映画

CS衛星放送スカパー(SkyPerfecTV)を入れて、英語報道、ドキュメンタリー、音楽、スポーツ、ドラマ、映画と私の文化生活は格段に充実しましたが、この度、ソニーのハードディスク・チャンネンル・サーバー、コクーン(CoCoon)を思い切って購入したところ、大量の予約録画が非常に簡単にできるようになり、番組放映時間に私の生活を合わせるのではなく、私の生活に番組を合わせて、好きなものを贅沢なぐらいに選択して見ることが可能になりました。

このコーナーではそのようにして見た映画を中心に、その時々に思ったこと、感じたことを書き連ねてゆきます。(2004/2/11)


硫黄島からの手紙 (2006/12/11)

兵隊は上官の言うことだけ聞いていればいいのです。
兵隊が互いに話をしたり、家族と文通したりすることは、戦いの息抜きとしてのみ認められるべきです。というより、そのようなコミュニケーションは、兵士に、生きる意味とか、戦わなければいけない意味とか、死ななければならない意味などを探求させ、厭戦気分を助長しかねません。本来なら禁ずるべきものなのです。
ましてや敵兵とのコミュニケーションなどは、その可能性すらも考えてはいけません。敵兵が自分と同じような人間にすぎないとわかった時、兵士は敵兵を殺す気を失います。敵兵と自分には、コミュニケーションにより理解し、互いに変わる可能性があるとわかった時、兵士は戦争に納得できなくなります。だから敵国の言葉は敵性語として学習を禁ずるべきです。
戦時にコミュニケーションは必要ありません。

・・・・・このようにしてかつての日本軍は、人々の言語使用を、戦争遂行のための、上から下への指揮命令だけに限定しました。自由なコミュニケーションを禁じました。まさに総動員体制です。日本軍はまさに究極の目的合理性を持っていたのです。
だから日本軍はあれほど非人間的になれたのです。内に対しても、外に対しても・・・・・

人がコミュニケーションのために自由に言葉を使うことを禁じると、思考がなくなります。だから戦い以外の可能性を想像することすらできなくなります。
会話もなくなります。だから戦い以外の価値がわからなくなります。
討論もなくなります。だから戦うこと以外の政策を考案することができなくなります。
対話もなくなります。だから相手を、理解できる存在、互いに変わりうる存在、共存できる存在として捉えられなくなってしまいます。

始まってしまった太平洋戦争を早く終結する可能性は、映画中の西中佐(ロサンジェルスオリンピック乗馬のメダリスト)と、捕虜になった米兵との対話に示されていました。対話さえできれば、先ほどまで互いに戦っていた兵士ですら、お互いが同じような人間であることを知ることができたのです。ですが、日本は鬼畜米英のスローガンで思考も会話も討論も対話も根絶やしにしてしまいました。

戦争早期終結へのもう一つの可能性は、硫黄島の日本兵からの家族への手紙にもありました。家族が、兵士が本当に考え、感じていることを知ったなら、厭戦や反戦の動きすら可能だったはずです。ですが日本軍は手紙を検閲し、多くは届けられることすらありませんでした。内地では憲兵が人々の自由な思考を禁じ、自由な会話を抑圧し、自由な討論を試みるものを投獄しました。大本営発表は、戦争に関する情報伝達さえ歪めてしまいました。

これが60数年前の日本の姿だったわけです。私たちはこの歴史に何を学んだのでしょうか。


今、自由な思考は促されているでしょうか。(仕事の数値目標ばかりの強調は、自由な思考を奪っていませんでしょうか)。
自由な会話は楽しまれているでしょうか。(会話は気晴らしになりさがり、価値創造の力を失っていませんでしょうか)。
自由な討論は試みられていますでしょうか。(討論は政治において茶番になり、人々は討論への信頼を失っていませんでしょうか)。
自由な対話は試みられていますでしょうか。(外国語学習は、ビジネスと科学のための戦略的手段としての英語習得だけに縮減されていませんでしょうか)。

相手の存在を認め、相手にわかってもらおう、相手をわかろうと努力しあうコミュニケーションにおいて、言語は自由に使われなければなりません。コミュニケーションにおける自由な言語使用の禁止、および自由をはきちがえた、コミュニケーションを破壊する乱暴な言語使用は、私たちの人間性の破壊へとつながります。

人間が人間性を保つためには、コミュニケーションが絶対に必要だということを示してくれる点で、この映画は、私たち英語教師が何度も言及すべきものかと私は思います。

映画館の大きな画像と優れた音響で、集中して見るべき傑作かと思います。

追記(2006/12/12)
日刊ゲンダイ Dailymail Business 2006年12月13日号 -1 は、読売新聞を引用して、次のように書いていました。参考までに。
*****
硫黄島の戦闘は凄惨を極めた。映画を見た硫黄島の生き残り兵、小沢政治さんは読売新聞でこう語っていた。
「実際はあんなもんじゃない。現実の戦争はもっとむごかった。パパイアの幹、バナナの茎や根本まで食べた。『父親たちの星条旗』は紙芝居を見ているようで途中で出てきた」
 栗林が人格者だったのかどうかはともかくとして、実際の戦闘はそんなこととは無関係の地獄絵だったのである。


父親たちの星条旗 (2006/11/6)

「国のために自らの命を捧げることは美しい!」

などとネットなどで声をあげるのはとても簡単です。

偽善的に簡単です。
非道徳的に簡単です。

そのような主張を安易に繰り返す人は、「戦争」という愚行を感じ、考えるためにぜひこの映画を見てください。

この映画は、硫黄島での戦闘シーンと、アメリカ本土での戦意高揚のための騒ぎが何度も何度も交錯しながら進んでゆきます。

画面のカラーも抑えられたもので良質で、そのカラーで描かれる戦闘シーンのリアリティは高いように思えます(大音響で聞ける映画館で見ることをお勧めします)。

戦争映画ですから、死傷者のシーンも出てきますが、それらは必要最小限に抑えられています。不必要に残虐なシーンはありません。

とはいえ、その抑えられた描写から、戦争の最前線の狂行がかえってよくわかるような気がします。

戦争の最前線に理性はありえません。そこにはアメリカ人も日本人もありません。人間が人間を殺しあっているだけです。本国ではよき若者であり隣人である人が、ひたすらに相手に銃弾をあびせ、火を放ち、銃剣でメッタ刺しにしているのです。味方の友人が首に銃弾を受けて苦しみ、手足を吹き飛ばされて助けを呼ぶのです。時には兵士は味方の銃弾にあって死んでしまうのです。

映画でも言われていますが、「わが軍は兵士を一人たりとも見捨てない」というのは真実ではありません。そのようなタテマエが成立するほど戦場はやわではありません。

私は最前線の兵士を憎む気にはなれません。

しかし彼らを兵士として最前線に送った者は憎みます。
戦争を煽る者は激しく憎みます。

戦争は残念ながら作り話ではありません。私たちの父親や祖父が実際に経験したことであり、世界の各地では今なお進行している現実です。

そしてそれは人類最低の愚行です。

恋人とのデートで行く映画ではないかもしれませんが、ぜひご覧下さい。

私は第二弾も見に行くつもりです。


金子修介監督(2001)『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』 (2006/9/3)

疲労困憊した金曜の夜にビールを飲んでしまって、まともに本も読めないし、音楽も聞けないので、スカパーでこの映画を見つけ、ツッコミ入れながらゲラゲラ笑おうと思っていました。

笑えなかった。

これは反戦映画でした。

金子修介監督によるこの映画でのゴジラは戦争の象徴です。映画のテーマは「ゴジラを止めろ」。その中で浮き上がってくるのが霊の鎮魂の重要性です。(注、以下、ネタバレあり)

ゴジラは戦争を象徴しているといっても、これはゴジラが放射能を帯びた生物だからアメリカ軍を象徴しているとか、あるいは映画の中でゴジラは「太平洋戦争の戦没者・犠牲者の怨念が憑依した存在」と言われているから日本人を象徴しているといった一面的なものではありません。ここでのゴジラとは、戦争という、もはや制御不可能になってしまった暴力と感情の渾然的表現です。

ゴジラは従来どおり、古代生物が放射能を帯びて強大になってしまったという設定になっています。これは古代からの人間の攻撃本能が近代発明の兵器によって果てしなく増大してしまったことを表しているといっていいでしょう。これがゴジラの暴力です。
そしてこの映画のゴジラは常に白目をむいており、手も小さく、とにかく狂暴な存在として描かれています。これは戦争に伴う私たちの様々な感情を表しているといっていいでしょう。

なぜ爆弾が落とされるのだ、なぜ隣人の命が奪われてゆくのだ、なぜ自分が人間以下の扱いを受けるのだ、なぜ市民が業火に焼かれるのだ----なぜこんなに自分は残忍になってしまったのか、なぜ私は人を殺しているのか----この世界の惨状は何か、これが日本なのか、これが近代なのか、これが人の世なのか----なぜ私は青春を奪われなければならないのか、なぜ私は家庭を奪われなければならないのか、なぜ私は人間としての尊厳を根こそぎ奪われなければならないのか、なぜ私はこのような状態の中で死ななければならないのか----なぜ私たちは人間の世を地獄に変えてしまったのか!

戦争の惨劇は、それを経験したことのない者には想像不可能なものでしょう。その、通常では人間に不可能なことを実際に体験し、身の回りの命を失い、最後には自らの命を失わなければならなかった者の無念や怨念や怒りや嘆きはいかなるものでしょう。これらの感情を表しているのが、この映画で、子どもなら本当に泣き出してしまうぐらいに怖ろしく狂暴に描かれているゴジラです。

このゴジラは鎮魂や生命への畏怖を失った現代日本に登場します。それは映画冒頭の若者の蛮行によって描かれています。
また映画ではゴジラは50年前に日本を襲ったものの、大衆はそのことを忘れきったものとして描かれています。太平洋の島で50年前のゴジラの災害写真を見る若者は、「へー」というだけで、ゴジラを自らの身には全くかかわりの無いことと思っています。ゴジラ来襲の警報にもかかわらず「ゴジラが何なのよ!」と主婦はスーパーでの買い物を続けます。ゴジラを倒すべく登場した「護国聖獣」(後述)バラゴンを遠めに見て「怪獣って怖いと思っていたけど、こうやって遠くで見ているとなんかかわいいわねぇ」といってある女性はバラゴンを遠くの背景にしてピースサインをしながら記念写真を夫に撮ってもらおうとします。

ゴジラはそういった人々を理不尽なぐらいに殺戮し町を破壊しながら東京に向かいます。

ゴジラの恐ろしさを比較的よく理解していたはずのジャーナリストの立花由里(新山千春)も驚愕します。「ゴジラってあんなに大きいの!」。

戦争とは、私たちの想像を超える惨劇なのです。

このゴジラを止めるべく立ち上がったのが、日本に封印されいていた「護国聖獣」であるバラゴン、モスラ、(キング)ギドラであり、防衛軍です。これらは戦争を止めるための対抗手段の象徴といえましょうか(実際、防衛軍のある士官は「今まで、実戦を経験をしたことがなかった。これが誇りだったのに」としみじみと言います)。

ところがこの「護国聖獣」も防衛軍も、ゴジラの前には歯が立たない。バラゴンをゴジラが虐殺するシーンなど、ちょっと子どもには見せたくないぐらいです。バラゴンばかりか、モスラも、(キング)ギドラもゴジラに倒されてしまいます。防衛軍の通常兵器もゴジラには効きません。

その万事休すの状態で、重要な役割をしたのは何か。

それが霊でした。

死んだ「護国聖獣」の霊が、ゴジラを海に叩き落します。そこに待ち受けていたのが、50年前のゴジラの惨劇を忘れず、そこで死んだ人々への鎮魂の気持ちを忘れていなかった防衛軍中将の立花泰三(宇崎竜童)でした。

またそもそもゴジラへの警告をした謎の老人(天本英世)も、実は霊魂でした。

ゴジラという戦争は、戦争に倒れた人々の霊と、その人々の霊への鎮魂の気持ちを失わなかった人々によってようやく止めることができたのでした。

*****

と、いい大人のはずの私がなぜ、このように怪獣映画の解説を懸命に書くのか。

それは現代に、どこか怖ろしい空気というか流れを感じるからです。

「タカ派的なことを言って喜んでいる最近の若い政治家は、戦争の悲惨さを知らないから、平和でボケている」(東京新聞8月19日付)、「テレビに出る回数が多く、単に若いとか恰好いいとかで一国の総理が人気投票的に選ばれることだけは絶対に避けなければならない」(論座7月号)、「中国の反日デモなどを機に『強い日本』を煽るナショナリスティックな政治家がもて囃される傾向がある。このような偏狭なナショナリズムを抑えるのが政治家に課せられた大きな使命である」(同)

