随想

新しい随想が次々に上に来る形態をとっています。

人名に関してはたとえどんな方であろうとも97/11/16よりすべて「〜さん」づけで統一しております[実験的に、有名な人名でも例えば「ウィトゲンシュタインさん」などと表記しています(^^)]。


解体屋と建築家、あるいは哲学者と科学者について(2000/7/31)

ようやく前期の授業が終わりました。AkmajianさんのLinguisitics (The MIT Press)の前半をコンパクトに紹介するのにも骨を折りましたが、McGinnさんのWittgenstein and the Philosophical Investigations (Routledge)とSearleさんのMind, Language and Society (Basic Books)をテキストに使った授業は、英語教育の話題を自分で探し、考えて挿入しなければならなかっただけにしんどかったです。

そのMcGinnさんとSearleさんの本から学んだことはたくさんありますが、ここでは両者に共通していた哲学と科学の関係に関して簡単に述べたいと思います。

後期のウィトゲンシュタインさんは、ことさらに哲学と科学を対比させて、異なる知的探究としてとらえていました。哲学が物事を多様性のうちに見ることを教えてくれるのなら、科学は物事を一般性において説明することを教えてくれるとでも要約できましょうか。これらは根本的に違う態度です。たとえていいますなら、森に入った哲学者が「この木の枝振りを見てごらん。それがあの木の枝振りとどのように異なっているか、あるいは二つの木の葉の色具合を比較してごらん」と次々に視点を提供して、私たちに森の豊かさを見せてくれようとするのに対して、森に入った科学者は「これらはすべてDNA配列で説明できる」と宣言し私たちの度肝をぬくわけです。このたとえは読む人にとっては片方を誉めすぎ/けなしすぎのように思えるかもしれませんが、私のここでの狙いは、どちらかが優れているとかいうのではなしに、両者が根本的に異なっているというウィトゲンシュタインの論点を際立たせることです。

それに対してSearleさんは両者をどちらかというと共通するものととらえているようです。上掲書の最後の方で彼は、哲学と科学は二つともどんなものでも題材にでき、かつ題材についての知識と理解を求めている点で共通している----異なるのは、哲学(の多く)は、取り扱った問題を科学で扱えるぐらいに再編する試みであるということである、といった言い方をしています(157-158)。

These relations between philosophy and science explain why science is always right and philosophy is always wrong, and why there is never any progress in philosophy. As soon as we are confident that we really have knowledge and understanding in some domain, we stop calling it "philosophy" and start calling it "science," and as soon as we make some definite progress, we think ourselves entitiled to call it "scientific progress." (158)

哲学がいくらかでも「進歩」の兆しを見せはじめたら、もはやそれは科学に整理されたと言うわけで、そうなると哲学者は後を科学者に任せて、新たな未開拓領域へと向かうわけです。

このSearleさんの見解は、後期のウィトゲンシュタインさんの見解ともやはりどこかで通じているように思えます。 ウィトゲンシュタインさんは自分の哲学が一種「破壊的」であることは認めても、それは単なる破壊のための破壊ではないことを主張していたからです。

Where does our investigation get its importance from, since it seems only to destroy everything interesting, that is, all that is great and important? (As it were all the builidings, leaving behind only bits of stone and rubble.) What we are destroying is nothing but houses of cards and we are clearing up the ground of language on which they stand. (Philosophical Investigations, Section 118.)

ここで私のたとえです。哲学者を解体屋、科学者を建築家とたとえるわけです。哲学者は、いろんな人がああでもないこうでもないと頭をひねっている難問を解体します。ここでいう解体というのは、その問題の語り方を吟味し、紐解いて、難問の部分を解消してしまって、なおかつ意味ある探究ができるような語り方を作り上げることです。心の哲学で言うなら、デカルト以来の心身二元論という難問を生じさせてしまっている語り方を解体し、心と身体の関係が自然科学とも私たちの日常感覚(臆見ではない健全な常識感覚)とも適うような語り方を作り上げることです。そうして新しい語り方が生まれはじめている今、心の哲学はその役目を終え、脳科学らの自然科学にバトンを渡しはじめているという意見も多くあります。(語用論に関してはもうほぼ完全に哲学者から言語学者へバトンが渡されました)。バトンを渡された科学者は、あたかも建築家のように建物を建てるわけです。共通の設計図に基づいて、分業体制で少しずつ科学理論という建物を構築してゆくわけです。

解体屋と建築家は相互補完的な存在なのですが、下手をすれば相手のことが愚かに見えます。建築家は言うかもしれません。「解体屋なんてやたらと壊したり、建物の立たないような場所をうろついている荒くれ野郎だ。解体屋に知性があるとは思えない。一回も建物を建てたことのない奴らは信頼できない」。一方、解体屋もこう思っているかもしれません。「建築家なんてプレハブみたいな建物を組み立てているだけで、建築の根本がわかっていない軟弱野郎だ。設計図通りしか建物を建てない奴等に知性があるとは考えられない。地面のことがわかっていない奴らは信用できない」。しかし、これらは偏見です。解体屋は、どの建物が残されるべきでどの建物が解体されるべきかを判断し、それをうまく解体し、その後を更地にします。あるいはどの荒れ地に建築が可能かを判断し、そこにある切り株や岩をどかせます。解体屋には全体を見通す知性があるのです。一方、建築家は、綿密な設計図を作り、それに基づき己の領分を数々の工夫をこらしながら作り上げるという知性があるのです。それだけではありません。よい解体屋は、建築とは何かがわかっていなければ、解体や整地の見極めができません。何でも壊し、どこでも埋め立てればいいというわけではないのです。一方、よい建築家は解体と整地が何を意味しているかを理解していなければ、よい建築を設計することができないのです。なんでも設計して後はとにかく組み立ててしまえばよいというのでは、欠陥建築ばかりになってしまうのです。解体屋と建築家は相互補完的なのです。同じように哲学者と科学者も相互補完的なのです。哲学者は何が科学なのかを理解しつつ哲学という整理を行なうのです。科学者は哲学によって何が掘り起こされているかを横目で見つつ自分の作業に従事するのです。

英語教育という分野に関しては、私はここはまだ整地された区域ではなく、荒れ地だと思っていますから、哲学という整地・解体作業を選んでいます。建物を建てるべき場所を見つけて整地しようとしています。切り株は除こうとしています。きちんと整地していない所に建てられようとしている建物にはストップをかけ、解体をしようとしています。具体的にいうなら、私は多くの実験的英語教育研究は解体しようとしています。その代わりにアクション・リサーチ用の土地ならしはしています。中嶋洋一さんをはじめとした優れた実践の記述という建物建築の準備もしています。チョムスキー的な言語獲得研究も、この地面には合わないと言って建築を勧めていません。もっと身体と文脈を考慮した(ハイデガー流の)言語習得研究用の整地をしたこともあります。あるいは「比較の対象」という自然科学モデルとは違う工法も紹介しています。

私は建築をあきらめようとしているのではありません。反対に英語教育研究という建物がよい建物になってほしいと思っているのです。これからも自然科学という建築に対する理解を深めながら、哲学という解体・整地作業に従事してゆこうと思っています。

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英語指導方法等改善の推進に関する懇談会(審議経過報告)を読んで(2000/7/20)

文部省は「英語指導方法等改善の推進に関する懇談会」の審議経過報告を平成12年6月30日付けで公開しました (http://www.monbu.go.jp/news/00000480/#top)。ここでは私が読んで気になった四個所((ア)〜(エ))を引用しコメントしたいと思います。

(ア)現実的な目標設定という決断が必要

(1) 国民全体の英語力を高める中で、いかに英語運用能力の高い人材を増やすか

 日本人は英語が不得手で英語力がないと言われているが、どの層を指して言われているのかを整理し、それぞれに対応策を考えていく必要がある。本懇談会では、今後、国際的に活躍し、世界に貢献するために必要となる十分なコミュニケーション能力を持つ日本人を育成するとともに、広く英語によるコミュニケーションが可能な人材の裾野を広げるための環境づくりが必要であると考えた。

 このためには、英語教育について、身に付けるべき英語力に応じた、小・中・高・大学を通じた一貫性のある英語教育の在り方を早急に確立し、提示することが必要である。具体的には、小学校段階から英会話に取り組む場合の在り方を明確にするとともに、義務教育段階である中学校とそれに続く高等学校の英語教育では、相手の意向を理解したり自分の考えを表現するなどの実践的コミュニケーション能力を養う、さらには大学教育レベルでは、それぞれの分野に必要な高度なコミュニケーション能力を持つ人材を育成する、という英語教育の在り方を明確にして、対応策を講じていく必要がある。(I 21世紀に生きる日本人に求められる英語力/2 審議を進める上で留意すべき事項 より)

ここでは引用の冒頭に注目したいと思います。「国民全体の英語力を高める中で、いかに英語運用能力の高い人材を増やすか」という表現は、私の理解するところ、英語教育をエリートだけのものにはしない(するべきではない)という理想的な姿勢と、実際に国民全体が英語運用能力が高くなる人材になることはないという現実的な認識が同居していると思います。日本はいい意味でも悪い意味でも戦後は階級意識を消そうとし「どの子も伸ばそう」と努めてきました。「どの子も伸ばそう」が「どの子も同じように伸ばそう」「どの子も同じように伸びるはずだ」「どの子も同じように伸びなければならなければならない」となると、それは明らかに行き過ぎでしょうが、国民全体の教育レベルを上げようとする理想的な態度は揶揄するべきものではないのかもしれません。

しかし一方で、人間一人一人の適性・才能・興味等に差があることは自明のことです。理想的態度をとるあまり、この現実を無視しても事態はかえって悪化すると思えます。高校の英語教育で考えれば、一方で学習指導要領の制限がかかった教科書ではもの足らずに他の市販教材をこなす高校クラスもあれば、検定教科書が難しすぎてほとんど使えず、高校卒業までにアルファベットを全部書かせることができるようにするのが目標の高校クラスもあるのです。

このような理想と現実の狭間で、私たちはどう現実的な選択ができるか、というのが教育政策においては大切だと思います。その意味で「日本人は英語が不得手で英語力がないと言われているが、どの層を指して言われているのかを整理し、それぞれに対応策を考えていく必要がある」という冒頭の文は、実は大きな意味を持っていますし、また大きな意味を持たなければならないと思います。このあたりは実証的な社会学的研究が必要だと思います。

そのような実証的社会学的研究が出る以前に、私が個人的な見聞から理解していることを書きますと、現在、特にグローバリゼーションの観点から英語習得の重要性を説いている人たちが意味している英語力は非常に高いものであり特殊なものです。たとえばそれは電話帳のように厚い契約書を一晩で読んで、かつそこにある法律的なアラを探すことができる英語力であったり(あるビジネスマンの述懐)、英米人のジョークの応酬の中で見え隠れする本音を探り出し、すかさずこちらの本心を巧みに伝える英語力であったり(ある公人の述懐)、技術のノウハウを正確に伝えることができる英語力であったりします(ある技術者の述懐)。これらはいわゆる「英会話」という言葉でイメージされるような、白い歯を輝かせて喋るさわやかな応答(^^;)とはかけ離れたものです。これらの英語力は、世界に関する知識と密接に絡み付いたものであり、一般的な「英語学習」では到達困難な力です。国民全員に要求されるような力ではもちろんありません。

この意味では「義務として強制する教育」と「サービスとして行う教育」の概念区別を明確に行なった「21世紀日本の構想」(http://www2.kantei.go.jp/jp/21century/index.html)を私は高く評価しています。以前にこの「随想」でも書きましたが(「21世紀日本の構想」を読んで(2000/1/23) )、私は英語教育関係者は、「義務として強制する教育」としての英語教育内容を明らかにすること、もう一つは「サービスとして行う教育」としての英語教育の市場原理を援助し補完することの二つを行なうべきという基本的な考えを持っています。「義務として強制する教育」としての英語教育内容を根本的に考え直しカリキュラムを作り、それを国民全員に提供する一方、希望者にはできるだけその人たちの希望にかなうような多彩な英語教育を提供し、グローバリゼーションに対応するのが、私は理想と現実の間の妥協点----現実的な目標設定----だと思います。

しかし、これには政治的決断が必要です。「どの子も伸ばそう」というこれまでの暗黙の合意を、選択制・希望制の導入により、意図的に崩すからです。実際問題では、塾などの利用により、選択制・希望制は根づいていると考えられます。しかしこれは親の財産の自由な利用、あくまでも私教育ということで認証されているのではないでしょうか。選択制・希望制を公教育に大幅に導入するには政治的決断が必要だと思います。現実的な目標設定という決断が必要というゆえんです。

