ニクラス・ルーマン (Niklas Luhmann) の論考

から考える英語教育の諸問題


私のルーマン理解ははなはだ拙いものですが(そもそも私のドイツ語読解力はひどいものです)、ルーマンは非常に面白い知的枠組みを提供してくれるので、以下には私なりにまとめた愚論を掲載します。間違いなどがあれば、yosuke@hiroshima-u.ac.jp にまでお知らせいただければ幸いです。

なお特殊文字に関しては、

äは ä または ä
öは ö または ö
üは ü または ¨
ßは ß
Äは Ä または Ä
Öは Ö または Ö
Üは Ü または Ö

でHTML入力したつもりですが、間違っていたら申し訳ありません。 なおドイツ語の引用符(ギュメ)に関しては

>>は&raquot;または&#187
<<は&laquot;または&#171

でうまくいくはずなのですが、私の環境ではどうもうまくゆきませんので、引用符は英語の慣用法(" ")で行っております。


(2008/02/04)

日本言語テスト学会(JLTA)第26回研究例会
会場:広島大学総合科学部J307教室
2008年2月2日(土) 14:30-15:20

コミュニケーションのテスト、テストのコミュニケーション

柳瀬陽介 (広島大学)
yosuke@hiroshima-u.ac.jp
http://yanaseyosuke.blogspot.com/


0 本日の発表構成

0.1 序論
0.2 コミュニケーションに関するこれまでの論考
0.3 ルーマンによるコミュニケーション論
0.4 コミュニケーションのテスト
0.5 テストのコミュニケーション
0.6 コミュニケーションのコミュニケーション


1 序論


1.1 トピック設定
 本発表は、コミュニケーションとテストに関する、ルーマン社会学を通じての原理的考察を通じての原理的考察である。考察の具体的な対象は、日本の英語教育でのコミュニケーションであり、テストである。


1.2 背景
 グローバリゼーションの浸透により世界社会はますます緊密に結びつけられようとしている。(一部の論者はこの状況を<帝国>の出現として表現している)。このような状況は「複言語的」(plurilingual)な状況であり、またそうであり続けなければならないという価値理念(The Council of Europe)もあるが、英語はその中で依然として強大な力を持っている。日本における英語教育の改善の重要性はますます高まるばかりであるが、その際には「コミュニケーション」をどのように考え、それをどのように「テスト」するかに関する考察が重要になる。テストは教育という営みを確実に万人にとって可視化するからである。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060425
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/plurilingualism.html

1.3 問題
 前段の背景にもかかわらず、また日本テスト学会の『テスト・スタンダード』(金子書房)などの出版活動などはあるものの、概していうならテスティングに関する理解は教育関係者の間ではまだまだ進んでいないと考えられる。ましてやコミュニケーションという相互作用的な現象をどのようにテストすればよいのか、あるいはコミュニケーションのどの側面はテストできているのかといった原理的な考察は十分ではないように思われる。


1.4 意義
 前段のような問題認識からすれば、コミュニケーションおよびテストについて原理的な考察をしておくことは重要である。原理的な考察は、短期的・直接的な効果こそ期待できないかもしれないが、適切になされれば、言語教育に対して長期的・波及的・多面的によい影響を与えうるからである。


1.5 先行研究
 コミュニケーションを可能にする「言語コミュニケーション力」(communicative language ability)に関してのまとめは、例えばLyons (1996), McNamara (1996)や柳瀬 (2006, 2007)などがある。これらはChomsky (1965) から Bachman and Palmer (1996) などに至るまでの言語学および応用言語学での言語コミュニケーション力の発展史をまとめたものであるが、それらのまとめによるならば、これまでの言語コミュニケーション力の論考はほとんどが個人心理学(individual psychology)的なもの(Chomsky 1986)であり、Hymes (1972) や McNamara (1997)が指摘する相互作用 (interaction) による創発 (emergence) などの「個人」の枠組みを超えた論点に関しては十分な考察が進んでいない。

http://www.keisui.co.jp/cgi/kensaku.cgi?isbn=ISBN978-4-87440-912-1
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html

Here the performance of a person is not identical with a behavioral record, or with the imperfect or partial realization of individual competence. It takes into account the interaction between competence (knowledge, ability for use), the competence of others, and the cybernetic and emergent properties of events themselves. A performance, as an event, may have properties (patterns and dynamics) not reducible to terms of individual or standardized competence. (Hymes 1972 p.283)

Discussions of interaction in second language performance assessment have generally been loosely psychological in orientation, forming part of attempts to model the nature of communicative ability within the individual. But in investigating the validity of performance assessments involving interactions between individuals (for example between candidate and interlocutor in speaking assessments), the intrinsically social nature of performance needs to be recognized. (McNamara 1997 p. 446)

In this section, I want to look briefly at Bachman's work on interaction, and will argue that for Bachman the term interaction, even when it is referring to social interaction, refers exclusively to cognitive activity on the part of the candidate. (McNamara 1997 p. 449)

The focus on the ability of the candidate in conventional approaches within second language assessment view the candidate in a strangely isolated light; it is he or she who is held to bear the brunt of the responsibility for the performance; in this sense the inevitable gap between a test and real life appears unusually stark. A danger of too exclusive a focus on defining the nature of candidate ability in cognitive terms is that the performance is seen as in some way a simple projection of the candidate's ability. It is as if the candidate is exclusively responsible for the performance, and can be held accountable accordingly. But clearly a performance is not a simple projection of what is in the head of the candidate, even if that display is mediated by the candidate's strategies for dealing with the interactional context in which it is to be achieved. (McNamara 1997 pp. 452-453)

1.6 仮説
 このように先行研究が「個人」の枠組みでのものに偏りがちな現状で、「社会」というテーマを全面に掲げて研究を30年以上かけて体系的に進めてきたニクラス・ルーマン (Niklas Luhmann) (1927-1998)の枠組みを使った考察を進めることは重要であろう。それにより、コミュニケーションの社会的側面に関する言語教育関係者の理解は、これまでに得られなかった深いものになる可能性を秘めているからである。その可能性のもと、本発表では、ルーマンの枠組みでのコミュニケーションの考察を進め、それをもとにテストについても根源的に考える。その中でコミュニケーションのテストとは、現状でどのようなものとなっているのかの解明が進み、またテストというのも社会におけるコミュニケーションであることが示される。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

