随想

新しい随想が次々に上に来る形態をとっています。

人名に関してはたとえどんな方であろうとも97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しております[実験的に、有名な人名でも例えば「ウィトゲンシュタインさん」などと表記しています(^^)]。

2005年9月17日から、呼称に関しては、無原則(言ってみるなら、私の「気分次第」)とすることとしました。これまでの「〜さん」の原則は鶴見俊輔氏の影響でしたが、新しい(無)原則は内田樹氏の影響です(私って、ほんとに影響受けやすいのよね)。

なお、柳瀬はこのページに限らず、アマゾンへのリンクをたくさんはっていますが、これは単に読者の便益を考えてのことです。柳瀬はアマゾンとのいかなる商業関係(アフィリエイトなど)も結んでおりません。


善意には善意を (2007/3/29)

 「プロとは何か?」ということを考えていたら、「プロとは自分のエゴのためでなく、他人のため、公共のために(専門的技能と知識をもって)働く人」という定義がどこからともなく浮かんできました(注)。この1-3月だけに限っても私はその意味での「プロ」に多くお会いすることができました。それらの「プロ」の方々の善意にわずかながらでも応えるべく、ここでは謝意を述べておきたいと思います。

 まずは敢えてお名前を出しませんが、X先生。この先生は本当に激動の日々を送っていたのに、私たちや他の訪問者に、連日のように授業参観を許可されただけでなく、とても丁寧に私たち訪問者の質問に答えてくださいました。X先生のお忙しさを知っており、また実際に一分でも手が空いたら生徒のノートを添削する姿を前にして、私たちはX先生の時間を取ってしまうことに罪悪感さえ覚えていたのですが、X先生は可能な限り時間を取って私たちに誠実に対応してくださいました。多忙や名声によっても少しも姿勢がぶれないX先生を私は本当に尊敬しています。

 次に私がある共同研究の一環でお会いしたソウル国立大学教育学部英語教育学科の先生方に謝意を捧げたいと思います。入学式当日という最悪の訪問のタイミングにも関わらず、先生方は私たちの質問に丁寧に答えてくださいました。この善意に少しでも応えるべく、日本と韓国、さらには他の国々との相互理解をわずかでも個人的に促進するために私は英語ブログを作りました。(日韓のメディアの落差には本当に驚きました)。帰宅した当日のうちにメールで礼状を書き、その末尾に "P.S. Inspired by this visit, I created a personal blog in English just now."と書いてせめて少しでも謝意を表そうとしました。ソウル国立大学のある先生は、そのメールにさらに雅量で応えてくださいました。私もその先生(敢えてお名前は出しません)のような大人(たいじん)に少しでも近づきたく思います。

 次に感銘を受けたのは、SELHiフォーラムで出会った広島市立舟入高校の教師と生徒の皆さんです。彼/彼女らは模擬授業の公開という大役をこなしたのですが、私は以前、その学校を訪問させていただいていたりした縁で、模擬授業直前の控室にも入らせてもらったりしました。そこで目にしたのは、少し緊張していた授業者の西巌弘先生が、生徒からの温かい声(そして冗談)によって、日頃の自分を取り戻し、その日頃の自信で今度は生徒を鼓舞し導き、模擬授業を見事やり遂げた姿でした。西先生をはじめとした舟入高校の英語教師集団は、生徒とも、校長先生とも、市の教育委員会とも信頼関係を築き、共に歩んでゆこうとしていました。教師(集団)と生徒が共にセルハイフォーラムでの模擬授業公開という大きな課題を乗り越え、成長してゆく姿を目の当たりにすることができたのは私にとって本当に幸福なことでした。人間の成長とは、その当人だけでなく、それを見る人々も幸せにするものだと思いました。