この意味で引用中の「小・中・高・大学を通じた一貫性のある英語教育」や第4回懇談会(平成12年4月20日)の「英語教育を進める上での、小・中・高・大を通じた『一本の柱』について討議」という表現にはすこしひっかかりを感じてしまいます。第一に、私が上で述べたような希望制・選択制だと、「一貫性のある」「一本の柱」というよりは、「多方面に多彩に伸びる枝を持つ木」のイメージで捉えられるべきだと思うからです。英語教育のイメージは、すらりと伸びた喬木ではなく、主幹と枝の区別がはっきりしない灌木----しかし根だけは共有している木----のイメージで捉えたほうが適切だと私は考えます。第二に、上の表現では高校と大学も、「高校」というだけで、「大学」というだけで、一枚岩のように同質のようにも捉えかねません。しかし、それは現実ではないこと、「理想」で隠蔽されるべき現実でもないことを英語教育において明確に確認しておくべきだと思います。

(イ)現職教員の国内研修機会の拡充を

実際の授業では、生徒の学習段階や学習状況に応じて、いろいろな指導法を取り入れて行うことが有益である。しかし、多くの英語担当教員は、その様々な工夫のレパートリーが少なく、言わば消極的に文法訳読方式に頼らざるを得ないのではないかとの指摘もある。このため、各種の指導方法に関する知識・理解を深め、選択肢を増やすとともに実践力を向上させる必要がある。英語担当教員は、十分なコミュニケーション能力を身に付け、生徒や授業のねらいなどに応じて様々な指導が行えるような総合的実践力が必要である。(II 英語指導方法等の改善/2 指導方法の改善より)

ここでいう「総合的実践力が必要」という指摘には全く同感です。それではそのような力をつけるにはどうすればいいのか。私はそれには「現職教員の国内研修」が最適だと考えます。ポイントは三つあります。一つは現職教員の研修ということです。就業以前の教育(教員養成大学での教育)でもなく、新任研修でもなく、就業後数年以上たった現職教員の研修ということです。理由は、実践的な研修のためには、自らの経験を振り返ることが必要だからです。自らの教職経験がない、あるいは少ない者への研修は、どうしてもマニュアル的なものに終わらざるを得ません。しかしマニュアル的なだけでは対応し難い、あるいはマニュアルのある項目が持ちうる意味を深く体得しなければならないのが現実の教育現場なのですから、研修は自らの教育経験をもつ現職教員を対象にすべきです。第二のポイントは「国内」の研修ということです。すぐ後にも述べますように、実践的コミュニケーション能力を体得するためには、海外に出るのが最善でしょう。しかし、指導技術というのは、日本の国内事情に大きく依存した技術です。それは米国や英国などの留学生・移民対象の第二言語教育技術をそのままあてはめればいいものではありません。「国内」での研修が必要というゆえんです。第三のポイントは「研究」ではなく「研修」ということです。やや類型的に対比させれば、自然科学の厳密な研究法を学ぶというよりは、アクション・リサーチ等に代表されるような実践的で批判的な探究方法を学ぶべきということです。自然科学の厳密な研究方法は一年や二年でマスターできるものではありません。また仮にマスターできたとしても、その方法が捉える世界と、現実の多様な解釈を許す複雑な世界の違いは非常に大きなものです。もちろん「実践的で批判的な探究方法」というのは、「非科学的でいいかげんないきあたりばったりのやり方」とはまったく異なるものです。英語教育研究者は、水で薄めた実験心理学ではない、英語教育研究の基準を今以上に努力してはっきりさせなければならないことも付記しておきます。

(ウ)英語教員の海外ボランティア体験の充実を

 英語担当教員の英語力については、若い教員を中心として、英語を聞き・話す能力が伸びてきていることも報告されているが、その一層の向上を図るため、英語教育指導者講座や海外研修事業等の充実が必要である。

 また、教員の海外派遣や、日本人学校等の在外教育施設への派遣なども研修の機会として生かすことが必要であろう。(後略)(II 英語指導方法等の改善/8 教員研修より)

ここではいわゆる机の上での、あるいは教室の中での「語学力」をつけるための海外研修だけではなく、英語教員を「英語学習」とはいったん切り離された英語使用の実践状況に放り込む体験を拡充することを訴えたいと思います。私が個人的に観察していますと、優れた英語教育実践をやっている人には、数ヵ月から数年、英語を使ったなんらかの仕事や事業に携わった人が多いです。実践的コミュニケーション能力や人権感覚、あるいは国際協調の精神といったものは、状況から切り離された教室では学び難いものです。ぜひ英語教員の身分保証をした上で、海外ボランティアに参加させる制度を拡充するべきだと私は考えます。

(エ)上限設定の撤廃を

各大学の実施する入学試験については、個々の大学の特色に応じて、高度な能力を求めることがあってもよいという意見もあるが、実践的コミュニケーション能力を重視している高等学校までの英語教育に対応した入試問題になっているとは言えないものもあり、特に、一部の大学の長文読解問題は、普通の授業を行っている学校の生徒では対応できないとの指摘もある。(III 高校入試、大学入試の在り方/1 コミュニケーション能力の育成と入学者選抜の在り方 より)

私は(ア)でも少し述べましたように、グローバリゼーションへの対応が英語教育の一つの大きな目標と考えています(大きな目標といっても、一つの目標であって全ての目標ではありません)。グローバリゼーションの中で要求されている英語力は非常に高いものであることも述べたとおりです。ですから私は一部の大学が長文読解問題を出したといってそれは問題でもなんでもなく、むしろそのような突出を一枚岩的な発想で抑えてしまおうとすることが大きな錯誤だと考えます。もちろん重箱の隅をつつくような問題や、教養あるネイティブ・スピーカーも解けないような珍問・奇問は論外です。ですが、「エリート」を目指そうとする人間には、それにふさわしい知識とモラルをきちんと教育することは国として大切なことだと思います。問題なのはモラルのない知識だけのエリートであり、またエリート以外を人生の「落ちこぼれ」としか考えない差別的な価値観だと思います(この価値観はエリートだけでなく非エリートにも共有されています。現代は非エリートが「庶民」としての誇りや喜びを喪失してしまった時代と言えないでしょうか)。この(エ)や(ア)のような論点を出します私を、鼻もちならない嫌な奴とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、私はあくまでも現実の中で理想や目標を設定したいと考えましたので、上のように述べました。ご異論をお待ちしております。

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「英語力」と人格(2000/4/23)

「教育」に「映画とインターネットとペーパーバックで、世界に通用する英語力をつけよう 」という文章を書いて、「時々、英語の勉強と称して資格試験の問題集ばかりやっている人がいます。私の個人的意見(偏見)を述べますならば、そういう人は英語力は伸びません。自分の人格に直結した表現力を持たないからです」と言い切りました。その後、説明を求めるメールも来ましたので、ここにその話題について少しばかり解説しておきたいと思います。

以前、『模倣の原理と外国語習得』という本を書いた時、ハイデガーの存在論を換骨奪胎させた議論をしたことがあります。その骨子をやや乱暴に言いますなら、言語表現は、(1)世界、(2)他者、(3)自己の間の関係の表現だと言えます。世界、他者、自己を結び付けるのが言語だ、と言ってもいいと思います。もちろんこの「世界、他者、自己」というのは抽象的表現ですから、具体的な発話のどの部分がどれとどれの関係に対応していると指摘することができませんが、この段落の文章自体を例にとりますと、この文章で、柳瀬という人間がハイデガーというテキスト、あるいは「言語表現」という対象とどのような関係を持ち、そして読者であるあなたにどのような関係を持とうとしているか、などといったことが示されるのではないかと思います。

哲学的にきちんと表現しようとすれば上のような表現では不十分なことは承知していますが、ここでは論を先に進めさせてください。論というのは、言語表現には「自己」が様々な対象と取り持つ関係(あるいは「態度」といった方がわかりがいいかもしれません)が不可欠な要素としてある、ということです。言葉を習得するということは、いわば、その言葉を通じて社会的に緩やかに共有されている関係の仕方を学ぶことと言ってもいいと思います。言葉の習得の核には、「自己」があります。その核が他者や世界と結びつくのが言葉の習得なのです。さらに、その「自己」がそれなりの来歴を経たものを「人格」と表現しますなら、言葉の習得(と使用)には「人格」が関与しているとも言えるわけです。その特有の組成をもった「人格」がさらに他者や世界との関係づけを促進し、さらなる言葉の習得(と使用)につながるわけです。言語表現は人格的なのです。

例を出して考えてみましょう。ある人が音楽が大好きだとします。ある曲を聴き、何とも形容しがたい想いをした彼は、音楽評論のある言葉に膝を叩いて納得するかもしれません。この言葉というのは、彼と音楽(およびその他、彼と音楽に連なる諸々のもの)の関係をピタリと表現しているからです。この言葉は、その他の曲にも適応可能かもしれませんし、あるいはその他の曲は、その言葉に新たな形容詞をつけることを促すかもしれません。かくして言葉の習得を通じて、彼の音楽経験はより深く、広く、精緻になってゆきます。彼は自分の好きな音楽についてよく他人に説明ができるほどに言葉を習得するかもしれませんが、この言葉の核には、彼と音楽の固有の関係があるのです。これらの固有の諸関係をもつにいたった「自己」を私たちは「人格」と呼びましたから、彼の言葉の習得は人格的なものだと私たちは言えると思います。

私の憶測は、私たちはこのように自分の興味・関心に即して、世界や他者と関係を結び、そのようにして深く、広く、精緻になった関係が言葉の表現の源になっているのではないかというものです。もちろん言語化されない関係もあるでしょう。しかし社会的な存在である人間は多くの場合、その関係をも言語化しようとするといえましょうし、諸関係が言葉の表現の源であるという論題の妥当性は、そのような例外ではあまりゆるがないと考えます。人格的諸関係に基づいていない言葉は丸暗記された言葉の抜け殻であり、表現にまではつながらないと私は考えます。

さて、ここで「問題集だけで英語を習得する」ということを理念化・理想化して考えます(つまり議論のために抽象化して考えるということです)。ここでは「問題集」とは、自己とは関係が薄い内容(他者、世界)を扱った言語表現集であると仮定しましょう。問題集には次々と文章がでてきますが、そのつながりは文法的にはともかくも、内容的にはてんでばらばらで、そういった文章では、自己は内容(他者、世界)と、それなりに一貫した関係(つまりは人格的な関係)を結びにくいと考えられます。言葉があなたを上滑りし、言葉が「身につく」こともなく「腑に落ちる」こともなく、せいぜい丸暗記でもするしかない対象として立ち現れます。このあたりの事情を説明したくて私は「時々、英語の勉強と称して資格試験の問題集ばかりやっている人がいます。私の個人的意見(偏見)を述べますならば、そういう人は英語力は伸びません。自分の人格に直結した表現力を持たないからです」と述べたわけです。

中途半端に哲学的で、哲学的に厳密なわけでもなく、かといって十分に具体的でもない文章なので、わかりにくいと思われた方も多いかもしれませんが、「エッセイ」ということで掲載しておきます。おそまつ(注)。

(注)こういった言語論にご興味のある方は尼ヶ崎さんの名著『ことばと身体』(勁草書房)をお読みください。上のような粗雑な文章ではなく、出典も表現も的確な文章で、ことばと人間について解明しております。

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東京を越えて世界へ出よう (2000/2/5)

かつて東京は私にとってあこがれの都市でした。東京には多くの本がありました。私は、年に数度東京に行っては大型書店を回り、和書・洋書・洋雑誌を買いだめすることを楽しみにしていました。東京は情報の発信地でもありました。東京から発行される新聞を毎日の情報源とし、東京から発行される雑誌・書籍を数日から数週間遅れで読むというのが地方に住む人間としての私のライフスタイルでした。

「今は昔」の話になったのかもしれません。

大学にいるため、インターネットアクセスが自由ですので、毎朝パソコンを立ち上げるとThe New York Timesが読めます。The Economistもネット上でかなり読めます。The New York Review of Booksもかなりの内容がネットでわかります。Encyclopedia Britanicaもネット上で全文検索できます(これは本当に凄い)。Amazon.comでは膨大な量の本について各種書評情報がわかります。また何度もそこで買い物をしている私には、私の好みに合わせたお勧め情報が得られます。金さえ払えば一週間以内で本を手に入れられます。

