随想

新しい随想が次々に上に来る形態をとっています。

人名に関してはたとえどんな方であろうとも97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しております[実験的に、有名な人名でも例えば「ウィトゲンシュタインさん」などと表記しています(^^)]。

2005年9月17日から、呼称に関しては、無原則(言ってみるなら、私の「気分次第」)とすることとしました。これまでの「〜さん」の原則は鶴見俊輔氏の影響でしたが、新しい(無)原則は内田樹氏の影響です(私って、ほんとに影響受けやすいのよね)。

なお、柳瀬はこのページに限らず、アマゾンへのリンクをたくさんはっていますが、これは単に読者の便益を考えてのことです。柳瀬はアマゾンとのいかなる商業関係(アフィリエイトなど)も結んでおりません。


機械を作ることと人間を育てること (2006/11/03)

しばしば私は、自分はこんなこともわかっていなかったのかと落胆することがありますが、今回もそうでした。複数の出来事を偶然に連続して見聞きする中で、機械を作ることと人間を育てることの違いをまざまざと感じました。
機械を作ることは、設計図に基づくことです。設計図の仕様に適う機械ができるまで、試作品を次々に作り、駄目なものは捨てて、設計図通りの機械を作ります。それが機械製作です。
しかし人間を育てる場合に、設計図は(常にとは言わないまでも)時に逆効果になります。設計図に適わない人間を完全否定できないからです。もちろん教育の現場でさえもある一定の基準(一種の設計図)はあります。それを満たさない者には駄目出しをしなければなりません。しかし駄目出しをされた試作品の機械には何の感情も人格もありませんが、駄目出しを受けた人間には感情も人格もあります。たとえ何度も駄目出しをすることでその人間にある基準をクリアーさせたとしても、その人間の感情や人格に決定的なダメージが与えられたら人間を育てることに成功したとはいえません。そうなりますと教育の現場では、設計図中心の発想には警戒が必要ということになります。
もちろん「設計図も基準もいらない。君は君のままでいい」などといった甘言は教育の場でも横行させるべきではないでしょう。設計図や基準は教育の目標としては必要です。しかし目標が、それを達成する存在である人間自体をつぶしてしまっては、それは本末転倒です。教師も教室のリーダーなのなら、「リーダーシップとは、メンバーを統制することではなく、メンバーがもともと持っているはずのポジティブなエネルギーを引き出すことだ」といった理想を忘れるべきではないでしょう。
学校英語教師というのは、「英語」の「学校教師」いう二重の意味で権力の後光を備えた存在です。善意と熱意に満ちた学校英語教師が設計図的発想で学習者の人間性を知らず知らずの間につぶすことがないように細心の注意を払うべきかと思います。


ラディカルな問題提起、工学的アプローチ、実践的アプローチ (2006/10/10)

日本語教育学会2006年度秋季大会に参加しました。日本の英語教育界ではあまり話題にならない、語学教育における"quality of life"がとりあげられていたからです。「生の質」(青木直子氏)とも訳されるこの語ですが、「ふつうのくらし」と訳された春原憲一郎氏の話は見事でした。またそのシンポジウムの中で、"Exploratory Practice"(http://www.letras.puc-rio.br/oldepcentre/epcentre.htm)の話も出て、ここでも収穫がありました。以下、参加の感想を三点に短くまとめます。

(1)ラディカルな問題提起
英語教育の学会に比べて、この日本語教育学会では、ラディカルな問題提起が多かったように思います。これは母語話者が母語を教えるということで、少なくとも教師の目標言語習得という問題は事実上ほとんどなくなりますから、いきおい社会・政治・歴史的な根源的な問いかけにも教師の目が行くのかとも思いました。ラディカルな/根源的な問いかけというのは、言語を超えて英語教育とも通底しますから、私も面白く聞けました。といいますか、英語教育の人間である私は、この日本語教育の学会には、普段以上に、直接的な応用ではなく、間接的な洞察を求めて発表を聞きましたので、いろいろと物事を日頃とは少し違った角度から考えることができて面白かったです。

(2)工学的アプローチ
この学会では工学的なアプローチの発表が多かったように思えます。この場合の工学的アプローチとは、理学的(自然科学的)アプローチと対比される概念です。私の考えでは、工学的アプローチは、(a)問題解決志向が高い、(b)リソースの有限性の自覚が高い、といった特徴を持ちます。(a)問題解決志向が高いといいますのは、理学的(自然科学的)アプローチが、あくまでも自然世界の理論的記述・説明を第一義に捉えるのに対して、工学的アプローチは、現実で人間が抱えている問題をなんとか同定し解決することを最優先します。理論はその問題同定・解決に役立つ限りにおいて、複数の候補の中から選択されるだけです。理論がなければ、ある係数を自前で作り上げてでも、問題を同定し、解決への糸口にしようとします。このことは、(b)リソースの有限性の自覚が高い、につながります。理学的(自然科学的)アプローチにおいては、理論構築が10年、20年かかろうとも問題ではありません。しかし問題解決を第一義におく工学的アプローチでは、理論は当座使えるものでないといけません。また理学的(自然科学的)アプローチができるだけ精緻な理論を目指すのに対して、工学的アプローチでは、現実の問題が解決する程度に精緻であればよいと考えます。また科学的発想でしたら、問題は理論的に解決できる見込みがあればよいのかもしれませんが、工学的発想でしたら、問題は現実的に・社会的に実現可能な手段によるものでなくてはなりません(ウィキペディア解説Wikipedia解説)(注)。(a)の問題解決のためには、最大限のリソースを使いたいところですが、(b)のリソースの有限性からすれば、リソースは現実的に可能な程度までに絞り込まねばなりません。工学的アプローチにおいては、問題同定の精度、問題解決の度合い、問題解決手段の選択などなどを総合的に勘案して、計画を立てなければなりません。そういった総合的な立案は「デザイン」と呼んでもいいのかもしれません(ウィキペディア解説Wikipedia解説)。そうしてみますと工学的アプローチとは、現実世界の中でのデザインを行うアプローチだとなりましょうか。この日本語教育学会では、私が日頃見聞きする英語教育の学会に比べて工学的、ひいてはデザイン的な発想がより多く見られたような気がします。英語教育の学会には、見かけ上の精緻さにこだわる自然科学コンプレックスが多いというのが私の観察です。

(3)実践的アプローチ
ただ工学と教育学が違うのは、工学の実行は機械によるものが普通であるのに比べて、教育の実践は人間によるものが普通ということです。いうまでもなく、機械とは標準化されたものですが、人間はそれほどには標準化されず、それぞれの個性を有したものです。したがって教育の実践は、工学の実行以上に、そのプロセスの多様性や揺らぎを勘案しなければなりません。また対象も工学が主に自然世界であるのに対して、教育はこれまた人間です。となりますと、個性を持った人間(教師)が、個性を持った(複数の)人間(学習者)と相互作用を行うというのが教育となります。そうしますと教育は、工学以上に、実践/実行での相互作用を重視しなければならないことになります。要は、人間同士の営みであることを十二分に考えなければならないということです。この日本語教育学会では、そういった意味での実践的アプローチが英語教育の学会よりは重視されているようにも思えました。ここにおいても私は英語教育界の自然科学コンプレックスを感じます。

しかし上の感想は「隣の芝生は青く見える」ものなのかもしれません。英語教育の学会もそれほど捨てたものではないのかもしれません。でもいずれにせよ、上の(1)ラディカルな問題提起、(2)工学的アプローチ、(3)実践的アプローチは、日本語教育学においても英語教育学においても重要なことでしょう。いや国語教育学でもそうかもしれません。

そうしますと、そういった本質的な問題意識で集える「言語教育学会」といったものがあれば面白いのかもしれません。それぞれの技術的な事柄はそれぞれの学会に任せて、「言語教育学」という問題意識で集うことは重要なことではないでしょうか。


(注)現時点でのWikipediaでは工学と理学(自然科学)の対比で
You see things; and you say "Why?" But I dream things that never were; and I say "Why not?" --George Bernard Shaw
Scientists study the world as it is; Engineers create the world that has never been. --Theodore von Karman
というアフォリズムを引用していますが、確かにこういった対比は本質的な違いをよく表しているのかもしれません。



翻訳という喜び (2006/9/9)

まあ、数日間だけの仕事というのには、しばしば人は格別の喜びを見出すものですが、それにしてもこの数日間、私は翻訳を楽しんでいます。翻訳といっても、今書いている原稿に引用するために、複数の英書の一部を翻訳しているだけですが、ひさびさに翻訳を自分なりにきちんとやろうとすると、いろいろ考えたり、調べ直したり、書いては推敲したりと、いい勉強になりました。というよりも端的に楽しかった。

だいたい私は、読んで面白いと思った文章を原文どおりに書き写すことが好きです。書き写すと、読んでいた時にはわからなかった、著者のことばの息遣いとか、使い分けとか、仕掛けとか、深さとか、あるいはめったにないことですが、飛躍や跳躍がわかって、ただ読んでいるときよりも、はるかに深い理解ができるからです。また、書き写すのは、たとえパソコンを使っても疲れることですから、書き写す前には、どの箇所が本当に書き写す労力にかなう文章だろうと、これまた日頃より深く読もうとします。かくして理解の喜びも深まります。こういうわけで私は筆写が好きです。拙いものにすぎませんが、私の日本語力や英語力の一部はこのような筆写によって培われたと私は思っています。

翻訳は筆写以上に、私が作者のことばに対して意識的になり、考え、考え直し、感じ、感じ直します。また英語の語彙は日本語の語彙ほどに熟知していませんから、私は各種辞典を読み直し、英語と日本語についてもかなり考えます。また冠詞や単数・複数表現、あるいは名詞と動名詞の使い分けなど、日頃なかなか気づかないことにも気づき、その都度考え直したり、前後を読み直したりします。そうして、そのことばを通じて、作者はどのようなことを伝えたかったのかという、ことばの底にあるトーンやニュアンス、そして趣意を掴もうとし、その掴んだ名状しがたいものを、どのような文体やリズムで表現できるかを呻吟します。また、訳出してみると、訳語が重なったり、品詞を保ったままの訳が難しかったりと、いろいろ細かい技術的問題が生じてきます。これもどうトーンやニュアンスそして趣意を最大限表現するかという方針の中で、数々の妥協をしながらなんとかしのいでゆきます。そして何度も心の中で音読し、日本語を整えます。私は基本的に意訳でなく直訳が好きですが、直訳もこうしてみるとかなり難しいものです。しかしこういった一種の職人芸的な仕事というのには、それ独自の喜びがあるものです。

とはいえ、私の実際の翻訳は、「いったい上のようなことを本当に考えていたの?」と問われるような質の低いものです。ですが、翻訳は、文章修行になり、またそもそも当該の文章を深く理解するには非常に有効な手段の一つだということは確信しています。

もちろんだからといって、大学入試には翻訳が必要だなどと論を短絡はしません。必要なら必要で、その主張をするためには、いくつものステップを注意深く経た推論あるいは正当化が必要でしょう(そして多くの場合は、大学入試問題に翻訳は必要ないという結論に落ち着くことでしょう)。

ただ昨今の英語教育界では、翻訳はひたすら悪者扱いされていることが多いので、このような個人的随想もここに掲載しておく次第です。

さ、仕事に戻らなければ(苦笑)。


改めて問うに、教養とは何か (2006/9/7)

どうも最近、安っぽく偽善的なことばばかりが自分の中から出てきてしまいます。
私の中で何が起こっているのかわかりませんが、とりあえずそのことばをここに吐き出してみます。


改めて問うに、教養とは何か。

それは、
自分が一人の人間、社会人、あるいは世界市民(!)として生きるために本質的な事柄を、あまたの現象や文章の中から探り当てる感性。
そしてその探り当てた事柄を読み解き、自分を変えてゆける強靭な知性。
さらにその感性と知性を保ち続け、他人との出会いと衝突の中で発展させようとする生き方。

でも、
この感性は、下手をすれば、教えと学びを制度化・マニュアル化・効率化の流れで推進する学校文化によって抑圧されてしまいます。
この知性は、ともすれば、正解と不正解を峻別し、正解を増強し、不正解を抹消しようとする浅薄な「ディベート」文化によって否定されてしまいます。
この生き方は、しばしば、既得権益社会の快適さや大衆迎合社会の安逸さに流されてしまいます。

今は、
時の勢いがどこにあるのかをすばやく察知する感性と、
与えられた限定的問題の解決だけに専念する知性と、
想像力と思考に枠をはめてしまおうとする生き方が
もてはやされているようにも思えます。

