読書

本を読んでの感想は、原則として、柳瀬があくまでも英語教育の立場からどう読んだかという私見の表明になっています[文中の( )の中の数字は引用ページを表わしています]。また人名に関しては、どんな方に対しても「〜さん」づけで表記してます。2005年9月17日掲載分から、呼称に関しては、無原則(言ってみるなら、私の「気分次第」)とすることとしました。これまでの「〜さん」の原則は鶴見俊輔氏の影響でしたが、新しい(無)原則は内田樹氏の影響です(私って、ほんとに影響受けやすいのよね)。

もしこの小文を読んで興味がわいたら、是非ご自分でその本をご購入なさって、実際にお読みになることを強くお勧めします。
なお、柳瀬はこの「読書」のページに限らず、アマゾンへのリンクをたくさんはっていますが、これは単に読者の便益を考えてのことです。柳瀬はアマゾンとのいかなる商業関係(アフィリエイトなど)も結んでおりません。


現代日本を考えるための新書5冊+α(2005/12/23)

この秋には出張が多く、結果的に、携帯に便利で、疲れていても比較的楽に読める新書を何冊か読みました。この秋の私の問題意識の一つは、中国を訪れた後ということもあって、「近現代の日本」でした。ここにその新書5冊(および関連図書)をご紹介します。

保阪正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)
私が中国から帰国して読んだ最初の新書です。この本が面白かったから、「近現代の日本を考えよう」という問題意識が一気に高まりました。この本の目的は次のようなものです。

太平洋戦争を正邪で見るのではなく、この戦争のプロセスにひそんでいるこの国の体質を問い、私たちの社会観、人生観の不透明な部分に切り込んでみようというのが本書を著した理由である。あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。そのことを見つめてみたいと私は思っているのだ。その何かは戦争というプロジェクトだけではなく、戦後社会にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか。
戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。対症療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入り込んでいく。現実を冷静にみないで、願望や期待をすぐに事実に置きかえてしまう。太平洋戦争は今なお私たちにとって"良き反面教師"なのである。保坂(2005: 240-241)

このように著者は太平洋戦争を冷静に捉えようとします。その結果、次のような記述に至ります。

実際に、「真珠湾攻撃」は、その後に上陸作戦を展開しようとか、ハワイを制圧しようとか、次に何をしようという戦略はまったく考えられていなかった。保坂(2005: 102)

私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。それは「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。
当たり前のことであるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その「勝利」が何なのか想定していないのだ。保坂(2005: 105)

私はこれまで、太平洋戦争中に戦争指導者たちが行ってきた「大本営政府連絡会議」を初め、様々な会議の資料をずいぶん当たってきた。しかし、一度として「この戦争は何のために続けているのか」という素朴な疑問に答えた資料、あるいは疑問を発する資料さえ目にしたことがない。
彼らが専ら会議で論じているのは、「アメリカがA地点を攻めてきたから、今度は日本の師団をこちらのB地点に動かし戦わせよう」といった、まるで将棋の駒を動かすようなことばかりであった。それで二言目には、「日本人は皇国の精神に則り・・・」と精神論に逃げ込んでいってしまう。保坂(2005: 121)

さて、日本でも、[昭和]18年9月30日の御前会議で、「絶対国防圏」という新作戦方針が決められている。(中略)「絶対国防圏」などというと聞こえはいいが、実際は、大本営作戦部の参謀たちが地図上を眺め、何の根拠もなく延びきっている日本の制圧地域に線を引いただけのものである。戦後、私が話を聞いた参謀たちも「あれは単なる"作文"にすぎなかった」と述懐していたほどだ。実行力の伴わない願望であった。
しかし、その何の根拠もない空虚なものが、以後、「このラインを絶対に死守すべし」と、大本営のお題目となっていく。硬直化した発想以外の何物でもなかった。保坂(2005: 145-146)

「戦術」はあっても「戦略」はない。これこそ太平洋戦争での日本の致命的な欠陥であった。保坂(2005: 166)

「戦略」という言葉は、現在多用され、英語教育の世界でもよく使われます。その代表例が、文部科学省(2002)「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」の策定について」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/020/sesaku/020702.htmでしょう。私たちが言う、「戦略」とは、果たして「戦略」(strategy)足りえているのか。「兵站」(logistics)のない「戦術」(tactics)に過ぎないのではないか。これが私が12/10の慶應義塾大学公開シンポジウム「英語教育が目指すべき道を求めて-英語教育政策を考える」での発言ポイントの一つにもなりました(注)

(注)この関連で読んだのが、野中 郁次郎、他による『戦略の本質』(日本経済新聞社)でした。それによる戦略論を私なりにまとめますと、次のようになります。
(1)戦略とは「弁証法」:彼我の相互作用を把握し、戦略の重層関係の矛盾を総合する。
(2)戦略は真の「目的」の明確化:戦略目標の達成が、真の政治目的の達成になるのか。
(3)戦略は時間・空間・パワーの「場」の創造:場、あるいはコンテクストを創り上げられるか。
(4)戦略は「人」:戦略を洞察し実行する人間をどうやって選び(変える)か。
(5)戦略は「信頼」:組織内外での信頼関係は保たれているか。
(6)戦略は「言葉(レトリック)」:組織員・国民に訴えかける論理と心情を備えた言葉があるか。
(7)戦略は「本質洞察」:「見えない」意図・動機・慣習・常識・構造・メカニズムを明らかしているか。
(8)戦略は「社会的に」創造:戦略は人と人の相互作用のなかで生成され、正当化される。
(9)戦略は「義(ジャスティス)」:戦略は真・善・美を希求する。
(10)戦略は賢慮:戦略とは政治的判断力である。
野中郁次郎 他(2005:333-356 ただし要約は柳瀬)

権力を持つ(あるいは権力に近い)英語教育関係者が、仲間内だけで集まり、そこの合意だけで「戦略」を作成し、それを金科玉条のように全国の教師そして生徒に押し付けるだけのなら、それは実はとても恐ろしいことなのかもしれません。上の(1)-(10)を達成するためには、多レベルでの合理的なコミュニケーションが必要です。はたして現在の英語教育界では、合理的なコミュニケーションは達成されているのでしょうか。


山本七平『日本はなぜ敗れるのか』 (角川oneテーマ21)
自ら従軍経験もある山本七平によるこの本は衝撃的でした。特にバシー海峡についての記述は、こういった事実を学んでいない私とは、そしてそういった私が決して例外的でない日本の歴史教育とは何なのだろう、と思わされました。その事実を私なりに要約しますと次のようになります。

日本軍は、制海権のないバシー海峡(台湾とフィリピン領パタン諸島(バシー諸島)との間にある海峡)に、兵員を満載したボロ船を送り続けた。船は多くが米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、数分から15秒程度で沈没し、ほとんどは助からなかった。船には船倉1坪(畳二帖)あたり14人(カイコ棚二段で7人ずつ)の日本兵が入れられ、便所も満足なものはなかった。この「押し込み率」はナチ収容所最悪の狂人房と同じである。日本軍は日本の船舶が実質上ゼロになるまで機械的にこの愚行を行い続けた。「やるだけのことはやった、思い残すことはない」というのが軍の首脳の言い訳であろう。
山本七平(2005: 35-70 ただし要約は柳瀬)

日本軍の首脳が、同国民の前線兵隊に対して、これほどに想像力を欠如していたのなら、他国民に対しては、どれだけ想像力を欠いていたのだろうと思うと、恐ろしくなります。生身の人間への想像力を欠いた知性ほど恐ろしいものはないのかもしれません。

森達也・森巣博『ご臨終メディア』(集英社新書)

「歴史教育」といっても、それは学校だけで行われるべきものではないと私が考えます。日頃の報道により、国民一人一人が考えることが、広い意味での「教育」(education)であるとも言えるのではないか、と私は考えます(ちょっと「教育」概念の拡大が過ぎるでしょうか)。
ところが、現代日本のマスメディア、特にテレビと新聞は、非常に権力に対して迎合的というか弱腰になり、きちんとした報道をしていないのではないか、という懸念が各所で表明されています。私は以前、個人情報保護法案の騒ぎの時に、各全国紙を読み比べ、その結果、毎日新聞を購読することにしましたが、その毎日新聞のトーンにしても、私がバランスを取るために併読している日刊ゲンダイ・デイリーメール(http://www.ngendai.com/)の有料版(無料版でもかなりの情報は得られる)のトーンと比べると、かなり違いを感じてしまいます(もちろんこの違いこそが、自ら考える材料の一つなのですが)。
こういった私にとって、この本の著者の次のような発言は、非常に共感できるものでした。また、いつもの癖で、私はあることを考えるときに、英語教育(界)のことも同時に考えてしまっています。

:ただし僕は、ジャーナリズムについて言えば、客観や中立性を標榜する姿勢そのものは否定しません。できるかぎりは客観的に、中立公正であろうとするそのベクトルは必要です。
でも同時に、繰り返しになりますが、そもそもは主観なのだとの自覚は大切なんです。つまり絶対的な中立や公正には絶対に到達できないとの前提を踏まえたうえで、できるかぎりは目指す。だから言い換えれば、後ろめたさや引け目などの、そんなネガティブな心情的要素が、もっと附随すべきジャンルなんです。ところがこの後ろめたさが、メディア全般から急速に消えています。(15-16ページ)

森巣:こういう言い方をすると、私が常々否定している「日本人論」みたいになってしまうのですが、あえて言います。どうやら、多くの日本人たちは素朴な疑問を発せられなくなっているのではなかろうか。すなわち、無知である。これは、1960年代〜70年代の植民地解放闘争の大きな理論的支柱となったフランツ・ファノンの指摘ですね。無知というのは、知識がないことじゃない。そんなことを言えば、人は誰でも皆、ほとんどの局面では無知なのですから。そうじゃなくて、無知とは、疑問を発せられない状態を指す。森さんが言う、「思考停止」の状態ですね。(40ページ)

個人的には、英語教育の学術論文誌でも、「客観性」「中立公正性」をためらいなく標榜しながら、実は素朴な疑問を制度的に封じて、集団的に思考停止状態になっているのではないかという危惧の念を拭い去ることはできません。

関岡英之『拒否できない日本』(文春新書)
現代日本のテレビ・新聞があまり発しない「素朴な疑問」の一つを発したのが、この本です。現代日本は、あまりにもナイーブにアメリカ政府発の言論を信用しすぎていませんでしょうか。以下は、同書の「あとがき」の一部です。

いまの日本はどこかが異常である。自分たちの国をどうするか、自分の頭で自律的に考えようとする意欲を衰えさせる病がどこかで深く潜行している。私が偶然、アメリカ政府の日本政府に対する『年次改革要望書』なるものの存在を知ったとき、それが病巣のひとつだということがすぐにはわからなかった。
(中略)
アメリカがこれまで日本にしてきたことは、一貫してアメリカ自身の国益の追求、すなわちアメリカの選挙民や圧力団体にとっての利益の拡大、ということに尽きる。そのこと自体に文句を言ってみてもはじまらない。自国の納税者の利益を最大化するために知恵を絞るのはその国の政府の当然の責務である。アメリカ政府は当たり前のことをしているに過ぎないのだ。
問題は、アメリカの要求に従ってきた結果どうなったのか、その利害得失を、自国の国益に照らしてきちんと検証するシステムが日本にないことだ。そしてそれ以上に問題なのは、もしわたしたち日本人にはアメリカの要求に従う以外に選択肢が無いならば、なぜそのような構造になっているのか、という点である。わたしたち国民全体が、その構造に向き合わざるを得ない時期がいままさに到来しているのではないか。(223-224ページ)

なお「年次改革要望書」に関しては、Wikipediaが簡単な解説を書いています。このことや前書の主張からしても、日本のテレビや大新聞のマスメディア報道だけに頼ることは、危ないのではないかと思います。日本の「弱小メディア」と呼ばれるメディア(その中には個人ホームページやブログも入るのかもしれません)をもっと大切に(しかし批判的に)読み、自分の頭で考えることが、現在の日本では重要なのではないでしょうか。なお私はこの本の存在を日刊ゲンダイ・デイリーメールで知り、詳しい情報を、個人ブログ「タマサカの気まぐれ時評」(http://blog.drecom.jp/tactac/archive/230)で得たので購入と読書を決意したことを付け加えておきます。

チョムスキー『メディア・コントロール』(集英社新書)
上に、私は「現代日本は、あまりにもナイーブにアメリカ政府発の言論を信用しすぎていませんでしょうか」と書きましたが、英語教師は特に、政府発だけでなく、アメリカ発のマスメディア言論全てを、無前提に受け入れすぎているのかもしれません。昔の私を含めて多くの英語教師には、TIMEやCNNといったアメリカのマスメディア報道は、「自分の頭で考えるための情報提示媒体」ではなく、「英語を学ぶべき教材」として無批判に捉えられていないでしょうか。もちろん英語教師の注目するのは「英語」だけなのかもしれません。しかしその注目のために、報道の内容と傾向はあまりにも無自覚にそのまま受け入れられていませんでしょうか。
本書は、アメリカ発の非マスメディア言論人としてのチョムスキーの政治的発言(マスメディア批判)です。私は彼を神のように礼賛するつもりなど毛頭ありませんが、彼の知識人としての姿勢は、やはりすごいと思います。彼の政治的言説・スタンスを知るには、わかりやすい入門書かと思います。


安藤貞雄『現代英文法講義』(2005/12/20b)

安藤貞雄先生のお名前と業績を知る人なら、安藤先生が945ページにわたる体系的な英文法書を書き上げられたと知っただけで、この本を注文するでしょう。
私もそのような一人で、先日遅まきながらこの本の出版を知り、今日、入手しました。入手したばかりですから、もちろんこの本をきちんとは読んでいませんが、安藤先生がご自身で「ライフワーク」と呼ぶ本には私は全幅の信頼を捧げます。
「はしがき」には、「相互参照を詳しく、特に索引を詳細で使いやすいものにし」、「<米>、<英>などのの地域差、<古風>、<格式体>、<略式体>、<雅語>、反語、戯言語などの英語スタイルの違い、法律、商業などの使用域(register)を明らかにするように努め」、基本的には伝統文法の枠組みにのりながらも「随所にNBを設けて、やや特殊な、または高級な事項に言及するとともに、生成文法や認知言語学で掘り起こされた知見を、一般読者にもわかりやすい形で、大幅に取り入れ」、「必要に応じて、歴史的な説明も行った」などとありますから、安藤先生の半世紀余にわたる英文法研究の集大成を、読者に使いやすく・わかりやすく提示した、非常に良心的な本だといえるでしょう。
およそ全ての英語教師の机上にあるべき本といっても過言ではないかと思います。

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ARCLE編集委員会/田中茂範/アレン玉井光江/根岸雅史/吉田研作 編著 『幼児から成人まで一貫した英語教育のための枠組み―English Curriculum Framework』 (2005/12/20)

英語教育ニュース(http://www.eigokyoikunews.com/)が、大修館書店の許可を得て、『英語教育2006年1月号』に掲載された、ARCLE編集委員会/田中茂範/アレン玉井光江/根岸雅史/吉田研作 編著『幼児から成人まで一貫した英語教育のための枠組み―English Curriculum Framework』についての私の短い書評をネット掲載しましたので、ここにお知らせします。

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川口義一・横溝紳一郎『成長する教師のための日本語教育ガイドブック(上)(下)』(2008/12/16)
売れているそうです。関係者の話では、5月に初版が出て、12月に上下巻共に再版になったそうです。私も遅ればせながら読んで、売れているわけがよくわかりました。
第一に、わかりやすい。本は対話形式で展開され、すらすらと読め、また対話のボケとツッコミが非常に面白く私は何度か声を出して笑ってしまいました(ちなみに私はラーメンとお笑いにはうるさいつもりです)。ただ、この本のわかりやすさは、単に読み進めやすいというだけでなく、いわば「立体的に」よく理解できるというものです。通説をただ紹介することなどは決してせず、話題が、対話の話し言葉の中で噛み砕かれ、対話者のツッコミで、違う角度からも理解が進みと、この本は面白く読みながら深い理解ができるようになっています。
第二に、具体的。日本語教育の具体的なテクニックなどが図や写真なども多く使いながら示されます。英語教育の人間としてもなるほどと思うことがたくさんありました。
第三に、体系的。対話は実は膨大な量の文献読解に支えられていています。これは巻末の参考文献情報を見てもよくわかります。
総じて言えば、独学でも読み進めることができて、具体的・体系的に日本語教師として成長するコツがわかる本と言えるのでしょうか。
実は著者の一人の横溝さんは私の友人でもあり、「田尻科研」の共同研究者でもあります。私が横溝さんにひかれていったのは、この現実に即した柔らかさを持ちながら、それでいて実はものすごく勤勉な態度にあります。この本はその横溝さんの良さが、共著者の川口先生の(ボケ・ツッコミによって柔らかくマスクされた)頭脳の明晰さによって、さらに際立った本と言えるかと思います。友人・共同研究者の推薦だから、信頼がおけるのかおけないのかよくわかりませんが、私はこの本はとても好きです。
英語教育にもこんな本がほしい。

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陰山英男『学力の新しいルール』(文藝春秋、1143円) (2005/10/6)

まったくの偶然から陰山英男先生が校長として赴任してきた広島県尾道市立土堂小学校に助言者として何度もお邪魔させていただいたことは、私にとって大きな勉強となりました。私が接した限りでは陰山先生は、(1)思い込みから自由で、政治的イデオロギーや時代の通説(強迫観念)から発言することがない。(2)実践とデータを大切にし、「子どもの事実」から謙虚に学ぼうとする姿勢が一貫している。(3)実践は多面的に検討し、データも複数の出所から入手し、一つの実験結果や数字などだけに依拠することを避ける。(4)実践とデータに基づきながら思考と分析によって次の試行をデザインする。(5)新しい実践は、きちんと振り返り、また新たな行動へとつなげてゆく。(6)結果は広く教育界と社会に広報し、その広報から得られる信頼関係から新しい企画を様々な人々とコーディネイトしてゆく、といった方でした。新しいタイプの教育実践者と申しましょうか、私は色々とお話させていただいたり、その言動を横で見ていたりして本当に勉強になりました。日本の教育界にとっての最重要人物の一人といってまず間違いない方に接することができて私は幸運でした。
本日(2005年10月6日)も同校の教育研究発表大会で、終日勉強させていただきました。その冊子の「ごあいさつ」で陰山先生は、土堂実践の第一の鍵を「早寝早起き朝御飯を中核とする子どもの元気作り」、第二の鍵を「読み書き計算の徹底した反復学習による脳力作り」、第三の鍵を「IT機器を活用した新しい授業作り」と説明しています。
英語科の授業も、それらの「鍵」によって開けられた世界を示すものでした。第一の鍵で子どもの高い集中力が可能になり、それが第二の鍵の英語版である「モジュール授業」(後述)などにつながり、それらの授業が第三の鍵によって非常にテンポよく進められてゆきます。
六年生(担当:藤井弘之先生)の授業での「ごんぎつね」の音読は、電子制御のインタラクティブ・ホワイトボードによって「スピード・テンポ・タイミング」よく進められてゆきます(この音読実践にはたいていの中学教師は驚くことと思います)。
三年生(担当:遠崎聖恵先生、Jacqueline Hoffart先生)が、簡単な四則計算(10ます計算)を英語で行ったり、パソコンで投影された絵本の絵を見ながら"Brown bear, brown bear, what do you see?"などと生徒が英語を読み上げたりするのは、陰山・土堂実践を何度も見ている私も驚いてしまいました。
一年生(担当:森下理奈先生、宮本水紀先生)ではSSTメソッド(まねび学園 664-0858兵庫県伊丹市西台4-6-32-201 電話072-773-0858 メールmanebi@poem.ocn.ne.jp)による「英語カルタ」実践にも驚かされました。
陰山実践は徹底的な「基礎」の反復で、子どもに英語を使うための身体をつくり上げているとまとめられるかもしれません。簡単な発話が英語でできるようになるためにも、「耳」(英語音声の明確なイメージ)、「口」(リズム・イントネーションの体得)、「自信」(英語に臆しない態度)、「表情」(元気で自然な身体)、ひいては「文法」(語順の体得)、目(瞬時の語認知)、手(スペリングの体得)などといった要素の集積が必要です。こういった「基礎」を陰山実践は身体化するまで徹底的にやっています。
この徹底は「モジュール授業」という15分x3つの45分授業でなされます。通常その3つは、国語、算数、任意科目でなされますが、その15分間で非常に集中的な訓練がなされるわけです。
このように集中的な訓練を課すと、子どもたちにはかなりの英語力がつきます。今後は、そのモジュール授業の体系化が必要でしょう。しかしそれにはまだ時間がかかるはず。なぜならまだ土堂小学校は子どもたちの限界に到達していないようにみえるからです。子どもの可能性は本当にすごいと思わされます。
ということは、子どもは大人の意図次第で、どのようにも変わりうるとすらいえるのかもしれません。そうだとすると大人の教育に関する見識が非常に重要になってしまいます。「英語ペラペラ=留学大好き=英語以外には興味なし」のような人材を社会に送り出すために英語教育があるわけではないでしょう。ここまで小学校でできるなら、中学校、高等学校、大学の英語教育をどうデザインしてゆくのか。これを社会の様々な人たちと語り合いながら考え、具体的な形にすることが現在の英語教育関係者に求められているのでしょう。
陰山校長も前述冊子の「ごあいさつ」でこう言っています。

