白く読んだ自分の中に、自らネット活動に(少なくとも同世代と比較すると)大きな意義を見出し、アメリカの政治文化の力を認めて(これには自称"political junkie"のアメリカ人の友人との10年以上の交流が影響しています)いる自分の姿が浮かび上がってきたからです。
 これらの本のテーマのいくつかを私なりにまとめますと次のようになります。

・インフォメーション・コミュニケーション・テクノロジーによって加速的に多様に、緊密に結びつけられ、経済はおろか政治や社会生活においてすらさまざまな度合いで連続している現代のグローバルな世界を、旧来の「帝国主義」(imperialism)概念で捉えることはできない。
・「(アメリカ)単独行動主義か多国間協調主義か?」や「親米主義か反米主義か?」という問いかけには斜めから切り込みを入れる必要がある。
・現実は<帝国>(Empire)という概念で捉えられるべきであり、この概念は、アメリカが特権的に単独行動を取ろうとするにもかかわらず、単独支配の力は持てずに、アメリカも、どの国民国家も中心に立てないまま、経済・政治・社会にわたるグローバルな支配装置が、脱中心的・脱領土的に私たちのあり方を強く規定している、と要約できる。
・しかし<帝国>を支えているのは「マルチチュード」(multitude)と概念把握されるべき「私たち」である。「私たち」は、それぞれ様々に異なる様態で存在しながら、誰も現在のグローバルな結びつきから逃れることができない状況を表す用語である。「私たち」は、実態の生活においては実に様々に異なりつつグローバルにつながっている。マルチチュードの生産性と創造性が<帝国>を支えている。
・マルチチュードは、18世紀のアメリカ革命の担い手が、古代ギリシャの民主主義を改変し新しい民主主義を創り上げたように、21世紀の<帝国>秩序の中で、さらに新しい形の民主主義を創り上げることができるはずだ。

こういった論点をハートとネグリは、スピノザやフーコーやルーマンなどの哲学に深く影響を受けながら、政治的、歴史的、経済的、社会的出来事でもって例証しているというのが、私の理解です。
 私はこれらの本の報告を、これまた10年以上続いている私的な勉強会で行なったのですが、各メンバーは基本的な論点は認めたものの、「マルチチュード」が全人類の現実を捉えているとは考えがたいとの反論が出てきました。バングラデシュを主なフィールドにする人類学者のメンバーは、「マルチチュード」と自分が研究する人々のリアリティとは全く異なると述べました。エジプトにしばしば出かける歴史学者のメンバーは、この話に共感するエジプト人はおそらくアメリカで教育を受けた知識人階層ぐらいだろうと意見しました。
 たしかにそうかもしれません。しかし私はこれらの本は、現代という錯綜した時代を見通す一つの大きな枠組みを与えてくれるという点で非常に面白い本だと思います。仮に世界の多くの人びとが、「マルチチュード」にもなりえず取り残されたままになっているにせよ、グローバリゼーションの波は次々にそれらの人を取り込もうとしている----これが<帝国>の一つの特徴です----ことは、私は否定しがたいと思います。
 「インターネット、ポストモダン、そしてあろうことか左翼!」までもがグローバリズムの現代において有効な現実概念だ、というように私はハートとネグリの主張を要約します。またグローバリゼーションということを考えざるを得ない英語教育関係者の中にもこの本を面白く読む人はいるのではないかと思います。

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『<帝国>』(翻訳)(原書
『マルチチュード』(翻訳上巻)(翻訳下巻)(原書

(注)しかし、そうして技術が日常化したからこそ、現在、大きな変化が生じているのだというのが梅田望夫(2006)『ウェブ進化論』ちくま新書です。

追記:『<帝国>』の第二章までの解説はhttp://polylogos.org/empire.htmlで読むことができます。


内田樹『態度が悪くてすみません』角川oneテーマ21(2006/4/20)

「批評的に見るのはいいけど、批判的に見ちゃいけませんね」。
これは内田さんが『踊る大捜査線THE MOVIE2レインボーブリッジを封鎖せよ』に関して書いた小文の一節(235ページ)ですが、この言葉が私の心に一番残りました。
この本のテーマの一つは「批評」かと思います。
現代日本では「異論を遮って、きっぱりと断言する」(34ページ)ことがもてはやされています。また、学会にもあるべき制度として「査読」(170ページ)はありますが、それらの「断定」や「査読」は、「批評」ではないと内田さんはいいます。
内田さんによれば「批評」とは「作品の出来不出来を査定することではない」わけです。査定して点数をつけることには「批評性がない」とも言います(170ページ)。
「批評」に必要なのは「倫理性」(=査定の自明性を懐疑すること、査定の権力性に疚しさを感じること)(171ページ)と、「生きて動いている文体」を持つこと(=「私ならざるもの」に言葉を託すこと」)(173ページ)であると内田さんは述べます。
これを私なりに誤読的に言い換えますと、批評(の一つとしての書評)は、次のようにまとめられるかと思います。
批評(書評)とは、

(1)目の前に物理的実体として明々白々に存在している本に関して、著者とはその固有名・肩書き以上の誰(who)なのか、彼/彼女は活字を通じて何を(what)どのように(how)語っているとまとめられるのか、そしてそもそも彼/彼女が語りかけている読者とは実のところどのような存在なのか(to whom)、またこの本が書かれ読まれる時空とはどのような文脈状況なのか(when and where)ということを、批評者なりに問い、かつ、
(2)そのような総括をする批評者という「私」はいったい誰で・・・といった、who以下の問いを批評者が自分自身にも投げかけながら、さらに
(3)その問いつつ、問われるという、反照的というか、運動的な知を、それにふさわしい文体で語り、そしてこの二重の問いかけで
(4)批評(書評)の読者にも、読者各々の問いかけと思考を促す

ものかと思います(間違っていたらごめんなさい)。
英語教育という観点からなら、第一章の「コミュニケーションの作法」や第二章の「身体は知っている」のやさしくて深い文章を中心に紹介すべきでしょうが(注)、私は上の批評についての論考にいたく考えさせられたので、このような紹介をしました。

