グローバル言語としての英語

 


授業の目標:英語教師には、日々の授業を着実にこなしてゆく具体的な能力と共に、長い目でみて英語教育は生徒に何を与えようとしているのかという深い見識も必要です。この授業では英語教育目的論に関するテキストを批判的に読み、それに基づいて自ら文章を書き、それを発表し討議することによって、英語教育の目的について深く考えることを主目標とします。また、主目標の達成を通じて、教員に求められる、言語による明確な説明力をつけることを副次的目標とします。

授業の計画:毎回テキストの指定箇所を読んできて、その論に基づいて自分の意見を文章にしてきます(文章は授業の後で提出してもらいます)。授業ではその文章を基に参加者の間で討論を行ってもらいます。参加者はここで、自由討論における発言の仕方、議論の展開の仕方を学びつつ、英語教育目的論に関する考えを深めてゆきます。後半は教師が、それまでの議論をまとめ、英語教育目的論を整理すると共に、参加者の討論の仕方にコメントを加え、参加者がよりよい言語能力・討論能力を身につけることができるよう指導します。提出してもらった文章は、その次の週に簡単なコメントをつけて返却します。

授業の準備:用意する文章の冒頭には必ず短いメモをつけてください。メモには、皆さんが書いた文章の骨組み、つまりは論理構成が、目次のような要領で書かれているものとします。そのメモは、文章を書く場合の指針として使いますし、また授業中に皆さんが発言するためにも使います。短い言葉で、話の要点と構成を明らかにするというのは非常に大切な技能ですから、このメモ作りの課題をうまく活用してください。また文章は、簡潔にて明瞭なものにしてください。(1)話の構成、(2)主張、(3)主張の証拠(具体的データやエピソード)・根拠(抽象的な議論)、(4)話の総括、といった項目は必ず含めてください。必要に応じて(0)聞き手の関心を引くための魅力ある導入、なども含めてください。

成績評価:毎回の参加状況(出席、討論、文章の提出)により成績評価を行います。


読んでゆく文章

(1)「英語が使える日本人」の育成のための行動計画 (文部科学省ホームページhttp://www.mext.go.jp/ の「報道発表一覧」→「平成15年3月」より(このファイルの下に全文掲載)

(2)柳瀬陽介「世界史的変動と日本の英語教育」(このファイルの下に掲載)

(3)「21世紀日本の構想」懇談会「21世紀日本の構想:日本のフロンティアは日本の中にある---自立と協治で築く新世紀」http://www.kantei.go.jp/jp/21century/ (このファイルの下に抜粋を掲載)

(4)船橋洋一『あえて英語公用語論』文春新書(ISBN4-16-660122-9) (各自購入)

(5)中公新書ラクレ編集部+鈴木義里『論争・英語が公用語になる日』中公新書ラクレ(ISBN 4-12-150032-6) (各自購入)

です。(1)で2003年の現時点で文部科学省が英語教育に関してどのように考えているか確認します。(2)日本の英語教育史を簡単におさらいし、(3)で日本の21世紀初頭に日本が置かれている状況を考えます。(4)で英語教育推進派の意見を吟味し、(5)で批判的な論考を検討します。(1)と(2)このファイルに全文掲載してあります。(3)は抜粋を掲載してありますが、必要に応じて各自ダウンロードしてください。(4)と(5)は大学生協で購入してください(キーワードやキーセンテンスを抜書きして、議論の一助としています)。


「英語が使える日本人」の育成のための行動計画の策定について(文部科学省ホームページhttp://www.mext.go.jp/ の「報道発表一覧」→「平成15年3月」より)

今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を越えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。さらに、地球環境問題をはじめ人類が直面する地球的規模の課題の解決に向けて、人類の英知を結集することが求められています。こうした状況の下にあっては、絶えず国際社会を生きるという広い視野とともに、国際的な理解と協調は不可欠となっています。

また、グローバル化は、経済界のみならず個人の様々な営みにまで波及し、個々人が国際的に流通する商品やサービス、国際的な活動に触れ、参画する機会の増大がもたらされているとともに、誰もが世界において活躍できる可能性が広がっています。

さらに、今日のIT革命の進展により、日常生活から経済活動に至るあらゆる活動が知識と情報を原動力として展開される知識社会に移行しようとしており、知識や情報を入手、理解し、さらに、発信、対話する能力が強く求められています。

このような状況の中、英語は、母語の異なる人々の間をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です。また、このことは、我が国が世界とつながり、世界から理解、信頼され、国際的なプレゼンスを高め、一層発展していくためにも極めて重要な課題です。

その一方で、現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も生じています。また、同時に、英語の習得のためには、まず国語で自分の意思を明確に表現する能力を涵養する必要もあります。

このようなことに鑑み、文部科学省では、基礎的・実践的コミュニケーション能力の育成を一層重視した学習指導要領の改訂など様々な施策を講じてきました。しかし、このような改善の実をあげるためには、カリキュラムの改善だけでなく、指導方法の改善、教員の指導力の向上、入学者選抜の改善など、様々な取組を同時に行っていかなければなりません。

このため、「英語指導方法等改善の推進に関する懇談会」や「英語教育改革に関する懇談会」等を通じ様々な有識者より意見を聴取し、これらを踏まえ、我が国の英語教育を抜本的に改善する目的で、総合的かつ具体的なアクションプランとして、昨年7月、「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を作成しました。

本「行動計画」は、上記の「戦略構想」に基づき、その後の施策の実施状況や平成15年度予算措置などを踏まえながら、今後5カ年で「英語が使える日本人」を育成する体制を確立すべく、平成20年度を目指した英語教育の改善の目標や方向性を明らかにし、その実現のために国として取り組むべき施策を具体的な行動計画としてまとめたものです。

「英語が使える日本人」の育成は、子どもたちの将来のためにも、我が国の一層の発展のためにも非常に重要な課題です。しかし、この課題の解決は、小・中・高等学校・大学等の国公私立学校関係者、地方公共団体関係者をはじめとする英語教育に関わるあらゆる関係者が、それぞれの立場でこの目標を認識し、それぞれに改善に取り組むことを通じてこそ実現されるものであります。また、この改善の実現のためには、保護者、経済界をはじめ関係団体などの積極的な取組のほか広く国民の方々のご理解が必要です。このため、文部科学省では、様々な機会を通じ、本行動計画について広く国民への理解を促すとともに、改善に向けた各種の取組状況などを評価し、毎年、計画を見直すこととしています。関係各位におかれましては、この趣旨・重要性にご理解賜り、それぞれの責任の下、一層積極的かつ主体的に改善に取り組まれるようお願いします。

平成15年3月31日

文部科学大臣 遠 山 敦 子


「英語が使える日本人」の育成のための行動計画

平成15年3月31日

文 部 科 学 省

.「英語が使える日本人」育成の目標

日本人に求められる英語力

【目標】 国民全体に求められる英語力

「中学校・高等学校を卒業したら英語でコミュニケーションができる」

○ 中学校卒業段階:挨拶や応対、身近な暮らしに関わる話題などについて平易なコミュニケーションができる(卒業者の平均が実用英語技能検定(英検)3級程度)

○ 高等学校卒業段階:日常的な話題について通常のコミュニケーションができる(卒業者の平均が英検準2級〜2級程度)

専門分野に必要な英語力や国際社会に活躍する人材等に求められる英語力

「大学を卒業したら仕事で英語が使える」

○ 各大学が、仕事で英語が使える人材を育成する観点から、達成目標を設定

今後のグローバル化の進展の中で、「英語が使える日本人」を育成するためには、「『コミュニケーションの手段』としての英語」という観点から、初期の学習段階においては音声によるコミュニケーション能力を重視しながらも、「聞く」「話す」「読む」「書く」の総合的なコミュニケーション能力を身に付けることが重要である。こうした指導を通じて、国民全体のレベルで、英語により日常的な会話や簡単な情報の交換ができるような基礎的・実践的なコミュニケーション能力を身に付けるようにすると同時に、職業や研究などの仕事上英語を必要とする者には、上記の基礎的な英語力を踏まえつつ、それぞれの分野に応じて必要な英語力を身に付けるようにし、日本人全体として、英検、TOEFL、TOEIC等客観的指標に基づいて世界平均水準の英語力を目指すことが重要である。

学校教育においてこのような能力の育成を図るためには、各学校段階を通した一貫性のある指導を行う必要がある。このため、新学習指導要領を踏まえ、各学校段階で求められる英語力の達成目標を設定し、英語の授業の改善、英語教員の指導力向上及び指導体制の充実、英語学習のモティベーションの向上などに取り組み、接続する学校間が連携しながら、それぞれの段階で求められる英語力を着実に身に付ける指導を推進する。

.英語教育改善のためのアクション

1.英語の授業の改善

【目標】 「英語を使用する活動を積み重ねながらコミュニケーション能力の育成を図る」

○ 英語の授業の大半は英語を用いて行い、生徒や学生が英語でコミュニケーションを行う活動を多く取り入れる

○ 中・高等学校等の英語の授業で少人数指導や習熟度別指導などを積極的に取り入れる

○ 地域に英語教育に関する先進校を形成する

「英語が使える」ようになるためには、文法や語彙などについての知識を持っているというだけではなく、実際にコミュニケーションを目的として英語を運用する能力が必要である。このため、英語の授業においては、文法訳読中心の指導や教員の一方的な授業ではなく、英語をコミュニケーションの手段として使用する活動を積み重ね、これを通して、語彙や文法などの習熟を図り、「聞く」「話す」「読む」「書く」のコミュニケーション能力の育成を図っていく指導の工夫が必要である。

こうした指導を効果的に行っていくために、教員は、普段から主に英語で授業を展開しながら、生徒や学生が英語でコミュニケーションを行う場面を多く設定することが重要である。その際、こうした授業を通じて、学習者が、自分を表現し、相手を理解することができた成就感や学ぶ楽しさを味わうことができ、さらに、英語ができることの意義、必要性や、そのことによって広がる世界や可能性に興味や関心を持つことができるよう、指導を工夫することも大切である。

また、ALT(外国語指導助手)や特別非常勤講師制度 [1] などを活用して少人数指導や習熟度別指導などを積極的に取り入れるとともに、先進的な英語教育を推進し、優れた授業実践を普及することが求められる。

このため、下記のような施策を通じて、上記のような英語の授業が各学校段階を通して一貫して行われることを推進する。

【新教育課程の推進】

○ 新学習指導要領の趣旨の実現

平成14年度から順次実施されている新しい学習指導要領においては、国際化の進展に対応し、外国語による日常的な会話や簡単な情報の交換などの基礎的・実践的コミュニケーション能力がどの生徒にも必要になってきているとの観点から、中・高等学校の外国語科を必修とし、中学校段階については、「聞くこと」「話すこと」の音声によるコミュニケーション能力の育成に重点をおいて、高等学校段階については、「聞くこと」「話すこと」「読むこと」「書くこと」の4つの領域を有機的に関連付けて実践的コミュニケーション能力の育成に重点をおいて、内容の改善が図られている。その際、外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成も重視している。

この新学習指導要領の趣旨の実現のため、教育委員会や学校関係者等を対象とした各種会議等を通じて周知等を図り、各学校における学習指導の改善に資する。

○ 目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)の推進

中学校についての「評価規準の作成・評価方法の工夫改善のための参考資料」及びその解説書の作成に続き、高等学校外国語についても検討を進め、これらを参考にしながら、目標に準拠した評価の一層の定着を推進する。

【先進的な英語教育等の推進】

○ スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール事業の推進

平成17年度までに計100校を目標に、スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール [2]を指定し、高等学校及び中等教育学校における先進的な英語教育を推進し、その成果の普及を図る。

(平成14年度;16件→平成15年度;50件)

○ 研究開発学校制度の推進

研究開発学校制度 [3]の中で、引き続き、小・中・高等学校等の英語教育に関する教育課程や指導方法などを開発する。

○ 「特色ある大学教育支援プログラム」の推進

平成15年度から「特色ある大学教育支援プログラム」を実施し、英語教育の改善を含む、大学教育の改善に資する種々の取組のうち特色ある優れたものを選定し、今後の大学教育の改善に活用する。

○ 英語による特別コースへの参加の促進

外国人留学生を対象として大学で実施されている英語による特別コースへの日本人学生の参加を促す。

【指導方法、教材等の改善】

○ 教職員定数改善計画の推進

英語など教科に応じて20人程度の少人数指導や習熟度別指導を行うことを可能とする教職員定数改善計画(平成13年度〜)を推進し、きめ細かな指導を実現する。

○ 教科書及び教材における工夫の促進

教科書や教材において、英語を実際に使用する活動を積み重ねながら言語の習熟を図ることができるよう配慮し、実際の言語の使用場面や言語の働きに配慮したものとなるとともに、その際、生徒の心身の発達段階及び興味・関心に即して適切な題材を取り上げるよう、会議等を通じて一層の取組を促進する。