教育はいつの時代も次の時代をどうするかというデザインが問われています。そうした未来を見据えた哲学を持った実践が必要とされているのでしょう。

自分には何ができるのだろう、と考えさせられた研究授業公開でした。

午後の陰山先生の報告、および陰山先生の「師匠」である岸本裕史先生の講演も非常に共感できるものでした。
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というわけで陰山先生が報告の中でも短く言及された同書を尾道駅ビルの書店で購入し、帰りの電車で一気に読み通しました。
現代の日本がかかえる教育問題を独自の説得力ある視点から、具体的に語った本となっています。現代日本の教育問題に関して見通しを得るために、教師の皆さんにも学生の皆さんにもお薦めしたい本となっています。
「1981年問題」(テレビ、ファミコンの普及とそれに伴う睡眠時間減少)と「1993年問題」(知力・体力のおとろえを「詰め込み主義」のせいにして、「新・学力観」を徹底させ、公開授業案から「指導」という言葉まで削除することまでしたこと)を分析の柱とした第一章と第二章、および現代の教師バッシング、「教育=サービス業」という新たな決めつけ、OECD国際調査で注目すべきは、まだ中の上にある日本の学力順位ではなく、世界最低レベルである日本の家庭教育の水準、教育にかける政府の教育費であることなどを指摘し、「教育や家族というものが、社会の中できちんと位置づけられ、ひとりひとりのために社会があるのであって、日本のように個人がばらばらという個人主義とは異なっている」フィンランドの国情に注目をする第四章などは説得力のある議論が展開されているように思えます。

日本の教育をどう考えてゆくのか。これは難問ですが、日本社会にとっての最重要課題の一つです。私もおよばずながら英語教育という視点から考え、行動してゆこうと思います。

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甲野善紀・田中聡『身体から革命を起こす』(新潮社、1400円) (2005/9/17)

私のこの夏の読書生活は非常に充実したものでした。内田樹氏の著作の素晴らしさを知り、一気にほとんどの作品を読めたからです。内田氏についてはまた後日改めて書きたいと思います(自分の論文の中にも咀嚼してゆこうと思っています)。
内田氏の著作の影響は、私にとって深く多面的なものでしたが、その中の一つが、養老孟司氏(ただし批判的見解についてはここを参照)、佐藤学氏、そして甲野善紀氏の著作への興味が再燃したことでした。
甲野氏に関しては、私は『武術を語る―身体を通しての「学び」の原点』を、比較的早い時期にハードカバーで読んで以来(なんせ空手は無茶苦茶下手なくせに、武術・武道系の本はかなり読んでいましたから)、非常に影響を受け、ほとんどの著作は購入して読んでおりましたが、最近はもっぱら氏のホームページを毎日チェックしているだけとなっておりました。そのホームページでこの本のことも知っていたのですが、読まずにいたままになっておりました。で、内田氏の著作を通じて、甲野氏の言動の重要性を再認識し、この本を読むにいたったわけです。
タイトルの『身体から革命を起こす』は、決して誇張ではないと思います。その「革命」とは、言ってみるなら、缶詰が発明されてから40年以上もたってからしか発明されなかった缶切りを生み出した発想の転換(25ページ)、あるいは移動手段としてコロしか知らない社会が、車輪ひいてはキャスターによる高速で変幻自在なを初めて見たときに感じるような驚き(26-29ページ)に喩えられるのではないかと思います。
甲野氏は、現在私たちが持っている身体観は非常に単純なものであり、なおかつその身体観(人間観)を社会に延長させて社会を営もうとしているのではないかと指摘します。といっても甲野氏はこのような考えを、頭だけから生み出したのではなく、武術ひいては身体操法の追求から自然と引き出したわけです。
甲野氏は、J1のあるチームに指導を依頼され、そこでワールドカップ出場選手も含めた全ての選手に甲野氏を止められるかどうかを実演したところ、どの選手も甲野氏を止めることができず、甲野氏は走り抜けてしまいました。「上達を目指していろいろ研究しているはずのプロのサッカー界もやはり科学的トレーニングに目かくしをされているなあと感じましたね」というのは甲野氏の述懐です(33ページ)。甲野氏はその動きを次のように解説します。

そのとき、私は力を抜くでもなく、入れるでもない、ごく微妙な状態で、釣り合いをとっています。その微妙な状態というのが、科学には受け入れられないものなんですね。
ちょうど、城の石垣を石工が組むことが、現在の法律では許可にならないのと同じです。
城の石垣は、微妙に力を分散するようにバランスがとれているので崩れません。阪神大震災のときも、現代工法の石垣は崩れましたが、古い石垣は崩れませんでした。
しかし、建設省には、その「微妙」とうことが何だか分からない。それで、コンクリートで固めないと許可にならないわけです。
身体は、石垣どころではなく、あらゆる部分で微妙多様な動きが複雑にからみあっていて、おかれている状況によっても違ってきます。その要素は無限にあって、とても説明しきれるものではありませんよ。それを、おそろしく単純化した理論で説明して、それに基づいてトレーニングするなんて、絶対におかしいでしょう。ちゃんと現実を観察していれば、どうしても曖昧になるんだから、科学になどしなければいいんです。スポーツの上達のためには、ウェイト・トレーニングをやって筋肉を鍛えてという非常につまらない状況にしてしまったのは、科学の罪ですよ。(35ページ)

筑波大学大学院生(博士課程後期)の高橋桂三さんは、このような甲野氏の身体操法に、主に野球の観点から研究を進めているそうですが、「高橋氏の取り組みは、研究者としては、周囲から評価どころか、理解もされず、研究とはみなされていないらしい」そうです(99ページ)。甲野氏の言動は、それほどに「革命的」といえるのかもしれません。
しかし研究者には甲野氏に注目する人もいます。たとえば、かつてホンダのアシモ(人間型二足歩行ロボット)開発に関わり、いま金沢工業大学で客員教授を務められている田上勝俊氏です。田上氏は、甲野氏の発見と、現状の科学・学界・社会の関係について次のように語っています。

生物というのは複雑系なんですね。その複雑系っていうのも行き詰ってしまった。結局わからない。わからないなりに、それなりに進んでますよ。でも、それはこれまでの工学でわかっている範囲での自己組織化でしかない。
それくらいみんなが目を向けて取り組んできたけど、できてない。それくらい大変なテーマなんです。
ただ、甲野先生が非常に貴重なのは、語ってくれることです。ふつうの人間が退化してできなくなったことが、あの方はできている。生物はそれを語ってくれないけど、先生は語ってくれる。そうすると、今までわからなかったことがわかるかもしれない。これが最後のチャンスなんじゃないかな。甲野先生みたいな人がいてくれて。
でも時間がかかると思いますよ。拙速には要求しないほうがいい。ニュートン以来の力学の歴史が何百年とかかってできてるわけだから、同じくらい時間をかけてできていくことじゃないですか。
でも、今の若い人は、そんな研究はしないですよ。
手間がかかりすぎるし、科学的でないし、今の人たちはみんな頭がいいですからね。そんな仕事に一生をかけて、出来なかったらどうするっていうふうに考えますから。
わかってることしかやらないんです。
学校の教育がそうですよね。答えのわかってることしか、求めなかったでしょう。
人生は、つねに今までにないことに直面していくことで、答えのないものを選んで進んでいかないといけないわけじゃないですか。なのに、いつも答えのわかってる問題を与えられてきた。
それですぐに「それはどうやればいいんですか」って聞いてくるんです。答えのない問題に取り組めないんです。
仕事を頼んでも、「やったことがないから、できません。どうやったらいいんですか」って言うんですよ。失敗しないようにするんですから、出来ることしかやらないのと同じじゃないですか。
日本は、これから新しいものを作っていかなければいけない立場にきてるのに、これではとても闘えませんよ。(101-102ページ)

私は英語教育の人間です。何度も言いますが、私は自然科学は人類最高の知のあり方の一つだと思っています(ですから、私は薬も飲みますし、飛行機にも乗ります)。ですが自然科学が唯一の知のあり方とは思いません。英語教育という現象を研究するのに、自然科学というのは、限定的で厳密すぎる方法だと思っています。ほんの表層的なところだけ「科学的」に見せかけただけの中身のない「英語教育学」には辟易しています(もちろん、少数の良質の研究には敬意を払っていますが)。
ですが、一方で、自分が思うように論文を書けない苦しさも毎日感じています(このホームページにしても、その苦しさからの逃避なのかもしれません)。しかし、私は「英語教育学」を仕事にしておりますので、定年まではきっちりとこの研究の苦しさを引き受けなければならないと思っています(日々の現実はその決意とは程遠いものですが)。英語授業にしても、英語使用にしても、コミュニケーションとは複数の身体の出会いであり、教師・生徒・対話者の身体がどのように開かれているか、ほぐれているか、感応しあっているか、などなどが、実は根源的に重要であることは、私も田尻悟郎先生などの優れた先生と接することによって少しずつ気づかされております。ただそれを論文という媒体(あるいは活字媒体一般)では、なかなかに表現できない。表現したとしてもなかなかに説得力をもちえない。説得力をもったとしても、「論文ではない」と論文査読者からは一顧だにされない。とはいえ、気づいてしまったことを無視することはできない。他の教育研究者と連動しながら、自然科学とは異なった形での説得力・客観性を築かなければならない。これが私が感じている研究者(の端くれ)としての苦しみです。
ただ、その苦しみは私個人のものです。私が個人で引き受ければよいだけのものです。でも、私には研究以外にも教育という大切な仕事があります。特に次世代の研究者を育てる大学院での教育は、上に述べた研究のジレンマと無縁ではありえません。私は、ある意味、いつも二つの間に引き裂かれています。うわべだけの論文は書かせたくはありません。しかし私個人が引き受けることを決意した苦しみを、彼/彼女らに一方的にも与えることもしたくありません。

そういった意味で、編集者の田中聡氏によって描写されている次の甲野氏の姿勢には、はっとされました。ただ慌てて付け加えますと、甲野氏(いや甲野先生と呼ぶべきでしょう)と私のレベルの差は月とスッポン、いやそれ以上のものです。私は次の文章を引用することで、私の教育者としての無策・無能を正当化するつもりはありません。私は、学生さんには出来うる限りの情報は適切な形で与えるつもりです。私のように自分自身の研究レベルが低い者が、甲野先生のような「教えない」指導をするのは、100年早い、といえるでしょう。ただ研究者を育てる/研究者が育つ、あるいは教師を育てる/教師が育つ、という点でとても啓発的だと感じたので引用する次第です。

甲野自身の指導法といえば、「教えない」ということが特徴だろう。
質問されても答えない、という意味ではない。
そういう意味ではむしろ、きわめて親切といってもいいくらいで、初めて来た人からいささかトンチンカンな質問を受けても、丁寧に説明している姿をよく見かける。
人を厳しく叱責する姿は、ほとんど見たことがない。
稽古の場では、一度見たことがあるだけである。
初めて来た若者三人組がチューインガムを噛みながらヘラヘラと無礼な態度でいたのを、一喝して追い返したのだが、わざわざ技を一回ずつ体験させてから(いつもより、ちょっときつめな感じだったけれど)、その態度がいかに無礼で不快なものであるかを説いて、参加費は返すから出て行けと叱ったのだった。この場合の叱責としては、かなり親切な態度といっていいだろう。
甲野は、師として君臨するような態度を好まず、稽古研究会を主宰していたときの会員たちのことも、弟子というより、ともに研究する仲間とみなしていた。自分は何歩か先を歩いている先輩として、技をやってみせたり、現在の研究テーマについて話したりする。稽古会は、各人がそれぞれ自分の課題をもちながら共同研究する場であると考え、この稽古をしなさいと指示するようなことはしない。だから、「教える」ということもしないのである。
自分はこうやっているよ、ということを見せ、体験させる。自分はこう考えているよ、ということを話す。それを参考にしてやってみようと思うなら、どうぞ。
これが、甲野の指導のあり方である。
場を支配するようなスタイルを好まない甲野にとっては、それだけに、場の空気は重要だった。
2003年秋に稽古研究会を解散したのは、甲野の社会的知名度が上がり、そのような共同研究の場としての空気に濁りが感じられてきたことも理由の一つだったようだ。
今では定常的な稽古会という形をとらずに、個人それぞれとの稽古の時間をもつことを中心としており、それ以外では、甲野の技に関心をもった人が体験できる機会としての公開稽古会や、諸団体から指導に招かれての稽古会がある。
だが、どのような場であっても、甲野の態度もやることも、ほとんど変わらない。
甲野がやってみせる技や説明は、つねにその時点での経過にすぎない。その場で思いついた技を見せることもよくある。それは後にも残る技とはかぎらず、その場かぎりで忘れられてしまうこともある。
こう考えて、こうやったら、こんな効果があったよ。これまでより効くよ。でも、明日には反対のことを言っているかもしれないけれどね。というものである。
甲野は、「正しいこと」を教えないのだ。
ただ、自分が技を追求している姿を見せているだけなのである。(52-53ページ)

あとがきによると、この本は、編集者の田中聡氏が、甲野先生の話した事や下書きをまとめ、それをさらに別の編集者の足立真穂氏が読んで、甲野先生と異分野(スポーツ、音楽、舞踊、介護、精神分析など)との出会いをさらに書いたほうがよいのではないかと方向転換させてできたものだそうです。素晴らしい本です。また写真もいい。私の思い過ごしかもしれませんが、甲野先生の自然体(肩や背中に張りがない、顔の表情に気負いがない)が見事に映し出されています。このような本が、1400円という低価格で売り出され、各方面で評価を受けているというところに私は日本文化の希望を見ます。


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英語教育図書----今年の収穫・厳選12冊 (2005/9/14)

現在発売中の『英語教育2005年10月増刊号』に、「英語教育図書----今年の収穫・厳選12冊」という記事を書かせていただきました。400字詰め原稿用紙に換算するなら36枚程度のやや長めの記事です。今年も、読んで面白い、考えるきっかけになる書評を目指したつもりです。
取り上げた本は、和泉絵美・内元清貴・井佐原均編著『日本人1200人の英語スピーキングコーパス』(アルク、2300円)、白畑知彦編著、若林茂則・須田孝治著『英語習得の「常識」「非常識」』(大修館書店、1700円)、八島智子『外国語コミュニケーションの情意と動機』(関西大学出版部、2100円)、金谷憲・高知県高校授業研究プロジェクトチーム『和訳先渡し授業の試み』(三省堂、1800円)、大津由紀雄編著『小学校での英語教育は必要か』・『小学校での英語教育は必要ない!』(慶応義塾大学出版会、1800円)、竹蓋幸生・水光雅則編『これからの大学英語教育』(岩波書店、2800円)、佐藤良明『これが東大の授業ですか。』(研究社、1700円)、吉島茂・大橋理枝(他)訳・編『外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』(朝日出版社、2800円)、中村敬『なぜ「英語」が問題なのか』(三元社、2600円)、菅正隆・中嶋洋一・田尻悟郎『英語教育 ゆかいな仲間たちからの贈り物』(日本文教出版、1600円)、原田昌明『「ことばを遊ぶ」英語指導』(研究社、2000円)、酒井邦秀・神田みなみ編著『教室で読む英語100万語』(大修館書店、1500円)などです。なお少々乱暴ですが、新書はすべて番外としましたので山田雄一郎『英語教育はなぜ間違うのか』(ちくま新書、720円)、『日本の英語教育』(岩波新書、740円)や、市川力『「教えない」英語教育』(中公新書ラクレ、740円)、あるいは薬師院仁志『英語を学べばバカになる』(光文社新書、720円)などは言及するだけで、解説などは一切省略しました。
同誌は、「授業に元気を!『手作り』教材大集合」の特集が、のべ24名の現場教師による、50ページ以上の非常に充実したものになっています。英語教師ならぜひ手元に置いて、授業のアイデア源としたいものになっていると私は思います(いくつかの記事は私にとっても永久保存版です)。私の書評はさておき、この特集だけでも同誌を買う価値はあると思います。
同誌をぜひお買い上げの上、お読みください。


