現職英語教員の方のための講演


Backward Designはなぜ失敗しうるのか(2008/03/31)


英語授業研究と合理性(2002/6/22)
北へ向かえ(2002/11/17)
文法獲得と集中的入出力訓練(2002/9/23. 11/18、12/23一部修正)
集中的入出力訓練に関する追記(2002/11/18. 12/23一部修正)
集中的入出力訓練(Intensive Input/Output Training)の具体的方法に関する整理(2002/12/23、以後随時修正・追加更新)
英語教育内容学からの高校への提言--語用論の立場から--(2004/3/4) 
田尻実践に見る英語教育内容マネジメントに関する一考察 (2005/3/6)

大学院は現場教師に対して何ができるのか(2006/2/28)



Backward Designはなぜ失敗しうるのか (2008/03/31)

英語教育ではしばしばBackward Designで授業を組み立てることが勧められます。Backward Designとは、目的とする状態をまず明確に描き、一定期日までにその状態に達するためには、今からその日まで何をしてゆけばよいのかというように、未来から現在という逆向きの時間軸で計画を立ててゆくやり方です。ところがこれをワークショップなどでやっていただいても、うまくゆかないことがしばしばあります。

ここにBackward Designがうまくゆかない根本原因を書いてみましたので、参考にしてみて下さい。記述を短くするために抽象的な用語を多用してしまったことをお許し下さい(しかし私たちはもっと抽象的な概念に慣れるべきだというのが私の信念です)。一番大切なのは「I 実践前」の要因ですが、「II 実践中」「III 実践後」の要因も次第に重要になってくると私は考えます。


I 実践前

1 目的合理性の発想そのものになれていない。「授業とはこうやるもの」という規範を再現する規範的合理性の考え方ばかりに縛られている。

2 因果的な目的-手段構造の抽象的な分析ができない。非システム的(非学術的)な語彙しかないので、一貫した思考ができない。規範あるいは日常概念といった中途半端な具体性の中にとどまり続けて、一度抽象化してそれらの具体性から抜け出し、目的合理的に考え、そうした上でその抽象概念を徹底的に具体的な行動に還元することができない。

2.1 目的も手段も言語化できない。曖昧すぎる日常語か「天下り用語」(注)しか知らない。さらに目的そのもの(教育内容)に関する知識が乏しいので、目的の構造的分析ができない。したがって目的を構成概念として明確に言語化できない。
(注)「天下り用語」とは、私の造語ですが、ここでは「文部科学省などから使うことを指示されているが自分ではよく意味が分かっていないし、おそらくは指示を出しているほうも正確に意味を理解していない用語」を意味します。

2.2 複数の手段をつなげる過程を構想できない。単一の手段によって目的を達成するという発想ぐらいしかないので、複数の手段を一貫して整合的に、かつ効果的に並べることができない。

2.3 目的の操作的定義ができない。いったん抽象化した目的(構成概念)を具体的な操作に翻訳することができない。評価・測定が慣習的な規範に縛られてしまっているので、よいテストをつくれない。

2.4 目的から手段へという逆向きの時間的発想ができない。ただ「じゃ、次に何をやろう」という時間概念しかない。

3 生徒という他人の思考システムが、自分の思考システムからも、コミュニケーションからも独立していることを理解していない。生徒は自分と同じような考え方(思考システム)を持っているはずだと安易に前提してしまう。

4 異なる思考システムに関する知識が少ない。学術的な思考システムに関する本はあっても、生徒の思考システムを記述した本は少ない。というより教師の思考システムを記述したもの(teachers' narrative)も少ない。

II 実践中

5 コミュニケーションによって、他人の思考システムについての知識を得る術を知らない。授業のコミュニケーションは、教師から生徒への情報伝達としてしか考えていない。コミュニケーションは、教師にとっての、生徒の思考システムに関する学習の時間であるという認識があまりない。

III 実践後

6 システム的合理性を体得できていないので、古典的目的合理性にとどまり、目的を修正するということを知らず、固定的に突っ走ってしまい自分・生徒・コミュニケーションというシステムを壊してしまう(リフレクションの欠如)

7 小規模用・短期的・具体的な「目的」(end, objective, Zweck)の概念しか持たず、大規模用・長期的・抽象的な「目標(あるいは方針)」(goal, aim, Ziel)の点から実践を振り返ることができない。「目的」達成のためのbackward Designは実現されても、「目標」という大局観を見失ってしまう。


私は「専門家」とは「徹底的に抽象的な思考ができ、かつ徹底的に具体的な想像ができる人」だと考えています。Backward Designを通じて、抽象的思考と具体的想像の間の往復を行い、お互い専門家としての力量を高めましょう。

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英語授業研究と合理性(2002/6/22)
これは、広島県立教育センター平成14年度研修事業の英語科教育研究講座(平成14年6月24日(月)広島県立教育センター)での「授業研究の視点と方法」という講演のもとになる原稿です。
0 はじめに
授業を改善するには、よい授業者の「技を盗む」ことがいいとよく言われています。確かに優れた技を真似して、飛躍的に授業がよくなることもあります(特に、何度もよく見ていて、気がついたら自分でもそうしていた場合の模倣など)。しかし一方で、真似はしたものの、どうも形だけが上滑りになって、自分の授業改善にはならないことも多くあります。また意欲的な先生が、ゲームや活動やプリントで盛りだくさんの授業をしても、それは次第に飽きられるだけで、かつ学力もつかないままに終わったりすることもしばしばあります。ある「いいやり方」を教えてもらい、後はひたすらに自分をそれに合わせるだけというアプローチには明らかに限界がありそうです。
このように考えることを軽視し、ひたすらお手本に従おうとするアプローチは、実は英語教師だけに見られるのではなく、日本文化に奥深く流れているアプローチとすらいえるのかもしれません。大東亜戦争における日本軍の失敗をとらえ直し、現代での反面教師としようとするロングセラー『失敗の本質』は次のようにまとめます。

日清・日露の二つの大国との戦争で勝利を収めるなかで、日本軍は実に多くのことを学びとった。つまり成功によって因果関係の構造を理解し習得したのである。しかし時間の経過とともに、日本軍内部の各級の教育機関でもしだいに、与えられた目的をもっとも有効に遂行しうる方法をいかにして既存の手段から選択するかという点に教育の重点が置かれるようになった。学生にとって、問題はたえず、教科書や教官から与えられるものであって、目的や目標自体を創造したり、変革することはほとんど求められなかったし、また許容もされなかった。

ほとんどの場合に問題になるのは、方法であり、手段であった。ときとして、目的・目標ばかりでなく、方法・手段そのものも所与のものとされ、教官や各種の操典が指示するところを半ば機械的に暗記し、それを忠実に再現することが、最も評価され、奨励されした。いわば「模範解答」が用意され、その解答への近さが評価基準となっているのである。兵士の訓練において「足に靴を合わせる」ような教育方法が採用されたが、士官レベルの教育においても、そうしたタイプの教育がしだいにウェイトを高めてきた。(戸部、他 1984:331-2)

このような「学び」のパターンは戦後の受験教育にも引き継がれ、今なお命脈を保っているように思えます。また英語教育界とて、文部科学省から目的・目標が与えられ、現場教師もはてまた研究者さえも自ら問題を考え出すことをせず、さらには方法・手段すらも「偉い方」から「ご指導」されて現場教師はひたすらそれに自分を合わせるという行動パターンにおいて、上の指摘を他人事としては捉えられないのではないでしょうか。私たちは「ひたすら真似する」アプローチだけでなく、自らの頭で考える「授業研究」というアプローチへをも身につける必要があります。
本日の講演では、「ひたすら真似をする」という非思考的・非批判的なアプローチを打破するべく、英語授業研究を主に「合理性」という観点から考えてみて、講演の最後のワークショップでは、皆さんの一人一人がそれぞれの頭で、自らの英語授業を捉えなおし、改善をはかれるようにすることを目的とします。そのためには、最初は「研究とは何か」「授業とは何か」「授業研究とは何か」「英語授業とは何か」「英語授業研究とは何か」といった一見まわりくどい考察を行います。根本的に一つ一つ積み上げるように・連結してゆくように考えることこそが、上記の日本軍のような失敗を繰り返さないために必要だと信じるからです。そうしてきちんと考えた後に「英語授業研究の視点と方法」についてまとめ、ワークショップで皆さんが皆さんなりの考えをまとめられるような構成・進行にしたいと思います。
 
1 研究とは何か
さて、最初は「研究とは何か」という問いです。ここでは、まず「主観的思い込みから脱却すること」と述べることからその問いに対する答えを始めてゆきたいと思います。
それでは「主観的思い込み」とは何でしょうか。ここではその(やや極端な)例として「認知の歪み」として知られる主観的思い込みのパターンを紹介します。真面目な人が、追い詰められるとしばしばこのようなパターンに陥りますが、皆さんの場合はどうでしょう。もちろんこのような思い込みを皆さんがしていないことを私は祈っているのですが・・・

認知の歪みの定義:

(1)全か無か思考:ものごとを白か黒かのどちらかで考える思考法。少しでもミスがあれば、完全な失敗と考えてしまう。

(2)一般化のしすぎ:たった一つの良くない出来事があると、世の中すべてこれだ、と考える。

(3)心のフィルター:たった一つの良くないことにこだわって、そればかりくよくよ考え、現実を見る目が暗くなってしまう。ちょうどたった一滴のインクがコップ全体の水を黒くしてしまうように。

(4)マイナス化思考:なぜか良い出来事を無視してしまうので、日々の生活がすべてマイナスのものになってしまう。

(5)結論の飛躍:(a)心の読みすぎ:ある人があなたに悪く反応したと早合点してしまう。(b)先読みの誤り:事態は確実に悪くなる、と決めつける。

(6)拡大解釈(破滅化)と過小評価:自分の失敗を過大に考え、長所を過小評価する。逆に他人の成功を過大に評価し、他人の欠点を見逃す。双眼鏡のトリックとも言う。

(7)感情的決めつけ:自分の憂うつな感情は現実をリアルに反映している、と考える。「こう感じるんだから、それは本当のことだ」。

(8)すべき思考:何かをやろうとする時に「〜すべき」「〜すべきでない」と考える。あたかもそうしないと罰でも受けるかのように感じ、罪の意識をもちやすい。他人にこれを向けると怒りや葛藤を感じる。

(9)レッテル貼り:極端な形の「一般化のしすぎ」である。ミスを犯した時に、どうミスを犯したかを考える代わりに自分にレッテルを貼ってしまう。「自分は落伍者だ」。他人が自分の神経を逆なでした時には「あのろくでなし!」というふうに相手にレッテルを貼ってしまう。そのレッテルは感情的で偏見に満ちている。

(10)個人化:何か良くないことが起こった時に、自分に責任がないような場合にも自分のせいにしてしまう。

(デビット・バーンズ『いやな気分よ さようなら』星和書店)

このような主観的な思い込みは非生産的であるだけでなく破壊的ですらもありますから、ぜひともこれからは脱却するべきでしょう。主観的思い込みから私たちは「客観的認識」へと、考え方を転換する必要があります。
それでは「客観的認識」とは何でしょうか。改めてこうして問われると、案外困惑してしまうものです。ここでは素直に辞書の定義を読んでみましょう。
メリアン・ウェブスター英語辞典はobjectiveという言葉を次のように定義し、客観的とは、個人の懸念や感情にとらわれないことで、合理的な知性を持った人なら誰でも現実、真あるいは妥当だとみなすような性質のことだと説明しています。

Objective: independent of what is personal or private in our apprehension and feelings : of such nature that rational minds agree in holding it real or true or valid : expressing or involving the use of facts without distortion by personal feelings or prejudices  (Merriam-Webster's Unabridged dictionary) (emphasis added)

合理的に考える人に同意してもらうには、自分の主張(claim)に根拠(ground/warrant)と証拠(evidence)があることを明らかにすることが一番です。つまりは自分の思いにはjustification(正当化・申し開き)が伴っているかどうかをはっきりさせるということです。最近のはやりの言葉でいうとaccountability(説明責任)を果たすということです。しかし「正当化」「申し開き」「説明責任」といった言葉は、決して「言い逃れ」といった態度を示していることではないことに注意してください。Justificationは文字通り自らがjustであることをrational mindsに示すことです。また自分がjustでなかったら素直にそれを認めることです。
ちなみに、主張(claim)・根拠(ground/warrant)・証拠(evidence)は議論におけるいわば三点セットともいえるものです。下の定義を参照してほしいのですが、ここでは、主張は自分が真であると信じていることを述べること、根拠は主張の真理性を示す抽象的な土台、証拠は根拠がこの場合に成立することを示す具体的な事実、と私なりに定義しておきます。ただし実際には、当たり前すぎて根拠が示しにくい場合(「人は幸せであることを望む」ことの根拠)や、一般的過ぎて証拠が示しにくい場合(「読書が人生において有益である」ことの証拠)もありますので、それほどこの「三点セット」について神経質になる必要はありません。

Claim: to assert especially with conviction and in the face of possible contradiction or doubt

Ground: the foundation or basis on which knowledge, belief, or conviction rests

Warrant: something serving as a reason or ground for a belief, opinion, or action

Evidence: something that furnishes or tends to furnish proof : means of making

proof : medium of proof (Merriam-Webster's Unabridged dictionary)

こうしてみますと、研究とは、自らの信念を、合理的に考える人になら誰でも同意してもらえるようにするために、その信念(主張)に根拠と証拠があることを示そうと努力すること(そして示せないならその信念を修正すること)であるということになります。
これは何も特別に非日常的なことではありません。それこそjusticeを扱う司法ではこのような態度が常に要求されていますし、組織でも慎重に決定を行わなければならないときは、ある提案(主張)に十分な根拠と証拠があるかを会議で検討します。
もっとも日本の会議ではこのような合理的判断を行わず、もっぱらメンバー相互の人間関係に配慮した判断を行うことが多いです。「あの時はああいう『空気』だったから」というのは、非合理的な判断をしてしまった会議参加者がよく使う言い訳です。やや回り道になるかもしれませんが、再度『失敗の本質』からの引用を見てみましょう。

日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。たとえ一見科学的思考らしきものがあっても、それは「科学的」という名の「神話的思考」から脱しえていない(山本七平『1990年の日本』)のである。沖縄作戦の策定にあたって最後まで科学的合理性を主張した八原高級参謀が、日本軍は精神力や駆け引き的運用の効果を過度に重視し、科学的検討に欠けるところが大であると嘆じたのはまさにこのことをさしているのである。第十五軍がビルマでインパール作戦を策定したときも、牟田口中将の「必勝の信念」に対し、補佐すべき幕僚は、もはや何をいっても無理だというムード(空気)につつまれてしまった。この無謀な作戦を変更ないし中止させるべき上級司令部(ビルマ方面軍、南方軍)も次々に組織内の融和と調和を優先させ、軍事的合理性をこれに従属させた。さらに統帥の最高責任者である杉山参謀総長が、寺内南方軍総司令官のたっての希望ならという理由で、反対意見の真田作戦本部長に翻意を迫り、真田も杉山の「人情論」に屈した(戸部、他1984: 283-4)

話がそれないように元に戻しますと、研究とは合理的態度に徹することです。こういう態度は、日本では西洋ほどには見られませんし、むしろ嫌われているきらいすらありますから、私たちは、研究を支える合理性についてきちんと理解をしておく必要があります。
ところで上の引用では「科学」という言葉がでてきました。「科学」は「研究」の中でも特に理論的・実証的に洗練されたものを指しますが、しばしば「科学」という言葉はそれほど厳密な意味で用いられないことがあります。それが「科学的という名の神話的思考」を生み出す原因にもなっています。
ちなみに「英語教育学」も「独自の科学」であると宣言される方も複数いらっしゃいますが、この宣言は少なくとも二つの意味で不適切な解釈を招きかねないと私は考えています。誤解の一つは「独自の」科学があるというものです。対象・領域の点で異なりこそすれ、科学は科学ですから、「独自の」科学、つまりは、他の科学とは独立した科学というものは存在しえません。「独自の科学」と宣言する方は、ひょっとすると英語教育学という名で学界にポジションを得るという政治的配慮でそのような宣言をしたのかもしれませんが、それが、「英語教育学者」が関連領域である言語学、心理学、認知科学、教育学、社会学、政治学などの研究から目をそらす結果になってはよくないと思います。
もうひとつの誤解は、英語教育という複雑で長期間にわたる現象が、簡単に科学として単純化(理想化・理念化・idealization)されうるという誤解です。これに関しては話をすると長くなります(私もこれに関連した論文を過去に書いたことがあります)ので、ここではチョムスキーの見解を引用するだけにとどめておきます。チョムスキーの主張は、彼が定義するような形で理想化・理念化された「言語」ならともかくも、日常概念である「言葉を話す」ことや「人間」といった概念はそのままでは自然科学の対象にはならないというものです。

The concept human being is part of common-sense understanding, with properties of individuation, psychic persistence, and so on, reflecting particular human concerns,attitudes, and perspectives. The same is true of language speaking. Apart from improbable accident, such concepts will not fall within explanatory theories of the naturalistic variety; not just now, but ever. This is not because of cultural or even intrinsically human limitations (though these surely exist), but because of their nature. We may have a good deal to say about people, so conceived; even low-level accounts that provide weak explanation. But such accounts cannot be integrated into the natural sciences alongside of explanatory models or hydrogen atoms, cells, or other entities that we posit in seeking a coherent and intelligible explanatory model of the naturalistic variety. There is no reason to suppose that there is a "natural kind 'human being'"; at least if natural kinds are the kinds of nature, the categories discovered in naturalistic inquiry. The question is not whether the concepts of common-sense understanding can themselves be studied in some branch of naturalistic inquiry; perhaps they can. Rather, it is whether in studying the natural world (for that matter, in studying these concepts, as part of the natural world), we view it from the standpoint provided by such concepts. Surely not. There may be scientific studies of some aspects of what people are and do, but they will not use the common-sense notions human being or language speaking -- with their special role in human life and thought -- in formulating their explanatory principles. (2000: 20)

話がやや長くなりましたのでまとめますと、授業研究は、「研究」として根拠と証拠に基づいたものであればよく、ことさらに厳密な意味で「科学」でなければならないと身構えることは不必要(むしろ逆効果)である、ということです。
この点でいいますと、現在医療現場で話題になっているEvidence Based Medicineの考えは参考になります。もちろん医学は、教育学とは比較にならないほどの多くの生理学的知見や疫学研究の知見に支えられていますから、Evidence Based Medicineの考えをそっくりそのまま英語教育に持ち込むことには注意を要しますが、基本的な考え方としては参考になると思いますので、下に引用しておきます。

Evidence Based Medicine(EBM)とは、個々の患者のケアについての意志決定の場で現在ある最良の根拠《evidence》を良心的に、明らかに理解したうえで慎重に用いることであり、その哲学的起源を19世紀中頃のパリやそれ以前にさかのぼることができます(Sackett DL, 1996)。EBMの実践とは系統的な研究や臨床疫学研究などより適切に利用できる外部の臨床的根拠とひとりひとりの臨床的専門技量を統合することを意味します。臨床的な診断や治療はともすれば個人の経験や慣習に左右されることがよくあります。また、単に動物実験より類推した論理や権威者の意見により考察されることもあります。しかし、これらの方法が的を射ているのであればよいのですが、しばしば何の根拠もなく行われているために、ひとりひとりの患者にもっともよいものとならないこともあります。これは患者さん個人に不利益であるばかりでなく、医療費の高騰や社会資源の無駄となることも多々あります。言ってみれば、EBMはこれを回避するために、知りうるかぎりの疫学などの研究成果や実証的、実用的な根拠を用いて、効果的で質の高い患者中心の医療を実践するための事前ならびに事後評価の手技であり手段であります。よい医師とは豊富な臨床的経験と利用しうる適切な根拠の両方をうまく用いることができる能力を兼ね備え、患者本人のためを常に考え危険を避けるように努力している者と言えます。臨床的専門技量は経験に基づく医学のArtの部分であり、外部の根拠を基にした批判的検証評価はまさにScienceの部分であるといえ、このArt & Science の両者があってはじめて最良の医療ができるのです。ここにEBMの果たす重要な役割があると言えます。

「人生は短し、学術は長し。」(Vita brevis, Ars longa)で知られるヒポクラテスの箴言の続きにも「Experientia fallax, Judicium difficile(経験は欺く、判断は難しい)」とあります。EBMがその解決の糸口になるものと願っております。

日本大学医学部公衆衛生学教室のホームページより

http://www.med.nihon-u.ac.jp/department/public_health/ebm/index.html#what

英語の授業に関する研究も、現実的なレベルでの根拠と証拠を求めて、授業改善を行うという方向に進むべきでしょう。そのためには合理的であることに徹することが重要で、ことさらに科学的であろうと無理をする必要はありません。
 
2 授業とは何か
次に「授業とは何か」という問いについて改めて考えてみましょう。私の答え(定義)は「合理的に選ばれた教育目標達成のための行動」というものです。この定義の利点は、授業をadministrative behavior(経営行動)の一つとして考えることによって、20世紀アメリカが生んだ知的巨人の一人であるサイモン(Herbert Simon: 1978年ノーベル経済学賞受賞。経営学、心理学、統計学、オペレーション・リサーチ、数学、などの分野に多大な影響を与えた)の知見を活かすことができることです。授業を「生徒への愛」とか「魂への働きかけ」などと定義することには、私もやぶさかではなく、時に必要とすら思っていますが、ここではサイモンに倣ってあくまで合理的に授業を捉えることを試みます。
ちなみに'administrative'や「経営」という言葉も、わかったようでわからない言葉ですから、ここで辞書の定義を示しておきますと、administrativeとはconcerning or relating to the management of affairs(その動詞形であるadministerはattend to the running of (business affairs etc.); be responsible for the implementation of (the law, justice, punishment, etc.))、managementの動詞形であるmanageとはorganize; regulate; be in charge of (a business, household, team, a person's career, etc)です(いずれもConcise Oxford Dictionary)。日本語で「経営」といいますと、利益追求企業に関することだけのようにも思われがちですが、ここでは「経営」という言葉をadministration, managementの訳語として用います。
さてサイモンは、経営行動の合理性を強調しましたが、まずは「行動」に関する彼の考えから確かめていきましょう。彼は、行動は、意識的であれ無意識的であれ、選択の結果である。この含意は、行動に唯一無二のものはなく、必ずその他の行動もあるはずであるということです。私たちも授業という行動に関して「これしかない」と軽率に決め付けないようにしなければなりません。授業を客観的に捉える第一歩は、現在の自分のやり方以外の方法に思いをはせることといえるでしょう。

All behavior involves conscious or unconscious selection of particular actions out of all those which are physically possible to the actor and to those persons over whom he exercises influence and authority. The term "selection" is used here without any implication of a conscious or deliberate process. It refers simply to the fact that, if the individual follows one particular course of action, there are other courses of action that he thereby forgoes. (Simon 1997: 3)

このように人間は、多くの行動から一つを選択するわけですが、その決定は、現実的な妥協の中で行われていることにも注意しなければなりません。経営行動の合理性を強調するということは、不完全な人間に完全で完璧な判断を要求することではないのです。

In an important sense, all decision is a matter of compromise. The alternative that is finally selected never permits a complete or perfect achievement of objectives, but is merely the best solution that is available under the circumstances. The environmental situation inevitably limits the alternatives that are available, and hence sets a maximum to the level of attainment of purpose that is possible. (Simon 1997: 5)

サイモンのいう、人間が持つべき合理性とは、現実的制約の中で、ある評価価値システムの観点から、より望ましい行動を選択することです。つまり合理的であるということは、ただむやみやたらと根拠と証拠を示すことではなく、目標とする価値にかなったと思われる主張や行動をまずは選択して、そしてそれに根拠と証拠を示すことなのです。

Roughly speaking, rationality is concerned with the selection of preferred behavior alternatives in terms of some system of values whereby the consequences of behavior can be evaluated. (Simon 1997: 84)

しかし、その行動の選択も、限られた時間・資源の中で行わなければなりません。合理的に行動するためには「経済学的」に思考しなければなりません。ちなみに「経済学」という言葉は現在はもっぱら金銭にかかわることとして捉えられていますが、もともとeconomicsという言葉はproductionとdistributionに関する合理的な考え方を意味していました。サイモンもここではそういう意味でeconomicsという言葉を使っています。

Because scarcity is a central fact of life - land, money, fuel, time, attention, and many other things are scarce - it is a task of rationality to allocate scarce things. Performing that task is the focal concern of economics. (Simon 1996: 25)

ちなみに下はブリタニカ百科事典によるeconomicsの定義の冒頭です。ここでもeconomicsとは通常私たちが考えているよりかは広い考え方なのだということがわかります。

No one has ever succeeded in neatly defining the scope of economics. Economists used to say, with Alfred Marshall, the great English economist, that economics is "a study of mankind in the ordinary business of life; it examines that part of individual and social action which is most closely connected with the attainment and with the use of the material requisites of wellbeing"-ignoring the fact that sociologists, psychologists, and anthropologists frequently study exactly the same phenomena. Another English economist, Lionel Robbins, has more recently defined economics as "the science which studies human behaviour as a relationship between (given) ends and scarce means which have alternative uses." This definition-that economics is the science of economizing-captures one of the striking characteristics of the economist's way of thinking but leaves out the macroeconomic approach to the subject, which is concerned with the economy as a whole.

