随想

新しい随想が次々に上に来る形態をとっています。

人名に関してはたとえどんな方であろうとも97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しております[実験的に、有名な人名でも例えば「ウィトゲンシュタインさん」などと表記しています(^^)]。


文化果つる国の象徴的建造物、着工間近(2002/6/22)

「柳瀬さん、ナショナル・ギャラリーの記事は読んだでしょ」と友人に聞かれて、私ははじめてその記事を読み落としていたことに気付きました。

日本経済新聞が2002年5月31日の文化欄で伝えるには、日本最大規模の国立美術館(仮称「ナショナル・ギャラリー」)が350億円をかけて東京六本木に建設されるそうです。ところが、私もその友人も驚いたというかあきれたことには、そのナショナル・ギャラリーの収集・収蔵はなんとゼロ。私は開いた口がふさがりませんでした。

文化庁の言い分はこうです。「主に日展、院展などの公募展の会場として活用し、新しい場にする」。要は日本は貸会場をナショナル・ギャラリーと呼ぶということです。

日本経済新聞は美術評論家の嶋崎吉信さんの批判を掲載します。「美術館とは本来作品を収集・収蔵する場所。日本の名品が海外流出している時期になぜ膨大な予算を作品にではなく建物に使うのか」。「奈良美智、村上隆など最近の現代美術家はまず海外の個展で評価された。公募展の新人発掘機能は弱まっている」。

私も上の批判に賛成します。日本の中央公僕が国民の税金をいいように使って滑稽なほどに巨大な建造物ばかり作るのはアレックス・カーさんが国際的なベストセラーである"Dogs and Demons"で列挙するとおりです(私の書評はここです。ぜひ翻訳の『犬と鬼』をお読みください。お願いしたいぐらいです)。民間企業がデフレであえぐなか、公共料金ばかりは値上がりし、かつ各種公共文化機関・施設がリストラされているのに、日本の中央公僕はまたもやこのような巨大建造物を作ろうとしています(2002年7月着工予定)。また美術のみならず、音楽においても日本の権威筋は有能な新人を冷遇します。武満徹さんは「音楽以前」と酷評されました。彼を最初に評価したのはストラヴィンスキーさんです。海外で評価されて帰国した小澤征爾さんをNHK交響楽団は集団でボイコットしました。伊福部昭さんも吉松隆さんも権威筋からは当初冷たく扱われていました。日本の「権威ある」文化団体とは、ひょっとしてその多くが、中央公僕と仲良くなって国民の税金を獲得するのに長けただけの団体になっていませんでしょうか。国民の税金を操る中央公僕は、文化団体までも手中に入れて、子飼いの組織にしているのではないでしょうか。また文化人の多くも、そういった組織に身をおくことを自らの出世と考えてはいませんでしょうか。

日本経済新聞の報道に戻りますと、文化庁の試算でさえこのナショナル・ギャラリーは年間1億2200万円の赤字になるそうです(国からの交付金4億1300万円をもらった後での赤字です)。ある文化庁関係者によれば「不足分はレストラン、物販店などの収入で賄うことになっているが赤字は確実」だそうです。赤字を解消するには施設使用料の引き上げしかありませんが、それは「結局、末端の作家の費用負担の増加につながる。才能の芽を摘むことになりかねない」と日本美術会事務局長の美濃部民子さんは懸念しているそうです。

「ナショナル・ギャラリー」と呼ばれる、中身のない巨大な貸会場の建設。しかもその赤字は個々の芸術家によって埋められる----これほどに愚かな文化政策はなかなか私には考えられません。このナショナル・ギャラリーは、完成すれば、日本の愚かさを世界に向けて発信する巨大な象徴になると私は考えます。愚かさとは、このような計画をする中央公僕の愚かさであり、このような愚挙をもっときちんと報道しないジャーナリズムの愚かさであり、反対運動をおこさない文化人の愚かさであり(注)、これも「仕方がない。お上のやることだから」と諦めてしまう国民一人一人の愚かさです。

このまま国民が政治に無関心で政治家を堕落させ、さらにその政治家も実は選挙の洗礼を受けることすらない中央公僕に操られ(なにしろ道路公団民営化委員に猪瀬直樹さんが入っただけで「公立・中立に値しない」(野中広務元自民党幹事長)、「きわめて残念な方もメンバーの中にいる」(古賀誠前自民党幹事長)と言っているぐらいです:毎日新聞2002年6月22日の報道による)、このまま国民の税金の多くが中央公僕が直接、間接に支配する組織に流れつづけ、はてまた文化政策までこのようなものになるなら、日本は本当に「文化果つる国」になってしまうと私は考えます。

文化を愛する人間の一人として強い怒りをおぼえます。

(注)この原稿を書いている現在、検索エンジン(google, yahoo)で調べても、この件に関して批判的な意見を述べているのは美術関係者が一人と大学関係者が一人だけでした。

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言論の自由には責任が伴い、言論統制は権力者のみがなしうる(2002/5/25)

私の仕事は英語教育です。英語教育の目的の一つは私の英語を通じてのコミュニケーションを促進することです。コミュニケーションに際しては、何でもよいから口にすればよいというのではなく、おのずから言論に対する近代社会共通の理解に基づいてコミュニケーションを行わなければなりません。最近、日本で影響力がある人が、相次いで言論のあり方について根本的誤解をした発言を繰り返しているので、私は職業人としてその誤りを正すためにここに発言します。

2002年の毎日新聞の「近聞遠見」という岩見隆夫さんのコラムは、内閣総理大臣小泉純一郎さんの発言を話題に取り上げています。それによりますと、小泉さんは民主党の海江田万里さんに衆議院予算委員会で「中国といま大事な交渉をしている時に、日本側の非をあげつらうのはあまりにも自虐主義じゃないか」と発言したといいます。どこが自虐的なのかと反論する海江田さんに対して小泉さんは「私は言論の自由を認めていますよ。その私が自虐的だと言うと、怒ってけしからんと言うのは、これはとんでもないことだと思いますよ、政治家として。言論統制じゃありませんか」と発言し、さらには「私がどう考えてもいいでしょう。言論の自由だから」とも発言したそうです。

小泉さんはここで大きな間違いをしています。たしかに個人が心のなかで何を考えようが自由ですが、人は人前で発言をした場合、その言論に対して責任を持ちます。その発言は、それが主張である場合、冗談であるとか演劇の台詞であるとかいった特殊な場合を除けば、根拠と証拠に基づいたものでなくてはなりません。主張をすれば、その主張に関する根拠と証拠を求められた場合、発言者はそれを明らかにする責任を持ちます。その意味で、発言者は自らの発言に対して、相手からの反論や質問を受け入れ、それに答える責任も生じます。さらに、全ての発言者は、発言の主張・根拠・証拠がもつ説得の力には、それが真理と正義の概念に基づいている限り、それを認めなければなりません。それがなければ言論とは単に社会的/身体的力に勝る者の主張を正当化するだけのものに変容してしまいます。近代社会において、人類が言論の自由を重要視するようになったのは、言うまでもなく、権力者だけを守るためではなく、真理と正義に基づいているならば、その発言者がどんな人であれ、その人の言い分を守るためです。そうしてこそ、人類は進歩し、少しでも幸福な状態に近づけることができると私たちが信じているからです。

まとめますと、言論の自由には責任が伴います。その責任とは、真理と正義の概念に基づいて、お互いの主張の根拠と証拠を明らかにして、どちらの主張が真理と正義の概念に近いかを明らかにする責務を負うということです。自分の言いたいことだけ言って、それに反論されると「言論統制だ」と逃げるのは、言論の自由という概念を全くに誤解した、間違った態度です。言論の自由に関する正しい理解は民主主義国家では当然の前提です。私はこの前提を否定するような発言を日本の総理大臣という権力者が行うことに非常な恐ろしさを感じます。

さらに同じような間違いを他の政治家も行っています。同じく毎日新聞の2002年5月21日のコラム、「メディアを読む」ではフリージャーナリストの玉木明さんが、自民党の二人の政治家の発言について書いています。一人の政治家は衆議院議員の村上誠一郎さんで、彼は作家の城山三郎さんが、個人情報保護法案が成立したら「言論の死」の碑を建てて、そこに小泉純一郎首相と全賛成議員の名を刻むと発言したことに対して、「法案の内容ではなく、こうした発言をすること自体が言論統制だ。城山氏はぼけているのではないか」と発言したそうです。

村上さんの誤解は言論統制に関してです。「統制」とは、圧倒的に権力---powerの訳語です。あっさり「力」と言った方がわかりやすいかもしれません---に勝る者のみがなしうるものです。「言論統制」とは言論以外の力で言論を制限してしまうことです。その意味で、社会的/身体的力に劣る者が、社会的/身体的力に勝る者に対して「言論統制」をすることは不可能です。社会的/身体的な力に劣る者が言論の自由と責任に基づいて発言した内容に対して、「それは言論統制だ」と力を多く持つ者が言うのは、錯誤であり、醜くあり、また恐ろしいことです。村上さんは衆議院議員である以上、民間人である以上にはるかに大きな力(公権力)を手にしています。そういった人が、たとえ作家という普通の人よりは力をもった人間の発言とはいえ、言論に対して、正当な言論によって反論するのではなく、その言論を封鎖するような、つまりは言論の基本原則に反するような発言をすることは明らかな間違いだと思います。

繰り返しますが、言論の自由とは何でも言っていいということではありません。正しい意味での言論の自由と責任という、言論を成立させている基本原則を否定するような発言は、言論では許されません(注1)。村上さんの言論統制発言は、「言論」および「統制」という概念において明らかに誤った認識に基づいた発言であり、それが衆議院議員によるものだけに、私はここではっきりとその誤りを指摘しておこうと思います。村上さんの発言こそ言論統制に近いものです。村上さんは「言論統制」などという言葉を使わずに、「城山さんは間違っている。なぜなら・・・」と発言するべきです。

コラムにあったもう一つの発言は、自民党幹事長の山崎拓さんによるものです。コラムによりますと山崎さんは、城山さんを出演させたニュースステーション(テレビ朝日)に対して、それが「個人情報保護法案と人権擁護法案が言論を弾圧する悪法であるかのようなイメージを視聴者に強く抱かせることを意図して企画した」ものだとして文書で抗議し、「適切な対応を求めた」そうです。

これに関しては私は、コラムで玉木さんも言うように、山崎さんは公権力者である以上、堂々と、ニュースステーションのどこが適切でなかったのかを根拠と証拠をあげて反論するべきだと考えます。必要ならばニュースステーションにでも他の番組にでも出演してきちんと公開の場で反論すべきです(注2)。公開の場であることが重要なのは、公開の場なら、言論の根拠と証拠の吟味に様々な人が参加できるからです。それをせずに抗議の文書を放送局に送りつけるのは、彼が持つ公権力の強さを考えますと、それこそ言論統制に限りなく近い行為だと私は考えます。