多和田葉子『エクソフォニー 母語の外に出る旅』(岩波書店、2000円)(2005/9/7)
日本語教育学の横溝紳一郎さんのお誘いで、財団法人交流協会主催の日本語教育研修会の講師として8月27日から9月4日まで台湾に滞在し、台北、台中、高雄の三都市で計5日間のワークショップを横溝さんと二人で行いました。横溝さん、交流協会の皆様、ありがとうございました。
書きたいことはいくつもあります。まずは交流協会、特に日本語専門家の方々にとてもお世話になったこと(本当にありがとうございました)。さまざまの機会での台湾人と日本人の日本語教師とのお話がとても楽しかったこと。応用言語学と哲学の枠組みを使って、日本で外国語としての英語を教える現場教師の実践を解明する私のワークショップは、日本語教師の方にも興味を持って聞いていただけたこと。台湾人の日本語教師と私は、共に自分にとっての外国語(日本語・英語)を学び、それがいつまでも完全には自分のものにならない不全感の中で、さらに必ずしも外国語学習に意義を見出していない学習者に、それを教えなければならない経験の共有で共感できたこと。普段と違って、自分の母語の標準語スタイルで話せば、それだけで非母語話者聴衆の関心を引くことができるワークショップは私にとって驚くほどに楽であったこと(なんだ英語母語話者の研究者・実践者は、世界中でこんなことをやっていたのね、という納得)。外国語教育において、その外国語を母(国)語とする者は一種の特権を持っていること(そして制度的外国語教育の対象となるだけの言語を持っているのは世界の国々でも一部であること)。英語支配・日本語支配の批判は日本人英語教師にとっても台湾人日本語教師にとっても(いや英語母語話者英語教師にとっても日本人日本語教師にとっても)喉に刺さった小骨であること。それでも外国語を教えるということは、その言語文化にとって本当に大切なことであるし、その言語文化を持つ政府は、外国語教師と外国語学習者をできるだけに援助すること外交政策としてとても重要なこと(その点で非母語話者外国語教師の存在はまさに国際的であること)。あるいは少し慎重に語るべきことをやや軽率に語るなら、民族的外見と漢字文化を共有する台湾への日本人の滞在は、欧米への滞在とは全く感覚が異なること。「異国」であるのに東京駅スタイルの洋風建築の高雄駅に降り立ったって、現地の「邦人」に出迎えを受けた時に「植民地」という言葉がこれまでにないほどにリアルに感じられたことなどなどです。
でもこれらのことは(最後の「植民地」感覚を除いて)出国前からなんとなく台湾で感じるだろうなという予感はしていました。だから滞在中も、帰国後も、あえてパソコンに向かってホームページ用の文章にあえてしようという気にはあまりなれませんでした。
というところに帰国後台風が来て、早めに帰宅して読み始めた、ドイツに滞在してドイツ語で小説を書き続ける日本人作家の、世界各地で書き綴られたこのエッセイ集を面白く、一気に、といっても決して速読ではなく、独特の手ごたえをもつ彼女の日本語を自分なりに咀嚼しながら読み終えたら、なんだか私が今本当に書きたいと感じていたことがわかったような気がしました。
それは複言語空間ということです。
私たち日本人英語教師は、存外に狭い言語空間に住んでいます。英語と日本語しかない。しかもその英語は、毒を抜かれたような標準的なもので、おそらく全ての部分が説明されることを期待されているように範例的なことばです。(報道や学術用の英語というのもまた非常に標準化されたものです)。一方の日本語も、その定型的な英語の直訳ならば、凡庸というより生気を抜かれたような表現となってしまっています。言葉のうごめき、私たちが捉えきれない言葉の奥深さが、すべて安全に除去された極めて特殊な言語空間に、多くの日本人英語教師が自足しているのではないでしょうか。
私はそんな人工的言語空間が嫌いで、せめて日本語では学生と俗語・新語・擬態語・方言などにまみれたバカ話をおこない、文学を読み、ネットのエッセイに耽溺し、お笑い番組や映画を見て日本語の潜在力を感じるようにしています。英語はそれに比べると極めて限定的なことしかできず、せいぜいテレビドラマや映画を見るぐらいです(英語で個人的読書を純粋に楽しむ習慣を持たない私は専門家としては失格かと時に深刻に悩みますが、それについてはまた別の機会にでも)。
台湾滞在は、そんな私に、新たな言葉との出会いを与えてくれました。言うまでもなく中国語です。地元の人々に話され、テレビでも話されていて、何か意味されていることはわかるのだけれど、自分には話者の身体の表情と声のリズムやイントネーションあるいは語気しかわからない「ことば」は、私に新鮮な感覚を与えてくれました。
加えて(現地の日本語専門家の通訳のおかげできわめて限られた機会しかありませんでしたが)現地の人とのコミュニケーション。たがいに近づき、顔と全身の表情で、私はあなたとコミュニケーションをしたいというメッセージを確認しあい、私がおずおずと「ニーハオ」と言う。その外国人訛りから判断し、相手が英語で、あるいは日本語で答えてくる。私はその英語あるいは日本語の流暢さ(あるいは拙さ)から、英語や日本語のスピードや語り方を決める。相手も英語か日本語で、あるいは中国語の中に英語か日本語のカタコトをちりばめてとにかく何かを伝えようとしてくる。むろん双方で交わされる多くの身振り。やがて寄り添ってくる他の台湾人。台湾人同士で交わされる活気にあふれた中国語の応酬。それをわからないのに聞き入る私。
私の限られた講演会場外での通訳抜きのコミュニケーション体験では、「ここは中国語文化圏だから中国語を話せ」あるいは「日本人客が多い場所なのだから少しは日本語を知っておけ」もしくは「国際語である英語はきちんと話せ」といった一面的な態度からはまったく自由にコミュニケーションを交わすことをできました。コミュニケーションの参加者がそれぞれの言語的・非言語的手段を総動員して、なんとかコミュニケーションをはかろうとする。その結果、どの言語も専一的な特権を担うことなく複数の言語が使われます。そして言語とは時には理解できるものであり、時には理解を超えたものなのです。それでも私たちは相手を尊重し、理解しようとし、コミュニケーションを成立させようとします。こういったのがCommon European Frameworkがいう複言語主義(plurilingualism)の言語空間なのかもしれません。私たちは外国語を、いや母語すらも、どんな言語でも、全てを知る必要はないのです。要はその場でのその人との出会いを大切にして、できうる限りのことをすること、その習慣がついていることが、大切なことなのではないでしょうか。
世界にある様々な言語の響き。それらが響きあう空間。その中でできるだけ理解をしようという志向と、反面、すべてを理解できることはないという落ち着きでつながれた人類。
私も多和田さんがこの本で書いたような言語の経験を、今回少しだけすることができたのかもしれません。またも偶然の読書が私の人生を少しは意味深いものにしてくれました。
私の旅との相乗効果はさておき、この本は、英語教育関係者が、自らの言語空間感を問い直す本としては非常にいい書であると私は思います。すぐに絶版になる岩波書店の本です。興味あるならぜひご購入を。

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ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店、1500円) (2005/8/3) 

 このホームページのタイトルは、言うまでもなく、私のテーマである「英語教育」と、ウィトゲンシュタインの後期の著作の「哲学的探究」のタイトルをそのまま結びつけたベタなものです(笑)。
 しかし大学院の修士論文で、第二言語学習者を対象とした心理言語学(というか、psychology of reading)もどきの「実験研究」をやって、それが「英語教育学」の進むべき道だなんて思い込んでいた院生が、やがてウィトゲンシュタインの『哲学的探究』を読むにいたって、自分が当然の前提としてきた「科学的アプローチ」を英語教育といった対象に使うことに根本的な疑念を抱きはじめてからは、「英語教育の哲学的探究」という自己規定はそれなりに納得しております。
 ただこのアプローチで10年以上やっておりますが、いまだ学会では圧倒的なマイノリティです(涙)。ネットの活動を通じて、少しは認知度は上がってきたのかもしれませんが、英語教育の学会では、いまだに「科学的アプローチ」が規範であるようです(少なくとも論文執筆要領などみるとそのように思えます)。
 ですが、これでいいのでしょうか。
 学会発表者自身や学会紀要査読者はともかくとして、現場の英語教師は学会発表や学会誌論文に満足しているのでしょうか。「科学的な英語教育学論文」は、学会関係者の自己満足になっていないでしょうか----などということを、自己満足メディアであるインターネットで偉そうに語る私も、かなりイタイのですが---- ヾ(* ̄∀ ̄)ノ))
 科学的アプローチから哲学的アプローチに転向して以来の私のストラテジーは、「あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ」で、科学的アプローチによる「発見」は「苦いぞ」(面白くないぞ)と批判する一方で、哲学的アプローチによる「解明」は「甘いぞ」(面白いぞ)と宣伝するという二本立てのものでした。といっても、前者の批判は、敵を多くするばかりですから、ここ最近はそれは控えて、もっぱらこのホームページを通じて、現場の実践を解明することで、ここでいう「哲学的アプローチ」の面白さを示してきたつもりです。

 本書は精神分析を「科学」として成立させようと躍起になっていたフロイトを批判の対象とすることによって、後期ウィトゲンシュタインの哲学的アプローチをわかりやすく示したものです。薄くて読みやすい本です。以下は、「英語教育研究はどうあるべきか」という話題に(強引に)絡めながら、本書から、いくつかの箇所を引用してゆこうと思います。本書をダシにした、柳瀬の自説の展開と思っていただいたほうがよいかと思います。

フロイトと後期ウィトゲンシュタインは「心」の問題を扱う姿勢において、対照的な違いを示したと考えられます。学習者や教師の「心」を扱う英語教育研究は、フロイト的アプローチを取っているのでしょうか、ウィトゲンシュタイン的アプローチを取っているのでしょうか。フロイト的アプローチに関しては次のようにまとめられます。

理論を形成するにあたってフロイトは、科学主義のイデオロギーを表明するいくつかの想定をした。科学主義とは、科学の外側に立ち、科学をひとつの総体と見なすことを主張する立場で、科学だけが説明と真実の唯一正当な形式であることを前提としている。その主な特徴は、還元主義と決定論である。(2004: 57)

英語教育研究でも、論考はできるだけ「実証的」であること、つまり、目に見えて(できれば)数量化することができる「データ」に基づいたものであることが求められています。さらに、学習や教授のメカニズムの因果関係を求めること、つまり、教育に関してできるだけ確実な予測が立てられることを理想としているようにも思えます。この意味で英語教育研究の主流は、還元主義と決定論を前提とする科学主義の影響を強く受けていると言っていいと思います。
 問題は、ここで科学主義は当然のことであり、科学的アプローチ以外には代替手段(alternative)がないと思われていることです。しかし代替手段はあります。それがウィトゲンシュタインのような哲学的アプローチです。

一方ウィトゲンシュタインは、理論の構築や原因の発見ではなく、不透明さを解消することを望んだ。われわれは、蝿取り壺の中に閉じ込められて、わけもなくブンブン飛び回る蝿のようなものだ。われわれは、どのようにして中へ入ってしまったのかに注目しなければならない。理論化への衝動は、われわれを壺の中に拘留してしまう。理解や情動の地平をわれわれは再び発見しなければならない。それは、言語の使い方のうちに潜在しているのだが、われわれが混乱し、その症状を呈する頃には忘れられてしまっている。しかしながら、適切な地平へと向かうことができ、道理の通ったことを話し始めるときには混乱は去り、壺は消える。(2004: 19-20)

「蝿取り壺」とは、もちろん蝿を捕獲するための一種の罠のことですが(実物は私は見たことがありません)、これは私たちが閉じ込められてしまう知的思い込みのメタファーです。多くの英語教育研究者は、ひたすらに実証方法を洗練させること、できるだけ大量のデータを得ること、そして統計解析手段を高度化することに追い立てられているようですが、彼/彼女らはどうしてそういった壺の中に入ってしまったのでしょう。入らなくてはならないのでしょうか。出口はないのでしょうか。私たちは壺の外に出てこそ、「道理の通ったこと」を話すことができるのではないでしょうか。
 英語教育研究の「科学的論文」の私にとっての特徴は、それがとても退屈なことです。方法論自体は厳密なのかもしれませんが、議論に中身がなく、英語教育の現実とほとんど関わりがないように思えます。「英語教育への示唆」というセクションが省略されることなく存在していても、そこでは陳腐で凡庸な言葉が並べられているだけです。表面的には正しいのかもしれませんが、ちっとも「意味」が感じられません。
 ウィトゲンシュタインはそういった言語使用は正されなければならないと考えます。

治療を要する意味の破綻とは、中身が空虚であること、つまり、陳腐な常套句のことである。われわれは、思慮深さを欠く凡庸な言葉しか使わなくなっている。(2004: 21)

 それでは私たちの言葉に意味を取り戻すためにはどうしたらいいのでしょうか。私たちはどうしたら平板で思考のない言葉遣いから抜け出すことができるのでしょうか。
 それに対するウィトゲンシュタインのもっとも極端な言い方の一つは次の表現かもしれません。

頼むから、ナンセンスなことを言うのを恐れないでほしい。ただ必ず、自分の言っているナンセンスなことに注意してほしい。(Culture and Value. p. 64)

 どうでしょう。おそらく90パーセント以上の読者の皆さんは、この引用には納得いかない、というより、何を言っているかポイントがわからないと思われたのではないでしょうか。ですが、ここでの「ナンセンス」を、「厳密に言えば、形式論理学に違反している言明」とみなしますと、ウィトゲンシュタインはここで、優れた人文・社会系の論考が備えている特徴を端的に表現しているだけのように私には思えます。
 ここのところを明らかにするために、私が最近読んだ内田樹さん(神戸女学院大学文学部総合文化学科教授・フランス現代思想)のブログ「内田樹の研究室」(http://blog.tatsuru.com/)の2005年7月28日の記事、「マックス・ウェーバーはえらい」(http://blog.tatsuru.com/archives/001138.php)を、少し長くなりますが引用してみましょう。内田さんの、文体は一種のブログ文体で軽いものですが、中身は的確なものですから、私はいつもこのブログを愛読しています。

今回、マックス・ウェーバーというのはまことに偉大な人だということをあらためて思い知る(今頃思い知るのもどうかと思うが)。
問題を扱うときの「手つき」がすごく丁寧なのである。
「スキーム」がもう用意してあって、それに合わせてデータを切り取るのではなくて、データの整合性が破綻するかすかな「縫合線」のようなところをたどって、それを説明できるような「スキーム」を浮かび上がらせる・・・という手順をとるのである。
「資本主義の精神」という歴史的概念について、ウェーバーはそれをあらかじめ一義的に確定してから論を進めることを自制する。
そうではなくて、「資本主義の精神」は、それが歴史的連関の中で「有意」に機能しているような局面をひとつひとつ取り出してゆくプロセスを経て、概念的に把握されるというのである。
不思議な論法だ。
「資本主義の精神」というキータームの定義を確定しないまま、「資本主義の精神」が関与している歴史的現象を研究しようというのである。
凡庸な社会学者なら、「一義的に定義されていない概念を用いて、当の概念の定義を満たすというようなバカな話があるか」と一笑に付すかもしれないけれど、さすがウェーバーは社会学の祖だけあって、器が違う。
ほんとうに「そういうもんだ」からだ。
「なんだかよくわかんないけど、だいたいこんな感じ?」というようなキータームがあって、それで「ざっと」現象をスキャンして、「ひっかかったデータ」を吟味してゆき、そのデータに基づいて「何を『ひっかける』ようにこの概念は構造化されていたのか?」という問いに遡及的に答えてゆく。
非論理的に聞こえるかもしれないけれど、私たちが日常的に行っている推論とはまぎれもなく「こういうもの」である。

つまり、厳密な定義のないままに概念の解明を進め、それによって概念を探究し、深め、定めるという方法をマックス・ウェーバーは取っているというわけですが、これは「科学的英語教育学者」にとっても我慢のならないことなのかもしれません。「概念は操作的定義(operational definition)によって明確に実証化し、その測定データのみをもって論考は行われなければならない」というわけです。なるほどそれなら、「操作的定義」から「実験結果」のセクションまでは、定義概念は一貫しています。ですがそういった「科学的英語教育学論文」の多くは、操作的定義以前の、構成概念(construct)に関する議論が薄いもので、なぜこの操作的定義を適用することが妥当なのか・必要なのか、それによって失われるのはないのかといったところが十分に語られていません。というか読者も査読者も主な関心は、論文が「科学的作法」に適っているかどうかにあるようなので----としか私には思えないようなことが多々あります----、彼/彼女らは、操作的定義から実験結果の形式的整合性のチェックに専ら注目し、それ以前の論考、それ以後の考察は、おざなりなものでもよしとされることが多いように思えます。だから退屈なのです。
 ウィトゲンシュタインにとって、論考における「正しい表現」とは、これまでの議論と厳密な形式的整合性を持つものである必要はなく(もちろん持っていてもいいのですが)、それよりも大切なのは、表現が私たちに深い洞察を与えてくれるものであると考えているようです。

 正しい表現を見つけることは、前もって考えたことを正確に表わすことではない。むしろ、その表現がわれわれに与えてくれる考えが、満足を与え、救いとなるということである。(2004: 33)

 また、ウィトゲンシュタインは、科学ではタブーとされているはずのメタファー表現を使うことも厭いません(実は科学は意外にメタファーを使っていたりと、それほど実情は単純ではないのですが、それはまた別の機会にでも)。いや、ウィトゲンシュタインはこの点、後期の作品では徹底して、さまざまな表現を(その限界を自覚しながら)使用しました。彼にとっては表面上の形式性よりも、解明的な表現によって問題の見通しを得る方がはるかに重要だったのです。

 ウィトゲンシュタインは、自分が関心をもった主題をめぐる「長く錯綜した旅路」を歩みながら、現象を違った角度からわれわれに見せるために、明晰な考察をした。そこには暗示、描写、冗談、暗喩、アイロニカルなコメントが含まれていた。彼は、説明を差し控えることによって混乱をはっきりさせ、われわれがいかに統一性や偽りの偶像を作り出したのかを暴露するアナロジーや非アナロジーを示した。彼が追求したのは、言語を介した明快な理解である。(2004: 25)

 ウィトゲンシュタインは、私たちが「心の科学」と信じているもの(本書なら「精神分析学」、私の関心から言えば「科学的英語教育学」)は、しばしば、見せ掛けの一貫性(偽りの偶像)にすぎないと指摘します。彼はそれに囚われてしまうことを避けるために、様々な観点から、多種多様な表現方法によって語ることを選びます。それは実証的な確実性こそ持たない考察かもしれませんが、的確で深い洞察を得る考察なのです。

彼[ウィトゲンシュタイン]の覚え書は、広大な思考の領域のすみずみを旅し、あらゆる方向に縦横無尽に動きまわり、しばしば同じ地点に異なる方角から到達する。このことが問題のÜbersicht(展望、概観)を示し、ひとつの固定した見方から問題を見るのを防ぐ。彼は専門用語を使わなかった。そして、自らのいかなる哲学的主張も、曖昧で怪しげな地位しかもたないことにはっきりと気づいていた。彼の覚え書は混乱に適用される手がかりではあっても、目のくらむような斬新な専門的洞察ではない。彼は、真実の基準としての確実さを拒絶し、洞察の的確さのほうを選んだ。(2004: 11)

このあたり、ウィトゲンシュタインは徹底していて、私のように中途半端に「英語教育学は厳密な自然科学ではあり得ない」などと連呼するパターンの言説からも逃れようとします。このあたり、「脱構築的」と言ってもよいのでしょうか。

「哲学者にできることはただ、偶像を破壊することだけだ。それは、新しい偶像を作ることを意味しない----たとえば、「ある偶像が不在」といったような。(Philosophical Occasions. p. 171)

 こういったウィトゲンシュタインのアプローチは、あまりにも常識外れに思えるでしょうか。それならその「常識」とはどんな考えなのでしょうか。ウィトゲンシュタインは、私たちは、しばしば実践的生活の中に有している柔軟な「常識」を忘れ、近代的(modern)な「進歩」こそ私たちの「常識」であると思い込んでいる、と考えています(『哲学的探究』は、「総じて進歩というものには、実際にも遥かに偉大に見えてしまうという一面がある」というネストロイという人の言葉の引用から始まっています)。

進歩は解決を、それも継続的な問題解決を前提としている。だからこそ建設的なのだ。われわれはさらに説明困難な入り組んだ機構まで作ってしまう。そして、単純なもの----何かを作るもとになっていると推定される単純な「原子」----の明晰化から始める。つまり、物や人間を対象や力に還元し、そこから、ますますもって形式化し、複雑化した機構を作るのだ。これが本質的な生産性とされるものである。(2004: 36)

 近代的な私たちの建設、つまり「構築」の精神というものは、英語教育研究において「科学的論文」という形をとって、事象の還元化、形式化、複雑化を図り、ますますに「科学的論文」は「生産的」に量産されます。これが「英語教育学の進歩」なのでしょうか。それならば、そういった「進歩」は私たちが望んでいたことなのでしょうか。奇妙な表現に聞こえるかもしれませんが、私たちは「科学の誘惑に抗して」、論考を行うことが必要なのではないでしょうか。

彼[ウィトゲンシュタイン]は、「現象を見通して」究極の原因を突きとめたいという衝動に抵抗した。彼は、隠れているものは追求しなかった。というのも、すべてが「視界に開かれた状態にある」からだ。物事は隠蔽されているように見えるが、それは、それらが表面下にあるからではなくて、むしろ、それらが見慣れたものであり、単純であり、いつもわれわれの眼前にあるからであろう。神秘的な実体をもとめることを強いるのは理想化のまなざしではあるが、われわれは実際にどう<である>かを見る必要がある。(2004: 59)

 「科学的説明」は、英語教育という事象が、少なくとも細部は整然としたものであり、その細部の知見を合わせれば英語教育の全体も法則的に決定できるといった幻想を与えがちです。ですが、科学的説明のモデルは、錯綜した現実の理想化にすぎません。その理想化された観点だけからしか英語教育の事象を見ないことは、一種歪んだ見方です。科学的英語教育研究の言説ばかりが、学会を占めるのは歪んでいる状況と言えるのではないでしょうか。

よい理論は整然としており、そこには規則正しい直線道路が走っている。確かにそれは、物差しのような比較対象物として用いるには好都合で、人々が問題を新しい見方で見るのを手助けしてくれる。だが、それが教義のようなものとなるとき、すなわち、現実のほうがそれに合わせなければならないようになると、そのことが新たな問題を引き起こしかねない。われわれは理論に魅了され、それを理想化し、その理論によって解釈する。それは眼鏡のレンズのようなものとなり、それを通してわれわれはレンズによって歪められた物を見ることになる。(2004: 64)

 ウィトゲンシュタインの次のセンテンスは、たいていの人にはわかってもらえないのですが、この小文をこれまで読んできた皆さんにとってはどう響くでしょうか。

哲学とは、言語という手段を介して、われわれの知性を惑わしているものに挑む戦いである。(『哲学的探究』109節)