【英語教育改善に関する情報の積極的提供】 ○ 英語教育の改善実施状況調査の実施

平成15年度から、中・高等学校を対象に英語教育に関する改善実施状況調査を実施し、英語による指導や少人数指導、習熟度別指導の実施状況や英語の授業時間数、先進的指導事例など、英語教育に関する各学校の取組状況を調査・公表し、英語教育の改善のための一層の取組を促す。

○ 大学英語教育実施状況調査の実施

各大学における英語教育の達成目標の設定状況などを調査・公表し、大学における英語教育の改善のための一層の取組を促す。

【英語の優れた実践事例等の共有化の推進】

○ 英語教育に関する先進的取組事例集の作成

平成15年度中に、国立教育政策研究所教育課程研究センターにおいて、先進的な英語の指導事例等に関する事例集を作成し、研修等を通じた普及を図る。

○ 英語の特色ある授業実践の共有化の推進

平成15年度から、国立教育政策研究所教育情報ナショナルセンターを通じ、スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクールの研究成果や特色ある英語教育の実践事例の共有化を推進し、よりよい授業づくりを支援する。

2.英語教員の指導力向上及び指導体制の充実

【目標】 ○ 概ね全ての英語教員が、英語を使用する活動を積み重ねながらコミュニケーション能力の育成を図る授業を行うことのできる英語力(英検準一級、TOEFL550点、TOEIC730点程度以上)及び教授力を備える

○ 地域レベルのリーダー的教員を中核として、地域の英語教育の向上を図る

○ 中・高等学校の英語の授業に週1回以上はネイティブスピーカーが参加する

○ 英語に堪能な地域の人材を積極的に活用する

「英語が使える日本人」の育成は、日々子どもに接する教員の実践を通して実現されるものであり、教員の指導力の在り方は極めて重要なものである。英語をコミュニケーションの手段として使用する活動を積み重ね、これを通して、語彙や文法などの習熟を図り、「聞く」「話す」「読む」「書く」のコミュニケーション能力の育成を図っていく授業を、普段から主に英語で展開するためには、英語教員に一定の英語力及び教授力が必要となる。このため、後述(「7.実践的研究の推進」参照)のとおり英語教員が備えておくべき英語力及び教授力の内容を具体的に分析する研究を実施するとともに、外部検定試験である程度測定が可能な英語力については当面の具体的な目標値を設定し、英語力及び教授力を向上させるため、下記のような施策を通じて、教員研修の充実等の取組を推進する。

また、ネイティブスピーカーの活用は、生きた英語を学ぶ貴重な機会であるとともに、外国語や外国文化等に親しみ、自分の英語がネイティブスピーカーに通じたという喜びと英語学習へのモティベーション(動機づけ)を高めるなどの意味で、大きな意義を有する。さらに、海外生活経験等により英語に堪能な社会人など地域の優れた人材の協力を得ることは、英語の指導体制の充実を図る観点のみならず、社会の中での英語の必要性や、英語ができることによって広がる世界などについて、子どもたちが直接学ぶ貴重な機会となる観点からも、大きな意味を有する。このため、指導体制の充実のため、下記のような施策を通じて、ネイティブスピーカーの効果的な活用や地域の優れた人材の活用を推進する。

【採用・評価の際の考慮】 ○ 教員採用の改善の促進

英語担当教員の採用選考に当たっては、現在、ほぼ全ての都道府県・指定都市教育委員会が、リスニング、英会話などの実技試験を行っており、このような選考を一層推進する。また、学力試験の改善や直近の英検、TOEFL、TOEIC等のスコアの考慮により、選考の際に目標とされる英語力の所持を確認することを求め、英語によるコミュニケーション能力に関する評価を一層重視した採用を促す。

○ 教員評価の改善の促進

英語教員には、英語の教授力や意欲・情熱などに加え、一定の英語力が求められることを踏まえ、研修成果の評価や勤務評定などの中で、英語力の所持を考慮することを求める。

【英語教員の集中的研修の推進】

○ 5カ年計画による集中的研修の推進

平成15年度から平成19年度までの5年間に、全ての英語教員が、実践的コミュニケーション能力育成のための指導力向上を図る研修を受けるよう、国レベルの研修と合わせ、都道府県等教育委員会が行う集中的な研修を支援する。また、研修の受講状況は、先述の英語教育の改善実施状況調査により把握する。

【地域のリーダー的教員育成の推進】

○ 英語教育指導者講座の実施

独立行政法人教員研修センターにおいて、英語教育指導者講座を引き続き実施し、実践的コミュニケーション能力の育成のための効果的な指導法などを習得し、地域における研修講師となるなど地域の英語教育を推進するリーダー的教員の育成を図る。

平成15年度予定人数 1,000人

○ 優れた英語教員への海外研修の充実

独立行政法人教員研修センターにおいて、上記集中的研修等を通じて優れた教授力や英語力を有する中・高等学校の英語教員に対して、それぞれの必要性に応じた海外研修の機会を提供することを通じて、英語力、教授力とも優れた英語教員の育成を図るとともに、周囲の英語教員の意欲向上を促す。

平成15年度予定人数

12ヶ月派遣 15人

6ヶ月派遣 85人

2ヶ月派遣(新規) 200人

○ 大学院修学休業制度を活用した海外の大学院への留学の促進

平成15年度から、英語教員の受け入れ可能な大学院に関する情報提供などにより、秀でた熱意と英語力・教授力を有する中・高等学校の英語教員が、大学院修学休業制度 [4]を活用して海外の大学院で英語教育に関する課程を修得することを促進する。

【ネイティブスピーカーの活用促進】

○ ALT(外国語指導助手)の活用促進

JETプログラム[5]によるALTの勤務年限の弾力化(最大3年から5年に拡大)や、単独での授業が可能な特別非常勤講師としての活用などを通じて、ALTの有効活用を促進するとともに、地方公共団体の配置要望に可能な範囲で応え、ALTの活用を促進する。また、活用状況は、先述の英語教育の改善実施状況調査により把握する。

○ 優れたALT等の正規教員への採用促進

平成15年度からの3年間で中学について教員定数の加配等も活用し300人、将来的には、中・高等学校について教員定数の加配等も活用し1,000人の配置を目指し、ALT等として優れた経験等を有するネイティブスピーカーを正規教員として活用することを促進する。

【英語に堪能な地域人材の活用促進】

○ 英語に堪能な地域人材の活用促進

一定以上の英語力を所持している社会人等について、学校いきいきプラン[6]や特別免許状、特別非常勤講師制度により英語教育への活用を促進する。

3.英語学習へのモティベーションの向上

【目標】

○ 毎年10,000人の高校生が海外留学する

○ 授業以外で英語を使う機会が充実する

○ 英語を用いて世界へ情報発信するなど、国際交流を一層活発にする

英語によるコミュニケーション能力の育成のためには、コミュニケーションの手段として活用する経験を積み重ねる必要がある。しかし、我が国においては、日常生活の中で英語に接する機会は少なく、多くの子どもたちは教室で学習したことを日常生活の中で試してみることが困難な状況の中、子どもたちの学習意欲を如何に高めるかが重要な課題である。

このためには、英語学習へのモティベーション(動機づけ)を高めることが必要である。様々な機会をとらえて、異なる文化や生活への理解と関心を深める教育を推進し、英語によるコミュニケーション能力を身に付けることの意義や面白さを理解させるとともに、授業以外で英語を使う機会をできるだけ多く設けたり、挑戦すべき具体的目標を設定したりするなど、英語が使えたという喜びや成就感を与える取組が重要である。

このため、下記のような施策を通じて、英語学習へのモティベーションの向上を推進する。

【国際理解教育の推進】

○ 新学習指導要領の趣旨の実現

広い視野を持ち、異文化を理解するとともに、これを尊重する態度や異なる文化を持った人々と共に生きていく資質や能力の育成をねらいとする国際理解教育は、英語のみならず、社会科、地理歴史科を中心に各教科、道徳、特別活動の特質等に応じて行うこととしている。また、平成14年度から順次実施されている新しい学習指導要領においては、「総合的な学習の時間」においても横断的・総合的な学習活動の一つとして国際理解に関する学習活動が示されている。

このため、教育委員会や学校関係者等を対象とした各種会議等を通じて、このような新学習指導要領のねらいについての周知と理解を促す。

○ 国際理解教育に関する指導事例集の作成

小学校編に続き、中・高等学校の各教科等における効果的な国際理解教育の指導事例に関する事例集を、平成15年度中に作成し、研究協議会等を通じた普及を図る。

【留学機会の拡大】

○ 高校生留学の促進

年間10,000人の高校生が海外留学することを目指し、高校生留学交流団体が実施する留学プログラムや、留学先に関する情報提供活動を支援する。

(平成15年度予定 1,000人程度を対象に、往復航空費の一部を支援)

○ 大学生等の留学促進

大学間交流協定等に基づく日本人学生の短期留学を推進するとともに、留学に関する情報提供活動の充実を図る。

(平成15年度短期留学推進制度予定 585人を対象に、奨学金を支援)

【英語を使う機会の充実】

○ 地域人材等を活用した取組の推進

学校いきいきプランを通じた英語に堪能な社会人等の活用や、ALT等の活用によって、学校を中心とした英会話サロンやスピーチコンテストなどの取組を促進する。

○ 外国語長期体験活動の推進

小学校高学年を対象にネイティブスピーカー等と長期にわたり共同生活をする中で外国語コミュニケーション能力を培うとともに、国際化に対応できる人材を育成するためのモデル事業を実施する。

○ 特色ある取組に関する事例集の作成等

先述の英語教育に関する先進的取組事例集の中で、英語の授業外における英会話サロンやサマーキャンプ、留学生や海外の子どもたちとの交流、英語放送の積極的活用など、英語を使う機会に関する特色ある取組を取り上げ、周知を図る。

また、英語の授業外における取組状況については、先述の英語教育の改善実施状況調査により把握する。

【国際交流の推進】

○ 国際交流を推進する情報提供活動の推進

先述の高校生留学に係る情報提供活動の一環として、姉妹校提携や学校間交流活動を推進する情報提供活動を支援する。

○ 英語版学校紹介ホームページ作成の促進

英語を用いて発信する力や英語学習への意欲を高め、ITを活用した国際交流を促進する観点から、各学校が英語で学校や地域を紹介するホームページを作成する取組を促し、教育情報ナショナルセンターの提供するシステムを通してインターネットで紹介する。

4.入学者選抜等における評価の改善

【目標】

○ 聞く及び話す能力を含むコミュニケーション能力を適切に評価する

○ 大学や高校入試において、リスニングテスト、外部検定試験の活用を促進する

英語によるコミュニケーション能力の育成のためには、コミュニケーション能力の適切な評価がなされなければならない。特に、日常生活の中で英語に接する機会が少ない我が国においては、成績や受験が最終の目標になりがちであることから、入学者選抜等の在り方は、指導方法の改善やモティベーションや学習意欲に極めて大きな影響を与えているといえる。

このため、下記のような施策を通じて、評価方法や出題方式、内容等に関する改善を推進する。

【入学者選抜における改善】

○ 大学入試センター試験でのリスニングテストの導入(平成18年度からの実施を目標)

大学関係者と高等学校関係者等の間で行われている協議の結果を踏まえ、平成15年5月中に、大学入試センター試験でのリスニングテストの実施の概要について公表する。また、これに伴う各大学の体制の整備などについて検討する。

○ 各大学の入学者選抜の改善の促進

各大学が設定する英語力の達成目標などをもとに、入学者に求める英語力を明確にし、特にコミュニケーション能力を重視する観点から、リスニングテストなどコミュニケーション能力が適切に評価される選抜方法の改善に関する各大学の取組を促進する。

○ 高等学校入学者選抜の改善の促進

音声によるコミュニケーション能力を重視した中学校の学習に配慮し、全都道府県で行われているリスニングテストに加え、例えば、英語による口頭試問の導入など、コミュニケーション能力をより重視した出題方法の改善を促進する。

○ 大学入試及び高校入試での外部検定試験結果の活用の促進

大学や高等学校の入学者選抜においては、各種外部検定試験の内容・程度や受験者の実態等に配慮しつつ、後述の英語教育に関する研究の結果を踏まえ、各種会議等を通じて、英検やTOEFL、TOEIC、ケンブリッジ大学英語検定試験などの一層の活用を促す。