これは8月1日に心不全で他界した、安倍晋三氏の父・晋太郎氏の8歳下の異父弟だった、元日本興行銀行頭取の西村正雄氏(享年73)が、亡くなる4日前に残した言葉です(『日刊ゲンダイ』2006年9月1日による)。

私がこのことばに接した数時間後にこの金子修介監督のゴジラを見たのは、全くの偶然ですが、偶然だけでは済ませたくない関連だったので、こうして文章にしました。

私が反戦を願うのは、何よりも戦争が人道にもとる惨劇であるからです。私自身はひょっとしたらすでに中年ということで、日本が戦争に巻き込まれても、兵士として最前線に向うことはないのかもしれません。しかし教師の端くれとして、私は自分が教えた学生を戦場には送りたくありません(日教組にはいろいろ問題があったように私は聞いていますが、私は「教え子を戦場に送るな」ということばは大切にしなければならないと思っています)。

つまり私は、私の現在と、私より若い人たちの未来のために反戦を願っていました。
しかし、そこには欠落があったことがこの映画を見てわかりました。

それは、私たちは、先の戦争で無念の思いの中で死んでいった人々の霊のためにも、反戦を決意しなければならないということです。(すみません、こんなに当たり前のことも私は分かっていませんでした。恥ずかしい限りです)。

現在、一部の人たちの間で、特攻隊員などを過度に美化したような発言が続いています。しかし、美化されることは、死した兵士の霊が願っていることでしょうか。霊は「俺たちに続け」と訴えているのでしょうか。「俺たちのようなことをするような世の中に再びしてはいけない」と願っているのではないしょうか。霊は美化でなく鎮魂を願っているのではないでしょうか。

反戦平和への決意こそが鎮魂であると私は思います。

そして反戦平和とは政治的行為である以上、その決意とは、理性的な歴史分析に基づいていなければならないと考えます(注)。

そんなことを考えることができたのも、このゴジラの強烈な表現のおかげでした。

反戦のメッセージを伝えることががクラシックでもロックでも可能なように、芸術的な映画だけでなく怪獣映画でも反戦を訴えることができます。

そういえば私は初代の『ゴジラ』(1954)を見たことがありません。

今なら、そこに込められた当時の日本人の感情を私は少しわかるのかもしれません。


注:この文章を書く中でたまたま目にした文章「あの戦争のなにを語り継ぐのか <相馬千春>」(http://chikyuza.net/modules/news1/article.php?storyid=37)の内容に私は共感します。

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チーム★アメリカ、華氏911(TEAM★AMERICA: World Police, Farenheit 9/11) (2006/7/23)

昨年映画館で見逃した「チーム★アメリカ」を、1500円でDVD購入できるのならと思って買ったら、予想通りゲラゲラ笑えました。アメリカのアクション映画、およびハリウッド俳優を徹底的に茶化しています。サンダーバードのような人形が、しっかりと作りこまれたセットの中で、そのようなパロディを行なうわけですから、私は何度も声を上げたり、手を叩いて笑いました。コメディ好きの人間、映画文化を好む人間にとっては必見・必笑の映画かと思います。DVD付録のインタビューで、製作者の(『サウスパーク』で有名な)トレイ・パーカーとマット・ストーンは「映画アルマゲドンは相当に面白いコメディだ。ただ作っている奴らは気がついていないようだけど」とも言っていますから、ハリウッドアクション映画のくだらなさに辟易としている人も痛快なパロディ映画としてこれを見る事ができるでしょう。またマジメに作りこまれた曲に、相当フザケタ歌詞をのせた音楽は大爆笑ものです。
ただし、Wikipedia(http://en.wikipedia.org/wiki/Team_America:_World_Police)で読める映画評を見てもわかるように、トレイ・パーカーとマット・ストーンには、徹底的にふざけてしまおうというヤンチャな気持ちはあれど、深い批評精神はあるとは言えません。酒をかっくらった自意識過剰の大学生がパーティで人をコケにするようなもの(Like a cocky teenager who's had a couple of drinks before the party, they don't have a plan for who they want to offend, only an intention to be as offensive as possible. Roger Ebert, Chicago Sun-Times)であり、彼らのキャリアにとって真に怖い存在であるアメリカの政治家やメディア権力者は一人もコケにしていない(no American politicians appear in the movie. (The movie has since garnered Fox News's seal of approval.) Nor do any media moguls. The filmmakers never satirize anyone who could hurt their career -- not even Michael Moore enabler Harvey Weinstein. J. Hoberman, The Village Voice)とも評されています。しかし、まあ、彼らは、そのような批評を無効にしてしまうようなコメディを作るだけの才人ではあるのですが( Clever comedians that they are, they have also rigged "Team America" with an ingenious anti-critic device, which I find myself unable to defuse. Much as it may pretend otherwise, the movie has an argument, but if you try to argue back, the joke's on you. A.O. Scott, The New York Times

とはいえ、まあ、お笑い好き(特にブラックユーモア)が好きな人はぜひ見てください。見事に作りこまれた人形劇と映画自体のバカバカしさのギャップに大笑いができるでしょう。ただし暴力や性の描写(のパロディ)がありますので、家族向けではありません。

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と、上のチーム★アメリカでは、マイケル・ムーアもコケにされていたので、そういえばと思い出し、スカパーで録画したままになっていた『華氏911』をようやく見ました。
ようやく、というのは、前作『ボウリング・フォー・コロンバイン』を私はそれなりに面白く見たものの、ドキュメンタリーにしてはマイケル・ムーアが前面に出すぎていたように思えたので、この『華氏911』にはあまり期待していなかったからです。ですから劇場公開の時に見逃したままになっていました。
ところがこの『華氏911』はよかったです。映画の作りとしては、マイケル・ムーアがやや引っ込んで、ブラック・ユーモアの語りと若干の行動(注)を入れるぐらいに留まったことが良かったのかもしれませんが、それよりも何よりも、この映画で描かれている事実がもの凄く、ブッシュ批判を超えて、戦争と階級社会を考えさせる作品となっていました。
戦争と階級社会というのはこういうことです。戦争というのは一部の企業にとっては格好の金儲けの手段です。兵器は大量に消費されますし、新政権の確立で利権は確保できます。一方、兵器に金を払っているのは通常の市民です。兵器は税金で買われます。また、戦闘で犠牲になるのは、「他国」の兵士と市民です。もちろんハイテク装備に守られた米軍兵も犠牲になりますが、彼/彼女らは、まともに教育も受けず職もないような状況で兵士になる道を選んでいる貧困層です。もちろん兵士になる米国民は貧困層出身だけではないでしょう。また彼/彼女も金のためだけでなく、「祖国を守る」、あるいは「自由を守る」ために立ち上がったのでしょう。

ですが、戦争の現実は、米軍兵も手足を吹き飛ばされ、リンチに合い、殺されるというものです。といいますのも、米軍兵はその犠牲者の何倍、何十倍、いや何百倍(ごめんなさい、正確な統計を知りません)の他国市民を虐殺しているからです。「犠牲」や「虐殺」という言葉は、時に軽くしか聞こえません。ぜひこの映画を見てください。とても控えめに使われているだけですが、戦争というものがどういうものかを映像が伝えてくれます。

この図式を単純化してみましょう。「祖国」や「自由」のため、と信じて戦う米軍兵は、他国の兵士だけでなく、無実の市民の体を吹き飛ばします。そうしてやがて自分達も手足を吹き飛ばされます。米国では、「祖国」や「自由」を守るため、と信じた市民が、戦争のための税金を払い続け、自らの教育・福祉予算などが削られることを受け入れます。時に誇りを持って子息を戦地に送ります。
これらが本当に「祖国」や「自由」を守るためなら、これも仕方のないことなのかもしれません。マイケル・ムーアも、そうやって戦地に赴く米国市民に敬意を払います。

"I've always been amazed that the very people forced to live in the worst parts of town, go to the worst schools, and who have it the hardest, are always the first to step up, to defend that very system. They serve so that we don't have to. They offer to give up their lives so that we can be free. It is remarkable -- their gift to us. And all they ask for in return, is that we never send them into harm's way unless it's absolutely necessary. Will they ever trust us again?"

しかし、マイケル・ムーアも問いかけるように、今回のイラク戦争は本当に必要だったのでしょうか。もしかしてアメリカ市民はだまされただけなのではないでしょうか。
こういうと、「リアリスト」諸氏が山のような書類を持ってきて、イラク戦争は必要であったこと、大量破壊兵器は結果的に見つからなかったが、イラクの政権を交代させることは必要だったことなどを私に説得しようとするでしょう。そして本来、私は、(チョムスキーのように)それぞれにいちいち事実を持って反論するべきなのでしょう。
しかし今の私にはそのような力量はありません。だからせめて、事柄を単純化して、その本質を明確にしようと思います。

あからさまに表現します。

「戦争とは、貧しく無知で無実な者の血肉をもって、富める者がより一層富むようになるシステムである」。

これは別に私のオリジナルな考えではありません。映画の最後の部分で、マイケル・ムーアはジョージ・オーウェルを引用します。

A hierarchical society is only possible on the basis of poverty and ignorance. ... The war is waged by the ruling group against itw own subjects. And its object is .... to keep the very structure of society intact.

非常に悲観的な図式で物事を語りましょう。富の魔力に負けた者は、より一層に富を求めます。自分の身の丈以上の富を求めます。自分の身の丈以上の富は、他人を搾取することでしか生まれません。かくして金持ちは、搾取の対象である一般市民を必要とします。一般市民の中でも貧困層は格好の搾取の対象です。彼/彼女らを無知のままに閉じ込めておけば、生かさず殺さず、彼らを金の供給源として保つことができます(まるで映画『マトリクス』で熱を供給する人間のように)。
国内でさらなる富を得ることが難しくなれば、他国を侵略して、他国の利権をごっそり獲得すれば、より多くの富が得られます。そのために必要なのは兵器と、人の血肉です。兵器は税金で供給されます。「愛国心」といった言葉でメディア・コントロールすれば多くの国民は税金を厭いません。貧困層はここでも格好のカモで、大学進学や就職技能獲得を目指して、兵役に志願してくれます。こういった兵隊と他国民が血肉を供給してくれるのです。かくして税金と他人の血肉でもって金持ちはさらに金持ちになります。金の魔力に侵されて人の心を失ってしまった人びとにとっては笑いの止まらないシステムでしょう。

と、私はアメリカのことばかりについて書いてきたようですが、これは日本の明日の姿なのかという恐怖も感じています。
格差社会は「経済の活力のため」として放置しておく。日本にも貧困と無知から脱出できない層が出現しはじめる。その層の一部は、心理的はけ口として「愛国心」に自分を重ねる。一方で、憲法は改正し、日本も(主にアメリカの要請に従って)他国に軍隊を派兵できる「普通の国」にしておく。やがて冷静に考えるならば、別に祖国も自由も侵されてはいないのに、マス・メディアを通じてでっちあげられた「大義」に従って、日本人も、貧困層を中心として、他国へ兵士として赴く。そしてそこで他国の兵士と市民を殺し、自らも手足をもがれて帰って来る。当然、「あの戦いとは何だったのか」という問いが芽生える。しかし「社会の公僕」から「社会の広告」へと変節してしまった新聞・テレビはそのような声を取り上げない。かくして一部の金持ちは、使いきれないぐらいの金を持つ。一部の一般市民はそのような財に憧れ、少しでもそのおこぼれを頂戴しようとし、子どもの教育にも熱心になる。多くの市民は、時に戦争に心を痛めるものの、基本的には快適な現在の消費生活を捨てない(現代日本は、多くを望まなければ快適な国だ)。そのような市民にはマス・メディアがご褒美に大量の娯楽を与えてくれる。かくして取り残された貧困層は、自らの命を、この「素晴らしき」社会システムを支えるための人身御供として捧げる。しかしさらに悲劇的なことに、彼/彼女らは、自らは他人の犠牲となったのだという自覚も持つこともなく、怒りをどこにどうやってぶつけていいのかということも知らないままに、無知と貧困のままに一生を終えてゆく-----