 私は、自然科学を否定しません。英語教育の事象の一部にも自然科学の適用が有効であるだろうことも否定しません。ただそれは事象のごくごく一部の細部であり、現場の問題意識とはおよそかけ離れたものであるだろうとは思っています。「英語教育学」が、現場の問題意識を重視する「実学」であるなら、科学的アプローチばかりを特権化し、哲学的アプローチを否定する「科学主義」を取ることは明らかな間違いだと思います。
 英語教育史を振り返ってみたら、過去において英語教育を論じてきた人たちは、人文的教養と社会的常識に満ちていたように思えます。現代の「科学的英語教育研究者」はどうなのでしょうか。私の偏見を述べますと、英語教育の学会に行くと、よく勉強している人にはよく会えますが、残念ながらそれと同じ確率で、よく考えている人に会えるとは限りません。逆に、英語教育の優れた実践者の方々とお会いすると、学歴の高い人(大学院卒)にはそれほど会えませんが、よく考えている人には、学会以上に会えるような気がします。
 自然科学においても実学においても、よく考えることは基本だと思います。「考えること」を追求する哲学という営みを、私たちはもっと評価してもいいのではないでしょうか。

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諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ、740円) (2005/7/29)

 古い世代が新しい世代に当惑し、新しい世代を理解しようともがくうちに、新しい世代も古い世代から学び始め、世の中は少しずつ変化してゆく----これが世のならいかもしれません。しかし今の若い人たちの言動の、少なくとも一部は、私も含めた古い世代には受け入れがたく思います。直接、間接にそのようないくつか経験を積んだ後に、様々な人が話題にしていた本書を読んだら、少なくとも、現在の若い世代への教育に関する見通しが得られました。様々の世代・学校種の教師が読み、それに基づいて語り合えたら素晴らしいと私は思います。
 長年高校教師を勤めてきた著者はこう言います。

 彼ら「新しい生徒たち」はすでに完成した人格を有しているかのようにふるまい、四十代半ばの中年教師である私に拮抗しようとして私を慌てさせた。知的にも人格的にも学んで自分を変えようとしなかった。だからと言って、とにもかくにも社会を生き抜ける「強い自己」になったのではない。かえって、自分ではえらい一人前の存在だと思っている対人関係や社会的適応性の脆弱な「弱い自己」になったのである。「オレ様化」するということは、自己をほかの自己と比べて客観化することがむずかしくなり、自己(の感覚)に閉じこもりだしたということであろう。(10-11)

 彼らは「畏れる」ものをもっていない。自ら自己を主張してなんら憚るところもなかった。今までの日本になかった「自立」した「個」の誕生であった。それにしても、彼らの内面の自信に比して、その現れの何たる貧弱なことよ、と思わざるをえなかった。(213)

 著者の議論を私なりに簡単にまとめますと、現在の子どもは「消費社会」の王様である消費者としてもっぱら自分を捉えているということです。ですから万能感を持ち、自らが何かを選択することはあっても、決して自分が何かに従うことには我慢できないわけです。彼らは万能感を持ちますが、その万能感は、自分が永遠に消費者でありえるという虚構に支えられただけの脆いものであり、それだけにその万能感を否定しようとするものには激しく抵抗し、ますますに自分中心の世界観の中に閉じこもろうとします。
 著者は、こういった「オレ様」の発生は、農業社会から産業社会、そして消費社会へと急速に日本が変化したことからもきていると考えています。

戦前から引き継いだ庶民の律気な生活感覚や倫理感はすっかり消え失せ、すでに70年代後半から生徒がトラブル(非行)を起こして家庭訪問すると、親たちに倫理性が欠如している様子がありありと見えて、これじゃあ生徒がおかしくなるのは当然だよ、この家庭からすれば生徒は学校ではがんばっているよ、とよく思ったものである。親たちの倫理性の欠如とは、すべて「得か損か」という発想だけで生きているように見えたことである。日本の近代は「農業社会的」段階の長さに比べて「産業社会期」が圧倒的に短い。お互いに意見や利害を主張する公共的な市民圏をつくるまえに、「消費社会的」段階に突入してしまったせいかとも思われた。(226-227)

 「消費社会には消費社会のあり方があるのだから、古い世代は、若い世代に合わせるべきだ」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし現代社会において、永遠に消費者であり続けられる人はいません。親からの莫大な遺産でもない限り、人は、どこかで労働者・仕事人となり、他人に奉仕することによってお金を稼がなければなりません。自分を何かに従わせなければなりません。
 そこでもし若い世代の一部にしても、他人への奉仕・自らの屈服を受けいられないとしたら、彼らは職業生活に適応できず、職を転々とせざるを得ないでしょう。やがてはそういった日々からくる鬱積感は、不機嫌な社会や小犯罪が多発する社会へとつながるかもしれません。
 あるいは「オレ様」たちが社会の多数派となれば、労働・仕事の方が「オレ様」たちに屈服してしまい、「オレ様」たちも、職業生活を続けることができるようになるのかもしれません。しかしその時の日本は、かつての日本人が愛し誇った日本ではなくなっているでしょう。
 第一部の「『新しい子ども』の誕生」だけでなく、第二部の教育評論の(メタ)批評、終章の日本文化論も私は非常に共感しながら読みました。大学教員は、学生を社会に送り出す立場にありますから、こういった問題は切実です。皆さんもぜひご一読を。そして現代の日本文化について考えましょう。


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薬師院仁志『英語を学べばバカになる』(光文社新書、720円) (2005/5/25)

 タイトルだけ見ると扇情的なだけの本のようにも思えます。しかし中身は全く違います。著者が言うように「ただ、事実の提示と、それに対する私なりの分析を試みただけ」(246ページ)の本です。ただこの事実と分析は、英語学習に対して一種の強迫観念を持っている現代日本人にとって、非常に啓発的なものとなっています。
 この著者の良質な批判姿勢は、彼が英語以外の外国語(フランス語)に通じていること、英語教育学以外の専門(教育社会学)の学者であること、そしてひょっとしたら関西人であることから来ているのかもしれません。著者は、英語が通用する範囲内だけの経験から物事は決して語っていません。アメリカ型民主主義とヨーロッパ型民主主義の対比なども、私がハイエクやアレントなどの(ヨーロッパ生まれの)アメリカびいきの思想家に影響を受けているにもかかわらず(いや受けているからこそ)面白く読めました(注)。さまざまな箇所での、建前から自由な発言には、私もそのたびごとに「ほんまやで」と思いました。

著者ははしがきでこう言います。

 だが、国家や社会にとって必要な技術や知識や語学力は、ますます多様化しつつある。英語もまた、その多様な要素の内の一つであるには違いないだろう。とは言え、それはもはや特権的な要素ではなく、あくまでも一つの要素でしかないのである。
 しかも、今日の日本が置かれている環境の下で、日本人が英語を習得することは、それほど簡単なことではない。真面目に取り組めば取り組むほど、多大な時間と労力と金銭を必要とする。よぼど恵まれた状況にいない限り、何かを犠牲にしなければ英語を身につけることはできないのである。何も英語学習自体が絶対的に有害だと言っているのではない。問題は、そのために払う大きな犠牲である。英語に呪縛されるあまり、専門的な知識や技能を身につける機会を失い、外国語と言えばアメリカしか見えなくなり、言語文化の多様性から取り残され、バカの一つ覚えのように英語を振りかざして周囲から疎まれるようになったというのでは、悲劇であろう。
 考えてもみよう。無能なアメリカ人は英語を話そうが何であろうが無能なのであり、有能なアメリカ人は英語ができるから有能なのではない。逆に言えば、英語力だけを信仰し、英語学習ばかりに時間と労力と金銭を費やすことは、自分自身を無能なアメリカ人に同化させることになりかねないということである。しかも、日本語を母語とする普通の人間が英語を学んでみたところで、所詮はそれを母語とするアメリカ人より下手なのだ。
 ・・・膨大な時間と大金をつぎ込んで英語を学ぶことにどれだけの意味があるのか、今一度、一人一人が冷静に考え直してみて欲しい。何事に関しても、深く考えもせずに突っ走るのは、バカなのである。(6-8ページ)

と、このように虎の衣を借りた狐のように文章を引用する私ですが、私は英語教育の当事者です。そのような人間として、私はこれからも自分自身の英語学習に「多大な時間と労力と金銭」をかけ続けるでしょう。「短期間でTOEICのスコアを上げるには」という問いも門前払いすることはないでしょう。当事者には当事者としての責任があります。しかし同時に、このような本を読んで考えることは、英語教育の当事者としての必須の教養であるかと思います。多面的に考えることを拒否し、ある事柄の技術的向上ばかりに逃げる人間は、やはりどう考えても専門バカと呼ばれるべきでしょう。そして「教育」は、どんな種類のものであれバカによってなされるべきではないでしょう。
良書だと考えます。特に英語教育の指導的立場にある英語教育関係者は読むべきでしょう。

(注)ただ、新書というフォーマットの性質上、本来なら何冊もの本によって注意深く論考されるべきような論点が極めて短く述べられてるところはあります。ですが、もちろんそのことはこの本の欠点でも何でもありません。私たちはこの本をきっかけにより広く深く読書と思考を発展させるべきでしょう。

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出来斉『検証 学力向上』(プレジデント社、1333円)(2004/4/28)

陰山英男さんという傑出した公立小学校教師に、一流ビジネス誌の編集者(出来斉さん)が惚れ込み、2003年10月3日から、およそ1年半にわたって35回ほど陰山さんが校長をする広島県尾道市立土堂小学校を取材しました。「取材にあたって使用したカセットテープは、ざっと400時間分、撮影したフィルムは、約3万5000枚にのぼる。かつて私が担当した、どの雑誌、どの企画、どのプロジェクトよりも、その数は膨大だった」( P R E S I D E N T N E W S Vol.286(2005.4.25))と出来さんが語るプロジェクトが一冊の本になりました。優れた公立学校教師が思いっきり実践し、行政もそれを背後から見守り、さらにその実践を民間の出版社が、内容やページ数やカラー写真からすると驚くほど安価な値段で本にして世に問う。日本は悪い国ではありません!
ジャーナリストとしての出来さんの手によって、陰山さんの20歳代、山口小時代、土堂小への赴任がコンパクトにまとめられ、教師が変ること、親が変ること、そして何より子どもが劇的に変ることが生き生きと報告されます。さらには陰山さんと土堂小の先生たちと、杉渕鉄良さんらの全国の優れた公立学校教師や、数々の民間教育機関・団体との出会い、そしてその出会いによる化学変化が語られます。読んで感じることは教育界のブレイクスルー。読んでいて元気が出ます。希望が湧いてきます。土堂小の実践の素晴らしさを目の当たりにした人間の一人として、この本は心からお勧めします。

追記:それにしても66ページ、154ページ、193ページに語られるような教育界の固陋な体質には絶句してしまいます。このような体質を一掃せねば、と強く思います。そのような状況の中での、土堂小教頭の金丸真智子さんの一言(156ページ)。しびれました。涙が出そうになりました。

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三島篤志・小倉慶郎『BBC WORLD英語リスニング シャドーイング』(DHC、1800円) (2005/4/21)
このホームページでできたご縁で、著者の小倉慶郎さんからご恵贈をいただきました。もちろんそれだけの理由ではここではご紹介いたしません。ご紹介したいのは、この本が、BBCニュースをデジタル処理で減速した音源と、オリジナルのスピードのままの音源を収録したCDを持つ教材集となっているからです。この許可をBBCから取るにはかなりのご苦労があったそうです。知的な内容があり、かつゆっくりしたスピードで語られている英語教材というのはなかなかないので、その点では貴重な本といえるかもしれません。

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幸若晴子『野に出よう』(花蜂社、1143円) (2005/3/29)
あのDVD 6-way Streetを世に出したバンブルビーの編集者である村松祐介さんが、花蜂社(はなばちしゃ)という出版社を立ち上げ、詩の世界ではその実力を認められながら、世間的にはまったく無名である幸若晴子さんの詩とエッセイ集を出版しました。
詩集を読むということは、静かな心を持って椅子に座り、美しい装丁と、本文と余白のバランスのとれた本という作品を手にとって、私たちの生を味わうということです。そのようにデリケートな作品を断片的に引用する愚はここでは避けておきます。ですが、エッセイの一部ならば引用という乱暴なことも少しだけ許してもらえるのかもしれません。

ことばを使った表現の、究極の形は「詩」だろうと思いました。
想いを人に伝えるとき、ことばの持つ限界を超えるには、それを結晶化し、象徴として表現することが大切です。
その表現が、伝えたいことのエッセンスに迫り、矛盾をも含めたすべてを内包していれば、相手の中に最も純粋な共鳴を引き起こす事ができるでしょう。
誤差を最小限にとどめ、ダイレクトに伝えるには、なるべく思考を介さない方が良いのです。そういう意味で「詩」は、ことばを使っていながら、音楽や絵画に近い表現といえるかもしれません。
 詩を書くことは、余計なことばを削ぎ落としていく作業でもあります。
最も伝えたいことのために、二番目のものを敢えて落としていく。そうすることで対象の純粋な本質が際立つのです。(70ページ)

私は散文的な人間で、詩の良さがなかなかにわからないのですが、音楽を例に出した上の説明はよくわかります。詩に関する美しくて正確な説明文だと思うのですがいかがでしょう。

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大津由紀雄(編著)『小学校での英語教育は必要か』慶應義塾大学出版会、1800円 (2005/3/10)


読もう読もうと思いながら、そのままになっていた本です。でも読み始めたら面白く、一気に読みました。2003年12月6日に慶應義塾大学で行なわれた公開シンポジウム「公立小学校での英語教育をめぐって」に基づく本で、12人の論者がそれぞれの論を展開しています。
私が特に面白く読んだのは、県教育委員会・文部省といった行政職を長年経験している明海大学の和田稔さんの章と、第三部の「言語教育の現場から」の直山木綿子さん(京都市総合教育センターカリキュラム開発支援センター指導主事)、三森ゆりかさん(つくば言語技術研究所)、福澤一吉さん(早稲田大学文学部心理学専修)の三つの章です。
和田さんは国の言語政策策定プロセスの実情を、実に率直に語ります。この誠実さはとても印象的で、かつその記述の情報的価値は高いものだと私は思います。「言語教育の現場から」の三人の話は、なによりも具体的なのがいいです。やはり英語教育というのは、実学の分野なのだから、話は具体的でなければ。直山さんは言います。

最後に、わが国の英語教育、言語教育を専門に研究されている大学の先生方、研究者について。英語教育や言語習得についての専門知識を、抽象的な文言でなく具体的に小学校教員に提供することが求められます。たとえば、英語嫌いを作らないようにと言うだけでなく、作らないために具体的にどのような学習内容で進めるべきなのかを、また、英会話ごっこに終わっていると言うだけでなく、そうならないためにどのような活動をするべきなのかを、そして、音声中心に徹するべきと言うだけでなく、どのように進めるのかを提案することです。

抽象論ばかり言っている自分にとっては痛い言葉です。反省。

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上田紀行『生きる意味』岩波新書 (2005/2/26)

「意味」とはやっかいな代物です。「意味」の最大の媒体は言語でしょうが、それを研究する言語学も、「意味」をできるだけ排除するか、その本質的要因を取り除いた取扱いをしようとします(「言語学では『人生の意味』といった『意味』は扱いません」というのは、言語学入門書の常套句です)。心理学にせよ、それが統計手法を使う種類のものなら、「大変満足したなら5に丸を、全く満足でなかったなら1に丸をつけてください」といったレベルの扱いを「意味」に与えているだけです。かくして教育に携わる研究者も「意味」を疎外してゆきます。数値目標を達成することが教育のアカウンタビリティだと言われ続ける教育者も「意味」を疎かにしてゆきます。"Cut throat competition"の只中にいるビジネスパーソンは「意味」など忘れてしまいます。それが現代という時代のようです。

自ら大学時代ノイローゼになりカウンセリングにも通っていたこの本の著者である文化人類学者の上田紀行さんは「はじめに」でこう言います。

私たちがいま直面しているのは「生きる意味の不況」である。

一部屋に一台テレビがあるような暮らし。一家に一台も二台も車があるような暮らし。それはこの地球上で一握りの人たちにのみ許された豊かさである。しかしその中で私たちは生きることの空しさを感じている。自分がいまここに生きている意味がわからない。自分など別にいなくてもいいのではないか。自分が自分でなくてもいいのではないか。

そんな社会は決定的におかしいと私は思う。紙も鉛筆もコンピュータもある。しかし道具はふんだんにあっても、それを使って夢を描くことができない社会。一生懸命働き、社会に貢献してきた人たちが、自分たちにもはや価値はないと思わされ、老後の不安に駆られるような社会。どう考えてもおかしくないか。(i)

上田さんは、このような現代に必要なのは「内的成長」だと言います。

「内的成長」とは何か、それは「生きる意味」の成長である。生まれてから死ぬまで私たちの「生きる意味」は成長し続けていく。私たちの身長はあるところで成長を止める。私たちの収入はあるところまで右肩上がりでそれから下がっていく。しかし、私たちの「生きる意味」はずっと成長を続けていくのだ。(143)

「生きる意味」を失った人生は果たして人生なのでしょうか。でも現代の多くの人々が「生きる意味」を失った人生を送っているのではないでしょうか(ソクラテス的態度は、古代ギリシャとは比べ物にならないほどに、現代で求められているのかもしれません)。

一気に読める非常に面白い本です。どうぞご一読を。


山田雄一郎『英語教育はなぜ間違うのか』ちくま新書、720円 (2005/2/17)

現在、英語教育は、一種の強迫観念になっているように思えます。「英語は是が非でも効率的に教えられなければならない!」。かくして行政や教師や保護者の肩に力が入ります。

この本は、そのような状況の中、英語教育に関心を持つ全ての人に向けて書かれた「批判と啓蒙の書」です。英語教育に関する誤解や思い込みを正そうとする本です。読者は、著者の文章と共に英語教育について静かに考えることができます。英語教育関係者はもちろんのこと、子供さんを持つ保護者にもぜひ読んでほしい本です。新書ということで、専門用語はわかりやすく解説され、一般的読者に読みやすいものになっています。

ここでは紹介の意味で、各章から少しずつ引用してみましょう。これらの引用からも、この本が、落ち着いた知性によるものであることがわかるかと思います。

 日本人と英語の関係で言うと、ことばが武器であり英語が新しい時代を生きるための道具だという考えは、一種の強迫観念として作用する面を持っている。これからの日本人は英語ができなければならないという漠然とした思い込みは、かえってわれわれの英語学習を視野の狭いものにする恐れがある。学校英語教育の目的を英会話能力などに限定してはいけない。外国語の学習は、もっと豊かなものにつながっている。(「序章 ことばは武器か」)

 国際理解を教育の理念として謳うのはよい。しかしそれを具体的な教材に加工して、「これが国際理解です」と差し出すのは不自然である。このあと触れることになるが、私は、国際理解を断片的な知識の集積とは捉えていない。国際理解とは自分を取り巻く世界をどのように認識するか、その捉え方、すなわちものの見方のことだと思っている。その意味から言えば、国際理解は、教室にALTを連れてくることではないし、英語文化の断片的紹介で達成できるものでもない。(第一章 国際化=英語化?)

 複数の言語が話せる人は、幸福だろうか。すでに見たように、バイリンガルは、「自然」が用意する環境によって育まれる。バイリンガルを強いる環境が悲惨なことはあり得るが、バイリンガルであること自体は、幸福でも不幸でもない。同様に、モノリンガルであるからといって人生が不幸になるわけではない。獲得された言語の数は、それが環境のもたらす「自然な」結果である限り、当人にとっては生活そのものである他はない。そして生活の運不運は、話す言語の数とは無関係なのである。(第二章 バイリンガルになりたい!)

