質的研究に関する私的ブックガイド


ここでは、学問的にも国際的に認められた質的研究(qualitative research)を日本の英語教育研究にも適切に普及させるために、質的研究の方法論に関する良書を紹介します。というよりもこれは私にとっての「お勉強ノート」です。随時このリストは増やしてゆく予定です。
なお現在私が知っている限りにおいては、ネットにおいても[日本語で読める質的研究の文献」(http://www13.ocn.ne.jp/~hoda/literature.html)、「質的研究の部屋」(http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4688/)、「数学教育のための質的研究法講座」(http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~ysekigch/qualmtd.html)、「質的研究メーリングリスト」(http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/otani/quality/quality-ml.html)などのページにたくさんの情報があります。



S.B.メリアム著、堀薫夫、久保真人、成島美弥訳『質的調査法入門―教育における調査法とケース・スタディ』(ミネルヴァ書房、2004年)
(2005/9/17)

1998年に出されたQualitative Research and Case Study Applications in Educationの翻訳です。以下、ごくごく簡単に概要を述べます。

第一章:質的調査法とは何か

調査を三つの種類に分けるなら、それは実証主義的(positivist)、解釈的(interpretive)、批判的(critical)となろう。

調査の実証主義的形態においては、教育やスクーリングは、調査されるべき対象、現象、または知識伝達システム(delivery system)だとみなされている。科学的で実験主義的な調査をとおして得られた知識は、客観的で定量的である。この観点からの「日常世界(リアリティ)」は、静的で、観察・測定可能なものである。解釈的調査法においては、教育はひとつのプロセスとみなされ、学校は生きられた経験の場となる。こうしたプロセスや経験の意味の理解が、(演繹的(deductive)や検証的というよりは、)帰納的(inductive)で、仮説または理論生成的探求のモードによって獲得される知識を構成する。多元的な日常世界が、人びとによって社会的に構成される。第三の方向性である批判的調査法においては、教育は、社会的・文化的な再生産・変革のためのひとつの社会制度だとみなされる。これはマルクス主義哲学や批判理論、フェミニスト理論の流れをくむものであるが、このモードの調査によって生成された知識は、教育実践の領域における権力や特権、抑圧へのイデオロギー的批判となる。批判的調査法のうちのいくつかの形態は、参加的・社会活動的要素をつよくもつ(5-6ページ)

質的調査法の特徴としては、次の5点があげられる。(1)「われわれの日常世界は、人びとがその社会的世界と相互作用しあうことによって構築されている」という視点にもとづき、質的調査を行う者は、人びとが構築してきた意味を理解することに関心を示す。(2)調査者自身がデータ収集と分析の主たる道具である。(3)通常はフィールドワークを伴う。(4)帰納的であり、現行の理論を検証するよりは、むしろ抽象物や概念や理論をつくり上げる。理論が欠如しているから、あるいは現行の理論ではある現象を適切に説明できないから、質的研究法がしばしば援用されるのである。(5)プロセスや意味や理解に焦点をおくのであるから、質的研究の成果は、十分に記述的(richly descriptive)なものである。

質的調査を行う者は次のような資質をもっていなければならない。(1)あいまいさ(ambiguity)に対してかなり寛容(tolerance)でなくてはならない。(2)感受性(sensitivity)あるいは直観性が高くなければならない。(3)すぐれたコミュニケーション能力をもたなければならない。回答者に感情移入し(empathize)、ラポール(rapport)を形成し、良い質問をし、熱心に耳をかたむけ、自らの気づきや直観を的確に言語で表現できなくてはならない。

第二章:質的調査法としてのケース・スタディ

ケース・スタディは、研究対象の範囲を限定する、ひとつの境界づけられたシステム、すなわちケース(事例)によって特徴づけられる。さらに質的なケース・スタディは、特定主義的(particularistic)・記述的(descriptive)・発見的(heuristic)なものとしても特徴づけられる。

第三章:研究のデザインとサンプルの選択

調査における問題設定を明らかにする理論的枠組み(theoretical framework)は必要である。サンプリングにも留意しなければならない。

第四章:効果的なインタビューの実施

インタビューとは「目的をもった会話」である。

われわれがインタビューをするのは、直接観察できないことがらを相手から引き出すためである。・・・感情、思考、意図といったものは、観察することができない。過去の行動も観察できない。観察者が立ち入ることができない状況も観察できない。人びとがまわりの世界をどのように体系化し、そこで起こっていることにどのような意味づけを行っているかも観察できない。そのようなことがらについて知るためには、我々は、人びとに質問しなければならないのである。それゆえ、インタビューの目的は、他者のものの見方のなかに分け入っていくこととなる。(105ページ)

インタビューは、「高度に構造化/標準化」されたもの、「半構造化」されたもの、「非構造化/インフォーマル」なものに大別することができる。

良い質問のタイプには、仮説的(hypothetical)「もし・・・だったら」、故意の反対の立場からの質問(devil's advocate)「あえて反論しますが・・・」、理想的(ideal)「理想的にはどうしたいですか・・・」、解釈的(interpretive)「・・・についてはどうお考えですか」なものがある。
避けるべき質問のタイプには、同時に複数のことを尋ねる多重質問(multiple questions)、誘導質問(leading questions)、対話が深まりにくいYes-No questionsなどがある。また質問の答えが返ってきたら、それにさらにさぐりを入れ(probe)て、対話を深めることが大切である。

第五章:注意深い観察者たること

熟達したインタビューアになるために学習するのと同様に、注意深く、系統だった観察者となるためにも学習しなければならない。そのためには、記述的にものを書く方法の学習、フィールドノートをきちんとつける訓練、ささいなことと詳細なことを区別する方法を知ること、観察の妥当性を保障する方法の持ち言い方を知ること、などが大切である。

第六章:文献からのデータの発掘

文献(活字的・映像的・物的資料など全てを意味する包括的な用語としての「文献」)のタイプには、公的記録、私的文書、物的資料、がある。

第七章:ケース・スタディにおけるデータ収集

ケース・スタディにおいてもインタビュー、フィールド観察、文献分析はデータ収集の主要な方法であるが、これは体系的に「観ること」「たずねること」「ふり返ること」にほかならない。

第八章:分析の技法とデータ管理

「質的調査の分析プロセスがたいへんに直観的であることにはほぼまちがいない。つまり、(のちにある発見に発展するかもしれない)洞察がどこから芽生えたのかとか、データ間の関連性をいかにして見いだしたのかとかについて、調査者は、必ずしもいつも説明がつけられるわけではないのである」(225ページ)。分析はデータ収集が完了してからではなくて、データ収集中から始めるべきである。

第九章:分析のレベル

「データ分析とは、データの意味を理解する(make sense of data)プロセスである。そして、データの意味を理解するということは、人が話したことや調査者が見たこと読んだことを、統合したり切り詰めたり解釈したりすることである。つまり意味づけをする(making meaning)プロセスなのである。データ分析は、具体的なデータと抽象的概念の間、帰納的論証と演繹的論証の間、そして記述と解釈の間を行きつ戻りつする複雑なプロセスである。そこから生まれた意味や理解や洞察が、研究の分析結果となるのである」(260ページ)。

第十章:妥当性、信頼性、倫理について

内的妥当性は、いかに調査結果がリアリティ(日常世界・現実世界)に即しているかという問題にかかわっている。内的妥当性は、リアリティの意味づけにかかわっている。質的調査法の根底にある考え方のひとつは、日常世界は、全体論的かつ多次元的で、たえず変化しつづけるものだというものである。それは、量的調査法におけるような、発見や観察や測定をされるのを待っている、単一で固定的で客観的な現象ではない。

内的妥当性を高めるためには次のような方法がある。(1)トライアンギュレーション(triangulation):創出された分析結果を確かなものにするために、複数の調査者、複数のデータ源あるいは複数の方法を使うこと。(2)メンバーチェック:データと暫定的な解釈をデータ提供者のもとに持っていき、その分析結果が現実的に妥当なものかをたずねること。(3)調査現場で、長期観察をすること、あるいは同じ現象をくり返し観察すること。(4)仲間同士での検証(peer examination):分析結果が創出されるたびに、同僚の意見を求めること。(5)参加的で協同的な調査のモード:調査参加者を、研究目的の設定の段階から調査結果の執筆までのすべての段階に関与させること。(6)調査者のバイアス:調査者の考え方や世界観や理論的方向性を、調査の初期段階で明確にしておくこと。