これはあまりにも悲観的なシナリオでしょうか。一面的すぎる考えでしょうか。

私とて、このシナリオでしか、現状を捉えないといった愚かなことはすまいと思っています。現実は、数行の考えで捉えきれるほど単純ではないでしょう。しかし、この可能性を全て否定してしまうのは、愚かさ以上、あるいは以外のことのように思えます。上のような考えを、ナンセンスだとして抹殺するのは、愚かであるというより狡猾であるというべきではないでしょうか。
少なくとも私は教育に身をおく者です。無知からの啓蒙には、これからも努力するつもりです(もちろん一面的な「啓蒙」の暴力性も一方で警戒しながら)。
ましてや私は英語教育に携わる者です。私たちが教えている英語という言語は、この映画のようにも描写されるシステムで動いているのかもしれないアメリカを中心として使われている言語だということは心の片隅においておこうと思います。
だからといって私は、アメリカ反対、英語教育反対、とまでは叫びません。これは私の保身ではありません。このように描写されるのがアメリカであり、そこで使われているのが英語であるにせよ、このような描写をしているのもアメリカであり、英語であるからです。
アメリカにはこの映画を作り、公開するような自由が、民主主義の理念の下、まだ残っています。日本でも、これが公開され、今私がこうして文章を書いているような自由が残されています(これが戦前の日本だったら、私はどうなるのでしょう)。
私は民主主義の成熟に応じてアメリカを信じ、民主主義の普及に役立つ限りにおいて英語使用に希望を見出します。(cf アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著、水島一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳(2003/2000)『<帝国>』以文社、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著、幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修(2005/2004)『マルチチュード』(上)(下) NHKブックス 

参考
Wikipedia 日本語解説 http://ja.wikipedia.org/wiki/華氏911
Wikipedia 英語解説 http://en.wikipedia.org/wiki/Fahrenheit_9/11

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(注)ネタばれ注意:この映画でのマイケル・ムーアの行動、特に、アイスクリーム売りみたいな形で、車から、議員への「愛国法」読み聞かせを行なうこと、および下院議員にぜひ自分達の子息をイラク戦争に送ってくれと真顔で勧めることには、大笑いしました。こういう毒も力もあるブラック・ユーモアは私は大好きです。


ブラックボード--背負う人--(Blackboards) (2006/7/17)
私たちが「教える」ことについて語るとき、たいていは「学校で教える」ことを前提としています。その前提はほとんど自明視され、学校という制度はあるのが当たり前と現代日本の私たちは思っています。
2000年カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作品のこの映画では、イラクとの国境近くのイランに住むクルド人が描かれます。イラン-イラク戦争の爆撃で学校を失った教師達は、黒板を背負って、生徒を求め歩きます。「読み書きや計算を教えますよ」というわけです。しかし厳しい毎日に追われる人々はそのような教師を拒否します。それでも黒板を背負って「教える」ことを提供しようとする教師の姿は、良く言ってセールスマン、悪く言えば乞食です。
こういった実情を見ると、学校というのは国家の事業だと改めて思わされます。国家が近代国家であろうとする限り、その国民に、読み書きと計算などの知識の基礎を教え、国民が民主主義と科学技術に対応できるようにするのは、国家の義務です。また、そうして国家が提供した義務教育を子どもに受けさせるのは国民の義務です(注)。基礎的なリテラシーおよび計算能力(論理的思考力)がなければ、民主主義は成立しません。科学技術の営みにも加わることができません。民主主義と科学技術への習熟なしに近代化はありえません(「近代化なんて必要なの?」とお疑いの方は、この映画でも描かれているような前近代社会での事実上の無法状態や激しい自然との戦いの毎日に戻る覚悟があるのでしょうか)。世界の多くの地域で、今なお、民主主義と科学技術の普及を目指した近代的な学校制度が普及していないというのは、世界的なリスク管理という観点からしても大きな問題であるように思えます。
一方、日本を始めとした近代化に成功した国家が直面しているのは、いってみるなら「超近代化」のための教育かとも思えます。近代教育は、その国家での標準語リテラシーと簡単な四則計算能力によって国内での安寧な生活を国民に保障していたのかもしれませんが、知識社会化する現代では、ある程度(以上)の収入を得ようと思えば、それ以上に、もはや「超共通語」となったともいえる英語(cf 「複言語主義(plurilingualism)批評の試み」)のリテラシーと、筆算・算盤を越えたコンピュータによる高度な情報処理能力が必要になっているようにも思えるからです(そこではもはや「黒板」は学校の代喩・換喩(metonymy)ではありません)。各国で英語教育が盛んに振興されているのも、それぞれの国家が近代化を超えて、グローバリズムという現実に対応できる、いわば「超近代化」----どこにも中心がなく、全世界を脱領域的に包含し緊密に結びつけようとする<帝国>的状況への対応(cf 『<帝国>と『マルチチュード』の書評)----を国家的課題としているからと解釈できると思います。
現代は、そのような「超近代化」へ邁進する国家と、いまだ「近代化」に呻吟する国家が混在し、かつそれらの国家が交易や戦争・テロリズムといった様々な様態で結びついている時代かと思います。いや、国内に目を向けても、「超近代化」への教育に鞭打つ家庭と、「近代化」を当然視しすぎて軽視し始めた家庭、あるいは近代化を目指しても十分な日本語教育が受けられない日本への移住者家庭が共存しているのが現在の日本です。
この映画が描き出している(と私が捉えた)「近代化」という問題は、イランだけの問題ではなく、日本を始めとした世界の様々な国にとっても問題であり、さらにこの問題の向こうに「超近代化」という問題が控えていると私は考えました。


(注)念のため日本国憲法を引用しますと、「第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。 2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」

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『海猿 Limit of Love』(2006/5/17)

教師というのもリーダーの一種かと思いますが、リーダーは「1と99の問題」をどう考えればいいのでしょう。
「1と99の問題」というのは、新約聖書からの問題提起です。イエス・キリストは、自分は羊飼いなら、1匹の羊が迷ったら、残りの99匹をおいて、その1匹を探しに行くと言います。私などは「99匹の羊の安全を確保することが合理的な態度ではないか」などと反発していたのですが、ひょっとしたら私は合理主義を大事にしているのではなくて、自分の保全や安逸さだけを大事にしているのだけかもしれません。1匹の大切さを痛感しないものは、99匹の大切さもわかりません。そのように愛情に欠けた人間は、99匹のために1匹を簡単に犠牲にしたら、次は98匹のためにもう1匹を、次には90匹のために7匹を、さらには50匹のために40匹を簡単に犠牲にし、最後に「大変な旅で、すべての羊を失ってしまいました」などと、さも、自分が労苦の末の帰還者のような顔をして帰るのでしょう。このような人間はリーダーにふさわしくありません。
と、私のような人間のことはさておき、リーダーは1と99の問題はどのように考えればいいのでしょうか。1と数字になった存在が、実はかけがえのないものだということを痛感する。しかし、それと同じように99も、99通りにかけがえのない存在である。1を見捨てられない。しかしもちろん99も犠牲にできない・・・・
ひょっとすると、羊飼いの喩え、というスタートがよくなかったのかもしれません。私たちが考えているリーダーとは羊ではなく人間を率いているのですから。
1人が迷えば、その1人のためにどうしようと冷静に考え、行動できる99人を育て上げておく、そのような100人の集団を作り上げておく、というのが私が理屈の上だけで考えた答えです。
もちろん、現実は理屈どおりにはなかなかゆきません。しかし私としては、長年迷っていた「1と99の問題」について、この映画を見て、ふと上のように考え、自分なりに納得できたので、少々、ほっとしてしました。
と、このように私はこの映画をそれなりに楽しみましたが、映画自体の作りとしては、全編フォルテシモのようなつくりで、熱血が空回りしているのかもしれません。私のような単純・熱血・フジテレビ系の人間にはなんとかOKだけど、そうでない人はあまり評価しないかもしれません。実際、私はこの映画を母の日に、偽善的に母と一緒に見に行ったのですが(ホントは『海猿』ファンとして自分が見たかっただけ)、私の左隣に座っていたカップルは、泣かせどころで男性がオイオイ声をあげて泣き、女性がハンカチを差し出していましたが、右隣の私の母はグーグー寝ておりました(昨年の母の日では『真夜中の弥次さん、喜多さん』を「面白い」とまで言っておった母なのですが・・・・( ̄□ ̄;))。
少なくとも『海猿』の第一作では、映画に緩急がありましたし、フジテレビ得意のお笑いもありました。個人的には主任教官役の藤竜也の甲板での決断と命令を名シーンだと思っておりますので、映画としては第一作の方がよかったかと私は思います。
組織論上は問題があったかもしれない、藤竜也の決断・命令シーンを名シーンといいましたが、これは私が「声フェチ」だからです(^^ゞ。この藤竜也や、『踊る大捜査線II レインボーブリッジを封鎖せよ』での柳葉敏郎の「只今より、捜査体制を一新する」といった声に、私は単純ですから、その声だけで泣いてしまいます。覚悟を決めたというか、肚を据えたリーダーの声に理性を飛ばして感動してしまうので、私はやはり単純すぎる人間なのでしょう。この第二作『海猿 Limit of Love』ではそのような声を発する俳優というかシーンがなかったのが、私の不満の原因の一つなのかもしれません。
でもまあ、海猿ファンなら公開している間に映画館で見ておきたいと思うのではないでしょうか。
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Pink Floyd: The Wall (映画版) (2005/10/17)

私はピンク・フロイドに対して第三者的な判断をすることができません。
なぜなら私の感性の判断の基準や枠組みはピンク・フロイドに大きく影響されて作られたからです。多感で、自分を失ってしまっていたかもしれない中高生の時期に私の心をつなぎとめてくれていたのはピンク・フロイドの音楽、特にMeddleAtom Heart MotherDark Side of the Moon、そしてWish You Were Hereだったからです。
このThe WallのLPは中学生の時に買ってよく聞いていました(今考えると、貧乏だったのに買ってくれた親は偉いなあ)。音楽の雰囲気と歌詞で、コンセプト・アルバムであるこの作品のだいたいのストーリーはわかっていましたが、この映画作品を見ることで、埋め込まれていた様々なテーマがより明確に浮き彫りにされました。
主なテーマは次のようなもの。
戦争という国家の行為で父を失ってしまうということ。教育というこれまた国家の行為で自分を失ってしまうということ。自分を失った者は性にも酒にもドラッグにも救いはないこと。自分を失った者は「相手」(大切な他者)を持てないこと。そうして人間の世界の中に生きる実感を失った者は、自らを「壁のレンガの一片」(another brick in the wall)としか感じられないこと。人間の世界の中に住むことを諦めた者は時に恐ろしく非人間的な惨劇をもたらすこと(しかもそれはしばしば制服を着た集団によってもたらされること)。人は他人と自分の間をさえぎる(「壁」を作る)ことにより正視に耐えない「内部」を作ってしまうこと。----要は、まともな社会とまともな人間関係があって、はじめて人間は正気を保てること、とまとまられましょうか。
このようにまとめてみると、教条的でつまらない作品のようにも思えますが、こういったテーマを様々な音楽表現(ヴォーカル、電気・電子楽器、オーケストラ)と映像表現(実写とアニメーション)で重ねつつ、一つのストーリー(あるロック・スターの転落の生涯)を、回顧シーンなどをはさみながら描くという形で展開するこの作品は、ものすごい衝撃力をもった現代芸術作品だと思います。
"Rock"という言葉に、「世の中を揺らす」という意味がまだ残っているのなら、1982年のこの作品は、まさに"Rock"です。
私はこの作品を昨晩初めてスカパーのシネフィル・イマジカの録画で見たのですが、この作品の衝撃は、95年以来様々な意味で閉塞感を感じており、今やその感覚を常軌ならざるもので吹き飛ばそうとする雰囲気さえ感じられる現代日本での方が伝わるのではないでしょうか。
「暗い」テーマのこの作品は、誰にでもお薦めできるものではないでしょうが、私は個人的には20世紀という時代が自己表現として残すべき音楽・映像総合作品の傑作だと思いました。

追記:この作品はPink Floydのクレジットがついているようですが、映画もCD(LP)も、実質はRoger Waters作品と考えた方がいいかもしれません。私は、彼よりもDavid Gilmourの方が好きです。いや、というより、私にとっては両者が拮抗しながらバランスをとっていた1970年代前半のPink Floydが一番好きです。

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美しくかけがえのないもの----皇帝ペンギン (2005/8/12)

大自然の中でのドキュメンタリーです。映像がとにかく素晴らしい。難しいことは言いません。見て、父ペンギンと母ペンギンの強さと美しさを愛でてください。子ペンギンのかけがえのなさに目を細めてください。(んでもって、サントラのフランス・エレクトロ・ポップのエミリー・シモンの音楽のニュアンスがまたいいのよ!)
オスとメスが出会い、交互にエサを取り、卵/ヒナを守り、やがてそれぞれに別れてゆく。とってもシンプルな物語です。
過剰な知性を持つ人間の物語はこんなにシンプルではありえないのかもしれないけど、でもこのような動物的な生活は、人間にとって基本ですよね。
とりあえずホームページ(http://www.gaga.ne.jp/emperor-penguin/)が存在しているうちに、壁紙をゲットしてください(http://www.gaga.ne.jp/emperor-penguin/dl.html)。
子ペンギン、かわいすぎる!