 なおルーマンについて全体像を的確に把握することは、発表者は試みてはいるものの、まだまだ把握は不十分であることを認めざるを得ない。本論考では主にルーマンの主著の一つの日本語訳である『社会システム理論』(1993, 1995) を基に考察し、必要に応じて原著の Luhmann, N. (1984). Soziale Systeme. Frankfurt: Suhrkamp および英訳の Luhmann, N. translated by Bednarz, J and Baecker, D. (1995). Social Systems. Stanford: Stanford University Press.を参照した。ルーマン理論の正確な理解に関してはまだ発表者はまだまだであることをここに正直に述べざるを得ない。なお、同著より引用する場合には、同著の章番号をアラビア数字で、説番号をローマ数字で表しそれらをハイフンで結び、次に日本語訳、原著、英訳のページ数をそれぞれ表記することとする。例えば(4-II; 217, 193, 139)は同著の第四章第二節、日本語訳で219ページ、原著で193ページ、英訳で139ページからの引用であることを示す。日本語の訳語は翻訳書を尊重したが、一部は発表者なりに訳語を変更した。


1.7 定義
 (1) 相互作用としてのコミュニケーション:本稿における「コミュニケーション」は、参加者が直接に対面していることを基本とする相互作用 (interaction; Interaktion) に限定される。文字を媒介とし、直接的対面という相互作用の制約を超えたコミュニケーションに関しては、別の機会に改めて論考することとする。

 (2) 言語によるコミュニケーション:本来コミュニケーションは言語を必ずしも必要としないものである(Sperber and Wilson 1995)。また経済活動も貨幣を媒介としたコミュニケーションとも考えられるなど、「コミュニケーション」は多くの広がりをもつ概念である。しかし本稿は「コミュニケーション」を特に断りがない限り、「言語によるコミュニケーション」(=言語コミュニケーション)と限定して扱う。

 (3) 聞き手の立場からの論考:(相互作用的言語)コミュニケーションにおいては、一般に話し手と聞き手の役割があるが、本稿は主に聞き手の立場からの論考を進め、特段の必要が認められない限り話し手の立場からのコミュニケーションの考察は割愛する。割愛が可能であるという考えの背後には、話すということは、聞き手の心の動きを予測して、聞き手が理解するように言葉を配列して口頭で表現することである、という認識がある。つまり、話すことの基盤には「人がどう聞いて理解するか」という理解がある。逆にいうなら「人がどう聞いて理解するか」がわかれば、話すことは、後はその理解に基づいて音声を構成するだけでよい。したがって聞き手の立場からコミュニケーションを理解すれば、話し手の立場からのコミュニケーションも原理的には理解できることになる (Sperber and Wilson 1995)。論の冗漫さを避ける点からも、本論考では、しばしば聞き手の立場からの考察だけをもってコミュニケーションの論考とする。


2 コミュニケーションに関するこれまでの論考

2.1 コードモデルによるコミュニケーション理解
 コミュニケーションに関する通念的理解の典型例は、 'communication'の訳語としての「情報伝達」という言葉からしても推察できるように、「AからBへXという情報が移転する」という理解である。これは次の図のように表現できる。

しかしこのコードモデルによるコミュニケーション理解には次のような問題点がある。

(1) 同一情報の存在を先験的に仮定している:コードモデルはコミュニケーションを情報の「移転」 (Übertragung; transmission) (4-II; 217, 193, 139)として、コミュニケーションにおいては話し手から聞き手に情報が存在論的に移転すると考える。これはメタファーであると考えられる。これがメタファーであるとされるのは、話し手が符号化 (encode) して送り出そうとしている原情報と、聞き手が復号化 (decode) する情報は「移転」する以上、同一の存在である(べき)であると仮定されているからである。しかし実際のコミュニケーションにおいて、全く同じ情報が存在し共有されている例は、むしろ例外的なものに過ぎない。

(2) 暗意が無視されている:言語の意味は、文字通りの意味 (literal meaning) および話者の意味 (speaker meaning) から構成されていると語用論では考えらている。関連性理論 (Relevance Theory) の用語で言うならば、それぞれ、明意 (explicature) と暗意 (implicature)である(訳語としては「表意」と「推意」の方がよいのかもしれないが、ここでは「明意」と「暗意」で通す)。これらのうち、コードモデルで符号化・復号化されると考えられているのは、明意のみである。暗意は、話し手が明意に含め、それが(通常の場合なら)聞き手によって推論的に理解されることを願っているだけのものである。

 なぜ全ての情報が明意だけで表現されないかという理由に関しては、第一に現実のコミュニケーションの時間的制約の中では、自らの意思全てを明確に述べきれないこと、第二に、そもそも語や文には多くが前提されており、その前提全てを明確に述べ上げることは事実上不可能であることなどがあげられる(私たちは前提の枚挙的明示を全体論的循環の中ではおこなうことができないと述べた方がよいのかもしれない)。そのような理由から意味の多くは暗意として含意されるだけであり、明示的に明意としては表現されない。もともと通信理論として考案されたコードモデルにおいて扱いうるのは、明示的に表現された明意だけであり、暗意は考察の対象外にある。

 ちなみに後の議論のために、明意と暗意の狭間について述べておくと、明意とは比較概念であり、純粋に言語学的に符号化されたものから、それとコンテクスト的に推測された概念的特徴の組み合わせまでに至るものでもある (Sperber and Wilson 1996, p. 182) 。もちろん「言語学的に符号化されたものとコンテクスト的に推測された概念的特徴の組み合わせ」とは明確な領域を欠く概念であり、どこからどこまでが明意であり、どこからが暗意であるという線引きはできない。また「純粋に言語学的に符号化されたもの」も深く考えるならば、どのように領域設定をすればよいかわかりかねる概念であるが、この点についての深入りは哲学的意味論の論考に任せ、今は避ける。


2.2 関連性理論によるコミュニケーション理解
 コードモデルでは扱い得ない話者の意味/暗意を扱うためにGrice (1975) は協調の原理(co-operative principle)の考えを掲げ、コミュニケーションの参加者は、それぞれに量、質、関係、様式の格率(Maxims of quantity, quality, relation and manner)に従おうとしているものであり、それらから著しく逸脱している発話に関しては、その逸脱のための特別な意図があるのだと仮定し、その仮定に基づいて話者の意味/暗意を推測するという思考図式を提示した。

 Sperber and Wilson (1996) は、このGriceの論を洗練的に発展させ、relation概念を拡充させたrelevanceの概念で暗意の推論を説明する理論を提示した。第二版において彼らは二つの原理にその理論を集約させた。

 第一の原理は、「関連性の認知原理」(The First, or Cognitive, Principle of Relevance)と呼ばれる。この意味することは、「人間の認知は、関連性を最大化するように作られている」("Human cognition is geared to the maximization of relevance.")ということである。つまり、言語発話を理解する際に、一方で、言語発話からより多くの認知的便益を得られればそれだけ関連性は高いが、他方、言語発話の理 解のための処理により多くの労力(effort)が必要となれば関連性は低くなる。この労力と便益(benefit)(あるいは「効果」(effect))のバランスが最もよくなる ようにすること(=関連性を最大化すること)が、人間の認知システムの働きに見られる原理であるとされている。

