<以下は、JLTA Journal (2008) No. 11. pp. 77-95に掲載された私の同名論文の元になった原稿です>

2007/10/28 11:40-12:20
日本言語テスト学会 口頭発表資料
(愛知学院大学)

言語コミュニケーション力の三次元的理解

柳瀬陽介(広島大学)



1 序論 言語コミュニケーション力の理解とは何か

序論では「言語コミュニケーション力」の理解がなぜ重要であるかを述べ、これまでの学術的な議論を踏まえて、この研究が解明する論点(研究の目的)とその解明をする際に採択するアプローチを述べる。

1.1 背景

 第二言語教育の目的の一つに、「言語コミュニケーション力」(communicative language ability)(注1)が含まれることは異論のないところであろうが、その概念が何を示すのかについての合意は必ずしも明快であるとは言えない。ことに日本の学習指導要領の「実践的コミュニケーション能力」の説明は、簡易過ぎる叙述であり、英語教育関係者の指針としては、より本格的なものが求められる。目的概念がはっきりしないところで、合理的な第二言語教育が遂行できるとは考え難い。「言語コミュニケーション力」についての理論的理解を深めることは第二言語教育の実践のためにも重要なことである。このような概念のreviewとしては、Canale and Swain (1980), Taylor (1988), Lyons (1996), McNamara (1996)などがあるが、それらおよび原著論文の論考を整理したのが柳瀬(2006)である。柳瀬(2006)では、Bachman (1990), Bachman and Palmer (1996)を修正する形で「言語コミュニケーション力」の概念化を図ったが、本研究では、Bachmanから大幅に離れ、全体構造において単純明快で、部分において詳細に分化可能な概念としてこの「言語コミュニケーション力」の解明を試みる。なお、この論文は、日本語を主要使用言語とする読者を想定し、柳瀬(2004)で明らかにした用語の翻訳方針に基づいて日本語の用語を使用して「言語コミュニケーション力」の解明を目指してゆく。

1.2 アプローチ

 言語コミュニケーション力解明のためのアプローチには様々なものがあるが、ここでは本研究は、理論的、哲学的なアプローチを取り、かつ言語とコミュニケーションの「両極」(後述)のどちらにも偏らないアプローチを取ることを説明する。

1.2.1 記述的アプローチと理論的アプローチ

 言語コミュニケーション力へのアプローチには、従来、記述的アプローチと理論的アプローチがあり、現在、それらは相互補完的に使われている。記述的アプローチとしては、ACTFL (American Council of the Teaching of Foreign Language)やCEFR (Common European Framework of Reference for Languages)などが代表的である(注2)。これらは言語コミュニケーション力を、具体的な言語行動で段階的に記述するものであり、特に仕事場面での言語行動に焦点が置かれた場合、 'work sample approach'とも呼ばれる(McNamara 1996)。しかしこの具体的記述は、教育場面や教育評価の点では親切なものになれども、第二言語教育の全体像を見通そうとする際には、逆に詳細さが理解の障害ともなりかねない。第二言語教育を長期的、抽象的に理解しようとすれば、理論的アプローチの方が適しているだろう。理論的アプローチに関してはCanale and Swain (1980)以来、さまざまな発展を遂げ、現時点ではBachman (1990), Bachman and Palmer (1996)が標準的な理解とされている。(注3)
 しかしBachmanらの理論には、(1)言語知識と世界知識を統合する役割を持つとされる方略的能力 (strategic competence)の説明が明快ではない(Yanase 2001, 柳瀬2006)、(2) 外国語学習においては重要な概念であると考えられるBachman (1990)の心身協調メカニズム(psychophysiological mechanisms)がBachman and Palmer (1996)では一言の説明もなく削除されている、(3)相互作用(interaction)に関する考察が不十分である(McNamara 1996)などの問題点がある。本論文は、第二言語教育に関する見通しを得る理論的アプローチを取りながら、これらの問題点を少しでも克服し、より深い言語コミュニケーション力の理解を目指す。

1.2.2 実証主義的アプローチと哲学的アプローチ

 テスティングの研究では、構成概念(construct)、操作的定義(operational definition)、測定(measurement)の中では、測定(およびそれ以降の統計分析)についての研究が最も多く行われているように思える。測定により明らかになった「事実」によって「検証」される命題だけが「科学的」であるとする実証主義(positivism)の伝統からすれば、この傾向は歓迎されるべきであろう。しかし、測定の本来の考え方からするなら、あくまでも構成概念の設定こそが第一課題であり、操作的定義および測定は、第二番目、第三番目にくる課題である。測定しやすい操作的定義をもって構成概念を決定するというのは転倒した考え方である。その意味で、実証主義は、構成概念に関する理念的な考察、つまりは哲学によって補完されなければならない。そもそも言語コミュニケーション力といった大きな概念は、自然科学になじまないというのはChomsky (2000)も指摘する通りである。私たちはこのような概念の全体像を得ようとする場合には、Wittgenstein (1953)が言うように、自然科学の「誘惑に抗して」、私たちが既に暗黙裡に知っていることを「思い起こす」ことにより「展望を得る」ことを目指すべきであろう(Yanase 2002)。したがってこの論文では、あくまでも哲学的論考として、言語コミュニケーション力の全体像の見通しを得ることを最優先課題として議論を進めることとする。

1.2.3 言語からのアプローチとコミュニケーションからのアプローチ

 言語コミュニケーション力論は、Chomsky (1965)以来、基本的に言語学の延長(応用言語学)として議論されている。言語学的発想が最も強いChomskyからするなら、他者とコミュニケーションするということは、言語知識の解明という言語学の第一課題(Chomsky 1986, 1989)から、文法的な言語使用という言語学の第二課題、さらには狭義の言語学(統語論)を超える社会文化的に適切な言語使用を超えたところにある現象であり、これは「何でも学」(a study of everything)とでも揶揄されるべき不可思議な事態となる(Chomsky 2000)。これは言語という極から論考を始める場合には、どうしても生じてしまう帰結であり、言語コミュニケーション力論を、言語学的発想のみから考察することはこのような偏りを伴うこととなってしまう。
 この偏りを補うためには、言語の極からでなく、コミュニケーションの極から論考を始める発想も同時に持つことが必要である(注4)。ここで注目に値するのはDavidson (1985, 2001a, 2001b, 2005)である。彼は師匠のQuineの発想を受け継ぎ、言語を共有しない者同士がコミュニケーションを成立させることがあるという事実から「根元的解釈」 'radical interpretation'や 「即時理論」'passing theory'などといった概念設定を経て、コミュニケーションの極からの考察を行った(柳瀬 2001, 2002)。その結果、従来の言語学者、言語哲学者の想定する「言語」は存在しない(Davidson 1985、森本 2004)といった極端な主張も出てしまったが(Chomsky 2000)、言語が全面的に、あるいは部分的に欠損した状態でも、人間はお互いにコミュニケーションを成立させることができるという考察は、事の性質上、言語学者(およびその影響下にある応用言語学者)にはなしえることではなかったと言えよう。本論文では、上述したBachmanの問題点((1)-(3))に加えて、(4)言語の極(言語学)からの発想だけしか持ちえていない、という従来の言語コミュニケーション力論の問題点をも克服する論考を目指すこととする。

