(1999/12/2)家に帰ると見覚えのある名字に、見たことのない名前の封書。万年筆の表書きに、通常の切手。開けてみると「さて、突然のお知らせで申し訳ないのですがこの9月長男、○が急死致しました。体の具合が悪く、近くの病院にかかってはいたのですが、土曜、日曜は当方に帰って居まして、前日も元気で食事に居っております」云々の文面。大学時代のクラブの後輩のお父様からの手紙でした。

彼とは職場が全く離れたところだったので大学卒業後はほとんど会えず、年賀状を交換したり、ごくたまに何かの折に会えるぐらいだったのですが、それでもあの時、この時の彼の笑顔が脳裏によみがえってきます。合掌。こうして人は天に召されてゆきます。

かくして久しぶりにモーツァルトのレクイエム。私もあなたもいつか確実に彼のように送られてゆきます。だからといってそれが何を含意するのかは私にも定かではないのですが。

(1999/11/27)昨日エリザベト音楽大学ザビエルホールで行われた「音的実験劇場IV」(現代音楽アンサンブルClass'90/監修 近藤譲)を聞きに行きました。久しぶりに集中して聞けたコンサートで、私は非常に楽しみました。

「実験」といってもルトスワフスキ(Lutoslawski), ヒンデミット(Hindemith),シュトックハウゼン(Stockhausen), ベネット(Benett)の作品は、とても音楽的で、むしろ「実験」といった言葉が不要なぐらいだと私は思いました。印象に残ったのは「ダンス・プレリュード」(ルトスワフスキ)のピアノの弾力性があって深い響き、「三重奏曲」(ヒンデミット)のビオラの集中力、「少年達の二重奏」(シュトックハウゼン)のサックスの掛け合い、「クロストーク」(ベネット)のクラリネットのハーモニーなど。これらの曲はCDで集めたいなあと思いました。

他方、ライマン(Reimann)の光と影、リゲティ(Ligeti)の死の大王の奥義などはまさに「音的実験」であり、CDでは再現不可能というべきでしょう。こういった作品はCDで買って聞いてもおそらく楽しめないのではないかと思います。それにしてもこれらの作品のボーカルは凄かった。久々に生の声の凄さを堪能した思いがします。ダラピッコラ(Dallapiccola)の「ゲーテ歌曲集」はそれほど実験的ではなく、クラリネット三重奏のハーモニーにふさわしい歌唱法の曲で、曲間の静寂がリアルに響く(?)ぐらいに集中して楽しめました。

ブライヤーズ(Bryars)の二台のピアノによるミニマリズム作品、「ザレスキーの展望台より」、は私が始めて生で聞いたミニマリズムの作品となりました。曲自体はライヒのピアノフェイズなんかに比べると少し単調なような気もしましたが、私は体を揺らしながら演奏を聞いて楽しんでおりました(ふと気付くとあたりで体を揺らしているのは私だけだった(^^;))。そのような自分を正当化するために言うのではないつもりなのですが、ミニマリストの作品は身内で和気あいあいと、ビールでも飲みながら、キース・ジャレットみたいにうめき声をあげたり、格闘家みたいに「シャアッ!」とかけ声をかけたりして(^^;)演奏して、終わって皆で大笑いして肩を叩き合うというのが、案外正統な演奏の仕方ではないでしょうか。別に音楽の質が劣るからとかいうのではなくて、音楽が、他の種類の音楽よりも、演奏の喜びを重視して書かれているような気がするからです。そういうわけで、私はもしアンコールでミニマリズム作品が演奏者のリラックスした満面の笑みと共に演奏されたら、私も満面の笑みを浮かべて大きな拍手をしたいと思います(もちろん演奏がよければの話ですが)。その点、今回のコンサートでは4人の演奏者も、聴衆のほとんども、みんな「真面目」な態度だっただけに、私は少しだけ違和感を感じてしまいました(まあ、そう感じる私の方がおかしいのでしょう)。

ともあれ、久しぶりに演奏に集中して聞けたいいコンサートでした。ポスターのセンスもよかったし、プログラム・ノートも意欲的で面白かった。次の機会にも必ず行こうと思います。

それにしても、このコンサートは以前にエリザベト大の荘厳ミサ曲に行った時にチラシで知ったけど、もっと広報をしてもいいと思います。音楽関係者というのは、それなりにまとまっていて、その内輪だけでも結構な数になるのだろうけど、たとえ数人でもいいから一般聴衆を集める努力は必要ではないのかしら。そうしないと演奏家の皆さんも、生活のために、いつまでも「名曲の花束」みたいな選曲でしかコンサートが開けない、なんてことにならないかしら。

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(1999/11/22)学生さんから借りて椎名林檎「無罪モラトリアム」を聞きました。

この臆面もないぐらいに商業的な時代にロックをやってるんだもん。精神的にも、音楽的にも。偉いよなあ。

この情けないぐらいに脱身体化した時代に女をやっているんだもん。生理的にも、情念的にも。真面目だよなあ。

とにかくロックで芸術をやっているんだもん。凄いよ、これは。私は帰りのバスの中でCDウォークマンで聞いたのだけど、全くもって飽きるどころか、小さな驚きを感じ続け、11曲目(最終曲)では「これで終わりだ。終わらなくては」と感じさせるぐらいに、アルバム的に完結というか充実していて、私はCDが終わったことを確認すると、迷わずリピートしました(それだけ私の通勤時間は長いのよ(^^;))。

椎名林檎というアーチストは、私はラジオ番組で偶然知りました。トークを交えて三曲紹介されたけど、トークで彼女の感性と知性に驚き、曲で強烈に印象を受けました。「無罪モラトリアム」はデビューアルバムだというけど、いきなりこんなアルバムを作るなんでまったくもって凄いと思います。次のアルバムも楽しみです。この「無罪モラトリアム」は私も借りるだけですまさずに、買おうと思います。ヴァージンメガストアで一年近くかけてためたポイント(3000円のCD相当)があって、この一年近くの辛抱にふさわしいCDは何だろうとここしばらく考えてきたけど、このCDは十二分にその資格があると思います。これこそ現代音楽、同時代音楽。できるだけこのような音楽を見つけて楽しみたいと思います。

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(1999/11/12)ラジオを聞いていたらやたらとかっこいい曲が流れてきました。自由で、推進力のある軽やかさがあり、「何だったっけ、これ。俺、この曲知っているんだけどなあ」と思わず私の注意が総動員されました。聞き進めていると、突然歓喜の感情と共に「サイバーバードだ!」と記憶が戻ってきました。

吉松隆作曲、須川展也演奏の『サイバーバード』(サクスフォン協奏曲集)は、買って数回聞いていたものの、棚に埋もれていたCDでした。ところが今回ラジオで聞いていると突然にこの曲のよさがわかりました。

だいたいクラシック音楽を聞いても「美しい」「荘厳だ」「構成美がある」「悲しい」「せつない」等と感じたことはあっても、「かっこいい」と感じたことは私はなかったように思います。私にとって「かっこいい」とは前にも述べたジョン・レノンやフランク・ザッパのようなロックのための形容詞でした。でもこの吉松作品は本当にかっこいいと思います

また私はクラシック作品にニックネーム(例「運命」など)をつけるのはあんまり好きでないのですが、この「サイバーバード」という名前には、極めて表層的感覚(しかしそれだけに正直な感覚)からひきつけられています。「サイバーバード」とは一体何なのか私には見当もつかないのですが、この言葉のイメージは、この吉松作品のイメージを見事に統括的に象徴していると思います。(この文章を書いた後、ライナーノーツを読んでみると吉松さんの作曲動機などがわかって少し「ジンッ」ときました。)

またここでは須川さんの演奏がうまいです。これぐらいうまいと私のように楽器をやらない人間でもわかります。また作曲的には、自由闊達なサックスと、それを支える20世紀調性音楽の管弦楽器、さらに時折それらをサポートするピアノとパーカッションが曲を、聞いていて痛快なものにしています。

20世紀調性音楽はいいなあ。特に最近は管楽器作品のよさがわかってきた思いです。そういえばこれまたラジオで聞いたコープランドのクラリネット協奏曲もよかった。でもこんな作品はなかなかCD店にはないんだよなあ。

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(1999/11/8)エリザベト音楽大学第55回演奏会でベートーベンの荘厳ミサ曲を聴きました。こちらとしては会場に入る直前までは俗世間の憂い事などで頭が一杯で、しかも風邪が完治せず頭がすっきりしないところにもってきて、合唱を合わせるとメンバー150名近くの大曲でしたから、最初のうちはどうも私の心と身体が一致せず、音楽に集中できませんでした。それでもクレドのあたりからだんだんと音楽に集中しはじめて、サンクトゥスでベートーベンらしくティンパニーが鳴り始めるとだんだんのってきました。でも一番印象的だったのはコンサートマスター(榎本陽子さんというらしい)が、すっくとたってのソロのベネディクトゥスでした。だいたい立ち上がり方から、まさに「すっく」という感じで決して、時に見られる「よいしょ/どっこいしょ」みたいな立ち上がり方では決してありません。立ち姿にも自然な存在感があります。音はどちらかというと細めに聞こえましたが、芯があり、適度な粘りけと湿度がある感じで、こころなしかそのソロにつられて木管も急によくなったように思えました。横でソロの四重唱があっても決して負けることもなく、かといって無理して張り合うわけでもなく、音楽運びの焦点となっていました。ベートーベンの宗教音楽でバイオリンのソロがよかったというのも変な話かもしれませんが、演奏終了後、指揮者が自分が受け取った花束をそのコンサートマスターに手渡すと会場の拍手が一段と大きくなったことからしても、私の印象ははずれていないと思います。

ついでながらエリザベト音楽大学の事務局に一言。これだけ素晴しい学生をもっているのですから、どんどんコンサートの広報をしてくださいね。この間ホームページを探したら大学のホームページはなかったようだけど、せめて大学関係者および大学施設でおこなわれるコンサートの最新情報ぐらい載せてくれないかしら。そのような地道な広報が、結局は公衆の理解も広げ・深め、最終的には大学の利益にもなると思います。以前私立大学で広報の仕事をしていた人間として、一言申し上げます。

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(1999/11/3)NHK教育テレビでアイザック・スターンが日本、韓国、中国の若いピアノトリオにレッスンをつける番組がありました(新聞の番組表では「第68回日本音楽コンクール本選会」となっていたんだけど、どうなっているんだろう?)。でもこれがよかった。日本トリオの演奏も素晴しかったけど、韓国トリオの大変身や、中国トリオが演奏の「歌」と「自由」を促された直後の奔放ともいえる表現は聞いていて本当におもしろかったです。スターンが中国人のバイオリニストに「うまく演奏できない時は自分の声で歌ってみろ。そしてその歌のように弾け。それで100のうち99はうまくいくはずだ」といっていたのはとても印象的でした。(それに久しぶりに聞いたメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲もよかったです)。

私の抽象的な言葉で言ってしまえば、番組のインパクトは薄らいでしまうのですが、音楽が、呼吸や思わぬ自発的な動きといった身体に基盤をおきながらも、中心は理解といった精神の働きにあることが、演奏そのものや演奏者とスターンの顔の表情からありありとわかりました。さらに音楽という営みは、数百年前から連綿と引き継がれ、いかな天才も死ななければならない以上、音楽は常に若い世代に、真摯な取り組み----いってみるなら「魂」----を伝えることによってしか引き継がれない、人類にとって貴重な文化であることを再認識した思いでした。このような音楽家が音楽を愛しているように、私も自分の仕事を愛しているのだろうか、と問うとおそろしいので、「文化の日」である今日はひたすら家でCDを聞き続けていたいと思います。

