音楽

私は何の楽器の演奏もできませんし、楽譜も読めませんが、音楽抜きの人生は今では考えられません。このコーナーでは折にふれて音楽について考えたことを書き連ねてゆきます。英語教育とは全く関係のない完全な趣味のページです。ひとりよがりの主観的な独白ですし、誤りも多いと思いますので音楽に詳しい方、専門家の方、どうぞ笑いながら読んでください。「素人はこのような誤解をする」という見本としてご覧いただければ幸いです(ただしもしあまりひどい間違いがあれば掲示板音感か柳瀬の個人アドレスまでお知らせください)。



音楽に関する個人的な感想は
ブログ(http://yosukeyanase-music.cocolog-nifty.com/
に移行しました(2006/7/12)




NHK FM放送を潰すな!

(2006/6/7より掲載)



 私は6月3日に新聞報道で、竹中平蔵総務大臣のもと、
総務省に設けられた「通信・放送の在り方に関する懇談会」が、
NHK FM放送の廃止を検討していることを知り、激しい怒りを感じました。
以来、私のホームページを使って、私の意見表明をしています。

同懇談会は6月6日の最終報告書でも
「民間のFM放送や音楽配信サービスが普及している現状では、
多彩な音楽番組の提供という公共放送としての役割は既に終えたものと考えられる」
としてNHK FMラジオ放送の削減を提言しています。

私はNHK FM削減案に断固反対します。

ここにはこの問題に関して私がホームページに掲載したすべての文章を
記録と皆さんへの行動喚起のためにコピーして掲載しておきます。
 なお同懇談会の最終報告書などは、総務省ホームページ
http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/policyreports/chousa/tsushin_hosou/index.html
からダウンロードできます。

同懇談会は6月1日の第13回会合ではAM第二放送の削減も提言していましたが、
多くの反対にあったようで、6月6日の最終報告書ではその削減案を撤回しています。

ですがFM放送に関しては最終報告書でも会見でも削減を明言しています。

NHK FMは廃止の危機にあります。

国民が真剣に反対すれば政治は変えることができます。

音楽ファンの皆さん、あなたは公共FM音楽放送がない国に住みたいですか?

このままではNHK FM放送という音楽文化が潰されてしまいます。

ぜひあなたにとってのベストの方法でFM放送削減などという愚案に反対意見を表明してください。

あなたがホームページやブログをお持ちならぜひ反対意見を表明してください。
そしてどんどん相互リンクをはりましょう。一種のネット署名運動です。
(このページ/ホームページはリンクフリー・コピーフリーです。どんどん使ってください)
ミクシィのコミュニティでも問題提起してください。
あるいは、あなたのメールの末尾自動署名にこの問題のことを書いてください。

考えられる全ての適切で効果的な方法で反対運動を起こしましょう。




追伸(2006/6/13)
以下、たくさんのリンクをはっておりましたが、一部に重大なリンクミスがありました。
善意の通報により、その間違いに気がつき訂正しました。
もし修正するべきリンクや追加すべきリンクなどございましたら、
掲示板「音感」(←2006/7/12にブログへ移行しました)か、
柳瀬の個人メールにお知らせくださればありがたい限りです。
「公共FM音楽放送(NHK-FM)を守れ!」という一点で大同団結できればと思います。
皆様のご協力をお願いします。



受信料義務化なら、信任投票を定期的に実施せよ!(2006/6/28)

ダイコクブログさんが、私の掲示板「音感」に以下のように書いていただきましたhttp://daikokukinkin.blog59.fc2.com/blog-entry-43.html もご覧ください)

とりあえずNHK-FM廃止の方針は外されたようですが、今回の答申では竹中答申のもうひとつの柱であった「受信料義務化」の方針は残されています。私は、いろんな意味でそっちの方が問題は多いと思っています。「義務化したら税金といっしょじゃん!」という感じですね。

私は今回、とにかくNHK-FM削減阻止の一点突破だけで行動していましたが、確かにそうかと思います。
仮に受信料を義務化するのなら、せめて我々視聴者には選挙権を与えるべきかと考えます。NHKが独立した選挙管理委員会を設置し、定期的に(一年か二年に一度)信任投票を実施するわけです。投票内容は、会長の信任、各チャンネルの評価(五段階評価など)の簡単なものにし、それはハガキで実施(注)。その投票結果は当然公開する。不信任になった会長は辞任。低い評価を受けたチャンネルは改善案を出さなければならない。と同時に、選挙期間は、意見聴取キャンペーンをはかり、自由記述意見投稿をネットを含むいろいろな媒体で受け付ける。それについても必ずNHKは総括をする。
こうして選挙と意見聴取を制度化するならば、私は受信料義務化も認めます。いや、積極的に支持すらするかもしれません。
一種の「代表なくして租税なし」です(ちょっと違いますが)。
現状は私のように受信料は、自動引き落としとなっている人も多いかと思います。これは便利なようでいて、「公共放送は視聴者が作り上げるもの」という意識を薄めてしまいます(日本の徴税にも同じ問題があります)。これがさらになし崩し的に受信料義務化となれば、悪く言うなら視聴者・市民は、金だけ取られて、場合によっては質の低い番組ばかりを提供されることになります。あるいは一部の権力者に都合のよい番組ばかりを見せられる・聞かされることになります。
これでは公共放送ではない。公共性のある放送とはいえない。
公共性とは、徴税・受信料義務化によって生じるのではありません。
公共性は、開かれたコミュニケーションと、そのコミュニケーションを何らかの具体的な形にする制度によって築かれます。
NHKを真の公共放送とするため私たちは知恵を出し合うべきかと思います。

(注)後で思いついたのですが、デジタル放送ならその機能を使って簡単に投票ができるじゃないですか!(2006/7/10)



NHK-FM削減問題:私の中間的総括 (2006/6/25)

6月23日の朝刊各紙は、竹中平蔵氏の懇談会が主張していたNHK-FMの削減案が見送られることを報道しました(詳しくは後述)。予断はまだまだ許されませんが、唯一の公共音楽放送の廃止という最悪のシナリオはとりあえず回避できたのではないかと思います。ここでは今回の騒動で私なりに考えたことを総括してみようと思います。


マルチチュードの戦い

仮にNHK-FM削減案が広く知らされたのが、6月6日の最終報告書が報道された6月7日だとして、さらにこの削減案がとりあえず見送られたのが仮に6月22日だとしますと(これも詳しくは後述)、これはわずか16日間の出来事でした。削減案が削減見送り案に変わった原因が何なのか、それが竹中氏と自民党や公明党などの単なる取引なのか、それとも私たちの反対運動が少しでもその原因の一部にでもなったのかは判断できませんが、ここではとりあえず私たちの反対運動が一定の効果をもったと仮定しておきましょう。
あくまでもその仮定に基づいての話ですが、私たちの反対運動が一定の成果を得ることができたのには、私たちが極めて短期間に集結できたことが大きいでしょう。私はNHK-FM削減案を聞いたときに一人憤慨しました。とはいえ、この憤慨は多くの人に共有されるのだろうかという漠然とした不安はありました。そこでブログを運営している友人にメールを送りましたところ、その友人も反対の意を示してくれて私のホームページにもリンクをはってくれました。やがてそのブログにはトラックバックがはられていることに気づき、私はそのトラックバックをたどり、次々にNHK-FM削減反対の声を上げる仲間を見つけることができました。私はそれらのブログに次々にリンクをはりました。ブログの中には、同じように積極的にトラックバックをしているブログもありましたので、私はそのトラックバックは最大限活かしました。もちろんグーグルも使いましたし、ブログ専用検索エンジンも使いました(私はこのエンジンも、たまたまネットサーフィンで知ったものです)。ミクシィも使いました。私のホームページも、検索にかかりやすいように細かな工夫を重ねたりしました。またそれよりも何よりも多くの方が私のホームページにリンクをはってくださいました。その結果「NHK FM 削減」などといった検索語でも私のホームページはグーグルのトップ10内に入るようになりました(6月の中旬ぐらいからです)。
これらの連帯はわずか2週間程度で形成されたものです。このつながりはNHK-FM削減反対という一点ではつながっていますが、音楽の好みも様々です(中には音楽ではなくラジオドラマファンの人もいました)。住んでいる地域や職業も様々です。性別の偏りもありませんし、年齢も様々です。これらのうち、私は実名を知る人は一人しかいません。このネットワークは、地縁・学縁などとはまったく無関係に、急速に形成され、そして大部分はお互いに深く知り合うこともなく、やがてはほとんどが疎遠になるはずの一時的なつながりです。しかしこのつながりこそが今回の反対運動において強力なpowerを発揮したのです。
このようにInformation Communication Technologyによって、迅速に結びつき、それぞれ多様に言動をしながら、大きくは一つの流れになってゆく、「多」であり「一」である人びとのつながりを私は「マルチチュード」と呼びたい誘惑にかられます(cf http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060425)。「マルチチュード」とは、多種多様な人間が一つにつながっている様を表す言葉です。この16日間の多種多様な人間の連帯はマルチチュード的な運動であったとは言えないでしょうか。少なくとも、こういった反対運動は、旧来の通信メディアや党派的団結では不可能だったように思います。旧来型の反対運動は、あまりにも時間がかかり、また固定的なので、今回のように迅速な行動が取れません。私は今回の運動を、一つのマルチチュードの運動の小さな成功例と考えたく思います。


活動の喜び

私はNHK-FMを一種の友人と考えていますから、その友人が抹殺されようとしていると知ったときには、純粋に怒りました。しかしその怒りを様々な行動に移すには、若干のためらいを克服する必要がありました。ご承知のように、日本の伝統的な文化では言挙げする人は、物事をわきまえない人として忌避されがちです(少なくとも私たちの多くはそう信じています)。そういった価値観を払拭できていない私は、全ての政党、購読している新聞、リンク願いのブロク、入ったばかりのミクシィ・コミュニティ、ひいては竹中平蔵氏のブログなどに書き込みをする度ごとに、少々の抵抗を感じていました。ですが同時に、そのような発言を重ね、その中で、様々な人の意見を知り、それにより自分の発言が進化してゆき、また多くの人にも聞き入れられているような気配を感じるうちに、この活動に喜びすら感じ始めました。
この反対運動は、仕事が非常に忙しい時期に行なわざるを得なかったので、体力的にはきつかったです。私は連日のように午前様となりました。ですが、私の中の不思議な高揚感は、私の体力を通常以上に強めてくれました。不謹慎と思われてもいやだし、政治屋と思われたくもありませんでしたから私は黙っていましたが、実は私は、運動の中に身を委ねることの喜びを感じていたのです。
「マルチチュード」のように本で学んだことをすぐに現実世界の出来事に結びつけようとする癖を持つ私は、これをアレントの「活動」(action)と呼びたくなります(cf http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418)。「活動」とは、公共空間の中で自分がどんな人間であるかを明らかにする営みです。これは生物学的生存のための「労働」(labor)とも、合理的生産のための「仕事」(work)とも異なりますが、人間に固有の一つの営みのジャンルなのです。「活動」は、一銭にもなりませんが、古来人間はこの「活動」を繰り返し、共同体・社会・国家を作り、民主主義を成熟させてきたのです。
読書会でアレントを一緒に読んでいる時に、私のアメリカ人の友人は「日本人は、政治の喜びを知らない。日本人は政治を汚い密室内の出来事だと思い込んでいるが、本来、政治とは開放的で高貴なものであり、それは純粋な人間的喜びなのだ」と繰り返して言っていました。アレントの本を読んで私はその友人の言うことはわかりましたが、今回の反対運動ではそのことを私は実感しました。「活動」、あるいはその典型例としての政治とは人間的な喜びなのです。
決して我意を通そうとするのではなく(それは「仕事」的な考え方です)、自らの意見を、公共空間にさらすわけです。そして共同体をよりよきものにしようとします(今回の場合は共同体の崩壊を防ごうとしました)。私は今回、日頃の自分の領域(英語教育)を離れました。つまりは「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がどんな人間であるかを示し、自分自身を開示しさらけ出す」ことを行ったわけです。その開示の結果がどのようになるのか私は確信が持てませんでしたが、小さな勇気を出して、それを行ないました。また多くの人が私と同じように、あるいは私以上に勇気を出して自己開示を行ないました。皆がそれぞれに日本の音楽共同体のことを考えました。その結果、私たちは「活力」(power)を得ました。以下は、上述の拙論からの引用です。

活動が行なわれる空間には活力(power)が見られる。この活力こそが行為し語る人間にとってのリアリティの場である公的領域(public realm)を成立させるものである。活力は、「強制力(force)や個人的力量(strength)のような、不変の、測定可能な信頼できる実体ではなく、人々が共に行為する時に生じ、人々が離散すると同時に消え去る」ものであるにすぎないが、その特殊性ゆえに、物質的要因では説明しがたい驚くべき力を時に発する。人間的・政治的には少数の者の活力が、多数派の強制力や力量の集積をしのぐことは珍しくはない。「いかなる理由であれ、自らを孤立させ共生(being together)に加わることない者はどんな者も、どれだけ個人的力量を持ち、孤立の理由がどんなに妥当なものであっても、活力を喪失し無力になる」とアレントは総括する。人は他人と共生する公的領域における語りと活動において活力という人間的力を手に入れる。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418

今回、私たちの反対運動が、NHK-FM削減案を抑止できたのだとしたら、それは私たちが持っていた法的な強制力(force)や、財力や肩書きなどの個人的力量(strength)によったのではなく、上のように「活動」としての語り合いの中にのみ立ち現れる「活力」(power)によったのです。私は自分の論文では、わかりやすさを最優先して、この"power"を「活力」と訳していますが、この語は通常は「権力」と訳されています。そうです。「活力」こそが「権力」となる社会、これこそが民主主義なのです。



民主主義を支えるのは何か


「民主主義を支えているのは税金と投票だ」というのは一つの答え方ですが、私は今回の活動を感じて、納税と投票は民主主義を支える行動としては粗すぎるし、遅すぎると思うようになりました。納税は民主主義の前提ではありますが、現代先進国においてより重要なのは、納税よりも、税金の使い方を決定する政治的判断です。そして政治的判断は今回のように極めて短期間になされることもあります。数年に一度といった選挙での投票では遅すぎるのです。
私たちはもっと各政党に自らの意見を伝えるべきでしょう。私たちこそが主権者です。政治家・政党とは私たちの意思を調整しながら実現するエージェントに過ぎません。新聞にもテレビ・ラジオにももっと私たちの個別の具体的な意見を伝えるべきでしょう。意見をゴリ押しするのではありません。意見を明確に伝え、そしてあなたが自らの意見がきちんと聞かれることを望むことのと同じように、あなたも他人の意見に耳を傾けるわけです。幸い、現在はInformation Communication Technologyによってそういった意見表明(つまりは「活動」であり、民主主義の実践)が容易にできます。民主主義の前提条件は整っています。日本において民主主義を徹底するのは、私たちのコミュニケーションの実践なのです。
私が今回の問題の報道を比較する中で、偶然読んだ産経新聞のあるエッセイは次のように言っていました。

よく国が悪いとか政府が悪いといって、国と国民を別物のように考えている人がいるが、そういう人は主権在民意識のない人で、自らが愛するに値する国づくりに積極的に参加しようとしない政治的ニートなのである。(森隆夫 お茶の水女子大学名誉教授「正論 情と論理の間をさまよう愛国心論争」産経新聞2006年6月23日

民主主義を支えているのは、国民同士、そして国民と政府・国家との絶えざるコミュニケーションです。選挙投票というのはその日常的コミュニケーションの総括に過ぎません。納税も民主主義の前提にすぎません。コミュニケーションを大切にすることこそ民主主義の本質とはいえませんでしょうか。
同じように、NHKを支えているのも受信料というよりは、視聴者とNHKとのコミュニケーションです。受信料も、受信料の強制もNHKを公共放送にはしません。私たちが絶えず声を届け、NHKが常にそれを真摯に受け入れるかぎりにおいてNHKは真の公共放送になるのです。現在、政治家がNHKに声を届けるほどには、一般視聴者はNHKに声を届けていないようにも思えます。私たちはNHKに対してもっと声を上げましょう。そうしてNHKが公共放送らしくなれば、それだけ日本の民主主義も成熟してゆきます。



残された課題

(1)NHKの諸問題
話がNHKのことに及びましたが、今回、仮にNHK-FMの削減が見送られたとしても、NHKを巡る問題は解決していません。たまたま上述の産経新聞は別コラムでNHKについて次のように述べていました。

きのう、日銀の福井俊彦総裁を呼んで異例の閉会中審査を行なった衆院の財務金融委員会を中継しなかったのはなぜか。(中略)▼NHKに聞いてみると、国会審議をテレビで中継するかしないかは、必ず放送する首相の施政方針演説などを除いて「国民の知る権利と政治参加に寄与する」かどうかを基準に判断するという。つまり、現役の日銀総裁が村上ファンドに資金を拠出し、多額の利益を得ていた問題の論戦は、生放送するに値しないと判断したというわけだ ▼ちなみに、委員会が開かれていた時間帯に流されていたのはニュースを除けば、再放送の趣味番組と、毒にも薬にもならない情報番組だった。(「産経抄」産経新聞2006年6月23日)

私も同感です。NHKの一連の不祥事だけにとどまらず、NHKの報道姿勢といったことも厳しく問われるべきだと思います。また、今回、私もいろいろな人の意見を読んだり聞いたりする中で、NHK-FMもこのままではよいとは思えないというのも複数聞きました。私もそうかと思います。これらについて私たちはコミュニケーションを行なう必要があります。そのためにはまず声を上げることです。

(2)厚生年金会館・郵便貯金ホールなどの問題
今回のNHK-FMの問題を私がある友人に話したら、彼は「同じように厚生年金会館・郵便貯金ホールの削減も大問題なんです」と訴えてきました。広島でも郵便貯金ホールがなくなり、厚生年金会館も削減対象になっていると聞いていますが、私の友人のようにアマチュア合唱団といった活動を行なっている人間にとって、こういった施設の削減は、音楽を表現する場所を奪われるという意味で致命的なのだそうです。私も音楽ファンとして、この問題をこれからきちんと考えてゆこうと思います。

(3)安心はできない
私は小泉首相の具体的な政策に関してはここで判断を控えます。ですが、彼の言語使用については、言葉をあまりにも単純化してしまい(cf http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050912)、さらには言葉を軽くしてしまったという点で批判されるべきだと考えています。
今回、竹中氏はFM削減案を見送ったと言われていますが、それは現在策定中の「経済成長戦略大綱」や、7月に閣議決定する「骨太の方針」に文書として明記されるまで、安心はできません。いや文書に書かれたとしても安心はできません。なにしろ私たちは国債発行に関して「この程度の公約を守れなかったことは大したことではない」とも言い、厚生年金加入問題に関しても「人生いろいろ、会社もいろいろ」と言った首相を長年許してきたわけです。政治の言葉は現在、非常に軽くなっています。「活動」としてのコミュニケーションこそが民主主義の本質だとしたら、こういった言葉の軽視こそは民主主義にとっての脅威です。私たちはまだこの脅威と共に生きています。NHK-FMに関しても私たちは決して安心できないと私が考えるゆえんです。


以上が私の中間的総括です。忙しい中のこれらの活動はしんどいものでもありましたが、私の人生においては意義深いものだったといっても過言ではないと思います。また、この活動を通じて何人の方とは新たに知人・友人となれたのは私の純粋な喜びでした。



NHK-FM削減案見送りに関する新聞各紙の報道 (2006/6/25b)

私がNHK-FM削減案が見送りされそうだというニュースを知ったのは、出張中の6月23日の朝にホテルで日経新聞を読んでのことでした。私はすぐに新聞各紙を購入し、その報道を比較してみました。以下は、非常に簡単な比較です。

朝日新聞(第3面):「NHK改革 FM放送削減対象外」という見出しで、「政府・与党は22日、NHK改革やNTT再編を柱とする通信・放送改革の方向性について合意した」という文で記事を始め、「FMラジオ放送の削減は、視聴者の理解が得られないと反対する与党に総務省が歩み寄った」と書く。
産経新聞(第8面):「NHK受信料支払い義務化」という見出し。「竹中平蔵総務相は22日、通信と放送の改革で政府・与党が合意したと正式発表した」という文で記事を始めているが、FM放送に関しては言及なし。
東京新聞(第9面):「通信・放送改革合意内容を公表」という見出し。出だしは「竹中平蔵総務相は22日『通信・放送の在り方に関する政府与党合意』を公表した」というもの。FM放送に関しては言及なし。
日経新聞(第3面):「通信・放送の改革半歩前進」という見出し。書き始めは「政府・与党は22日、NHKやNTTなど通信・放送分野の改革で正式合意した」というもの。FM放送に関しては「チャンネル削減では、総務相懇談会はFMラジオも削減対象と提言したが、スポーツ、娯楽、アニメなどの番組も重要と考えている自民党は具体的な削減を示すことに反発した。官と民とおの線引きルールがあいまいなことが影響した」と書く。
讀賣新聞(第1面):「NHKチャンネル 衛星放送のみ削減」という見出しで、「竹中総務相は22日、通信と放送の制度改革を巡る政府与党の合意内容を発表した」と書き出し、FM放送については「合意はFM放送を削減対象から除き」と言及。

毎日新聞は自宅で取っていますので、出張先の東京では買いませんでした(記事については後述)。この比較から、第何面に掲載するか、見出しは何か、FMについて具体的な言及はあるかという点で、各社のトーンの違いがわかりますが、私はここではリード文について注目したいです。私は個人的には具体的に誰が発言したのかを明示する書き方の方が好ましいと考えていますので、それらだけからしますと、朝日や日経の書き方は嫌いです。