こういった「経済学的」な考え方からすれば「完全な」行動を選ぶことなど不可能で、「満足のゆく」行動を選ぶことが私たちのできる最善のことです。

What a person cannot do he or she will not do, no matter how strong the urge to do it. In the face of real-world complexity, the business firm turns to procedures that find good enough answers to questions whose best answers are unknowable. Because real-world optimization, with or without computers, is impossible, the real economic actor is in fact a satisficer, a person who accepts "good enough" alternatives, not because less is preferred to more but because there is no choice. (Simon 1996: 29)

「授業とは何か」という問いの答え(定義)として私はサイモンを援用して「合理的に選ばれた教育目標達成のための行動」と述べましたが、その含意は、授業とは、数ある選択肢の中から、自らの現実的制約条件の中で、最も教育目標にかなったものだとして満足できる行動を選び取ることであるというものです。ポイントは三つです。一つ目は、授業行動は一つだけに限らないのだから、他の選択肢を探したり考えたりする努力を怠らないこと。二つ目は自らの現実的制約を考え、徒に、優秀な教師や自分の環境とはかなり異なる状況での実践の真似をしないこと。三つ目は、あくまでも授業は教育的目標のために行われるべきで、「生徒にうける」とか「どうしてもやりたい」とか「今こういうやり方がはやっている」とかいった目標以外の要因に目をそらされないことです。
 
3 授業研究とは何か
それではその「授業」を「研究」する「授業研究」とはどのようなものでしょうか。ここではまず、ショーンに依拠して、優れた実践者は、実践を行う中で必然的に研究を行っているという考え方を示し、次にそういった実践的な研究をさらに意図的・計画的・組織的に行う方法としてのアクション・リサーチを紹介します。
最初はショーンです。ショーンは1980年代以降のアメリカの実践家に深い影響を与えた哲学の学位を持つ経営学の教授です。日本では教育学者の佐藤学さんが精力的に紹介し、2002年は待望の日本語翻訳も発刊されました。
彼の議論の中ではreflectionという概念が重要です。この言葉は日本では「反省」「ふりかえり」「省察」と訳されたりします。「反省」ではやたらと否定的なニュアンスが強調されてしまいます。「ふりかえり」は悪い訳語ではないのですが、reflectiveを「ふりかえり的」と訳すのは、少なくとも私には文体上の違和感を覚えます。したがってここでは「省察」という訳語を使うことにします。(文献の中には、このような問題から「リフレクション」という訳語を使うものもありますが、重要概念はできるだけカタカナ表記にとどめずに、日本語訳をした方がいいのではないかと私は考えています)。
さて、ショーンは実践の中の省察を強調するのですが、いつもいつも私たちは省察を行っているわけではありません。実践者はしばしば無自覚に行為します。授業にしても私たちはしばしば通例に従って惰性的に授業をしたりします。

When we go about the spontaneous, intuitive performance of the actions of everyday life, we show ourselves to be knowledgeable in a special way. Often we cannot say what it is that we know. When we try to describe it we find ourselves at a loss, or we produce descriptions that are obviously inappropriate. Our knowing is ordinarily tacit, implicit in our patterns of action and in our feel for the stuff with which we are dealing. It seems right to say that our knowing is in our action. (Schoen 1983: 49)

しかしそれを踏まえた上でショーンが強調するのは、実践者はしばしば行為の中で省察を重ねて行為を進化させるということです。実践が予想しなかった結果に終わると、優れた実践者は、これまでの問題の捉え方では不十分なのではないかと省察を始めます。その省察の中で実践者は今まで潜在的にしかわかっていなかったことに気づいて、自らの技を向上させてゆきます。この「実践内省察」が「アート」の中心にあるとショーンは言います。授業においても、それまでの授業方法がうまくいかない時に、生徒の出来の悪さを嘆いて探求を終わりにすることを止め、これまでの自分の考え方や行動様式をふりかえることを始めたら、教師の成長も可能になってきます。

On the other hand, both ordinary people and professional practitioners often think about what they are doing, sometimes even while doing it. Stimulated by surprise, they turn thought back on action and on the knowing which is implicit in action. They may ask themselves, for example, "What features do I notice when I recognize this thing? What are the criteria by which I make this judgment? What procedures am I enacting when I perform this skill? How am I framing the problem that I am trying to solve?" Usually reflection on knowing-in-action goes together with reflection on the stuff at hand. There is some puzzling, or troubling, or interesting phenomenon with which the individual is trying to deal. As he tries to make sense of it, he also reflects on the understandings which have been implicit in his action, understandings which he surfaces, criticizes, restructures, and embodies in further action.

It is this entire process of reflection-in-action which is central to the "art" by which practitioners sometimes deal well with situations of uncertainty, instability, uniqueness, and value conflict. (Schoen 1983: 50)

この行為内省察は一種の研究です。研究といっても今まで述べてきた客観性の意味だけでなく、新たな真実を発見してゆくという意味での研究でもあります。実践を深める中で、実践者は、実践をより合理的にするための研究者になっているのです。この行為内省察による合理的な実践改善、そしてさらなる行為内実践というプロセスは、実践者が、与えられた方法をただ技術的にこなしているにすぎない単純な合理性(Technical Rationality)を持っただけの存在ではないことも意味しています。教師も、大学で教えられた方法論や「科学者」の宣託を鵜呑みにして実行するだけの存在であってはいけません。現在自分が置かれた状況の中で、どのように考え方を変えて、どのような行動を選択すれば、より教育目的にかなうことができるかと考え始めたら、教師はすでに研究を始めているのです。

When someone reflects-in-action, he becomes a researcher in the practice context. He is not dependent on the categories of established theory and technique, but constructs a new theory of the unique case. His inquiry is not limited to a deliberation about means which depends on a prior agreement about ends. He does not keep means and ends separate, but defines them interactively as he frames a problematic situation. He does not separate thinking from doing, ratiocinating his way to a decision which he must later convert to action. Because his experimenting is a kind of action, implementation is built into his inquiry. Thus reflection-in-action can proceed, even in situations of uncertainty or uniqueness, because it is not bound by the dichotomies of Technical Rationality. (Schoen 1983: 68-69)

実践者は行為の中の省察で、一種の理論を作り出し、さらにそれにより探究を続けるわけです。実践者は新しい問題設定を行い、新しく問題解決をし、さらにはその波及効果も視野に入れ、自ら納得できる授業の理論を手に入れます。優れた実践者はその理論形成によって探求を終えてしまうことなく、逆にそれを契機にどんどんと自分の実践を深めてゆくのです。

Thus the practitioner evaluates his experiment in reframing the problematic situation not only by his ability to solve the new problem he has set but by his appreciations of the unintended effects of action, and especially by his ability, in conversation with the situation, to make an artifact that is coherent and an idea that is understandable. But the achievement of coherence does not put an end to inquiry. On the contrary, the practitioner also evaluates his reframing by its ability, in Erikson's phrase, to keep inquiry moving. (Schoen 1983: 136)

また優れた実践者は、自分ひとりだけで省察的な研究を行っているわけではなく、そのサービスを受ける者と協働して省察します。教師なら、自分が授業をとらえる能力だけを過信することなく、生徒が授業をとらえる能力も信頼し、協働的に省察を繰り返して授業を改善させてゆきます。

Just as reflective practice takes the form of a reflective conversation with the situation, so the reflective practitioner's relation with his client takes the form of a literally reflective conversation. Here the professional recognizes that his technical expertise is embedded in a context of meanings. He attributes to his clients, as well as to himself, a capacity to mean, know, and plan. He recognizes that his actions may have different meanings for his client than he intends them to have, and he gives himself the task of discovering what these are. He recognizes an obligation to make his own understandings accessible to his client, which means that he needs often to reflect a new on what he knows. (Schoen 1983: 295)

以上がショーンの考える実践研究であり、それに依拠した授業研究のあり方です。これをさらに発展させたのがアクション・リサーチと呼ばれる実践研究です。アクション・リサーチを提唱する多くの人間がショーンの研究を参考にしています。
さて、そのアクション・リサーチの定義ですが、ここでは有名で、ESL研究者にもしばしば引用されるCarr and Kemmisの定義を紹介しましょう(柳瀬、他 2000: 49)。彼らは、アクション・リサーチとは、「実際の社会的状況の中で行われる、自己省察的探求であり、その目的は、自らの実践、理解、状況の三者それぞれの合理性と正義を改善すること」だというものです。ここでは改善するのは実践だけでなく、それに関する理解と周りの状況も改善されるべき対象として捉えられていること、そして改善は合理性と正義の観点からのものでなくてはならないということ、の二点に注意しておきたいと思います。前者は、アクション・リサーチによって、行動が変わるだけでなく、その行動を支える理論も語れるようになり、さらには、自分の行動と理論だけでなく、周りの状況も改善されるように心がけるべきだということです。後者は、改善は合理的であるだけでなく、正義にかなった(私たちの場合なら教育的目的にかなった)ものでなくてはならないということです。卑近でやや極端な例をあげますなら、「手段は選ばないからとにかく進学率を上げる」というような問題設定は許されないわけです。

Action research is simply a form of self-reflective enquiry undertaken by participants in social situations in order to improve the rationality and justice of their own practices, their understanding of these practices, and the situations in which the practices are carried out. (Carr and Kemmis 1986: 162)

このようなアクション・リサーチは教育現場において次第に採択されてきています。

In education, action research has been employed in school-based curriculum development, professional development, school improvement programmes, and systems planning and policy development. Although these activities are frequently carried out using approaches, methods and techniques unrelated to those of action research, participants in these development processes are increasingly choosing action research as a way of participating in decision-making about development. (Carr and Kemmis 1986: 162)

アクション・リサーチは、計画-実行-観察-省察のサイクルで進むといいます。論者によってはこのサイクルをさらに細分化する人もいますが、要はビジネスでもよく言われるPlan-Do-Seeといったサイクルを繰り返すことです。

In terms of method, a self-reflective spiral of cycles of planning, acting, observing and reflecting is central to the action research approach. (Carr and Kemmis 1986: 162)

 
4 英語授業とは何か
さあ、それでは「英語授業とは何か」について考えてみましょう。この問いも当たり前すぎるように聞こえるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。確かに「英語の教科書が使われている授業」や「英語についての授業」あるいは「英語が聞こえる授業」は簡単に見ることができます。しかしそれが具体的にどのような英語力を目指して合理的に選択されたのかがはっきりとわかる授業はそれほど容易に見ることができません。
問題は「英語力」という目標です。私たちが英語教育で目指そうとする力は、直接観察できるものではありません。もちろんある特定のperformanceは観察することができます。しかし私たちが目標としているのは、それを可能にしているcompetenceではないでしょうか。すくなくとも特定のperformanceには汎用性がありません。そのような一回限りのperformanceは教育目的とはいえないでしょう。
Competenceという用語はチョムスキーの用語で、無用な混乱を招いてしまいかねませんので、construct(構成概念)という用語を使うことにしましょう。英語授業は、その時間の目標を構成概念という形で、抽象的に明らかにしなければなりません。そしてそれがどのような手続きで具体的な形で現れるようになるかというoperational definition(操作的定義)を、構成概念に続けなければなりません。その操作的定義こそは、授業においては指導方法であり、テストにおいてはテスト問題です。そしてさらにはその構成概念に基づく操作的定義によって生じた結果を評価する信頼のおける方法を確保しなければなりません。ここでは、このように、具体的な英語授業の目的に基づいて、構成概念、操作的定義、評価のそれぞれが合理的に選択(あるいは設計)され、かつ構成概念→操作的定義→評価というつながりが明確な一連の行動を英語授業と定義します。
この構成概念→操作的定義→評価という論理的なつながりは教育測定の基本でもあります。以下、バックマンの説明でもう少し深く理解しましょう。
(1)構成概念の理論的定義づけ:直接観察できないものを、少なくとも誤解なく理解できるように明確に言葉で表現し定義する。

Defining constructs theoretically

Physical characteristics such as height, weight, and eye color can be experienced directly through the senses, and can therefore be defined by direct comparison with a directly observable standard. Mental abilities such as language proficiency, however, cannot be observed directly. We cannot experience grammatical competence, for example, in the same way as we experience eye color. We infer grammatical ability through observing behavior that we presume to be influenced by grammatical ability. The first step in the measurement of a given language ability, therefore, is to distinguish the construct we wish to measure from other similar constructs by defining it clearly, precisely, and unambiguously. This can be accomplished by determining what specific characteristics are relevant to the given construct. (Bachman 1990: 41)

(2)構成概念の操作的定義づけ:構成概念の定義的表現にかなった行動を引き出すための具体的な手立てを考え出す。

Defining constructs operationally

The second step in measurement, defining constructs operationally, enables us to relate the constructs we have defined theoretically to our observations of behavior. This step involves, in essence, determining how to isolate the construct and make it observable. Even if it were possible to examine our subjects' brains directly, we would see little that would help us determine their levels of language ability. We must therefore decide what specific procedures, or operations, we will follow to elicit the kind of performance that will indicate the degree to which the given construct is present in the individual. The theoretical definition itself will suggest relevant operations. (Bachman 1990: 43)

(3)観察の数量化:構成概念に基づく操作によって生じた行動を客観的に記録する方法を考え出す。以下は、テストを念頭においた説明ですから、数量化することを強調しています。絶対評価の導入でこれからますます数量化は必要になるでしょうが、授業では必ずしも結果を数量化せずとも客観的に記録を残しておくことだけで十分な場合もありますことを付記しておきます。

Quantifying observations

The third step in measurement is to establish procedures for quantifying or scaling our observations of performance. As indicated above, physical characteristics such as height and weight can be observed directly and compared directly with established standard scales. Thus, we need not define an inch every time we measure a person's height, because there exists, in the Bureau of Standards, a standard ruler that defines the length of an inch, and we assume that most rulers accurately represent that standard inch. In measuring mental constructs, however, our observations are indirect and no such standards exist for defining the units of measurement. The primary concern in establishing scales for measuring mental abilities therefore, is defining the units of measurement. (Bachman 1990: 44)

ちなみに数量化といっても、数字には四つの種類があることを理解しておいてください。一つは名義尺度で、これはある項目にただ数字を当てはめたものです(例、広島カープを好きな人は1に丸をつけ、阪神タイガースが好きな人は2に丸をつけ・・・)。二つ目は順序尺度で、これは度合いの順序を並べたものです(例、よくできたら5、まあまあできたら4、どちらともいえなければ3・・・)。三つ目は間隔尺度で、これは数字の間の度合いが等しいものです(例、温度)。四つ目は比率尺度で、これは間隔尺度の特徴に加えて、ゼロがまったくその性質がないことを示す特徴をもつ場合です(例、重さのグラム)。
実は多くの高度な統計は比率尺度や間隔尺度を前提としているのですが、英語教育などで出てくる数字で、比率尺度の条件を示しているのはほとんど皆無ですし、間隔尺度も厳密な意味で考えれば非常に少ないといえるでしょう。私はこのようなことから、英語教育の研究が徒に高度な統計を使おうとするのは、統計の誤適用につながりかねないことで、「科学的という名の神話的思考」に堕しやすいと思っていますから、高度な統計の使用に関しては批判的・懐疑的です。しかし、統計という数字を使った論理的な推論は人類共通の学問的な財産ですから、適度なレベルの統計を使用することは大切なことだと思っています。このあたりの考え方と具体的な統計の方法に関しては柳瀬のHPの「解説」の中にある「エクセルでやさしく学ぶ統計」をご覧ください。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/statistics.html
話を英語授業に戻しますと、英語授業の目標を明確に構成概念にすることはそれほど容易ではありません。例えば「テキストの内容を理解させる」や「関係代名詞をマスターさせる」等では不十分です。ぼんやりとして具体的に何をすればいいのかが明確にイメージができないからです。また操作的定義を具体的に考えることもそれほど簡単ではありません。例えば「練習問題のAとBをさせる」では十分ではありません。少なくとも練習問題のAとBが構成概念を十分に代表しているかどうかをチェックする必要があります。数量化も、適当に丸をつけたり、配点を考えたりするだけでなく、それに根拠を示そうとするなら、なかなか難しいこととなるということはおわかりいただけるのではないでしょうか。
この構成概念-操作的定義-数量化を、現実的な範囲で合理的にするのが英語授業のあるべき姿です。私見では英語教育研究では構成概念の形成が弱く、スローガンのようなものばかりが提唱されているようにも思えます。具体的操作につながる明確な抽象用語、つまりは理論用語を使いこなすことを私たちはもっと学ばなければならないのではないでしょうか。
 
5 英語授業研究とは何か
以上のことからしますと、英語授業研究とは、現在の英語授業の構成概念-操作的定義-数量化がどれだけ(現実的な範囲で)合理的になっているかを客観的に示し、それをもとに新に授業改善を計画し、実行し、その結果を観察して、さらに省察を深める一連のプロセスと定義できます。このプロセスを続ける目標は、授業実践と授業理解、および授業をめぐる環境を、教育目標の観点(合理性と正義)において改善させることです。
そういった英語授業研究を自分で続けるだけでなく、研究会などで公開すれば、英語教師は相互に助け合いながら英語教師として成長することができます。英語授業研究とは、授業を起点に、自らの客観性と合理性を高めて英語教育の改善に貢献し、かつ英語教師同士で連帯する努力の継続ということができるでしょう。
 
6 英語授業研究の視点と方法
長い説明となってしまいました。「とてもこんなことは毎日の忙しい生活の中ではできない」と思うかもしれません。しかしもし自己研修の時間が得られたら、ここに示された考え方にしたがって自らの実践を整理してみることを試みてください。
具体的な視点としては、まずはあなたが授業で最も得意としていることや、苦手としていること、あるいは前からやりたいと思っていること、やるべきと思っていることなどを、 (1)心を落ち着けて時間をとって省察し、(2)それが英語教育の目標としてふさわしいか、主観的思い込みから脱却してできるだけ客観化し、(3)構成概念-操作的定義-数量化という形にした上でで、それを改善するためには何をすればよいかを考え、具体的に(4)新しい改善策を計画し、(5)実際の授業で実行し、その効果をいろいろな方法で客観的に(6)記録・評価して、 (7)さらに省察を深めることを試みてください。上から研究テーマを与えられるよりかはやりやすいはずです。
具体的な方法としては、上の(1)にはじまり(7)に始まるすべての過程を、紙にメモしながら考えることをお勧めします。すべてのことを頭の中だけで考えようとすると頭がパンクしてしまいます。最初はブレイン・ストーミング的な殴り書きで結構です。それからその殴り書きの中に順序や関連を見出し、キーワードによるメモを構成してゆきます。そのメモに書き足しや修正を加えたりして、十分練りあがったと思ったら、そこではじめてワープロに向かってください。全体像が混乱したままワープロに向かうのは賢明な方法とはいえません。いずれにせよ、思考は必ず書きだして、言葉や概念図の形にすること。「書くことによって私ははじめて思考することができる」というあるエッセイストの箴言の正しさを私は深く信じています。
 
7 ワークショップ
さあ、それでは残りの時間で、少しでも英語授業研究を開始してみましょう。(1)から(2)を主に行いましょう。心を落ち着けて自分の授業をふりかえり、テーマを見つけたと思ったそれをメモに書き出してください。そしてそれが本当に自分の得意なことなのか、苦手なことか、あるいはやりたいことなのかを客観的に示すための根拠や証拠を、これまたメモに書き出してください。
そこまで終わったら、そのメモをもとに(3)を開始しましょう。まずは構成概念化を行ってください。あなたのテーマを、英語教育に携わる人ならだれでも誤解なく理解できるように、明確に言葉にしてみてください。その構成概念ができたら、それをもとに操作的定義も具体的に行ってください。これももちろん具体的に書かなければなりません。
構成概念と操作的定義が自分なりに完成したら、今度は構成概念だけを他人に見せてみましょう。その人に、あなたが横から口頭による補説的説明などをすることなしに、あなたの文章を一人で読ませてください。そしてその人にこれまた一人で、そのあなたの構成概念に基づいて操作的定義を考案させてみてください。その人が書いた操作的定義とあなたが書いた操作的定義がほぼ一致していたら、あなたの構成概念は、十分に客観的で、かつ合理的であるといえるでしょう。
英語の授業と研究をできるだけ合理的に進めましょう。そうしてこそあなたの深い愛情も適切なタイミングと形で生徒に注がれると私は信じます。
 