というわけで最初に聞いたCDがPaul Galbratithのギター演奏によるBachのThe Sonatas and Partitas for unaccompanied violin。これは前任校の先生に最近貸してもらったCDです。近頃はCDを色々な人と貸し借りするようになりました。といっても私とて今までに貸したCDや本が返ってこなかった苦い思い出はあるので、必ず「貸したら借りる、借りたら貸す」ようにしてお互いにCDを(不注意などから)紛失しないようにしています。で、演奏ですが、どうも私はギター演奏によるバッハ作品が好きみたいでこのCDも気に入りました。前にも取り上げたゴールドベルク変奏曲のギター演奏もよかったし、この前にラジオで聞いたギター(三本)とチェンバロによるブランデンブルク協奏曲もよかった。ビブラート・レガートをかけにくいギター演奏が、かえってバッハの曲の構造を浮き彫りにするのかしら。でも、だからといって、同じくビブラート・レガートをかけにくいチェンバロによるイタリア協奏曲をケネス・ギルバートの演奏で聞いてみたけど、これはなんだかピンとこなかった(前にも書いたけど、どうもこの曲に関してはブレンデルのピアノ演奏が一番みたいに思い込んでいる節が私にはあります)。でもそのCDも聞き込んでゆくと印象も変わってくるかもしれません。言い遅れましたが、このCDはヴァージン・メガ広島店のワゴンセールで入手した中の一枚です。私は古い輸入CDはどんどんセールにするべきだという意見を持っていますので、ヴァージン・メガ広島店に感謝します

次に聞いたのはデンマークのWoodwind Quintet Boreasによる北欧の現代作品集(全て1990年代前半に作曲されたもの)です。今は風邪が完全になおっていないので、このCDのように、まとわりつくことも、からみつくこともしない、それでいて人を拒絶しているのでもない、淡々とした音楽がいいです。バロック音楽の躍動もないし、古典音楽の形式感もないし、ロマン派音楽のメッセージもないし、20世紀前半の音楽の過剰な反-形式意識もなく、音楽が来ては去り、来ては去ってゆきます。だから強いていうなら、過去の音楽の中では中世・ルネッサンスの音楽に近いのかもしれないけど、第一これは管楽器アンサンブルだし、一部の曲は20世紀の財産の一つのミニマリズム的な反復とその微妙なずらしがあるので、あまりこの比較を強く言おうという気にもなりません。

それでもさらにしつこく言葉で表現しようとするのなら「機能的」と言うのかしら。音楽が、音楽固有の論理によって、リズムが次のリズムを生み、ハーモニーが次のハーモニーを招き、メロディーが次のメロディーを呼んでいるような気がしますとにかく聞いていて、何も他の事を考えないですむ「ひたすら音楽が聞こえてくる」のが私が知っている範囲での90年代の音楽によくみられる特徴です。ともあれ、このCDはノルディックサウンド広島で十二分に試聴した上で買ったものですが、店長の津田さんが帰りがけに「それでは北欧の世界を十分ご堪能ください」と声をかけてくれました。今、その感覚がよくわかるような気がします。

その延長線上で次に聞いたのがアイスランドの現代作曲家Thorkell Sigrbjoernsson(ソルケトウル・シグールビョルンソン)のThree Concertos 。彼のチェロ協奏曲、クラリネット協奏曲、バイオリン協奏曲が入ったCDです。これは上のCDにくらべると少し情念に対する訴求力が強いけれど、ロマン派音楽ほどではまったくなく、疲れた体にもすっとはいってゆけます。この音楽も「メッセージ」が18-19世紀の音楽ほどに浮き出ておらず、ひたすら音楽の面白さを味わえます。

とはいえやはり連続して聞くと少し疲れてしまった。なんたって今は風邪が直りきらず、しんどい。本当なら今日もやらなければならない仕事もあるんだけれど、今日は音楽の休日にする、と前から決めていたので、今日はこうしてひたすら音楽を聞いています。それでもこのように駄文を書くだけ元気が回復してきたので、幸いというべきでしょうか。

でも今はなぜか中世・ルネッサンス音楽を聞く気にはなれない(中世・ルネッサンス音楽は最近バス通勤の一時間余りの時間にCDウォークマンで聞いて心身を癒しております)。18-19世紀の「メッセージ」というか「テーマ」のある音楽を聞くとなんだか疲れてしまいそうで、かえってこういう時は現代作品の方に手が伸びてしまいます。気取っていうつもりもないのですが、音楽を聞く面白みとしてはやはり現代作品が一番だと思います。

で、聞いたのが韓国生まれの現代作曲家Isan YunのClarinet Quintets 1&2, String Quartet VIです。これもヴァージンメガ広島店のワゴンセールで買ったものです。(CD店の皆様、少なくとも私のように小遣いが少ない人間は試聴できるかセールでもないかぎり、あまり現代作品は買いません。ぜひご一考を!)。体は疲れているのですが、このような斬新な響きは不思議なくらいにすっきりと心身に入ってきます(実際に聞いてみないとわからないのですが、今の体調ならブラームスやベートーベンはしんどい----というか、くどく感じてしまう----かもしれません。イタリア・オペラももちろん遠慮したい気分です)。84年、94年、92年の作品で、録音もやや明晰めで、音楽の力も強い方なのかもしれませんが、これまた「ひたすら音楽が聞こえてきます」。これからも80-90年代の音楽作品を注意して集めてゆこうと思います。聞きなれた節を聞きたいわけでもなく、音楽で「感動したい」わけでも「勇気づけられ」たいわけでもなく、ひたすら音楽を聞きたい時は、思っている以上に多くあるみたいですから。そしてそのような音楽は、手垢がついてしまったような「感動」とも「勇気」とも違う、別種の力を与えてくれるような気もします。少なくともIsan YunのClarinet Quintets 1&2, String Quartet VIはそのような音楽だと私は思います(それとも昼間に服用したビタミンB錠剤が今頃効いてきただけなのかしら・・・)。

休憩をはさんで今聞いているのはこれまたノルディックサウンド広島で試聴して買ったKammarensembleNによるKeep the change。北欧の90年代の作品集です。表題作などは特に、さっき聞いたWoodwind Quintet Boreasよりも、もっと機能的でミニマリズム的です。「ミニマリズム的」といっても多彩な楽器が重なっているし、純然たるミニマリズムの運びではありません。「純然たる音楽の論理と喜び」によるような展開に、怜悧で澄みきった音(これはどうやって出している音かわからない)が重なって、きわめて新鮮でおもしろいです。ひょっとしたらこういった展開と音が90年代の北欧音楽の特徴の一つなのでしょうか。他ではなかなか楽しめない音楽だと思います。

というわけでCD店の皆様、最後にもう一度。試聴制度とワゴンセールの幅広い実施をよろしくお願いします!(^^;)

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(1999/10/23)たまたまテレビのチャンネルをまわしていたら、現代的な合唱作品をやっていたので驚いて、ついつい最後までその番組を見てしまいました。NHK全国学校音楽コンクール・高校生の部でした。各校が選ぶ自由曲が、なかなか斬新というか現代的で、かといって合唱作品ですからそんなに前衛的過ぎることもなく、新鮮な気持ちで最後まで聞くことができました。また歌詞が日本語の曲がほとんどだったから、一層よかった。歌詞の意味が聞いてすぐわかるというのは、本当にいいものだとつくづく思いました。私のようなCDを中心としたクラシック音楽ファンには、日本の合唱作品はあまり注目されていないのかもしれないけれど、さすが生きた文化として連綿と続いているジャンルだから、レベルも高いし新しい試みもあるし、本当によかったです。会場にいて聞いたら本当にぞくぞくきただろうなあ。最後に会場にいる参加校全員で歌った課題曲なんて、テレビで見ているだけでも、なんだか意味もなく目頭が熱くなるほどでした。

合唱作品と同じように、CDファンにあまり注目されていないのが吹奏楽作品。でも、金管の微妙なハーモニーは、実際に聞いたら他に代え難いものもあるし、再生音でも映画の「ブラス!」みたいなのだったら、聞いていて音楽の醍醐味を感じます。考えてみますと合唱作品も吹奏作品も20世紀になってから作曲された作品が多いのだから、私も音楽ファンとしてもっと注目したいと思います。私の身近なところでは、広島大学の吹奏楽団が全国大会に出るそうですし、単独のコンサートも12/26に広島市内で行われるといいます(広島大学交響楽団の12/12のコンサートも楽しみにしています。なんと指揮は渡辺一正さん!)。

私はCDから音楽好きになりましたが、だんだんと生の音楽を聞きに行くことがずいぶん好きになりました。CDもコンサートも、人生を愛する術として、これからも大切にしたいと思います。仕事ばっかりじゃ、人生の深い喜びはなかなか味わえないのではないかとすら思います。

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(1999/9/28)嫁さんに急に「実は通帳にお金が残ってない」と言われると効くなあ。多少の前置きがほしいよなあ、そんな台詞は。そんな時の心の動揺を静めるのに、ここ半年で覚えた中世・ルネッサンス音楽はとても役立ちそうにもありませんでした(^^;)。そこで聞いてみたのが、インバル指揮で第四楽章付き(!)のブルックナー交響曲第9番。でもこれも駄目だった。

翌朝、やや重い気持ちで目覚めてラジオをつけていたらかかっていたのがジョン・レノン+プラスチック・オノ・バンドのインスタント・カーマ。これがひさしぶりでよかった。やっぱり私は育ちがビンボー人だから基本的に労働階級の歌であるロックはしっくりくるのよ。その後ラジオ番組は「さわやか系ロック」(?)になったので、「ええいっ。こんなロックは聞きたくない!悪意すれすれの狡知が聞きたい。デタラメに頭がいいので学校なんかやめてしまうような奴の、デタラメに格好のいい音楽が聞きたい」と思ってCDの棚を見ていると、ふと思い出したのがフランク・ザッパ。これは私の音楽の師匠(?)が勧めてくれていて、その時は少し聞いていたものの、その後は棚の隅に追いやられていたCDでした(フランク・ザッパの人となりについては私はほとんど知りません。だからこの感想も間違っているかもしれません)。

で、そのStrictly Commercial。これは単なるベスト盤なのですが、これがよかった。悪辣ともいえるようなパロディ的な音楽が、独特の魅力をもっています。思わず苦笑したトラックもありました。やっぱり人間、したたかに生きよう!モーツアルトには「音楽の冗談」という曲がありますが、あえていうならこの中の数曲なんて「音楽の<悪辣な>冗談」それでいてカッコイイ、というのは凄いと思います

その後でProdigyのThe Fat of the Landを聞いてみたりもしたけど、これは何というか直接的すぎて、少し遠慮したい(でもけっこう、リズムは頭と体に残る)。今、取り出して聞いてみているのはScatman JohnのScatman's World(懐かしいでしょ(^^))。これはユーモアとペーソスがあっていいなあ。

というわけでひさしぶりにロック(ならびにポピュラー)を聞いたらよかった、という話でした。宗教音楽だけでも心は満たされないのね、きっと。

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(1999/9/26)先日、タワーレコード広島店がバーゲンをしていたので、中世・ルネッサンスの音楽をまとめ買いをしました。今日はそのいくつかについて感想を書きます。

Anonymous 4という中世音楽をレパートリーにする女性アカペラグループによるMiracles of Sant'lago (harmonia mundi)は、買って以来、よく就寝前のCDとして聞いております。Hildegard von Bingenと同じような世界ですが、彼女の作品よりは少しリラックスして聞けるCDかとも思います。実は昨晩も、学会から帰ってきた興奮でなかなか寝付けなかったので(^^)、ベッドから抜け出し、このCDを聞きながらゆっくり酒を飲んで心身の落ち着きを取り戻しました。

Machaut(1300頃-1377)作曲、Deller Consort演奏のMusic in Reims Cathedral and in Notre-Dame in Paris (deutsche harmonia mundi)は、確かまとまったミサ曲では最古の一つだったかと思いますが、古楽器とグレゴリア聖歌のような合唱による音楽です。響きは独特で、時代を感じさせます。Hildegard von Bingenが意外に現代の感覚に近い、というより現代生活の谷間にすっと入ってゆけるのにくらべて、このCDは中世教会文化を感じさせる点で、少し現代人には抵抗があるのかもしれません。(もっともそれだからこそ聞きたい、という気持ちになる時もありますが)。

しかしこれが1200年頃の女性吟遊詩人の歌を集めたCansos de Trobairitz (Virgin Classics)になりますと雰囲気は一変し、楽器伴奏も歌い方も、とても親しみやすいものになります。世俗曲もやっぱりいいなあ。(私の嫁さんも冗談半分にせよこのCDを聞くと踊りはじめました)。こうして世俗曲も楽しんでゆくと、やがて私たちの音楽の趣味も、世界各地の民俗音楽の方にも広がってゆくのかもしれません。少しずつ世界を広げたいと思います。