 次に感謝したいのは、私が参加できた英語教育達人セミナー(達セミ)(3月10日佐賀市)でお会いした方々です。まずは事務局の執行正治さんと井ノ森高詩さん、本当にありがとう。二人は、事務局の苦労は微塵も見せずに、ひたすら、参加者が出会い、交流し、相互理解を深め、英語教育を少しでも改善できるような、達セミという実践共同体を作ることに全力を尽くしてくださいました。達セミに何度も参加している私としては、達セミに初めて参加した人が、午前中は恐る恐るワークショップに参加しながらも、昼食、午後のワークショップと時間と経験を共有するにつれだんだんと心を開いてきて、懇親会では職場や環境を異にする多くの人たちと、まるで旧友と話をするように打ち解けて硬軟取り混ぜた話をしているのを見るのは感動的でした。達セミは、何の公式的な後ろ楯のない、インフォーマルな実践共同体です。志を同じくする人たちが集まり、正直に語りあえば、何かが生まれるのではないかという健全な直観にのみ支えられています。そして参加することによってその直観は確信へと変わってゆきます。全国で達セミの事務局をやってくださっている全ての先生方に心から感謝します。

 達セミの特別講師にも感謝します。大分上野丘高校の麻生雄治先生は、毎年何人も東大合格者を出す進学校でCommunicative Language Teaching(そしてご本人の説明によるなら、Process Approach、Zone of Proximal Development)に基づいた授業を展開しています。「基づいた授業」といってもただやみくもに理論や方法を輸入するのではなく、これらの枠組みに即しつつも、常に「この高校現場で考えるなら、この理論はどのような指針を示してくれるのだろう」とご自分の頭で考え実践をしています。現場で毎日考えることによってはじめて出てくる実践の深みと説得力には素晴らしいものがありました。麻生先生の話はまたゆっくりと時間をかけて聞きたいと思います。

 畑中豊先生(福島県楢葉町立楢葉中学校)のワークショップを、私は本当に楽しみにしていました。私はワークショップなどに参加するときにはできるだけノートを取るようにしているのですが、畑中先生の話を最初に聞いた時、私はノートが取れませんでした。あまりに話が魅力的で、下手に私がノートを取ろうとして、私の理解力の範囲内に畑中先生を閉じ込めてしまってはいけないと思ったからです。私がこのような気持ちになったのは、私の記憶の中では畑中先生が二人目です。今回も十分にノートは取れませんでしたが、感想だけは書いておきます。それは、畑中先生は「マジシャン」だということです。
 「マジシャン」は決して観客を飽きさせません。それどころか観客におやっと思わせ、えっと驚かせ、なぜだろうと探究心をかきたてます。しかしマジシャンは決して魔法を使っているわけでもありません。マジシャンの秘密は、観客の心を読むこと、そしてその裏をかくことです。手先の技術も重要ですが、それだけではマジックはなかなか成立しません。観客の心を読みきった上で、技術を使うのがマジシャンです。
 畑中先生もそうです。ワークショップの参加者の心をつかみ、こっちの方向へ引っ張ってきたかと思うと、さらりと転換して、参加者の驚きや笑いを誘います。畑中先生はその具体的な工夫をいくつかワークショップでも公開しましたが、参加者が思わず集中してしまうような状況を巧みに作り出します。参加者は、次はどうなるんだろうとわくわくしながら、時にじらされたりしながら畑中先生の一挙手一投足を凝視します。こうなればいわば「活殺自在」です。教師は生徒を手中に入れます。
 「活殺自在」などという武道的な言葉を使いましたが、ここでの生徒を手中に入れる様は、まさに合気道のようです。合気道は力任せの「ゴリラの喧嘩」とは異なり、相手の心の動きを身体から感じ取り、その心と身体の動きに逆らわないまま、相手を導いて、いつのまにかこちらが相手をコントロールしている状況を作り出します。コントロールされた相手は、ゴリラの喧嘩のように力ずくに押さえ込まれた不快感は覚えず、「あれれ、あれれ。どうなるんだろう」と思っているうちに、自分の力が相手に吸い込まれて、相手のコントロール下に入ってしまいます。そこでは不思議な感じはあっても不快感はありません。合気道の技をあまりに見事にかけられたら笑い出してしまう相手もいるぐらいです。
 畑中先生の授業も合気道みたいです。生徒の心を読んで、動かせて、そしてその動きの中から即興で新たな展開を生み出してゆきます。この予想もつかない一体感が、生徒にとっても、教師にとっても楽しいものとなります。そして知らないうちに生徒は英語を勉強しているのです。現在の私の力量ではこのくらいにしか畑中先生の技を説明できません。皆さん、畑中先生のワークショップに参加する機会があれば、ぜひ少々無理をしてでも参加してください。また近々、明治図書から畑中先生の著書が出るとも聞きました。発刊を楽しみにしたいと思います。
 それにしても畑中先生のような先生に出会うたびに思うのは、生徒指導や生徒会指導あるいは部活指導は教師の基本なのかもしれないということです。いや即断はやめましょう。でも少なくとも生徒指導力は教科指導力と同じぐらい教師にとって重要だということです。なんたって生徒も教師もお互い人間なのですから。