ついでながら申し上げますと、このページは昨年の後半ぐらいから「読書」と名乗っております。私には「書評」はできないと思ったからです。この名称をお間違えの方が多いようなので一言申し添えておきます。
しかし、可能な限り私も「批評」を目指したいとこの本を読んで思いました。ただこのページの「書評」という看板ははずしたままにせざるを得ませんが。
内田さんの著作では、私の中では『ためらいの倫理学』(角川文庫)につながる大事な本となりそうです。

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追記:次の言葉(144ページ)も私の心に残りました。

「プロの条件」とは「自分に厳しく」ではなく、「クライアントに優しく」である。

:コミュニケーションや身体についての内田さんの本でしたら、私が好きなのは『14歳の子を持つ親たちへ』と『死と身体 コミュニケーションの磁場』です。


中嶋洋一, 幸若晴子, 大津由紀雄, 柳瀬陽介, 佐藤礼恵 『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること かつて15歳だった全ての大人たちへ』 ベネッセコーポレーション(2006/4/10)


著者の一人として、一人でも多くの皆さんに、この本を所有して、この本を読み、眺めることで豊かな時間を持っていただきたいと思っています。そしてその豊かな気持ちを他の人に伝えていただければと思っています。
この本の作成の裏話を少しいたします。
最初は中嶋洋一さんの英詩プロジェクトでした。中嶋さんが中学生に書かせた英詩の素晴らしさは知る人ぞ知るもので、その卒業文集を手にした者は誰も驚嘆の声をあげるものです(私もそうでした)。その指導プロセスは『“英語の歌”で英語好きにするハヤ技30 』(明治図書)に書かれていますが、中嶋さんは、まだまだこの中学生の英詩には可能性があると信じていました。中学生の英語のきらめき、切なさ、温かさ、ユーモアは、言葉の荒廃すら感じられる現代日本で、多くの人の心に響くはずだと確信していました。
でも英詩という二重にマイナーなジャンルを多くの読者に届けるのには工夫が必要です。多くの人は「詩」というだけで敬遠してしまいます。詩には興味がある人も、「中学生の英語」と聞けば先入見を持ってしまうかもしれません。しかし、中学生の英詩には潜在力があるのです!どうすればこれを多くの人に理解してもらえるでしょうか。
中嶋さんは、最初に以前から注目していたイラストレーターの佐藤礼恵(ゆきえ)さんに声をかけました。彼女の温かなイラストが添えられることにより、英詩が一層引き立つと確信していたからです。次に中嶋さんは私に声をかけてくださいました。現代日本で中学生がこのような英詩を書くことの意味合いを探りたかったからです。私はその企ての重要性を理解し、即座に私一人では力量不足だと思い、大津由紀雄さんに声をかけました。多忙を極める大津さんも、このプロジェクトの意義を理解してくださり、参加を決意してくださいました。
さらに中嶋さんは、バンブルビーの村松祐介さんを介して、デザイナーを探しました。そして太田竜郎さんとコンタクトを取ることができました。極めて質の高い仕事で知られる太田さんという一流のデザイナーに会うことができたのは本当に幸運でした。
というわけで、中嶋さん、佐藤さん、大津さん、村松さん、柳瀬で、太田さんのデザイン事務所を訪れ、企画の話をしました。
でも、その企画会議は、正直、私は怖かった。
太田さんが本質的な質問ばかりを続け、私たちの企画のあやふやさなどが次々に明らかになったからです。太田さんは、「この本を作る意味は何なのか」、「対象は誰になるのか。また、どうやって知らせるのか」といった本質的な質問を、真摯に投げかけました。
あるところで「デザインとは、物事の本質を把握し、それを構成表現することだ」といった言葉を聞いたことがあります(うろ覚えです。ごめんなさい)。太田さんはまさに、本質を掴むための鋭い質問をしていたのです。
あわてて付け加えておきますと、太田さんご自身が別に怖いとか冷たいとかいうのではありません。会議の際も、その後の食事の時も、太田さんは温厚で、ユーモアも交えながら私たちと話をします。ただ太田さんの、社交的なマナーでは隠しきれない知性の高さと気迫の鋭さが、私を怖がらせたのです。
こうしてプロジェクトがスタートしたのですが、その後、何度も紆余曲折がありました。途中、方向性への疑問が呈示されることもあり、活動が止まったまま、時間だけが過ぎていくこともありました。
私にしても、私がそれなりに自信を持って最初に書いた原稿は没。それを全面的に書き換えた第二原稿は、一部の方には評価していただいたが結局没。第三原稿はテーマと切り口を変えて、これも力をかけて書いたけど没。そうして、どうしようと途方にくれながらも、自分の気持ちに忠実に書いた、短い第四原稿の二編のうちの一つがようやく採用になりました(しかし、この採用された原稿も、中嶋さんの手が入ったことで別物のようによくなったことには私も驚きました。もちろん、その最終的な評価はみなさんにしていただくものであり、批判は全て私が受けるものですが)1
大津さんもエッセイを一つ寄稿し、さらに中嶋先生、大津先生、柳瀬で対談をすることになりました。三人の生の活き活きとした気持ちを伝えたかったからです。
この対談、話は尽きず、私は特に早口でどんどんしゃべりました(原稿起こしの人は本当に大変だったと思います)。原稿を校正して、何箇所か、英語教育界の現状について私は言い過ぎてしまったかなと思うところがあります。それらについては場合によっては叱責も覚悟していますが、これらは私の正直な気持ちですから、原稿には残しました。
そして、停滞していたこのプロジェクトに、ある日、大きな変化が起きました。詩人の幸若晴子さんの参加です。バンブルビーの村松祐介さんの旧友でもある幸若さんが書かれた詩やエッセイを読まれた中嶋さんは、彼女の紡ぎ出すことばに対して直感的な何かを感じられたようです。私たち残りのメンバーも、比較的自由に中学生の英詩を詩人として翻訳してもらえば、この中学生の英詩の潜在力が一層引き出されるのではないかと考えました。
幸若さんに関しては、『野に出よう』(花蜂社)を読んだ時も私はその言葉の深さに驚いたのですが、翻訳が出来上がったときは、メンバーから驚嘆の声が出ました。私は詩の力を痛感しました。というより、幸若さんの前では、私は自分の日本語が恥ずかしいです。幸若さんと中嶋さんの対談も非常に質の高いものになっています。
しかし驚きはさらにありました。太田さんに提出した原稿が、太田さんの手によって一つの作品となって帰ってきてみると、もうそれは、それまでの原稿の次元を超えたアート作品になっていたからです。表紙、レイアウト、目次、フォント、色合い、構成、そして太田さんによって撮影された写真----これまでの英語教育書にはなかった美しい本になっていると私は思います。ネットでこれだけ情報が氾濫する昨今、本を出版することの意味すら問い直されていますが、このような本の出版意義は決してなくならないと思います。どうぞ手にとって、温かな表紙の手触りや多彩な色彩を楽しんでください。。
私は著者の一人として臆面もなく語りすぎたのかもしれません。ですが、正直、いい作品になったと思っています。
そしてもしよいと思ったら、同僚の英語教師に薦めてあげてください。国語教師にも。日本語教師にも。
さらには、「かつて15歳だった全ての大人たちへ」も。
加えて、英詩を書いた同年代の中学生にも。高校生や大学生にも。
できれば図書館に置いて、いつの日かこの本に巡り合える、生きた言葉を探している若い人に備えてあげてください。
現代日本で言葉の教育について考える人全てに手にとってほしい作品です。