帰宅して毎日新聞を開いて見ますと23日の紙面には何の記事もありません。「地方だから一日遅れかな」と思って24日の紙面を待ちましたがそこにも何も記事がありません。「まさか毎日新聞が」と思って電話で問い合わせをしてみますと、毎日新聞は22日にすでに報道していたことがわかりました。

毎日新聞(第2面):「NTT再編 2010年再検討で合意」という見出しで、「竹中平蔵総務相は21日、政府と与党との間で協議していた通信・放送改革が基本合意したことを明らかにした」と書き始め、FM放送に関しても「竹中懇談会が主張したFMラジオ放送の削減は見送られることになった」と言及。これは【工藤昭久】という署名入りで、さらに「10面に関連記事」の指示あり。
毎日新聞(第10面):「自民・片山参院幹事長 NTT規制で競争促す NHK組織スリム化を」という見出しで、「自民党通信・放送産業高度化小委員長の片山虎之助参院幹事長は毎日新聞のインタビューに対し、政府・与党で基本合意した通信・放送改革案に関連し、NTTの早急な組織改革に慎重な考えを改めて表明した」と記事を始める。この記事ではFM放送に関する言及はなし。末尾には【聞き手・工藤昭久】という署名あり。

この比較からしますと、今回のFM放送削減見送りのニュースに関しては、毎日新聞が独自インタビューにおいて先鞭をつけたので、他紙が翌日に後追い報道を行なったとも推測できます(確証はありませんが)。さらに片山虎之助参院幹事長が自民党通信・放送産業高度化小委員長であることを述べたのも他社にはない具体的な報道です。また毎日新聞は他紙に比べて圧倒的に署名入り記事が多いです。私は署名記事は、責任の所在をはっきりさせるいい制度だと思っています。こういったことからしますと私は今回の報道では毎日新聞が一番良質の報道をしたと判断します(22日時点での毎日新聞のスクープを見逃していたのは私の怠慢でした)。
私は個人情報保護法案の時に各紙の報道を比較して毎日新聞を購読することを決めましたが、今回も毎日新聞は期待を裏切りませんでした。私はこういった報道姿勢が続く限り毎日新聞を応援したいと思います。




NHK-FM削減問題:竹中平蔵氏へ直接コメントを出しましょう!(2006/6/19)

「拝啓 竹中平蔵 様2」(http://blogs.yahoo.co.jp/fkpopjp/8602817.html)というブログ記事で初めて知ったのですが、竹中平蔵氏は、ご自身の「公式ウェブサイト」(http://takenakaheizo.cocolog-nifty.com/)をお持ちです。その中の「本当の側近のコーナー」(http://takenakaheizo.cocolog-nifty.com/sokkin/)はブログ形式となっており、コメントやトラックバックを受け付けております。また「連絡先」(http://takenakaheizo.cocolog-nifty.com/takenaka/contact.html)には竹中氏の事務所の住所・電話番号・メールアドレスが掲載されております。
私は以下のようなコメントを実名で投稿しました。
どうぞ皆さんもコメントなりトラックバックなり電話・ファックスなりで、意見表明を行なってください。なお、その際、言うまでもありませんがマナーは守りましょう。民主主義を支えるのはコミュニケーションであり、コミュニケーションを支えるのはマナー、つまりは相手への敬意です。

竹中平蔵様、スタッフの皆様、

国政のための毎日のお仕事に敬意を表します。
ですが、私は音楽ファンとして「通信・放送の在り方に関する懇談会」のNHK-FM削減案には大変憤っております。
それは懇談会が「民間のFM放送や音楽配信サービスが普及している現状では、多彩な音楽番組の提供という公共放送としての役割は既に終えたものと考えられる」と述べているからです。
これは音楽文化の公共性を、もっぱら大量消費・個人消費の観点からしか考えていない見解かと私は理解しました。
私はこれを非常に浅い見識だと考えます。
音楽文化を消費主義・市場原理に委ねてしまいますと、理解するのに時間のかかる良質な音楽文化は廃れてしまいます。公共放送が、商業スポンサーの意向を気にすることなく、音楽関係者の見識とリスナーからのレスポンスによって、良質な音楽を発掘し、豊かに市民に提供することにより、音楽文化はその活力を保つことができます。これはクラシックやジャズやワールドミュージック(含む、邦楽)だけでなく、ロックやポップスでもそうです。地方民間FM局には遺憾ながら、音楽業界が売ろうとしている曲を断片的にかけるだけの放送が多すぎます。音楽配信は個人的趣味には対応できるかもしれませんが、それだけでは個々人の趣味はやせ細ってしまいます。公共的FM音楽放送がなければ日本の音楽文化は非常に貧困になってしまいます。文化は開かれた共同体そしてコミュニケーションを必要とします。NHK-FMとは我が国の音楽文化にとって必要な公共的媒体なのです。
私はこのような観点から、NHK-FM削減案への反対運動を行なっています。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/music.html#060607
ここには反対の声をあげる多くのブロガーへのリンクもあります。
ぜひ一度音楽文化を日本の暮らしにとって重要なものと考えているこれらの市民の声を聞いていただければと思います。
最後に、このようなブログで一般市民とのコミュニケーションのチャンネルを開いていらっしゃるご見識とご勇断には心からの敬意を表します。
私のコメントも掲載していただき、ありがとうございました。

どうぞ、皆さんも
http://takenakaheizo.cocolog-nifty.com/sokkin/
へコメントやトラックバックで意見表明を行なってください。
日本が民主主義国家であること、また日本のインターネットインフラ整備によりコミュニケーションが容易になったこと、そして多くのネットユーザーがマナーを守った発言をしていることを私は心から誇りに思っております。


「灰色の男たちにNHK-FMを潰されたくはない」(毎日新聞への意見投稿) (2006/6/19b)

毎日新聞(大阪版)は6/17(土)に「『放送・通信の改革案』を問う」という特集記事を掲載しました。この件に関する意見は、ronten@mbx.mainichi.co.jp で募っています。以下は、私が本日送った意見です(一部修正)。

日頃の毎日新聞の報道姿勢に敬意を表します。
毎日新聞は、全国紙の中では最も読者の方を向き、かつ記者の方々も勇気をもって発言されていると私は考えておりますので、数年前の個人情報保護法案騒ぎの時から、御紙を購読しております。

さて、本日は6/17の「『放送・通信の改革案』を問う」の特集についての意見を申し上げます。
今回の竹中懇談会メンバーにしても、御紙の取り上げた方々にしても、どうも昨今の「知識人」あるいは「有識者」というのは経済と技術のことしか語らないような気がします。(今回の西正氏の論考はそうでもなかったかもしれませんが)
これが、お金によりお金を生み出す技術をもてはやしている国の現状なのでしょうか。
私が懇談会の答申で最も憤りを感じたのは、「民間のFM放送や音楽配信サービスが普及している現状では、多彩な音楽番組の提供という公共放送としての役割は既に終えたものと考えられる」という箇所です。
ここでは公共の音楽文化というものが「個人消費」の観点でしかとらえていません。文化とは表現者の新しい表現を公衆が受けとめ、さまざまに批評しながらさらに新しく良質な表現を生み出すコミュニケーションを作り上げる活動です。密閉空間での個人消費を超えて、ひろく公共的に文化を共有する空間というのは必要なのです。
また一部の文化は、それを理解するために時間がかかるため、商業ベースには乗らず、公共的なサポートが必要なことは言うまでもないことです。
音楽文化にとって公共FM放送はその最大のサポートの一つです。
ですが、そういった「言うまでもないこと」すら、昨今の「知識人」や「有識者」は心得ていないのではないでしょうか。
日本は表面上は経済・技術大国かもしれませんが、生活者からすれば貧しい国とすらいえるかもしれません。(もちろん最貧国などと比べることはできません。私が言いたいのは日本が「心貧しい国」にどんどんなりつつあるということです)
Life(暮らし、生活、生きること、人生)からすれば文化の喜びは欠くべからざるものです。
ひょっとしたら昨今の「知識人」や「有識者」の多くは「生活者」ではないのではないですか?
私の勘ぐりにすぎませんが、文化をconspicuous consumption(Veblenヴェブレン)としてしか「消費」できない哀れな存在なのではないですか?
私はそのような哀れな「灰色の男」(ミヒャエル・エンデ『モモ』 cf 日経ビジネスオンライン記事)にこの国を歪めて欲しくないです。
金と技術のことしか語れない人々は他の国の人からも尊敬を得ることはできないと思います。もちろん私たち生活者もそのような人は尊敬できません。
毎日新聞は、生活者の暮らしということをきちんと考えて報道してくださるよう、お願い申し上げます。

あなたの暮らしとNHK-FMについて新聞社に投稿してみませんか? (2006/6/16)

 日本の新聞は権力に迎合的過ぎるとも言われますし、若者を中心とした新聞離れもひどい状況にあるように思えます(私は大学で働いていてそれを痛感します)。しかしまだまだ新聞が世論形成のために果たしている役割には大きいものがあります。新聞を権力者のものではなく、私たち生活者のものにするためにも、いや何よりもNHK-FMに代表される日本の公共音楽文化を守るために、皆さんも新聞社に投稿しませんか?
 各社とも400字以内といった制限があり、メールで送る場合は、添付ファイルではなく、メール本文に書いてほしいそうです。毎日新聞はネット上で投稿を受け付けていますが、他の全国紙はそれぞれの新聞を見ないと投稿用のメールアドレスがわかりませんでした。
 以下は、私が図書館で調べた投稿用メールアドレス先です(全国紙のみ。五十音順。一部は大阪本社だけしかわかりませんでした)。音楽ファンらしく文章を練って投稿してみてください。ちなみに私は以下のような投稿を毎日新聞にしましたが、没になりました(-"-;)。主張が「ベタ」すぎたのかもしれません。各社ともに掲載される投稿にはパターンがあると思います。できればそれを分析した上で投稿すればいいかと思います。ただし二重投稿などは厳禁です。音楽ファンの誇りにかけてマナーを守りましょう。
 仮に(私のように)没になったとしても、文章を書くことは自分の思考を整理することにつながります。またたくさんの投稿がくれば、新聞社も多少は関心を示します。そしてもちろん掲載されれば、ネットを使わない人々にもNHK-FM廃止がいかに暴挙であるかを訴えることができます。
 どうぞ文章を考えて、投稿してみませんか?

朝日新聞 dai-koe@asahi.com (おそらく大阪)
産経新聞 special@sankei.co.jp (東京) opinion@sankei-net.co.jp (大阪)
毎日新聞 http://www.mainichi-msn.co.jp/etc/toko.html
読売新聞 o-tousho@yomiuri.com (大阪)

以下は私が2006/6/8に毎日新聞へ投稿した文書です(一部変更)
没になったみたいですからここに掲載します。

見識を疑うNHK FM削減案

 竹中総務大臣の「通信・放送の在り方に関する懇談会」は、NHKラジオFM放送の削減を提言した。「民間のFM放送や音楽配信サービスが普及している現状では、多彩な音楽番組の提供という公共放送としての役割は既に終えたものと考えられる」のだそうだ。
 私はこの判断を疑う。民間FM放送ではクラシック、ジャズ、各種ワールド・ミュージック(含む、邦楽)などはめったに聞かれない。これらの音楽は、真価を理解するのに時間がかかるため、ファンがなかなか育ちにくく、消費社会に対応しにくいからだ。またポップスやロックにしても、売れ口を狙った新盤紹介が中心だ。過去の名盤を丁寧に掘り起こす番組もほとんどない。地方の民間FM局では特にこの傾向が強い。
 音楽配信サービスはマニアックな嗜好に対応できるかもしれないが、リスナーの趣味は細分化されるばかりである。公共放送で多彩な音楽が良心的かつ潤沢に提供されるからこそ私たちの音楽世界も広く豊かになりうる。文化を育てるのは公共放送の使命だ。

音楽ファンらしく自由に創造的にNHK-FM削減に反対しよう!(2006/6/15)

私はNHK関係者でもありませんし、どの政党や政治団体にも所属しておりません。職業も音楽関係ではありません。ただの音楽ファンです。しかし今回のNHK-FM削減案に対しては、断固反対の声をあげ、連帯をつのらなければならないと思い、この個人ホームページで様々な活動をしております。活動をしていて、NHK-FMの廃止に憤慨しているのが私だけでないことを知ることができたのは喜びでしたが、そういったいわば内向きの活動だけでは不十分かとも考えます。
以下は、私が考えるNHK-FM存続のための活動の柱です。別に私は運動や活動の先頭に立つつもりはありません。が、自分の頭で考えたことを発表する習慣は持っております。また、後にも書きますように、私は没個性的な団体行動は嫌いです。ですが、ある程度の柱というのは、反対運動にも必要ではないかと考えています。
皆さん、もしよければ、以下をお読みの上、よいとお考えになる点がございましたら、皆さんにとって最も適切なやり方で、それぞれにNHK-FM廃止反対運動を進めてください。


(1)NHK-FMファン同士の連帯とコミュニケーション
ネット上で積極的に発言し、またリンク、トラックバック、コメントなども積極的に行なう。NHK-FM廃止のことをよく知らない音楽ファンもまだまだたくさんいます。そしてこういったコミュニケーションによってこの問題を多角的に理解することも大切かと思います。また、もちろんオフラインでも積極的に発言することは重要です。結局現実はオフラインの生活なのですから。

(2)政治・行政権力者へのアピール
様々な政治団体や行政監督者へのアピールを出し、NHK-FMが日本にとって必要であることを訴える。私はNHK-FMの廃止だけは断固として阻止しなければならないと考えていますから、このような直接行動は必要だと思います。政党や政治団体、行政監督者だけでないく、地元の議員や日頃から共感している国会議員にメッセージを送ってください。もちろんあなたがたとえ知らなくても、また共感していなくても、この問題に関して重要な立場にいるたちにも直接メッセージを届けましょう。その人たちが次の日から行動を起こすことはないかもしれませんが、必ず関心を持ってくれるはずです。その関心が「もしもの時!」に役立つと思います。

(3)メディアあるいはフリージャーナリストへのアピール
新聞、テレビ、ラジオ、月刊誌、週刊誌、音楽・オーディオ関係の専門誌などへ、あるいはフリーで活躍しているジャーナリストの方々への、平板でない、心からのメッセージを、音楽ファンがそれぞれの文章で送る。このNHK-FM問題は、文化・公共性などの問題として、きちんとメディアが取り上げるべきだと思います。特にフリージャーナリストを個人的にご存知の方はメッセージを送ってください。

(4)ミュージシャン・文化人・有識者・音楽業界やオーディオ関係者へのアピール
影響力を持つ人びとへの働きかけも重要だと思います。可能ならばこういった人たちが看板になって、運動組織やNPOなどが立ち上がればいいと私は考えますがいかがでしょう。こういった方々に多少なりのコネクションを持つ方、どうぞ動いてください。

(5)NHK-FMへの応援のメッセージ
すぐ下の記事で書きましたので、ここでは繰り返しませんが、この廃止騒動をきっかけに、私たち音楽ファンもより自覚的に、具体的な行動をもって、NHK-FMをサポートするようになれればいいと思います。なんということはありません、リクエストや感想を送りましょう、ということです。公共ラジオ放送はリスナーからのフィードバックにより発展するものだと思います。

(6)日頃はNHK-FMを聞いていない市民の皆さんへのアピール
必ずしも音楽愛好者でない人にも伝わる文章を書き、NHK-FMの重要性を理解していただくことも重要だと思います。NHK-FMが公共のラジオ音楽放送である以上、音楽ファンは、必ずしも現在はそれほど音楽を好きでない方にも理解を求め、そういった方々とも連帯することが長い目で見れば大切だと思います。

(7)公共ラジオ音楽番組に関する調査・研究
国内外の公共ラジオ音楽番組に関する事実・データを発掘し、公共ラジオ音楽放送に関する正確で深い知識を持つことが長期的には重要だと思います。今回のNHK-FM削減案を阻止するだけでなく、今後の同様の案を未然に防ぐことが必要です。
また、そういった消極的な対応だけでなく、積極的に日本の公共的音楽文化を発展させるための試みも必要だと私は個人的には考えています。NHK-FMは廃止するべきではないが、このままでいいとは思っていない方もいらっしゃるでしょう。日本という国あるいは共同体が音楽文化をどう考えるべきか、それを公共ラジオという手段などでどう実現してゆくかということを考えてゆくことは、この国の豊かな文化活動のために重要ではないでしょうか。
また、「調査・研究」とまではゆかなくとも、他国に現在お住まいの方々が、ブログやメールなどで、その国のラジオ音楽放送の様子などをレポートしていただけたら大変参考になると思います。ぜひ前向きにご検討ください。

(8)上の運動を総括する活動
運動は自然発生的に展開してゆけばいいのかもしれませんが、一般市民の政治的無関心・無力感と一部権力者(政治家・マスメディアなど)のやりたい放題の現状を考えると、市民の側にある程度自覚的に運動を促進するメタ運動(=運動を起こし発展させるための運動)は必要なのかもしれません。


ただこういった運動や活動を進める際に、私たちは、自由と創造性を愛する音楽ファンらしく行動できればと思います。
声の数や大きさというのは現実政治ではとても重要ですが、音楽ファンはそれらを組織的強制からではなくあくまでも自発的に、多彩な声で実現したく思います。
それぞれが微妙に異なりながらも結果的に独特のハーモニーで調和する大きな声を私たち出せないでしょうか。
私個人としては、一人一人の個性が感じられない一律の「組織運動」は嫌いです。音楽とは表現者それぞれの、聞き手へのコミュニケーションの試みです。私たちもNHK-FM反対運動においても、私たち一人一人の個性でもって、それぞれの聞き手に心をこめたコミュニケーションができればと考えます。
私たちが連帯するのは、「音楽を愛している。人びとの暮らしによい音楽は必要だ。だから公共音楽ラジオ放送(NHK-FM)を守れ!」という一点かと思います。

もしご意見などございましたら音楽専用掲示板の「音感」へ書き込んでやってください。


NHK FMの現場の人に応援のメッセージを送りましょう。リスナーはNHK FM削減案に断固反対します (2006/6/12)


私もそうですが、NHK FMで音楽生活を豊かに過ごしているファンも、日頃は聞くばかりで、NHK FMへ声を届けていないのではないでしょうか。NHK FMの現場で日本の文化生活を豊かにするために毎日働いていらっしゃる人に応援のメッセージを送りましょう。NHK FMの廃止などという文化への暴虐を許してはいけません。
ちなみに2006/6/6付けでのNHKの見解http://www3.nhk.or.jp/pr/keiei/otherpress/060606-002.htmlで読むことができます。


NHKふれあいプラザ http://www.nhk.or.jp/plaza/ は、総合的な意見の投稿欄です。NHK(FM)全体に声を届けたい場合はここがいいでしょう。また「ミュージックプラザ 1部 クラシック」や「現代の音楽」といった番組は、下のような独自ホームページを持っていませんから、そういった番組のファンはこの総合窓口を使えばいいのではないかと思います。
(2006/6/17追記 http://www.nhk.or.jp/css/ の方が総合的な窓口のようです)

音楽番組 http://www3.nhk.or.jp/toppage/navi/music.html は、各種音楽番組(含む、TV、AM)のホームページへの総合的な入り口です。皆さんがお気に入りの番組に、できるだけ具体的に声を届けましょう。
特に以下のような「マイナーな」番組・音楽を重要だと思っている人、声をあげてください(「マイナーな」音楽の創造性こそが、実は「メジャーな」音楽の活力源となっているのです!)