質的調査における信頼性とは、分析結果が再び確認されるかどうかではなく、その結果と収集されたデータとに一貫性(consistency)があるかどうかということである。

外的妥当性(external validity)とは、ある調査結果がどのていど他の状況に適用できるのかということとかかわっている。つまり調査結果をどのていど一般化できるのかという問題である。そのためには、(1)豊かで分厚い記述を目指す、(2)自分の研究対象が他の事例とくらべてどのくらい典型的であるか記述する、(3)複数の事例を調査する(マルチサイト・デザイン)などの方策がある。

倫理については、「質的調査者は、私的空間の世界へのゲストである。したがって、彼らのマナーは良くあるべきだし、その倫理綱領は厳密なものであるべきである」、「調査のあらゆる局面において、人間としてできるかぎり偏見をもたずに、正確で、正直であることに代わりうる倫理はどこにもない。調査の計画や実施、分析、結果報告をするさいには、科学者は正確さを追求するように努めるべきである」といった言葉を重く受け止めなければならない。

第十一章:調査報告の執筆とケース・スタディ

執筆のプロセスは、(1)読み手・聴衆の想起(audience conjuring)、(2)報告書の焦点を絞ること、(3)報告書のアウトラインを先に作ること、(4)実際の執筆を開始すること、である。

「質的調査を報告するための標準的な形態はない。質的調査を報告するスタイルの多様さは、この20年以上もの間、「すさまじいもの」であったが、今日ではさらに「実験的」でさえある」(332ページ)。だが、このことは、「何でもあり」を意味するのではなく、書き手は、(1)構成要素の配置、(2)記述と分析のバランス、(3)公表の形態などをよく考えて報告書を書かなければならない。


C.ウィリグ著、上淵寿・大家まゆみ・小松孝至 共訳『心理学のための質的研究法入門』(培風館、2003年) (2005/9/21)

この本はCarla Willig (2001) Introducing Qualitative Research in Psychology: Adventures in Theory and Method. Buckingham: Open University Pressの全訳で、「我が国における最初の心理学研究向けの質的研究の方法論の入門書」です。

第一章:レシピから冒険へ
この本の冒頭には次のような魅力的な文章が書かれています。この本の基本姿勢がよく示されていると思います。

研究のプロセスを一種の冒険と考えてみよう。大学生だった頃、私は「研究方法」を料理のレシピのように思っていた。研究は、正しい材料(代表的なサンプル、標準化された測定道具、正しい統計的検定)を選んで、これを正しい順序で調理すること(「手続」)だった。結果を出すために全力を尽くすたびに、固唾を飲んで、実験が「うまくいく」ことを願った。まるで、完璧に焼けた料理がオーブンから出てくるのを待って、台所をうろうろするように。
今、私は研究をもっと違う目で見ている。「研究方法」は、問いに答えるための方法になった。研究方法は、答えが正しいかどうかを判断する方法でもある(これは、研究方法と認識論の接点でもある。これは後で述べる)。どちらにしても、研究というものは、私にとって、機械的なもの(適切な技法を問題に適用する方法)から創造的なもの(どうやったらわかるようになるのか?)へと変化したのだ。研究のプロセスの中で、研究方法はレシピだというメタファーを、研究プロセスは冒険だという見方に置き換えたのである。(2ページ)

質的研究を考えるには次の三つの立場がある。
(1)共通の関心:「一つの質的方法論」
質的研究者は、意味に対する関心を持つ傾向がある。つまり、人がどのように世界を理解するのかや、人が出来事をどのように経験するのかに関心がある。ゆえに、ある状況を経験することが、「いったいどのようなことなのか」を理解することを目的にしている。
(2)認識論的な違い:「複数の質的方法論」
反省や言語の役割の重視の程度によって、質的方法論は区別される。反省(reflexivity)には、個人的反省(personal reflexivity)と認識論的反省(epistemological refexivity)がある。前者は研究者の個人的資質・特性などがどのように研究に影響したかを反省する。後者は研究の中で私たちが設定した世界や知識に関する仮定を反省する。
(3)「小文字のq」と「大文字のQ」
「小文字のq」(little q)は、非数量データの収集技法を、仮説演繹的研究デザインに組み込んだものである。「大文字のQ」(big Q)は、オープンエンドで帰納的な研究方法論を意味し、理論の生成や意味の探求に関するものである(本書の立場)。

第二章:質的研究のデザイン

研究参加者の倫理的な考察(ethical consideration)に関しては、著者はつぎのようにまとめています。

まとめると、研究参加者を損害や喪失から守らなければならない。また、研究参加者の心理的な満足や尊厳をいつでも維持するよう目指すべきである。多くの質的研究者は、これらの基本的な倫理的ガイドライン以上に気を使っている。単に研究参加者を損害や喪失から守るだけではなく、研究参加者に肯定的な利益をもたらすことも目指す。たとえばアクションリサーチは、よりよい方向にプロセスやシステムを変化させることによって、そのプロセスやシステムに関する知識を生み出すようにデザインされている。ここではどのような行為も「研究に参加した人々にとって最大の利益になること」でなければならない。同様に、批判的な言説分析は社会的な不平等、偏見や力関係に挑戦することを目的としている。(26ページ)

量的研究の仮説と質的研究のリサーチ・クエスチョンは次のように対比されています。

仮説:既存の理論から引き出される主張であり、実証的な証拠に照らし合わせて試される。棄却されるか保持されるかのどちらか。
リサーチ・クエスチョン:オープンエンドなものであり、そこからは詳細な記述(および可能ならば現象の説明)が期待されている。

主な質的データ収集法には次の四つがある。
(1)半構造化面接法:質問のタイプには(a)記述的質問(「何が起こったか」、「例は何か」)、(b)構造的質問(「〜は何を意味するのか」、「どのようにして〜したのか」)、(c)対照的質問(「Aがよいか、それともBか」)、(d)評価的質問(「〜についてどう思うか/思ったか」)。
(2)参与観察法(participant observation):単に何が起こっているかを観察するだけではなく、特定の社会的状況に身を置くことがどのようなものかを感じる(feel)必要がある。
(3)日記法:時間的に順序立ち、回顧的な解釈から自由な、個人的あるいは詳細な情報を得ることができる。だが研究参加者の負担は大きい。
(4)フォーカス・グループ:研究者はグループのメンバーをお互いに紹介し、グループのフォーカス(例:質問、広告・写真などの刺激)を紹介し、ディスカッションを静かに「進める」議長の役割を果たす。このように「進める」ことでグループの本来のフォーカスを定期的に呼び戻し、グループのメンバーが生み出す論点にお互いに回答するように促す。

第三章:グラウンデッド・セオリー

グラウンデッド・セオリーに関しては次のまとめが適確です。

グランデッド・セオリーはもともとバーニー・グレイザー(Glaser, B.)とアンセルム・ストラウス(Strauss, A.)の二人の社会学者が発展させたものである。彼らは社会学研究を占有していた既存の理論に飽き足らず、新たな理論を生成するために、データから理論に移行できるような方法論が研究者に必要だと論じた。このようにして生成した理論は、理論が発展した文脈に特有なものである。そのため、既存の理論の分析的構成概念やカテゴリーや変数に基づくよりもむしろ、理論が浮かび上がってきたデータに「根ざして」(grounded)いるだろう。グラウンデッド・セオリーはそれゆえ、文脈に基づいた新しい理論を発展させる余地を切り開くようにデザインされた。(45-46ページ)

第四章:解釈学的現象学

解釈学的現象学(interpretive phenomenology)は、現象学として知られる哲学的思想の一派と関連する原理や方法によって特徴づけられるアプローチである。柳瀬補注:現象学に関しては、簡潔な要約は困難ですし、また危険かとも思いますので、とりあえずはここをご覧ください。

第五章:ケース研究(Case Studies)