「そんなに情報を得てどうするの?」という皮肉な声も聞こえそうです。それに対して私は「情報に振り回されたくないからです。できるだけ良質の情報だけを得たいからです。豊かな人生をおくりたいからです」と答えます。日本語話者としては多少複雑な気持ちも残りますが、日本語出版市場と英語出版市場では質・量ともに格段の差があるというのが私の正直な意見です。1.2億人の市場を相手にしている出版業界と12億人の市場を相手にしている出版業界の力の差は、仮に二乗倍とは言わないにせよ、相当の差であるというのが常識的な判断というものでしょう。また、インターネット全体の情報量の80%は英語だとも言います。仮に日本語での情報量がインターネット全体の8%だとしても(これは決して悲観的な推定ではありません)、活字出版と同じ様な推論がなりたちます。英語による報道・科学の力は日本語による報道・科学の力を凌駕しています。日本語話者としてのプライドや感情とは独立した問題としてこの事実は認識しなければならないと思います。

かくいう私も少し前までは、英語教師とはいえ、日本語で得られる情報中心の生活をしていました。しかし半年とはいえ英国で勉強してみて、さらに加速した情報革命で日本においても英語での情報に楽に接することができるようになると、英語の力を認識せざるを得ません。少なくとも日本語の情報だけでは片寄ってしまうと思ってしまいます。

若い世代の皆さん。あなたのインターネットブラウザーに英語ホームページを登録して毎日アクセスしてください。若い皆さんでしたらそれを習慣にできます。習慣は第二の天性です。私もそう心がけていますが、自分に天性がない/足りないと思ったら、習慣でそれを補うよう努力を重ねましょう。

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人文インテリの新聞?(2000/2/5)

小さい頃から朝日新聞を読んでいました。今でも妻が読みたいといいますから購読しています。実際、同紙で読める加藤周一さん、吉田秀和さん、天野祐吉さん、島崎今日子さんのコラムは好きです。しかし日本経済新聞、The New York Times を読むようになってだんだんと朝日新聞に魅力を感じられなくなりました。ここではその主観的な判断について述べたいと思います。もちろん朝日新聞にもいいところはあるのでしょうし、それはそれを見つけた時にこの欄でもできるだけ取り上げたいと思います。また日本経済新聞や、The New York Timesの欠点も発見次第この欄でできるだけ取り上げたいと思います。ですが、ここでは最近私が朝日新聞に関して感じていることを正直に述べます。「A新聞」といった書き方は責任関係を不明確にしますから、きちんと朝日新聞を名指しで批判します。

「朝日新聞は面白くなくなってきたなあ」というのはここ最近漠然と感じ続けてきました。しかし特にそれに関する問題意識が高まってきたのは「21世紀日本の構想」に関する報道に接してからでした。私は出勤前に日経新聞をまず読み、朝日新聞は帰宅してから読むことが多いのですが、報告書に関しては、日経の第一面見出し(「英語を第二公用語に」)に驚き、関連記事を熱心に読みましたが、帰宅してみて朝日を読んで、朝日ではこれに関する報道が冷遇されているのを知って驚きました。

問題意識をかきたれられましたので、図書館に行って主要紙を比べてみました。報告書が発表された翌日(2000年1月19日)の主要紙の報道量(見出しを含む行数)を多い順に並べてみます。

(1)読売新聞(第一面「安保で国民論議を/選挙権は18歳からに/義務教育は週三日制」72行、第三面「実現への道筋不透明」219行、第五面「報告書要旨」362行、計653行

(2)産経新聞(「『統治』から『協治』へ」75行、第二面「社説(主張) 鮮明さを欠いた『国家像』」68行、第三面「矛盾をはらむ公用語化」319行、計462行

(3)日本経済新聞(第一面「英語を第二公用語に」75行、第二面「社説 日本の中にあるフロンティア」123行、第三面「新生日本へ大胆ビジョン」86行、第七面「報告書要旨」163行、計447行

(4)朝日新聞(第一面「最終報告首相に提出」58行、第二面「改憲論議・財政批判も」109行、第七面「報告書要旨」109行、計263行)および毎日新聞(第一面「小中学校三日制提言」80行、第二面「報告書要旨」90行、第五面「社説」93行、計263行

(5)中国新聞(第一面「潜在力引き出し展望を」111行、第二面「具体化の道筋不透明」56行」、計167行

中国新聞は地方紙ですから省いて考えますが、これだけ見ますと朝日新聞と毎日新聞の報道の薄さが目立ちます(ですが毎日新聞は日頃読んでいないのでここでは論じません)。また見出しを見るだけで日経新聞のバイアス(英語使用促進論)と産経新聞のバイアス(国家に関する議論)もわかり、この比較だけで判断するなら読売新聞が一番バランスのとれた報道をしているようにも思えます(ただし私も妻も読売巨人軍の経営方針に反対しているのでわが家で読売新聞を購読するつもりは全くありません)。

というわけで私が比較的よく知っている朝日新聞についてのコメントを続けますと、朝日は翌日の紙上(天声人語、社説)で同報告書についてコメントをくわえましたが、天声人語では妙に皮肉った文章、社説では(よくあることですが)どっちつかずで何を言いたいかよくわからない文章でした。今朝(2000年2月5日)の「窓(論説委員室から)」では「上州英語」とタイトルをつけて、同報告書をうけた小渕首相の施政方針演説について「ろくに英語もしゃべれない国内派は、21世紀に生きる資格なしということでしょうか」とすねてみせ、「施政方針演説でああまで大見えを切ったのだから、ぜひ、自ら範を示してほしい。上州イングリッシュ、大いに結構。きっと、うけますよ」と皮肉っぽく結んでいます。

この「窓」というコラムには本当に失望しました(これがこの小文をこのホームページに書いた最大の理由です)。ここには施政方針というマクロの政治の議論を、論説委員氏(ペンネームは<量>)や小渕恵三さん個人の感情・姿勢の議論に落として変容させてしまうレトリックがみられます。これが新聞の顔ともいうべき論説委員の書く文章かと思うと落胆せざるを得ません。世界のことに興味を持ち始め新聞を読むように努める学生さんが時に「新聞を読んでも、政治や経済のことがよくわかりません」といいますが、このようなスタンスで書かれた記事や解説を読んでも、確かに政治や経済の事はわかりにくいままになっても仕方ないかなと思います(それに比べますと日本経済新聞のコラムの「大機小機」ははるかにいいです。私は「大機小機」と「経済教室」があるから日経を購読しています)。

また世界での最近の話題----The New York TimesやThe Economistから判断する「世界」の話題、という意味ですが----はなんといってもスイスのダボスで行われた世界経済フォーラムです。そこではグローバリズムの光と影が語られました。アメリカからはクリントン大統領、オルブライト国務長官、サマーズ財務長官、通商代表、エネルギー長官、商務長官が出席し、英国のブレア首相を含め、各国の大統領・首相が三十人あまり出席し、ソニーの出井伸之社長が「小渕総理に来てほしかった」と言っていたことは日本経済新聞が伝えるとおりですが、朝日新聞だけしか読んでいなかったらこの会議およびこの会議がもつ意味合いはほとんどわからないままに終わるのではと私は思いました。

さらに今年元旦の主要紙の社説を比べたところ、朝日新聞の冷笑的な態度が目立ったという記事もあるメディアで読みました。どうも最近の朝日は単なる人文インテリの新聞になってしまったような気すらします。

「人文インテリ」とはここでは明らかな悪口です。ビジネスや科学技術に理解を示さず、それらから距離を取ることが高尚な人間の印だといわんばかりの態度をちらつかせ、議論や文章ではレトリックで相手をはぐらかせ、煙にまき、自らの劣等感・不全感を解消しているような人間のことを総称した言葉です。「人文インテリ」は反論も直接的でなく、陰にこもった言い方しかしません。かつて私は明らかにそのような「人文インテリ」であり、今でもそのような資質を色濃く残しているから、ことさらにこのような態度が気になるのかもしれませんが、「朝日」という名にまだまだブランドがあり、朝日新聞しか読まない人も(特に人文系では)多いと思うので、あえて朝日の批判をする次第です。左翼思想を一貫させるのならば敬意を払います(私は教育界には一般よりも左翼思想・左翼的発想が必要かとも思っています)。しかし「人文インテリ」的発想には敬意を払いません。

人間は日頃読むメディアから知らず知らずに影響を受けてしまいます。一つ上の文章でも述べましたように、インターネットを活用し、日本語だけでなく英語でも情報を入れて、お互いの認識からできるだけ片寄りを少なくしましょう。

付け加えておきますが、私は例えば雑誌『正論』によく見られるような「朝日嫌い」にも与しません。そもそも「親朝日、嫌朝日」で対立し続けるなんて馬鹿らしい。東京を越えて世界へ出ましょう。

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「教育立国」のための最優先課題(2000/1/30)

1月28日に小渕首相は、野党欠席という異常事態の中とはいえ、施政方針演説を行いました。その最初の部分で彼は日本も「グローバル化、少子高齢化、それに社会の構造を根本から変える可能性を秘めた情報技術革命のうねりの中にあ」ることを認め、「在るべき姿」を自ら考えなければならないことを強調しました。その際の具体的な目標として彼は「教育立国」と「科学技術創造立国」の二つを掲げました。

「教育立国」について彼は、「21世紀を担う人々はすべて、文化と伝統の礎である美しい日本語を身につけると同時に、国際共通語である英語で意思疎通ができ、インターネットを通じて国際社会の中に自在に入っていけるようにすること」と述べています。

英語使用の促進については先日の「21世紀日本の構想」でも述べられており、そこでは(1)英語の厳密な意味での公用語化(=日本語か英語の少なくとも一つができれば、日本国民として司法・行政・立法で完全に権利を行使できる)、(2)英語の広報言語化(=公的機関の主な公刊物を日英両語で行う。報告書でいうところの「第二公用語化」)、(3)英語を国民全ての実用語とする(=全体主義的言語政策で日本国民全てに強力な英語教育を行う)、(4)より多くの国民が英語を実用語とするように国が支援をする、といった意味が整理されないままに使われています。今回の小渕首相の「教育立国」の発言に関しても(3)か(4)かがあいまいなままになっていますが、ここではそれはさておきます。

ここで述べたいのは、そのような「教育立国」実現のための最優先課題です。それはインターネット使用の事実上の無料化だというのが私の意見です。新聞一紙の購読料ぐらいの値段で、インターネット接続が無制限に可能になるような情報インフラをつくることが最優先課題だと考えます。

英語教育について述べますなら、確かに日本の学校英語教育界には改善すべきところ、ひょっとしたら破棄すべきところも多くあります。しかし学校英語教育だけを悪者にしても問題は解決しません。ここでは、言語習得において学校といった教育機関は限られた役割しか果たせないこと、言語習得においては言語使用環境の整備の方が有効であることを簡単に述べたいと思います。

1980年代以降の認知心理学が明らかにしてきたことをやや乱暴にまとめますなら、それは「人間はもともと好奇心にあふれ学びたがっている存在である」、「人間の知性の多くは状況に埋め込まれている。人間は状況の中で学ぶ」、「人間はまた共同体の中で学ぶ。それぞれの人間がそれなりの立場から社会的相互作用に参画することによって学びは促進され育てられ革新される」といったことになりましょうか。英語教育においても興味の育っていないところへ無理やり教えこんでも、机の上の活字だけで学ばせようしても、一人一人にドリルを山ほど与えてテストで個人成績管理しても、英語は身につかない。それよりもまず大人・教師が英語を使うことは有益だし楽しいし面白いということを示して、そういった英語使用環境を提示し整備しふんだんに与えて、その中へ学習者を徐々に参加させてやることの方がはるかに重要だといったことになります。

「日本人はなぜ英語ができないか」といった問いに完全な答えはありませんが、それでも「多くの日本人が英語を心底必要だと感じていないから」「英語を使う必然性のある状況にないから」といった常識的な答えが案外一番当たっているような気が私にはします。「日本人」(注1)だけが外国語習得においてDNA上の先天的な欠点があるとか後天的な脳障害を抱えているとか、学習嫌いな文化を持っているとはとても思えないからです。英語使用地域から地理的に離れており、英語話者文化との接触が少ないことが、日本在住者の英語使用および英語習得の最大の障壁となったというのが常識的な推定だと思います(注2)。

皆さんご承知の通り、その障壁を一気にくずすのがインターネットです。一般家庭でも、例えば大学のようにインターネットがつなぎ放題になれば、英語使用の機会が徐々にしかしやがては加速的に増えて行きます。最初は興味のある英語サイトを見る。そのうちにメーリングリストに入る。アマゾン等で関連書籍を買い始める。やがては情報の多くをインターネットで毎日読むようになる。英語が自分の言葉になり、英語を使って生活の範囲を広げ豊かにしようとする-----もちろん国民「全員」がそのようになるとは想定しませんが、それにしてもインターネット無しでは考えられなかった程度にまで英語使用環境がより多くの国民のものになるということは十二分に考えられます。大切なことはまずは大人と教師が英語を使って自分達の人生を豊かにすることです。大人達が幸せで楽しい人生を過ごしていれば、子供はきっとすすんで大人の真似をすると思います。なんのかんのいっても、子供はその時代の大人の反映ではないのでしょうか。教育とは子供を育てる試みだけでなく大人自身・教師自身を育てる試みなのです。