ミュージック・スクエア https://www.nhk.or.jp/plaza/mail_program/square.html 
ミュージックプラザ第二部ポップス https://www.nhk.or.jp/mp2/pc/request/index.html
ライブビート http://www.nhk.or.jp/livebeat/ 
ザ・ソウルミュージック http://www.nhk.or.jp/soul/index_mail.html 
ウィークエンドサンシャイン https://www.nhk.or.jp/sunshine/pc/message/index.html 
セッション2006 http://www.nhk.or.jp/session/main.html
アジアポップスウィンド https://www.nhk.or.jp/fm-pops/asia/index.html
世界の快適音楽セレクション https://www.nhk.or.jp/fm-pops/sekai/index.html
ミュージックメモリー https://www.nhk.or.jp/fm-pops/music/index.html
ワールドミュージックタイム https://www.nhk.or.jp/fm-pops/world/index.html
今日は一日○○三昧 http://www.nhk.or.jp/zanmai/request.html
気ままにクラシック https://www.nhk.or.jp/kimakura/mail.html


NHK FMの現場の方々は、自分自身の削減反対の声は、放送で流しにくいかもしれませんが(私はそのくらいやっていいと思っていますが)、リスナーの声なら放送で流すこともできます。皆さんの素朴な気持ち・疑問・怒りの声、あるいはFM番組への応援メッセージを送ってください。
政治家も社会全体も「金、金、金」としか言わないような状況で、NHK FMを存続・発展させることができる力を持っているのは、実は私たちリスナーです。私たちの力で日本の音楽文化を守りましょう。


ブロガーとネット住人はNHK FM削減案に対して怒っています。 (2006/6/11)

以下は、私が見つけたブログなどのNHK FM削減案への反対意見表明などです。NHK FM廃止に反対しているブログのみを選択しています。(リンクは随時追加の予定。Yahoo!ブログや一部のブログでは、どうもコメント投稿に失敗しています。許可なしリンクをお許しください)
ブロガーの皆さん、発言をしてお互いにどんどんトラックバックをはってください。ブログの検索エンジンとしては http://www.technorati.jp/home.html が便利かもしれません。またよかったらご自身で書かれた記事を掲示板「音感」か、柳瀬の個人メールにお知らせください。
ホームページ運営者の皆さんも声をあげて、どんどんリンクをはってください。
ミクシィの皆さん、音楽関係のコミュニティでどんどん発言してください(専用の「NHK-FM 削減反対!」というコミュニティもできましたhttp://mixi.jp/view_community.pl?id=982350)。
「公共FM音楽放送(NHK-FM)を守れ!」という一点で大同団結できればと思っております。
ここいらできちんと文化の大切さを訴えておかないと、一部の金のことしか頭に無い権力者によって、この国は本当に文化果つる恥ずかしい国になってしまいます。

2006/6/11掲載 (Googleで「NHK FM 削減」や「NHK FM 削減」で検索をかけて見つけた主なものです。)

竹中懇のFM削減案に反対 http://taroscafe.cocolog-nifty.com/taroscafe/2006/06/fm_3209.html
音楽は誰のもの−NHK-FMが廃止になる!? http://phoebe.jugem.cc/?eid=252
アナログオーディオと音楽★NetThePopブログ http://blogs.yahoo.co.jp/fkpopjp/7287510.html
「NHK解体…FM廃止案に反対!」 http://sky.ap.teacup.com/applet/doudeshoune/20060607/archive
「文化軽視、経済(金儲け)重視の政策 http://gold.ap.teacup.com/applet/josefzenchan/20060607/archive
NHK-FM廃止断固反対!(その2) http://daikokukinkin.blog59.fc2.com/blog-date-20060607.html
NHKのチャンネルが3つも減るんですか http://d.hatena.ne.jp/jkondo/20060607
NHK-FMの廃止だって?冗談じゃない http://cafe.moto.co.jp/index.php3?mode=keyword&id=21194
2011年までにNHK-FMを廃止? http://curragh.sblo.jp/article/828220.html
再びNHK改革試案に異議 http://blog.so-net.ne.jp/joeden/2006-06-09
NHK FMをなくすって?! ふざけんな!! http://blogs.yahoo.co.jp/y_i_z/36008091.html
NHK改革 BS2波とFM削減 http://blogs.yahoo.co.jp/obachandeka/7198706.html 
NHK-FMの廃止問題についてだゴルァ http://blog.goo.ne.jp/dsch_sym11/e/55c7108daa0d2ac3f3629371fef35a79
NHK-FMをなくすな http://nanno.seesaa.net/article/19091463.html

NHK-FM廃止案 工エェ(´д`)ェエ工 http://blogs.yahoo.co.jp/burinosushi/35784356.html
FMラジオ?そんなのあったって何も聞こえなくなるよ(笑)。その1 http://blogs.yahoo.co.jp/garujin/37610816.html
NHK−FMがなくなる!?━━FM放送について考える http://blog.goo.ne.jp/pace-e-asia/d/20060608
試想環 NHK3波廃止 http://blog.goo.ne.jp/natsukos-55/d/20060608
竹中平蔵のNHK改革 http://blog.goo.ne.jp/toritori1987/d/20060607
NHKチャンネル削減について思うこと http://blog.goo.ne.jp/fallen_angels728/d/20060608
NHK-FMが消える日! http://blog.goo.ne.jp/shingo1999/d/20060607


2006/6/12追加
NHK-FM廃止断固反対!(その3)http://daikokukinkin.blog59.fc2.com/blog-entry-35.html
FMチューナー好き集まれ!http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/music/11602/1118757194/l50


2006/6/13追加

将来的にはNHK FM廃止? http://shizuoka.cocolog-nifty.com/gard/2006/06/nhk_fm__065c.html
NHK-FM廃止ですと? http://blog.oricon.co.jp/bssk-rtfreak/daily/200606/07
NHK-FM消滅? http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2006/06/06231125.php


2006/6/14追加
※この日は、ブログの検索エンジンとして http://www.technorati.jp/home.html を使いました。
(キーワードは「NHK FM 廃止」、「NHK FM 削減」です。5画面まで検索しました。リンクが大量になりましたので、この日以降、誠に勝手ながらリンク許可をいちいちは得ておりません。もしリンクを希望されない方がいらしましたら、ご面倒でもご一報願えますでしょうか。すぐにそのリンクを削除します。)

音楽について大切なことは全部NHK-FMに教わった http://blog.goo.ne.jp/adawalt/e/e1c422af0e85f9df2e00c6e5504fe731
「通信・放送の在り方に関する懇談会」がNHK-FMの削減を提言した件について http://d.hatena.ne.jp/kurinoki/20060614#p1
たびたび同じで失礼します http://plaza.rakuten.co.jp/amiisdairy/diary/200606120000/
「NHKチャンネル削減」考 http://blog.goo.ne.jp/stagebeat/d/20060609
地デジやらNHKやら http://natsukota.seesaa.net/archives/20060609.html
竹中さんわかってないなぁ http://toi3.blog8.fc2.com/blog-date-20060608.html
FM放送の役割 http://d.hatena.ne.jp/ohta944/20060608#1149742774
NHK-FMが無くなる?! http://55.livedoor.biz/archives/50618105.html
NHK−FMは単純に削減できないだろ http://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200606070000/
それはないだろう。 http://d.hatena.ne.jp/fuuki1972/20060608/1149759356
NHKのFM削減に反対 http://sankou.blog13.fc2.com/blog-entry-159.html
NHK−FMを潰さないで! http://blogs.yahoo.co.jp/woodstock69pm/7282594.html
[ラヂヲ]NHK-FM http://d.hatena.ne.jp/erinji/20060607#1149655033
[音楽]NHK問題 http://d.hatena.ne.jp/o-tachi/20060607#1149653933
NHK-FM削減の答申 http://d.hatena.ne.jp/marinba/20060607#p2
たまには世評(長いよ) http://blog.goo.ne.jp/okonomiyaki_124/d/20060607
NHK−FM大好き http://blog.livedoor.jp/ana79158/archives/50325679.html
NHKFM削減? http://usagido.air-nifty.com/lovemys/2006/06/post_8cef_1.html
NHK改革 3チャンネル削減の方向で http://blog.goo.ne.jp/future-tv/e/9352f5d61005844d07e54e1c743ce38f
NHKFMが消える?http://enokama.exblog.jp/2449811
NHKのチャンネル削減 http://sagjun.cocolog-nifty.com/tebunko/2006/06/post_8a00.html
NHK−FM http://blog.goo.ne.jp/inemaru3791/d/20060609
6月9日はロックの日 http://jujuju.jugem.cc/?eid=34
[ラジオ]NHK-FM廃止論について http://d.hatena.ne.jp/BlackChild/20060612
その電波に乗ってくるもの★Opposed to NHK-FM broadcast abolition http://weblog.moontime.chu.jp/?eid=372955
[我想故我有]NHK-FMの公共的役割は本当に終わったのか? http://d.hatena.ne.jp/north810/20060612/p1
受信料は義務化!FM放送は廃止? http://plaza.rakuten.co.jp/hijosol/diary/200606110000/
NHK-FM http://blog.kansai.com/epts/113
総務省のNHKFM削減に物申す。 http://joshin-audio.jugem.jp/?eid=22
FM放送はなくなるのか http://kkana.exblog.jp/3602542
「通信・放送の在り方に関する懇談会」−NHKチャンネル削減、FM廃止論について http://www.404-not-found.org/onban/2006/06/post_9.html
「NHK-FM存続」を訴える政党が! http://blogs.yahoo.co.jp/burinosushi/36047611.html
NHK FM が廃止になる http://d.hatena.ne.jp/ayokoyama/20060608/p1
青春アドベンチャーの運命は・・・? http://kandatic.seesaa.net/article/18970839.html
NHK−FM廃止?納得いかねぇ! http://blogs.yahoo.co.jp/marukome_z2630/7241012.html
NHKのFMが消える日 http://myshinshin575.blog47.fc2.com/blog-entry-151.html
NHK FM廃止!? http://yuji-blog.jugem.jp/?eid=97
NHK改革─通信・放送の在り方に関する懇談会 http://shalomochan.jugem.jp/?eid=110
[音楽]NHK-FM廃止? http://d.hatena.ne.jp/paco_q/20060607/1149631277
NHK-FMを廃止せよ? http://plaza.rakuten.co.jp/namecraft/diary/200606070000/
NHK-FMがピンチ http://ttkouji.exblog.jp/3194286
思いとどまってくれ!http://romantica.s104.xrea.com/ainpm/archives/2006/06/post_309.html
FM放送・・・。 http://blog.goo.ne.jp/yayasuji/e/e7d002f3aa23e24910127e9776d90516


2006/6/16追加 この日はGoogle 「NHK FM 削減」で20画面検索しました。
NHKのFM放送削減がもたらすもの http://www.janjan.jp/media/0606/0606120899/1.php
なぜNHK−FMは廃止されなければならないのですか? http://oshiete.nikkeibp.co.jp/kotaeru.php3?q_id=2212294
「公共」放送とはなにか? http://eriteru.hamazo.tv/e86610.html
NHK FMが消滅? http://blog.so-net.ne.jp/Bratsche/archive/20060607
ここがへんだよ、NHK改革案 http://ts.way-nifty.com/makura/2006/06/nhk_c7b8.html
竹中平蔵・諮問機関の「NHK-FMはもう役割が終わった!」とする報告に、ポニーキャニオンの高橋裕二・洋楽部長が大爆発!! http://holiday22.keyblog.jp/blog/10017712.html
NHK FMが http://blog.tcp-ip.or.jp/ar/a-tagawa/index.php?mode=show&UID=1149653171
NHK受信料の義務化とラジオ波の削減について http://mayuriada.cocolog-nifty.com/fun_time/2006/05/post_b7a2.html
NHK、3波削減 http://small-town-talk.blog.ocn.ne.jp/dantetsu/2006/06/nhk3_8c49.html
オーディオドラマ(ラジオドラマ)の世界 http://www02.so-net.ne.jp/~motive/
ふざけるな!NHKの削減案(かなり怒りモード) http://marimomarimaru.cocolog-nifty.com/botiboti/2006/06/post_d5eb.html


2006/6/19追加
拝啓 竹中平蔵 様2 http://blogs.yahoo.co.jp/fkpopjp/8602817.html
竹中懇の続き http://taroscafe.cocolog-nifty.com/taroscafe/2006/06/post_d603.html
なぜNHK−FMは廃止されなければならないのですか?(複数の答えあり)  http://kikitai.teacup.com/kotaeru.php3?q_id=2212294
NHK−FMのこと (U) http://blog.goo.ne.jp/inemaru3791/d/20060611
なんとか阻止したい http://blog.goo.ne.jp/nyan-routine/e/9e23e6b28acacb81b4e8c1ceefc02daa


2006/6/20追加
NHK FMは国民の文化 なくしてはいけません! http://blog.livedoor.jp/palga7/archives/50707889.html
NHK FMの廃止 http://blog.goo.ne.jp/btblog.php?bid=be8ab161ec89eff854c29980ea4e73f3&eid=2d7b2bd226ac6031d77073bb3faa83b7&m=e
絶対反対!NHK-FM廃止 http://jdc-fan.at.webry.info/200606/article_7.html
NHKチャンネル削減 http://moony.at.webry.info/200606/article_4.html



追記1
:ちなみに2006/6/6付けでのNHKの見解はhttp://www3.nhk.or.jp/pr/keiei/otherpress/060606-002.htmlで読むことができます。
追記2:私はブログを持っていないのですが、ブログのトラックバックというのはこんな時にネットワークを作るのに便利ですね。


公共ラジオ音楽文化は音楽個人消費文化と異なる!(2006/6/10)

 竹中平蔵総務大臣の「通信・放送の在り方に関する懇談会」は「民間のFM放送や音楽配信サービスが普及している現状では、多彩な音楽番組の提供という公共放送としての役割は既に終えたものと考えられる」としてNHK FMラジオ放送の削減を提言していますが、私はこれを、公共のラジオ音楽文化を理解しない、愚かな考えだと思います。このような提言が「見識者」からなされる日本の文化状況を私は深く嘆きます。
 短く言いますと、公共ラジオ音楽文化は音楽個人消費文化と異なります。
 DJが音楽を吟味して、ファンからのサポートは気にしながらも、商業利益は気にせずに、良質な音楽を公共の電波で豊かに提供するのが、商業ラジオとは異なる意味での公共ラジオです。そうして公共ラジオを聞きながらリスナーが音楽世界を広げ深め、相互交流をしながら、音楽をより楽しみ、人生を豊かにしてゆくのが公共ラジオ音楽文化です。
 こういった公共のラジオ音楽文化なしに、音楽文化がCDや音楽配信などの個人消費だけになってしまうと、市民は広く良質の音楽に出会う機会を奪われ、私たちが聞く音楽は、強力なプロモーションをされる平板な音楽だけに偏ってしまいます。コアな音楽ファンも限られたお金で音楽を買うしかない以上、音楽の趣味はどんどんやせ細ってしまいます。その結果、創造的な音楽活動が枯渇してゆきます。コマーシャルを提供してくれる会社に気を使わなければならない商業ラジオでは公共ラジオの代わりにはなりません。
 ピーター・バラカンさん(例えばhttp://sp-plugin.jp/onsuijin/pb_index.htmlを参照)は、その生き方や語り方(私は彼の日本語がとても好きです)などから私がとても敬愛している人ですが、彼はDJをしているNHK-FMのウィークエンドサンシャインのホームページで次のように述べています。(http://www.nhk.or.jp/sunshine/pc/pb/index.html

選曲する時の基準は、単純に「これはラジオでかけたい曲」というものです。音楽に対する好奇心が強いのでいつもかなりの数のレコード(ぼくはどんな音源のこともレコードと呼んでいます)を聴いていますが、限られた時間の中で実際にどの曲を紹介するか絞り込む際に、何となく他でかかっていそうなものよりも、おそらく他ではかからないであろう、と思える曲を優先することもあります。

 ある曲やミュージシャンを「メイジャー」とか「マイナー」と呼ぶ方がいますが、そういう言葉はぼくの語彙にありません。いつも思っているのは、知名度のないものを一旦知ればもう知名度のあるものに変わる、ということです。一般的に「マニアック」などと言われる音楽を当たり前に紹介するのがぼくのやりかたです。時々この番組のことを「敷居が高い」と言われることがありますが、決してそういうつもりではありません。どなたにでも聴いていただきたいです。

これがラジオ音楽文化の公共性だと思います。
 今朝のこの番組でもキャプテン・ビーフハートCaptain Beefheart)の特集がありました。私はこのミュージシャンの名前すら知りませんでしたが、またこの出会いで私の音楽世界が広がりました。急いでネットで調べると町田康(作家、パンク歌手)(例えばhttp://www.1101.com/experience/machida/index.htmlを参照)「私は十代の頃よりその音楽に魅了され、その結果パンク歌手になってしまった」と、マイク・バーンズ『キャプテン・ビーフハート』(河出書房新社)の読売新聞書評(http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060403bk09.htm)で書いています。「キャプテン・ビーフハートは知らないけど町田康なら知っている」という人もいると思います。文化はこうして連鎖的に繋がり、私たちの世界を豊かにしているのです。「マニアック」かもしれないけどDJが、あるいはコアな音楽ファンが「ラジオでかけたい曲」というのは、決して絶やしてはいけません。
 キャプテン・ビーフハートの声はトム・ウェイツ(Tom Waits)の声に似ているというのは、私の第一印象でしたが、やはり両者、およびフランク・ザッパ(Frank Zappa)は深い影響関係にあるそうです。私はこんな「変則的」な発声そしてリズムとギターは好きです。こういった音楽は多くの人に全面的に受け入れられることはないでしょうが、こういった音楽の部分的な影響には多くの人も鋭敏に反応するはずです。ちなみにトム・ウェイツもフランク・ザッパも私はNHK FMで知りました。今回のキャプテン・ビーフハートの特集も長時間だったからこそ私は彼の音楽をそれなりに理解することができました。こういった音楽の出会いは公共ラジオでしか提供できません。
 ですが、非常に遺憾なことに、松原聡座長(東洋大学教授)を始めとした「通信・放送の在り方に関する懇談会」の「見識者」の方々は、このような公共ラジオ音楽文化のことについて無理解のようです。竹中平蔵総務大臣といった「政治権力者」も同様のようです。
 このままでは日本の公共ラジオ音楽文化が潰されてしまいます。
 音楽ファンの皆さん、何か行動してください。


各政党にNHK-FM削減案反対の意見表明をしましょう!(2006/6/9)
あなた自身の短い言葉で各政党に意見表明をしてください。おざなりな言葉でではなく、あなたの心からの言葉で反対を伝えてください。政治家は有権者の声には必ず耳を傾けます。複数の人びとがそれぞれ誠実に訴えれば政治家も動きます(政治家とは市民の支配者ではなく、市民への奉仕者です)。
または購読の新聞社に意見投稿をしましょう。私たち一人一人の力はわずかなものです。ぜひそれを結びつけ、強い力にしましょう。そうしないとこの国の文化や暮らしは悪くなる一方です。
その他、考えられる限りの適切で効果的な手段を使って音楽文化の抹殺に反対しましょう。
音楽ファンの皆さん、黙っていてはいけません。知恵と勇気を使って行動しましょう。
このままでは本当に日本の音楽文化が潰されてしまいます。

自民党に物申す! http://meyasu.jimin.or.jp/cgi-bin/jimin/meyasu-entry.cgi
あなたの声を公明党に http://www.komei.or.jp/announcement.html
民主党へのご意見メール http://www.dpj.or.jp/mail/0310.html
社民党メールアドレス一覧 http://www5.sdp.or.jp/central/12mail.html
日本共産党中央委員会「しんぶん赤旗」編集局へのメール http://www.jcp.or.jp/service/mail.html
国民新党 国民の声を聞く http://www.kokumin.or.jp/opinion/
新党日本ご意見 http://www.love-nippon.com/goiken.htm
自由連合 http://www.jiyuren.or.jp/
新党大地 ホームページ準備中
*****
総務省 ご意見 http://www.soumu.go.jp/menu_00/opinions/index.html (2006/6/15追加)

お詫びと訂正(2006/6/13):上の政党へのリンクですが、ネット画面に出ているURLは正しかったものの、実際のリンクは違っている箇所が多々ありました。ある方の善意のお知らせによりこの間違いに気がつき、只今訂正しました。急いで作業をして動作確認をしなかったため間違いをしてしまいました。もちろん他意などございません(私はどの政党にも所属しておりません)。心からからお詫びいたします。




NHK FM放送を潰すな!
日本の音楽文化を音楽愛好者の力で守ろう!


音楽文化を潰してはならない (2006/6/8にNHKふれあいプラザ http://www.nhk.or.jp/plaza/ に意見表明。一部加筆)

 竹中総務大臣の「通信・放送の在り方に関する懇談会」のNHK FM放送削減案のような提言が出される現状を深く嘆き、削減案に強く反対します。
 私は不安定な気持ちを抱えていた中高生の頃から、NHK FMの「サウンドストリート」などにロックの奥深さを教えてもらいました。商業放送ではまず聴くことができない過去の名盤やDJのこだわり音源の音楽表現が荒ぶる私を何度も救ってくれました。青年期に父を失ってからの空虚な気持ちはNHK FMの各種クラシック音楽放送に癒していただきました。「現代の音楽」は商業放送では絶対にといってもかからない先端的な音楽の試みを広く伝えてくれています。「日曜喫茶室」は、私に品があってユーモアがある日本語を教え続けてくれています。「ミュージック・スクエア」は日本人アーチストの現代的創造性を教えてくれています。「世界の快適音楽セレクション」や「ワールドミュージックタイム」は私の音楽世界を常に広げてくれています。「ウィークエンドサンシャイン」は私の音楽の羅針盤です。オマージュはいくらでも続けることができます。
 どうぞNHK FM放送の現場で働いていらっしゃる方は、そのお仕事の誇りにかけて、削減案に断固反対してください。私もリスナーの一人として徹底的に削減案に反対します。
 良質な音楽を提供する公共放送が一局もない国-----日本はそんなに情けない国にならなければならないのですか?




NHK FM廃止は国辱的行為だと考えます。 (2006/6/8 各種政党へメールで意見表明)

 「通信・放送の在り方に関する懇談会」のNHK FM放送削減案に断固反対します。
 良質な文化というものは、残念ながら商業ベースには乗りにくいものです。でもそれは人類が長い年月をかけて練り上げてきたもので、私たちはそれを受け継ぎ、私たちなりに新しい生命を吹き込み、未来の世代へ人間の文化の素晴らしさを伝えてゆく使命を持っています。
 公共放送こそは第一にその使命を果たす責任を持っています。今回のNHK FM放送削減案は、文化の公共性をまったく理解しない愚案だと考えざるを得ません。
 良質な音楽をより多くの人びとに伝え、国民の文化生活を豊かにすることは、民間のFM放送や音楽配信サービスだけでは明らかに不可能です。民間FM放送は流行曲ですらその一部しか放送しません。音楽配信サービスは固定的なファンの要望に応えるだけで、新たな音楽愛好者層を開拓することができません。良質な音楽は、公共放送の良質な電波によって多彩に提供され続けなければならないのです。
 日本は良質な音楽を提供し続ける唯一の公共ラジオ放送さえ廃止してしまうのですか?日本はそれほどに文化の公共性を軽んじる国なのですか?
 私はそれを国辱だと考えます。
 どうか私が愛する日本に誇りを持たせてください。




NHK FM放送を潰すな!
日本の音楽文化を音楽愛好者の力で守ろう!

