美術

ここでは、各種の美術作品に接した時々に感じたこと、考えたことなどを書き連ねてゆきます。私は視覚芸術(美術作品)よりも、聴覚芸術(音楽作品)の方が好きなのですが、それでも時折、(当たり前のことですが)美術作品には音楽作品にはない力を感じます。その力を感じ取り、その力を何とか自分の言葉で表現して再生することが、私の暮らし・生活・人生・生命----つまりはlifeにとって何か重要であることのように感じるので、このようなコーナーを作る次第です。とはいえ、ほとんど更新のない、ヘタレコーナーになるかもしれませんが・・・・・


金沢21世紀美術館+深澤直人『デザインの輪郭』TOTO出版(2006/6/4)

金沢21世紀美術館に寄る機会に恵まれました。前評判どおり開放的な雰囲気でした。ガラス窓と白い壁を基調とし、場所によっては非常に高い天井から自然光が入るこの建築はとても心地よいものでした。また美術館員の方も市民ボランティアのようで、私は何人かの方と自然に会話を楽しみました。私はこんな感じ、好きです。
展示物で印象に残ったのは、いずれも常設のカプーアの部屋とタレルの部屋です。
カプーア(Anish Kapoor)の部屋は、「世界の起源」と名づけられていますが、映画『2001年宇宙の旅』と『2010年』に出てくる「形なきものを表す形としてのモノリス(monolith)」のようで、非常な深遠さを感じさせてくれます。一方、タレル(James Turrell)の部屋は、自然光を取り入れた本当にシンプルな部屋です。もし「天国」を想像しなければならないとしたら、私はこのような部屋を天国として想像します。私はこの部屋に15分程度ぼんやりと滞在しましたが、それは本当に心豊かな贅沢でした(時間が許せば、もっともっと滞在したかったです)。
そうしてなんだか心清められてミュージアム・ショップへ行ったら、深澤直人さんの『デザインの輪郭』(TOTO出版)に再び出会うことができました。この本には一度ある大型書店で出会ったのですが、その時は購入するまでには至りませんでした。ところが今回、手に取ったら、次の一節が表れてきました。

人間は、関係の美を育んできた。

礼儀とか、話し方とかにセンシティブであったことが
スムーズなインタラクションを生み出してきた。
それが破綻のない社会を生み出してきた。

今の問題は、精神論じゃない。
センサーの欠如なんです。
219ページ

私はその前日、実はあるところで話をしたのですが、この一節を読んで「あ、そうです。そういうことが言いたかったんです」と納得してしまいました。その他にも、

デザインは、破綻を修正することかもしれない。

デザイナーは語る必要はない。ものが語ればいい。

意味は発生するもので、ものにつけるものではない
147ページ

といったアフォリズムには深く魅せられました。
この本には、他にも、感覚と思考と行動におけることばの働きについて具体的に語った「張り」という文章や、「今、というときに発することで全体が動くことがある」という「デザイン体質」という文章、あるいは私に完全に欠けている資質の意味を静かに教えてくれる「オフィスの掃除」という文章(笑)などに顕著なように、深い思考と感性が息づいています。
私はこれを金沢からの帰りの車中で読みましたが、本当にいい本に出会えました。
私が言うとおそろしく陳腐になりますが、芸術とは市民生活にとっても日常生活にとっても必要不可欠なものだと思います。

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岡本太郎「誇らかなメッセージ “明日の神話”完成への道」展(広島市現代美術館) (2006/5/20)