 第二の原理は、「関連性のコミュニケーション的原理」(The Second, or Communicative, Principle of Relevance)と呼ばれ、「すべての発話は、それが関連性のあるものであると仮定してよいことを伝える」("Every utterance conveys a presumption of its own relevance.")ことを意味する。つまりコミュニケーションによって成立している人間社会の成員による意図的(顕示的)な発話なら、およそ例外的 な状況を除く限り、その発話は、発話の理解者に関連性をもたらすものだと仮定してかまわない、というのが、コミュニケーションの原理であるということであ る。この原理の正しさは、この原理がない社会(嘘やナンセンスが、誠実な発話と同じぐらいに、あるいはそれ以上に、表面上は誠実に語られる社会)では、コ ミュニケーションを続ける動機が失われてしまうことが容易に想像できることからも推定できるであろう。

 これらの関連性の認知原理とコミュニケーション原理により、暗意も含めた意味の理解、つまりコミュニケーションにおける理解は一般的説明を受けるようになった。また、コミュニケーションとは、ある一つの想定(an assumption)が伝えられるか伝えられないかという問題というよりは、ある想定の集合 (a set of assumptions) がどれぐらい明らかになるかという程度問題であるなどといった指摘 (Sperber and Wilson p. 59) などにより、ある存在として規定された「情報」が移転的に伝達されるか否か(あるいはどれくらいの損失で移転的に伝達されるか)というコードモデルのいわばデジタル的なコミュニケーション理解が、アナログ的で現実的なコミュニケーション理解に洗練された。


2.3 これまでのコミュニケーション理解の問題点

 しかし関連性理論の説明が万能というわけではない。ここでは次の三点を、補完・拡充されるべき問題点として指摘する。

 (1) 明意の軽視:暗意の理解に重点がおかれ、時に明意がいったん処理された後は、暗意の推測に私たちは集中し、明意がいわば不要のものとして私たちの注意から外れてしまうようにも思われかねない。しかし私たちは、暗意を推測すれば明意を無視するわけではない。端的な例がアイロニーである。アイロニーとして言われた「まあ、素晴らしい」の暗意はもちろん<まあ、ひどい>などと言ったものであろうが、この発話「まあ、素晴らしい」を、「まあ、ひどい」という発話と等価とすることはできない。アイロニーは、明意と暗意の緊張関係に効果があるのであり、アイロニーの暗意を明示的に明意として表現した発話と同じであるとは言えない。コミュニケーションの理論においては、明意の働きと暗意の働きが、それぞれ独自に注目されなければならない。

 (2) 創発性の軽視:関連性理論の一般的説明は、コミュニケーションの標準的理解に対して多大な貢献をしたが、標準性をばかりを強調することは、コミュニケーションの創発性を軽視することにつながりかねない。コミュニケーションには、他ならぬ私、そして他ならぬあの相手が相互作用をしているという固有性からくる偶発性 (Kontingenz; contingency) がある。それは、私は私に基づいて、相手は相手に基づいてコミュニケーションを行うという、それぞれの自己準拠 (Selbstreferenz; self-reference) から生じる問題でもある。また、コミュニケーションの場合、標準的な理解をするという期待から敢えて逸脱することを選択するという場合も考えられる(例えば「まあ、素晴らしい」というアイロニーに、わざと、したり顔で「そうでしょう」と笑顔で応える、など)。コミュニケーションの創発性の説明を試みるためには、このようにコミュニケーションにおける偶発性、自己準拠性、選択性をも視野に入れた理論が必要である。

 (3) 相手の不可視性の軽視:関連性理論により、コミュニケーションは程度問題であることが明確にされたが、コミュニケーションにおいては、いくらコミュニケーションを重ねても、相手の心を透視できないことを私たちは忘れてはならない。私たちは、コードモデルが含意してしまうように、相手の心の内容を自分の心に移入することなどできない。自意識以外の、他人の意識というのは、どこまでいっても「心底」がわからないものだという洞察はコミュニケーション理論に必要だといえよう。端的な例をあげれば、人間は嘘をつきとおされているのかそうでないのかわかりえない場合もある。これがコミュニケーションの(標準とは言えないにせよ)実態である。コミュニケーション理論は、コミュニケーションにおいて、私たちは相手の心を透視できないということを明確に前提とするべきではないだろうか。

 以上三点をまとめるなら、コミュニケーションとは、「言語の文字通りの意味(明意)を共通形式としながらも、参加者それぞれの固有性が不可避的に影響を及ぼしてしまう、最終到達点を持たないが、成立し続けることができる事象」だと言える。次章では、こういったコミュニケーションの特徴を、上の(1)の論点 においては「情報」「告示」「理解」の三つの選択の総合(三極の統一体)、(2) においては自己準拠性、二重の偶発性、(3) においてはシステム/環境の差異といったルーマンの枠組みで理論的に解明することを目指す。


3 ルーマンによるコミュニケーション論

3.1 コミュニケーションの三極の統合
 ルーマンの考えによるならば、コミュニケーションとは、「情報」(Information; information)、「告示」(Mitteilung; utterance/announcement)、「理解」(Verstehen; understanding) の三極が統一体となること、つまりこれら三つの選択が総合されることである(4-II; 221, 196, 141-2)。重要な箇所と思われるので、当該箇所の日本語訳、ドイツ語原文、英訳を示しておく。

コミュニケーションが成立するのは、情報と告示行動の差異が観察され、確認され、理解されて、この差異が接続行動の選択を基礎づける場合に限られている。その際、理解するということには、程度の差はあれかなりの誤解がノーマルなものとして含まれている。しかし、これから明らかにされるとおり、点検可能で修正可能な誤解が重要になるのである。
 したがって、これから本書では、コミュニケーションを三極の統一体として取り扱うことにしたい。コミュニケーションが創発的事象として成立するためには、三つの選択が総合されなければならないということから出発することにしたい。(221ページ)。

Kommunikation kommt nur zusatnde, wenn diese zuletzt genannte Differenz [=Differenz von Information und Mitteilungsverhalten] beobachtet, zugemutet, verstanden und der Wahl des Anschlußverhaltens zu Grunde gelegt wird. Dabei schließt Verstehen mehr order weniger weitgehende Mißversändnisse als normal ein; aber es wird sich, wie wir sehen werden, um kontrollierbare und korrigierbare Missständnisse handeln.
Kommunikation wird also im weiteren als dreistellige Einheit behandelt. Wir gehen davon aus, daß drei Selektionen zur Synthese gebracht werden müssen, damit Kommunication als emergentes Geschehen zussandekommt. ( p. 196)