(2006年6月7日掲載)

竹中平蔵総務大臣のもと、総務省に設けられた「通信・放送の在り方に関する懇談会」は、2006年6月6日の最終報告書で、NHKラジオFM放送の削減を提言しました。報告書は、「FMラジオ放送については、民間のFM放送や音楽配信サービスが普及している現状では、多彩な音楽番組の提供という公共放送としての役割は既に終えたものと考えられる」と述べています(総務省ホームページhttp://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/policyreports/chousa/tsushin_hosou/index.html)。

私は、公共的なFM放送の削減は、日本の音楽文化に対する致命的打撃となると考えます。

音楽文化の衰退は、ひいては日本の暮らし一般の文化的貧困化につながると考えます。

私はNHK FM放送の削減に断固反対します。

私はこの懇談会メンバー(下記)の文化の公共性に関する見識を疑います。

クラシック、ジャズ、各種ワールド・ミュージック(含む、邦楽)、良質な長時間特集音楽番組などは、残念ながら商業ベースになじみません。その真価を理解するのに時間がかかるため、ファンがなかなか育ちにくく、消費社会に対応しにくいからです。実際、民間のFM放送でこれらの音楽はほとんど流れません(地方民間FM局では絶望的です。何しろ流行曲すら曲の最後まで流さないことも多いのですから)。しかしこれらの良質な音楽文化が、NHK FMを始めとした各種の公共的な努力に支えられながら生き続けていることで、大量消費音楽も活力を得続けています。商業ベースには乗りにくい音楽の文化が途絶えたら、大量消費音楽の活力も悲惨なぐらいに枯渇するでしょう(一定の陳腐な音楽しか流れない社会を想像してみてください!)。私たちはメロディーやリズムやハーモニーに対する感性を著しく失ってしまうでしょう。良質な音楽を生きる糧とする音楽ファンにとってそれは絶望的な人生です。そうして失われた文化・感性・人生はおそらく二度と戻ってきません。

音楽の教養というものはあります。それをつける一つの方法は常に新しい、良質な音楽を探すことことです。実質上万人に開かれた公共的ラジオはそのための最良のメディアです。良心的なプロデューサー・ディレクター・DJと音楽ファンの交流によって、選択的に放送される音楽は、その国の音楽文化の一種のスタンダードを提供します。そのスタンダードを聞き、それを批評してゆき、変容させてゆくことによって、その国の音楽文化は高まります。(正直、現在の日本の音楽文化は貧困になりつつあるというのが私の懸念です。それはクラシックやジャズの商業月刊誌の停滞などからも察することができます。私からすれば、FMチャンネルの削減ではなく増加こそが日本の文化政策の取る途だと思っています)

ちなみにイギリスのBBCでは、BBC RADIO 1が"the best new music"、2が"music & entertainment"、3が"classical, Jazz, World, Arts, Drama"、4が"Intelligent speech"、5が"Live news-live sport"を提供し、その他にも1Xtra、 6 Music、 BBC 7、 Asian Network、 5 Live Sports Extra、 Local Radio などのチャンネルがあります(http://www.bbc.co.uk/radio/)。豊かなラジオ文化は、その国の文化の指標だと思います。

それなのに、現在の日本は、唯一の音楽中心の公共放送であるNHK FMまでも削減しようとしているのです。

日本はそんなに情けない国にならなければならないのですか。

日本は本当に文化果つる国なのですか。

繰り返します。私は「通信・放送の在り方に関する懇談会」のNHK FM削減案に断固反対します。

念のために申し上げておきますと、ネット配信等による音楽提供は、マニアックな要求には対応できるかもしれませんが、嗜好があまりにも細分化してしまい、総合的な音楽文化が育ちません。また、大量に消費されることを目指した音楽マーケティングは、クラシックやジャズまでも平板化してしまいます。音楽文化を育てるには、公共的な媒体による良心的で潤沢な無料放送が必要です。公共の電波によって提供される音楽を批評的に受容することにより、私たちの音楽的教養は育てられてゆきます。新しい音楽ファンも徐々に育ってゆきます。良質な音楽提供は、公共放送の一つの重要な役割です。

学問においても、数学や物理学、あるいは哲学や文学などは、直接の生産性を持ちません。愛好する人も少数です。したがって市場原理の下では生きながらえることができません。ですからこれらの学問活動は公共的にサポートしなければならないのです。そうしないとその国の文化は、長い年月の後に壊滅的な状況になっていることでしょう。同じように、クラシック、ジャズ、ワールド・ミュージックなども、市場原理に委ねず、公共的政策によってサポートしなければなりません。特に地方に住む音楽ファンにとってNHK FMは重要なメディアです。文化は生きる力です。文化を殺してしまうような政策を私たちは認めてはいけません。

私は「通信・放送の在り方に関する懇談会」のメンバーに対する怒りをここで表明するだけでなく、皆さんが、それぞれに感じ、考える度合いに応じて、皆さんがそれぞれに信頼するメディア(新聞社、出版社、テレビ局、ラジオ局、ホームページ、ブログ、ミクシィなど)あるいは政治団体に、または友人・知人に、皆さん独自のやり方で意見表明することを求めます。非常に遺憾ながら、現在の日本の政治状況は、一部の権力者とその取り巻き連中にとって、ほぼやりたい放題の状況であるようにも私には思えています。私たち一人一人が、それぞれの考えと信念に基づいて何か行動を起こしましょう。それが民主主義です。
音楽愛好者の皆さん、日本の音楽文化を守るために何か行動していただけませんか?

「通信・放送の在り方に関する懇談会」
竹中平蔵 (総務大臣:招集者)
松原聡 (東洋大学教授:座長)
久保利英明 (弁護士)
菅谷実 (慶應義塾大学教授)
林敏彦 (スタンフォード日本センター理事長)
古川享 (元マイクロソフト会長)
宮崎哲弥 (評論家)
村井純 (慶應義塾大学教授)
村上輝康 (野村総合研究所理事長)



(2006年6月4日掲載(6日夜に一部加筆))




NHKラジオFM放送・AM第二放送を潰すな!

通信・放送の在り方に関する懇談会は、
2006年6月1日会合で、

「ラジオ放送については、公共放送として現行の3チャンネルを
維持する必然性は薄れていることから、
1又は2チャンネルを削減すべきである。従って、これらの放送については、
必要な周知等の措置を十分に行なった上で、2011年までに停波の上、
民間放送事業者への開放等の措置を講じるべきではないか」
と述べています。

また座長の松原聡氏は、
「[NHK]ラジオの3波に関しましては、AM2波、FM1波の3波ございまして、
それのどれを削るかについては、もう少し議論をしようということになりました。
しかし1波以上は削りたい、1波ないし2波を削る。
その視点はBSも同じでありますが、
受信料を下げるためといったような経済的な視点からの削減ではなく、
公共放送としてやる価値・意義があるかどうかという視点からのチェックであり、
その視点に基づいてラジオ3波は多いというのはもう一致しておりまして、
それを1波削るのか2波削るのか、どこを削るのかについては、
もう数日、議論していこうということになりました」

とまで言い切っています。

私はFM放送の良質な音楽提供や、
AM第二放送の多言語での語学講座などは、
高い公共性を持つものだと考えます。
文化は、人間が長年かけて熟成させてきたのですが、
その反面とても壊れやすいものです。
商業ベースになかなか乗らない種類の音楽や外国語が、
どれだけ日本の文化的豊かさを陰で支えているのか
という認識を私たちはおろそかにしてはいけません。
良質な文化の維持と育成は、
公共性の高いプロジェクトです。

一度途絶えた文化を再生することはほとんど不可能です。


私は以下の懇談会メンバーの見識を疑います。

竹中平蔵 (総務大臣:招集者)
松原聡 (東洋大学教授:座長)
久保利英明 (弁護士)
菅谷実 (慶應義塾大学教授)
林敏彦 (スタンフォード日本センター理事長)
古川享 (元マイクロソフト会長)
宮崎哲弥 (評論家)
村井純 (慶應義塾大学教授)
村上輝康 (野村総合研究所理事長)



田野倉雅秋さんのソロによるコルンゴルドのヴァイオリン協奏曲 (2006/4/14)

表現は、結局のところ、表現者の人間としての生き方以上のものにはならないのではないかと私は思うようになりました。
少なくとも文章に関して、私は最近のある二つの出来事を通じて、自分の文章が、自分の生き方----というより、私の場合は「生き様」といった響きの汚い言葉の方が適切ですが---をそのまま醜く表していることに気づかされました。
単眼的な「熱さ」。焦りと衝動。「善意」の押し付け。複雑な事象の安易な物語化。平板な話の繰り返し。無自覚な自己陶酔。はしたなさ、あるいは幼さ。
文章の中に、それらがどうしても出てしまいます。これは技巧で隠せるものではありません(というより技巧はかえってそれらを顕にしてしまうように思えます)。
他の方による、はっとするような文章に出会うと、そのような文章は上のような特徴を持たず、作者の涼しい顔とリラックスした姿勢が透けて見えてくるようです。「文は人なり」とはもはや常套句のようにもなってしまいましたが、文章表現というのは本当に怖ろしいと思います。
と、そんなことを考えながら2006年4月13日に広島厚生年金会館に広島交響楽団の第258回定期演奏会へ行きました。仕事の疲れもあって、一曲目などは私は居眠りすらしてしまったのですが、二曲目で大いに音楽に吸い込まれてしまいました。
田野倉雅秋さんのソロによるコルンゴルド(Erich Wolfgang Korngold 1897-1957)のヴァイオリン協奏曲(指揮 秋山和慶)でした。
初めて聞く曲でした。冒頭の箇所でいわゆる「ユダヤらしさ」を一瞬感じたものの、田野倉さんのヴァイオリンの音が聞こえてくると、もうそのまま私の肩からも余分な力が抜けて、音楽に引き込まれてゆきました。オケもいい伴奏をしていたと思います。私は広響の定期会員ですが、ひさしぶりにいい演奏を聞かせてもらったと思いました。
私は田野倉さんの個人的なことなど全く知らないのですが、上に述べたような表現と生き方の関係のことを考えていた私は、この音楽表現には田野倉さんの生き方がそのまま余計な足し算も掛け算もなく表れているのではないかと思ってしまいました。表現を日頃から丁寧に練り上げ熟成させておいて、それをさらりと提示しているようでした。
とはいえ、このような感想も、それこそ私の「安易な物語化」なのかもしれません。
ですから私の思い込み的な感想だけでなく、会場の様子も付け加えておきますと、カーテンコールはいつもより多い(確か)4回で、聴衆の拍手は熱心なものでした。いつもは辛口の私の音楽の友人二人も、いい演奏だったと口をそろえておりました。
よい音楽と演奏を通じて、人間の生き方についても何かを感じることができて、私にとってはいい夜でした。

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鳥 (2006/4/4)

春が来ました。
私はそれを鳥の歌声で知ります。
徒歩通勤途上の早朝の並木道は、とりわけ鳥の歌声に満ちた空間です。
前後左右、上下のあらゆる方向と距離から、鳥たちのそれぞれの歌声が聞こえてきます。私はその中を歩いてゆきます。
私は音楽を意図的に幅広く聞いてきました。音楽の歴史を通して、和音、対位法、十二音、即興、ミニマリズムなどの形式を通じた美を私は味わってきました。
でも鳥たちの思い思いの歌声に耳を開くことは、それらの形式美を味わうことを超える美的体験なのかもしれません。
それは自然の喜びと一体になろうとすることなのですから。
私が何度も繰り返す、おざなりな意見に過ぎませんが、自然を超える人工の美はないのではないでしょうか。少なくとも人間はそんなに偉大ではない。
まあ、とはいえ、これからも私は人間の創った音楽を愛し続けるのですが。

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Susanna and the magical orchestra: list of lights and buoys (2006/3/23)

おそらくは誰にとってもそうであるように、私の心の中には痛みが棲んでいます。それは過去の痛みであったり、現在の痛みであったりして、時々顔を出してきます。私は何とかそれを合理的に飼い慣らそうとするのですが、人の心というのはなかなか御せるものではありません。
そんな御せない心の痛みを癒してくれるのは、私の場合、しばしば音楽です。
RuneGrammofonというレーベルは(クリックしてくれた方、ね、ホームページもセンスいいでしょ)タワーレコード広島店でも売られているものですが、本日、何気なしに去年買っていたそのレーベルのSusanna and the magical orchestra: list of lights and buoysCDを聞いたら----助けられました。またも音楽に助けられました。
私は音楽に感謝します。

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村上春樹『意味がなければスウィングはない』(2005/12/16)

音楽を人生にとって不可欠のものと考える内向性において、また実際に彼の初期作品を二十代後半に何度も何度も、自分の人生を確認するように読み続けた読者として、私にとって、村上春樹の『意味がなければスウィングはない』という本は、雑誌連載時から、きちんと本の形で読みたいと思っていた本でした。
この本を買って、出張の帰りの新幹線で、ビールを飲みながら読んでいたら、不覚にもブルース・スプリングティーンの章で目頭が熱くなりました。アメリカの庶民として彼が70年代から80年代にかけて感じた閉塞感とそれを打ち破るために表現された彼のロックは----通俗的過ぎる解釈でしょうか----、現代日本の私たちにとって、これからますます痛切なものになるような気がします(それにしてもBorn to Runは名曲ですね。私の中では最初にラジオで聞いた中学生の時の驚きが今も廃れていません)。影響を受けやすい私は、これを読んで、彼のTHE”LIVE”1975-1985をすぐに入手しまして、今この時も聞いていますが、やはり音楽は、書物とならんで、私の人生には欠かせないものです。世俗的な仕事ばかりやっていると、外面的な事情に自分を合わせなければならないことに私はひたすらいらだち、その反動で、自分の内面にひたすら忠実である表現である音楽や書物をひたすらに求めてしまいます。
村上春樹の文章に関しては、素人が偉そうに言うことはできないのですが、最近の作品では、彼の表現(技巧)が少し一人歩きしていたような気もしていたのですが、この本での彼の表現は、彼の内面にぴったりとよりそった、とても正直な文章であるように思えました。
音楽と書物を愛する方々にこの本を心からお薦めします。ジャズ、ロック、クラシック、J-Popというようにジャンルを超えた音楽(およびその表現者の人生)が、現代では珍しくなってしまった、まともな文章で語られ、私たちは表現世界の豊かさを再認識することができます。
ますます世知辛く、浅薄で野卑で冷酷になりつつあるような現代日本で、どうぞ芸術表現が、逆説的に豊かになりますように。

追記(2005/12/19):
上で村上春樹の文章について偉そうなコメントをしてしまい、そのくせ最新作の『東京奇譚集』を読んでいないのは、いかにも(村上春樹が嫌い、私も憎む)「傲慢な俗物」だよなあ、と思い直し、ひさしぶりにゆっくりとした時間が取れた昨晩、日曜の夜に『東京奇譚集』を読みました。
よかった。彼の文章がぴったりときました。というより、私の文章感覚は村上春樹(あとは吉田秀和、長岡鉄男などなど)に大きな影響を受けて形成されているので、村上春樹の文章が、私のものさしに適うというのではなくて、現在の私の文章感覚が村上春樹のものさしからそれほど外れていない、というべきなのでしょうが。長編小説『海辺のカフカ』では、この幸福な一致感が完全には得られず、おそらくは片手で済むぐらいの箇所ですが、(傲慢にも)チェックを入れたい文章技巧がありました。しかし、この『東京奇譚集』では、そのような齟齬を感じることもなく、一気に読み終えました。(あ、ちなみに、私も村上春樹は本質的には短編小説作家だと思っています。少なくとも私は『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『回転木馬のデッド・ヒート』、『神の子どもたちはみな踊る』といった短編小説(集)が好きです。でももちろん『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』も好きです。だって『風』、『1973年』と読み進めたら、『羊』、『ダンス』と続けて読んでしまいますよね。これらはこの順番で読むべき連作なんだもの)。
内向的な人間にとって、村上春樹の小説の登場人物は、きわめて「まっとうな人生」を送り、とても「まともで正確なことば」を語るのですが、社会の圧倒的大多数を占める世俗的な人間にとって、それらはおそらく憐れむべき「変人の生活」であり、面倒くさい「理屈っぽい」か「白か黒かがわからない」ことばなのでしょう。
村上春樹が代表しているような書物や音楽がなければ、私はどうなっていたんだろう。いやどうなってしまうんだろう。

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Grigory SokolovによるBachのDie Kunst der Fuge BWV 1080 (Naïve OPUS111 OP30346) (2006/9/26)

今年も夏が終わりました。
私の今年の夏の音楽はギターでした。前半はデレク・ベイリー(Derek Bailey)のギター・インプロヴィゼーションを何枚も買い集め、そればかり聞き続けておりました。後半はたまたまラジオで聞いたジェフ・ベック(Jeff Beck)に魅かれ、彼の近年のCDに聞き入っておりました。デレク・ベイリーの歪んだ音楽展開、ジェフ・ベックの歪んだギター・サウンド。この夏は私は歪みを欲していたのかもしれません。
いや、私の生活自体が歪んでいたのかも。
仕事はたくさんしました。でも定期的な授業がないので、スケジュールは比較的自由で、いつもの悪い癖で一日14〜16時間働く日々を続けたかと思うと、がくんとペースダウンしたりといった繰り返しでした。
私は仕事を衝動的にやっているのでしょう。私の「仕事」は、静かな心からのものではなく、焦燥や野心からのものなのでしょう。だから小さな仕事、ちょっと手を加えればすぐに済む他人のための仕事を後回しにしたりして、このように駄文を書く時間を作り出したり、自分の好奇心であちらをかじり、こちらをかじるといった読書をしたりしているのでしょう。「私の地位とは何か。私が仕えるのは誰か/何か。私とは何か。私のなすべきこととは何か」----こういった静かな振り返りと共に毎日が過ごされれば、私の「忙しい、忙しい」という焦りはずいぶん少なくなり、私のなすべきことももっとなされるのでしょう。
静かな心を取り戻さねばなりません。
目の前の小事に心を込める態度を学ばねばなりません。
Do small things with a great heartとはMother Teresaの言葉でした。)
ようやく空気が秋らしくなり、連休に休養を取ったら、久しぶりにクラシックも聞く気になりました。
Grigory SokolovによるBachのDie Kunst der Fuge BWV 1080 (Naïve OPUS111 OP30346)を聞きながらの駄文でした。

Soli Deo Gloria

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Derek Bailey, George Bendian, Paul Wertiico & Pat MethenyによるThe Sign of 4 (2005/6/2)

疲れてストレスがたまってしまったので、Derek Bailey, George Bendian, Paul Wertiico & Pat MethenyによるThe Sign of 4の三枚を一気に聴きとおしました。頑なに凝り固まってしまっていた私の心身にとって爽快な音楽体験となりました。
一枚目のSTATEMENT OF THE CASEは、ツイン・ギターとツイン・ドラムのパワー全開で、ノンストップで一時間あまり音楽が続くライブ録音です。ありきたりのパターンどころか、繰り返しすらほとんど感じられない音楽の流れに一時間あまりも浸り、私はどうしてこんなにこの人たちは頭がいいのだろう、センスが突き抜けているのだろう、つまりはクリエイティブなのだろうと驚嘆し続けました。このような音楽の驚きは、かつてシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」で感じたことはありましたが、こちらの方は、シェーンベルクよりさらに(さらに、さらに、さらに)パワフルな音楽の洪水のようでした。
二枚目のSCIENCE OF EDUCATIONはスタジオ録音。多彩な打楽器が使われ、音と音のあいだの間(ま)----これって重複表現?----が美しいです。これも飽きない。そして何かしながら片手間に聞ける音楽でもありません。かといって緊張を強いるような音楽でもありません(私はこの音楽でストレスからみるみる解放されましたから)。
三枚目は再びライブ録音のTHE BALANCE OF PROBABILITY。今度はギターサウンドも多彩になります。途中、何度かパット・メセニーの特徴的な音は聞かれましたが、彼の一般に知られているようなフレーズやメロディーは聞かれずに、音楽はどんどんと紡ぎ出されてゆきました。パットは奥が深いなあ。それともちろん、デレク・ベイリーのギターのセンスも凄い。この三枚目の最後にパットが盛り上げるだけ盛り上げて、デレックが余韻を残すところなんてところもわかりやすい一例。ライブ録音の拍手と歓声には私も全く同意です。このデレク・ベイリーという人は本も出しているみたいだし、どうやら知る人ぞ知るギタリストらしいです。またCDを集めたい楽しみなミュージシャンが増えた!
音楽とは動きであり、必然的に「今」でしかありえないと思います。「教養」的に過去のカタログとしてしかジャズ(そしてクラシック)演奏を捉えないのは間違っているように思います。ていうより退屈じゃない?