さらに恐ろしいと私が思ったことは、毎日新聞以外の新聞は、村上さんと山崎さんのこれらの発言に関してベタ記事でしか扱っていないことです。新聞は言論の力によって成立している機関ですから、こうした事件はきちんと報道するべきです。それとも他の新聞は言論以外の力によって成立しているのでしょうか。

言語とコミュニケーションに関わる職業人として、誤りを正すべく発言する次第です。もちろん、私のこの発言に誤りがあると思われたら、どうぞ「広場」でご指摘してください。根拠と証拠さえきちんと提示していただけましたら、匿名でもかまいません。

(注1)もちろん言論の自由の根本的な意義を認めた上で、言論の自由が、具体的に、どこまで許されどこで制限を加えられるべきかといった、専門的かつ批判的な言論は許されますし、また必要とされるとすらいえるでしょう。私がいう許されない言論とは、言論そのものを根絶やしにしてしまうような、究極的には自己矛盾的で自己破壊的な発言のことです。

(注2)今、山崎さんの公式ホームページをチェックして見ましたが、そこにもニュースステーション批判のことは一言も書かれていませんでした。もし山崎さんが公開の場で、この抗議を明らかにしている(根拠と証拠を開示している)ことをご存じの方があれば、ぜひお知らせください。公正を期すためこのHPでも紹介させていただきます。

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私はなぜ個人情報保護法案・人権擁護法案に反対するのか(2002/5/21)

私は現在国会で審議されている個人情報保護法案・人権擁護法案に断固反対しています。私はこのHPではもっぱら私の仕事である英語教育に関することや、私の趣味である音楽に関することを書き連ねたく思っております。またそれらの話題で書きたくても時間がなくて書けない事はたくさんあります。しかし、この法案に関しては、そういったことは差し置いて、私の割ける自由時間をできるだけ使って、きちんと反対しておかねばならないと思っています。ここでは私がなぜそれほどこの法案の問題に関わっているかについて説明したいと思います。

 

法案の性質:「個人情報を保護したり、人権を擁護したりする法案のどこが悪いの?」とおっしゃる方もひょっとしたらいらっしゃるかもしれないかもしれないので、最初に簡単にその性質を私なりにまとめておきます。

個人情報保護法案・人権擁護法案には、当初こそ「IT社会で流失・乱用されがちな個人情報を保護する」ことや「メディアの過剰な報道によってプライバシーを侵害された人を助ける」といった民間人を保護する意図が建前としてありました。しかし内閣官房内閣審議官の藤井昭夫さんら(追記:2002/5/30の毎日新聞によれば、野党側は、官房副長官補の竹島一彦さんがこの法案の推進役としています)が練り上げた現在の法案は、肝心の民間人保護・擁護に関しては有効性が疑わしく、もっぱら政治家・官僚といった公人を保護・擁護するのに有効な法案となっております。

公人の保護・擁護は、民間人による調査・報道・公開に対する政府の介入、つまりは言論の自由を政府が統制することによってなされようとしています。その介入・統制も巧みで、「記者クラブ」という一種の談合組織に加入している報道機関には甘く、フリージャーナリストや市民団体、個人でインターネットを運営している人、また調査に協力した情報提供者(一般市民)には厳しいものとなっています。この法案は、政府がマスメディアを懐柔して、権力から離れたところにいる国民の一人一人言論の自由を著しく侵害しようとしている悪法だと私は思います。

言論の自由は、権力の暴走・迷走といった誤りを正すために必要不可欠な不可欠なものです。私は個人情報保護法案と人権擁護法案を、その耳障りのいい命名にごまかされないために、必要な場合は「公人情報保護法案」「公人擁護法案」、ひいては「言論統制法案」と呼びます。それらの命名の方が、今回の法案の本質をきちんと表していると考えるからです。政府は「盗聴法」の時に、「盗聴法という言い方は好ましくない」とマスメディアに圧力をかけて、「盗聴法」という言葉をマスメディアから消すという言葉狩りに成功しました。しかし、あるものの本質を的確に表現するあだ名が庶民の間で流通しているのを政府が止めることなどはしてはならないことです(また、その政府の介入に従うマスメディアの腐敗と権力癒着は情けない限りです。「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」と言い換える習慣があるのなら「通信傍受法、いわゆる盗聴法」という習慣をつけてもよかったはずです)。私は、よりよい命名が見つかるまでは、必要に応じて「公人情報保護法案」「公人擁護法案」「言論統制法案」という言葉を使い続けます。

 

柳瀬の立場:以下、私の考えを述べますが、世の中にはこのような「異論」を言う人間の足を引っ張りたがる人がいます。そういう人はしばしば発言者に対して直接語りかけず、陰で発言者を不利な状況に追い込もうとします。また噂という形で、主張をばらまきながらも根拠・証拠を示さず、かつ主張をしたことの明確な認定から逃れるという手段もしばしばとります(こういった意味で、私たちは噂を聞いたら、それを鵜呑みにせず、逆にそういった噂を流す人・噂を好む人の見識を疑う習慣をつけておいた方がいいのかもしれません)。そういう人に予め対抗しておくために以下若干私の立場について説明しておきます。そのような当たり前のことの説明など聞かなくてもよいという方は、次のセクションに飛んでください。

私は教員ですので、当然のことながら教室では一切、この法案の(あるいはそれ以外の政治的な)話題は出しておりません。マックス・ウェーバーは、「教師は教室で政治を語ってはいけない。教室は教師が権力で学生を座らせている空間であり、そこで語ることが許されるのは学問のことだけである。政治を語るなら、聞き手が自由に去ることのできる公園で語るべきだ」といった主旨のことを言っています(正確な引用ではありません)。私はその考えに深く賛同していますので、この問題は、皆さんが自由に去ることができるこのサイバースペースで発言しております。

また私は公務員ですので、「政治的中立性」を保たなければなりません。しかしこの「政治的中立性」は、私が自らの地位と権力を使って、職務以外の政治的行為を行ってはいけないというものだと考えます(注1)。このホームページには、私の身元をはっきりさせるため私の公務員としての肩書きも明記していますが、このホームページは私が個人の金で契約し、私の個人の時間に執筆しているものです。したがって私がこのホームページでこの問題について発言するのには全く問題はないと思います(注2)。もし私のこのホームページでの発言が違法なのなら、大学教員を含めた公務員による新聞などへの投稿掲載(意見表明)などは、少しでも政治に触れることであれば全て違法ということになります(全く政治的でない発言とはどんなものでしょうか?)。また、現政権の方針だけもっぱらを正しいものだとして、それを批判する発言は許さないというのは、現政権を支持する立派な政治行為だと私は個人的に考えています。もしそれでも私の足を引っ張りたい方がいれば、私は必要が生じれば弁護士を雇うなどして法的に闘います。このことはまさに言論の自由という私の人生と民主主義の根幹に関わることだからです。

また私は英語教育を専門にしていますが、英語教育とは過去においては西洋のテクノロジーのみならず自由主義・民主主義を学ぶことを主な仕事の一つとし、現在においては広くコミュニケーションという言論による相互理解を促進することを主な仕事の一つとしています。私はこの法案に関して主張することは、これら英語教師としての仕事に根底のところではつながっていると考えています。私は自らの(少しだけ持ち合わせている)良識と良心に基づいて、この法案に関しては発言を続けています。この私の姿勢に疑問がある方は、どうぞ陰口を叩くことなく、ぜひ「広場」でご発言ください。発言しにくいというのなら匿名投稿でもかまいません。

(注1)ちなみに私は過去どのような政党のメンバーになったこともありませんし、今後もどのような政党のメンバーになるつもりもありません。ですから私は個人的に投票する以外は、選挙運動に関わったこともありませんし、関わるつもりもありません。その他の特別な政治活動も一切やっておりません。もっともこれは私が公務員であるからではなく、私が組織(および組織に属する自分)に対して根本的な懐疑心を持っているからです。

(注2)私はこのホームページの存在を学生さんに紹介したことは何度もありますが、このホームページを見ることを強制したことは一度もありません。ただし純粋に学問的な「解説」のページに関しては例外で、授業の予習・復習のためアクセスことを義務づけていいますが、これらのページのアクセスに関しては「解説」の当該ページに直接アクセスすることを指導し、表紙をはじめとした他のページを一切見ないですむようにしています。

 

言論統制法案の三つの問題:多くの人にとっては必要の無いことを上に述べましたので、急いでこの法案の問題点について述べます。私はこの法案は現代日本がかかえる(1)公人の問題、(2)ジャーナリズムの問題、(3)教育の問題をあらわにしているので、非常に重要だと考えています。

問題点(1)公人の問題私は、まずこのような法案を内閣官房内閣審議官の藤井昭夫さんをはじめとした官僚が作成し、それが立法化されることが当然だと思っていることに非常な恐ろしさを感じています。彼/彼女らによれば、官僚や政治家こそ国民を善導できるのであり、それを邪魔する言論は慎んでもらうということになります。彼/彼女らはそういったことを本気で信じているのでしょうか。ならば私は彼/彼女の教養と感性を真剣に疑います。それとも彼/彼女らはそれを信じたふりをして、(「身内」を含めた)自らの権力増大を巧みに図ろうとしているのでしょうか。それならばその狡猾さを認め、その過剰な自己愛を非難します。官僚は90年代以降急速に明らかになった官僚のスキャンダルをどう思っているのでしょうか(大蔵省のノーパンしゃぶしゃぶ接待、厚生省のエイズ薬禍、建設省の環境・景観破壊、農林水産省の「狂牛病」(この言葉も言葉狩りにあっています)対策の失敗、外務省の中国領事館での失態などなど例はたくさんあります)。

公権力という近代社会においての最大の権力を持つ者には、高度の自己懐疑の姿勢が必要です。「自らは誤りうる」ということを常に認識し、誤りがあればすぐに正すことができるようなシステムの中に自らを置くことが求められます。民主主義国家では報道がその大きな役割を果たしています(共産主義や独裁国家では指導者は誤りえない存在となっていますから、批判的な報道は禁止され、違反者は投獄や公開・非公開処刑の運命をたどります)。今回の言論統制法案が出てきたということは、日本の官僚と政治家が、権力行使に関して「致命的な誤り」を犯しており、それに気づかない(あるいは気づかないふりをしている)ということを明らかにしています。これは看過できません。許してはなりません。日本を反民主主義的な国にしてはいけません。

もちろん言うまでもなく、いわゆる「冷たいエリート」でなく「常識をわきまえた庶民」が権力を握れば、この問題はなくなるというものではありません。エリートだろうが庶民だろうが、男性だろうが女性だろうが、老人だろうが若者だろうが、人間は誤りえます。権力を持った人間は、より容易に誤ります。権力行使とはそれほどに人間にとって魅惑的なものなのです。だからこそ私たちは、権力チェックを十二分に兼ね備えた社会を作らなくてはなりません。権力は腐敗します。絶対権力は絶対的に腐敗します。言論の自由こそは、その権力チェックの最大の手段の一つなのです。