ケース研究の定義的な特徴としては次の五つがあげられる。
(1)個性記述的視点:研究者は、一般的なことより特定の具体的なことに関心がある。その目的は、個別のケースを、その特殊性から理解することである。これは、法則定立アプローチとは対比的である。
(2)文脈的データへの注目:全体論的アプローチをとり、ケースを文脈の中で考える。
(3)トライアンギュレーション:さまざまな情報源からの情報を統合する。
(4)時間的要素:時間経過にともなうプロセスに関心をはらう。
(5)理論への関心:理論の生成を促す。

ケース研究を区分するには次のような観点がある。
(1)固有 対 道具的ケース研究:固有ケース研究(intrinsic case study)が扱うのは、そのケース以外の何者でもない。反対に、道具的ケース研究(intrumental case study)では、ケースはより一般的な現象の例である。
(2)単一 対 多元的ケース研究:単一ケース研究(single-case study)は単一のケースを詳細に探求し、研究者個人の関心事がわかったり、既存の理論を現実のデータへ適用する可能性を検証することができる。反対に、多元的ケース研究(multiple-case study)デザインは、新しい理論を作り出す機会となる。このデザインでは、ケースを比較分析することで、理論を発展させ、修正する。
(3)記述的 対 説明的ケース研究:記述的ケース研究(descriptive case study)は、その文脈の中での現象の詳細な記述を目的とする。反対に、説明的ケース研究(explanatory case study)は、関心下の出来事を説明することが目的である。

第六章:言説心理学(Discursive Psychology)

言説心理学では、認知主義(cognitivism)へ、根本的な問いかけをしている。
(1)「態度」「信念」は本当に「心の中にある」のだろうか?:認知主義の観点から考えると、人が自らの信念や態度について言語で表現することによって、心の中に存在する任地について情報がもたらされることになる。しかし、言説分析の考えでは、人は信念を述べたり意見を表明したりすることによって、目的のある、そして全員が関与を持つ会話に参加するということになる。いいかえれば、人々が語ることの意味を理解するためには、彼らが話をする社会的文脈を考慮することが必要なのである。
(2)現実世界の表象はただ一つだろうか?:認知主義では認知が知覚に基づいているという仮定が必要である。認知とは、現実の対象、世界の中で生じる出来事やプロセスの精神的な表象である。これに対し、言説分析では、世界を数限りない方法で「読まれる」ことが可能なものと考える。そして、対象や出来事は心的表象を立ち上がらせるのではなく、言語そのものによって構成されると考える。その結果、言説と会話こそが研究の焦点となる。そこでまさに意味が創られ、交渉されるためである。
(3)「現実」を「客観的に」「正確に」知ることは本当に可能だろうか?:認知主義では、認知が知覚に基づくならば、理論的には現実を客観的に知覚できるということになる。言説分析の研究者は、このことも争点とする。言語が社会的現実を(表象するのではなく)構成するならば、現実の客観的な知覚はありえない。その代わり、社会的カテゴリーが構成される様子や、それが会話に配置されたときに持つ効果が強調される。
(4)「現実」と「態度」「原因」にはどんな関係があるのだろう?:人びとの違いをもたらすのは、ある社会的な対象や出来事に対する態度や帰属ではなく、彼らが対象や出来事そのものを言語を用いて構成するあり方なのではないか。
(5)「信念」「態度」は本当に安定したものなのだろうか?:認知主義は、人間の心のどこかに、比較的永続的な認知構造が存在するという仮定に依拠している。言説分析は言語をプロダクティブでパフォーマティブ(行為遂行的)なものとして概念化する。言説分析では人びとの発言や、表現された観点や説明を、それが生み出される言説文脈に依存するものと考えている。つまり、人びとが述べる内容は、言葉が表象する認知構造ではなく、彼らが言葉を用いてしていること(例:関係否認、言い訳、正当化、主張、弁護)を示すのである。

第七章:フーコー派言説分析(Foucauldian Discourse Analysis)

フーコー派言説分析は、1970年代の終わり近くに英米の心理学界へ紹介された。ポスト構造主義、特にミシェル・フーコー(Foucault, M.)の研究に影響された心理学者たちが、言語と主体性の関係、そして、それが心理学研究に対して持つ示唆を検討しはじめたのである。

第八章:メモリーワーク(Memory Work)

(省略)

第九章:質的研究の質
よい質的研究の特徴(Henwood & Pidgeon 1992)
(1)適合の重要性:分析カテゴリーは、データによく適合していなければならない。
(2)理論の統合:分析単位間の関係を、明確かつ詳細に説明しなければならない。
(3)反省:研究者が果たした役割が、研究報告の中で、はっきりとわかるようにする必要がある。
(4)文書化:研究プロセスの中で、何が行われて、なぜそうなかったのかについて、包括的でわかりやすい説明を、文書化する必要がある。
(5)理論的サンプリングと負のケース分析:生み出した理論を絶えず拡張し、修正し続けなければならない。こうするためには、理論に適合しないケースも扱う必要がある。
(6)現実に対する交渉への敏感性:研究者は、少なくとも研究参加者の反応を意識し、研究者自身の解釈と研究参加者の解釈との差異を説明しようとしなければならない。
(7)転移可能性:研究が、データを生み出した特定の文脈以外に、どの程度適用できるのかあるいはできないのかについて、読者が判断できるように、研究の文脈的特徴を十分報告しなければならない。


柳瀬のコメント:平明に書かれた良質の入門書だと思います。訳者も各章ごとに「解説」をつけるなど親切です。
この本を読んで、私の心に残ったのは、数々の専門用語ではなく、この著者が伝えたかった「スピリット」でした。その「スピリット」は、冒頭の「研究プロセスは冒険だ」という引用にもよく現れていると思いますし、次の二つの引用にも現れていると思います。

私はしばしば、「ここの方が明るいから」と街灯の下で、なくした鍵を探していると説明した人がいたという古いジョークを思い出す。私たちは「街灯」が一見、研究を促進してくれるように見えるので、そこに引き寄せられてしまう。(28ページ)

質的研究と量的研究の最もよい方法論は、人の生活の意義を知り、伝えたいという情熱的な願望に、方法論が従属するような、積極的な研究をして、はじめてわかることなのである(Orum et al. 1991)



秋田喜代美、恒吉遼子、佐藤学(編)『教育研究のメソドロジー----学校参加型マインドへのいざない』(東京大学出版会、2005年)(2005/9/17)

学問的にも、人間的にも非常に魅力的な研究者によって書かれた良書です。まずもって読んでいて面白い。以下は、私の印象に残った言葉を抜書きします。

最後に、本書の中心主題である「フィールドワークのメソドロジー」について付言しておこう。初学者から「メソドロジー」に関する質問を受けることは多いし、かなり経験を積んだ自立した研究者からも「メソドロジー」の妥当性に関する質問を投げかけられることは少なくない。この問いに答えるのは至難である。なぜなら、これらの問いを発する人のほとんどは、研究主題や研究対象やリサーチ・クエスチョンとは無関係にフィールドワークやアクション・リサーチの「メソドロジー」が存在するものと想定している。これらの人びとの質問は、その方向を転換する必要がある。この問いを発する人びとは自らの研究の意図や主題や研究対象やリサーチ・クエスチョンの曖昧さを問い直すべきなのである。フィールドワークもアクション・リサーチも方法論は多様であり複雑である。研究テーマにより研究対象により研究方法は千編自在に変化し、ひとつの研究を行うごとに最も説得力のある方法を研究者自身が自ら創造しなければならない。その創意のなかに研究の価値が内包されているというのが、私の25年間の経験から導きだされる結論である。(佐藤学:13ページ)。

現場(フィールド)とは「複雑多岐の現象が連関している場」と私は定義している(やまだ、1986a,b; 1997)。だから、私は単に「野外」にでかければ、あるいは幼稚園や学校などいあゆる「現場」(げんば)にでかければ、それだけでフィールド研究とはいえないと思っている。現場でデータをとっても、研究者があらかじめ決めた仮説に従ってそれを検証するデータをとるだけならば、そこが実験室だろうと教育現場だろうと同じで、やはりフィールド研究とはいえないだろう。(やまだようこ:60ページ)