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菊地成孔・大谷能生 『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編』 (メディア総合研究所、1680円) (2005/6/1)

日本で「音楽批評」として売られている本や雑誌記事は、概してレベルが低いと思いませんか。ひどい場合は、私がここに書き連ねているような無料ネット=ゴミ溜め文章(注)とどこが違うのかよくわからない。単に思い込みを書き連ねているだけで、読むほどに語彙が貧困になり、発想が固定化し、センスが悪くなり、顔つきがいやらしくなる----そうとも考えたくなるようなバカ本が多すぎます。
で、この本は、そんなバカ本とは、全くに類を異にする良書です。ピバップとモードを中心に、モダンジャズを歴史的に分析し、20世紀クラシック音楽やブルーズあるいはジェームズ・ブラウンなどとの関連も明らかにする。さらに時代ごとの風俗や国策などの社会分析も絡める。おまけに私のように楽譜が読めない人間にもわかるように楽理の初歩の初歩も解説してくれる。とどめに講義の語りだからスラスラ読めて、んでもって著者が、ジャズメンらしく、品が悪いがセンスはいい諧謔を随所にちりばめている。もう歓喜するしかないような本です。これが1680円とは無茶苦茶良心的すぎる!
私は読んでいて、何度も「なるほどそうだったのね」と肯いたり、「うーん、知らなかった」と感心したりして、一気に読み終えました。「えっとー、私もー、ちょっとー、ジャズなんかをー、聞こうかなーとかー、思ったりー、してるんですけどー、てゆーかー、ちょっとー、オシャレみたいなー、感じだしー」などといった冗長な言葉遣いでしか物事を語れないような知性の持ち主には薦めませんが(ごめんよ、率直な物言いで。私のような中途半端な知性の持ち主はすぐに他人をバカにしようとするのよ)、少しでもジャズに興味を持っている音楽ファンには是非是非お薦めしたい本です。
それにしてもこの菊地成孔さんという方は非常に魅力的な人物です。私は今までにお名前をどこかで見たことがあったぐらいの記憶しかなかったのですが、今後、注目することにします。

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(注)もちろんネットの中にも素晴らしいページはあるわけで、例えば私が最近見つけた(私好みの)ジャズのサイトでは、ジャズCDの個人ページhttp://homepage3.nifty.com/kudojazz/index.html)や、jAZZHOLEhttp://www.geocities.jp/ecmlistener/index.html)なんかは、その圧倒的情報量(そしてそこから自然と生まれているセンス・判断から)私は非常に参考にさせていただいております。その評論の方針も、ジャズCDの個人ページでは「素人のコメントです。あまり気にしないで下さい。自分の聴いたことのあるCDの感想を形に残しておきたいことと、皆さんが一枚でも多く、これは、というアルバムに出会えたらうれしいなあ、ということ、そして、同じ方向性のファンが増えればそれだけその種のジャズのCDが入手しやすくなるかも しれない、という 比較的単純な理由で作成しています」、jAZZHOLEでも「ここで偉そうに「評価」などという言葉を使っていますが、要するにある作品に接した時に私が感じる幸福度を示しているにすぎません(音楽の価値判断に関してそれ以外の判断基準を持ち合わせていないもので...。)従って、この評価によってミュージシャンの才能や価値を貶めたり、逆に絶対視する意図は毛頭無いことを前もってお断りしておきます」と、あくまでも謙虚です。お金を取っているくせに、情報量もセンスも謙虚さも何もないバカ本の商業音楽評論は、早くこのように良質なネット文化によって駆逐されてほしいと思っています。(うーっ、なんだか今日は凶暴だなあ。疲れているのかなぁ)。

追記:以下の引用は、この私のゴミ文章や、ネット上(特に掲示板)にはびこるクズ文章の害から、私たちを守るためにおこなうものです。少なくともプロの評論家の方は、こういった批評をおこなってほしいと思います。そうしないと、有料出版文化という良質の文化は、無料ネット文化の悪質な部分に駆逐され、「心理的暴力」に長けた者だけがはびこるような社会が生まれるのではないかと私は危惧します。

ところで、批評という行為には、自分が実際に経験した事柄以外へと開かれていく、外部的な視座・観点というものが不可避的に必要になってきます。例えばこの講義で学習してきた「歴史」というのも、私たちの外部にあるものです。個人の嗜好、経験、身体性、心の問題といったパーソナルな要因が批評に必要なことは当然のことですが、実際に批評を書こうとするにあたって、そういった個人的なファクターと外部からの批評視座とのあいだには、必ずノイズや軋轢が生じます。自分の身体の反応と、外部から与えられた教育や歴史との相克というものを、記述の中にどうにかして捩じ込む。という行為が批評だと言えるわけですが、昨今ネット上などで見られる批評の多くは、外部に目を向けるのは苦しいからそういった擦り合わせをまったく放棄して、自身の身体性一辺倒で物事にあたる、といった方向に塗りつぶされつつあるのが現状だと僕は思っています。こういった態度から何が生まれてくるかというと、現在の自分の尺に合ったもの、気に入ったものに関しては「偏愛」する、で、気に入らなかったものに関しては「無茶苦茶なクレーム」をつける、といった、ある種の心理的暴力とも言えるような批評ばかりが増加することになります。これはさ、インターネットっていうツールが持っている外部遮断能力の高さにも関係があると思うんだけど、現在、どのような分野においても、いわば「分断して統治する」っていうシステムが是とされているわけですね。こうした状況が招いた事態ですが、そういった現在だからこそ「何かを勉強して何かを批評する」という作業が非常に重要であると思っています。
菊地成孔・大谷能生 (2005年)『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編』 メディア総合研究所、244ページ

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(2005/4/22)
4月19日にアステールプラザ大ホールで開かれたパット・メセニー・グループのコンサートは本当に素晴らしいものでした。18:30から21:15の2時間45分間、パット・メセニーと彼の仲間たちが作り出す音楽世界に本当に浸りきりました。
最初は照明もまだ明るいうちに、拍子抜けするぐらいあっけなくパット・メセニーが登場します。そしてアコギを弾いているうちに、メンバーが次々に客席の横から入場。そして新作The Way Upの演奏が始まります。この作品はCDでは68分あまりの大作で、OpeningからPart Threeまで連続して演奏されます。さまざまな音響も使われる凝った作品ですが、これはライブでも忠実に演奏されました。ということは元々ライブで演奏されることを前提としてこの作品は作られたのでしょう。パット・メセニー・グループはライブを大切するバンドであるとの思いを強くしました。
そういった姿勢はパットの演奏態度からも十分伺えます。登場してから最後の曲を終えるまで、なんとパットは一度も休憩を取ることもなくギターを引き続けました(他のメンバーは、それぞれ適当に曲の合間などにステージ裏にひっこんでいたのですが)。まるで自分のバンドなのだから、自分が演奏するのは当たり前、といわんがばかりに演奏し続けて、最後に自然で、とびきりに素敵な満面の笑顔を見せる。本当に音楽が好きで好きでたまらないのだな、と思わされました。
The Way Upの70分あまりの連続演奏の後は、これまでのパットの名曲を次々に演奏してゆきました。ドラムとのデュオ、ベースが入ってのトリオ、ピアノが入ってのクインテット、そして再びパット・メセニー・グループ、最後にアコギとハーモニカ、あるいはピアノ。どれも凡庸な繰り返しとは無縁の、汲めども尽きせぬ音楽の展開です。比較的大きなエレキのリズミカルな奏法、小さな茶色の疾走するギター、見たこともないような形のギターの多彩な色彩、アコギの特殊奏法、パット・メセニーの音楽世界は本当に多彩です(またドラムが良かった!)。
Pat Metheny (g. syn), Lyle Mays (p. key), Steve Rodby (b, cello), Cuon Vu (tr, vo), Gregorie Maret (hca), Antonio Sanches (dr)というPat Metheny Groupは世界有数のクリエイティブな音楽集団といえるのではないでしょうか。
下にこのグループに関して、私はやや否定的なことを書いてしまいましたが、これは二つの意味で間違いでした。一つはCDで聞いただけで判断していたこと。やはり音楽はライブで判断しなければ。そして、それよりも大切なことは、私が音楽を、言葉から聞いてしまったこと。作曲家・演奏家自身の言葉とはいえ、私はその言葉から音楽を聞いていた。これは間違い。言葉から音楽を聞いたから、言葉の判断で、別のカテゴリーの音楽を比べるという愚を犯してしまった。音楽は音楽。音楽の判断は決して言葉でやってはいけないと思いました。たとえそれが評論家の言葉であろうとも音楽家自身の言葉であろうとも。
それにしても素晴らしいコンサートだった。音楽の、芸術の、人間の底知れぬ力を感じました。
追記(2005/5/1):後でCDを聞きなおしてわかったこと。CDはきちんと、コンサートに準ずるぐらいの大音量で聞くべし。私は、昨日ある程度の音量を出したら、初めて、彼らが演奏に込めた細かなニュアンスがCDでもわかったような気がしました。ちなみにコンサートのPAの質は非常に良かったです。

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(2005/3/9)

ふとCD棚から取り出して聞いたPaavo Heininen(1938-)のPiano Works (FINLANDIA FACD 407)にはもう圧倒されました。

その直前に聞いていたCDはPat Metheny Groupの新作The Way Upで、これ

に関しては、パット・メセニーの

At the time we started writing, we saw this as a kind of protest record. It could be seen as our protest against a world where fear has become a cultural and political weapon, a protest against a world where a lack of nuance and detail is considered a good thing, a protest against a culture that values that which can be consumed in small bites over the kinds of efforts and achievements that can only come with a life-time of work and study.

という発言を前もって知っていましたから、なるほど(広い意味での)ジャズで、ニュアンスとディテイルを描き、軽々しく消費されることを拒否する抵抗の音楽としては、このようなものになるのかと思いながら聞いていました。

でもHeininenのピアノ作品は凄かった。12音と特殊奏法が無理無く自然に使われ、それこそ絶妙なニュアンスとディテイルを描きだしています。これこそ騒がしく慌ただしい現代文明に対する抵抗の音楽です。私はパット・メセニーのファンであり、クラシック音楽至上主義者では決してありませんが、ニュアンスとディテイルによる現代へのプロテスト音楽として考えるなら、Heininenのピアノ作品は段違いです。1970年代の作品なのですが。

今私はこのくだらない雑文を書くため、ステレオセットから離れたパソコンに向かいながらそのCDをかけていますが、このCDはそのようないいかげんな聞き方を許しません。

ステレオの前にもう一度戻ることにしましょう。このように安っぽい文章のくだらなさを知ることが、このCDを聞くことの意味の一つなのでしょうから。

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(2005/2/26)

オルガン曲にはまって、オルガンのCDばかり聞いていたのですが、ふと直感的にメンデルスゾーンのCDを選んでかけたら-----ノックダウンしてしまいました!

Joseph Swensen conductor/violine, Scottish Chamber Orchestra: Felix Mendelssohn, Violin Concerto, Symphony No. 3 'Scottish', Hebrides Overture (LINN CKD 205 ただし現在はSACD/CDハイブリッド盤で発売)なのですが、これは私の音楽のお師匠さんが、レファレンスCDとして使っているもので、それほどのCDなのならと以前、買ってはおいたのですが、正直、曲目自体はそれほど食指をそそられるものではないので、ほとんどまともに聞かずにCD棚の中に眠っておりました。

それをまあ、ちゃんとメイン装置(Denon DCD-S10 + Fidelix SH-20K(サウンドデン改造)+ Accuphase E-306 + Exclusive 2251、ケーブルはどれもサウンドデン製の銀単線))の前に座って聞くと、これはびっくり。ほんとコンサート会場にいるようです。もうただただ音楽の愉悦。美的快感の世界に没入です。

私は広島交響楽団の定期会員になって、ここ三年間であれこれ30回以上はコンサートに行っていますから、いかに感性が鈍く耳の悪い私とて、コンサート会場で聞く音楽というものにはだいぶ慣れました。それで私の意見としては、やはり会場で聞く生演奏と部屋でのCD再生は異なるもので、CD再生、あるいは2チャンネル再生では、会場の空気を感じることは不可能ということで固まっていましたが、このCDでは空気感が感じられます。なんせCDをかけはじめたら、コンサート会場にいるみたいに胸がドキドキしたもの。目を閉じるといつものように会場で生のオーケストラを聞いているみたいでした。こんな体験が自分の部屋でできるとは思わなかった。

やはり録音は大切。これほどにいい録音だとCDの2チャンネル再生でも相当の再生ができます。いや、すばらしい70分あまりの音楽体験でした。

追記:サブシステム(フィリップスの1万円ぐらいのDVDプレーヤーによるCD再生+ヤマハの4万円ぐらいのプリメインアンプ+自作16センチスピーカー)では、やっぱり駄目です。録音がいいのはわかるけど、コンサート会場の雰囲気なんてまったく出ない。やはり装置はある程度のお金をかけないと駄目です。せっかくのCDがもったいない!

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(2005/2/6)

探検家と呼ばれる人達がいます。

とにかく世界を知りつくしたい。あの海の彼方には何があるのか、あの山の上では何が見えるのか。あの川をのぼりつくしたら、あの砂漠を越えたら----探検家はとにかく、世界を知りたいという衝動に駆られます。財産をつぎ込み、社会的安定を捨て、家族的なものとも疎遠なままに、危険をかえりみず、探検に出かけます。常人にはとてもできないことで、世の人は探検家を変わり者扱いします。親戚や知人に探検家を目指すという人が出てきたら、常識あふれる世の人はその人を止めるでしょう。

ですが世の人とて、探検家の気持ちがわからないわけではありません。探検家がもたらす珍しい事物や写真を世の人は楽しみ、100年前、200年前の探検家が切り開き、現在ではすっかり知られ安全になった観光地へ出かけ、ちょっとした探検気分を味わいます。

世界を知り尽くしたいというのは、おそらく全ての人間が持つ特質なのでしょう。探検家とて人間には違いないのです。ただ世界を知りたいという衝動が強すぎるだけです。

探検家は外の世界を目指します。ですが世界は内にもあります。内の世界を目指す探検家もいます。それが哲学者であり音楽家です。

哲学も音楽も、基本的には、対象物を外的世界に持ちません。もちろん、哲学の出発になるのは外的世界の現象であったり、音楽の起点も外的世界の音だったりします。ですが、哲学と音楽は根本において内的世界の探究です。哲学は概念という、言葉をもつ人間の内的世界現象を対象にし、音楽は心に浮かぶ音的イメージを対象とします。人は概念を探究することによって哲学をつくり、音的イメージを探究することによって音楽をつくりだすとはいえないでしょうか(ちなみにフィンランドの指揮者ヨルマ・パヌラはこう言っています。「音楽は哲学のひとつです。考えることは基本です」(『レコード芸術』2004年11月号、56ページ))。

哲学者も音楽家も、探検家と同じように、世間から見れば変人です。しかし、探検家が常識的人間の延長上にあるように、哲学者も音楽家も世間の人の延長上にあります。探検家も哲学者も音楽家ただ衝動が強いだけなのです。外的にせよ内的にせよ、世界を知りつくしたいという衝動が、世俗的な関心を上まってしまっているだけなのです。

いつものように思いつきをぐだぐだ語りました。ですが、哲学者と音楽家に中途半端にあこがれる俗人として----私には哲学者にも音楽家にもなれるだけの才能も献身も教育もありませんでした----、ひさしぶりに丸一日空いた休日の大部分を、音楽を聞くことに費やしていたら、このようなことを考えてしまいました。特に聞いた音楽が、20世紀の作品だったからかもしれません。

上に挙げた『レコード芸術』の特集記事(「北欧交響曲作品紹介:その他の作品」、津田忠亮)にひかれて、ノルディックサウンド広島(http://home9.highway.ne.jp/nordic/)で、20世紀の北欧音楽の交響曲作品を何枚か買っておきました。しかしこのような作品は、平日に疲れて帰ってきて、すぐに聞ける作品ではありません。BGMとして聞き流す音楽でもありません。ゆったりとして、時間にしばられない一日が必要です。ようやくそういった日が取れたので(それに体調もよかったので----疲れた体ではこのような作品は聞く気になれません)、まとめ聞きをしました。

まずはカレヴィ・アホ(Kalevi Aho)。上の記事では交響曲第9番が紹介されており、今日もそのCD(BIS-CD-706)から聞き始めましたが、私はその曲(1993-94)よりも、Concert for cello and orchestra(1893-84)の方を面白く聞きました。オーソドックスな楽器群に、アコーディオン、マンドリン、オルガンなどが加わり、精密微妙な響きが展開されます。それに時折訪れる音の洪水には圧倒されました。

でも私が一番好んだのはRejoicing of the Deep Waters(1995)と交響曲第10番(1996)がカップリングされたCD(BIS-CD-856)でした。前者の曲に関しては、CD解説は次のように言います。

It is a question of an image of the deep waters of our subconscious and simultaneously, its ominous, underlying passions.

まさに。私たちの内的世界への探検は、日常生活ではなかなかに経験できないような世界を私たちに見せてくれます。でもこれも私たちの世界なのです。この曲の訴えかけてくる音響世界は私を捉えて離しませんでした。

交響曲第10番は、弦が美しい作品です。途中に出てくるブルックナー交響曲第9番第3楽章からの引用も印象的です。それでいてRejoicing of the Deep Watersに負けない実存的な力強さを持っています。私にとってこのCDは大切なCDになりそうです。

続いて聞いたのは、Symphonic Dances(2001)と交響曲第11番(1997-98)の入ったCDです(BIS-CD1336)。前者は外向的な音楽だな、と思っていましたら、解説によるとこれはバレエ音楽とのこと。フィンランドの作曲家Klamiの未完のバレエ音楽をアホが完成させたのがこの作品だそうです。"I did not wish to overmodernize the music of the Symphonic Dances."とはアホの言葉。聞きやすくて、それでいて深みのある音楽です。聞いていて、私はこれのバレエ上演を見たくなりました。

交響曲第11番にはfor six percussionnists and orchestraというタイトルがついています。パーカッションの通俗的なイメージから、私はドカドカドンドン的な作品を予想したのですが、実にスマートでデリカシーのある作品でした。そういえばアホの顔写真は、いい顔しています。

アホは、フィンランドの地方都市ラハティ(Lahati)の交響楽団(Lahati Symphony Orchestra)のcomposer in residenceとしてこういった作品を次々に発表していますが、彼と彼の住むラハティの音楽文化の高さには驚かされます。お金だけだったら日本の音楽界にもそれなりのお金があるのかもしれないけれど、残念ながらこのような質の高い音楽文化はありません(少なくとも私の知る限り)。やはり文化はお金ではないのです。

それではラハティには何があるのでしょう。これは全くの想像ですが、自然と時間なのかもしれません。人間の持つ感性に霊気を与える自然と、それを育むゆったりとした時間がある。内的世界の探検に必要なのは、自然と時間とはいえないでしょうか。

でもそれなら日本にも、いや私にもチャンスはある。生活にできるだけ自然と時間を取り戻すこと----これは私たちにもできることでしょう。

話をCDに戻します。

次に聞いたのが、これまた上の記事で紹介されていたヒルディング・ルーセンベリ(Hilding Rosenberg)の交響曲第4番「ヨハネの黙示録」(The Revelation of St John)。交響曲といっても、バリトンの独唱と合唱が入る、きわめて宗教的な作品です。

作品が完成したのが1940年。ヒットラーの台頭の時代です。そのような時代に、単に人生訓として四大福音書などを読むのではなく、ヨハネ黙示録のような神秘的な書も受け入れるクリスチャンは、どう考え感じたのか。その問いへの一つの回答がこの曲であるように思えます。

とはいってもルーセンベリは、この曲を彼の時代だけに限った作品としては作りませんでした。彼は、聖書が引用される部分に20世紀的書法の音楽を使って聖書の現代性を劇的に訴え、現代詩人による詩が歌われる部分に伝統的なアカペラ合唱を使って悪と暴力の問題が人間にとって古から続くものであることを示しました。78分という大曲ですが、私は訳詩を読みながら、集中して聞きました。現代的響き(といってもやはり20世紀前半ですから、今の耳からすれば耳慣れた響きです)の緊迫したオーケストラ演奏とアカペラ合唱の痛ましい美しさ、それらをすべて引き受けるコラールとフィナーレは感動的でした。

その感動を受けて、記事に紹介されていた他のCDを聞くのを止めて、ひさしぶりに同じスウェーデンの作曲家Sven-David Sandstrom(1942-)のHigh Massを聞きました。作曲された正確な年はわかりませんが、おそらく90年代と思われます。バッハのミサ曲ロ短調を意識して作られた曲です。

それにしても、この現代において神を信じるということはどういうことなのでしょう。私は宗教音楽を聞くたびにそのようなことを考えてしまいます。

現代日本の常識的感覚からすれば、神を信じるなど、偽善であり欺瞞です。蒙昧であり愚鈍ともいえるでしょう。人によっては破廉恥とすら言うかもしれません。

そのような中、臆面もなく「神よ憐れみたまえ」(Kyrie)と言うこと。世間の競争の勝利の栄誉ではなく神の栄光を語ること(Gloria)。自然科学の知見に反する信条を告白すること(Credo)。世俗社会で生活しながら神の聖性を賛えること(Sanctus)。人の子を「神の子羊」とすること(Agnus Dei)----この曲は、現代おいて神を信じることの美しく力強い表現であるように思えます。

少なくともKyrie冒頭パートの衝撃的なベルの響き、Gloria冒頭パートの圧倒的な合唱、Credo冒頭パートの息をのむ美しさ、Crucifixusの圧倒感とEt resurrexitの喜び、Sanctus冒頭パートの歓喜、Agnus Deisの最後の消えゆく響き----これらは信仰への興味があろうとなかろうと、音楽愛好家の耳をとらえることでしょう。

20世紀の音楽は、観光地のように世俗化した世界ではありません。まだ多くの人々にとっては未開拓の内的世界です。でもこれが人間世界の可能性なのです。私は中途半端な変人としてこういった音楽をわくわくしながら聞き続けるでしょう。もちろん21世紀音楽も。

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(2005/2/5)

書上奈朋子(かきあげ・なほこ http://www.music-vantec.com/kakiage/)をラジオで初めて聞くや、私はアマゾンで即刻彼女のCDを注文しました。

もう10年も前になるのでしょうか。タワーレコードの試聴コーナーでMassive AttackのProtectionを聞いた時から、私はいわゆる「トリップ・ホップ」の哀切感あふれる音楽に心惹かれていました。ですが、なかなかこのような音楽には出会えない。ヒット・チャートをにぎわすような曲ではありませんからね。Massive Attackの次の作品であるMezzanineにはどこかなじめませんでした。

その後、スカパーのMusic Air Networkで、Portisheadを偶然見たら、これはぴたりと私の求めていた音楽で、以来、CDのPortisheadとLive: Roseland NYCは愛聴盤になっています。

愛聴盤といってもいつも聞いているわけではありません。いや、積極的に聞きたい音楽ではない。聞かざるを得ないときにすがるように聞いてしまう音楽です。ささやくような妖しい女性ボーカルと繊細微妙なインストゥルゥメントは、退廃的で、ある意味、病的でもあります。グロテスクといってもいいのかもしれません。もし自分の隣人を、その人が好む音楽で決めていいのなら、私はこのような音楽を好む人は選ばない。でも、そんな自分自身が、時と場合によるとはいえ、こんな音楽に惹かれているのは、否定できない事実です。

そして書上奈朋子を聞きました。Massive AttackやPortisheadよりも、もっと繊細で、痛切で、心に沁みてきます。これは私にとってまぎれもない同時代の音楽です。そういえば、今、思い出した。阪神淡路大震災とオウム真理教事件で、もう何がどうなってしまったかわからなくなっていた1995年の夏にこれまたラジオで偶然聞いた谷山浩子の「漂流楽団」も、その時代の空気を----私が感じていた行き止まりの感じを----見事に表現していました(もっともこのCDで私が好きなのは最初の三曲だけだったのですが)。

そして2005年。Massive Attackや谷山浩子から10年がたちましたが、時代がもたらしている(と私には思える)、「明るい中の閉塞感」は、まだ消えません。モノがあふれる中で感じられる現代の哀しさと切なさをわかってほしい。あなたはそんな気持ちになりません?