「教育立国」では日本語使用についても語られていますが、もちろん日本語使用もインターネットの接続の事実上の無料化によって促進され洗練されるであろうと考えられます。民主主義の成熟もはかられると思います。経済行為における市場原理も徹底されより良質で安価の物品やサービスが消費者の手元にも届くと私は楽観します。

以前から私は繰り返し主張してきたことなので、このホームページの読者の中には耳にタコができた人もいるかもしれませんが、まだ実現されていないのだからさらに声を大きくして主張します。日本政府はインターネット接続の事実上無料化の促進を最優先課題とするべきです。

(注1)そもそも一様な「日本人」という規定は、政治文化的な規定で、科学的な根拠はまったくありません。

(注2)もちろん地理的な距離から生じる文化接触の少なさだけが原因ではありません。日本では、日本語でかなりのところまで学問ができるし、経済的にも日本語圏の市場がそれなりに大きく日本語でかなり自足できるというのも大きな要因です。例えば韓国ソウルの大型書店や大学生協を訪れてわかったことですが、そこでは日本の大型書店や大学生協に比べてはるかに英語の出版物(専門書)が多いです。日本では日本語の書物だけでも結構学問ができますし、日本語話者相手だけに商売をやってもかなりビジネスになります。こういった要因が日本人を英語使用から遠ざけているといえるでしょう。

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「21世紀日本の構想」を読んで(2000/1/23)

「日本のフロンティアは日本の中にある」と副題がついた「21世紀日本の構想」が2000年1月18日に公表されました。小渕首相の委嘱による「21世紀日本の構想」懇談会が10カ月の論議の結果報告したものです(http://www.kantei.go.jp/jp/21century/ をクリック。 PDFファイルが必要な方は http://www.adobe.co.jp/products/acrobat/readstep.html をクリック)。「審議会」と違って首相の個人的色彩が強い「懇談会」の議論であることや、OB・OGも含めて官僚がメンバーに入っていないことなどが手伝ってか、同報告書は非常に読みやすい文章になっています。多くの皆さんにご一読をお勧めします(特に第一章と第五章)。ここでは同報告書の私なりの読解を以下5点にまとめてみます。なおカギ括弧に続く( )内のアラビア数字は同報告書のページ数を表します。

(1)情報革命とグローバリゼーション:まず、この報告書は日本人による、情報革命とグローバリゼーションへの態度表明文書のように読めました。私のよく知っている本でいうならば、1980年代初頭にアルビン・トフラーさんが総括した「情報革命」(cf『第三の波』)は、1990年代に同じくトフラーさんが総括した「パワーシフト」(=社会権力関係の大変動 cf『パワーシフト』)を起こすまでに大きく世界を変えていました。やがてその変化は90年代半ばになると、トム・ピーターズさんのような大衆受けする「グルー」によって総括され(cf『トム・ピーターズの経営破壊』)、アメリカでは多くの人が知り実践するものとなっていました。また情報革命によって一気に加速した国際的な金融自由化は90年代後半にはアジア金融危機までももたらし、世界の国々の政治・経済・文化が今までにはない緊密さで結ばれている「グローバリゼーション」の時代に突入したことを多くの人に知らせました。一方、日本では90年代初めのバブル崩壊からどうしていいのかわからないところへもって、95年の阪神大震災、オウム真理教事件や、前後して生じた高級官僚の不祥事などで、旧来の日本のやり方に対する不安感を募らせました。90年代後半には日本に対する悲観論が一気に高まりました。この報告書は、そんな急激な情報革命・グローバリゼーションがもたらした混乱に対する、日本の回答(少なくとも、その叩き台)のように思えます。この世界史的な大変動を、「アメリカナイゼーション」と捉えて日本を根底から否定しようとするのでもなく、かといってかつての攘夷思想よろしく反グローバリゼーションを叫ぶのでない、この報告書の基本姿勢は、同懇談会座長の河合隼雄さんの言葉(「はじめに」)によく現れていると思います。

「日本人が「日本のよさ」を誇るにしろ、それは特異に閉じこもることではなく、普遍へと開かれたものでなくてはならない。そのためには、立ち止まって日本のよさをあげつらうよりは、世界の未来に向かって、全身をあげて参加することがまず大切ではないか。それによってこそ、時には矛盾に苦しむことはあっても、日本人のよさ----われわれでさえ未知の潜在力も含めて----が普遍性をもつものとして磨かれるのではなかろうか。こういう態度で生きてゆけば、日本のフロンティアは日本の中にあることが見えてくる」

同報告書には、後にも述べるように若干の内部不整合もあるようですが、議論の叩き台としては非常に優れたものだと思います。特にこれから社会に出ようとする学生の皆さんには、一般教養として是非読んでいただきたいと思います。

(2)カタカナ語と造語の多さ:このように、この報告書は情報革命とグローバリゼーションへの反応であるので、必然的にそれらの世界史的変動をもたらした国々----いうまでもなく、特にアメリカです----の言葉がちりばめられています。「フロンティア」、「グローバル・リテラシー」、「ガバナンス」、「ミッション」、「パターナリズム」、「アカウンタビリティ」、「ライフステージ」、「ネットワーク」、「コミュニケーション」、「コミュニティ」、「シビリアン・パワー」、「ワード・ポリティクス」などは目次からでも拾えるカタカナ語ですが、これらは報告書の中でも重要な役割を担っている概念です。またそれらの概念を少しでも血肉とするために「協治」や「言力政治」といった見慣れない言葉も導入されています。このようなカタカナ語や造語の多さは、しばしば「未消化概念の乱用」などと否定的に語られたりしますが、私にとってはむしろこの現象は明治初期の日本の言説の混乱と創造を思い起こさせます。私がこの報告書を世界史的変動への日本のチャレンジ宣言のように読むゆえんです。

(3)二種類の教育の区別:こういった報告書の中でも、このホームページでは教育、特に言語教育について述べたいのですが、教育に関してはやはり「義務として強制する教育」と「サービスとして行う教育」(19)を区別し、後者には「市場原理」を導入しようと提言しているところに注目したいと思います。

「義務として強制する教育」については次の引用が重要だと私は考えます。

「広義の教育、すなわち人材育成にかかわる国家の機能には、質的に異なるいくつかの側面があることに注意しなければならない。第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。共通の言葉や文字を持たない国民に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保証し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である」(100-101)

このように教育には「義務」として「強制」しなければならないものがあるというのが報告書の見解です。しかし教育はそれだれにはとどまりません。それが「サービスとして行う教育」です。

「しかし、同時に教育は一人ひとりの国民にとっては自己実現のための方途であり、社会の統一と秩序のためというよりは、むしろ個人の多様な生き方を追求するための方法でもある。この第二の側面においては、国家の役割はあくまでも自由な個人に対する支援にとどまり、近代国家が提供するさまざまなサービスの一つに属すると考えるべきであろう。この側面における教育については、国家は決して強制権を持つべきではないし、また持つことは不可能である」(101)

さらに同報告書は「両者の混淆は、一方で学校にあるべき権威と権能を与えず、サービスから市場的競争を排除してしまう結果になりやすい。(中略)統治とサービスの混淆は、結果として授業内容についていけない子どもには過大な負担を与え、それを消化してより広く好奇心を満たしたい生徒には足踏みを強いる結果を招いている」(104)と考えています。したがってこの二種類の教育を区別し、サービスとしての教育には「市場原理」を導入しようとするわけですが、その際の目安として義務教育の「週3日制」を提言しています。これは「週7日のうちの半分以上、すなわち少年期の半分以上を、生徒と親の自由選択、自己責任に委ねて見よう」(105)ということです。このような「過激に見えるゴール」(105)を設定する背景には、「それぞれの学科の専門家、教師や教科書編纂者の声に従って教科内容の検討を放置しておけば、その量は増える一方であることは過去を見れば明らかである」(105)という同懇談会の認識があります。

このように「市場原理」導入を一つの柱とする提言ですが、別段この懇談会は「市場原理」を信奉しているわけではないことは次の引用からもわかります。

市場が有効かつ健全に機能するためにも、人類はその限界を補うために、国家をはじめとするさまざまな社会機関、非市場的な制度と人間関係の仕組みを持たなければならない。人間の評価と育成について言えば、それを直接に行うものは、必ずしも国家に限られない。私的な学校、企業、職業集団、非営利団体、されには批評機能を持つジャーナリズムも、教育に貢献することができる。しかし、法に基づく強制力を許され、それによって社会諸機関に安定を保証しうるのは、予見できる未来にわたって国家のほかにはない。市場と拮抗して教育制度の根幹を支え、民間諸機関の活動を援助し、調整する役割は国家にのみ期待される。教育のあるべき姿を考えるさいにも、それを決定する力として、市場と国家という文明の二大要因の緊張関係を前提としなければならない」(100)

ちなみに、この二種類の教育の区別に関しては私は賛成します。今後の教育政策の指針としては優れたものだと私は考えます。

(4)日本の教育における「英語」の役割:さてそれではそのような教育の全体構想の中で、「英語」はどのような位置を占めているのでしょうか。実はこの点については同報告書は必ずしも一貫していません。報道では「英語を第二公用語に」という文言が飛び交いましたが、実はこの言葉は報告書の第1章(総論)では「長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的論議を必要とする」(20)といった控えめな表現の中で使われています。しかし、単なる外国語教育問題でない、「日本の戦略課題としてとらえるべき問題」(20)としての「グローバル・リテラシー」としては「社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするといった具体的な到達目標を設定する必要がある」(20)、「まずは、英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない」といった大胆な(?)提言がなされています。

ですが第3章では「人間として不可欠な基本的約束事」に次ぐ「社会人として生きるための基礎知識」としては「まず母国語で論理的に考え、表現し議論できること」を「情報技術と英語の前に」「不可欠」なものとしてあげています(70)から、ここでは「日本人全員にとって英語は必要」といったトーンではありません。第6章でも、英語を「第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて、日常的に併用すべきである」(133)ぐらいの主張にとどまっています。また「韓国語や中国語の語学教育を飛躍的に拡充するのが望ましい」(30)という主張も真に受けるならば、「国民全員に英語を」といった提言はいささか非現実的にも聞こえてきます。みなさんご承知のようにそうそう外国語は容易には習得されないからです。いずれにせよ、この報告書は報道で言われたようには強く「英語の第二公用語化」を主張しているわけではありません。

ここで私の意見を述べます。

上に述べたような若干の不整合性はさておき、同報告書は「国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での作成を義務付けることを考えるべきだ」(20)と述べて、公的機関の英語広報を提言していますが、これは中長期的には有効で現実的な目標だと思います。「有効」というのは移民政策の点です。同報告書は「グローバル化に積極的に対応し、日本の活力を維持していくためには、21世紀には、多くの外国人が普通に、快適に日本で暮らせる総合的な環境を作ることが不可避である」(23)と述べていますが、私も(浅い理解に基づいての判断ではありますが)この見解には賛成です。そうしますと、沢山の外国の個人や企業を日本に招くには、まず日本を理解してもらわなければなりません。そのためには日本の公的機関が英語で広報をすることが有効でしょう(すでに多くの企業は英語で広報をしています)。これを国の努力目標でなく、戦略的重点政策としましたら当然予算も人員もつきます。そうすればあまたの試行錯誤を経なければいけませんが、やがて日本の公的機関も英語による広報力をつけてくるでしょう。私が「現実的」と考えるゆえんです。

