Plurilingualism(複言語主義)

欧州評議会(Council of Europe)が提唱するplurilingualism(複言語主義)からは、私たちは多くのことを学べるのではないかと思います。ここではplurilingualismについてまとめた文書などを掲載してゆきます。


柳瀬陽介 (2007) 「複言語主義(plurilingualism)批評の試み」『中国地区英語教育学会研究紀要』37, 61-70.



複言語主義(plurilingualism)批評の試み


広島大学 柳瀬陽介



1 目的と方法論

 本論文は、複言語主義(plurilingualism)の批評的読解を通じて、ヨーロッパでの言語教育政策のあり方を理解し、そのことによって日本の英語教育を実践かつ研究しようとしている「私たち」がどのような存在であるのかを明らかにすることを目的とする。つまり標題の「複言語主義批評」とは、私たちが複言語主義を批評的に解明することであり、同時に複言語主義によって私たちを批評的に解明することであるという二重性を意味した表現である。
 本論文の論考の方法は、複言語主義に関して欧州評議会(Council of Europe、以下CE)が公開している文書、および欧州評議会言語政策部門(Language Policy Division)の部局長(Head)であるJoseph Sheils氏、および同局のWaldek Martyniuk氏とのインタビュー1から得ることができた情報、および言語教育政策に関連する文献を参考にしながら、「批評」としての論考を進める方法をとる。
 論考は「批評」として進められると述べた以上、「批評」についての共通理解をここで確認しておくことは必要であろう。レヴィナスなどを主な理論的背景とする内田(2003、2006など)は、批評という行為を、自らの判断基準や立ち位置を全く疑わない「査定」(あるいは「裁断」や「批判」)とはあくまでも異なるものとして認識している。その批評観を筆者なりにまとめると批評(ここでは文書の批評)とは次のような行為となる。

(1)目の前に物理的実体として明々白々に存在している文書に関して、その文書の書き手とはその固有名以上の誰(who)なのか、書き手は活字を通じて何を(what)どのように(how)語っているとまとめられるのか、そしてそもそも書き手が語りかけている読者とは実のところどのような存在なのか(to whom)、またこの文書が書かれ読まれる時空とはどのような文脈状況なのか(when and where)、これはなぜ書かれなければならなかったのか(why)ということを、批評者なりに問い、かつ、
(2)そのような総括をする批評者という「私」はいったい誰で・・・といった、(1)のwho以下の問いを批評者が自分自身にも投げかけながら、さらに
(3)その問いつつ、問われるという、反照的な知の運動を、それにふさわしい柔軟な文体で語り、そしてこの二重の問いかけで
(4)批評の読者にも、読者各々の問いかけと思考を促す。

本論考では基本的にこの内田の批評観の姿勢を踏襲し、できうるかぎりの批評を試みる。
 この批評の定義からも、この論考が取らない二つの立場が明らかになる。取らない第一の立場は、日本の現状を絶対化することである。現時点での日本を絶対の判断基準とするならば、「複言語主義など、所詮ヨーロッパの話」となり、これらの動きを私たちとは異なるものと裁断してしまい、これから私たちの企図やあるいは数々の偶然によって変わりうる日本のことに関する想像力を封殺してしまう。これは反批評的態度である。もう一つの取らない立場は、逆の、ヨーロッパの絶対化である。複言語主義を到達すべき不動のゴールと始めから判断を固定してしまえば、日本のあるべき姿を論点先取で前提してしまい、結論は「いかに日本は遅れているか」という、一時期よく見られた西洋礼賛=日本否定の凡庸な物言いに終わってしまう。本論考はこのような立場は取らない。以下、2で複言語主義とは何かを問い、その問いに基づいて3で「私たち」への批評的問いかけを試みる。


2 複言語主義とは何か

2.1 定義

 複言語主義(plurilingualism)とは欧州評議会(言語政策部門)2による新造語であり、通常の英語辞書には掲載されていない。このためこの語の翻訳には、たいていの翻訳者が困っている。この概念は欧州連合体(EU: European Union)でも理解されているが、まだこの語は採択されるにいたっていない。日本においては「複数言語主義」(山川 2005)といった訳語もあるが、ここでは吉島・大橋、他(2004)に倣い、「複言語主義」という訳語を採択する。「複」という接頭辞の方が、「複数」よりも、plurilingualismという語の新造性や言語能力の非離散性(後述する「統合的」性格)を示すためには好ましいと筆者は考える。なお、個人の言語能力の非離散性・統合的性格を強く表現するためには「複合言語主義」といった訳語も考えられるが、「複合言語」という表現は「複合語」とも混同されかねないのでこの論文では「複言語主義」という訳語を採択し、「複合的」という表現は個人の言語能力を形容する時にのみ用いることとする。
 この複言語主義と混同されやすい概念として多言語主義(multilingualism)がある。欧州評議会(言語政策部門)は、多言語主義を社会の状況を表す用語、複言語主義を個々人が持つ能力・価値を表す用語であると区別している。つまり、多言語主義とは、ある社会においていくつかの言語が共存している(そのうちいくつかは公用語として認定されている)状態を表している。だが、その社会の成員の個々人がそれら全ての言語において習熟しているかどうかは問題ではない(実際問題として、多数の公用語全てに高度な習熟を示す人間は例外的存在に過ぎない)。それに対して複言語主義とは、ある人間が、一つ以上の言語に、たとえ部分的とはいえ開かれて、ある程度の複合的な能力を持ち、コミュニケーションのための言語を自分の第一言語だけに限定しない価値観を有していることを意味している。多言語主義は国家の社会的制度を語るために、複言語主義は個々人の教育を語るためにそれぞれ有効な用語といえるだろう。
 複言語主義には、(1)能力としての複言語主義(plurilingualism as a competence)3と、(2)価値としての複言語主義(plurilingualism as a value)の二つの側面があり、両者はそれぞれ、(1)'複言語主義のための教育(education for plurilingualism)と(2)'複言語的自覚のための教育(education for plurilingual awareness)につながってゆく。しかしCommon European Framework of References for Languages (CEFR) などでは(2)が必ずしも明確には言及されておらず、(1)に付帯的に述べられているだけである。したがって、複言語主義は、狭義には「能力としての複言語主義」を指すが、より厳密には広義に「能力としての複言語主義」と「価値としての複言語主義」の両方を指すとまとめることができるだろう。
 能力としての複言語主義の定義としてはCEFRの次の定義がしばしば引用される。

コミュニケーションのために一つ以上の言語を使い、間文化4的やりとりに参加する力であり、そこでは人間が、いくつかの言語においてそれぞれ様々な程度の言語実力を有し、またいくつかの文化での経験をも有する社会的主体として見なされている。この力は、別個の諸能力を縦に並べたり、横に並べたりしたものとしてはみなされず、むしろ使用者が[その都度]引き出すことができる、複雑で、複合したとさえもいえる存在としてみなされている。(CE 2001, p.168)

このように定義された目標を目指す「複言語主義のための教育」では個々人の言語レパートリーを、初学期から生涯に渡って発展させるものとする」(CE 2003, p.16)とされ、教育が学校で完結することのない、生涯に渡るものであることが強調されている。
 価値としての複言語主義は、「言語的寛容の基礎である教育的価値」であり、自動的に育つものではない以上、学校によってこの価値が組織的に促進されなければならないとされている(CE 2003, p.15)。以上、多言語主義とも対比しながら整理した複言語主義の概念は図1のように表現できる。