日本に再び絶対権力を作り上げてはなりません。よもや日本人が、戦前のことに関して集団記憶喪失にかかったとは思いたくはありません。また日本人が共産主義や独裁主義体制下の他国の市民の苦難について何も知らないとは思いたくはありません。言論統制法としての個人情報保護法案・人権擁護法案は、日本を、ごく一握りの権力者だけが自由と富を持ち、その特権に異を唱える者を心理的・社会的・法律的・身体的に弾圧する国家へと変容させかねない悪法だと私は考えます。少なくともこの推論は世界中の様々な国の歴史を見る限り妥当な推論だと考えます。日本の官僚と政治家が、自分たちは例外だと考えるのは、ハイエクの言うところの「致命的な思い上がり」(fatal conceit)です。

問題点(2)ジャーナリズムの問題:私がこの情報保護法案・人権擁護法案に関して大騒ぎしているのには、二番目の理由があります。それはジャーナリズムの多くが果たすべき役割を果たしていないからです。ジャーナリズムがきちんと報道していれば私は、自分の専門外のこのような話題にこれほどの時間はとりません。この意味で私は特に読売新聞と朝日新聞は、市民の立場を裏切り、権力集団の立場にたってしまったと考えています(読売新聞は公然と、朝日新聞はひそやかに)。また、ワイドショー的な手法で報道を重ねるテレビ局は、自らにいわば麻薬を打つことを覚えてしまった点で猛省をするべきだと私は考えます。

この法案は、私が上に述べたような意味で言論の自由や民主主義の根幹にかかわる大問題だと思います。しかしネットで見るならば、読売新聞と朝日新聞は、この問題に関して表紙から直接特集ページにアクセスできるようにすらしていません。

2002/5/30追記:これはよく見たら、朝日新聞と読売新聞は、個別のニュース特集へのリンクを表紙にはおいていないだけのことでした。私の早とちりを恥じつつ、ここにこの主張が適切でないことをお詫びして認めます。

ちなみに朝日新聞は「メディア規制3法案」という名前、産経新聞は「どうなる人権擁護法案、個人情報保護法案」という名前、毎日新聞は「メディア規制関連法案の行方」という名前、読売新聞は「プライバシーと人権」という名前で特集を組んでいます。報道内容は毎日新聞が質と量ともに充実しているよう私は思います。ぜひ皆さんもご自身で比較してみてください。

また情報公開請求者の個人情報を防衛庁幹部が密かに集め、情報開示とは関係のない思想背景などの情報までも付け足して個人情報をデータベースにしていた問題を、独自の調査の結果に基づいて報道したのも毎日新聞です。

ちなみにこのニュースを朝日新聞も読売新聞も「28日にわかった」と表現しています(産経新聞は「28日、関係者の話で分かった」と書いています)。これは日本独特の書き方なのかもしれませんがフェアな書き方ではありません。ここはたとえライバル紙とはいえ「毎日新聞が報じた」と書くべきです。英米ではたいてい、そうしています。また毎日新聞も例えば5/30の朝刊で別のニュースに関して「共同通信社は・・・と報道した」ときちんと書いています。これが最低限のジャーナリズムの良識ではないでしょうか。

この他にも毎日新聞は、記者の名前を最後に入れた署名記事が多いなど、責任ある報道を心がけているように思えます。毎日新聞ばかりほめるようですが、良いものは良いときちんと言う習慣は大切だと思っていますので、ここに付記しておく次第です。

また、実際の紙面に関しては、私は5月11日(土曜)に出張した時に全国紙四紙を購入し比較的丹念に読み比べた他は、時折図書館でチェックするだけですが、それでも読売新聞と朝日新聞のこの法案に関する報道姿勢に関しては疑問を抱いています。

読売新聞は5月12日(日曜)に、大きく第一面以下の多くのページを使って自らの情報保護法案・人権擁護法案の修正案を「提言」しました。これに限らず読売新聞は「提言」が好きで、しばしば多くの紙面を使って、自社の意見を展開しますが、私は新聞の第一の目的は報道(および分析)であり、報道をする中で生じてくる自社の見解は「社説」(editorial)で述べるに留めるか、記者個人署名コラムで展開するべきだと思っています。それが大きな自ら大きな権力であるマスメディアの節度だと思います。

で、その読売新聞の提言は、小泉首相がそれを読み即刻「この修正案のようなものでやろう」と言ったと伝えられているもので、毎日新聞(2002年5月15日朝刊)が伝えるところによれば、「政府案と何も変わらないだろう」(ノンフィクション作家吉岡忍さん)、「あくまでも政府原案の枠組みの中での修正であり、危険な提案・・・メディアを分断するもの」(上智大教授(メディア法)田島泰彦さん)、「自由な言論を求めてきたメディアの歴史の汚点となりかねない」(ジャーナリスト櫻井よしこさん)、「国民に対する裏切り行為」(ジャーナリスト大谷昭宏さん)と評されるものでした。読売新聞は公然と権力側に立ったと私は認識します(別にこれが最初のことではないでしょうが)。権力側に立つことは、もちろん個人の生き方としては当然認められることですが、ジャーナリズムとしては決して認められることではありません。私はこういった点から読売新聞をジャーナリズムとしては信頼できません。

朝日新聞の報道姿勢は、あいも変わらずどっちつかずで、何を言っているのかよくわからないもののように思えます(この点で、朝日新聞はまさに日本のインテリにそっくりの物言いをする新聞であると言えましょう。「朝日新聞は入試問題に一番出る新聞」という朝日新聞の自己宣伝は当たっているのかもしれませんが、私はなんら自慢にならない宣伝ではないかと思います)。それでも、私が見た中では、ある署名記事は、メディアの過剰取材に関しての丹念で自省的な報道となっておりましたので、読売新聞と同じように批判することは避けたいと思いますが、会社全体としては、曖昧な報道に徹して、「市民の味方のリベラル新聞」という古い時代のイメージだけを残したまま、巧みに権力側に擦り寄っているように私は思えますので、私は朝日新聞もジャーナリズムとしてはあまり信頼しません。

このように日本の二大新聞---しかも世界でも類がないほどの販売部数を誇る高級紙の形を借りた大衆紙---が、個人情報保護法案・人権擁護法案に対して報道機関として取るべき姿勢を示していないように見えることに私は大きな懸念を持っています。メディアは公権力に対する批判的精神を失ってはいけないと思います。それが「私は政府のない国と、新聞のない国とでは、前者を選ぶ」というある民主主義者の(若干極端な)言葉の意味だと思います。私は日本の二大新聞である読売新聞と朝日新聞の報道姿勢には共感しません。

またテレビ局の方は、報道番組であるはずのニュース番組をワイドショーのようにしてしまった点で批判されるべきです。私はテレビを日頃あまり見ないので、網羅的な批判をすることはできませんが、テレビ朝日の看板番組であるニュースステーションは、この問題において城山三郎さんを招いたりという点で評価できるのかもしれませんが、全般的な報道姿勢としては、同じような映像を延々と流しつづけたりする番組作りをして、視聴者が批判的になることではなく感情的になることを促している点で批判されるべきだと思います。あのような番組をニュース番組・報道番組と考えてはいけないと思います。その点ではフジテレビが猪瀬直樹さんを出演させている「ワッツ!?ニッポン」も同罪だと思います(注3)。

もちろんテレビ番組でも私は関西テレビ(日本テレビ系列)の「ウェークアップ」は比較的良心的な番組だと思っていますし、また朝日ニュースターの「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」(CS衛星放送・ケーブルテレビにて放映)もきちんと視聴者に考えさせるいい番組だと思っています。しかしワイドショー的な手法が、どんどんと報道番組を侵食しているような現状は、非常にあぶないと思います。世の中が一斉に「あいつは悪い」「これは素晴らしい」と異論をなくしてしまうことは怖いことだというのが私の基本信念です。

(注3)しかし、番組名確認のため同局のHPを見ましたら、この番組は「ワイドショー」として扱われておりました。失礼しました。

 

問題点(3)教育の問題:しかしそういったワイドショー的報道番組も、「国民が望むから」というのがテレビ局の言い分なのかもしれません。これは「私はジャーナリストですが、金が一番大切です」という開き直りだと私は思いますが、半面、真実を言い当てているといえるのかもしれません。

私は自分だけを高みにおいて皆さんを断罪するつもりはありませんが、私を含めて大多数の国民は新聞記事の多くのテーマに関してワイドショー以上の理解を持ちえていません。ワイドショーのような感情的で一面的な感想以上の批判的な見解も持つための知識も時間も持ちえていないというのが事実でしょう。これはグローバル化で大競争を強いられる高度知識社会の労働者における一つの帰結だとも言えます。

しかしそのような社会だからこそ、一人一人の市民がより知的になり、創造的に社会貢献をしなければなりません。その基盤をつくるのはいうまでもなく教育です。

ですがその教育も、中等教育では「社会的なことは考えさせない、語らせない」(2001/10/14のエッセイを参照ください)姿勢が目立ちますし、高等教育も就職予備校であればむしろいい方で、独立した精神(mind)を目指した教育がなされているかは疑わしいのではないでしょうか。その結果、(おそらくは)初等教育で叩き込まれた「みんなと同じようにする」「上の人が言うことはきちんと聞く」という態度だけが惰性的に残り、社会人になっても個人の意見をもてない私たちになっているのではないでしょうか。

私がこの法案に関して発言を続けていることに関しても、ひょっとしたら「やなせ先生は政治的なことをいうからこわいなあ」とか「柳瀬さんもやっかいな発言などせずにうまく立ち回ればいいのに」などと思っているのかもしれません。しかし私に言わせれば、政治的に無関心であることの方がこわいわけです。国民にはびこる政治的無関心は、差別を見逃し、蹂躙を許し、国民と国土の荒廃を招きます。また私も「うまく立ち回る」狡猾さにおいては人後に落ちませんが、最低限の良識と良心に蓋をしての「立ち回り」だけはしてはならないと思います。それは今まで真理と正義の概念に基づいて良心的に積み上げられてきた学問研究への冒涜です。

国民の大多数が、この法案の問題に無関心なままで、かつジャーナリズムの不全にも気づかないままだとしたら、私はこれは現代日本の教育の根本的な失敗を象徴していると考えます。

「それでもこのままでいいじゃないか。官僚や政治家とて鬼じゃないんだから、国民に対してそんなにひどいことはしないだろう」とあなたは私を諭そうとするかもしれません。そう、日本の官僚・政治家とて、いや洗練した権力者なら全て、露骨にひどいことなどはしません。もちろん、一部の人は弾圧します。その時は、その人に関するひどい風説をマスメディアを通じて流して、その人は「悪い人」というイメージを国民にそれこそ洗脳するぐらいに植えつけた後、合法的に警察権力と検察権力を通じて弾圧します。「あなたも私も、そんな『一部の人』ではないし、なりたくもないだろうから、ここは大人しくしようよ」と私の想像上の世慣れた人は私を説得しつづけます。

しかし官僚・政治家は、露骨にはひどいことはおそらくしませんが、長期間にわたって緩慢に、しかしそれだけに修復しがたいぐらいのひどいことを日本に対してし得ます。

端的な問いを立ててみましょう。デフレ傾向なのに、なぜ健康保険料や厚生年金負担料や税金ばかり上がるのですか?日本は経済大国なはずなのに、なぜ私たちは残業続きで非文化的な生活ばかりしているのですか?あるいは残業があるだけいい方で、なぜあなたはリストラ不安におびえているのですか?あなたの住環境は豊かですか?あなたの町でいちばんきらびやかな建物は何ですか?それは公共団体の建物ではありませんか?そのきらびやかな建物が仮に公共図書館だとしても、それは土日や祝日に満足のいく時間帯で開館していますか?なぜ多くの人が老後の不安をかかえているのですか?なぜ多くの女性が子供を産みたくない・産めないと考えているのですか?