今の時代に教養は生きているのでしょうか。


     あー嫌だ嫌だ、こんな砂糖まみれのことばを書き連ねる自分が嫌だ。
     こんなことばを連ねるのは偽善か愚鈍の現れだ。
     こんな稚語を語らないことこそ教養ではなかったのか。


道徳を説く者はたいていにおいて道徳心を欠き、
愛国を叫ぶ者は往々にして愛国心を私物化している。

教養について語る者に気をつけろ。

     私に気をつけろ。

ウワァァァァヽ(`Д´)ノァァァァン!(←バカ。暴発。ナンマイダ。)


ナンマイダブ、ナンマイダブ、ナンマイダブ
チーーーン


文学と歴史の理解が四択で測られることが当たり前になった時代に (2006/9/6)

文学と歴史の理解が四択で測られることが当たり前になった時代に教師は何をすればいいのだろう。

私が文学や歴史を読むたびに思うことは、わかっていそうなことは実はわからなく、わかっていなそうなことは実はわかっているのかもしれないということ。一つの命題にはYesとNoが同時に成立すること。「いくつかの解釈が可能」なんていうけど、解釈なんて、実はここからここがAの解釈で、ここからBの解釈なんて、線引きができないこと。解釈はいくつ、なんて数えられる離散的なものではないこと。
私が文学や歴史に教えてもらうことは、ことばの微妙さと奥深さを愛しむこと。短絡と平板の愚かさを知ること。スローガンと絶叫の下品さを学ぶこと。自分の考えの反転と否定を楽しむこと。

私がテスト作成者として四択問題を作るたびに考えることは、正解と不正解をはっきり分けること。両義性を避けること。曖昧なことは問題外として思考の枠組みから締め出すこと。一つの正解だけが可能になるような世界を作り出すこと。そして後はマークシートリーダーとコンピュータに「間違いのない」学力評価を委ねること。

とても安っぽい言い方だけれど、私たちは「信頼性」やら「説明責任」とかいう日常用語の体裁を取りながら、どこか私たちの生活と決定的に乖離した専門用語のために、教養という日常文化を犠牲にしているのではないか。

教養のないエリートの跋扈と、教養のない大衆の快哉が私は怖い。
私は四択を選べずに、ぐじぐじと考える愚者でいたい。


中村敬先生がホームページを開設されました (2006/8/26)

私は中村敬先生には、実際にはお会いしたことがなく、著書しか読んだことがありませんでした。近年、インターネットにより、メールの時折の交換ができるようにはなりましたが、まだ直接謦咳に接する機会は得てはおりません。しかし先生の言論活動を知れば知るほど、私の敬愛の念は高まってきております。
中村敬先生に私が私淑しますのは、その主張内容に賛同することが多いからということもありますが、実はそれよりも中村先生が、常に自分の頭で考え、自分の言葉で語り、そして自分の責任で行動されているからです。さらに、先生はその言動を公的なものに高め、それを社会の荒波の中で進化させてゆく姿勢を、大学人としても、一市民としても貫かれております。
私はこの姿勢を貫かれる方には、主張内容の違いなどに関わらず、敬意を表したいと常々考えております。

その中村敬先生が、この度、ホームページを開設され、その言論をより広く公のものとされたことは、私の心からの喜びであります。
http://www.k4.dion.ne.jp/~shimin/
「晩鐘」などは読み応えがあります。皆様、ぜひお読みください。

私も中村先生と同じように、英語教育を通じて広く社会を考えていくという姿勢を、中村先生からは笑われるような低いレベルでこそあれ、続けてゆきたいと思います。

関連記事
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050211
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#040326


想像力の欠落について (2006/8/15)

ひさしぶりに音楽の友人とゆっくり話をすることができました。仕事の利害などは全く無関係で、お互いの感性と知性だけでつながる友人というのは、本当にありがたいものですし、また楽しいものです。
話の中で、日本で教育を受けた多くの演奏家は楽譜どおりの機械的な意味での演奏には長けるかもしれないが、どうもそこを超えたところでの表現が駄目だ、ということになりました。そこでお互いが同意したのは、「楽譜を演奏するのは、楽譜の向こうにあるものを表現するためだ」ということです。

話は、そこから、想像力(imagination)の欠落というテーマに発展しました。

そこで私は、「楽譜と同じことは言葉にも言えて、言葉を読むとは、言葉を通じて、言葉の向こうにあることを読み取ることなんだけど、今はそれを読み取れない人が多い。いや、読み取れないだけでなく、読み取ろうとしない人が増えてきた」と述べました。

そうして、想像力の欠落の例として、私はさらに、私が先日学会で経験した話をしました。
それはある熟練教師に関する事例研究(ケーススタディ)の研究発表に寄せられた質問です。
「このように一人のケースについて調べても、どれだけ一般性のある見解が得られるかわかりません。もっとたくさんの人のことを調べなければならないのではないですか?」という質問が真顔でなされたのです。

その私の報告を聞くやいなや、私の音楽の友人は間髪を入れずにこう言いました。
「なんですか、その知性を否定するような発言は!」。
自分の声にちょっと驚いたようにして、彼はこう続けました。「人が一億人いるなら、一億のケーススタディが必要だとでも言いたいんでしょうかね、その人は。想像力を使って、一人の事例からでも可能な事態を読み解くのが知性というものでしょう」。

私も同意します。
私も正直、その質問が会場でなされたときに、びっくりして知人と顔を見合わせたものです。
例えばですが、もし私が学生に『罪と罰』を読ませて、それを読んだ学生が「先生、でも僕はロシア人じゃありません。てゆーか、人も殺してないし、殺すつもりもないし」などと言って、その読書の意義を否定したとしましょうか。あるいは、私が学生に昭和の戦前の歴史の本を読ませたら、その学生が「でも、今は平成ですから、こんな昔の話を聞いてもどうしようもありません」と言ったとしましょうか。
皆さんなら教育者としてそのような発言にどう対応しますか。
私なら大学教師としてその場で罵倒します(教育現場では、限られた場合においては罵倒は許されると私は信じています、あ、もちろん心理的ケアは適切になされているというのが前提です)。

でも、現在の英語教育学界では、知性の定義から想像力というのは欠落しているのかもしれません。

表面だけ、量的研究を取り入れたものですから、妙に「一般化」や「数量化」ばかりを気にします。想像力を駆使して、あることを読み解くことは、恣意としてもっぱら忌避の対象になっているようにも思います。教育実践でも、文字通りのことを文字通りにやることばかりが勧められ、文字に書かれていないことはやらないでもいいなどと豪語する人も出てくる始末です。

こういった流れは、あたかも英米文学を批判していれば、英語教育の正しさは担保されるといわんばかりの、ここ20年ぐらいの軽薄な英語教育界の論調につながっているのでしょうか。あるいは、一昔前の「情報処理」パラダイムでの認知心理学だけを金科玉条のように研究の規範としている英語教育学界の怠慢が関係しているのでしょうか(当の心理学はとっくに多様化しているのに)。
それともこの流れは、英語教育界を超えてさらに大きく捉えられるべきでしょうか。つまり、丸暗記や定められた解法によって情報処理することだけを受験学力として促進する学校教育文化が、度重なる批判にもかかわらず今まだ根絶されずに私たちを支配しているということでしょうか。あるいは、目に見えることだけ、数量(できれば金銭)に換算できることだけしか視界に入らないような人々は、新聞の見出しに出ているだけではなく、もはや私たち自身でもあるのでしょうか。

「そういえば」、と別の音楽の友人も言います。「昔は学歴と教養の間に、ある程度の高い相関があったけど、今の若い人たちを見ると、必ずしもそうは思えない。この場合の教養とは、別に雑多な知識とかいった意味でなくて、創造的な知性という意味なんだけど」(ハイ、こんな話をする私たちはみんな「おっさん」です(笑))。
でも、少なくとも昔の進学校(高校)には、勉強しかしない奴を軽蔑して、勉強はこっそりとやって、人前ではガンガン遊んで、スポーツや音楽に熱中すること、さらにはどんどん受験と関係のない本を読むことこそが、高校生のあるべき姿だといった、インフォーマルな価値観がなかったでしょうか。その中で丸暗記や解法適用以上の知性の価値が受け継がれていたのではないでしょうか(想像力という知性の行使なしには、遊びもスポーツも音楽も読書も楽しむことができません)。今、進学校の現状はどうなのか、私は正直、知りたいです。
大学においては、遥か昔では「デカンショ」、30年ぐらい前ならマルクスなどを、滑稽なぐらいに知ったかぶりしながらも、お互いに読み進めようとして、わからないことがわかるようになることが知性だといった、教養主義が生きてはいなかったでしょうか。そういった教養は、実は底が浅いものだったかもしれません。しかし、世の中には自分を超えた知性というものがあり、学生はそれと格闘しなければならないというタテマエはあったと思います。しかし多くの大学現場においてそのようなタテマエは今や崩壊してしまいました。想像力を駆使せずに、言われたことだけを忠実に覚えることだけが、大学教育になっているのかもしれません。「わからない」ことは教師の教え方が悪いのであり、想像力を働かせて、必死に自らの思考の限界を突破しようと苦悶することは、学生文化の中から急速に消え去ろうとしているのかもしれません。「何を覚えて、何をどうしたらいいのかを全部教えてくれる」のが現代のよい大学教師像になっているのかもしれません。

これはまずい。
そんな機械にも代行可能な記号処理的知性しか持たず、自ら想像することも、その想像に基づいて意欲することもできないような若者が、グローバリゼーションの中での、世界の他の国のエリートに勝てるわけはありません。
私たちは、私たちの「知性」概念の中に、「想像力」という項目をしっかりと再登録しなければなりません。


昔、私が今よりもっと傲慢だった若い頃、私はあまりにも退屈な学会発表を聞きながら、「こんな発表を聞くぐらいなら、モーツァルトを聞いていた方が、よほど英語教育のためになる」と思っていました。



私はそれほど間違っていなかったのかもしれません。



まあ、このように偉そうなことを言い放題にネットという書く私こそが、想像力欠落人間のいい例なのですが(笑)。


「教師は踏み台」(蒔田守) (2006/8/12)

以下はあるメーリングリストにおける蒔田守先生のメール投稿です。蒔田先生に転載許可を得ましたのでここに掲載します。

(日付:2006年7月20日)

筑波大学附属中学校の蒔田です。
いつも楽しみに読ませて頂いています。

> 蒔田守先生が三重県での研修会で、
> 「授業が本当にうまくいったときには、生徒は先生の存在を
> 忘れるでしょう。」
> ということを話されていました。


谷口先生、ずいぶん前の研修会の内容を覚えていた下さりありがとうございます。
「授業×家庭学習」の繰り返しで、はじめて生徒は力を付けていくものだと考えています。

そもそも「授業」がうまく回転しているときには、生徒は「やらされている感覚」なしに家庭学習に取り組めるようです。
その結果、卒業時には、教師から授けられた学習法の枠組みやちょっとしたコツ(これが意外と大切です)を完全に消化して自分のものとしているので、教師が生徒の英語の力がついたことを評価すると、生徒は「英語が出来るようになったのは当たり前だもん。だって、あたし勉強したんだから!」とすべて自力で事を進めたような気になる生徒が出現します。

教師としては、嬉しいような、寂しいような、不思議な感覚です。

一方で、大学合格報告に中学校を訪れてくれる生徒の多くが、中学時代の基礎学力の大切さを確信させる発言をしてくれます。
確かに今でも中学3年生で、ある面で、すでに私を越えていると思われる生徒が育っている事は嬉しい限りです。

教師は踏み台。へこたれないしっかりした踏み台になりたいものです。

とてもいい言葉だと思いますので、忘れないようにこのページに転載しました。

*****
以下は私の蛇足です。
過度の単純化を恐れながらの発言ですが、技能教育を図式化すると以下のようになりませんでしょうか。

やり方(訓練) + 場(経験) 自律(=能力+意欲)
動機づけ 動機づけ


つまり、教師の仕事とは、(1)生徒に技能習得の訓練のやり方を教えること、(2)様々なやり方で動機づけて生徒の訓練を促進すること、(3)生徒に技能活用の経験の場を与えること、(4)様々なやり方で動機づけて生徒の経験を促進すること、そして、(5)生徒を自律的な存在(=未知の状況にも何とか自発的に対応できる能力と意欲を備えた存在)に育て上げること、です。