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1 ちなみにどうでもいい、ひとりよがりなことを書きますと、私はこの短い原稿を、Pink FloydのThe Wallに収録されているRun Like Hellという曲のイメージに導かれて書きました。(ああっ、とっても痛い自著解説!※ヽ(*゜▽゜)ノ※)


梅田望夫(2006)『ウェブ進化論』ちくま新書(2006/3/27b)

下でやや無邪気に「ネット公開=情報の無料化」に賛成意見を述べてしまったので、ついでにこの本を紹介しておきます。
インターネットが普及してから10年余りになります。「情報革命」(Information Revolution)という言葉は90年代には熱狂的に語られましたが、2000年代初頭にアメリカのITバブルがはじけてからは、インターネットに関して私たちが興奮することも少なくなってきたように思えます。しかし、この本は、これから大きな変化が来ると主張します。

これから始まる「本当の大変化」は、着実な技術革新を伴いながら、長い時間かけて緩やかに起こるものである。短兵急ではない本質的な変化だからこそ逆に、ゆっくりとだが確実に社会を変えていく。「気づいたときには、色々なことがもう大きく変わっていた」といずれ振り返ることになるだろう。(18ページ)

私は、(広い意味での)IT関係ブログに関しては、橋本大也さんの「情報学」(http://www.ringolab.com/note/daiya/)を毎日読んでいましたが、この本を読んでからはそれに加えて、この本の著者である梅田望夫さんの"My Life Between Silicon Valley and Japan"(http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/)を読むようになりました。
ネット社会の現状(Web 2.0)とその方向を手早く知るためのいい本かと思います。
「ネット公開=情報の無料化」がこれから減るのか、それとも増えて質的な変化を起こすのか。いずれにせよネットを抜きにして現代の知的生活は語れないでしょう。

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View21セルハイ特集号冊子とデータベース 「SELHiに見る英語教育の挑戦 ―変わりつつある英語教育の今、そして未来」(2006/3/27)

ベネッセ・コーポレーションがSELHiに関して取材したView21セルハイ特集号冊子とデータベースが、ネット上でも公開されましたのでお知らせします(http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2006/sp/main_sp.html)。記事もさることながら、データベースも充実して、SELHiの全体像を知るには極めて便利なページになっていると思います。
このような有益な情報を含んだ広報誌のネット公開を私は歓迎します。日本英語検定協会の「STEP英語情報」も非常に有益な情報が含まれているので、もし同誌が商業的性格よりも広報的性格が強いのなら、ネット公開してほしいと私は思います(少なくともネットから購読申し込みができるようにはしていただきたいと私などは思うのですが、色々と事情はあるのでしょうか?)。
ネット公開、すなわち情報の無料化というのは、様々な帰結を招く複雑な問題であることは承知していますが、ここはあえて事情を知らない者として意見表明をします。ご批判などあればお知らせください。


齋藤一(2006)『帝国日本の英文学』人文書院(2006/3/26)
研究者というのは「愚直な人」であるべきなのかもしれません。
研究対象とそれに向かう自分、そしてその自分の時代を丁寧に見つめ、誠実に書く。
私は自分がそういった研究をはたしていないため、丁寧で誠実な研究者の書に出会うと、自らを恥じつつ、その著者を敬愛せざるを得ません。
齋藤一先生は1968年生まれで、現在、筑波大学に勤務なさっています。私は先生と以前、ネットで交流させて頂きましたし、一度は先生に私の姑息な文章表現を叱責をしていただいたこともあります。直接にはまだお会いしたこともないのですが、そういったご縁から先生はご著書をこの度私にご恵贈してくださいました。
面白く一気に通読しました。
近代日本の遺産の上に立つ現代日本で英文学を学ぶことに関する真摯な考察の書です。
もちろん私は文学の専門家ではありませんから、この小文は誤読に基づく見当外れのものかもしれませんが、私なりに皆さんにこの本を紹介したくここにこの文章を書き連ねております。
同書の基本姿勢は次の文などによく表現されているかもしれません。

コンラッドのテクストにおける西洋植民地主義を批判的に分析しながら、そうした分析をしている自分は西洋植民地主義と無縁なのか。かつて西洋植民地主義を模倣し再生産した日本、現在にいたるまでその負の遺産をそれなりに精算したとはいいがたい日本で研究する人間は、微妙な立場にあるだろう。かつての大日本帝国の負の遺産と21世紀に生きる私とは基本的に関係がないと信じることができない者は、この微妙さにどう対処していったらいいのだろうか。(161ページ)