アレックス・カーさんの著書『犬と鬼』(講談社)の言い方を借りると、日本は過去に、数々の文化遺産、美しい国土、すぐれた教育制度、世界一の個人貯蓄といった、世界の他の国々がうらやむような財産をもちながら、なぜ日本はこのように夢も希望もない国になってしまったのですか。

全ての責任とは言いませんが、多くの責任が官僚と政治家にありませんか。さらにやっかいなことに政治家は選挙で追い出すことはできますが、官僚は追い出すことはできません。私たちに残されたのは、自由な言論を通じて、官僚や政治家が犯す誤りを明らかにし、彼/彼女の行動を変えさせることです。自由な言論は、正確な情報に基づいていなければなりません。正確な情報とは真実に基づいた情報であり、必ずしも官僚や政治家が好ましいと思っている情報ではありません。現在の個人情報保護法案や人権擁護法案は、こういった民主的なチェックのための調査・報道・言論を封じる道を開くものです。繰り返します。権力は腐敗するのです。もしかりに現在の権力者がしばらくこの法律を自分たちのために使わなくとも、未来の権力者は必ず使います。これが歴史の教訓です。

 

それでは私たちにはどのようなことができるでしょうか。ここでは三点を提言します。

(1)有名マスメディア以外のメディアから情報を得て、自分の頭で考える:第一にできること、そしてするべきことは、私たちの一人一人が独立的に考え、議論をすることです。そのためには、体制よりの情報ばかりしか入れないようでは駄目です。感情的になることを促してばかりいるような映像ばかり見ていては駄目です。

私は、この法案が問題になって以来、毎日新聞(http://www.mainichi.co.jp/)を購読し始めました。毎日新聞は、ウェブでもかなりの記事を公開しており、なおかつ「記者の目」といった署名記事が面白いので、以前からインターネットではチェックしておりましたが、より多くの情報を得て、なおかつ読売新聞や朝日新聞と比べてはるかに良心的な報道をしている新聞社をサポートするために定期購読することにしました。日刊ゲンダイ(http://www.ngendai.com/)の無料メールマガジンも購読はじめました(これは近いうちに有料購読に変えようと思っています。面白いからです)。

また猪瀬直樹さんの「メールマガジン・日本国の研究」http://www.inose.gr.jp/)、村上龍さん編集「メールマガジン・Japan Mail Media」http://jmm.cogen.co.jp/)も購読しています。宮崎学さんのHPhttp://www.zorro-me.com/miyazaki/)も相変わらず参考にしています。ちなみにこれらの個人メディアは、権力側にとって一番規制のしにくいメディアで、なおかつインターネットでかなりの力を持つようになりましたから、個人情報保護法案や人権擁護法案が通れば、この人たちの調査・報道・出版は遅かれ早かれ必ず規制や妨害を受けるでしょう。

私たち国民は日本国の主権者です。主権者には国の進路を考えるという責任があります。そのために必要な情報は、私の意見では読売新聞を読んで、ニュースステーションを見ていては得られません。上以外にもいろいろなメディアがあると思いますが、ぜひ様々なメディアと、それと何よりも自分の目を通じて考えましょう。考えないと、おそらく日本はこのまま緩慢で取り返しのつかない破綻へと向かってゆくでしょう。

新聞は惰性や販売員の威勢に負けてつい、何も考えずに購読を続けますが、毎朝の新聞こそは考えるための糧の重要な一つです。ぜひ色々と新聞を読み比べて、必要とあらば購読習慣を変えましょう。

 

(2)主体的に自分の言葉を選び、それで言論を組み立ててゆく:言葉は自分が最も的確に現実を表現できると考え、かつ他の日本語との整合性が高いと思われる言葉を見つけて、それを自覚的に使ってゆきましょう。官僚が恣意的に決めた言葉を使いつづける義務は国民にはありません。私は、現行の「個人情報保護法案」「人権擁護法案」を必要に応じて「公人情報保護法案」「公人擁護法案」、一括して「言論統制法案」と呼びつづけます。その方がより正しい言葉遣いだと考えるからです。

また、私は今後は批判的・引用的な使い方以外では、決して「お上」という言葉を中央官僚を意味するために使いません。それだけでなく、今後は、官僚は公僕と呼び、中央官僚は中央公僕と呼びます(ちなみに私は教育公僕です)。この方が、その職務の性質を正確に反映すると考えるからです。

みなさんもそれぞれが最もいいと思う言葉を使って、自らの言葉に自覚的になって、かつ議論を行って、より真実に近くより正義にかなった認識を得る努力に加わりませんか?それこそが世界史の原動力だと思います。

 

(3)教育・研究に励む教育・研究を仕事とする者は、自らの仕事が、批判的知性と自己懐疑心を(そしてもちろん愛情を)兼ね備えた人間を育てることであることを再認識し、それぞれの仕事により一層励みましょう。私もより一層、教育・研究に励みます。これは遠回りですが、一番大切なことです。私もここらでこの小文を終え、明日の教育・研究のために就寝することにします。

もちろん必要な発言は、今後ともに続けます。皆さんもぜひご意見・ご批判を表明してください。

参考サイト

辻下徹さんによる「個人情報保護法の諸問題」の詳しく便利なリンクページ 桜井よしこさん(ジャーナリスト) 喜多村洋一さん(弁護士) 三好徹さん(作家) 辻井喬さん(作家)猪瀬直樹さん(作家) 梓澤和幸さん(弁護士) 毎日新聞 産経新聞 共同通信 表現の自由を規制する個人情報保護法案に反対する共同アピール 新聞協会、民放連、NHKの共同声明 雑誌34誌の編集長、個人情報保護法案の廃案を求める共同声明を発表 個人情報保護法案拒否!共同アピールの会 日本ペンクラブの見解  民放キャスターが反対声明  日本テレビの反対声明

追記:読売新聞の修正案提出に対する批判として東京新聞論説2002.5.16があります。 (http://www.tokyo-np.co.jp/)を加えておきます。

追追記:2002年5月28日の毎日新聞によりますと、この法案に関する重要人物である園部逸夫さん(法制化専門委員会委員長)は、毎日新聞のインタビューに答えるなかで、「ただ、仮に争いになっても、最後は裁判所もあるし、政府もそうむちゃな判断はしない。そもそも報道は義務規定からは除外されているので、政府が取り締まるようなことにはならない。基本原則は適用されているが、これは単なる心構えというか、お茶の作法、文学のようなものだ。・・・現段階では心配ないと思うが、将来、悪い悪い政府が出てくれば、運用しだいで表現の自由が侵される恐れはあるだろう。政治家もプライバシーを暴露されたくはないのだから」と発言しています。ここにおいては、裁判所は法律においての判断をするところであって、(一部の人からみれば)悪法であろうが何であろうが、法の存在は法の存在としてそれを根拠にせざるをえないことに対する認識がないように私は思えます。また、「政府はそうむちゃな判断はしない」といいますが、少なくとも戦前の日本政府はむちゃくちゃなことをしました。古今東西、権力者は、その権力を独占する度合を高めるにつれむちゃなことをします。ですから私はこの園部さんのような楽観視は決してできません。また「悪い悪い政府が出てくれば」とありますが、もともと法律というのは「悪い悪い人間」が出てきたときに対応できるような社会的仕組みです。それが、個人情報を乱用する「悪い悪い民間人」には対応するが、この法案そのものを乱用する「悪い悪い政府」や「悪い悪い公人」にはまともな対応策はなく(現在国会で審議中の「行政機関等個人情報保護法案」には罰則規定がありません)、さらにはそれによって「表現の自由が侵される恐れはあるだろう」というのは、あまりにも無責任で恐ろしい発言だと思います。このような法案は許すべきではないと私は考えます。

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忙しすぎるのはマネジメントの失敗(2002/5/14)

「現職英語教員の教育研修の実態と将来像に関する総合的研究」(平成13年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書:英語教育研修研究会・研究代表者 石田雅近さん(清泉女子大学文学部)、分担者 緑川日出子さん(昭和女子大学文学部)、久村研さん(調布学園短期大学コミュニケーション学科)、酒井志延さん(千葉商科大学商経学部)、笹島茂さん(埼玉医科大学医学部))を読みました。報告の種々の統計は興味深く読みましたが、むしろここで無視できないと思ったのは中高英語教員による自由記述でした。できれば全部を読んでいただきたいのですが、以下は研修に関して、私が引用しておきたいと思った自由記述の一部です。

「私は高校教諭を経て中学校教諭をしているがどうして中学校はこんなに忙しいのかわかりません。生徒の気持ちが不安定だったりする中学校教諭にこそ教材研究や生徒指導をするための時間が必要だと思うのですが、一日に空き時間は一時間程度ということが頻繁にあります。学級、分掌、授業、部活・・・日曜日など研修に参加する時間もなければ、英会話に通う時間も作れないのが現状です。中学教諭にもゆとりを・・・と思います」(女性・30代・中学校・15年未満)

「誰でも研修に参加し、運用力や指導力を高めたいと考えているが、現実には学校内の校務分掌や部活動指導の忙しさがあり、参加しにくい状況にある。数日間の研修は同僚の協力で授業をカバーしてもらえるが、数週間以上の研修となると、依頼しにくくなる。そこで長期の研修に参加しやすくするために、各地区(域)内に研修者の授業をカバーしてくれる代用教員(Substitute Teacher)を設けてほしい(アメリカでは各校数名の代用教員が登録されている)。」(男性・30代・高校・20年未満)

「総合だ、選択だ・・・理想はいっぱいあるけど現実は少ない教員で行事は次々と、生徒指導の毎日で悪循環です。どれもいいかげんで「こなす」だけになってしまいがちです。もっと現場の状況を見て物事を動かしてほしい。教員にゆとりがなければ理想は目指せないし向上心もわかない。一人一人の教員の仕事は「飽和状態」です。」(女性・20代・中学校・6年未満)