書上奈朋子のファースト・アルバムのBaroqueのライナーノーツには、彼女の次のような言葉が引用されています。

「インスピレーションのひとつになったものに、メキシコのバロック建築様式を持つ建築物の写真があるんですが。それは・・・簡単に言うと、やり過ぎちゃてる建物で、中の装飾なんかグロテスクな程に施されていて、ひとつひとつが立体なの。遠くから眺めると、すっきりとして美しいんだけど、近くで細部や中を見ると、やり過ぎていて気持ちが悪い。日光東照宮もそんな感じですね。でも、そのやり過ぎを見ていると、切ない感じが伝わってきて・・・人間が、宗教とか音楽に頼るとき、ついやり過ぎて、切なくなる所までやってしまうというモノ。私は、あまりナチュラルそのものというモノは好きじゃなくて、人間が、やり過ぎてしまった結果生まれるナチュラルさ・・・私はそれをアンコンシャス・ビューティ(無意識の美)と呼んでるんですが、それにとても共感できるんです。」

「自然を失ってしまった人間の哀歌」とでも呼べばいいのでしょうか。人工世界で行き着くところまで行ってしまったが、それでいても自分は生き物でしかない人間の矛盾を歌っているとでも言いましょうか。セカンドアルバムPsalmは、より深く、切なくなったようにも思えます(また日本語で歌う歌がいいです。特に「愛されない恋人」)。

書上奈朋子は私にとっては、同時代音楽です。例えば最近のニュース映像集にこの音楽を重ねて流したら、この時代の悲劇的でグロテスクな空気がよく伝わるとも私は思うのですが。

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(2005/1/18)

小旅行へ行ってきました。

毎日が慌ただしく過ぎ、人生の見通しが持てない。たまの休みも、たまっている新聞を読んだり、録画したままになっている映画を見たり、あれこれと買った本を乱読したりして、ひたすらに外の情報ばかりを詰め込んで、自分の内を静かに見つめるということをしない。これは環境を換えないと、自分の心に耳を澄ますことはできないかと思い、小旅行へと出かけました。

といっても家の中の小旅行。テレビを消して、本も持たず、ただCDだけを聞きました。それだけのことです。音楽ファンなら当り前のことでしょうが、どうも「ながら」の癖をつけてしまった私は、家でCDを聞くときはついつい本や雑誌、はては新聞を読みながら、というのが常態となっておりました。

そうして耳と目の両方から違う情報を入れたら、二倍賢くなるのかといえば、むしろその逆で、聞くことも読むことも中途半端で、心のうわべだけを音楽も読書もかすめていっているような気がします。もちろんテレビをザッピングするよりかは自分の内面に向かえるのかもしれませんが、「ながら」は「ながら」。結局、聴覚と視覚の情報ばかり入り、心の充実がなおざりになっていたのかもしれません。

で、自分の心の中への小旅行を試みました。本当なら音楽も聞かずにただ座禅や瞑想などすればいいのかもしれませんが、日頃自分の心に向き合っていない私は、一気にそこまではできない。すれば、沈黙の中で私はうろたえ、たちまち心への旅からあたふたと抜け出してテレビのスイッチでもつけてしまうでしょう。

というわけでCDを聞くことに専念することにしました。音楽の流れに任せて、内なる思考や感情、感覚や直観が生じるに任せることにしました。音楽を聞くことだけなら、コンサート体験も同じなのかもしれませんが、家でCDを聞く場合は、目の前に動く演奏家がいるわけでもなし、ただ椅子に深く腰掛け目を閉じて音楽に耳を傾けるわけですから、コンサート体験よりも、より内的な体験になりやすいのかとも思います。

選んだCDはメシアンのトゥーランガリラ交響曲(注)。年末に偶然ラジオで聞いた時は、その多方面に展開するような音響世界が、ぴったりと私の心を捉えたので、すぐにCDを買っていたのですが、それを座って最初から最後まで聞きました。といっても肩をいからせて聞いたのではなしに、ひたすらにリラックスしてゆっくり呼吸をしながら聞きました。

聞いてみると全体を通して、驚くほど統一感があり、これはまさに交響曲に違いないと私は一人合点をしました。その統一感の中で次々に見えてくる音の風景につれて、私も日頃忘れていたり抑圧していたりしていた心の世界のさまざまな部分を見ることができたと思います。ひさしぶりに家で専心して聞いたCDは、実に心豊かな経験を私にもたらしてくれました。

勤め人にとって、平日に一枚のCDを最初から最後まで聞くというのは、相当に贅沢なことかと思います。私にしても、持って帰った仕事を「えい、ままよ」と放り出したからこそ、このCDをゆっくり聞けたわけです(まあ、その後調子に乗って、こんな駄文を書いているのですから、私はずいぶん自己中心的で勝手な人間に違いはないわけですが)。しかし、できれば、このような時間は毎日持ちたい。心落ち着けて自分の内面と向き合う時間を毎日持ちたい。さもないと自分が情報ばかりを詰め込もうとするまるきりの馬鹿になってしまいそうです。

(注)でもつい店にあった国内廉価盤を買ったのは失敗だった。録音が悪い。このような音響的作品で音が悪いというのはちょっと厳しい(まあ聞いているうちに慣れてしまうのもおそろしいのだけれど)。録音のいいCDを今度買うことにしましょう。

(2004/9/25)

大型書店に並ぶうんざりするぐらいの本の山の中から、およそ買われ、さらには単なる情報伝達媒体としてページの耳を折られ傍線を引かれ無残な姿となることを拒む、作品として自立した本があるとしたら、それは自らの文体を持ち、何度も味わうように読まれることを読者に当然のこととして要求する本でしょう。モブ・ノリオの『介護入門』はそのような本であるように思えました。

冒頭の一部は次のように語られます。

一日が終わる。今日したこと----昼間ひとりでスパゲッティを食べたのと、夕方絵を描こうと思い立って結局描きもせず、水の色ばかり見ていたこと。その他は覚えていない----嘘だ、俺は絵なんて描いた例しがない。夢でそんなコマーシャル・ビデオを見た気になっているのではと疑いだせば俺の記憶は際限なく確かさを失い、その疑う行為すら、あるかないかもわからぬ確かな場所で落ち着きたがっているだけのような気がして、YO、朋輩ニガー、俺がこうして語ること自体が死ぬほど胡散臭くて堪らんぜ、朋輩ニガー。夢か、リアルか、コマーシャル・ビデオか、麻の灰より生じた言い訳か、悟っては迷う魂の俺から朋輩ニガーへ、どうしたって嘘ばかりになるだろうから聞き流してくれ。俺はシャイな男だ。

もちろん文体だけが優れているという本はありません。文体とはスタイル。スタイルは生きることを正面から受け止めることから自然と生まれるもの。優れた文体/スタイルとは、借り物ではない、自分の人生から生じるものです。この作品の場合は、祖母の介護という人生です。親の経営する会社で働くことを止め、「祖母とも向き合わず、母とも向き合わず、己独りで生きてきたようなツラをして、エゴイスティックに《音楽》のことだけ考え」てニューヨークに旅立った「俺」が、電話で突然呼び戻され、介護の日々が始まり、その介護の毎日を通じて「《不幸な介護苦を背負った俺》や《特別な孝行をしている俺》から解放されるのを感じる」ようになった人生です。

たまたま同じ日に中古CD屋で見つけて買ったNick Cave & the Bad SeedsのNocturamaというアルバムの冒頭のWonderful Lifeは、私がこの作品を読んだ直後に聞いた曲でしたが、まるでsynchronicityを思わせるような歌詞を持っていました。

Come in, come in

Come in, come in

To this wonderful life

If you can find it

And if you find it

It's a wonderful life that you bring

It's a wonderful, wonderful thing

It's a wonderful life

It's a wonderful life

破滅的な人生を送っていたNick Caveが、最晩年のJohnny Cashを思い起こせるような深い声とシンプルな楽器編成で----評論記事でThe TimesはNick CaveをMan in Black IIと評しました----こう歌うとき、上の歌詞は特別な説得力をもって聞こえてきます。モブ・ノリオと通じるものはあると私は感じました。

追記

上の文章を書いて、「そういえば」と思い出してぱらぱらと再読してみた小泉義之『レヴィナス 何のために生きるのか』NHK出版は、やはり、モブ・ノリオ、Nick Caveと通じるものがありました。以下は引用です。断片的な引用ですからわかりにくいかもしれませんが、何かを考えるきっかけになるかとは思いますので書き写します。

加えて、レヴィナスの享受論からすると、幸せに生きることはすでに実現している。私たちは幸せに生きるために仕事をしているのではなく、仕事をしているというそのことで幸せに生きているのである。レヴィナスの語法に関して誤解を避けるために注意しておくが、病気を押して苦しみながら仕事をするということそのことが、深いところで、仕事を享受して健康に楽しく生きることなのである。病気を押して苦しみながら仕事をするそのときに、当人は死なずに生きているし、死ぬことを選んでもいないのだから、現に何ものかを享受して生きている。そのことを「幸せに生きる」と言わずして、「幸せに生きる」などという言葉は使いようがない。

だから、何のために生きるのかという問いに対して、幸せに生きるためと答えても虚しい。幸せが実現不可能だからということで虚しいのではない。そうではなくて、現に幸せに生きてしまっているから、そんな目的を掲げても虚しいのだ。幸せについては、いま、ここで享受している以上のことは、決してこの世では享受できない。この世で生きているというそのことが、幸せに生きるということである。レヴィナスの生涯を顧みて、こう言い直してもよい。戦争と虐殺からの生き残りにとって、生きのびているというそのことが、幸せでないはずがない。pp.26-27

 

人生論のほとんどは、人生の目的をエゴイズムに見い出している。これに対して、レヴィナスはエゴイズムを乗り越えていくことになるが、エゴイズム(利己主義)に利他主義を対抗させるという仕方で乗り越えるのではない。その乗り越え方は独特である。そこを考える前に、幸せに生きることも、ただ生きることも、エゴイズムであることを確認しておこう。p. 22

 

何のために、自分のために生きるのかと問うとき、形而上学的欲望に駆動されて、真の生活を探し求める。自分のためと人生とは別の仕方で他の場所で生きる真の人生を探し求める。当然だが、それは、自分のための人生の中にはない。私たちは、自分のための人生から逃走したいと欲望するからだ。

それはどんな生き方なのか。真の人生は、どんな人生なのか。どんな生き方で、どんなところで成り立つのか。いま、ここで、なのか。遠い未来においてなのか。遠い過去においてだったのか。自問自答は続く。これに対して、レヴィナスは主張する。そんなことは、自分では決められない。自問自答で決められることではない。何のために生きるのかと自問自答し、何のために、自分のために生きるのかと自問自答を積み重ねて、自分で決められると信じ込んでいるかぎり、真の答え、真の人生が示されることはありえない。自問自答を繰り返しているかぎり、自分のために生きることに変わりはないからだ。では、何のために、自分のために生きるのか。pp.32-33

 

自分のために生きているだけでは、同じものや似たもの同士の集団に埋もれて、自問自答に閉じ込められるままである。そんな閉鎖空間を打ち破るようにして、他人が問いかけると、私は新しい自由を手にして新しい答え方を考えられるようになる。他人に対する私の答えは、何であれすべてが、他人からの問いに対して、他人からの問いのために、発せられるから、そのかぎりでは、私の自由と責任は他人によって正当化される。他人からの問いかけと訴えに答えようとするかぎりでは、他人との関係においては、私は生きていてもよいし、生きていることが赦される。そのとき、私は、自分のためにではなく、他人のために答えようとするからである。p.42

 

人間の共同体とは、理性的な存在者の共同体でも、人格的存在者の共同体でもない。親密圏でも公共圏でもない。そうではなくて、人間から生まれて互いに養い合う人間の共同体であり、生物としての人間の共同体である。このことを重く深く信ずることだけが人類の未来を切り開くのだ。p.67

(2004/9/20)

何人もの学生さんが薦めるので、浅倉卓弥『四日間の奇蹟』(宝島社文庫)を出張の帰りに読み始め、帰宅してしばらく読み続け、先ほど読み終えました。第一回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞したこの作品ですが、デビュー作ということもあり、文章表現という点では、私にはまだまだ進歩の余地があるようにも思えましたが、ストーリーとテーマには引き込まれました。

このような本がベストセラーになるということは、多くの現代人が、古の人々と同様、魂ということを、怪奇現象としてではなしに、生きる上で大切なこととして捉えているということでしょう。私はキリスト教徒でもありませんし、ピアノも弾けないし、宗教音楽にしても好きで時折聞いているにすぎませんが、そんな私でも、ある脳外科医のイエスに関する述懐(384ページ)、主人公のベートーベンへの違和感から理解への転換(467ページ)、筆者によるKyrie eleisonという語句の捉え直し(498ページ)、などには深い共感を覚えました。また、459ページの冒頭の端的な一言は、天童荒太作品では愚直なほどに切り刻まれた家族の問題についての一つの清らかな言葉となっていました。

BGMとして聞いたのは、最近買ったPortuguese Polyphony(Naxos 8.553310)。これは本の雰囲気によく合った。そのCDが終わって、再びKyrie eleisonという言葉を強く感じたくて、バッハのミサ曲ロ短調をかけたけど、これは違った。うるさすぎる。すぐに止めて、次にジョスカン・デ・プレのミサ曲をかけたけど、これは微妙に違う。これも早々に止めて、選んだのがHymns of the passion and other hyms--with tunes taken from both Iceland's oral and written heritage--(SMK 34)。これはよかった。今もこの文章を書きながら聞いています。早くこの駄文を書き終えて、ゆっくり音楽にひたろう。


(2004/8/30)

私の場合、心身の調子が整っていないとクラシック音楽が聞けません。3月一杯、引っ越しに終始し、4月の新学期で忙しくしていたら、5月に調子を崩し、クラシック音楽が聞けなくなり、この時はハードディスクで録画した映画ばかり見ておりました。6月になり少しは調子も戻ってきましたが、やはりクラシック音楽はほとんど聞けず、ブルーズやロックばかり聞いておりました。そして7-8月の酷暑に忙しいスケジュールが重なると、もう音楽をまともにメインのステレオ装置で聞くこともできなくなりました(というか、そういう気分や体調ではなかったのです)。やがて8月の下旬になる頃にはエネルギーも切れて、学術書を読む気力も失せ、出張の際にも仕事関係の本など持ってゆく気にもなれず、書店で目についた本を買い込み、行きの新幹線からそれらの本をむさぶるように読み始めました。

そうしてこの一週間で天童荒太の作品『家族狩り』『孤独の歌声』『永遠の仔』を読みました。ものすごいカタルシスでした。

『家族狩り』は新潮文庫五分冊版で、95年のハードカバー版を書き換えたものです。家族関係に欠損を持つ主人公たちの織り成すドラマと、その中での彼/彼女らの成長の様は、全く弛緩することなく描かれ、私は五冊を三日で読み切りました。

『孤独の歌声』は、『家族狩り』以前の作品で、生硬さが感じられるのかもしれませんが、私としては改訂版『家族狩り』の読みやすさよりも、この文体的な抵抗感の方が好ましく感じられました。ストーリーの終末も、『家族狩り』ほどに成熟した終わり方になっておらず、それが逆に、天童荒太のテーマである「家族」の現代性を浮き立たせているように思えました。

で、どうにもこうにも天童作品に引き付けられ、ハードカバー版しかない『永遠の仔』は古本屋で入手し、土曜の晩から日曜の晩に至るまでで読み続け、先ほど読み終えました。三作品の中では私は『永遠の仔』がベストだと思います。この作品で天童荒太は「家族」というテーマも、ミステリーというジャンルも超えることができたのではないかと思います。「家族」の問題は人間が現代社会で生きることという大きな問題に昇華され、ミステリーの謎解き的な展開は第15章に集約され、その他の大部分は、少なくとも私には純文学でした。「読みやすい」改訂版『家族狩り』には引用したいような箇所が多く登場します。一方、この『永遠の仔』は小説全体が大きな流れとなっており、どこかに目立つ箇所があるというのではなく、小説全体が分解し難い力を持っています。テーマや記述のインパクトは、私にとって田口ランディに並ぶぐらいのものでしたが、ひょっとしたら職業的書き手としての力量は天童荒太の方が上なのかもしれません(でもまあ、即断は止めておきましょう)。

それなりに家族ということに問題を抱え、日頃は仕事でそれを忘れているものの、それが暑さや疲れから仕事への集中力を失い、その問題を隠していた蓋が取れつつあった自分にとって、この一週間での約3000ページの天童荒太体験は、大げさにいえば再生体験のようなものでした。

私たちは端的に生きている。生きることを全身で受け止めている文学芸術に幸あれ。文学を「役に立たない」としか捉えられない仕事中毒人間など糞くらえ。

こうして『永遠の仔』を読むうちに私にもクラシック音楽を聞きたいという活力が戻ってきました。『孤独の歌声』を読んでいる時はエリック・クラプトンを聞きましたが、天童作品には、特に『永遠の仔』には、もっと抽象度が高く、深い音楽がふさわしく思い、現代の宗教音楽作品を立て続けに聞きました。

Baltic Voices 1&2 (harmonia mundi)--Peteris VsksのDona nobis pacem (Grant us peace)は小説とシンクロし、思わず涙の粒を流してしまいました--, Eric Ericson Chamber Choir (Caprice)--強烈な表現は読書の支えになりました--, Skalholt Mass (SMK) --アイスランドの響きに癒されました--, Sweetly I Rejoice(SMK)--現代で優しく神を求めることが可能であることを示してくれました--, Nystedt: Sacred Choral Music (ASV)--清冽さを示してくれました--, The Eternal Quest(ITM)--器楽による聖的な表現の可能性を示してくれました--, そして宗教音楽ではないけれどClaude Debussy: Complete Works for Piano Solo Vol.1 (Hakon Austbo: SIMAX)--読後の心を受け止めてくれました--これらのCDは私が1000ページに至らんかとする『永遠の仔』に没頭しその体験を心の中に種づけることを助けてくれました。

こうして疲れ果てていた私の心身にも感性が戻ってきました。寝付けなくなり2時近くまでこうして文章を打っているものの、私という人間は、天童作品を手にする一週間前とは比較できないぐらいに戻ってきました。明日は寝不足でしょうが、生気は失われていないのではないかと思います。

芸術は、仕事におよそ役立たないものです。しかし芸術は、生に最も本質的です。

仕事の慰安に芸術があるのではない。芸術のために仕事はある。芸術のための余裕を得るために仕事はなされるべきです。芸術を蝕むほどの仕事への没頭は、近代的愚行です。

(2004/1/31)

引っ越しのために荷物の整理をすると、いやがおうでも自分がどんな人間なのかわかってしまいます。近いうちに、大学の近くのアパートへ引っ越しをするため、次々に本棚から本を段ボール箱へ詰め込んでゆくと、それぞれの本を読んだ時の思い出や感情がよみがえり、自分のこれまでと自分を支えてきたものを再確認したりします。

CDも同様です。日頃、音楽を聞いていても、毎回毎回CD棚を隅々まで見てからCDを選ぶのではなく、その時その時の自分にとってブームになっているCDを選びますから、CD棚からCDを段ボール箱へ詰め込んでゆくと、「こんなCDもそういえばあった」と自分のCDコレクションに驚いたりします。一枚一枚のCDに、軽重こそあれ、それぞれ思い入れがあり、そういった思いで自分のこれまでが支えられてきたのだということを再発見します。読書の習慣と、音楽を聞く習慣がなかったら、私の人生なんてどんなものになっていたのだろう。それは、考えるのが恐ろしいぐらい心貧しいものなのだろうと思います。本とCDは私の人生にとって欠くべからざるものです。