実際にやってみると、実験心理学はその範囲ではおもしろかった。問題の焦点をきりきりと焦点づけてクリアーにし、論理的につめていく探究のしかたはすっきり気持ちがよかった。実験的な方法では、純粋な条件に統制した実験室で少数の要因に仮説をしぼりこんで、仮説演繹的に実験を積み重ねて、結果を数量化し、できるだけ単純にクリアーにだしていく。これは、現在の私が行っているフィールド研究や質的方法とは対極にある方法である。
しかし、いまから思えば、「純粋な少数要因にしぼりこむ」実験法を学び、それを対極として常に意識せざるをえなかったことで、逆に「複雑なフィールドの多要因の相互連関」を大事にするフィールド研究の重要性がわかるようになった。また、現象をただ記述するだけではなく数量化してはじめて見えてくるものがあり、その逆に、現象を質的に意味づけてとらえなければ見えてこないものがあることも実感できた。現象を、量としてとらえる、そして質としてとらえる、その両方のアプローチがあり、両者は相互補完的であるが、ただ折衷的に両方やればよいというものではなく、両者の長所を最大限に生かした組み合わせを考える必要があることも、しだいに鮮明になってきた。すっきりと論理を組み立てる実験のおもしろさもわかるので、「いろいろあれもこれもと欲ばって、でも最終的に何がわかったかはっきりしない」というゴチャゴチャ・タイプのフィールド研究に出会うたびに、その弱点もよく自覚できるようになったと思う。(やまだようこ:61-62ページ)

エスノの基本的性格については、佐藤郁哉の「文学と科学にまたがる性格をもつ文章」(佐藤、1992, p. 45)という知られた定式化がある。これは私自身の実感に近い。エスノの作成には、みたものを的確に、かつ印象的に読者に伝えるための文学的センスがやはり不可欠である。しかしながら、他方、私たちは論文としてエスノを作成するかぎりにおいて、各種の科学的な基準や体裁と無縁ではありえない。いきおい私たちが書くエスノは、文学と科学の性質をあわせもつハイブリッドな書きものとならざるをえない。(志水宏吉:143ページ)

「人間関係に変化をおこさせる決定要因を発見することが研究の目的であり、その目的は科学者としての役割と民主主義社会の一員として仕事や生活様式の改善につとめるべき責任とを統合する科学者の理想である」と述べているように、レヴィンは心理学の研究者であるが、その背景としては、一人ひとりが自らのもてる能力を発揮して生きがいを見いだし、より民主的な集団、市民社会を構築することをめざしていた。この思想を背景としてアクション・リサーチの考えかたは生まれてきている。(秋田喜代美:165ページ)

柳瀬のコメント:「質的研究しか認めない」というのも「量的研究しか認めない」というのと同様、トンチンカンな見解かと思います。当たり前のことですが、両方を適切に使い分けることが必要です。学ぶ順番としては、学生さんの場合は、量的研究方法論を最初にきちんと学んで、その明晰さと限界を感じてから質的研究の方法論を学んだ方がいいのかもしれません。ただ、現場教師の方の場合は、それまでの経験と日頃の問題意識がありますから、質的研究から入って、次に量的研究を補完の意味で学んだ方が入りやすいのかもしれないかなとも思います。


波平恵美子・道信良子(2005)『質的研究 Step by Step』(医学書院) (2006/3/2)
この本は、(1)使いやすい教科書として、(2)理論的背景の説明は最小限に抑え、(3)研究の手順に重点を置いた、という特徴をもった良書といえるかと思います。
(1)の「使いやすい教科書」に関しては、全体で95ページしかない薄さに、読みやすいフォント・レイアウトで印字され、なおかつ各種コラムを随所に配置することで多面的な理解を促すつくりになっていることからも、その試みは十分に成功していると思います。
(2)の「最小限の理論的背景」に関しては、質的研究の重要な背景となっているこれまでの研究の説明が、極めてコンパクトになっています。たしかに学部生などでしたらこういったぐらいのレベルの記述を読むことから始めた方がいいでしょう。ただそうはいっても、いいかげんな説明になっているわけではありません。
質的研究の特徴としては、

A:人間の生き方は多様である。したがって、人間の生き方の具体性と多様性を明らかにするための研究方法は、多様にならざるをえない。
B:質的研究は既存の理論や方法論の有効性を確認したり検証することを目的としない。あくまでも研究対象とすることを目的とする。したがって、研究対象の特性に応じて研究方法が選択される。
C:質的研究においては何よりもまず、対象となる人びとが自らを取り巻く世界を、また自分たちの生活をどのように見ているのかに注目する。すなわち、研究対象者(研究される人々)の視点を明らかにすることにつとめる。そして、研究対象になる人々が多様な立場にあること、その多様な立場から日常生活を見ていることを、研究調査の前提とする。
D:質的研究の特徴は、研究対象となる事象を、できるだけそれが生じている社会的、文化的、歴史的文脈においてとらえ、理解しようとすることである。(2-3ページ)

ということを「質的研究についての多様な定義」の「共通点」としてとらえ、かつ、

質的研究は、これまでの人文社会科学のほとんどあらゆる領域を基盤とし、それによって何らかの影響を受けていると言っても過言ではない。それは、あらゆる人文社会科学は「人間とは何か」という問いを発し、それに宗教の領域ではなく科学の領域で答を見いだそうとする人間の行為であり、質的研究はまさに同じ問いに答えようとするからである。(4ページ)

と述べて、シュライエルマッハー、ディルタイ、ウェーバー、フッサール、ハイデガー、ガダマー、シュッツ、ガーフィンケル、バーガー、ルックマン、メルロ=ポンティ、ギアツ、クリフォード、マーカスについて簡単な解説をしています。質的研究を志す者は、これらの学者の研究の全てに通暁することはなくとも、ある程度の知識は持つべきだという著者の思いは保たれていると思われます。理論的説明が少ないのは、ひとえに、初心者を怖気づかせないためだと著者は説明しています。

(3)の「研究手順の重視」に関しては、様々な具体的テーマを例にして、研究が進められてゆくプロセスが、それこそ"step by step"に書かれているので、読者は研究の進め方を仮想体験することができます。ただ、研究テーマは、医療現場のことなど、文化人類学のものであるので、人生体験や想像力に乏しかったりする他領域の人(含む、英語教育研究者)は、こういったケースを読む際には、ゆっくりと読む必要があるかもしれません(やはり英語教育・第二言語教育の分野でもこのような本が欲しいところです)。
しかし、「参与観察、インタビュー、語り分析、ライフ・ヒストリー分析など、質的研究において採用されている多くの手法や方法は、文化人類学が開発し発展させてきたもの」(10ページ)ということからすると、この文化人類学者によって書かれた質的研究入門書は、質的研究を目指す英語教育関係者も読むべき本といえると私は確信しています。
理論背景などは後々学ぶこととして、とりあえず論文に着手しなければならない人にお勧めします。


平山満義(編著)(1997)『質的研究法による授業研究 教育学・教育工学・心理学からのアプローチ』(北大路書房) (2006/3/2b)

この本は、1990年代中頃に、日本教育方法学会、日本教育工学会、教育心理学会などで見られた方法論上の論争といった時代背景を受けて書かれたものです(はじめにI-V)。
質的研究法は、16ページでは、「(1)自然条件下での文脈および環境を重視した観察を行なう。(2)問題や仮説、その実験変数をあらかじめ設定するのではなく、観察過程において逐次それらを決める、(3)集団の平均的状態をとらえるのではなく、個々人の内面状態、認知処理過程を重視した生態的・現象的分析を行なう」ものとして特徴付けられています。また質的研究法の中でもエスノグラフィー(エスノ)を重要なものとしています。そのエスノは、量的・行動科学的方法と比較すると、次のような特性をもつものとまとめられています。