「日頃、授業以外の仕事などがあり、なかなか充分に研修の時間をとることができない。もっと週あたりの時間数を減らして、研修のためのゆとりの時間を確保してほしい。このままの時間数で、強制的な官制研修を受けさせたり、校内での研修を強いることは絶対反対である。講師が配属されないと残りの教師の負担が大きい。週に19-20時間も授業をすることになってしまう。他の先生に負担にならないで、かわるがわる研修できればよいと思う。」(女性・40代・高校・20年以上)

「とにかく多忙なため研修する時間を確保しないと今までアンケートに答えたことも意味なくなってしまう。文部科学省、教育委員会はじめもう少し教師を信頼して、余計で意味のない仕事を削ってほしい。何か新しいことを導入すると必ず文書の報告。これまで研修の時間をどんどん書類書きの時間にむりやり変えられてきたとしか思えない。」(未記入)

「教員の労働条件が悪化している中、ますます充実した教員の勉強ができない状況です。このままいくと次々倒れていく教員が増え、研修どころではなく生命の問題になっていくと思います。」(未記入)

「子供の数が減ったからといって教員の数を減らすのではなく、ゆとりを持った授業ができるように教員定数を確保あるいは、増やすようにしてほしい。英語科でいえば常に誰かは海外研修に出ている(半年以上の)という状態が望ましい。つまらないことに国の予算を浪費せずに教育にかけるお金を優先して考えてもらいたいものだ。」(女性・40代・中高・20年以上)

「このようなアンケートをWeb上でできるようにしたらどうでしょう?学校の現場にはこのようなアンケートがよくきます。それが教師の時間を奪っていることを考えてください。(もちろん、必要なことはわかります。)」(男性・30代・中学校・10年未満)

こういった引用をそのまま信じますと、多くの教員が研修したいという意欲は持ちながらも、忙しすぎてそれどころではなく、そのうちに研修の意欲さえ失いかけてきているようです。意欲ある人材をこうして、くさらせてしまう(きつい言葉をお許しください)のは、まず管理職のマネジメントの失敗であると思います。

管理職の仕事は言うまでもなく個人個人のメンバーを最大限に活かし、チームとして最大のパフォーマンスを実現させることです。個々のメンバーに文書ばかりを作成させることが管理職の目的ではありません。それはチームとしてのパフォーマンスを活かすという目的に役立つ限りにおいてのみ正当化される手段です。ですが日本の公的組織はどうも万事書類で管理したがります。書類で表面上は「問題無し」という体裁を作りたがります。日本の多くの管理職が管理しているのは、チームのパフォーマンスではなく、自らの保身ではないのかと悪口を言いたくもなってきます。

管理職(特に公務員の管理職)は、憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を遵守し、自らの部下が超過勤務などで健康を害することがないように努力しなければなりません。そのためには、仕事の割り振りで、仕事が一部の人に偏らないようにする一方、仕事の合理化・標準化、そしてIT化を進めて、最小人数で最小時間で事務仕事が終えられるよう常に頭を働かせねばなりません。学校現場では一人一台のパソコンがないところが多いとも聞きます。このような予算は管理職が率先して獲得しなければなりません。上にあるように代用教員や部活指導ボランティアなどもどんどん獲得するべきでしょう。

しかし一方で管理職ばかりに要求するのもフェアではありません。私は良心的で献身的で合理的な管理職の方を個人的に何人も知っています。学校の管理職はほとんどの場合、人事権も予算権ももっていません。権限は実質上、それより上の都道府県・国に握られているか、下の教員集団に既得権益としてしっかりと固持されている場合も多いようです。現場管理職には、適正な権力(および、もちろん、それにともなう責任)を与えなければなりません。しかし、中央集権の日本の体制では、どうもそういった権限付与(empowerment)が現場の管理職になされていないようです。中央が書類と会議で方針を与えると、それが現場にとっての至上命題となってしまいます。しばしばそれは現場の実情と合わないもので、構成員の共感も協力も得られず、現場管理職は、板ばさみに苦しみます。中央集権体制から分権体制へとシフトし、決定を迅速で柔軟なものにし、現場管理職に適正な力を与えないと、私は一人一人の教員の苦しみも解決しないままに終わるのではないかと思っています。現場管理職が、上ばかりを見る「ひらめ」でない限り、私たちはもっと現場管理職を応援するべきだと私は思っています。

また、(私も含めて)一人一人の教員に対しても批判の目は向けられるべきです。私たちは研修に値するぐらいに、毎日毎週毎年の仕事を合理的に進めているでしょうか。自らの仕事を標準化し、他の人とうまくチームワークをとったり、引継ぎを適切に行ったりしているでしょうか。下手な会議運営でみんなの時間を奪っていないでしょうか。IT自己研修を怠り、コンピュータを得意としている同僚に不必要かつ不当な仕事を押し付けてはいませんでしょうか。「忙しい」という台詞を自分の仕事の下手さ加減を隠す呪文にしていないでしょうか。自らをつぶしてしまいかねない仕事の依頼にNoをはっきりと言わず、結果的に全ての仕事のパフォーマンスを下げてしまってはいませんでしょうか。私たちは、Noを言うための勇気を欠いて、合理的な理由の提示ができないだけではないでしょうか。愚痴るだけで、教員同士連帯して仕事環境の改善を上司に合理的に訴えていないのではないでしょうか。忙しさを、研究の孤独や苦しさから逃れるための言い訳にしていないでしょうか。仕事に没頭することで私生活の貧困をごまかしてしまおうとしていませんでしょうか。

忙しすぎるのはマネジメントの失敗だと思います。それは現場管理職のマネジメントの失敗(リーダーシップの失敗)であり、中央管理職のマネジメントの失敗(システム・体制設計の失敗)であり、かつ個々人の自己マネジメントの失敗(人生・生活設計の失敗)だと思います。非効率的(というより非現実的な)中央集権の決定体制から決別し、分権体制に移行することによって、各現場組織と構成員個々人それぞれの自律性を高め、それぞれが合理的に仕事を進めるための具体的な工夫を重ねてゆかなければ英語教育もよくならないと私は考えます。

「忙しすぎるのは有能教師・組織の定め」といった(私から言わせれば誤った)認識を正しませんか。「忙しすぎるのはマネジメントの失敗」というのを私たちの共通理解にしませんか。

いつにもまして、短い時間で書いた文章です。議論の飛躍や不備も多いでしょうし、私の偏見も多々入っているかもしれません。ずいぶん偉そうな言い方になっているかもしれません。ぜひぜひご批判ください。

追記:多くの英語教師が長期研修をすることは、公共投資や財投の無駄使いを止めれば予算的にはすぐに可能になるはずです。私たちはそれだけの税金を払っていますし、日本にはそれだけの金があるはずです(日本各地に建っている無駄で醜悪なぐらいにピカピカな公共建築物をご覧ください)。国政というマネジメントにも私たちが積極的な関心を向けない限り日本の英語教育はよくならないとも言えないでしょうか。

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達人セミナーin広島に参加して(2002/2/7)

2月3日に達人セミナーが広島県生涯学習センターで開かれて私はコーディネーターとして参加しました。講師は谷口幸夫さん(東京都立武蔵村山高校教諭)、清家佐保さん(愛媛県済美平成校中学部高校部教諭)、長崎政浩さん(高知県教育センター)と、田尻悟郎(島根県広瀬町立比田中学校教諭)さんでした。今回も非常に豊かな内容のセミナーでした。

ここではそれらの発表を、最後のまとめの時間に私が行った要約の枠組みにしたがって総括したいと思います。私の枠組みは、英語教育を変えるための四つのステップです。それは(1) Break the limit of imagination, (2) Change the cognitive environment, (3) Construct new reality, (4) Systematizeです。

(1) Break the limit of imagination

私たちを拘束している最大のものは、実は私たち自身の想像力なのかもしません。「この生徒はこんなもの」「この学校ではこのくらいしかできない」「文部科学省の規制下では何もできない」等など私たちは行動を起こす前からしばしば限界を設定してしまいます。生徒も彼/彼女の想像力の限界で、自らの可能性を否定しているのかもしれません。「英語の授業は面白くない」「自分が英語の授業で活躍できるわけがない」等などです。

もちろん、プラス・イメージで願えば何でも叶うとまでいうつもりはありません。メンタル・トレーニングに関するスポーツ心理学の書が最初に警告することは、メンタル面以外のマイナス原因を取り除くことです(アラン・ゴールドバーグ『スランプをぶっとばせ!メンタルタフネスへの10ステップ』ベースボール・マガジン社)。英語教育を改善するのも、実際は具体的な工夫と努力です。

しかし、それを踏まえた上で言うなら、私たちの英語教育に関する想像力の限界が、存外に私たちの行動を停滞させているのではないか、ということです。達人セミナーのいいところは、私たちのそんな想像力の限界を破るような実例に出会えることです。

それでもご丁寧なことに、また想像力の限界を設定する人はいます。「達人ならともかく、私はとてもあんな授業はできない」と考える人です。しかし達人セミナーの前夜祭や懇親会で話を聞いてみるとどの「達人」も--ちなみに達人セミナーの講師で、自らを「達人」と呼ぶ人なんて一人もいません。「達人セミナー」という名前はちょっと誤解を招きやすい名前なのかもしれません--最初は私たちと同じように、悩み苦しみ落ち込み途方にくれていたことがわかります。彼/彼女らが違うのは、「英語教育なんてこんなもの」という通常の想像力の限界にとらわれずに、大きくヴィジョンを描こうとしたことです。私たちが達人セミナーで最初に学ぶべきことは、怠惰な想像力という私たち自身の呪縛を振り払うことなのかもしれません。

(2) Change the cognitive environment

しかし、想像力の限界を破るとはいえ、どうやったらそれは可能になるのでしょう。これに関しては、達人セミナーで示された小技が非常に示唆的です。谷口さんは、英語のペア活動をさせている時に、隣のペアの応答が聞こえてしまって、生徒が自らの活動への集中力を欠いてしまった時には、「もっと集中して!」などとお説教をたれずに、わざとラジカセから音楽を流します。そうしますと自然と周りの音も聞こえにくくなり、生徒は相手の声に集中します。同時に、流されているアップテンポな音楽に助けられて生徒の活動も明るくなってゆきます。「生徒はなかなか活動に乗ってこない」という想像力の壁は、ラジカセの音楽という認知環境を変化させることによって案外簡単に破れるのです。