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中間管理職----シルミド(Silmido)  (2005/6/8)

実話を基にした、韓国の戦争映画にして反戦映画の傑作です。戦争の原理とは人間の尊厳の完全否定だということがよくわかります。またストーリー・テリングなどもテンポがあり、娯楽映画としても非常によく出来ています。少なくとも私は出張先のホテルで何気なくチャンネルを合わせてしまったが最後、エンドロールまで、全くに没入してしまいました。
この映画を色々な観点から見ることができると思いますが、私は、自分が中間管理職的立場にあるせいか、もっぱらその観点から見て、ずいぶん考えさせられ、また感動もしました。ですから、映画の主人公は、軍隊組織の隊長と二人の小隊長(ごめんなさい、階級名はよく覚えていません)、および訓練兵の中の三人の班長の、計六人だと考えました。彼らはそれぞれの階級の中で様々な判断をしなければなりません。映画前半では班長の人間的な諸判断に共感していた私ですが、後半で隊長と小隊長がしなければならなかった過酷な判断と、それぞれの決断には、「自分ならどうするだろう」と、かなりそれぞれの立場に立って、悩んでしまうぐらい考えてしまいました。
六人の彼らは、軍上層部-隊長-小隊長-班長-訓練兵というヒエラルキーの中での中間管理職と言えます。そして彼らはその職務に非常に忠実であるがあまり、判断に悩みます。軍隊という究極の上意下達組織の中でさえ、下の事情をくみとり(もちろん上の意図も理解し)、自分がどのように判断することが正しいのか考えます。上と下の間で、悩み苦しみ判断し、そしてその判断を上にも下にも伝えます。たとえその判断が「反抗」と見なされようと上に具申し、「冷酷」と見なされようと下に命令する。そしてその判断でよかったのかと苦しみ続ける----このように考え、判断し、勇気を持って相手を説得し、さらに考え続けることが中間管理職の仕事だと思えてきます。
「中間管理職」というと、上の方ばかり見ている「ヒラメ野郎」や、単なる上から下への「伝達マシーン」、あるいは下の論理と心情でしかまだ語れない「人情派」などがステレオタイプ的にすぐ連想されますが、この映画の主人公たちこそ真の意味での中間管理職とはいえないでしょうか。
もちろん彼らにこのような非人間的な判断を強いる戦争という体制に反対することがこの映画の最大のメッセージなのでしょうが・・・

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徹底的に個人であること----ラウンド・ミッドナイト('Round Midnight) (2005/5/16)

20世紀始めから中頃においてジャズを生み出すということは、黒人であるということ(つまりは差別の対象であること)と、創造的であるということ(つまりは大多数の人間には理解されにくいということ)を、正面から受け入れることだったのかもしれません。
そうなるとジャズとは、孤独な仕事であり、プレーヤーは徹底的に個人であらなければなりません。しかし徹底的に個人であれば、他の徹底的に個人である人間にも理解されるのかもしれません。革新的な芸術の誕生とは結局、そのような個人の表現と、それを受け止める個人の理解によるもので、そのような個人と個人の結びつきが一つ一つ増えてゆくことなのかもしれません。マーケティングやプロモーションを通じてではなしに。
この映画は、デクスター・ゴードン演じるサックス・プレーヤー、デイルと、パリの貧乏なフランス人音楽愛好家フランシスの友情の物語です。他にもハービー・ハンコック、フレディ・ハバード、ウェイン・ショーター、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスなどのジャズ・ミュージシャンが音楽で出演しています。バド・パウエルとレスター・ヤングに捧げられた作品です。

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子どものままで----ジャック(Jack) (2005/5/3)
子どもというのはすごいもので、もうとにかく生きているだけで楽しい。生きていることが遊びで、遊びこそは生きること。でもそのままでは食っていけないからと、私たちは仕事を覚えます。
やがて仕事に疲れ始め、たまには遊ぼうと思い始めても、もうその頃には遊びの楽しさを忘れかけている。定年になったらうろたえたりして、何か仕事はないかと、もう、遊んで楽しむことが人生で最も難しいことみたいになってしまう。
子どものままで大人になること。これが人生の極意なのかもしれません。子どもは大人の師匠なのでしょう。
ロビン・ウィリアムスが彼のキャラクターを活かした映画です。
それにしても現代の日本の子ども、輝いているのかなあ。
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しみじみと----アバウト・シュミット(About Schmidt) (2005/5/3)
保険会社を定年まで勤め上げたウォレン・シュミット(ジャック・ニコルソン)は、引退後の生活をもてあまし気味でした。そこへもってしっくりこないところを少々感じながらも頼りきりにしていた妻に急に先立たれてしまいます。遠くに住む娘は自分の結婚で忙しい。自分の人生が自分だけのものになったものの、それをもてあますしかないウォレンでした。
老いを生きるということ。仕事を離れ、衰える体を自覚しながらも生きるということ。それを、しみじみと、そして静かなユーモアでもって描いた良質の作品でした。押し付けがましいメッセージはありませんし、私は何度もユーモアに笑わせてもらいました。それからコマ割りと構図がいい。私はヒューマン・ドラマ系の映画には別段大画面はいらないと思っていましたが、これは映画館で見ればより楽しめただろうなと思います。スペクタクルなど何もありませんが、映像の切り取り方、色調などは良かったです(監督はアレクサンダー・ペインという人だそうです)。もちろん主演のジャック・ニコルソンの好演は言うまでもありません。
センスのいい映画でした。エンドロールの音楽も最後までしみじみと楽しみました。
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生命という文化----愛に気づけば・・・(Angie) (2005/2/19)

アンジーはニューヨークの0L。こぎれいなオフィスで働きます。彼女は自己中心的な生き方を選びます。

彼女には、実母が彼女が三歳の時に去ったというトラウマがあり、継母とうまくゆかないという問題を抱えています。やがて彼女は、中学時代からの幼馴染みの配管工と関係を持つうちに妊娠し、いったんは結婚を決意します。が、「スーツの似合う男」を好む彼女は、彼女の方から彼との結婚を拒否します。それと前後して美術館で出会った弁護士。彼女が妊娠していることも受け入れたかに見えた新しい彼でしたが、実際に出産となると、彼女の前から立ち去ってしまいます。生まれた子供は障碍を抱えた子供でした。そんな中で、継母との関係がこじれて、彼女は彼女の実母が昔したように、子供を置き去りにしてしまいます。そして実母との再開。そこではじめてわかる実母の秘密。そのことについて話そうと、父親に電話をかけると、障碍を持った彼女の赤ん坊が病気で危ないとの知らせ----。

アンジーは、現代の私たちの多くがそうであるようなわがままな人間でした。そんな彼女を変えたのは、祖母から母へ、母から自分へ、そして自分から赤ん坊へと引き継がれた偉大なる生命の連鎖でした。

実は妻帯者だった弁護士の彼と共にした美術館やバレエの「高い」文化も、生命の前には色褪せます。生命こそは私たちの偉大なる文化です。

最初は軽い恋愛モノかと思い、途中で見るのを止めようかとも思っていましたが、話が展開するうちに面白くなり、最後は結構真剣になって見ました。初めのうちは厚化粧の薄っぺらい女にしか見えなかった主人公が、話の進展につれ内面的な美しさを見せるようになったことも映像がよく伝えていました。原作は小説だそうです。小説の映画化作品は、私にとってあまりはずれがないみたいです。

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幸せであるということ----グッド・ウィル・ハンティング(Good Will Hunting) (2005/2/19)

人間が幸せであるかどうかというのは、才能や金銭や名誉の多寡にあるのではなくて、どれだけ自分が自分自身を肯定できるかとことにあるのでしょう。

MITの教授が自らの才能の無さを嘆くぐらいの天賦の才能を持つ、Will Hunting(マット・デイモン)は、孤児に生まれ、養父に虐待を受けたため、自らを受け入れられません。彼に援助を申し出る教授も、彼を愛するにいたった女性も受け入れられません。彼が住むスラムの友人とつかずはなれずの関係を保つだけです。彼のセラピスト(ロビン・ウィリアムス)は、ウィルの頑なさから来る攻撃的な態度に傷つきながらも、彼の閉ざされた心を開こうとします。ですが、彼に向かい合うことは、セラピスト自身も自分に向き合うことでした。

心静かに自分と向き合って、掛け値抜きの自分を見つめ、それを心から肯定できること----これこそが幸福なのかもしれません。

この映画、マット・デイモンが主演でもあり、脚本も彼(とベン・アフレック)が書いたものです。彼は私にとっても何となく気になる俳優でしたが、この映画で初めて彼の映画人としての才能を知りました。世間からはちょっと遅れていますが、私も今後彼に注目してゆきたいと思います。

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Faith----サイモン・バーチ(Simon Birch) (2005/1/22)

現代において神のことを語ることはおよそ愚行のように思えます。科学の時代です。合理性の精神は証拠を求めます。証拠のないことを信じることは軽率なことです。信じ続けることは愚かなことです。

生まれつきの病気で短身で生まれ、実の両親にも疎んじられていたサイモンは、"God has a plan for me, for all of us."ということを固く信じていました。彼は自分は英雄(hero)になるとも広言していました。

しかしサイモンは生意気で口うるさい子供で、親友のジョーの家族を除く大人たち、とりわけ司祭と日曜学校の教師にはうるさがられていました。加えてアクシデントとはいえ、サイモンは野球の事故でとんでもないことをひきおこしてしまいます。"God has a plan for me, for all of us."というサイモンの言葉を親友のジョーも拒絶してしまいます。

この時点でのサイモンは、短身で、両親の愛を受けていなく、教会にも嫌われ、親友とも(一時的とはいえ)距離を感じる存在でした。そんな子供がいう"God has a plan for me, for all of us."という言葉、神と自分の人生に対するfaithは、およそ愚かなことに思えます。

だが、またもや大いなる偶然が待っていました。そのアクシデントでパニックに陥るみんなの中で、サイモンは一人、自分にはmissionがあることを忘れずにいました。そして、彼は英雄になりました。

神はいるのか。神は私たちに一人一人に対して計画を持っているのか----証拠はありません。それどころか、そういった考えを限りなく疑わしく思うことが近現代の理性的なあり方のように思えます。

ですが、証拠がないままに、人生に関する根本的なことに対して揺るぎないfaithを持っていること。これはサイモンの人生を変えました。プラグマティズムならこのfaithを正当化できるのでしょうか。

いや正当化も証拠もいらない。それがfaithなのかもしれません。それだけに重大です。一歩誤ればそれこそ取り返しのつかないことになる。だからこそ現代人は神を語ることを怖れているのかもしれません。

と、駄文を連ねてゆけば重い映画のように思えるかもしれませんが、ジョン・アーヴィング原作のこの作品は、ユーモアに満ちたものです(ジョン・アーヴィング原作の映画『ガープの世界』は私が田舎から大学に出てきて最初に見た作品で、私を解放してくれた作品でした)。この映画も私にとっては大切な映画になるのかもしれません。

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Lust, romance, attachment and beyond----アンナ・カレーニナ(Anna Karenina)(2004/11/27)

Loveにはlust, romance, attachmentの三側面があって、とたまたま見たDiscovery Channelのある番組は解説します。私のような中途半端な頭の持ち主にとって、Discovery Channelは適当な理解を、あるいは理解の錯覚を与えてくれます。人間が、子孫を残す本能を持っている以上、lustは避けられず、たとえ結婚した男女ですら、その力に屈してしまうことがあります。そしてlustに伴うromanceの甘美さ。Loveは永遠のもののように思えます。しかし・・・

下手な能書きはやめましょう。いわずとしれたトルストイ原作で、バーナード・ローズ監督、ブルース・ディヴィー制作、ソフィー・マルソー主演、ゲオルグ・ショルティ音楽監督のこの映画、面白かったです。ひたすらに面白かった。

どういうわけか人間は愛を求める生物のようです。しかし恋愛が結婚へ、そしてその結婚が長い幸福な相思相愛(attachment)へと発展してゆくとは限らない。それでは恋愛(lustとromance)を求め続けるのか。Attachmentのない結婚に耐えてゆくのか。