引用文献
<洋文献>
Bachman, L. (1990) Fundamental Considerations in Language Testing.
Oxford: Oxford University Press.
Carr, W. and Kemmis, S. (1986) Becoming Critical. London: The Falmer Press.
Simon, H. (1996) The Sciences of the Artificial. Cambridge, Massachusetts:
The MIT Press.
Simon, H. (1997) Administrative Behavior. New York: The Free Press.
Schoen, D. (1983) The Reflective Practitioner. London: Arena
Yanase, Y. (2002) Two Approaches to Language Use: Applied Linguistics as
Philosophy. CASELE Research Bulletin (in printing)
<和文献>
戸部良一、他 (1984)『失敗の本質』中公文庫
バックマン 著、池田央・大友賢二 監修 『言語テストの基礎』東京:みくに出版
柳瀬陽介、他 (2000) 「アクション・リサーチと第二言語教育研究」『英語教育2000年10月増刊号』(pp. 42-59) 東京:大修館書店
柳瀬陽介 (2001) 「アクション・リサーチの合理性について」『中国地区英語教育学会
第33号』(pp. 145-152)
<ホームページ>
日本大学医学部公衆衛生学教室のホームページ
http://www.med.nihon-u.ac.jp/department/public_health/ebm/index.html#what
柳瀬陽介 「エクセルでやさしく学ぶ統計解析」
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/statistics.html
 
参考文献
佐野正之 編著 (2000) 『アクション・リサーチのすすめ』東京:大修館書店
ジャック・リチャーズ/チャールズ・ロックハート著、新里眞男訳『英語教育のアクション・リサーチ』(2000)東京:研究社出版
八田玄二 (2000) 『リフレクティブ・アプローチによる英語教師の養成』東京:金星堂
横溝紳一郎 (2000) 『日本語教師のためのアクション・リサーチ』東京:凡人社

北へ向かえ(2002/11/17)
(2002年11月10日に高知県教育センター本館で「平成14年度高知県秋季英語教育研究大会」があった際に、私は上の原稿を基に講演をさせていただきました。その時に補足した話を以下に書きます。)
「北へ向かえ」という指示は時に有効です。どこかへ向かわなければならないのだが、どちらの方へいけばよいのかすらわからない時、「北へ向かえ」という指示は、「とにかく南方でなく、北方を目指せばいいのだ」という大方針となり、それなりの合意形成に役立ちます。
「コミュニケーション能力の養成」という英語目標もそうです。そのスローガンを掲げることにより、少なくとも英語教育は昔のような翻訳能力の向上や文法に関する知識の蓄積を目指すのではない、ということははっきりとします。
ただ「北へ向かえ」といっても、それは北西や北東でもいいのか、真北にせよ、障害物があっても一直線に進まなければならないのか、北に進むだけでいいのか、何日までにどのくらい進めばいいのかなどが皆目わかりません。目的地をはっきりと示し、そこまでの距離、そこに至るまでの現実的な手段と日程を示さない限り、集団はさまようばかりです。
同じように、英語教育もただ「コミュニケーション能力を向上させる授業です」といっているだけでは、その授業が具体的に何を目指したのかがわかりません。授業の目標がより明確に規定されてはじめて、その授業の手段(活動)の選択が合理的だったのかどうかが分析できます。「スピーキング能力の向上」でも似たようなものです。そのような目標を抱いて、音読を工夫をこらして徹底的にやった授業に対しても、ある人は「自由発話(コミュニケーション)活動が欲しかった」などと批判するかもしれません。ですが、これはあまり役に立たない批判でしょう。ここでは、例えば「スピーキング能力の基礎力養成のため、教科書の音読を(1)intelligibleなアーティキュレーション、(2)適切なリズムとイントネーション、(3)テープと同じスピード、でできることを授業の目標として設定した」などと最初に述べておきますと、授業を観察する人も、その目標達成のために、もっとよい手段(活動)はないかと印象的ではない、合理的な授業観察ができます。また授業も(2)と(3)はなんとか可能になったが、(1)が依然として全く駄目であるなどと、具体的に反省できます。具体的な反省からは、授業改善のために何をすればいいのかという分析が可能になります。
このように授業の目標をできるだけ具体的にすることは授業改善のためには必要なことです。そのような目標は最近の文部科学省用語では「規準」(のりじゅん)と呼ばれているようですが(ちなみに「基準」(もとじゅん)は、目標の達成度を指すそうです)、テスト理論ではしばしば構成概念(construct)と呼ばれます。2002年春にテスティングの第一人者の一人であるバックマンさんがワークショップを東京で開催した時、彼はconstructを実はconstructionと呼びたいとも言っていました。その趣旨はconstructとは、教育の状況に応じて教育者自身が合理的に設定するものだと私は理解しました。実際Backman and Palmer(1986)の本の巻末では、いくつかの事例研究が載っていますが、そこでのconstructは教育目標に応じて合理的に選択されたものです。どこかに存在する「コミュニケーション能力」の真の定義に従って目標を決めなければならない、というのではなくて、学習者を具体的にどのような状況にもって行かねばならないのかという目標を自らconstructするというのがconstructのあり方のようです。私たちも文部科学省などへの報告書を書かなければならないときなどはともかくも、自分の授業改善のためには、できるだけ自分の状況に即して具体的に、そして合理的にconstructを言葉で表現するべきでしょう。
それでは「北へ向かえ」というような指示、あるいは「コミュニケーション能力の養成」といった目標は無意味なのでしょうか。そうでもないと私は考えます。またアナロジーで恐縮ですが、旅においてもそれが長い旅なのなら、大きな地図が必要です。たとえ日々の計画は、具体的にあそこまで、どのように到達するという細かなものであっても、大きくいえば北へ向かうということには何が待ち受けているのかということを理解しておくことは重要だと思います。その意味で「コミュニケーション能力の構造」といったマクロの議論も私は大切だと思っています。 

文法獲得と集中的入出力訓練(2002/9/23. 11/18、12/23一部修正)
1 鄭とクラッシェンの主張
多くの英語教師にとって「英語は勉強するもの」という思い込みは強いようです。そう思わないと自らの職業的役割が否定されるとでも考えるのでしょうか。ですから、『英語は絶対、勉強するな!』などという題名をもった本の次のような韓国人の主張は眉唾ものとして扱われがちです。

「以前、ある企業の研修会で会った女性は英語がものすごく上手だった。発音も完全に本場ものだし、文章力もたいしたものだった。それで私は、彼女を一流大学の英文科出身か、アメリカ生まれの二世かなと思った。ところが、そうじゃなかった。学歴は高卒、しかも商業高校で英語をまともに学ぶ機会はほとんどなかったというから驚きだよ。それが職場で知り合ったアメリカ人と恋に落ちて結婚。すぐに渡米したが、夫はヨーロッパに転勤となり、彼女は姑との二人暮しを余儀なくされた。初めは言葉も通じず、ほかに話し相手もないので、一言もしゃべらない生活がしばらく続いたらしい。そんなある日、姑がお金を差し出して、彼女にスーパーマーケットへ行ってこいという。少しあわてて姑の顔を見返すと、ニッコリ笑いながら、そのお金を彼女に持たせた。」

「なるほど、一人で買い物に行かせようという作戦ですね。」

「そう。彼女は迷ったが、ともかく行ってみようと心を決めてスーパーへ出かけた。汗をかきながら、身ぶり手ぶりを交え、カタコトの英語を必死で駆使してなんとかショッピングをすませた。そのとき、彼女の中に少し自信が芽生えた。よし、やってみよう。当たって砕けろだ--以来、通じようが通じまいが、理解できようができまいが、姑に積極的に声をかけたり、いっしょにテレビを見たり、外出したりして、手当たりしだいに英語を話し、覚える機会をつくっていったんだ。アメリカ人の言葉なら、無条件に耳を傾けて熱心に聞き、目に入ってくる文字はすべてしっかり読んだ。そんなある日、突然、口がすっと滑らかに開いた。舌がむずむずして頭で考える前に自然に言葉が出てくるという不思議な現象が起こったんだ。むろん韓国語じゃなくて英語でだよ。私が思うに、彼女は最良の方法で英語をものにしたといえる。」(鄭 2000: 32-33)

この話を聞いたある英語教師の意見によれば、彼女が英語を話せるようになったのは、本当は高校できちんと文法を習っていたからに違いないというものでした。あくまで英語の「勉強」があったから話せるようになるのだというものです。別の英語教師は、自分は米国留学時代に似たような経験をした(突然、考えるより先に英語が口に出るようになった)が、そのようなことは日本の状況(教室)では起こりえないというものです。あくまでも第二言語と外国語は異なるということでしょうか。この二人の英語教師の主張を無理やり合成しますと「『勉強』がなければ、英語圏に行っても目標言語が話せるようにはならない。だが『勉強』をしても日本にいては話せるようにならない」ということになります。でも本当にそうでしょうか。
こういった主張の妥当性を吟味するには、主張の中で使われている言葉の意味を確認しなければいけません。ここでは「勉強」という言葉が正確な規定なしに使われているので、主張は理性的な反応でなく、感情的な反応を誘発しがちです。ここでの「勉強」とはどういったことを指している言葉なのでしょうか。鄭さんは言います。

「前に話したように、発想の転換をしなければダメだよ。数学や歴史と違って英語は語学だ。語学は分析したり、記憶しながら学習するのではなく、ピアノのように慣れるものだ。文法構造がよくわかるからといって英語がうまくしゃべることができるわけではない。それは、鍵盤の位置やピアノの原理を学んだからといってピアノが上手に引けるわけではないのと同じ理屈だよ。」(鄭 2000: 73ページ)

「慣れること・できること」と「学ぶこと・知ること」は異なり、言語をマスターすることにおいては前者が大切で、後者はそうでないというわけです。しかし「慣れること・できること」が可能になるためには、まずは「学ぶこと・知ること」が必要であるようにも思えます。鄭さんの主張を納得がゆくものとして解釈するためには、もう少し「勉強する」あるいは「学ぶ・知る」という言葉について考える必要があるようです。
ここでクラッシェンさんたちの主張を思い出してみましょう。彼らの主張は、鄭さんの主張と非常に似ていますが、鄭さんの主張よりは詳しくその事情を語っているように思えます。
次の引用は「獲得」(acquisition)と「学習」(learning)の違いに関するものです。「獲得」が「慣れること・できること」に、「学習」が「学ぶこと・知ること」に相当すると考えていいでしょう。

Acquisition and Learning

The most important and useful theoretical point is the acquisition-learning distinction, the hypothesis that adult language students have two distinct ways of developing skills and knowledge in a second language. Simply, acquiring a language is "picking it up," i.e., developing ability in a language by using it in natural, communicative situations. Children acquire their first language, and most probably, second languages as well. As we shall see in Chapter Two, adults also can acquire: they do not usually do it quite as well as children, but it appears that language acquisition is the central, most important means for gaining linguistic skills even for an adult.

Language learning is different from acquisition. Language learning is "knowing the rules," having a conscious knowledge about grammar. According to recent research, it appears that formal language learning is not nearly as important in developing communicative ability in second languages as previously thought. Many researchers now believe that language acquisition is responsible for the ability to understand and speak second languages easily and well. Language learning may only be useful as an editor, which we will call a Monitor. We use acquisition when we initiate sentences in second languages, and bring in learning only as a kind of after-thought to make alternations and corrections. (Krashen & Terrell 1983:189)

「獲得」に関しては、'acquiring a language is "picking it up" 'ということだけで、まだイメージ的な理解にとどまりますが、「学習」に関しては、'having a conscious knowledge about grammar'であるという定義と、それは'only as a kind of after-thought to make alternations and corrections'としてしか働かないという機能の規定で、少しは概念が明らかになってきました。
続けて引用を読んでゆきましょう。

The Acquisition-Learning Hypothesis

This hypothesis claims that adults have two distinct ways of developing competence in second languages. The first way is via language acquisition, that is, by using language for real communication. Language acquisition is the "natural" way to develop linguistic ability, and is a subconscious process: children for example are not necessarily aware that they are acquiring language, they are only aware that they are communicating.

The results of language acquisition, acquired linguistic competence, are also subconscious. We are not generally "aware" of the rules of languages we have acquired. Instead, we have a "feel" for correctness: when we hear an error we may not know exactly what rule was violated, but somehow "know" that an error was committed.

The second way to develop competence in a second language is by language learning. Language learning is "knowing about" language, or "formal knowledge" of a language. While acquisition is subconscious, learning is conscious. Learning refers to "explicit" knowledge of rules, being aware of them and being able to talk about them. This kind of knowledge is quite different from language acquisition, which could be termed "implicit." (Krashen & Terrell 1983: 26)

両者の区別がだいぶはっきりしてきました。獲得に関しては'The results of language acquisition, acquired linguistic competence, are also subconscious. We are not generally "aware" of the rules of languages we have acquired'であり、学習に関しては 'Learning refers to "explicit" knowledge of rules, being aware of them and being able to talk about them. This kind of knowledge is quite different from language acquisition, which could be termed "implicit."'ということですから、獲得される「規則(文法)」と学習される「規則(文法)」は異なる種類のものということになります。クラッシェンさんらの主張は、しばしば「学習」は限られた役割(モニター)しか果たさないという側面ばかりが強調されるように思いますが、この二種類の「規則(文法)」の区別という点も注目されるべきだと私は思います(実際、この区別はチョムスキーさんが行っている区別と重なるというのが後で行う私の主張です)。
さらにクラッシェンさんらは入力の重要性について述べます。

The Input Hypothesis

This hypothesis states simply that we acquire (not learn) language by understanding input that is a little beyond our current level of (acquired) competence. This hypothesis is, in our opinion, of crucial importance since it attempts to answer a question that is important both theoretically and practically: How do we acquire language?

The input hypothesis claims that listening comprehension and reading are of primary importance in the language program, and that the ability to speak (or write) fluently in a second language will come on its own with time. Speaking fluency is thus not "taught" directly; rather, speaking ability "emerges" after the acquirer has built up competence through comprehending input. (Krashen & Terrell 1983: 32)

「流暢に」(おそらくは「自由に」という意味でしょう)話すことは、直接には「教えられない」(「学習」はされない)ので、自分にとって少し難しい(しかし理解できる)入力を重ねることが'of crucial importance'だというわけです。
ここで注意しておきたいのは、彼らは入力が「決定的に重要」と言っているだけで、出力経験が不要だと言っているわけではないことです。常識的に考えても出力とは運動ですから、入力だけで出力のための運動経験を行わないなら、出力できる潜在的能力が仮に開発されたとしても、それを実際に出力することなど望めないわけです。クラッシェンさんらの主張は、出力経験の否定と解釈されるべきではないでしょう。黙って聞いて、黙って読んでいるだけで、話せたり(口が実際に適切に動かせたり)、書けたり(手が実際に適切に動かせたり)ことができるようになるなどというのは考え難いことです。聞くこと、読むことを主にしながらも、それに伴い運動技能経験をすることが必要というと、クラッシェンさんらの主張は補って考えるべきでしょう。
さてこれまでの主張をまとめてみると次のようになりそうです。
(1)いわゆる「学習」(勉強)とは、意識的に文法を知ることである。
(2)いわゆる「獲得」とは言語使用のなかで自然に文法を身につけることである。
(3)「学習される文法」と「獲得される文法」は異なる種類のものであり、後者に関しては私たちは意識的に自覚できない。
(4)言語使用が可能になるためには、「獲得される文法」を身につけることが本質的であり、「学習される文法」を身につけることは補助的な役割しか果たさない。
(5)文法獲得(「獲得される文法」)のためには、自分の文法能力を少し超えた、しかし理解可能な入力を続けることが決定的に重要であるが、出力が可能になるためには、運動技能経験も必要である。
このなかで、多くの英語教師にとって納得が一番ゆかないのは(3)でしょう。彼/彼女らにとって「文法」とは、学習文法書に掲載され、時折自らが教える「文法」(いわゆる「学校文法」、「伝統文法」、つまりは「学習される文法」)に他ならないからです。学校文法を身につけてしまっても、それはいつでも思い起こすことができるので、「意識的な文法」と「無意識的な文法」の区別は、本質的な種類の区別ではないというわけです。
次の節では、そのような英語教師の「常識」がきわめて一面的なものであることを示してゆきたいと思います。
2 チョムスキーの主張
この節では、チョムスキーさんの主張が、(1)から(5)にまとめたさんやクラッシェンさんらの主張を裏付けるものであり、さんやクラッシェンさんらの主張に納得できない英語教師の文法観は一面的なものだということを示します。
「チョムスキー」というと拒絶反応を起こす英語教育関係者は今なお多いですが、それは偏見だということも示したいと思います(実際、私はある投稿論文でチョムスキーの論を引用したところ、ある日本人査読者から「チョムスキーが英語教育に関係のないことは既に定説である」と門前払いのようなコメントが返ってきて、私は絶句した覚えがあります。その時は真剣にその学会紀要に投稿することは二度とすまいかとまで考えました)。
以下の引用は生成文法を研究している人にとっては、常識以前の前提のようなものですが、私の主張はその前提が、多くの英語教師にまだ共有されていないのではないかというものです。1965年の論文からの引用ですから古いもののように感じられるかもしれませんが、この論文にはチョムスキーさんの基本的考えがよく表されていると思いましたので選びました。昔は「変形文法を使った受け身文の教え方」などという授業が英語教育ではなされていたとも聞きますが、そういった実践はチョムスキーの根本的な考え(すなわち前提)を理解しないままの、表面だけの誤った「応用」であったと私は考えています(そのような間違いを行った人が「チョムスキーは英語教育には関係ない」と思い込んでいるのではないかとも私は考えています)。
話を戻しましょう。チョムスキーさんは、学校文法・伝統文法とは異なる種類の文法を自らの研究対象とし、それに関しては学校文法・伝統文法とは異なる記述・説明方法を取ります。

A grammar of a language purports to be a description of the ideal speaker-hearer's intrinsic competence. If the grammar is, furthermore, perfectly explicit -- in other words, if it does not rely on the intelligence of the understanding reader but rather provides an explicit analysis of his contribution -- we may (somewhat redundantly) call it a generative grammar. (Chomsky 1965: 4)

チョムスキーさんが研究対象とする文法は、「内在的な能力」(intrinsic competence)であり、彼はそれを、読む人の常識概念などに頼らないでも理解できるように明示的に記述・説明しようとしています。それが「生成文法」というわけです。(ここで'explicit'という言葉は、心理的意味(「意識化されている・自覚している」)ではなく、理論的意味(「説明がそれ自身で十分である」)で使われていることに注意して下さい。クラッシェンさんらをはじめとした人達には心理的な意味で使われ、チョムスキーさんには理論的な意味で使われていることに気をつけて下さい)
聡明な方は「生成文法」という言葉に二重の意味が込められていることに気がつかれたと思います。一つは心/脳の中にある能力(文法の内的表象)という意味、もう一つはそれを紙の上(心/脳の外)に言語学者が書き出した記述・説明(文法の外的表象)という意味です。表象(representation)とは、ある知識・能力の表現形です。内的表象とはその知識・能力を可能にしている脳のニューラル・ネットの状態で、外的表象とはその知識・能力を(脳の)外に私たちにわかる形で書き出したものです。

Clearly, a child who has learned a language has developed an internal representation of a system of rules that determine how sentences are to be formed, used, and understood. Using the term "grammar" with a systematic ambiguity (to refer, first, to the native speaker's internally represented "theory of his language" and second, to the linguist's account of this), we can say that the child has developed and internally represented a generative grammar, in the sense described. (Chomsky 1965: 25)

ここで注意したいのは、学校文法・伝統文法における「文法」とは、内的表象が全く考慮されずに想定されている外的表象にすぎないということです。学校文法・伝統文法は、内的表象に一切考慮することなく、外的表象のみとして記述されてきました。しかし実際に人間の言語使用を可能にしているのは、内的表象としての文法、つまり脳のニューラル・ネットワークの状態です。
さて生成言語学者は、理論的分析により内的文法表象(ニューラル・ネットワークの状態)を、外的文法表象の形(理論言語学の記述・説明)にして表現しようとします。仮にその外的文法表象が正しく内的文法表象を表現しているとしての話ですが、そのような外的文法表象を表現できるのは、理論言語学的分析の訓練を受けた理論言語学者だけです。言語を使える者は、どんな者でも内的表象としての文法を持っていますが(そうでなければ言語が使えません!)、だからといってその内的表象を具体的に意識化することなどできません。訓練なしの普通の人が、自らの内的表象について直観的に語ろうとしても、その記述が正しいという保証は全くありません。---私たちは二次元の写真・絵画を見て、それを三次元的なものとして処理することができます。この処理には様々規則があり、その内的表象もあるはずですが、私たちはそれについて一切語れません---。こういった意味で、言語使用を可能にする生成文法は、言語使用者が「知っている」(脳にその内的表象を持っている)ものの、意識化はできない(少なくとも訓練なしには正しく意識化できない)規則であるといえます。(ただし現時点での生成文法の外的表象が正しく内的表象に対応しているかは全く別問題です)。

Returning to the main theme, by a generative grammar I mean simply a system of rules that in some explicit and well-defined way assigns structural descriptions to sentences. Obviously, every speaker of a language has mastered and internalized a generative grammar that expresses his knowledge of his language. This is not to say that he is aware of the rules of the grammar or even that he can become aware of them, or that his statements about his intuitive knowledge of the language are necessarily accurate. Any interesting generative grammar will be dealing, for the most part, with mental processes that are far beyond the level of actual or even potential consciousness; furthermore, it is quite apparent that a speaker's reports and viewpoints about his behavior and his competence may be in error. Thus a generative grammar attempts to specify what the speaker actually knows, not what he may report about his knowledge. (Chomsky 1965: 8)

また逆に、内的表象の正しい表現である外的表象(理論言語学的記述・説明)を私たちが知っても、そのことによって私たちが言語使用できるわけではありません。内的表象が正しく形成されるのは、ニューラル・ネットワークがその形になることによってのみです。内的表象に関する理論的表現(理論言語学的記述・説明という外的表象)を知ることと、内的表象の獲得の間には直接の因果関係はありません。
また学校文法・伝統文法という外的表象を学ぶことと、文法の内的表象形成の間には、一層のこと直接の因果関係はありません。もちろん直接の因果関係がないからということは、何の間接的関係もないというわけではありません。学校文法・伝統文法を学ぶことは、クラッシェンらのいうようにモニターとしての働きがあるでしょう。また何よりも学校文法・伝統文法そのものではなく、それに基づいた言語ドリルを行うことに一定の効果があることは私たちの経験が教えていることでしょう。私がここで行いたいのは、外的表象としての文法の働きを一切否定することではなく、内的表象としての文法の働きを積極的に主張することです。言語使用のために必要な文法獲得とは、本質的に内的表象の獲得だということです。
それではどうすれば内的表象は獲得できるのかという問題になります。上で外的表象を学ぶことと内的表象を獲得することの直接的な因果関係を否定しました。「外的表象を学習する」という発想から離れた方がよいのかもしれません。「内的表象を獲得する」という発想を取るわけです。
チョムスキーさんは、「学習」といった経験主義者的なアプローチとは違った合理主義者的な知識獲得のアプローチを明らかにしました。つまり、内的表象としての文法の原型は、既に私たちの脳の中にあると考えるわけです。さもないと、かくも複雑な言語を、子供があれほど短期に言語獲得できるわけがないというわけです。

A rather different approach to the problem of acquisition of knowledge has been characteristic of rationalist speculation about mental processes. The rationalist approach holds that beyond the peripheral processing mechanisms, there are innate ideas and principles of various kinds that determine the form of the acquired knowledge in what may be a rather restricted and highly organized way. (Chomsky 1965: 48)