あるいは清家さんの小技も有効です。清家さんは中学生にニュース原稿形式の教科書の本文を読ませる時に、ペアの相手の目を見ながら朗読させます。しかしそれでもアイコンタクトというのは気恥ずかしくてなかなかとれないものです。この時の工夫は、ありあわせの紙を丸めて筒を作ってそれをテレビカメラに見立てることです。私もこうやって朗読をする相手を見ましたが、こうすると面白いぐらいに相手の目の表情をよく見ることができます。「朗読ごっこなんて恥ずかしいだけで・・・」などという否定的な想像力は簡単に打ち破られてしまいました。清家さんによると、加えてマイクスタンドを一本生徒の前に立てるだけで生徒は興奮するぐらいに熱中するといいます。さらにビデオカメラで実際に朗読を撮影するとずいぶん生徒は本気になるといいます。実際に撮影した生徒の朗読を見せてもらいましたが、生徒はカメラの前ゆえに緊張こそすれ、それぞれに棒読みなどとは程遠い、彼/彼女らなりのニュース・キャスターのイメージで、英語のメッセージを伝えようとしていました。「想像力を働かせよう」といっても想像力の行使は、慣れないうちはうまくゆきにくいものです。そんなときはちょっとした小道具で認知環境を変えることによって私たちの想像力ははばたくことができます。さらに「教科書の表現を少し変えて、自分たちでニュース原稿を作ってごらん」とのせると、生徒たちは非常にユニークなパフォーマンスをします。ビデオを見ていた私たちも自然な笑いに誘われましたが、そのパフォーマーであった生徒の一人が、実は一年の頃は顔を上げて英語を言うことすらできなかったのだということを知ると、このような工夫は単に余興ではないのだなと思わされました。

清家さんの学習環境に対するこだわりは徹底していて、中学校の授業では毎回トランプカードを一人一人に渡して席替えをするそうです。毎回のことですから、例えば「スペードの8」だとどの席かということは教師も生徒もわかっており、席替えは非常にスムーズだそうです。さらにトランプカードを渡すとき清家さんは必ずアイコンタクトを取って微笑むそうです。アイコンタクトを取らない(忘れている)生徒には、わざとぎゅっとカードを握って渡さないそうです。そうするとその生徒もアイコンタクトのことを思い出して、照れくさそうに笑います。「毎回笑顔で授業を始めることができることは素晴らしいことだと思います」というのは清家さんの弁です。もっとも席替えで偶然仲の悪い子が隣に座ると、ちょっと険悪な雰囲気も出ることもあるそうですが、それはお互い一時間だけのこととして案外割り切るようです。トランプカードによる席変えがどんな時にもどんなクラスにも有効だなどと言う気もありませんが、「生徒が変わらないときは生徒の認知環境を変える」という原則は覚えておいても損はないと思います。

認知環境は小道具・小技に限ったことではありません。英語教育の前提に関する言葉も私たちにとって重要な認知環境です。そのことを雄弁に語ってくれたのが、長崎さんが語ってくれた2001年全英連高知大会「和訳先渡し授業」の報告です。この報告は非常に面白いものでしたから、いつか可能ならまた改めて文章を書こうと思っていますので、ここでは簡単に報告するにとどめます。

このプロジェクトの一つのきっかけは、英語教育に圧倒的に足りないのは「量」ではないか、という金谷憲さん(東京学芸大・同プロジェクトアドバイザー)の問題意識だったそうです。多くの人が認める「よい」英語のリーディングの授業もビデオに録画して計測してみると、生徒が実際に読んでいる英語は一分間になんと2語だったそうです(200語でも20語でもありません。2語です!)。これではやはり英語の力はつきそうもありません。しかし「でもきちんと訳をするには多くの時間が必要ですから・・・」と私たちの想像力は現実に縛られてしまっています。

そんなときに金谷さんがふと言ったのは「じゃあ訳を先に生徒に渡したら」という一言でした。その時の長崎さんらの反応は、いまから思えば想像力の限界に拘束されたものだったものと言えるでしょう。「また、金谷先生は受け狙いのことを言って!訳を渡してしまったら英語の授業が成立するわけはないじゃない!」といったものでした。

しかし「訳を先に渡してしまう」という新しい前提(認知環境)は次第に長崎さんらの想像力を解放してゆきました。「確かに訳読をなくせばたくさんの剰余時間ができてくる。その時間で何かできるかもしれない」「そもそも私たちは英語教育で何がしたいのだろう」「私たちには何ができるのだろう」といったものです。そうして長崎さんたちが到達したのは「タイル貼りから漆塗りへ」という、英語教育を理解するメタファーの転換でした。従来型の英語教育はタイルを一枚一枚貼ってゆくように、少量の英文を一度だけ扱っては、次の少量の英文に移ってゆくというやり方でした。それを長崎さんたちは漆塗りのように、一つながりの長い英文を何度も何度も、その度に異なるタスクを通じて読み通してゆくやり方に変えました。その内容の具体的記述はここでは割愛させていただきますが(とはいえ、私はこの様々なタスクの設定こそがプロジェクトの眼目だと思っています)、この和訳先渡し授業は多くの参加者に大きなインパクトを与えたようです。ある人はまさに「目からウロコが落ちました」と言っていました。

私も英語教育で、もっと量(したがってスピード)を重視することには全面的に賛成ですが、ここで注目したいのはこのプロジェクトでは、一見突拍子もない前提を言葉に出してみて、新しい認知環境を作り上げることによって、想像力を解放し、ひいて英語教師の潜在力を開拓したことです。英語教育を拘束している外的要因には様々なものがあり、私たちはそれらへの批判を絶やしてはいけませんが、存外私たち自身の想像力の限界が英語教育を拘束しているかもしれず、それを打ち破るためには、まず認知的環境を変えてみようというのがここで私が言いたいことです。

(3) Construct new reality

こうして新しい英語教育のあり方をradicalに想像しなおしてみたら、今度はそれを具体化して新しい現実を作り上げる番です。この際のキーワードはanalyze, compose, talk and writeだと私は考えます。Analyzeというのはやはり重要です。達人セミナーで見ることのできる英語教師の授業では、私たちはよく豊かな感性の働きに注目してしまいますが、その背後で必ず「何をどんな順番でさせるのか、そしてそれはなぜか」といった極めて合理的な分析があることに気がつきます。「感性のひらめくままに」授業をするなら、きっと当たり外れの大きい授業にしかならないでしょう。長崎さんのプロジェクトにしても「和訳を渡してしまう!」だけでは、授業は崩壊すらしかねません。和訳を渡してしまった後に、「何をどんな順番でさせるのか、そしてそれはなぜか」という分析を重ねて、授業を構成(compose)することが必要です。デザインというのは感性と論理の高度の融合なのです。

この分析と構成を行う際に、有効な手段はやはり言語です。自ら一人で分析・構成する時にでも、自分のアイデアを言葉にしてみて教案として書いてみる。くどいようですが、このように認知環境を整えてこそ、想像力だけでなく論理的思考という知性もその潜在力を発揮することができます。他人を「環境」と呼ぶのは人間の手段化のように聞こえて誤解を招きそうですが、他人という認知環境があれば、私たちの思考も言語コミュニケーションを通じてより具体的に、より精緻になります。自分の描くイメージを言葉にすること、他人に正確に伝えることは案外難しいものです。しかしこの訓練を自分に課すことが、自分の英語教育を客観的なものにする有効な手段です。生徒というのは、結局は他人なのですから、自分の英語教育を他人にもわかる客観的なものにしないと、生徒という他人も動かないと思います。もちろん主観的な熱意だけでもある程度は生徒を動かすことはできますが、熱意だけで勝負というのもまさに芸がないものです。徹底的に英語教育を語り、書き留めてみることによって自分の英語教育を分析し、授業を構成してみることが、想像力の解放の後に続くべきことだと思います。

(4) Systematize

こうして授業を作ってみて、それを実際に実行してはフィードバックを得て、細部を改良してゆくことがよい英語授業つくりの定石だと私は考えています。ですが、その自己改善を、システムというほどにまで高度に完成させていたのが田尻さんの授業でした。田尻さんのワークショップは久しぶりに経験しましたが、やはり凄いものでした。「やはり」と不用意に言いましたが、数年前にくらべて少しは私も英語授業を見る眼が育ってきたと(少なくとも自分は)思いますので、田尻さんの授業の完成度の凄さはいっそう圧倒的でした。私はワークショップが始まって五分もたたないうちに、その内容の濃さと豊かさにメモを取ることをあきらめてしまいました。

異なる人を比べるというのは下世話なことですが、田尻悟郎さんの授業には中嶋洋一さんの授業を見たときのような奥の深さを感じます。お二人とも、生徒の心の動きに敏感で、かつ自らの授業構成を客観的に把握しているという点では共通しています。しかし同時にお二人の志向の違いも感じられます。類型化し、お二人の授業を見る眼を固定化することは私の主意ではないのですが、中嶋さんの授業がテーマ性を重視するアートの芸術的側面が強く感じられる授業とすれば、田尻さんの授業は授業のシステム化を重視するアートの技術的側面が強く感じられる授業といえるでしょう。

内容に圧倒された自分としては、全く偉そうなことはいえないのですが、ここでのキーワードはreference, hierarchy, customizationだと私は思います。Referenceというのは、自分や生徒が必要に応じて参照することができる認知環境を作り上げてしまうということです。田尻さんの場合は「がは・の・をに・のもの・自身一覧表」(人称代名詞の変化を横並びにしてわかりやすくまとめたプリント)、「語順一覧表」(中学英語の語順パターンを3パターン11種類にまとめたプリント)、「どどいプリント」(「どのように」「どこで」「いつ」に関する英語表現をまとめたプリント)、「英語文法・重要表現カルタ」(英文法・語法に関するルールを、語呂よく、上の句と下の句にまとめたプリント)、さらには以前このHPでも紹介した(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2000.html#000405)Talk and Talk(活動中心のワークブック三巻本:正進社 http://www.seishinsha.co.jp/tosyo.html )がこのreferenceに相当します。これらのreferenceも上の説明だけでは読者の皆さんには何のことかわからないかと思いますが、これらのreferenceを適宜参照しながらの田尻さんの説明は非常にわかりやすく、中学英語は当然良く知っているはずの私も「なるほど、なるほど」と納得しながら聞き入ってしまいました。

Hierarchyという特徴は上のネーミングによく表されていると思います。例えば「どどい」と言うだけで生徒は「どのように・どこ・いつ」という概念を想起することができます。なんだか難しい言い方になりますが、「どのように・どこ・いつ」という概念が高階層の「どどい」という表現に圧縮されているわけです。語順一覧表についてもそうです。中学の英語教科書に出てくる数多くの文が11種類に分類され、その11種類が3パターンに圧縮されます。生徒は3パターンを思い出すだけで、それらから比較的容易に11種類を思い起こすことができ、それによって(極端な話)無数の英文に対応することができるわけです。こういった階層化によるシステム構成は非常に合理的です。合理的なシステムは一見敷居が高く見えますが、慣れると情報の圧縮という点でこれほど効率的なシステムもなかなかありません。田尻さんはこのhierarchyをまことにうまく使いこなしています。