2.2 複言語主義にいたるまでの歴史
 それではこのような複言語主義はどのような歴史的背景で成立したのだろうか。この節では、近代的伝統とその変容、さらに現代的大変動といった歴史的要因を概括する。
 近代的伝統としては、そもそも「ヨーロッパ」とは、民主的市民性という抽象的な理念によるものであること(CE 2003, p.30)を第一にあげるべきであろう。様々なエスニック・グループと国民イデオロギー5や国家制度が錯綜していたのが「ヨーロッパ」と呼ばれる地域である。しかしこの地域は、広場に象徴される「公共的空間」(public space)をまずは確保する伝統を持っていた。人々は、そこでまずは物理的に集い、語ることで、言語・宗教・文化・経済・社会といった要因の差異を超えて、「市民の共同体」(community of citizens)という意識を培い、やがてその「市民」とは法的な概念ともなっていった(CE 2003, p.69)。
 しかし「市民」理念にもかかわらず、実際の国家によって決定される国家言語政策(state language policy)は、19世紀初頭に作られた「国家=国民=言語」という言語ナショナリズムにより、言語を国家・国民統合の手段として捉えた。国家(state)とは、同じ言語(language)を話す、同じ国民(nation)の共同体だと考えられた。同じ言語を話すことこそが国民国家(nation-state)の象徴であり構成要因であるとされた。しかし、当然のこと、当時からある国家内には、いくつもの言語変種を話す人々は存在したのであり、上のような言語ナショナリズムは理屈の上だけのものであり、言ってみるなら神話であった(CE 2003, p.18)。
 神話は早晩、現実に直面せざるを得ない。国家内の言語マイノリティの存在が無視できないものになると、多言語主義は消極的に受け入れられるようになってきた。消極的というのは、主要言語が国民的言語あるいは公用語として政治や教育で使われるようになるものの、それら以外の言語はプライベートな使用空間に認められるのみに留まっていたからである。社会的には多言語が使われても、多くの人間は基本的にモノリンガルであるというというのが社会を代表する人々(social representation)であった(CE 2003, p.19)。しかしさらに人口の動きは激しくなり、既存のマイノリティに加え、現在は新たな移住者(migrant)が新たな言語マイノリティを作り、彼/彼女らの言語権も争点になってきた。こうなれば、ヨーロッパ「市民」の理念にも関わらず、主要言語を話さない多くの人々は、言語による相互交流の機会が閉ざされたまま、ということは相互不理解と敵対の可能性を大きく持ちながらヨーロッパという地域に居住していることになる。
 そこへ出現し、ますます影響力を強めてきたのが、共通語としての英語という考えである。「自由経済イデオロギー」(liberal economic ideology)とも呼ばれる経済合理性至上主義からすれば、多言語使用はコストがかかるので、共通語使用が望ましいということになる。そこへ1990年代から英語のグローバル化が加速化し、「規模の経済」の効果を出し始め、その他の言語を圧倒する力を持ち始めた。さらに英語は、コミュニケーションのための共通語を超えて、いわば「超共通語」となり、「国際共通」的な生き方・社会のモデルを象徴する言語として認識されつつある6。ひょっとすれば現在は帰還不能点(the point of no return)に到達しているのかもしれない。そういった現状でこそ、自覚的な選択が必要である。
 このような状況では、英語によるグローバリズムと母語によるエスノセントリズムの間の緊張が高まることとなる。極端な英語文化礼賛か母語文化至上主義かという対立、あるいは英語使用とグローバリズムの無条件的肯定へ向うか、母語に留まり反グローバリズムを標榜するかという対立である。しかし、グローバリズムが善悪を超えた世界史的潮流だとしたら、「英語か母語か」、「グローバリズムか反グローバリズムか」といった二律背反的な対立は有効な問いかけではないし、場合によっては対立を悪化させるだけの扇情的な問いかけとすらいえるのかもしれない。
 欧州評議会が複言語主義を提唱するに至ったのにはこういった歴史的背景がある。「ヨーロッパ」という空間における歴史的な緊張の対立関係を、統合的に発展させようとするのが複言語主義ともいえる。これをまとめれば図2のようになろう。こうして複言語主義への動きは、数々の決議や勧告によって政治的に正統に承認・継承された。


2.3 複言語主義の価値自覚性と統合性
 こうして発展してきた複言語主義は、価値自覚的で、統合的な言語教育政策であるとまとめることができる。
 (1)価値自覚的な言語教育政策
 欧州評議会の言語教育政策は、欧州評議会そのものの価値である人権、民主主義、法の支配(CE 2005, p.3)に基づき、言語教育においては、(1-1)複言語主義、(1-2)言語的多様性、(1-3)相互理解、(1-4)民主的市民性、(1-5)社会的結束を特に目指すという価値目標を明確に持つ。これらの価値自覚こそが、公共的空間の伝統を持ちながらも、言語ナショナリズム/エスノセントリックな反グローバリズムと、経済合理性至上主義/超共通語化する英語とグローバリズムの狭間で「あるべきヨーロッパ」であるためには必要というのが欧州評議会の判断である。
 (2)統合的言語教育政策
 (2-1)複合的な個人的言語力:個人内の様々な種類と程度の言語能力を複合し、多様な言語使用への対応と尊重を促す。個々人の中の部分的な能力や自覚も積極的に肯定する。言語力は「理想的ネイティブ・スピーカー」をモデルとして二ヶ国語あるいはそれ以上をマスターするものとしては考えられない。複言語主義が想定する言語力は、部分的なものも含め、複数の言語において個人がもつあらゆる言語的な力が活かされる、複合的な力である (CE 2001, p.4) 。
 (2-2)横断的プロジェクトとしての複言語主義:複合的な言語力とは、母語、国語、地域言語、マイノリティ言語、外国語、その他の言語(含む、古典語)などの教育を同時に考える言語教育プロジェクトの中で育てられる。各種言語教育はもはや区分されて別個に行われるのではなく、相互の連関を考えながら横断的統合性を考えて行われなければならない(CE 2003, p.64)。
 (2-3)縦断的な生涯学習・教育としての複言語主義:複言語主義は生涯にわたるものであり、市民の複言語主義的なレパートリーを生涯にわたって豊かにしてゆくものであるべきである。この意味で言語教育は、学校だけに限られたものではないが、学校は複言語主義実現のためには代替できない中心的な機能を持つ(CE 2005, p.5)。
 こういった複言語主義による欧州評議会の試みは次の図3のようにまとめられる。
 


欧州評議会の言語政策部門は、専門家集団として、複言語主義の理念を具体化する役割を果たしている。その試みは次のような展開を経ている(CE 2005, pp.7-11)。
(a)創成期(1963-1972):International Association of Applied Linguistics (IAAL)の設立サポートなどの活動
(b)概念-機能アプローチ期(1971-1977):Threshold Levelの設定(90年代には中級のWaystageと上級のVantageに発展)
(c)コミュニケーションのための言語教育への改革期(1981-1988):カリキュラム、教育方法、試験などの改革が進められる
(d)複言語主義誕生期(1989-1997):1997年のRecommendation No. R(98) 6で間文化コミュニケーションと複言語主義が政策目標としてかかげられる。(歴史的背景として中欧・東欧の欧州評議会加盟やInformation Communication Technologyの発展などがある)。
(e)複言語主義推進期(2000-):欧州評議会の言語政策実施のサポートをするためのThe European Centre for Modern Languages (ECML)が本格的に活動し始める。2001年はEuropean Year of Languagesとして定められCEFR, European Language Portfolio, European Day of Languages(26 September)が制定される。
 これらの試みは欧州評議会加盟国だけでなく、それを超えて日本などの世界各国にも影響を与えているのは、上記のIAAL, Threshold Level, CEFRなどの固有名の浸透度が示唆する通りである。