【企業等の採用試験における配慮】

企業等の採用試験において、仕事で使える英語力の所持を重視するよう求める。また、文部科学省においても、職員の採用等の際に英語力の所持も重視する。

5.小学校の英会話活動の支援

【目標】 ○ 総合的な学習の時間などにおいて英会話活動を行っている小学校について、その実施回数の3分の1程度は、外国人教員、英語に堪能な者又は中学校等の英語教員による指導を行う

小学校においては、平成14年度から順次実施されている新しい学習指導要領のもと、新設された「総合的な学習の時間」の中で、国際理解教育の一環として外国語会話等を行うことができるようにしており、新学習指導要領が全面実施となった平成14年度では、およそ5割の公立小学校で英会話活動が行われている。

「総合的な学習の時間」における英会話活動においては、単なる中学校の英語教育の前倒しは避けるとともに、教員が一方的に教え込むのではなく、児童が楽しみながら外国語に触れたり、外国の生活や文化などに慣れ親しんだりするなど、小学校段階にふさわしい体験的な学習活動を行い、積極的にコミュニケーションを図ろうとする意欲や態度を育成することが重要である。このため、下記のような施策を通じて、こうした取組の円滑な実施を推進する。

また、その際には、児童が異なった言語や文化などに触れ、興味や関心を持つことや、音声を使った体験的な活動を行うことが重要であることから、ネイティブスピーカーなど高い英語力を有する者の活用が重要である。このため、英会話活動を行う小学校については、その実施回数の3分の1程度は、ネイティブスピーカーや中学校の英語教員等による指導が行えることを目標に、下記のような施策を通じて、必要な支援を行う。

【指導方法の改善】

○ 小学校英会話活動推進のための手引の作成

効果的な指導法や指導に当たっての配慮、中学校の英語教育を踏まえた指導の在り方など、小学校の英会話活動の指導に関する手引書を作成する。

○ 英会話活動の実施状況に関する調査の実施

先述の英語教育に関する改善実施状況調査の中で、小学校の英会話活動の実施状況や内容などについて調査・公表し、一層の取組の改善に資することとする。

○ 研究開発学校制度の推進

研究開発学校制度の下で、引き続き、小学校の英語教育に関する指導方法などを開発する。

【指導力及び指導体制の充実】

○ 英会話活動担当教員への研修の充実

独立行政法人教員研修センターにより、英会話活動担当教員の指導者となる教員の研修を重点的に実施する。

(平成15年度予定人数 600人)

○ 経験豊かなALTの配置促進

JETプログラムや特別非常勤講師制度等を通じ、中・高等学校等での指導経験を有するALTの小学校への配置を促進する。

○ 英語に堪能な地域人材の活用促進

学校いきいきプランや特別非常勤講師制度等を通じ、海外生活経験等により英語に堪能な社会人や留学生等の活用を促進する。

○ 中・高等学校教員の小学校英会話活動への参加の促進

平成14年5月の教育職員免許法の改正により、中学校又は高等学校の教諭の免許状を有する者が小学校の相当する教科及び総合的な学習の時間の授業を担当することができるようになったことを踏まえ、小学校の英会話活動の支援とともに小・中学校等間の連携を促進する観点から、小学校の英会話活動への中・高等学校教員の活用を促進する。

【小学校の英語教育の在り方に関する研究】

○ 教育課程の研究開発

研究開発学校制度の下で、引き続き、小学校の英語教育に関する教育課程等を開発する。○ 小学校の英会話活動の実情把握及び分析

平成15年度中に、現行の英会話活動の実施状況について詳細な調査・分析を行う。

○ 今後の小学校英語教育の在り方に関する研究

平成15年度に調査研究協力者会議を設置し、17年度までを目途として研究開発学校における研究実践の成果・課題の分析、児童の言語習得の特質に関する研究、諸外国の事例等の収集・分析など、今後、中央教育審議会における教育課程の基準の改善に係る審議において小学校の英語教育の在り方を検討する上で必要となる研究等を行う。

6.国語力の向上

【目標】 ○ 英語によるコミュニケーション能力の育成のため、すべての知的活動の基盤となる国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成する

英語の習得は母語である国語の能力が大きくかかわるものであり、英語によるコミュニケーション能力の育成のためには、その基礎として、国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成するとともに、伝え合う力を高めることが必要である。

また、豊かな人間性や社会性を持ち、国際社会の中で主体的に生きていく日本人を育成するためには、思考力を伸ばし、豊かな表現力や言語感覚を養うとともに、国語への関心を深め、国語を尊重する態度を育てることが大切である。

このため、下記のような施策を通じ、国語力の向上の取組を推進する。

○ 新学習指導要領の趣旨の実現

平成14年度から順次実施されている新しい学習指導要領「国語」においては、読み書きなどの徹底はもちろんのこと、相手や目的、場面に応じて国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、互いの立場や考えを尊重しつつ言葉で「伝え合う力」を高めることに重点をおいて、内容の改善が図られている。

この新学習指導要領の趣旨の実現のため、教育委員会や学校関係者等を対象とした各種会議等を通じて周知等を図り、各学校における学習指導の改善に資する。

○ 国語力向上モデル事業の実施

家庭や地域と連携しながら、児童生徒の国語力向上のための推進校を設け、実践研究に取り組むモデル地域を指定し、国語力向上のための総合的な取組を推進する。

○ 「これからの時代に求められる国語力」の検討

平成14年2月の文部科学大臣からの諮問「これからの時代に求められる国語力について」を受けて、文化審議会国語分科会において検討し、平成15年1月に審議経過の概要を取りまとめ公表した。

今後、国民各界各層からの意見等も踏まえつつ、引き続き検討を進め、答申として取りまとめる。

○ 子どもの読書活動の推進

「朝の読書」の推進などにより、子どもの読書に親しむ態度を育成し、読書習慣を身に付けることを推進する。

○ 言葉に対する意識の高揚

家庭や地域などが一体となって、相手や場面に応じた適切な言葉遣いや言葉による表現等について考える機会を提供する「『言葉』について考える体験事業」等を実施し、言葉についての意識の高揚を図る。

○ 国語指導力向上講座の実施

小・中・高等学校の教員(国語科以外の教員を含む)や指導主事を対象として、指導方法等についての研修を実施し、教員の指導技術の向上を図る。

7.実践的研究の推進

【目標】 ○ 英語教育の改善のための取組が着実に推進されるよう、中・高等学校・大学の英語教育に関する実践的研究を総合的に実施する(平成15年秋までに一定の結論を得る)

○ 中・高等学校段階で求められる英語力の指標に関する研究

学習指導要領等を踏まえ、中・高等学校段階で求められる英語力の指標に関し具体的に示すとともに、実際の指導状況などを調査し、いかなる点で指導方法の改善が必要か具体的に研究する。

また、英検、TOEFL、TOEICなどの外部検定試験でいかなる英語力が測定されるかを分析し、求められる英語力との関係を明らかにし、外部検定試験の入試等での活用方策を研究する。

○ 中・高等学校における英語教育及び教員の研修プログラムに関する研究

英語による実践的コミュニケーション能力育成のための効果的な指導方法を検討する観点から、国内外の英語教育に関する研究や基礎的データを集約する。

これを踏まえ、英語による実践的コミュニケーション能力育成のための指導力向上をねらいとする先述の集中的研修のためのモデルプログラムや、効果的な教員養成プログラムを作成する。

○ 英語教員が備えておくべき英語力の目標値についての研究

英語教員が備えておくべき英語力及び教授力の内容について分析するとともに、英語教員を対象とした調査を実施し、英検、TOEFL、TOEICなどの特性を踏まえ、英語教員が備えておくべき英語力と外部検定試験との関連、各試験の点数互換の妥当性等を研究する。

また、上記効果的な指導方法に関する研究と連携し、英語による実践的コミュニケーション能力育成のための指導力の測定の可能性について検討する。

○ 大学の英語教育の在り方に関する研究

高等教育における人材育成の多様性を踏まえつつ、「大学を卒業したら仕事で英語が使える」人材を育成する観点から、教科内容の改善や大学間の協力体制の構築、大学教員養成の在り方等について、具体的なモデル事例を策定する。

○ 諸外国における英語教育の取組に関する研究

アジア諸国を中心とする諸外国における英語教育の取組状況について調査し、諸外国の指導方法や教材、学習評価の工夫、教員研修の取組等に関する事例をまとめる。


世界史的変動と日本の英語教育(2000/1/8)

日本の英語教育の大きな動きを捉える試みとして以下に三つの世界史的変動と日本の英語教育の関係を粗述したいと思います(注1)。粗述ですから、何らかのとりこぼしもあるかもしれませんが、そういった修正はおいおい考えてゆきたいと思います。

私が考える三つの世界史的変動とは(1)市民革命・産業革命に端を発した国民国家・植民地経済体制への動き、(2)第二次世界大戦による全体主義への勝利と民主化、(3)冷戦の終結と情報革命によるグローバル資本主義化です。私の意見は日本の英語教育はそれぞれの世界史的変動に対応することを主目的として形成され、その主目的がほぼ達成されると目的を失い歪みが出始めるが、次の世界史的変動を迎えるや、変化をとげるというものです。

(1)市民革命・産業革命に端を発した国民国家・植民地経済体制への動き

第一の世界史的変動である市民革命・産業革命に端を発した国民国家・植民地経済体制への動きは、日本にとって黒船の到来、開国、明治政府という中央集権的国民国家の成立という変化をもたらしました。江戸時代の鎖国政策も、欧米各国の強い植民地拡張の動きには抵抗できず、攘夷思想にもかかわらず開国をします。象徴的な人物の一人が福沢諭吉で、彼は横浜でイギリス人の商業的活動の隆盛を目にするや、それまで苦労して学んだ蘭学(オランダ語による学習)を捨て英学へと転換します。さらに彼の凄いところは、欧米の黒船といった科学技術や旺盛な商業活動を支えているのは産業革命のみならず、市民の自由と権理(権利)を確保した市民革命による国民国家成立にところも大きいということに気づいたことでした。彼のような人物による日本の自由と権利に関する啓蒙はその後の日本にとって大きな課題となります。自由と権利に関する成熟は様々な段階を経ながら今なお続いておりますが、国民国家の成立は明治政府によってかろうじて達成され、明治政府は国内の動乱をどうにか封じながら中央集権体制を確立させてゆきます。1894年の治外法権の撤廃、その後の日清・日露戦争の勝利(1895年(明治28年)、1905年(明治38年))で日本は国民国家・植民地経済体制の仲間入りを果たしたと言えるでしょう。

この時期の英語教育は、この国民国家・植民地経済体制の仲間入りを主目的としたものだと私は解釈します。福沢諭吉らが英学を始めて以来、自然科学も社会科学も人文科学も殆ど外国人(主に英語話者)から英語の教科書を使って学んでいたのが英学の姿だったのですが、多くの日本人の熱心で急速な学習によって次第に日本語による高等教育が可能になりはじめ、1894年(明治27年)に文部大臣井上毅が英語の授業以外には、できるだけ日本語を用いて講義を行うという教育政策を打ち出すまでになりました(92)。こうして「英学はその役割を果たし終え、英語は日本を文明開化するためのかけがえのない道具でも、高等教育を受けるための欠かせない資格でもなくなっていた。ここに英学に代わって、英語を学ぶ新しい目的が登場」(93)したわけです。英語教師にとって耳障りのいい言葉を使えば英学が英語教育に転換したわけであり、耳障りの悪い言葉で言えば英学(英語教育)が歪みはじめるわけです。

川澄哲夫さんが(注1)で示した論文の93-94ページで挙げている4人の人物は、英語教育の誕生(と歪み)を象徴しているといえるのかもしれません。1903年(明治36年)に南日恒太郎さんが『難問分類英文詳解』、1912年(大正元年)に山崎貞さんが『英文解釈研究』、1921年(大正10年)に小野圭次郎さんが『英文の解釈』をそれぞれ表しますが、これらは実学的目的ではなく、入学試験対策の書であり、ここに「受験英語」が誕生します。「以後英語に志す学生は、切り刻まれたヴィクトリア朝の思想を訳読することに憂身をやつすことになるのである」(93)とは川澄さんの表現です。さらに1911年に岡倉由三郎さんは、「これまでの類書と違って、『英語教授法』とか『最新英語教習法』などとしないで、『英語教育』と題し」(94)ました(強調は川澄さんによるものです)。「彼は、学校で教える英語は、単に英語の知識を授けるだけでなく、英語を通じて『精神陶冶に力を尽くさなければならない』と考えた」(94)わけですが、「これはすでに学校教育の中に存在していた英語に、あとからつけられた目的であり、英語利益集団の自己弁護としか受けとれなかった」(94)というのが川澄さんの判断です。