人間は神の絶対的な愛を必要としているのかもしれません。

たとえそれがフィクションであるとしても。

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流れがある----イングリッシュ・ペイシェント(The English Patient) (2004/11/20)

下にある『マイケル・コリンズ』の小文を見て、歴史的素養が足りなすぎるのでは、と「裏庭」でたしなめてくれた方が、「ポスト・コロニアル文学にも親しんでください」と言って薦めてくれた映画です。原作はマイケル・オンダーチェというスリランカ生まれの作家によるもので、小説はブッカー賞を受賞しているそうです。

2時間40分の大作です。「英国人の患者」の正体は誰なのかという謎をストーリーの推進力として、映画は戦争中の複数の人間模様を描き出してゆきます。「で、一体、テーマは何?What's the point?」と尋ねられても、私は語りえる言葉を持ちません。

これは私の頭の悪さを示しているのでしょうが、一方で、この作品を一言や二言の"point"で説明してしまうことは、どこか決定的におかしなことであるようにも思います。

流れがある。さまざまに交錯し、錯綜する複数の人間の人生の流れがある。作品を通じて私はその流れに身を委ねて、さまざまのことを感じる。2時間40分の映画を通じて私は何を得たのかわからない。ただ私は2時間40分を意味深く過ごした----これだけは確実に言えます。

私は理屈っぽい人間で、すぐ何かの作品から「テーマ」や「教訓」を取り出そうとします。しかしこの作品からはそのようなことはいたしません。できないだけなのかもしれないけど。

いつか本当にゆっくりとした時間が長く取れる時に小説も読んでみたいと思います。

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Who you are----きっと忘れない(With Honors)(2004/11/7)

学業優秀で心身壮健なハーヴァードのエリート学生が、あるアクシデントからホームレスの男と知り合い、彼という人間を理解する中で人間的成長をとげる話です。

と、こうまとめると、いかにもありそうな脚本のようにも思われるかもしれませんが、それにしても「人間的成長」とは何なのでしょう。私たちはどのような人を見たときに「人間的」と形容するのでしょう。

こういった問いを立てるとき、私は悪い癖で、その時に夢中になっている先達の言葉で語ろうとします。問いも答えも、私が読んだ本の影響下にあります。自分自身の頭と言葉で考えていないのです。でも少しだけ自己弁護をさせてもらうのなら、私はこうして自らの精神を拡大し、語彙を広く深くしてきました。

私がここ一年半ばかり夢中になっているのはハンナ・アレントです。以下は彼女の思想を私なりに言い換えたもの、あるいは拡大解釈したものです。

現代社会において、人はしばしば社会的特性によって判断されます。肩書き、学歴、業績、能力といったものです。いわばwhat he is/what she isである人を判断するといえましょう。

ホームレスのサイモンに出会うまでの主人公モンティは、what he isという点では申し分ありませんでした。エリート大学ハーヴァードの中の優等生で知能にも肉体的能力にも恵まれている。おまけに、苦学生で、小さい頃に父親に見捨てられた過去を持ちながらも努力を続けているわけですから、決して鼻持ちならぬエリートというわけでもありません。

ですがモンティは、what he isだけを気にしていました。「最優秀」という栄誉とともに卒業し、政府で働くことだけを考えていました。自分がどんな人間か(who he is)を気にしていなかったし、周りの人間がどんな人間かにもおそらく関心がありませんでした。

そんなところにサイモンとの出会いがあります。サイモンはwhat he isという点で考えるなら、まさに何もない人間でした。ホームレスで、住む家もない、職もない、お金もない。ただ彼は彼自身であった。そして彼自身という人間(who he is)を、周りの人達に示すことを全く恐れず、彼自身という人間であり続けた。モンティはwhat Simon isによって、最初彼を遠ざけ、who Simon isによって彼に引き付けられてゆきます。そしてモンティ自身もwho he isを発見しはじめます。

What you areではなくwho you areこそが人間の基本であるのではないでしょうか(注)。What you areでなく、who you areを大切にし、周りの人に対してもそう振る舞う人を私たちは「人間的」と呼ぶのではないでしょうか。

アレントの言葉で私の好きな言葉があります。

Only the vulgar will condescend to derive their pride from what they have done; they will, by this condescension, become the "slaves and prisoners" of their own faculties and will find out, should anything more be left in them than sheer stupid vanity, that to be one's own slave and prisoner is no less bitter and perhaps even more shameful than to be the servant of somebody else. Hannah Arendt The Human Condition (1958: 211)

(俗悪な人だけが、卑屈にも、自らの誇りを自らの業績から引き出そうとする。彼/彼女らは、この卑屈さによって、自らの能力の「奴隷であり囚人」となる。もし万が一、彼/彼女らに愚かな虚栄心以上のものが残っていたとすれば、彼/彼女らは、自らの奴隷となり囚人になることは、誰か他の人の召使になることと同じぐらい苦々しいことであり、ひょっとするとそれよりかもっと恥ずかしいことであることに気がつくだろう 『人間の条件』)

こう言い切りましょう。社会的体裁や社会的評価だけで人間を判断する人は俗悪な人なのです。人は自分を見つけ、自分を示し、それをお互いに自然に要求する時、自らを愛し、他人を愛し、お互いを愛し合うのではないでしょうか。

この映画は、私は何年か前に見たことがあるものでしたが、それにもかかわらず、ラスト近くで原題になっている"with honors"という言葉が出るところでは思わず涙ぐんでしまいました。シニカルに言えば、うまくできすぎている青春映画とでもなるのかもしれませんが、私は好きです。

(注)人を深く愛する人は、その人を社会的存在(what you are)で愛するのではなく、その人の人となり(who you are)を愛することは言うまでもありませんが、その愛が極限にまで達したら、その人がその人となりを失ってしまっても、例えば痴呆状態になったり植物人間になったりしても、その人を愛し続けるのかもしれません。その人にとってはwho you areを超えたthat you are(あなたがいること)だけですらかけがえのないものなのでしょう。人間の基本とはthat you areなのかもしれません。

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人生に終わりはない----愛と哀しみの果て(Out of Africa) (2004/10/24)

20世紀初頭、故国デンマークを出てアフリカに移住するも、病気を患い子どもを産めない体になったり、夫に浮気をされたりしながら農園を経営する女性(メリル・ストリープ)を主人公とする映画です。やがて彼女は、一人の男を愛することになりますが、その男(ロバート・レッドフォード)は、相手を望みながらも自由を望む、彼女の言葉なら「すべてを求める」男性でした。前の夫と離婚しても、その恋人と結婚することもままならず、やがては農園を火事で失い、さらにはその恋人も飛行機事故で失い、彼女はアフリカを去ります。

Out of Africaという原題につけられた邦題は、「愛と哀しみの果て」という、何とも甘ったるいものですが、案外この邦題は、いいのかもしれません。主人公は愛と哀しみの果てに何も得ませんでした。子どもも結婚も財産も恋人も、どれも自分のものにできませんでした。ですが、この映画の台詞に何度もあったように、そもそもどれも所有するものではないのかもしれません。

私たちが何かを「所有した」と思っても、それは長い目から見れば(あるいは神の目から見れば)、ただ、たまたま私たちのもとにあるだけにすぎません。

では彼女の人生には何も無かったのかといえば、それは違います。言葉遊びではなしに、彼女の人生には彼女の人生がありました。生きてゆく日々と歳月がありました。子どもを持つ夢も、安定した結婚も、気に入った財産も、巡り会えた恋人も、どれも永遠に所有することなどできずに、彼女の前から通りすぎてしまったけど、彼女の人生だけは終わり無く彼女の前にありました。

人生に終わりはありません。私たちは自らの死を経験できないのですから、私たちが生きている限り人生は終わり無く続きます。私たちは、人生の終わりを予感することはできても、それを経験できません。だから結局は、自分の人生に終わりはないのです。

終わりが無いのですから、自分で人生を総括することも無意味なのかもしれません。すべては過ぎ行き、変わりゆく。生き続けることだけが人生です。

「形あるものが何も残せないなんて」と財産や名声を望んでも、それらも虚しく私たちのもとを去ってゆくかもしれません。去らなくても私たちは、あの世にまで財産や名声を持ってゆくことはできません。私たちには、自分の人生以外の何物も無いのです。

それでも人生には意味がある。そしてその意味には終わりがない。これが人生の素晴しさなのかもしれません。

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プロ・スポーツとlife----エニイ・ギブン・サンデー(Any given Sunday)(2004/10/24)

スポーツがプロ化されると、今までは考えられなかったほどのプレーが見られるようになります。しかし反面、プロ化はスポーツに愚かなほどの単純化をもたらしたりもします。試合の内においてはパワー比べ。外においては必要もないぐらいの多額の報酬の追求。観戦においては視聴率第一主義、などなど。その結果、選手も関係者もlifeを駄目にしてゆきます。日常の生活を失い、人生を見誤り、時には生命すら損ないます。かくしてプロ・スポーツは、グロテスクな見世物にすらなりかねません。そうしてそれを楽しむ私たち観客も堕落してゆくのでしょう。

この映画の前半は、どんな日曜日にでも(any given Sunday)そんな単純で過酷な競争を行なう、プロ・スポーツ中のプロ・スポーツとも言えるアメリカン・フットボールの有様を描きます。映像と音声が凄い。私は例によってこれをスカパー/コクーンで録画し、家の小さなテレビで見ましたが、これは映画館で見たかった。見たらアメフトのグロテスクなぐらいのプレーに文字通り圧倒されるでしょう。私はテレビで見ても、その暴力性にうろたえてしまいました。

それでは、そういったプロ・スポーツから、選手や関係者がlifeを取り戻すことができるのか。映画では選手そしてコーチがプレーの中でlifeを見失い、そして失ってその大切さを認識し、なんとかlifeを取り戻そうとする様を描きます。映画の後半の映像と音声は、そういった人間らしさを感じさせるものでした。

プロ・スポーツには絶えざる制度改革が必要でしょう。しかしそういった改革も何も、すべては、選手と関係者が、そして観客が、自分自身とお互いのlifeを大切にすることからはじまります。

チャンピョンシップや巨万の富を得ても、lifeを失ってしまったら、それは何なのでしょう。

観客の私たちも、どんなにプレーが興奮するようなものであっても、それがlifeを損なうことによって達成されたものであったら、それを認めてはいけません。

JFKで有名なオリヴァー・ストーンが監督をしたこの映画、なかなかの佳品でした。

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人生の「意味」----モリー先生との火曜日(Tuesdays with Morrie)(2004/10/17)

仕事中心の現代社会は、仕事の疲れから回復するための休憩や、仕事への集中力を取り戻すための気晴しは認めても、それ以上の時間を人間に与えようとせず、独りでゆっくり考える時間や、他人を気遣い、愛する時間を許そうとしません。そのような時間を求める人を、嘲るような目で見つめ、そのような時間を取ることは、現代社会の落伍者となることであるということを身をもって教えようとすらします。

しかし、人から考える時間と愛する時間を奪う者こそは、良く言って(ミヒャエル・エンデの『モモ』の言い方を借りて言うなら)「時間泥棒」の「灰色の男」、悪く言うなら、人の世から生きる意味を奪おうとする極悪人です。自ら考える時間と人を愛する時間を失う人生を選ぶ者は、自ら生きる意味を放棄する愚か者です。

映画は同題のベストセラーの忠実な映画化と言えましょう。大学を卒業して15年たち、現代社会で「成功」し、その成功の毒によって、自らの人生から「意味」を----考えることと愛することを----失いつつあった主人公が、かつての恩師(ジャック・レモン)に会い、彼と共に時間を過ごし、彼の死に向き合うことで、自分の人生を取り戻してゆく話です。

「考えること」や「愛すること」は何も市場で売買できるような生産物を生みだしません。それどころか、生産物を生み出すための仕事にとっての稀少資源である時間を浪費することだけのようにすら思えます(Time is money!)。しかし人間として生まれながら、自らゆっくりと考えることなく、仕事の締切にのみ支配されて生きるというのは、どのような人生なのでしょうか。人間として生まれながら、他人と喜びや悲しみを共有することのない人生とは、どのように不全なものなのでしょうか。

独り考え、他人を愛することは、人生の意味を追求することです。「意味」とは、形にすることもできず、交換することも売買することもできないものですが、人の心を充たすものです。充たされればわかります。「意味」から逃げる者は愚か者であり、「意味」を蔑む者は極悪人です。

私たちは愚か者でありませんように。極悪人にはなりませんように。

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善意の嘘は認められるのか----聖なる嘘つき--その名はジェイコブ(Jakob the liar) (2004/9/26)