2.4 複言語主義のまとめ
 以上の総括から「私たち」は複言語主義を以下のような試みであるとまとめることができる。
 Where: エスニシティ/国民/国家が交錯する中で、公共的空間の中での市民性を確立してゆこうとする場所で生じた考えである。
 Who: 人権・民主主義・法の支配の価値を普及しようとする超国家的機関が、言語的多様性・相互理解・民主的市民性・社会的結束を促進しようとして、専門家集団に託して言語化したものである。
 To whom: 欧州評議会加盟国の言語政策決定者へ向けられているが、実際には世界各地の言語政策決定者と一般市民にもその声は様々な度合いで届いている。
 What: 一方でグローバリズム・市場の力と、他方で人権・民主主義・法の支配および言語的多様性・相互理解・民主的市民性・社会的結束といった価値の間でのバランスの中で、言語能力が、個々人の中で自覚的かつ複合的に育てられるべきであるということを訴えている。
 How: 言語政策決定者(ひいては一般市民)がヨーロッパの現在を意識し、それぞれのおかれた状況で、その場しのぎの決定を避け、具体的で賢明な判断ができるように価値明示的に書かれてある。
 When: もはや英語が単なる共通語以上の超共通語としてさえ捉えられてきはじめた時代に、私たちが取り返しのつかない言語政策的過ちをする前に出された考えである。
 Why: ここで尊重されている価値は自動的に生じるものでも、市場の力で生み出されるものでもないから、数々の決議や勧告を通じて考え抜かれ明言化された。
 こういった複言語主義を理解することで、私たちはヨーロッパの言語政策について学べるが、その学びを通じて、どんな「私たち」が反照されるだろうか。次はそれを考察しよう。


3 「私たち」への批評的問いかけ

3.1 Where: 「私たち」はどこにいるのか

 「私たち」がいる空間をこれまでの批評的読解から反照してみよう。そうすると、「私たち」の空間は、自明のものから、(1)近代日本、(2)(東)アジアの日本、(3)日米同盟の視点からまとめられるべき姿へと変わる。ヨーロッパ空間の考察から、私たちの空間も、日本という近代国家だけの視点からだけでなく、(東)アジアに位置し、太平洋を越えた米国と強力な影響関係にある空間にあることが改めて思い起こされるからである。
 (1)近代日本:「日本」は明治維新により、急速に中央集権国家としての体裁を整えようとし、琉球民族やアイヌ民族などのエスニシティを抑圧した。大和民族においても、方言をやめ標準語(「国語」)を使うように学校教育は進められた。そうして国民国家(nation-state)としての国内的統一をはかった。国外的にはその「国語」を、植民地化した朝鮮半島、台湾、「満州国」などでも強引な方法で普及させようとした。こうして作られた「国家=国民=言語」イデオロギーの影響は、ヨーロッパより強いと考えられる。日本は既に多言語社会であるという主張もあるが、「国語」を第一言語としない「日本人」への教育的取り組みはおろか、制度的取り組みすらも遅れている。また「公共的空間」およびそれを作り出す「語り」(speech)(Arendt 1958)に対する意識もヨーロッパに比べて低いのも「私たち」の空間の特徴である。
(2)(東)アジアの中の日本:「東アジア」あるいは「アジア」という意識は、「ヨーロッパ」という意識ほどは強くないし、また欧州連合・欧州評議会ほどの制度化もされていない。東アジア圏においては、上に述べた植民地支配の歴史の反動からか、相互の言語学習はせいぜい経済的動機からなされるだけであり、ヨーロッパほどに政治的に明確に動機づけられていない。共通言語としては英語が多く使われるが、中国の存在感がますます増大する中、東アジア圏での英語覇権がどのようになるかは予断を許さない。今後、地理的近接性からして、東アジア圏でのコミュニケーションはますます重要になると予想されるが、現在の「東アジア」意識がそれに対応したものかはわからない。ましてや「アジア」という意識は、「東アジア」意識より茫漠としている。
(3)日米同盟:日本は第二次大戦後、米国を中心とした占領軍統治を受けて以来、米国と強い関係を保ってきた。その関係を表す言葉として、最近では(一説によると1996年4月の橋本クリントン会談以来)、「日米安保」ではなく「日米同盟」という言葉がもっぱら使われている。外国語教育も圧倒的に英語教育が主流で、特に1990年代は他のいわゆる「第二外国語教育」の削減などが大学でも進められた。外国語教育の選択肢の少なさは世界有数であるとも言われている。小学校への英語教育導入なども、英語の有用性あるいは英語=国際語イデオロギーが背後にあると考えられる。対抗的イデオロギーとして英語帝国主義論があるが、これらは二項対立的、二律背反的に捉えられ、なかなかかみ合わない(柳瀬 2006)。こうなると「私たち」とはもっぱら日米同盟の空間の中で討論を行っている存在としても規定できるかもしれない。

3.2 Who: 「私たち」は誰なのか
 欧州評議会(言語政策部門)の活動から考えると、このような論文を読み書きする「私たち」は、英語教育の政治的主体である以上に、政治的主体を支援する専門家である必要があることが示唆される。ここでいう専門家とは、ヴェーバー(1998)のいう「経験科学」(あるいは「社会科学」)に従事する者と重なる概念である。つまり、経験科学・社会科学に従事する者は、ある目的が与えられた場合、考えられている手段がどの程度その目的に適しているか、どのような予想しない随伴的結果をもたらすのか、何を犠牲にするのか、などを明らかにし、こういう決断の意義あるいは理念を決断者に具体的に自覚させることを試みる。もちろん、経験科学・社会科学に従事する者も、個人的にはある決断をすることがあるが、それは経験科学・社会科学に従事する専門家としてではなく、一人の政治的主体(「意欲する者」(ヴェーバー))としての決断である。現代日本においても、小学校英語教育を始めとして、英語教育関係者は数々の決断を迫る問題に直面しているが、彼/彼女らがそれに対して、専門家として行動しているのか、政治的主体として行動しているのかについては冷静な吟味が必要であろう。ここにおいて「私たち」とは誰であり、誰であるべきであり、誰であろうとしているのかが明らかになる。

3.3 To whom and how: 「私たち」は誰にどのように語りかけているのか
 複言語主義のような語りかけは日本ではあまり見られないようにも思える。学習指導要領は一見、没価値的である。英語教育の効率化をひたすらに目指す論考は専門家と政治的主体が分別不可能となった語りかけをしているように思える。反-英語帝国主義者は、イデオロギーの指摘と批判において専門家として語りかけているが、彼/彼女らは現在の英語教育の諸学会では少数派に過ぎない。英語教育界の多数派は、自然科学的な語りかけで、社会的な関心をほとんど示さない。
 しかし上のような考察からするならば、私たちは「専門家」として、学界の吟味者を突き抜けて、政策決定者そして究極的には一般市民に語りかけなければならないことが明らかになる。私たちはそのような聞き手・読み手に向けて、正確さや厳密性を犠牲にすることなく、事象の諸連関を明かすような語り方をしなければならない。

3.4 What: 「私たち」は何を信じているのか
 専門家は、いかなる価値から論考を出発してもいいというわけではなく、その生きる社会において共有された価値から始まる諸連関の解明を第一の課題にするべきであろう。無論、必ずしも共有されていない対抗価値からの解明も促されるべきであるが、それは、第一の課題のある程度の達成があってからの課題というべきであろう。しかし私たちの共有する価値とはなんであろうか。欧州評議会の試みに学ぶなら、政治的・法的に合意された日本国憲法や教育基本法というのが一つの答えであろうが、現行の日本国憲法や教育基本法の価値観に基づいた英語教育の論考は十分になされているであろうか(仮にあるにせよ、それらは「政治的」ということばで否定的含意を与えられていないだろうか)。現行の日本国憲法や教育基本法にせよ、何にせよ、私たちは、私たちが信じている究極の価値を自覚して論考を進めるべきであろう。「私たちは特定の価値など信じていない」、「私たちは政治から独立している」というのは自己欺瞞か、狡猾な現状肯定にすぎない。

3.5 When: 「私たち」はどういう時代にいるのか
 私たちはグローバリゼーションの波を受け、「英語第二公用語論」、「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」などを通じて、小学校への英語教育導入などの改革の動きの最中にいる。このグローバリゼーションのインパクトがヨーロッパ以下だと信じる積極的な根拠はない。だが私たちに必要なのは、私たちのwhere, who, to whom, what, how, whyを自覚した上で、この時代(when)において研究を進めることである。そういった私たちの存在に、私たちが自覚的に忠実であることが、私たちの仕事の第一前提である。