1.3 目的

 上記に述べた背景とアプローチに関するまとめから、本論文の目的が明らかになる。本論文は、理論的・哲学的アプローチを取ることによって、(1)言語の知識がコミュニケーションに使われる際の過程をより理論的に明確にし(Bachmanの「方略的能力」の問題点の克服)、(2)言語コミュニケーションにおける身体の働きを明示し(Bachmanの「心身協調システム」の発展)、(3)言語コミュニケーションの相互作用性を少しでも明らかにし(Bachmanおよびそれ以前の個人心理学(individual psychology )的発想(Chomsky 1986)の克服)、(4)言語の極とコミュニケーションの極からの発想の両方を併存させる(言語コミュニケーション論の言語学的偏向の克服)、言語コミュニケーション力論を展開することである。また、この論考は哲学的であるために、(5)全体像の見通しを得る整合的な論考を目指す。
 主に、(1)と(3)は、「読心力」(mind reading ability)の設定、(2)は「身体力」(physical ability)、(4)と(5)は言語コミュニケーション力を、「読心力」、「身体力」、「言語力」(linguistic ability)の三次元空間での合成ベクトルとして理解することによって達成することを試みる。
 この論考には、言語コミュニケーション力論が、理論的に一層発展する理論的意義と、(第二)言語教育が抽象的理解を得て、長期的な展望を得ることができる実践的意義が期待される。


2 三次元的理解

 ここでは言語コミュニケーション力を、読心力、身体力、言語力の三つの次元からなる合成ベクトルとみなす理解を示し、それぞれの力について説明する。これら三つの力が三つの次元として表現されるにふさわしい独立性を持ち合わせていることに関しては次節(3)で論じる。

2.1 全体構造

 言語コミュニケーション力(communicative language ability)は、読心力(mindreading ability)、身体力(physical ability)、言語力(linguistic )の三次元空間の中での合力として表現できる(図1)。読心力がX軸、身体力がZ軸、言語力がY軸である。


図1: 言語コミュニケーション力の三次元的構造

 以下、三つの力について順に説明する。

2.2 読心力

 従来の言語コミュニケーション力論では、明示的に扱われてこなかった「読心力」(mindreading ability)概念の導入は、Davidson(1985, 2001a)やSperber and Wilson(1986/1995、2002)が明らかに述べたように、コミュニケーションは時に言語不在のまま成立する事実から要請される。例外的とはいえ、言語が不在のままコミュニケーションが成立するということは、私たちは、言語力(linguistic ability)以外の力(ability)を、コミュニケーションにおいて重要な力として設定しなければならないことを意味する。本研究では、その力を、以下に述べるような理論的根拠から「読心力」(mindreading ability)とする。なお、 "mindreading ability"という用語は、Mind and Languageの2002年度(第17巻)が、第1号から第4号までの紙面をすべて使ってこの概念についての特集を組んだことや、 Nichols and Stich (2003)などの著書などからしても、認知科学では十分に定着した用語であり概念であると考えられる。万が一の誤解を避けるために述べるなら、この力は認知科学や私たちの議論では、テレパシーなどの超自然的な力としては考えられていない。なお、この読心力をミラー・ニューロン(mirror neuron)などの神経科学の見地から進められている研究も多くあるが、本研究では全体像を得ることを優先するため哲学的アプローチに限ることとする。ここでは「読心力」の理論的根拠として、「心の理論」と「関連性理論」を援用することにする。

2.2.1 心の理論

 「読心力」とは、簡単に定義するなら、相手の心の状態を、比較的正確に推測できる力であるが、この概念は、「心の理論」(Theory of Mind, ToM)で集中的に研究された。「心の理論」概念は、チンパンジー研究(Permack and Woodruff 1978)を嚆矢とするとされ、動物・人間(子ども・大人)にまたがる知性の概念である。
 心の理論においては、知性体(典型的には人間)が、自分が知っている事柄を知らない他者がどのように考えるかについて、比較的正しく予測できるならば、その知性体には心の理論があると考えられている。「理論」(theory)という言葉が用いられるのは、他人の心の状態および思考が、少なくとも直接には観察できないものであり、かつこの心の働きが、特定文脈だけによるものではなく、さまざまな文脈でも働きうることからきている(注5)。
この心の理論の有無は、典型的には「誤信念課題」(false-belief task)の結果で推定される。誤信念課題の一つは「サリーとアン課題」('Sally-Anne' task)である。被験者は、サリーとアンという登場人物を紹介される。サリーとアンは、共にボールをかごの中に入れるのだが、その後、サリーが部屋から出てしまった時に、案はボールを別の箱に入れてしまう。しばらくしてサリーが部屋に戻ってくるのだが、その時にサリーはどこでボールを見つけようとするか、というのがこの課題の問いである。もちろん成人は、「アンは『サリーはボールがまだかごの中にあるという誤った信念をもっている』ということを知っている」ということを理解しているので、サリーはかごの中にボールがあるだろうと思っており、まずかごの中を見ようとするということを正しく推測する。しかし、三、四歳以下の幼児は、「自分が知っていることは、他人も知っているはずだ」という「自己中心性」ゆえに(注6)、サリーもボールは別の箱の中にあると思っていると考える(「だって、ボールは箱の中にあるじゃない」といったことであろう)。だが、通常、幼児は、三、四歳を過ぎると、次第に、他人には自分と違う心があり、他人はその心でもって思考し・行動するということを学び始め、他人の思考や行動をだんだんと正しく読み取れるようになる(しかし成人とて、常に完璧に他人の心を読み取っているのではないことは周知のことである)。このように成人は、通常、心の理論に基づき、生活を送る。
 だが、自閉症(autism)と診断される人は、この誤信念課題に失敗し、「共有注意」(注7)においても適切な行動ができないことから、自閉症者は心の理論の発達が遅れていることを指摘したのはロバート=コーエンらであった(ロバート=コーエン 2000)。ここで言語コミュニケーション力論の点から注目すべきなのは、自閉症者の発話の特徴である。自閉症の中でも、特にアスペルガー症候群(Asperger syndrome)(または高機能自閉症)とされる人(注8)は、主に語用論的な言語使用に障害を持ち、他人との会話をすることや、話のつながり(cohesion)を他人に示す言語使用が非常に困難であるが、個人的な言語使用(例えば専門知識について語り続けること)はむしろ得意とすることが多い。それに対して、統語と発音は通常の人とほとんど変わらないとされている(注9)(Barnhill, 2001, p. 259)。つまりアスペルガー症候群者の言語能力は、統語と音韻(音声)において正常であり、チョムスキー的な言語観からするなら取り立てて問題はないことになる。しかしその正しい発音と文法の発話も、他人には理解しがたいものであり、言語コミュニケーションにおいて障害を示している。このことは、言語コミュニケーションは、(少なくとも狭義の)言語力に加えて、心の理論、さらに敷衍していうなら、相手の心を読む力(読心力、mindreading ability)が必要であることを示している。言語力だけでは言語コミュニケーションに成功するとは限らず、人には読心力を必要としている。
 