 これ[=英語公用語論]は、思い切った意見であるが、同時に、強引でもある。その強引さにはあえて言えば、全体主義的な雰囲気がある。英語が必要だから、日本人は英語を学ばなければならない、そうしなければ日本が危ないといった論旨である。そして、そのためには、英語を公用語にするくらいの思いきった措置が必要である。というのは、どう見ても、全体主義的考え方である。全体主義のどこが悪いと言われれば仕方ないが、私は、英語教育にそのような方向付けをする必要はないと思っている。(第三章 英語公用語論と日本人)

 読者は、小学校に英語を導入する場合、何に注意すればよいとお考えだろうか。私は、最も重要な点は開始年齢だと思っている。では、その次に大切な問題はなんだろうか。指導者、指導法、教材、配当時間など考えなくてはならない問題はたくさんある。しかし、開始年齢の次に大切なことは、中学校との連携である。早期外国語教育の実験的研究はこれまでにも数多くなされているが、失敗の理由としてしばしば挙げられるのが、中学校との連携不足、あるいは連携皆無である。小学校で学習が完了するのなら別だが、言語の学習には長い時間が必要とされる。中学校との繋がりがうまくなければ、学んだことが活かされないし、何よりも学習の見通しを立てにくい。(第四章 小学校に英語教育を!)

 しかし、私は、この[JET]プログラムの人気が下降している理由の一つは、目的と実体の遊離に代表される全体的曖昧さにあると思っている。英語教育を国際交流という希釈液で薄めてしまっているプログラムを、整理し直す必要がある。その上で、改めて優秀なALTを募り、その義務と責任を明示し、その仕事に見合う報酬を用意すれば、教育プログラムとして正しく立て直すことができるはずである。(第五章 熱烈歓迎!ネイティブスピーカー)

 英語が日本の社会の言語でない以上、それを教室の言語として扱うことは間違っていない。英語教育は、これまでずっとそうであった。ところが、いつの間にか、世間は教室の言語に生活の言語を重ね、学校教育に会話や手紙文といった実用的な成果を求めるようになってしまった。英語は、日本社会の言語ではない。だから、教室で学んだ英語を生活の言語にするのは、どこまでも個人の問題である。(終章 英語は教えられるのか)

批判的精神と共に、英語教育の諸問題について見通しを得ることができる良書です。広い範囲の読者に読まれればと思います。


中村敬『なぜ「英語」が問題なのか』三元社、2600円 (2005/2/11)

中村敬さんという一人の英語教師-学者の研究と思想の深まりを玩味できる本です。「深み」というのは、私たち英語教育関係者が急速に失いつつある(あるいは既に失ってしまった)特質かもしれません。若い人にぜひ読んでいただきたいですし、また、英語教育の権力の座にいる人は、一度は目を通すべき書であると私は考えます。

中村さんはこう言います。

こうした視点が自称英語教師のプロたちにしばしば欠けていると思われるのは、彼等が政治的に無意識だからである。彼等の政治的無意識は、一つには意図的に政治を切り離した「応用言語学」を、英語教育の理論的よりどころにしてきたからであり、もう一つは、ここ100年の日本の国際関係が、基本的にアングロサクソン(戦前はイギリス、戦後50年はアメリカ)との2国間関係であったことと深い関わりがある。(152)

日本の英語教育にとって不幸なことは、政治的無意識のリーダーたちに先導役を任せたことだった。そのリーダーたちの多くは、米国直輸入の応用言語学の旗手で、その理論的根拠を現代言語学に求めたことだった。現代言語学の不幸は、人間の営みともっとも深い関係にあることばの本質に迫ろうとして、言語理論の精密化を追求すればするほど、ことばが、人間の営みから切り離されてしまうという逆説にある。こうした不幸は英語教育にも持ち込まれた。戦後フルブライトやガリオアの留学生としてアメリカに留学した無数の英語教師や英語学者が帰国して、日本の英語教育界に大きな影響を与えはじめるのは50年代の中葉からであるが、政治や経済から切断された彼等の言語教育思想は今日までしぶとく引き継がれている。

しぶとく生き抜いてこられた理由は、応用言語学が英語教育の理論に疑似科学としての装いを与えたからである。英語教育を自律的な科学にするためには、言語教育を他の学問分野と対等に勝負できる科学に育て上げてしまう必要が、担当者の側にあったからである。英語教育学という名称が盛んに使われるようになったのも70年代以降である。英語教育学はそれを担当する「専門家」を必要とする。70年代以降、日本でも英語教育学で修士号を取得することも可能になった。こうして、英文学研究のテクノクラートではなく、英語研究や英語教育のテクノクラートを育てる道筋がつけられた。(153-154)

もちろん、「英語教育学」の現状は、言語学だけでなく心理学にも強い影響を受けていたり、現代言語学を専門とする人にも「英語教育学者」以上に言語政策的に重要な英語教育の仕事をやったりする人もいたり、修士号だけでなく最近では博士号も授与されたりと、上に描かれた状況には若干の補正が必要ですが、「英語教育学」の「テクノクラート」が台頭しているという表現は妥当といえるでしょう。

とはいえ、テクノクラートは全面的に否定されるべきでもないでしょう。物事には、とにかく「科学的」に調査すべきことはたくさんあります。テクノクラートはそのための訓練を受けた人々です。しかし物事には必ずしも「科学的」にアプローチできないこともあります。「科学的」であることだけにこだわれば、逆に見えなくなってしまったり、偏ってしまったりすることもあります。例えば、社会、政治、歴史などの問題です。いやそもそも教育の問題も、本質的な意味ではそうなのかもしれません。テクノクラートが、守備範囲を超えて、これらの問題を不当に支配する時、あるいはこれらの問題を半ば意図的に黙殺する時、人々は異議を唱えなければなりません。

話を中村さんのことに戻しますと、彼はある英学史の書を監修した研究者の「該博ぶりと研究の手堅さ」を讃えつつも、「にもかかわらず、御両所の教科書批評に不満なのは、別巻を何度読み返しても、『選集』でとりあげられている半世紀以上にわたる教科書史が、今日の英語問題とどのようにつながっているのかが見えてこない」と述べます。

かくして書かれ、この本に掲載された論文が「英語教科書の1世紀」の(1)と(2)です。これは読みごたえがある。「はっ」とし、考えさせられ、多くを学べる論考となっています。その他に論ぜられるのが、「英語」という呼称・定義の問題、英語帝国主義の問題、英語教育の問題など。英語教育の技術的改善、英語教育につながる(はずの)心理学研究などばかりに従事している多くの英語教育関係者が、見落としている、あるいは見ようとしない問題です。

さらに「英語教師としての自画像を考える」という第三部では、自らの半世紀を振り返るエッセイと、中野好夫を論じた講演がありますが、この二つは含蓄の深い文章になっています。一貫しているのは批判的精神と、人間への敬愛の念。中村さんはこのようにも言います。

学校(主として大学)に「競争原理」と「成果主義」が持ち込まれて以来、教師と教師の人間関係ががらりと変った。筆者の見るところ、とりわけ50代以下のかなり多くの教師たちに見られる、自閉的で非社会的な言動は、この国の教育の未来について暗澹たる思いにさせられる。彼らは、その道のテクノクラートではあっても、自分のまわりのことは目に入らない。教師もまた「慎み」という人間にとってもっとも大切な徳目をどこかへ置き忘れてしまった。(246-247)

いろいろと考えさせる本です。考えることを省くことが、まるで進歩だといわんばかりの現状の中で、重要な問題提起をする本となっています。

こういう疑問が起こったのは、私が「英学」の伝統を受け継ぐほぼ最後の世代の1人であるからだと思っている。つまり、「英学」は、英語の特定分野のテクノクラートではなく、ダビンチ的(英語の)「万能選手」を育てたのである。テクノクラートと万能選手は、しばしば相容れない。自閉的な英語研究に没頭すればするほど英語の正体が見えなくなるのではないか、と考えた。実は、私は今でもそう考えている。(233)

現代の英語教育研究者というテクノクラートには、「英語」が見えているのでしょうか。「深み」も「慎み」も失いつつある(あるいは既に失ってしまった)私自身、いろいろ考えさせられました。一読をお勧めします。


デイビッド・ポール著、金森強監訳『子ども中心ではじめる英語レッスン』ピアソン・エデュケーション、2800円 (2004/11/23)

この本は、原著である"Teaching English to Children in Asia"の売れ行きが好調なのを受けて、日本語に翻訳されたものです。著者は「はしがき」でこう述べます。

私は1980年に日本に来て英語を教えることになりました。TEFL(Teaching English as a Foreign Language)の資格と経験もあり、大学で児童発達論を学んだはずなのですが、最初の授業で完膚なきまでに打ちのめされてしまいました。子どもたちに問題があるのではなく、以前から私自身が用いて十分に試行されたはずの多くのテクニックがもともと日本とはまったく異なる教育環境向けにつくられていることが原因だったのです。たとえば、多くのテクニックは母語でアルファベットを使用する子どもたちを想定して作られていました。

もともとはケンブリッジ大学で社会心理学の修士号を得ており、学識も豊かな著者は、その後の経験から多くのことを学び、自身の授業を成功させるだけでなく、自らの学校(David English House)も広島、ソウル、バンコクなどの都市で成功させるまでになりました。その経験、特に6-12歳の子どもに英語を指導する経験のエッセンスを集めたのがこの本と言えるでしょう。

著者は複数の理論(行動主義的アプローチ、インプットアプローチ、複合的知性理論、人道主義的アプローチ、構成主義的アプローチ)を参照しながらも、あくまでも現実的にバランスのとれたアプローチを提唱してゆきます。その中で「子ども中心の学習」の深い意味あいが明らかにされてゆきます。「子ども中心の学習というのは、表面上のことではなく、より内面的なことなのです」(28ページ)、「子どもたちには、英語の授業はゲームで楽しく過ごす時間だなどと勘違いさせないようにすることが大切です」(59ページ)と著者は言います。ごほうび、賞賛、罰についても「子どもたちをありのまま受け入れるようにし、突然よい子になったり、本来の自分とは違う子どもになったりすることなど期待しないことから始めましょう」(138ページ)と著者は言います。このあたりの言葉は、理論からでなく、著者が経験した長年の現実から出ているだけに説得力を持ちます。

まとめて言うなら、著者のアプローチは、バランスのとれた啓発的-現実的アプローチとでも言えるでしょうか。

これらのことが正しいとか、正しくないとか、言っているのではありません。大切なのは、私たち教師がクラスで行っていることは、何かの思い込みによっているということに気づくべきなのです。そして、それらの思い込みとはいったい何かということを考えることです。思い込みとなる考えを分析するとき、私たち教師は、社会生活上の慣行、価値観、そして教える上での取り組み方となって現れてくる授業における力関係などを検証する必要があるかもしれません。そして、ある方法が、もともとはどこから出て来たものか、どのような状況下で広まってきたものなのか、また、教師の視点からの方法か、それとも子どもに視点をおいたものなのかなどを検討しなければならないのです。最も大切なことは、子どもがどうやって効果的に学ぶかということに関する私たち自身の思い込みを検証する必要があるということです。(181ページ)

巻末には、単語の復習や新しい英語の構文の導入などのさまざまな目的に使えるゲームが100紹介された「ゲームバンク」があります。これだけでこの本を買いたいと思う人もいるかもしれません。さらに「役に立つウェブサイト」「参考図書」も充実しています。小学校での英語教育を理論的かつ実際的に考えることを助けてくれる良書です。


大津由紀雄『英文法の疑問----恥ずかしくてずっと聞けなかったこと』NHK生活新書、680円(2004/9/14)

高校生にぜひ読ませたい良書です。わかりやすくて深い。読めばきっと、英文法の面白さ、ひいてはことばの不思議さにわくわくすることでしょう。若い頃からこのような本で頭を柔らかくしてもらったら素晴らしいだろうなと思います。

筆者のねらいは、読者に、英語ができるようになるためには英文法は必要であることをわからせ、かつ、英文法は面白く、日本語の文法と思わぬ共通点もあるのだということに気づかせることです。このねらいは見事に達成されていると思います。

生成文法を基盤とした言語の認知科学を専門とする著者は、この本では大胆なほどに柔軟なアプローチを取り、「最終目標は、英語を母語とする人たちと同じように、英文法を意識することなく、英語を使えるようになることなのです。英文法の意識的な学習は、その目標を達成するための手段なのです」や「ルールや文型は、学習に役立つ範囲で活用し、決して深追いしてはいけないのです」、と学習者のために、英文法を手段としてわりきります。さらには、生成文法の知見に基づく説明だけでなく、伝統文法や英語史に基づく説明も臨機応変に加えてゆきます。その中で、「『節』って何?」や、「なぜ『不定詞』、『分詞』(participle)、 "subjunctive mood"(仮定法)という用語が使われているの?」といった基本的な疑問に答えたり、「受動態の文は能動態の文に書き換えられる」や「目的格の関係代名詞だけが省略できる」といった英文法の通説の誤りを示したりしています。説明の仕方は具体的でわかりやすく、これまでの「無味乾燥な」英文法説明とは大きく異なったものです。

もしあなたが高校生なら、あるいは高校生を教える英語教師なら、いやいや、そもそも英語に興味をもっているのなら、この本をぜひ読んでみてください。この本はきっとことばの面白さへの素晴らしいガイドとなるでしょう。


英語教育図書----今年の収穫12冊(2004/9/12)

この度、9月中旬発行の大修館書店『英語教育増刊号』に「英語教育図書----今年の収穫12冊」という書評記事を書かせていただきました。書評は、サイエンスで英語教育を捉えようとする書、フィロソフィーで英語教育を捉えようとする書、アートとして英語教育を捉えようとする書、の三つの視点から良書を紹介し、それらの良さについて考えるものです。

サイエンスの項からは竹内理『より良い外国語学習法を求めて』三浦省五(監修)、前田啓朗・山森光陽(編著)、磯田貴道・廣森友人(著)『英語教師のための教育データ分析入門』(大修館書店)などの5冊を紹介しました。フィロソフィーの項では、松川禮子『明日の小学校英語教育を拓く』(アプリコット)を含めた3冊を選びました。アートの項からは田中武夫・田中知聡『「自己表現活動」を取り入れた英語授業』(大修館書店)を含めた4つを選びました。良書を紹介するだけでなく、読んで面白く、考えさせるような書評を自分では目指したつもりです。ぜひ大修館書店『英語教育増刊号』をお買い求めの上、お読みいただければと思います。


奥村宏『判断力』(岩波新書)(2004/9/11)

日本の政治・経済を見るにつけ、現代日本人の多くが判断力を失っているのではないか、そしてその要因の一つには判断力で範を示すべき新聞記者や学者が判断力に劣っていることがあげられないかというのが著者の見解です。題材は経済問題と経済学から取られたものが多い本書ですが、私は立ち読みで次の一節を見つけたとき、この一節のためだけでもこの本は買って読む価値があるのではないかと考えました。

「経済学が役に立っていない」というのは、なにも経済学が人びとの生活にすぐに役に立っていないということを指しているわけではない。経済学がもともと金儲けや生活に役立つ学問でないことくらいは若者でもわかっている。そうではなくて、日本経済や世界経済が直面している問題に対してそれを解明することができなくなっているという意味で経済学が「役に立たなくなっている」のである。

私は経済に関するところを英語教育に換えて読んだわけですが、そうして英語教育研究の現状を考えた場合、慄然としました。

日本の経済学者は現実に対する判断力を失ってしまっており、それはもはや「経済学の有効性が失われた」というような段階を通りこしている。経済学者が政府や財界の「御用学者」になることで、その宣伝機関、広告業者になっているか、それとも日本の現実とは全く関係のない「無用学者」になっているか、どちらかであると言っても言いすぎではない。

「御用学者」に関してはこう言います。

『広辞苑』によれば「御用学者」というのは、「学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者」だとされているが、古来こういう「御用学者」はたくさんいた。しかし、いつのまにか「御用学者」という言葉が使われなくなり、死語になっていた。それというのも、「御用学者」があまりにも大勢になったので、もはや軽蔑の意味をこめたこの言葉を使う必要がなくなったということかもしれない。

もちろんこの批判は経済学を中心としたものですが、英語教育研究にもこれは当てはまりませんでしょうか。いや私は高みから物を言う資格はありません。私を含めた多くの英語教育研究者が、権力、あるいはそれほど露骨ではないにせよ、時代の大勢・雰囲気にあまりに迎合的ではないでしょうか。

「無用学問」とは単なる「輸入学問」のことです。

日本における経済学者の養成課程をみると、大学で経済学の講義を聴いて卒業したあと、大学院で同じような勉強をする。そこで学ぶのはアメリカやイギリスなどから輸入した理論だが、やがて本場のアメリカやイギリスに留学し、大学で講義を聴いて勉強する。そしてアメリカの大学でPh.DやMBAなどの資格を取って日本に帰り、日本の大学の先生になってアメリカで学んだことを学生に教える。そのための教科書は日本語で書かれているが、理論はほとんどすべてアメリカ産である。

もちろん英米の理論がすべて日本において無用などということはありません。自然科学でしたら国や地域はまったく関係ありません。しかし、人文・社会分野は違う。学問の範を英米に求め、日本の現実を見ることを二の次、三の次にすること、あるいは完全に怠ってしまうことは、英語教育研究でも見られることです。英語教育研究の世界も、数周遅れで経済学を追っているのでしょうか。

著者は自らの立場を「実学」と称します。

大学で教えていたころ、学生によく「先生はマル経ですか、近経ですか」と聞かれたことがある。(・・・)その学生の質問に対して「そのどちらでもない。私は実学派だ」と答えた。私が実学派と言っているのは、実業に役に立つ学問という意味ではない。現実に立脚した学問という意味である。さらに言わせてもらえば、現実から理論を作っていくということである。

この「実学」という言葉も久しぶりに聞いたような気がします。英語教育研究なども「実学」であるはずなのでしょうが、多くの者が現状の枠組みに無批判なままの「御用学問」になってしまっているか、現実とは無関係の「無用学問」になってしまっているののではないでしょうか。著者がいうような意味で「実学」である英語教育研究は日本では極めて少数であるように思います。

経済の事を主テーマとする本書でしたが、英語教育関係者として、まったく他人事としては読めませんでした。もちろん判断停止・思考停止に陥ってしまったような日本の現在を考えさせてくれる本来のテーマでも良書です。ぜひご一読を。


菅正隆、中嶋洋一、田尻悟郎 編著『英語教育 ゆかいな仲間たちからの贈りもの』日本文教出版、定価1680円(2004/8/21)

もの凄い本です。現代の英語教育の問題点を大胆なほどに明らかにし、ぐぐぐっと重く問題提起をし、肝を冷やすような自己開示をするこの本に、私は心をぐるぐるかき回され、大きな感動と力をもらいました。

文部科学省-教育委員会-現場教師のラインの問題、(絶対)評価の問題、生徒指導と授業指導の関係、授業をストーリーとすること、保護者の無理解への対応、教員研修のあり方、遊ぶことと勉強することの関係、高卒や高校中退の子への英語教育、こういったあくまでも具体的な問題点を、三人の著者は対談形式で非常に率直に、そして深く語ります。

さらにエッセイでは、菅さんの人格の根っこの部分の述懐、田尻さんの若き時代に関する驚くような告白(私は読んでいて息が止まるような感じになりました)、中嶋さんの静かで美しい文章、が展開されます。授業をすること、教師であること、これらはまさしく人間の所為であることを深く再認識します。

どうぞ、ぜひお読みください。きっと吸い込まれるように一気に読みきるでしょう。(ISBN 4-7830-1022-6)


野矢茂樹(文)、植田真(絵)『はじめて考えるときのように』(PHP研究所 1628円)(2004/8/20)

素敵な本です。軽い語りの中で、考えることと、答え、問い、論理、動物、可能性、ことば、常識、疑い、外界、他人、などの深い関係が、柔らかな調子でわかってきます。このように深い議論を、このように軽やかに示すことができたのは、著者が、山のような哲学の議論を「つめこんで、ゆさぶって、空っぽにする」ことをしたからでしょう。伝わってくるのは考えることの創造性、言い切ってしまうなら、哲学することの素晴らしさ。

「哲学」と「素晴らしさ」なんて言葉は、たいていの場合一緒に登場なんかはしないのですが、この本のように、哲学が、ユーモアとイラスト・デザインの美と共に示されたら、これらの言葉も共起します。とにかくセンスのいい本です。