ところがこうして買ったCDを聞き進めていって、Josquin des Prez(1440頃-1521)のMotets & chansons (演奏はThe Hilliard Ensemble)を聞いたら、はっとして、思わず「こりゃ、きれいだ」とつぶやいてしまいました。一曲目のアベ・マリアで、「アベ・マリア」という言葉が、四声で次々に重ねられてゆくところは、上に聞いていた中世音楽とは一線を画していて、芸術形式の深化がまさに実感させられます。ニュアンスにニュアンスを重ねてゆくような微妙な音楽の綾は絶品です

後日、金澤正剛さんによる『古楽のすすめ』(音楽之友社 1998年)を読んでいたら、このあたりのことが理屈の上でも納得させられました。少し引用しますと、

当時[=17世紀以前]は音楽を演奏するに際して、時間的な基本単位をタクトゥスによって示した。タクトゥスを、手を上下に動かして示すことも一般的である。そこで一見、今日の拍子とあまり違わないように思われてしまう。しかし今日の拍子には強弱があるのにたいして、タクトゥスは純粋に、基準となる音の時間的長さを示すだけのものであって、強弱とは関係ない。(17)

強弱のアクセントを最小限に抑えて、それぞれのメロディーと言葉遣いの微妙な変化に添った音楽の運びは、確かに近代の音楽とは全く違ったものです。そういえば以前、ヴォーカル・アンサンブル カペラのリーダーの方も、そのように拍を取っていましたし、一枚の大きな楽譜の周りに寄り添うようにして歌うことや、方言の差異にまで注意して歌詞を大事にすることを強調していましたが、それらの配慮は、近代音楽とは異なるルネッサンス音楽のよさを引き出すためには必要不可欠なことなのかもしれません。

金澤さんの本からさらに一箇所だけ引用しますと、

だいたい古代から現代に至るヨーロッパ音楽の歴史は、旋律中心に発展を遂げてきたと言うことができる。旋律を素材として、それをどう扱うかによって、モノフォニー、ポリフォニー、ホモフォニーという三通りの作り方が、歴史的に順に現れた。これら三つの用語は、語源に遡ってみるとその意味がよくわかる。三者に共通なのは「フォニー」という結尾部である。これはもともと「音」または「声」を意味するが、ここでは「旋律」と解釈するとわかりやすい。違うのは接頭語である「モノ」は「単一の」を、「ポリ」は「複数の」、そして「ホモ」は「同種類の」を意味する。つまり「旋律が一つだけの音楽」がモノフォニー、「複数の旋律による音楽」がポリフォニーである。「同種類の旋律による音楽」だけは少々解説を要する。「同種類」ということは、主な旋律は一つだけで、あとはそれと同種類ということになる。それら同種類の旋律は、主旋律を支える肉づけとなる。それはつまるところハーモニーに他ならない。そこで結局、ハーモニーが旋律を支えるという書方に落ち着く。それがホモフォニーである。(22-23)

私も今までポリフォニーという言葉は知っていましたが、私はこの説明を聞いてさらによく理解できた思いです。それに、例えばHildegard von Bingen(モノフォニー)とJosquin des Prez(ポリフォニー)の美しさの違いもよくわかりました(私の音楽的知識ってこんなに低いものなのです。でも知識によって、今まで何となくしかわからなかったことに得心がゆくのは本当に嬉しいものです)。

こうしてみますと、ルネッサンスのポリフォニー(モノフォニーによるポリフォニー?)は近代の複数旋律進行(つまりはホモフォニーによるポリフォニー?)にくらべて、当然のことながら、はるかに透明感が高く、声部も重ねやすい(重ねても音楽が混濁しにくい)と言えるのかもしれません。形式としては単純かもしれないけれど、ルネッサンスのポリフォニーには独特の微妙な美しさがあるなあと強く思います。(もちろん近代のポリフォニーにも独特の聞き応えがあることは言うまでもありません)。

あと一枚だけ書きますなら、これまたThe Hilliard EnsembleによるThe Old Hall Manuscript (Virgin Classics)。これはずいぶん親しみやすいCDです。ヒリアード・アンサンブルはここでは少し近代的な歌い方をしているようにも思えます。Josquin des PrezのCDとは少し雰囲気が違います。その分、いい意味でとっつきやすくて気楽に聞ける作品になっているのかもしれません。

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(1999/9/20)渡邊一正さん指揮・広島交響楽団の「ウィーンクラシックの夕べ」に行ってきました。第一部の一曲目はツィラーのワルツ「ウィーン娘」。渡邊さんの指揮は、前回の「運命」の時とは全く異なって曲線的です。「イチ・ニ・サン、イチ・ニ・サン」のリズムが続きますが、あたかも踊りのステップが何回か続いた後の素早いターンのように、渡邊さんは時に颯爽とオケの流れを転換させます(もちろん「イチ・ニ・サン、イチ・ニ・サン」というのは私が頭の中で補っているリズムで、渡邊さんのリズムはもっと優雅で柔軟です)。曲自体の作りはやや単調なのですが、曲の最後の方で交響曲みたいにオケが「バンッ」と鳴ったのには良い意味で驚かされて、私はこれで一気にコンサートに集中しました。二曲目・三曲目はヨハン・シュトラウスII世のポルカ「うわき心」・ヨゼフ・シュトラウスの「おしゃべりなかわいい口」。クライバーなら顔だけで指揮するような(^^)速いテンポのポルカです。三曲目では私は気がついたら足で拍子をとっていました。こういう小気味のいい曲はやはり快感です。四曲目はヨハン・シュトラウスII世のワルツ「春の声」。弱音のころがるようなソプラノがきれいでした。五曲目はオッフェンバックのワルツ「夕刊」。曲の雰囲気もかわります。休憩をはさんで第二部の六曲目はヨハン・シュトラウスII世のワルツ「朝刊」。これも一曲目と同じように、最初はやや単調に始まりますが終盤でぐーっと盛り上がります(落語名人みたいに、はじめはわざとゆるゆるとやって、後半で盛り上げるというのが渡邊さんのやり方なのかなあ?)。七曲目もヨハン・シュトラウスII世で、喜歌劇「こうもり」のチャルダッシュ。これもソプラノの弱音がきれいです。そういえば喜歌劇「こうもり」(全曲盤)は仕事のBGMとして一時期よく聞いたなあ。ロッシーニの「セビリアの理髪師」(全曲盤)とともに「こうもり」(全曲盤)は私のBGM好みの曲です(もっとも前者ではしばしば仕事がお留守になりがちだけど)。八曲目はスッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲。誰でも聞けば知っている超有名曲で、それがゆえにCDを買おうとも思わない曲ですが、フルオーケストラで聞くと冒頭のテーマを吹く金管と伴奏役のバイオリンの対立を始めとして、いろいろなパートが聞こえてきます。ラジカセならおもしろみを感じないであろうこの曲も、渡邊さんの(このコンサートでは唯一の、いつもの)きびきびとしたタクトで聞くと非常によかったです。クラリネットのソロの後の弦の合奏もよかったし、最後の盛り上がりもよかった。私にとってはこの曲が今夜のベストでした。その後、ヨゼフ・シュトラウスのポルカ「トンボ」、ヨハン・シュトラウスII世のポルカ「狩」と皇帝円舞曲と続きます。アンコールはソプラノの再登場による甘いメロディの曲でした(曲名未確認)。

総じて感じたことは、このような曲のコンサートの主人公は作曲家でもなく、演奏者でもなく、聴衆なのかな、ということです。普通のコンサートなら主人公は作曲家の表現世界(あるいは「神」)で、演奏者はひたすらそれに奉仕し、聴衆はその奉仕の様子(つまりは「演奏」)を目のあたりにする、と言えるのかもしれません。ですが、このような定番曲のコンサートでは、演奏者が奉仕しているのは聴衆で、聴衆は音楽を契機にした再開を喜び社交を暖めるのが本来のあり方なのかもしれません。そういった意味では渡邊さんのタクトでは、他の種類の曲を聞きたかった気がします(例えばバルトークなどの20世紀作品なんかどうでしょう)。

それにしてもこれは主催者へ一言。オケの後ろに大きく「ウィーンクラシックの夕べ〜ヨハン・シュトラウスII世没後100年記念〜」と書かれた横断幕がかけられていたけど、あれはやめてほしいよなあ。デパートの屋上で子供向けにコンサートやっているんじゃないんだから。悪趣味だと思うけどなあ。

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(1999/9/12)今日、呉市文化ホールで行われた渡邊一正さん指揮・ピアノの広島交響楽団のコンサートに行ってきました。このホールには初めて行ったのですが、新しくきれいで座席数の割には天井が高く、響きもよろしそうでした(実際、後でフォルテが「バンッ」と鳴ると、わずかに遅れてその衝撃音が後ろから感じられるようで、私は割にいいホールではないかと思いました)。

コンサートの感想を書くのは、繰り返し聴けるCDの感想に比べてはるかに難しいです。自分の無知・誤解をさらすだけでなく、私の誤った感想によって嫌な思いをする人があっても怖いというのが正直なところです。でも音楽文化を愛する一人の素人として今回も書こうと思います。

一曲目はベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番。全般にコントロールの効いた端正なベートーヴェンみたいな感じでした。渡邊さんも全力疾走はしていないようです。「そりゃ、今日みたいなプログラムなら、最初からあんまり飛ばすわけにはいかないよなあ」と私は一人勝手に納得しておりました。

二曲目は渡邊さんのモーツアルトのピアノ協奏曲第20番の弾き振りです。私が持っていたこの曲に関するイメージは、もっぱらデモーニッシュなもので「人が死んだ後に動揺を静めるために聴きたい曲だよなあ」なんて勝手にモーツアルト作品を歪めておりました。ところが渡邊さんの第20番は、モーツアルトがあくまでも古典派であることを示したような演奏でした。時折の管楽器やピアノのフレーズが音楽をとても立体的に聞こえさせます。それからこれは単に弾き振りをするための処置なのでしょうが、渡邊さんはピアノの反射板を全て取り去っておりました。演奏の仕方も端正で、19世紀ヴィルチオーゾみたいな「思い入れと肩の力たっぷり」みたいなものとは無縁なものでしたから、出てくる音はフォルテピアノを連想させる古典的な世界でした(もっとも私はフォルテピアノを生で聴いたことがないのでこの印象は全く間違っているかもしれません)。私の信頼がおけない印象はさておき、渡邊さんが全曲を弾き終わるや否や、楽団員が作り笑顔ではない本当に嬉しそうな笑顔で楽器をコトコト鳴らして賛辞を送っていたことは印象的でした。

休憩をはさんでいよいよベートーヴェンの交響曲第5番です。指揮台にも落下防止のバーがつきましたからおのずと期待は高まります。こころなしか入ってくる渡邊さんの歩調も速めのように感じられます。第一楽章から音楽はシャープで、渡邊さんの姿勢よく支えられたトルソーから的確に振り降ろされ楽団員に指示をする左手が、この音楽のあり方を象徴しているようでした。第二楽章は実に堂々としていて、ある箇所などはまるでコラールでも聞いているような錯覚さえ覚えました。第三楽章も素晴しく、この楽章がフィナーレへの単なるつなぎなんかでは決してないことを雄弁に語ります。フーガ(と言っていいのかしら?)の力に満ちた楽章のように私は聞きました。多くの人が同意してくれることと思いますが、第三楽章から第四楽章への移行がこの曲の聞かせどころですが、渡邊さんは第三楽章最後で、ほとんど静止したような状態で指揮をしてエネルギーをためて、第四楽章での突進的な音楽へと見事に移行します。第四楽章最初の部分の弦楽器のフォルテシモなんて本当によかった。「やっぱり、こんな音楽が聞きたかったんだ!」と心の中で快哉を叫びました。「近代オーケストラはやっぱり鳴ってナンボよね!」と私は単純に考えてしまいます。それからとても印象に残ったのがティンパニーの連打。時折私が今まで聞いていたのとはちょっと違ったように思える緩急のテンポで打たれます。最後の最後の連打で、渡邊さんは明確な意志を込めて右手を肩からまっすぐ伸ばしてティンパニーにフォルテシモを要求していましたし、このティンパニーの扱い(テンポ・強弱)は渡邊さんの解釈なのかもしれません。これはよかった。最後のティンパニーの強打なんて本当にぞくぞくきました