2.2.2 関連性理論

「心の理論」は、人間が幼児期から、自らの心とは違う他人の心について思考することを学んでいることを強く示唆するものであるが、これは一般理論に過ぎず、言語使用に多くを依拠する通常の言語コミュニケーションにおいては、「心の理論」の中でも、特に言語発話のために使われるサブ・モジュールを想定することが必要であり、それは関連性理論(Relevance Theory)に基づいた働きをするものであるとSperber and Wilson (2002, pp. 20-21)は主張する。柳瀬(2006)においても、関連性理論は、Bachmanの方略的能力の説明理論として有効なものだという主張がなされている。ここでは関連性理論(Sperber and Wilson 1986/1995, 2002; Wilson and Sperber 2006)(注10)を簡単に整理し、その後の議論の礎石とする。
 関連性(relevance)とは、「新たな外的刺激(注11)を内的に処理する労力と、その処理によって得られる独自の新たな情報あるいは考えの便益の間のバランス」と定義できるが、その関連性理論の最も簡単な説明の仕方は、関連性理論二つの原理を述べることであろう。
第一の原理は、「関連性の認知原理」(The First, or Cognitive, Principle of Relevance)と呼ばれる。この意味することは、「人間の認知は、関連性を最大化するように作られている」("Human cognition is geared to the maximization of relevance.")(Sperber and Wilson 2002, p. 14) ということである。つまり、言語発話を理解する際に、一方で、言語発話からより多くの認知的便益を得られればそれだけ関連性は高いが、他方、言語発話の理解のための処理により多くの労力(effort)が必要となれば関連性は低くなる。この労力と便益(benefit)(注12)のバランスが最もよくなるようにすること(=関連性を最大化すること)が、人間の認知システムの働きに見られる原理である。
第二の原理は、「関連性のコミュニケーション的原理」(The Second, or Communicative, Principle of Relevance)と呼ばれ、「すべての発話(注14)は、それが関連性のあるものであると仮定してよいことを伝える」("Every utterance conveys a presumption of its own relevance.")ことを意味する。つまりコミュニケーションによって成立している人間社会の成員による意図的(顕示的)な発話なら、およそ例外的な状況を除く限り、その発話は、発話の理解者に関連性をもたらすものだと仮定してかまわない、というのが、コミュニケーションの原理であるということである。この原理の正しさは、この原理がない社会(嘘やナンセンスが、誠実な発話と同じぐらいに、あるいはそれ以上に、表面上は誠実に語られる社会)では、コミュニケーションを続ける動機が失われてしまうことが容易に想像できることからも推定できるであろう。
このコミュニケーションにおける関連性の仮定(presumption of relevance)は、別の箇所では次のようにも定義されているが、ここでは、関連性は、話者の能力や好みに適う限りで仮定できるものであることに特に注目したい。

発話は、話し手の能力や好みに適う限りで最も関連性の高いもの、少なくとも聞き手が注意を払う価値がある程度には関連性が高いもの、であることが仮定される。
"The utterance is presumed to be the most relevant one compatible with the speaker's abilities and preferences, and at least relevant enough to be worth the hearer's attention." (Sperber and Wilson, 1986/1995, pp. 266-78. Emphasis added).

これは、話し手が言語コミュニケーション力を上げるにつれ、あるいは聞き手の好み(聞きたいこと、聞きたい順序、背景知識)に自分の話を合わせるにつれ、関連性は上がることを意味する。卑近な例をあげるならば、それ自体は正しい文法と発音をもつ多くの文を費やして、あまりにも少しのことしかコミュニケートできない者もいれば、わずかの文で多くのことを見事にコミュニケートできる者もいる。この力の差は、両者の発話の言語的正確さ(accuracy)や流暢さ(fluency)では説明できない。というのも両者の発話は、正確さにおいて同じであり、流暢さにおいては、むしろコミュニケーションが下手な者の方が勝ることになるからである。この力の差は言語力でなく、関連性を生み出す読心力に求められるべきであろう。
言語力の、少なくともChomsky (1986)が言う「言語の知識」(knowledge of language)は、彼の言うように、比較的不変(constant)のものと考えていいであろう(後述するように、Chomskyの「言語の知識」は、文構成の基本原理である統語的な側面を意味する用語である)。言語獲得が基本的にできたと想定される人間ならば、大人でも子どもでも、教養ある者もそうでない者でも、「言語の知識」においては大きな違いはない。しかし私たちは日々の生活で、うまく言語を使う話者(関連性の高い発話ができる者)と、言葉数が多いだけで要領を得ない話者(関連性の低い発話しかできない者)には歴然とした差があることを知っている。この差は、「言語の知識」でなく、読心力(特に関連性につながる読心力)の差として考えられるべきであろう。言語コミュニケーション力の理解においては、言語力概念とは別の読心力概念の設定が必要である。この読心力の向上によって、人は、言語力が変わらないままでも、言語コミュニケーション力を向上させることができる。
 読心力とは受動的な力であり、関連性理論も、基本的には理解に関する議論であり、発話の産出の説明にはならないという反論もあるかもしれないが、それは浅薄な見解といえるであろう。なぜなら、発話とは、相手に理解されることを目指して構成されるものであり、その意味で、理解の理論は、産出の基礎理論と言えるからである。そもそも、言語発話を話し手中心ではなく、聞き手中心に考えるという発想の転換が、言語コミュニケーション力の理解には必要である。言語コミュニケーションとは、繰り返しになるが、言語をいかに正しく速く発話するかという問題ではなく、いかに言語を通じて、相手にさほどの苦労をかけずに、多くを理解してもらうかという問題だからである。
 これまでの読心力に関する議論をまとめてみよう。コミュニケーションにおける読心力とは、コミュニケーションの相手の心を予期し、相手の意図をうまく推測することである。言語コミュニケーションにおける読心力は、産出と理解それぞれにさらに具体的に定義できる。話すことと書くことにおける読心力とは、聞き手・読み手の心を予期し、言葉を、話し手・書き手が並べたいように並べるのではなく、聞き手・読み手が並べてもらいたいように並べることである。聞くことと読むことにおける読心力とは、話し手と書き手の心を予期し、言葉を、聞き手・読み手が理解したいように理解するのではなく、話し手・書き手が理解してもらいたいと願うように理解することである。言語コミュニケーションにおいては、言語力は非常に重要な要因ではあるガ、コミュニケーションの成功は言語力だけでもたらせるのではなく、読心力によってももたらされる。アスペルガー症候群者の「心の理論」の欠如に示されるように、言語力と読心力は、原理的には独立したものであると考えられるが、言語コミュニケーションにおいては、言語力と読心力は、関連性理論が説明するように、密接に連動しているのが常態である。