蒔田先生は上で、主に(1)と(5)のことについて語られているようですが、私はその背後には(2)の配慮があったと思いますし、英語使用という高度で創造的な技能は、訓練だけでは対応しがたいと思いますから、(3)と(4)を私は付け加えました。

いずれにせよ、言いたいことは、「教師の仕事は生徒を一人立ちさせること」ということです。

なんだか小学校から大学まで、学習者をますます依存させるような教育が増えてきているのではないかという不安を感じることが多いので、上の蒔田先生のメールが印象に残り、こうして駄文を連ねました。お粗末。

追記
蒔田先生は、転載許可通知のメールで、「・・・柳瀬先生がご指摘下さったような、中間のステップが省略されていますが、そこでの駆け引き(生徒の必要を見抜き、適切な課題を設定すること)が適切に行われるかが、その年のできを左右するほど大切だと思います」ともおっしゃってくださいました。
上の図でいうなら「動機づけ」は、決して一般則だけに基づくようなものでなく、生徒の状態(=気持ち・力量)と課題(=訓練・場)の双方を見極めた上で、生徒と「駆け引き」をしながら相互作用的になされるものだ、とでもなりましょうか。そこにはもちろん教師と生徒(一人一人、そして集団全体)との関係が強く影響しています。
教育は科学以上のものだということを改めて痛感します。


学会にもっと「現場」の声を (2006/8/11)

全国英語教育学会に参加しました。その中の問題別討論会(「英語教育研究と英語教育実践」)は、きちんとした議論がなされたものであり、私は参加してよかったと思いました。
その中で、あるSELHi高校の先生(提案者)は、現場は、大学やその他の機関の研究者などの「助言」をすべて聞き入れることはできず、(1)生徒のためになること、(2)教師のためになること、(3)無理なく実現できること、だけを助言として受け入れたと報告していました。
現実的な態度だと思います。
私の理解では英語教育学・英語教育研究などが成立するとすれば、それは実学としてです。もっぱら研究者の個人的な興味関心からなされている、現場との関連性が全く見出しがたい研究は、英語教育以外の分野の研究として認識されるべきだと考えます。少し言い換えますと、英語教育の現場への当事者意識を全く欠く研究は、英語教育学・英語教育研究と呼ぶべきではないと私は思っています。私はそれが学会の見識であるべきだと思っています。
とはいえ、「実学」や「現場との関連性」あるいは「当事者意識」といった言葉には注意が必要で、もしそれが「明日の授業にすぐに役立つこと」だけを意味するのなら、そういった安直な発想は、研究者も現場教師も駄目にすると私は考えます。実践とはそんなに単純なものではありません。実践を単純なものとして考えることは、研究者の狭い視野をますます狭くし、同時に、現場教師の実践的思考力を奪ってしまうのではないでしょうか。「実学」とは現場へ深い洞察を与え、結果的に、それぞれの読者に、それぞれのやり方で影響を与え、現実を変えてゆく力をもった研究だと私は思っています。
しかし現状は、そういった「実学」とは程遠い研究がまだまだ多いです。どう考えても古いタイプの認知心理学研究としか思えない発表や、表面だけの数値データから、現場教師へ、こうしろ、ああしろと指示を出す発表などを、私は今回聞きました。こういった量的な体裁を取った研究が、学会誌には掲載されやすいというのは、もはや公然の事実と言ってもいいでしょう。私は何人もの人がそのようなことを言っているのを耳にします。学会誌掲載という業績は、大学人にとって死活問題ですから、かくして大学の研究者はますます現場の当事者意識意識を失ってゆきます。全国英語教育学会という学会の強みは、中高の現場の先生が参加してくれるところにあると私は考えているのですが、そうやってわざわざ時間とお金を使って学会に来てくださる現場の先生方の期待に、多くの研究発表は応えることができていません。これは学会の見識が問われているのではないでしょうか。
その点、件の問題別討論会では、コーディネーターと提案者がそれぞれ直言をし、自由討議でのフロアーの発言者も「言いすぎかもしれませんか」と繰り返しながら(笑)、英語教育研究への率直な不満を表明し、さらにそれに対してコーディネーターも、率直に「私も言いすぎかもしれませんが」と言いながら反論していました。私が会った人たちは一様にこれをいい問題別討論会だったと褒めていました。ある厳しい人は「この学会で私が内職をしなかった問題別討論会はこれがはじめてです」と言っていました。ある見識ある人は「他の問題別討論会がタテマエの発言ばかりするので、途中からこの問題別討論会に来たけど、本当によかった」と言っていました。別の、英語教育界全体を良く見ている方は、この問題別討論会に来れなかったことを非常に残念に思い、量的な体裁だけを整えた研究発表に辟易としている旨を率直に話されました。

明らかに英語教育の学会・学界には、もっともっと現場の声を入れる必要があります。
そのためには少なくとも次の二つのことが必要でしょう。

(1)大学人の妙な権力意識・権威主義を取り除く:
大学人と中高教師の関係は、まだまだどうも前者が後者に「指導助言をする」という形でのみ捉えられています。そしてその「指導助言」は、いくら腑に落ちないものであっても中高教師はそれを拝聴しなければならないという雰囲気があります。こうして大学人はますます横柄になり(私もそうかもしれません)、中高の教師はますます萎縮します。これは両者にとっての悲劇です(そして最終的な被害者は学習者です)。大学人の「指導助言」にも、中高の教師はどんどん素朴な疑問を発し、反論もする。それに対して大学人も誤解されたことや納得できないことには正直に再反論する。そうして両者が英語教育の当事者意識を保ちながら、礼節を忘れずに、きちんと情理を尽くして誠実に話し合う----考えてみれば当たり前のことですが、この当たり前のことが、まだまだ英語教育界では当たり前にやられていません。(私のような)大学人のつけあがりを防ぐために、どうぞ現場の率直な声をどんどん発してください。
大げさな言い方をしますと、これは権力関係の改変----すなわち一種の革命です。この革命を、扇情的な態度で暴走させることなく、緩やかに穏やかに、権力関係を、上下の権威的な関係から、水平の対等で適度な緊張関係に移行させることができれば、英語教育界も英語教育研究ももっともっとよくなると私は信じています。この問題別討論会はその小さな証拠だったと私は考えています。学問研究は、民主主義的な文化で最も発展します。英語教育学界にも民主主義的な文化をもっともっと根づかせたいと私は強く願っています(注)

(2)学会誌の査読体制を見直す:
学会誌への投稿論文の採択を決める査読者こそは、実は、英語教育学界の最大の権力者なのかもしれません。しかし査読は密室で行なわれています。また査読の原則や方針も英語教育界はまだまだ不明瞭なところが多いままに、量的研究ばかりを優遇する体制になっているように思います。私は量的研究への偏重には問題があると言い続けています。私もこういったネットといった媒体でこのように愚痴るだけでなく、きちんと学会の総会などで発言をするべきなのかもしれません。しかし学会誌のあり方を決めるのは、言うまでもなく学会員の意思です。どうぞ皆さん、英語教育の学会誌のあり方に対してどんどん公に発言をしてください。全国英語教育学会ではありませんが、ある非常に実践者を大切にする研究会も、最近の紀要では、実践者の論文を掲載せずに、量的研究ばかりを採択するようになったとも聞いています。皆さんはこういった体制に満足していますか。満足していなかったらどうぞ声を上げてください。学会誌が変わらなければ、学会が変わりません。学会が変わらなければ、学会への参加者の英語教育実践も変わりません。その被害者は、日本の未来を担う子どもたちです。どうぞ皆さん、学会の場であれ、ブログであれ、掲示板であれ、もっともっと英語教育学会のあり方に関して公に声を上げてください。


(注)大学人と中高教師の間で現在共有されているこの上下的な権力関係を代表しているのが「現場」という言葉遣いだという発言も、自由討議の時に聞かれました。大学人が「現場」という言葉を使うとき、そこには一種自分達は高みにいるといった感じが伝わってくるというわけです。私が信頼する人も「私は言葉狩りは嫌いですが、この『現場』という言葉には抵抗を感じます」と言っていました。
なるほど。
しかし、私個人は、織田裕二が好きですから(笑)、この「現場」という言葉は非常に好きです。私は常にポジティブな意味で使っています。考えてみれば大学人も、大学の教室という「現場」を持っているわけですから、中高の先生も、「大学の現場はどうですか」と尋ねればいいだけです。私は「現場」という言葉を言葉狩りの対象にするのには反対です。
そもそも一定の言葉さえ使わなければ、自分は倫理的存在でありえ、その言葉を使う者を裁断的に糾弾できるというのは、私は思考と感覚において鈍い態度であり、自らへの問いかけを怠るという意味では非倫理的とも言っていいと考えています。私はできるだけ言葉狩りはしたくありません。

追記(2006/8/29)
ブログ「英語教育にもの申す」の倫太郎先生が、この記事に関してコメントをくださいました。
http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2006/08/post_f04f.html
私の主張に賛成して下さった上で、「こういう意見が主流となればなるほど、今よりも『現場の教師』の責任は大きくなるとも思う」と述べ、「不幸なことは、Aランクの先生が『英語教育とはかくあるべき』と、べき論を発言したり(確かに、机上では正論かもしれない)、Eランクの先生が『ウチの学校では…』と思考を停止したり、することだ」などとも論じ、今後の英語教育研究の道筋に光を当ててくださっています。短い文章です。ぜひご一読ください。
ただ、私は、私が上で述べたような意見が、そう簡単に主流になるとは思っていません。惰性を変えることは容易ではありません。


現象の言語化と質的研究 (2006/8/11b)

全国英語教育学会での自由発表(英語教師へのインタビュー研究に関する予備的理論考察----技能と言語の関係について----(草稿))には、自分の予想以上の賛同と共感を得たのでちょっと驚きました。質的研究は英語教育界で待望されているのかもしれません。
その発表のテーマの一つでもありますが、ある現象(例えば優れた英語授業)を言語化するというのは、なかなかに難しいものだということを、その後の様々な機会に感じることがありました。私たちは、少なくとも訓練を欠いた最初のうちは、現象を言語化しようとしても、自分で情けなくなるぐらいしか言語化できません。
しかしそもそも、関連性理論(Relevance Theory)も言うように、人はたいていの場合において、表現したいことの一部しか言語化できません(また、そもそも人は自らが表現したいことを予め知り尽くしているわけでもありません)。人は表現したいことの断片としての言語表現を聞き、その言語の意味世界(literal meaning, explicature)だけでなく、その言語の向こうに存在する意味世界(speaker meaning, implicature)をも推測することが言語理解です。発話にせよ、人は己の最善を尽くして自らを言語化し、あとは聞き手の理解に委ねるしかないのです。そうすると、私たちが現象の一部しか言語化できないとしても、それはむしろ言語使用の常態であり、全面的な失敗というわけではありません。
ところが現在は、明示的に言語化された意味、つまりは文字通りの意味だけを相手にする文化が力を得ています。アカウンタビリティや自然科学です。これらでは「言語から言語へ」(「記号から記号へ」)と明示的な文字通りの意味だけが伝えられる言語使用が中心となっています。無論これらが悪いというわけではありません。しかし、これらの言語文化ばかりに光が当たり、文学や評論といった、暗示的な含意を大切にする文化が軽んじられている現状には私は警戒したいと思っています。
そもそも「言語から言語」という記号変換は言語使用のごく一部に過ぎません。現時点での人工知能では困難な、人間固有といってもいい言語使用は、言語化されていない非言語的な現象をなんとか言語化すること(「非言語から言語」)であり、その言語表現から、暗示的に示されている非言語的な現象を想像できること(「言語から非言語」)です。質的研究というのは、まさにそのような人間的な言語使用を重んじている文化ではないでしょうか。
そのような言語使用文化が、アカウンタビリティや自然科学といったビジネス的・科学的な言語使用文化の隆盛の中で不当に評価されないようにと私は願います。
そのためには質的研究を志向する人間が、まずもって、よい文章----文字通りの意味だけに限らず、適切に含意をも表現し、かつ恣意奔放にも流れない言語表現----を書く必要があります。
当たり前のことですが、本当によい文章だったら、その価値はビジネスマンにも科学者にもわかってもらえます。
そういう意味で、質的研究を目指す者は、もっともっと、非言語と言語を結ぶ、音楽評論やスポーツ評論、あるいは文学を読みこなす必要があるのかと思います。
改めて教養の重要性を認識する次第です。


第二言語習得研究や英語教育研究の「立ち位置」について (2006/7/6)

7月5日の記事の清水宣明・甲野善紀『斎の舞へ(いつきのまいへ)』仮立舎で、話のマクラに第二言語習得研究について少し書いたら、ある読者の方から以下のような質問が「広場」に寄せられました。