ラジカセで聞くと時にパロディに聞こえてしまうこの曲は、やはり名曲中の名曲であることを示したライブでした。やっぱりライブはいい。今これを書きながら記憶を取り戻すためにクライバー指揮のCDを聴いていますが、やはりこのようなオーケストラ作品は部屋の中でまともに再生するのは無理ですホール中の大容積の空気と観客とプレーヤーの熱気がないと、こんな音楽の真のよさはわからないのではないかと思えます

アンコールはモーツアルトのディベルティメント。これもベートーヴェンの熱気さめやらぬ時に演奏されたせいか、スピード感と透明感にあふれ、なおかつ艶のあるいい演奏でした。弦楽は本当によかった。ベートーヴェンの第5番が終わった後に渡邊さんは金管、ティンパニー、木管のパートを順に立たせて拍手を送っていましたが、私は広響はどちらかというと弦楽器の方が好きです。このアンコールを聴いて私は第一曲目はレオノーレではなくてモーツアルトのフィガロの結婚序曲なんかだったらおもしろかったのではないか、とも思いました。

以上、勝手なことを書きました。もし読んでいたら関係者の方、ごめんなさい。誤解があれば訂正しますのでその際はメールでも送ってくださいませ。

追記:これを書きましたところ渡邊一正さんの公式ホームページの管理者(夜子さん)から以下のような投稿を「裏庭」にもらいました。指揮者という仕事には私たちには計り知れない「深さ」があるようです。(^^)

柳瀬さま、こんにちは。「音楽」、拝見させて戴きました。うふふ。たくさんにご評価下さり、ありがとうございました。とっても嬉しかったです。あまりに嬉しかったものですから、先生とお会いする機会がございましたものでプリントアウトしてお読み戴いてしまいました(勝手なことしてごめんなさい)。先生もとってもお喜びで、でも「こんなに褒めて戴いて」って照れていらっしゃいました。

ずっとお読みになって、最後の方で「ぎゃはは!」と爆笑なさったのでどうしたのかと思いましたら、「渡邊さんは明確な意志を込めて右手を肩からまっすぐ伸ばしてティンパニーにフォルテシモを要求していましたし・・」という部分で、「これは前列に綺麗な女の子がずらっと座っていたので、カッコつけたんですよねー」と仰ってお出ででした(^_^;)。

兎に角、飾らないお人柄にまたしても惚れ倒したわたくしでございました。ホホ。柳瀬様、どうもありがとうございました。今後とも宜しくお願い申し上げます。

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(1999/9/8)もしあなたがブルックナーの交響曲が好きなのならきっと宗教音楽も好きになるはずです。たとえばヤナーチェク(1854-1928)のGlagolitic Mass (Riccardo Chailly: Decca)。「宗教」という言葉に怖れずに宗教音楽を純粋な音楽作品として聞いてみてください。この冒頭のオーケストラによる導入なんて「おっ、ブルックナーの新しい交響曲発見か」と間違いかねないぐらいです。もっとも合唱やオルガンがはいったりすると明らかにブルックナーの交響曲の響きとは異なりはじめます。どちらかというと前にも書いたシマノフスキのスターバト・マーテルの響きに近い新しさ――しかしシマノフスキほど神秘的ではない――が感じられて、この作品が19世紀の遺産を引き継いだ上での20世紀作品であることを伝えてくれます。またカトリック的な壮麗な解放感も至る所で感じさせます(こうして考えてみるとブルックナーも実にカトリック的だということがわかる思いです)。「宗教音楽」がやたらと抹香臭い音楽ばかりと思っている方は是非一度聞いてみてください。最終部のオーケストラなんかもとてもミサとは思えない。トランペットと打楽器連打の高揚感が凄い。20世紀調性音楽作品の傑作として聞いてみてください。私のCDはヴァージン・メガ広島店が、輸入盤を1650円の「スペシャル・プライス」にしてくれていたから速攻で買ったもの(CD店の店員さん、売れない輸入盤はどんどんバーゲン扱いしましょう!)。数ヶ月前に買って時々聞いていたのですが、最近、中世・ルネッサンス、20世紀と宗教音楽を立て続けに聴いたのでついでに聴いてみたものです。

ついでのついでで、これまた前に買っていたシューベルト(1797-1828)の「スターバト・マーテル他」(レルベルト・ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団・合唱団 /徳間ジャパンコミュニケーションズ)を聴いてみました。これも1000円という手ごろな値段だから買っていたものです(しかし俺ってケチくさいなあ)。これがよかった。「ロマン派の香りが少しだけする古典派のシューベルト」による作品といいたいぐらいです。日本語解説は「シューベルトの抒情を格調とともに捉え、厳しさと滋味を併せそなえた名演」なんて書いてありますけど、うまい表現だなあ。シューベルトのあの甘いメロディーがハイドンのような形式の確かさに支えられて、美しさと安定感が両立しています(特にミサ曲第2番)。数ある時代の音楽の中でもとりわけ18世紀の音楽を「古典派」と呼んで別格扱いしたくなる気持ちもわからないではない、と思えてきます。これらの曲をシューベルトは18-19才の時に書いたというのだから、これは凄いなあ。現代作曲家の少なからずが、現在中世様式の音楽を書いているのだけれど、このような古典派作品を、現代人が再び書くことはできるのだろうか。(こういう曲を聴くとプロコフィエフの古典交響曲なんてせいぜい「擬古典派」にすぎないのではないかと思えてきます)。

「宗教音楽」「宗教音楽」と言っていますが、私は前にも言いましたように特定の宗教は信じていません。特定の宗派・宗教集団にも入っていませんし、入るつもりも全くありません。私の宗教についての考えは、「宗教心」は、極端な言い方をすれば「金銭欲」や「性欲」と同じように、どんな人間にも兼ね備わっているものだというものです。「宗教音楽」は万人に開かれた音楽だと思います

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(1999/9/5)よせばいいのに、またパソコンに向かっております(ゆっくり昼寝でもしておけばよいのに)。今日は20世紀の声楽作品をいくつか。

John Tavener という現在活躍中の英国の作曲家のEternity's Sunrise (harmonia mundi)という作品は中世・ルネッサンスの作品の直後でも違和感なく聞ける現代声楽作品です。特に三曲目のPetraと五曲目のFuneral Canticleは佳品です。前者は"an attempt to see the human race as sacred beings, even as semi-divine beings, not in our own right, but because we are created in the divine image of God."ということに関する曲で、後者は作曲者の父の死の際に書かれた曲です。しかし私にとって残念なのは一曲目のEternity's Sunriseのソプラノが、かなりの大きな(従って少し無理だと思われる)声量で歌われていることです。これは抑えて歌われれば(あるいは破格にうまいソプラノによって歌われれば)もっと素晴しい曲になると思います。4曲目のSapphoには、管弦楽等を中心に少し「現代」が感じられますが、これは宗教的な声楽作品の可能性を広げるための試みだと私には思えます。それ以外の曲は、どれも中世、ルネッサンス音楽のようでいて、微妙な和音等のどこかで確実に違った、静かな祈りの音楽です。

次はスイスのFrank Martin(1890-1974)のMass for double choir and Passacaille for organとイタリアのIldebrando Pizzetti(1880-1968)のMessa di Requiem (Hyperion)です。これは1998年度のGramophone誌の大賞をとった作品で、ある評者は「今年どころかこの10年でもベストの作品」みたいな褒め方をしていたので、私も探していました。ところが広島のCD屋では見つからず、輸入盤の注文は嫌われる、と聞いておりましたので、そのままになっておりましたが、ノルディックサウンド広島の津田さんと話ていたら、「そのレーベルは扱っていますから注文を出しましょう」と気軽に言ってくれたので入手できました。よく「行きつけの飲み屋を持っておくといざという時何かと無理を聞いてもらえるから便利だよ」といわれますが、自慢ではありませんが、私はこの歳になっても行きつけの飲み屋やレストランなど一件もありません(^^;)。しかし行きつけのCD店は便利だなと今回特に思いました。

さて肝心の音楽ですが、これらの作品はアカペラとはいえ、合唱であり編成も大きくなるので、少しステレオの音量を上げて聞きたい作品です。Martinの作品は、宗教音楽といっても宗教的な側面よりも、音楽的な側面の方が強い「近代合唱音楽」といった感じです。中世・ルネッサンス音楽にはあまり聞かれない「強さ」が感じられます。彼がやろうとしていたことは何だかオルガン曲のPassacailleを聞いているとよくわかるようです。Pizzettiの方は、それにくらべて緩やかなところがあり、安らぎを感じやすい雰囲気です。Martinにみられた近代性が後退し、中世・ルネッサンス的雰囲気に近いといえるかもしれません。「イタリア」といえば「ヴェルディやプッチーニの国」とすぐ連想してしまいますが、そういえばパレストリーナの国でもあったんだな、と思い起こされます。私はGramophoneのある評者のように絶賛するつもりはありませんが、近代の無伴奏合唱作品としてはなかなかのものだと思います。それにしてもこれは完全な個人的好みですが、このCDにしても前のTavenerのCDにしても、もう少しオフ気味の離れたマイクセッティングで録音してもらった方が落ち着いて聞けたような気がします宗教音楽のフォルテは特に、直接的な音量の強さではなく、内面的な強さの表現であってほしいと思うからです(もちろんこの印象は私のステレオ装置と部屋の不備から生じた誤った印象なのかもしれませんが)。前にも書きましたが、器楽曲や無伴奏声楽曲では、せっかくの作品も、録音によっては誤った印象を得かねません。

ついでのところで大編成の合唱作品を、と思って引っぱり出してきたのがシュニトケ(1934-)の合唱のための協奏曲(Concert for Choir in Four Movements  ビクター)。「協奏曲」といってもソプラノ独唱と混成合唱によるもので、管弦楽器の類は一切入っていません。昔から時折聞いていることもあってか、この曲は私は好きです。録音も、上に上げたような欠点がなく、私は好き。「ロシアの合唱=力強い」というのはステレオタイプに過ぎないのかもしれませんが、合唱の力強さと、それを凌駕するようなソプラノの強さは、体の奥から力を得るような気分にさせる美しさです。特に第一楽章はいい。ただ第三楽章は「悲しみの言葉の本質を究める全ての人に、この作品の核心を理解する全ての人に」というタイトルが示唆するように、私たちを深いところまで押し込んでしまうような力をもった楽章で必ずしも聞きやすい楽章ではないのかもしれませんが、その分、静かな第四楽章が救済のように聞こえてとてもいいです。第一から第三までの劇的ともいえる音楽を全てをくぐりぬけた上で、音楽がこの楽章で集結するのは、私はとても好きです。

でも大曲が続いてやはり疲れたので(この週末は中世・ルネッサンス音楽を聞きながらひたすら昼寝するつもりだったのにどうしたんだろう)、今聞いているのは前に取り上げたFougstedtのThe Arch of the Birch Trees (ALBA)。これはやはりいい。ゆるやかでゆったりとした気持ちになります。

でもパソコンを閉じる前に、少しだけ雑誌『レコード芸術』に苦言を。実は今日、本を返さなくてはならなかったので市立図書館に行き、ひさしぶりに同誌を読んだのですが、残念ながら依然として購読しようという気にはなれませんでした。第一に、取り上げる作曲家(あるいは演奏家)が、例えば交響曲なら、ベートーベン、ブラームス、ブルックナー、マーラーなどといわゆるメジャーどころだけで、新しい発見をしようとする姿勢が見られないところです。これは特集記事になるともっとひどくて、たいていの場合は既に名のとおった演奏家の過去ばかりを回想するものです。「いかにも受けそうな。いかにも気に入ってもらいそうな」編集方針は、読者の音楽を狭くしてしまうのではないでしょうか。第二に、これは一部の評論家だけなのかもしれませんが、批評するCDに愛情があまり感じられないことです。勿論全てのCDを絶賛しろというのではありませんが、作曲家や演奏に欠点があるにせよ、そればかりを高らかに指摘するだけでなく、そのCDの良さを理解するような姿勢で批評を書いて欲しいと思います。欠点を見つけるのが上手な人と長所を見つけるのが上手な人では、知性が高いのは断然後者だと私は思います。ですが、なんだか日本の評論家にはケチをつけることによって自分の「偉さ」を示したがっているような劣等感が感じられる人が少なくありません。それともこれはCDを評論家自身が選んでいるのではなく、編集部が評論家に適当にCDを振り分けているのが原因なのかしら。それなら原因は編集部にあるというべきでしょう。第三の不平はサンプルCDの一曲毎の収録時間の短さです。GramophoneのサンプルCDなら一曲あたりたいていは4-5分、長い場合は6-7分使っているから音楽のよさも少しはわかり、紹介されているCDも買おうかという気にもなりますが、『レコード芸術』の場合は一枚のCDに40曲以上を入れているからまるでイントロクイズCDみたいです。本当に読者のことを考えた編集方針なのかしら。このように苦言をいいますのも、私は一音楽愛好者としていい日本語の出版物がほしいからです。新潮社がGramophoneの日本語版を出す予定だとも聞きますが、これも変なのにしないでほしいなあ。『芸術新潮』みたいに発行部数を少なめに見積もってでもいいから質の高さを維持してほしいなあ。

追記(1999/9/12):上に『レコード芸術』に不平を申しましたが、本日同じ音楽之友社が発刊している『音楽の友』を読んでみました。この雑誌は演奏家向けの雑誌とばかり私は思い込んでいたので手にしなかったのですが、読んでみると、バランスの取れた論評をしているようにも思いました。これなら購読してもいいなあと思いました。(でも金がない!)