Communication emerges only if this last difference [=difference between information and utterance] is observed, expected, understood, and used as the basis for connecting with further behaviors. Thus understanding normally includes more or less extensive misunderstandings; but these are always, as we shall see, misunderstandings that can be controlled and corrected.
From now on we will treat communication as a three-part unity. We will begin from the fact that these three selections must be synthesized in order for communication to appear as an emergent occurrence. (pp. 141-2)

訳注としてここで本論考では「告示」と訳したMitteilungについて一言述べておくべきだろう。これはルーマン自身も「英語に翻訳不可能」(ルーマン 1996, 33ページ)と述べる語であり、英語文献ではutteranceともannouncementとも訳されている。日本語翻訳文献では「伝達」という訳語が定着しているようだが、この「伝達」という訳語は少なくとも発表者のルーマン理解にしばらく障害となった。「伝達」という日本語は「情報の移転」を連想させがちだからである。発表者は、コミュニケーションの移転メタファーを徹底的に批判するためには、移転を連想させるような「伝達」という語は使うべきでないと考え、あえて「告示」という訳語を使った。

この「三極の統一体」、「三つの選択の総合」を図示すれば次のようになる。ここでは除法と告示が相互に影響を与え合い、さらにその相互影響関係と理解が相互影響関係にある。これはかなり不安定な総合であり、「三つにして一つ」ともいったいわば矛盾の統合であるとも言える。


 情報、告示、理解の三区分は、ルーマンも言うように(4-II; 222, 197, 142)オースティン(John Langshaw Austin)の三区分と似ている。周知のようにオースティンはコミュニケーションを、発話行為 (locutionary act)、発話内行為 (illocutionary act)、発話媒介行為 (perlocutionary act)の三つに区分している (Austin 1962)。これらはルーマンの情報、告示、理解にほぼ相当すると考えられる。ルーマンとオースティンの違いは(ルーマンによるなら)、ルーマンが三つの統一・総合に関心を向けているのに対して、オースティンが三つの相互に切り離して考えることに関心を向けていることである。実際オースティンは、発話媒介行為を、言語理論や慣習では説明がつきがたい問題として、彼の主な考察から外している。しかしコミュニケーションにおいては、この「発話媒介行為」(=コミュニケーションにおける反応)こそが重要である。(なおこのような三区分は、Burge (1999)の「把握」(comprehension)、「解釈」(interpretation)、「理解」(understanding)にも見られることをここに付記しておく)。

 もう少し具体的に述べるならば、ある発話の文字通りの意味/明意/情報を受けて、聞き手はそれをある話者の意味/暗意/告示として解釈しようとする。しかし聞き手は、その二つの差異に緊張関係をしばしば見い出し、どちらに荷担した理解をすればよいのかの選択に(程度の差こそあれ)悩み、そしてある理解(発話媒介行為)を選択することを決意する(またその過程で、情報、告示、理解は相互影響関係の中で揺らぐ)。
 ここにおいて、ルーマンの用語を使うならば、情報、告示、理解という三つの極は、三極性という差異を保ちながらも一つの反応として統一的に総合される。この三つにして一つという図式が、暗意だけでなく、明意の独自性も保ちながら行われるコミュニケーションの説明理論としてここに提示される。この三極の図式は、コードモデルでも前提されるような、コミュニケーションを話者の意図と言語の二つの合体と考える図式とは明らかに異なる。

そうしてみると意図性と言語性によってコミュニケーション概念を定義することはできない。(237-8ページ)

Wir können mithin Intentionalität und Sprachlichkeit nicht zur Definition des Kommunikationsbegriffs verwenden. (p. 209)

Thus we cannot use intentionality and linguisticality to define the concept of communication. (p. 151)

 話し手の、固定的な意図と言語がコミュニケーションを作り上げ、それが聞き手に移転するというコードモデル的コミュニケーション観(「意図性+言語性=コミュニケーション」)とは明らかに異なり、関連性理論(「明意→暗意=コミュニケーション」)よりも、明意と暗意の独自性と緊張関係を強調するこのルーマンのコミュニケーション理解は、コミュニケーションの創発性を説明するための、よりよい理論であると考えられる。また同じ三極構成をとっても、それらの区別を強調するAustin の「発話行為/発話内行為/発話媒介行為」や、それらの単純和を言っているようにも思えるBurgeの「把握+解釈=理解」の図式とも違うコミュニケーション理解をルーマンは提示しているように思える。

コードモデル:意図性 + 言語性 = コミュニケーション
関連性理論: 明意 → 暗意 = コミュニケーション
Austin:  発話行為 / 発話内行為 / 発話媒介行為
Burge:  把握 + 解釈 = 理解

3.2 コミュニケーションにおける自己準拠と二重の偶発性

3.2.1 自己準拠による選択


 前項で述べた情報、告示、理解の三つはそれぞれにおいて、コミュニケーションの参加者に選択されるものである。

 情報(文字通りの意味/明意/発話行為)においても、聞き手は自分に準拠してしかそれを同定することができない。聞き手は話し手の発話を、(自己に準拠しながら)聞き手が知っているものとして聞くことができるだけである。聞き手が自らに準拠しても得体が知れないものは、聞き手は情報として選択的に同定することはできない。さらに聞き手は自己準拠の結果生じてきた情報の複数の同定候補の中から選択的に情報を決定することもある。平たく言うなら「自分が聞きたいように聞く」である。このように、「知っていることしか聞けない」し、時に「自分が聞きたいように聞いてしまう」のがコミュニケーションの実態であると考えられる。このことは情報/文字通りの意味/明意の極でさえも、コミュニケーションは自己準拠において行われ、それがコミュニケーションの不確定性(裏を返せば創発性)につながっていると考えられる。

 告示(話者の意味/暗意/発話内行為)においては、自己準拠性はより明らかである。関連性でも言われていたように、聞き手は自らの推論を通じてでしか、話し手が発話において示そうとしていたことを想像できないからである。その推論は、標準的には関連性の二つの原理に導かれてなされるだろうことは前に述べたとおりであるが、その推論の内実は、聞き手の固有性によることがコミュニケーションの実態といえるだろう。これが「思わぬ誤解」の源泉であろうが、その誤解は言語、慣習、世界に関する知識などの制約により、一定の、点検可能で修正可能なものであることがほとんどであることは先にルーマンが述べていた通りである。