私の感想に過ぎませんが、この本の一つのよさは、こういった「微妙さ」(あるいは他所の言葉を借りるなら「アンビヴァレント」さ)をできるだけ的確に、どちらの極にも振れきってしまうことなく、丁寧に書き表していることかと思います。振れきってしまった文章はアジビラです。振幅をなくした文章は、空疎なお勉強レポートです。この本の文章は自分の中の振幅を受けとめた、正直で誠実な文章です。

これまで日本の「英文学」がなしとげてきた成果に倣いつつ、同時にそこからずれてゆかねばならない。いや、ねばならない、という言い方はやめておこう。私は、「英文学」にひたすら没頭するあまり、いつのまにか「英文学」からずれてしまった私自身を肯定してみたいのである。(167ページ)

私のいつもの癖で、抽象的な箇所ばかりについて言及してしまいましたが、もちろん本書は具体的な論考の書です。英語教育関係者としては、岡倉由三郎や市川三喜といった英語教育史上の重要人物の、これまであまり知られることのなかった点をこの本から学びたいところです。

追記:齋藤先生のホームページのブログにはyanaseという方がよく投稿なさっていますが、これは私とは別の方です。念のため。

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研究社『英語青年(2006年4月号) 特集:大学入試英語問題を批評する』 (2006/3/12)

英語青年』とは、ご承知のように英語・英米文学研究関係の質の高い専門誌で、英語教育に関する特集などはあまりやられないのですが、大学入試は英語関係者にとっての大きな問題という意識からか、今回の特集が組まれました。特集記事のタイトルと執筆者は、「これでいいのか、大学入試英語問題・英語教育およびテスト理論の立場から」(靜哲人)、「これでいいのか、大学入試英語問題・予備校の立場から」(小林功)、「これでいいのか、ライティング問題・高校の立場から」(松井孝志)、「英語教育史から見た入試英語問題」(江利川春雄)、「注文の多いテスト屋さん・大学英語入試作問事情」(金谷憲)、「大学入試は高校の学習指導要領を超えてよいか」(水光雅則)、「入試英語問題の批評空間を創り出す」(柳瀬陽介)で、私も末席を汚しております。
記事の主張やトーンは様々で、編集長の津田正さんの意図は、敢えて異なる主張を並べて議論を引き起こすことのようにも見えます。異なる主張といっても、記事相互はかなり関係しているような気もします。最後に掲載させていただいた拙稿も、特に靜先生、金谷先生、水光先生の原稿と関連しているようにも思っています。ちなみに拙稿の要旨を最も表していると思う箇所を引用しますと、それは

・・・それでは、見識とは何か。それはその大学がどのような「英語力」(あるいは「学力」「適性」)を求めているかを、入試を通して自他共に明確に示すことである。
 それならばスペシャリストに任せようか。幸い、英語教育研究の中でも、テスティングの領域は、近年非常に発展している。私はテスティングのスペシャリストではないが、テスティングの領域は、厳密性と現実性のバランスの取れたよい研究と実践が多い、最も信頼のおける英語教育研究分野であると個人的には思っている。実際、私はかつてあるメーリングリストで、「入試に関わる大学教員全てにテスティングの集中研修を課すべきだ」と発言して、ある人にたしなめられたことすらある。それならば、大学にテスティングのスペシャリストを招き、後はその人に全権委任すればいいのではないか--だが、私はそうとまでは考えない。

といったところになるかと思います。
ついでながら書いておきますと、私が書く原稿はどうしても抽象的なものになるので、私個人としては、松井先生や江利川先生のように、英語教育の具体的な事実を、明晰な論理のもとに書かれる書き手に非常に憧れてしまいます。私もできるだけ英語教育の現実に近づく努力をしたいと思います。
ご承知の方も多いと思いますが、松井孝志先生はブログも運営されております(「英語教育の明日はどっちだ!」(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/)。英語教育に関しての具体的な指摘と深い認識に満ちたレベルの高い文章が読めるので、私はパソコンを使う日は、「英語教育にもの申す」(http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/)、「tyoshida's BLOG」(http://tyoshida.weblogs.jp/blog/)などと共に、毎日このブログをチェックしております。

話がそれましたが、『英語青年』2006年4月号を、日頃は同誌を手に取らない英語教育関係者の方も、ぜひお読みいただければと思います。


柳瀬陽介(2006)『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』(溪水社)(2006/3/7)