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(1999/9/4)夏ばてのせいか微熱が続きます。新しい職場で4月から7月一杯まで授業をやって、休む間もなく学会発表準備、5日休みをとるも、親戚回り、嫁さん孝行、筋トレ、図書館、スターウォーズと忙しくしながら、毎日「こんなのトレーニングのうちに入らないぜ」とばかりに毎日腕立て100回、腹筋50回、スクワット50回やっていたのですが、そのツケがきたのかもしれません。もう若くないんだなあ。

というわけでこの週末は、ひたすら休んでおこう、本も漫画も読まず、ひたすら寝転がって、あわよくばどんどん昼寝をしておこうとしております。音楽もルネッサンス(14-16世紀)かそれ以前の中世の音楽ばかり聞くことにしました。わかりやすく言うと、バッハやヴィバルディ以前の音楽を聞こうということです。疲れた身体を癒すために、少しでも神経にさわる音楽は聞きたくない、ということです。

最初に聞いたのは時代順ということで、ヒルデガード・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen 1098-1179)。これは今回ナクソス・シリーズの「神々しい黙示録」を買って聞いたのですが、これはよかった。とてもよかった。アカペラでしかも単声で、ゆるやかにメロディが流れてゆきますが、これはどんな人の心も落ち着けてしまうような美しさをもっています。もしあなたにクラシック音楽の素養が全くなくても、仕事に疲れた秋の晩に、自宅の蛍光灯を消して白熱灯の間接照明だけにして(あるいはロウソク照明だけで)、このCDを控えめの音量で流すならストレスの多い現代生活では失われがちな感覚を取り戻すことができると思います。グレゴリオ聖歌の独特のコブシというか節回しが気になる人も、このシンプルな美しさにはとりこになるのではないでしょうか。現在坂本龍一の「癒し系」のCDが売れているようですが、そのCDに比べて、はるかに飽きのこない、しみじみとしたいい音楽だと私は思います。悲憤慷慨はおろか、喜怒哀楽とも無縁な安らぎの世界を感じさせる音楽です。

同じように先日買ったのがヴィラールト(Adrian Willaert 1490頃-1547)のミサ曲「キリストはよみがえり」です。これもナクソスシリーズのCDです。ナクソスはなんといっても一枚1000円というのがありがたいです。これなら失敗を怖れず買うことができます。しかも録音もいい(事情通の話によると初期は録音のばらつきもあったのですが、最近はコンスタントに録音もいいそうです)。また演奏がいいのも色々なCDが音楽各誌の賞をとっていることからもうかがえます。さらにメジャーレーベルがあまり録音しないような隠れた名曲をもピックアップしてくれる姿勢は大変ありがたいです。私は一消費者としてナクソスシリーズを非常に重宝しています。

さてヴィラールトの音楽ですが、これも美しい。ヒルデガード・フォン・ビンゲンから時代はずいぶん下っており、声部も(少数の)複数になっていますが、ゆるやかな音楽の運びは同じです。これも静かに一人で聞きたい音楽です。(このような音楽を聞いている時にかかってくる仕事の電話に呪いあれ!(^^;))。

そういえばこれと同じぐらいの時代ではなかったかしら、と思って取り出したのがジョスカン・デ・プレ(Josquin des Pres 1440頃-1521)のMissa Pange lingua (The Tallis Scholars: Gimell)。数少ないのですが、私も訪れた教会の雰囲気----冷ための石床や響のよい空間など----を思わず思い出します。そのせいか、「沈黙の仕方を知っている人とだったら一緒に聞いてもいいなあ」とも思えてきます。それにしてもこのようなCDを聞いていると、いいオーディオ装置がきっとほしくなると思います。またCDも録音が大切という、極めて当然の事が身にしみると思います。特にヒルデガード・フォン・ビンゲンのいい録音CDを、せいぜい口径10センチぐらいの小型スピーカーを専用台に設置して、かつ前後左右の空間を十分開けて良質のアンプにつないで聞いたら、聞く度事にしみじみと幸せを感じられるだろうなと思いました。(小型スピーカーは空間再現能力が高いのです。みなさん、良く考えた上でのステレオ購入は人生を確実に豊かにしてくれますよ)。

次に時代順ということで取り出したのが タリス(Thomas Tallis 1505頃-1585)の「四声のミサ」。これもナクソスシリーズです。ヴィラールトやジョスカン・デ・プレの音楽と似ているのだけれど、どこか違うような気もします。今は、その違いも説明できないし、もしかすると本当に気付いていないのかもしれないけど、これらはじっくりと年月をかけてこれらの時代の音楽を聞くことによって、私の耳と心を耕してゆこうと思います。

次に聞いたのがパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina 1525頃-1594)のMissa Papae Marcelliこれもナクソスシリーズ(今まで紹介したナクソスの演奏はすべてOxford Camerataです)。パレストリーナぐらいになると気のせいか、音楽に複雑精緻さが加わってきたような気もします。メロディーの運びもゆるやかなのですが、すこしはテンポが早くなっているような気もこころもちします(これは誤った印象なのかもしれませんが)。その分、現代人にはこのくらいから聞き始めるのが入りやすいのかもしれません(それでも私はいきなりヒルデガード・フォン・ビンゲンから聞くことをお勧めしたいのですが)。

これがラッソ(Orland di Lasso 1532頃-1594)になりますと、これは作品(Missa "Bella Amfitrit' Altera")のせいかもしれませんが、声部も8部になり、管弦楽もずいぶん入ってきて一気に雰囲気が変わってきます。いわゆる17-18世紀の「古典音楽」に近づいてきて親しみやすくなってきた感じです。しかし、私のこのCDは録音があまりよくない。中世・ルネッサンスの音楽では本当に録音が大切だなと思わされてきます

ラッソぐらいの編成の声楽と管弦楽を聞くと、急にバッハを聞きたくなりました。そこで時代を一気に通り越してJ.S.バッハ(1685-1750)のマタイ受難曲の前奏曲を改めて聞いてみます。するとこれが凄い。管弦楽の和声も精緻だし、またおもしろいのは各楽器のパートが独立していながら絡み合って聞こえます。これは合唱にしても同じ。複雑だけれどけっして混濁していない、極めて明晰な音楽がバッハの音楽というような気がします。「バッハはそれまでの音楽の集大成」といわれますが、それが実感される思いです。最初に私がマタイを聞いたのは、クラシックを聞いてまもない頃で「これが西洋音楽の頂点」という啓蒙的知識によっての試聴でした。10年ぐらい前のその当時は「ふーん、そうなの?」といった感じでしたが、その後、古典派、ロマン派、現代音楽、と一通り聞いて、さらに今回のように時代を追って、バッハ以前の音楽を聞いてみると、バッハの凄さというのが納得される思いです

とはいえ、今回のテーマは中世とルネッサンスの音楽。バッハを前奏曲でむりやり止めて、今度はこれまた以前に買っていたバード(William Byrd 1543-1623)のThe Great Service (The Tallis Scholars Gimell)を聞き直します。パレストリーナやラッソと同じような意味ですこしテンポも早くなり(それでも現代的感覚からするとゆるやか)、近代的感覚に近くなったような気がします。それでもこれはアカペラ作品なので、前出のラッソの作品よりは透明感が高いです。

ここで調子に乗ってパーセル(Henry Purcell 1659-1695)のTe Deum and Jubiliate in D majorを聞いてみると、これは完全に17世紀バロックの世界にはいってきます。バロックについては、よく「原意は『歪んだ真珠』」だとか「ルネッサンス様式の均整と調和に対する破格であり、感覚的効果をねらう動的な表現を特徴とする」とか「強い緊張感、激しい情緒表現を特徴とする」とかいう知識を学校で覚え込まされましたが、なんせバッハかヘンデルかせいぜいヴィバルディぐらいの音楽までしか聞いたことがなかった時分には「なんでこんなに静かな音楽にそんな説明がつくのだろう」とバロックの解説に得心がゆきませんでしたが、少しずつ中世、ルネッサンスの音楽もこうして聞いてゆくと、上のような解説にもいちいちうなずけるようになってきます

ふう、さすがにまた疲れちゃった。熱はどうなっているのかしら。でも今回明らかになったのは(馬鹿ほど結論をつけたがる!(^^;))、(1)中世の音楽と、15-16世紀の音楽と、17世紀バロック音楽にはやはり違いがあり、「バッハ以前の音楽」などとひとくくりにするのは少し乱暴すぎる。(2)心身共に疲れている時は中世の音楽を、それ程でもない時はルネッサンスの音楽を聞くといいかも、といったところでしょうか。

それにしても何故私はこのように無知丸だし、独断まみれの文章を書くのか。「書きたいから」というのが一番正直なのですが、一つには、少しでも音楽の世界に皆さんをひっぱりこみたいからです(いや、やっぱり、馬鹿だから知ったことをすぐに伝えたがる、という方が正確でしょうか)。まあ、私より音楽について知らない方は、どうぞこの駄文でも参考にしてやってください。音楽の専門家の方はどうぞ、素人の浅薄な理解、アホな誤解のサンプルとしてご参考にしてくださいませ。

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(1999/9/2)Hilding Rosenberg(1892-1985)というスウェーデンの作曲家は、「野外で聞ける不協和音音楽」をかいた人ではないか、というのが私の意見です。といってもConcertos for Strings 1&4 (CPO)というCDを聞いただけなのですが、これがいたく気に入りました。

「不協和音」というと、とかく眉間にしわをよせたイメージがあり、なんだか暗室で頭を抱え込みながら聞かなければならないようにすら思えますが(ちょっとオーバー?)、彼の音楽は開放的で、芝生の上での野外コンサートで演奏しても大丈夫なように私は思います。特にSuite on Swedish Folk Tunesは冒頭のAllegroがそれこそ快活です。このあたり、プロコフィエフの古典交響曲の冒頭を思い出させますが、プロコフィエフより響きが現代的で爽快なように思えます。「不協和音を使ったって、音楽は音楽。人間のものなのだから、人間の生理にかない、かつ躍動感がある音楽があるべきだ」という意見に賛成してくださるのなら、是非このCDを聞いてみてください。何回か聞いた後でライナーノーツを読んでみるとConcerto No.1を聞いたある振り付け師は、この音楽に合わせてバレエを創作したそうです。「ほらね、開放的で、踊ることすらできる不協和音なんだ!」と私は我が意を得た気分でした。古典的なスタイル(neo-classical - or rather neo-Baroque - ライナーノーツの表現より)と現代の不協和音を兼ね備えたこの作品は私のお気に入りです。このような傾向の音楽を少しずつ集めてみようかしら。