この生得的な脳の状態は、それに対応する入力がなければ潜在的なままに終わりますが、入力があれば働きを始めます。入力があれば働き始めるといっても、この脳の状態は、入力の結果生じたと考えるべきよりかは、この脳の状態があるからこそ、入力が入力として成立するということです。端的な話、犬や猿にいくら言語入力を与えても、それらは入力を言語としては処理できません(それらは言語を構造を持たない単なる音声刺激として処理するだけでしょう)。人間だけが言語入力を言語として処理することができ、したがって言語獲得も可能になるのです。

Still earlier, Lord Herbert (1624) maintains that innate ideas and principles "remain latent when their corresponding objects are not present, and even disappear and give no sign of their existence"; they "must be deemed not so much the outcome of experience as principles without which we should have no experience at all . . . [p. 132]." Without these principles, "we could have no experience at all nor be capable of observations"; "we should never come to distinguish between things, or to grasp any general nature . . . [p. 105]." (Chomsky 1965: 49)

つまり言語獲得に大切なことは、言語を言語として(つまりは意味と形式が構造的に結合した表現として)入力することです。ただわけもわからず音を聞かせるだけでは、その音という形式と意味の構造的関係がわかりませんから、言語としての入力にはならないと私は考えます。それでは音韻論的な何らかの獲得は起こるかもしれませんが、言語の獲得にはつながらないでしょう。あくまでも意味のある構造的表現として音を入力しなければならないと私は考えます。こうして言語入力を続けていれば、生得的に存在していた脳の状態は、その言語に適した内的表象としての文法をやがて獲得するというわけです。
この意味で、「文法は教えられない」わけです。誤解しないように区別して説明しますと、内的表象としての文法を、外的表象の文法の教示などによって形成させることはできないということです。もちろん、外的表象としての文法を表面的に教えることはできますが、それは言語使用を可能にする文法(内的表象としての文法)の形成には直接つながらないということです。内的表象としての文法は、脳が自力で言語入力によって獲得します。言語使用を物理的に構成する文法は外からは教えられないのです。

Applying this rationalist view to the special case of language learning, Humboldt (1836) concludes that one cannot really teach language but can only present the conditions under which it will develop spontaneously in the mind in its own way. Thus the form of a language, the schema for its grammar, is to a large extent given, though it will not be available for use without appropriate experience to set the language-forming processes into operation. Like Leibniz, he reiterates the Platonistic view that, for the individual, learning is largely a matter of Wiedererzeugun, that is, of drawing out what is innate in the mind. (Chomsky 1965: 51)

こういった合理主義者的アプローチは、今までの英語教師の常識(経験主義者的概念)とはかなり異なっています。

This view contrasts sharply with the empiricist notion (the prevailing modern view) that language is essentially an adventitious construct, taught by "conditioning" (as would be maintained, for example, by Skinner or Quine) or by drill and explicit explanation (as was claimed by Wittgenstein), or built up by elementary "data-processing" procedures (as modern linguistics typically maintains), but, in any event, relatively independent in its structure of any innate mental faculties. (Chomsky 1965: 51)

ただし、誤解のないようつけくわえておきますと、私は一概に「条件づけ」「ドリル」「明示的説明」等の経験主義者的アプローチを否定するつもりはまったくありません。ただ経験主義者的アプローチだけで言語獲得を説明するのには無理があると思っています。また、考えてみれば、言語獲得といった複雑な事象は、経験主義者的アプローチによる数ヵ月、数年という期間の学習によって可能になると考えるよりか、合理主義者的アプローチに従って、何百万年もの進化によって脳が準備した脳の状態によって可能になると考えるほうが理にかなっていると思われます。

However, there is surely no reason today for taking seriously a position that attributes a complex human achievement entirely to months (or at most years) of experience, rather than to millions of years of evolution or to principles of neural organization that may be even more deeply grounded in physical law -- a position that would, furthermore, yield the conclusion that man is, apparently, unique among animals in the way in which he acquires knowledge. Such a position is particularly implausible with regard to language, an aspect of the child's world that is a human creation and would naturally be expected to reflect intrinsic human capacity in its internal organization. (Chomsky 1965: 59)

チョムスキーさんは、言語獲得に関して、周りの人間や社会は、言語入力環境を整えること以外には、意識的なコントロールができないのではないかと言います。

In short, the structure of particular languages may very well be largely determined by factors over which the individual has no conscious control and concerning which society may have little choice or freedom. On the basis of the best information now available, it seems reasonable to suppose that a child cannot help constructing a particular sort of transformational grammar to account for the data presented to him, any more than he can control his perception of solid objects or his attention to line and angle. Thus it may well be that the general features of language structure reflect, not so much the course of one's experience, but rather the general character of one's capacity to acquire knowledge -- in the traditional sense, one's innate ideas and innate principles. (Chomsky 1965: 59)

私の主張は、このようなチョムスキーさんの言語獲得観を英語教師はもっと真剣に考えるべきではないかということです。少なくとも彼の言語獲得観は、前のセクションの(1)から(5)にまとめたさんやクラッシェンさんらの主張を整合的に裏付けることができます。
3 集中的入出力訓練による第二言語獲得
しかしチョムスキーさんの言語獲得観は、第一言語獲得にのみ当てはまるもので、第二言語獲得には当てはまらないという反論が聞こえてきそうです。確かに第二言語獲得は、第一言語獲得と同じようにはいかないというのは周知の事実です。これは否定できません。日本の学校英語教育といった状況において、第二言語獲得が第一言語獲得と違うといえる大きな要因は、(a)獲得者が言語獲得に敏感な臨界期を超していること(臨界期は狭い意味では6歳ぐらいまで、広い意味では思春期の始まりぐらいまでと考えます)、(b)言語入力の量が非常に少ないことの二つでしょう(動機づけに関しては、少なくとも教育開始時期においてはそれほど悪い状態ではないと思います)。このうち、(a)に関しては小学校からの英語教育導入によって多少の改善は見込めますが、それも(b)が改善されないかぎりは効果薄といえるでしょう。
私の主張は、学校英語教育のどの時期においても、従来の外的表象としての文法の教授に重きをおくのでなく、かといっていきなりとコミュニケーション活動を行わせようとするのでもなく(それはしばしば失敗やお遊びに終わります)、入力経験(いや入力訓練と呼ぶべきでしょうか)を従来とは比較にならないほどに増やすべきではということです。
この場合の入力訓練とは、もちろん言語としての入力訓練であり、意味と音が、段階に応じた複雑さでもって構造的に結び付けられていることを要件とします。また、文法の内部表象というニューラル・ネットワークの形成を目的としていますから、シナプス結合の仕組みから考えて、異なる種類のテクストをたくさん入力させるのでなく、同じテクストを何度も繰り返すことによって大量の入力を図ることを狙います。これでも量的には、第一言語獲得の量とは比較にならないぐらい少ないでしょうが、少なくとも入力が全て文法文であるという質的な側面と、同じテクストを繰り返すという獲得効率の点では、このような集中的入力訓練は、第一言語獲得の入力経験よりも優れているとすらいえるのかもしれません。
もちろん集中的入力訓練は、このように多くの繰り返しを伴うものですから、獲得者が飽きないということが必要となってきます(脳は「面白い」入力によって扁桃体が活動し、それによって海馬が活性化され記憶の定着が促進されますから、獲得者が飽きないことは非常に重要です)。年少者なら歌や歌遊び、あるいはビデオ視聴などが中心になるでしょうし、発達が進めばシャドウイングや音読といった訓練的要素が強い訓練も可能になるでしょう。
集中的入力訓練と書きましたが、歌やシャドウイング・音読は入力した言語を即、出力する集中的入出力訓練でもあります。言語獲得には運動技能獲得の側面もあることは前にも述べましたので、こうした集中的入出力訓練は、他の条件が同じならば、単なる集中的入力訓練より好ましいことになります。もちろん入力訓練を十分に踏まえた上でないと、きちんとした出力ができないということは様々な事例によって知られていることなので、出力訓練の早すぎる導入は慎まなければなりません。入出力訓練の前には十分な入力訓練が積まれるべきでしょう。
また、シャドウイングと音読は、前者が聴覚入力を、後者が視覚入力を、共に即、音声出力に換えるという点では共通しています。音読に関しては、音声の獲得が安定してから導入されるべきだと私は考えます。また、英語の音声に慣れていない世代には、シャドウイングは音読よりもはるかに難しい作業のように思われるかもしれませんが、シャドウイングの「音声入力→音声出力」という過程と、音読の「視覚入力→つづり字の音声変換→音声出力」という過程を比べるならば、シャドウイングの方が単純な作業です。
学校英語教育において、生徒の興味が続く限り、集中的入出力訓練を多くするべきでないかというのが、私が、鄭さん、クラッシェンさん、チョムスキーさんらの主張を読んで、また自他の経験を振り返って考えることです。むろん、これは大まかなレベルでの話ですから、集中的入出力訓練さえすればよいとか、それ以外の教育活動は一切駄目だとかいうつもりなど全くありません。特に言語の周辺的領域において、学習文法・伝統文法の成果を経験主義者的に学習することの効果を否定するつもりなどまったくありません。ただ多くの英語教師が持つ経験主義者的言語獲得観は、一度大きく揺さぶって、チョムスキーさんが主張するような言語獲得観について深く考える必要はあると思っています。集中的入出力訓練は、適切な「学習」の助けがあれば、非常に効果的な統制された「獲得」訓練になるのではないでしょうか。英語教育において適切な「学習」と「獲得」のバランスとはどのようなものでしょう。
参考文献
鄭讃容(チョン・チャンヨン)『英語は絶対、勉強するな!』サンマーク出版(2000年)
Chomsky (1965) Aspects of the Theory of Syntax, The MIT Press.
Chomsky (1985) Knowledge of Language
Stephen D. Krashen & Tracy D. Terrell The Natural Approach, Pergamon/Alemany (1983)

集中的入出力訓練に関する追記(2002/11/18. 12/23一部修正)
上の「文法獲得と集中的入出力訓練」に関して、私は歌やシャドウイング・音読などを「集中的入出力訓練」(=入力をそのまま出力することを繰り返すこと)としてまとめた上で、それをチョムスキーさんのいうような意味での文法獲得を行うための活動として考えるという視点を提示しました。その際、音声面に関してはほとんど述べませんでしたが、私の用語が曖昧であったこともありまして、ある読者の方から質問(反論)をいただきました。ここでは、上の記事に関する補足説明を加える形でその質問に答えます。構成は第一節がシャドウイングについて、第二節が音読についてとなっております。
1「シャドウイング」という言葉に関する整理
補足するべき第一の点は、現在「シャドウイング」という言葉が様々な意味で使われており、人によって別の活動をイメージしてしまい、議論が混乱しかねないので、「シャドウイング」ということばを整理しておかなければならないということです。
現在「シャドウイング」で典型的にイメージされている練習法は、「テープ等から流れてくる音を耳だけで拾って、それをテープと同時に、自分で口頭再生する練習法」でしょう。
ただこの典型的なイメージ以外にも「シャドウイング」という言葉で語られている活動には、私が今思い出せるかぎりでも以下のようなものがあります。なかには「そんなものはシャドウイングと呼ぶべきではない!」と思われる活動もあるかもしれませんが、整理のために列挙します(「本来の」シャドウイングとは数語遅れて再生をするものだ、というご意見もありますが、ここでは同時に再生するものに限らせていただきます。また、シャドウイング(shadowing)という言葉の由来は、あたかも人の動きに影がぴたりとよりそうように、英語の音声にぴたりとよりそってそれをそのまま再生することから来ている、という説を聞いたことがあります。
シャドウイング(=聞いた英語を同時に再生する活動)のバリエーション
(a)スピードに関してのバリエーション
>速いスピードと遅いスピードなど、複数のスピードを用意してテープ等を再生させるもの
>テープ等ではなく、教師が自ら学習者の程度に合わせてスピードを調節し英語を自ら発声し、学習者に再生させるもの
(b)再生単位に関してのバリエーション
>全文を一気に提示するのではなく、一文ごとにポーズをとって英語を提示し、学習者の再生の遅れに対応するもの
>一文全てを一気に提示するのではなく、チャンク(意味のかたまり。この区切り方には諸説ある)ごとにポーズをとって英語を提示し、学習者の再生の遅れに対応するもの。
(c)再生方法に関してのバリエーション
>学習者が英語を聞いて、心の中だけで音をできるだけ明確に再生(再認)すること(メンタル・シャドウイング)
>学習者が英語を聞いて、口の動きだけはできるだけきちんとしながらも無声で再生すること(サイレント・シャドウイング)
(d)ペア活動に関してのバリエーション
>ペアで活動して、一人が再生するのをもう一人が、その再生の音と唇の様子をチェックしてあげるもの
(e)テキスト(書かれた文書)を使うかどうかに関するバリエーション
>音声を聞き再生する際に、テキストを見ることも許されるもの((ヴォーカル・)アイ・シャドウイング、もしくはpaced reading)(注1)
(f)英語に関するバリエーション
>歌あるいはゲームで、メロディーのついた英語を耳にすると同時に再生するもの(要は歌などを聞きながら一緒に歌うこと、あるいはゲームで皆同じ英語を唱和すること)
>映画の台詞を、映画を見ながら同時に再生するもの
(g)その他:思い出し次第、または皆さんからの情報提供があるにつれ、バリエーションを追加してゆきます。
いうまでもなく、これらの(a)-(g)のバリエーションは相互に組み合わせることに、さらに細かいバリエーションができてきます。またそれらのバリエーションをどういう順番で、どのくらい繰り返して行うかについても様々な判断がありえます。さらにそれらのバリエーションの前に、どのような学習や活動をすませておくのかに関する判断もあります。これらの判断は、学習者の力、英文の特徴、訓練の目的、学習環境、指導者の実力等などの様々な要因を考慮する中で、総合的かつ実践的になされてゆきます。したがいまして、「万人に対応できる唯一絶対のシャドウイングのやり方」などを決めようとするのは、私は意味がないと思います。少なくとも私はそのようなものを知っているとも主張しませんし、あたかも知っているかのような振りもしません(cf.拙稿「授業研究と英語教育学」『現代英語教育』1996年4月号)。実践状況の判断というものは微妙なもので、状況によりさまざまに異なります。ですから、私はせいぜいおこなえるものとして、こういった概念的な整理をおこなっています(これに限らず私は実践者より実践を知っているなどとも主張しませんし、主張したこともありません。私がやれることは様々な実践をできるだけ注意深く見聞きし、可能ならば、それを自分が学ぶ理論の枠組みをできるだけ有効に使って、問題点の整理を行うことです。詳しくは「方針」をご覧ください)。
さて質問者の方の主張は、シャドウイングを行うためには前提が必要であり、その前提を踏まえていないうちでのシャドウイングは乱暴だというものです。このご指摘には基本的に賛成します。質問者のいう前提を私なりにまとめますと、
(1)日本語発音しか知らない学習者が英語を正しく発音するには、きちんとした「調音コーチ」が必要である(「調音コーチ」抜きに英語の発音が正しくできるのは、一部の「耳のいい」学習者だけである。)。
(2)英語の音と意味(イメージ)を結びつける必要がある。
といったことになるでしょうか。
このうち(1)の「調音コーチ」に関しては、私は私なりに実践していましたが、無自覚なままに「耳のいい」学習者を前提にしていたと思います。これは認識を改めたいと思っています。
(2)に関しましては、上の「シャドウイング」の整理で明らかにしたつもりですが、シャドウイングには様々なバリエーションがあり、その選択と組み合わせによっては、初級者からでもシャドウイングによって音と意味を結び付けるのが可能ではないかと思っています。
実際、私が「集中的入出力訓練」というまとめ方を思いついたのは、比較的短期間の間に、平均的な音声指導のあまりない高校の授業の次に、徹底的に音声指導をするある中学の先生の授業を見て、さらに次に小学校の2年生の英語活動を見てからのことです。私の見た小学2年生は、(調音コーチの存在なしに)ALTの音を驚くほどに忠実に再生していました。子供としては何度も楽しく歌って踊っていただけなのかもしれませんが、そこで聞かれた"Ten little pumpkins in all"という歌(昔よく歌われていた"One little, two little, three little Indians..."の歌です)の英語の発音は、通常の中学や高校の教室ではまず聞かれない見事なものでした。この歌や他の活動では、語の音と意味も繰り返しの使用の中で、小学生はまさに体得していました。(私は上の整理で歌もシャドウイングの広義の解釈に含んでいることを思い起こしてください。また、このことに関しましては、非常に短い文章ですが、大修館書店の『英語教育』2003年1月号(2002年12月中旬発刊)に文章を書かせていただきましたので、ご興味のある方はご参照ください)。
次は、私は上の記事でなぜ

シャドウイングと音読では、まずはシャドウイングを優先し、音声言語の獲得が安定し、かつ、書記言語の獲得の必要性が生じるにつれ、音読が徐々に導入されるべきだと私は考えます。英語の音声に慣れていない世代には、シャドウイングは音読よりもはるかに難しいように思われるかもしれませんが、シャドウイングの「音声入力→音声出力」という過程と、「音読の視覚入力→つづり字の音声変換→音声出力」という過程を比べても、私はシャドウイングの方が音読よりも、(処理スピードが同じなら)本来は簡単な集中的入出力訓練かと思っています。

と述べたのかということになります(ここが質問者の方が一番問題にしたところです)。いくつかの理由があります。一つは、上の「書記言語の獲得の必要性が生じるにつれ」という表現が示唆しているように、文字による文章が導入される前の小学生などに、歌やゲームで聞いた音声を、即そのまま再生させる活動を「シャドウイング」という言葉でここで自分で勝手にイメージしていたからです。ですがこういった活動は、上の「聞いた英語を同時もしくは直後に再生する活動」という規定から生じる広い意味でなら「シャドウイング」と称することもできますが、これは典型的な「シャドウイング」の用法からは離れた用法です。このあたりの私の不用意さが、いろいろ混乱を生じさせてしまったのではないかと思います。
しかし言いたかったことは、英語の音がきちんと口頭で再生できるようになってから、綴り字から音声への変換という作業を含む音読へ進むべきではないかというものです。日本の典型的な中学生でいうなら、最初のうちは音声の聞き取りと発音を徹底させ、その後にまとまった文章の音読を始めるべきではないかということです。
二つ目の理由は、私が「シャドウイング」に関しては上で述べたような広いバリエーションをもつ可能性豊かな活動として捉えていたものの、「音読」に関しては、よく見る教室実践からマイナスイメージを(私もよく自覚しないまま)持っていたからでしょう。これについても不注意でしたが、「音読」に関しては、なぜ私が現在多くの教室で行われている「音読」に対してマイナスイメージをもったのか、下に整理したいと思います。
2 音読に関する整理
私が思いますに、音読には以下のような条件が重要だと思います。
まともな音読をするために大切な条件(このうち(2)は質問者の方の指摘により今回新たにした認識です)
(1)再生する以前に、まず英語の音(発音・リズム・イントネーション)に関するイメージができていること
(2)年齢や才能などの要因により新たな外国語の英語の発音を聞き分けそれを再生できるだけの能力をもっているか、そうでない大部分の場合は新たな調音の仕方が十分にコーチされていること。
(3)フォニックスの原則が直観的に把握されているか十分教えこまれており、フォニックスの原則が通用する多くの単語に関しては自力で発音できること。
(4)英語の綴りと音声の同時提示などが繰り返されて、音読しようとするテクストの単語の綴りと音声が、フォニックスの原則では解決しにくい単語も含めて、十分に結びいていること。
ところがこれらの条件は、私が見たり推定する限り多くの教室で充たされていないように思われます。
多くの英語授業での音読が行われる際の状況((b)も質問者の方の指摘で再認識したものです)
(a)もともと教室で英語の音声が聞こえることが少なく、英語の発音・リズム・イントネーションに関して学習者が明確なイメージをもてないままでいる(学習者はいわゆる「英語らしさ」とでもいうべき音声的特徴がつかめていない)。
(b)耳のよい学習者は一部にすぎないのに、発音の仕方に関する細かな教示と修正がされていることがあまりない。
(c)フォニックスの原則はあまり体得されておらず、また教えられてもいない。学習者は英単語を、ローマ字で書かれた日本語を読むようにたどたどしくカタカナ音に換える。(あるいはローマ字の学習もおぼつかない学習者は、不可解な文字列の発音を偶発的に覚えようとして失敗する)
(d)英語の音声が提示されると同時にテキストを目で追ってゆく経験が少なく、綴りと発音の(原則的・例外的な)結び付きが学習されていない。英語を耳だけで聞くことも、耳で聞きながら目で追うことも少ないまま、いきなり音読させるので、苦労して再生されるのは英語としては認識され難い音声となっている。リズム、イントネーションも英語のものとはかけはなれている。
さて、私が「シャドウイングの方が音読よりも、(処理スピードが同じなら)本来は簡単な集中的入出力訓練かと思っています。」と書きましたのは、上の(3)と(4)が定義上、音声言語を入力にするシャドウイングには必要ないからです。そういった定義上の比較ですから(「(処理スピードが同じなら)」「本来は」といった限定句にご注意ください)そう書きましたが、もちろん実践の上ではシャドウイングの方が音読よりも難しくなる場合はたくさん存在します。また音読の学習者自身のペースで進めることができるという特徴は、シャドウイングでは得難い特徴でしょう。音声入力→音声出力で、学習者のペースを確保しようとしたら、シャドウイングではなく、リピーティングなどを行う必要があるでしょう(注2)。
また上に述べましたように、「音読」という言葉で、私は無自覚に(a)-(d)といった実践をイメージしていたので、音読に関してあまり肯定的になれなかったのですが、(a)-(d)が「音読」のあるべき姿ではないことはいうまでもありません。
音読に関しては、柴田武史先生(弘学館中学校・高等学校)の手記(http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/ron/otomichi2002.html)が非常に勉強になります。私も読んで、自分の音読実践に関する理解は浅いものであったことがよくわかりました(このページは皆さんもぜひお読みくださることをお勧めします)。「音作り」と「フォニックス」の重要性がよくわかると同時に、いかに現在の英語教育でそれらがなされていないかが痛感されます。
結論的には、上に再掲した問題の文章を含むパラグラフは、誤解のないように次のように書き換えたいと思います。(上の記事もこのように書き換えました)

また、シャドウイングと音読は、前者が聴覚入力を、後者が視覚入力を、共に即、音声出力に換えるという点では共通しています。音読に関しては、音声の獲得が安定してから導入されるべきだと私は考えます。また、英語の音声に慣れていない世代には、シャドウイングは音読よりもはるかに難しい作業のように思われるかもしれませんが、シャドウイングの「音声入力→音声出力」という過程と、音読の「視覚入力→つづり字の音声変換→音声出力」という過程を比べるならば、シャドウイングの方が単純な作業です。