しかしながら、「国民全員が実用英語をものにする」といった一律的な目標設定には反対します。第一には外国語習得とは極めて長い時間を必要とする個人的コミットメントであり、かつ時には全人格的な影響まで及ぼす学習だからです。そのような外国語習得においては最大限個人の選択を尊重すべきだと私は考えます(cf拙著『模倣の原理と外国語習得』)。第二には言語状況は流動的だからです。もし英語使用が「ロックイン」されたのなら確かに英語は「地球語」としての地位を揺るぎないものにするのかもしれません。しかし「未来はわからない」というのが良識的な態度と言うものでしょう。軽率な私の例をあげるならば、80年代に鈴木孝夫さんの『武器としての言葉』を読んだ私は「これからはロシア語が重要」と賛同してしまいましたが、後にソビエト連邦崩壊という驚愕の出来事が来てしまいました。また、まだバブル経済の余韻が残っていた90年代初頭に「英語帝国主義論」を読んだ私は「日本語使用についてもっと誇りを持つべきだ」とこれまた賛同しておりました。ところがその後、日本が「第二の敗戦」「第三の開国」といった状況に追い込まれ、私は考えを少なからず変えるようになりました。もちろん読者の皆さんの中には私のような軽薄でない方も多く、そのような方は一貫した見識(というよりか、おそらくは思想)を持っていらっしゃるのでしょうが、いずれにせよ言語状況はこれからも変動する可能性が多いにあります。英語使用は「口語標準英語」に収束するのかもしれませんが、日本にとっては韓国語や中国語習得の方にも戦略的重要性が高まるのかもしれません。あるいは英語使用は日本の大多数の国民にとってはやはり縁遠いままに終わるのかもしれません。ひょっとすると人工知能翻訳によって外国語学習への投資の見返りは割にあわないものになるのかもしれません。いずれにせよ、前に述べた「義務として強制する教育」として英語習得を課すことには賛同できません。

これからの日本における英語の位置付けに関しての私の意見をまとめますと、(a)公的機関の広報活動における英語使用は戦略的政策とするべきだろう、しかし(b)国民一人ひとりの英語学習は「サービスとして行う教育」として行い、市場原理の競争力、自己組織力(=柔軟に変化に対応する力)に委ねる、といったところになります。

(5)英語教育研究者の課題:このように同報告書を肯定的に読んでゆきますと、英語教育関係者のこれからの課題が見えてくるようです。一つは「義務として強制する教育」としての教育内容を明らかにすること、もう一つは「サービスとして行う教育」の市場原理を援助し補完することです。

「義務として強制する教育」に関しては、私は「英語教師の『魂』とは何だろう。私たちが何があっても次世代に伝えたいと日頃感じているのはなんだろう」というナイーブな問題意識で考えてきましたし、ハーバマスさんのコミュニケーション規範はどうなのだろうと考えたりしてきましたが、いまだ考えをまとめられずにいます。もちろん、これについては既にいろんな考えがあり、平泉渉さんの「世界の言語と文化」といったアイデア(しかし具体的内容はない)が出ていたり、言語学者の大津由紀雄さん(http://www.otsu.icl.keio.ac.jp/ )は独自の具体的な立論・実践をしたりしています。その他にも、言語戦争や言語偏見、あるいは異文化理解について教えるべきだという意見も方々で見られます。おそらくは倫理的、科学的側面からの啓蒙的な教育になると私は思いますが、それにしても義務教育とするのなら、もっと具体的に教育内容を考える必要があります。

「サービスとして行う教育」に関しては、英語教育研究者は、様々な(公的、私的)教育団体のアドバイザーとして役立つよう研究を具体化する一方、市場における個人の選択を援助すべく、教育団体の評価基準を画定し改良することが課題の一つとなるでしょう。前者の仕事が学問の有効性を象徴するとしたら、後者の仕事は学問の良心性を象徴すると言えるでしょう。

以上長々と述べましたが、もちろん、この報告書の提言を否定的・批判的に読む方もいらっしゃると思います。それはそれで素晴しいことです。といいますのも、この報告書は全体主義国家における指令として出されたのではなく、民主主義国家における政策決定のための議論の叩き台として出されたものだからです。ここに要約と私見をまとめ、皆さんからのご意見を掲示板でお待ちする次第です。

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1999年暮れのご挨拶(1999/12/27)

二つの事を申し上げて年末年始のご挨拶とさせて頂きたいと思います。

一つはネットワーク文化へのさらなるお誘いです。このホームページを開設して2年余り。今年も本当に様々な人とのつながりができました。志さえ緩やかに共有していれば、人は社会的に結び付き、それだけ人生を豊かにできると、ますます強く感じています。このような、個人を基本とした、理念的でかつ自由なネットワーク文化の普及を私は嬉しく思っております。この小文をお読みの皆さん一人一人が、このネットワーク文化にそれぞれの好きな形で参加して、社会がますます多彩に発展することを心より祈念します。

もう一つは私の反省で、文化を熟成させることの必要性です。高度情報化はともすれば、私たちを情報洪水の中に置いてきぼりにします。そんな中、研究・教育に携わる者は、一層の自覚を持って、静かにゆっくり、じっくりと考えて書いて、文化を熟成させてゆかねばならないと思います。2000年は1999年よりも多くの時間を研究に費やすことを個人的な目標としたいと思います。

2000年が皆さんにとりましてよい一年でありますように。

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大原謙一郎さんの提言(1999/12/27)

11月28日の英語教育中四国ネットワークの話の続きです。

大原美術館理事長の大原謙一郎さんが、一時間の講演と30分の質疑応答をやってくださいました。大原さんは東京大学経済学部を卒業後、エール大学大学院経済学部博士課程を修了し、クラレの代表取締役副社長、中国銀行の代表取締役副頭取を歴任しており、英語については実に経験豊富です(注1)。大原さんの話は論旨明晰なものでしたから、ここではその骨組みに従って話を再構築し、時折私のコメントをはさみたいと思います。

大原さんは三つの点で「日本人は英語が下手」と言います。一つには「英語を怖がっている」ということ。これはトップから草の根まで多くの人がそうで、英語を怖がるあまり、英語でのコミュニケーションを拒否し、その結果相手を傷つけることすらあると大原さんは言います(相手の人は、自分が無視されたと思うわけです)。二つ目には「英語を知らない」。チンタラと訳をすることがたとえできたとしても、大量の文書を読み書きすることができないので、日本企業の多くは意思決定の迅速さに欠けると言います。第三には「コミュニケーションスタイルが違う」ということです。日本人の多くにはこの違いを自覚していないので「速く、簡潔な」英語でのコミュニケーションに対応できないわけです。

たしかにこれらはその通り。私のコメントを付け加えますならば、「英語を怖がっている」に関しては黒船以降の「文明開化」、空襲以降の「民主化」において、英語をしゃべる人たちは、日本人に対する「勝利者」であり、「教師」であったわけですから、現在でも「英語をしゃべること」に何らかのコンプレックスを日本人がいても不思議はないわけです。「英語を知らない」に関しては、日本では明治15年あたりを境にして、高等教育(大学・大学院教育)が原則として日本語だけでできるのですから、高度な読み書き能力開発は日本語で行われ、英語の読み書き能力の開発はどうしても後手にまわるわけです。よく言われますように、日本がもっと小国だったら私たちの英語力はもっと高くなっていることでしょう。「コミュニケーションスタイルが違う」についてもその通りで、日本では特に江戸時代以降、人口の流動性に制限が加えられ、さらには明治時代以降、「日本国民、日本人」というイデオロギーを権力者に植えつけられたので、自分たちの「同質性」を必要以上に信じている気配があります。ですからとにかく事を荒立てないようにするコミュニケーションスタイルばかりがはびこってしまい、話を論理的に明晰に、速く簡潔にするなんて私たちの文化ではあまり根付いていません(極端な話、理性の府であるべき大学ですら、そのようなコミュニケーションスタイルを嫌う人すらいます)。

大原さんはこれらの問題点の克服法についても提言します。「英語を怖がる」ことに関しては、「ネイティブ・ライク」でない英語に自信を持つことを勧めます。英語のリズムとメロディーさえ守っていれば、個々の発音は少々違っても通じるし、またそれが国際的な状況での英語使用の現実なのだから、いつまでも特定の英語(例、アメリカ英語)の口真似ばかりするのはやめよう、むしろ世界に通用する日本語訛りの英語を「発明」しよう、ということです。「英語を知らない」ことについては、実は大原さんも「いい処方箋を知らない」と認めた上で、きちんと苦労をいとわずに英語を勉強すること、「楽しさ」を過剰に追及しないこと、などを提言します。「コミュニケーションスタイル」に関しては、コミュニケーションのための英語には二種類あることを自覚しようと大原さんは言います。第一の種類は「友情のための英語(親友英語)」。このためには暗黙の社会(言語学)的ルールを体得することが必要です。いくら日本語と比べて英語ではnoが言いやすいといったって、そこは人の世の中、英語にも沢山の微妙な言い回しがあります。それらを積極的にマスターしないと、英語を通じて友情も育たず、英語力もつかないままだと大原さんは言います。第二の英語の種類は「戦うための英語(論証英語)」。正確で論理的で、適切、かつ簡潔でなければ競争社会を渡ってはいけないと言います。こうした二種類の異なるコミュニケーションスタイルを自覚的に学ぶことによって、日本型コミュニケーションから(少なくとも英語使用の際は)脱皮しようというのが大原さんの提言です。

これらの提言についても私なりのコメントを加えます。「日本語訛りの英語」については私も賛成ですが、それを「発明」することには疑念を抱きます。英語教師は、教室を離れて実際に英語を使った経験が思いの他少なく、どの程度の「日本語訛りの英語」なら通じるのかを実感していないからです(注2)。ですから、私は「日本語訛りの英語」の形成は自然な言語使用の結果(自生的秩序の形成)に任せた方がいいと思います。もちろん過度の「ネイティブ発音信仰」は不必要、というのは言うまでもありません。次に「英語をちゃんと勉強する」ことについては、これは英語教師は真剣に考えなければならないと思っています。といいますのも、現在英語教育の内容は、「コミュニケーション」について真剣に考えないままに、世俗化・陳腐化・軽薄化が進行しているようにも思えるからです。「受験英語は役立たない」というのもしばらくするうちに死語になるかもしれません。なぜなら既に多くの学校で昔のように堅苦しいけど教養的な英語は教えられていないからです。その点で大原さんの「友情のための英語(親友英語)」と「戦うための英語(論証英語)」という区別は示唆的です。私たちは、新しい英語教育の規範----コミュニケーションのあり方----を具体的に明らかにする必要があります。地縁的な結合よりも個人的な友情を重んじ、閉鎖的な調和よりも開放的な競争を重んじる「グローバル社会」が到来しようとしているのなら、英語教育はどの教科よりもそういった価値観での(コミュニケーション)規範を具体的に示さなければなりません。

いずれにせよ、英語教育とは、英語教師のための営みではなく、社会の営みです。こういった話し合いを促進し、より健全な英語教育の姿を模索することは重要です。非英語教師の皆さん、「広場」(社会性の高い話題)への投稿を心よりお待ちしております。

(注1)実際、英語教師より英語経験が豊富な人は沢山います。私がよく行くCD店の店主なんて音楽雑誌の翻訳をやっていることもあって、翻訳にからんだ英語の話なんかをするとしばしば私の知識を凌駕します。もちろん、英語教師の「英語力」は、教育用の幅広いものであるべきでしょうから、専門的英語において非英語教師が英語教師よりも勝るといっても、過大視する必要はないのかもしれませんが、それにしても英語教師に英語のコミュニケーション経験を積ませるように社会的インセンティブを設けることは重要なことだと思います。

(注2)このことに限らず、私は「英語教師が英語を教えてばかりいる」ことは問題だと思っています。英語教師は英語を教えるだけでなく、実際に一生活者として自分で使ってみて、楽しむことが必要だと私は思っています。とはいえ、多くの学校では英語を教えることすらできない教育の荒廃状況こそが現状なのですが・・・

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「これは技術的問題にすぎない」(1999/12/27)

11月28日の英語教育中四国ネットワークの話の続きです。岡山朝日高校の鷹家秀史さん(http://www1.harenet.ne.jp/~takaie/)と高梁工業高校の須賀廣さん(http://www1.harenet.ne.jp/~suga/index.html)が「インターネットがかなえてくれる夢 ---- コーパス言語学の可能性」の話をしてくれました。このお二方、年齢も違えば、現在は勤務校も違うのですが、しばしば会っては討論したり研究論文を共著で出しているとのこと。これこそ生きた文化活動です。そのような背景から語られることもあって、同発表は、時にインターネット関連の発表がそうであるように「これもできます。あれもできます」といった技術的羅列ではなく、英語教師というユーザーの視点に立ったしっかりとしたものでした。

鷹家さんが強調していたのがデータの公正さや客観性、そしてデータの「読み方」です。「とにかくデータをぶちこめば、何かがわかるだろう」といった"Garbage in, garbage out"といった態度とは完全に決別して、鷹家さんは入力するデータの種類を吟味することと、そこから何らかの結論を引き出す際に必要な統計学的手続き(t-score, MI-score等)の重要性を説きます。その上で鷹家さんが示した辞書記述試案の例('tired')は説得力十分で、現代の辞書執筆においてコーパスの使用は不可欠だと思わされました。しかし鷹家さんが誠実に述懐したのは、コーパス言語学が人間の「常識」や「意味づけ」をどう取り込むかで停滞していること、でした。ここでも言語理論の整備抜きには、「科学的手法」もその潜在的可能性を発揮できないことが示唆されました。