以前から何度か聞いていたから、Rosenbergほどの発見ではなかったけど、「透明感」というか「後腐れのなさ」というか「音楽の滋味」という点でよかったのがシベリウス(Sibelius 1865-1957)のSymphonies 6&7 and Tapiola (BIS)です。特に7番の方は一楽章構成ということも手伝って、音楽が連綿とつらなってゆきます。聞いていると「無色透明の美しさ」という言葉を使いたくなります。老若男女誰でも楽しめる音楽といいましょうか、子供でも(感性の鋭ささえあれば)美しさを堪能できるし、老人でもしみじみとした情感を慈しむことはできるし、揺らめきと動感は女性にもわかるはずだし、清潔感は男性にも理解されると思います。実は私はシベリウスの交響曲はラジオで聞くぐらいで、何となくCDを買うタイミングも失っていたのですが、秋らしさも感じられるようになってきましたので今回、ノルディックサウンド広島の津田さんのアドバイスでOsmo Vanska(本当はaは二つともウムラート付き)指揮のLahti Symphony OrchestraのCDを買ってみました。録音がいいのは当然として、演奏も「風通しのいい」と表現したくなるようなアンサンブルと、見事なソロ部分を兼ね備えたいいものだと私は思います(もっとも私は聞き比べをしたわけではありませんが)。7番は20世紀の調性音楽の「標準原基」(?)とでも呼びたい気もしますが、まだまだ20世紀の音楽をあまり知らない以上、即断は避けましょう(それでなくてもこのコラムには独断が多いのだから(^^;))。いずれにせよ、もしこの小文を読んでいる人で、昔の私のように「シベリウス=フィンランディアの作曲家=ズンチャカズンチャカ系の民族楽派」みたいな固定観念を持っている人があれば是非このCDを聞いてその有害無益な固定観念を打ち破ってください。

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(1999/8/31)気候もようやく涼しくなりはじめて、少しは音楽を聴き込もうかという気になりはじめました。もちろんこの夏とて音楽は聞き続けてきたのですが、なんせ日本の夏は暑い。クラシック音楽や哲学は日本の夏には似合わないというのが、私の偽らざる気持ちです。

さてGramophoneの9月号を読んでいると、Sir Simon Rattleがインタビューの中でポーランドの作曲家シマノフスキ(Szymanowski 1882-1937)の事をえらく熱っぽく語っているのが印象に残りました。雑誌の付録のサンプルCDで彼のオペラKing Rogerの一部を聞いてみても、透明感のある独特の美しさが心に残りました。CD屋を覗いてみると、NAXOSシリーズに彼のスターバト・マーテル(Stabat Mater)があったので、「一枚1000円だし、失敗したってたいしたことないや」と思って買ってみたら、これが大当りでした。

管弦楽と人の声が独特の和音で透明な世界を奏でます。といっても、痩せ細った神経質なような世界ではなく、どこかに芯の入った凛とした美しさです。バロックやそれ以前の響きでもなく、ましてや古典派・ロマン派ではありえず、といってもいわゆる「現代音楽的」のような頭脳だけに入ってくるような音楽でなく、生理にすっと入ってゆけるが、どこか不思議な美しさをもった音楽です

聞きようによってはプッチーニの東洋趣味的な作品の響きのようにもきこえるのですが、静逸さでシマノフスキはプッチーニと大きく違います。またプッチーニの音楽の「強さ」はしばしば量に由来しているようにも思えますが、シマノフスキの音楽の「強さ」には選び抜かれた和音の美しさと、長いスパンのメロディーに由来しているように思えます。とにかく私としてはひさびさに聴いていて、落ち着きと力が取り戻されるように感じられる音楽でした。宗教音楽がお好きな方には、バロックおよびそれ以前には決して聴かれない種類の宗教音楽として、古典派・ロマン派には少し食傷気味の方には、音楽の新しい世界を示してくれるCDとしてお勧めしたいと思います。

それから最近買って印象に残っているCDとしてはノルウェーの作曲家Knut Nystedt(1915-)によるSacred Choral Music (ASV)。これは例によってノルディックサウンド広島(http://home9.highway.ne.jp/nordic/)で買った作品です。この店では、他の店では扱っていない、あるいは扱っているとしても解説も何もなしに隅においやられているが、決して作品としては無視すべきでない、かといってキワモノでもメズラシモノでもないすぐれた音楽作品を試聴できるから、私は非常に重宝しています。北欧の声楽作品はこの他にもいくつか買って、その中には改めて文章にしてみたい作品も多いのですが、今回この作品を取り上げましたのは、このCDにはいわゆる「実験的」な作品がなく、すっと音楽の世界に入ってゆけるからです。かといって、もちろん、ベタベタの大衆路線とは無縁の音楽で、清らかというか清冽な、「厳しい」とは言わないものの、深遠さにつながるような世界が広がってきます。三曲目のスターバト・マーテルには合唱作品には珍しくチェロのソロが中心的な役割をはたしているのですが、これがまた非常に印象的です。この作曲家は、話によれば、日本の色々な合唱団でも愛されながら歌われているとか。同じ「宗教音楽」といっても上のシマノフスキよりかは、親しみやすいかもしれません。私はここ最近繰り返して聴いていますが、飽きのこない作品集です。

あと、7月に買って愛聴しているのがJozsef EoetvoesというハンガリーのギタリストによるJohann Sebastian Bach: Goldberg Variations(自主制作盤: http://www.spinnst.co.at/Gitarre/Eoetvoes)です。これはある日ヴァージンメガ広島店にふと入ってみたらかかっていたCDです。その時の私の心情としては、最初は「おお、なんとも心地よい音楽だ」から、「こりゃ、バッハだね」「ギター演奏か」と移り、「ゴールドベルグじゃない!」、「えっ、このゴールドベルグは凄いよ。一体これ誰?」となって店員さんに尋ねて教えてもらったCDです。なんでも一部の音楽ファンから熱烈な支持を得たので、ヴァージンメガが特別に輸入したものだそうですやや控えめの音量で聴くと、プレゼンスに優れた優秀録音の向こうから、等身大のバッハが聞えてきます。音楽を愛し、人生の体験がどれほど深くなりうるかを熟知した音楽家が、体温をもった一人の人間として、演奏を通じて、私たちに語りかけてくれるようです。

音楽の世界には、この自主制作盤のように、メジャーレーベルからはもれているものの、非常に優れた隠れた名盤がまだまだ沢山あるのだと思います。どうぞプロの音楽評論家の皆様、CD店の担当者の皆様、ご自分の感性に忠実に、どんどん隠れた名盤を私たちに教えてくださいませ。

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(1999/7/4)20世紀の前半の作品で、時流に反して(?)調性を守った作品の中にはいいのが多いのではないかというのが最近の私の考えです。先日中古CD屋で見つけたVaughan WilliamsのSerenade to Music, etc (EMI), RespighiのSinfonia Drammatica (Chandos)と'Belfagor' Overture/ Toccata (Chandos)はどれもよかった。Vaughan Williamsのゆるやかな音楽の運びの中に現れる和音の美しさは、温厚というか何というか、管弦楽作品のよさをしみじみと感じさせます。Respighiも古典作品を尊びながらも、巧まずして現代の響きが出ているようでとてもいいです。20世紀前半は12音階とか色々な音楽のスタイルが誕生しましたが、それらを流行あるいは「最新理論」として取り入れた作品は結局短命に終わり、それらのスタイルに抵抗を覚えながらも伝統を否定できず、かといってそれらのスタイルが示す時代精神に対して心を閉ざすことがなかった作曲家の作品が、数十年たった私たちの胸をうつのかもしれません。真のスタイルは取り入れるものでなく、にじみでるもの、とでも言ってみましょうか。いずれにせよ、こういった作品を是非コンサートのスタンダードナンバーにしてもらいたいと思います。いくら音楽好きでも、19世紀ロマン主義作品ばかりがプログラムにのったコンサートばかりだと飽きてくるのではないでしょうか。

その後ボーナスが出たのでCDをさらに買いました。「疲れた心身を癒すような音楽、かといって単なるヒーリング系のような単調でない、音楽的に深みのあるもの」とノルディックサウンド広島の津田さんにリクエストしますと、何枚かのCDを提案してくれました。試聴して買った一枚がNils-Eric FougstedtのThe Arch of the Birch Trees: Complete secular works for mixed choir (ALBA)ノルディックサウンド広島のロングセラーで、買っていったお客さんがほとんど皆といっていいほど満足しているのだそうです。無伴奏の合唱曲集で、「世俗的」とはありますが、おだやかできよらかな音楽の流れは宗教的とでもいいたいぐらいです。このあたり(たびたび出てきて恐縮ですが)Vaughan Williamsなんかを彷彿とさせます。確かにこのCDは色々な折々に聴く愛聴のCDとなるでしょう。贅沢な話かもしれないけど、これから夏にかけての季節に、冷房の効いた部屋でこのCDを聴くというのはいいかもしれない。

北欧音楽といえばフィンランドの現代作曲家Rautavaara(ラウタヴァーラ)がここのところずっと気になっているのでこれまた数枚買いました。まず聴いたのは声楽曲ということでVigilia (Ondine)。これまた無伴奏の混成合唱曲(ソリスト付)です。The Helsinki Festivalとthe Orthodox Church of Finlandの委嘱作品だそうで、冒頭の独特の唱法から私たちを世俗世界から連れ出します。こういう作品を聴くとやはり先程のNils-Eric Fougstedtの作品なんて世俗作品だったんだなと思わされます。しかしこの作品には私個人が勝手に期待していたRautavaaraのよさがあまり発見できませんでした(とはいえ、もっときちんと聴かなければ何ともいえないのでしょうが)。ノルディックサウンド広島で試聴させてもらって結局買わなかったWorks for Mixed Chorusも私にあまりピンときませんでしたから、私が今のところRautavaaraについて発見しているのは、管弦楽作品の独自的な美しさなのかもしれません。

はたせるかなOn the Last Frontier (Ondine)はよかったです。1997年作曲の同タイトル曲(合唱付の管弦楽作品)はRautavaara独特ともいってもいい美しい世界をあますことなく表現しているといえるのかもしれません。そういえばGramophone1999年7月号はRautavaaraの他の作品に寸評を加えまして"It's such fascinating music, full of intense feelings and creating the weirdest sounds and textures."と述べています。「なるほど!」と膝を叩いたのが"texture"という言葉。彼の、主題の展開でもない、複数主題の対立的対比でもない、音の絡み合い/織り込み合い模様は、確かに"texture"という言葉が的確かなと思いました。"Weirdest"というのは明らかに褒め言葉です。彼の和音が作り出すsoundは確かにweirdといえるかもしれませんが、それは彼の独自性を表す表現だと思います。それから最初は「えっ?」と思ったけど、後から納得したのが"full of intense feelings"という表現。確かに彼の作品には19世紀のロマン主義音楽のような人間的情念(という意味での"feelings")が表現されているとはいえませんが(そもそもこれが私が彼の音楽に引かれた最初の理由の一つ)、でも彼の音楽が人間の「思い」や「願い」と無縁というとこれは嘘になるでしょう。中世もバロックも古典主義もロマン主義も、市民革命も産業革命も世界大戦も環境破壊も全て一通り経験した現代人の営みとしての「音楽」が、ひたすら彼の作品から聞こえてくるとでも表現したい気持ちです。特にOn the Last Frontierは"full of intense feelings"です。(それからこのCDのフルート協奏曲のフルートはうまい。これは私のような素人でもわかります)。

次に聴いたのがAngels and Visitations (Ondine)。最初のバイオリン協奏曲(1976-77年)は、バイオリンが少し、いわゆる「現代音楽」っぽい響きですが、響きの中に否定できない叙情性があります。1995年の作品Isle of Blissは留保条件抜きにいい。こうしてみると私が好んでいるのは彼の90年代の響きなのかもしれません。1978年のタイトル作品も70年の作品だから(?)金管や打楽器の使い方にいわゆる「現代音楽らしさ」-----現在の私たちが通俗的/ステレオタイプ的に捉える現代音楽的特徴----があるけれど、途中身体と空間が満たされるような音楽の流れがあるところを聴くと、90年代の彼の作品が確実に予感できるようです。(追記:繰り返し聞いていくうちこの「現代音楽らしさ」はどんどん消えてゆきました。ラウタヴァーラの他の曲と同じく、このCDからも今ではもっぱら「音楽」が聞こえてくるようになりました。というか、余計な事を何も考えずに音楽を聞けるから私はラウタヴァーラが好きです)。