>第二言語習得研究も「現場への応用」のためにやっているのではないことは、
>例えば日本の「第二言語習得学会」の「発足の趣旨」
>(http://www.intsurf.ne.jp/purpose-J.html)を見ても明らかです。
> しかし、だからといって、医学や第二言語習得研究が「現場」と無関係に
>発展することは、社会的には望まれていないでしょう。

この箇所は領域画定とその領域の性格を考える上で重要だと考えます。柳瀬さんは「現場」と無関係に進展する研究は「社会的には望まれていないでしょう」とされています。
 念のためにリンクを辿って該当箇所を確認すると、「言語教育に対していかなる示唆を含んでいるかという問題は含まれていない」とHPにはありました。
 が実際にはこの分野の研究知見に基づくより一般的書籍の形を通じて示唆を読むことができる現状があります。
このあたりの事情はどう理解すべきなのでしょうか。

ちょうどいい機会なので、以下に私見をまとめてみることにします。

 「第二言語習得研究」には狭義と広義があると私は理解しています。
 狭義の第二言語習得研究は、「第二言語習得学会」の「発足の趣旨」に書かれているように、科学としての探究で、現場の応用といったことは第一義的には考えていません。この立場は、公刊されている本では例えば、白畑知彦編著、若林茂則・須田孝司著(2004)『英語習得の「常識」「非常識」―第二言語習得研究からの検証』(大修館書店)の中で若林茂則先生が明確に述べられていて、そこでは「外国語習得のメカニズムを探る『習得研究』と、外国語の勉強や教育の方法を考える『外国語教育研究』とは別のもの」(64ページ)、「言語習得研究と言語教育研究は、互いに関連しながらも、全く異なる目的で行われる別の分野」(91ページ)とされています(注)。
 広義の第二言語習得研究は、もっと教室現場への応用を重視しております。実際、こういう意味での「第二言語習得研究」は、非常に幅広い意味を持ち、例えばJACET SLA研究会編著(2005)『文献からみる第二言語習得研究』は、「普遍文法」や「コネクショニズム」などに始まり、「学習者の自律」や「動機づけ」、ひいては「CALL」、「児童英語教育」、「教師教育」までも自分の領域だとしております。
 したがって、「現場への示唆」を多く出しているのは、広義の第二言語習得研究だということになります(これが上の質問へのとりあえずの答えです)。

 ですが、これは狭義の第二言語習得研究、ひいては認知科学が、英語教育実践に何の示唆も与えないことを意味はしません。ついでに少しここで私の考えを整理しておきます。以下の図1は、第二言語習得研究や英語教育研究の「立ち位置」に関する私なりの図解です。
 科学や狭義の第二習得研究(SLA研究)は英語教育研究ではありません。細分化と厳密化は、英語教育研究の実学性を失わせてしまうからです。同時に、実践や技芸そのものは英語教育研究ではありません。研究とはあくまでも言語(あるいはその延長としての数字や図式)によって表現されるものであり、実践/技芸そのものではないからです。実践をできるかぎり表現しようとした「実践書」が英語教育研究の最右翼です。


図1:英語教育研究の領域

念のために、ここでの「科学」、「哲学/物語」、「実践/技芸」を定義しておきましょう。
「科学」(science)は、ここでは「厳密な再現性を持つ知識」と定義します。必然的にこれは細部に関する知識となります(大きな出来事・複雑な現象は厳密な再現性を持ちえません)。
「哲学/物語」(philosophy/story)とは「全体性を失わない語り」と定義します。「哲学」と「物語」を併記することに違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、「全体性を失わない語り」の中で、体系性・整合性を明示的に示すものを「哲学」、暗示的にしか示さないのを「物語」と呼んでも問題はないと私は考えますがいかがでしょう(実際、哲学作品の中には文学作品とも思えるようなものはたくさんあります。逆もそうでしょう)。
「実践/技芸」とは「全体性を感覚的にとらえた知」です。ここでは「全体性」という言葉に説明が必要でしょう。とりあえずは、ある事を行なうことに関わる全てのことを暗黙的にとらえること、ぐらいに説明しておきます。これに関しては、現時点では、先ほども述べた、清水宣明・甲野善紀『斎の舞へ(いつきのまいへ)』仮立舎を読んでいただきたく思います。これについては光岡英稔・甲野善紀(2006)『武学探究 (巻之二)』に絡めて、後日改めてまとめます。
科学はその厳密性ゆえに、決してこの全体性を包括することができません。哲学/物語は科学よりは柔軟ですが、それでも語りうることしか扱えず、全体性には到達できません。全体性に(人間なりに)到達できるのは、実践/技芸の感覚だけです。
その関係を、図式化したのが下の図2です。


図2:科学、哲学/物語、実践/技芸の関係

ここで言えるのは、実践/技芸の感覚知を、できるだけその全体性を失わないように言語で語ったのが、哲学/物語であり、さらにその中で、同定化・数量化し測定できるものだけを対象とし、厳密な再現性を持つ関係だけを抽出したのが科学だということです。
ここには実践/技芸→哲学/物語→科学という方向性があります。この矢印を逆方向に向けて考えることには警戒が必要です。
逆方向(科学→哲学/物語→実践/技芸)に考えると、科学が実践/技芸をdictate(決定・指図)するという構図になります。これは未だに英語教師の多くが信じている図式ですが、この構図からよい実践が生まれたことは少なく、むしろこういった構造が実践を歪めてしまうことは私たちが日々感じていることです。いや、「科学信仰」を持つ多くの人びとはそういう感覚を抑圧しているからそうは思いたくないのかもしれません。だからこそ甲野善紀先生たちも数々の著作で感覚の大切さや科学の限定性について何度も強調していますし、マイケル・ポラニーも『個人的知識』(Personal Knowledge)で詳細に論考しているわけです。
 私の考える適切な構図とは、実践/技芸に関する科学ひいては哲学/物語は、実践者/技芸者の実践/技芸感覚に支えられて初めて正しく理解される、というものです。ここを理解せずに、科学で実践/技芸をコントロールしようとしたり、実践/技芸の感覚から乖離した科学や哲学/物語の遊戯にふけってもろくなことにはならないと私は信じています。
したがって英語教育研究の基盤も、現場の実践感覚であり技芸の感覚です。そういった実践・技芸を深く知ろうともせず、科学・哲学/物語を弄するのは、私たちが目指すべき英語教育研究ではないと私はここで強く主張します。

(注)若林先生はその他にも、「個別に調べた研究を地道にコツコツ積み上げていくしかありません」(50ページ)という記述に、自ら「『部分の総計が全体になる」ということを主張しているのではないことに注意していただきたい。実証的に研究できるのが『全体』でなく、『部分』だけであるならば、『全体』を研究するためには、『全体』の実証的研究をあきらめるか、あるいは『全体』の研究そのものをあきらめるかのどちらかである」(51ページ)という脚注をつけるなど、科学の限界と、その限界から生じる価値を的確に理解した誠実な発言をされています(私はこういった考えに同意するからこそ、「全体」を大事にしようとして、科学でなく哲学的アプローチを選び、できるだけ現場の実践を見るようにしています)。また、ある実践研究の会でお見かけした若林先生は、決してご自身の研究の厳密なアプローチを無理やり押し付けることなく、実践研究の性質を理解した上で、その中でできるだけ実践研究の質を高めようとする建設的なご助言をしていらしたので、私は感服しました。


楽観は許されない小学校英語 (2006/7/5)

 本日、海辺のある小学校に英語科の授業を見に行きました。1年生の授業でしたが、ここも、とある実績のある民間団体の教材をうまく使いこなしていたので、英語の授業を始めてまだ実質一ヶ月半ぐらいなのに、子ども達は驚くほどスムーズにリスニングをこなし、英文に対して適切に反応していました。見学していたある小学校の先生は、思わず「私が受けていた英語教育はなんだったんだ」と笑いながらではありますが、嘆いていました。
 6/30の記事でも書きましたが、これはいい教材さえあれば、誰でもよい小学校英語教育ができるというわけではありません。今回の先生も、担任として細かな工夫をこなしており、そういった具体的な気配りが、子ども達の集中力ややる気を支えていることが観察していてわかりましたし、そのことは授業後のインタビューでも確認できました。教材を支えているのは小学校教師の教員としての汎教科的な力量なのです。
 教材を支えている第二の要因は英語力です。今日の先生は、まさに全身を使って英語で語りかけてきます。この身体的表現力の高さは中学教師でもなかなか見られませんし、高校教師ではほとんど見られないといっていいでしょう。年端のゆかない子どもの相手を毎日している小学校教師のコミュニケーション力の高さを感じました。またこの先生の英語には英語らしいリズムとイントネーションがありました(発音は及第点)。それに英語に自然な勢いがあり、英語が先生の刻々と動く思いと連動していることがよくこちらに伝わってきましたから、英語を聞いていて心地よかったです。英語テストの点数は高いのかもしれないけれど、自らの思いや感情を自らの英語にのせることのできない中高教師も時にいますから、この点、この小学校の先生(20代女性、英語教員免許なし)は、小学校英語教育導入という大変化に、非常に高い適応能力を持って対応しているといわざるを得ません。
 しかし英語力に関しては、やはり楽観は許されません。一つには、この先生も、即興で発話しようとするとどうしても英語の細部が乱れ、非文法文になってしまうからです。これに関しては、「高度な英語力」なんかには目もくれずに、とにかく自分が使っている教材の英語とクラスルーム・イングリッシュだけに特化して訓練を重ねる必要があるでしょう。限定された技能の訓練は、必ず成果がでます。とにかく目的限定的に「この教室での英語力」だけをとりあえずはつけるわけです。小学校の先生は、英語以外にもたくさんの教科を担当しているわけです。即効性のある訓練が必要でしょう。
 もう一つ英語力に関して懸念するべきは、英語の「音感」というかセンスです。今日の女性の先生は上に述べましたように、音声的には英語らしい発話をすることができていましたから、後は限定的訓練で今後の授業改善を期待することができます。しかし世の中、そのような人ばかりではありません。実は私は、これよりちょっと前にある別の小学校の先生と話をする機会を得ました。彼も英語教員免許などもっていないのですが、どうやら若いからという曖昧な理由で何かと英語の取りまとめ役になっています。ところが彼は英語の発音に自信がありません。ちょっと話してもらったら、やはり、ぶつ切りというか、日本語の音節構造をそのまま転移させた発音で、また、イントネーションも平板なもので、「英語らしい」とはいえないものでした。かといって、私は彼を責める気にもなれません。「運動神経」が鈍い人がいるように(私がそうです。空手は10年以上やっても初級者レベルでした)、あるいは「音痴」と呼ばれてしまう人がいるように(私がそうです。少なくとも別れた妻には常にそう言われておりました(笑))、外国語習得において外国語らしく発音することがどうしても苦手な人はいます。そういう人は、自分で自分の外国語の発音下手を痛感しています。ですから自分が外国語を教えることには積極的にはなれません。それでも現在、多くのそういった小学校教師は英語を教えることを要求されているのです。適切な訓練の機会も与えられることなしに。効果的な自己訓練の方法も教えられることなしに。これはその教師にとっても、子どもにとっても悲劇です。こういった技能習得には長期間の訓練が必要です。教育行政は、英語教育を推進するのなら、小学校教員に英語技能習得のための機会をどうあっても保障しなければなりません。
 と、教師の力量と英語力が、教材を支えているとここまで書いてきましたが、今日は、もう一つの視点を得ることができました。それは「教育」という意識です。授業後の話し合いの中で、ある小学校教師が「きついことを言いますと、今日の授業は技能習得だけでした。学校教育らしさはどこにあるのですか」と尋ねてきました。これが教条的な批判ではないことは、その質問者の態度や言動からわかりました。「学校では人格を育てているのだ」というのは決してお題目ではありません。特に小学校といった若年者を相手にする学校では、「訓練」と対比的に考えることができる「教育」(cf Widdowsonの論考)の視点は無視するわけにはありません。訓練だけの功利的な技能指導は、末恐ろしい結果すら生み出しかねません。私は日本における小学校英語教育においては、学校教師は民間の叡智を最大限活かすべきだと思っていますが、それは学校教師が自らの使命を忘れてもよいということを意味するわけでは決してありません。仮に民間の創意工夫に基づく教材を使うにせよ、その授業は「教育」という意識、「小学校教育とはどうあるべきか」という問いかけに支えられていなければなりません。
 それにしても、と、悲観的な性向を持つ私は、ついつい思ってしまうのですが、これでもし教材がつまらないものだったら、どんなことになるのでしょう。英語教育を小学校に正式に導入するのなら、どうあっても、日本の小学生に合った、よい教材を、よいカリキュラムに基づいて、ということは、適切な(言語)教育観に基づいて準備しなければなりません。その準備の具体的な目途なしに導入スケジュールをトップダウンで決めることは無謀といわざるをいえません。