以上、追加の説明を行いました。「言葉は明確に使おう」とは私が日頃学生さんに言っていることでしたが、今回は私の言葉が十分明確ではありませんでした。反省したいと思います。
(注1)もしシャドウイングの基本的な定義を「入力に対して影のようについてゆくこと」と定義しましたら、「アイ・シャドウイング」は英語の音声入力に合わせて、テキストの英文に目を走らせること、となり、その際に口頭再生をすることは「ヴォーカル・アイ・シャドウイング」と呼ばれるべきものとなります。
(注2)私はリピーティングといった活動も「集中的入出力訓練」としてとらえています。入力を、時間差こそあれ、入力をそのまま出力し、それを集中的に繰り返すからです。

集中的入出力訓練(Intensive Input/Output Training)の具体的方法に関する整理(2002/12/23、以後随時修正・追加更新)
きたる12/25に神辺旭高等学校でお話をさせていただく機会を得ました。その打ち合わせの中で、「ぜひ理論的な話と一緒に、具体的な授業方法の話もしていただきたい。現場は理論的に納得しただけでは駄目なのだから」と要望をいただきましたので、以下に集中的入出力訓練(Intensive Input/Output Training)の具体的方法についての(暫定的)整理を試みたいと思います。構成は、(1)集中的入出力訓練の定義と分類、(2)集中的入出力訓練のための前提、(3)リピーティング、(4)シャドウイング、(5)音読、(6)朗読、(7)音読筆写という順番です。ここに提示されている具体的方法は私が様々なワークショップや本などで学んだものが大半です。非常に繁雑になりますし、特定できない場合も多いので、いちいちクレジットは提示しませんでしたが、アイデアを公開してくださった実践者の方々には、ここで改めて深くお礼を申し上げます。以下の整理は、英語教育界のいわば共有財産とお考えください。私としても新しい方法を学び次第、順次この記事は加筆修正してゆこうと思います。英語教育界におけるアイデアの公開と共有という流れは一層促進してゆきたいと私は考えています。
 
(1)集中的入出力訓練の定義と分類
定義:集中的入出力訓練(Intensive Input/Output Training)とは、外国語の習得において、与えられた入力を、そのまま出力することを、意識的に何度も繰り返す訓練です。入力のモードと出力のモードは同じこともあれば(例、音声入力を音声出力する)、異なることもあります(例、視覚入力を音声出力する)。この訓練の効果は、例えば音読実践ということでは昔から言われてきましたが、理論的正当化はチョムスキー的な言語獲得観によっても果たしうると考えられます(cf.上の文法獲得と集中的入出力訓練」の記事を参照)。この集中的入出力訓練は、特にEFLといった「外国語」(身の回りでほとんど使われていない言語)を習得する環境においては、自由発話を学習者に要求する以前に徹底されなければならない教育的手段として重要視されなければならないと私は考えます。
分類:この記事では集中的入出力訓練を、音声入力を音声出力する「リピーティング」および「シャドウイング」と、(音声入力と)視覚入力を音声出力する「音読」と「朗読」、さらに視覚入力を(音声出力と)視覚出力にする「音読筆写」および音声入力を視覚出力にする「ディクテーション」に分類して、それらの具体的なバリエーションについて説明したいと思います。「リピーティング」、「シャドウイング」、「音読」、「朗読」、「音読筆写」「ディクテーション」についてはできるだけ合理的にここで定義するつもりですが、その定義が一部の教育実践における実際上の定義と少し異なる場合もあるかもしれません。ここでは私なりの定義を提案させていただきます。
 
(2)集中的入出力訓練を行う前の前提
集中的入出力訓練を行うためには、いくつかの前提が満たされている必要があると考えられます。ここではそれらのうち、リスニング、音素の発音、超音節の発音、フォニックス、新出単語の学習、テクストの理解、について述べたいと思います。
(a)リスニング:まず全般的なことを述べますと、学習者は外国語(以下、「英語」とする)の音声のイメージを把握しておくことが必要となります。音声面における「英語らしさ」を漠然とでもイメージできないうちに、出力を要求することは賢明なことではないと考えます。集中的入出力訓練の前には、十分な入力経験を積んでおく必要があると考えます。
次に集中的入出力訓練の対象となるテクストのリスニングについて述べますと、これも同様の理由で十分に行う必要があると考えられます。もちろん集中的入出力訓練の中で、入力経験も積まれますが、やはり入力は出力に先行するべきではないかと思います。スポーツや音楽演奏などの技能訓練においても、実際の入出力訓練を行う前に、学習者は何度もその競技プレーを見たり、演奏曲目を聞いたりして、そのイメージを把握していることが普通だからです。初心者に口頭の指示だけでいきなりまったく見たことのないプレーをさせたり、聞いたことのない曲を初見の楽譜から演奏させたりするのは、少なくとも常識的ではないと考えます。
特定のテキストのリスニングの方法としては、(1)何度か聞かせて、聞こえた単語を生徒にとにかく言わせる。指導者はそれをテキストでの出現の順番を考えながら板書して、もう一度板書を見ながらリスニングさせるという方法や、(2)学習者個人個人に、わからないながらもノートテーキングあるいはメモをさせて、ペアで協力しながらそのノートやメモを基にテキストの内容を推測させて、もう一度リスニングさせるという方法があります。いずれにせよ、初めから全て聞こえなくてもあせったり落胆する必要など全くないこと、リスニングには内容を推測・想像しながら聞くという側面があること、を強調します。あるいは、最初に和訳のプリントを配ってしまっておいて(「和訳先渡し方式」)、リスニングをさせるという方法もあります。
(b)音素の発音:ある特定のテクストを対象とした集中的入出力訓練の中で、随時、発音指導・矯正は行われるべきでしょうが、そのような偶発的な発音指導・矯正だけでなく、音節(phoneme)に関しては体系的な教示と指導は別の機会に行われるべきでしょう。さもないと殆どの学習者は日本語発音に引きずられたままの発音を続けることになりかねません。これに関しては指導者自身が講談社ブルーバックスの『英語スピーキング科学的上達法』(1600円、Windowsで動くCD-ROM付)のCD-ROMで具体的な発音における音声器官の実際の動きを目と耳で確認し、その発音を自分自身正確にできるだけでなく、その技能のノウハウを適切に学習者に伝えられるようにしておく必要があるでしょう。またネット上では「英語・発音・語彙」 http://www.scn-net.ne.jp/~language/というHPが驚くほど充実しており、ここでは発音のコツが、日本語との対照などから体系的に示されています。これら二つは英語教師必見の本とHPであると私は思っています。
(c)超音節の発音:個々の音素の発音だけでは英語の発音は十分でなく、音素・音節を超えた発話レベルでの音の変化、リズム、イントネーションについても、学習者は必要に応じて明示的な教示と訓練を受けるべきでしょう。そのためには指導者自身がこれらのことを意識的に把握していることが前提となります。これに関しては深澤俊昭『英語の発音パーフェクト学習事典』(アルク、2800円:CD3枚付)をお勧めします。これも体系的かつ具体的・実践的な、英語教師にとっては必携の良書です。なおこれらの体系的教示・指導が終わった後も、集中的入出力訓練を教室で行う場合は、指導者はできるだけ教室を巡回するなどして、学習者の出力の様子を観察し、必要に応じて随時発音指導・矯正を行うことは重要です。技能習得は長期間におよぶからです。
(d)フォニックス:そうして耳と口に関して学習者が指導を受けても、視覚入力を前にしては初心者は綴り字と発音の関係を知らず、一つ一つの単語の単語を偶発的に覚えようとして挫折します。ローマ字を知っているならローマ字読み(つまりはカタカナ読み)をするか、知らないならほとんど読み方を覚えられないままに、「英語を読むのは嫌い!」となってしまいます。綴り字と発音の関係を体系的に示したフォニックスは書き言葉の導入と共に指導されるべきだと考えられます。この実践については田尻悟郎先生がワープロの特殊文字を使った、非常に実践的な指導法を大修館書店の雑誌『英語教育』の2003年1月号に掲載しています(田尻さんによりますと、卒業生に英語の勉強で何が一番役立ったかと尋ねると約80%の生徒がフォニックスと答えるそうです)。また柴田武史先生(弘学館中学校・高等学校)の手記(http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/ron/otomichi2002.html)も是非ご覧ください。現在市販されているフォニックスの本としては松香洋子『アメリカの子供が「英語を覚える」101の法則』講談社+α文庫(700円、ISBN4-06-256433-5)がわかりやすいです。あるいは多くの英和辞書が付録にフォニックスの一覧表を掲載しています。フォニックスは英語が読めるようになってしまった人間にとってはあまりに当り前のことになっていますが、初学者にとっては重要な知識であることを再認識する必要があるでしょう。
(e)新出単語の学習:学習者にとって未知の単語に指導がなされるべきであることも多言を要しないでしょう。単語学習としては、英単語一つに対して訳語一つを与える対連合学習がよくなされていますが、これは記憶の対象を限定するという点では効率的ですが、学習が訳語の想起のみに終わりがちであるという点に気をつける必要があります。具体的な単語なら、絵・写真・実物の提示やジェスチャーによるデモンストレーションなどで、抽象的な単語なら印象深いエピソードや例文の提示などでそれぞれにイメージをつかませることはもっと促進されるべきでしょう。またフラッシュカードは新出時に提示用にのみ使われることがありますが、定着用に、一瞬だけ(まさにflashするように)提示して、瞬間の単語認知の訓練をすることも覚えておきたい教育手段です。
(f)テキストの理解:集中的入出力訓練自体の中には、その対象となるテクストを理解しているかどうか確認する術はありません。もちろん入力を再生出力できるということは、その入力を認知し、適切な単位(チャンク等)に分析した上で再統合できるということですから、そのレベルでの「理解」は前提となっています。しかしそれより高次の理解に関しては、集中的入出力訓練とは別の機会に行っておくことが必要となります。このタイミングに関しては、理解のための和訳などを行う前に、とにかく徹底的に入出力訓練を行って、英語を身につけることを先行させる教育実践が多いことをここでは述べておきます。
 
(3)リピーティング
それでは以上の前提を踏まえた上でのリピーティング、シャドウイング、音読、朗読のバリエーションについて説明してゆきます。まずはリピーティングです。
リピーティングの定義:模範音声が提示された後に、学習者がその入力をそのまま音声出力すること。
(a)スピードに関してのバリエーション
>リピート再生するスピードは、基本的に学習者自身のスピードに任せるが(学習者がリピーティングに自信がなければゆっくりと再生する)、指導者はそれに応じて、提示入力のスピードやテンポを落とすか、提示入力を何度か繰り返して学習者に適切な入力を提示できるよう工夫する。慣れるに従い、提示入力のスピードとテンポは上げることによって適切な困難度(やりがいのあるレベル)を維持し、学習者が飽きないようにする。
>ゆっくりと提示し、ゆっくりと再生させ、発音指導・矯正を重視するもの。
(b)再生単位に関してのバリエーション
>一文全てを提示するもの。
>一文全てを一気に提示するのではなく、単語ごとにポーズをとって英語を提示し、学習者の再生の能力に対応するもの。
>一文全てを一気に提示するのではなく、チャンク(意味のかたまり。この区切り方には諸説ある)ごとにポーズをとって英語を提示し、学習者の再生の能力に対応するもの。
>一文全てを一気に提示するのではなく、チャンクごとに再生させるが、チャンクを少しずつ重ねて再生単位を長くして、最終的には一文すべてを再生させるもの。基本的には一文の最初のチャンクから最後のチャンクへと順次重ねるが、再生が困難なチャンクがあれば、それを中心にして少しずつ再生単位を長くするようにする。
(c)再生方法に関してのバリエーション
>学習者が英語を聞いた後に、心の中だけで音をできるだけ明確に再生(再認)すること
>学習者が英語を聞いた後に、口の動きだけはできるだけきちんとしながらも無声で再生すること
(d)ペア活動に関してのバリエーション
>ペアで活動して、一人が再生するのをもう一人が、その再生の音と唇の様子をチェックしてあげるもの
>ペアの一方がテキストを読み上げ、もう一方がそれをリピーティングする。
(e)テキスト(書かれた文書)を使うかどうかに関するバリエーション
>音声を聞き再生する際に、テキストを見ることも許されるもの。しかし、テキスト全てを見ると、どうしても「読んで」しまうので、各文の最初の数語だけを書いたテキストや虫食いにしたテキストを用意するのも一つの方法。
(f)英語に関するバリエーション
>歌あるいはゲームで、メロディーのついた英語を耳にした後に再生するもの(要は歌唱指導、あるいはゲームで皆同じ英語を唱和することの指導)
>映画の台詞を再生するもの
(g)日本語による変換再生
>英語入力を、日本語に変換して出力するもの。これは集中的入出力訓練の定義からははずれるが、テキストの理解の方法としてここに付記しておく。なお再生単位はチャンクが適当。語単位だと繁雑すぎるし、文単位だと理解のためというよりは、通訳養成訓練のようになってしまう。
 
(4)シャドウイング(再掲)
シャドウイングの定義:模範音声が認知されると同時に、その入力をそのまま音声出力すること。
(a)スピードに関してのバリエーション
>速いスピードと遅いスピードなど、複数のスピードを用意してテープ等を再生させるもの
>テープ等ではなく、教師が自ら学習者の程度に合わせてスピードを調節し英語を自ら発声し、学習者に再生させるもの
(b)再生単位に関してのバリエーション
>一文全てを提示するもの。
>全文を一気に提示するのではなく、一文ごとにポーズをとって英語を提示し、学習者の再生の遅れに対応するもの
>一文全てを一気に提示するのではなく、チャンク(意味のかたまり。この区切り方には諸説ある)ごとにポーズをとって英語を提示し、学習者の再生の遅れに対応するもの。
(c)再生方法に関してのバリエーション
>学習者が英語を聞くと同時に、心の中だけで音をできるだけ明確に再生(再認)すること(メンタル・シャドウイング)
>学習者が英語を聞くと同時に、口の動きだけはできるだけきちんとしながらも無声で再生すること(サイレント・シャドウイング)
(d)ペア活動に関してのバリエーション
>ペアで活動して、一人が再生するのをもう一人が、その再生の音と唇の様子をチェックしてあげるもの
>ペアの一方が英文を読み上げ、もう一方がそれをシャドウイングする。
(e)テキスト(書かれた文書)を使うかどうかに関するバリエーション
>音声を聞き再生する際に、テキストを見ることも許されるもの((ヴォーカル)アイ・シャドウイング、もしくはpaced reading)
(f)英語に関するバリエーション
>歌あるいはゲームで、メロディーのついた英語を耳にすると同時に再生するもの(要は歌などを聞きながら一緒に歌うこと、あるいはゲームで皆同じ英語を唱和すること)
>映画の台詞を、映画を見ながら同時に再生するもの(いわゆるアフレコ)
(g)その他:思い出し次第、または皆さんからの情報提供があるにつれ、バリエーションを追加してゆきます。
 
(5)音読
(音読に関してはTOSS中学英語:大北修一編 中学英語音読指導の館 http://www.pure.co.jp/~ohkita/index.html が優れていますので是非ご覧ください。滋賀県高率高校教師の山岡大基さんの「『音読の時間』であの手この手の音読指導を」http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/LAKE2001.htm も非常に参考になります)
音読の定義:模範音声が提示された後に、書かれたテキストを見ながらその入力を音声出力すること。
(a)スピードに関してのバリエーション
>学習者自身のスピードに任せるもの(指導者は学習者の能力に応じて、提示入力のスピードやテンポを落とすか、提示入力を何度か繰り返して学習者に適切な入力を提示できるよう工夫する。慣れるに従い、提示入力のスピードとテンポは上げることによって適切な困難度(やりがいのあるレベル)を維持し、学習者が飽きないようにする)。
>ゆっくりと提示し、ゆっくりと再生させ、発音とフォニックスの指導を重視するもの。
>チャレンジ課題として最高速で提示し、かつ再生させる。発展課題として「何秒以内に読めるように音読練習を重ねること」などを出す。ただし発音がデタラメになってしまわないようには注意する。Comfortably intelligibleな発音のレベルは必ず維持させること。
(b)再生単位に関してのバリエーション
>文章全体を一気に音読させるもの。当然模範音声の提示も文章全体を一気に行うものとなるが、この時は、アクセント、イントネーション、連結音、ポーズなどの音声的特徴をテキストに書き込むように指示するとよい。ただしこの書き込みには結構時間がかかる(一つの特徴を書き込んでいるうちに、模範音声は次の部分に進んでしまっている)ので、模範音声の提示は何度も繰り返すか、細切れにするなど工夫をする。
>一文全てを音読させるもの。
>一文全てを音読させるのではなく、単語ごとにポーズをとって音読させ、学習者の再生の能力に対応するもの。とくに低学力の学習者にはこの訓練は重要。
>一文全てを音読させるのではなく、チャンク(意味のかたまり。この区切り方には諸説ある)ごとにポーズをとって音読させ、学習者の再生の能力に対応するもの。
>一文全てを音読させるのではなく、チャンクごとに音読させるが、チャンクを少しずつ重ねて再生単位を長くして、最終的には一文すべてを音読させるもの。基本的には一文の最初のチャンクから最後のチャンクへと順次重ねるが、音読が困難なチャンクがあれば、それを中心にして少しずつ音読単位を長くするようにする。
>ランダムな順番で模範音声を提示し、その文をテキストの中から探し出させて音読させる。学習者を飽きさせないための応用課題。スキャニングの練習にもなる。
(c)再生方法に関してのバリエーション
>学習者が英語を聞いた後に、テキストを見ながら、心の中だけで音をできるだけ明確に再生(再認)すること。綴り字と発音の関係の習得に注意を払う。
>学習者が英語を聞いた後に、テキストを見ながら、口の動きだけはできるだけきちんとしながらも無声で再生すること。
>模範音声の後、クラス全員に音読させるもの(斉読)。この時、指導者は、音読をそろえさせるために、文頭を高くする独特のイントネーションを不用意に使ってしまい、学習者にそのイントネーションが伝染しまうことがあるので、そうならないように注意すること。
>模範音声の後に、クラス全員に音読させるが、別にその音読がそろっていることを要求しないもの(buzz reading)。
>模範音声の提示の時にはテキストを見るが、再生の場合は顔を上げてテキストを見ずに再生する(Read & Look Up。厳密には音読の定義をはずれるが、関連方法としてここに挙げておく)。実際にやらせてみると、再生の時になかなか顔が上がらない(ついついテキストを見てしまう)ことが多いが、その場合は生徒を立たせて、再生の場合はテキストを胸につけて絶対に見えないようにさせるなどの工夫をするとよい。
>模範音声の提示の後、二回連続して再生する。最初はテキストを見ながら再生させるが、二度目は顔を上げてテキストを見ずに再生させる(Twice Reading)。
(d)ペア活動に関してのバリエーション
>ペアで活動して、一人が音読するのをもう一人が、その再生の音と唇の様子をチェックしてあげるもの
>ペアの一方が読んだ英文を、もう一方は日本語訳する。あるいはペアの一方は黙読した英文を日本語変換再生し、もう一方はそれをテキストを見ないまま英語に変換する。
(e)テキスト(書かれた文書)を使うかどうかに関するバリエーション
>各文の最初の数語だけを書いたテキストや虫食いにしたテキストで音読する。一文から数文の場合は、全文を黒板に書いておき、それを一語ずつ消してゆくか、全体的に少しずつ薄くなるように消してゆき、認知的困難度を上げる。
>クラス全体には音読を指示するが、「余裕がある人はテキストを見ずに再生してみてください」などと言って、能力のある学習者には音読のペースでRead & Look Upあるいはリピーティングをさせる。
>教科書の上に鉛筆を1-2本、縦に置いて、本文が全ては見えないようにした上で音読させる。この条件で音読ができるようになったら隣の席に移って音読をしてみる。鉛筆の置き方が異なるので新たな挑戦課題となる。
(f)英語に関するバリエーション
>歌あるいはゲームで、メロディーのついた英語を再生するもの(要は歌唱指導、あるいはゲームで皆同じ英語を唱和することの指導。この場合、特に文字の棒読みにならないように、超音節的特徴の指導を徹底する)
>映画の台詞を、音読するもの。この場合も棒読みにならないように超音節的特徴の指導を徹底する。また感情を込めるように指示をする。とはいえ、ただ「感情を込めて!」といっても、学習者は途方にくれるか、我流の妙な強調をしてしまうことが多いので、指導者は音声を聞かせながら、どこのどの音声的特徴に、特定の感情が込められているかを具体的に示して、学習者の耳を育てるようにしておかなければならない。
(g)日本語による変換再生
>英語入力を、日本語に変換して出力するもの。これは集中的入出力訓練の定義からははずれるが、テキストの理解の方法としてここに付記しておく。なお再生単位はチャンクが適当。語単位だと繁雑すぎるし、文単位だと理解のためというよりは、通訳養成訓練のようになってしまう。
>テキストの日本語訳を指導者が順次口頭で提示し、学習者にはそれに相当する英文を(英語で)音読させるもの。この練習では指導者と学習者が共同して和文英訳練習をしているような感じになる。
 