2.3 身体力

 言語コミュニケーションにおける身体の働きは無視できない。言語発話は身体を通じて行われるし、読心も、例外的状況を除いては、視覚入力を中心とした身体を通じて引き起こされるからである。ここでは身体の働きを「身体力」(physical ability)とし、それをさらに「言語的身体力」(linguistic physical ability)と「非言語的身体力」(non-linguistic physical ability)に分けて整理する。

2.3.1 言語的身体力

 言語は、典型的には口・耳・眼・手といった入出力器官を通じて使用される。特定言語でのコミュニケーションに適うように、口を慣らすこと(構音)、耳を慣らすこと(音声認識)、目を慣らすこと(単語認知)、手を動かすこと(スペリング)は、容易なことではない。外国語学習者が、発音訓練や、ディクテーションや、文字の音声化・速読などに苦労することは周知のことである。自らの身体を、自らの心の動きと協調させて動かすことができる力は、「言語的身体力」(linguistic physical ability)といった用語で明示的に認識されるべきであろう。Bachman (1990) はこれに相当する働きを「心身協調メカニズム」(psychophysiological mechanisms)として明示的に理論的に認識していたが、Bachman and Palmer (1996)では、この概念は、一言の説明もなく消えてしまっている。上述のように、外国語学習者が身体を言語に合わせるために費やす労力と時間(注15)を考えるならば、この概念はわれわれの考察から捨て去るわけにはいけない。

2.3.2 非言語的身体力

 言語コミュニケーションにおける身体の働きは、言語を構成する口・手、あるいは言語を取り込む耳・口だけに限らない。言語を周りから支える「パラ言語」(paralanguage)、特に音声的な「プロソディ」 (prosody: rhythm, intonation, loudness, pitch, lexical stress, syllable length, tone of voice, etc)、言語ではないが、言語コミュニケーションにしばしばともなう「身ぶり」(kinesics; body language: facial expressions, gestures, etc)、「心の理論」でも重要視されている「アイコンタクト」(eye contact; oculesics)、あるいは語用論的な側面を支える「指標的行動」(indexical behavior)などは、大きく、非言語的身体力(non-linguistic physical ability)の働きとしてまとめられる。
 言語コミュニケーションにおけるこの非言語的身体力の影響の強さは日常生活では強く認識されている。私たちはしばしば声の調子だけから、話者の心を読み取れたりする(映像が伴うとはいえ、まったく理解できない外国語の映画の音声でも私たちは何かを理解するように感じる)。身ぶり、特に顔の表情は、コミュニケーションを大きく促進もするし、抑制もする。アイコンタクトは、教育場面では、教師と学習者との良好なアイコンタクトの成立が学びの成功の兆候である(Robbins 2001, Worley et al. 2007) ことは多くの教師が日々感じていることでもあろう。またサッカーでもしばしばアイコンタクトによってプレーヤーは相互に複雑なチームプレーを成功させるとも言われている。単なる指さしから、板書やパワーポイントプレゼンテーションに至るまで、物理世界を参照させることで言語理解を助けることは私たちの言語コミュニケーションにおいてしばしばみられることである。これらの非言語的身体力の向上は、私たちの言語コミュニケーション力を上げる。
 だが、この非言語的身体力の研究はまだまだ遅れているのが現状であろう。そういった状況では、内田・名越(2005)、内田・平尾(2007)のような、直観的ではあるかもしれないが深い洞察を含む論が、これからの研究の指針の一つとして非常に有効である。内田は名越との対談で、「音」を出来るだけ「声」として拾い上げることの重要性を説く。

コミュニケーションの現場では、理解できたりできなかったり、いろんな音が聞こえてくるはずなんです。それを「ノイズ」として切り捨てるか、「声」として拾い上げるかは聞き手が決めることです。そのとき、できるだけ可聴音域を広げて、拾える言葉の数を増やしていく人がコミュニケーション能力を育てていける人だと思うんです。
 もちろん、拾う言葉の数が増えると、メッセージの意味は複雑になるから、それを理解するためのフレームワークは絶えずヴァージョン・アップしていかないと追いつかない。それはすごく手間のかかる仕事ですよね。そのとき、「もう少しで『声』として聞こえるようになるかもしれないノイズ」をあえて引き受けるか、面倒だからそんなものは切り捨てるかで、その人のそれから後のコミュニケーション能力が決定的に違ってしまうような気がする。 内田・名越(2005: 48)

 さらに内田・平尾(2007)は、直観的な仮説として、イギリスの支配階級になる子どもたちが習得すべきものとして、パブリックスクールで必修化されていたボート、サッカー、クリケット、ラグビー、ポロなどのスポーツは、お互いに「自分の身体感覚とか自分のイメージを、自分のまわりの人間に一瞬のうちに送って、それを共有させる力」(内田・平尾 2007, p. 20)を育てるものではなかったのかと述べる。非言語的な身体の働きによって、私たちが多くを理解することは、私たちが言語を使わない動物から進化した生物であることを考えると荒唐無稽な考えではない。私たちは非言語的身体力に関してはさらに深く理解する必要がある。
 以上、言語的身体力および非言語的身体力にとりあえず分けて考えた身体力は、言語コミュニケーションにおいて無視できない働きをもっている。非言語的身体の動きはもとより、言語的身体の動きも、一切の言語的理解や心的理解も伴わずに、機械的に訓練できるものであることを考えると、身体力は、少なくとも原理的には、言語力とも読心力とも独立した力として想定することが可能である。私たちは身体力を、言語コミュニケーション力の三要因の一つとして考えることにする。