誠に恥ずかしながら、この度、所縁のお助けにより、上記書を公刊することができました。私としては一切このホームページでは言及はすまいと思っていましたが、公刊した以上、この本の存在が知られるのは時間の問題となりましたので、ここでは自分自身をこの本の書評者として、下で自己批評を試みてみます。
この本は、「従来の応用言語学のコミュニケーション能力論を批判したうえで、その問題点を指摘し、それらの問題点を哲学的言語論と自然科学的言語論を読み解くことで解決をはかり、そのうえで第二言語コミュニケーション力を新たに図式化し、英語教育実践の解明の指針を得ることを目的としたもの」(318ページ)である。論考のスタイルは、諸文献読解による統合的論証であり、この論考で、氏は応用言語学の議論と哲学的言語論、自然科学的言語論の統合を図ろうとしているといえる。(ちなみに「コミュニケーション能力論」とは従来の概念であり、「第二言語コミュニケーション力論」とは氏の提言する概念であるとのことだ)。
この統合の試みは、いうまでもなく非常に意欲的なものであるが、その意欲の大きさが表目に出たのか、裏目に出たのかに関しては慎重な読解を要するであろう。
肯定的に捉えるなら、氏の試みは、従来の応用言語学界ではほとんど見られなかったユニークなものであるといえる。氏は応用言語学のコミュニケーション能力論の発端となったチョムスキーの議論を哲学的背景から記述し、さらに彼の最近の科学論(とはいえ、彼の科学論は従来から基本的に同じものである)を引用し、いわゆる「コミュニケーション能力論」は自然科学足りえないことを再確認した上で、「コミュニケーション能力論」の科学化よりは、「第二言語コミュニケーション力論」の哲学化----整合性を失わないまま全体像を捉えるといった意味であると推測される----を図るべきだとしている。氏はこういった展開を後期ウィトゲンシュタインの哲学の展開に学んだとし、後期ウィトゲンシュタイン哲学の主要論点を説明している。また分析哲学のデイヴィドソン(Donald Davidson)の議論を導入し、関連性理論(Relevance Theory)への橋渡しとしている点もユニークである。その他にも、デイヴィドソンの議論には、チョムスキーを「言語の極」から議論を展開としたとするなら、デイヴィドソンは「コミュニケーションの極」から議論を展開したと評することもできるほどのラディカルさがあるが、そういったデイヴィドソンの議論を導入し、「チョムスキー/言語」と「デイヴィドソン/コミュニケーション」という両極(端)を、応用言語学の世界に提示したことにはある程度の評価は与えられるかもしれない。さらに第一言語コミュニケーション力と第二言語コミュニケーション力の区別の試みも、今後行なわれるべき研究テーマの一つであるといえよう。
だが、否定的に捉えるなら、この本の文献読解は、まだ十分に広くなく、また浅いと言えるかもしれない。広くない、という点に関しては、CumminsのBICS/CALP概念などに一言も言及がない点などを指摘せざるを得ない(どうやら応用言語学のコミュニケーション能力論に関しての氏の読解はバックマンの理論形成史を主な文献源としていると推測される)。また浅さとしては、チョムスキー読解に関しては、彼の哲学的側面のみのものであり、テクニカルな言語学・言語獲得の議論は一切ない。関連性理論に関しては、独自の訳語を使うなど氏なりの読解を示しているが、氏の議論は、関連性理論がバックマンが言うところの"strategic competence"の説明理論として考えられるという可能性は示しているものの、議論はそこで止まってしまっている。
総じて言うなら、氏の今回の試みが、一つの全体像の提示であるといえるのなら、氏はなんとかその全体像を提示したが、それは粗描に過ぎない、といったところであろうか。354ページにわたる本書であるが、このようなトピックなら、本来はこの三倍程度の論証は必要なのかもしれない。
ただこの本は、諸文献からの引用を多くして、なおかつ引用は原文(英語)と氏の訳文(日本語)を併記するという形をとっている点で、コミュニケーション能力論に関する一種の資料集としては使えるかもしれない。この本を一冊読んでおけば、コミュニケーション能力論とその前提および関連分野に関してのある程度の理解は得れるといえよう。図書館に一冊置いておくと、学生の学習には便利かもしれない。また、氏は「第二言語コミュニケーション力」の図式化を試み、教育実践上の「チェックリスト」も掲載している。英語教育研究をあくまでも実学と考えるという氏の考えの現れであろうが、これらの有効性に関しては実践者の評価を待つべきであろう。
あと一つ疑問に残るのは、標題の「第二言語コミュニケーション力」という用語である。この概念を氏は英語では"communicative second language ability"と表現しているが、これは応用言語学の"(communicative) language ability"の展開であろう。だが"communicative"や"second"が付こうが、あくまでもこの概念が"language ability"に関するのなら、この用語は例えば「コミュニケーション的第二言語力」とでもなるべきなのではないだろうか。評者は揚げ足取りをしているつもりはない。実際、バックマンの理論の発展とも考えられる氏のこの試みは、あくまでも言語を中心とした論考であり、上にも述べたデイヴィドソンの「コミュニケーションの極」やハイムズが今後の課題として出していたコミュニケーションの相互作用性・自己組織性・創発性からのアプローチはまだまだ十分ではないと考えられる。こうした点からすると用語は「コミュニケーション的第二言語力」であるべきだったのかもしれない。
しかし氏は、この論文執筆後、アレントHannah Arendt)やハーバマスHabermas)に関心の一部を移し、社会的関係におけるコミュニケーションの有様に注目しているようにも思える。その点では、氏の中では、言語よりもコミュニケーションに力点をおいた「第二言語コミュニケーション力」論の形成が計画にあるのかもしれない。だが、もし氏が「コミュニケーション」をその日常的意味(例えば斎藤孝『コミュニケーション力』岩波新書)から考えて、その解明と理論的統合を図ろうとするのなら、その形成への道は、言語的な本書の論考でさえも必ずしも十分でないことを考えると、容易なものとはいえないと評者は予想する。
さらに氏に注文することが許されるなら、氏はもっと応用言語学の海外文献を読むべきだとあえて苦言を呈したい。氏のスタイルは哲学などの文献を読み、その読解を通じて、自ら英語教育の現実を考察するというものであるが、応用言語学にも近年、海外では人文・社会科学の基盤に基づいた論考も増えている。そのような文献の読解を怠るなら、氏の試みは「愛すべきドンキホーテのような」と評さなくてはいけないかもしれない。
いかなる本の公刊とて、それは一つの終わりであると同時に、新たな一つの始まりである。
もしこれが学位請求論文だとしたら、今後、氏にはより一層の学術的研鑽を期待したい。


ユルゲン・ハーバマス(1968/2000)『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社ライブラリー) (2006/2/22)

下で取り上げた、『日本を滅ぼす教育論議』を読んでいて、基本的には同意できるものの、どうもひっかかるところがありました。その懸念を下では「cf ハイエク」という表現で短く表していましたが、これはハイエクの構築者的合理主義(constructivist rationalism)の批判と進化論的合理主義(evolutionary rationalism)の評価を指しているものです(ちなみに上のリンク先であるwikipediaにはこれらの概念の解説はありません)。しかし、その参照を示しても気持ちは晴れず、直前の『一下級将校の見た帝国陸軍』をまとめなおしたりしました。それでも何かしっくりいかなかったところに、出張の列車の中で読んだ本書が、かなり私の中のわだかまりを晴らしてくれましたので、ここで読後感が新しいうちにその簡単で選択的なまとめをしておきます(私はこのような仕事の仕方をして時間をうまく使っているのでしょうか、それとも優先順位をぐちゃぐちゃにしているのでしょうか)。なお本来なら、せめて引用箇所ぐらいは原書でチェックしておくべきでしょうが、現時点ではその作業もしていないことを付記しておきます)。