近いうち、といっても引っ越しまでしばらくはあります。本はすべて箱に詰めてしまっても平気でしたが、さすがにCDすべてを箱に詰めてしまうのはできませんでした。引っ越しまでのわずかな日々も、私は音楽に助けられて生きていたい。NHK-FMやスカパーのMusic Air Networkは次々に音楽を与えてくれて、私の生活に喜びをもたらしてくれるけれど、やぱり音楽は自分で選びたい。CDをかけながら、箱詰めを進めてゆくうちに一部のCDは箱詰めせずに手元に残しておきたいと思いました。

とはいえ、自分にとってのCDベスト30なんて選んでいると、時間がいくらあっても足りません。作曲家・演奏者別に並べられたCD棚を見ながら、やっぱり二、三の作曲家・演奏者だけを残しておこうと思いました。

最初に残すことを決めたのは、自分では驚いてしまったのですが、一方でやはりと言うべきなのかもしれません、ブルックナーでした。先日広響のコンサートでメンデルスゾーンの交響曲スコットランドを聞いた後などは、その洗練され間然するところのない音楽に「これに比べるとブルックナーの音楽なんて『イモ』だと思います」なんて掲示板「音感」には書いてしまったけれど、選んだCDはジュリーニ指揮のブルックナー交響曲9番でした。

ブルックナーを聞くのも久しぶりでしたが、やはり私はブルックナーが好き、というより、ブルックナーの音楽のような人間なのだということを再確認しました。世間的な基準で言えば、真面目すぎてくどい。重い。暗い。しかし私にとっては、その論理と哀切感が同居した音楽の深みは、かけがえのないものです。第三楽章のフィナーレのアダージョは、作業の手が止まり、しばし聞きほれてしまいました。

次に選んだのも、最近とんと聞いていなかった音楽でした。マイルス・デイヴィス。これも論理的で痛切な音楽です(少なくとも私には彼の音楽はとても論理的に聞こえます。この「論理的」という言葉で私が何を意味しているのか説明せよと求められると困ってしまうのですが)。久しぶりに聞いたマイルスのCDはThe man with the horn。私は60年代のマイルスの方が好きなのですが、なぜか選んでしまいました。勁く超然とした音楽を聞きたかったのかもしれません。

最後に選んだのは、自分のCDコレクションの中でもわずかな部分しか占めないシューベルト(この少なさは自分でも意外でした)。かけたのはヘルマン・プライによる「冬の旅」。独りたたずむシューベルトの音楽は、私の中ではブルックナーやマイルスにつながっています。そういえば今思い出した。この「音楽」という駄文を書き始めたのは、今のこのマンションに住み始めてまもなくの、引っ越しの荷物を整理している時でした。私にとってシューベルトは自分の想像以上に大切な作曲家なのかもしれません。

何年後になるかわからないけれど、次にCD棚を整理する時、私はどんな音楽を選んでいるのだろう。

(2003/12/19)

先進国の現代人の多くが圧迫感の中に生きています。

人間の自然とは、考えてみれば日の出と共に目覚め、動き、食糧を得て、食らい、くつろぎ、遊び、家族と交わり、日没と共に眠ることかもしれません。何といっても人間も動物なのですから。

もっともこのような「人間の自然」なんてユートピア的に考えているだけで、おそらくは言語とともに自己意識をもった人間は、昔からそのような自然はついぞ持ち合わせていないのかもしれません。あるいは原始社会は存外に物理的に厳しい生き残りを要求していたのかもしれません。

それでも社会の合理化が進むにつれ、この「人間の自然」から私たちがますます遠ざかったことは否めないでしょう。人間の心のごく一部に過ぎない構築者的合理主義(constructivist rationalism)という働き----合理的な計算に基づき何かを設計し、その設計に自らを合わせようとする心の働き----は、紙、そしてコンピュータという媒体の上に存在の場を見い出し、この人間の心の働きに助けられながら、どんどんと自己増殖してゆきました。

その成果が、この高度にシステム化され、不夜城のように営みを続ける先進国社会です。充たされる欲望は次々に充たされるようにと、人間は仕組みを考え、その仕組みの中に自らを追い込んでいます。そうすることこそが高度資本主義社会の生き残りであり、先進国のような社会のあり方は----それが人間にとってどんなにいびつなものであれ----高度資本主義社会によってしか継続されないからです。そして高度資本主義社会は継続する限り、自己増殖してゆきます。

その中に住む現代の労働者は、ますます高度にコントロールされた生き方を余儀なくされます。ことに自ら働く組織が、紙やコンピュータ、あるいは会議の上での計算によって設計され、現場の生の声を抑圧するような組織なら、労働はこれでもかといわんばかりに、効率化され、構築者的合理主義に少しでも合わなさそうな営みはどんどん削ぎ落とされてゆきます。多くの組織の長はそれを善だと考えています。それこそが組織を生き延びさせる道だからです。私生活とはできるだけ削減されるべきな負担のようにさえ思えてきます。

しかし合理計算は生身の身体をもちませんが、人間は生身の身体をもちます。そして組織は人間によって営まれています。現代組織の労働者はかくしていつしか悲鳴をあげます。いや悲鳴をあげるという自然な行為さえ抑圧し、自壊してゆきます。これが高度資本主義社会的生き方以外の人生を想像できない、あるいは想像できてもそこへ飛び込めない人間の末路です。

Sigur Ros(http://www.sigur-ros.com/ あるいはhttp://sigur_ros.at.infoseek.co.jp/index.html)というアイスランドのオールターナティブ・ロックバンドのCD(Agatis Byrjunと()[←この記号がタイトルです])はある学生さんに教えてもらいました。「Radioheadが好きならきっと気に入りますよ」というのがそのCDを貸してくれた学生さんの言葉でしたが、その時丁度私は仕事に追い込まれていて心身の調子を崩していたので、このCDを聞くや、本当に涙が出そうになりました。

冷静な時に聞くと、単に大甘の音楽だけのようにも思えますが、今こうして夜眠れなくなった時などには、救いの音楽のようにも聞こえます。

それにしても救いがこのようなCDとは、まさに現代社会のアイロニーです。アイスランドの労働者が、やむにやまれぬ気持ちから録音した音楽がマーケットに乗り、人々に知られるようになり、その名前を知った私のような人間が、CD屋に直接行くことなども考えずに、ネットで詳細を確かめ、おまけにコピーガードがかかった日本盤は買うべきでなく、輸入盤を買うべきだという情報まで数分のうちに知り注文し、クレジットカード決済のネット書店経由で二日後には入手している。さらにはそれを発展途上国の基準からすれば目をむくような値段のオーディオ装置で、およそ夜行性動物以外なら眠りについているはずの時間に再生し、あまつさえこのように、見たこともないあなたのために、何のフィードバックも期待することもなく、いわば自閉的に連帯を求めて、インターネットという誰もその全貌を知ることができな媒体に文章を書いています。

どこか狂っているように思えます。

しかしこれが現代社会であり、私の人生でもあります。

面白いなあ。人生、退屈することだけはないなあ。

(2003/12/6)

石田衣良作品に魅かれ、とりこになり、涙を流してしまいました。

下に書いた『うつくしい子ども』を読んだときは、彼が男性なのか女性なのかもわからなかったのですが、彼の作品のもつ静かさ、静謐さが私を捉え、文庫本になっている『池袋ウェストゲートパーク』『少年計数機 池袋ウェストゲートパークII』『波のうえの魔術師』(以上、文春文庫)、『エンジェル』(集英社文庫)を一気に買い、夜更かししたり、やらねばならない仕事や用事を忘れ、次々に読みました。

ウェストゲートパーク・シリーズではやはり主人公のマコトに魅かれます。彼の口語体の文体はスピーディでクールで、ストーリーはドラマティックでもあるのだけれど、常にあるのはマコトの、ぶれない姿勢です。といっても頑なに姿勢を固めているのではありません。流れに巻き込まれ、体も心も揺らされながらも、芯のところで静かな魂が絶やされることなく息づいています。加えて時折のアイロニーや、「ね」という語尾が示すユーモア。ハードボイルドだけれど、多くの日本のハードボイルドの主人公のように肩をいからせることはありません。村上春樹の主人公たちは肩に力は入っていないけれど、彼等の底には哀感と後悔の念が流れていて、それらが今では時に気になってしまいます。その点、石田衣良の主人公たちは、それらからも離れてクールに生きています----それにしてもどうしてこんなにカタカナ英語ばかり使わなければならないんだろう-----。

ウェストゲートパーク・シリーズの登場人物には「はずれ者」が多いです。中卒のヤクザ。ひきこもりの元優等生。ヘルスやインターネット覗きサイトの売れっ子の女の子。学習障害児。そして多くのストリートのボーイズ・アンド・ガールズ。主人公のマコトも最初はプーでしたし、家業の手伝いや請負仕事はするけれど、定職にはつきません。しかしこれら「はずれ者」のほとんどは----狂気に染まりどうしようもなくなってしまった一部の人間を除いては----きわめて「自然」な人間です。考えてみれば、これだけ先の見えない、夢や希望がもちにくい世の中で、疑問を感じることなく、あるいは疑問を封じ込めることによって体制側に忠誠を誓おうとする人間の方がよほど不自然な人間だとはいえないでしょうか。

『うつくしい子ども』を読んだときにも、作品の向こう側から静かに音楽が流れてくるような感覚を覚えましたが、今回読んだ四作品にも静かな音楽が似合いました。静かといっても、力のない音楽ではなく、例えば『池袋ウェストゲートパーク』の「サンシャイン通り内戦」にも言及されているThe DoorsのLight My Fireやバルトークの弦楽四重奏曲第四番などのように、内に向かって充実した、聞く人が聞けばその力がわかる静かな音楽です。

特集があるのを見て衝動買いした雑誌『ダ・ヴィンチ』によれば、石田衣良自身、ウィルソン・オーディオ社のスピーカを持つ程の音楽好きだそうです。いや、そんな記事を読まなくても、「サンシャイン通り内戦」のところどころで言及される音楽を見れば、彼が音楽を心底必要としている人間であることがわかります。

ちなみに目についた上記以外の音楽作品だけ挙げても、バッハ『イギリス組曲』(マレイ・ペライア演奏)『マタイ受難曲』、ストーンズ『メインストリートのならず者』、ジミ・ヘンドリクス『リトル・ウィング』『エレクトリック・レディランド』、ボブ・ディラン『風に吹かれて』などなど、クラシックとロックを中心として、石田衣良は深いところからくる音楽が好きなようです。

『池袋ウェストゲートパーク』『少年計数機 池袋ウェストゲートパークII』で、宮崎学が描く万年東一のような「粋」を感じ、『波のうえの魔術師』でマーケットを舞台にした「自分自身の欲望を分割する」ような感覚を学び、最後に読んだ『エンジェル』では主人公の魂に泣いてしまいました。

静かに騒ぎ立てずに生きること。粗野さや野暮さとは無縁でいること。「べき」という思考で自らの自然を窒息させてしまわないこと。恐ろしさを感じながらも勇気を失わないこと。裏切りにあっても心の底の愛情を失わないこと----私のような人間が果たしえていない生き方が石田衣良作品には示されています。

夜更けや休日を使って、次々にCDを選び、鳴らしながら読んだ四作品でしたが、『エンジェル』の最後では、CDを取り替えるのももどかしく、静寂の中でラストを読み終えました。

終わった後は、やはり音楽が欲しかった。それもとびきり良質の音楽が。石田衣良作品の主人公たちによって示された生き方を前にすれば、恥じてしまう自分の生き方、心のあり方を、きれいに洗い直してくれるような音楽を私は求めました。

石田衣良の一番好きな音楽はグレン・グールドのバッハとのこと。

『ゴールドベルグ変奏曲』を聞きました。最初はグールドの1955年の演奏で。今はペライアの演奏を聞きながらこれを書いています。聞き終えたらグールドの1982年の演奏を聞くつもりです。

『ゴールドベルグ変奏曲』、特にグールドの1982年版は、私が辛かった時、苦しかった時、悲しかった時、よく取り出して聞いた音楽です。でもこの音楽はそんな私のネガティブな感情に少しも汚されることもなく、透明さを保ち続けています。今、ペライアの終曲が流れてきました。聞き終えて、この小文をアップロードしたら、グールドの1982年版を静かに、何もせずに聞くことにしましょう。石田衣良作品が垣間見せてくれた、人間の「魂」という部分へのドアを閉ざしてしまわないために。

 

・・・それに関しては若い人に言っておきたいんですけど、世の中で何かこれはいいなあって仕事をしている人は、みんな、一回果てまで行って帰ってきた人だということを覚えておいてほしいんです。なので、今、苦しんでることと向きあって、ちゃんと生き抜いた方がいい。そういう人にしかいい仕事はできないので。どんなジャンルでも、"この人は"って人は必ず一回すごい冒険に出て帰ってきた人だっていうことは忘れないでいてほしい。

石田衣良『ダ・ヴィンチ』2003年12月号

(2003/12/2)

石田衣良の『うつくしい子ども』(文春文庫)を読みました。これは最近作った学生さんとの電子掲示板「教英読書倶楽部」で、ある学生さんが勧めていたので、題名だけ記憶に留めていたところ、偶然寄った本屋では田口ランディの横においてあったので、ちょっと期待して買ったものです。

話は1999年に神戸で起きた酒鬼薔薇事件を題材にしたミステリー仕立てのフィクションで、主人公は幼児殺しの犯人の一つ違いの兄(14歳の中学生)となっております。昨日寝る前に第一章を、今日電車の中と帰ってからで第二章と第三章と読み終えました。昨晩の時点では、犯人が自分の弟だとわかった段階で、その時の私はこの文体にまだ馴れず、「高村薫ならもっともっとうまく書けるのに」とか「桐野夏生ならどうだろう」と、今一つ作品に共感できずにいました。

しかし文体とは、語りのリズム。語りのリズムとは呼吸。呼吸とは生きるスタイルです。二日目の今日の読書では、この、事件のわりにはあまりにも淡々としたような文体、つまりは生き方に、私も次第に新しい感覚を覚えるようになり、一気に読み進めてしまいました。

これは少年を主人公とする新しい、静かなハードボイルド小説です。この文体は、現代の日本で大人になるということはどういうことかを示しています。もっとも私にはもっと重い文体を好む嗜好も残っていて、この本をわが身の分身のように感じることなどしませんが、確実に新しい感覚の生きるスタイルを感じることはできました。私は宮部みゆきは最近大好きになりまして、好きだからこそこうも言えるのですが、彼女の『火車』のミステリ究明のスタイル----1990年代初めのスタイル----が、この本を読んだ後では野暮ったくすら感じられました。日本は90年代の半ばに大きく、大きく変容してしまったのかもしれません。

で、家に帰って、この本の残りを読むときのBGMとして何がいいかとしばしCD棚を探しました。ゴールドベルグ変奏曲のギター編曲版(Jozsef Eotvos)も考えましたが、結局選んだのはMustonen plays Sibelius (ONDINE: ODE 1014-2)でした。そして私の感覚では、この本の主人公の少年の澄んだ感覚と、Mustonenの清明さは呼応しました。二人ともやるべきことを淡々とやっている。それも、世間的な常識や期待とは離れて、しかも気負いなく離れて、自分の心に従って、ただ行いを一つ一つ選び重ねているように思えます。

このCDを初めて聞いたとき私は思わず「えっ、これがシベリウス?」と言ってしまいました。聞こえてきたのが極めて現代的な響きだったからです。

こうして文学も、音楽も、新たな表現者によって新たな命を吹き込まれます。芸術とは実に時代に即した行いだと思います。

大人になること。正しさの基準を外の世界にではなく自分自身の中心に据えること。(石田衣良『うつくしい子ども』文春文庫)

(2003/11/10)

この夏いろいろあって、急にロックが聴きたくなりました。一時的にクラシックに興味があまり持てなくなったのです。この現代に生きているって何なんだろう、などという青臭い問いが、40男にも振りかかってきたのです。そんな時にたまたま読んだTIMEの音楽特集のRadioheadになんとなく共鳴したので、その代表作であるOK COMPUTERなどを買って聴いていましたが、私の体と心はもう少し異なる音楽を求めていました。

そんな時これもNHK-FMで偶然に聴いたピーター・バラカンさんの音楽番組で初めて知った90年代のJohnny Cashの歌声と演奏には魂を揺さぶられるぐらいの衝撃を受けてしまいました。深いところで私の何かを揺らす、これこそrock and rollといえば、軽薄な言葉遊びになってしまいますが、一般にはカントリー歌手として知られている彼の最晩年の境地には深みを感じました。

それからしばらくしてSkyPerfecTVのMusic Air(Ch. 271)でこれまた偶然見たCreamのライブ演奏には吹っ飛んでしまいました。ジンジャー・ベイカーのドラムとジャック・ブルースのベースの、自意識を超えたところでやっているようなセッションにエリック・クラプトンのギターが絡みます。大音量で長時間続く即興演奏の気迫に、私は完全にうちのめされてしまい、このように身体に訴えかけてくるような音楽がその時の私には必要だったのだということがわかりました。いや、そんな理屈をこねなくても、リズムとうねりとシャウトが欲しかったとだけ言えばいいのかもしれません。

そうしていると1960年代の(非クラシック)音楽、特にエリック・クラプトンの延長上にあったブルーズの凄さに目を開かされました。クラシックはおろか、ジャズやロックと比べても、およそ原始的な演奏形態しか持っていないのですが、その持つ力には心底驚いてしまいました。

これは凄い音楽ジャンルを知った。今までどうして知らなかったんだろう、いやわからなかったんだろう。少しずつCDを買い足して世界を広げていこう、と思っていた時にある小説家の作品を読んだところ、突然現代ロックのRadioheadのよさがわかるような気になりました。実際に再び聴いてみると、今度はRadioheadにぴったりと共鳴しました。この夏から秋にかけての私にとっては、いちど、Johnny CashやCreamそしてBluesで身体の感受性を取り戻さなければ、Radioheadを頭でしか理解できず、彼らの現代を捉える感性にぴったりとチューニングができなかったのかもしれません。

さてその小説家とは田口ランディ。

最初にその名前を知ったのは、武術家の甲野善紀さんがあるエッセイで言及した時でしたが、「ランディ」という名前に何か軽薄さを感じ、そのままにしておきました。しかし私は甲野善紀さんの言うことには大きな影響を受けていますし、実際麻雀の桜井章一さんを知ったのも甲野善紀さん経由でしたから、田口ランディという名前は私の心の片隅に残っていました。

で、昨日たまたま書店で彼女の作品を見つけたので、「文庫本ならば駄作でも・・・」と思いデビュー作の『コンセント』を買って、帰りの電車で読み始めたら、もう引き込まれてしまって、電車を降りたときには三部作の残りの二冊『アンテナ』、『モザイク』を買いに駅前の書店を目指していました。結局深夜までかけて三部作を一気に読み通しました。

このように文学にうちのめされたような衝撃を受けたのは、近年ではヤン・ソギルさんの『血と骨』以来です。(私は20代に村上春樹さんに大きな影響を受けましたが、今の私にとって村上春樹作品は賞味期限の過ぎたものになってしまいました。高校時代に衝撃を受けたのは、月並ですが『罪と罰』です)。

といってもこれらの作品のうち、安心して人に勧められるのはせいぜい『モザイク』ぐらいかもしれません。『コンセント』は冒頭の描写から最後の結末まで、多くの人が眉をひそめる作品です。『アンテナ』にいたっては、文庫本の解説者もいうように「暴挙」といってもいい作品なのかもしれません。(学校でこれらの本の名前を出す教師は問題教師とレッテルを貼られるでしょう)

『アンテナ』の解説者のAKIRAさんはこう言います。

現代人のストレスのもとを突きつめていくと、漠然とした「孤独」に突き当たる。それは人間関係だけじゃなく、地球全体の生態系や無意識の記憶から切り離された孤独だ。

家族の崩壊、トラウマ、精神病、自傷、SM、幼児性愛、自殺など、この物語には現代人が抱えるあらゆる問題が絢爛な絨毯のごとく織り込まれている。

従来の小説は、人生の一断片を切り取り、読者は安全圏から他人の不幸をながめていればよかった。しかしこの作品は、そんなみみっちいことなど念頭にないし、形式だって純文だろうがポルノだろうがミステリーだろうが気にしてない。

作者は「人間の全体性」を復権させるという誰もがなしえなかった暴挙に挑んだのだ。

しかし私はこの「暴挙」作品を真ん中に挟む田口ランディさんの三部作に打ちのめされました。現代とは----少なくとも現代のある側面とは----田口ランディさんやRadioheadの表現世界が示すような時代であり、私はそのような中で生きているのだ、ということがよくわかりました。

この理解こそは私にとっての癒しでした。

(2003/1/19)

細川俊夫の音楽に出会えたのは、私の音楽の世界を広げ深めてくれた経験だったので、ここに短く記録しておこうと思います。

最初の出会いは1/12のTalk and Concert「細川俊夫と仲間たち」(広島市南区民文化センターホール)でした。細川俊夫の名前は聞いたことだけありましたが、作曲家自身と、彼が信頼する演奏家のコンサートならそんなに間違いはないだろうと思って出かけました。