データ収集の対象者への扱いが異なる:量的研究法は対象者を仮説検証という見地に立って被験者に接し、彼らに研究者の意図を知らせないようにする。一方、エスノ法は対象者が情報提供者であるので、研究者の意図や重要と思っている内容を彼らに知らせるようにする。
インタビューでも両者の扱いは違ってくる:量的方法は、被験者を回答者としてみなし、質問紙やインタビューで扱う内容と表現を標準化して客観的なデータを採集しようとする。一方、エスノ法は、情報提供者が普段仲間内で使う日常語あるいは符丁を重視し、それらを使いながら、彼らの本音をとらえようとする。
観察場面と対象に対する見方も違ってくる:量的・行動科学的方法は統制された場面で事象を変数としてとらえ、それを量的データに変換して相関、因果関係を説明する。したがって、ある現実を代表するサンプルサイズ、説明変数あるいは基準変数による事象の割当て、その変数間の関係を表現するための統計的処理方法の選択とその解釈が重要な意味をもってくる。
一方、エスノ法は、自然生態的見方あるいは質的現象的見方を重視する。自然生態的あるいは質的現象的見方とは、自然の場が人間行動に影響を与えるという立場から、社会組織の一部をなす伝統、価値観、役割、規範が人間の観念にどのように規定するかを解釈することをさしている。(29ページ)

さらにエスノは、研究を進める手順でも従来の実験的方法と違うやり方を取ります。

実験的方法は仮説を立て、独立変数と従属変数に関わるデータを収集・分析し、検証するという手続きである。ところがエスノでは、現地踏査中に仮説(問題)の探索のためにあらゆるデータを集め分析し、その結果から仮説あるいは命題となるものを探索する。そして、再び現地データを収集し分析し、最初の仮説を精錬する。こうした手続きを繰り返し、行動発現の「認知原理」と思われるものが見つかるまで続けられる。これを再帰的方法という。(32ページ)

また質的研究は、一般に信頼性(再現性)に問題があると見られがちですが、その信頼性も向上させることは可能だと著者は考えます。著者(平山)は、信頼性を外的信頼性と内的信頼性に分けます。
外的信頼性とは、「同一または類似の場で個々の研究者が同一現象を発見する、あるいは同一の構成概念を生成することを意味」(53ページ)します。これに関しては、(1)研究者の立場を明示すること、(2)情報提供者を注意深く選択すること、(3)データ収集の際の社会状況と条件を考慮すること、(4)分析概念と理論的前提を大きく異ならせないこと、(5)観察の分析単位を適度に設けること、(6)やり過ぎない程度にデータ収集と分析方法を明瞭に示すこと、などが注意点としてあげられています(54-55ページ)。
内的信頼性とは「すでに生成された構成概念にぶら下がる下位概念群(セットという)と他の研究者が得たそれとがマッチすることという」(53ページ)と定義されています。これに関しては、(1)状況イメージの記述用語は低推定のものを使うこと、(2)複数の観察者が同時観察できるような研究チームを組織すること、(3)研究補助者にもチェックしてもらうこと、(4)同分野の研究者にも検証してもらうこと、(5)研究結果を公表すること、(6)データをビデオなどの機械で記録しておくこと、などの注意点があげられています。

教育学・教育工学・心理学といった英語教育学の隣接分野(あるいは親分野?)のイノベーションを、英語教育研究者も真摯に受け止めるべきかと思います。扱われているケースはどれも教育現場の授業研究ですから、英語教育研究者にとっても理解は容易かと思います。


やまだようこ編著(2000)『人生を物語る --生成のライフストーリー』(ミネルヴァ書房) (2006/3/18b)
この本は、京都大学大学院の教育学研究科において1998年晩秋から始まった「ライフストーリー研究会」を母胎として出版されたもので、心理学、教育学、人間学、社会学、文化人類学、医療人類学などの人々が「共鳴して」、「協奏し、それぞれの文体で紡ぎだした物語で編まれて」いるものです(i)。
やまだによるライフストーリー研究の意義は次のようにまとめられます(1-2ページ)。(ちなみに「ライフストーリー」に、研究者が近現代の社会史と照合し位置づけ、注記を沿え構成したものが「ライフヒストリー」と呼ばれるそうです(15ページ)。)
(1)人生を「物語」としてとらえる:「物語」とは「二つ以上の出来事を結びつけて筋立てる行為」であり、ライフストーリー(人生の物語)とは、「その人が生きている経験を有機的に組織し、意味づける行為」であり、「たえざる生成・変化のプロセス」です(1ページ)。参考概念としてBruner, J.S. (1990)の「意味の行為」(acts of meaning) (5ページ)、Danto, A.C. (1965)の「理想的編年史」(Ideal Chronicle)(と歴史的記述の違い)(252ページ)があります。
(2)物語の語り手と聞き手によって共同生成されるダイナミックなプロセスとして物語をを語り直すことによって人生に新しい意味を生成する。
(3)人生の物語を語ることが、個人の物語を超えて、現世代から、次の世代や未来世代へのコミュニケーションとして、世代と世代、時代と時代をつなぐ働きを担う。

ライフストーリー研究に関する別のまとめ方は、Bruner (1986)の論理実証モードと物語モードの区別からも可能です。

論理実証モードは、心理学者が用いてきた科学的パラダイムです。「ある出来事についての陳述が、真か偽か?」と問い、そこから、真か偽を明らかにする条件設定がなされ、実証によってどちらかの答えがみちびかれます。物語モードでは、「二つ以上の出来事が、どのように関係づけられて陳述されるか?」が問われ、出来事がどのような意味関連でむすびつけられるかが問われます。どれが正しいかを決定することが問題ではないので、物語論では、複数の答えが両立しえます。(20ページ)

この二つのモードは、「二つの認知作用、二つの思考様式」であり、「両者は経験を秩序だて、現実を構築する異なるしかたであり、お互いに相補的であるが、片方を片方に還元することはできない」(20ページ)ともブルーナーは述べているそうです。

以上のような基本認識のもと、七つのライフストーリーが語られます。一読して感じられるのは文体の確かさ。それぞれの文体が、研究者が、事象に向かい、絡め取られながらも、事象と自らを見つめ直して、高次の意味での「客観」へ向かおうとしている姿勢を体現しているようです。研究者の、専門知に限定されない知性と感性の高さを現しているようだとも言えましょうか。論文の文体とは、通常とても機能的で、誰が書いても同じようなものであり、専門知以外の知性、感性、ひいては個性などが現れることはまずない(というより、実証主義ではそれはタブー)ですが、この本の論文には間違いなく研究者それぞれの文体があります。その意味でこれは文学研究者にぜひ読んでほしい研究書だと思います。文学研究者が教育研究に対して果たしうる潜在的可能性は、現在私たちが想像する以上のものがあるのではないのでしょうか。


鯨岡峻(2005)『エピソード記述入門  実践と質的研究のために』(東京大学出版会) (2006/3/18c)

質的なエピソード記述は、実践のために重要だと著者は考えています。例えばある介護担当者はケア・プランを作成するためチェック・リストで行動事実をチェックしていったのですが、それだと実際に自分が受けとめているAさんとはまるで違ったお年寄り像ができあがってしまうといいます。またチェック・リストでは同じになり、したがってケア・プランも同じにならなければならないAさんとBさんは、その介護担当者には生き様の全く違う二人に思えます(8-9ページ)。表面的な意味での「客観化」が実践の知恵を否定しかねないといえば言いすぎでしょうか。著者は次のように言います。

これまでの分析的・数量的アプローチは、多数の人に一般的、蓋然的に当てはまることを取り上げようとしていて、独自性と固有性で特徴づけられる特定個人の生の実相を捉えることに主眼が置かれているわけではありません。ですから、分析的・数量的アプローチをそのまま現場の特定個人に当てはめると、結局はその人を一般的な行動の断片に分解して捉え、その人の行動特徴からその人をある一般的なカテゴリーに押し込めて(例えば自閉症の子どもの一人と)捉えてしまうために、その生の実相を生き生きと捉え、その子がまさに他ならぬその子であるということを他者(受け手=読み手)に分かるようなかたちで表現することはなかなかできません。(10ページ)
関わり手に感じられる相手の「思い」やそのような「生き生き感」や「息遣い」は、関わる相手の生のありように結びつき、その人の存在のありようを告げるものです。ところが、これまでの行動科学の枠組みではそれを捉えることができません。そればかりか、むしろそれを排除しなければならないと考えてきました。なぜなら、それらは客観主義の立場では観察可能なものではなく(目に見えるものではなく)、常に描き出す「私」の主観を潜り抜ける中でしか捉えられないもの(「私」の身体が感じられるとしかいいようのないもの)だからです。そのことは、観察する人(記述する人)が無関与的な透明な存在であることを前提とする従来の客観主義の枠組みとは確かに相容れません。(17ページ)。