2.4 言語力

 読心力、身体力とならぶ言語コミュニケーション力の三要因の一つは言語力(linguistic ability)である。言語力についてはすでに言語学および応用言語学多くが語られているので、本論文では詳述は避けるが、ここでは言語の「知識」(knowledge)が、少なくとも二つの異なる意味で使われていることを指摘し、それぞれを言語力の下位要素として考えることとする。「知識」の一つは、応用言語学で例えばBachman and Palmer (1996)が「言語知識」(language knowledge)と言う時に意味されている「言語慣用」(conventions or usage)であり、もう一つは、言語学でChomsky (1986)が「言語の知識」(knowledge of language)と言う時に意味されている「言語能力」(competence)である。

2.4.1 言語慣用

 言語コミュニケーション力論は、応用言語学の世界ではCanale and Swain (1980)より開始されたと言っても過言ではないが、その論考では言語能力(competence)という用語が、社会言語学的(Sociolinguistic)な意味合いでもコミュニケーション方略(communication strategies)の意味合いでも拡張して使われていた(注16)が、言語の「知識」は、Chomskyのいう暗黙的(implicit)な言語能力(competence)とも、言語教育で従来言われてきたような明言的(explicit)な知識であるとも決定できないという曖昧なスタンスが取られていた。しかしその論考とほとんど同じと著者が主張するCanale (1983)においては、言語の知識は、Chomsky的意味合いから全く離れた伝統的な意味合いだけになり(柳瀬 2006)ながらも"competence"という用語が拡張的に使われ続け、後年Taylor(1988)により、応用言語学では "competence"という用語が乱用(abuse)されていると酷評されることにもなった。Bachman (1990)では、Canale and Swain (1980)、Canale (1983)に倣って、"competence"という用語が拡張的に多用されたままであったが、Bachman and Palmer (1996)においては、 "strategic competence"という用語は残るものの、他の要素においては、すべて "competence"という用語は "knowledge"に置き換えられ、従来の "language competence"も "language knowledge" (Yanase 2001)と呼び変えられ、Chomsky的な意味合いはほとんどなくなるにいたった。
 この"language knowledge"としての「言語知識」はBachman and Palmer (1996)によるなら、「文法的知識」(grammatical knowledge)、「テクスト的知識」(textual knowledge)、「社会言語学的知識」(sociolinguistic knowledge)、「機能的知識」(functional knowledge)という広範囲のものであり、「文法的知識」と「テクスト的知識」は「構成的知識」(organizational knowledge)、「社会言語学的知識」と「機能的知識」は「語用論的知識」(pragmatic knowledge)という上位概念にまとめられている。
ここで注目すべきは、これらの「言語知識」はあくまでも静的なものであり、当該言語共同体で共有されているとされる慣習(conventions)あるいは慣用(usage)であることである。あくまでも典型的・範型的に使われているパターンの集合に過ぎない。これは、無限の(文法)文を理解し産出できる言語の創造性を持つChomskyの言語能力(competence)という意味での動的な「言語の知識」(knowledge of language)とは峻別されるべきである。
しかし「言語知識」(language knowledge)と「言語の知識」(knowledge of language)はいかにも紛らわしい。よって本論文では、Bachman and Palmer (1996)の「言語知識」の四要素を、それぞれ「文法的慣用」(grammatical usage)、「テクスト的慣用」(textual usage)、「社会言語学的慣用」(sociolinguistic usage)、「機能的慣用」(functional usage)と呼ぶことにする。「慣用」(usage)という用語で、これらの知識が、典型的・範型的なパターンであり、これらは言語発話の一種のテンプレートであり、これをこのまま使うこと、あるいは一部を多少変化させて使うことが想定されている。俗な言葉でいうなら一種の「決まり文句」「役に立つ表現」である。これら文法的慣用、テクスト的慣用、社会言語学的慣用、機能的慣用を、ここでは「言語慣用」(linguistic usage)と総称することにする。

2.4.2 言語能力

言語慣用が、定型的なパターンである以上、決まり文句だけを知っている外国語学習者の言語発話の苦労からも推測されるように、彼/彼女は少なくとも、(1)言語慣用の知識(の断片)をつなぎ合わせて、自由に新たな文法文を産出もできるし、また他者のそのような発話も理解できなければならない。(2) ただ文法文を産出し理解できるだけでなく、その産出と理解を、コミュニケーションの状況に適ったものとしなければならない、という課題を持つ。(1) の課題は、言語慣用に加えて「言語能力」 (competence) を設定することで、 (2) の課題は、言語慣用と言語能力が統合された言語力が、読心力(および身体力)と連動することによって解決されると私たちは考える。
まず(1)の新たな文法文の産出と理解であるが、これはやはりChomsky (1965)以来の古典的な概念である「言語能力」(competence)概念を設定するべきであろう。典型的には第一言語話者によってほとんど意識されることなく獲得される暗黙的な言語能力は人間の生得的な知識に基づくものであり、Chomskyが17世紀の哲学者Lord Herbert の言葉を引用して語るように、そういった「生得的な観念や原理は、まわりに対象物[=言語]がまったくなかったとしたら潜在したままであろうし消え去ってしまうかもしれないものだが、その[言語の]生得的な観念や原理は、[言語使用の]経験から生じるものではなく、それなくしては[言語使用の]経験そのものが成立できなくなるもの」(Chomsky 1965 p. 49) である。この意味での「言語能力」は、あり得ないほどに極端な経験主義(「心は全くの白紙!」)を信奉でもしない限りは否定的できない科学的見解である。無論、第二言語獲得においては条件が第一言語獲得とは異なるので、言語能力あるいは言語獲得装置(Language Acquisition Device)は、働くのか働かないのかといった議論は、霊長類には言語能力が有るのか無いのか、といった議論と同様に二律背反的に考察されることも多い。だが、ジャッケンドフ(2006)が次に述べるように、第一言語と第二言語が、あるいは人間の言語と霊長類の「言語」が、全く同じとか、全く同じであり得ないといった両極端な見解は、言語あるいは言語能力を分解できない一枚岩のものとして考えることから生じているのであり、言語の複雑さを現代の言語学が次々に明らかにするにつれ、第二言語獲得は第一言語獲得とは全く異なるといった極論は受け入れ難くなっている。

文献上では、第二言語獲得について、大人の学習者が普遍文法を使用しているかどうかという議論がかなりある。この議論は、問題の設定が間違っているために、結論が出なかったのだと思う。すなわち、普遍文法を分解できない「文法箱」と考え、それをもつかもたないかというふうに考えているからだ。前に述べたように、普遍文法をさまざまな能力が集まったものと考えれば、臨界期の影響を受けやすいのはどの部分かということを正確につきとめることができるだろう。(ジャッケンドフ, 2006 p.114)
白か黒か式の「霊長類のP(例えば、チンパンジーのサラ、ワショー、ゴリラのココ、ボノボのカンジ)には言語があるのか、またヒト科のHには言語があったのか?」というような問いには意味がないことになる。代わりに「言語の能力のどの要素を霊長類のPはもっているのか、また、どの要素をヒト科のHはもっていたのか」と問うことができるだけである。(ジャッケンドフ, 2006, p. 277)