須賀さんは、私たちが手軽にコーパスを使うやり方を示します。例えばMicrosoft Encartaといった百科事典や、Time ALMANAC 1990sといった雑誌のバックナンバーのCD-ROM。これらを辞書代わりに使うわけです。もちろんジャンルは限定されている(例、学術的記述が多い、時事英語が多い、等)わけですから、例文に片寄りは生じますが、その片寄りを自覚しているならば、英単語の実際の生きた用例が瞬時にしていくつも得られるわけですから、これは辞書のCD-ROMよりたしかにおもしろいのかもしれません。実際、ある翻訳家は、ニュアンスを知りたい時には、辞書の一般的記述ではとてもわからないので、「20世紀英米文学アンソロジー」といったCD-ROMで目的の単語を検索するそうです。その語が実際にどのように使われているかを、十以上の異なった文脈で読むと、だいたいニュアンスというのはわかるそうです。

この他にもお二人が示す具体的情報には、メモを取る価値があるものが沢山ありましたが、それはお二人のホームページ(http://www1.harenet.ne.jp/~takaie/ http://www1.harenet.ne.jp/~suga/index.html)をご覧ください。書評のページなども面白く、いかに優秀な高校教師が優秀な研究者でもあり、また文化を楽しむ生活人でありうるかの生きた例がわかります。

最後に一言申しますと、私にとって印象に残ったのは鷹家さんの「インターネットなんて技術的問題に過ぎません」という台詞。大切なのは英語教育の本質----たとえ、それが何であるかは誰にとっても明らかではないにせよ----だ、という主張は、技術的問題を着実にこなしている人の口から発せられただけに一層の重みを持ちました。

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私たちは何を大切にしているのか(1999/12/3)

11月28日に岡山の山陽学園大学で英語教育中四国ネットワークの第4回大会を開催しました。事務局の労を受けてくださった桐原書店広島営業所の羽田さん、パソコン機器のサポートをしてくださった岡山視覚の重本さんと近藤さん、山陽学園大学のとりまとめをしてくださった能登原さん(先生)と受け付けなどの一番地味な仕事をやってくださった学生さん、講演者の皆様、そして休日にもかかわらず参加して下さった皆さん、本当にどうもありがとうございました。以下に、私なりにその日に学んだことを再構成して11/28の出会いをできるだけ発展させてゆこうと思います。

午前中の最初の話は山陽学園大学の田邉祐司さんの「ある独学派英語教師との出会い:英語修業の一方法」でした。田邉さんは自慢が嫌いですから決して自分の英語力の事は誇らしげに語りませんが、田邉さんをよく知る人はことごとに「あの人は凄い」と言います。実際私もある時にニュージーランドでお世話になった時にこの人の実力は凄い、私はとてもかなわない、と様々な場面で思わされました。

田邉さんの実力は大学生の頃からで、大学生の時にマンスフィールド駐日大使(当時)の講演の通訳の一部を担当というのですからかなりのものです。そんな田邉さんが教師として赴任したある高校で、田邉さんはある老教師Y先生に出会います(田邉さんは人のことを「センセイ、センセイ」と呼び合うのは嫌いだけれど、この方だけは「さん」では呼べないと言います。またその先生は田邉さん以上に表に出ることを嫌うそうですので、ここではその方を「Y先生」と呼ばせていただきます)。なんせY先生は研究社の『大英和』などを網羅しているというのだから凄い。ためしに田邉さんがどのページのどの単語を言ってみても、その語について語りはじめるといいます。英語圏の平均的な大学生・大学院生の読書体験は追随しており(というより17歳でシェイクスピア作品を全て読破している)、英語により詩作をし、短編小説を執筆し、Monbusho English Fellowの書く英文を添削していた。あまつさえ、英、仏、独、西、露、伊、羅、希語にたけているというのですから、もう言葉を失ってしまいます。(引退した今は畑を耕しながらダンテの『神曲』をイタリア語で読んでいるそうです。)

しばらくするうちにY先生と彼の実力に感服した田邉さんとの間に師弟関係が芽生えます。朝、田邉さんが職員室に入ると、机にY先生からの英文課題があり、田邉さんは下校までにそれを必死でやりとげたとのことです。またその頃、Y先生がよく折にふれ口頭で田邉さんにしていた質問が、当日私たちにもなされましたが、私は15問の問題のうち即答できたのが一題あるかないか(注1)。いかな生意気な私でもこの時ばかりは下を向いてしまいました(話を聞きながらうつむいてしまったなんて十年振りぐらいのことです)。自分の「英語教師」の看板が重く感じられました(ましてや自分が大学英語教師だなんて!)

さてこの現在60台後半の老教師の話をどうとらえるか。「昔の人は偉かった」「世の中には凄い人がいる」ではあまりにも無責任というものでしょう。ここではまず私たちが何を失ったのかを私なりに列挙したいと思います。

第一は先輩-後輩のインフォーマルな関係です。Y先生と田邉先生のような凄い師弟関係とまではいかずとも、私たちは「先輩-後輩」という自由で親和的な関係(一部の封建的な体育会の固定的で閉鎖的な「センパイ-コウハイ」関係とは全く異なる)をほぼ失ってしまったのではないでしょうか。まずもって教員同士で英語について語らない。車やファッションの話こそすれ、自分で英語をどう読んでいるかなどという話がタブーになっているのかと思えるほどになっている。そもそも「尊敬できる人間を選ぶ/見所のある人間を選ぶ」という意識さえなくなってしまったような気がします。

失ってしまったものの第二は、「修業」という「厳しさを楽しむ文化」です。「とにかくやさしく教えよう、速く教えよう」というのは善意から出た発想でしょうが、それが長じて教師まで「とにかく簡単に学びたい、短時間に学びたい」となり、はては「できるだけ学ばないですむ方法はないか」となっているのではないでしょうか。(これは私の中にある傾向かもしれません)。日本には「芸道」の文化があり、文化習得を人生の問題にまで高める習慣があったのですが、この習慣の力がだいぶ失われてきているのかもしれません。

第三に上げたいのは「辞書を愛でる」文化です。Y先生にしても、わずかな空き時間は、辞書を「愛でる」ようにして読んでいたそうです。こういった「辞書を読む」習慣は、ここ十年ぐらいの間に急速に失われているのではないでしょうか。もちろんその背後には、英語の国際化にともなう、英語文化の世俗化があり、辞書が「特定共同体の歴史と伝統を継承する集約点」という役割から「万人にとっての最大公約数の確認点」という役割へと使命を変えてきたという流れがあるのかもしれません。しかしそれにせよ「ことば」を大切にする文化を多くの英語教師が失いつつあるのかもしれません。

失ったものの第四にあげたいのは読書の習慣です。とにかく英語教師が教科書以外の英語を読まない。「時間がない、忙しい」をお互いの合言葉にしてしまう。現代日本の不思議なことは、「情報化」が進み、「競争社会」の到来を表看板に掲げながら、ますます官僚化が進み事務仕事が増大することです。少なくともアメリカ的感覚なら、競争社会化は脱官僚化を意味します。ところがどうも近年の学校文化は事務仕事ばかりが増えているようです。下手に読んだ本の話をすれば「いいねえ、本を読む暇のある人は」と嫌味さえ言われそうな雰囲気があるとすら私は思いますがいかがでしょう。もっとも事務仕事の増大は日本だけでなく英国の高等教育界でも言われていることですから、私たちはもう一度アメリカ文化のあり方について学び直す必要があるのかもしれません。と、話が逸れかけましたが、ここでは私たちが読書の習慣を失ってしまったことを確認しておきたいと思います。

第五にあげたいのは、読書を血肉化する文化です。田邉さんの表現を借りるならY先生は「読む→感応する→孕む→綴る」という英語の修業法をとっていたそうです。本を読み捨てるのではなく、それに生き生きと感性を働かせ、そのことばを熟成させ、自らの表現とするプロセスがあったのです。こういった文化も私たちは失ってしまった。下手をすると英語のことばは、私たちにとって「単語」であり「データ」でしかなくなっていませんでしょうか。

最後にあげたいのは、「添削」という規範文化です。「とにかく英語を使おう」という動きの中で、私たちはいい意味でも悪い意味でも「添削」という文化を軽視しようとしています。もちろん過剰な添削で学習者がやる気をなくす例は枚挙にいとまがありません。しかし「添削」の文化を支えているのは「これがいい」「これは後世に伝えるべきだ」という規範意識です。その規範意識を支えているのが、今までに述べようとしてきたことばを愛する文化であることは言うまでもありません。ひょっとしたら現在の英語教育界は「添削」という規範文化を失い、「陳腐さ」「平板さ」「凡庸さ」が横行している世界と描写できるのかもしれません。

とはいえ、過去を賛美ばかりしてもいけないと思います。時代は変わりました。情報は爆発的に増えました。文化は世俗化しました。教師は(是正されるべきことですが)忙しくなりました。過去の文化----生活様式----のいくつかは失われざるをえないのかもしれません。しかし失ってはいけないものは何か。新生させるべき伝統とは何か。最後にそれに関する私の考えを列挙したいと思います。

第一は、語り合うこと、語り継ぐこと、出会うことです。たとえ昔のように日常的にゆっくりと時間が取れないにせよ(注2)、英語教師が英語文化、つまりは英語を使う生活について互いに語り合い、後輩に語り継ぎ、そして新たな発見を求め、出会いを求めるという姿勢だけは失ってはいけないと思います。幸い昔に比べて交通手段や情報伝達手段は飛躍的に便利になりました(今、あなたはこの文章をどんなメディアで読んでいるのですか?)。私たちはこの伝統は再生させるどころか、発展させなければならないと思います。

新生させるべき伝統、失ってはいけないことの第二は、文化を愛することです。英語教師が英語を使用する文化を愛さず、ただ給料を得るためにだけ英語を教えるのなら、その行為は教育の名に値しないでしょう。教育の名に値しないということは、単なる商業行為であり、国民の税金を使ってのサポートに値しないということ、つぶれるならつぶれるに任せておくべき事業だということになります。私たちはそもそも英語を使用する文化を愛しているのか。愛しているのならどのように具体的に実践しているのか。そもそも愛することが必要なのか。その愛する文化は他人に伝えるべき内容を持っているのか----こういった問いを私たちはうざったいものとして打ち捨ててはいけないと思います。「英語教師は英語を使用する文化を愛している」というのを少なくとも私たちのタテマエにしませんか。現状はタテマエですらないとはいえませんでしょうか。

第三に指摘したいのは、「コミュニケーションの規範文化」です。私たちは「コミュニケーション」といえば「とにかく喋らそう」と短絡しがちですが、コミュニケーションにも「いいコミュニケーション」と「くだらないコミュニケーション」はあるはずです。例え「国際語」として英語のコミュニケーションをするにせよ、そこには「広めたいコミュニケーションのやり方、共有し伝えてゆきたいコミュニケーションのやり方」があるはずです。ところが私たちにその自覚がない。日本の国会では対面式の質疑応答を取り入れたものの、それもまだ的外れだったり、下手をすれば学界ですら正面から向き合って論じることを避けていることからすると、日本ではまだコミュニケーションの規範文化が育っていないのかもしれません。これは育てなければならない。英語教師は他の職業の人間にましてこの「コミュニケーションの規範文化とは何か」という問題を引き受け、具体的に実践しなければならないのではないでしょうか

総じて言いますなら、私たちは何を大切にしているのでしょう。私は田邉さんの話を聞いて、この根本的なことを考え直しはじめました。これが私なりの拙く片寄った継承です。Y先生が読めば、失望落胆するような継承でしょうが、それを少しでもまともにするために、他の皆さんのご意見を「広場」でお待ちしたいと思います。私たちの中でY先生の生き方を少しでも継承してゆきたいとは思いませんか?

(注1)ちなみにそれらの問題を下にあげておきます。何問即答できますか?