最後に、ここまで書いたので、一ヵ月前から繰り返し繰り返し聴いている1994年の作品交響曲第7番についても書きましょう(Angel of Light, (Ondine))。まず第一楽章。美しい不協和音が漂うように流れてきます。凡庸な言い方ですが、まさに題名通り"Angel of Light"といったイメージです。それが金管の膨らみと共に心を満たされるような思いの音楽へと変移し、さらに今度はゆるやかな音楽の流れになってゆきます。そしてまたそれの繰り返し。先程から「満たされるような音楽」という表現を何度か使っていますが、これはブルックナーの音楽でも思い出してください。最初はせつない気持ちなのですが、だんだんそれが心一杯に満たされて、心から身体的感覚へとかわり、さらには身体を過ぎ、「せつない」という気持ちさえも通り越して、「思い」が部屋一杯に満ちて、さらにそれが部屋からも「思い」からも解放されて広がって解放されてゆくような感覚です。

第二楽章はMolto allegroで、第一楽章を否定してしまうようにも聞こえるので私は最初はあまり好きではなかったのですが、何度も聞き返すうちに、実はこの楽章は、この曲の白眉である第三楽章に至るまでに必要な行程というか対比ではないかと思い始めて好きになりました。

そして第三楽章。これは冒頭からまさに心が満たされます。とにかく美しい。しかし決して音楽が膨張せずに弱音のままひたすらに流れて、移ろってゆきます。心が空間に解放される予感に満ちています。第四楽章は、その予感を受けての全面的な解放の楽章です後期ブルックナーの緩徐楽章に匹敵する楽章ではないかと私個人は思っています(といってもフォルテシモはない)。しみじみと終わる名曲だと思います。

と、ここまで書いたら止められなくなって、シャワーを浴びた後の今聴いているのがString Quintet, String Quartets 1 & 2 (Ondine)。だいたい、中世ルネッサンスを中心に声楽作品を集めるつもりだった私の方針転換させたのがこのCD。何度も同じ表現を使って恐縮ですが、「漂うような(不協)和音の美しさ」には独特の魅力があります。また弦楽五重奏、四重奏作品だからそれこそ"texture"が際立って美しいです。今もっているRautavaaraの作品(以上紹介したので全て)の中では一番好きなCDなのかもしれません。

いつものように思い込みたっぷり、軽薄な理解(誤解)丸出しで書きました。途中シャワー休憩があったとはいえ、連続してCDを聴くとさすがに少し疲れた。しかしこうやって音楽のことを考えながら部屋でCDに耳を傾けることは私のストレス解消法の一つです。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

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(1999/6/28)エリザベト音楽大学定期演奏会でドボルザークの交響曲第8番を聴きました。私は同曲のCDも持っているのでそれなりに聞いたことがあったのですが、こんなにいい曲だとは知りませんでした。まさに快演でした。

第一楽章から音がきれいで、かつ指揮者の渡邊一正さんがオケのテンポを掌握し、ドボルザークが「凄い」交響曲作者であったことを示します。私はこの第一楽章のアレグロ・コン・ブリオで演奏にのめり込んでしまいました。複数の動機が変幻自在のようなテンポで展開されてゆく様子は聴いていて本当に痛快でした。第二楽章のアダージョも単なる休止代わりの緩徐楽章ではなく、パンフレットの表現をそのまま借りるなら「独創性に満ちた」楽章で、前半と後半のコントラストも楽しませてくれました。第三楽章はいわゆるスラブ風のワルツで、いわゆるドボルザークらしい楽章です。でも第一楽章の「発見」に興奮していた私は「こんなのもいいけど、第一楽章みたいなのをもう一度聴きたいな」と思っておりました。するとトランペットが高らかに独奏しまして第四楽章が始まります。第四楽章は、第一楽章が第三楽章の良さを受け継いで発展したようでこれまたいい。テンポの変化がまた良くて、あたかもサッカー選手が、足をもつらせることもなく、それといってただひたすら大きく強引な動きをするわけでもなく、複雑なステップを絶妙な緩急の変化でもって的確に踏み分け、見事としかいいようがないドリブルワークで走り抜けるように、指揮者はオーケストラを疾走させてゆきますおなじみの最後の金管の咆哮もグルングルンくるようで凄かった。トロンボーン、ホルン、チューバの金管は本当によかったです。

最後の拍手も凄い熱気でした。席を立つ聴衆の顔も上気しています。出口である若い女性が友達に冗談めかしながらも「いや〜しばし浮世の憂さを忘れて、音楽を堪能させてもらったわ」等といっておりましたが、私も全く同感。「そういえば」と思い起こすまで、私にも私なりの人生の憂さがあることをすっかり忘れておりました。

第55回の定期演奏会は11月8日に広島郵便貯金ホールで、題目はベートーベンの荘厳ミサ曲。これも聴きに行きたいです。

追記:翌日、同曲をCDで何度も繰り返して聞きました。「なるほどここはこんな展開だったのか」と分析的に聴くことはできましたが、やはりなんといってもライブの感動は再現できません。音響的な意味だけでなく、指揮者とオケと観客がドキドキしながら作り上げてゆくあの感覚はやはりライブでしか味わえません。それから指揮の渡邊一正さんのタクトは、後ろから見ていても、彼がオケに何をさせたいのかがよくわかるようで、本当に説得力がありました。ライブはやっぱりいいなあ(注)

(注)保留条件:(1)演奏がいい、(2)チケットが安い(^^;)。

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(1999/6/13)6月6日にヴォーカル・アンサンブル カペラのコンサート『御聖体の祭日のミサ』へ行ってきました。実際の教会の中で典礼の形でコンサートを行うというだけでなく、当時のアンサンブル形式で歌うという点でもこのグループはユニークです。もちろん演奏の質もとても高い。ジョスカン・デ・プレやデュファイなどの作品が歌われましたが、教会の後方の二階席で歌われるため、聴衆である私たちは自然とプログラムノートの歌詞に目をやってしまいます。圧倒的な美しさでQuod non capis, quod non vides, animosa firmat fides, praeter rerum ordinem(「あなたの理解しがたいこと、見えないことを、生きている信仰が保証する、道理にかなわないことであっても」)やCredo in unum Deum, Patrem omnipotentem, factorem caeli et terrae, visibilium et invisiblium(「われは唯一の神、全能の父、天地とすべて見ゆるものと見えざるものの造り主を信ず」)などと歌われますと、特定の宗教を信じない私でさえもグラリときます。毎週、こんなミサを受けていたらどうなるだろうと本当のところ思いました。

休憩時間には会場であるカトリック教会の司祭がフランシスコ・ザビエルの布教のための大航海のことを解説しましたが、上のような超越的な信仰をもつと人間はどれだけのことをやりうるか、ということを再確認する思いでした。超越的概念は人類にとっての大きな力です。それだけにその乱用・悪用に対しては厳しくあらねばとも思わされました。

このコンサートを一緒に聴いたのは下でも触れた前任校のP先生。彼の意見は「音楽はバッハが頂上」。彼は哲学が好きだから「音楽におけるバッハは、哲学におけるカントのようなもの?」と水を向けると「いやいやバッハの偉大さはカントの偉大さ以上だ!」と断言します。彼の持論は「ヨーロッパ文明のピークは科学と民主主義が結晶した18世紀」というもの。19世紀は民族主義や植民地主義、産業革命などの暴走で20世紀の世界大戦を準備してしまったし、20世紀は全体主義という怪物を許してしまった、というのが彼の意見です(もっとも彼の意見には「アメリカはそのヨーロッパの最上の部分だけを持って独立し、その文明を発展させた」というお国自慢というオチがついているのですが、それはさておいて)。彼の意見はバッハ以降の音楽は、モーツアルトを例外としては、下降の一線をたどるばかりというもの。もっとも「私は20世紀音楽は結構好きだ。まあ自分はロマン派音楽を先入観であまり聴いていないというだけなのかもしれないけれど」と留保は付け加えていましたが。

その週末(6/12)私は一人でアルシェ弦楽四重奏団のコンサートに行ってきました(会場は広島県民文化センター)。第一曲目はハイドンの第63番「ひばり」。最初の音が出た瞬間から「やっぱりハイドンはいいなあ」と思わされます。仮にニーチェの『悲劇の誕生』に出てきた概念を拝借して、バッハに代表される音楽を「アポロン」的、ロマン派音楽を「ディオニソス」的と名付けますと、ハイドンやモーツアルトは「アポロン」的要素と「ディオニソス」的要素がうまくバランスされた中庸の美徳の音楽なのかなとも思いました。この良さをわかりつつも、人格的にとかく極端から極端へ走りやすい私などは、ハイドンやモーツアルトを心底から愛することもないまま人生を終えるのかな、とさえも思いをはしらせてしまいました。

第二曲目はショスタコーヴィッチの第8番。実はこの曲が私は目当てでした。曲が始まってしばらくすると、心無しか、ハイドンの演奏で醸成された会場の一体感が消えたようにも感じられました。ショスタコーヴィッチの音楽は私たちの日常感覚とまったく別な世界をつくりあげてしまったからです-----「異様な世界」とまでは言わないにしても。「ロマン」という言葉も、「情念」という言葉も、「激情」という言葉も、「痛切」という言葉も、どんな言葉も突き抜けて、あざわらうことすらせずに言葉を否定してしまう音楽の力をもった曲だと思います。この意味でショスタコーヴィッチの音楽が「絶対音楽」だというのは当たっていると思います。"Words are too imprecise for music"という警句を思い出してしまいました。「ハイドンの予定調和の世界から、えらいところまでつれてこられたなあ」というのが当惑を楽しみながら音楽を聴いている私の気持ちでした。観念的な読み込みに過ぎないのかもしれませんが、基本的にはフランス革命以前の時代感覚のハイドンと、全体主義という恐怖の日常化を毎日としていたショスタコーヴィッチでは、音楽が全く違っても当然かなと思いました。

第三曲目はボロディンの第2番。休憩をはさんだにもかかわらず、ハイドンからショスタコーヴィッチへの落差をまだひきずっていた私は最初はあまり集中できませんでしたが、第2楽章ぐらいからいわゆる「合奏」の音の美しさに共感できるようになってきました。第4楽章では曲は単なる「合奏」とはいえないちょっとした反乱を示したようで、最後はそれなりに楽しみました。

アンコールはベートーベンの第13番の緩徐楽章。これは絶妙だった。弦楽四重奏に関してはやはりベートーベンが最高かなとも思いましたが、こんなに音楽に序列をつけたがる自分という人間はどんな人間なんだろう。

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(1999/6/6)昨日、広島バッハソロイスツの第一回チャペルコンサートへ行ってきました。よかった。本当によかった。

一曲目はJ.S.バッハのカンタータ(BWV196)。弦とオルガンと人声による演奏でしたが、最初の声が出たときから小声で快哉を叫びたくなるぐらいでした(私が連れてきた人----彼は大学時代合唱団でバッハやシュッツも歌っているし、作曲法の講義を一年間受けている-----も同じ意見でした)。ホールの高さがうまく働いて、直接音と間接音が合わさって、ピンポイントで音源を特定できないぐらいに適度に前方の空間全体から音が出て、まずはその音の出方から、ステレオで聴いてばかりいる私の日頃の音楽体験にはあまりないものでしたから心地よく始まりました。

二曲目はH.パーセルのモテット(Z.135)。オルガンと人声です。弦楽器が退場した人声曲というのもなかなかいいものです。でも圧巻は三曲目のアカペラによるG. AllegriのMiserere mei Deus。これは最初から最後まで最高でした。私は何かとメモをとる習慣があり、このコンサートでもメモをとっていたのですが、この曲の時だけはとりたくなかったし、またとろうとしてもとれなかったでしょう。教会前方のステージと後方の上部から5声、4声、9声に別れての合唱をエコーのかかった教会で聴くことは、体の内と外から音楽に充たされるような経験でした。毎日の過酷な自然環境での労働と劣悪な社会/人間関係に苦しめられる中世の人間が----安直な中世のイメージだなあ(^^;;)----こんな音楽をいきなり聴いたら腰を抜かしてしまい入信でも改宗でも何でもしてしまいそうだなあ、というのが私の馬鹿な感想です

実際、パンフレットによりますと、この曲は「復活祭に先立つ聖週間の水曜日から金曜日にかけてシスティナ礼拝堂で執り行われる典礼でしか聞くことができ」ない秘曲だそうです。でも14歳のモーツアルトは、ローマ訪問中に「この秘曲を聞きに出かけ、宿に戻ると早速、記憶を頼りに全曲をほぼ完全に書き写してしまった」というのですから、曲の素晴しさとモーツアルトの天才さがわかって、二度びっくりでした。