とはいえ「どどい」とかいった言葉には抵抗感を感じる方もひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。「英語文法・重要表現カルタ」にしても、私とて最初はその独特の表現に少し戸惑いを感じてしまいました。しかしこれは田尻さんが自分のシステムを自分と自分の生徒にぴったりとくるようにcustomizeしたからです。いいreferenceをどんどん自分たちにとって使いやすいように細部を変更してゆくというのは大切なことだと思います。突飛なたとえに思えるかもしれませんが、パソコンという機械がこれほどに重宝されているのはcustomizationが容易でかつ広範囲にできるからだと思います。自分がよく使う表現を辞書に入れた日本語変換ソフトは重宝なものです。よく使うアイコンをウィンドウの上にまとめておくことは作業効率を非常に上げてくれます。ブラウザーの「お気に入り」を整理しておけば、ネットでの情報検索もずいぶん快適になります。私はOutlookというスケジュール管理統合ソフトを毎日の業務に欠かせない便利なものとして使っていますが、これも仕事やメールや連絡先を、Outlookが私が設定したカテゴリーに従って自動的に分類してくれるからです。いいシステムの根幹は変えないで、表面の細部は自分にとって心地よいように変えてゆくとうのは、英語教育においても大切なことだと思います。

いずれにせよ、英語の授業を高度にシステム化した田尻悟郎さんの話は、機会があったら是非お聞きください。心からお勧めします。

ずいぶん感想が長くなりました。最後に二つだけ述べてこの小文を終えたいと思います。一つは長崎さんの言葉です。長崎さんはこう言いました。「英語教育の主人公はもちろんのこと生徒ですが、英語教育改革の主人公は英語教師です」。私も全く同感です。英語教育が変わるのは、産業界からの圧力からでもなく、文部科学省の指導からでもなく、英語教師の毎日からであるべきだと思います。圧力による変革はしばしば歪んだ強制をもたらし、指導による変革は硬直化しがちだからです。現場を良く知る英語教師が、自分の日常から変革をすることこそ、現実からのフィードバックによる進化をもっとも活かす変革方法だと私は考えています。

しかし、同時に私は英語教師の自己変革力に関して楽観視もしていません。今回のまとめにこだわるなら、まずは自らの想像力の限界を打ち破り、認知環境を変え、新しい現実を、言語を媒介にして作り上げ、現実からのフィードバックによって英語教育をシステム化しなければ、英語教育は大きく変わることはないでしょう。ワークショップに行っては小手先の技だけを真似ようとしても--つまりは想像力の枠組みを変えることもなく、説教だけで変革を叫び、言葉によって授業の技を客観的に把握することもないままに小さな変化を加えてみても?英語教育は変わらないでしょう。同じように、授業に出た瞬間の思いつきだけで大きな変革をやってみても(「よし、今日はAll Englishだ!」)--つまりは具体的な工夫を欠き、思いつきを練り上げることもなく、ましてやシステム化とは縁遠い衝動的な指導をしても--英語教育は変わらないでしょう。いやますます悪くなるだけかもしれません。私たち英語教育関係者はもっと英語教育に対して合理的にアプローチをしてゆきたいと思います(蛇足ですがこの合理的という言葉は、見せ掛けだけの「科学性」とは全く関係のない言葉です。非合理的ともいえるまでの「科学性」へのすりよりは私が長年批判していることです)。

言いたいことのもう一つは、この達人セミナーへの敬意と感謝の思いです。このように深い学びを与え、人々の結びつきを広げ、豊かにするこの草の根運動は、日本の英語教育界にとっての宝だと思います。達セミを支える全国の様々な人達、そしてなにより達セミの原動力になっている谷口幸夫さんに心からの敬意と感謝の念を表したいと思います。私は達セミに出たときは原則として必ず学んだことを文章化することにしていますが、これは私なりの(とても足りない)敬意と感謝の表現方法です。

追記:文章の流れのどこにも入れることができなかったので、ここに書きますが、田尻さんが言っていた「授業中、生徒からどれだけ『ああっ、そうか』『くそーっ、そうだった』『あっ、わかった』といった自発的な声が出るかが授業の成功度合いをはかるバロメーターになると思います」という言葉には、なるほどと思いました。私の授業も、もっともっとこのような学習者(間)の心の動きに敏感になれるようにデザインをしなおさなければと反省しました。


社会的なことは考えさせない、語らせない?(2001/10/14)

ある方に「広場」の投稿で教えてもらって、別技篤彦さんの『戦争の教え方』(朝日文庫)を読みました。著者は長い間国際教育情報センター(外務省の外郭団体)で世界各国の教科書を調査してきた人で、この本はその調査の副産物ともいえるものです。

もともとは1983年に発行されたものですから、当然のことながらそれ以降のことに関する記述はありません。また1983年以前の記述についても私はいわゆる「社会科」の教科書のことをほとんど知りませんから、この本の記述をうのみにするしかできません。

しかしその限りにおいていうなら、日本の教科書はまるで日本人に社会的なことを考えさせないように、語らせないようにつくられているとでもいいたくなるありさまです。その具体的な証拠の列挙こそがこの本の内容なのですが、一例だけあげますと、あるアメリカの教科書はジョージ・オーウェルの『1984年』の抜粋を読ませた上で論考を重ね、生徒に次のように問いかけます。

(1)君がこれまで読んだいろいろな政治的、社会的哲学のなかで、どれが君個人の哲学に最も近いか。(2)君の考えではよい指導者たるものの性質は何だと思うか。彼はそれに従うものたちにどれだけ依存しているか。導かれる人達のことを考えないで指導者を定義することができるか。(3)君は歴史上のいろいろな時代の社会、政治、法律について学んできたが、その下でよろこんで生きていたいと思うものがあるか。(4)暴力は政治的変化を達成するのに効果的な方法だと思うか。君の結論を例を以て示せ。(5)民主主義とは何か?ペリクレス時代のアテネは民主主義であったか?1800年代のアメリカは民主主義であったか?現在のアメリカはどうか。(6)「最小の統治行為をする政府は最良のものである」--このコメントについて君はどう思うか。

このように具体的な記述によって生徒の感情と知的好奇心に訴え活発な討論を促される教育を受けてきた人間と、年号の丸暗記ばかりで、しかも現代史は扱わないという教育を受けてきた日本人の言語能力に差ができても何の不思議もないと思います。よく世界からの留学生が集まった中で日本人だけが自分の意見を述べることができなかったエピソードが紹介され、英語教師はその度に自らの無力を反省したりしますが、英語教育以前に、まるでもって社会的なことを考えることも語ることも訓練を受けていないとすると、それは英語力以前の問題でもあるように思えます。

社会的な話題こそは意見を異にする他人と言葉を通じて合意しなければならないことです。自然科学は究極的には物理世界での証拠によって議論の決着がつきます。美的判断は結局のところ、個人の趣味というところで落ち着いたりもできます。しかし社会的な話題こそは、互いに批判しつつも理想に向けて合意することを学ばなければならないことです。それだけに高度な言語能力が必要とされる話題です。社会的な話題はしばしば互いの困惑や矛盾、ひいては政治的問題さえをもあらわにしますが、それを通じて議論を成熟させることこそ民主主義の根幹だと思います。その意味で日本の教科書は民主主義を尊重する国民を育てるようにはできていないようにさえ思えます。

英語を教えるということは、日本人が日本語話者以外の人と交流をすることを勧めるということです。交流は自然科学や趣味の交流だけにとどまりません。おりしも現在アメリカがテロ組織との新しい形の戦争状態にあります。アフガンでは市民が空爆を怖れています。アメリカでは市民がテロにおびえています。日本は何をすべきなのか。他の国に対してどのようなメッセージを伝えるべきなのか。そういった政治的判断を支えるのは多くの国民による思索であり、その思索を可能にする具体的な討論です。自由な討論のないところに思索の深まりも言語能力の伸長もありません。日本人が英語を使えない一つの大きな理由は、そもそも日本語ですら考えることも語ることも教育されていないからというのは言い過ぎでしょうか。英語教育の問題を英語教育の枠内だけで考えるのには限界があるように思いますがいかがでしょう。

もしコメントがありましたら「広場」(社会性の高い話題)「中庭」(専門性の高い話題)へお気軽にご投稿ください!


言語使用と世界へのコミットメント(2001/10/3)

広島大学付属福山中・高等学校第31回教育研究大会(9/28)で池岡慎さんの公開授業(高校一年生・英語I)を参観しました。"Revolutionary"とでも言いたいぐらい素晴らしい授業でした。

授業はRound System / Cooperative Learning / Four Skills / Identify and Self-confidenceという四つの方針を柱にしたもので、公開されたのはLesson6を扱った最後の授業(第5限目)で、池岡さんの教育信念とそれに基づく仕掛けに満ちたもので、公開授業の全体像を描き出そうとするならばそれらを詳しく述べなければならないのですが、それは池岡さんが書くであろう論文か著書(池岡さん、是非書いてくださいね!!)に任せることとして、ここではその後会授業のハイライトについてのみ書くことにします。

ハイライトというのは、教科書のテーマであるambiguity in languageをもとに各生徒が英語を書いてきており、それをまずは4人グループ内で評価しあって、その中で最も評価が高かった人がグループ代表でクラスで発表するというものです。

10人のグループ代表が次々にポスターや絵を巧みに使いながら英語でスピーチし、50分の授業はあっという間に終わってしまいました。これは一文一文の文法的な説明と翻訳に終始する文レベルの英語授業を超えているのは当然のこと、さらにパラグラフ構成に留意した文章レベルの英語授業をも超えて、言語使用に至っている授業といえるものでした。

生徒はテーマを受けて「スゴイオトコノコドモがいた」「政治家はオショクジケンが好きだ」という日本語文の曖昧性について、あるいは"I regret to say", "I'm sorry to say"の違いについて語り、聴衆へ理解と共感を求めます。そのアピールの熱意は、生徒が一人残らずすべてのスピーチを項目ごとに評価し(構成:パラグラフの構成を守っているか。内容:説得力のある具体例があるか。態度:スピード、音量、アイコンタクト、自信、ジェスチャーが適切か)、その評価に基づいてクラスでベストのスピーチを楽しみながらも真剣に決める教室文化によって支えられています。

言語には様々な機能があります。サールさんに言わせますならばそれはassertive, directive, commissive, expressive, declarativeに大別されますが、さらにその区別を抽象しまとめあげますならば、それは言葉によってどう話者が世界に関与するかということになります。話者は、共に棲む世界の中での、自らと世界との関与を言葉で表象し、その表象を聴者に共有してもらおうとするわけです。抽象的な物言いになってしまいましたが、私の言いたいのは世界へのコミットメントが言語使用の核にあり、文文法やテクスト文法も、さらには様々の言語文化慣習も、その核の周辺にあるに過ぎないとすら言えるのではないかということです。「言語」の自律性を強調するチョムスキーさんなら反対する考えでしょうが、進化論モドキの考え方からするとそれほど破天荒な考えでもないと思います。この公開授業のテーマは「四領域を有機的に関連づける指導の工夫」でしたが、その「四領域を有機的に関連づける」核も、世界へのコミットメントとそのコミットメントの相互理解への欲求であるように思います。