 最後に感謝したいのが、第一回のOxford-Kobe Seminarの事務局長をしてくださった吉田達弘さん(兵庫教育大学)と、吉田さんをサポートした今井裕之(兵庫教育大学)らの事務局メンバーです。このセミナーは私がこれまで参加した学術会議としては最高のものでした。学識、人格ともに素晴らしいとしかいいようがない世界各地からの招待研究者と数日間宿を共にし、セミナーだけでなく、朝食、昼食、夕食、夕食後とずっと語り合います。本当に夢のような日々でした。私はこのセミナーの素晴らしさを少しでも記録しようと、現在も英語ブログに少しずつ記事を書いています(英語で書いているのは、Exploratory Practiceは日本だけでなく世界各地の教員にとっても共通の話題だと思うからです)。
 しかしこの夢のような日々も、吉田さんたちをはじめとした事務局の方々の徹底的な自己犠牲があってこそ可能になったものです(また、もちろん後援してくださったSt Catherine's College, Oxford, Kobe Institute, Hyogo University of Teacher Education, The Great Britain Sasakawa Foundation, The Daiwa Anglo-Japanese Foundation, Kyoiku-Shuppan Co., Ltd., Keiai Machizukuri Foundation, British Council, Hyogo Prefectural Board of Education, Hyogo Academic Leagueにも感謝します)。特に吉田さんはここ二年余り、自分の研究時間や家庭生活の時間を犠牲にしながらこのセミナーの開催への努力を惜しみませんでした。その時間、心労は私たちの想像を超えるものだと思います。そして当日も、ほとんど学術的な喜びを感じる暇も無く、セミナーの運営に全力を尽くしてくれました。吉田さんらのこの善意には心から感謝します。そして私はこの感謝を、何らかの形で私なりの善意の行為で表したいと思います。セミナーのみなさん、本当にありがとうございました。


 もちろんこれらの方々だけが私がお会いした「プロ」というわけではありません。また1月以前にも多くの善意に出会いながら、私としては何もできずに終わってしまったことは枚挙にいとまありません。でも、なんとかこういった方々の善意に応えたいというのが、私の一つの大きな職業的モティベーションになっています。
 善意は善意を。なんだか青臭すぎる言葉ですが、これがコミュニケーションの基本かと思います。コミュニケーションがあるからこそ、人類は一人では成し遂げられないことも成し遂げてきました。英語教育というコミュニケーションの教育をする人間の一人として、これからも英語教育関係者から受ける善意に、私なりにできる形で善意をもって応えてゆきたいと思います。
 今年度もありがとうございました。来年度もよい年でありますように。


(注)ちなみにMerriam-Websterのprofessionの定義(4a)は次のようになっています。
4 a : a calling requiring specialized knowledge and often long and intensive preparation including instruction in skills and methods as well as in the scientific, historical, or scholarly principles underlying such skills and methods, maintaining by force of organization or concerted opinion high standards of achievement and conduct, and committing its members to continued study and to a kind of work which has for its prime purpose the rendering of a public service


聞いてくれる、読んでくれる共同体 (2007/3/22)

ある中学校の先生から、このホームページのハンナ・アレントに関するページ(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418)を読んだ感想をいただきました。私一人で読むにはもったいないと思いましたので、ご本人の許可を得て、ここに転載します。なお固有名などは一部伏せ字にしております。



3年生を卒業させた後ですこし余裕があるので、ハンナ・アレントの名前が見えたページをプリントアウトして読んでみました。読んで感じたことや思い出したことをつらつら書いてみます。