今から約60年前に、どんな表現も追いつかない惨劇が広島を襲いました。しかしその地は戦後再生しました。----これを自ら中国で従軍もした岡本太郎は直感的に、しかし常人にはおよびもつかない感性で把握しました。
そうしてその後のメキシコとの縁などを通して作られたのが、この「明日への神話」(1969年)です。高さ5.5m×横30mの壁画は、たとえレプリカであっても圧倒的な存在感を持ちます。諸価値や善悪を超えた存在です。いや、そんな抽象的な言い方をしなくてもいい。遠くから一望した後、一歩一歩壁画中央の骸骨に近づき、自分の視界のすべてがこの壁画によって占められるとき、私は力を感じます。
私たちが日頃蓋をすることによって精神の均衡を保っているヒロシマの悲劇を、岡本太郎は戦後を生き抜いた日本人として、広島や日本の再生を視野に入れて、ある意味ニーチェ的ともいえるように大肯定します。その意味で、この作品はいわゆる「反戦芸術」ではなく、その殻を打ち破る「超反戦芸術」とも呼べるのかもしれません。
私がミュージアム・ショップで買った『歓喜』(二玄社)に、岡本太郎はこのように書いています。

生きる瞬間、瞬間に絶望がある。絶望は空しい。しかし絶望のない人生も空しいのだ。絶望は、存在を暗くおおうのか。誰でも絶望をマイナスに考える。だが、逆に猛烈なプラスに転換しなければならない。絶望こそ孤独のなかの、人間的祭りである。私は絶望を、新しい色で塗り、きりひらいて行く。絶望を彩ること、それが芸術だ。(3ページ)

あるいは岡本太郎の養女、岡本敏子は次のように言います。http://www.1101.com/asunoshinwa/asunoshinwa.html

『明日の神話』は原爆の炸裂する瞬間を描いた、
岡本太郎の最大、最高の傑作である。
猛烈な破壊力を持つ凶悪なきのこ雲はむくむくと増殖し、
その下で骸骨が燃えあがっている。悲惨な残酷な瞬間。
逃げまどう無辜の生きものたち。
虫も魚も動物も、わらわらと画面の外に逃げ出そうと、
健気に力をふりしぼっている。
第五福竜丸は何も知らずに、死の灰を浴びながら鮪を引っ張っている。
中心に燃えあがる骸骨の背後にも、シルエットになって、
亡者の行列が小さな炎を噴きあげながら無限に続いてゆく。
その上に更に襲いかかる凶々しい黒い雲。
悲劇の世界だ。
だがこれはいわゆる原爆図のように、ただ惨めな、
酷い、被害者の絵ではない。
燃えあがる骸骨の、何という美しさ、高貴さ。
巨大画面を圧してひろがる炎の舞の、優美とさえ言いたくなる鮮烈な赤。
にょきにょき増殖してゆくきのこ雲も、
末端の方は生まれたばかりの赤ちゃんだから、無邪気な顔で、
びっくりしたように下界を見つめている。
外に向かって激しく放射する構図。強烈な原色。
画面全体が哄笑している。悲劇に負けていない。
あの凶々しい破壊の力が炸裂した瞬間に、
それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがる。
タイトル『明日の神話』は象徴的だ。
その瞬間は、死と、破壊と、不毛だけをまき散らしたのではない。
残酷な悲劇を内包しながら、その瞬間、
誇らかに『明日の神話』が生まれるのだ。
岡本太郎はそう信じた。この絵は彼の痛切なメッセージだ。
絵でなければ表現できない、伝えられない、純一・透明な叫びだ。
この純粋さ。リリカルと言いたいほど切々と激しい。
二十一世紀は行方の見えない不安定な時代だ。
テロ、報復、果てしない殺戮、核拡散、ウィルスは不気味にひろがり、
地球は回復不能な破滅の道につき進んでいるように見える。
こういう時代に、この絵が発するメッセージは強く、鋭い。
負けないぞ。絵全体が高らかに哄笑し、誇り高く炸裂している。

「広島」の名を負う組織に働く私は、この岡本太郎のエネルギーをどう受けとめればいいのでしょうか。
用事の合間に無理して行った短い鑑賞でしたが、私の心には深く残るいい展覧会でした。

追記:
『明日の神話』再生プロジェクト」や、糸井重里さんと中沢新一さんの「『明日の神話』に会いにいく」Vol.1Vol.2をぜひご覧ください。糸井重里さんは、やっぱりいい仕事をしているなあ。TARO MONEY、私も申し込みました。
また、広島市現代美術館での展示は5/28までです。広島近辺の方はお急ぎください。