3.6 Why: なぜ複言語主義は注目に値するのか
 これからの日本の言語政策のあり方、英語教育関係者の語り方に関して、複言語主義は日本での英語教育論考ではなかなか得られない洞察を与えてくれる。
 現在日本では、グローバリズムの影響による英語熱の増大と、ややエスノセントリックな日本語愛の二つの動きは非常に目立つ。日本での「外国人」としては英語の「ネイティブ・スピーカー」は格段に優位な扱いを受けていること(そしてそれには「白人であれば」という条件も加わっていること)は昔から指摘されていることである。日本人として賞賛を浴びる人間の典型の一つとしては、そういった英語を駆使し、同時に日本と日本語を愛する人間が上げられる。英語と日本語のバイリンガルが日本の言語使用文化におけるもっとも有力な理想像であろう。もちろん、この理想像を手にすることができるものは少ない。したがって、衆望を得る対極像として、「英語も何語もできないが、日本語を誇りにしている」といった人間像がある。無論、高度な英語と日本語のバイリンガルにせよ、自覚的日本語モノリンガルにせよ、そういった呼称が当てはまる人たちに問題があるというのではない。ここで問題にしたいのは、日本の言語使用に関する言説が、英語と日本語の間だけで閉じられてしまい、なかなか他の言語や文化に私たちの目が向かないことである。前掲の図2で説明するなら、日本にはグローバリズム/経済合理性至上主義と、エスノセントリズム/言語ナショナリズムの間を調停しようとする動きに乏しい。
 ひょっとしたら日本には「排他的バイリンガリズム」(exclusive bilingualism)とでも名づけるべき態度が育ちやすいのかもしれない。もしそれが正しいのなら、私たちはそのような態度を取るとき、いったい何をして、何をせず、何を信じ、何を排除しているのだろうか。 
 複言語主義を無条件に理想とするのでもなく、無下に拒絶することもなく、複言語主義を通じて、私たちはより学問的な考察を始めることができるだろう。現在、私たちは、英語教育を通じて、日本の言語教育において何をしようとしているのか、それは私たちが信じる価値に基づく目的を達成するために合理的な手段なのか、それがもたらす副次的影響や犠牲は何なのか、私たちの目的達成の意義は何なのかについて私たちは学問的に考察する必要がある。



1 欧州評議会言語政策部門でのインタビューは科学研究費(「諸外国における中等学校英語学力の到達度に関する調査研究」)予算の一部を使って行なわれたものである。
2 欧州評議会(CE)は、人権、法の支配、民主主義という共通の価値を擁護・促進することを目的として設置された機関で、EU15ヶ国を含む全欧44ヶ国(含むロシア、トルコ等)が加盟国となっており、ほぼ全欧州を網羅する汎欧州国際機関である。これに対し、欧州連合(EU)は、経済的な統合を中心に発展してきた欧州共同体(EC)を基礎に、欧州連合条約(マーストリヒト条約)に従い、経済通貨統合を推進すると共に、共通外交安全保障政策、司法内務協力等のより幅広い協力をも目指す政治経済統合体である。なお言語政策部門(Language Policy Division)とは欧州評議会の下部組織であり、主要な責務を、言語的多様性と複言語主義を促進するための政策とガイドラインを精緻化し、社会的結束と民主的市民性のための政策計画方策を開発することとする専門的組織である。
3 欧州評議会(言語政策部門)の文書ではしばしば'competence'が可算名詞として使われている。
4 'Intercultural'の訳語としては「異文化」が通用しているが、ここでは文化の差異よりも、文化の間での交流を強調したいため「間文化」という訳語を敢えて採択する。
5 今回検討した欧州評議会による文書では「イデオロギー」(ideology)という言葉は、否定的な意味だけでなく、肯定的な意味も持ち得る中立的な言葉として使われているようである。
6 「国際共通語」として認識された英語が地域文化を破壊しかねない懸念はもちろんであるが、他方で、英語を使って各自の文化やアイデンティティを確立し多文化の人々に表現することは可能ではあることも指摘しなければならない。

Arendt, H. (1958). The Human Condition. (2nd ed.). Chicago: The University of Chicago Press.
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ヴェーバー、マックス著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳. (1998). 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 東京:岩波書店.
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山川智子. (2005). 「欧州評議会が近年提唱する『複数言語主義』概念について」 『国際理解教育』 11, 118-126.
吉島茂・大橋理枝、他訳. (2004). 『外国語教育II 外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』 東京:朝日出版社.


2006年6月17日
中国地区英語教育学会(於:広島大学)
口頭発表用レジメ


複言語主義(plurilingualism)批評の試み


広島大学 柳瀬陽介
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/


0 概要
 本発表は、欧州評議会(Council of Europe)が提唱する複言語主義(plurilingualism)の背景・理念・特徴などを明らかにし、その解明によって、日本で英語教育を推進する「私たち」とはどのような存在かを逆照射する批評の試みである。教育とは未来への投企であることからすれば、このような他者(ヨーロッパ)理解により、自己(日本)のありえる姿・ありえていない姿を想像することは、実態調査などの現状把握とは別の意味で、英語教育の構成・修正にとって重要な研究であるといえる。



1 本発表の目的と方法論

>目的:本発表は、複言語主義(plurilingualism)の批評的読解を通じて、ヨーロッパでの言語教育のあり方を理解し、そのことによって日本の英語教育を実践・研究しようとしている「私たち」がどのような存在であるのかを明らかにすることを目的とする。

>方法:本発表は、複言語主義(plurilingualism)に関して欧州評議会(Council of Europe)が公開している文書、および欧州評議会言語政策部門(Language Policy Division)の部局長(Head)であるJoseph Sheils氏、および同局のWaldek Martyniuk氏とのインタビュー(注1)から得ることができた情報、および言語政策に関連すると発表者が考える一般文献を参考にしながら、「批評」としての論考を進める方法をとる。
複言語主義に関する主な文書は、Council of Europe (2005) Plurilingual education in Europe, Council of Europe (2001), Common European Framework of References, Council of Europe (2003), Guide for the development of language education policies in Europeであり、どれも欧州評議会の言語政策部門によって作成されている。Plurilingual education in Europeとは、欧州文化協定(European Cultural Convention)50周年を記念して出版された複言語主義に関する小冊子であり、Guide for the development of language education policies in Europeはその場しのぎの言語政策決定を避け(Council of Europe 2003: 7)、複言語主義に基づいた言語政策を決定するための事実分析(Council of Europe 2003: 11)の書である(原語はフランス語で英語版は翻訳版である)。Common European Framework of Referencesは、複言語主義に基づいて、言語学習・教育・評価を包括的・明示的・一貫的(comprehensive, transparent, coherent)に行なうために具体的に設定された共通枠組みである。

>「批評」とは:「批判」(=誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと『大辞林』)は、「批評」(=事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること『大辞林』)と異なるというのは一般的な理解である。だが、ここではそういった理解よりも一歩進めて、ここでいう「批評」とはどういった行為かを明らかにしておく。レヴィナスなどを主な理論的背景とする内田(2003、2006など)は、批評という行為を、自らの判断基準や立ち位置を全く疑わない「査定」(あるいは「裁断」や「批判」)とはあくまでも異なるものとして認識している。その批評観を発表者なりにまとめると批評とは次のような行為となる。