"Lying is both a cause and a manifestation of evil."とはスコット・ペック『平気でうそをつく人たち』(草思社)の一節です(英文はたまたま持っていた未読の原著からです)。「肝心なのは、おのれに嘘をつかぬことです。おのれに嘘をつき、おのれの嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも、周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分をも他人をも軽蔑するようになるのです」とはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)の一節です(ちなみにどうでもいいことですが、今だに私はこの名作を完読したことがありません)。嘘をつくことは人間が容易に行いうることですが、私たちが認めてはならないことでしょう。

しかし善意の嘘はどうなのか。人を救うためにつく嘘はどうなのか。人に希望を持たせるために真実の重大な部分を伝えないこと(white lie)は認められないのか。

ドイツ占領下のポーランド・ユダヤ人ゲットーで暮らす主人公ジェイコブ(ロビン・ウィリアムス)は、偶然と善意と状況の進展から、一連の嘘をついてしまいます。しかしこの嘘も、邦題の「聖なる」という言葉がイメージさせるように、良い結果だけをもたらすのではなく、現実は誰の想像も越えた形で進展してゆきます。邦題ではなく、原題のJakob the liarという強い言葉がこの映画の内容をうまく伝えているといえるでしょう。

おそらくは善意の嘘も認められない。私たちは希望を持つにせよ、絶望から自らを救うにせよ、それは真実に基づいた上でなさなければならない。ただ私たちはジェイコブを裁けない。少なくとも私はそのような道徳的高みには立っていない。あるいはこの映画のラスト10秒----ロビン・ウィリアムスでしかおそらく出しえない映像で涙を流す者には。

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過去との和解----シッピング・ニューズ(The Shipping News)(2004/9/23)

幸福な例外もいるのかもしれませんが、多くの人は過去というものを背負っています。起こってしまったがゆえに、もはやどうすることもできないような過去を。

さえない人生を送る主人公(ケヴィン・スペイシー)は、自らの人生で悲劇を経験してしまいます。どうしてよいかわからないところへ現れた叔母の勧めにしたがって、彼と娘は先祖が住んでいた地へと移住しますが、彼はそこでも彼の先祖や父親の過去を知ることになります。自らの過去と、先代からの過去の両方に苦しめられる彼。出口は見えないようにも思えます。

しかし多くの人が過去をもっているというのなら、それらの人々の間では、互いの過去は分かち合えるのかもしれません。過去を否定せず、過去に向き合い、それでも生き続けることを支え合えるのかもしれません。ある登場人物はこう語ります。"You all know we're only passing by." 

そして生き続けていればいろんなことも起きる。悪いことも起きるかもしれないけどいいことも起きる。信じられないようなことも奇蹟のようなことも起こる。ラストの二つの象徴的な出来事は、人が人々の間で生きてゆくことを主人公に納得させました。静かないい映画でした。

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歴史と善悪----マイケル・コリンズ(Michael Collins) (2004/9/11)

アイルランドが、20世紀初めに英国から独立を勝ち取った際の、「テロリスト」(注)であり、軍人であり、政治家であり、そして何より英雄であったマイケル・コリンズを描いた映画です。

価値や利害を異にする複数の人間が、予測不可能なほどに複雑な相互作用の中で織り成す歴史とは、単純で一面的な裁断を拒むものであり、それゆえにその矛盾の中で悩み苦しみながら歴史を作り出した人達に、私たちは特別な感情を抱くのでしょう。その人達は、私たちが人間であること、人間に他ならないことを真正面から引き受けた。

同じ英国からの独立運動ということなら、ガンジーとコリンズを比較することはできるのかもしれません。そして常識的見解ではガンジーを賛えることになるのでしょう。それが良識です。私もガンジーの偉大さを賞賛することにおいては躊躇はありません。しかしだからといって、私はそう簡単にコリンズを断罪できない気がします。少なくとも映画を見終わった直後の今は。

誤解を怖れてうまく言えません(今、気がつきました。今日は9月11日でした!)いや、私自身、映画を一回見ただけでよくわかっていないのでしょう。しかし、善悪の判断が困難なままに身につける歴史的教養というのは、真偽の判定を明晰に行う自然科学的知識と共に、現代人に必須のものだということだけは言えるでしょう。私にはその教養がほとんどない(もっとも私の自然科学的知識もひどいものだけど)。テクノロジーが無条件に肯定され、自然科学的知識の習得が常に促進される現代で、私たちは歴史を考えることを忘れてはいけないのでしょう。

(注)私が気づいた限り、この映画は、コリンズを「テロリスト」とは称していませんでした(日本語字幕では少なくとも一度この言葉が使われましたが)。また映画で描かれた限りにおいては、彼のテロリズムの対象は英国側の警察人、軍人だけで、一般市民を狙った無差別テロは行っていませんでした。

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マッハ!!!!!(Mach!!!!!) (2004/7/26)

暑気払いのつもりで見に行きました。CGやワイヤー、フィルムの早回しを使わない格闘アクション映画ということで期待していったら、予想以上に面白かった!DVDが出たらぜひ買いたいと思います。

主人公はムエタイ(タイ式キックボクシング)の使い手ですが、肘と膝を使った攻撃が凄い。肘の攻撃の変幻自在さ(それに強力さ)は、極真、K-1、PRIDEなどでは絶対に見られないもので、驚くばかりだし、膝の攻撃は、その跳躍能力にびっくり(あんなの絶対真似できない)。肘と膝を使っての防御の堅牢さも新たな発見でした。また中段前蹴りの有効性についても納得。ローキックもさすがはムエタイ。「ムエタイ最強」との声にもなるほどと思わされます。

もちろん娯楽映画ですから、「あれだけ動いてどうして息が切れないんだ」とか「あれだけの打撃を受けてなぜ平気だ」とか「ショッカーの怪人じゃないんだから、あんな一発で失神してはいけないだろう」とか、はては「どうして主人公とその仲間はあんなに運がいいのか」とかいうツッコミはなしです。これはとにかく格闘シーン、カーチェイス・シーンなどのアクションを楽しむ映画です。CG、ワイヤー、早回しなしの実写でこれだけやるとは本当に凄すぎる!(ただローキック連打のシーンだけは、早回しが入っているのでは?とも思えましたが、どうなんでしょう)。

とにかく主役トニー・ジャーのアクションには驚くばかりでしたが、映画そのものとしても、テンポがよく、勧善懲悪ものとはいえ、それなりの筋の起承転結があったり、脇役ベットターイ・ウォンカムラオもいい味出したり、ヒロインのブマワーリー・ヨートガモンもかわいかったりと(←ええ歳したおっさんがいう台詞じゃない)、娯楽作品としては非常に良く出来ていました。BGMはクラブ系の音楽が続いていたのですが、最後のエンドロールではクラブ系ながらもタイ風の音楽になり、これがなんともかっこよかったです。もし最初からBGMがタイ風のものだったら、外国人である私たちは引いていたかもしれませんが、最後の最後にタイ風の音楽を持ってきたので、これが非常に効果的でした(うーっ、サントラも欲しくなった。出るのかなあ)。

公式サイトはhttp://www.mach-movie.jp/。格闘ファン、アクションファンならぜひぜひこの夏、映画館でどうぞ!

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コメディアンという人種----スティーブ・マーティンの奇跡を呼ぶ男(Leap of Faith)(2004/7/8)

私の想像に過ぎませんが、コメディアンという人種には何種類かの典型があります。一つは、おそらくマイク・マイヤーズのようにシャイでシャイでたまらない人。恥ずかしくて不安でたまらないから人を笑わそうとする。もう一つは、おそらくこのスティーブ・マーティンのように心に傷を負った人。癒されたいけれど、誰も癒してくれないから、せめて自分で笑いを呼ぶことによって自分を癒そうとする。とはいっても、私はスティーブ・マーティンの私生活については、何も知らないのですが、彼がこの映画のような役を好んでやるということは、彼にはそのような側面があるのでしょう、と私は想像します。

映画は奇跡を演ずるペテン師の話。奇跡というのは、自然科学が教えるように、おそらくは存在しないもので、すべての現象は自然科学法則で説明できるはず。少なくとも自然科学が十分に発達すれば説明できるはず。しかし人間は自然科学のすべてを知ることもできない知力しか持たないから、自分では説明できない現象に出会います。そこに信仰(faith)があれば、人間は奇跡を見ます(Leap of faith)。奇跡を信じるなんて、第三者的に冷静に見れば馬鹿らしいことでしょうが、どんな人間も人知の限界しか持たないとしたら、奇跡を信じることもいじましいことなのかもしれません。

映画では「奇跡」を前に、それぞれの登場人物が、それぞれの反応を示してゆきます。「奇跡」を前にしても、その人らしい反応しかできないというのも、これまたいじましいのかもしれません。

愚かさを愛するということもあってもいいのかもしれません。

仕事のしすぎで目が冴えてしまったので、ビールを飲みながら見た映画でしたが、結構収穫でした。

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感性と共に生きるということ----ベルリン・天使の詩 (Der Himmel ueber Berlin) (2004/5/23)

20台の時に見た映画を40歳になってまた見直すというのもいいものです。昔より今回の方がずいぶん楽しめました。コクーンに録画していた多くの映画の中から、いわば直観的に選んで、風邪気味の日曜の午後に見たものですが、いいタイミングで見れたように思います。

この映画での天使は、現代都市生活者の比喩であるように今回思えました。特にベルリンという戦争の悲劇を経験した街では、人々の政治的連帯が信じられない。それでは家庭生活のつながりに救いを求められるかといえば、そこではより一層の孤独すら感じられる。自分という人間に、無邪気だった子供時代があったことが今では夢のようだ。かくして、飢えからは解放されても、人間としての自然な感性を失い、諦念と共に社会を傍観することだけしかできない----そんな現代都市生活者の世界をヴィム・ヴェンダース監督は、天使が見る世界としてのモノクロ画面で表現していたように思えました。それだけに、後半のカラー画面が、感性を取り戻して生きることの素晴しさを心にしみじみと訴えかけてくるようです。

それにしてもこの映画の音楽はいい。使われたクラシック現代音楽は、まさにこの映画で描かれたような人間にとって不自然な時代と世界を表現していましたし、映画の中で演奏をしていたロックバンド(ニック・ケイヴ&バッド・シーズ)も映画にとって必然的な音楽を演奏していたように思えます。

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自然の中で----リバー・ランズ・スルー・イット(A River Runs Through It) (2004/5/4)

20世紀の前半、モンタナの美しい自然の中で育った主人公が、弟との思い出を中心につづる自伝的映画(原作は小説)です。川釣が主人公と弟、そして父との結びつきを強めています。今に比べたらはるかにゆっくりとした時が自然の中で流れてゆきます。ブラッド・ピッドが好演する笑顔のまぶしい弟もやがて死を迎えますが、その時、主人公は、はたして自分はどれだけ弟を理解していたのだろうという思いにもかられます。自然から切り離された毎日をおくる現代人なら、そこでその答えの出ない、あるいは否定的な答えしかでない問いに苦しめられるのかもしれませんが、美しい自然から無言の教えを受けている主人公は、完全な理解などないままに人を愛することを素直に肯定できます。最後の"Eventually all things merge into one, and a river runs through it."という言葉が、映画を見た人にはすとんと腑に落ちることでしょう。テクノロジーのおかげで自然のリズムを失った生活を余儀なくされている現代人はおそろしく不幸な人間なのかもしれません。

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言葉を超えたところで----シャンプー台のむこうに(Blow Dry) (2004/5/4)

妻が同性愛者の女性と駆け落ちすることで崩壊した家庭が、その妻の癌をきっかけに、その家業であった美容師選手権に出場し、その過程での様々な事件の中で、以前よりも大きな絆を得る作品です。偽りのない心からの感情こそが家族という(ある意味奇妙な)絆を支えるのでしょう。他の何者でもなしに。脚本は「フル・モンティ」を書いたサイモン・ボーフィという人だそうです。

それにしてもこれは2000年のイギリス作品ですが、イギリスのユーモアとノン・バーバル・コミュニケーションがいい。どちらも控えめで、過剰さとは無縁だけれど、言葉にしなくても伝えられることはたくさんある。いや、言葉にしない方が伝えられることはたくさんある----双方に感じる心さえあれば。理解は言葉だけに頼る必要はない。いや、言葉だけに頼ろうとしたら、私たちの心は理屈という不自然に片寄り、その自然さを失ってしまうのかもしれません。コミュニケーションということを言葉の面からのみ考えて、その効率性・正確性を追求することは、現代社会で仕事を行うためには必要なことでしょうが、仕事だけが人生ではない。コミュニケーションを言葉の面からのみ考えることは片寄ったことといえるでしょう。言葉に頼りつつも、言葉を超えたコミュニケーションというアートは、現代の学校言語教育がますます片隅に追いやろうとしていることなのかもしれません。