(6)朗読
朗読の定義:模範音声の提示なしに、学習者が自力で、書かれたテキストを見ながらその視覚入力を音声出力すること。多くの場合、テキストの深い理解に支えられた、表現力豊かな音声出力をすることが単なる音読とは異なるものとしての朗読と呼ばれる。Oral Interpretationと呼ばれることもある。
通常、朗読するテクストの単位は文章全体だが、それ以前の準備として、再生単位を一文ごと、あるいは一段落ごとにして口の動きを滑らかにする練習もある。一文ごとに5-10回ずつ繰り返して読んで、それを次々に繰り返すことによって文章全体を読んだり、一段落ごとに5-10回ずつ繰り返して読んで、それを次々に繰り返して文章全体を読むわけである。文章全体を通して5-10回繰り返して読むことに比べて、このように一文ごと、あるいは一段落ごとに読む方法は、言語表現の細部に注意が行きやすいので、いきなり文章全体を朗読するのを困難に感じている学習者にはいい練習となる。
ただしこういった練習のためには、正しい音声が身についていることが前提となる。我流の発音、リズム、イントネーション、ポーズ、強調などなどで何度も繰り返し朗読してゆけば、悪い癖(=他人に理解してもらえない英語)をますますつけるだけになる可能性がある。活字を見たら、すぐに自然な音声が心の中で再生されるぐらいにリスニングを行っておくことが朗読の前には必要。
こうして考えると朗読とは非常に高度な活動であることがわかる。活字を見ただけで、そこには指示されていない適切なリズム、イントネーション、ポーズ、強調などを自力で補わなければならないからである。
(a)指示に関するバリエーション
>朗読するテキストの意味が聞き手に伝わるように生徒に指示を出す。例として「全体のヤマはどこだろう」、「ゆっくりと訴えかけたい文はどれで、速くたたみかけたい文はどれだろう」、「どこでポーズをとると効果的だろう」、「この文で一番強調したいのはどの語だろう」、「この時の作者の気持ちを考えて、作者になりきって読んでごらん」など。
(b)再生単位に関するバリエーション
>一人にテキスト全部を朗読させる。
>テキスト全体をいくつかの部分に分けて、グループのメンバー一人一人にその部分をそれぞれ割り当てて、順番に朗読させることによって、朗読をグループのパフォーマンスにする。グループのメンバー同士で励ましあい、グループでの達成感を味あわせるようにする。
(c)環境の設定に関するバリエーション
>その場で立たせて朗読させるか、教室の前で朗読させる。いずれにしても朗読する者の心理的負担は大きいので、朗読がプレッシャーや失敗体験にならないように心理的なケアをすることは大切。
>ペアで朗読させるが、朗読する方はできるだけ相手の目を見るようにする。相手はノートなどを丸めて覗き眼鏡を作り、それごしに朗読する人の目を見る。こうして相手の目を見ると驚くほど集中して目を見ることができる。
>朗読テキストに応じたBGMを流す。音楽がピタリと合致すると、驚くほど朗読の質が高まる場合がある(逆に音楽が合わなかったり強すぎたりすると集中力はそがれてしまう)。
>朗読テキストに応じた効果音をコンピュータを通じて流す。効果音が適切だと臨場感は非常に高まる。音源はインターネットの各種無料ダウンロードサイトから探してくる。
>朗読テキストに応じた背景(写真等)をコンピューターからプロジェクターを経由して教室前方のスクリーンに写し出す。学習者はそれを背景にして朗読する。暗くした教室でこれをやると非常に集中できることが多い。
>朗読大会を企画して朗読させる。この場合、朗読大会がワクワクできて楽しいものになるように、ステージ演出などにも工夫する。場合によってはビデオ撮影すると臨場感は高まるし、思い出づくりにもなる。
(7)ディクテーション
ディクテーションの定義:聞こえてくる英語音声をそのままノートに書き取ること。リスニング能力だけでなく、聞こえてくる英語を統語解析し文法的に再生する力、心の中で分析・統合した英文を書き取るまで記憶しておくワーキング・メモリーの力も試されることとなるので、いわゆる「英語の実力」をみる一つの方法としても考えられている。ただしこれはかなりの集中力を要する課題なので、分量に関しては、多くを課さない方がよいだろう。ある高校(中堅校)の教師によれば分量にして30語、スピードにして90語(一分間当たり)が限度であろうとのこと。
(a)音声入力の繰り返しに関するバリエーション
>三度繰り返して聞かせる。ディクテーションの標準的な方法。1回目は普通のスピードで文章全体を聞かせる。2回目はゆっくりのスピードで一文ごとに聞かせる。一文が読み上げられるごとに、それを書き取るための時間を取る。3回目は普通のスピードで聞かせるが、一文ごとに書き取った英文を修正するための時間を取る。
>一回しか聞かせない。次々に英文を読み上げ、次々にそれを書き取らせる。課題としては困難なので、既に何度も他の集中的入出力訓練をするなどして学習者がある程度マスターした英文を対象にした定着のための課題とするか、実力判定のためのテスト課題とするなど、目的をはっきりさせて、学習者に不要な挫折感を与えないようにしておく。特に定着のためなら、音声入力のスピードはゆっくりめにするなどの配慮も必要か。
>個人が好きなだけ何度も繰り返して聞く。この場合は、一人に一台再生装置が必要。聞き取れない英文を何度も聞いた上で、答え合わせをして、英語の音声と文字の関係をチェックするのは、日本語発音の英語しか知らない学習者にとっては、かっこうの「耳の矯正」訓練となる。この際に音の連結、脱落、変化などの英語の音声的特徴をついでに指導してやると効果的。学習者にとっては聞き取れない英文を何度も聞かなければならないという意味でフラストレーションがたまりやすい訓練といえるかもしれないが、「耳を鍛える」にはいい訓練。
(b)テキストに関するバリエーション
>既習テキストを使う。定着のためのディクテーションとなる。
>初めて聞くテキストを使う。実力判定、もしくは耳の訓練のためのディクテーションとなる。
(8)音読筆写
音読筆写の定義:音読筆写とは、テキストの英文を音読しながらノートに書き付ける(筆写)すること。通常、同じ英文を数回繰り返し音読筆写させる。音読筆写は低学力者には特に有効。低学力者は、三単元のSや受動態のbe動詞を筆写で落としてしまう。ただ、生徒の中には筆写をするのに夢中になって音読がおろそかになってしまうことがあるので注意。また、よく聞き取れなかった英文を音読筆写してみると、その英文を次に聞いたときには不思議なくらいに聞き取れるので、この音読筆写はリスニング活動に達成感を与える活動としても使える。ただし音読筆写の大前提は、その対象となる英語の音読が正確にできるほどに定着していること。でたらめな音読をしながら筆写をするのは逆効果の活動となる。
(a)スピードに関するバリエーション
>できるだけ速く音読筆写させる。「30秒で何回音読筆写できるか」「できるだけ速く5回音読筆写しなさい」といった指示などを出す。音読筆写を行う前に、その英文を何度も音読させておくなど、ある程度の準備も必要。例えば英文をできるだけ速く3回音読してから、ノートに5回音読筆写させるなど。
>個人のペースで音読筆写させる。宿題として音読筆写させる場合などは、スピードの管理は学習者個人に任せてしまう。この際は、正確な筆写がなされているかどうかをチェックポイントにする。音読練習は授業中に十分なされていることが前提。
(b)再生単位に関するバリエーション 
>重要な文を数文選んで、それを音読筆写させる。
>教科書の文章を対象にして、3分間でどれだけ音読筆写できるか挑戦させる。
(9)まとめ
これらの方法は、自由発話以前の訓練として、適切に組み合わされて、英語教育の中に今以上に組み込んでゆくべきだと考えます(一部の先駆的な実践を除くなら、英語授業の多くは驚くほどに旧態依然としています)。またもちろん、これらの訓練を終えた後のクリエイティブな自由発話の機会も英語教育の中では重要な位置を占めます。これに関してはここ20年間あまりのコミュニカティヴ・アプローチの財産を私たちは大切にしなければなりません。私たちは「技を作る/skill-getting」の「基本」と、「技を使う/skill-using」の「応用」の両方を大切にするべきだと私は考えます。応用だけをやっているうちに、自然に基本が身についてしまうのも才能豊かな少数派なら、基本をやるだけであとは自力で応用ができてしまうのも才能豊かな少数派です。英語教師としては、そのような少数派を前提とせずに、基本と応用のバランスをとった授業計画を立てるべきだと思います。いずれにせよ、「英語の授業は文法用語の説明と日本語訳ばかりだ」というステレオタイプを、いいかげんに完全に過去のものにしたいと思います。

英語教育内容学からの高校への提言--語用論の立場から--(2004/3/4)
 ここでは語用論の観点から、解釈の原理について簡単に考察したい。具体的な例で考えてみよう。あなたがある相手に"Would you like some coffee?"と聞いたところ、相手は"Coffee would keep me awake."と答えたとする。この答えの「意味」とは何だろう。あるいはあなたはこれをどう「解釈」するだろうか。
 "Coffee would keep me awake."を直訳するなら「コーヒーで私は眠れなくなる」ということである。それでは相手はあなたにこのコーヒーについての知識を与えようとしただけなのだろうか。この知識授与だけが「コーヒーはいかがですか」に対する答えなのだろうか。そうではないだろう。相手はこの「コーヒーで私は眠れなくなる」という知識授与を通じて、それ以上のことを伝えようとしている。会話をしている今の時間が夜11時過ぎだとしよう。おそらく相手が伝えたいのは「(コーヒーで私は眠れなくなる。だから)コーヒーは結構です」といった意味だろう。少なくともそう解釈するのが私たちのコミュニケーションである。
 こうしてみると「意味」には少なくとも二つの層があることがわかる。一つは「文字通りの意味」(literal meaning)、もう一つは「話者の意味」(speaker's meaning)である。文字通りの意味とは、辞書的知識と文法的知識の総合によって得られるもので、ここなら「コーヒーで私は眠れなくなる」である。だがあなたはそのような文字通りの意味だけに満足せずに「解釈」し、「コーヒーは結構です」といった意味にたどり着く。これが話者の意味である。文字通りの意味に話者が込めた、文字通りの意味を超える意味が話者の意味である。
 しかし文字通りの意味から話者の意味への解釈は一本道ではない。上の解釈は、会話は夜11時過ぎで、「発話者はもうすぐ眠りたい」という想定(assumption)に基づいてのものである。もし想定が「発話者は仕事をするために起きておきたい」であれば話者の意味は「(コーヒーで私は眠れなくなる。だから)コーヒーをください」になる。
 こうすると解釈とは(1)のように整理できる。

(1) 文字通りの意味 + 想定 ⇒ 話者の意味

つまり、話者の意味の解釈は、文字通りの意味の把握に基づいて、その把握に適切な想定を結びつけることによって、どのように関連性の高い結論が導かれるかを推論することによってなされるわけである。
 あなたがすぐに「コーヒーは結構です」と解釈できた場合で考えよう。あなたはその時、「発話者はもうすぐ眠りたい」という想定をすぐに思いついたわけである。したがって、あなたが考えたことは、「コーヒーを飲むと眠れなくなる人が、もうすぐ眠りたい場合、コーヒーを欲するだろうか」という推論だけだったことになる。この場合はこの推論だけが、思考を要するものであるとするならば、この解釈は(2)のように表現できる

(2) 文字通りの意味 + 想定 ⇒ Z

ここでは解釈とはZを求めることだけである。この方程式は容易に解けるものである。
 ところが、あなたは相手がすぐに眠りたいのか、それともしばらく起きていたいのかわからないとしよう。つまりはどのような想定を、文字通りの意味と組み合わせればよいのか、わからないのだ。その場合は(3)のように表現できる。

(3) 文字通りの意味 + Y ⇒ Z

今度は、方程式は解けないものになってくる。ひとつの方程式に二つの変数が入っているからだ。だが、解釈はしばしばこのようなもののように思える。あなたは相手があなたに結び付けてほしいと思っている想定を、明示的には知らされていないし、もちろん相手が伝えたい話者の意味を予め知らない。あなたは同時にYとZを同定しなければならないのだ。
 解釈はこのように表現すれば解決不可能な問題のように思える。(2)ならば問題ないことになるが、実は(2)にはトリックがあった。私たちは(2)で「あなたはその時、『発話者はもうすぐ眠りたい』という想定をすぐに思いついたわけである」ということを議論の前提としたが、なぜあなたはその想定をすぐに思いつけるのであろう。なぜあなたは想定として他の想定、例えば「コーヒーにはカフェインが入っている」あるいは「私ならコーヒーを飲んでも眠れる」を思いつかなかったのだろう。そうなると解釈の基本形は(2)ではなく、(3)となる。では私たちはどのように(3)の難問を解いているのだろうか。
 関連性理論で説明していることは次のように要約できる。第一に、私たちはZとして情報量が高くなるようなYを選ぶ。「コーヒーで私は眠れなくなる」に「コーヒーにはカフェインが入っている」を組み合わせても、導きだせるのは、「発話者はコーヒーに入っているカフェインによって眠れなくなる」といったものだろう。この情報は別段新しいとも有益だとも思われない。そのようなYを私たちは通常選択しない。第二に、私たちはZにたどり着くのに、それほど労力がかからないようなYを選ぶ。「コーヒーで私は眠れなくなる」に「私ならコーヒーを飲んでも眠れる」を組み合わせるなら、例えば「発話者は私と違って敏感な人だ」⇒「私は夜活動することは平気だ」⇒「発話者は私と違うから、おそらく夜遅く活動することを嫌うだろう」⇒「発話者は夜遅く活動をすることを嫌い眠りたいのだろう」⇒「だからコーヒーはいらないだろう」となどといった推論を経れば同じ結論にたどり着くことができる。しかしこれは「コーヒーで私は眠れなくなる」に「発話者はもうすぐ眠りたい」を結びつける推論に比べてずいぶんに回りくどい。私たちはできるだけ労力のかからない推論をもたらすような想定を選ぶ。
 上の二つを組み合わせるならば第三の説明法が生まれる。私たちは得られる効果(話者の意味)と労力(推論の量)が最適のバランスとなるような解釈をする。これが「最適関連性の仮定」(presumption of optimal relevance)である。だがこれは十分な説明ではない。なぜ私たちは、そのような仮定をとることができるのだろう。ここで第四の説明が登場する。それは私たちがお互いにコミュニケーションを行う存在であるからだというものである。もし誰かが、相手にとって労力を要する割には益のない表現ばかりを使うなら、その人は次第に誰からも相手にされなくなるであろう。そのようなことは誰も望まない。したがってどのような人も、表現は、最適関連性の仮定に適うように、その人なりに最善を尽くしたものであるはずである。つまり意図的なコミュニケーションの表現というのは、最適関連性の仮定を担っている。これが関連性の原理(principle of relevance)である。
 まとめるとこうなる。私たちはコミュニケーションを行うときに、相手が自分にとって適度な労力(推論)で適度な効果(話者の意味)が得られるような表現を用いているはずだということを信頼している。また自らが発話するときも相手のそのような信頼を裏切らないような表現を選ぶ。この相互信頼がコミュニケーションの基盤である。つまり(3)のYとZには、それらが最適関連性の仮定に適っているという制限がかかっている。だから数学的には不可能のようにも思える(3)の方程式が解けるわけである。
 ひるがえって、高校生が直面する英語の解釈である。高校生はしばしば(3)よりも悪い条件下にある。高校生には、文字通りの意味すら確かでない。そうなると解釈とは(4)のように、どうしようもない方程式になる。

(4) X + Y ⇒ Z

これはまさに絶望的である。だが、これがよくわからない英語を前に、「作者はここでどんなことが言いたかったのだろう」と問われた高校生が解くことを求められている方程式である。
 ここからの脱出の一つの方法は、(4)を(3)に、(3)を(2)にして、(1)へと導くことである。常識的であるかもしれないが、この順序で、途中のステップを飛ばすことなく方程式の変数を減らすことである。まず(4)のXという変数は、解説によって既知のものとし、方程式を(3)の状態にもってゆく(方策A)。(3)になれば、本来なら高校生自身に考えさせるべきだろうが、ここでは高校生が困難を覚えていることとして、想定を教師が与えて方程式を(2)にすることとする(方策B)。後は(1)の話者の意味を生徒に言わせるだけである(方策C)。
 方策のAからCは、すべて日本語で行うなら、教師の日本語説明・解説中心で、現代国語に似た授業となるだろう。授業での英語使用を少しでも増やそうとするなら、まずは方策Bを英語で行い、次に可能ならば方策Cを英語で行わせたい。いわゆる「和訳先渡し授業」で前文和訳(直訳)を与えておき、後を英語で進めるのが、この一例である。もちろん可能ならば方策Aも英語で行い、解釈の授業もAll Englishで行うことができる。
 「難しい英語の解釈は日本語で」というのが多くの英語教師の思い込みかもしれないが、上の分析にしたがって、順序良く行えば解釈の授業でも多く英語を用いることができるだろう。All Englishの解釈の授業ももちろん夢ではない。それは世界中のESL授業、および第一言語としての英語教育で行われている現実である。大切なのは一気に問題解決を図ろうとするのではなく、分析的に順序正しく授業を進めてゆくことではあるまいか。

田尻実践に見る英語教育内容マネジメントに関する一考察 (2005/3/6)
柳瀬陽介
 
0 要約
 本稿は、2004年12月4日(岐阜大学教育学部付属中学校)と翌5日(多治見市立平和中学校)の連続で行なわれた田尻悟郎氏(島根県安来市立比田中学校)の、合計7時間にわたるワークショップを、「英語教育内容マネジメント」という観点からまとめるものである。田尻(と、敬称略で表記する)は、2001年度のパーマー賞(財団法人語学教育研究所)を受賞し、2003年からNHK教育テレビの番組「わくわく授業」でもたびたび取り上げられ、2004年11月3日には文化の日の特別番組「わくわく授業スペシャル」で一時間にわたりその実践が報告されるなど、極めて優れた実践をしている公立中学教師である。このような実践を分析することは英語教育研究にとって極めて重要なことである。
 ここでいう英語教育内容マネジメントとは、英語教育の内容(教材および活動)の決定をどう考え実行するかという教師の判断を指している。田尻実践においては、この英語教育内容マネジメントが、通念的なものとは異なっており、このことが優れた実践を生み出す原因の一つとなっていると思われる。その特徴は、(1)教科書進行型ではなく到達目標型であること、(2)積み上げ型でなくスパイラル型であること、(3)時系列計画型でなく生徒実態対応型である、(4) 単独リソース型ではなく複数リソース型である、とまとめることができる。本稿ではこれらの特徴一つ一つを検討してゆく。
1 教科書進行型ではなく到達目標型である
 教師が集まるとよく「(教科書)どこまで行った?」という話題になるが、しかし本来は例えば「want toはできるようになった?」などという問題意識になるはずだと田尻は言う。こうして田尻は英語教育内容マネジメントを教科書の進行を基盤にして考えるやり方を止め、何をできるようにしたいかという到達目標型にしている。田尻は、生徒にできるようになってほしいことを既成のリストから抜き出すのではなく、自ら授業実践を振り返ることによって、ルーズリーフ30枚程度使って書き出し、到達目標を自らの手で整理した。そうして整理して、実践を積み重ねてわかったのは、各学年では次のものが特に重要ということである。一年:語順、フォニックス、代名詞。二年:時制、不定詞、接続詞、比較、助動詞、複文。三年:受動態、現在完了、後置修飾。こうして田尻は、中学三年間では、二年生がヤマであること、特に助動詞などは、感覚的にわかっていなければならないので、きめ細かな指導が必要であることなどを再認識し、指導の優先事項を明確にしている。
 ここでは田尻が、自ら到達目標を書き出したことに注目したい。既成概念に囚われず、生徒の学習という視点から到達目標項目を自ら列挙し比較検討することは、時間のかかることであるが、それによって英語教育内容の明確な把握が可能になる。教科書を終わらせるかどうかという問題意識とは比較にならないほどの責任感が教師に生じる。この具体的な責任感が田尻実践を支える基盤となっていると考えられる。
2 積み上げ型ではなくスパイラル型である
 田尻によれば、多くの英語教師は学習項目を「紹介」はしているが、それだけで生徒にその英語表現を使わせずに、テストをするから、英語は生徒にとって苦痛になっている。英語は楽しいということを体感させなければならないと強調する。楽しいと思いながら英語使用をするということは、その英語使用の多くの部分は生徒にとっての認知的負担が小さくなるまでに身についているということである。この体得に関して、田尻は、例えば、do/doesを本当に習得するには三年間かかると述べるなど、体得は短期間にできるものではなく、長期間におよび何度も異なる状況・条件下で使われることにより可能になると認識している。つまり英語の体得は、短期間に完成されるブロックを積み上げるような形で行われるのではなく、長期間のうちにスパイラルのように発展的に何度も使われる形で行われるとみなしているわけだ。
 したがって、学習活動も、専らそれが目的とする指導項目だけから構成されるものである必要はない。むしろ、当該の指導項目がこれまでの数々の指導項目の中に埋め込まれる形になった自然で楽しい活動の方が好ましい。さらに活動は授業実践の反省を受けてどんどん進化する。授業には、うまく行った活動、いまひとつだった活動、駄目だった活動の三種類があるが、大切なのはいまひとつだった活動であり、もしそれが力がつく活動だと思われたら、それを改善することが大切と田尻は言う。
 例えばwant to beに関する活動である。田尻は最初、「なりたい職業の英語を和英辞典で調べてきなさい」という指示を与えそれを発表させる活動を実践する。だが生徒は、和英辞書に載っていない表現(職業)を選んだり、自らの夢は恥ずかしくて言いたくないと活動に消極的であったりした。そこで田尻は活動の改善に取り組み、教師が30ほど、予め職業を選んでおき、生徒にはそれらからなりたい職業を選ばせ、その理由を言わせることにした。これによって英語使用の焦点はwant to beからbecauseに移ったが、しかし生徒にwant to beを何度も使用し同時にbecauseなどの既習事項の定着もはかられたという。
 具体的に活動を述べると、生徒のペアがAとBの役を行なう。Bは例えば1番から5番までの中から職業を選び、対話を練習しておく。次の下線部分が、生徒が選んだり作ったりする部分である。

A: What do you want to be when you grow up?

B: I want to be a pilot.

A: Why do you want to be a pilot?

B: Because I like flying in the sky.