 情報と告示が自己準拠において選択される以上、それらの差異を統合する理解が自己準拠によるものであることは、ほぼ明らかであるようにも思われる。発話媒介行為をオースティンが非標準的なものとして嫌った理由も、この理解の自己準拠性がうまく説明してくれるかもしれない。理解が聞き手という固有の人間(後に導入するルーマンの用語でいうなら「意識」あるいは「心的システム」)に準拠しているからこそ、理解というコミュニケーションにおける反応は、言語や慣習や世界に関する知識の広い制約内にありながらも、それらの標準的なものでは決定し得ない、思いがけない(しかし後では何とか理解可能となることが多い)理解となる(無論ここでは狂気といった特殊例外的事例は考えていない)。

 このようにコミュニケーションの参加者の自己準拠は、情報、告示、理解のどの極でも行われている。これを図示するなら次のようになる。

拙い図なのでいくらかの説明が必要である。右半分の弧線は意識全体を表している。爆発のように見える図形は、聞き手が接した発話のインパクトを示し、その中では情報、告示、理解の三つの極が一つに統合されようとしている。その統合を最初に試みるのは左上に向けられた矢印であるが、それは特に発話に接しようとする意識を表している。だが情報、告示、理解の統合は自己準拠によってなされるために、半円の矢印によって、そのコミュニケーションは自己に回帰し、そのため自己は変容してしまう。
 なお、自己準拠によって生じた自己の変容、つまりは意識の差異は、発話に接する以前の意識の整合性を事前理論 (prior theory)、接した後の意識の整合性を即時理論 (passing theory)としてDavidson (1985)の用語で表現するなら、この差異は事前理論と即時理論の差異として説明することも可能かもしれない。だが、これに関してはもう少し考える必要があるだろう。

3.2.2 二重の偶発性

 初対面の人に型どおりの挨拶をした後に、どう話を切り出したらよいか戸惑うことに典型的に示されるように、コミュニケーションにおいては、「相手次第で話の内容と調子を決めようと思うのだが相手のことがよくわからないし、相手も同じように思っているだろうが相手もおそらく私のことがよくわからないはずだ」というジレンマが本質的にある。

この事態は、「必然」(notwendig; necessary) でもなければ「不可能」(unmöglich; impossible) でもない「現実からすれば別様にもありうるもの」(was von der Realität aus gesehen anders möglich ist; what is otherwise possible from the viewpoint of reality)という意味での「偶発性」(Kontingenz; contingency) (3-I; 163, 152, 106) 、およびその偶発性が重なった「二重の偶発性」(Doppelte Kontingenz; double contingency) という概念で説明される。二重の偶発性を、コミュニケーションの参加者AとBの間のものとしてもう少し詳しく説明するならば、次のようになる。

(1) Aは発話をしたいが、Aはその発話を、Bがどのように理解しその理解に基づいてどのような反応をするだろうかという期待に基づいて始めたい。だがAのBへの期待は不確実なものである(=Aの発話はBへの期待という偶発性に依存している)。

(2)  Bも発話をしたいが、Bはその発話をAがどのように理解しその理解に基づいてどのような反応をするだろうかという期待に基づいて始めたい。だがBのAへの期待は不確実なものである(=Aの発話はBへの期待という偶発性に依存している)。

(3) Aは、自分が (1) の問題を抱えているように、Bも (2) の問題を抱えていることを知っている(=AはBがAへの期待という偶発性に依存していることを知っている)。

(4)  Bは、自分が (2) の問題を抱えているように、Aも (1) の問題を抱えていることを知っている(=BはAがBへの期待という偶発性に依存していることを知っている)。

(5) AもBも、お互いが相手への偶発性に依存性に依存していることがわかる(=二重の偶発性)。その結果、コミュニケーションの開始は、考えようによっては難問となる。

 この二重の偶発性からすると、コミュニケーションとは開始することも困難であり、また継続することも(それを新たな開始と考える限り)それほど容易なことではないことになる。

 しかし私たちは「文化」(Kulture; culture)という可能性のストック、さらにそれがコミュニケーションのために保管されている「意味世界」(Semantik; semantics) (4-VII; 257, 224, 163)― この日本語訳は田中・山名 (2004) による ― を持ち、コミュニケーションの可能性を適度に縮減している。このため二重の偶発性のジレンマの深刻度は減り、コミュニケーションは文化や意味世界が参照される程度において容易になる。
 
 だがこのことは、文化や意味世界が、逸脱を許さない規範として、コミュニケーションの可能性を限定してしまっていることを意味しない。コミュニケーションの参加者は、文化や意味世界からの期待を知りつつ、それから逸脱することができる。これが2.3の (2) の問題であり、この逸脱が許されていることから、コミュニケーションの創発性はその可能性を増す。さらにコミュニケーションにおいては、逸脱だけでなく、単なる偶然も、コミュニケーションの継続に取り込むことができる。ルーマンは次のように述べる。

 確固とした価値コンセンサスがあらかじめ存在する必要はまったくない。二重の偶発性(それは、何ものによっても満たされない、閉じられた、規定しえない自己準拠にほかならないのだが)の問題は、まさしく偶然を吸引しているのであり、偶然に対して敏感に反応している。たとえ価値コンセンサスがないとしても、それは創り出されるであろう。神が何を与えないとしても、システムは生じるのである。(161ページ) 。

Es braucht gar nicht shon festligender Wertkonsens zu sein, das Problem der doppelten Kontingenz (das heißt: die leere, geschlossene, unbestimmbare Selbstreferenz) saugt geradezu Zufälle an, sie macht zufallsempfindlich, und wenn es keinen Wertkonsens gäbe, würde man ihn erfinden. Das System entsteht, etsi non daretur Deus. (p. 151)

No preordained value consensus is needed; the problem of double contingency (i.e., empty, closed, indeterminable self-reference) draws in chance straightaway, creates sensitivity to chance, and when no value consensus exists, one can thereby invent it. The system emerges etsi no daretur Deus [even if God doesn't exist]. (p. 105)

3.2.3 自己準拠と二重の偶発性が明らかにするコミュニケーションの特性

 このようにルーマンの自己準拠や二重の偶発性という理論概念により、以下のコミュニケーションの特性が説明しやすくなる。

(1) コミュニケーションは、情報、告示、理解のそれぞれ、およびその統合においても自己準拠をするため、コミュニケーションの相手には透視できないものである。
(2) コミュニケーションの参加者のそれぞれの自己準拠によって、コミュニケーションが参加者それぞれの固有性に基づいた発展をなしうる。
(3)コミュニケーション展開の不透明性とそれから生じる不確実性が、相互のものである(二重の偶発性)ために、コミュニケーションの開始においてのみならず、展開においても、参加者は選択のジレンマに悩まされる。
(4) コミュニケーションにおける選択のジレンマは文化や「意味世界」への参照である程度軽減される。
(5) しかしコミュニケーションにおいては常に期待から逸脱することが可能であり、コミュニケーションは文化規範などによって決定されてしまうことはない。
(6) コミュニケーションはさらに偶然さえ自らに取り込み展開することも可能である。
(7) これらのことにより、コミュニケーションは、その構成要素と考えられる個々の単語や人間の振る舞いからは予め予測できないような進展を創発しうる。