一曲目の(ヴァイオリン・ソロのための)ウィンター・バード(彼が最初に発表した作品)では強く深い表現にひかれました。二曲目の(フルートのための)線I(リコーダーヴァージョン)では尺八のような奏法に注意が行きましたが、三曲目の(ヴァイオリンとピアノのための)マニフェステーションと、休憩後の第四曲目(ピアノ・ソロのための)夜の響きで、私は完全に細川氏の音楽世界に吸い込まれてゆきました。特にピアノがこれまでに聞いたことのない新しい響きと余韻で、沈黙の中の音世界を作り上げ始めた時、私はとにかく音に聞き入ってしまいました。第五曲目の(バス・フルートのための)息の歌(リコーダーヴァージョン)ではまた尺八のような演奏でしたが、今度はその奏法の必然性のようなものが感じられ始めました。だんだんと細川氏の音楽表現になじんできたのかもしれません。最終曲の(ヴァイオリンとピアノのための)古代の舞いも素晴しい演奏でした。トークで明らかになった曲の狙いや奏法の技法によって、より音楽が理解しやすくなったのかもしれませんが、やはり私を魅了したのは、細川氏の静逸な音楽表現でした。日常生活に追われる自分としては、久々に深い表現世界をかいまみることができたように思いました。

司会の方のトークの運び方も控えめで好感がもて、細川俊夫氏および演奏家の漆原朝子(ヴァイオリン)、鈴木俊哉(リコーダー)、中川賢一(ピアノ)の説明も簡潔で明快でした。ですが、なんといっても曲自体と演奏が素晴しかったコンサートでした。細川氏が広島県出身ということで開かれたコンサートのようですが、ぜひ何度もやってもらいたいと思います。

第二回目の出会いは1/17の広島交響楽団第225回定期演奏会(国際会議場フェニックスホール)での「記憶の海へ」でした。指揮は秋山和慶氏で、細川氏は曲の前に簡単なトークを行いました(彼の話しぶりは謙虚なもので、どちらかというとぼそぼそとしたものでしたが、私は好感をもちました)。この曲は、私のある友人によれば「音が硬い」、別の友人によれば「もっと楽器編成が少ない方がよかったのでは」でした。確かに音の「硬さ」は、70年代ぐらいの現代音楽風ですが、私は今ならそういった音もてらいなく自然に聞けるような気がして、好意的に受け入れていました。楽器編成の多さに関しては、確かにそうだったかもしれません。私が聞いていて胸が高まったのも、鳴っている楽器が少ない響と沈黙の境が多かったように覚えています(特に最後の鐘の響が消えゆくさまは素晴しかったです)。

第一回目のコンサートの後で「細川俊夫作品集V」、第二回目の後で「細川俊夫作品集VI」のCD(ともにfontec)を購入し、本日日曜日、家で仕事をしながらというはなはだ反細川的聞き方ですが、何度も聞き返し、細川世界に浸っていました。少しずつ細川氏の音楽世界に入ってゆこうと思います。

2003年度の広島交響楽団の定期公演でも細川作品は取り上げられ、こんどは遠景IIIが演奏されるそうです。この曲は「細川俊夫作品集VI」に入っていました。日々の雑事から逃げるようにバスや電車でコンサート会場に向かう、おそらくは18-19世紀音楽を規範とする多くの音楽ファンがどれだけ、細川氏の寡黙な音楽表現に耳を澄ますことができるかは当日になってみないとわかりませんが、私としてはこのような斬新な響きによる、宗教的ともいえる静かでゆっくりとした、新しい音楽体験を生演奏で聞くことができるのは今から楽しみです。

私の拙い、というか、手垢のつきすぎた言葉で、細川作品について述べることはかえって鑑賞の邪魔になるのかもしれません。下に広島市南区民文化センター図書館で見つけ、借りて読んだ細川俊夫氏のエッセイ集『魂のランドスケープ』(岩波書店)から、印象に残った箇所をいくつか引用します。

考えてみると私たち作曲家の仕事も、世界の直接の役には立たない。音楽で、病気の人を治すこともできないし、飢えた人にパンを与えることもできない。道路を作ることも、寒さを防ぐ家を作ることもできない。しかし、音楽の中に深い静けさを作り出していくことで、修道女たちが、祈ることで外部からの世界を越える世界を内に作り出すことができるように、力強い世界を作り出していくことができるかもしれない。(p. 35)

私の音楽の出発点は、日本で禅を学んでおられる神父さんにこんなヒントをいただいたことから始まった。それは、書道をするとき、彼はいきなり白い紙に線を描くことをせずに虚空の一点に焦点を定め、その一点から運動を起こし、そして紙の飢えを通ってまたその一点に帰ってくる。そのとき、目に見える白紙に残された「線」は全体の線運動の一部にすぎない。目に見える世界、耳に聴こえる世界は、世界の一パートにすぎない。私の音楽は空間への、また時間への書道(カリグラフィー)であり、聴こえてくる音は、その目に見える「線」の部分だろう。そして聴こえる世界は、聴こえない世界の一部にすぎない。そのような音楽を創りたいと思っている。(pp. 44-5)

またそのことは、私のものの捉え方のすべてにかかわってくる。私がここに生きているということは、私の力では動かしがたい目に見えない力が私の背景で私を支えているということだろう。私は、いつもその力を感じて生きていきたい。そして、より深くその力を感じることができるために、また、そういった世界を表現し、暗示するために私は音楽を書いているのかもしれない。私はいつも、生の余白、音楽の余白、そして言葉の余白をより深く感じていきたい。そうするためには、私自身が空白の余白になること。つまり私の存在の内に潜む目に見えない空白の力を感じるために、自身の沈黙を深めていかねばならない。沈黙し、耳を傾けること。語る前に黙ることを学ばねばならない。自分の内なる声を、そして他者の声を「聴くこと」が音楽家としての最初のステップだと思っている。(p. 45)

・・・そういった商業主義は、西洋音楽そのものの姿をも歪めていく。19世紀の西洋音楽は、決してわかりやすい音楽でも、安全無害な音楽でもなかった。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ヴァーグナーといったドイツ音楽の流れを見ただけでも、それは、過去の伝統への挑戦と冒険の歴史だった。それは、きわめて高い精神と技術に支えられた繊細で微妙な音楽である。それは、現在の日本で考えられているような、教養主義的であったり、スノビズムを満足させるようなクラシック音楽とは全く異なった、冒険の精神に支えられた音楽である。(p. 117)

今日は一日中仕事に追われた日曜日でしたが、それでも細川作品に浸って、その合間にNHK教育で久しぶりに哲学者鶴見俊輔の言葉に接することができて、少しは日常の忙しさでは味わうことのできない静かさと深さをかいまみることができました。いい日だったというべきでしょう。

もし感想などございましたら音楽専用掲示板の「音感」へ書き込んでやってください。

(2002/10/17)昨夜の広島交響楽団第223回定期演奏会(広島厚生年金会館ホール)はものすごいコンサートでした。

一曲目はペルト(1935-)のベンジャミン・ブリテンへの追悼歌という6分の曲。曲のつくりは単調ですが弦楽器の繰り返しの中のベルの弱音が心にしみいる、祈りの曲のように思えました。

しかしその一曲目の素晴しさの印象も、二曲目の素晴しさで、ある意味吹き飛んでしまいました。二曲目はアルヴェ・テレフセン(Arve Tellefsen)さんをソリストとするショスタコーヴィチ(1906-1975)のヴァイオリン協奏曲第一番イ短調でした(作曲は1947-8年)。第一楽章の冒頭からテレフセンさんは、無駄な力や抵抗の一切ない、それでいて芯のある見事な弱音で、コンサートホールを集中した深遠な世界に一変させてしまいました。音の美しさに何度も体がぞくぞくきます。全ての時間の流れが急に濃密なものとなり、かといって聞いている私たちに妙な緊張を強いることなど全くなく、アダージョ世界が紡ぎ出されてゆきました。これは息をのんで集中するしかない。素晴しい音楽でした。

第二楽章は曲調が一変しアレグロのスケルツォとなります。が、これが集中して聞く音楽となっていることには一切変わりがなく、オケとのかけあいの中でショスタコーヴィチ的スケルツォが展開されます。

第三楽章は、とにかくテレフセンさんがうたいあげました。といっても一切の演出などなしに。彼はひたすらうたいあげました。彼は、ひたすら音楽に集中します。カデンツァの部分などもう言葉を失うばかりでした。ものすごいintensityでした。

「本作品は古今を通じ、偉大な協奏曲のひとつに挙げられると思います」とテレフセンさんはプログラムの中であいさつ文を述べていますが、その理解と敬意が圧倒的な技術と献身によってあますところなく表現されたすごい演奏でした。演奏終了後の観客の熱狂もすごく、カーテンコールは5、6回にもおよんだでしょうか。聴衆のこれだけの賛意は私は今までに経験したことはありませんでした。休憩のロビーでは何人かの人は目を赤くしていました。とにもかくにもものすごい演奏でした。

三曲目はトゥビン(Tubin 1905-1982)というエストニア出身の作曲家による交響曲第3番(1942年に完成)で、日本およびアジア初演です。この作曲家をきちんと聞くのは私は初めてだったのですが、「こんな曲が未だに演奏されないままに残っていたのか」と驚いてしまうほどに素晴しい作品でした。形式的にとくに新しいところもなく、和音に新奇なところもないようなのですが、それでも響きは新鮮で、かといって響きだけで感覚的に音楽が流れていくわけでもない、まさにgreat symphonyといった感じでした。指揮の秋山和慶さんは明確に、そしてみなぎる自信をもってタクトを振ってゆきます。第一楽章が終わった時は、その集中した音楽体験に、私は曲が終わった時のように拍手をしたい衝動にかられました。

第二楽章も音の響宴です。またヴァイオリンのソロ(伊藤文及さん)がよかった。この楽章もある意味、交響曲の正道をいくようなスタンダードな楽章で、私は素直に音楽に共感できました。

第三楽章は、今までにもまして雄渾な音の運びでした。ショスタコーヴィチの才気煥発とも違い、R.シュトラウスの自己演出とも異なり、マーラーの自我世界表現でもなく、ブルックナーの形式的構築でもない、音が「共に」「響く」、まさにsym-phonyの世界でした。20世紀にこんなに正直な音楽がありえたのだ、というように私は驚いてしまいました(いつものように誤解を怖れますがこれが私の素直な感想です)。秋山さんは誠実にこの曲を指揮したように思います。またオケも、曲に対する共感を込めての集中した演奏をしたように思います。

コンサート終了後のロビーでの交流会は、テレフセンさんも秋山さんもトゥビンさんのご子息も来られて和やかに時が流れてゆきました。テレフセンさんにはサインを求める人が絶えることなく、またテレフセンさんも一人一人にダンディな笑顔で応えていました。ちなみにロビーで販売していた本日のコンサート関連のCDの売り上げは約60枚だったのだそうです。これはよく売れたのではないでしょうか。

実はこのコンサートはノルウェー生まれのテレフセンさん、エストニアのトゥビンの初演ということで、全国各地から熱心な北欧音楽ファンが駆けつけていました。そのメンバー10名以上がコンサート終了後、北欧音楽輸入CD専門店ノルディックサウンド広島に集結。ビールやお茶で乾杯しました。私は12時前に失礼しましたが、楽しい時間だった。これも、音楽を創る人がいて、それを評価する人がいて、指揮する人がいて、演奏する人がいて、聞いて感動する人がいて、その感動を実現させたいがゆえに裏方で黙々と働く人がいて、そしてそれらの人々が全員音楽をまっすぐに愛しているからこそ、はじめて可能になったまさに一期一会的な集まりでした(でもまた、あの人達には何度も会いたい)。

素晴しい夜でした。関わりあった人達全てに心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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(2002/9/16)一枚380円のアルミ板でステレオの再生能力がずいぶん向上しました。

今までも振動対策がステレオの音にずいぶん影響することは知っていましたから、これまでに次のような対策はしてきました。スピーカーに関しては、一番下には10cm×10cmで、5cm(5mmではありません)厚の鉛のブロックを置き、その上に専用の木製のスピーカー台、その上に10cm×10cmで5mm(今度は5mmです)のアルミ板、同寸3mm厚のソルボセイン(粘性のゴム)、同寸5mmの黄銅版を重ね、さらにその上にオーディオ・テクニカ製のピンポイント・インシュレーターを挟んで、自重50kgのスピーカーを置くという状態になっています。

機器のラックに関してはタオック製のラックを、3mm厚の鉛円盤、タオック製の鋳鉄インシュレーターの上に置いています。アンプの脚はタオック製の鋳鉄インシュレーターに付け替えて、CDプレーヤーはタオック製のスパイク式鋳鉄インシュレーターで三点支持にしております。

またスピーカー台と機器の随所にはレゾナンス・チップという小さな振動吸収板を貼っています。

どの対策も、お金がないので、安い手段で小出しに行ったものなので、オーディオマニアから見ればずいぶん粗末なものでしょうが、これらの対策はやる度に効果を実感してきました。

最近もアンプの脚の下に一枚380円のアルミ板(10cm×10cm×5mm)を敷いたら、細かな音が出るようになり、響の連続性が感じられるようになったので、昨日東急ハンズに行って同じアルミ板を三枚買って、CDプレーヤーの下のインシュレーターの下に敷きました。

この効果はかなりのものでした。さらに細かな響が出るようになって、ピアノの弱低音の響のリアリティが増しました。圧倒的な重量と張力をもった打弦楽器であるピアノの音を実感しやすくなりましたし、何より響を聞くだけで快感です。振動対策はまだまだ十分でないことがよくわかりました。

これからも折にふれ、振動対策を重ねてみようかと思います(もちろんものには限度というものがありましょうが)。安い値段で、結構ステレオの再生能力が変わりますので音楽が好きな方は、下手にステレオの買い換えを考えるより先に振動対策をすることをお勧めします。

既にもっと高度な振動対策をなさっている方、失礼しました。どうぞそのノウハウを教えてください(ただしお金のかかる対策は私はできませんけどね!)

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(2002/9/12)この月曜に前任校での元同僚のお通夜がありました。癌による逝去で、まだ50代という早すぎるお別れでした。その方は、大学では重職を負いながらも、きわめて温厚、温和で、私は通夜の間、思い出に浸っていても、その方の笑顔しか思い出せませんでした。

人が後世に残せる最高の遺物は心からの笑顔なのかもしれません。かけがえのない笑顔というのは確かにあります。ともすれば作りものの笑顔がはびこる現代社会において、私たちは純朴な笑顔をどれだけ持ちえているのでしょうか。

折しも昨日は9/11。米国テロ事件から一年が立ちました。遺族の方が涙を流すのは、亡くなった方の笑顔の思い出に対してであり、また同時にその笑顔の思い出こそが遺族の方への慰めになっているのかもしれません。

あの事件以降の多くの論争を私は決して無益なものだと考えません。現代に生きる私たちには、一人の人間としての行動原理以外に、組織人としての行動原理、市民としての行動原理、そしてそれがどのようなものかはまだはっきりしないものの、世界市民としての行動原理を必要とします。行動原理が生物的なものから、抽象的なものへと変容するにつれ、私たちは観念的な言葉を必要とします。時に乱用されようとも、私たちは言葉の力を抜きにしては、強大な力を抱くようになった現代社会の諸権力をコントロールできません。だから私は観念的な言葉を決して小馬鹿にしようとは思いません。ただ、そういった言葉も、心からの笑顔と涙を有する人間に使われてこそ本来の力を持ちうるのではないかと思います。情感と哀感だけでは現代社会は動きませんが、情感と哀感を欠いた現代社会ほど恐ろしいものはないと思います。

ふとCD棚から取り出したA Renaissance Songbook: Philippe Verdelot: The Complete Madrigal Book of 1536 (Catherine King, Charles Daniels, Jacob Heringman: LINN)があんまりしみじみと心に届いたのでこのように愚にもつかない文章を書き連ねました。

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(2002/9/4)感傷や自己憐憫とは無縁の音楽が聞きたいです。

これには自分という人間が、そういった悪癖に陥りがちという事情が絡んでいるのかもしれません。自分の悩みを不当に過大化し、それを理屈で増幅させてしまう自分--だから私はブルックナーが好きなのでしょう(^^;)。

でもそんな自分の嫌らしさを自覚する度に、それとは対極のものを求めたくなります。「それならハイドンは?」と言われるかもしれませんが、ハイドンはどんなに素晴しくても、どこかやはり昔の音楽のように聞こえてしまうことが多いです(ハーゲン弦楽四重奏楽団の演奏をもっと聞き込むべきかしら)。ハイドンは、彼の善意に対する警戒心のなさのようなものが気になってしまうことがあります(無論、だからこそハイドンはいい!と思うこともあるのですが)。

クラシックには、どうも適度に自我を突き放したような作品が少ないようにも思えます。ベートーベンのように自我をそのまま音楽にしてしまうか、一部の現代音楽のように自我を過度に突き放そうとして、かえってその作為が自我を浮き上がらせてしまうとかの両極端の作品も目立ちます。(Second thought:いわゆる「音楽史」の作品はこの点いいですよね)。

また、なんとはなしの「温かさ」が感じられて、それが気になってしまうこともあります。モーツアルトなどはしばしばその温かさが乳幼児の肌の乳臭さのようにすら感じられて、積極的に聞きたくない!と思うことすらあります(無論、くどいようですが、それだからこそ聞きたい!と全く逆の気持ちになることもあります。モーツアルトもハーゲンをきちんと聞くべき?)。

こういう観点からするとドビュッシーのピアノ作品というのは、私にとってそれなりの発見でした。彼のピアノ作品には「まとわりつくもの」が少ないような気がします。でも一方で彼のピアノ作品は、どこかロマンティックであってほしい気が私はします。そうすると自己憐憫ではないにせよ、ほのかな感傷が感じられてきます。私にとってそれこそがドビュッシーの魅力の一つなのですが、一方でもう少しクールな音楽が聞きたくなります。

その点、シェーンベルクのピアノ作品は私のお気に入りです。古典派の感覚からするとデタラメのようでありながら、非常に音楽的で、知性を感じさせて、私は仕事でたまったストレスから自分を解放するためにしばしば彼のピアノ作品を聞いたりします。

しかしそんなシェーンベルクも、時にどこかドイツ・オーストリア系の論理の強さ(というのは安直な思考であり表現なのかしら)が感じられることがあります。そんなに頭で考えなくてもいいのにね、と思えてしまうわけです。

こういった全ての点を勘案すると、音感でHSさんに教えていただいたメルレによるラヴェルのピアノ作品はものすごい掘り出しものだったのかもしれません(小箱をご参照ください)。ラヴェルは私の音楽鑑賞レパートリーの欠落部分でしたので、彼のピアノ作品を聞くのはこれがほぼ初めてですし、まだ買ったばかりでそれほど聞き込んでいるわけでもないから、決めつけるのは危険ですが、ここに聞えてくるラヴェルは、自己に対する醒めた感覚を、そのまま何も足さず、何も引かずに表現しているような気がします。自我にまとわりつく「感情」から自由で、思考の論理にも毒されず、感覚的でありながら理知的である絶妙な世界が表現されています。

こうしてみるとラヴェルは演奏を選ぶのかもしれません。

夜、眠れなくなったのでウォッカを飲みながら、そのラヴェルを聞きつつ書きました。いつもながらの知ったかぶりの妄言をお許しくださいませ。

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(2002/8/13)近代社会における仕事とは、合理性の追求であると、少なくとも私は思い込んでいるだけに、仕事中心の毎日は、合理的な時間の費やし方を高めてゆくことに専ら向けられてゆきます。ということは、自分の人生に優先順位を立てるということで、それは図らずも自分の人生を、その優先順位に体現される価値一色で塗りたくってしまうということになってゆきます。

かくして言葉の使い方も、目的合理主義的なものとなり、追求すべき価値観からこぼれおちてしまうような言葉は、話すことも聞くことも、書くことも読むことも回避すべきものとなります。文学作品なるものも、人生の無駄にすら思えてきます。人生の煩悶も神経科学の知見に基づいて生化学的に消滅させるべきものとすら思えてきます。

しかし夏期休暇--といっても連続四日間--ということで、体の疲労を回復させる以上の時間が与えられると、そのような生き方に徹することができない自分を思い出しはじめます。仕事の疲れを漫画で誤魔化し、帰路の騒音の中でのウォークマンで音楽を聞いたとしている毎日の歪みがあらわになってきます。久しぶりに開いた文学作品の言葉の力に驚きます。消えゆくような音の連なりによる音楽作品にようやく向かい合う時間と気持ちを取り戻します。

文学にせよ音楽にせよ、芸術作品に触れるということは、その作品を通じて、人間が生きるということを集中的に感知することといえると思います。割り切れず、解き明かされないままに、人生の本質的な部分を感じ取り、それを引き受けることだといえると思います。

その意味で、一日、いや一週間のうち、わずかの時間でも音楽に集中できるということは、幸せなことに違いありません。ひょっとしたら、より多くのCDも要らないし、より高価なステレオ装置も要らないのかもしれない。コンサートに足を運ぶ必要すらもないのかもしれない。ただ純粋に、音楽に耳を傾けることさえできれば、それは仕事の論理からすれば不可解でそれゆえに非合理的な行為だとしても、人間という文化的生物からすれば、とても自然なことをしているのかもしれません。それは仕事の活力を取り戻すためとかいった手段-目的の思考を超えた、とても本質的なことをしているのかもしれません。

今日は久しぶりにBent Sorensen (Alman, Adieu, Angel's Music, Sterbende Gaerten, The Echoing Garden)を聞きました。


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