私はこの本を慶応義塾大学の大津由紀雄さん http://www.otsu.icl.keio.ac.jp/ が方々で薦めるから興味を持ち、文庫版があることを知らずにPHPエディターズグループのハードカバー版を買いました。でも買うならハードカバー版をお薦めします。本の美しさが生きるからです。私は、およそ自分で買った本には、付箋は貼るは、ページの端は折るは、黄色いマーカーは引くは、書き込みはするはと、本という作品に暴虐の限りをつくすのですが、この本にはそんな蛮行はできなかった。本棚に大切にしまっておいて、また折にふれ読み返そうと思います。


千田潤一『英語が使える日本人TOEICテストスコア別英語学習法』(明日香出版社、1365円)(2004/7/20)

リーダーとは情と理を備えた人です。千田潤一さんは英語学習界のリーダーです。2500回を超える講演・セミナー・カウンセリングで出会った、7万人を超える人たちの悩みや苦しみを情で受け止め、その内容を理で昇華し、この本にまとめました。

本は、第一章で「英語が使える日本人」に関する現状分析を行なった後、第二章で「英語トレーニング」を、第三章で「心構え」をまとめます。

この本の具体的な中身を明かすのは著作権法違反となりますので、控えざるをえませんが、第二章の「英語トレーニング」の整理は非常に有益なので、ここでその面影と千田さんの思い切りのいい「名言」をそれぞれ一つだけを紹介します(○○の標記は私がわざと行ったものです)。千田さんはTOEICのスコアで分けるなら英語学習者には七つの壁があるといいます。第一の壁(TOEIC220点)は○○の壁(名言:「訳をするのは悪いこと、訳を見るのはよいこと」)、第二の壁(TOEIC350点)は○○の壁(名言:「○○力とは『文の瞬間構築能力』であり『文の瞬間把握能力』である」)、第三の壁(TOEIC470点)は○○の壁(名言:「好きな歌手の、好きな曲の、好きな所から始めてください」、第四の壁(TOEIC600点)は○○の壁(名言:「逃げた音と逃げた男は追いかけるな。追いかければ追いかけるほど逃げてゆく」)、第五の壁(TOEIC730点)は○○の壁(名言:「言葉は、聞いて(INPUT)・真似て(ONPUT)・使って(OUTPUT)、初めて身につきます。『IN→ON→OUT』が基本です」)、第六の壁(TOEIC860点)は○○の壁(名言:「『読む』とは英文を見て、日本語を介さずに即座にイメージが浮かんでくる状況を指します。『そんなことができるわけがない。英語はしっかり日本語に訳せればいい』という人もいますが、それはその人がまだそのレベルに到達していないからです」)、そして最後の第七の壁(TOEIC950点)が○○の壁(名言:「その人が書く英文を見ると、どれだけ読んできたかがすぐわかる」)です。講演・セミナー・カウンセリングに真剣にかかわってきた千田さんの言葉は、ずばり本質をついていたり、思わずにやりとしてしまったりと、この他にも、もっともっと紹介したい箇所はあるのですが、それは本書をぜひお読みください。

第三章の「心構え」にしても安直な精神論ではありません。まず情がある。「動機は平等です。よく『ぺらぺら喋りたい?そんな軽薄な動機で英語がモノにできるか!』という人がいますが、人の数だけ人生があるように、英語を学ぶ人の数だけその目的があります」、「辞書がボロボロになる前に、心がボロボロになった学習者をたくさん見てきた」、「惨めな自分と仲良くなろう!」といったのは、第三章の「名言」のほんの一部です。また理がある。例えば110ページの課題、120ページの表は具体的で合理的です。

このように、この本は「英語の学び方を学ぶための本」として、非常に明快でわかりやすく、かつ深い本となっており、千田さんは、ぜひ「英語難民」の皆さんと、英語教師の皆さんに読んでもらいたいと願っています。読んでなるほどと納得し、元気がでる本です。ですが、読者をちやほやとおだてる本ではありません。「なるべく時間をかけずに英語が上達するコツはありませんか?」と尋ねる英語難民にはこう一喝します。「寝言は寝てからいえ!」。英語教師の次のような言葉に対してはどうでしょう。「忙しく雑用が多い。だから英語の勉強ができない」、「親がうるさい。子どもがわがまま。誰もわかってくれない」、「どうせ世間では。巷では。業者は」、「訳読で30年やってきたんだ。いまさら変れるか!」、「TOEFLやTOEICの強制受験はお断り!組合問題にするぞ」。千田さんからのメッセージについては、ぜひ本書をお読みください。

「講演やセミナーを生業とするものが、その内容を本にすることはネタをばらすということになりますので、ある意味でとても苦しいことです。落語家がネタ本を出版するようなものです」とは、前書きでの千田さんの述懐です。逆に言うなら読者は、1360円で千田さんのエッセンスを何度も何度も咀嚼することができます。千田さんの講演を聞いたことがない人はもちろん、聞いたことがある人も(私がまさにそうであったように)千田さんの肉声を思い出しながら、なるほどこういうことだったのかと得心しなおしたりするでしょう。ぜひお読みください。そして「本書の執筆をきっかけに、いったん出し切って空になり、6月24日の56歳からまた新しい自分を模索してみたいと思っています」という英語学習界のリーダーに期待したいと思います。


どの子も英語が好きになりたい 6-Way Street ライブ版(DVD3枚組・360分 5040円)(その3)(2004/4/20)

北原延晃 Picture Describing:ピクチャーカードを説明する即興スピーキング活動

北原さんのワークショップは、一度聞いたら北原さんのファーストネームを忘れられなくなる英語での自己紹介、7社の中学英語教科書の語彙データベースの話、NHK教育テレビ番組「わくわく授業」の裏話(その番組のゲストのタケカワ・ユキヒデさんと北原さんは同級生!)を経て、本題である、絵や写真を見ながら即興で英語発話をする活動へと移ってゆきます。即興発話といっても、ただその場限りの活動には終わらせずに、それを基に様々な活動をつなげてゆくのが北原さんの真骨頂です。絵や写真を見て、1-2文の英語を生徒に言わせる。その後に生徒は自分が言った文を実際に書いてゆきます。書いてゆくと最初はスペルミスもありますが、まずは書かせる。最初に話しているわけですから、とにかく書かせることができるわけです(これが最初から書かせようとすると、スペルミスや文法ミスを恐れてアウトプットの量は少なくなってしまうかもしれません)。「私の生徒が入試の自由作文問題でも何でも、文が書けるようになったのは、書かせる機会をたくさん与えているからだけです」と北原さんは説明します。生徒が書いた英文は、北原さんがコンピュータに再入力し、まとめて生徒に読ませます(一方で、これは継続的なデータとして保管しておくそうです)。英文を読む生徒も、英文が、かつては自分が表現しようとして苦労した同じ絵や写真に関する友達の英文ですから、熱心に読みます。見る-話す-書く-読む、という活動がここでは一体になっているわけです。また絵や写真も、だんだんと生徒の感性に訴えかけるようなものにしてゆくと、生徒は自分の感情も表現し始めます。そうして書いた生徒の英文が多くワークショップで披露されますが、これらを見ていると「公立中学でもここまでできるか!」と思えてきます。

その後、北原さんと田尻さんのしんみりした飲みの話などの興味深いエピソードが語られ北原さんのワークショップは終わります。

 

田尻悟郎 失敗から学ぶ

最初のワークショップ課題は、ヨーロッパの列車時刻表を使ってのものです。三つほどの活動を終えて田尻さんは「実はこれが私の授業の変遷なんです」と説明をします。最初は暗記中心型、次にゲーム型、そして最後に来たのが、これまで学んだ様々な英語の知識を自己表現活動で統合する型です。「私の授業の活動ははたして生徒の力をつけることに役立っているのだろうか」という田尻さんの絶えざる振り返り(reflection)がこのような進化をもたらしたわけです。ワークショップではこの変遷を実感できます。

次は「自学のすすめ」。田尻さんは、「以前に私は『勉強が足りなかったね』といって生徒を泣かしてしまったことがあります」と告白します。その生徒は、実は一生懸命に勉強していた----ただし間違った知識を間違ったままに覚えて勉強していたわけです。「実質上、週3時間以下の中学校英語では、自学(家庭での学習)がないと力はつきません。しかし自学も生徒が『やりたい!』と思う学習か、『なるほど、これなら力がつきそうだ』と納得する学習でないと生徒はやりません」と田尻さんは続けます。そういう考えの下に現在田尻さんが生徒にすすめている自学は、(1)ディクテーションの準備、(2)Talk & Talk(中学生用教材。詳しくは正進社のホームページ http://www.seishinsha.co.jp/index.html をごらんください。正進社の所在地は〒112-0014東京都文京区関口1-17-8、電話は03-5229-7651(営業部)、FAXなら03-5229-7650(営業部))の課題、(3)自己表現(DVDでは修学旅行新聞作り)の三つだそうです。このうちDVDでは(3)について説明がありました。

「修学旅行新聞を作ろう!」といきなり生徒に言っても、生徒は「え〜っ、難しそう」と言います。実際、中学生にとって、修学旅行の体験を英語で表現し、それを新聞にするなど、難しいことに相違ありません。田尻さんは、その難しい活動を分析し、中学生にも「これならできそうだ!」と納得する形に分解します。「中学生にとって難しいのは、語順をマスターすることと、同じ表現ばかりを続けないために(例、I like …I like …I like …)言い換え方を学ぶことです」と田尻さんは説明します。「それらができていたら後は、60センテンスを30日で完成させればいいわけですから、1日2センテンス書けばいいだけです」と田尻さんは言います。そして、田尻さんは、生徒が書かせたいことは項目ごとに日本語で枝分かれ図形式でメモさせます。メモには修学旅行に関する事実か感想を書かせます。さらにそのメモに(1),(2),(3)といった番号を打たせます。それぞれの意味は、(1)は一般動詞を使えば英語で表現できそうな日本語(事実関係が多い)、(2)be動詞を使えば英語で表現できそうな日本語(感想関係が多い)、(3)存在に関する表現(there is構文など)、です。こうしておいて、生徒に英語を書かせるわけです。

英語を生徒が書いてきたら、田尻さんはそれを添削するのではなく、生徒の英文に1-CやB-2といったコード番号を書いてゆきます。これは田尻さんが十数年間の指導の中で抽出してきた結晶である独自の「語順一覧表」と「英語文法・重要表現カルタ」のコード番号です。この「語順一覧表」と「英語文法・重要表現カルタ」を教師・生徒共有のレファレンスとすることによって、「教える授業」から「気づきのある授業」への転換を図るわけです。「語順一覧表」は日本の英語教育の現状に即した独自のもので、「英語文法・重要表現カルタ」は、生徒が下の句を言いやすいように語呂合わせしたり(例「E-5:『どこ』の場所で使う前置詞は、あとに(at on in)風呂見んと(from into)あんたにゃオーバー(under near over)やらんど(around)。ああ、苦労するバイト(across through by to)など」)、直観的にわかるようにしたりしたものです(例「J-26:3種類の『帰宅する』は、後ろ姿はgo home、顔が見えたらcome home、やっとで着いたぞget home」)この二つは、NHK教育テレビの「わくわく授業」で紹介され、問い合わせが殺到したそうですが、現在は『中学校自己表現お助けブック』として教育出版株式会社から教室一括採用教材として販売されています。値段も非常に良心的で(定価300円)、何より田尻さんの長年の指導経験のエッセンスがつまった、気づきのためのお助け本が教室の共有財産になるわけですから、中学校教師の皆さんは、ぜひこの本の採用を考えてみて下さい。教育出版株式会社の電話(販売・供給)は03-3238-6854。住所は〒101-0051東京都千代田区神田神保町2-10。メールならweb-service@kyoiku-shuppan.co.jpへ、名前、勤務先、ご自身のメールアドレスを明記した上で、「『中学校自己表現お助けブック』見本請求」と書いて送信してください。ちなみにホームページはhttp://www.kyoiku-shuppan.co.jp/index.htmlです。

ワークショップの方はさらに、「パンチゲーム」や、アイコンタクトと両手の動きで代名詞の間違いをなくす方法の説明に入ります。両方ともDVDでやり方はよくわかりますが、パンチゲームに関しては上の『中学校自己表現お助けブック』にも掲載されていますし、やり方の詳しくはジャパンライム社から出ているビデオで学ぶことができます(https://www101.rapidsite.net/japa70/php/order/video.php3?cat=18)。

ワークショップは次に中学校一年生の教科書の三行を使った気づきの授業について進みます。ここは素晴らしい。田尻さんはこの三行を生徒に読ませた後で、気づいたことを(日本語で)書かせます。そしてその気づきのメモを隣と交換させます。そうして隣の人の気づきを読んで、「なるほど」と思った箇所には線を引くわけです。「線が引かれていない箇所は何を表しているのでしょう」、「『自分の気づきに線が引かれたこと』と『隣の人の気づきに線が引けたこと』のどちらが大切なのでしょう」という問いの答えには、私もDVDを見ながら大きくうなずいてしまいました。「この活動は、気持ちの荒れた中学二年生によくやります」と田尻さんは解説します。これは生徒指導と教科教育が一つになった素晴らしい実践だと思います。また、田尻さんはこの三行に関する生徒の気づきを紹介しますが、それには子どもが力を出したときの凄さ、子どもの発想の豊かさに驚かされます。「それなのに教師は教えてしまうんです。黒板に書いて整理してしまうんです」とは田尻さんの言葉ですが、これは深い言葉です。

ワークショップは次に「たら・れば連想ゲーム」に移ります。これはIf A, B. If B, C. If C, D. If D, E…とどんどんと連想をしながら英語を発話してゆくゲームです。文法のポイントは、主節にはあるwillが従属節にはないこと。さらにはこれをグループでやり、グループで一巡して連想を続けたら、今度は自分の一つ前の人が言った英文を思い出して言ってみる一つずらし、二人前の発言を思い出して言う二つずらし、三つずらし、と課題を発展させてゆきます(この応用課題は、最初の「たら・れば連想ゲーム」では、生徒が自分の番の時に英語を言ったら安心してしまって、他の人の英語を聞かないという「失敗」から学んだものでした)。またこれらの課題をできるだけ早く行わせると、生徒は英語をいちいち日本語に直さずに、英語で聞いて、英語で覚えるようになると言います。このあたり、ぜひDVDでご覧下さい。詳しくはこれもジャパンライム社から出ているビデオで学ぶことができます(https://www101.rapidsite.net/japa70/php/order/video.php3?cat=18)。

「失敗から学ぶ」と題されたこのワークショップで、田尻さんは何度も「こういうことを私は失敗しました」と言います。しかし田尻さんはその失敗から学びます。失敗を生徒の責任にしてしまうことなく、かといって教師としての自分の実践を完全に否定してしまうこともなく、謙虚に冷静に振り返り(reflect)、肩の力の抜けたところから出てくる自由なアイデアでもって授業を進化させてゆくわけです。素晴らしいワークショップです。最後の感想で、ある参加者は、なぜ多くの人が田尻先生らのワークショップに出かけるかといえば、それは「英語授業のテクニックを教わるだけでなく、教員として、人間としてどうあるべきかを示してくれる、また共感できる」からと書いていましたが、まさにその通りだと思います。

 

高橋一幸司会 悩み事相談

20分にわたって、6人が当日に出た質問について答えます。質問は、絶対評価における関心・意欲・態度の評価、少人数指導・習熟度別指導、自立した学習者を育てるコツ、やる気を失った生徒への指導などについてです。答えぶりを見ていて、6人の方々の静かな自負と自信を感じることができました。さらに田尻さんの「英語ができても気持ちが育たなければ意味がありません」に大きくうなずき、中嶋さんの「英語教育をよくしましょうよ」という締めの言葉にぐっときました。6-wayのこのシリーズはこれで完結です。それにしてもこれは凄いプロジェクトだった。英語教育界の宝です。一人でも多くの人がこれらDVDから学ぶことを切に祈ります。


どの子も英語が好きになりたい 6-Way Street ライブ版(DVD3枚組・360分 5040円)(その2)(2004/4/10)

中嶋洋一 「帯学習」と「のりしろ学習」で授業が変わる!

様々な気づきを促すワークショップです。中嶋さんのややゆっくりとした間合いの語りに導かれて、私たちは何か深いものを学び取ることができます。本当なら当日のように、ワークショップの節目節目で考え、語り合い、深く学ぶべきでしょう。その意味で、この一回きりのライブに参加し、涙することができた聴衆の皆さんは非常に幸運でした。しかしこのライブを見る機会を逃した、私も含めた大多数の人間も、このDVDを何度も見ることによって、学ぶことができます。どうぞこの紹介文をお読みの皆さんも、以下の駄文を読んでわかった気になることなどなく、ぜひ心静かにこのDVDをくり返しご覧下さい。

ワークショップの冒頭は"What time did you get up this morning?"という中学校教科書の本文のような問いかけから入ります。そうしているうちに示される写真の美しさ。見る人間の心が静まります。その後で中嶋さんは、「させる教育(make, force, let, threaten)からempowerの教育へ」というテーマを出します。生徒をempowerするためには「帯学習」と「のりしろ学習」が大切というのが中嶋さんの基本的メッセージです。

「帯学習」とは授業の最初の五分間程度を使って、毎時間継続して行う学習のことです。中嶋さんはこれを(1)集中的・継続的に行う基礎トレーニング学習、(2)できるようになったことに段々変化を加えていく学習、(3)登り棒学習(一斉にやらせる学習)ではなく跳び箱学習(個別・段階別・目的別にする学習)、と定義します。

さらに「みなさんの授業には『のりしろ』はありますか」と中嶋さんは問いかけます。のりしろ学習とは、簡単に言えば、今日の時間と前の時間、そして次の時間を結びつける学習です。中嶋さんはのりしろ学習を、(1)先へ先へと進む学習ではなく、戻してつなげるバイパス学習、(2)ゴールを意識し、「なぜ何のために?」を考え、見通しを与える学習、(3)生徒と生徒、生徒と教師が心を通わせる学習、(4)手順が細分化されている学習と定義します。

のりしろ学習によって「教室内に学びの磁界を作る」と中嶋さんは言います。あたかも砂鉄に磁石を近づけると、砂鉄が一瞬に絵模様を作り出すように、ある教材を与えることによって子どもの今までの知識と理解を一気に統合することを目指すわけです。そのためには教材をどう編集するかが重要で、これのためには複数の教科書を詳しく比較検討することが効果的と中嶋さんは言います。別の言い方をするなら、次々と新しいものを与えるのではなくて、どうやったら子どもができるようになるのかを考え、授業活動にのりしろをつくっておくわけです。

また、中嶋さんは技術家庭の授業案を取り上げ、英語教師は技能教科の教師に学ぶことが多いと言います。その中でふと語る「教師はね、経験じゃないんですよ。年齢じゃないんですよ。子どもをよく見ているかなんです」という言葉にははっとされました。

ワークショップの締めの部分は、英語のスピーチで始まりました。"If you have a dream, you can have a purpose. If you have a purpose, you can have a plan. If you have a plan, then you can evaluate. Evaluation doesn't come first. Your dream does…."というスピーチには胸熱くなりました。やがて日本語に変わり、中嶋さんが、ある荒れた中学校で、ある生徒に「先生、安心して来られる学校をつくってよ。みんなが来たくなる学校をつくってよ。先生たちも元気がないよ」といって渡された曲なんですと言って、「あなたの夢を忘れないで・・・」という歌声が聞こえてくると目頭が熱くなってきました。

最初に言いましたように、これはそれぞれの人が、中嶋さんの語りに導かれて気づきを深めてゆくワークショップです。どうぞ上の文章を読んだだけで、安っぽい判断をしないでください。このワークショップは見る人の感性、問題意識、経験に応じて、気づきを与えてくれるものだと思います。どうぞ何度も見てみてください。

追記:このセッションのDATA(DVD特有の機能です)は特に優れており、当日配られた資料のほとんどが掲載されているだけでなく、当日時間がなくて中嶋さんが言えなかったことや当日の裏話まで補われております。このDATAを参照しつつ、自ら考えながらDVDを見ると、実際のワークショップに参加しているように気づきが深まると思います。最初に見るときから、くり返し見るときまで、どうぞこのDATA機能は十分にご活用ください。

 

菅正隆 英語なんてララーラ・ララララーラ!