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伊藤有壱アニメーション展 I.TOON CAFE (2006/3/26)

午前中と夕方に広島市内で私用。というわけで3月24日は年休を取って、用事の間に久しぶりに広島現代美術館を訪れました。
やっていたのは伊藤有壱アニメーション展 I.TOON CAFE。ユーモアとセンスがいいですね。彼のアニメーションは実写よりもはるかにハッピーな世界を表現できます。たとえば花王のファミリー・キュキュットのCMの(クレイ)アニメーションなんて、どんな俳優にも出せない幸福感を表現しているとはいえないでしょうか。
でもそういったヴァーチャル・リアリティーのあまりの心地よさが、私には何だか怖いようにも時々思えます。
リアリティに触れることもなく、どんどんと快適なヴァーチャル・リアリティーにばかり接していたら、私たちは果たしてリアリティーの世界に帰る気を保てるのでしょうか。
そういえばミヒャエル・エンデの『はてしない物語』でも、ファンタジーの世界からの帰還がテーマの一つになっていたような・・・・(記憶は定かではありませんが)。
ポップアートの栄える日本。
どうかこのアートの力が現実世界に帰ってきますように。
アートが現実世界からの逃避世界になりませんように。
(あっ、でも私は伊藤有壱さんの作品は好きですから。念のため)


そして、未来へ----ヒロシマ賞受賞作家のまなざし (2005/5/16)

5月7日に広島現代美術館で、「そして、未来へ----ヒロシマ賞受賞作家のまなざし」(2005/4/16-6/26)を見ました。この日、実は目当ては新・公募展(2005/4/26-5/22)で、実際の街をアート空間として再発見する水内貴英さんの「水内測量社」のユーモアに笑ったり、施井泰平さんの自由律俳句(天下泰平プロジェクト http://www.taihei.org/)を楽しんだり、白黒コピーを使った現代の水墨画のような米倉大五郎さんの作品に驚いたりしておりましたが、続いて入った「そして、未来へ----ヒロシマ賞受賞作家のまなざし」には思わず圧倒されました。やはり戦争を扱った芸術作品の力を感じてしまいます。
もちろん私は、戦争を扱っているという理由だけで、芸術作品は特別に評価されるべきなどと言っているわけではありません。
しかし芸術作品が究極的には生の表現であり、戦争が生の最大否定の一つだとしたら、戦争というのは、否定的な意味で、芸術の大きなテーマの一つにならざるを得ないでしょう。ナンシー・スペロ(Nancy Spero)とレオン・ゴラブ(Leon Golub)、クシュシトフ・ウディチコ(Krzysztof Wodiczko)などはその感性を持って戦争を見てしまった芸術家として表現をしようとしているように思えます。この三人の作品にはやはり立ち止まらされました。
原爆ドームの水際に手の映像を映し出し、被爆者の声を語らせたクシュシトフ・ウディチコはこう言います。

To the Citizen of Hiroshima
Art makes us aware of our humanity and alerts us against the mortal danger of being inhuman.
Awakening sensiblity, unveiling the complex sense of human condition, inspiriing response-ability for ourselves and others, disseminating ethical obligation, and the urgency to act are some of the most important art of today. ... Artists equipped with imagination, talent and skills can depict what seems un-representable, speak the unspeakable, help to turn private silence into public testimony (even in post-traumatic cases) and make visible what is hidden (even radiation). Artists can imagine and give warning to what is seemingly improbable (even potential nuclear world disaster). Artists can imagine peace. (Yoko Ono)
Krzysztof Wodiczko