(1)目の前に物理的実体として明々白々に存在している文書に関して、その文書の書き手とはその固有名以上の誰(who)なのか、書き手は活字を通じて何を(what)どのように(how)語っているとまとめられるのか、そしてそもそも書き手が語りかけている読者とは実のところどのような存在なのか(to whom)、またこの文書が書かれ読まれる時空とはどのような文脈状況なのか(when and where)、これはなぜ書かれなければならなかったのか(why)ということを、批評者なりに問い、かつ、
(2)そのような総括をする批評者という「私」はいったい誰で・・・といった、(1)のwho以下の問いを批評者が自分自身にも投げかけながら、さらに
(3)その問いつつ、問われるという、反照的というか、運動的な知を、それにふさわしい柔軟な文体で語り、そしてこの二重の問いかけで
(4)批評の読者にも、読者各々の問いかけと思考を促す

本論考では基本的にこの内田の批評観の姿勢を踏襲し、できうるかぎりの批評を試みる。

この予備的なまとめからも、この論考が取らない二つの立場が明らかになる。取らない第一の立場は、日本の現状を絶対化することである。現時点での日本を絶対の判断基準とするならば、「複言語主義など、所詮ヨーロッパの話」となり、これらの動きを私たちとは異なるものと裁断してしまい、これから私たちの企図やあるいは数々の偶然によって変わりうる日本のことに関する想像力を封殺してしまうこととなる。これは反批評的態度である。もう一つの取らない立場は、逆の、ヨーロッパの絶対化である。複言語主義を到達すべき不動のゴールと始めから判断を固定してしまえば、日本のあるべき姿を思慮抜きに前提してしまい、結論は「いかに日本は遅れているか」という、一時期よく見られた西洋礼賛・日本否定の凡庸な物言いに終わってしまう。本論考はこのような立場は取らない。



2 複言語主義とは何か


2.1 定義

>新造語:複言語主義(plurilingualism)とは欧州評議会(言語政策部門)による造語であり、通常の英語辞書には掲載されていない。このためこの語の翻訳には、たいていの翻訳者が困っている。この概念は欧州連合体(EU: European Union)でも理解されているが、まだこの語は採択されるにいたっていない(Waldek Martyniuk氏談)(注2)。

>日本での訳語:日本においては「複数言語主義」(山川 2005)といった訳語もあるが、ここでは吉島・大橋、他(2004)に倣い、「複言語主義」という訳語を採択する。「複」という接頭辞の方が、「複数」よりも、plurilingualismの新造性や非離散性(後述する「統合的」性格)を示すためには好ましいと発表者は考える。

>多言語主義との違い:混同されやすい概念として多言語主義(multilingualism)があるが、欧州評議会(言語政策部門)は、多言語主義を社会の状況を表す用語、複言語主義を個々人が持つ能力・価値を表す用語であると区別している。つまり、多言語主義とは、ある社会においていくつかの言語が共存している(そのうちいくつかは公用語として認定されていることもある)状態を表している。だが、その社会の成員がそれら全ての言語において習熟しているかどうかは問題ではない。それに対して複言語主義とは、ある人間が、一つ以上の言語にたとえ部分的とはいえ開かれて、ある程度の能力を持ち、コミュニケーションのための言語を自分の第一言語だけに限定しない価値観を有していることを意味している。だが、そのような複言語主義を持つ人間が住む社会が多言語主義の社会(多言語社会)であるかどうかは別問題である。

>複言語主義の二つの側面:複言語主義には(1)能力としての複言語主義(plurilingualism as a competence)(注4)と、(2)価値としての複言語主義(plurilingualism as a value)の二つの側面があり、両者はそれぞれ、(1)'複言語主義のための教育(education for plurilingualism)と(2)'複言語的自覚のための教育(education for plurilingual awareness)につながってゆく。このことからも複言語主義は、単に功利的・職業的(utilitarian or professional)理由によって促進されているだけものではなく、言語的多様性(linguistic diversity)に対しての自覚と尊重の念を促すためのものでもあることがわかる。
しかしCEFRなどでは(2)が必ずしも明確には言及されておらず、(1)に付帯的に述べられているだけである。したがって、複言語主義は、狭義には「能力としての複言語主義」を指しうるが、より厳密には広義に「能力としての複言語主義」と「価値としての複言語主義」の両方を指すとまとめることができるだろう。

>能力としての複言語主義の定義としてはCEFRの次の定義がしばしば引用される。

コミュニケーションのために一つ以上の言語を使い、間文化(注3)的やりとりに参加する能力であり、そこでは人間が、いくつかの言語において様々な程度の言語実力を有し、またいくつかの文化での経験をも有する社会的主体として見なされている。この能力は、別個の諸能力を縦に並べたり、横に並べたりしたものとしてはみなされず、むしろ使用者が[その都度]引き出すことができる、複雑で、複合したとさえもいえる存在としてみなされている。
[T]he ability to use languages for the purposes of communication and to take part in intercultural interaction, where a person, viewed as a social agent has proficiency, of varying degrees, in several languages and experience of several cultures. This is not seen as the superposition or juxtaposition of distinct comepetences, but rather as the existence of a complex or even composite competence on which the user may draw. (Council of Europe 2001: 168)

これを目指す、「複言語主義のための教育」では個々人の言語レパートリーを、初学期から生涯に渡って発展させるものとする」(Council of Europe 2003: 16)とされ、教育が学校で完結することのない、生涯に渡るものであることが強調されている。

>価値としての複言語主義は、「言語的寛容の基礎である教育的価値」(2003: 15)であり、自動的に育つものではない以上、学校によってこの価値が組織的に支援されなければならないとされている(Council of Europe 2003: 15)。
これを目指す「複言語的自覚のための教育」では、言語的多様性(linguistic diversity)、言語的寛容(linguistic tolerance)、民主的市民性(democratic citizenship)などが目指されるものとされている。(Council of Europe 2003: 16)


2.2 複言語主義の歴史

>ヨーロッパの市民性:様々なエスニック・グループと国民イデオロギー(注5)や国家制度が錯綜していたのがそもそものヨーロッパである。そこでは、ヨーロッパへの所属感は、民主的市民性という文脈で創り上げられている(the creation of a feeling of belonging to Europe in the context of democratic citizenship (Council of Europe 2003: 30))。また「公共的空間」(public space)をまずは物理的にも確保する伝統を持っている。そのヨーロッパ的民主生活とは、誰もが市民として共同体に参加するものとして考えられる。その市民性は法的なものであり、言語・宗教・文化・経済・社会といった要因で差異化される「エスニックな」コミュニティで規定されるものではない。こういったヨーロッパの伝統に複言語主義の基礎があるように思われる。

European democratic life presupposes, from the material point of view first, the formation of a public space in which everyone may play a part and be recognized as belonging to this community of citizens. (Council of Europe 2003: 69)

European citizenship cannot be reduced to a form of communication between Europeans. The concept of citizenship is also a legal one, indeed it is this that constitutes its classic definition: the modern states of Europe viewed as a whole are made up of different (linguistic, religious, cultural, economic and social, etc) communities, often referred to as ethnic communities, which coexist in the political framework of national states or throughout Europe. (Council of Europe 2003: 69)

>政治的言語イデオロギーの変遷:しかしこういったヨーロッパにおいても、実際の国民国家によって決定される国家言語政策(state language policy)は主に以下のような流れを示してきた。

(1)国家=国民=言語という考え
Some political philosophies well represented in Europe propound the theory that state, nation and language are coterminous: the national language is a symbol and component of nationality and is also a factor in the definition of citizenship itself. (Council of Europe 2003:16)
しかしこういった像は19世紀初頭に作られた理論的、神話的な考えに過ぎない
But this model of the nation-state, devised in the early nineteenth century, is purely theoretical, even mythical: political, linguistic and cultural frontiers are not identical and in a given population or territory there are always speakers of other linguistic varieties who are there as a result of ancient migrations (often predating the arrival of those who brought the "regional" language that would become dominant) or recent migrations. (Council of Europe 2003: 18)