歪みはやがて大きくなります。英語教育が時代の目的をほぼ達成した後も旧態依然として変わらなかったからです。元衆議院議長で後の文部大臣ともなった大岡育造さんは1916年(大正5年)に当時有力な教育評論誌であった『教育時論』で「教育の独立」という文章を書き、「厳然として独立せる国が、其普通教育に於て或る特殊の外国語を必修科とするの理由は断じて無い」、日本の英語教育は「生かじりの外国語と盲目的外国語崇拝」を生むだけと論じます(95)。これに対して東京外国語学校教授の村井知至さんは「反論」しますが、それは「英語教育は決して英国精神の教育にあらずして、日本精神をただ英語を以て教ゆる」こと(96)というのですから、英語教師の感覚はやはり実学という当初の目的から相当はずれたものになっていたと私は考えます。

一方では1924年(大正13年)に排日移民法が成立するなど日米関係は悪化しますから、その反米感情にもあおられてか、英語教育への批判は強くなってきます。1927年(昭和2年)に東京帝国大学教授(国文学)の藤村作さんは雑誌『現代』で「英語科廃止の急務」を発表し「社会の各方面に大きな波紋」(99)を投げかけました。彼の論も大岡さんの論と似ており、富国強兵といった国力充実の国民国家的課題は完了しているのに、英語教育の制度は従来通り(中学校では全科目中英語の時間数が5分の1から6分の1、高等学校では3分の1近く)であり、さらにはこれだけ苦労しても英語が使える者は少なく、また使う必要にかられる者も少ないのだから、英語教育は大幅に減らし、国家が翻訳局を作ればそれでよい、といったものです(100)。国家による翻訳局といった発想に当時の社会人の英語教育目的論がしのばれますがそれはさておき、これに対する英語教師の反論は、その代表格である福原麟太郎さんのも含めて英語教育の「教養価値をこんこんと説く」もの、英語を教えながら「精神陶冶」に力を尽くすもの、といったものでした(108)が、それは「みずからも認めているように、受験と関係のない『女学校や師範学校に存在しうる』ものでしかなかった」(108:強調は川澄さん)というのが川澄さんの指摘です。

(2)第二次世界大戦による全体主義への勝利と民主化

しかし歪んでいたのは英語教育だけではありませんでした。日本という国民国家も1938年(昭和13年)に国家総動員法を公布し、全体主義国家へと完全に変貌してしまいました。日本の英語教育との関連から私が言う第二の世界史的変動とは、こういった日本、ドイツ、イタリアといった全体主義国家の挑戦を民主主義国家が退けたことにあるのです。1941年(昭和16年)に日本が太平洋戦争に突入してからの英語教育の混乱は、「ストライク」を「よし」と言い替えさせたような国情や、1942年(昭和17年)の英米人英語教師の全員解雇、「大和心のおほらかさ、そしてその中を一貫して通ずる忠孝一本の道、この道に立ちこのおほらかさを以て外国語を学び外国文学を読み外国国民を見ること、それが吾々英語教師の先づ第一に心掛けねばならぬことなのである」(寺西武夫さん)といった英語教師の時流への迎合などと、様々に語るべきことはありますが、それは宮崎芳三さんの『太平洋戦争と英文学者』(研究社)といった良書(このホームページでも書評しています)に任せることとして、ここでは戦後の事情に移ります(注2)。

今回世界史的変動が日本につきつけた課題は民主化であり、そして全体主義国家としての敗戦にともなう壊滅的状態からの経済的復興でした。前にも述べたとおり、民主化というのは福沢諭吉以来の課題で、日本は資本主義陣営に属しながらも、(国民全体を万遍なく幸せにしようと試みる)社会主義的政策をとり、社会人はその名に反して「会社人」であり、「公」が「官」と勘違いされたり、あるいは「私」を犠牲にして達成されるものと誤解されたりしていましたから、今だに日本にとっての大きな課題だと私は考えていますが、経済的復興は、これまた急速に(あるいは奇跡的に)日本はやりとげました。

戦争直後の英語教育に関して川澄さんは次のように述べています。「猫も杓子も英語を口にしたがり、英語熱が街にあふれ、英語会話の本なら羽が生えて飛ぶように売れた。どんな地方の町にも米会話塾ができ、GI刈りのアメリカ兵の先生がガムをかみながらジープで乗りつけた。とにかく英語がしゃべれて、アメリカ兵に接することがなにかと有利だと考えられたのである。このころの日本は、どこか明治の初期に似ていた」(122)。いわば日本は第二の世界史的変動を前に振り出しにもどったわけです。今回は「英語」は実は「米語」だったのですが、その変化は英語教育の教材などに徐々に現れはじめます。

やがて経済が復興し始めますとビジネスで英語を必要とするようになってきました。1955年(昭和30年)には実業界から「役に立つ英語」を求める意見が目立ちはじめました。また評論家の加藤周一は1955年(昭和30年)、日本の義務教育で英語が事実上の必修科目となっていることを不必要なことと批判しました。英語教師が「英語は実用のためだけに教えるものではない」と批判すると、加藤さんは(川澄さんのまとめに従うならば)次のように反論しました。「批判者の中には、子供の本能は別として、階級、地域などあらゆる条件を超えて、英語教育の機会の平等を求めている者が多い。これは、けっして教育の機会の平等を実現することでも、民主主義の理想でもない。全国の中学生に漫然と不十分な教育をほどこす代わりに、一部の生徒をもう少し徹底的に教育する方法を考えだすことが必要である。またある批判者は、英語教育は実用のためではなく、中学生に、英語を通じて合理的な物の考え方を教えるだとか、自分以外の世界の存在を知らせることによって、彼らに国際的視野を与えるのだと言う。しかしそれは話が大げさすぎるし、戦争に敗れたからといって、英語にそのような『神変不可思議』な力があるとは信じられない」(125)。

私見ですが、この加藤さんの意見は今からしても卓見というべきと思いますが、当時の日本全体が政策的にも心情的にも(国家)社会主義的であり、特に教育界はそうでしたから(注3)、こういった論は当時の英語教師にはあまり受け入れられなかったように思われます。社会主義的心情はともかく「教養としての英語」という発想は戦後も強く残りました。実際、後年、1974年(昭和49年)に衆議院議員の平泉渉さんが英語教育はせいぜい国民の5%ぐらいに徹底的に施した方がよい(注4)と主張した時、それに反対した英語教師の代表格としての渡部昇一さんは「日本語との格闘」といった教養主義的論説をはりました。

考えてみますと「英語教育」という言葉自体が混乱の元なのかもしれません。「英語教育」という言葉の出所の一つは岡倉さんの言説で、以来「教養としての英語教育」という発想が英語教師のキーワードの一つになり、英語教授は英語教育として専ら考えられるようになったのですが、英語での言い方はELT (English Language Teaching)あるいはTESOL (Teaching English to Speakers of Other Languages)でありそこには"education"という言葉は見当たりません。また「英語教育目的論」というのは日本の英語教授法(英語教育方法)のテキストには必ずといっていいほど掲載されますが、英米で発行されている英語教授法のテキストには目的論などの論考は皆無です。建て前の用語はともかく、事実上、特定言語を義務教育で国民全員に教えようとすることにはどこか無理があるのかもしれません。とはいえ、現代急速に進行している英語のグローバル化により、英語は特定の国の言語でなくなりつつあるといえるのかもしれませんが、それにしても英語は単に習得するものなのか、それとも教育されるものなのか、といったことは立ち止まって考えた方がいいのかもしれません。

話を元に戻しますと、実業界は「学校英語教育は役立たない」と批判しつつも、必死の努力(後年日本の実業界は文字通り「過労死」を生みだしました)で日本の経済を復興させました。1980年には先進国首脳会議を東京で開催し(東京サミット)、日本経済は世界中から注目されるにいたりました。実際1980年代を通じて「日米経済摩擦」が問題となり、日本経済の力は恐れられる程になりました。当時の日本では「もはや欧米に学ぶものなし」といった風潮さえではじめました。

この間、英語教育の方でもALT(Assistant Language Teacher)の制度(JETプログラム、1987年(昭和62年))が普及するなど、かつての「受験英語」から「コミュニケーションのための英語」へと転換がはかられましたが、「学校英語教育は役に立たない」という声はあまり消えていません。また一部の高校ではアルファベットすら満足に読めない・書けない生徒が目立ち始めました。

こうして日本経済の力を背景にした国全体としてのナショナリズム的自信と英語教育の相変わらずの非効率性が混在する中、1990年代初頭にいわゆる「英語帝国主義論」が台頭しはじめます。この論は日本では津田幸男さんや中村敬さんなどによって主に提唱されたもので、私としては皆さんに是非直接彼らの本を読んでもらいたいのですが、ここでは乱暴に彼らの意見をまとめると「英語習得を強要するのは、文化的植民地化を強要するようなもので、それは英語帝国主義である」といったものです(注6)。これは「実用主義派」の英語教師にも「教養主義派」の英語教師にとっても痛烈な批判で、前者は英語は特定の国家・国民・民族の言葉ではなく「国際語」であることを政治・経済の実体から指摘し続けたりしましたが(注7)、後者は私見では有効な反論を見い出せませんでした。

このことと直接の因果関係はおそらくないのですが、実際、1990年代は「教養派」の英語教師にとって受難の年でした。大学設置基準の大綱化により大学改革が進行し、多くの英文科がその名前を「国際文化学科」や「コミュニケーション学科」などといったものに変えました。大学のいわゆる「一般教養」のテキストからも英米文学のテキストが激減しました。少なからずの数の大学で英検やTOEFL, TOEICといった資格の取得が一般教養の英語の単位として読み替えられるようになりました。これは「教養英語」の理念の敗北と私は考えます。

しかし英語教育は制度や名称こそ変わったものの、その中味の変化は(皆無とは言えないものの)わずかなものでした。実際、英語学習は受験英語においては塾や予備校で、英会話は英会話学校や個人学習で活気を呈しました。日本が、全体主義国家としての敗戦と荒廃という世界史的変動の挑戦を見事にクリアーしながらも、その中味をあまり変えなかった学校英語教育の歪みは英語教師の予想以上に大きかったのかもしれません。

(3)冷戦の終結と情報革命によるグローバル資本主義化

そして世界史的変動は再びおこりました。冷戦の終結と情報革命によるグローバル資本主義化です。1980年代の「バブル経済」に酔いしれていた日本は、情報革命という世界史的変動をつかみそこね、1990年代に完全にアメリカにひきはなされてしまいました。折しも1991年のソビエト連邦崩壊により共産主義への信頼と希望も崩壊し、資本主義がグローバル化しました。世界の資本主義化は情報革命によって加速され質的変化をとげ、「グローバリズム」という勝ち組と負け組を峻別する世の中がやってきました。

日本も戦後最悪の不況を経験し、多くの日本の大企業が外国資本に乗っ取られるという、1980年代には予想もしなかった状況を迎えました。人々の中には、日本にとってこの変革は黒船、原爆に続く「第三の開国」だと主張する人もでてきました。とはいえ今回のこの変革は黒船、原爆といった誰にでもわかる象徴的な大事件を欠くだけに、国民的合意が前の二回ほどには急速に形成されたとはとてもいえませんが、それにしても英語教育に限っていえば、1990年代後半になると「英語帝国主義論」のインパクトも欠けはじめ、英語使用やむなしという論調が朝日新聞でもみられるようになります(また欧米でも"English as an global language"という言い方が流通し始めました)。日本のビジネスマン・ビジネスウーマンによる英語習得や幼児英語教育といったプライベート・セクターでの英語学習はますます盛んになってきました。この学校英語教育と私的英語学習の違いを象徴するようなのが、学校英語教育に関して良心的な編集をしていた研究社の雑誌『現代英語教育』が経済的理由から1999年に休刊になる一方、東洋経済新報社といったビジネス関係の出版社の雑誌が盛んに英語学習の特集をしたことでした。(ちなみに塾や予備校は小子化により大変革をよぎなくされています)。

考えてみますとこの第三の世界史的変動は、一つには私有財産を否定する共産主義への決別であり、もう一つには経済文化活動の高度知識化です。この二つの変化は両方共に人々の間の格差を助長する、あるいは正当化するものです。人と人の間でも、企業と企業の間でも、国と国の間でも格差は広がり、人々はその中で(死力でなく)知力を尽くして競争をする世の中になったのかもしれません。そして「地球語」としての英語の普及で、多くの競争が英語を媒介にして行われるようになりました。これからの日本の英語教育はその世界史的挑戦に応えることができるのでしょうか。