ここで「客観主義」という言葉が批判されたので、皆さんの中には、この著者はトンデモ系の人かという浅薄な誤解をなさる方もいらっしゃるかもしれません。客観性こそは学問の要諦だからです。しかしここで著者が「客観主義」として批判するのは「実証主義」のことであり、実証主義(だけ)を客観的態度と考えるのは、偏った考えであると著者は現象学の素養を背景に主張します。「事象の客観的側面(あるがまま)に忠実であることと、事象を客観主義的=実証主義的に捉えることとは別のことである」(20ページ)わけです。

生の実相のあるがままに迫るためには、その生の実相を関わり手である自分をも含めて客観的に見る見方と、その生の実相に伴われる「人の思い」や「生き生き感」など関わり手の身体に間主観的に感じられてくるものを捉える見方が同時に必要になります。後者を重視することが、あたかも客観的な見方が必要でないと主張しているかのように誤解されたり(自分の中に生まれた考えや観念をただ述べればよいと誤解されたり)、客観的な見方も必要であると主張することが、あたかも客観主義=実証主義を肯定したかのように誤解されたり、といったことが生じるのは、おそらく、この「客観主義の立場」と「客観的な見方」との混同に起因しているように思われます。(22ページ)

私たち英語教育関係者もこの高次の意味での「客観的な見方」を理解するべきかと思います。すなわち観察・記述とは、対象の問題だけではなく、観察・記述者の問題でもあります。対象と観察・記述者の両者を、観察・記述者は、自分を対象化するという困難にも挑みながら、「客観的に」捉えることを試み、かつ、その場で経験される間主観的な感じも大切にすること、これが高次の意味での「客観的な見方」なのです。観察・記述者の存在を無化し、見えるものだけを取り上げ感じられるものを無視することは、低次の「客観主義」にすぎません(もちろんその逆に自らの主観性ばかりに耽溺するのは学問ではありません)。しかし観察・記述者の問題や間主観性に関して言及したり考察したりする事例研究などは、「これまでの学問動向の中ではその内容よりもその手続きのところで門前払いしてしまう動きがあったこと」(40ページ)も事実です。こういった問題は克服されなければなりません。

また、エピソード記述や質的研究には、しばしば「これは一つの事例に過ぎず、一般性・普遍性を欠くものである」といった批判が浴びせられることがあります。しかし著者はこの批判は、「すでに行動科学の土俵の上での議論だといわねばなりません」(45ページ)と述べます。人間は一般・普遍からだけでなく、特殊・個別からも学ぶことができるからです。人間は想像力を持ち判断をすることができる存在だからです。

一つのエピソードを一つの事実として提示するとき、前項でみたように、もしもそれが読み手に自分の身にも起こりうることとして理解されるなら、つまり過去に同じような経験をもったかどうかに必ずしもこだわることなく、それはありうることとして理解されるなら、それはエピソード記述に固有の事実の提示の仕方として認められるべきだということです。これは、私たち一人ひとりが自分の経験世界に閉じられていないこと、他者の経験世界に可能的に拓かれていることに拠っています。つまり、身体的には類的同型性をもち、それゆえ感受する世界はかなりの程度同型的であることを基礎に、幾多の類似した経験をもつ私たち人間は、絶対の個であると同時に類の一員であり、それゆえ大勢の他の中の一人でもあります。しかも、豊かな表象能力を付与されている人間は、その想像力によって、他者に怒ったことはそのようなかたちで我が身にも起こる可能性があると理解することができるのです。(45ページ)。

ともあれ、いま議論しておきたいのは、私たちが可能的に他者の世界に開かれていること、それゆえ、他者の一つの体験の提示が、我が身にも起こり得る可能的真実であると受け止めることができること、逆に、エピソード記述はその読み手の開かれた可能性に訴えかけるものであることを認めることです。これによって、従来の再現可能性や検証可能性、あるいは信頼性といった、行動科学の枠組み内の認識論とは違う、エピソード記述の方法論に固有の認識論を構えることができます。(47ページ)

私なりに言い換えさせてください。量的教育研究は、実践者(教師)をあたかも機械のようにしか捉えていないのではありませんか。「教師には、誰でも当てはまる一般的なルールを教える。そうすれば実践は良くなるはずだ」というわけです。なるほど、それはその通りです。しかし「誰でも当てはまる一般的ルール」なんて、正直、とても常識的なことにすぎません。厳密な実験計画と統計を駆使してそのように常識的なことを「検証」しようとするのは、正直私にはとても空疎で空虚で、ちょっと可笑しいぐらいの企てのように思えます。いや、これは言いすぎでしょうか。でも少なくとも、教師は一般的ルールが当てはまらない特殊・個別な状況にも対応しなければならないということは言えるでしょう。多くの教師はこの対応を、自らの経験から学ぶだけでなく、他人の経験(つまりは他人が語るエピソード)からも学びます。それは教師には、全ての人間がそうであるように、想像力というものがあり、その働きにより、様々な判断力が養われ、新しい場合にも、その判断力を活かして対応ができるからです。そもそも私たちはそうやって歴史や小説を読み「教養」をつけているのではありませんか?想像力・判断力・教養といった存在を、量的研究は、はなから当てにしていないような気がします。私はそういった量的研究の志向がとても気になります。量的研究の専横は現代の浅薄さの表れではないでしょうか。
話が大きくなりましたが、本書は現象学の素養と、多様な具体的エピソードに基づいた、非常に説得力のある質的研究の入門書となっていると思います。エピソード記述の基本構造は、(1)背景の提示、(2)エピソードの本体の提示、(3)(第一次・第二次)メタ観察の提示、となっています。良書だと思います。英語教育関係者に、このような本の理解者を一人でも多く増やしたいと思います。


宮内洋(2005)『体験と経験のフィールドワーク』(北大路書房) (2006/4/4)

正直で誠実な本だと思います。この本の帯には無藤隆先生が「誰もが知っているけれど語らない問題に宮内氏は愚直に誠実に出会った。そこには明快な回答はない。だが、その問題に向き合うことがフィールドワークの基底をなす。本書から発して、読者各自が自分なりの回答を得ようと努力することから次世代のフィールドワークが生まれてくるに違いない」と述べていますが、まさにその通りかと思います。
この誠実さは、宮内先生が、臨床心理学から、かなり厳格な社会調査を存在基盤とする社会学に移り、その狭間で悩むことから生まれてきたように思います。もちろん悩みは悩みのままに終わらず、この本のような正直で良心的な文章となりました。正直さとか誠実さとかは、研究者にとって根幹的な資質かと思います。このような資質を取り立てて語らなければならないところに、現状の人文・社会系の学問の歪みが現れていると言ったら言い過ぎでしょうか。フィールドワークの本質を考えさせる良書かと思います。


桜井厚(2002)『インタビューの社会学 ライフストーリーの聞き方』(せりか書房) (2006/4/4b)

この本は、当初は「インタビューの技法」についてのものであるはずだったのが、その方法論の「あやうさ」(11ページ)から目をそらさなかったために、「インタビューの理論」ともいえるぐらいに認識論の議論をしている本です。これもとても誠実な本だと思います。
著者は、ライフストーリーのインタビューを、(1)実証主義アプローチ(戦前のシカゴ学派など)、(2)解釈的客観主義アプローチ(「データ対話型理論」(グラウンディッド・セオリー)など)、(3)対話的構築主義アプローチ(著者の立場)に分けます。
(1)の実証主義アプローチは、個性記述的(ideographic)なインタビューを、法則定立的(nomothetic)な研究への予備的・補助的な「非科学的」なものとみなし、いかにしてインタビューを「科学的にするか腐心」したものです。「ライフヒストリーは時間的な経過をたどって展開する自然史的な過程で、客観的な出来事や経験によって刻印されている」と考えられています(16ページ)。
(2)の解釈的客観主義アプローチは、「帰納的な推論を基本としながら、語りを解釈し、ライフストーリー・インタビューを重ねることによって社会的現実をあきらかにしようとするもの」(25ページ)とまとめられています。
(3)の対話的構築主義アプローチは、語り手が「何を語ったか」という語りの内容だけでなく、「いかに語ったか」という語りの様式にも着目するものです。この立場は、次のような見解に支えられているといえるでしょう。