本書は、Habermas、日本語表記でハーバマス(あるいはハーバーマスとも表記されるので、検索には注意。入門書としては中岡成文『ハーバーマス』(講談社)がお薦め。文献リストはこちらあるいはこちら。)(2004年京都章受賞)の主著ともいえる『コミュニケイション的行為の理論 』に至るまでの彼の思考をコンパクトにまとめた書ともいえるかと思います。

ハーバマスは労働・目的合理的行為と、相互行為・コミュニケーション行為を根本的に区別します。私なりにそれらの概念をまとめなおしますと、次のようになります。
労働、もしくは目的合理的行為:与えられた条件の下で一定の目標を実現する行為。下位区分として、道具を用いた行為、もしくは合理的選択(あるいは両者の結合)に分けられる。道具を用いた行為は、経験的知識知識に基礎をおく技術的な規則にしたがって行われる。現実を有効に統制できるかによってこの当否は測られる。合理的選択は、分析的知識に基礎をおく戦略にしたがって行われる(したがって「戦略的行為」とも呼ばれる)。これは上位規則(価値体系)や普遍的公準から派生する命題を含み、この合理的選択・戦略的行為の評価は、価値と公準のたすけをかりておこなわれる演繹が正確によって測られる。この場合の言語は文脈にはめこまれない言語である。(69ページ)
相互行為、もしくはコミュニケーション行為:記号(主として言語)に媒介された相互行為(「制度的枠組」とも彼はこの本では表現する)。少なくとも二人の行為主体によって理解され承認された(社会的)規範に従う。この意味は日常会話のうちに客観化される。つまり、この行為が力を得るのは、規範が相互に了解されるときであり、規範の拘束力が一般に承認されるときに、これは安定したものになる。(70ページ)
この区分から、近代的社会とは異なる、伝統的社会とは何かが定義されます。

<伝統的社会>という表現は、現実の総体を----社会をも宇宙をも----神話的ないし宗教的ないし形而上学的に解釈する体制正当化の理論にうたがいのさしはまれることがなく、そうした確固たる基礎の上に制度的枠組がすえられていることを示唆している。<伝統的>社会は、目的合理的行為のサブシステムの発展が、体制正当化に有効に働く文化的伝統の枠内ににとどまるかぎりで存続するのだ。(75ページ)

こうなりますと、「近代」とは、「目的合理的行為のサブシステムの拡大を恒久化し、もって、宇宙論的世界解釈による支配の正当化という高度な文化形式を疑問視するにいたる、生産力の発展」(77ページ)の時代とも認識できます。目的合理的行為が、伝統社会を近代社会に変えた、といえば、言いすぎでしょうか。その近代の生産様式はいうまでもなく資本主義的生産様式です。

以前の生産様式にたいする資本主義的生産様式の優位は、つぎの二点を根拠としている。第一に、目的合理的行為のサブシステムを持続的に拡大していく経済機構の整備、第二に、支配のシステムを、サブシステムの発展によって生ずる合理性の要求に適合させるような、経済的正当化の形態の創出。この適合過程をマックス・ウェーバーは<合理化>ととらえるが、そこには<下からの>合理化と<上からの>合理化という二つの傾向を区別することができる。(79ページ)

<下からの>合理化に関して、ハーバマスは次のように述べます。

[資本主義の]そうした展開をとおして、伝統的な関係はしだいに道具的ないし戦略的合理性の条件下におかれることになる。労働と経済的交換の組織、輸送、報道、通信ネットワーク、私法の制度、財務行政を発生源とする国家官僚機構などが力を発揮し、かくて、社会の下部構造が近代化を強制される。それは次第に生活の全領域を、軍隊、学校制度、公衆衛生制度、そして家族すらもとらえ、都市と地方の区別なく生活形態つまり下位文化を強引に都市化し、各個人がいつでも相互行為の連関から目的合理的行為へと心を<きりかえる>ことができるよう訓練するのである。(79-80ページ)

つまり私たちの関心事である英語教育、あるいはそれに関する議論も、目的合理性による<下からの>合理化にさらされているわけです。
一方、<上からの>合理化ですが、近代は、伝統社会の神話・公的宗教・習慣的な儀礼・体制を正当化する形而上学・伝統という支配を打ち壊しましたが、支配の構造は、形を変えて残っています。この支配を維持しているのが、近代の「イデオロギー」であり、そこには技術と科学(Wissenshaft。だから「学問」と訳されるべきかもしれない)が密かに重要な役割を担っているというというのがハーバマスの主張です。この、技術と科学による伝統社会のイデオロギー批判という形を取りつつも、実は自らの支配体制を正当化しようとしているという、隠蔽されたイデオロギーこそが近代のイデオロギーであるわけです。訳者の長谷川宏さんはこのように言います。

熱っぽいが空疎なイデオロギー闘争にかわって、冷たいが効果的な技術的合理性が、社会の、人間生活の、すみずみにまでその支配の手をのばしている。技術的合理性の拡大・深化というかたちをとるこうした脱イデオロギー現象こそ、もっとも現代的なイデオロギー現象なのだ、というのが著者ハーバマスの基本的な視点であり、標題でイデオロギーということばにつけられた括弧は、そうした逆説的な事態を表現するためのものにほかならない。(207-208ページ)

ハーバマス自身は、<上からの>合理化について、つぎのように言っています。

以前の正当化の形式が破損したあとに登場する、あらたな形式は、一方で、伝統的世界解釈の独断性を批判し、解釈の科学的正確を要求するが、他方ではしかし、体制正当化の機能を保持しているので、現実の権力関係が分析され公然と意識されることにたいしては、これを阻害しようとする。こうした経過をたどってはじめて、狭義のイデオロギーが発生する。それは、近代科学の要求とともに登場し、イデオロギー批判によってみずからを正当化することで、伝統的な支配正当化の形式にとってかわるのだ。イデオロギーはイデオロギー批判とおなじ根から発する。その意味では、前ブルジョア的な<イデオロギー>といったものはありえないのである。(81ページ) 