小学校英語教育に必要なもの (2006/6/30)

とある小学校の英語活動を見学させていただきました。山間部の学校で、とにかく緑が豊かです(私はこの緑にとても癒されました)。学校に入ると、児童が次々に「こんにちわ〜」と挨拶してくれます。廊下や教室に貼られている掲示物も美しくまた工夫が凝らされたものです。校長先生もとても私たちとのコミュニケーションを大切にしてくださる人で、こういったところからもこの校長先生のリーダーシップの高さを推測することができました。英語活動を本格的に始めて二年目だそうですが、こういった学校ならうまくいっているのではないかという予感がしました。
見させてもらった授業は三つ。一つは一年生対象の15分の短い「帯学習」。あと二つは、それぞれ五年生、六年生対象の45分授業。どれもこれまで英語授業とは無縁だった担任による授業です。一クラスは31-35名といった規模でした。
総じての印象は、小学校教員の力量はやはり素晴らしいというものでした。英語活動の導入という大変化にも、最大限対応され、それに細かな工夫を創造的にこらしています。授業内容は、歌、カルタ、フォニックス、身体表現などでしたが、授業のテンポや展開といったマネジメント、クラスでのリーダーシップ、個人的ケアなどはさすがです。教師と児童、そして児童同士の関係が良好です。よく、日本の教員、特に初等教育の教員の質の高さは世界的にも誇れるものだと言われますが、私はそれに同意したく思います。

と、このように私は今回授業を見せてもらった小学校教員の個人的努力には最大限の賛辞を送りたいのですが、同時に、個人的努力ではなかなか得られないものが少なくとも三つあるということを強く思いました。今後、もし日本での「英語活動」が「英語教育」へと発展するとしたら、これらに関しては、教員個々人の個人的努力を超えて、私たちが協力・協調関係の中での協働的努力でこれらを充実させなければならないと思いましたので、ここではそれらについて簡単に書いておきます。

(1)教材
英語だけを教えるわけでもない小学校教員が、忙しい毎日の中で、きちんとした授業をするには、きちんとした教材が必要です。今回訪問した学校では、民間で作られた教材をうまくアレンジして使っていましたが、基本的にcook bookのように、それに従っていればだいたいうまく授業ができるような教材が必要です。もし小学校での英語教育を本格的に展開するのなら、私たちは児童だけでなく教師にも親切な教材を整備しなければなりません。
ちなみに「Cook bookが必要」というのは、「授業は誰でもできる」ということは意味しません。料理をする人なら誰でも同意してくれるように、cook bookはある程度の成功を保障してくれるだけで、本当においしい料理を作るためには、cook bookなどには書き表すことができないコツ(cf 暗黙知⇒ウィキペディア解説情報マネジメント辞典解説)が必要です。小学校教師はそういったコツをこれまでの経験から得ています。その経験知にcook bookが加われば、小学校英語教育もなんとか軌道にのるのではないかとも思います。
同時に今回思ったのは、例えば優秀な中学校・高校・大学英語教師が、いきなり小学校に来て英語授業をしようとしても、それはなかなか容易なことではないだろうということです。言うまでもなく、そういった異なる校種の教師には、小学校で求められている暗黙知・経験知を持ち合わせていなからです。そういった教師が小学校でもうまくやるためには、やはりある程度、小学校で経験を積み重ねる必要があります。

(2)カリキュラム
一年間、そして数年間、さらには、中・高・大を見通した長期英語教育計画(カリキュラム)が必要です。現在、全国各地の小学校では優れた教材(およびそれに伴う教育技術)の開発が進められていますが、それらの少なからずは長期的ヴィジョンを必ずしも持ち合わせていない、短期的なものに過ぎないように私には思えます。小学校では何をどこまでやるというカリキュラム的合意が必要です。そうでないと、カリキュラム的合意を欠いている大学英語教育のように、同じような授業が違う学年で繰り返されたり、レベルが低い授業が高学年で実施されたり、本当に必要な授業がなされなかったりします。これでは教育効果は望めません。
ちなみに、現時点での私見を書きますと、私は小学校の英語教育の言語的側面に関しては、「文法を使っての書く英語」以前の英語指導を中心に行なうべきかと思います。統語的で正確な英文を書く前に、学習者はさまざまなことに習熟しておく必要があります。それは(a)聞くこと、(b)適切に発音すること、(c)基礎的なフォニックス(綴り字と音の関係)を体得すること、(d)単語認知がほぼ自動化しておくこと、(e)ある程度の決まり文句を覚えておくことなどかと思います。
これらのうち(a)や(e)はしばしばやられていますが、発音、フォニックス、単語認知に関してはまだ不十分、というより英語教育関係者の自覚が足りないようにも私には見えます。こういった項目は、カリキュラムにおいて明確に自覚されるべきかと思います(追記を参照)
ちなみにこれは完全な噂に過ぎず、私は誰からも確証を得ているわけではありませんが、学習指導要領にフォニックスが明記されないのは、この語がある民間教育団体を連想させるからだという話を聞いたことがあります。文部科学省は学習指導要領といった公的文書に特定の民間団体の活動を推奨するような文言は入れたくないというわけです。本当かどうかはわかりませんが、もしこれが本当で、そのせいで英語教育関係者のフォニックスに関する自覚が遅れているとすれば大変残念なことです。何度も言いますが、これは噂に基づく、私の邪推ですので、そのあたりはご理解ください。
(3)教師の英語訓練
今回私が授業を見させていただいた先生にしても本当にベストを尽くしていたと思います。しかしこのベストは、問題がないということは意味しません。かといって私は小学校の先生方を意気消沈させようとしているのでは断じてありません。
たとえていうなら、小学校教師が英語を教えるのは、中学・高校の英語教師が大学時代に習った第二外国語を教えるようなものです。いかんせんその教授言語を教師が完全にはマスターしていません。
私にしても、今、ドイツ語を、知識と準備だけでなんとか乗り切れる文法・訳読式ではなく、技能を必要とする、適度にコミュニケーションを志向した現代的な教授法で授業をしなければならないとしたら、現在の小学校の先生の英語と同じようにしか、あるいはそれ以下にしかドイツ語を使えないでしょう。もちろん授業での決まり文句はなんとか覚えておいて、きちんと使えるでしょう。でも少しでも応用的にあるいは創造的にドイツ語を即興で授業中に使わなければならないとしたら、私のドイツ語の冠詞や格変化などはかなり不正確になるでしょう。それと同じように、どうしても小学校教師の即興的な英語使用には、細部で不正確なところがでます。
ちなみに公正を期すために申し上げますと、中学英語教師でも、高校英語教師でも、いや私を含めた大学英語教師でも、少数の例外を除いた多くの人は即興的英語使用の細部においては乱れがちです。ただ小学校教師の場合は、その頻度が多いというだけのことです。
これを克服するためには、教師が英語訓練を受ける必要があります。これは業務(授業)のために必要な訓練です。もし小学校英語教育を本格的に展開するのなら、行政は、小学校教員に英語訓練の機会を保障しなければなりません。
この英語訓練の中でも最優先されるべきは、適切な発音です。これは自ら苦労して英語発音をマスターした人による指導があるべきでしょう。そういった人は、小学校教師に、日本人としての上手な英語発音のコツを教えてくれるはずです。発音は全ての発話の基礎になりますから、この訓練はおろそかにしてはなりません。
とりあえず、英語発音の自己訓練をしておきたいという方には、私は山田恒夫『英語スピーキング科学的上達法 CD-ROM付』(講談社ブルーバックス)や、深沢俊昭『英語の発音パーフェクト学習事典』(アルク)をお薦めします。前者はCD-ROMのコンピュータ・グラフィックスによる発音解説が素晴らしいですし、後者には発音の実践的なコツが満載です。

少なくとも教材、カリキュラム、英語訓練といった事柄は、小学校教師の自助努力だけではなかなか十分な状態になりません。こういった事柄に関しては行政がリーダーシップを取って、私たちが衆知を合わせ、具体的に予算・人員・時間などを確保して、条件を改善しなければなりません。これらのサポートなしに、小学校教員に英語教育をとにかくやれというのは、まともな戦略も兵站もなしに、とにかく戦えというようなものかと私は考えます。いくつかの戦術を押し付けるだけで、戦略の見通しも、兵站の供給もなしに、大変に優秀な兵士を無駄死にさせてしまった日本軍のことが私にはどうも気にかかってしょうがありません。

追記:文字学習について(2006/7/3)
 上に、小学校英語教育での言語的な側面については、(a)聞くこと、(b)適切に発音すること、(c)基礎的なフォニックス(綴り字と音の関係)を体得すること、(d)単語認知がほぼ自動化しておくこと、(e)ある程度の決まり文句を覚えておくことが重要という私見を書きましたが、後日、村瑞五郎・高知県田野町幼小中連携英語教育研究会(2005)『幼小中の連携で楽しい英語の文字学習―10年間の指導計画と40の活動事例』(明治図書)を読んで、私のこういったまとめ方では、文字の学習に対する認識が浅すぎるということを痛感させられました。上のまとめは、せめて、(a)聞くこと、(b)聞こえた英語を適切に発音すること、(c)ある程度の決まり文句を覚えておくこと、(d)基礎的なフォニックス(綴り字と音の関係)を体得すること、(e)文字認知が十分にできること、(f)単語認知がほぼ自動化しておくこと、ぐらいに修正しておかねばならないと思いました(もちろん、これとて私の現時点での考えに過ぎません)。
 同書で報告されている教育実践では、小学校三年生の三学期からアルファベットの学習(大文字:パソコンのキーボードで日頃見ている)を導入し、単語や簡単な句を読む学習は四年生から導入しています。文字を「書く」のではなく「つくる」(アルファベットの文字カードを並べる)のは五年生からです。様々の試行錯誤から得られた貴重な知見を学べる同書は、私が知る限り、日本の小学校英語教育書の中では最も具体的な本と言ってもいいかと思います。小学校英語教育を実践なさっている方は、この本をお買いになって後悔することはまずないかと思います。
 このような現場教師の創造性・行動力を知るにつれ、私は日本の教師の質の高さを痛感します。私は大津由紀雄 編著『日本の英語教育に必要なこと  小学校英語と英語教育政策』という本の中で「英語教育の原理について」という小論を書かせていただきましたが、その小論の結論部分は、このような現場実践を生み出す学校教師のことを思い起こしながら読んでいただければと思います。現場教師への正式な「権限委譲」(empowerment)は、今後の教育政策の柱になるべきだと私は考えます。



小学校英語教育推進者へのアピール (2006/6/9)

「英語教育界」という業界に長くいると、知り合いが増えて、だんだん物が言いにくくなります。しかし小学校英語教育に関しては、さまざまの立場の信頼できる方々が口々に「このままでいいんですか」と真剣に問いかけてきます。今日もある誠実な方が私に小学校英語教育について質問してきました。このような現状で口を閉ざしてしまうのは卑怯かと考えました。よって、以下、私なりに小学校英語教育推進者へのアピールをします。敵を作ってしまうかもしれませんが、私が求めているのは敵対関係でなく、よい意味の緊張関係の中のコミュニケーションであることはご理解ください。


教育行政関係の皆様へ

・小学校現場教員の声をきちんと聞いてください:小学校英語教育の担い手は、現場教員です。現場教員の疑問や不満を封殺して、計画を執行すれば、教育行政職としての「上」への体面は保たれるかもしれませんが、それは実のところ、「下」の立場にいる現場教員と子どもを犠牲にして、あなたの保身を図っているだけなのかもしれません。極めて遺憾なことに、第二次世界大戦の少なからずの日本軍上官は、そのような保身者でした。それが悲劇を生み、また大きくしました(注)。私たちはその人災を繰り返してはいけません。