8年ほど前に■■大の■■教授の講義で、ハンナ・アレントの名と、労働・仕事・行為にわけて人間の活動をとらえなおす話を初めて聴いて非常に面白く感じました。当時とった講義ノートに「行為(action)が第一に来なければいけない」「しゃべりあうことによって社会がうち立てられ変えられていく。そして自分が明確になっていく」などと記しています。でも自分の理解力に信が置けないので、書店でハンナ・アレントについての本は買いましたが、『人間の条件』のほうはまだ買っていません。解説よりも元本を読むべきなのはわかっているのですが・・

英語教育の成果や効率を求める風潮とは関係なく、生徒たちが好むと好まざると生活していかねばならない現実社会の影響を受け、学校では教室を生徒同士が気持ちを開くこと(自己開示)のできる空間にするために様々な工夫がいるのです。英語授業だけがそれをするわけではありません。生徒の美術作品を展示すること(全員分を展示する時と、良い作品を展示する時の両方が必要です)、スポーツ大会、学級活動、学級通信、人権作文発表会、句会などいろいろあります。

エンカウンターという道徳教育の手法もその一つです。簡単なエクササイズからはじめ自分が安全と思う範囲で少しずつ自己開示を多くしていくのです。私は現任校に来てから集団的カウンセリングと言われるその手法を知りました。といっても自分がそれまで英語の授業でしていたことを日本語でするのによく似ていました。逆に,英語の授業で使ってみたいと思う活動もありました。先日も小学校英語の研究を始めた中学校の英語の教師に「何かいい教材はないか」と聞かれて「エンカウンターの小学校用のエクササイズを英語でできないか工夫してみるのもいいのでは」と答えたところです。

また、以前いた中学校にいた時、同僚の国語教師が「英語の授業のあとは教室の雰囲気がなんかやわらかいのですよ。生徒同士の関係がいい。授業していて違います」と言ってもらったのは嬉しい思い出の一つです。

自己開示度の高いスピーチ活動にいたるまでに、様々なレベルで自分を見せ相手を知る活動をしていくのです。またディベートもある種「ごっこ遊び」です。「やろう、やろう」という意識が集団で共有されていなければ、ディベートをして楽しむという活動は成立しません。意見を書く英語力や相手の英語を聞き取る力を段階的につけていくだけでなく、「皆でやろう」という集団が育っていなければいけないのです。中学生は義務感でディベートはしてくれません。

現在の勤務校はできる生徒もいますが、授業に手ぶらで来る生徒もざらです。英語を習うことが自分の人生の損得には全く無関係と思っている生徒も多いのです。ですから、中学1年生のかなり初期から「人は自分の言語で話す権利がある。だいじなことは日本語で言わせろ、と主張する権利があることを忘れたらだめよ」と教えます。英語を話すことはえらいことでもすばらしいことでも何でもない、と言いつつ、英語で話し書くことを教えていくのです。「自転車に乗れないよりは乗れたほうが人生楽しいやろ、英語も同じ」なんて変な理屈も唱えます。今回ディベート学習終えた後こんなことも言いました。「スポーツと同じ。下手でも上手でもスポーツは楽しむでしょ。英語を使うことも同じ。」

ここでは、英語の学習意欲は英語を使うこと(英語で話し、読み、書き、聞くこと)によって生まれる、とはっきりわかります。それも1人では「使う」ことになりません。聞いてくれる、読んでくれる集団があるからこそ「使える」のです。

「英語ができるということは一つの尺度では測れない。いろんな『できる』がある。書くのが得意な人もいれば、リズム・発音の習得の得意な人もいる。いろんな手段を使ってとにかく通じさせてしまう人もいれば、深く読み取ることができる人もいる。できる・できないは簡単には測れない。自分の得意な方法でまずできるようになったらいい。」というのもよく言ってやることです。英語授業をお説教や説明をする授業にせず、日本語で話し・書くように英語で話し・書く力を伸ばしたい(聞き手への働きかけを母語のときよりも意識的にしないと難しい事も含めて)と思っていますが、英語の力をTOEICや英検、または間違いなく美しい発音で話すことだけで測られてはたまりません。


これからも素晴らしい言葉はできるだけ共有していきたいと思います。○○先生、この文章を本当にありがとうございました。


コミュニケーション回路のための文化的雪かき (2007/3/8)