この論文では、ジャッケンドフの見解に倣い、言語能力を言語慣用とならんで、言語力の構成要素として設定することとする。言語力は、明言的に教えられる言語慣用と、明言的には教えられず暗黙的に「育つ」(grow)(注17)言語能力が連動することで十分なものになる。言語能力抜きの、言語慣用の知識だけにyほる言語使用は、いわゆる「カタコト英語」の類のものであり、その言語使用の目的が、聞き手の読心力によって理解されているからこそコミュニケーションが成立しているものである。単なるコミュニケーションではなく、言語コミュニケーションを考える私たちは、相手の予めの読心力の予想の範囲を超えた、言語によってのみ表現できる複雑な表象を含むコミュニケーションを言語コミュニケーションとして考える。したがって言語コミュニケーション力の議論には、言語力のうち、言語慣用だけでなく、言語能力も設定することが必要である。
 さて次の課題は、(2) ただ文法文を産出し理解できるだけでなく、その産出と理解を、コミュニケーションの状況に適ったものとしなければならない、というものであった。これを私たちは、言語力が、読心力(および身体力)と連動することによって解決されると考える。
 周知のように、Bachman (1990)とBachman and Palmer (1996)によれば、この静的な知識が実際の言語コミュニケーションで活用されるのは、Widdowson (1983)の「対応力」(capacity)概念を引き継ぐ、「方略的能力」(strategic competence)によるものである。しかしその方略的能力の説明には十分な説得力がないように思われる(柳瀬 2006)し、そもそもその概念の下位構成要素がBachman (1990)とBachman and Palmer (1996)では異なっており、その改編に関する説明もない。
 これに対して私たちが提示するのは、言語の産出なら、読心力により、相手の心を読んだ上で、関連性の原理にしたがって、その相手の心の状態に最も適した(=関連性を最大化した)語彙の選択と配列で言語力により文を作り、さらにその文も相手の心の状態に最も適した(=関連性を最大化した)配列で並べ同じように言語力で文を連ねてテクストを作るという考えである。言語の理解なら、読心力により、相手の心を読んだ上で、相手の発話を、その相手が関連性を最大化したものだと仮定して語彙の配列(文)と文の配列(テクスト)から、その相手の言語力の観点から適したと考えられる処理労力と得られる情報のバランスのとれた理解をする、という考えである。言語力は、単独だけならば、アスペルガー症候群の人の発話のように、他人とコミュニケーションが取りがたいものとなる。また読心力に乏しい人の発話は、一人勝手で要領を得ないものになりやすい。逆に読心力に長ける者の発話は、簡潔にして深い内容を聞き手・読み手の心に創出させる。Bachman (1990)とBachman and Palmer (1996)が「方略的能力」という用語で説明しようとした働きは、読心力(特に関連性の原理に基づく推論)の働きとして説明すべきではないかというのがこの論文の主張である。
言語力とは、定型的な言語慣用(文法的慣用、テクスト的慣用、社会言語学的慣用、機能的慣用)が、創造的な言語能力と連動した力であった。その言語力が、読心力と連動し、さらに身体力とも連動することによって言語コミュニケーションはなされる。これが言語コミュニケーション力は、読心力と身体力と言語力の三次元空間の合成ベクトルであるという、言語コミュニケーション力の三次元的理解である。


3 三次元的理解の根拠


3.1 三次元の独立性

 読心力、身体力、言語力を私たちは、三次元的に表現した。このことは、それぞれの力が原理的に独立していることを含意する。もちろん、実際の言語コミュニケーションの場合には、これらの力は密接に連動しており、だからこそ言語コミュニケーション力は合成ベクトルとして表現されることは、これまでにも述べてきた通りである。しかし、私たちは、次の表の(2)から(4)で示されるような極端なケースでは、ある力がほとんど欠如している状態を想定できる。これは、三つの力が原理的には独立していると考えられることを示す。

表1 三次元の独立性について

Mindreading ability Physical ability Linguistic ability
(1) Normal
+ + +
(2) Asperger syndrome or
high-functioning autisum
- + +
(3) Physically impaired
+ - +
(4) Novice learner of a foreign
language, 'Genie' or aphasia
+ + -

 (1) は通常の状態であり、三つの力は連動している。(2) はアスペルガー症候群あるいは高機能自閉症の場合であり、知能の遅れも身体の障害もないが、社会的・対人的コミュニケーションに支障をきたすことが多いので、読心力のみが大きく欠如していると考えられる。(3) は健常者が一時的に目・耳・口・手などの言語入出力器官を怪我した(しかし脳に異常はない)状態を考えてほしい。単に身体力が(一時的に)なくなったため、彼/彼女は言語コミュニケーションができない。(4) は、言語力のみが大きく欠損している状況である。その国の言葉が全く分からない異国を訪ねた旅行者はこのような状態に陥るだろう。また 'Genie'の名で知られる、13歳まで親の虐待と過失により社会的接触を欠き、その後、ようやく外部者の援助によって簡単なコミュニケーションはとれるようになったものの、複雑な統語構造をもつ言語発話はついにできなかったケースも(4) に入るだろう。さらに、脳の損傷によって失語症(aphasia)となった者も(4) に入るかもしれない。(4) の人々は、他人の心も読めるし、身体もそれなりに動かせるが、言語を主としたコミュニケーションができない。このように言語コミュニケーションにおいては、読心力、身体力、言語力は、連動しているが、それぞれは原理的には独立していると考えられるものである。