(2)現状是認の多言語主義:多言語主義はいわば国家にとって仕方無しに受け入れなければならないものとされるようになった。だが、主要言語が国民的言語あるいは公用語として認められ、それら以外の言語はプライベートに認められるだけである。
Multilingualism is accepted as a fact to which one adjusts because questions relating to the languages of minority communities are regarded as concerning only those minority groups. The plurilingual nature of the diverse communities of a State is not everywhere accepted as a basic principle of language policies. (19)
Nowadays, while the presence of other varieties is recognized, national language policy continues to emphasise the preference to be given to the national variety(ies) in its (their) official usages (in government departments, at school or before the courts, where the language question is crucial), other varieties being accepted for private use. The result is a strengthening of the current social representation which regards individuals as fundamentally monolingual. (Council of Europe 2003:19)

(3)止まらない移住者の流入:しかし既存のマイノリティに加え、現在は新たな移住者(migrant)が新たな言語マイノリティを作り、彼/彼女らの言語権も争点になってきた。

>現状分析:さらに現状ではグローバリズムの浸透とそれへの反動が大きな対立要因となってきた。
・経済的言語イデオロギー

(1)経済原理から要請される共通語:多言語使用はコストがかかるので、共通語使用が望ましい(自由経済イデオロギー liberal economic ideology)
(2)グローバル言語としての英語: The present place of English (or, more exactly, Anglo-American) in international communication is most often justified by such a linguistic ideology: this linguistic variety allows an economy of scale in trade, which now extends worldwide. (Council of Europe 2003:26)
この状況はthe point of no return(帰還不能点)かもしれない。
だが、ここでは自覚的な選択が必要である。
English has a dominant place in education systems and international communication. This universality (although very relative) could at least weaken the languages of small communities if communications between its members took place exclusively in this other language in whole sectors (scientific and economic exchanges, etc). Each state should therefore think about its own linguistic future (to decide whether it should "marginalize" its national language which has no international standing, for example). The essential point is that these forces should not reach their logical conclusion without the members of each community being explicitly informed and called upon to debate them democratically. It can be imagined that European perspectives will have a role to play in those debates. (Council of Europe 2003: 27)
(3)超共通語としての英語:英語がコミュニケーションのための共通語を超えて、生き方・社会のモデルの言語となりつつある(もちろん、英語を使って各自の文化やアイデンティティを確立することは可能ではあるが)。
English therefore not only plays the role of a language of communication but is also valued for itself as the language of a model of life or society. In this sense, it is no longer a lingua franca, although it is conceivable that it might be appropriated only to express one's culture and construct one's own identity. (Council of Europe 2003: 28)

・しかし一方で、実際の市民はモノリンガル状況に近いのではないかという懸念も成立しうる。ヨーロッパの人間も思ったほどに複数の言語を操っているわけではない。

Creating a context favourable to plurilingualism means above all dedramatising the common view of languages and language learning: social representations are often monolingual. The national variety is favoured by those whose first or usual variety it is, the first variety (regional, heritage) is favoured as the only variety of affiliation, and so forth. Languages are often thought of in terms of reciprocal exclusion, probably because it is believed that knowledge of one language hinders knowledge of another. This perception is accentuated by the compatmentalised treatment of each variety in schools and by the system of choosing among languages (options), one of the current modes of educational provision. (Council of Europe 2003: 72)

・このような状況ではグローバリズムとエスノセントリズムの間の緊張が高まる。→極端な英語文化礼賛かエスノセントリズムへ

Intercultural education also has a crucial role to play since it can enable learners to clarify the relations between their community and English-speaking communities in their often contradictory aspects: is English sought after as a lingua franca or as the language of prestigious nations taken as role models? Attitudes to English-speaking communities are a good subject for intercultural study: for example, is it relevant to make people aware that such attitudes could be excessively positive (and therefore constituting a sign of unacknowledged acculturation or an already partly outdated social distinction strategy) or, conversely, over-critical in the name of "local"/national identities or "anti-globalisation" ideologies, for example, which are simply modern varieties of ethnocentrism? (Council of Europe 2003: 106)

・こういった中で、欧州評議会は、能力としてと、価値としての二つの側面を持つ複言語主義を推進することが、ヨーロッパのために重要だと考えた。この判断は、以下のような決議や勧告によって承認・継承されている。(Council of Europe 2005: 7)

1969: Resolution No. (69)2 of the Committee of Ministers
1982: Recommendation No. R(82)18 of the Committee of Ministers
1998: Recommendation No. R(98)6 of the Committee of Ministers
1998: Recommendation 1383 Linguistic Diversification (PACE)
2001: Recommendation 1539 European Year of Languages (PACE)


2.3 欧州評議会の試み
・欧州評議会(言語政策部門)の試み:次のようにまとめられる(Council of Europe 2005:7-11の筆者なりのまとめ)

(1)創成期(1963-1972):International Association of Applied Linguisticsの設立サポートなどの活動
(2)概念-機能アプローチ期(1971-1977):Threshold Levelの設定(90年代には中級のWaystageと上級のVantageに発展)
(3)コミュニケーションのための言語教育への改革期(1981-1988):カリキュラム、教育方法、試験などの改革が進められる
(4)複言語主義誕生期(1989-1997):1997年のRecommendation No. R(98) 6で異文化コミュニケーションと複言語主義が政策目標としてかかげられる。(歴史的背景として中欧・東欧の欧州評議会加盟やICT: Information Communication Technologyなど)
(5)複言語主義推進期(2000-):欧州評議会の言語政策実施のサポートをするためのThe European Centre for Modern Languages (ECML)が本格的に活動し始める。2001年はEuropean Year of Languagesとして定められCommon European Framework of Reference for Languages, European Language Portfolio, European Day of Languages(26 September)が制定される。

>言語教育政策の原理:次のような原理を貫いている。

(1)共通言語ではなく共通原理:Europe needs common linguistic principles more than it needs common languages. (Council of Europe 2003: 30)
(2)共通原理により各国での多様な言語教育実施が可能
(3)民主的な枠組みの一部としてのみ言語教育はありうる
The survival of languages depends on everyone being educated to respect linguistic differences. (Council of Europe 2003: 31)
(4)現在の社会状況を考慮しなければならない
(a)internationalization, (b) the re-emergence of feelings of identity and the resurgence of ethnocentrically based nationalism.
This dual movement is leading to cultural homogenization or identity-centred isolationism. (Council of Europe 2003: 31)
(5)ヨーロッパ帰属意識を高める
Europe could be identified, not by the languages spoken there, whether or not they are indigenous languages, but by adherence to principles that define a common relationship with languages. (Council of Europe 2003: 32)

>特徴:
(1)統合的な言語教育政策、

・個人内の様々な言語能力を統合し、多彩な言語使用への対応と尊重を促す。個々人の中の部分的な能力や自覚も積極的に肯定する。言語能力は、離散的なそれぞれ別個の言語の能力の単純和ではなく、各人の中で統合されたものである。
From this perspective, the aim of language education is profoundly modified. It is no longer seen as simply to achieve 'mastery' of one or two, or even three languages, each taken in isolation, with the 'ideal native speaker' as the ultimate model. Instead, the aim is to develop a linguistic repertory, in which all linguistic abilities have a place. (Council of Europe 2001: 4)
・横断的プロジェクトとしての複言語主義:母語、国語、地域言語、マイノリティ言語、外国語、その他の言語(含む、古典語)などの教育を同時に考える。
Education for plurilingual awareness as a value and education for plurilingualism as a way of organizing language teaching are components of a project implemented in a framework comprising mother tongues, as well as national, regional, minority, foreign and other languages, which should not be compartmentalized in the teaching environment. (2003: 64)
・縦断的な生涯学習・教育としての複言語主義:複言語主義は生涯にわたるもの(the lifelong enrichment of the individual's plurilingual repertoire) (Council of Europe 2005: 5)。学校だけに限られたものだが、学校は複言語主義実現のためには代替できない機能を持つ。