・現場教員の研修機会を保障してください:この前まで英語教育をやることなど考えてもいなかった小学校英語教師に年間を通じて英語教育を行ないなさいというのは、例えは悪いかもしれませんが、鉄砲の撃ち方も知らないし、弾も十分に持っていない兵隊に、「お国のためだ。戦ってくれ」と命令するようなものです(あるいは英語教師に「我が校には予算がありません。あなたは、明日から音楽も教えてください。カラオケができるのだから音楽だって教えられるでしょう」と平然と告げるようなものです)。英語教育を本格的に導入するなら、せめて公的に現職教員の研修機会を設けてください。勤務時間内に十分な研修を継続的に受けることができるようにしてください。そしてその研修参加によってできなくなる仕事には加配などの予算を伴った措置で対応してください。それが命令者の最低限の義務かと思います。仮に「もう今更英語教育導入を止めることができないのだ」としても、それならそれでやらなければならないことはたくさんあるはずです。

・現場教員に教材などの十分なサポートを準備してください:仮に「小学校英語教育は『教科』ではありません。現場の創意工夫でやってください」ということになったとします。それを言うことは簡単ですが、現場は大変です。小学校教員は毎日何種類もの違った教科・授業・活動を担当としているのです。ベテランの専門英語教師(中学・高校・大学など)でも、「小学校で毎週英語授業をやってくれ」と言われたら苦労するはずです(一回、二回の授業をすることと、年間を通じて授業をやり続けることは別物です)。もし小学校英語教育を導入するとしたら、小学校教員には使いやすい教材が必要です。国語と音楽と図工と算数と理科と学級会活動の準備をする間に準備ができるぐらいに整備された英語の教材を準備しないと、被害を受けるのは結局は子どもになります。

・「上」と「下」の板ばさみにならないでください:しかし、そうして「下」の声を聞いていると、「上」からの圧力との板ばさみにあい、良心的な人ほど一人で苦しみ、心身の健康を損ねてしまうというのもしばしば聞く話です。中間管理職の仕事とは、「上」と「下」の両方の言い分を聞き、「上」と「下」の両方に言いにくい真実を伝えることです。そうしてコミュニケーションの回路を作りましょう。コミュニケーションのフィードバック回路さえしっかりしていれば、組織はなんとかなります。


英語教育ビジネス関係者の皆様へ

・小学校への英語教育導入を、単なるビジネス・チャンスとみないでください。教育という公的な機会を「食い物」にするような商法は、仮に短期利益をあげることができたとしても、長期的には市民からの信頼を失い、利益を損ねます。釈迦に説法かと思いますが、ビジネスは、よりよい社会を作り上げることへの対価として利益を得ることができる行為と考えます。教育の公共性を尊重してください。


保護者・一般市民の皆様へ

・子どもに本当に必要なのは何かをじっくりお考えください:仮に「上」を政治権力者とすれば、その政治権力者をコントロールしているのは有権者である皆様一人一人です。現在の小学生にとって、本当に何が重要なのかをじっくりと考えてください。今、多くの政治権力者や教育行政官は惰性的に「英語教育を導入するしかない」と考えています。そういった彼/彼女らに方向転換をさせることができるのは実は保護者・一般市民の皆様です。「うちの子どもには英語を」という気持ちはわかりますが、現在の日本の英語教育は専門で英語を教えている中高の教師にさえ十分な研修の機会が与えられていません。ましてや小学校の先生は、多くが英語の教員免許状すら持っていない状況です。こういった状況での「英語教育見切り発車」はお子様の利益になるかどうかはわかりません。
 英語教育を導入するなら導入するで、そのためには必要な準備条件があります。そこをご理解ください。もし小学校英語教育を本当にお望みなら、「十分な教師教育はできているのか」と政治家を問いただしてください。もし今の子どもには中途半端な英語より大切なことがあるとお考えなら、「英語教育よりも○○を充実させろ」と政治家に要求してください。行政権力においては「上」とは政治家で、「下」とは一般市民なのかもしれませんが、実はその「下」が「上」を究極的にコントロールしているというのが科学に並ぶ人類の最大遺産である民主主義の素晴らしさです。民主主義を実践しましょう。


英語教育関係者の皆様へ

・質の高いコミュニケーションを促しましょう:私たちは、小学校英語教育についての社会的なコミュニケーションの媒介者(mediator)になる公共的義務を持っているのではないでしょうか。仕事が忙しいのは理解しております。しかし、少しでもできる限りでいいですから、小学校英語教育について考え、語り合い、(賛成にしても反対にしても)行動することを続けてゆきましょう。でもこれは想像するほど簡単ではありません。自らの思考と行動を、公衆に納得してもらえるように整理して示すことは、正直私もなかなか難しいと思っています。でもその自らの仕事の公共化は、きっと私たちの仕事の質を高めてくれるはずです。そうしてさらに社会の様々な立場の方々が小学校英語教育について適切に考え行動できるようにコミュニケーションを促進してゆきましょう。小学校英語教育のあるべき姿に関して、誰も「正解」は知りません。ただ日本の市民間のコミュニケーションだけがそれにある答えを出すだけです。コミュニケーションの質が高くなければ、答えの質も高くないでしょう。英語教育に関するコミュニケーションの質を高めるべく日々努力しましょう。


:第二次世界大戦の日本軍上官の行動に関してご興味を持たれた方は、山本七平(1987)『一下級将校の見た帝国陸軍』(文春文庫)現代日本を考えるための新書5冊+αなどの拙稿をお読みください。

※もしご意見ご感想などございましたら、掲示板「広場」にご投稿くださるか、柳瀬に個人メールをください。


入試はビジネス? (2006/6/1)

以下の文章は、日本言語テスト学会(The Japan Language Testing Association)のJLTA Newsletter No.25(2006年5月20日)に掲載されたエッセイです。この学会では、私は勉強不足なのでいつも恥ずかしい思いをしているので、本来ならこのような駄文も寄稿するべきではないのですが、内々で私の名前を出してくださった方が、私が尊敬する方だったので、その方なら私の愚かさも承知の上で名前を挙げてくださったのだと思い、書きました。文章を公にするということは、その愚かさを広い範囲の方々に吟味していただくということですから、ここに同学会事務局の許可を得て、このホームページでもそのエッセイを掲載します。

研究社の英文学・英語学専門誌『英語青年』が、2006年4月号で「大学入試英語問題を批評する」を特集した。こういった特集の場合は、優れた専門家、実践家、見識家に並んで、一種の道化者が執筆して、全体の調整を図ることがしばしばある。道化役としてなら万年勉強不足の私でも許していただけるだろうと私も執筆させていただいた。今回もこのコラムには、研究力のないピエロとして妄言の続きを書かせていただく。
 私の『英語青年』記事のポイントの一つは、入試はビジネスにできるということだ。この場合のビジネスとは、(1)大学広報というビジネス、(2)入試作成代行会社の設立というビジネスの二つの意味を持つ。
 (1)の広報に関していえば、各大学が、分かりやすい文章で、入試英語の趣旨をできるだけ明確、具体的に説明する。「私たちは、現代社会においては、以下のような理由で、以下のような英語力が重要であると考えます。よって、英語入試問題は以下のような原則に基づいて出題します」といった宣言を大学の内外にする。入試問題の解答公表さえままならない現状で、このような提案は、非現実的に聞こえるかもしれないが、もしこういった表明を行なえば、それは、英語教育の明確な指針を示す大学という評判を得るよい広報活動となるだろう。テレビや雑誌のイメージ広告よりは、はるかに有効な大学広報ビジネスではあるまいか。
 この(1)の指針表明が行えれば、テストの実施は第三者に委託することができる。これが(2)の入試作成代行会社の設立である。テストの目的さえ明確なら、その目的に最も適い、最も合理的・経済的なテストを専門家として作成するだけの力量をテスティングの専門家は持っている。専門家集団が、会社として各大学の入試作成を、こそこそとではなく、堂々と代行するわけである。
 私は、入試作りをテスティングの専門家だけに任せろといっているのではない。そうではなくて、テスティングを専門としない英語教育関係者は、(1)の指針決定のために、いろいろと議論し、世間になるほどと思われる見識をつくり上げ、テスティングの専門家はその(1)に基づいて(2)の具体的な作成に責任を持つべきだということである。
 この提案の背後には、テスティングとは科学であるという認識がある。マックス・ウェーバーの考えを鵜呑みにするなら、科学とは「価値自由」な試みであり、価値決定には禁欲しなくてはならない。だが入試といった教育事象は、まさに価値決定を含むものであり、そこでは非科学的といっては反感もかうかもしれないが、人文社会系の議論が必要なのである。人文社会系学者と科学的研究者がそれぞれの仕事をすれば、そこにビジネスが生じるかもしれないと私は考える。妄言多謝。


「自らの理性をあらゆる点で公共的に用いる自由」について (2006/3/29)

掲示板「広場」で、ある方が、ある本について投稿をして、最後でこう述べました。

さて最初の『○○[=本の名前] に戻りましょう。本書を執筆したのは、いずれも英語教育界の著名な先生方ばかりです。先生たちが邪心をもっているとは考えにくい。しかし、日本人の教育という観点からすれば大いにマイナスであり、商業主義を支えるイデオロギーの生産に関与してしまったのではないでしょうか。少々慎重さを欠いていたのではないかと思われます。

 私はここで話題に上がっている本の著者ではありませんし、話題に上がっている本の具体的で詳細な検討を必要とする評価はここではおこないません(私の同書に対するとりあえずの評価は某所で書評に書いたとおりです)。
しかし、研究者と企業の関係については、ここで一般的論を少々述べておきたく思います。

私は、企業との関係について、かつてこのホームページの「方針」で次のように書きました。

企業との癒着を避ける方針はここに宣言し、今後ともに徹底します。しかし、各種の英語教育関連企業との良質なコミュニケーション・連携がなくては英語教育界の発展はありえません。よりよい英語教育のためにという志と、具体的な企画が一致したら、私は積極的に企業と透明で公正な関係を結びたいと思っています。(1998/3/6)

この方針は今でも変わっておりません。
 ただ上に言う「英語教育界」が、一種の閉ざされた共同体というか「業界」となり、その自己増殖ばかりを狙うようになってはいけません。「英語教育界」とは、ひろく日本内外の社会に開かれたものであり、そこでの仕事は、言ってみるなら「共同体」的なものでなく、「公共性」をもったものでなければいけません。私は勤務機関のために働く外に、縁のあった出版社などのためにも書き、さらにはこのホームページのような媒体でも書きますが、それらの仕事は「理性を公共的に使用する」ことに基づいていなければなりません。これはここに私の方針として宣言しておきます。
 また、ついでながら申し上げますと、ネット上で時折話題になる、公共空間(=ネット)における「言論の自由」も、決して「なんでも書いていい」といった乱暴なものとしてでなく、「自らの理性をあらゆる点で公共的に用いる」ものとして擁護されるべきものかとも私は思います。
 またいつもの悪い癖で抽象的な書き方になりましたが、上の「共同体」と「公共性」の対比などは齋藤純一(2000)『公共性』(岩波書店)に影響されたものです(注)。関連箇所を引用します。

 カントは、思考を他者に伝える自由を「自らの理性をあらゆる点で公共的に用いる自由」とよぶ。理性を公共的に使用するとは、自らの属する集団の利害や自らのおかれている社会的立場に拘束されず、公衆一般に向けて自らの意見を表明することである。この場合、カントのいう「本来の意味での公衆(Publicum)」は、「世界市民社会」の成員を指している。公開性は徹底的であり、「理性の公共的な使用」は国境にも妨げられない。他方「理性の私的使用」は、自らが属する集団のために理性を使用することである。興味を惹くのは、公職に就く者がその「公共体の利害」のために奉仕することが「理性の私的使用」のカテゴリーに含められている、という点である。公権力の機構は、カントにとっては、「本来の意味での」公共性ではないのである。啓蒙=公共性のプロジェクトは、自らの共同体(国家を含む)の利害とされているものに反した意見を表明する自由を擁護する。理性を公共的に使用するということは、共同体の他者に向けて発言することであり、カントのいう公共性は共同体を超えて語るこの自由をいかなるときにも支持するのである。(26-27ページ)。

公共性をもつ発言ができるためにも、きちんとした勉強をしなければと思います。(ちゃんと論文を書かなくては・・・・・)

(注)「共同体」と「公共性」の対比に関しては、同書の5-6ページに四つの点で的確にまとめられています。第一に、「共同体が閉じた領域をつくるのに大して、公共性は誰もがアクセスしうる空間」(5ページ)です。第二に、共同体は、「共同体の統合にとって本質的とされる価値を成員が共有することを求める」のに対して、公共性は「人びとのいだく価値が互いに異質なものである」(5ページ)ことを条件としています。第三に、共同体を統合させるメディアは「情念(愛国心・同胞愛・愛社精神等々)」であるのに対して、公共性のコミュニケーションは「人びとの間にある事柄、人びとの間に生起する出来事への関心(interest)」(5ページ)をめぐっておこなわれます。最後に「アイデンティティ(同一性)の空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属(belonging)を求めない」のであり、「公共性の空間においては、人びとは複数の集団や組織に多元的にかかわること(affiliations)が可能」です。