3.2 過去の理論との整合性、および独自の貢献

 この言語コミュニケーション力の三次元的理解は、これまでの言語コミュニケーション力論の議論の蓄積の上に、概念を再構成したものである。もちろんただ用語を変えただけというものではなく、(a)読心力の働きの強調、(b)身体力の復活、(c)言語力における「知識」の二義性を明示した、ことが本論考の独自性の主なものである。だが、これらの論点は、これまでの言語コミュニケーション力論からは、まったく欠如していたと考えるのは行きすぎであろう。過去の言語コミュニケーション力論の諸概念と、本論文の概念をやや強引に関連づけたのがAppendix 1である。
 これらの改良により、本論文の「目的」で述べた、5つの課題は克服されただろうか。(1) の課題は、 Bachmannの方略的能力概念よりも、言語の知識がコミュニケーションに使われる際の過程をより理論的に解明することであった。これについては、(a) の読心力の設定により、言語コミュニケーション以前に、コミュニケーションには「心の理論」に代表される他人の心を読むメカニズムが人間には働いており、ことに言語を高度に使ったコミュニケーションにおいては関連性の原理に従って言語使用がされていることを明らかにすることで課題を達成した。(2) の課題は、言語コミュニケーションにおける身体の働きを明示することであったが、これはBachman (1990) がかつて提唱していた「心身協調メカニズム」を「言語的身体力」で復活させただけでなく、「非言語的身体力」を設定することで、これまでの応用言語学が重んじていなかったが、日常生活では痛感されている領域があることを明らかにした。(3) の課題は、言語コミュニケーションの相互作用性を少しでも明らかにすることであったが、これは読心力概念を前面に出すことで、コミュニケーションの特定の相手を具体的に想定しない言語コミュニケーション力論は、コミュニケーションの理論としては不十分であることを示した。だが、これは、個人の中に他者を取り込んだ相互作用性に留まり、未だに個人主義的な発想であるともいえるかもしれない。Hymes (1972) が先駆的に述べていたコミュニケーションの「創発」(emergence)についてもまだ論考されていない。これは今後の課題となるだろう(後述)。(4) の課題は、言語の極にもコミュニケーションの極にも偏らない論考をすることだった。この課題は、読心力と言語力を独立させ直交的に表現し、その二次元平面で、ほとんど読心力だけでも成立するコミュニケーションから、高度に言語力に依拠することによって成立する言語コミュニケーションの変容範囲を理論的に示すことによって克服された。(5) の課題は言語コミュニケーション力の全体像の見通しを得る論考を目指すことであったが、これは全体像を三つの要因(三次元)という簡明な構造図式で説明し、なおかつ、それぞれの次元においてより詳しい説明が展開できる議論を展開したことによって達成されたと考えられる。このように本論文の言語コミュニケーション力の三次元的理解は、これまでの言語コミュニケーション力の展開に基づきながらも新しい独自の貢献を果たしていると考える。

3.3 本理論の実践的意義

 言語コミュニケーション力の三次元的理解は、一つ一つの要因においては詳述が可能であるが、全体構造が非常に簡明であるために、実践者に対してもわかりやすい全体像を提示することができる。この三次元的理解によって、日本の英語教育でしばしば見られる授業の類型を整理したのが、次の表2である。

表2: 三次元的理解による授業類型の説明

Mindreading ability Physical ability Linguistic ability
Communicative Language Teaching + + +
'Training' (Pattern practice, Shadowing, etc) - + +
Translation (comprehension) + - (+)
Teaching usages - - (+)
Game activity + + -


 十全なコミュニケーション的言語教育(Communicative Language Teaching)、つまり学習された言語が、特定の状況下の特定の相手に対して、関連性の最大化を目指しながら使用される教育的環境では、読心力、身体力、言語力のどれもが使われる。次に、私たちが「訓練」(Training)と名づける教育活動、つまり、パターン・プラクティスやシャドウイングあるいは音読といった、身体技能開発を強調する活動である。この「訓練」は、それまでの身体軽視の日本の英語教育への反動ということもあり、近年盛んに強調され、中には「音読さえ徹底すれば英語はマスターできる」といった主張さえ聞かれる。しかしこのように「訓練」のみで言語コミュニケーション力がつくと考えるのは、読心力の働きを軽視した主張であるといえる。自らの経験で、「音読さえ・・・」などと主張する者は、もともと読心力に非常に優れ、読心力の行使と、新たに学習した言語力と身体力の行使に苦労しなかった者であると推測される。通常のケースでは、少しずつ読心力を働かせながら、言語力と身体力を使いこなしてゆく活動が必要なのではなかろうか。一方、悪名高い「翻訳」(translation)である。これは、時に文字通りの意味(literal meaning)の把握(comprehension)だけにとどまり、話者の意味(speaker meaning)の解釈(interpretation)まで至らない、理解活動としても不十分なものであり、さらに英語という言語に即した身体の動きがほとんどないという点で、重大な欠陥をもつものである。しかし、理解が、把握だけにとどまらず解釈にまでおよぶならば、これは身体力を欠くものの、言語力と読心力の連動のためにはそれなりの教育活動であるといえる。入試問題の読解が典型例だろうが、言語だけを手掛かりに、誰が、誰に向けて、何を書いて、何を訴えようとしているのかを理解することは、読心力の働きを大きく要求する知的活動である。従来、英文解釈は一つの知的訓練として教育価値を認められてきたが、その判断は全く間違っているわけではない。翻訳と並んで、悪名が高いのが、用法(usage)の教授である。典型的には、文法書を教科書として、英語の用法の典型例と例外を教え込むこの授業類型では、読心力と身体力はまったく延ばされない。しかし少なくとも、言語力のうち、用法に関する静的な知識はつくわけであり、こういった教授を完全否定することは極端というものであろう。無論、用法の教授は、動的な言語能力の開発(注18)をへて言語力の育成へとつながり、さらにその言語力が、身体力と読心力と連動しなければならないことは言うまでもない。最後に「ゲーム活動」(Game activity)であるが、これは中学校を中心に、現在は小学校でも展開されている英語教育活動である。これについては読心力と身体力は行使されるものの、しばしば学習者は目標言語を使わずに、ゲームをただ楽しんでしまうことが多い。適切に指導されなければ、ゲーム活動は言語力の向上にはつながらないと言える。以上がいくつかの授業類型についての整理であるが、このように、言語コミュニケーション力の三次元的理解は、実践者にも、英語教育の方針への見通しを与えることができる点で、理論的意義だけでなく、実践的意義を持つものであるといえる。


4 結論

 最後にこの論文を総括し、今後の研究課題を述べることとする。

4.1 要約

 この論文では、言語コミュニケーション力(communicative language ability)概念に対して、理論的・哲学的アプローチを取り、言語の極にもコミュニケーションの極にも偏らない概念理解をすることを試みた。具体的には、言語コミュニケーション力を、読心力(mindreading ability)、身体力(physical ability)、言語力(linguistic ability)の三つの次元から構成される空間での合成ベクトルとして表現する三次元的理解を提案した。
 読心力は「心の理論」(Theory of Mind)と「関連性理論」(Relevance Theory)で説明された。身体力は言語的身体力(linguistic physical ability)と非言語的身体力(non-linguistic physical ability)に分けられて説明されたが、後者の解明は遅れていることが指摘された。言語力は、言語教育での伝統的な概念である言語慣用(linguistic usage)と、認知科学的な概念である言語能力(competence)に分けて考えられた。
 本論文の言語コミュニケーション力の三次元的理解は、従来の言語コミュニケーション力論の方略的能力、身体の働き、相互作用性などの理論的理解を一歩進めながら、言語コミュニケーション力の全体像に対する見通しを与えたものである。この見通しにより、実践者も教育の指針が得られることが期待される。