芸術家はその性質上、戦争の現実を知ってしまったら、それについて表現せざるをえないものなのかもしれません。かといって芸術活動を、政治活動と同じものと考えれば、その芸術家は政治家の嘲笑をあびるだけでしょう。芸術活動だけで戦争が終わることはありません。政治はそんなに純粋で単純なものではありません。戦争に関する芸術作品を、政治的に利用することには慎重かつ賢明でなければなりません。
しかし、もし芸術活動をまったく理解しない政治家がいるとするならば、彼/彼女らこそは芸術家の、そして芸術を愛する市民の軽蔑に値するといえるでしょう。生を扱う芸術の力を感じることができない人に、まともな感性があるとも思いがたいですから。
人類から戦争がなくならない限り、戦争を扱った芸術作品は作られ続けるでしょう。政治活動としてではなく、芸術活動として。
私自身のことを語れば、私はかつて原爆ドームから歩いて10分足らずのところに数年間住んでおりましたが、かえってその近さゆえに戦争について考えることを回避してしまっていたような気がします。戦争に対する感性が磨耗してしまっていたのでしょう。この展覧会はそんな私の感性を深いところで揺り動かしてくれました。
こうしてみるとヒロシマ賞の作品展示を最も必要としているのは、世界のどこの市民よりも広島市民なのかもしれません。

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草間彌生展(2005/5/1)

2005年4月9日に広島現代美術館草間彌生(くさま・やよい)展を見に行きました。
とはいっても、別に楽しみにして行ったわけでもなく、ただ土曜の夜にコンサートがあるので、どうせ広島市にまで出かけるのなら、とただ寄っただけでした。ポスターなどからは、「ポップ・アートの人か。まあ、いいや」といった印象だけを受け取っていました。
ところがよかった。見るうちにどんどん引き込まれて、一部の作品は何度も見直し(というより体験しなおし)、図書コーナーでは図録を読み、さらにはその図録を買い求め、こうしてその展覧会から一ヶ月近くたった後でも、この体験を文章にして自分のものにすることが、自分の人生・生命にとって重要なことであるような気がしています。
私がもっとも感銘を受けたのは、無限の空間を感じさせる作品群でした。日頃決まりきった空間の中でしか暮らさないことによって失いかけている無限の空間感覚を味あわせてくれる作品には魅了されました。
その感覚は、二次元芸術である絵画作品でも十分に感じられました。この「無限の網」シリーズは、ニューヨークの美術界で最初に評価された作品群らしいのですが、単純な色合いが、巨大なキャンパス上で微妙に変化し、それが網目の立体的表現と重なって、見るものに飽きさせない喜びを与えてくれます。私は美術に暗いので、このような作品を抽象表現主義の内に含めて良いのかどうかわからないのですが、私は抽象表現主義の作品には昔から魅了されてきました。草間さんの作品はそれに無限という新しい魅力を与えてくれているようでした。
三次元作品である「ミラールームの部屋」(去ってゆく冬)や「暗い部屋」(水上の蛍)(天国への梯子)は、合わせ鏡を使って、私たちを無限空間に投げ込んでくれます。蛍光シールを使った「I'm here, but nothing」は日常空間を星空に変えたようでした。
太古の人々はこのような無限空間感覚を大自然の中で常に感じていたのでしょう。そこから畏敬や神秘の感覚も生じてきたのかもしれません。
図録を読むと、彼女のこのような言葉が目にとまりました。

私は死んでもなお且つもっと深くもっと広々とはばたき、今よりも一層、大きい力をたくわえて、宇宙の果てまでものびていきたい。(中略)永遠の現在の中で、くめどもつきることのないあこがれ。私の人生の中での絶えることのない自殺への願望を、いつも救いあげてくれたかけがえのない生命力。
そして芸術によってすくわれた私の、すべてを内包する「愛はとこしえ」に対する万物へのメッセージ。それらは、すべての社会や、宇宙を。人間の存在。そして増殖。空虚。無限。反復。連続。世界の人類の平和。生命への讃歌。その他、さまざまの私の芸術のテーマにとりくんできた。

図録の解説をさらに読みますと、彼女の作品は、彼女の性向と深く関わってもいるようでした。まさに彼女にとって芸術は救いであり、それは彼女だけでなく、程度の差こそあれ、私たちも救ってくれているのでしょう。
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