しっかり笑わせてもらいました。私の場合、蒔田さん、久保野さん、中嶋さんという順番でこのDVDを見て、ぐんぐんとマジメに英語教育を考えてきたところへ、この大阪の笑いをもらって、なんだかある意味、楽になりました。マジメは美徳ですが、行き過ぎはよくない。別に蒔田さんらがマジメすぎるというわけではないのですが、蒔田さんらの影響を受けて妙にマジメになりすぎてしまったDVDの視聴者にはこのセッションがいい解毒剤(?)になることでしょう。菅さんは一人で喋っても、魅力たっぷりの指導主事ですが、それがこのDVDの6人の中で喋ることによってさらに魅力が増しているような気がします。メンバーそれぞれの個性がよくわかるのもこのライブ版の楽しみです。

映像は、DVD作製の裏話、英語教員研修の台所事情などの話から始まり、見る人は笑いながら菅さんのラディカルな正論を受け入れてゆきます。ワークショップは、ストップウォッチを使ったもの、チャンツをつかったもの、発音ゲーム、絵葉書をつかったもの、発音チェックのためのペアリーディング、書かせる活動としての「海外に手紙を出そう!」と次々に進んでゆきます。どうぞこれらは肩の力を抜いてDVDでお楽しみください。また最後のフリップでの感想には、菅さんがいちいちコメントを返していますが、これまた爆笑。BGMとのミスマッチが最高でした。

菅さんがいることによって6-wayは絶妙のバランスを得ているのかもしれません。

(その3へ続く)


どの子も英語が好きになりたい 6-Way Street ライブ版(DVD3枚組・360分 5040円)(その1)(2004/4/3)

2003年7月26-27日、DVD 6-way Streetを作り上げた菅正隆さん、北原延晃さん、久保野雅史さん、田尻悟郎さん、中嶋洋一さん、蒔田守さんの6人に神奈川大学の高橋一幸さんを加えたメンバーが、筑波大学附属駒場中・高等学校において、「英語教育 6-way Street 1回ライブat筑駒」が行いました。このDVDはその二日間のワークショップのうちの菅さん、北原さん、久保野さん、田尻さん、中嶋さんの分を収録したものです。「英語教育 伝説のライブ」をこうしてDVDで(しかも廉価で!)見ることができることは、英語教育界にとっての大きな財産です。ライブを作ったメンバーとDVD製作・販売会社のバンブルビーさんには心から感謝したいと思います。ここではそのDVD三枚組を一枚ずつ紹介してゆきたいと思います。なお、このDVDは一般のルートでは入手できません。購入後希望の方は販売元のバンブルビーのホームページ(http://www.bumblebee.jp/order.html)をご覧下さい。また6-wayのメンバーによるホームページはhttp://www.bumblebee.jp/6way_site/index.htmlです。これも合わせてごらんください。このページでしか読めない文章があります。

蒔田守 蒔田の授業改革:その手の内幕の内〜生徒・実習生・同僚に耳を傾ける〜

心にしみいる一時間です。教育実践に疲れて絶望的になった時、英語教育の理論や方法論に振り回されてわけがわからなくなった時、生徒指導と英語指導のギャップに悩む時、その他、教師としての自分の心が定まらない時、この蒔田さんの一時間の講演DVDを見てみてください。気負って見る必要はありません。最初の平井堅のLife is another story(「自分を強く見せたり・・・」)の音楽から、少しずつ心を開いてくださるだけで結構です。いや心を開こうとすらしなくてもいいのかもしれない。蒔田さんの語りに、自然とあなたの心は開かれることでしょう。

この講演に関して、私は小器用にまとめたり、小賢しくコメントを加えたりしたくはありません。平井堅の歌の歌詞の話から、四泊五日の水泳合宿での生徒指導の話になり、中学生が自由創作する英語スキットの話とビデオになり、また平井堅の歌の歌詞が出てきて「はっ」として、水谷 恵信さんの『手渡そう子どもに生きる力―北海道余市「恵泉塾」での体験から』の話になって、最後の『砂の上の足跡』という詩に改めて感動したと思ったら、蒔田さんの「重くてごめん。ありがとう」という詩の解釈の言葉に目頭が熱くなり、最後の「生徒は・・・」、「同僚は・・・」、「(授業の)参観者は・・・」という言葉に心打たれた私の心の動きは、簡単には言葉にできません。苦労して言葉にしたとしても、その拙い言葉は、この講演を見ずにこの拙文だけ読んでいる皆さんをただ迷わすだけでしょう。ちょうど凡庸な音楽評論が、素晴らしい音楽の感動を台無しにするように。

とにかく見てみてください。現場を抱える教師ならきっと心が動き開かれるはずです。心の深いところに力をもらえるはずです。私は見終わった後、モニターに向かって拍手をしてしまいました。

久保野雅史 中・高6年間を見通した授業と評価の構造改革

久保野さんはそんなことは一言もいいませんが、映像から「教師としてやるべきことはきちんとやっている」といった久保野さんの自信が自然と伝わってくるワークショップです。私も教師の一人として、「よし、やれることをきちんとやってゆこう」と元気づけられました。もしあなたが「明日の授業にすぐ役立つテクニック」ばかり追い求めて、結局自分が生徒にどんな力をつけたいのかを見通せなくなっているのなら、ぜひこのワークショップを見て下さい。

最初に久保野さんは、教え子の高校生による、チャップリンの『独裁者』の最後のスピーチの暗唱の様子をビデオで見せます。このような成果は、久保野さんによるなら「あまりに管理的で機械的に見えるので、授業参観者ががっかりする授業」によって達成されていると言います。授業のうわべの楽しさよりも、「一年後にコミュニケーション能力がついていることの方がよほど大切」と考える久保野さんは、6-way上巻でも紹介されたような「管理的、機械的」な訓練を生徒に課すわけです。しかし「管理的、機械的」といっても、久保野さんが生徒の心をしっかりとつかんでいることはこのDVDからもよくわかります。久保野さんが新採用の時から20年間以上ずっと行っている卓球部指導と通じるところが大きい指導のように思えました。

久保野さんは「生徒が、最後に何ができるようにしたいのか。それをはっきりさせて、そのために何をすればよいのか」という"backward planning"あるいは「逆算方式」を取ることの重要性を説きます。目標を、言葉の上で明確にするだけでなく、行動に翻訳して、その行動ができることを評価し、その行動ができるようにするための指導を考えるという評価と指導の一体化が久保野さんのやり方です。「しかしあんまり厳密に年間計画をたてると、計画に従うことが自己目的化してしまいます。計画はある程度ゆるやかに作って、計画の練り直しもおこなうことが大切です」と久保野さんは言います。このあたり、久保野さんが理屈からだけでなく、自分自身の経験からも語っている強みが感じられます。

ワークショップはスピーチ指導についてのセッションに移ります。スピーチの指導をした結果としてよくあるのが、参加者が聞いてわからない英語になっているスピーチ、下を向いて話すスピーチ、暗記だけに一生懸命になって宙を向いての機械的な再生になっているスピーチです。「これでは話す活動になっていませんね」と久保野さんは指摘します。自然な「話す活動」をするためには、メモを見ながら聴衆とアイコンタクトをかわしてスピーチをさせる指導を久保野さんは勧めます。また、話すスピードも大切。速ければいいというものではありません。丁度よく間を取ってのスピーチは1分間100語と久保野さんは言います(ちなみにVOAのスピードは115語程度だそうです)。「100語というのは10センテンスです。スピーチ指導とはどうこの10センテンスを書かせるかということです」と久保野さんは具体的な数字でスピーチという目標を記述し、スピーチ作成に関する不要な心理的負担を減らしてゆきます。このあたりの詳しいことはぜひDVDでどうぞ。

さらに「教師がスピーチの添削をしても案外生徒は喜ばないものです」と久保野さんは言います。久保野さんのやり方は生徒同士に読ませコメントを付け加えさせるもの。A,B,Cの三人の生徒を一グループにして、第一ラウンド(一分間)でAのスピーチをBに、BのスピーチをCに、CのスピーチをAに渡します。そこでそれぞれが赤ペンで、読んでよくわからないところ、直した方がいいと思われるところ、いいと思えるところなどについてコメントを書きます。第二ラウンド(一分間)ではAのスピーチをCに、BのスピーチをAに、CのスピーチをBに回して今度は青ペンでコメントを書きます。こうして二人のモニターが入ると生徒はそれらから学ぼうとするそうです。そのコメントを元に生徒は自分のスピーチを書きなおしますが、その間、教師とALTが机間巡視をして適宜指導をするそうです。

またスピーチ指導の場合は、生徒はモデル音声のない英語を音声にしなければならないわけですが、このように「モデルなしに意味ある音を作り出すことも練習しなければできません」と久保野さんは言います。これは一学年下の他社の教科書を使ってやるといいそうです。

その他にも「Don'tsの指導ではなくDosの指導を」、「100回小言を言って生徒ができるようになるのなら私は100回言います。でもそれでは生徒は変わりません。だから具体的に指導するんです」、「復習のやり方も一度練習させてみてください。『復習しておけ』だけで生徒がきちんと復習できるかどうかはわかりません」、「日本の環境での英語学習で『自然にできるようになる』ことはあまり期待しない方がいい」、「やらないことはできない。だからやらせる」といったように、目標行動を達成するために、細かなステップを具体的に設定し、授業を確実に改善するための指針が次々に示されます。生徒の力をつける授業を求めているなら、ぜひご覧下さい。

(その2に続く)


中村敬+峯村勝『幻の英語教材----英語教科書、その政治性と題材論』(三元社、2300円)(2004/3/26)

歴史がなければどんなに楽でしょう!----過去は忘れ、今だけを考える。未来のことなどかまわない。強きにつき、弱きを見捨てる。強者が変わればそれに従うだけ。理想や正義など知りはしない。考えるのはただ己の安寧と繁栄のみ----しかしそれでは私たちの生活はどう動物と違うのでしょうか。

1988年にすでに文部省教科書検定をパスしていた三省堂による高校英語教科書FIRST ENGLISH SERIES II(以下『ファーストII』)は、自民党国家基本問題同志会を中心とする批判にさらされ、三省堂側は問題の課の「差し替え」をするという苦渋の決断をし、文部省もそれを了承します。この本はその本の著者(中村さん)と当時の編集長(峯村さん)が、それから15年たった「今なら冷静に事件を総括できることができる」とまとめあげたものです。

事件の詳細は同書にゆずりまして、ここでは簡単にそのあらましを述べますなら、1988年9月14日に自民党国家基本問題同志会は、『ファーストII』が、(1)日本人が一番残酷な国民であるとしている、(2)伝聞のまた伝聞で書いている、(3)情操教育の面から内容が不適切である、という趣旨の記者会見を行いました。『ファーストII』で扱われた太平洋戦争での日本人兵士の残虐行為の記述が批判の対象になったわけです。この記者会見の模様は翌日、新聞各紙がいっせいに報道し、テレビでも取り上げられました。しかし著者にはマスコミからのコンタクトは一つも無く、著者の立場を伝える報道は一つもありませんでした(私見ですが、このマスコミの一方的な報道が事件の火をつけたといっても過言でないように思います。日本のマスコミは権力者の広報機関になりさがっているとはしばしば言われることですが、この経緯もその懸念を裏づけしているように思えてきます)。このマスコミの一方的な報道が問題なのは、(1)が極めて表層的な誤読によるものであること、(2)は文部省の教科書検定の結果によってそう読み取れるようになったものであり、記述を裏付ける資料は用意されていたこと、(3)に関する著者の見解が一切伝えられなかったこと、によります。

さらにこの教科書問題は、記者会見の引き金となった『神社新報』での記事を書いた田中卓さんによる『諸君!』での批判記事につながりますが、中村さんによるならば、その記事は「『反日』『反米』『親ソ』『自虐的』といったことばで『ファーストII』をくくってしまっている」ものでした。中村さんは同書でこう振り返ります。

「反日」「反米」「親ソ」といった相手をくくってしまうことば遣い(それを筆者は「レッテル貼り」と呼ぶ)がどんなに冷静な議論を困難にしているかをわれわれはもっともっと考えるべきである。こうした「黒か白か」の判断を迫ることば遣いを「くくりことば」と呼ぶ。こうしたことばによって相手をくくると、この国に住んでいる人間は「国民」か「非国民」、「敵」か「味方」しかいなくなるのである。これでは議論にならない。議論(argument)は、相手をおとしめることではない。ことばによる知的で生産性のあるゲームなのである。「くくりことば」を使っている限り、知的生産性はゼロに近くなる。このような言語使用は論争の相手にも同じようなことばを使わせるようになり、意見はひたすら分極化(polarization)し、最終的には相手を抹殺しなければ事態は決着しない。(pp.25-26)

しかし、このような問題を引き起こしたのは、そもそも著者が物議をかもしそうな題材を教科書に選んだからであり、英語教育はそのような題材を避け、英語が話せるような訓練に徹すればよかったのだ、と思われる方も多いでしょう。そういった見解に対して中村さんはこう言います。

人は言うだろう----、「英語が話せるようになる教育をして何が悪いのか」、と。事実何も悪くない。もっともっと話せるように教育すべきである。しかし、「話せる」ための教育が、教育という大きな枠組みの中のどのような位置を占めるべきかを認識しないで実施されると、「話せるようになること」自体が目的と化して、教育とは名ばかりで「調教教育」となる。"調教"は厳密には教育ではない。教育でないことを学校で実施するのは学校教育の破壊である。"調教”は条件反射的に反応を示すことができるように学習者を習慣づける一つの訓練である。外国語を本格的に身につけるのにはこうした過程を一時期通らねばならない。しかし、「学校」における外国語教育の場で、そのことを最大の目標とすると、"調教"に順応できない学習者は直ちに「落ちこぼれ」となる。(pp.58-59)

この教科書問題は政治と教育の関係の問題であるだけでなく、すぐれて教材の題材内容の問題であるというのが中村さんと峯村さんの見解です。峯村さんは、英語教育の目的を「効用論的目的」と「本質論的目的」に分けた上で次のように言います。

しかし、子どもを目の前にして日々授業で苦闘している教育の現場では、様子は少し違っていた。日本社会の英語に対する熱狂にもかかわらず、学校の英語教育が子どもの英会話願望に応えるというのは偽装であり、技能主義英語教育は子どもの真の教育要求とはかみ合わないのである。教育の現場では、こどもの真の教育要求に応える英語教育が求められている。子どもの英語教育に対する教育要求は、言語について学びたい、言語について知りたい、言語能力を伸ばしたい、という願いであろう。言語について深く学び考えることなしに、英語であれ日本語であれ、言語能力を伸ばすことは不可能である。英語教育の本質は言語教育であり、まさに言語について学び、言語能力を伸ばすことが英語教育の目的である。それは英語教育の「本質的目的論」である。

言語能力を伸ばすためには、言語について学ぶこと、考える力をつけること、技術・技能を習得することの3つの要件が不可欠である。言語の本質、構造、機能について学び考えること、考える力としての論理力、批判力、想像力、そしてそのような力をことばの理解や表現に適用する能力としての技術・技能である。そのような言語能力を身につけるためにはどんな教育・学習が必要であるか。それは英語教育の本質の問題である。

本来、言語能力というのは人間の総合的な能力であるが、特に言語能力と思考力は不可分の関係にある。それは、言語表現は音声や文字、語彙や文法などの言語形式と共に意味の問題であり、言語表現の表す意味を理解することは、論理力、批判力、想像力といった思考力なしには不可能であるからである。

ところが昨今、英会話志向の技能主義的な英語教育が進められる中で、論理力、批判力、創造力などの思考力と言語能力との関係はほとんど問題にされることもなく、ドリル、練習、訓練など、言語習得のための活動が「言語活動」とか「コミュニケーション活動」と称して極端に強調されるようになった。「学ぶより習え」「習うより慣れろ」ということである。このような考え方は、技能主義的英語教育の必然的な結果であるが、そこでの言語習得論の信念は幼児の言語習得がモデルである。そこでは、言語に対する意識的・自覚的な学習や思考力と言語能力との関係などは問題にならない。

もちろん、英会話などの言語運用能力の習得にドリルや練習、訓練、言語活動や言語体験が不可欠であることは当然のことである。しかし、英語教育が英語の習得という言語の運用能力養成を目的とする「練習」と「訓練」の教育に終始するならば、それは言語とコミュニケーション、言語能力の矮小化であるとの批判を免れないであろう。学校の普通教育としての英語教育は、言語能力の全面的な発達を保障するための基礎学力の養成を目指さなければならない。ことばに対する深い学びと思考力・判断力の養成、それと結びついた技術・技能の基礎・基本の習得によって形成される基礎学力が、英語であれ日本語であれ、確かな言語能力を保障することになるであろう。それが英語教育の「本質的目的論」の課題である。(pp.158-159)

この本には、『ファーストII』の題材が、問題となった課だけでなく、全部再掲されています。英語教育目的論は、とかく観念的なことばの応酬だけに終わりがちですから、どうぞこの教科書問題は、この題材再掲も含めて同書を読んでゆっくりお考えください。ちなみに私の正直な心の動きは、この本を読む前は私も当時の新聞報道しか知らなかった(覚えていなかった)ので、「あのような記述をするのは、やはり教科書としてはどうか」というものでしたが、この本の論を読みその当時の著者側の事情と見解を知り、題材再掲で教科書の全体像を知るにつれ、この教科書が「理想主義の追究」(p.89)であったという著者の思いには説得されました。この教科書は平易な英語で深い内容を表現した見事なものでした。著者の並々ならぬ力量と見識を感じました。英語力向上が叫ばれる現状で、このような「ややこしい」問題を避けるのは簡単でありますが、やはりこういった問題は各自の頭を使って考えるべきでしょう。 


市川力『英語を子どもに教えるな』(中公新書ラクレ 760円)(2004/3/17)

タイトルはセンセーショナルですが、内容は、著者の米国在住日本人子女対象の「塾」経験と取材に基づく落ち着いたものです。著者は現代社会において英語は必要であると考えていますが、現在の日本には「甘い幻想」があると指摘します。

たとえ母語とともに外国語を学習する能力が子どもに潜在的に備わっているとしても、「動機づけ」「適切な環境」「適切な方法」のすべてがそろっていなければ、バイリンガルとして育たないという認識が抜け落ちている。(中略)私は、アメリカで育った日本人駐在員の子どもたちとの関わりを通じて、英語環境の中にどっぷりとつかることで、ネイティヴ並みの発音で日常会話はできるようになっても、なかなか十分な読み書き能力は身につかない、母語である日本語の力を育てるのが難しい、母語喪失のリスクを負ってまで獲得した英会話の力も日本に帰国して使う機会がなければみるみるうちに失われていく、といった事例に数多く接してきた。この経験から、いくら早い年齢から子どもに英語を教えたとしても、並大抵のことでは、母語・外国語ともに「話しことば」だけでなく「書きことば」でも優れた能力を発揮できる、バランスのとれたバイリンガルにはなれないことを痛感した。(iii-iv)

こういった著者の懸念は、中途半端な第一・第二言語教育を行うことによって、子どもが「セミリンガル」にしか育たないかもしれないという事例に基づく認識から来ています。「セミリンガル」とは第一言語(母語)も第二言語も「日常会話言語」(「遊び場言語」(playground language))レベルに止まり、論理的な説明や議論、問題解決の筋道を説明する際に使われる「教科理解言語」(「教室言語」(classroom language))の運用に問題がある状態を指す用語です。

セミリンガルの言語力では、第一言語でも概念的な文章に対応できず、第二言語でも「ぺらぺらしゃべれる」だけで、高度知識社会の中では活躍することができません。著者はこう言います。

私がアメリカにいる時に知り合ったアメリカ人で、日本なまりの発音で英語をしゃべることを否定した人は誰もいなかった。むしろ単に「fluent」であることに何の価値もないと言われたことがある。「英米人以外の人々が英語を話す時に、期待されていることは『fluent』に話すことではなくて『informative』な内容を語ってくれるかどうかである」。これはアメリカの現地校の先生を始め、いろいろなアメリカ人がアドバイスしてくれたことである。つまり、相手のアメリカ人が知りたい内容、興味深いと感じる内容の話をすることが何より大事で、そうでなければ、いかにネイティヴ並みの発音で、ぺらぺら語ろうと聞いてもらえない。多大な時間をかけてネイティヴ並みの英語力をめざすことよりも先に、英米人を納得させるだけの「話題」を持ち合わせる努力が必要なのである。(p.108)