プライベート・セクターでは情報革命でますます個人による英語学習が容易になってきています。しかしその英語学習を経済的にまかなえる者とまかなえない者の差が生み出す結果はこれまで以上に広がるかもしれません。「持つ者」と「持たざる者」の差は、金だけでなく意欲・自分の未来に対する希望の差にまでなるのかもしれません。

一方で学校の英語教育はどうなのでしょうか。制度的には、2000年代初頭の「総合的学習の時間」の導入を契機に事実上、小学校から英語教育が始まろうとしています(名称は「国際理解教育」となったりします。ひょっとしたらこの名称変更とともに英語教育も大幅に質的変化をとげるのかもしれませんが、楽観は禁物でしょう)。ですがそのための教員養成・供給などで問題は山積みです。発音の習得にとってとても重要な時期に行われる英語教育なのですが、これが全国規模ではたしてうまくいくのかどうか、少なくとも私は疑問を感じています。ひょっとしたら、近い未来の日本人は「小学校から英語をやっているのにちっとも使えない」と不平をたらすようになるかもしれません。少なくともそういった最悪の可能性も勘案に入れながら英語教育関係者は英語教育を拡充あるいは改変させる必要があるでしょう。

もしかすると、日本の英語教育も「機会の平等」の精神は忘れないようにしながらも、個人の自己選択とその結果責任の引き受けを積極的に肯定し、英語学習の「格差」を公正に認める発想の大転換をする必要があるのかもしれません。それが世界史的課題なのかもしれないからです。(私の考えは従来から外国語教育においては個人の自由と選択を最大限に活かすべきだというものです)。

ですが一方で大津由紀雄さん(http://www.otsu.icl.keio.ac.jp/)のように、外国語教育を義務教育・公教育の中に新たに位置づけようという提案などもあります。これからの英語教育の行方は、どんな時代のどんな営みもそうであるように、先行きのわからないものです。しかし人間は英知を尽くすことによって未来を切り開くことができます。知恵は英語教師の知恵だけでは十分ではありません。様々な立場の皆さんの建設的な議論をお待ちしております。

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(注1)日本の英語教育史を振り返るにあたって川澄哲夫さんの論文「英語教育存廃論の系譜」(研究社『現代の英語教育1 英語教育問題の変遷』1979年、92-136ページ)を参考にしました。上の文章中の( )数字は同論文のページ数を示します(なお引用の際に一部旧字を新字に変えておりますのでご了承ください)。この論文で川澄さんは膨大な過去の文献の中からの要所要所を慧眼でもって選択・配列して歴史の流れを記述した素晴しいものです。私も今回再読して非常に感銘を受けました。膨大な文献を読む人、あるいは慧眼をもった人なら時に存在しますが、慧眼をもって膨大な文献を読む人、ましてやその読みを的確に再構成する人はめったにいません。川澄哲夫さんはそのような貴重な歴史家なのかもしれません。

(注2)戦後の混乱の中でも「小説の神様」志賀直哉さんのフランス語(彼によれば世界で一番よく、美しい言葉)をもって国語(彼によれば最も不完全で不便な言葉)に代えるべきだという意見や、「憲政の神様」尾崎行雄さんの「デモクラシーとか民主主義とかいうが、元来漢字や日本語にはこんな言葉がなかったから、日本人が民主主義を体得するには今の国語を思い切って英語にしたほうがよい」という意見(122-123)は特筆に値すると思います。

(注4)あわてて付け加えますと、私は教育者が「みんなを救おう」という社会主義的な心情を持つのは自然なことだとも考えます。もっとも社会主義的な発想の行きすぎには断固反対したい思いですが。

(注5)平泉さんは義務教育としては「世界の言語と文化」といった科目を設ければよいと主張しました。

(注6)後に問題なのは「英語一極集中」の状況であると彼らの論調は少し変わってきましたが、1990年代前半には「英語帝国主義」という言葉がよく使われていました。

(注7)英語の「国際性」や「イデオロギー性」の指摘には先駆者がいます。その中でも1970年の小田実さんの「英語、そしてことばについて」、1973年の鈴木孝夫さんの「EnglishからEnglicへ」、1975年のダグラス・ラミスさんの「イデオロギーとしての英会話」などは特筆に値するでしょう(132-134)。


『地球語としての英語』D.クリスタル著、国弘正雄訳、みずず書房(1998年)

(English as a global language, by David Crystal, Cambridge University Press, 1997の翻訳)括弧の中の数字は訳書のページ数を表す。

第一章 なぜ地球語か

>1950年においては、英語が真の世界語などという見方は、何とも不確かな、いかがわしい、単に理屈の上での可能性に過ぎなかった。(1)

>現在の英語母語話者の複雑な感情:誇りと、誤用される「自分たち」の言葉への懸念。(8)

>英語非母語話者:意思疎通の満足感と、母語話者への羨望。(8)

>今日世界人口のうち四分の一近くが英語に堪能ないしは不自由しない。1990年代後半ではその実数は12億から15億。(12)

>書き言葉が統一している中国語(話し言葉は8つほどに分かれている)ですら、11億人が知っているに過ぎない。(12)

>一つの言語がなぜ地球言語になるかは、その話者の数とはほとんど関係ない。誰が話者かの方が関連がある。ローマ帝国時代を通じラテン語は国際語となったが、ローマ人の方が被征服者たちよりも数が多かったからではない。ローマ人の方が強力だった点に求められる。やがて、ローマの軍事力こそ衰えたが、ラテン語は別種の力、つまりはローマ・カトリック教会の宗教的な力のおかげで、その後数千年というもの、教育面での国際語として残り続けた。(13)

>19世紀の到来までにイギリスは世界の工業・通商国家として主導的な地位を占めるにいたった。19世紀の末期には、アメリカの人口はすでに一億に近づき、西ヨーロッパのどの国の人口をも凌駕し、その経済も全世界で最大の生産量と最も高い伸びを示していた。19世紀を通じイギリスの政治帝国主義は英語を世界一円に送りつけていたから、英語こそはまさに「日の没するところなき」言語とはなっていた。20世紀を迎えると、英語の全世界での存在感をほとんど単独で維持強化してみせたのは、いまや超大国となったアメリカの経済的優位であった。米ドルの背景にあるのは英語だったのである。(17)

>全世界向けに何らかのリンガ・フランカが必要とされようという読みは、やっと20世紀、特に1950年代になってから強く出てきたにすぎない。例、国際連合(1945年)、世界銀行(1945年)、ユネスコ(1946年)、ユニセフ(1946年)、世界保健機構(1948年)、国際原子力機関(1957年)。(19)

>地球言語の必要は、学問とビジネスの世界で国際的に痛感されている。(20)

>人類史の中でこんなにも急激な変化に言語がさらされたという前例は全くない。こんなにも数多くの国がお互いに話し合う必要に迫られた時代も一度としてなかった。こんなにも多くの人々が各地に旅することを欲した時代も一度としてなかった。従来型の翻訳や通訳の人的物的資源が、これほどまでに多くの負担にあえいだ時代も一度としてなかった。(22)

>母語として地球言語を話す人々は、自動的に権力をもった立場に立てるのだろうか。(24)

>「臨界期」以前の子供は、二言語をたやすく習得する(25)

>自動翻訳は進歩するだろうが、それが全ての人の手に届くかどうかはわからない(35)

 

第二章 なぜ英語か----歴史的な背景

>いまや英語はどこの大陸にもその姿が見られるほか、三大洋に位置する島々でもおなじである。地球言語という名称が与えられるのは、このような存在の広がりのゆえにである(39)。

>二大要因:19世紀末にピークに達したイギリスの植民地支配力の増大と、20世紀の経済大国としてのアメリカの登場。(75)

>三つの同心円:中心円(アメリカ、イギリス等で3億2000万から3億8000万)、外円(インド、シンガポール等で1億5000万から3億)、拡大円(中国、ロシア等で1億から10億)。(76)

 

第三章 なぜ英語か----文化的基盤

>大英帝国での英語教育:「アジアやアフリカの各地でたくさんの学校が設けられ、原住民に対する教育を無料で、しかももっとも出来る子にはイギリス製の品物を褒美として渡すという形で行うようになれば、自国の商業や意見や宗教を広めていく上にイギリス人が取りうる最善の準備たりうる。こうすれば彼らの心情や情感を手に入れることができようし、刀剣や大砲による征服よりは遥かに有効である。同様に、教師や書物や褒美の品々に費やされる一千ポンドの金子は、野蛮人から成る国々を押さえつけるべく、砲手や弾丸や火薬に費やされる四万ポンドよりも効果が大きい」(ウィリアム・ラッセル 1801年)(97)

>産業革命時の発明の大半はイギリスに源を発するものだった。これらの技術革新が英語国から奔流していったことで、これらの革新の成果を学ぼうと望む外国人が英語を学び、しかもそれをきちんと身につけることで自らに資したいと願った(100)。

>汽船、汽車、蒸気技術(高速ロータリー印刷機や活字の鋳造)の発達。(100)

 

第四章 なぜ英語か----文化的遺産

>第一次大戦終了後、国際連盟はアフリカ、中近東、アジア、太平洋地域の旧ドイツ領植民地を勝者による委任統治に付すことにし、その結果、これらの地域における英語の影響力は大きく増大することになった。(107)

>国際的な読者層を有している学問的な定期刊行物のほとんどは、英語で書かれている。(116)

>BBCは1932年、VOAは1942年にスタート。(122)

>1990年代の半ばまで、世界映画市場の85%までを支配してきたのはアメリカである。(125)

>国際的なポップミュージック世界で成功しようとすれば英語が必須のようにさえ思える。(129)

>世界の観光地ではどこであれ、店のショーウィンドーの掲示は英語であることがほとんどで、レストランのメニューにも英語が併記されていることが多い。(132)

>船舶および航空機による国際的な運輸状況を制御するためには英語が用いられている。(134)

>1981年の調査によれば、生物学と物理学の論文の場合は、85%までが英語論文。医学は73%、数学は69%、科学は67%。現在は一層増加しているであろう。(141)

>1960年代以来、多くの国において高等教育の通常の使用言語は英語となった。(141)

>現在、電子的に貯蔵されている世界の情報のおよそ八割は英語によるといわれている。(145)

>多くのブラウザーは複数言語のデータを処理できない。(147)

>インターネット:「インターネットの利点をフルに活用したいと思うなら、その方法はたった一つ、英語を習うことで、英語はいまや最も偉大で効果の高い『輸出品』となった」(スペクター 『ニューヨーク・タイムズ紙』への寄稿)(148)

>インターネット:「これこそは知的帝国主義の究極の形である。この商品はアメリカ渡来なので、われわれとしては英語に適応していくか、使うのを止めるかの何れかでしかない。それは個々の企業体の権利である。だが、世界を何億という人々に開くための技術などといおうものなら、それは悪い冗談にすぎない。この技術は世界を新しい活動の「持てるもの」と「持たざるもの」の二つに分けるだけのことだ」(アナトリー・ボローノフ ロシアのインターネット・プロバイダー役員)(148)

>ネットワークが広がれば広がるほど、英語を習うように仕向けられる人々の数は増し、それだけに英語の立場は強化される。(150)

>情報ハイウェイ上の英語の地位を大きく弱めるような動きは予測しがたい。(155)

 

第五章 地球英語の未来

>植民地主義を脱した今日にあっては、かつての旧宗主国の言語を使い続けることに対し強い反発と、土地の言語を使うことへの賛意が巻き上がることは不可避といってよい。(157)

>アイデンティティの中でもっとも身近で普遍的な象徴は言語なのである。(158)

>アメリカでは英語公用語化法案を推進しようとする団体がある。根拠の一つは「アメリカの歴史を通じ異なる背景の人々を一つに束ねてきた紐帯は共通の言語であった」というものである(165)

>英語公用語化に反対する人々は、そういった法案は、個人の自己表現への連邦政府による許し難い侵入にほかならず、文化的多様性を侵し、少数民族を制限し統御するための政策手段であると考える。(169)

>「新しい英語」(New Englishes)→英語は誰のもの?:10年のうちに、L2話者の方がL1話者の域を超すのは確実で、50年経てばL2話者が五割がた多いという事態にもなりえよう。となれば、唯一あてはまりうる所有という概念は、地球それ自体ということになる。(179)

>ラテン語が一千年余りも前にフランス語、スペイン語、イタリア語その他のロマンス系諸語に分かれたように英語も分裂するだろうか。(185)