田尻は"Today, you have to choose from Number 1 to Number 5. You can choose any number."という指示を与える。生徒のペアは、英語の対話を考え、それを練習したら、田尻のところへ行って、その会話を披露する(ちなみにここでanyの語感も教えることができると田尻は言う)。田尻は、生徒が来たら"Which question do you want to try?"と尋ねる。生徒が"Number 2"などと言ったら、"A longer answer, please."と言って、"We want to try number 2"といわせてwant toの使用を促進する。もしその表現が定着できたようだったら田尻は質問を、"Which question are you going to try?"や"Which question would you like to try?"などとして、それらを完全文で答えさせることにより、さまざまな構文の定着がはかる。また、黒板には1から5の数を複数書いておき、ペアは上手に会話を披露できたら、その数を消す。生徒は田尻の前に行列を作っている間に対話を練習するのであるが、数の消され具合によっては、違う会話を考えなければならないなどと、この活動は単なる英文暗記の発表とは全く異なるものになっている。さらに、進行によっては、「もうlikeは使っては駄目」などと田尻は指示を出し、be interested inや be fond ofなどの表現を使わせる(もしくは再学習させる)機会を作り出す。またプリントを配るときにも"How many people are there in this group?"と問いかけ、"There are 6."と答えさせ、時にわざと多く配ったり、少なく配ったりする。生徒が「余りました」「足りません」などと言うと、にっこり笑って"In English, please."と言って、英語表現への意欲と機会を刺激する。
 こうして田尻は、その時々の指導項目に限らずに英語活動を考案し改善し、さらに活動中にも指示を出すことによって、生徒が英語をスパイラル的に習得することを促進している。逆に言うなら、このような田尻の働きかけがないなら、各々の指導項目は三年間で、良くて数回散発的に、悪ければ一回しか出てこず、スパイラル的な学習は不可能になる。スパイラル型の英語使用は教師の意図的な努力によって初めて可能になるのである。
 英語活動をその時々の指導項目に限らないことの副産物は、活動を自然で面白いものにしやすいことである。話が盛り上がり発展する話題を考えるのが教材研究である、と田尻は言う。例えば比較級のWhich is more important, A or B?では、Love or money/ health or wealth/ studying or playing/ money or a dreamなどが盛り上がると田尻は言う。Money or a dreamを使うと、ifやwant to beなどの表現を生徒は自発的に使いやすくなる。ここで「前に習っただろう」などと言わなくても、生徒は教師がヒントを出すと「そうだ、前にやったっけ」と思い出してくれるので、「どうして覚えていないんだ」という叱責・非難は必要ない、と田尻は言う。
 もちろん様々な英語活動を行なうためには数多くの語彙が必要である。この点においても田尻は三年計画で生徒に語彙習得をさせている。一年生の最初の段階では、絵付きの単語リストを与えて、リズムにのせて単語のリピートをさせる。「リズム感があるかな」とたきつけたり、テンポを速くしたり、ランダムに単語を選ぶと、自然と声は大きくなると田尻は言う。こうして単語のある程度の定着が図られると、一年生の段階では、ペアの一人が黒板の単語を見て、それ以外の単語を言って、もう一人に当てさせる活動を行なう(このヒントは単語のみで文ではない)。時間は30秒で、音楽をかけておき、隣の声が聞こえにくくしておくのが工夫である。こうして一年の時に単語に親しませておくと、二年三年の学習・活動がやりやすくなる。二年生の時にこの単語当てゲームを繰り返させるときは、You use this when….のパターン(複文)で、三年生の時はIt's something (that) you use when .....のパターン(関係代名詞)でやらせる。
 このように、面白く、やり方がわかり、力がつく活動を与えると、生徒は家庭学習でも自発的にそれをやるようになると田尻は報告する。田尻の生徒の中にはこのIt's somethingのヒントを全単語に用意してきた者もいるという。また、この生徒が作るヒントの英文が宝の山で、教師が思わず膝をたたくような表現が出てくると田尻は言う。それをすかさず黒板に書くと、みんな一生懸命にそれを学び覚えようとするそうである。
 こういった活動の三年間の積み重ねが最終的な力につながる。到達目標と活動は有機的につながっている。スパイラル型の学習は、全ての到達目標の把握を前提とし、英語使用のための様々な工夫を通じて初めて可能になるものであり、そのように潤沢な英語使用の機会を与えてこそ生徒も英語を習得するといえよう。
3 時系列計画型ではなく生徒実態対応型である
 月ごとの計画は無意味だと田尻は考えている。形ばかりの年間スケジュールを作っても、生徒は予想通りには動かないから----二十数年間教師をやっていても、生徒は田尻の予想を超えて伸びたり、もたついたりするという----、田尻はそのような形式的な計画表作りに時間を費やすのではなく、学期ごとの到達目標とテストをしっかり作る。つまり、学期ごとの到達目標を明確にし、それとそれを確かめるテストを最初に作り、それらを比較し検討する。そして毎日の授業では、その目標にどれだけ近づけているか、ということを常に明確に意識する。
 こうして田尻は、自らのカリキュラムを教科書進行型ではなく到達目標型にして、その目標を達成するために、学習をスパイラル型にしているわけであるが、田尻はさらにカリキュラムを柔軟に考え、当初の計画には必ずしもこだわらず、時に生徒の実態に思いきって対応する。
 田尻のあるエピソードであるが、NHKテレビの「わくわく授業」の収録当日、生徒は急に「フルーツバスケットがしたい」などと言ってきた。生徒は所詮中学生であり、時に教師に甘えてくる。聞くと前の時間の先生が「君たちのクラスは元気がないから」といってフルーツバスケットをやってくれたら盛り上がったそうである。田尻は生徒の突然のリクエストにどうしようかと迷う。しかし次の瞬間、田尻はフルーツバスケットならsomeone whoの項目を使えると判断し、"Someone who lives in Higashi-hida"などと指示を出すことによってフルーツバスケットを5分間やらせた。そうして生徒の心理的欲求を満たして学習への準備を整えた後で、田尻が"A really great teacher is someone who…."という英文を生徒に完成させるように促すと、熱心に文を考え、"A really great teacher is someone who gives advice, but doesn't deny students' answers."などといった英文を書いたという。
 ここで目に付くのは、田尻が生徒と人間的交流をしていることであるが、同時に注目したいのは、田尻の中に異なる時間軸感覚が同居していることである。----今この瞬間に何をするべきか。この授業時間に何をするべきか。この学期に何をするべきか。この年に何をするべきか。この三年間に何をするべきか----そういった異なる時間軸感覚が常に田尻の頭の中にあるようである。多くの教師は、今この瞬間のことを考えているときは、そのことしか考えられない。せいぜいこの授業時間では何をするべきだから、この瞬間はこうしてもよいと、二種類の短いスパンの時間軸感覚を持つだけであろう。この学期には何々をするべきだから、今はこうしてもいいとか、一年間あるいは三年間のゴールを考えると、ここではぜひともこうしておきたいとかはなかなか考えない。上のエピソードに述べた田尻の判断は、田尻が複数の時間軸感覚を、判断の瞬間に保っていたことによりなされたものであり、そしてその判断が正しかったからこそ生徒は深い英文を書くようになったと考えられる。こうしてカリキュラムを到達目標型にして教育内容を徹底的に把握し、スパイラル型の英語使用を可能にする数々の工夫をものにした上で、複数の時間軸感覚を常に持っておくことによって初めて教師は、生徒の実態に対応しながら教育を成功させることができる(1)とはいえないだろうか。
4 単独リソース型ではなく複数リソース型である
 積み上げ型とスパイラル型の議論からもわかるように、短期間にあるひとつのリソース(教科書)だけで学習すれば、英語学習は一つずつ完成してゆくという考えを田尻は持たない。田尻は長期間にわたって、様々な英語使用の機会と、様々な英語学習リソースによって英語学習を促進する。つまり英語学習のリソースは教科書だけではなく、上にも述べた職業リストや単語リストなどの絵と単語と活動の指示が結びついたリソース(2)や、田尻が独自に編纂した英語の語順表(3パターンで12文型)や語法集(17カテゴリーで300以上の項目)のリソース(3)、および自己表現の際に必要になってくる和英辞典が重要なリソースになっている。加えて田尻は各種課題で、早く完成させた生徒を「アドバイザー」に任命して他の生徒のヘルプをさせ、「先生を増やす」ことをしている。生徒にとっては友人(ファーストラーナー)もがリソースになっているわけである(4)
5 まとめ
 このように田尻の英語教育内容マネジメントは、(1)到達目標型を明確に把握した上で、(2)スパイラル型に英語の学習と活動を進めてゆくものである。また、到達目標は学期・学年ごとのものであり、田尻は(3)生徒実態に応じて時に柔軟にカリキュラムを変更する。さらに(4)複数のリソースを何度も使うことにより英語学習を促進させている。経験のない新米教師は、この田尻とは対極の、教科書の進行状況だけに汲々とし、学習項目は一度やったらそれきりにしてしまい、生徒の実態ではなく年間スケジュールに従って、教科書だけしか使わないやり方しかできないかもしれない。だがそのような新米教師も田尻実践のような優れた実践を分析することにより、教師としての成長の途を見出すことができるだろう。
(1)この場合の教育の成功とは、教科教育だけを意味するのではなく、人間教育も意味する。田尻は、生徒の心が弱りきり、痛めつけられ、意気消沈していたある時に、『ブルーデイブック』(ブラッドリー・トレバー・グリーヴ著、竹書房)の中の、二頭のホッキョクグマが抱き合う写真を示して、英語で「この虚ろな目をした、抱きしめられているホッキョクグマは何を言いたいのだろう。抱きしめているホッキョクグマは何を考えているのだろう」と問いかけ、Eric Claptonの River of Tears(アルバムPilgrimに所収)という曲をリピートでかけ続け、このクマたちの心の中を考えてごらんと訴えかけた。そしてこのクマたちの思いを英語で書いてごらんとさしむけると、少し前まで英語どころではなかった生徒も懸命に書き始め、授業が終わっても席を立とうとしなかった。次の時間には多くの生徒が思いを英語にしてきたという。田尻の対応は、生徒の心を自然と英語使用に向けたといえる。
 だがある生徒は清書を完成させなかった。その生徒はなんと卒業後の連休明けに田尻を訪ねた。「先生、清書できました」と言う。どうして学校にいるときに書かなかったんだ、と田尻が問いかけると、「最初は、虚ろな目をしたクマが自分のようで、いやだった。清書するのも気持ちが乗らなかった。」と言う。その生徒は在学中、問題行動で荒れていた生徒であった。田尻の対応は、狭い意味での教科教育の枠を超え、人間教育として生徒の心の深いところに届き、生徒が自らを見つめる静かな態度を取り戻すことさえも可能にしたといえる。この教科教育と人間教育の融合は見事というしかない。
(2)こういった内容を田尻はTalk and Talkという本にまとめている(教材扱い。販売は正進社〒112-0014東京都文京区関口1-17-8(電話03-5229-7651))。
(3)これらの内容を田尻は『中学校英語自己表現お助けブック』という本にまとめている(教材扱い。販売は教育出版〒101-0051東京都千代田区神田神保町2-10(電話03-3238-6854))。
(4)「アドバイザー」を任命する時、あまりほめすぎると、他の子がやる気を失うから、この任命はこっそりやるなどと田尻は生徒の心理に配慮している。そうしてファーストラーナーが中級レベルの生徒を教えている間、田尻はスローラーナーのところに行く。しかしいきなりは教えない。いきなり教えると他人に期待する癖がつくからである。自分で考えさせた後、生徒の視線に合わせて(文字通りに、しゃがんで同じ目線で)教える。教師が立って、生徒が座ったままだったら、服従関係のまま、わからないことに対しても「はい」と条件反射的に答えてしまう、と田尻は言う。
謝辞
大変忙しい中、本稿の草稿に目を通して、そこにあった若干の錯誤を正して、コメントをくださった田尻悟郎氏に心から感謝する。
「中等教育における教科内容指導研究」
(平成16年度 教育学研究科リサーチオオフィス経費 研究報告書)(2005年3月)

大学院は現場教師に対して何ができるのか(2006/2/28)
「教育」のページの(大学院での勉強を考えている人のためのQ&A)では、教育実習以外の現場経験を全く持たない学部生を対象として大学院に関する文章を書きました。学部生は、実践経験がなく、誇れるものは勉学しかないわけですから、どうしても勉学中心・研究志向の文章となりました。しかし、書いた後で、「正直、現場未経験者と現場経験者が、大学院で学ぶことには、異なるところもあるのだけれど・・・・」という思いが強くなりました。そこで、ここでは、大学院が現場教師の方々にどのような学びを提供できるのかについて簡単にまとめておこうと思います。文章の構成は、(1)これまで(多くの)大学院は現場教師にどのようなことをしてきたのか、(2)現場教師とはどのような存在なのか、(3)現在(いくつかの)大学院が現場教師とどのようなことを目指しているのか、というもので、(1)の現状分析と(2)の反省を経て、現在、私も含めた英語教育研究者が試みている(3)を紹介します。

(1)これまで(多くの)大学院は現場教師にどのようなことをしてきたのか
端的に言い切ってしまうなら(乞、御批判)、これまでの多くの大学院が、大学院に入学してきた現場英語教師にしてきたことは、現場とはかなり異なる学界の思考法・語り方を押し付けてきたことだ、とまとめられるかもしれません。極端な話、大学院に入ってきた現場教師に向かって、一部の大学教師は「そんなテーマは研究になりません。現場のことは忘れてください」とすら言ってきました。もちろんこの言葉にも一面の真理はあり、現場教師の方には、あまりにも漠然としたテーマを研究テーマとして掲げられる方もいるわけで、そういった方には、「そんなテーマは研究になりません」とはっきりと告げる必要はあります。しかし「現場のことは忘れてください」ということは、現場での思考法・語り方・実践を忘れ、「研究」(より正確に言えば「実証主義」(positivisim)に基づく研究」)という、新しい思考法・語り方('a different ball game!')だけを現場教師に教えることです。これは実は現場教師にとっては大変なことで、たしかに「現場のことは忘れてください」という言葉があたっているようにすら思えてきます。かくして次第に「現場の実践と大学の研究は異なるものだ」という観念が固定化されてゆきます。
こういった状況を揶揄して、一部の人は、大学院に入学することを「入院する」と表現しました。もちろん大学院修了は「退院」です。大学院を出て、もはや論文を書かなくて済むようになり、大学院的思考法・語り方から自由になることで、ようやく現場教師は「健康」を取り戻すというわけです。こういった場合、現場教師の方々は、しばしば大学院生活に関して、「あの頃はよく勉強した」と思い出にひたることはあっても、大学院での研究が「退院」してからの現場の実践と連動することはあまりありませんでした。
しかし、もちろん「実証主義」を完全な悪者にすることがこの文章の趣旨ではありません。実証主義の精神である、思い込みだけで判断せず、できるだけデータの裏づけを取ろうということは、万人に認められるべき態度かと思います。しかしこの考えが行き過ぎて、「データが取れない事柄は研究にならない。したがって私たち研究者は、そのような事柄については考えない」となり、研究者が実践者にそのような態度を押し付けてしまうと、それは問題でしょう。さらに「実証主義的な語り方だけが正当であり、それ以外は認められない。すべての研究は自然科学のように実証主義的にならなければならない」となってしまえば、それはもはやイデオロギーであり、それは「科学主義」(Scientism)と呼ばれて批判されています。私たちは実証主義の良さは受け継いでも、それを科学主義に変容させてはいけません。
「教育」のページの「質的研究の普及のために」でも述べられていますように、研究は実証主義に基づくものだけに限られませんせん。ハーバマス(Habermas)のまとめによるなら、研究には、他にも「解釈学」(hermeneutics)に基づくもの、「批判理論」(critical theory)に基づくものもあるわけです。大学院も実証主義の上にあぐらをかくことなく、現場教師の実践の知を活かす研究(法)を開発してゆかなければなりません。しかし実践の知とはそもそもどのような知なのでしょう。「現場教師」とはどんな存在なのでしょう。

(2)現場教師とはどのような存在なのか
ここではまず、感覚(感性)と概念(知性)とを、対立しながらも、協働すべきものとして捉えます。人間は感覚に与えられるものを直観するが、それは概念によって言語化されないと、私たちの言葉には上がってこないと仮にしておきます(このあたりは本当はカント哲学などからきちんと勉強して論議すべきでしょうが、とりあえず今はこういう前提でお話します)。言語に表された概念は、言語を論理的に組み合わせることによって、次々と新しい概念に発展してゆきますが、言語の元々は、感覚による直感的把握(もう少し詳しく語るなら、感覚プラス生得的な概念。このあたりは本当はカント哲学などから・・・以下、同文)であるとここではしておきます。
さて、理屈が先行しましたが、現場教師とはどのような存在なのでしょう。これを考えるためには、現場教師が相手にしている存在、すなわち子どもとは何かを簡単に考えることにしましょう。
子どもとは、ここも乱暴にまとめてしまうと、感覚に優れるものの、概念が未発達な存在です(このあたりは本当は発達心理学など・・・以下、同文)。音楽・美術・体育などの実技科目の教師は、子どもの感覚を身体技能に結びつけようとするのかもしれませんが、いわゆる「主要科目」の教師は、概念によって表現される世界を子どもに教えることを主な仕事としています(実は、英語教師には、概念教授だけでなく身体技能育成という課題もあるのですが、それはさておきます)。子どもに概念を教えるわけですが、上に述べましたように子どもは主として感覚的な存在です。この概念教授は簡単なことではありません。特に低学年の子どもは、まさに「身体的存在」で、じっとしていることすら困難です。
こういった子どもに対峙するためには、教師もいきおい感覚に優れていなければなりません。子どものちょっとしたしぐさを捉える力、子どもの目の色・顔つきの変化を察知する力などは、授業運営のためには必要な力です。教師自身も表情を自在に豊かに変化させる力がないと教師の語りは子どもに届かないしょう。実際、私も優れた現場教師に会うたびに、こういった感覚的能力・感性の豊かさを感じます。逆に授業が下手な先生とは、子どもをほとんど見ず、単調に教科書を読み上げるだけ----感性を働かせず、知性だけを行使しようとする存在、と言えるかもしれません。
それでは、このように授業運営に優れた現場教師は、大学院でどのようなことを学べば、自分自身の実践を深めることができるのでしょうか。あるいはまだまだ授業運営に進歩の余地を残す現場教師は大学院で何を学べば、自分自身の実践を改善させることができるのでしょうか。

(3)現在(いくつかの)大学院が現場教師とどのようなことを目指しているのか
大学院で、現場教師が自分自身の実践を深め・改善するために学ぶことに関する私の意見は、現場教師自らが感覚的に把握していることを言語化し、それを論理的に語ることだというものです。そう、つまりは「反省的実践家」(reflective practitioner)となることです。
「反省的実践家」とは言うまでもなく、ドナルド・ショーン、Donald Schön(しばしばSchonと表記されるがウムラート付きが正確な綴り)が、Reflective Practionerという本(翻訳書あり)で展開した概念ですが、英語教育界ではまだまだしっかりと理解されていないし普及もしていない概念だと思います。この概念に関しましてはいつか私もある程度きちんとまとめたいと思いますが、ここでは簡単に、ショーンは、この稿でも先ほど述べた実証主義的な考えを「技術的合理性」‘technical-rationality’と命名し、この「技術的合理性」が、あまりにも実践に関する考え方に侵蝕していることを批判した、と述べておきます。ショーンによれば実践者は、実践の中で自らの実践を振り返り(reflection-in-action)ます。そして多くのことを気づくのです。この気づきが、実践者の実践を深め・改善してゆきます。そして、この気づきは、しばしば言語になって現れます。逆に言えば、自らの実践を、その活き活きとした実践的感覚を失わないままに、言語化しようとする中で、気づきも生まれてくることがあります。
実は私は2005年度に、ある実践者(中学英語教師)と、1.5-2時間のセッションを10回以上にわたって持つ機会を得ました。この時に私は、その現場教師に授業の仕方を教えようなどとは全く考えませんでした(第一、その現場教師は、私が力量的も人格的にも尊敬する人で、とてもそんな気にはなれません)。私は最初の一、二回のセッションで、その先生が日頃考えている問題意識を、できるだけ他でも通用するような言葉で表現しようとして、その先生と共に問題意識を言語化し、その言語(用語)の相互関係を、ホワイトボードを使って図示化したりしておりました。そうして、その先生が本当にやりたかったことを言語化し、それを基に年間授業計画を立てました。
この時に気をつけたのは、「文部科学省がこのように言っているから」、「学界ではこう言われているから」といった外在的な言語化・授業計画立案はせず、ひたすらその先生の実践的な意識から言語化を試みたことです。結果的には、その言語化・授業計画立案は文部科学省や学界で言われていることとはそれほど異なるものとはなりませんでした。ですが、最初から文部科学省や学界の言語を鵜呑みすれば、その先生は「文部科学省の真意」や「学界の定説」ばかりを追い求めてしまい、自分自身の実践感覚を忘れてしまったのではないかと思います。
そうして授業を進めてゆきますと、当然、うまくいくところ、いかないところがでてきます。月に一度程度の私の仕事は、その先生と一緒に考えることでした。一緒に考えるといっても、私は実践を見ていないのですから、この「一緒に考える」とは、結局、その現場教師が、私を協働的で解明的な聞き手として、できるだけ自らの実践を言語で明らかにしていくことでした(現場教師は毎回レジメを作ってきてそれなりの言語化の準備をしていました)。その中で、その現場教師も、「あっ、そうか」と気づくことが多々ありましたし、私も「つまりは○○ということですか」と言語化の手助けをすることもありました。こうして協働的に実践を振り返ること、そしてその振り返りに基づいて実践を修正してゆくこと、さらにその実践の結果を振り返ることのサイクルが約一年間続きました。結果は報告書にまとめられました。
この方法は、上の「実証主義的」、「解釈学的」、「批判理論的」方法という区分でいいますと、「解釈学的」な方法といえるかと思います。この方法は、通常はなかなか言語化されない実践を、その実践が織り込まれているコンテクストとの関係、実践者の主観的な認識との関係などの中で、できるだけ言語化する試みとまとめられるからです。
その際、聞き手が、正確な語彙を多く持っていることは重要だと思います。はたして私がそうだったかということはとりあえずおくとしても、実践者が自らを言語化する際に、聞き手が「つまりは○○ということですか、それとも△△・・・・」などと、言語を押し付けることなく、共に「ぴったりくる」言語を探すとするなら、その聞き手の語彙が豊かである方が有利ということはわかっていただけるでしょう。うまくいけばその○○という語彙が、その語彙体系から関連する語彙をさらにもたらし、実践者と聞き手は、実践者の暗黙知をより明確に・広範囲に言語化することができます。さらにはそうして言語化された言説は、書きとめることにより、精査の対象となり、私たちはより精密にreflection(振り返り、反省、省察)を行うことができます。
この、ある語彙を媒介にして、実践の解明を試みるという方法は、アメリカの哲学者チャールズ・サンダーズ・パース(Charles Peirce)が言ったような意味での「アブダクション」(abduction or abductive reasoning、「仮説的推論」と訳されることもある)と表現することも可能かと思います。つまり、この実践の説明理論としてはこういう考えが成り立つのではないか、という仮説を生成するわけです。この説明理論は、あくまでも仮説的な試みですから、その語彙で実践を語ることがうまくいきそうでしたら、その線に沿って考えを展開させてゆきますが、どうもしっくりこなかったら、その語彙はあっさり捨てて、他の語彙(ひいては理論)を探します。
このあたりが「演繹」(deduction)とは異なります。「演繹」とは、既知の理論から論理的に派生することを明らかにすることをさします。教育研究でしたら、ある理論を使うことを不問の条件として、専らその理論から言えることだけを見てゆこうとする態度になるかと思います。ここではある特定の理論が不動点なのです。実践という現象は、その理論のお眼鏡に適う限りにおいて説明・記述されるだけです。その理論を説明・記述に使わないということは考えません。その理論で見えないことは語りません。逆にいえば、その理論で解明できる現象だけを取り上げます。
ちなみに、「演繹」としばしば対比される「帰納」(induction)でしたら、次々に現象を数多く観察して、それらの観察での共通項を探ります。これはこれで素晴らしい方法ですが、あえて欠点を言うなら、数多くの事例を観察する際に、それらの事例が異なるコンテクストでのものでしたら、その帰納から発見されたものは、コンテクスト要因を捨象した知見であるということです。もちろんそれはそれで貴重な発見ですが、ここでは、質的な要因を大切にし、解釈学的に、部分と全体、行為者とその認識などの関係を大切に考えていこうという方針の下に議論をしていますから、少々問題をはらんでいることになります。とはいえ、もし観察事例が同じコンテクスト・行為者のものでしたら、そこから帰納的に発見される知見は、かけがえのないものになります。
しかし、そういった帰納的発見も、時に、とても通俗的で発展性のない知見に過ぎないことが多々あります。例えば「生徒の機嫌がいい時にはどうも授業がうまく行くらしい」ということがわかったとしても、そのように表現された知見からは、なかなか深い知恵や洞察を引き出すことができません。私の理解では、帰納という方法は、観察に重きを置くため、どうしても、その知見の記述言語が、平板なものになりがちかと思います。
この点、「アブダクション」は、もしぶつける仮説的説明理論が、人文・社会系の学問のもので奥行きを持ったものであり、かつそれがうまく実践を説明できそうなら、その現象解明は豊かで正確なものになる可能性が高くなります(もちろんこれには「この仮説的説明理論よりよい仮説的説明理論が見つからない限り」という条件がついています)。私はこれまでアレント哲学を使ったりデイヴィドソン哲学を使ったり、あるいは昔はハイデガー哲学を使ったり、ウィトゲンシュタイン哲学を使ったりして、様々な英語教育の現象を説明しようとしてきたつもりですが、その成功・不成功はさておくにせよ、こういった試み自体は、このように一種のアブダクションとして、まとめられるのではないかと、私は今回、ハーバマス哲学のある読解(ユルゲン・ハーバマス(1968/2000)『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社ライブラリー))をきっかけにしたりして、振り返り・気づいているように思います(つまりこの小文自体もアブダクションの成果かもしれないというわけです)。
こうして「解釈学的方法」(あるいは「アブダクション」)を使いながらも、その説明理論自体にイデオロギーの混入がないかを警戒し(批判理論)、また、実証化(さらには数値化)できるところは実証化(数値化)して具体的な証拠を補強すること(実証主義)を手伝うことが、大学院が現場教師に対してできることかと思います。こうしてみますと英語教育の大学院が現場教師に対してできることとは、これまでに人類が築いてきた学問的遺産をできるだけ豊かに適切に使いこなすことによって、現場教師がもつ実践の知恵を明らかにし、他人にも共有できる形にすること、とまとめられるかもしれません。
大学院に「入院」ではなく、入学する現場教師の立場からすれば、大学院とは、大学研究者からの様々な理論的援助を選択的に受け入れながら、自らの実践を振り返り、何かを気づき、その気づきを、これまた大学研究者からの具体的な論文執筆上の援助を受けながら、自他共に明晰なものとし、自他共の授業運営能力を高めるところ、とまとめられるかもしれません。少なくとも、これが私がこれまでの大学院教育経験からつかみ、今後、より明確な方針としようとしていることです。
できるだけ簡単に大学院が現場教師に対してできることをまとめようとしましたが、やはり理屈っぽくなってしまいました。ですが、私のような研究者がやろうとしていることの理解の一助になればと望み、ここに掲載する次第です。