 これらのコミュニケーションの特性は、従来の言語学・応用言語学的発想によるコミュニケーション観ではなかなか説明できなかった。従来の発想は、個人心理学的発想を取るものの、自己準拠を考慮していなかった。また個人の枠組みにとどまるために、二重の偶発性といった相互作用性を説明できなかった。その結果、コミュニケーションの創発性も、課題としてHymes (1972) によって掲げられて以来、ほぼ手つかずの状態だった。ルーマン社会学の、応用言語学への導入は、応用言語学に新展開をもたらすものと言えよう。


3.3 システム/環境と浸透について

 コミュニケーションに関するさきほどのルーマンの引用において、彼は「神が何を与えないとしても、システムは生じるのである」と述べていた。ここにも示されているように、彼はコミュニケーションを「システム」 (System; system)と考える。彼によるならば、コミュニケーションは「社会システム」 (Soziale System; social system) の一つである。また私たちの意識も「システム」であるが、これを彼は社会システムと異なる「心的システム」 (psychische System; psychic system) だと規定する。この節では、彼のシステム論を概説し、彼によるコミュニケーションと意識の説明をさらに理解することを試みる。


3.3.1 システムと環境

 ルーマンのシステム論をここで十全に説明することは明らかに発表者の力量を超えるが、ここでは彼のシステム論を、システムと「環境」(Umwelt; environment)との差異というから簡単に要約することを試みる。この環境という用語は日常概念と大きく異なるので、注意が必要である。注意を喚起するために《環境》という表記を採用することも考えたが、以下、他の日本語文献に倣って、ただ何ら特別な表記なしに環境という用語を使う。
 
ルーマンは、いかなるシステム理論も「システムと環境の差異」(Differenz von System und Umwelt; difference between system and environment) をその分析の出発点として用いなければならないことについて専門分野全体でコンセンサスが成立していることを了解事項としている (1-II; 24, 35, 16) 。 それではシステムとは何か。環境とは何か。ここではまず、環境についてのルーマンの説明を引用しよう (5-II; 287-8, 249,181) 。

環境は、システムに相関している事態である。どんなシステムでもその環境からそのシステム自体を区別している。そんなわけで、システムが異なるとその環境も異なっている。したがって、環境という統一体もまたシステムによって構成されている。「あるシステム」の環境は、システムのネガとしてのみシステムに相関している。環境は、オペレーション能力を欠いた統一体であり、システムを知覚したり、それを取り扱ったり、それに影響力を行使したりすることはできない。そんなわけで、システムは、その環境と関連していることと、その環境が未規定なままでいるということを手がかりとして、そのシステム自体を一つにまとめていると言ってもよい。環境は、端的にいって、「そうしたシステム以外のすべてのもの」なのである。(287-8ページ)。

Umwelt ist ein systemrelativer Sachverhalt. Jedes System inmmt nur sich aus seiner Umwelt aus. Daher ist die Umwelt eines jeden Systems eine versciendene. Somit ist auch die Einheit der Umvelt durch das System konstituiert. "Die" Umwelt ist nur ein Negativkorrelat des Systems. Sie ist keine operationsfähige Einheit, sie kann das System nicht wahrnehmen, nicht behandeln, nicht beeinflussen. Man kann deshalb aus sagen, daß durch Bezug auf und Unbestimmtlassen von Umwelt das System sich selbst totalisiert. Die Umwelt ist einfach "alles andere". (p. 249)

The environment is a system-relative situation. Every system removes itself from its environment. Therefore the environment of each system is different. And thus the unity of the environment is constituted by the system. "The" environment is only a negative correlate of the system. It is not a unity capable of operations; it cannot perceive, have dealings with, or influence the system. Therefore, one can say that the system totalizes itself by referring to the environment and by leaving it undetermined. The environment is simply "everything else." (p. 181)

  つまり、環境とは、システム以外のすべてのものであり、その意味でシステムに関係しているが、システムに直接影響を与えたりするものではない。だがシステムと環境は、全く別離できるものではなく、システムは(そのシステム以外の)環境と共にあることで自分自身を成立させているといえる。

 「環境はシステム以外のすべてのもの」であるのなら、それではシステムとは何なのだろう。ルーマンはシステム論の中でも、自らの論を「自己準拠的システム理論」 (Theorie selbstreferentieller Systeme; theory of self-referential systems) の系譜のものと規定し、次のように述べる。(序章; 12-13, 25, 9)

自己準拠的システム理論の主張によると、それぞれのシステムの分出は、自己準拠によってのみ成就しうるのであり、言い換えるとシステムは、そのシステムの諸要素の構成において、ならびにそのシステムの基本的なオペレーションにおいて、(それがそのシステムの諸要素であろうと、そのシステムのオペレーションであろうと、あるいはそのシステムの統一体であろうと)システムそれ自体に依拠することによって成就しているのである。システムは、このことを現実におこなうためには、システム自体の描写をおこないそれを用いなければならない。つまり、システムは、少なくともシステムと環境の差異をシステム内部においてシステムのオリエンテーションとして、および情報の産出の原則として用いなければならない。したがって、自己準拠的な閉鎖性は、なんらかの環境のなかでのみ、つまりエコロジー的な諸条件のもとでのみ可能なのである。環境は、自己準拠に基づくシステムのオペレーションの不可欠の相関物である。なぜなら、まさしくこうしたオペレーションは独我論の諸前提のもとでは進行しえないからである(また、そうしたオペレーションにおいて、何らかの役割を果たしているものすべては、そのオペレーションそれ自体を含めて、それ以外のものと区別がされたうえで採り入れられなければならないといいかえてもよい)。「開放的」システムと「閉鎖的」システムの(そうこうするうちに古典的になった)区別は、いかにして自己準拠に基づく閉鎖性が開放性を生み出しうるのかという問いに取って代わられることになる。(12-3ページ)