これまで私たちは、英語力のある人のことを「ぺらぺら」ということばで形容してきた。しかし、実は「ぺらぺら」とは、どういう状態のことを指すのかきわめてあいまいなのにもかかわらず、あまり深く考えずにこのことばを用いていると言えよう。いい発音で定型句を並べていけば、非常に高度な英語力を持っているように見える。その意味でいくら英語が「ぺらぺら」になったとしても、人間性と知識が「ぺらぺら」ならば、国際社会でまったく相手にされないだろう。まずは、外国人に伝えたいアイデアや意見を持つことが何よりも大事である。それがないから話せないのであり、英語力だけのせいにして妙なコンプレックスにこりかたまっているのは、まったく筋違いであることに気づかなければならない。英語ぺらぺら幻想から目覚めることが、今いちばん英語教育において必要なことなのかもしれない。(pp.112-113)

かくして著者は、「とにかく早いうちから英語を教えよう」という、せっつかれたような昨今のブームに対して批判的なスタンスを取ります。いまや全国各地で、小学校からの英語教育の試みが始まり、正直私もあまりに多いそれらの情報をつかみかねているのですが、いくつかの試みでモデルにされているのが加藤学園暁秀中学校と高等学校の実践のようです。しかし著者は次のように述べ、加藤学園の真似をすることが容易なことではないことを示します。

加藤学園暁秀中学校と高等学校の特徴は、単に英語のイマージョン教育を行っているということではなく、インターナショナル・バカロレア・ミドルイヤーズ・プログラムとディプロマ・プログラムとによる中高一貫六年教育を実践している点であろう。

インターナショナル・バカロレア・ディプロマ(以下、IBディプロマ・IB=International Baccalaureate)とは、スイスにある国際バカロレア機構の定めるカリキュラムに従って学習を進め、最終試験にパスした時に得られる資格で、この資格を高得点で取得すれば、イギリスのオックスフォード大学、アメリカのイェール大学、フランスのソルボンヌ大学などの海外の非常に優れた大学への入学を許可される。さらに、かなり好成績でIBディプロマを得た学生は、大学での科目の履修単位をもらえることもあり、学費と在学期間を節約できるので、海外の大学に進学するにはきわめて魅力的な資格なのである。

IBディプロマが、世界共通の基準として各国の高等教育機関で受け入れられている理由は、生徒の学力評価基準が厳密だからである。世界中に存在するIB加盟校の生徒の成績は、国際的権限を持つ試験委員長に率いられた2100名の試験委員によって校正かつ厳密に評価される。一例を挙げれば、外国語の能力を評価しようとする場合は、筆記試験だけでなく、試験委員と交わした会話を録音し、流暢さ、語彙の豊富さ、文法構造について評価する試験方法もとる。その学科特有の性質を考慮して、生徒の実力を正当に評価するために、あらゆる部署で膨大な作業がともなってもさまざまな方法を組み合わせて判断を下す。この結果IBの成績評価は、非常に信頼されるのである。

加藤学園暁秀中・高では、中一から高一までの四年間、IBディプロマ・カリキュラムに進むための予備プログラムであるIB MYP(Middle Years Programme)に従って学習し、高二・高三の二年間、IBディプロマ・カリキュラムをこなすことで、最終的にIBディプロマの取得をめざす。(pp.136-137)

このような高度な基準を満たすため加藤学園暁秀中・高では一学年を30名以内に絞り、かつバイリンガル教育ディレクターは、単に英語を教えるだけではなく、MYPとIBディプロマ・プログラムに対応できる専門知識のある人材を求めて、一年の三分の二を先生のリクルート活動に費やしているそうです。

日本の英語教育が目指しているのは、どのレベルの英語力なのでしょう。いやこの言い方はあまりに粗雑過ぎるかもしれません。これでは無益な議論ばかり生み出しかねません。私の教育機関はどのレベルを目指しているのでしょう。私の生徒はどのレベルを望んでいるのでしょう。まずは、個別的かつ具体的に目標設定を行うことが私たちに必要なのかもしれません。そういった地道で実際的な議論こそを私たちは行うべきなのでしょう----この本を読んで、私はそんなことを再認識しました。


斎藤栄二『基礎学力をつける英語の授業』(三省堂 2200円)(2004/3/11)

教育実習を控えている学部生、就職したはいいが自分の授業の核が定まっていない新人教師、自分の生徒の学力が伸びないことを仕方ないことだと思っているベテラン教師----こういった人が、少ない時間とお金の制限の中で一冊だけしか本を買えないとしたら、私はこの本を薦めます。

具体的で誠実な本です。具体的というのは、キー・センテンス定着のためのStructure Makingゲーム、Sentence Makingゲームそしてショート・テストのやり方を詳しく説明し、さらに内容理解を英語のリスニング・スピーキング中心で行うCrisscross方式、内容理解定着のための穴埋め方式、生徒に進んで音読をさせるためのスタンプの使用や学級暗唱大会、音読と内容理解を結びつけるためのRead and Look up方式、中高の現場にあったShadowing、学んだ英語をしっかりと定着させるための暗写方式について、詳しく「明日の授業に使える」ように説明しているからです。

誠実というのは、上のような活動を紹介するだけでなく、どう効率よく採点するか、どのような方針で採点するか、生徒はどんな時に立たせて活動させればいいのか、どのように立たせるのかといった、実際に授業を運営をすれば出会うであろう諸問題にもきちんと触れているからです。また、自由英作文の評価をどうするかといった、誰もが避けがちなトピックにきちんと一つの指針を示しているからです。さらには最終章の「英語教育改革試案」に示されているような、時代と国と人間に対する冷静で温かい態度が著者にあるからです。

この本をもとに、自分なりのアレンジを加えてゆけば、授業の核ができあがるのではないでしょうか。


山田雄一郎『言語政策としての英語教育』(渓水社 3500円)(2004/2/28)

 人文系の大学人の責務とは何でしょうか。自らの専門の研究を極めることはもちろん、その結果を広く社会に公表し、あわただしい世間のペースでは考えられなかったことを多くの人に考えさせ、様々な気づきをもたらすこと。落ち着きのない喧騒から一歩身を引き、静かに考え、その考えを節度と品位のある文体で語ること。その文体で、読者に落ち着いた態度というのを思い起こさせ、喧しいだけの騒動の無益さを悟らせること----こういったことが人文系の大学人に求められていることではないのでしょうか。「文人」といった言い方はもはや死語のようですが、文人たることが人文系の大学人のあり方ではないでしょうか。

 この『言語政策としての英語教育』は文人による作品です。グローバリズム、JETプログラム、小学校における英語教育、英語公用語論、「英語が使える日本人育成のための戦略構想」といった、しばしばジャーナリスティックにあるいはセンセーショナルにしか語られない言語政策の諸問題を、筆者は落ち着いたスタンスで説き語ります。その説き語りを支えているのは、広範な文献資料です。筆者は学術書を読み解くだけでなく、インターネット上の海外新聞も実に丹念に読み解きます。そうして得られるヨーロッパ(特にイギリス)やアジアの事情と日本の事情を比較することにより、筆者はバランスの取れた論考を行います。

 それにしてもこの本は文体がいい。単に、ですます調を使っているからというのではなしに、筆者の落ち着いた物腰と態度がそのまま浮かんでくるような文体で、読む私の肩も自然に降りてきました。丁寧に考え、静かに語ることの喜びを私も思い出しました。

 もちろんこの本の真価は文体よりも内容にあります。JETプログラムの実情、小学校英語教育政策の曖昧さ、英語公用語論の浅薄さなどは、資料と論説から明確に浮き彫りにされています。

 言語政策に関する文章というのは、とかく、思いつきだけの空回りの発言、頭に血が上った提言、大言壮語、悲憤慷慨調の呪詛、あるいは何かを血祭りにあげるような一方的な非難などが出やすいジャンルではないかと思います。ましてや現在グローバリズムの大波の中、私たちは落ち着きを忘れ、右往左往しがちです。そんな中、この本は、数少ない良心的な人文系の学術書となっています。この本は広島修道大学総合研究所の出版助成を受けていますので(『広島修道大学学術選書22』)値段も、3500円と、この内容からすれば非常に良心的になっています。日本の言語政策について丁寧に考えたい方すべてにお薦めしたい本です。特に、人文系の文章で英語教育を論じたいと思う人には、この本はひとつの規範になると私は考えます。


鳥飼玖美子(監修)『はじめてのシャドーイング』(学研 1700円 音声CD付き)(2004/2/27)

鳥飼玖美子さんを監修者とするこの本は、「通訳者でもあると同時に大学教員として英語教育に携わりながら、英語学習におけるシャドーイングの実証研究を続けて」きた玉井健さん(神戸市外国語大学)、染谷泰正さん(青山学院大学)、田中深雪さん(立教大学)、鶴田知佳子さん(目白大学)、西村友美さん(京都橘女子大学)によって、「シャドーイングを正しく理解して英語学習に役立てて欲しいという共通の願いを抱いて」書かれたものです。

この本ではいくつかのシャドーイングの効果をあげていますが、その中で私の印象に残ったのが「『通じる英語』が話せるようになる」でした。個々の発音の重要性は踏まえた上で著者はこう言います。

しかし、「通じるかどうか」という基準で見ると、thなどの個々の音よりも、むしろ強弱の位置やリズムのほうがポイントになることが多いのも事実です。たとえ子音の発音が多少不正確であっても、強める位置さえしっかりしていれば案外わかってもらえるものです。

こういった考え、および何よりも実際の通訳者訓練に基づき、この本では次の六段階を「標準演習パターン」とします。

(1)シンクロ・リーディング(聞き読み):モデル音声を聞きながらテキストを黙読する(あるいは小さい声で音読する)。

(2)プロソディ・シャドーイング:テキストを見ずに、意味取りは特に意識せず、原文のリズムに乗って、聞こえたとおりに忠実に「音」を再現する。

(3)語句の確認とプロソディ分析:自分にとってなじみのない語句を調べ、さらに英文がどのように読まれるかを各種の記号でテキストに書き込んでゆく。

(4)コンテンツ・シャドーイング:テキストの意味内容にも注意を向けながらシャドーイングをする。

(5)音読:モデル音声なしで原文のプロソディをきちんと再現できることを理想とする。

(6)音読テープのチェック:録音テープを聞いて欠点や癖をチェックする。

本には、上のような解説が詳しく書かれた上、プロソディ分析や具体的な解説がついた10テキストと音声CDがついており、1700円という価格設定は良心的であるといえます。また、巻末の参考文献(「シャドーイングについてもっと知りたい人へ」)と付録(「通訳訓練に関する用語集」)は非常に重宝です。

ここで説明されている方法をそのまま中高の教室で用いるには少々無理があるでしょうが、英語教師の自己訓練のためにはよい一冊といえるでしょう。


良書推薦のお願い(2004/2/26)

この度、大修館書店より『英語教育10月増刊号』に掲載の「英語教育図書、今年の収穫、厳選○本」の執筆を依頼されました。私の身に余る仕事なので、躊躇もしましたが、これも勉強・挑戦と思い、引き受けさせていただきました。

書くからにはきちんとした原稿を書こうと思いますが、何せ私一人が目にする本の量は限られています。私の無知ゆえに良書をその原稿から落としてしまうことは何としても避けたいところです。

つきましては、皆様におかれまして「これは!」と思う本(ビデオ・DVDも可です)がございましたら、著者、タイトル、出版社などの情報を柳瀬のメールアドレス(yosuke@hiroshima-u.ac.jp)か、掲示板「広場」にご一報願えませんでしょうか。2003年から2004年にかけて出版されたものが対象です。よりよい英語教育界づくりのため、ご協力願えたら幸いです。


三熊祥文『英語スピーキング学習論----E.S.S.スピーチ実践の歴史的考察』(三修社 2400円)(2004/1/31)

学校と親だけが生徒・学生を育てているのではありません。生徒・学生は、友人同士、両親の知り合い、近所の人などなどの人からの影響を受けて育っています。もちろん、塾や予備校からの影響もあります。しかし学校や親以外の影響というのは、なかなか研究の対象になりません。でもそれでは生徒・学生の学びは十分に捉えられないままです。

英語学習にしても、明治以来多くの学生が英語会(English Speaking Society: E.S.S.)によって学んできました(私もその一人です)。しかしその歴史研究や分析は、正式の学校制度の研究が多くあるのに比べてほとんどなされなかったといってもいいでしょう。

本書は英語会のスピーチ実践を歴史的にたどり、かつそれが果たした役割を分析した研究書です。学位論文が基になった本ですから、論述は堅実で、資料参照は充実しています。

歴史的記述に関しては、具体性にこそその意義がありますから、本書を読んでいただくこととして、分析について、その主張をごくごく簡単にまとめるなら、「英語教育のスピーキング領域においては、英語スピーチの啓蒙体系のうちスピーチたる独自性を持つ領域である発想(Inventio)と配列(Dispositio)すなわち『思想表現』が、その研究対象として成立していない」(p.35)状況であり、そういった状況で「E.S.S.においてスピーチを行うことは、学習者であるスピーカーを介在して正課の英語教育で提供されている英語学習内容が教室の外、学校の外へと開放されて行く道筋を作っている」ことであり、「いわば、英語学習者、あるいは英語学習項目の『社会とのインターフェイス』として機能していた」(p.71)というものです。

さらに著者は最終章では、大学の卒業論文で英語コミュニケーションについての論文は書かれても、発想に始まり、配列、文体、記憶において練り上げられ発表される「スピーキングの実践」はほとんどの大学でなされていない現状を指摘し、芸術系の分野が卒業作品の作成と展示を卒業要件に含めるように、英語系の学科では「オーラル作品」としてのスピーチの作成と発表を卒業要件として積極的に認めるべきではないかという見解を示します。これは著者自身が、長年献身的な努力で学生のスピーチを育て上げている、見るべき人が見れば驚くほどの実績(http://www.hicat.ne.jp/home/mickmar/)を持つだけに説得力を持つ提言となっています。

E.S.S.スピーチが英語スピーキング学習において果たしてきた役割を明らかにし,日本の英語スピーキング教育に対する今日的意義を解明した本書は、おそらく日本で唯一のE.S.S.を扱った学術書として、関係者にとって貴重な書です。


鹿野晴夫『TOEICテスト900点を突破する集中トレーニング』(中経出版 1400円・CD付き)(2004/1/22)

 これは、もともと理系出身で英語が苦手だった著者による、その経歴ゆえの、素晴らしい英語自己トレーニングのガイドです。英語が苦手な人にとってはエベレスト登頂のようさえに思える高い英語力に至る道を、懇切丁寧にわかりやすく、努力すれば誰でも到達できるように示しています。

 著者は、英語から逃れようと、英語に関係ない職場を選んだら海外出張を命ぜられ、TOEICを初めて受験したら335点でした。しかし千田潤一先生のトレーニング方法に出会い、ビジネスマンとしての忙しい毎日の中で、1年で610点、2年3ヶ月で760点、3年半で850点、さらに3年半で900点台に載せました。その試行錯誤の末のノウハウが惜しげもなくわかりやすく整理された本書は、英語に挫折を繰り返す人には万金の値を持つ本となるでしょう。英語が苦手な方、英語が伸び悩んでいる方だけでなく、英語を教える立場にある方にもお薦めです。

 考えてみたら英語が得意な人文系のアドバイスは、それなりの偏りがあります。英語が苦手な人の気持ちや体験がわかっていないかもしれません。英語に才能を持ち、時間をかけられる自分の学習経験を、皆に押し付けようとしているのかもしれません。人文系にしばしば見られる熱い思いはあっても、理系に特徴的な冷静な分析に欠けるかもしれません。英語が得意な人文系の英語教師の皆さんにもお薦めする次第です。

 著者は、現在、英語のトレーナーとして各種企業で講演をしているだけでなく、英語教育達人セミナーや各県主催の英語教師講習会でも講師をしています。でも印象的なのが、企業での講演で「『1日30分以上、机に向かえ』と言ったら二度と仕事はいただけない」という著者の体験です。この本は、そのように仕事で忙しく、英語学習環境に恵まれないビジネスパーソンを相手にしている中から進化してきた英語トレーニング方法を掲載しています。方法が合理的であるのもうなずけます。

 本書は、三種類のトレーニングと二種類のマネジメントから構成されています。

 第一のトレーニングである最速トレーニングに関しては、このHPの「随想」での達人セミナー報告で部分的に取り上げたこともありますし、この本の眼目ですから、ぜひご自身で確かめてください。

 第二のトレーニングである楽習トレーニングは、疲れていたりしてどうしても集中してトレーニングができない時のための楽にできるトレーニング方法です。こういった発想も英語に時間が割けないビジネスマンだからこそ出てきたのかもしれません。さらにここでは、時間の点だけでなく、基本的だけれども単調なトレーニングに飽きてしまって、感性的にトレーニングを受け付けられない時にするべきことも書いてあります。私もこれは重要なことだと思います。

 私の体験を語らせてください(願わくは、これが人文系の語りの悪い例ではないように!)。私は大学に入学して自分に課したトレーニングの主なものはNHKラジオ英語会話のスキットを毎日ディクテーションして暗唱することでした。最初の三ヶ月はディクテーションが苦痛でしたが、次第に耳も英語の発音に慣れてきました。私もそれなりにバイトで忙しい生活をおくっていたので小型のラジカセを持ち歩いて、授業の前などの細切れの時間を使って、イアフォンをつけてディクテーションをしていました。暗唱にも次第に慣れ始め、最後頃には6回音読したら大体覚えられるようになりました。

 しかしそれを二年間続けて、三年生になった春に同じことをやろうとすると、感性的にどうも受け付けられませんでした。人工的な英語に飽きてしまったのです。それからペーパーバック、あるいはTIMEやNEWSWEEKを読み始めました。大学院生になってからはビデオデッキを買って、映画を何度も繰り返して、二度目からは字幕を隠して見ました(特にコメディはよく見ました。コメディは、結構高度な言語センスにあふれています!)

 この本では海外テレビ・ラジオ、英字新聞、DVDなどについて「楽習」のノウハウを書いていますが、私も基本構文のトレーニングの重要性は十二分に認めながらも、こういった「自然な英語」に触れることは、非常に重要だと思います。人工的な教材では学びがたい英語の感覚というものはあると思うからです。でもいきなり海外テレビ・ラジオ、英字新聞、DVDにトライしても挫折するのがおち。やはり基本トレーニングが最初です。

 話を本書の構成に戻します。第三のトレーニングはTOEICトレーニング。この発想も合理的です。いくら目的は英語が使えるようになることであり、TOEICで高いスコアを取ることではないにせよ、英語力の「ものさし」としてのTOEICスコアの高低に一喜一憂してしまうのが人情というものです。それなら、TOEICの狙いを理解した上で高いスコアを狙うことは意義あることです。これは決してTOEIC至上主義ではありません。たとえていうなら、空手でも同じです。目的は強くなること、強い人間になることです。でもやはり試合には勝ちたい。負けが続けばやる気も失われてゆきます。それなら「人間的強さ」といった抽象的なことは一時忘れて、試合のルールでどのようにすれば合理的に勝てるのか分析することは、結果的に空手を続け、人間的な強さを目指すことにもつながってゆきます。このトレーニングを含めた著者の現実感覚がうかがえるように思えます(余談ですが、このように偉そうに空手を語る私ですが、ここ半年以上、ほとんどまともに身体を動かしていません。空手も再開できるのかしら・・・)。

 三種類のトレーニングの後には二種類のマネジメントが続きます。上の話とも絡みますが、トレーニングを継続するということは、それほど容易なことではありません。そのために著者は「達成マネジメント」のノウハウを示します。それでも失われそうな気力を保つためには「気力マネジメント」を示します。このあたりは「元・英語難民」の著者ならではのところなのかもしれません。

 非常にわかりやすく書かれ、一気に読める本書ですが、まずはCDを聞きながらワークショップ形式で最速トレーニングを体験するのが一番かもしれません。この72分の「生講演」CDがついて1400円とは、価格の面でも非常に良書であるといえましょう。


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