追記:上の説明はどうしても回りくどくなってしまったのかもしれません。でも少しでも御興味を抱かれた方は、質的研究の普及のためにもご覧くださればありがたいです。
追追記:私が非常に信頼している(というよりその実践と研究に対して敬服している)現場教師の研究者の方からGeorge Braine(ed) Non-Native Educators in English Language Teaching Lawrence Erlbaum Assoc Incの推薦がありましたので、ここに紹介しておきます。「日本人の立場で、日本の環境で英語教育を語るのであれば必読と思います」とは、その方の推薦理由です。


ある若手教師の語りに学ぶ英語教育内容学の一課題 (2006/3/7)

英語文化教育学講座 柳瀬陽介

0 はじめに
 この報告では、2005年10月1日(土)に、広島県内某所に行われた某研究会(後述)で口頭発表をした若手教師X氏(後述)の語り、および報告者(柳瀬を指す。以下同じ)を含む参加者との対話の要旨を報告し、その報告に基づいて、中等教育の研究を高等教育の場(大学)で行う研究者(以下、「大学研究者」)が中等教育で実際に教鞭を執る教師(以下、「現場教師」)から学べること、現場教師と共に行えることに関しての提言を行うものである。
 以下の構成は、(1)「大学研究者と現場教師による研究会のありかたについて」で、通常行われている大学研究者と現場教師の関係についてメタ的に考察し、(2)「大学研究者は現場教師の語りにどのようなスタンスで臨むのか」で、今回報告者がどのようなスタンスでX氏の報告を聞き、またそれについて語り合ったのかを述べる。(3)「X氏の生徒指導観の確立にむけての試み(第一サイクル)」では、X氏が着任当初にぶつかった生徒指導の壁から何を学んだかを報告し、(4)「X氏の英語教育観の確立にむけての試み(第二サイクル)」では、X氏が英語教育においてぶつかった壁について報告する。最後に(5)「英語教育内容の具体的・部分的把握と抽象的・全体的把握」において、英語教育内容学研究に関する提言を行う。なおこの原稿を報告書の形で公開することに関してはX氏の校閲と許可を得ている。X氏にはこの場を借りて感謝したい。

1 大学研究者と現場教師による研究会のあり方について
 大学研究者は、現場教師と様々な形態で交流を持つが、その一形態が「研究会」であろう。「研究会」とはここでの便宜的な総称であり、実際には「授業研究会」、「研修会」、「講習会」、「講演会」等などの名称で呼ばれ、それぞれに微妙に目的・機能を異にしているだろうが、共通しているように思えるのは、大学研究者が現場教師よりも深く的確な知識を持っていることを、あたかも当然の前提のようにして語りが進められることである。現場教師が授業を行った後の語りにおいても、大学研究者の語りはしばしば「講評」、「指導助言」と表現され、研究会の最後になされる。言うまでもなく最後の発言としてなされることを保証された語りとは、その後に(少なくとも公的には)疑義を加えられること・批判されることを免責された特権的な語りとなる。逆に最後に発言を認められているということは、それ以前の討論の際に(少なくとも形式上は)語り合いに加わることを抑制されているわけで、このような語りの構造は、ひょっとしたら大学研究者を、いかなる研究にも必要とされる対等な立場での語り合いから構造的に除外しているのかもしれない。そういった慣習が現場教師による、大学研究者の発言の見当違いさ(irrelevance)に関する諦めを慢性化させ、大学研究者も、必要な疑義・批判を受けないことにより、中等教育の研究者としての成長の機会を奪われているのかもしれない。
 「講演」形式による「研究会」も、その設定されたテーマが、現場教師にとって的確なものであり、講演者である大学研究者がそのテーマを専門とするものであれば、それはまさに相互交流の理想的な場として働くが、現実の小・中規模の研究会では、そういったテーマの的確性・一致は必ずしも実現されておらず、しばしば「講演」は、大学研究者が、厳密な意味では研究していないテーマについて、現場教師について、これも特権的な語りを行う機会となってしまう。つまりこういった「講演会」で求められているのは、実はそのテーマに最適な語り手ではなく、大学研究者という肩書きである。これは望ましい事態ではないと考えられる。
 こういった現状からするなら、大学研究者と現場教師はもっと「共に考える」ことを行うようにしなければならない。その共に考えるための語り合いにおいて、大学研究者は、より的確な言葉づかい(適切な専門用語と正しい推論)を示すことが求められるだろうし、現場教師は、深い状況知(通説ではあまり語られていない、教育の現状に関する現場的知識)を表すことが期待されるだろう。その語り合いによる相互補完的な交流からは、大学研究者はより実践的な研究テーマを見出すだろうし、現場教師はより深い知恵に到達できる言葉づかいを学ぶことができるのかもしれない。
 このような認識の下、今回報告する研究会は、現場教師と大学研究者が「共に考える」ことを構造的に保証するような形態であるように思えたので、報告者は参加を決めた。この会(X氏の特定を避けるため会の名称もここでは明示しない)は、もともと高校英語教師のための研究会であり、従来は大学研究者に講演してもらうという形式で開催されていたが、ともすればこのような形式は、より有名な講演者を招くことを会の繁栄と考えるといった傾向に陥りがちで、テーマもあちこちに飛び、研究会としての成長がおざなりになる。そこでこの研究会では、「華やかな会でなく、自前の会を」ということを合言葉に、発表者が「なぜそのような授業を作ったのか」ということを明らかにし、それについて参加者と語り合うことによって、それぞれが持つ教師としての信念を反省的に探究しようという形に研究会を変えてゆくこととなった。今回報告する会はその第一回目である。
 なおこういった変化の背後には、教師がお互いに授業について語り合う文化が喪失されているのではないのかという危機感があることも付記しておく。過去において、授業の合間、放課後、あるいは勤務後・学校外の喫茶店・酒場でなされていた授業に関する教師同士の、くだけた、しかし真摯な語り合いをするという文化が、近年、教師がどんどん多忙になるにつれ失われているという懸念を、多くの教師が抱いているようである。その意味からすると、今回報告するような研究会の試みは、そのように失われつつあるインフォーマルな文化を、制度的には(セミ)フォーマルにするもの、しかし雰囲気としては、そのインフォーマル性を保ったまま、発展的に復活させようとする試みと言えるのかもしれない。

2 大学研究者は現場教師の語りにどのようなスタンスで臨むのか
 この研究会は、本来は高校の現場教師(英語)のみが参加するものであり、大学研究者は従来、講演者としての立場でしか参加できなかった。今回も制度上はいろいろとはクリアすべき点はあるのだが、参加を誘ってくれた会員と報告者の間で話し合い、報告者は「特別ゲスト」という曖昧な形で参加することにした。「特別ゲスト」といっても上で述べたような研究会の新しい特徴から、報告者は従来大学研究者としての慣習的に与えられていた特権的な立場を払拭することに注意を払った。細かな点を一つ挙げれば、慣習的儀礼から上席への着席を勧めてくれる会員に、(私がその会員をよく知るということも手伝って)満面の笑みを浮かべながらわざと口調はぞんざいに「イヤ!」と言って、参加者全員の笑いを取るなどの工夫をした。あくまでも対等な立場の一参加者として語り合う姿勢を明確にしたつもりである。
 しかし対等とはいえ、報告者は唯一大学研究者であり、自らが教える高校現場を持たないという点では特異である。他の参加者ができる、それぞれの教授経験との比較や、経験者のみが持つ実感的な述懐ができない。そこで報告者が試みたことは、「解明的な聞き役」に徹することであった。ここでの「解明的な聞き役」とは、発表者の語りを最大限理解するため、語りに対して建設的に疑問を問いかけ、発表者の語りの内容がさらに明らかになるようにすることを試みる役割であり、語りの内容に関して評価を下すことは、報告者が自覚できていた限りにおいては全て避けた。このことを別の形で表現するなら、報告者は「専門家」としての大学研究者というよりは、一人の「教養人」としての大学人として参加したと言えるかもしれない。言うまでもなく、大学教員は、それぞれが専門研究領域を持つ専門家であるが、専門家つまりspecialistとは、a person who devotes or limits his/her interest to some special branch (Merriam Webster)である。この研究会において発表者は、ここに定義されているような興味の限定を一時的に捨て、発表者がより的確・客観的に語りをすることを助ける役割に徹した。これは大学人が専門家である以前に備えている資質であると考えられる、理性的な態度を持つ教養人としての仕事であると考えられる。ある特定の専門領域に縛られない教養人としての参加というのも、多岐にわたる領域の錯綜関係の中で実践を育んでいる現場教師との協働においては重要なことだと考える。
 なお付記しておくべきは今回の発表者であるX氏と報告者は、数年来の知人であり、ラポール関係は十二分に成立していた。また参加者は全てを含めて10名と、こういった性質をもつ研究会としては適切な規模内に収まったが、参加者同士はだいたいが顔見知り(それぞれ数名だけ知らない人がいた)という状況であり、研究会の開始から、堅苦しい雰囲気はほとんどなかった。それどころか研究会での語りは終始和やかに進み、誰も裁断者的立場にも被告的立場にも立つことはなかった。もし発表者と(大学研究者を含む)参加者が初対面であれば、こういったラポール形成は非常に大きな問題となろうが、今回はその問題は最初から存在しなかったので、この論点に関する記述は一切この報告書では割愛する。

3 X氏の生徒指導観の確立にむけての試み(第一サイクル)
 それでは当日の発表者であるX氏の発表内容の報告を試みる。だが、その前に英語教師としてのX氏について語る必要がある。X氏は関西地区の教員養成系大学およびその大学院(修士課程)を卒業・修了し、広島県に高校教師として赴任した。X氏は学部時代から英語教育に関して非常に熱心で、その当時産声をあげたばかりの民間セミナーにも参加し、その後一貫してそういった自己啓発の機会をできるだけとらえて英語教師としての成長を図っている。またX氏の大学・大学院時代の指導教員も実践的な英語教育研究を行い続けてきた見識ある研究者であり、その意味では、X氏は日本で考えられる限りベストといってもいい環境の中の一つで学習を行い、教職に就いたといえるだろう。以下の報告では、そんなX氏でさえ直面しなければならなかった事項を報告することにより、大学英語教育関係者が(再)認識しなければならないことを明らかにすることを試みる。
 X氏は発表時点で教職7年目を迎えていた。初任から一貫して同じ高校に勤務している。X氏は副担任をした教職一年目と、一年生から三年生まで担任を持ち上がった教職二年目から四年目までの四年間を「第一サイクル」、再び一年生から三年生の担任を持ち上がった教職五年目から七年目の三年間を「第二サイクル」として発表を進めた。
 X氏が赴任した高校は、X氏の言葉を借りるなら「比較的教育困難校」であった。X氏ははじめての自己紹介で、すでに生徒の間に「しらっ」とした雰囲気があることを感じた。5時間目に授業がある時には半分以上の生徒が机に突っ伏して寝ていることもあった。最初の担任をした教職二年目は、年間100回程度は家庭訪問をすることとなった。自分が担任をしているクラスの授業を楽しいと思うことはほとんどない、生徒指導・生活指導に追われた四年間であったという。
 そんな第一サイクルのある日、X氏は先輩教師の生徒指導の先生に次のような忠告を受ける。「お前の授業が落ち着かないのは、生徒がどこまで許されてどこから許されないのかの一線がはっきりしていないからだ。その一線を越えたら本気で怒れ」。しかしX氏は、他人に対して、本気で怒ったこと、叱ったことはそれまでの人生ではなかった。また何より、生徒の生活面について明確なビジョンを持っていなかったから、当初はその「怒る」ことすらできなかったという。(X氏は、今では必要ならば、たとえ演技であっても怒ることができる、と言う)。
 X氏は「学校内での全ての教育活動は、生徒の人間形成を目的としている」ということが、三年間担任をした生徒を高校から卒業させたらわかった、という。これがX氏の第一サイクルの収穫であった。その生徒の人間形成のためには、「教師がビジョンを持つこと」と「最初にそれを提示すること」が大切であることもX氏は学んだ。したがって第二サイクル目でX氏はまずは「授業の基盤となる生活指導」に取り組み、最初のロングホームルームでは学級通信を用いて教師としての所信表明(担任としての方針、信念、ルールの明示)をし、それと同じ内容を文書で保護者にも伝えた。この変化はプラスに働き、第二サイクルは第一サイクルに比べてずいぶん授業がやりやすくなった。
 だが問題がなかったわけでない。X氏の試みは一つのクラスの担任としてのものであり、学年全体を通してのものではなかったため、第二サイクルの二年目(X氏にとっての教職6年目)では、前年度にX氏が持っていた生徒には生活規律が身についていたものの、そうでない生徒は相変わらずの状態であり、X氏はその二年目においても前年度と同じ取り組みを行わなければならなかった。「最初が肝心」というポイントを外してしまったその取り組みには、「感覚的には前年の倍以上の時間がかかった」とX氏は述懐した。
 とはいえ、生徒指導・生活指導関してX氏は、現場での学び(先輩教員の忠告、自らの経験からの気づき)により第一サイクルで力量をつけることができた。しかし、そうして落ち着いたクラスにおいて、X氏は自らの英語教師としての力量に新たな大きな気づきを経験することとなる。

4 X氏の英語教育観の確立にむけての試み(第二サイクル)
 X氏の第二サイクル最初の気づきとは、自分の英語教育指導に関して、生徒指導・生活指導のような明確なビジョンがないということであった。生徒指導・生活指導に関しては、第一サイクルで大切なこと・大切でないことを自覚できたので、それを明記して生徒・保護者に文書で示すことができた。だが授業が落ち着いて、さあこれから英語教育をしっかり行おうと思ったときに最初に気づいたのは、X氏にはそのようなビジョンが英語教育については無いということである。英語の授業で何をどこまでできるようにさせたい(いや、させなければならない)のか、という到達目標が、生徒に示すどころか、自分ですらわからなかった。そのためどうしても場当たり的な指導しかできないとX氏は語る。
 このことはある意味、英語教育関係者に重要な示唆を持つようにも思われる。X氏は前述したように、英語教育に関しては日本でも有数の学部・大学院で6年間の教育を受けている。しかも自助努力で様々なセミナーにも参加し自己啓発を図っている。それにもかかわらず、X氏は自らの英語教育に関してビジョンが持てなかった。英語教育の細部的知識に関してX氏はおそらく秀でているはずである。ところが英語教育に関する全体的、長期的な把握をX氏はすることができなかった。これはますます研究・教育の専門化が進行する大学においては、軽視すべきではないひとつのエピソードであると思われる。
 話をX氏の実践に戻す。X氏の見解では、現状の勤務校での高校生の学力と教科書の難しさからすると、どうしても「文法訳読式」が主流になってしまうという(学力以上に難しい教科書を選択してしまうという学校は数多いようである。これはこれとしてきちんとした調査・分析・考察が必要なのかもしれない)。また第二サイクルの最初の二年間は、家庭学習の時間がほとんどないという生徒が多く見られた。このような状況下では文法訳読といっても、生徒は予習をしていない。したがって、よくわからない英文の和訳をひたすら書き取り、「生徒の日本語聞き取り能力と書き取り能力だけが向上する結果」となってしまう。そこでX氏が採択したのは、「穴埋め形式のプリント」と「一文一問のプリント」であった。「穴埋め形式のプリント」は、和訳の一部が空所になっているプリントであり、生徒は英文を読んで、その空所を埋めることになる。「一文一問のプリント」は左側にある、一文ごとに改行された英文にスラッシュを引かせチャンクごとの文分析をさせた上で、右側にある英文一文ごとに対する問いに日本語で答えさせるものである。こういった一種の「個別学習」を授業に取り入れることにより、X氏は次のようなメリットがあると考えた。(1)心理的に英文に取り組みやすい、(2)「分からない」という言い訳をすぐに使うことができない、(3)最初から最後まで、自分で英文を読まなければならない、(4)内容の確認においても、無意味な日本語の聞き取りではなくなる、(5)自分が分からないところがはっきりする、(6)最後には望みの和訳が手に入る、である。こうしてある程度の学習習慣を英語授業に導入することはできたが、X氏は現状ではこのやり方は、答え合わせにまだまだ時間がかかる上に、プリント完成は「真の読解」ではないと考える点で問題が多いと考えている。
 ここでは上記のX氏の授業方法に即断を加えることは避けよう。「文法訳読式」を「コミュニケーションのための英語教育」と相容れない概念と考えることも即断かもしれないし、プリント学習を、学習者の自律を育まない方法だと言い切るのも即断かもしれない。英語教育方法に関する批判は、学習者・学校の状況、教科書・教師の状況などを総合的に勘案した上で慎重になされるべきであろう。だがこのX氏の実践をメタ的に、つまり実践自体ではなく、実践を考えるやり方について考察すると、大学研究者が取り組むべき一つの課題が浮き上がってくるように思われる。次の節ではそれについて書く。

5 英語教育内容の具体的・部分的把握と抽象的・全体的把握
 X氏の実践を考えるやり方の特徴は、あくまでも具体的な活動というレベルでのみ考案を行うことである。それは「目の前に予習をしておらず、和訳の書き取りばかりをする生徒がいる」という現象の認識から、「その現象を変化させる手立てとしてはどのような対策が考えられるか」といった、やや厳しすぎる言葉を使えば、対症療法的なやり方である(注)。たとえて言うなら「咳をしたらどうして、腹痛があればどうする」といった現象レベルの考察に追われ、「健康であるとはどういうことか」といった抽象レベルでの考察がない。もちろん抽象的な考察ばかりでは実践はできないが、抽象的なレベルの考察で、目標とする概念が明確になれば、それをいわば座標の北極星として、具体的に、臨機応変に北に進むことはできる。言うまでもなく、現実の旅においては、様々な地形・障害物に応じて、北進するためにも、時には西へ回り、東へ向かい、場合によっては南に戻る必要すらあろう。しかしその際でも北極星の位置さえはっきりしていれば、現象的には東西南北様々に進むことがあっても、最終的に北に向かうという旅の目的は失われることはない。だが、もし旅人に北極星も磁極も示されなかったら、旅人が山を越え、谷を避け、川に沿ううちに、いつしかどこへ向かっているのか分からないまま空しく労苦を重ねることも想像に難くない。健康のたとえに戻れば、目指すべき健康とはどのような状態かという到達目標が明確であれば、微熱が出た、頭痛がするといった異常への対応だけに終わらず、積極的な手立てで、より健康な人間づくりを目指すこともできる。英語教育も同じである。実践者としては目の前で眠る生徒に対応しなければならないことは当然であるが、実践者には、その状態を克服して、究極的には何を目指すのかがはっきりしていなければならない。いや生徒の眠りを覚ます方法ですら、英語教育の目標に(広い意味で)沿ったものでなければならないとすらいえるかもしれない。
 このX氏のエピソードを過剰に一般化することは慎まなければならないが、同時に、現代日本の英語教育研究が、実践者に、教師自身・生徒・保護者に短い言葉で説明可能という意味で抽象的であり、かつそれが具体的な教授行動に翻訳可能であるぐらいの抽象レベルである目標設定を可能にしていないかもしれないということを否定するのも賢明ではないだろう。これは「第二言語コミュニケーション力論」を研究テーマの一つにする報告者としては深刻に考えるべき問題である。「第二言語コミュニケーション力論」といったテーマで学説を展開しても、それは実践者に実践上の指針を示すことができるものでなくてはならない。別の言い方をするなら、英語教育内容学は、十分に教育学的でならなくてはならない。英語教育現象の抽象的・全体的把握の力は、具体的・部分的把握の力と共に大学・大学院教育で追求されなくてはならない。X氏のエピソードは、後者の力はともかくも、前者の力の育成が不十分ではないかもしれないという可能性を示唆するものである。
 英語教育内容の抽象的・全体的な記述と言えば、単なる理論的言明である無用のものとして片付けられるかもしれないが、実はそれは日々の慌しい実践の中で東奔西走する現場教師に座標を示しうるものである。英語教育内容学は現場教師に座標を示し、かつ彼/彼女らが自分自身で座標を見つけることができる力を与えなければならない。Council of EuropeによるCommon European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assessment (Cambridge University Press, 2001)もその形成過程で、多くの現場教師からの意見集約と、それの理論的抽象、そしてその理論記述と現実の整合性チェックという、現場教師と大学研究者の間での密な協働関係があったという。日本の英語教育内容学研究者も、もっと現場教師との対話を広め、深めなければならないのかもしれない。

(注)しかし、学校現場の中には「対症療法的な実践」さえも出来ない教師が案外多いということも、しばしば耳にすることである。「気づき、考え、行動しよう」とはよく言われる言葉であり、教師もよく生徒に「気づき、考え、行動しよう」と指導するのに、「自分が目の前の生徒の状況に気づかず、それゆえに考えも行動もしない」という有様である、とはある現場教師の言葉である。「『なぜ生徒は寝るのか?』、『なぜ生徒は自分の話を聞かないのか?』、『なぜ生徒はきちんと提出物が出せないのか?』などを全て生徒の怠慢や性格の悪さなどで片付けることができるのは、なぜでしょう。教師をしている人は、ある程度の知的レベルと自己分析能力や状況把握能力があると思うのですが・・・」とも件の現場教師は言う。そういった証言からしても、X氏が有能な若手教師であることは言うまでもないし、報告者のこの報告もX氏を徒に批判・裁断することを目的としたものでは断じてない。

(平成17年度 教育学研究科リサーチオオフィス経費 研究報告書)(2006年3月)



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