かくして、この上と下からの「合理化」により、私たちは本来コミュニケーションによって語り合い了解し合うべき事柄まで、目的合理性(およびそれへの適応行為)に侵蝕されてしまいます。生活の中の言葉の力が失われ、目的合理的な物言いばかりが横行し、私たちをいつの間にか支配するのです。

こうして、一見すると、社会システムの発展が科学技術の進歩の論理に規定されているかのような情景があらわれてくる。つまり、このシンポから内在法則的に物的強制がうみだされ、機能的要求に応ずる政治は、その強制にしたがわざるをえないように見えるのだ。だが、この幻想がじっさいに固定したものになると、技術や科学の役割を宣伝の材料としてひきあいにだしつつ、なぜ現代社会では実践的な問題にかんする民主的な意思決定過程が効力をうしない、行政がしつらえたいくつかの管理方式のどれをえらぶかを国民投票で決定するというやりかたにとってかわられ<ざるをえない>か、その理由を説明し正当化することができる。この技術至上主義(テクノクラシー)のテーゼは、学問の水準ではさまざまないいかたで展開されている。が、それよりも重要だと思えるのは、それが背景イデオロギーとして、脱政治化された国民大衆の意識にもはいりこみ、支配を正当化する力をふるうことである。このイデオロギーは、コミュニケーション行為の関連体系や、記号に媒介された相互行為の概念にかんする社会の自己了解をさまたげ、それらの体系や概念のかわりに科学的なモデルを提出するうえで、独特の効力を発揮する。このイデオロギーの浸透につれて、人間は、社会的な生活世界にかんして文化的に自己了解することができなくなり、反対に、目的合理的行為と適応行為というカテゴリーのもとに物象化されていくのである。(90-91ページ)

こうして私たちはコミュニケーション(相互行為)を、目的合理的行為と取り違えてしまうのです。コミュニケーションが失われてゆくのです。

だが適応行為の増大は、目的合理的行為の構造のもとで、ことばに媒介された相互行為の領域が消滅していくことを、裏面からしめすものにすぎない。そのことに主観的に照応するのは、人間科学だけでなく、人間自身が、目的合理的行為と相互行為の差異を意識しなくなるという事実である。この差異を隠蔽する行為のうちに、技術至上主義の意識のイデオロギー的な力をよみとることができる。(93-94ページ)。

牽強付会を怖れず、英語教育(研究)の話をします。現在主流の、英語教育の研究では、英語教育を「実践」ではなく、「技術」と見なして、その効力を統計的に検証すること、その効力のメカニズムを「科学」で説明することを、よい論文と考えています。現場教師も英語教育を「技術」と思い込んで、「明日の授業にすぐ役立つノウハウ・テクニック」ばかりをを求める人が後をたちません。「反省的実践家」という概念も、ずいぶん前から紹介されているのにいまだきちんとは理解されていないようです(そのことの傍証としてあげてよいのか確証はありませんが、英語教育における「アクション・リサーチ」はずいぶん技術至上主義的・目的合理的であるように思えます)。しかし英語教育という「実践」には、目的合理性の網の目からはこぼれ落ちてしまうものがあるのです。私はそういった、にわかには語りえないものを、多くの優れた実践者との語り、まさにコミュニケーションの中から感じてきました。私はその、目的合理的にではなく、相互了解的に感得された「意味」を、改めて言語化し、その言語化で、現場教師が感じている「規範」、つまり「英語教育とはこうあるべきではないか」という思いを明らかにして、これを英語教育を改善する新たな力としたいのです。私が例えば田尻悟郎先生の英語教育実践を研究テーマに選んでいるのも、こういった理由が背景になっています(そして私はこの説明の仕方をハーバマスに学んだといえます)。
もちろん、私とて技術・科学、目的合理性を否定はしません。それは私がアレントを引用しながら論を進めた時(アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析(第3稿))にも強調しましたからここでは繰り返しません。ただ、今回、ハーバマスの言葉を借りて、繰り返したいのは、英語教育実践者が持つ豊かな語りとコミュニケーションを、英語教育研究者は、自分が無自覚に持つ(これがイデオロギーの真の怖さです!)狭い言語使用観(脱文脈化された目的合理的行為、あるいは技術・科学としての語り方)によって、根絶やしにしてはならないということです。英語教育研究者は現場への介入で、実践を歪めていませんでしょうか。さらには文部科学省用語を唯一絶対の価値体系と考え、その価値体系との整合性だけを論考の判断基準とするような一種の「合理的選択・戦略的行為」にも注意は必要です。文部科学省用語の必要以上の押し付けで、文部科学省の「代弁者」は、それ以外の可能性を根絶やしにはしていないでしょうか。コミュニケーションに関する専門家であるはずの英語教育研究者が、実は身近なコミュニケーションを破壊する張本人であったというのは笑えない悲劇です。
私が『日本を滅ぼす教育論議』を読んで感じた違和感も、こうまとめることができます。前近代的で、合理性のかけらもなく、恣意と既存の支配・権力体制だけを温存するような「教育論議」には、近代的合理性による分析でメスを入れ、「合理的」な議論にしなければなりません。ここは私も賛成するところです。しかしその場合の「合理性」とは、しばしば「目的合理性」に過ぎません。私たちはそこで与えられている「目的」を自明視することなく、私たちが学校・家庭・社会の生活で感じている意味を相互に了解しつつ作り上げる「コミュニケーション的合理性」(『コミュニケイション的行為の理論』で導入された用語)をも大切にしなければならないのです。
もっとも『日本を滅ぼす教育論議』の著者の岡本さんは、「おわりに」で次のように述べていますから、目的合理性の亡者などでは決してありません。