ワーク・シート

1) 「summer、winterの形容詞および関連表現を挙げよ」2)「 As a philosophical six year old put it, what is ove is over.を適確な日本語で表現せよ。 philosophical の三つの意味を適確に説明せよ」 3)「schadenfreudeで思い出す映画は?」4)「 payment in ( ) 『物納』という意味になるように英語を補充せよ」5)「 I had nothing ( ) her.『恨みはなかった』という意味になるように英語を補充せよ」6)「 'Rose is a rose is a rose is a rose.'の出典は」7)「' He's travelling ( ).' 『偽名で』という意味になるように英語を補充せよ」8)「' the ( ) head of the British court system' 『名ばかりの』という意味になるように英語を補充せよ 9)「' It was a solid structure, with massy door, sooner than open which in the absence of the 'Dominie,' we would all have willingly perished by the peine forte et dure.'を訳せ」 10)「『あなご』、『しゃこ』の英語は?」11)「『シテ』 『ワキ』 『ツレ』の英語は?」12)「『相も変わらず殺風景な街だ』を訳せ」13) 「I did not mind that he knew that I knew that he knew.を訳せ」14) 「The amount of totally unnecesary interference in canine livesw, the exercise of authority for its own sake, has top be seen to be believed.を訳せ」15) 「a land flowing with milk and honeyの出典を正確に述べよ」

ワーク・シート解答

1) summery, aestival , a girl of 18 summers, wintry, hiemal, hibernal, a man of 60 winters 2) philosophy 1. priniciple of thoughts 2.おませ3.悟りを開いた 3) Roman Holiday 4) payment in kind 5) I had nothing on her.(米口語)6).'Gertrude SteinのSacred Emilyから7) He's travelling incognito. 8) the titular head of the British court system cf. nominal 9)勉強部屋はどっしりとした戸のある堅固な造りで,先生のおられない時に戸をあけるくらいならいっそみんなで拷問ででも死んだ方がましなぐらいの代物だった。10)conger, mantis shrimp 11)protagonist, deuteragonist, tritagonist 12)The city is as drab and spartan as ever.13)あいつの心の中をおれが見抜いているということをあいつに感づかれようとどうでもよかった。14)犬に対して人間がいかに多くの,まったく不必要な干渉をしているか,力のための力をいかに行使しているか。それは実際みてみないと信じられないくらいである。15)『旧約聖書モーセ5書』第2書3:8

(注2)とはいえ、田邉さんは野球部の顧問もやり、夜10時に帰宅するような毎日の中でY先生の課題に答えていたといいます。

追記:11/28の他の話はまた時間を見つけてこの欄に掲載します。

追追記:この小文を公表してから、田邉さんにメールをもらいまして、自分は過去にも現在にも「相当な英語力」などを持ったことはないから、できれば自分の英語力に関する表現を変えてくれと言われましたが、ごく一部の表現を除いて変えませんでした。あと、「ぜひ,Y先生と文部省検定との流れにご言及ください。『英語教師の英語力』という議論がある場合,いろいろと経験的にはいわれますが,過去に実際にあった水準を知る人が少ないのは実に悲しいことです」とも言われました。この仕事は私の手にあまりますので、下に田邉さんからいただいた文献表を転載します。(1999/12/5)

参考文献

伊地知純正(1927)『僕の英文日記』東京:研究社。伊地知純正(1956)『英文修業五十五年』東京:研究社出版。伊東勇太郎(1930)『文検受験用英語科研究者のために』東京:大同館。岩崎春雄・忍足欣四郎・小島義男(編)(1985)『現代人のための英語の常識百科』東京:研究社出版。岩崎民平(1985)『岩崎民平文集--英語ひとすじの生涯』東京:研究社。『英語研究』編集部(1975)『英語研究の70年:もう一つの日本英学史1908~1975』東京:研究社。太田雄三(1995)『英語と日本人』東京:講談社。大村喜吉(1960)『斎藤秀三郎伝:その生涯と業績』東京:吾妻書房。小川芳男(1983)『英語交遊録』東京:三省堂。勝俣銓吉郎(1937)『英語修業の五十年』(私家版)。河上道生(1995)『わたしの英語学習法』私的インタビュー:聞き手 田邉祐司。儀同 保(1992)『獨學者列傳』東京:日本評論社。後藤卯吉・内藤乾蔵(1930)『高等教員検定試験 英語科研究の手引き』東京:大同館。斎藤兆史(1998-)「英語達人伝説」『中央公論』(連載中)。齋藤 勇(1983)『蔵書閑談』東京:研究社出版。實方 清(1931)『最新指導文検標準 英語科の研究』東京:大同館。柴田徹士・藤井治彦(1985)『英語再入門 読む・書く・聞く・話す』東京:南雲堂。高田 宏(1978)『言葉の海へ』東京:講談社。高梨健吉(1985)『英語の先生、昔と今:その情熱の先駆者たち』東京:日本図書ライブ。竹内 洋(1991)『立志・苦学・出世:受験生の社会史』東京:講談社。田島伸(1994)『英語名人河村重治郎 新版』東京:三省堂。田中菊雄(1960)『わたしの英語遍歴:英語教師のたどれる道』東京:研究社。田中菊雄 (1985)『知的人生に贈る』東京:三笠書房。田中菊雄(1987)『現代読書法』東京:三省堂。田中菊雄(1992)『英語研究者のために』東京:講談社。田邉祐司(1994)「英語独学者の知の水平線:伊東勇太郎『文検受験用英語科研究者のために』から」中国地区英語教育学会第25回総会・研究大会発表資料(岡山市,岡山大学教育学部)。田邉祐司(1995)「レシテーションのススメ:思い入れレシテーション論」『現代英語教育』10月号,12-15。田邉祐司(1997)「もっともっと本を読もう (4) 職員室の伝承知」『現代英語教育』6月号。出来成訓(1993)『日本英語教育史考』東京:東京法令出版。寺崎昌男・「文検」研究会編<(1997)『「文検」の研究』東京:学文社。外山滋比古(1978)『新・学問のすすめ アウトサイダーの世界』東京:講談社。長井氏晟『英語ニューハンドブック』東京:研究社。中野孝次(1980)『苦い夏』東京:河出書房新社。森川隆司(1994)『漱石の学生時代の英作文三点:幕末明治英学史論集』東京:近代文藝社。吉田健一(1992)『英語と英国と英国人』東京:講談社。<Goto, S. (1990)The studies of Kikuo Tanaka Osaka:Hakuho Press. Idichi S. (1922). America revisited Tokyo: Kenkyu Sha.

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クラスの社会性と教師のスキル (その2) (1999/11/21)

(「その1」の続きです)

2 教師のスキルについて

2.1 テクニックを越えて:2時間のワークショップの冒頭で中嶋さんは、「スキル」についての注意を重ねました。中嶋さんの言葉遣いでは、「テクニック」とはうわべだけを見たもので、それをただ真似しても、たいていの場合うまくいかないといいます。中嶋さんは、自分のワークショップでは、自分は責任をもって話し説明するが、「あっ、これは使える」と思ったら、そこから聞き手であるあなたの責任だといいます。今日知った「テクニック」を明日すぐに使おうというのではなく、ワークショップでは「原理」を見つけてほしいと中嶋さんはいいます。「なぜやるのか」、「何を目指してやるのか」、「そのためには自分のクラスでは何を準備しておかなければならないのか」、「実施途中で気をつけておかなければならないのは何か」といったことを「原理」あるいは「本質」から自分で考え直して、自分の中で消化して、ご自身の責任でやってほしいということです。そのように自分と自分の状況をくぐり抜けて熟練した技が「スキル」なのです。学んだ技を「テクニック」のままにしておくのでは駄目で、「スキル」にしなければならないと中嶋さんは強調します。

これは良心的な言い方だと思います。というより、ここのところが誤解されると達人セミナーみたいな優れた集まりも、妙な「自己啓発セミナー」みたいになってしまいかねません。便利な家電製品にだって、めざましい特効薬にだって、スポーツ競技の新しい技にだって、どんなものにだって「使い方」というものはあります。エアコンだって夜通し使えば風邪もひくでしょう。薬も飲みすぎれば副作用が生じるでしょう。新しい技だって状況と自分の実力に応じて使わなければ失笑を買うだけです。効用、原理、本質といったものを理解しないままに使えば、効果がでないだけでなく逆効果になることすらあるのです。自分で考えることをせず「今度こそ本当に効くテクニックを教えてもらう」ために講習会などに参加しつづける態度には私は警戒心を持ちたいと思います。

2.2 人間性との融合:こうしてテクニックをスキルにしてゆこうとすると必然的に「人間性」が大切になってきます。私たちの分野が教育である以上、教授技術も、誰もが納得する原理を誠実に実現化してゆこうとする態度----すなわち人間性----に支えられていないと、生徒にも受け入れられないからです。中嶋さんは、学年の最初の一時間は、自分のクラスでは何を大切にし、何を許さないかをきちんと「語る」といいます。例えば中嶋さんのクラスで大切にされるのは「一人一人の違い」であり、またその「違いから学ぶ」ことです。ですから、中嶋さんは彼のクラスで、一人一人の違いを否定するような態度、つまり、いじめ、あざけり、差別などは決して許さないといいます。もし英語コミュニケーション・タスクでそのような態度が出たら即座に授業をストップし、さらに「語る」と言います。中嶋さんの言い方だと「人間性とスキルが大切です」となるのですが、私はむしろ中嶋さんの授業の中では、両者は加えられる別個の存在ではなく、融合した一つの存在の二側面であるような気がしました。私は数年前から「英語教師の『魂』って何だろう」という問いを持ち続けてきましたが、ここでは中嶋さんに中嶋さんなりの答えを示してもらったような気がします。

2.3 Backward Planning:最後に強調したいのは中嶋さんが、一年間どころか中学三年間を通して大きな見通しと、それに基づいた具体的な計画をもっているということです。多くの教師にとって年間計画などというものは「教科書を終わらせる」ぐらいのものでしかありません。しかし中嶋さんは、中学英語の大きな目標として、三年生の三学期に英語の卒業文集を作ることを掲げます。これは以前にも少し紹介しましたが、見れば誰もびっくりする、中学生による深い感性と静かな論理性の表現集です。読む人は心が動かされます。作った生徒はきっと自らを誇りに思うでしょう。またそれを見る後輩の生徒は、きっと勇気づけられ動機づけられるでしょう。

中嶋さんは、これを三年生の三学期に完成させるためには、三年生の二学期には何をやっておかねばならないかを考えます。そしてそのやっておかねばならないことを具現化するためにはどんなタスクを課しておかねばならないか、そのタスクをやらせるためにはどんな練習をしておかねばならないか、といわば「逆算的」に計画をたててゆきます。もちろん、この計画は、「それならば三年一学期では、二年三学期では、二年二学期では・・・」と続いていきます。これが私のいうBackward Planningです。先ほどまでは教師のスキルがその教師の人間性と融合していると述べておりましたが、ここではスキルは大きな計画の中に見事に配置されていることを述べておきたいと思います。

以上、はなはだ簡単ではありますが、私が今回達人セミナーで学んだことを、特に中嶋さんの話を中心にまとめました。書いていて痛感するのは、書くはしからこぼれおちてゆく、豊かなニュアンスのことです。書く人間としてはできるだけを記述しようとしますが、どうしてもこぼれおちてゆくものはあります。この小文を読んで少しでも、このようなセミナーに興味を持たれたら、ぜひご自身で参加してみることをお勧めします。また、今回は抽象的なまとめのみで、具体的な授業技術については報告しませんでした。これは豊かな「スキル」が、下手な私の記述で「テクニック」になってしまうことを怖れたというのもありますが、一つには中嶋さんにしても近く本を出版されるので、そちらの記述に任せたいというのもあります。中嶋さんの本が出たら私も必ず書評を書こうと思いますし、また以前にも二冊については書評を書いております。皆さんも是非それらの本をご一読されることを心からお勧めします。

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クラスの社会性と教師のスキル (その1) (1999/11/15)

1999年11月14日の達人セミナーin松江に私は最後のコーディネーターとして参加させていただきました。松江事務局の築道和明さんや田尻悟郎さんらには大変お世話になりましたし、この達人セミナーの全企画を立てている谷口幸夫さんにも感謝したいと思います。ここに名前を上げていない皆さんも含めて本当にお世話になりました。ありがとうございます。ここでは、そこで学んだことをできるだけ多くの人との間で共有すべく、私が学んだことを総括したいと思います。講師の中嶋洋一さん、清家佐保さん、谷口幸夫さんの話を適宜まとめて私なりに再構築した総括です。

1 クラスの「社会性」について

1.1 学習集団とは一人一人の高まる「私」を大切にする人間の集まりである:中嶋さんは何よりも大切なのは学習規律だと言います。いじめ、嘲り、差別などは絶対に許さないといいます。ですが、このことは単に道徳的に重要なだけでなく、学習の点でも必要なのです。中嶋さんの授業でも清家さんの授業でも、生徒はパートナーの生徒の話を実に熱心に聞くように、いや、聞かざるを得ないように様々な仕掛けが仕組まれています。各自にはそれぞれの具体的な役割があるから、相槌をうち、メモをとり、質問を適宜投げかけながら聞かざるを得ないのですが、そうするうちに話す方も、意外に自分が英語が話せること、理解してもらえること、自分は話を聞いてもらえるだけの価値のある人間であること、自分にも思っていた以上に面白い側面があることなどを発見してゆきます。また聞く方も、具体的な役割の中で、自分も拙いながらに英語を理解することができること、適切な質問をして、相手に「その通り!」と喜んでもらえることなどを経験してゆきます。こうなるとパートナーはすでに「他人」「他者」でなく「他己」です。自分と異なっているがつながっており、そのつながりのゆえに自分(自己)も自分(自己)でありえ、相手(他己)も相手(他己)でありうるからです。他己がいるからこそ、自己も学び高まることができるのであり、また自己も他己にとって大切な存在だということが実感されるからです。このような他己の話は尊重して聞かざるをえません。なぜなら他己は大きな自己の一部だからです(このあたり、仏教的、西田幾多郎的ですね(^^;))。