>衛星テレビ、新聞、教科書、ほかの印刷物の普及を考えよ。(186)

>サルマン・ラシュディー:「われわれはいつも英語を叩きのめすための道具として、反植民地主義----脱植民地主義と名づけるべきか----の斧を手にすべきであると、私は必ずしも思わない。かつて英語によって植民地化された人々に何がおきているかといえば、それを急ぎ再製し飼いならし、どう使うかについてあまりイジイジしなくなった、といえる。英語自体の柔軟性のゆたかさと規範の大きさにも助けられて、自分たちのために英語の正面から大きな領域を削りとっているのである。/私がもっとも知悉している例としてインドをあげるなら、英国が立ち去ったあとのインドで英語が果たして望ましく適当な存在であるか否かの論議は、1947年以来、荒れ狂ってきたわけだが、いまやこの議論も古い世代にしか意味をもたない。独立国家としてのインドの子供たちは、英語を目してその植民地帝国時代の背景によって修復できぬほどに汚されてしまっているとは見ていないようである。彼らはインドの言語の一つとして英語を使っている。手にした道具の一つとみているのだ。(187)

>いままでにはなかった、「世界標準口頭英語World Spoken Standard English」とでも呼ばれるべきものが、必ずや台頭してくることであろう。(189) cf.程度の差こそあれ、われわれのほとんどは「多方言使用者」である


「21世紀日本の構想:日本のフロンティアは日本の中にある---自立と協治で築く新世紀」http://www.kantei.go.jp/jp/21century/

この報告書は、小渕首相の委嘱による「21世紀日本の構想」懇談会(座長:河合隼雄・国際日本文化研究センター所長)によって2000年1月18日に公表されたものです。この時期は、2001年9月11日の米国同時多発テロのことなど普通の人は予想もしていませんでした。当然、テロの影響もあっての2003年3月の米国を中心としたイラクへの戦争攻撃など、米国の「帝国化」と思える姿も多くの人は考えていませんでした。また2002年の米国ネットバブルの崩壊も多くの人は起こらないことと信じ込んでいました(その当時は「ニュー・エコノミー」という言葉が流行したものです)。ですからこの報告書は、今この文章を書いている2003年の感覚からすると、やや「グローバリズム」に対して楽観的・肯定的でありすぎるようにも思えるかもしれませんが、そういったことも勘案しながら、日本の英語教育の時代的背景を理解するためにこの報告書を読むことにします。

授業では「第1章 日本のフロンティアは日本の中にある(総論)」と「第5章 日本人の未来(第5分科会報告書)」を取り上げますので、必要に応じてこれら二つの章をhttp://www.kantei.go.jp/jp/21century/からダウンロードしてください。以下、私が考える重要な文章をコピーして掲載します(公文書ですからこういった掲載は著作権上問題がないと考えます)。ページ数を出す場合はPDF版のページ数を用いますから、可能ならば皆さんもPDF版でダウンロードしてください。

>はじめに:今、日本が重大な転機――危機と言ってもよい――を迎えていることは、万人の認めるところであろう。その自覚に立って、ここには21世紀に向かう日本が備えるべき新しい理念や組織、15年から20年後に到達することが望まれる日本人の姿、および、それに至る道筋が述べられている。

 明治以来、欧米に追いつき追いこせの道を歩みつつ、日本は日本らしさをある程度保持してきた。その間の努力により、現在の日本は非西洋文化圏から唯一、先進国の仲間入りをしている。このことは誇ってよいことである。しかし、来世紀に世界全体をまきこんで生じようとしている、グローバリゼーションの力の強さを見るとき、日本がこのままでよいとは決して思われない。

 日本人が「日本のよさ」を誇るにしろ、それは特異に閉じこもることではなく、普遍へと開かれたものでなくてはならない。そのためには、立ち止まって日本のよさをあげつらうよりは、世界の未来に向かって、全身をあげて参加することがまず大切ではないか。それによってこそ、時には矛盾に苦しむことはあっても、日本人のよさ――われわれでさえ未知の潜在力も含めて――が普遍性をもつものとして磨かれるのではなかろうか。こういう態度で生きていけば、日本のフロンティアは日本の中にあることが見えてくる。

第一章 日本のフロンティアは日本の中にある

>9ページ:私たちは、切迫した気持ちを共有している。このままでは日本は衰退していくのではないかとの不安を抱いている。それほど、日本を取り巻く環境と日本そのものの環境は厳しさを増している。

 日本の国民は、1990年代に入ってから日本の何かが大きく変わってしまったのではないかと不安を抱いている。経済バブルとその崩壊は経済だけでなく政治や社会、さらには私たちが依って立つ芯ともいえる価値体系や倫理規範を蝕んでしまったのではないかと懸念している。長い歴史の、貧しく、苦しい環境の中で、私たちは社会と組織の和を尊ぶ倫理規範を育んできた。経済社会が豊かになり国際化するにつれ、そうした規範はそのままの形では力を持つことが難しくなってきた。しかしながら私たちは、豊かな社会における倫理観の国民的合意をつくる間もなく、90年代の挫折を経験し、グローバル化の時代になだれ込んでいる。

 阪神・淡路大震災の衝撃もあった。危機に弱く、非効率的で、説明責任を欠く政府(中央、地方を問わず)は、果たして国民の人命と財産を守ることができるのかとの深刻な疑問を国民は抱いた。その後の異様な出来事――例えば、オウム真理教テロ事件や少年A神戸連続児童殺傷事件――は、それまで日本人が誇りとしてきた家族の絆、教育の質、なかでも小学校、中学校の学習作法、社会の安定と安全という根幹が、ボロボロと崩れ始める崩壊感を国民に与えている。

 もっとも、90年代の一連の事件や出来事で劇的に露呈した日本経済社会の硬直性と脆弱性は、それ以前から日本の内部に徐々に、日常的に蓄積しつつあったと見るべきであろう。  「成功の代償」ということをここでは言おうとしている。

>10ページ:21世紀は、個人がこれまでとは比較にならないほど力を持ちうる世界になるだろう。インターネットにより、一般の市民が世界にいとも容易にアクセスすることができるようになった。また、NPO(非営利組織)への参加やボランティア活動を通じて、活動範囲も広がった。さまざまなネットワークを通じて、個人の力がみなぎってくる、いわゆるエンパワーメントが浸透しつつある。そうした力を最大限に伸ばすことが大切である。同時にその力を政府と社会の活性化に役立たせるべきである。ネットワークの相乗効果を小乗的な私の増幅だけでなく、大乗的な公の強化にも響かせることが大切である。

>12ページ:グローバル化(グローバリゼーション)はもはやプロセスではない。それはれっきとした現実である。世界の市場とメディアの一体化が進んでいる。人、モノ、カネ、情報、イメージが国境を越えて自由に、大規模に、移動する。国の垣根はますます低くなり、瞬時に世界は影響しあい、地球はぐんぐんと狭くなっている。この流れは21世紀にはさらに加速されるだろう。その結果、経済・科学・学術・教育などのさまざまな面で、制度や基準の汎用性と有用性が世界標準に照らされ、問われ、評価される。いずれの国でも、それまでの制度や慣行を世界的な視点や基準から見直し、再評価し、変えざるをえなくなっていくだろう。制度と基準の大競争時代の到来である。その影響は政治と外交から経済、社会、生活にも及び、国の中だけで完結する「閉ざされたシステム」は空洞化し、疲弊していくだろう。

 グローバル化は、国内的にも、国際的にも多様化を急速に進める。それは、人々にさまざまな選択肢と可能性をもたらし、活力を高める方向へと働くと同時に、異質の物が生の形で触れ合うことで新たな軋轢や紛争の種ともなる。

 日本にとってグローバル化は、そのスピードへの対応、ルールづくりでの発言権、個人のパワーアップなどの多種多様な問題を投げかけている。日本では意思決定は稟議制によるコンセンサス方式で時間がかかり、ルールは明文化されず、以心伝心が尊ばれ、この中で責任は不明瞭となり、個人のアイデアや創造性は十分に活かされてこなかった。

 これではこれからの時代、不利になる。日本の課題は、仕組みもルールも、誰もが参入できるように明示的であり、かつ世界に通用する基準にすることである。説明責任を負い、意思決定過程を透明にしてスピードを速め、個人の知恵やアイデアをもっと大切にし、個人の権限と責任を明確にすることである。先駆的な発想や活動に対して、先例、規制、既得権などの邪魔を許さない、そして、失敗した時にはやり直しや再挑戦ができる社会を育てることである。

>12-13ページ:グローバル化はアメリカ化に過ぎない、いや、アメリカ基準の押し付けだとの見方もある。たしかにグローバル化の中で、アメリカは現在圧倒的に有利な立場に立っている。しかし、アメリカといえども、それに伴う国内と世界での所得格差の拡大と、それに対する反発と反感の広がり、反米感情の高まりに直面せざるを得ない。内外で反グローバル化運動や保護主義の動きが高まれば、国際的ルールについての国際的な合意形成を難しくする。日本は、そうしたグローバル化の影の部分にも十分配慮しつつ、光の部分は思い切って使いこなすべきである。それに止まらず、グローバルな制度と基準形成、さらにはルールづくりに向けてより積極的に参画していくべきである。

>13ページ:グローバル化は、旧来の制度、慣習、既得権などにとらわれない時代の到来でもある。そこでは、個々人が国境を越えて新たな挑戦に挑む機会が大きく広がる。

 しかし、そのためには情報を瞬時に自在に入手し、理解し、意思を明確に表明できる「世界へアクセスする能力」「世界と対話できる能力」を備えていなければならない。個人がそうした能力、つまり「グローバル・リテラシー」(国際対話能力)を身につけているかどうかは、彼または彼女が21世紀の世界をよりよく生きるかどうかを決めるだろう。国民が「グローバル・リテラシー」をものにしているかどうかは、21世紀の国際政治における国のパワーの増減、さらには興亡をも決めるだろう。「グローバル・リテラシー」の水準の低い国には優秀な人材が寄りつかない。水準が高い国には世界中から人材が集まる、という現象が起こるに違いない。

 この能力の基本は、コンピュータやインターネットといった情報技術を使いこなせることと、国際共通語としての英語を使いこなせることである。こうした「読み書き算盤」に加えて、双方向かつ多数対多数で論議や対話を行う際の表現力、論旨の明快さ、内容の豊かさ、説得力といったコミュニケーションの能力も大切な要素となる。

 日本の現状を考えると、これらの基本能力のどれも不十分である。英語にいたっては、日本は1998年のTOEFL(英語能力試験)でアジアで最下位の成績だった。コミュニケーション能力の欠如は日本人自身が痛切に感じているところである。日本のよさや日本の真実を世界に伝えたいと念じながら、それが思うに任せない気持ちを多くの日本人が持っている。

>13ページ: 情報技術(IT)革命は、第3次産業革命だと言われるほど、人々の生活から社会の制度、国際関係にまで巨大な影響を及ぼしつつある。特にインターネットの発達は、情報の流れを根本的に変え、生活の利便性を向上させ、個人や組織が自らの意思を簡単に広範に瞬時に安価に伝達しうる革命的な手段を提供した。そこでは、国籍、居住地、所属などを問わない「分散化」が急速に進行し、他方で、英語が国際共通語となり、情報と情報技術を支配したものが圧倒的優位に立つという「統合化」も同時進行している。そして、新産業の起業が既存産業を淘汰し、国家の統制が無力となり、個人の直接発言力が増大する中で、情報へのアクセスをめぐる「持てる者」と「持たざる者」の格差がむしろ拡大するという「勝ち組」と「負け組」の「再編化」も進んでいる。同時に、ネットワークが多重に築かれ、女性や社会的な弱者とされた人々の社会的な活躍の機会が広がり、個人の選択肢と自己実現の道が一気に拓ける可能性もある。

>15ページ:少子高齢化がどこよりも速く進んでいる国が日本である。2015年頃には4人に1人、21世紀半ば頃には3人に1人が65歳以上となるとされている。日本の高齢化対策を世界が注目する所以である。総人口は2007年に約1億2800万人とピークに達した後に減少に転じ、21世紀半ば頃には1億人を切り、21世紀末には半分近くまで減少すると予測されている。 (中略)  しかし、ここでも再び、日本の社会に眠っている潜在力を最大限引き出すことで乗り切っていくことを考えるべきだ。例えば、女性の社会と労働への大規模な参画の機会を制度的に促すことである。外国人の受け入れも一つの重要な選択肢となるだろう。