(2)価値自覚的な言語教育政策

・The Council of Europeの核となる価値:人権、民主主義、法の支配(Council of Europe 2005: 3)
・欧州評議会の言語教育政策は以下の促進を目指す(Council of Europe 2005 4)
(1)複言語主義:
(2)言語的多様性(linguistic diversity)
(3)相互理解(mutual understanding)
(4)民主的市民性(democratic citizenship): Participation in democratic and social processes in multilingual societies is facilitated by the plurilingual competence of individuals.
(5)社会的結束(social cohesion)
・文化、政治的コストの自覚
As the conception of language education is a response to the wish to create conditions favourable to the development and enhancement of the value of plurilingual repertoires, it involves finding a balance where supposedly simple but politically and culturally very expensive solutions might be imposed. (Council of Europe 2003: 48)


2.4 複言語主義のまとめ

複言語主義とは
Where: エスニシティ/国民/国家が交錯する中で、公共的空間や法制度により市民性を確立してゆこうとする場所で生じた考えである。
Who: 人権、民主主義、法の支配の価値を普及しようとする超国家的機関の中の、言語的多様性・複言語主義・社会的結束・民主的市民性を促進する専門家集団によって提唱されているものである。
To whom:欧州評議会加盟国の言語政策決定者(およびおそらくはそれを超えてグローバリズムとエスノセントリズムの緊張関係を感じる同時代の言語政策決定者)へ向けられておいる。
What:言語教育とは、一方でグローバリズム・市場の力と、他方で人権、民主主義、法の支配および言語的多様性・複言語主義・社会的結束・民主的市民性といった価値の間でのバランスの中で、個々人の中で自覚的かつ統合的に育てられるべきであるということを訴えている。
How:言語政策決定者(ひいては一般市民)が意識し、それぞれのおかれた状況で、その場しのぎの決定を避け、具体的で賢明な判断ができるように書かれてある。
When:もはや英語が共通語以上の言語として捉えられてきはじめた時代に、私たちが取り返しのつかない言語政策的過ちをする前に出された考えであり、
Why: ここで尊重されている価値は自動的に生じるものでも、市場の力で生み出されるものでもないから、このようにまとめられた。
ものである、とまとめることができる。



3 「私たち」とは誰か


3.1 Where: 私たちはどこにいるのか

「私たち」は日本にいる(ヨーロッパにいるのではない)、としてそこで思考を停止するのは知的怠慢の謗りを免れないだろう。「日本」がどのような場所なのかを、複言語主義に触発されながら省察してみよう。
(1) 近代的存在としての日本:「日本」は明治維新により、急速に中央集権国家としての体裁を整えようとし、琉球民族やアイヌ民族などのエスニシティを抑圧し、大和民族においても、方言をやめ標準語(「国語」)を使うように学校教育は進められた。そうして国民国家(nation-state)としての国内的統一をはかった。国外的には、その「国語」を植民地化した朝鮮半島、台湾、「満州国」などでも強引な方法で普及させようとした。こうして作られた「国家=国民=言語」イデオロギーの影響は、現代でも強いと考えられる。日本は既に多言語社会であるという主張もあるが、少数意見にとどまり、「国語」を第一言語としない「日本人」への日本語教育などの制度的取り組みは遅れている。
(2) (東)アジアの中の日本:「東アジア」あるいは「アジア」という意識は、「ヨーロッパ」という意識ほどには強くないし、また欧州連合・欧州評議会ほどの制度化もされていない。東アジア圏においては、上に述べた植民地支配の歴史の反動からか、東アジア圏の人で日本語を積極的に話そうとする人は多くなく、日本人も東アジア圏の言語を積極的に学ぼうとしているとは言い難い。共通言語としては英語が多く使われるが、中国の存在感がますます増大する中、東アジア圏での英語覇権がどのようになるかはわからないというべきであろう。日韓、日中間は政治的な諸問題を抱えているが、地理的近接性からして、東アジア圏、ひいてはアジア圏でのコミュニケーションは重要になることは間違いないであろう。
(3) 米国との関係での日本:日本は第二次大戦後、米国を中心とした占領軍統治を受けて以来、米国と強い関係を保ってきた。その関係を表す言葉として、最近では「日米安保」ではなく「日米同盟」という言葉がもっぱら使われている。外国語教育も圧倒的に英語教育が主流で、特に1990年代は他の外国語教育の削減などが大学でも行なわれた。外国語教育の選択肢の少なさは世界有数である。小学校への英語教育導入なども、英語の有用性あるいは英語=国際語イデオロギーが背後にあると考えられる。対抗的イデオロギーとして英語帝国主義論があるが、これらは二項対立的、二律背反的に捉えられ、なかなかかみ合わない。
(4) <帝国>の中の日本:グローバリズムが席巻する現状は、米国支配の時代とも評されるが、ネグリとハート(2003,2005)は、現状を<帝国>と評し、単純な米国支配の時代ではないと分析した。彼らの主張は次のようにまとめられる。
・インフォメーション・コミュニケーション・テクノロジーによって加速的に多様に、緊密に結びつけられ、経済はおろか政治や社会生活においてすらさまざまな度合いで連続している現代のグローバルな世界を、旧来の「帝国主義」(imperialism)概念で捉えることはできない。
・「(アメリカ)単独行動主義か多国間協調主義か?」や「親米主義か反米主義か?」という問いかけには斜めから切り込みを入れる必要がある。
・現実は<帝国>(Empire)という概念で捉えられるべきであり、この概念は、アメリカが特権的に単独行動を取ろうとするにもかかわらず、単独支配の力は持てずに、アメリカも、どの国民国家も中心に立てないまま、経済・政治・社会にわたるグローバルな支配装置が、脱中心的・脱領土的に私たちのあり方を強く規定している、と要約できる。
・しかし<帝国>を支えているのは「マルチチュード」(multitude)と概念把握されるべき「私たち」である。「私たち」は、それぞれ様々に異なる様態で存在しながら、誰も現在のグローバルな結びつきから逃れることができない状況を表す用語である。「私たち」は、実態の生活においては実に様々に異なりつつグローバルにつながっている。マルチチュードの生産性と創造性が<帝国>を支えている。
・マルチチュードは、18世紀のアメリカ革命の担い手が、古代ギリシャの民主主義を改変し新しい民主主義を創り上げたように、21世紀の<帝国>秩序の中で、さらに新しい形の民主主義を創り上げることができるはずだ。
⇒仮にこの分析を受け入れるとしたら、複言語主義はマルチチュードの取るべき言語使用方針として適ったものであるように思われる。


3.2 Who: 私たちは誰なのか
 このような発表を聞いたり読んだりするのは英語教育関係者である、というのも怠惰な答えに過ぎない。欧州評議会(言語政策部門)の活動を考えると、「私たち」は英語教育の政治的主体である以上に、政治的主体を支援する専門家である必要があることが示唆される。ここでいう専門家とは、マックス・ヴェーバーのいう「経験科学」に従事する者と重なる概念である。つまり、彼/彼女らは、ある目的が与えられた場合、考えられている手段を実行するがどの程度その目的に適しているか、どのような予想しない随伴結果をもたらすのか、何を犠牲にするのかを明らかにし、こういう決断の意義あるいは理念を決断者に自覚させることを試みる。経験科学に従事する者も、個人的にはある決断をすることがあるが、それは経験科学に従事する者としてではなく、一人の意欲する者としての決断である。現代日本においても、小学校英語教育を始めとして、英語教育関係者は数々の決断を迫る問題に直面しているが、彼/彼女らが第一に行なうべきは、自ら決断をすることではなく、欧州評議会(言語政策部門)の専門家のように、各種の決断に伴う諸関連の合理性と意義・理念を解明することであろう。