私の仕事の重要な一側面は、人の話をよく聴くこと、そしてその話を咀嚼し整理することかと思います。学生さんの話、学会での話、現職教員の方の話、教育行政の人の話、一般市民の話、こういった話を虚心坦懐によく聞いて自分なりに吟味してまとめることを自分は拙いながらも試みているつもりです。
先日、かねがねお噂は聞いていたのですが、直接の面識はなかった中学校英語教師の方と、共通の友人を通じてメールのやり取りをすることができました。ここではその方の許可を得て、その方のメールの一部を引用します。

小学校英語導入について、中・高の教師および生徒の英語の能力について、それぞれ新聞紙上でもしきりと議論されていますが、現場の教師は「どうせ私たちの意見はとおらないしなあ」と傍観者の位置ですね。議論が遠く聞こえるなか、教室の現実と職員室の忙しさに溺れないようもがきながら英語授業を抱きかかえているのかもしれません。

若い先生がたや育ち盛りの子どものおられる先生がたは、どうやって授業の工夫と家庭生活の両立をしておられるのでしょうね。そういう先生がたが、授業の工夫もし、家庭もだいじにするということが可能な方法は?ということを考えてしまうのです。いい授業もある程度合理的な準備でできないと広まらないですよね。

現在、政府の声、財界の声は大きく強く教育現場に届けられます。でもその逆に現場教員の声は政府や財界あるいは一般市民に届いていないように思います。教育行政の人々にも届いていないのかもしれません。当たり前ですが、これはまずい。全ての関係者の間にコミュニケーションのよい回路が必要です。もちろん政治のディスコース、市民のディスコース、研究者のディスコース、行政者のディスコース、実践者のディスコースは、それぞれに日本語(あるいは英語)とはいえ、微妙に異なりますから、そのディスコースの境目をまたぐたびに一種の翻訳は必要です。別のディスコースでもわかるように言葉や説得の仕方を変えなければなりません。また大量の情報は、コミュニケーション回路には載りませんから、情報は精選される必要もあります。しかしそういった翻訳や精選を経て、コミュニケーションの回路は作られ、常に維持され、さらには改良されなければなりません。良いコミュニケーションのフィードバックさえあれば、組織も社会もうまく回ると私は珍しく楽観的に考えます。
願わくば自分の執筆が、そのコミュニケーションの回路のための役に立つものになるように。地道な勉強そして執筆は、「文化的雪かき」(村山春樹『ダンス・ダンス・ダンス』)みたいなものかもしれません。でもそれをきちんとやることが大人の義務なのでしょう。----と、それこそ地道に勉強せずに、論文執筆から逃避してこのような小文書きに自分をごまかしている私でした。おそまつ。


実践ビデオを見た学生さんの感想から (2007/2/10)

私が学部三年生(後期)対象に持っている授業は、前半7回で言語コミュニケーション力論の理論を私が解説して学生さんに討議させ、そうして言語や言語使用あるいはコミュニケーションについて語れる語彙をつけます。残りの後半は、さまざまな実践のビデオを見て討議させます。評価は日頃の討論への参加度合いと二つのレポート(理論編(4000字以上)、実践編(2000字以上))で、今は、実践編のレポートを読み終えたところです。ここでは印象的だった二人のレポートを、ごく一部編集した上でここに紹介します。
一人の学生さんは、次のように教師という存在をまとめました。

講義でも話されたとおり、この実践をそのままトレースすればよい授業が展開できるということではない。長年のキャリアの中で培われた人間性、細かな配慮、あるいは形成された生徒とのラポールなどが複雑に作用して出来た化学反応の産物は、我々が一朝一夕で真似できるものではない。
 しかしこの○○実践が示す教育的示唆は大きい。細かな技術は別に考え、「一人の教師としてのあるべき姿勢」という面から見ても、学ぶべき点は大いにある。私にとってのその一つは「失敗から学ぶ」という点であった。
 教師は、教える職業である。長くその職業を続けると、いつしか柔軟性は失われ、生徒を型に嵌めるような授業に安心を覚える。しかし常に柔軟であり続け、失敗があればすぐにそこから新たなより良い方法を模索してゆく○○先生の姿は実に感銘的である。使い古された言葉ではあるが、教師とは、同時に生徒から学ぶ職業なのであるということを再認識させられた。