日本におけるこれまでの教育論議は、本書の中で述べてきたように、ロジカルな筋道を欠くもの、抽象的で具体性を欠くもの、断片的で総合性を欠くものなどが多いが、「誰を日本人と呼ぶのか?」「将来の日本をどのような国にしたいのか?」といった基本的な課題から、改めて議論をしなおすべき時期に来ている。(237ページ)

今回、ハーバマスを読むことで、私自身はずいぶん頭の中が整理されたように思います。今後も英語教育の豊かな実践を読み解くために、理論的な書物の読解を進めてゆこうと思います。

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山本七平(1987)『一下級将校の見た帝国陸軍』(文春文庫) (2006/2/18)
以前から思っていて、最近は確信に変わっているのは、英語教育の改善のためには、個々の教師の力量向上だけでなく、組織プレーが必要だということです。組織プレー、つまりマネジメントについて英語教育関係者はきちんと学ぶ必要があると思います。で、この秋から特に思いを強くし始めたのが、日本におけるマネジメントを理解しようとしたら、帝国陸軍の歴史について学ぶことが有効な一つの方法だということです(決して唯一の方法ではありませんが)。帝国陸軍(そして海軍)こそは、当時の日本のエリートが率いた集団であり、その集団の文化は、今でも日本の様々な点で生きているように思われます。その集団が犯した失敗を理解・分析することは、現代日本の私たちにとって重要なことの一つであると考えます。
以下はこの秋に読んだままになっていた標記の本に関する私自身のための備忘録です。この本の重要な用語だけを私なりにまとめてみました。これらの用語は、著者の山本七平さんが、自分自身の経験の中から、帝国陸軍の特徴を表すために使った言葉です。

事大主義:「大に事(つか)える主義」。権力者の言うことには(少なくとも表面上)無批判に従い、弱い立場の人間には理不尽・無礼な態度さえも取る行動様式。第三者から見るとこの態度豹変は異常とまで感じられるが、事大主義者にとっては、大に仕え、小を蔑むという原則は一貫している。
員数主義:「員数」とは本来は、物品の数を意味するだけであり、「員数検査」とは、一般社会での「棚卸し」と同じことであるが、帝国陸軍では、この員数検査が非常に形骸化し、実質はともかく書類の上で員数が合っていればよいという傾向が強くなった。「数さえ合えばそれでよい」が、員数主義の基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義が員数主義の基本となった。したがって「員数が合わなければ処罰」から、「員数さえ合っていれば不問」といった実質軽視・現実逃避の悪しき形式主義が跋扈した。
私物命令:命令が本来あるべきように、系統的に上から末端まで下がってくるのではなく、ある上官個人が命令権を私有化し、その私有化に基づいて恣意的に下す命令。帝国陸軍では小さなレベルから大きなレベルに至るまで私物命令が横行したと言われている。
気魄誇示:ヒステリカルな強がり演技によって他人に影響を与えること。帝国陸軍では芝居がかった大言壮語とジェスチャ、ひどい場合は罵詈讒謗の連発を行う者がしばしば影響力を持つようになった。敗戦が色濃くなった末期には、本来、冷静な判断をしなければならない師団長なども、このような「気魄誇示屋」に心理的に依存してしまい、自分の専門分野にも「気魄誇示屋」の介入を許すようにして自らの本来の職務から逃避した。

もしある組織で、「上の言うことには一切反論するな」(事大主義)、「とにかく書類を合わせておけばよいのだ」(員数主義)、「必要とあらばうまく言いくるめて下にやらせておけ」(私物命令)、「要は声を大きくして主張すれば意見は通るのだ」(気魄誇示)といった行動様式が見られるのなら、それは、自覚の有無を問わず、帝国陸軍の悪しき伝統を引きずっているのであり、その組織は破滅へと向かっているのかもしれません。小さな組織から大きな組織に至るまで、現代の日本の組織は、敗戦の歴史に学んでいるのでしょうか。

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岡本薫(2006)『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書) (2006/2/17)

著者(元OECD国際公務員)は「はじめに」で次のように述べます。

 過去二十年以上にわたり、政府部内だけでなく各方面において、このように様々な改革論議が長く展開されているにもかかわらず、政治、行政、経済界、学会、ジャーナリズム、市民団体など、日本の各界における教育論議の多くは、抜本的な改革・改善を実現できておらず、いたずらに「すれ違い」や「カラ回り」を続けている。
 本書は、このような状況を踏まえ、政府部内も含めた日本の各界における種々の教育論議が、実効性のある改革の実現にむすびついていないことについて、その背景・原因を分析・整理したものであり、その目的は、建設的な論議の展開を促すことのみにある。(3-4ページ)

かくして著者は(良い意味での)近代的合理主義に基づく思考法により、これまでの「教育論議」を、「『現状』の認識に関する論議の失敗」、「『原因』の究明に関する論議の失敗」、「『目標』の設定に関する論議の失敗」、「『手段』の開発に関する論議の失敗」、「『集団意思形成』に関する論議の失敗」----つまりまとめてしまうなら「マネジメントの失敗」という視点から解説します。
不毛な教育論議の当事者である(はずの)私たち教育関係者は、この短い新書を一読し、私たちが陥りがちな論議のパターンを再認識し、まともな議論が教育に関してもできるように、私たちの言語文化を育てるべきでしょう(もちろんあまりにひどい「教育論議」に関しては黙殺するしかありませんが)。

ただ少しだけ気になったのが、諸外国の教育関係者との議論から見た場合の「日本人どうしの議論の不思議さ」には、筆者が指摘する上記のような、非合理的ものもあるでしょうが、決してそれだけではなく、日本特有の事情によるもの(つまり日本というコンテクストでは「合理的」なもの)もあるでしょうし、ひょっとしたら日本が世界にむしろ誇るべきもの(つまり近代合理主義の考えからは意義が十分に理解されないが、深い伝統の知恵に支えられているもの cf ハイエク)もあるかもしれないということです。

私たち言語教師は、教育関係者という点だけでなく、言語の教育者という点で、二重の意味で、議論を明晰かつ有効に行う義務があります。上記の五つの失敗パターンを取りあえずのチェックポイントとして、自他の「論議」に注意したいと思います。

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