こんな曲の演奏なんかはまずオーディオでは再生不可能です。「絶対」と言ってもいいぐらい。でもこのコンサート体験を少しでも思い出すためにもこの曲のCDは欲しいなあ。

休憩をはさんだ後の四曲目はG.Ph.テレマンによるヴィオラと弦楽オーケストラのための協奏曲ト長調。声楽の大曲を聴いた後に、弦楽だけの演奏がことさらに美しく響きました(アレグリの作品の後に声楽をもってきたら大変だったろうなあ、と思います)。適度な潤いと響きがホールを充たします(この程度の編成がこの聖ラファエル教会では丁度いいのかもしれません)。とにかく音がいいのが、この広島バッハソロイスツの特徴と私は勝手に考えているのですが、この曲や前の曲では特にそれを感じました。ヴィオラもよかったけれど私は意外にチェロとオルガンの息の合った伴奏がよかった。

5曲目は管楽器も加わってのJ.S.バッハのカンタータ(BWV125)。最後を締めくくるにふさわしい曲でした。バッハ以前の音楽の澄みきった美しさにはかけがえのないものがあるのですが、やはりバッハは聴いた瞬間(といっても私の場合パンフレットでバッハの曲であることを既に知っているのだから、これは単なる先入観かもしれない)音の厚みを感じて「いいなあ」と思ってしまいます。音の厚さといってもブラームスのような「分厚さ」とも違った「音楽の安定感」といった感じです。このあたり音楽学を知っていればきちんと説明できるのでしょうが、私は我流で聴いているだけですから、このような一人よがりな表現しかできません。

それにしてもいいコンサートでした。これで500円なんてとても信じられない。次回のコンサートは1999年9月23日(祝)16:00からエリザベト音楽大学セシリアホールで。ホームページはここ。音楽を愛する全ての人に心からお勧めします。

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(1999/6/5)日本テレビ系の番組で「心から愛しなさい----PMFの素顔と舞台裏」というのを見ました。バーンスタインさんが始めた、全世界からの若者を集めてのPMFオーケストラの練習風景を描いたドキュメンタリーでした。バーンスタインさんも色々と複雑な人みたいだったけど、晩年の努力を若者の教育に注いだことは本当によかったことではないかと私も思います。

番組ではマイケル・ティルソン・トーマスさんやエッシェンバッハさんがオーケストラの指導をしていました。彼等の指導方針は、佐渡裕さんが要約していたように「楽譜に単に書かれているとおりだけけでなく、その裏をも読み取り演奏すること」でした。もっとも「ある意味でそれが楽譜通りに演奏することなんですけど」と佐渡さんは付け加えていましたが。

マイケル・ティルソン・トーマスさんも「個性が大切だ。ニュアンスを出そう。今のような演奏ではその他多くの他のオーケストラと同じになってしまう」と若者を挑発・激励していました。エッシェンバッハさんも各パートごとのテンポを少しずつ調整したりして、演奏する曲から可能な限りのニュアンスを引き出そうとしていました。多彩さと可能性を限りなく汲み出すことが彼等の仕事だと要約できるのかもしれません。曲の細部のそれぞれの個性を、指揮者、演奏者それぞれの個性でもって、限りなく発見し表現することによって、作曲者(の魂)も指揮者も演奏者も聴衆も一つになります。

いや「一つになる」という表現はふさわしくない。「連帯する」?。いやこれはなんだか政治的なニオイがぷんぷんしてしまう。「つながる」でしょうか。個性を求める中で人はつながることができる、と表現するべきでしょうか

私は(英語)教育について考えることを仕事としていますが、現在「随想」ではウィトゲンシュタインさんの「比較の対象」という概念から、「教育」と「科学」、ひいては「科学」と「工学」を対照して考えようとしています。対照することによって、あたかもそれらが対立的・相互排他的概念であるように思われてしまっては、私のこの方法も逆効果なのでしょうが、対照によってこれらの違いを知ることでわかってくることもあるのではないかと思います。

今回のこのオーケストラの営みは「芸術」の試み。フェアな記述ではないかもしれませんが、「科学」を一般化・抽象化・普遍化の試みと規定し、「芸術」を個性化・表現化・多彩化----ちょっと変な日本語だな----の試みと規定するなら、「教育」はどちらを志向する試みであるべきでしょう。「両方」というのが答えなんだろうけれど、現在の教育は両方を志向しているかどうか考え直してみてもいいのではないでしょうか。

英語教育は芸術の試みに学ぶものが沢山あるというのが私個人の考えです。(注)

それにしても指揮をするエッシェンバッハさんの表情はとても真摯だった。あんな顔を前にして気の抜いた演奏なんてできないだろうな、と思わされました。私を含めた英語教師は授業をする時どんな顔をしているんだろうとふと思いました。

(注)必ずしも適切ではないのですが、最近私が強く感じている例を一つだけ出しますなら、大学生・大学院生の読解能力の貧困さ(これは日本語英語を問わない)。文字通りの情報を検索したり収集したりする能力はあるんだろうけど(それでもパソコンにははるか及ばない)、表現の裏というか、行間というか、作者が書こうとしていたが書き尽くせなかったであろうことを読むことが非常に下手なようにも思います。まあ、私も若い頃は年長者にそう思われていたのかもしれませんが。

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(1999/5/30)「流れるような、漂うような、美しい音楽が聴きたい。できれば声楽作品で」というのが最近の気持ちで、5月分の小遣いもほぼ全額その系統のCDに消えてしまいました(ボーナスではもっとまとめ買いするぞ!)。

でもその中で、人間の声のない弦楽作品でありながら、意外になぜか気にとまったり、心に残ったりする作曲家の作品があります。前にも少し書いたフィンランドの現代作曲家ラウタヴァーラもそうだし(彼の弦楽四重奏作品集もよかった。90年代はもちろんのこと、50年代の作品も適度にメロディックで、かつ(不協)和音が漂うように浮かんできて美しい作品となっている。レーベルはONDINE)、今回書きたいヴォーン・ウイリアムスもそう。

ヴォーン・ウイリアムスは私はほとんど聴いたこともなかったし関心もあまりなかったのですが、この間私の前任校の広島修道大学の元教え子がコンサートマスターをやっている広島市民オーケストラのコンサートを聴きにいったらヴォーン・ウイリアムスの小品が最後のアンコールで流れて、以来それが妙に私の心を捉えてしまいました。

そんな時、前にも書いた「ノルディックサウンド広島」というCD屋に行って、そこで知り合った人と話していると(ちなみに彼はある音楽大学のチューバ専攻生。このCD屋では他にも広島バッハソロイスツの人と知り合いになれたりするので、音楽の素養がないのに音楽が好きな私としては嬉しい限りです)、ヴォーン・ウイリアムスの話が出て、すかさず私が「一番のお勧めは?」と聞くと、「交響曲第5番でしょうか。CDならアンドレ・プレヴィンとLSOの演奏のやつ(RCA)」という答えが返ってきました。その方は「実はこの答えには裏があって、このCDにはめずらしいチューバ協奏曲が入っているんですよ」とつけ加えてくれたのですが「でも演奏もいいですよ」とフォロー。これも何かの縁だと思ってノルディックサウンド広島からの帰り、タワーレコードで同曲のCDを買いました。

この曲は全体を通してひたすら、ゆるゆる、うねうね、ゆらりゆらり、ぬるぬると進んでゆきます(それでいてハーモニーだけでなくメロディーの美しさもある)。クラシック音楽を聞き始めてベートーベンこそは音楽の理想と信じて疑わなかったころは、こんな音楽は許せないというか、全然耳に入らなくて、ドビュッシーの管弦楽なんぞ聞くと必ずといっていいほどパブロフの犬よろしく寝入ってしまったものですが、その頃に比べて大分体力も落ちて仕事に疲れるようになってきた最近は、このような音楽のよさがしみじみとわかるようになってきました。まさに音の流れに包まれるようにして聴く音楽で、読書をしながらよく音楽を聴く私としては、これこそ究極の「ながら音楽」とも思えてしまうんだけれど、なぜか読書する目がいつの間にか本から離れて、音の流れにただ心身を委ねてしまい、時にある和音の美しさに、はっとさせられてしまいます。体力気力が充実しきっている人は無理して聴かなくていいから(そんな人はZinmannによるベートーベン交響曲全集でも聴こう。全集で3000円前後で、演奏も録音もいい!)、「登るだけが登山ではない」と思い始めた人はどうぞ聴いてみてください。

山のたとえがでましたので、いつもながらの偏見丸出しで書きますと、音楽史上の頂上はやはりバッハ、ベートーベンとワーグナーだと思います。それまでの音楽のメロディーの美しさを残しながらも音楽の構造的な凝縮を行けるところまで押し進めていったのがバッハ(例としてミサ曲ロ短調)。おそらくそれ以降に彼の形式で音楽を発展させることはできなくなったのではないでしょうか。その後音楽形式の継承者としてのソナタ形式による主題の展開という形での音楽を極めつつ、人間(近代人)の情念という新しい要素を音楽に盛り込んだのがベートーベン(例として交響曲第5番)。彼以降はおそらくソナタ形式でやれることも限られてしまったところに、主題をドラマの登場人物と共に思い出したように繰り返し繰り返し継承していくという形式を生みだし、かつそれまでの音楽遺産である調性を限界まで押し進めてしまったワーグナー(例として指輪およびトリスタンとイゾルデ)。彼等三人は(私の偏見の中では)音楽の三頂上で、彼等の形式を超えようとすると音楽でなくなってしまう。これは想像ですがバッハ以上に複雑でかつ美しい音楽はかけないと思うし、ベートーベンより構成的でかつ美しい音楽も非常に困難だと思う。また、ワーグナーのトリスタンとイゾルデ前奏曲よりも調性を破壊したら頭の痛くなるような音楽にしかならないとは言えないでしょうか(例、20世紀前半の一部の作品)。彼等は音楽(形式)の限界を極めたように思います。

ですが、山の頂上が必ずしも最上の風景をもたらしてくれるとは限らないように、頂上へ至る道すがらにも、頂上と頂上の間にも、いや頂上から降りる道すがらにも美しい眺めを見せる場所はあります。確かにバッハ以前の音楽は「単純」かもしれないけれど(逆に言えばバッハこそがムツカシスギルのだ!?)、今回買ったバードやジョスカン・デ・プレの宗教音楽はひたすら吸い込まれるように、どこか遠いところへ連れていかれるように(オイオイ、少しアブナイぞ)美しいし(演奏はタリス・スカラーズ、レーベルはGimell。これなら間違いない)、バッハとベートーベンの間にあるモーツアルトはまさに絶妙の眺めを示しているだといえるでしょう。ベートーベンとワーグナーの間のブラームスやブルックナーは(今この瞬間こそはあまり聴きたいとも思わないけれど)私が大好きな地点です。ワーグナー以降も、例えばこのヴォーン・ウイリアムスみたいもあれば佳景もあれば、前にも少しだけ触れたJohn Tavener(Eternity's Sunrise/Harmonia Mundi)のような、いつか来たことがあるようにも思えるけれど確実に異なっている美しい眺めのような音楽もあります。頂上は頂上だけれど、頂上だけが山ではない。

私の上の解釈は間違っているかもしれませんが、音楽の歴史を考えながら音楽を聴くというのも楽しいものだと思います。その点で今回市立図書館から借りてきた『キリスト教音楽名曲CD100選』(川端純四郎他、日本基督教団出版局、本体価格1942円)は、他のあまたある類書に比べてもよかった。「宗教音楽を取りのぞいたらヨーロッパ音楽のレパートリーは半減するのではないでしょうか」といいつつキリスト教音楽を中心に古代から現代までをコンパクトにまとめた同書は、作曲家同士の影響関係や社会的背景も的確におさえていい意味で啓蒙的です(私もこの本は買おうと思います。最近は小遣いが少ないだけに本を見る目が厳しくなりましたがこの本はいい)。私はバロック以前の音楽に疎いのでこのようないいガイドに導かれつつ自分の音楽の世界を少しずつ広げ、深めてゆこうと思います。

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