もう一人の学生さんは、人格とコミュニケーションという観点からレポートをまとめてくれました。これは全文紹介します。

 授業構成力、授業のうまさ、技法というものは、ビデオを見る限り、人の人格の上に成り立つものだと感じる。つまりは、教師の人柄である。根底にこれがなければ、どんなに素晴らしい授業をしようが、絶大な効果は得られないだろう。授業がどうのこうのいう以前に生徒と心の通じたコミュニケーションをとれているかどうか重要なポイントなのである。
 ビデオを見ていると、うまい授業には流れというものがあり、絶えず、いい雰囲気を保っている。そして教師が行うあらゆることが、うまくいっているかのように見える。生徒にある力をつけるという結果的なものはビデオからはわからないが、生徒の授業に対する取り組み方から、おのずと予想はできる。うまい授業を作り出すのはつくづく教師ではなく生徒であり、その方向付けを行うのが教師であると感じる。教師の行うアイディアたっぷりの授業に間違いなどはなく、ただ、それをどのように生徒が実践してくれるかが問題であり、そこに、教師の人格、生徒とのコミュニケーションが存在するのである。ここでは授業の内容よりも、もっと広い意味で、クラスの雰囲気という視点から述べることにする。
では、授業のうまい教師の生徒とのコミュニケーションというものは、いったいどのようなもので、どのように扱っているのだろうか。生徒とコミュニケーションを取るとすれば、それは授業外の時が多いが、うまい先生というのはそれを授業を行いながら作っていくのである。○○先生の『失敗から学ぶ』というビデオで、そのことは顕著に表されていた。教師のための授業のようなものであったが、とても感銘を受けた。これが初対面における授業なのか?という驚きが合った。授業が始まって10分もすれば○○ワールドの完成である。クラス全体の雰囲気はもう彼のもので、自由自在にそれを操り、わが道を進み続けた。教師の人格など口でなかなか説明できるものではないが、ビデオを見ていて容易に納得できる。彼の授業は素晴らしいものであるが、それ以前に、それを作り出す、成功させることのできる雰囲気作りにおいて本領発揮といったところだ。それができれば後は自由に授業を行っていくだけである。これが、他の教師との差である。真似さえすれば誰でも授業という点において実践はできる。ただ成功しない、駄目な授業になってしまう。このことからいえるのが、素晴らしい授業というのは、全ての条件において絶えず変化し、一つとして決まった正解はないということだ。○○先生の授業は○○ワールドのもとで素晴らしいものになり得るのであり、別にそれが正解というわけではなく、ヒントを得る目的だけで模倣する必要は全くない。
 次に実際の授業における、成功へのポイントとなる術を述べていくとする。単純なことの連続を続けることが一番大切な事ではないかと考える。笑顔で常に明るく会話し、クラス内を歩き回り、個人個人の性格を考慮した同一でない話しかけなどがあげられる。失敗した者を常に褒めることで上げていくのではなく、時に逆にけなしてみせたり、大笑いしてやる、というような『常に』や『パターン』というものを排除したその上に、一人の同じ人間として感情を表面化することが、本当の意味でのコミュニケーションを築きあげる。生徒と教師という壁をなくし、言語という本来の目的をコミュニケーションという位置に置く科目においては、自然体が一番なのである。それができた時に生徒は初めて自分の意見を素直に述べることができ、英語の本来の目的に築くのである。ビデオの中での実践は第2言語学習と人と人とのコミュニケーション活動の結びつきが明らかに顕著である。
 かくして、視点を人格とコミュニケーションという方向に向け考察してきたが、これの成功によって授業は無限の可能性があると思う。優れた授業を行う教師の授業内容ばかりに目を向けるのではなく、もっと広い視点からその教師のその授業内容に関係のないところまで広げて、言動の一つ一つを観察してその授業をどのようにして生徒に受け入れさせるかに着目してほしいと思う。ある優れた教師が同じ授業を違う学校で行った場合、必ずしもうまくいくとは限らない。つまり私が一番ビデオから感じとったことは、授業の根底に存在する、それを支え、成功に導き、素晴らしいと言われるものへと変えていくものはいったい何なのであろうかということを学ぶとことである。

大学という現場で、これからも一層、学生さんと共によい英語教育というものを理論と実践の両面から考えてゆきたいと思いを新たにしました。


過去と現在の日本を知るために (2007/1/31)