4.2 今後の課題

 この研究テーマに関しては、現在少なくとも三つの課題をかかえると思われる。一つは非言語的身体力のさらなる理論的解明である。上で述べたように、この力の働きは、日常生活では敏感に察知されているものの、現象学的記述はあったとしても(竹内 1988)、理論的解明はまだあまり進んでいない。言語コミュニケーション力論が、より現実を捉える理論となるためには、この分野の解明が必要であろう。
 第二の課題は、言語コミュニケーションの創発性である。今回の三次元的理解は、個人の中に他人を取り込む「読心力」概念を導入したことで、従来の研究よりも、コミュニケーションの相互作用性の解明を進めたと考えられるが、複数の参加者がコミュニケーションを重ねることで、新たな展開や知識が生じてくるというコミュニケーションの創発性については論考出来なかった。これについては社会システムの構成要素をコミュニケーションと考えるルーマンの考察が突破口になるかもしれないが(長岡 2006)現時点での筆者の理解はまだまだ不十分なので、今後の課題としてルーマンのコミュニケーション論の研究があることを述べるにとどめる。
 第三の課題は、時期尚早かもしれないが、三次元それぞれの尺度化である。時期尚早というのは、理論的解明がまだ不十分なまま、測定を目指すのは軽率であるかもしれないからである。しかし(第二)言語教育研究が現実のニーズを無視できない研究である以上、どのような理論研究も、いつかは現実事象に関わることが求められる。尺度化をするにせよ、三つの次元はそれぞれに独立した別の力であるから、三次元に共通した尺度を、一つの理論から導出することはできない。もしやれるとしたら、(第二)言語コミュニケーションの発達段階を、経験的に記述し、その段階ごとに、それぞれの次元の力の程度を記述して、三つの観点からの分析的な尺度を作り上げることであろう。
 このように言語コミュニケーション力論にはまだまだ課題が多いが、このような理論的・哲学的アプローチによる研究は、実証的なアプローチによる研究と相互補完あるいは相互浸透し、より豊かな言語研究の発展につながることが期待される。





1 「言語コミュニケーション力」(communicative language ability)の概念については、柳瀬(2006)にまとめられているが、この用語は、従来、 'communicative competence'、「(実践的)コミュニケーション能力」などといった用語で通用している概念を、精緻化しようとして用いているものである。
なお「言語コミュニケーション力」という日本語表現は 'linguistic communicative ability'に対応し、 Bachman (1990)にも使われている'communicative language ability'という英語表現を使うのなら、日本語表現は「コミュニケーション的言語力」にするべきではないかという点については、現時点では判断を保留しておく。これは単に言語表現の問題ではなく、「言語」を主と考えるか、「コミュニケーション」を主と考えるかを示しうる看過できない問題だと筆者は考える。

2 ただしCEFRには、言語コミュニケーション力に対する理論的アプローチ(独自の言語コミュニケーション力論)も見られる。

3 その後、言語コミュニケーション力の 'intercultural'(「間文化的」)な側面を強調する発展もあるが(Alptekin 2002,  Byram 1997、Johnson 2003)本研究の考察からは割愛する。なお'intercultural'を「異文化」ではなく、「間文化的」と訳すことについては柳瀬(2007)を参照されたい。

4  Scott Fitzgeraldの名言は、 "The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function." Esquire Feb. 1936, The Crack-Up (Oxford Dictionary of Quotation)である。

5 このように、心の働きが、何度も異なった場面で用いられる場合に「理論」という言葉を使う用語法は、Davidson (1985)の「事前理論」(prior theory)、「即時理論」(passing theory)の用語にも見られる。

6 この幼児の自己中心性において、心の理論はピアジェの理論と重なるが、心の理論は、ピアジェが考えたよりずっと早く、子どもは自己中心性から脱却し始めるということを数々の実験で示している。

7 共有注意 (Shared Attention)とは、自己と他者と第三の者(物)の以下の(a)から(c)のような関係を理解できることだとまとめられている。(a)視線の追従:他人の視線の動きを追いかけることができる。(b) 宣言的指さし:人が他人の注意をひきつけるために使う指さし行動が理解できるし、自らも産出できる。(c) 物の提示:物を、自分ではなく、他人によく見えるように示すことができる(子安 2000, pp. 79-80)。

8 高機能自閉症とアスペルガー症候群の細かな違いについては本論文では扱わない。

9 さらに詳しく言うなら、アスペルガー症候群者は、多義的な意味や比喩的な意味の理解にも困難を覚えるが、文字通りの意味に関しては特に障害はない。このことからしても、アスペルガー症候群者は少なくとも狭義の言語力(音声・統語・意味)については障害がないものの、言語コミュニケーション力を十分には持たない人々と規定することができる。

10 関連性理論に関する簡単な日本語解説は、松井 (2003)などを参照されたい。

11 ここではわかりやすさを優先して「新たな外的刺激」という表現を使ったが、関連性理論の用語では「顕示的刺激、顕示」ostensive stimulus; ostention)である。これは他者が、明白な意図をもって堅持された刺激(典型的には言語発話)を意味する用語である。

12 「便益」 (benefit)は、しばしば「効果」(effect)とも呼ばれる。

13 "Communicative"という言葉は、関連性理論の邦訳ではしばしば「伝達(的)」と訳されているが、 "communication"を「(情報)伝達」と訳してしまうことは、誤解の元であり、そもそも関連性理論は、そのような情報伝達的なコミュニケーション観を超克するために打ち立てられたものであることからして、筆者は "communicative"は「コミュニケーション的」と訳すことにしている。

14 関連性理論における「発話」(utterance)は、言語的なものだけでなく、非言語的な産出も含むもので、「顕示的刺激、顕示」ostensive stimulus; ostention)と同義である。

15 身体を言語に合わせるための労苦と時間は、意識されにくいかもしれないが、第一言語獲得でも第二言語獲得でも、臨界期・敏感期の効果を別とするならば、同じことであると考えられる。

16 このように "competence"という用語は、 "sociolinguistic competence", "discourse competence", "strategic competence"などと拡張的に使用されてきたために、 "competence"は、Chomskyの原義をうまく伝えると思われる「言語能力」という翻訳語ではなく、(英語でも同様であるが)汎用性の高い「能力」という翻訳語が使われることとなった。

17 ジャッケンドフ(2006)によれば、チョムスキーは文法を、「発明する」 (invent)、「構成する」(construct)、「発達させる」(develop)、「考案する」(devise)、「獲得する」(acquire)とも表現している。

18 Chomsky(1965)がHumboltの言葉を引用して「教えられない」とする言語能力 (competence) を開発する方法としては、「集中的入出力訓練」 (Intensive Input / Output Training)が有効であることは経験的な仮説としては考えられる(柳瀬 2006)

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