>16ページ:今までの日本社会では、社会の統治の問題が正面から問われる機会は限られていた。それは、国・官・組織を常に優先し、社会全体が一丸となって進んできたからである。その中では、「公(おおやけ)」は「官」とほぼ同義となり、「公」は「お上」が決めるものとされてきた。また、国民も、「お上」が決める「公」を受け入れ、むしろ、それに頼ってきた。

 日本では長い間、「上から下へ」、あるいは「官から民へ」という官尊民卑型の統治のイメージが横溢してきた。しかし、国民が政府に負託し、政府は国民に負託されるという両者の間のある種の契約的な緊張関係を含意とする「ガバナンス」はイメージを結びにくかった。また、自発的な個人によって担われる多元的な社会で、自己責任で行動する個人とさまざまな主体が協同して、これまでとは異なる「公」を創出していくような「ガバナンス」はイメージから遠かった。

>17ページ: ところで、日本人は長らく「イエ(家)」を自分の存在の基礎に置いてきた。血縁を第一とするのではなく、家名の存続を第一と考えてきた。人間は、何らかの意味で永続性を持つものとつながりを持たぬ限り不安に陥るので、これもひとつの工夫ではあったが、このために個人の自由は制限されることとなった。戦後は、自由主義の強い力によって、日本の古い「イエ」は崩壊したかのごとく見えたが、日本人は知らず知らずのうちに「代理イエ」を作った。その典型が「カイシャ(会社)」である。ほかにも多くの「代理イエ」が発生し、それに所属することで満足し、忠勤を励み、その永続性を信じて安心を得るパターンが広く認められてきた。そして「代理イエ」も、いったん所属すると、その全体の和が最重要とされ、やはり個人の自由を束縛した。

 こうした、所属する場の和を第一に考える日本人の傾向は、先進国のなかでは貧富の差が少なく、比較的安全性の高い国を生み出すという利点を持った。しかし、個人の能力や創造力を存分に発揮させる場としてはむしろ足かせとなってきた。

>19-20ページ:個人と社会の潜在力を引き出し、先駆性を育て、伸ばす教育を重視するには、教育の均質性と画一性を打破しなければならない。

 そのためには広義の教育、つまり人材育成のあり方を根本から問い直すことが不可避である。明治以降の近代化のためにつくられた今の制度の骨格をそのままにし、それに手を加えるといった発想では事足りない。

 広義の教育における国の役割は二つある。一つは、主権者や社会の構成員として生活していく上で必要な知識や能力を身につけることを義務づけるものであり、もう一つは、自由な個人が自己実現の手段を身につけることへのサービスである。つまり、「義務として強制する教育」と「サービスとして行う教育」である。

 現在の日本の教育では、この二つの教育が混同され、授業内容についていけない子どもには過大な負担を与えながら、それを消化してより広く好奇心を満たしたい子どもには足踏みを強いる結果を招いている。そこで、21世紀にあっては、これまで混同されてきた二つの教育を峻別し、「義務としての教育」は最小限のものとして厳正かつ強力に行う一方、「サービスとしての教育」は市場の役割にゆだね、国はあくまでも間接的な支援を行うことにすべきである。

 例えば、初等中等教育では、教育の内容を精選して現在の5分の3程度まで圧縮し、週3日を「義務としての教育」にあて、残りの2日は、「義務としての教育」の修得が十分でない子どもには補習をし、修得した子どもには、学術、芸術、スポーツなどの教養、専門的な職業教育などを自由に選ばせ、国が給付するクーポンで、学校でもそれ以外の民間の機関でも履修できるようにすることが考えられる。

 教育は、家庭、地域、学校の三者の共同作業である。しかし、近年、家庭と地域の教育機能が目立って低下してきた。家庭におけるしつけや訓練の重要性を改めて共通認識として持つことが必要である。子どもの教育、行動についての第一義的な責任は保護者にあることを明確にすべきである。

 高等教育では、世界標準で仕事ができる人材を輩出するために、大学などの教育機関自体の国際競争力を向上させることである。そのためには、機関の設置や運営をできるだけ自由にし、教育・研究の場の国際化を含め、競争的な環境をできるだけ取り入れていくことである。例えば、大学・学部などの設置規制の撤廃、教育・研究活動についての業績評価、授業や研究言語としての英語の使用、外国人教員の積極的採用などが考えられる。

 また、メディカル・スクールやロー・スクールなど、医師や弁護士などの専門的能力を高めるための教育機能を充実させる必要がある。

 日本への留学生は、1990年代に入って伸びが鈍化し、さらには一時的に前年に比べて減少する傾向にある。21世紀初頭に受入人数を10万人にしようとの計画は実現不可能である。これについては多くのことが言われ、またいくつかの環境改善策もとられてきているが、根底には日本の高等教育の国際競争力の低下と魅力の減退がある。そこに抜本的なメスを入れない限り、留学生政策は実らないだろう。

>20ページ:グローバル化と情報化が急速に進行する中では、先駆性は世界に通用するレベルでなければいけない。そのためには、情報技術を使いこなすことに加え、英語の実用能力を日本人が身につけることが不可欠である。

 ここで言う英語は、単なる外国語の一つではない。それは、国際共通語としての英語である。グローバルに情報を入手し、意思を表明し、取引をし、共同作業するために必須とされる最低限の道具である。もちろん、私たちの母語である日本語は日本の文化と伝統を継承する基であるし、他の言語を学ぶことも大いに推奨されるべきである。しかし、国際共通語としての英語を身につけることは、世界を知り、世界にアクセスするもっとも基本的な能力を身につけることである。

 それには、社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするといった具体的な到達目標を設定する必要がある。その上で、学年にとらわれない修得レベル別のクラス編成、英語教員の力量の客観的な評価や研修の充実、外国人教員の思い切った拡充、英語授業の外国語学校への委託などを考えるべきである。それとともに、国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での作成を義務付けることを考えるべきだ。

 長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的論議を必要とする。まずは、英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない。

 これは単なる外国語教育問題ではない。日本の戦略課題としてとらえるべき問題である。

>23ページ:日本に居住する外国人の数は総人口の1.2%を超えた。居住外国人のうちでは、新たに目的をもって来日した外国人の割合が65%に上る。とは言え、外国人の総人口比は先進国では決して高くなく、日本では「定住外国人政策」が「出入国管理政策」の一環で考えられてきたものの、法的地位、生活環境、人権、居住支援などが総合的に勘案された外国人政策は未発達のままで来た。

 しかし、グローバル化に積極的に対応し、日本の活力を維持していくためには、21世紀には、多くの外国人が普通に、快適に日本で暮らせる総合的な環境を作ることが不可避である。一言で言えば、外国人が日本に住み、働いてみたいと思うような「移民政策」をつくることである。国内を民族的にも多様化していくことは、日本の知的創造力の幅を広げ、社会の活力と国際競争力を高めることになりうる。

 ただ、一気に門戸を開放し、自由に外国人の移住を図るのは望ましくない。日本社会の発展への寄与を期待できる外国人の移住・永住を促進する、より明示的な移住・永住制度を設けるべきである。そして、日本で学び、研究している留学生に対しては、日本の高校・大学・大学院を修了した時点で、自動的に永住権が取得できる優遇策を考えるべきである。

>26ページ:国際的に開かれ、多様な個人の活力が十分に発揮されるには、ルールを明示し、利害対立に解答を見出していくことが重要になる。これまでのように、行政がその場その場で利害を調整したり、民間相互の閉鎖的で不透明なルールに頼るべきではない。司法の機能を国民に身近で、利用しやすいものにし、国際的にも通用するものにすることが不可欠である。グローバル化のなかでは、司法サービスの競争力が国の活力にも大きな影響を与えるようになってきている。

>30ページ:日本の対外関係は、今後とも米国との同盟関係と統合欧州を含む日米欧三極協力をもっとも硬質な土台とすることに変わりはない。冷戦が終わり、20世紀が終わっても、これまで日本の国益と安全保障に大いに役に立ってきたこれらの外交資産は維持するべきであるし、むしろ、そこに再投資し、そこからさらに平和の配当を引き出すのが望ましい。

しかし、21世紀には、地理的な近接性を持ち、歴史的・文化的な関係も深く、今後の潜在力を秘めた東アジアにおける協力関係を一段と強化すべきである。

 特に日本と韓国・中国との関係は、単に外交という名で呼ぶには足りない。その関係は外交と呼ぶには余りにも深く、にもかかわらず、十分に深まっているとはいえない。外交的な努力だけでは掴みきれないものをすくいとり、深みのある関係を築く営みが必要である。そういう営みを「隣交」と呼ぶことにしたい。

 中国と韓国(朝鮮半島)との関係を長期的に安定させ、信頼関係を結ぶには、これまでの通常の外交努力では不十分であり、観光的、風俗的、流行的な理解では追いつかない。ある種の国民的な覚悟が必要である。そういう意味での「隣交」である。

 「隣交」に踏み出すにあたっては、日本人がこれら隣国の民族の歴史、伝統、言語、文化を十分に理解することが求められる。そのためには、学校教育において両国の歴史と日本との関係史、とりわけ現代史を教える時間を充実させるとともに、韓国語や中国語の語学教育を飛躍的に拡充するのが望ましい。日本国内の主要な案内板には英語と共に両国語が併記されるくらいに「隣交」感覚を研ぎ澄ましたいものである。

第五章 日本人の未来

>99-100ページ:市場とは、一つの巨大な独特の評価システムである。それは、おびただしい取引を積み重ねる過程で、物に対しても人に対しても無記名の大衆投票による選抜を行う。国家やその他の社会機関の評価システムとは違って、市場では評価する主体の顔も見えず、評価過程の意見対立の構造も見えず、評価の結果だけがあたかも自然現象のように現れる。市場が時に国家と対立するというのも、国家とは異なる評価システムが国家に挑戦し、国家そのものをも評価するということにほかならない。その際人間に対する評価をも含めて、市場はそれが働くそれぞれの時点において、最も合理的な選択を見せるという点で優れている。市場は惰性的慣習、情実に基づく閉鎖的な集団、及びその集団による評価を打破するという意味において、人間に利益をもたらす。それは絶えず地域を超え、因襲的な共同体を超えて普遍的な公正を目指すという点で、他に代え難い利点を持っている。

 その反面、商業的取引は常に現在という時間の中で行われることから、市場には歴史的な時間を超えられないという欠点がある。一見してわかるように、市場は時間を超えた社会的公正、すなわち相続の不平等の緩和をめざして、富の再配分を行う機能は持っていない。また、未来世代との富の配分とも言うべき、資源や環境の保存のためにも有効な力を持っていない。同様に、それは個人の当面は見えない人間の知的情操的な能力を評価し、長期にわたって育成しうる可能性を評価する力も持たない。また市場の評価は無記名の大衆投票によることから、その時々の大衆の目に触れにくい専門的能力、将来においては高い評価を受けるべき才能を予見することができない。

 市場が有効かつ健全に機能するためにも、人類はその限界を補うために、国家をはじめとするさまざまな社会機関、非市場的な制度と人間関係の仕組みを持たなければならない。人間の評価と育成について言えば、それを直接に行うものは、必ずしも国家に限られない。私的な学校、企業、職業集団、非営利団体、さらには批評機能を持つジャーナリズムも、教育に貢献することができる。しかし、法に基づく強制力を許され、それによって社会諸機関に安定を保証しうるのは、予見できる未来にわたって国家のほかにはない。市場と拮抗して教育制度の根幹を支え、民間諸機関の活動を援助し、調整する役割は国家にのみ期待される。教育のあるべき姿を考えるさいにも、それを決定する力として、市場と国家という文明の二大要因の緊張関係を前提としなければならない。

>100-101ページ:ところで、広義の教育、すなわち人材育成にかかわる国家の機能には、質的に異なるいくつかの側面があることに注意しなければならない。第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。共通の言葉や文字を持たない国民に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。 義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。

 しかし、同時に教育は一人ひとりの国民にとっては自己実現のための方途であり、社会の統一と秩序のためというよりは、むしろ個人の多様な生き方を追求するための方法でもある。この第二の側面においては、国家の役割はあくまでも自由な個人に対する支援にとどまり、近代国家が提供するさまざまなサービスの一つに属すると考えるべきであろう。この側面における教育については、国家は決して強制権を持つべきではないし、また持つことは不可能である。

 しかしながら、近代の国家がよい意味での個人主義を奨励しているとすれば、こうした多様な自己実現に間接的に協力することも、国家の機能の一つとして認められてもよい。さらに、このサービスの充実の結果、さまざまな有能な個人が自己実現に成功すれば、それが逆に国家あるいは国民の利益につながることは自明の理である。したがって、先駆的な才能を持つ人々を国家が支援し、そのために財政的な支出を行うことは、それ自体が国益にかなうものとして国家の機能のうちに数えられるべきであろう。