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ケヴィン・スペーシーというトーン----光の旅人(K-PAX) (2004/5/3)

自分は惑星K-PAXから来たと説明する、精神病棟に入れられた人間をケヴィン・スペーシーが好演しています。テーマは人のつながり、といえるかもしれませんが、テーマは決して教条的でも単純でもなく、複雑、微妙にじわりと見る者に訴えてきます。明快な要約はできないけれど、見る人の心に何かを残します。ケヴィン・スペーシーが映画のトーンを決めているといえるでしょう。私はUsual suspectsで初めて彼の演技にひかれて、American beautyも非常に面白く見ましたが、現代社会において人のつながりをテーマとするなら、彼のトーンのような一種の離脱感、悪意の無いシニカルさ、声静かな語りはぴったりなのかもしれません。

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Truth and Justice----ア・フュー・グッドメン(A few good men)(2004/4/18)

舞台劇を原作とする軍事法廷もの。大佐役のジャック・ニコルソンの存在感がいいです。一方で、弁護士役のトム・クルーズも適役といえるでしょう。軍隊という強い結び付きをもつ共同体の中での事件の中で、登場人物の人間性が現れてきます。ア・フュー・グッドメンというのは誰たちを指すのかというのは最後に明らかになります。真理と正義という概念は、時に共同体の論理も超えるし、目の前の利益計算も超えます。ただ人間社会を根底のところで動かすのはやはり真理と正義であるべきでしょう。少なくともそれが近代社会の理念です。アメリカ得意のパターンの映画といえばそれまでですが、このような映画を近代社会の人間は必要としているといえるのかもしれません。

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賞賛とエロスを求め続ける悲劇----ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ(Hilary and Jackie) (2004/4/4)

誰もが自分を認めてもらいたがっています。誰もが自分を特別(special)な存在だと思いたがっています。なにしろ自分こそは、それぞれが認識する世界の中心であり、自分の人生の終わりは、唯我論的には、世界の終わりであるからです。

かくして典型的には、人々の賞賛や、恋人からのエロスで、人は自分が特別な存在であると感じたがります。賞賛とエロスは人生の大きな喜びです。

しかし賞賛もエロスもうつろいやすいもの。不特定多数の人による賞賛は、次から次へと現れる才能へ移りゆきます。特定の異性によるエロスも、その異性が有限の存在である以上、永遠でも無条件でもありません。

多くの人間はその事実を受け入れます。賞賛とエロスは永遠ではありえないのです。しかしある人々はそれを受け入れられません。賞賛があり続けないと、エロスに満たされ続けないと、自分の存在が無意味になってしまうように思えます。典型的には、親からの愛情に満たされなかった子供、条件つきでしか愛情をそそがれなかった子供は、成人後も賞賛に飢え、エロスに恋い焦がれます。賞賛とエロスという、うつろいゆくものでしかありえないものを、求め続けます。これは悲劇です。

この映画に描かれたチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯はそのような悲劇だったように思えました。彼女の場合は、なまじ才能があったゆえに、人生の喜びと悲しみの振幅が並みの人間よりもはるかに大きくなってしまったような気がします。

彼女の両親が特別に冷たかったようには思えません。しかし母親が家庭内の音楽教師であり、姉妹が音楽のライバルという家庭環境の中で、姉妹はそれぞれに愛情に飢えた存在となりました。しかし才能に劣る姉のヒラリーは、演奏での賞賛を受けないことに慣れ、有限な存在に過ぎない男性に愛され、またそんな男を愛することを学びます。一方、音楽的才能に恵まれたジャクリーヌ(ジャッキー)は賞賛を受け続けることに慣れ、同じように賞賛を受け続けることに慣れた男(ダニエル・バレンボイム)と結婚し、やがて賞賛を求め続ける二人の生き方(trained freaks)に耐え切れなくなってしまい、その反動でエロスを貪欲に求めてしまいます。

親からの無条件の愛情さえあれば----少なくとも無条件に思える愛情さえあれば、賞賛とエロスを求め続けなくとも人生には価値があることがわかったはずなのに。

しかし何らかの理由で、それに恵まれなかった人間はどうすればいいのか。無条件の愛をそそいでくれる神という存在(あるいは概念)を信じればいいのか。でも神を信じることができなければどうすればいいのか。

映画の空想的なラストシーンで、成人のジャッキーが幼いジャッキーに語りかけます。

I just wanted to say that everything is going to be all right. ...

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経験から学ぶか、映画から学ぶか----セブン・イヤーズ・イン・チベット(2004/4/3)

オーストリアの登山家ハインリッヒ・ハラーの手記(実話)に基づく映画です。若きハインリッヒは、登山家としての栄光につつまれた青年でしたが、その一方で、いやそれがゆえにか、独善的であり、身重の妻を残してインドへの登山隊に加わります。インド滞在中に第二次世界大戦が始まり、彼はイギリス軍の捕虜となります。そこへ届いたのが妻からの離婚届。長くハインリッヒと心を通じ合わせることができなかった彼女は、ハインリッヒと離婚して、赤ん坊と新しい男性との生活を始める決意を固めたのでした。

やがてハインリッヒは捕虜収容所から脱走。数々の苦難を乗り越えチベットに入り、幼いダライ・ラマとの知遇を得ます。離婚をし故郷オーストリアに帰る意志を失いかけてきた彼も、もう大きくなっているはずの息子のことは気にかかり、度々手紙を出します。そんなところに届いたのが、息子からの「あなたは私の父ではありません。もう手紙を私に出さないでください」との便り。ハインリッヒはチベットに留まることにします。過去の栄光も、故郷の家族も失った彼ですが、チベットという彼にとっての異文化の中で段々と人間的成長を遂げてゆきます。

そうして数年が過ぎるうちに、中国では毛沢東が権力を握り、チベットへの弾圧を始めます。かつてはヨーロッパの強国に住み、個人的にも強者としての立場にあったハインリッヒも、弱国の中で、個人的にも栄光とは無縁の立場に置かれます。しかしそんな状況の中でも人間としての豊かさを失わないチベットの人々を彼は見い出します。栄華とは無縁の「チベットでの7年間」がハインリッヒの人間的成熟を促したのでした。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といいます。その言い方に従うなら、自らの独善性の意味を、離婚を経た後に、チベットでの7年間を通じてようやく学んだハインリッヒは愚者といえるのかもしれません。しかしその経験を、(やがて映画化されることになる)手記にする形で、他者がそれから学べる歴史に作り変えたハインリッヒを単に愚者としてさげずむことはできません。

若い皆さんはこの映画を賢者として見ますように。

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何でもあり----評決(The Verdict)(2004/3/11)

1982年のポール・ニューマン主演の法廷もの。地味なつくりでしたがいい作品でした。

裁判は実際の血が流れないだけで、本質は戦いだといいます。ルールある戦いとはいえ、そのルールが複雑だから、そのルールの裏をかいたり、悪用したりもできます。時にはルール無用の場外戦もあります。それが有史以来、戦いを止めることができない人間の現実なのでしょう。まさに何でもありなのです。

ですが、何でもありだからこそ、正義を求める心もあるのでしょう。アメリカの人々が陪審員制度にかける気持ちがわかる映画でした。このようなフィクションが生み出されるのは、アメリカの健全さを示しているのでしょうか。それともその欠如か。

日本ではやがて導入されようとしている裁判員制度。私たちはどのような気持ちでその制度に接するのでしょうか。

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子供と家----海辺の家(Life as a House)(2004/2/28)

子供を持ち、育てる。家を持ち、整える----男と女が協力して----。人生にこれ以上の偉業はないのかもしれません。金ではなく人間性こそがこの偉業に必要だからです。

10年前に離婚をし、家族が住んでいた家を荒れ果てたものにしてしまいながら一人荒んだ暮らしをおくるジョージは、仕事も失ってしまいます。さらには病気で倒れ、余命数ヵ月であることを悟ります。

一方別れた妻は、今は有能なビジネスマンの夫と暮らし、二人の新たな子供も授かっていますが、ジョージとの子であったサムは、その家庭の中で自分を見失い、ドラッグなどに身を持ち崩してしまっていました。

しかし、Everything happens for a reason.  

親権の一部として週末にサムに会うジョージは、自分の人生と、自分の分身であるサムの惨状を前に、死ぬ前に20年来の夢であった家を立て直すことを決意します。反発するサム。病気のことは黙ったまま、まずは家を取り壊すことから始め、サムに手伝いを求めるジョージ。映画は、ジョージが家を作り直すという労働の中で、少しずつ自分を再生し、サムもジョージを手伝う中で、彼もまた自分を再生してゆく様を描きます。同時に別れた妻も、再婚した有能なビジネスマンの夫が、サムを嫌うだけでなく自らの子供も進んでハグしようとしない人間であることに気付き始め、ジョージの良さを再認識し始めます。

やがてわかるジョージの病気。サムはそれを知らされた時に、自分が最初は反発しかしていなかったジョージを愛しているようになっていたことに気付きます。ですが、その愛情ゆえに、それまで病状のことを黙ったままであったジョージを許せなくも思います。

やがて完成に近づいてくる海辺の家。ですがジョージは力尽きて入院となります。家の再建も、自分の人生の再生も未完のままジョージは死を迎えます。

ですがその偉業を引き継いだのはサムでした。悲劇を前にしたサムの急速な人間的な成長が家の完成をもたらします。離婚をし、職を失い、癌に蝕まれて死んだジョージですが、彼は息子を再生させ、家を再建させたのです。その偉業を通じて彼は自分の人生を完成させたのです。

男と女が協力して、子供を持ち、家を持つこと。毎日の中で少しずつ、子供を育て、家を整えてゆくこと。現代社会の中では、平凡すぎると軽んじられたり、「自由」がなくなると嫌われたり、仕事の忙しさとそれがもたらす金の力で蝕まれたりしている、この子供と家を持つことの価値を私たちは再認識すべきでしょう。もちろん、それだけが人の生き方ではないにせよ。

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「強さ」と「正しさ」の悲劇----シャイン(Shine)(2004/2/24)

人はしばしば他人を作り上げようとします。ある理想(という名の思い込み)に、ある人間を当てはめて、その人間を作り上げ、作り変え、そこから外れようとする流れは戻し、塞き止めようとします。時にそのような行いは「熱心な指導」と呼ばれたり、「愛」と呼ばれたりします。しかしそのような行いは--少なくともゆきすぎた行いは--悲劇を生みます。人は、他人であれ自分であれ、理想とそれへの意志だけで人間を作り上げることはできないのです。人間の自然(human nature)はそのような単純なものではありません。多面的で複雑微妙な人間に単純な理想と意志を押し付け続けるなら、いつかどこかで破綻が生じます。

主人公デイヴィッドは音楽の才能にあふれた子供でした。ですが、彼の父は、幼少の頃に音楽を否定され、その後収容所生活を生き抜き、オーストラリアに移住してきた「強い男」でした。父はデイヴィッドの音楽を育てようとしながらも、彼自身のコンプレックスからデイヴィッドを常にコントロールしようとします。なまじデイヴィッドには音楽の才能があるため、父は常に彼を自分自身の思いにしたがって導こうとします。いや導くというのは適切な表現ではないかもしれません。この父が行ったことは、常にデイヴィッドの現在を否定し、勝ち取りえていない未来にこそデイヴィッドの価値があると思い込ませて、デイヴィッドを支配したことなのかもしれません。父は「正しい」自分を疑おうとしませんでした。いや疑うことができなかったのでしょう。それほどに、彼は外面の強さとは裏腹に脆い人間だったのです。

紆余曲折あってデイヴィッドは父のもとを離れ、ロンドンで音楽を学びますが、父親に仕込まれた、常に現状に満足せず音楽に打ち込む態度は彼から離れることはありませんでした。彼のそのような気質は、彼の指導教授にも伝播し、彼はいっそう音楽を激しく練習します。その結果、彼はコンサートで難曲中の難曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を見事に演奏します。しかしその演奏の極致で彼の精神は崩壊してしまいます。

この映画は実話に基づく映画です。私は実話の詳細は知りませんが、おそらく「常に強く」、「常に正しい」父親によって、ある人間が精神崩壊にまで追い込まれたことは事実なのでしょう。そしてこのような話は、程度の差こそあれ、ちまたにあふれているものなのでしょう。