学習集団とは、このように一人一人の高まる「私」を大切にする人間の集まりです。「学習者」を大切にするのではありません。なぜなら「学習者」に対する関心は専ら「学習成績」だからです。そうではなくて、英語のコミュニケーションを通じて、他ならぬ「あなた」は何が好きなのか、何故そうなのか、他ならぬ「私」はそれについてどう感じどう思うのかという相互理解を重ねてゆくなかで、一人一人の「私」が大切にされるのです。また「私」が大切にされるといっても、それは一人一人のわがままを許すということでは絶対にありません。「俺は今日勉強したくないから、人の話なんか聞かない」などという「私」は許しません。学習集団が大切にするのは「高まる私」です。「高まる私を大切にしてくれるあなた」を「私」は大切にするのです。このようなクラスでは、上にも述べましたように、いじめ、嘲り、差別を許さないということは、道徳規律であると同時に学習規律になっているのです。

古い言葉に「滅私奉公」という言葉があります。私はこの言葉が嫌いです。「私」を殺さなければならない「公」なんて、特定権力者にとって都合のよい(権威主義的)体制にすぎないことが多いからです。でも中嶋さんのクラスを見ていると、ふと「活私奉公」という造語を思いつきました。一人一人の「私」を活かすことで、学習集団という「公」が芽生え、「公」が発展することが「私」の反映にもつながるからです。かつて「校内暴力」という言葉がはやった昭和50年代、教師の多くは「鉄の規律」で学習規律を作り上げようとして、その多くは失敗してしまいました。現在は「学級崩壊」を前にして学習規律を再生させなければなりません。クラスを「孤立した人間の集まり」から「学習集団」に変えてゆくことが王道ではないでしょうか。実際、中嶋さんも「生徒が一日6時間受ける授業をそのままにしておいて、学校を再生させることなんか不可能です」と言います。まったくその通りだと思います。

1.2 コミュニケーションは人格的存在と成立:中嶋さんの生徒の感想を読んでいると実に様々なことが学べます。彼/彼女らにとって、コミュニケーション活動は「アルファベットを並べる」ことなんかでは決してありません。相手にわかってもらおう、相手をわかろうとする中での自己発見であり他己発見なのです。この「相手」とは人格をもった存在です。決して「採点者」でも、どこの誰だかわからないようなexcerciseのTomでもないのです。ここでも英語教育の具体的な活動が、実は教師の教育観、学習観、学級観に根差していなければならないことがわかります。こうして具体的で人格的なコミュニケーションで構成される「学習集団」はすでに立派な「社会」であり、生徒は英語コミュニケーション能力だけでなく、「社会性」も学んでいるのではないかと強く思いました。

(続く)

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各種研究の違い(1999/11/7)

現在、学部生、大学院生(英語科、教育学科、国際協力研究科)の人たちとドナルド・ショーンさんのThe Reflective Practitioner(ISBN 1-85742-319-4)という本を読書会形式で読んで、討議しています。この本は日本では佐藤学さんが引用したりして有名になりましたが、やはり面白い本で、色々と思考を触発されます。読書会は現在も進行中ですが、できるだけ読後感や討議の印象が薄れないうちに、私としてもこの本から学べることを文章にしておこうと思います。今回のテーマは、各種研究の違いです。実践報告、実践研究、記述研究、アクションリサーチ、事例研究、理論研究、実験研究、調査研究をそれぞれに区別して、英語教育研究のあり方の問題点を整理したいと思います。

まず「実践報告」ですが、実践報告は「とにかく教師が日頃やっている事を他の教師に伝えること」と定義します。「こんなことやって成功しました/失敗しました」のレベルで結構なわけです。ここで要求されることは具体的な実践の実際で、興味をもった聞き手が自分でもその手法等を再現できるぐらいに情報を開示することが求められます。実践報告は短いものなら5分ぐらいでも可能です。

次に「実践研究」ですが、ここでは実践研究を「ある教師の手法等の有効性を、データをとることによって、できるだけ客観的に示そうとする研究」と定義します。昔からよくやられている「AメソッドとBメソッドの比較実験」なども実践研究の一つとここでは規定します。現在でも多くの英語教育研究がこの種の研究を範にしていると考えられます。しかしこの種の研究では(1)実験条件の統制が困難である、(2)手法等が成立している文脈や歴史(生徒と教師の環境やこれまで)をほとんど無視している、ため、(1)'実験結果は(自然科学の実験のような)厳密な結果とはとても解釈されない、(2)'たとえ実験結果から有効性が示された手法でも、その手法が普遍的に有効かどうかはかなり疑わしい、という致命的な問題があります。研究の知見の重要性と研究のコストを天秤にかければ、研究のコストの方が不当に大きいですし、「研究業績のための研究」につながりやすいと考えられますから、私はここでいう「実践研究」は英語教育研究のあり方としてはふさわしくないと考えます。実際、発表20分+質疑応答10分の学会発表フォーマットでは、このような研究発表が横行しますが、私個人としては、このような発表から多くを学んだ覚えはあまりありません。英語教育の「学会」に実践者がほとんど興味を示さないのは、こういった研究発表が多すぎるからとはいえないでしょうか。

第三は「記述研究」です。ここでは記述研究を「ある教育実践を、その教育実践の文脈と歴史を共有しない他者にも明晰に理解できる形で明らかに記述した研究」と記述します。この記述研究は、「とにかく報告した」実践報告とは、この他者意識の強さで異なります。「教育実践の文脈と歴史を他者にもわかるように明らかにする」ということは、思ったほどに容易ではなく、教師の教育観・言語観を掘り起こしたり、学習者(集団)の背景をあらわにしたり、教師と学習者(集団)が投げ込まれている時代の大きな流れを明確にしたりする必要があります。この際には、共同研究者(=実践をよく観察し、実践者を共感的に理解しながらも、その実践を明確な言葉に翻訳できる人)の存在が重要になる場合も多いと思います。このような記述研究には20分発表という時間枠は短すぎるのではないかと私は考えます。ちなみにこの研究タイプと考えられる臨床心理学のある学会の発表時間は1時間で質疑応答がさらに1時間です(ある臨床心理学者はそれでもまだ不十分で、せめて発表一件あたり3時間は欲しいと言っていました)

第四の類型は「アクションリサーチ」です。このアクションリサーチという言葉は、もはや一種の流行概念となってしまっています。ですが、流行概念はしばしば、浅薄な理解が横行し、やがては見捨てられる運命をたどることが多いです。もとより私とてアクションリサーチに関する勉強は十分ではありませんが、ここでは他の種類の研究類型を「比較の対象」とすることによって、アクションリサーチの概念を明らかにしたいと思います。

まず言い切りますなら、ここでいうアクションリサーチは、上で定義したような意味での「実践報告」ではありません。一方向の伝達ではないからです。「実践研究」でももちろんありません。教育実践の知見の見かけ上の普遍性をアクションリサーチは警戒するからです(ですが、現在では今までと変わらない「実践研究」や、統制群すらなくした「実践研究」が「アクションリサーチ」と呼ばれていることが多いようにも思えます。私はこのような現状に不安を感じているがゆえに、このような小文を書いています)。さらにアクションリサーチは「記述研究」とも異なるとここでは規定したいと思います。両者は教育実践の文脈や歴史を掘り起こすことで共通していますが、記述研究が、一応研究報告として完結した形(論文)を目指すのに対して、アクションリサーチは、実践者と共同研究者が継続的に行うプロセスであるような気が私にはするからです。私はこのように記述研究とアクションリサーチを分けて、学術志向路線(記述研究)と実践志向路線(アクションリサーチ)を区別しておいた方が、何かと便利だと思っています。(ですがこの点については色々と反論もあるかもしれません。いつものように反論はお待ちしております)。まとめますとアクションリサーチとは「実践者と共同研究者による、教育実践の文脈と歴史の掘り起こしの連続」となりましょうか。またアクションリサーチは下に述べる「事例研究」「理論研究」「実験研究」とも違うものとして私は考えています。

さてそれでは第五の類型の「事例研究」です。ここでの「事例研究」は、例えばハーバード・ビジネス・スクールなどでよく行われている「ケーススタディ」を指しています。定義しますなら「ある事例を、討議に耐えられる程度に言語化した上で、その事例から考えられる複数の行動を参加者が考え出し、それぞれの行動の利害得失等を、文脈や歴史も考慮に入れながらできるだけ理論的に考察する研究」となりましょうか。ここで事例研究が目的としているのは「問い方・考え方を学ぶこと」です。

実はこの「事例研究」のあり方については第一回目の読書会討議でテーマになったものです。その時の私のメモですと、(1)事例(case)には、様々な価値や条件が交錯し、唯一の正解は存在しない。(2)事例研究(case study)を行うには複数の理論を知っておくことが必要。(3)理論的裏づけ・方向づけがなされていない「事例研究」は単なる経験談だけになりがち。(4)一つしか理論を知らないとその理論内だけの「正解」を求めるゲームに終始してしまう。(5)事例研究の目的は、かといって、数多くの事例を列挙することではない。(6)事例研究の目的は、問い方・考え方を学ぶことである。(問い方・考え方を学ぶことによって、今までにない状況にでも対応できる人材を育てることができる)。(7)しかし、事例研究は語る方にも聞く方にも力量がいる。問題意識や複数の背景理論がないと、事例研究は単なるエピソードの集合になる。(8)事例研究においては、今まで以上に研究者と実践者(研究の聞き手)がコミュニケーションをとる必要がある。これらのことを踏まえて事例研究を再定義しますなら、事例研究とは「記述研究による記述をもとに、可能な複数の理論的発展性を予期した形で事例を開いた(あるいは実際に展開させた)研究」となりましょうか。こうしますと事例研究は、研究発表用も考えられるものの、主用途は教育用ということになると思います。

第六の類型は理論研究です。理論研究とは、「ある前提を明示的に決めた上で、その前提の上で可能な限り整合的に論を展開しその帰結を探る研究」とここでは定義します。理論研究には「そんな前提なんてありっこない」とか「そんな理念的(理想的)な条件のままに現実の事が運ぶことはない」とか言われることがありますが、これは不当な言いがかりであり、理論研究はあくまでも論理的展開の可能性を一貫して追求することにより、議論の道筋(=規範)を提供することを目的としております。こういった規範がないと、事例研究は単なる思い付きの言い合いになりますし、アクションリサーチの話し合いも単なる繰り言になるかもしれません。記述研究の記述にしても要領を得ないものになるかもしれません。ここで理論研究は、事例研究・アクションリサーチ・記述研究などに必要とされる様々な規範を提供する機能を持つ点で重要な研究であり、「役に立つ」研究であると位置づけられています。

「実験研究」は、ここでは「厳密な理論研究による論理展開から導き出される帰無仮説を検定するための、実験計画法に基づいた実証研究」と定義します。厳密な理論による操作的定義、適切な被験者のサンプリング、目的の要因だけを絞り込むための実験計画法、数的処理におけるきちんとした統計手法に基づいていることが実験研究の必要条件です。何度も繰り返すようですが「とりあえずデータをとった」だけでは実験研究ではありません。前に定義しました「実践研究」は上の必要条件を満たしていないことがほとんどだと私は考えますので「実験研究」と呼ぶべきではないと思います。というより、英語教育研究として考えられるような現実性の高く複雑な事象には「実験研究」は成立しないのではないかと私自身は考えています(どうぞ反論を下さい)。

最後に「調査研究」という類型を設定しておきますが、これは実態を調査するためのアンケートなどによる研究です。これは特に理論的でも実践的でもありませんが、実態を把握するためには重要な研究です。

この他にもひょっとしたら見落としている研究類型もあるかもしれませんが、とりあえずここに研究の区分を提言しておきます。この区分をもとに「自分は(今)どのような研究をしているのか」という自覚を高め、研究交流における相互理解を促進し、不当な誤解や落胆を防ぐというのが、この区分が狙っている効用です。

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