自己が強い一貫性や同一性をもち、「ほんとうの自己」が他者からの外部干渉を排した「個人の内部」に存在するという自己観が、現代のわれわれが常識として共有する自己観となっている(片桐2000)。ところが、インタビューの場では、そうした自己観はかならずしも通用しない。語り手がどのようなものとして自己を定義するか、自己の動機をどのように規定するかは、物語を語ることによって行なわれ、その営みは、インタビュアーの質問/応答、すなわち承認や批判を離れて考えることはできないからである。語り手の自己呈示は、調査者にそのまま受け入れられるとはかぎらず、調査者の先入観や否認をともなって修正されつつ構築されていくダイナミックな過程である。その意味では、自己の表出は、たんなる自己の内部のものを外部にさらけ出す表現行為ではなく、相互行為によって構築され創り出されるものであって、自己は固定的で安定的なものではない。インタビューは、そうした相互行為によって語りが生み出される過程であって、それによってリアリティが構築され、同時に自己も構築されるのである。(214ページ)

もちろん、この本にはこういった理論だけでなく、技法も書かれています。インタビューの質問の類型(107ページ以降)や、トランスクリプションの表記記号(177-180ページ)は実用的なまとめです。インタビュー・ライフヒストリー研究には多様な考えがあり、もはや「無方法の方法」(8ページ)ともいえるということを正面から捉えて、できるだけ理論的にも技法的にも読者に誠実に書いた本とはいえないでしょうか。


佐藤郁哉(2002)『フィールドワークの技法 問いを育てる、仮説をきたえる』新曜社 (2006/4/14)

質的研究を始めようと思う人は、まずこの本を丁寧に読んで、そして質的研究を実際に始めて、その過程で再び、三度、この本に帰ってゆけばよいのかな、とも思いました。この本が「フィールドワークとは何か(what)」と「どのようにして実際にフィールドワークを行なえばいいのか(how)」の両方に関して、バランスよく、センスよく、「生きた体験にもとづくアドバイス」(iv)を提供しているからです。著者の佐藤郁哉先生は、現場取材でお世話になったインフォーマントの人にも文体や言い回しに関してあまり抵抗感や違和感をおぼえずに読んでもらえる民族誌を書くことが一つの理想だ(25ページ)と考えていますが、そういった文体や言い回しはこの本でも貫かれ、非常に読みやすい(しかし深い)本になっています。
第一章の著者の研究史を経て、私たちは著者の研究姿勢(と苦労)に共感的理解をした後、第二章では「印象のマネジメント」(57ページ)や「自分の無知を率直に認めて現場の人々から謙虚に学ぼうという姿勢」(64ページ)の重要性、あるいは「オーバーラポール」の問題(「一歩距離をおいた関与」「客観性を失わないラポール」)(77ページ)などを著者は語ります。
第三章ではフィールドワークの特徴の一つを「正しい答えを出すために有効なデータや資料を集めることができるだけでなく、調査を進めていくなかで問題そのものの輪郭や構造を明確にしていくことができる」(86ページ)ことと捉えて、さらに「リサーチクェスチョンが最も明確になるのは、実際に調査をおこなっている最中というよりは、むしろフィールドワークの作業をあらかた終えて報告書としての民族誌を書いている時のことの方が多い」(106ページ)研究過程に関しても、著者自身の研究史の事例を出しながらわかりやすく解説します。
第四章では、フィールドノーツ(著者は「フィールドノート」ではないと強調します)のポイントを「本質的に言語化しにくい主観的な性格をもつ体験の内容を限界ギリギリのところまで文字の形で記録することによって、自分自身が後でその過去の体験について考察を加え体系化できるようにしておく」(158ページ)こととして、著者自身によるフィールドノーツも披露しています(169-175ページ)。たしかに「あらゆる工夫をしてかなり時間が経過した後でもその記述を見れば現場の情景が再生できるようなものにする」(177ページ)ことを目指しただけのことがあります。フィールドノーツの真似事のようなものを無自覚に取った経験がある私としては、著者のフィールドノーツの具体性には驚いてしまいました。著者は、現場を離れたら、誰かと話をすることなどもなく、すぐにパソコンなどでフィールドノーツを清書することを勧めます。疲労困憊しているときにはさっさと寝てしまって翌朝一番でフィールドノーツを書くべきだとも著者は言います(193-195ページ)。
第五章ではフォーマルインタビューとしての「面接」とインフォーマルインタビューとしての「問わず語り」の間の「聞きとり」についての具体的な技法が披露されています。聞きとりを依頼する前には、依頼文と具体的な質問内容をまとめたリストを予め送り、その後に電話で承諾を求めることや、依頼文には、(1)インタビューアーの身分、所属機関、(緊急)連絡先、(2)調査全体の意図、仮説の概要(あれば関連資料や論文も添付)、(3)なぜ相手を聞きとり対象として選んだかの簡単な説明、(4)質問内容の概要・ポイント、(5)公表する際の発表形態、(6)誰がインタビューをするか、(7)インタビューの所要時間、などの内容を盛り込んでおくこと(264-265ページ)、などの実用的なポイントが数多く掲載されていますから、聞きとり調査研究を予定している者にとってはこの章は非常に実用的で有益です。
第六章ではデータと理論的分析が離れてしまう「分離エラー」(287ページ)を避けるためにも、問題設定→データ収集→データ分析→民族誌執筆と直線的・離散的に考えるのではなくて、問題設定、データ収集、データ分析、民族誌執筆を同時進行的に進めていき、問題と仮説を徐々に構造化していくだけでなく、民族誌自体も次第に完成させていく「漸次構造化法」(295ページ)を示しています。そうして「薄っぺらな記述」(thin description)ではない「分厚い記述」(thick description)を目指し、研究の絶え間ない解釈と再解釈の出発点を提供する(302ページ)わけです。
非常に丁寧で良質な本であると思います。

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佐藤郁哉(1992)『フィールドワーク 書を持って街へ出よう』新曜社 (2006/4/14b)
上記の『フィールドワークの技法』より10年前に書かれた本書は、コンピュータ関係の記述はやはり古くなってしまっていますし、多くの論点は上記書にも再掲載されていますから、本書と上記書のどちらかを選ばなければならないとしたら、やはり上記書ということになるでしょう。というより、上記書の方がより実践的ですし。
しかし現在よりも、フィールドワーク研究への理解が少なかった時代に書かれた本書は、ある意味、上記書よりもストレートに語っているところがありますから、フィールドワーク研究への理解が今でも少ない英語教育界などの分野では今でも貴重な本だと言えるかと思います。
もちろん上記書では扱われていない論点もあり、その中で私の印象に残ったものには次のようなものがあります。

■最もフィールドワークに向いていないのは、「フィールドワークは最高の方法だ。アンケートなんか全くあてにならない。統計なんかインチキだ」などといって党派的な立場をとる「フィールドワーク至上主義者」や「エスノグラフィー帝国主義者」である。(20ページ)
■エスノグラフィーとは文学と科学という二つのジャンルにまたがる性格をもつ文章であり、また、そのような文章を作るための調査法でもあるのだが、その際には文学(エスノ・エッセイ)と科学(科学レポート)の間には緊張関係がなければならない。(45ページ)
■概念に操作主義を極端に適用するとやせ細ってしまった「限定概念」(definitive concept)となるが、概念にはその他にも、現実の多様性をもっと綿密に把握するための「感受概念」(sentisizing concep)がある。「感受概念」とは研究のはじめに大まかな方向性を示す概念であり、このような概念を使うことによって調査が進むにつれて概念規定そのものを練り上げていく柔軟な理論構成ができる。(81ページ)
■本を捨て去ることは、図書館から一歩も出ないような研究とおなじくらいにリアリティを見失う危険性を秘めている。(124ページ)
■「参与観察」とは、参加と観察という、もともと水と油のような関係にある意味をもつ二つの言葉を無理やり一緒にくっつけて出来上がった言葉である。(142ページ)