温かく強く楽しい人 (2006/2/16)

 私は人生においても仕事においても数々の大失敗を犯してきたが、ここではそのうちの一つについて書くことから始めたい。

 それは仕事の上での失敗であった。諸般の事情で詳細は述べられないが、その失敗の責任を感じて、私はその夜は一睡もできないぐらいの失敗ではあった。

 翌朝私は出勤するが、職場はまさに針のむしろであった。当然私に下されるべき叱責、批判、非難、嫌味、からかい。私は強烈な疎外感を味わった。当然である。失敗には社会的制裁が伴う。これは古今東西の常態である。

 もちろん若干の人は温かい態度を保ってくださった。それは「誰にも失敗はあるよ」といった言葉かけであったり、まるで失敗などなかったように平然と振舞う行動であったりした。人の情けが身に染みた。

 だが情け以上の愛を示してくださった方がいた。その方は私の失敗の報を聞くや、私はそんな失敗をするような人間ではないはずなのに、どうしたのだ、と優しい言葉を力強くかけてくださった。過分の信頼だった。裁断の前に理解をしようとしてくださった。私が事情を説明すると、「よしわかった。自分からも関係者によく言ってあげよう。元気を出して」と励ましてくださった。自分の失敗から生じたこととはいえ、打ちのめされ、心身ともに憔悴しきっていた時に、この方の言動が私にどれだけの光と力を与えてくれたかは形容のしようがない。

 「損か得か」と言われれば、この方の行動は明らかに損である。失敗をしたのは私である。その方は私の失敗に何の責任も関係もない。ましてや私の失敗は大失敗であった。関係者の怒りは大きい。その関係者にその方が私の代わりに「申し訳なかった。勘弁してやってくれ」と言って回ることは、火中の栗を拾うどころではない。それは罪なき者が罪人の代わりに鞭打たれることを選んだ、西暦の初めの頃の出来事の系譜につながる行為とすらも言える。

 と、西洋の伝統を私は例に出したが、こういった行為はもちろん日本の伝統の中にもあった。「損の道と得の道があれば、損の道を行け」とは、一昔の日本文化の中では十分に意味を持つ言葉であった。次の引用は少し前の日本の市井の人の言葉である。

 俺の信条かい?いや、俺はお説教するガラじゃねえからよ。それに、俺がやってきたことぉ見てくっれば、わかるんじゃねえかと思うしさ。・・・

 最近は親父や爺さんが説教することもなくなったそうだから、代わりに若いもんに俺たちの世代の日本人の生き方の切れっ端を教えてやるつもりでしゃべってみるか。これから話すことは、俺が自分の子どもを育てるときに、繰り返し言い聞かせてきたことの一部だよ。まあ、遺言代わりに聞いてくれ。

 そうだな、あえていうなら、私利私欲を捨てるってことかな。

 「無私」とか「無我」とか、そういう高級なもんじゃねえよ。宗教的な境地なんかじゃねえ。「滅私奉公」とか「人民への献身」とか、そういうもんとも、ちょっと違うんだな。

 俺だって、いい酒ぇ飲んで、うまいもんを食って、安楽な暮らしをしてえと思うよ。そいつを否定したりはしねえよ。俺だって、平安を求めたい。だけど、それと、物事を利己心や功名心、そういうものの上に立った自分のはかりごとから判断しようてぇこととは違う。

 そういう利己心、功名心、はかりごとをめぐらす心から物事に対処しようとすると、苦しいもんだぜ。

 だって、どうすれば、己を利することになんのか、名をなすことになんのか、それにはどういうはかりごとが必要なのか、なんてぇこたぁ、えらく難しい問題だからね。自然にわかったりする性格のもんじゃねえんだよ。うんと頭を悩まさなくちゃならねえ。それについちゃあ、だれも頭を悩ませてくれねえんだからね。神も仏も教えてくれねえ。孔子様もソクラテスも教えちゃくれねえ。自分で悩まなくちゃならねえ。だって、「利己」なんだからね。

 しかも、頭ぁ悩ました末に、そんじゃ、こうしようってんで、やったことが、そんときはよくても、ちょっと長い目で見ると、己のために利ならざることだったり、名を落とすことだったりするわけだからね。むしろ、そういうことのほうが多いもんだよ。ちいせえ個人のはかりごとってえのは、往々、失敗に終わるもんだよ。

 そういうふうに考えて行動していきゃ、世界はどんどん狭くなるんだ。私利私欲ってぇ、ちいせえ世界にとらわれちゃうからだよ。こいつは、孤独なもんだろうって思うよ。利己ってぇ牢獄の独房に入れられちゃってるようなもんだぜ。

 俺のいってる「私利私欲を捨てる」ってぇのは、そういう小さな世界に自分を閉じ込めねえってことなんだよ。もっと大きいもんがあるだろうってことだよ。

大窪敏三『まっ直ぐ』南風社

 昔の日本にはこうした大人(たいじん)は多くいた。それが大人(おとな)だった。だが時は移り、日本は「私利私欲」の国になったのかもしれない。物質文明の未発達と比べて、独自の驚くべき精神文化の高さを西洋の人々に示した東洋の一国も、もはや「普通の国」になったのかもしれない。「損の道を行け」とは現代日本人にはもはや理解不可能な表現なのかもしれない。人々に見識を示すべき大学も急速にそのような流れに巻き込まれているような気がする。次の一文は、現代の市井の人による、教育者への慨嘆である。

 人が良い方へ向かう手助けをするのが指導者で、自らの精神が弱いがゆえに人の上に立とうとする者を支配者という。

 愛とは育てることでなく手助けである。良い指導者とは、人を育てる人ではなく手助けできる人だ。「下の者を育てる」なんて、不遜な考えなのではないか。

 しかし善と悪の関係と同様に、指導者と支配者が闘えば必ず支配意欲の強い者が勝ち、社会の構図では上に立つことになる。上に立つとは、その人の器量の大きさや人格の素晴らしさを表すものでは決してない。

 今の世の中では、学問を修めたというよりは、学問を支配した者が優秀とされ、学力社会、能力社会の上層で支配する立場にいる。政治経済中心の世界では、いつも支配欲の強い者たちがこの世を牛耳ってきた。

 良い悪いではない。支配者が世をつくっているのです。

 金があれば何でもできるという風潮がそもそもの間違いだろう。勉強にしても、支配の論理に浸りきっているのだ。学業の成績が優秀なら金が入る立場になれる。だから一生懸命学習する。

 支配欲は人の弱さや冷たさから起きてくる。感情という人間本来のものを心から消し去り、理性だけで心を作るから、思いやりや優しさという感情さえ一かけらも残らなくなってしまう。

 温かく強く楽しい人は、支配者にはならず指導者となる。

桜井章一『心温かきは万能なり』竹書房

 損得計算からすればおよそ損であった状況で私に愛を示してくださった方とはもちろん三浦省五先生のことである。三浦先生は上の言い方で言うなら、決して「支配者」ではなく「指導者」であった。「温かく強く楽しい人」であった。
 困難な状況の中で三浦先生に愛を示された人を私は数多く知っている。そういったエピソードはお互いが信頼しあう親密な語りでのみ伝えられる。テレビや新聞で派手に伝えられることはない。だがこういった隠れた無償の愛こそが人の世を支えているのではないか。「ボランティア」が証明書を得るための行為と見なされる現代の人びとにとって「陰徳」とは既に死語であろう。だが陰徳こそは最も人間的に高貴な行為である。
 愛あるいは陰徳によって、三浦先生は「教英」をまさに支えてくれた。私のような卒業生から現役学生に至るまでの、あるときはくだらない、あるときは深刻な悩みに耳を傾けるという、一銭の得にもならないことをし続けてくださった方が三浦先生であった。教英図書室のソファに座る三浦先生こそが教英の求心力であった。あの温かい笑顔があるから多くの卒業生が教英を訪ね続けた。現役学生が安心して学生生活を送り就職活動を進められた。
 多くの学士・修士・博士を「支配」でなく「指導」し、その当時誰もが果たせなかった学部生英国留学の途を、私財を投げ打って開いた教育者。コンピュータが「電子計算機」と呼ばれ、まだ理系の人間にしか門戸が開かれていなかった時代に先駆的な語彙研究をし、広大が誇る『モノグラフ・シリーズ』を支えた研究者。全国英語教育学会会長や広島大学全学教務委員長、あるいは広島大学外国語教育研究センター長を始めとする数々の職業的貢献を果たしてこられた職業人。そして何よりも愛の人。温かく強く楽しい人。これが三浦省五先生である。

 三浦先生、本当にありがとうございました。私を含めた多くの者は三浦先生に直接きちんとお礼を言えないままに、今日まで至ってしまいましたが、私たちが今こうしてあるのは三浦先生のおかげです。私たちが現在、多少なりとも、教育者・研究者・職業人らしくあれているとしたら、それは三浦先生が下さった愛のおかげです。

 もし可能なら、私たちを三浦先生の「弟子」と呼ばせてください。
 古来、先達に生き方の指針を得た後達は、そう自称することによって、尽くせぬ力と喜びを得ているのですから。
 我々弟子一同は、師の、益々の御健勝と御多幸を心より祈念いたします。

三浦省五先生定年退職記念エッセイ(その2)


外国語学習者の素朴な感情 (2006/2/6)

以下の文章は、ヨーロッパ滞在中の、時差ボケで眠れなくなった早朝に書いていたものです。いつもにもまして書きなぐりの文章となっていますが、時間がないのでそのまま掲載します。最近は全く落ち着いて本を読んだり、物を考えたり、文章を書いたりすることができないのが、私にとって非常な欲求不満になっています。