Die Theorie selbstreferentieller Systeme behauptet, daß eine Ausdifferenzierung von Systemen nur durch Selbstreferez zustandekommen kann, das heißt dadurch, daß die Systeme in der Konstitution ihrer Elemente und ihrer elementaren Operationen auf sich selbst (sei es auf Elemente, desselben Systems, sei es auf Operationen desselben Systems, sei es auf die Einheit desselben Systems) Bezug nehmen. Systeme müssen, um dies zu ermöglichen, eine Beschreibung ihres Selbst erzeugen und benutzen; sie müssen mindestens die Differenz von System und Umwelt systemintgern als Orientierung und als Prinzip der Erzeugung von Informationen verwenden können. Selbstreferentielle Gescholssenheit ist daher nur in einer Umwelt, ist nur unter ökologischen Bedingungen möglich. Die Umwelt ist ein notwendiges Korrelat selbstrererentieller Operationen, weil gerade diese Operationen nicht unter der Prämisse des Solipsimus ablaufen können (man könnte auch sagen: weil alles, was in ihr eine Rolle spielt, einschließlich des Selbst selbst, per Unterscheidung von "geschlossen" und "offenen" Systemen wird ersetzt durch die Frage, wie selbstreferentielle Geschlossenheit Offenheit erzeugen könne. (p. 25)

The theory of self-referential systems maintains that systems can differentiate only by self-reference, which is to say, only insofar as systems refer to themselves (be this to elements of the same system, to operations of the same system, or to the unity of the same system) in constituting their elements and their elemental operations. To make this possible, system must create and employ a description of themselves; they must at least be able to use the difference between system and environment within themselves, for orientation and as a principle for creating information. Therefore self-referential closure is possible only in an environment, only under ecological conditions. The environment is a necessary correlate of self-referential operations because these out of all operations cannot operate under the premise of solipsism (one could even say because everything that is seen as playing a role in the environment must be introduced by means of distinction). The (subsequently classical) distinction between "closed" and "open" systems is replaced by the question of how self-referential closure can create openness. (p. 9)

 つまり自己準拠的システムは、自らに準拠することによって(またそのことによってのみ)成立するものである。しかしこの自己準拠とは、独我論的な自己準拠ではなく、自ら以外のすべてである環境とシステム自らの差異に基づいて行われるものである。自己準拠システムは環境の中にあるというエコロジー的(=エコロジカル)な条件ではじめて可能になるシステムである。自己準拠的システムは、自己準拠によって自らを構成するという意味では閉鎖的であるが、その自己準拠は環境との差異に基づいている点で、開放的でもある。

 このように自己準拠的システムと環境は相互排他的であると同時に相互補完的な関係を持っている。システムは自分自身から自分を生み出すが、それはシステムと環境の差異に触発されてのことである。このような自己再生産をルーマンは「オートポイエーシス」(Autopoiesis; autopoiesis) とも呼ぶ。オートポイエーシスは、自らとは異なるものとの差異を、自らの再構成のために必要としている。ルーマンは次のようにもまとめる (11-III; 815, 604, 446)。

こうした諸考察から導かれる重要な帰結の一つは、あらゆるオートポイエーシスにおいて必要とされる自己準拠は、いかなるばあいでも自己を拠り所とするように指示すると同時に自己以外のものを参照するように指示する自己準拠[あるいは「常に【環境と】随伴する自己言及」にほかならない、ということである。「そのこと自体にのみ排他的に準拠すること」という意味での純粋な自己準拠はありえない。もしそうした純粋な自己準拠が生じるとしたら、そうした自己準拠は、任意のあらゆる偶然によってトートロジーを脱することになろう。(815ページ)。

Eine wichtige Konsequez dieser Überlegungen ist, daß die bei aller Autopoiesis benötigte Selbstreferenz immer nur mitlaufende Selbstreferenz ist. Reine Selbstreferenz im Sinne eines "nur und ausschließlich sich auf sich selbst Beziehens" ist unmöglich. Käme sie vor, würde sie durch jeden Beliebigen Zufall enttautologisiert warden. (p. 604)

An important consequence of these considerations is that the self-reference needed for autopoiesis is only an accompanying self-reference. Pure self-reference in the sense of "relating only and exclusively to itself" is impossible. If it came about, any accident whatsoever would de-tautologize it. (p. 446)

システムは常に環境を伴うものである。仮にシステムが、自らのみに関係しようとしても、この世界でひっきりなしに起こる偶然に、システムは反応し、その偶然を自らに取り込んでしまうだろう。システムは常に環境と共にあり、そのエコロジー的(=エコロジカルな)条件下で、そのシステム固有のやり方での自己再生産を遂行している。


3.3.2 意識とコミュニケーション

 意識やコミュニケーションは、そのような自己準拠システムの例である。ただし意識は心的システム、コミュニケーションは社会システムとされる。

 心的システムとしての意識は、コミュニケーションという社会システムにとっての環境である。コミュニケーションによって、私たちは誰の意識も透視することができない。また、コミュニケーションによって誰かの意識を他人の意識に移植することはできない。 (1-II-9; 53, 60,34)。

 社会システムとしてのコミュニケーションは、意識という心的システムにとっての環境である。どんな意識もコミュニケーションを透視することはできない。コミュニケーションは二重の偶発性などにより、一つの意識が予め全てを把握することはできないからである。また他の意識は、ある意識にとっての環境である以上(他の意識は私の意識以外の全てのものの一部である)、「共同意識」などといったものはあり得ない。したがって「共同意識がコミュニケーションを掌握する」などといったこともあり得ない。

 意識という心的システムは、その環境(の一部)としてのコミュニケーションという社会システムを伴い、コミュニケーションという社会システムは、その環境(の一部)としての意識という心的システムを伴う。人間の進化の過程において、意識とコミュニケーションは、相互に関係し合った、相互にとっての環境となっている (2-I; 92, 92, 59)。だが意識とコミュニケーションは決して融合することはない (6-VI; 368, 315, 232)。

以下、ある意識(意識A)の視点からのコミュニケーションを図で表現してみることを試みる。


 ある意識(わかりやすいように意識Aとしておこう)にとって、明晰なのは意識A自身(意識Aに現れる世界像も含んだ意識A)だけであり、意識A以外のものはすべて環境であるに過ぎない。


 意識Aに映る他人は意識Aと異なった意識(意識B)を持つはずである。この意識Bも意識Aにとっては環境の一部であるが、意識Aはこれまでの経験によって、意識Bの存在を想定し、またその内容をある程度まで予測する。だがその予測は意識Aによるものに過ぎず、意識Aは意識Bを透視することはできない。そこでこの図では意識Bは白線で囲まれているものの依然として黒色で表現されている。


 意識Aは、二重の偶発性に戸惑いながらも文化や意味世界に助けられ、コミュニケーションを開始する。するとそのコミュニケーションは社会システムとして成立する。意識Aという心的システムと、コミュニケーションという社会システムは、互いが互いの環境である。