 もちろん、具体的な教育の内容に即してどこまでが共通の認識能力を要求する統治であるか、どこからが多様な自己実現に資するサービスであるかを機械的に指し示すことはできない。しかも、その2つの領域は文明の進展とともに移り変わり、必要な政策がいつか不必要になることも避けられない。例えば、文明の一定の段階においては子どもに手を洗うことを教えることが必要とされ、社会防衛の上で、言い換えれば統治行為の上で重要とされたことがあった。他方、ジャーナリズムを始めとして、多様な社会的教育機能が充実した文明段階においては、これまで義務教育として与えられた多くの知識が余分なものになるということも考えられる。このように教育の内容は流動的であるが、まさにそれゆえにこそ国家は常に注意深く、統治行為としての教育とサービスとしての教育の境界を明らかにしていかなければならない。そして、必要最小限度の共通認識を目指す義務教育については、国家はこれを本来の統治行為として自覚し、厳正かつ強力に行わなければならない。同時に、サービスとしての教育の分野においては、その主要な力を市場の役割にゆだね、あくまでも間接的に支援の態度を貫くべきである。

>103ページ:振り返って日本の教育の歴史を見ると、それは統治行為としての教育が目覚ましい成功を見せ、その勢いに乗って内容の拡大に次ぐ拡大に努めた過程と見ることができる。そして、現在ではサービスとしての教育の多過ぎる分野をその中に取り込み、強制とサービスの境界がほとんど見失われた段階にあるといえる。明治の近代化とともに、日本は他に類を見ない教育政策の充実に努め、当初から公立の学校を全国に展開し、教員の資格を標準化し、教科内容、教科書そのものに至るまで制度化し、均質化することに努めた。多額の国費が教育に注ぎ込まれ、過疎地の寒村にまで学校教育は文明をもたらす先駆者として普及した。また、国民の側も子どもの教育に極めて熱心であり、それを国民の義務として理解することをためらわなかった。百年の教育の成功は日本の近代化、とりわけ工業化に必要な高度で均質の人材を大量に供給した。識字率の高さ、科学的常識の広がり、初歩的な計算能力の普及、さらには潔癖、几帳面さといった国民性は日本の近代教育の勝利の証しである。

 しかしながら、20世紀の終わりにあたって多くの人々が指摘するように、まさにこの国民教育の大成功が幾つかの問題を生み出している。最も目立つ問題は、日本が工業社会からポスト工業社会に移る中で、それを支える先駆的人材が他の先進国に比べて育ちにくいということである。この場合、先駆的能力を持つ人間とは、単に競争に勝ち社会的成功を収める人材のことではない。そうした競争能力が正しく発揮されるためには、人はまず未知の世界を恐れない冒険心を持ち、目先の功利性を超えた無償の好奇心に駆られ、同時に結果として起こるかもしれないリスクに対して自ら責任を取る精神が必要である。

 だが、そうした精神の美質は余りにも均質化され、制度化され過ぎた教育環境の下では育ちにくい。単に教育技術や方法論の多様化のみならず、教育を授ける人間の個性、生徒が教師と出会う社会的な環境、それらさまざまな条件が多様化されなければ、こうした強い精神力は生まれてこない。この点から見ると、成功した日本の教育は余りにも至れり尽くせりの教育条件を用意し、結果として教育し学習する人間に緊張感を失わせたと言えるかもしれない。そこでは、生徒にとって教育の環境、教師や学校を自ら選択するという刺激もなく、教える教師にとっても自ら選んだ生徒に出会うという興奮はあり得ない。

>104ページ:言うまでもなく、統治行為としての教育には均質性が必要であり、最低限度の教育の制度化は不可欠とさえ言える。しかし、もし先に述べた2種類の教育が安易に混淆され、サービスとしての教育が生徒にとって義務となり、統治行為であるべき教育があたかもサービスであるかのように見えるならば、そのどちらも本来の機能を発揮することはできない。統治には強い権限が必要であるし、サービスには提供者の企業家的な熱意が求められる。しかし、両者の混淆は、一方で学校にあるべき権威と権能を与えず、サービスから市場的競争を排除してしまう結果になりやすい。まさに成功の皮肉と言うべき現象であるが、現在の学校においては教える側にも学ぶ側にも、進んでそれに従事するという動機と意欲が低下していると言わざるを得ない。統治とサービスの混淆は、結果として授業内容についていけない子どもには過大な負担を与え、それを消化してより広く好奇心を満たしたい生徒には足踏みを強いる結果を招いている。

 そして注目すべきことは、この日本の学校教育の充実が実は広義の社会教育、文化行政の貧困と背中合わせにあるということである。先進諸外国との比較において、我が国の文化行政予算、言い換えれば学校外におけるサービス的教育への支援がいかに乏しいかは、統計が物語っている。制度的な学校を終わった人々が自らの動機に基づいて学習を反復し、あるいは芸術やスポーツを通じて自己実現を目指すことへの国家的な支援は、はなはだしく乏しい。

 このことが、明らかに外国人の目に映る日本社会の魅力を損なっているのであるが、問題はそれだけではない。我が国では個人の人生が輪切りにされ、教養の上で自己を充実するべき時期と、その能力を単に消費して労働に従事する段階が分断されている。子どもと大人は違った存在であり、生活のさまざまな側面で異なった処遇を受けるのは当然であるが、しかし、自己実現という一点を取れば、人生には一貫した連続性がなければならない。勤勉に文化的果実を「義務」として吸収する子どもと、文化的関心を満たす機会を奪われた大人が構成する社会は、どこから見ても何と貧しく見えることであろう。

 もう一つ恐るべきことは、統治がサービスと混同されたことの別の弊害として、子どもたちが教育を国民の義務として理解し、それに畏敬の念を持つことを忘れかけていることである。義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務であるという観念を復活しない限り、教師の自信も回復されず、昨今さまざまに憂慮される教室の混乱が起こるのも当然だと言える。何よりも急がれるのは、これまで漫然と混同されてきた2つの教育を絶え間ない注意と努力によって截然と分け、区別を意識化していく政策を立てることである。


船橋洋一『あえて英語公用語論』文春新書(文藝春秋社)ISBN4-16-660122-9

2000年8月に発行されたこの本は、2000年1月18日に公表された「日本のフロンティアは日本の中にある」と副題がついた「21世紀日本の構想」の影響が強い時期に書かれたものです。この「21世紀に本の構想」は小渕首相の委嘱による「21世紀日本の構想」懇談会が10カ月の論議の結果報告したもので、船橋さんはその委員の一人でした。その全文はhttp://www.kantei.go.jp/jp/21century/ からダウンロードできます。

この本は、そういった時期の要請に従って書かれた感が強いもので、必ずしも練り上げられて書かれた文章とはなっていませんが、日本における英語教育の徹底推進派の一つの意見として、皆さんも読んで、その主張を吟味してください。以下は私の考える主なキーワード・キーセンテンスです。これら、および皆さんが発見したキーワード・キーセンテンスを基に自分の意見をまとめてみてください。

 

はじめに:これからの時代、先立つものは英語

>7ページ:「対話」の失敗

>8ページ:ソフトパワー

>19ページ:社内言語(internal use)

>24ページ:日本人のTOEFL成績

>26ページ:英語論、日本アイデンティティ論、米国ヘゲモニー論

>31ページ:英語公用語論に賛同し、もしそれを法制化したとしても、それで「国際対話能力」が万全ということでもないのです。

第一章:クレイジー・イングリッシュ---英語とグローバリゼーション

>34ページ:クレイジー・イングリッシュ

>39ページ:発財(金儲け)英語

>45ページ:バックオフィス機能

>48ページ:「世界最大のサービス産業の国」としてのインド

>49ページ:シンガポールのテオ・チー・ヒエン教育相のいう「グローバル・リテラシー(国際対話能力)」

>56ページ:アジア経済危機

>62ページ:事実上(デファクト)世界標準

>63ページ:ネットワークの外部経済性(cf. ■外部効果と外部経済・外部不経済■経済学では通常、個別家計や個別企業が意思決定をするときには、自分以外の他人の意思決定は自分の行動に影響を及ぼすことはない、と仮定する。しかし、家計や企業の行動は相互に依存的であり、他人からの影響は無視できないこともある。ある経済主体が他の経済主体の行動に影響を受けて自分の意思決定をするとき外部効果externalityが存在するといい、ある経済主体が他の経済主体から有利な影響を受けるとき外部経済が、不利な影響を受けるとき外部不経済が、それぞれ存在するという。(スーパー・ニッポニカ))

>66ページ:オンライン教育、e教育(e-learning)

>68ページ:アルビン・トフラー「学んでは、それを投げ捨て、また学び直す(learn, unlearn, relearn)」

>70ページ:「英語たち」(Englishes)

>73ページ:カルカッタを中心とするインドのベンガル地方での「英語追放運動」

第二章:イングリッシュ・ディバイド---英語と米国支配

>79ページ:シティ、ウォール街、シリコン・バレー

>82ページ:デジタル・ディバイドとイングリッシュ・ディバイド

>86ページ:英語の枝分かれ理論と「距離の専制」

>94ページ:英語帝国主義

>97ページ:1960年代の沖縄での米民政府による英語教育のための英語センター設置

>101ページ:サルマン・ラシュディの発言

>102ページ:言語権

>103ページ:英語の平等化(equalizer)機能

>111ページ:民族のアイデンティティとしての言語

>114ページ:おそらく「英語帝国主義論」の最大の弱点は、英語を志向するのが、強者で「支配する中央」の英米側というより、むしろ強者に「支配される周辺」の少数民族や少数言語の人々であるという事実である。

>116ページ:言語国権論から言語民権論へ

第三章:バイリンガル---英語と二言語主義

>121ページ:イマージョン(immersion)

>125ページ:静岡県沼津市の加藤学園暁秀高等学校・中学校(http://www.katoh-net.ac.jp/GyoshuHS/j_index.htm

>133ページ:カナダのイマージョン言語教育

>1982年のカナダ憲法では、「英語とフランス語が公用語であり、連邦レベルでは両者の使用が保障される」と記されている。その語は基本的に、英仏両語の二言語主義の維持は連邦政府に、それ以外の「遺産言語」(heritage language)」の保障を含む多言語主義・多文化主義への配慮は州政府に委ねられてきたといってよい。

>138ページ:バイリンガル政策を維持するためのコスト

第四章:イングリッシュ・プラス---英語と多言語主義

>143ページ:現在米国では全米の州の半数にあたる25州が英語を公用語にする条例を制定している。

>146ページ:サブマージョン(submersion)政策

>146ページ:1968年の二言語使用教育法(Bilingual Education Act)

>147ページ:1980年代のレーガン時代の「われら米国英語(U.S. English)」、「英語第一(English First)」団体、「英語だけ(English Only)」運動

>148ページ:「英語プラス(English Plus)」運動

>152ページ:シンガポールの公用語(国会での討論、テレビ放送局、公文書(政府・議会))

>153ページ:リー・クアンユー首相の英語公用語政策

>158ページ:シンガポール人の多くは、仲間内ではシングリッシュをしゃべりながら、出るところに出れば標準かそれに近い英語を使っている

>160ページ:欧州連合(EU)の公用語と作業語(working language)

>165ページ:言語学者の田中克彦氏の表現を使えば、「母語は国家という言語外の政治権力からも、文化という民族のプレスティージからも自由である。そして何よりも、国家、民族、言語、この三つの項目のつながりを断ち切って、言語を純粋に個人との関係でとらえる視点を提供してくれるのである」

>166ページ:「フランス共和国の言語はフランス語である」

>167ページ:フランスにおける非フランス語の権利回復を法的に織り込んだのが、1989年制定された「ジョスパン法」だった。

第五章:英語公用語論戦略---日本の何が問われているか

>175ページ:日本の少子高齢化

>178ページ:1999年末の時点で、日本に住む外国人の人口(外国人登録者)は、155万人(人口比1.23%)を少し上回っている。今後、定住外国人の数はさらに増えるだろう。

>179ページ:北新宿の「ゴミの不法投棄」

>180ページ:日本人の仲間内の緊張の回避は、外国人との間のコミュニケーションにおいて大きな問題を惹起している。(実は、それは日本人同士のコミュニケーションの問題をも生み出している)質問されることを忌避する社会---言葉の力を封じ込めようとする社会---に多くの外国人は、とまどうのである。

>189ページ:「日本の英語は二周遅れとなってしまったのではないか」

>190ページ:「この世界では確実に発信量=受信量となる」

第六章:英語公用語論提案---どこから始めるか

(省略)

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