「強さ」や「正しさ」は美徳です。しかしそれらには限度がある。自らの「強さ」と「正しさ」の限度を見極め、受け入れた時にのみに「強さ」と「正しさ」は美徳でありうる、というのがより正確な表現でしょう。自らの限界を認めようとしない「強さ」と「正しさ」は悪徳です。限りなく「強さ」と「正しさ」を求めようとすることは、その人とその人の周りの人々を不幸にします。

ひるがえってこの訳知り文を書く私。格闘技を好み「強さ」に憧れながら、人を「正しく」導こうとする教師である私。この「強さ」と「正しさ」への憧れゆえに私はおそらく、一部の人々に美徳ある人と誤解される一方で、一部の人々を不幸にしているのでしょう。

しかし「強さ」や「正しさ」を全面否定することはできません。少なくとも今の私は老子のような達観はできません。私はエセ孔子よろしく、「強さ」や「正しさ」を否定できないままにもがいています。願わくば、このような私にも自らを知る知恵が与えられますように。自らの限界を見極め、受け入れる静かな心が、自らの限界を目指し、挑戦を続ける猛き心と同居しますように。そして他人をありのままに受け入れ、その受動的な愛情によって、その人の積極性を引き出すことができますように。

追記:この映画で使われた音楽の中で最も印象的だったのは、ピアノ曲ではなく声楽曲でした。誰の何という作品だろうと、気にかかっていましたら、ラジオでたまたま話題になり、知ることができました。ヴィヴァルディのモテット「まことの安らぎはこの世にはなく」がその曲でした。(2004/3/1)

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All you need is love ----アイ・アム・サム(I am Sam)(2004/2/21)

子供というのは、おそらく人間が与えられる最高の贈り物なのでしょう。だって子供は愛を求める。愛を求めて、大人に人を愛することを教えようとしてくれる。人間がもちうる最高の感情の愛というものを育むことを大人に学ばせてくれる。

しかし、現代社会では「子供」や「愛」はますます軽んじられてきています。「有能」な人ほどこう言います。「忙しい」。「もっとお金が必要」。「自己実現がしたい」----現代社会で成功するためには、まるで子供を育てることや、人を愛することが障碍であるかのようです。

しかしもし私たちがそのように考えるのなら、私たちこそが障碍者です。どんなに現代社会が私たちをもてはやしても、私たちは心の奥深いところに大きな障碍をかかえているのです。そんなことを思い起こさせてくれるこの映画は、現代社会の歪みの中で人間性というものを忘れかけた人達にとって----私もその一人です----かけがえのないものです。

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文学と音楽----老人と海(The Old Man and the Sea)(2004/2/20)

スペンサー・トレイシー主演の1958年アメリカ作品です。言うまでもなくヘミングウェイ作品の映画化ですが、その台詞、描写、挿話、比喩、ストーリー展開、さらには映画作品ですから役者の表情(例えば、最後に少年からコーヒーをもらう時の老人の表情)や音楽などが、それぞれに安直な解釈や固定した解釈を許さず、次々と映画を見る私の心にさざ波を立ててゆきます。

安易な決めつけを許さないという点では文学と音楽は似ています。音楽といえば先日(2004年2月10日)に行った、広島交響楽団第236回定期演奏会、アレクサンドル・ドミトリエフ指揮によるショスタコーヴィチ交響曲第10番ホ短調も素晴しかった。聞き終わって、何がよかったのかと説明しようとしても説明できない。でも音楽のメロディー、ハーモニー、リズムのそれぞれと、それらの統合的全体が、私の中にあるさまざまな音楽経験を揺り動かし、その揺り動かしによって、名状し難い独特の感動が私の心の中に残りました。

おそらく音楽経験を重ねて文章修行を行えばその感動の一部は表現できるようになるでしょう。でもその頃には、音楽というものは、その時点の私の文章能力をはるかに超える感動を与えてくれるようになっているでしょう。

文学も音楽も、それを味わう人の内面に訴えかけ、その人の内面の豊かさに応じて感動を引き起こしてくれます。そうしてみると文学も音楽も、歳を取れば取るほど味わい深くなってゆくものです。しかし文学や音楽を楽しむ習慣は若いうちからつけておいた方がいい。私は、文学はともかく、音楽については本格的に聞き始めたのが24歳と遅かったので、時に小さな頃から豊かに音楽教育を受けている人がうらやましくてなりません。それでも遅くとも無いよりはまし。今、私の人生に文学と音楽がなかったら、私の人生はどんなに貧困なものになっていたでしょう。文学と音楽はこれからも私の成熟に応じて深い喜びを与えてくれるのでしょう。

文学と音楽とばかり言い続けましたが、これは映画の話でした。映画も同じ。いや芸術はすべてそうでしょう。決めつけの解釈を許さない芸術の豊かさ、安直な言葉を拒絶し、言葉の可能性の彼方を示してくれる芸術の奥深さは、文化の大きな喜びです。

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無知と粗暴さ----ボーイズ・ドント・クライ(Boys Don't Cry)(2004/2/14)

1999年にアメリカで作られたこの作品は、1993年にアメリカのある田舎町で実際に起こった事件を題材にしています。主人公は性同一性障碍で、生物学的には女性でありながら、それになじめず男性として行動する人間です。その彼が生まれた町を離れ、ある町で人々と出会うところからこの話は始まります。

ですが映画としては、前半はややだるく、後半は重く、最後はある意味、救いようのない結末を迎えます。主人公の特性から考えると、映画の主題は性同一性障碍かとも思われますが、私の感想はBoys don't cryというタイトルに示されている、若い男の無知と粗暴さであるような気がします。「泣かない」というのは、もちろん強さを表す表現でもありますが、ここでは、無知と粗暴さから生じる恐るべき冷酷さを示す表現となっています。

ヒトは生まれついただけでは社会的な存在になりません。ヒトが共存し共栄するためには、人間性というものが躾られ、教えられ、育み合われなければなりません。私が教師だからどうしてもこのような考え方をしてしまうのかもしれませんが、人は教育と学習を必要とする存在です。教育と学習が十分でなく、若い人々----特に若い男性----が、無知を偏見に変え、粗暴さを酒や銃で増幅させれば、この映画に描かれるような悲劇が生じます。

無知と粗暴さからくる「荒々しさ」は、時に「男らしさ」と誤解されますが、そのような「男らしさ」は、周りの人もその人自身をも不幸にしてしまう性向です。古今東西の文化はそのような「男らしさ」から男性を導き出し、救い出そうとしています。

作品の性格上、娯楽作品ではありえないこの映画は、無知と粗暴さを自分らしさと勘違いし、酒と暴力(的態度)で自分を誤魔化している男性こそが見るべき作品なのかもしれませんが、そんな人はこんな映画は見ないだろうなぁ。見たとしても前半できっと眠ってしまうだろうなぁ。映画一本で人を変えようなどと傲慢なことは考えずに、毎日の生活の中で、教師は、いや社会的存在である私たち一人一人は、お互いを無知と粗暴さから救い出す努力を重ねるべきなのでしょう。

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表現と性----マイ・レフト・フット(My Left Foot)(2004/2/11)

1989年にアイルランドで作られたこの作品は、その当時、ある友人に強く薦められましたが、「障碍者ものはちょっと」と敬遠したままでいました。よくあるお涙頂戴ものだったら嫌だし、重い映画なら見るのが辛いし等と自分では思っていたのですが、おそらくは障碍者の生き方を通じて自分の生き方を見つめ直すことが怖かったのでしょう。

しかし祝日の今日、予定していた仕事が資料がないのでできないことに気づき、コクーンに最初に録画された映画を見るのもいいかと思い、この「マイ・レフト・フット」を見ました。

見て、確かに自分の生き方について考えさせられました。いや、自分の生き方というよりは、人間の生き方について考えさせられたという方が正確でしょう。類型的な障碍者もののように「障碍者はハンデがあるのにこれだけ頑張っている。それからするとあなたはもっと頑張らなくてはいけない・・・」といった一方的な映画ではなく、たまたま障碍をもった人間が、人間なら誰でも通りすぎるような人生の課題に、その身体をもってどう取り組んでゆくか、という映画でした。障碍克服の苦労のシーンが少なかったこともあり、私は主人公のクリスティの障碍者としての側面より、一人の人間----少しわがままで、孤独感や劣等感の中にありながらもそこから抜け出そうとしている若い男性----としての側面に共感しながら映画を見終わりました(もちろん、これはたまたま私が現在のところ五体満足な身体を持っているからなのかもしれませんが)。

クリスティは脳性マヒのため、生まれつき、自由になるのが左足だけという障碍を負います。最初は近所の人や父親にも白痴扱いされ、母親だけがクリスティを温かく見守りますが、左足で字を書けるようになったことにより、ようやく人並みの扱いを受けるようになります(クリスティに字が書けることを知った時のアイルランド煉瓦職人の父親の反応や、それ以降の周りの子供達とクリスティの遊びの交流は、本当に自然で人間性というものを感じさせるものでした。

とはいえ、クリスティには行動の自由がありません。そんな中で彼は左足で絵を描くことを学びます。人は住居と食事が与えられれば幸福なのではありません。人には何か表現したいものがある。人は表現せざるをえない動物なのかもしれません。

かくいう私も、どうしてこのような堕文を書き連ねているかというなら、表現したいからです。理解をすることは快感です。この映画を見ただけでも私の心は充たされました。しかしそれだけではどこか収まらないものがある。表現をしたい。表現をして、この心にもやもやとしたものを明確な形にしたい。そして自分の中にうごめくものを解放したい。少なくとも私にとっては表現とはそのような行為です。

表現によって「解放」された自己は、言葉遊びのようになってしまいますが、同時に他人に対して「開放」されます。自分にも理解されず、自分の中でのたまわるしかなかった自己が、同じようなうごめきを抱え、それが何かを理解しようとしている不特定多数の人間に、開放されます。そして表現が的確ならその自己は他人に理解されます。時にはそれが他人の反応を呼び起こし、その他人の魂の解放と開放が連鎖反応のように続いてゆきます。私がネットにこのような文章を書き連ねているのも、私の心がそのような快感を感じているからなのかもしれません(あるいは私が、私が感じることは他人も興味があるはずだと思い込む強度の自己中心主義者であるからなのでしょう)。

話を映画に戻しますと、クリスティはやがて脳性マヒを専門とする若い女医に見い出され、スピーチ・セラピーを受け、多くの人に理解される発話を身につけます。しかし、彼も若い男性です。いやこの言い方は正しくない。若い人間です。彼はその女医に恋してしまいます。ですが、その女医には婚約者がいることを知り、クリスティは人前で荒れ、部屋の中では絶望をします。

障碍者であろうが健常者であろうが、男性であろうが女性であろうが、性というのは大きな力です。クリスティはこの力に翻弄されます。

しかしこの力はクリスティを新しい段階に進める力でもありました。クリスティは自分のこれまでを言葉で表現したい欲望にかられ、左足でタイプをすることを覚えます。そして自伝を完成させます。

映画はその自伝の完成からさらに展開があるのですが、ここで映画のストーリーを追うことを止め、また私の駄弁を始めます。クリスティを、単に息をし食物を摂取するだけの存在から、エゴをもち、傷つき、それでも自分に誇りをもとうとする存在、つまりは人間にしたのは表現と性でした。表現は文化的な力、性は生物的な力です。しかしこれらは両方とも人が人らしく生きるには適切に身につけ、コントロールすることを覚えなければならない力です。

でもこの表現と性は、この現代日本では適切に学ばれているのでしょうか。といっても学習指導要領で教科書を作れなどというつもりなど毛頭ありません(苦笑)。いくら私が学校教師だといってもそこまでお役所的な発想はとりません。しかし学校外の共同体・社会は、子供達に、そして私やあなたに、表現と性を豊かに人生に取り込むことを教えているでしょうか。やや類型的に言うなら、学校で一方的な理解だけを詰め込まれ、表現を抑圧された子供は、学校の外で表現にならない表現----自分を解放も開放もしない表現、例えば暴力、ひきこもりなど----で苦しんでいるのではないでしょうか。大人も適切な表現文化をもちえているのでしょうか。そして性。それは自然であることを止めさせられ、商品になってしまったのではないでしょうか。あるいはおそろしく貧困なものになりさがり、私たちの人生を物質的な繁栄とは裏腹に魅力のないものにしているのではないでしょうか。

これ以上書くと、自分の生き方を真剣に問い直してしまうことになるので、ここらで止めます。しかしこのような問いかけは私のこの駄文の表現から派生したもの。映画「マイ・レフト・フット」という表現は、重くもなく、軽くもなく、障碍者を描くことによって私たちの生き方を考えさせ、最後には希望を与えるいい映画です。

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