はじめてドイツに行きました。といっても、出張の移動で、オランダ(アムステルダム)からフランス(ストラスブール)へ移動するために列車でドイツ(フランクフルト)に寄り、また帰りに日本までの飛行機に乗るために同じくフランクフルトに寄っただけです。とはいえ、私としては長い間行ってみたかったドイツに寄ることができたので、英語を学んでいた高校生が初めて英語圏に行ったみたいに、内心はわくわくでした。
私は多くの人と同じようにドイツ語には大学の第二外国語として出会いました。高校生の頃は、フランス語文学の翻訳では特に心惹かれるものがなかったものの、ドイツ語翻訳ではゲーテを読んでいましたし、何しろベートーベンの第九のシラーの詩を直接わかることができたいと思い、私は心弾ませて最初の授業を受けました。
ですが担当のドイツ語教官は、恐怖で学生を支配しようとするような先生で、私を含めた多くの学生に嫌われる人でした。それでも学生は単位のため、勉強しなくてはいけません(教師の権力というものは、教師自身には自覚しがたいぐらいに大きなものです)。ですが私はその教師がどうしても好きになれず、みるみる勉強への熱意を失い、前期の単位は落とすまでになりました。言語系の学習は得意で、ドイツ語文化にも興味を失っていた私という学習者も、教師のやり方・人柄で、見事なぐらいにドイツ語学習に対して否定的な感情を抱くようになりました。
とはいえ、ドイツ語(第二外国語)は、その当時の大学院入試に必要でした。ですから、私は少なくとも主観的には入試対策の半分以上(というより、ひょっとしたらほとんど)の努力をドイツ語の学習に注ぎました。最初は、とにかく大学一年生の時に培われてしまったドイツ語学習への否定的な感情を克服するのに必死でした(私は何度、そのドイツ語教師のことを毒づいたことでしょう)。当たり前のことを申しますが、教師が絶対にやってはいけないことの一つは、学習者にその教科を嫌いにさせることだと私はこの個人的経験から痛感しています。
その後、学部生としての自分は予想していなかったことですが、ヴィトゲンシュタイン、ニーチェ、ハイデガー、ハーバマスなどの作品に興味を抱くようになりました。辞書と翻訳書と首っ引きながらもそれらを原文で読むことができ、その経験が、彼らの作品を引用する際のわずかな自信へとつながってゆきました(それとは対照的にフランス語を私はまともに勉強したことがないので、ソシュールやメルロ=ポンティやレヴィナスなどを翻訳で読んでも、それらを自分の書き物への引用作品とすることがためらわれてしまいます。これは私の後悔の一つです)。その後、半年ぐらい、ある程度ドイツ語を学びたいと思い、NHKラジオのドイツ語講座を聞いたりしましたが、それはまったく長続きしませんでした。
とはいえ、「ドイツ(・オーストリア)的な感性」とも言うべきのは、どうも私に合っているみたいでした。音楽(バッハ、ベートーベン、ブラームス、ブルックナー、シェーンベルグ、あるいはジャズやテクノ)にしても絵画(表現主義)にしても、工業デザインにしても、どうも私はドイツ的なものに惹かれています。それに私が惹かれるヴィトゲンシュタイン、ハイエク、アレントといった人々はいずれもドイツ・オーストリアの出身でありながら、晩年は英語圏で活躍した人です。うまくまとめることはできないのですが、どうも私は、一方で根源的な何かの存在を確実に感じながら、他方でそれをできるだけ合理的・明晰に表現しようとする、ある意味、矛盾的で拮抗的なバランスを好んでいるのかもしれません(根源性を忘れ去った合理性・明晰性は、私は大嫌いです。合理性・明晰性への志向を欠いた開き直り的な矛盾表現も私は好きになることはできません)。
そういったドイツ語の知識と文化への親和性が、列車でオランダからドイツに移動する中でみるみるうちに蘇ってきました。ドイツ語の響きがとても心地よく聞こえてきました(この辺は、初めて英語圏を訪れた高校生と同じのまったくのナイーブな感情だと思います)。さまざまな表示のドイツ語も、「あっ、これはこんな意味だった」と少しずつ思い出し、それが自分でもおかしくなるぐらいに興奮する自分へとつながってゆきました。なにせ日本での学習の時には、一つ一つのドイツ語の背後には「和訳」や「正解」があるだけでしたが、ここフランクフルトでは、実際の生活というコンテクストがあります。そして私という存在はその生活を(極めて短期間とはいえ)生きているのです。ドイツ語話者も、以前のようなテープの音声録音者ではありません。私の目の前で生きている人間なのです。片言のドイツ語も買い物や食事で使えると、それがまるで人生の一大事を達成できたことのように喜びを感じることができました。オランダのホテルでは私は最初、オランダ語のテレビを見ていたものの(そしてオランダの音楽チャートでもヒップ・ホップの影響が強いことを確認したりはしたものの)、やがてそれに飽きてBBCばかり見ていましたが、ドイツのホテルではドイツ語のテレビをずっと見ていました。もちろんドイツ語はほとんど分からないのですが、画面に映る人の表情と映像、そしてドイツ語特有の発声やリズム・イントネーションが、オランダ語のテレビとは比較にならないぐらいに興味深いものとして私に立ち現れてきます。よく分からないながらも外国語話者の外国語使用に耳を傾け、目を注ぐというのは、私にはなんだかうまく表現できない不思議な喜びを与えてくれました。
私は何を言いたいのでしょう。おそらくそれは月並みなことなのかもしれません。曰く、教師の人柄・教室経営は非常に大切だ(学習を嫌いにさせた教師は長年に渡って呪詛の対象となる)。ある言語を共有する人々による表現には、なんらかの共通性があるかもしれない。その「言語文化」への関心は、言語学習の功利計算とはまったく別の魅力を学習者に与える。外国語を実際に話す人間の存在というのは、外国語学習者に第三者からはほほえましいぐらいの(あるいは理解できないぐらいの)興奮を与える。外国語が使用されている実際のコンテクストは学習の大きな援助となりうる・・・・そういったことでしょうか。
また、私はこの旅行中に読む本としてカントの翻訳書を持っていったのですが、それを読みながら感じたこともここに加えておきます。翻訳書の日本語は、みなさん同意してくださるように、奇妙な日本語で、にわかには理解しがたいものなのです。とはいえ、日本語文法に従って丁寧に読めば理解できます。ひょっとしてこういった翻訳日本語は日本人の日本語表現・理解の能力を、ついては思考の能力を、より深く、広くしてきたのかもしれません。ましてや、よくわからない「原書」を、実際の話者やコンテクストの存在抜きに、辞書と文法書の助けだけを借りて、理解し、それを母国語で表現しようとする「母国語との格闘」(渡部昇一)は、万人向け、あるいは少なくとも初級者向けの学習方法ではないものの、母語文化を深め広げる「教養」としては、なかなかのものではないでしょうか。
現在の日本での外国語教育は、英語が圧倒的に強く、それも浅い意味でのコミュニケーション志向のものが主流です。私が考えたことをまとめなおしましょう。浅い意味でのコミュニケーション志向も、学習者の素朴な感情を考えれば有効なものでしょう。ALTも留学体験もその言語文化を知ることも、第三者があまり冷笑的に捉えるべきではないと感じます。しかし外国語学習はそういった志向に限られるものではなく、言語を使った思考と表現を深め広げるものも尊重されるべきでしょう(またそうして発展した言語文化こそが外国人を引き付けるとも言えましょう)。そして何よりも、英語は通用性の高い言語で、私も今回、この言語のおかげで安心して移動することができましたが、言語(文化)は英語に限ったわけではありません。世界の多様な言語と文化への入り口を開くことを学校教育は怠ってはいけないでしょう。英語教育の強化に私は(職業上)賛成しますが、外国語教育を英語教育だけと捉えることには強く反対します。
これが外国語学習者としての素朴な感情です。まあ、はじめてドイツに行って興奮しているだけなのですが。


Do the right thing (2006/1/19)
 「教育とは愛である」。
 このように言うこと、あるいはこのような信念に基づいて行動することは、現在の英語教育界では愚かなことと思われているのかもしれない。
 現在の英語教育系の学会で、研究者が「教育とは愛である」と発言したら、その瞬間、その人は研究者としての信用を失ってしまうかもしれない。現在の英語教育学界で、依然として強力なのは、素朴な論理実証主義のようである。論理実証主義(Logical Positivism)は、言うまでもなく20世紀前半の哲学的思潮で、それはある意味、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最終命題「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」の浅薄な解釈からくる、目の前に証拠として提示できない物事への軽侮の念によって特徴づけられる(だがウィトゲンシュタインは「語りえぬもの」への畏敬の念は失ったことはなかった)。素朴な論理実証主義(「検証」(verification)の考え)は、ポパーの反証主義(Falsificationism)がもつ厳密な理論的仮説演繹への志向も、クーンの「パラダイム」("paradigm")論がもつ自己の相対性の自覚も欠いているが、おそらくはその素朴さのゆえか、英語教育学界では「実証」(あるいは「検証」)は金科玉条となっている。そういう学界文化などでは「愛」などは、ほぼ"dirty word"であろう。
 だが、この学界文化そのものを疑うことが必要である。上に示唆したように、科学哲学としては、素朴な論理実証主義は、いかにも単純な考えである。また、仮に自然科学で論理実証主義を依然として有効なものだとしても(もっとも、たいていの自然科学者は、ポパーの反証主義やラカトシュのresearch programmeの考えを選ぶだろうが)、英語教育学が自然科学でなくてはならないという必然性はどこにもない。むしろ「教育」という価値づけられた歴史的・社会的で、多面的な実践を正当に取り扱うためには、自然科学的方法への誘惑から距離を置くこと(cf ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』109節)が求められるともいえる。少なくとも、自然科学以外の営み、例えば人文・社会系の学問のあり方を認めず、人文・社会系の議論までも自然科学の方法に従って行わなければならないとするのは、「科学主義」(Scientism)と呼ばれるべき、本質的に反科学的な偏見に過ぎない。「教育とは愛である」という発言を嘲笑する英語教育研究者は、実は時代遅れの哲学的思潮を、反科学的な偏見で強化しているだけなのかもしれない。
 しかし、仮に「愛」を研究のディスコースに載せるにせよ、この言葉は、言ってしまったとたんに、私たちが教育について工夫することを止めてしまうような、探究を終わらせてしまう思考停止の言葉のようにも思える。だがそれは浅はかな考えにすぎない。愛に関して考察した者は、しばしば次のような洞察に到達する。

 愛は、気づきから生まれる。ある人を今、ここにいるあるがままの姿で見るときにだけ、わたしは真実相手を愛することができる。わたしの記憶や願望や想像や投影の内にすむ相手の姿を見ているときには、その人を愛することはできない。・・・他人と自己に対するこのような気づきに到達すると、愛の正体を知る。目ざめ、鋭敏で、明確で、繊細な頭と心を手にしたのだから。知覚は明晰で、一瞬一瞬あらゆる状況に対して正確で適切な応答を自分の中から引き出すことのできる感受性を手にしたのである。・・・感受性から生まれる愛は、多くの思いがけない形を取る。

アントニー・デ・メロ『ひとりきりのとき人は愛することができる』女子パウロ会

つまり愛とは、相手と自分をあるがままに見つめ、その気づきから、瞬間ごと、状況ごとに適切な行動を取るという、全ての行動の始まりなのである。そうであれば、よりよい教育実践を考えること(これを「教育研究」と呼んでどこが悪いのだろう)も、愛から始まることがわかる。
 実際、英語教育の優れた実践者も、このような意味での愛を、教育方法の基盤に置いている。「授業がおもしろくなったのは私の力ではありません。緻密なのは私の性格ではありません。みな子どもたちが教えてくれたのです。私が今あるのはみな彼らのおかげです。本当に感謝しています」という中嶋洋一氏(富山県砺波市出町中学)の言葉、「目の前の生徒の疑問にどう答えるか、彼らの意欲をどう引き出し、社会でたくましく生きていける力をつけるかということばかり考えています」という田尻悟郎氏(島根県東出雲町立東出雲中学校)の言葉、「新しい活動のネタばかりを追うと、生徒が見えなくなります。生徒を見ていれば授業のアイデアはいくらでもでます」という蒔田守氏(筑波大学付属中学校)の言葉などは全て、状況の中で生徒のあるがままの姿を見ようとする態度が、数々の素晴らしい教育方法を生み出してきたことを示している。厳密な比較実験などにより教育方法の優劣を「証明」(あるいは「実証」、「検証」)しようとする研究者は、生徒の人格・教室の状況・時代の流れ、そして教師自身のあり方などを捨象した研究を是とするが、これらの優れた実践者の言葉は、そういった研究者に深刻な問いかけを突きつけるものである。「愛」という名前で呼ばれている、多面的な現実への気づきを不可欠の要因として教育方法研究は進められなければならないのではないだろうか。
 だが冒頭に述べたように、現在の英語教育学界では「愛」は嘲笑の対象であるようにさえ思える。研究の現場だけでなく、教育の現場でも数値目標によるaccountabilityの導入などの時代の流れに押し流され、教師は、学生を教師が願うように変えることは望んでも(教育学部なら、何パーセントの学生を教職に就かせるかが数値目標として掲げられている)、学生をあるがままに見て、そこから指導をスタートさせようとすることは避けようとする。学生を愛さずに、授業と就職指導を済まそうとする。
 かくして大学教授は、研究者としても教育者としても、「愛」を忘れることが、「生き残り」のためには必要なことだといった風潮が生まれる。だがこれは現在の大学教授に限った話ではないのかもしれない。前出のデ・メロは、世間的な「成功者」がいかに愛から遠ざかっているかを次のように慨嘆する。

 わたしたちの住むこの社会に目を留めよう。心から腐りきって、執着に汚染されているさまを。権力や金銭や資産や名声や成功に執着している者、自分の幸せがこれらに依存しているかのようにこれらを追及する人はだれでも、活発で勤勉な市民、生産力あふれる社会人と見なされる。
 これらを飽くなき野心で追い求め、自分の人生の交響曲を台無しにし、他人にも自分にもかたくなで、冷淡で鈍感な人はだれでも、社会からは信頼できる市民として見なされる。彼らの到達した地位は親戚友人の自慢のたねとなる。立派な市民と言われる人で、執着から脱却して愛のきめ細かな感受性を失わずにいる人を、何人わたしは知っているだろうか。

アントニー・デ・メロ『ひとりきりのとき人は愛することができる』女子パウロ会

だが私は、少なくとも一人を知っている。
 私はその人のためにこの文章を書いている。その人の信念は、私が見る限り、そして多くの卒業生が証言するように「教育は愛である」であった。それは揺るぐことがなかった。その人はその信念を貫いた。その人は、スパイク・リー監督の映画の老主人公のように、困難で絶望的な状況の中ででも、いや、そういう状況の中でこそ、大切なことは何かを、ぽつりと私たちに語ってくれているようだ。

"Do the right thing"

三浦省五先生定年退職記念エッセイ(その1)


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