小難しいことを書きましたが、池岡さんの授業は、生徒が驚くほど楽しそうにかつ物怖じせずに英語を使っていることを見るだけでも感動的な授業です。皆さんももし機会がありましたら池岡さんの授業・講演をお聞きすることを心からお勧めします。


「言うこと」と「言って意味すること」(2001/9/24)

9 月21日に山口大学教育学部で行われた第32回中国地区英語教育学会で「応用言語学における言語使用の説明と記述について」という口頭発表をしました。その中で私は応用言語学は言語使用の志向性(intentionality) を扱わなければならないことを述べました。志向性とは哲学の用語で、ごくごく簡単に言いますならば、心が世界と繋がる働きとなろうかと思います(不十分すぎる説明ですが、ここではこれでご勘弁ください)。なぜこの志向性が必要かと言いますと、この概念がないと「言うこと」(say)と、「言って意味すること」の区別がつかないからです。サールさんがあげる例を若干変えてここで解説します。

例えば英語を外国語として学ぶ中学生の言語使用を考えてみましょう。彼は習ったばかりの"It's raining."という文をシャワーをあびながら繰り返し繰り返し口にするかもしれません。別の機会には彼はALTとの授業中に窓を指して"It's raining."と言い、皆の視線を窓に向けさせるかもしれません。この二つの言語使用は明らかに種類が違うように思えます。第一のシャワーの例では話者は単に文を言っている(say)だけです。彼は意味(mean)してはいません。それに対して第二の窓を指しての例では話者は文を言っているだけでなくそれを意味しています(say and mean)。第二の例でその時に実際に外で雨が降っているのなら、話者は真実をのべ、例えば他の人に天気の様子について注意を喚起するという目的を達したといえるでしょう。もしその時に外では雨が降ってはいなかったのなら彼は虚偽を(真実らしく)述べ、例えば他の人を欺くという目的を達したといえるでしょう。いずれにせよ第二の言語使用ではmeaningfulな発話をしている点で第一の言語使用と異なるといえます。

この区別を常に発音の上で行うことはおそらく不可能でしょう。また脳の電気活動の違いでこの区別を常に行うことも不可能でしょう。話者は真実を述べる時と同じように「気持ちを込めて」シャワーをあびながら"It's raining."と言うことは可能でしょう。また人を欺くときも同じように「気持ちを込めて」"It's raining." と言うことも可能でしょう。もしそうだとしたらこれらの発話の違いは音声学や脳科学の方法で検知することが不可能だといえるでしょう。

「意味せずに言うこと」と「言ってかつ意味すること」の区別をするには、話者の心と世界がどのように繋がっているか--つまりは志向性--を検討しなければなりません。シャワーの例では話者は発話によって彼の心と世界が繋がっていることを別に示しているわけではありません。窓を指しての例では話者は彼の心が外の世界について「雨が降っていると信じている」という繋がりを持っていることを発話によって示しています。話者は発話によって彼の心と世界の特定の繋がりについてのコミットメントを示しているわけです。

こう説明しますと、第一のシャワーの「言うこと」の例には聞き手が存在せず、第二の窓の「言って意味すること」の例には聞き手が存在するのはおかしいのではないか、両者の区別は聞き手の有無によるのではないかという反論があるかもしれません。現象的にむるならばなるほど聞き手の有無で両者は区別できるようにみえるかもしれません。しかしこのことは、私たちが他人に何かを言うときには、殆ど全ての場合において同時に意味しているからであって、他人の前で私たちは意味のない--つまりはナンセンスな--文をただ単に言うことは可能です(ただこれはかなり困難です。私たちは「言って意味すること」に慣れきってしまっているからです)。また他の聞き手がいないところでも話者は自分自身に対して自身の心と世界の繋がりを示すことは可能です(例えば外出する前の「ガスは消した。窓は閉めた。鍵は持った」などの独り言など)。

学会の口頭発表ではこの区別を可能にする志向性の概念が、言語学のみならず応用言語学でも扱われていないことを指摘し、現実世界問題における言語使用を扱う応用言語学においては志向性を扱うべきこと等を述べましたが、たまたま見る機会があったある中学生向けの授業ではこの区別が必ずしもついていないように見受けられましたのでこの小文を書く気になりました。誤解のないように述べておきますと、その授業自体は素晴しいものでした。ですからこれから私が述べることは授業の中の小さなポイントについてのことです。

授業のポイントは接触節でした。These are the mountains people saw 100,000 years ago. / These are the mountains people saw 20,000 years ago. / These are the mountains we see today.という本文を基に、小難しい文法用語などは一切導入せずに、次々に接触節を使った文を理解・産出させる授業構成はよく考えられたものでした。しかしひょっとするとよく「考えられ」すぎたがゆえに不自然な英文ができているのではと思わされる場面が二三ありました。

OHPには、ノート、ペン、机などの絵が示されています。そこで教師が発し、生徒がリピートする文はThis is the notebook I got on my birthday. / This is the pen I got on my birthday.といったパターンプラクティスでした。ここで教師や生徒が言っている「I」とは一体誰のことでしょう。また「これが自分が誕生日にもらった〜であるということを主張する」という心と世界の繋がりは、教師と生徒の誰にも関連がないままに、いわば宙をさまよっています。ここでは教師も生徒も単に文を「言っている」だけで「言って意味している」わけではありません。

もちろん単に「言うこと」も、調音の学習といった機械的学習のためには必要だといえるのかもしれません。しかしこの日常生活ではまず見られない「意味せずに言うこと」の特異性に英語教師が鈍感になってしまうと"This is the computer I got in Hokkaido."といった文(中国地方の人間がわざわざコンピュータを北海道で入手するということはどういうことなのだろう!?)を授業でリピートさせることになりかねません。

同じOHPシートを使っても教師は(ペンを指して)Is this the present you want on your birthday? No? Then, (コンピュータを指して)is this the present you want on your birthday? No? Then, what is the present you want? The desk! The desk is the present you want on your birthday. OK, can you say "The desk is the present I want on my birthday"?などと英語で生徒を巻き込むことを繰り返した上でグループでこういった活動をさせれば生徒はそれぞれ自身の心と世界のありようの特定の繋がりを示すこと--つまりは言って意味すること--ができるわけです。

英語教師は英語を「意味せずに言うこと」という、英語を使って生活している人間にとってはなはだ難しいことを平気でやりかねない人達といえるのかもしれません。「意味せずに言うこと」を必要最小限におさえることがコミュニケーションを目指す授業では大切なように思います。

それではどうすれば英語を「意味せずに言うこと」を減らすことができるのでしょう。よい授業案をたくさん覚えることは一つの対応かもしれませんが、それでは教師はいつまでたっても新しい状況に対応できません。私の持論は二つです。一つは今私が極めて不十分に試みたように言語使用について原理的に理解することです。でも私は実はそれよりももう一つの方が重要だと思います。それは英語教師が一人の人間として英語を使い、それが何を意味するものであれ英語による「コミュニケーション能力」をつけることです。英語教師が個人として英語を使い、自らの人生を豊かにすることは英語教育の根幹に関わる非常に重要なことだと私は繰り返し主張します。また、ただ英語を使うだけでなく、英語の言語使用自体の喜びを味わうこと--それがコメディを見てゲラゲラ笑うことであれ、サスペンス小説を読んでハラハラすることであれ--の重要性も強調したいと思います。少なくともそうすればその英語教師は英語を「言いながら意味しないこと」の奇異さが理屈抜きに直感的にわかるようになるでしょう。

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かくして戦争が始まった(2001/9/24)

私が9月11日の第一報を知ったのはたまたまつけたBBCニュースでした。「詳しくは確認できていないが世界貿易センターに飛行機が激突したようです」というニュースを聞いて慌ててCNNを見ましたがその時は私は事故とばかり思って、翌日の仕事もあるので早々にテレビを消して寝ておりました。それから仕事の都合でまる二日ほど新聞も読まずテレビも見ない生活をしていたのですが、その間に人づてに「ビルは倒壊した」「あれはテロだ」との話を聞き驚愕し、「これは大変なことだ」と思っておりましたが、その時はまだまだ事件の深刻さがわかっておりませんでした。

やがてアメリカに留学している学生から、悲嘆にくれるアメリカ市民の様子を知らせるメールが来たり、私もCNNやBBCを少しは見たりしておりましたが、学会前ということもあって、仕事で「忙しく」しており今回の事件をまともに考える時間も失っておりました--「忙しい」とはなんと便利な言葉でしょう!--。

学会から帰ってテレビをつけたらアメリカのテレビ局の合同番組であるチャリティショーがありました。次々に顔見知りの俳優や歌手が出てきてそれぞれのやり方で今回の事件に対するメッセージを訴えてゆきます。学会発表が終わったということと、自分の好きな有名人が訴えているという極めて個人的な要因を通じて私はようやく、本当に遅ればせながら今回の事件が自由社会に対して与えたインパクトを理解しはじめました。

湾岸戦争の時、私はひたすらおろおろしておりました。「国際的視野を持とう!」等と日頃は偉そうに言っていながら、日本が何をすればいいのか、自分が何をすればいいのかがわからず、何もできずにおりました。自分の「国際的」云々という言葉が結局は空文句でしかなかったことを痛感したものでした。

それから約10年。またもや戦争が(今度は新しい形で)始まりました。気がついてみたら私も日本も何ら成長しておらず、またもやおろおろしているだけのような気がします。でも今回は、私は結局マスコミに踊らされているだけなのかもしれませんが、上の番組を見て今回の犠牲者(特に職務にあまりにも忠実だった消防士と警察官)に対する募金をhttp://www.tributetoheros.orgを通じて極めて小額行ないました。私は映画や音楽を通じてずいぶんニューヨーク、そしてアメリカにお世話になりました。私に感動を与えてくれた人達のメッセージを聞いて私はようやく何かしなくてはならないと思ったのです。

ニューヨークに代表されるアメリカひいては西洋社会の自由な文化を愛する皆さん。やっぱりどんな形でもいいですから、行動を起こしませんか?私はあまりにも遅れて、あまりにもわずかな行動を起こしただけですから(Too late, too little!)、このような主張をするのは自分が恥知らずのエエカッコシィあるいは単なる愚か者であることを告知するようなものなのですが、それでもそれが私ができることならと思い、この文章を書いている次第です。もしあなたの棚にニューヨーク発のお気に入りのビデオやCDが一枚でもあるのなら、しばし考えてみてください。またもしあなたが何かすでに具体的な行動を起こしているのなら参考のために是非教えてください。

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