マレーシアからの留学生とインドネシアからの留学生と私との授業(半期)が本日で終わりました。最後の10分ぐらいで、誰からともなく戦争の話となりました。留学生の懸念は、現在の日本が、自らが過去に行なったことを忘れつつあるように思えるということです。もちろん留学生も私も、日本が再び全面戦争を始めるなどとは思っていません。しかし三人とも、日本が、これからとてももっともらしい理由のもと、最新の兵器で装備した日本の若者を外国に送るかもしれないという不安は共有しています。戦火は一度始まると止めることがはなはだ困難であり、私たちの最大の努力は兵隊を動かさないことに注がれるべきであるという信念も共有していました。
私たち三人の考えこそが正しいというつもりもありません。しかし私は英語を通じてこの二人と、今日に限らずいろいろ話したことで、より多面的に過去と現在の日本について考えることができました。日本語の言説だけに自らを閉ざしていれば、明らかに世界観は狭くなると私は思います。過去と現在の日本をよりよく知るためにも英語、および他の外国語を使うことは重要だ、いや必須とすらいえるのではと再度思いなおしました。

追記:ちなみに私は二人との会話で、自分に世界史と日本史の知識が欠けていることで、何度も恥ずかしい思いをしました。これでも日本史は受験科目で得意としていたのに・・・


貧困と虐待の連鎖化 (2007/1/29)

いろいろな人のお話を聞くと、日本の格差というのは、本当に広がったように思えてきます。少なくとも「一億総中流」なんてもう死語です。お金はある所には、聞く私たちが目をむくぐらいにあるし、ない所には、悲しくなるぐらいない。もちろん、運や才能や志向に異なる人々の社会で、ある程度の経済格差があることは古今東西の常です。しかし許してはならないのは人間の尊厳を奪いかねないような貧困があること。その貧困が弱者への虐待を生み出すこと。そしてその貧困と虐待が連鎖し、その連鎖に捕らわれた人はそこから逃れる希望も気力もなくしてしまうこと。さらにはその貧困と虐待の輪の外にある「持てる人々」が、輪の中にある人のことを見て見ぬふりをすること。存在さえも無視しようとすること。現在の日本も、そのような「許してはならない」ような社会に移行しつつあるのではないでしょうか。
私たち人類は、各種の文化的営みを通じて、人が人である限り、どんな人にも認められる人間の尊厳という理念をつくりあげてきました。多くの賢人たちは、これを証明の必要のない自明の真理として、社会を作り上げようとしてきました。仮に貧困と虐待があるにせよ、社会はそれに苦しむ人々に手を差し伸べなければならない。貧困と虐待が連鎖化してしまうことを止めなければならない。これは自明の真理から導き出される命題です。
この命題は、経済合理性や強者の論理からはおそらく導出されません。しかしこの命題を疑問視したり反証しようとしたり否定したりする社会は非文化的な社会です。非人間的な社会とすら言ってよいでしょう。
少なくとも私は、人間の尊厳を自明の真理とする文化伝統に生きることを選びます。私はこの文化伝統に誇りを持ちます。この文化伝統を絶やさずに、ますますに発展させようと努力します。
しかし残念ながら私は十分なことはやっていません。福祉と奨学金で大きくなった私も、いつのまにか自分が手にしたものを、自力だけで得たものと錯覚してあぐらをかいているだけなのかもしれません。そして横着な態度のまま、経済的弱者への共感を示すポーズをとるという、最もたちの悪い偽善者になっているのかもしれません。自分が心理的弱者であることを覆い隠したままに。
わかりません。自分のことはわかりません。
ですから、せめてこうして言葉で自分を律しようと思います。
私は国立大学法人に勤める、public servant(公僕)です。英語教育に関する研究と教育活動で公に仕えようとしている存在です。
日本と貧困と虐待の連鎖を放置あるいは助長するような英語教育には手を貸さないようにしたく思います。
英語教育を通じて貧困と虐待の連鎖を破ることができないか模索したいと思います。
日本の、そして世界の貧困と虐待の連鎖のことを常に心にとめておきたいと思います。

いやになるくらい青臭い文章です。やはり私は偽善者なのでしょう。しかし、なぜか書かずにはいられないので書きました。


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