上記書と丁寧に読み合わせたら、いろいろと面白いことが学べるのかもしれません。

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佐藤郁也(2008)『質的データ分析法』新曜社 (2008/09/25)

質的研究には、量的研究のような厳密なルールはなく、研究者がその都度判断して研究を進める必要がありますが、その際にも有効な「ガイドライン」そしてコツやヒントがあります。この本はそういった質的研究を進める際の道筋を、非常にわかりやすい説明と図説で示した良書です。 よい質的論文の条件を筆者は次のようにまとめます(11ページ)。
・一つひとつの記述や分析が、単なる個人的な印象や感想だけではないデータを含む、しっかりした実証的証拠にもとづいてなされている。

・複数のタイプの資料やデータによって議論の裏づけがなされている。 ・具体的なデータと抽象的な概念ないし用語とのあいだに明確な対応関係が存在する。

・複数の概念的カテゴリーを組み合わせた概念モデルと具体的なデータとのあいだにしっかりとした対応関係が存在しているだけでなく、それについて論文のなかできちんとした解説がなされている。

・議論や主張の根拠となる具体的なデータが論文や報告書の叙述のなかに過不足なく盛り込まれている。
こうした優れた質的研究の根底には、「現場の言葉」を「理論の言葉」(ないし「学問の言葉」)へと移し替え、さらに「理論の言葉」を「現場の言葉」に移し替えようとする「文化の翻訳」あるいは「意味の翻訳」が何度となく往復されることがあると著者は説きます(第二章)。いわば異なる二つの文化に通暁することが「分厚い記述」を支える基礎になっていると言えましょうか。

そうした現場感覚に基づいて、質的研究者は(非言語的データと共に)文字データを作成し、その文字データに小見出しをつけます。これが「コーディング」です。このコーディングは、量的研究と違って、質的研究ではプロジェクト全体にわたって何度も繰り返しおこなわれ、研究者はデータ分析の作業を通じて概念的カテゴリー・コード体系を(再)構築してゆきます(第三章)。コーディングには、現場の言葉をそのまま使う「インビボ・コーディング」や抽象度の高い少数の概念を構成する「焦点的コーディング」(focused coding)があります(第七章)。

ここで著者が強調するのは、コード(概念的カテゴリー)と文脈のあいだの往復運動の重要性です。文字テクストはコードを割り当てられることにより、元の文脈から切り離されますが(「脱文脈化」ないし「セグメント化」)、さらにコードはデータベース化され、考察の対象となります(第四章)。

考察をする際に著者が勧めるのは「事例-コード・マトリックス」です。この趣旨は「木を見て森を見る」そして「森を見て木を見る」ために組織的・体系的にデータを検討することです(第五章)。さらに考察の際には、データを色分けしたり、「アウトラインプロセッサ」を使ったり「QDAソフト(MAXqda)」(日本語マニュアル)を使ったりして、データの膨大さや複雑さに困惑されないように工夫することが勧められています(第九章)。

そうして報告書や論文のために「ストーリー化」するのですが、ここで口頭発表やパワーポイント・プレゼンテーションでうまくやれる人も案外に苦労します。ここで改めて私たちは論文を書くということはどういうことなのか、という根源的なことを考える必要があるのかもしれません。

質的研究はこの本に書かれているようにやらなければならないわけでもありませんし、この本に書かれているようにやれば必ずしもうまくゆくわけでもないでしょう。やはり研究者個人の思考と判断、そして試行錯誤が必要でしょう。しかし質的研究を志す人なら、手元に置いて常に参照したい本かと思います。

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やまだようこ編 『質的心理学の方法』 新曜社 (2009/06/03)

質的研究法について最初に入手すべき概説的入門書としては最良のものの一つではないでしょうか。といいますのも、第一部で理論的背景を解説し、第二部での各種方法論を説明し、第三部で質的研究法の学び方を示しているからです。この本を通読することにより質的研究法について幅広く、そして奥行き深く学べるのではないかと思います。

目次は次のようになっています。
第1部 質的心理学の研究デザイン

1 質的心理学とは
2 研究デザインと倫理
3 論文の書き方


第2部 質的心理学の研究法

4 ナラティブ研究
5 参与観察とインタビュー
6 会話分析
7 半構造化インタビュー
8 グループインタビュー
9 ライフヒストリー・インタビュー
10 ライフレビュー
11 テクスト分析
12 アクションリサーチ


第3部 質的心理学の教育法

13 質的心理学の教え方と学び方
14 ナラティブ研究の基礎実習
15 フィールドワークの論文指導
16 協働の学びを活かした語りデータの分析合宿
17 教育における協働の学び
18 ゲーミングによる協働知の生成
19 ワークショップによる対話教育
第一部第一章ではやまだようこ先生が次のように端的に質的研究を総括します。
仮説演繹法をとる実験的研究では、「イエス・ノー」や「因果関係」で明快に答えられる問いを提示するほうが良い研究ができる。たとえば「人がA行動をしたのはBが原因か?」という問い方をする。そして、答えが明確に出る実験状況を設定して操作する。

それに対して質的研究では、自由記述のように開かれた問い (オープン・クエスチョン) を発する。「人はAの文脈でどのように出来事を意味づけるか?」など、現場 (フィールド) で複雑な相互作用によって生起する「出来事」「文脈」に関心を抱いて、問いを発するのである。 (4ページ)


質的研究では、研究者自身も場のなかに組み込まれているので、研究者がどのような位置に立ち、どのようなバイアスをもって出来事を認識しているのか、自分自身のものの見方や方法論をたえず省察 (リフレクション) する必要に迫られる。 (5ページ


また第二章では、サトウタツヤ先生が、質的研究では、量的研究の確率的標本抽出法のように、抽出する標本に母集団からの代表性を確率的にもたせようとするのではく、非確率的標本抽出法によって「研究対象となる事象について豊かな情報を与えてくれるような個体を選ぶ」 (26ページ) ことを述べ、質的研究と量的研究の根本的な発想の違いを明確にします。 しかしながらやまだ先生は、同時に最近の質的研究には、「過剰な「私語り」、私小説的な「身辺語り」や「告白」が氾濫している」 (12ページ) ことに警鐘を鳴らしています。
独自の個人としての「わたし」と信じられていたものが、いかに深く「他者」や「文化・社会」とむすびついているかを発見したことが、ナラティブを中心とした質的心理学の世界観と方法論の変革だからである。
(中略)
質的研究では、「一人称のわたしの視点を重視する」「二人称的に当事者の視点を聞く」「研究者が一人称のわたしの視点で論文を書く」ことが試みられる。しかし、それには、自他の関係性についての鋭い方法論的なスタンスと、省察性 (reflexivity) を必要とする。個人の主観や意思によって、どのようにでも世界の「現実」が構成されるかのように考えるとしたら、それは過去の主観主義や内省報告に基づく古典的な心理学研究への無自覚的な回帰になってしまうだろう。 (13ページ)

第二部の「質的心理学の研究法」はおそらくこれから質的研究を始めようとする人が最も熱心に読む箇所でしょうが、そういった具体的な手続きを学ぶ中でも次のような認識 (やまだようこ 「ナラティブ研究」) を理解しておくことは必要でしょう。
ナラティヴ研究では、広義の言語で語られたものを研究対象とするが、その語りが、「客観的現実」や「個人の内的世界」をどれだけ正しく反映しているかという問い方をしない。語りを、事実 (fact) の母集団の一部としてのデータやサンプルとしてみなし、どこまでが虚でどこからが実かを明確にしようとする見方は、ナラティヴ的な見方とはいえない。たとえ嘘が語られたとしても、その語りには、語りの形式 (フォルム) とルールがあると考える。人はいかようにも自由に嘘を語れるわけでなく、フィクションによって「真実」が語られる場合もある。また個人的な経験を語っているようでも、社会文化的な物語を引用して、自分流のヴァージョンをつくっているとも考えられる。 (64ページ)
その他にも「アクションリサーチ」の論考にも深い認識があることは、ブログの記事でもお知らせした通りです。

わかりやすく、広く、深い入門書といえるのではないでしょうか。

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