3.3 To whom and how: 私たちは誰にどのように語りかけているのか
 上のような考察からするならば、私たちは学界の吟味者を突き抜けて、究極的には一般市民に語りかけていることが明らかになる。私たちはそのような聞き手・読み手に向けて、正確さや厳密性を犠牲にすることなく、事象の諸連関を明かすような語り方をしなければならない。しかし私たちは現在、もっぱら同業者あるいは学会誌査読者に対して、彼/彼女らが好むような(あるいは拒めないような)語り方をしているのではないかを反省しなければならないだろう。


3.4 What: 私たちは何を信じているのか
 専門家は、いかなる価値から論考を出発してもいいというわけではなく、その生きる社会において共有された価値から始まる諸連関の解明を第一の課題にするべきであろう。無論、副次的な課題として、必ずしも共有されていない対抗価値からの解明も促されるべきであるが、それは、第一の課題のある程度の達成があってからの課題というべきであろう。しかし私たちの共有する価値とはなんであろうか。日本国憲法や教育基本法というのが正当な答えであろうが、現行の日本国憲法や教育基本法の価値観に基づいた英語教育の論考は十分になされているであろうか(仮にあるにせよ、それらは「左翼的」といったラベルを貼られていないだろうか)。現行の日本国憲法や教育基本法にせよ、それらの改正案にせよ、私たちは、私たちが信じている究極の価値を自覚して論考を進めるべきであろう。「私たちは特定の価値など信じていない」というのは自己欺瞞か、狡猾な現状肯定にすぎない。マックス・ヴェーバーに言わせれば、行為の基になる理念や価値を理解しようとしないのは、経験科学に従事する者の取るべき態度ではない。


3.5 When: 私たちはどういう時代にいるのか
 私たちはグローバリゼーションの波を受け、「英語第二公用語論」、「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」などを通じて、小学校への英語教育導入などの改革の動きの最中にいる。だが私たちに必要なのは、私たちのwhere, who, to whom, whatを自覚した上で、この時代において研究を進めることである。そういった私たちの存在に、私たちが忠実であることが、私たちの仕事の第一前提である。


3.6 Why: なぜ複言語主義は注目に値するのか
 これからの日本の言語政策のあり方、英語教育関係者の語り方に関して、日本での英語教育論考ではなかなか得られない洞察を与えてくれる。
 現在日本では、グローバリズムの影響による英語熱の増大と、ややエスノセントリックな日本語愛の二つの動きは非常に目立つ。日本での「外国人」としては英語の「ネイティブ・スピーカー」は格段に優位な扱いを受けていることは(そしてそれには「白人であれば」という条件も加わっていることは)昔から指摘されていることである。日本人として賞賛を浴びる人間の典型の一つとしては、そういった英語を駆使し、同時に日本と日本語を愛する人間が上げられる。英語と日本語のバイリンガルが日本の言語使用文化におけるもっとも有力な理想像であろう。もちろん、この理想像を手にすることができるものは少ない。したがって、理想とはいえないかもしれないが、衆望を得る像として、「英語も何語もできないが、日本語を誇りにしている」といった人間像が上げられる。無論、高度な英語と日本語のバイリンガルにせよ、自覚的日本語モノリンガルにせよ、そういった呼称が当てはまる人たちに問題があるというのではない。ここで問題にしたいのは、日本の言語使用に関する言説が、英語と日本語の間だけで閉じられてしまい、なかなか他の言語や文化に私たちの目が向かないことである。
 この日本語と英語だけに閉じられた世界は、明治初期に英学が成立して以来、基本的に揺るぐことはなかった。大正時代などの英語教育廃止論なども「英語かその拒絶か」という対立軸での出来事でしかなかった。これには日英同盟(1902(明治35)-1923(大正12))や、現在での通用語となった「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(1951(昭和26)-)といった政治的結びつきも大きな役割を果たしているのであろう。政治的な結びつきは、経済や文化の交流の前提となるからだ。かくして近現代の日本の言語教育は日本語(国語)と英語だけに閉ざされがちである。
 もちろん戦前の帝国陸軍のドイツ語熱という例外もあった。しかしそのドイツ語への関心も、帝国陸軍においてはドイツ語一辺倒であった。藤原正彦氏はあるエッセイの中で、その帝国陸軍のドイツ語熱と現代日本の英語熱に同じようなものを感じるといっている。このことからすれば、日本の外国語学習には、ある目標言語を定めたらひたすらにその習熟を目指し、他の言語や文化にはわき目もふらないといった傾向があるのかもしれない。実際、学校で提供されている選択できる外国語の数に関しては、日本は世界でも極めて少ないことを示す統計もある(注6)。ひょっとしたら日本には「排他的バイリンガリズム」(exclusive bilingualism)とでも名づけるべき態度が育ちやすいのかもしれない。もしそれが正しいのなら、私たちはそのような態度を取るとき、いったい何をして、何をせず、何を信じ、何を排除しているのだろうか。
 複言語主義を無条件に理想とするのでもなく、拒絶することもなく、複言語主義を通じて、私たちは現在、英語教育を通じて、日本の言語教育において何をしようとしているのか、それは私たちが信じる価値に基づく目的を達成するために合理的な手段なのか、それがもたらす副次的影響や犠牲は何なのか、私たちの目的達成の意義は何なのかについて、より学問的な考察を始めることができるだろう。




参考文献
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『<帝国>』以文社、
アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著、幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修(2005/2004)
『マルチチュード』(上)(下) NHKブックス
マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳(1998)『社会科学と社会政策に
かかわる認識の「客観性」』岩波文庫
山川智子(2005)「欧州評議会が近年提唱する『複数言語主義』概念について」 『国際理解
教育』Vol. 11. pp. 118-126
吉島茂・大橋理枝、他訳(2004)『外国語教育II 外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』朝日出版社



補注
(注1)欧州評議会言語政策部門でのインタビューは科学研究費(「諸外国における中等学校英語学力の到達度に関する調査研究」研究代表者:松浦伸和)の予算の一部を使って行なわれたものである。
(注2)欧州評議会(CE)は、人権、法の支配、民主主義という共通の価値を擁護・促進することを目的として設置された機関で、EU15ヶ国を含む全欧44ヶ国(含むロシア、トルコ等)が加盟国となっており、ほぼ全欧州を網羅する汎欧州国際機関である。これに対し、欧州連合(EU)は、経済的な統合を中心に発展してきた欧州共同体(EC)を基礎に、欧州連合条約(マーストリヒト条約)に従い、経済通貨統合を推進すると共に、共通外交安全保障政策、司法内務協力等のより幅広い協力をも目指す政治経済統合体である。(在ストラスブール日本領事館ホームページより。http://www.strasbourg.fr.emb-japan.go.jp/jp/europe/PE_Ue01.html)。
なお言語政策部門(Language Policy Division)とは欧州評議会の下部組織であり、「主要な責務を、言語的多様性と複言語主義を促進するための政策とガイドラインを精緻化し、社会的結束と民主的市民性のための政策計画方策を開発することとする」(The Division's primary responsibilities are the elaboration of policies and guidelines for promoting linguistic diversity and plurilingualism and the development of policy planning instruments for social cohesion and democratic citizenship) (Council of Europe 2006)専門的組織である。
(注3)'Intercultural'の訳語としては「異文化」が通用しているが、ここでは文化の差異よりも、文化の間での交流を強調したいため「間文化」という訳語を敢えて採択する。
(注4)欧州評議会(言語政策部門)の文書ではしばしば'competence'が可算名詞として使われている。
(注5)今回検討した欧州評議会による文書では「イデオロギー」(ideology)という言葉は、否定的な意味だけでなく、肯定的な意味も持ち得る中立的な言葉として使われているようである。" a systematic scheme or coordinated body of ideas or concepts especially about human life or culture" (Merriam-Webster)といった意味であろう。この発表でもこの用法に倣って、「イデオロギー」という言葉を必ずしも否定的な意味だけには限らない、中立的な意味合いを持つ言葉として使う。


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