 しかしながら、意識Aはコミュニケーションに浸透する。「浸透」(Penetration; penetration)とは、あるシステムが、そのシステムの複合性 (Komplexit?t; complexity) (そしてその複合性に伴う、未規定性、偶発性および選択の強制)を他のシステムに提供して、他のシステムのオートポイエーシスを触発することを表す用語である(6-II; 336, 290, 213)。

 意識Aは、コミュニケーションというシステムに浸透している。なぜならコミュニケーションという社会システムは、意識Aというコミュニケーションにとっての環境と結合することによって、意識Aの複合性を取り込んで、コミュニケーションの自己再生産を行っているからである。

 逆にコミュニケーションも、意識Aというシステムに浸透している。なぜなら意識Aという心的システムは、コミュニケーションという意識Aにとっての環境と結合することによって、コミュニケーション(それには意識Bも結合している!)の複合性を取り込んで、意識Aの自己再生産を行っているからである。

 このように互いが互いの環境である二つのシステムが、相互にそれぞれの複合性を提供して、それぞれの自己再生産に貢献している場合、二つのシステムは「相互浸透」(Interpenetration; interpenetration)していると言われる(6-II; 336, 290, 213)。相互浸透によって意識とコミュニケーションはそれぞれに自己準拠的に展開するが、意識とコミュニケーションは決して融合した一つのものではない。だがそれぞれが豊かに発展するためには、それぞれは他方を必要としている。

これまでの言語学・応用言語学のコミュニケーション論の問題点の一つはコミュニケーション不可視性、つまりいつまでたってもコミュニケーションの相手の心は見透かせないことをうまく説明できないことであった。ルーマンの論は、自己準拠的システム論を導入することにより、コミュニケーションの次の側面を理論的に説明した。

(1) 私という意識は、コミュニケーションを通じても、他人の心という意識と融合も合一化もできないし、ましてやコードモデルが前提していたように、私の意識が他人の意識に移植されること(またはその逆に他人の意識が私の意識にそのまま移転してくること)などはあり得ないことを、システムと環境の区別などから明確にした。

(2) 私という意識は、他人の意識と区分されたままでありながら、コミュニケーションを通じて、私の意識は私の意識なりに、他人の意識は他人の意識なりに、その間でのコミュニケーションもコミュニケーションなりに、それぞれが自己準拠しながら独自の発展を遂げることを、オートポイエーシス(およびその閉鎖性と開放性の両立)や(相互)浸透などの概念から明確にした。

ルーマンによるシステム論の導入によって、コミュニケーション論はコードモデル的な移転メタファーから決別できた。コミュニケーションにおける「完全な理解」などは幻想であることが理論的にも明らかに説明された。諸意識とコミュニケーションは別々のものでありながら、相互の関係によって、それぞれが独自に豊かになるものである。

最後にこの章を簡単にまとめよう。私たちは2.3においてコミュニケーションを

「言語の文字通りの意味(明意)を共通形式としながらも、参加者それぞれの固有性が不可避的に影響を及ぼしてしまう、最終到達点を持たないが、成立し続けることができる事象」

であると要約した。ルーマンのコミュニケーション論は、情報、告示、理解の三極の統合という図式で、文字通りの意味(明意)と話者の意味(暗意)の差異を認め、三極およびその統合のレベルでの自己準拠によって参加者それぞれの固有性が影響を与えることを明確にした。参加者それぞれの固有性はコミュニケーションにおいて二重の偶発性を構造的に招くが、それは文化や意味世界によって軽減される一方、偶然をも吸収するコミュニケーションのオートポイエーシス性によって、コミュニケーションは創発を行うことも説明した。オートポイエーシスの自己準拠という閉鎖性によって私たちは他人の意識に決して最終到達できないが、意識はその環境であるコミュニケーションとの相互浸透という開放性によって、継続的に豊かになり、それに伴ってコミュニケーションという社会システムも意識とは連動しながらも決して同一・同型ではない独自の道筋で発展してゆくことが明らかになった。このルーマン的理解は、私たちが現実世界でしばしば感じるコミュニケーションの奥深さ、不可解さ、そして何よりも豊かさを、これまでにはないようにうまく説明してくれているように思う。

次章からは、このルーマン的コミュニケーション理解に基づいて、英語教育におけるコミュニケーションとテストについて考察を加える。



4 コミュニケーションのテスト

 この章では、日本の英語教育において「コミュニケーションのテスト」として一般にみなされがちな外見を持つテストについての分析を加えることにする。本発表ではとりあえずセンター試験のみを取り上げる。

 しかし本論考での「コミュニケーション」とは直接対面を基本とする相互作用的なものであった。その定義を厳密に適用するなら、パフォーマンステストでないテストはここでいう「コミュニケーション」から外れてしまうことになる。そのことからすれば、パフォーマンステストをまずは分析の対象とするべきなのかもしれない。しかしセンター試験の社会的重要性、影響力の大きさなどから、本発表ではセンター試験の問題の一部を分析することとする。


4.1 センター試験における「コミュニケーションのテスト」

 2008年センター試験において、相互作用的なコミュニケーション「らしく」見えるのは、リスニング問題と本体の第二問Bであろう。以下、それぞれの問題形式を素描する。

http://www.dnc.ac.jp/center_exam/20exam/20hon_mondai.html

4.1.1 リスニング問題

 センター試験のリスニングは、どれも英文を二回聞くという点で、表面的にも実際の相互作用的コミュニケーションとの違いが明白である。また発話はすべてアメリカ発音のようにも思え、このことについても検討が必要なのかもしれないが、以下はそれ以外の点について述べる。

4.1.1.1 第一問
 これは四つのターンからなる会話を聞いて、選択肢の中から「答えとして最も適切なもの」(=その会話が意味しえること)を明意に基づいて選ぶテストである。明意といっても、程度の幅を持った概念であることは前に述べた通りであり、純粋に言語学的に符号化されたものから、それとコンテクスト的に推測された概念的特徴の組み合わせまでに至るものでもある。ここでは例えば、「本日は火曜日である」「締切は明後日である」と言った発話から、<締切はいつか>ということに関する正答を選ぶことが求められている。
 選ぶといっても、選択肢であり、選択肢の錯乱肢 (distracter) とは仮に一見正解らしく思えても、よく考えれば明らかに正解ではあり得ないものでなくてはならない。したがって、錯乱肢の誤答は、明らかに明意で否定できるものとなっている(「最も適切な」という指示は、テスト作成者の一種のリスクヘッジのための表現にすぎないように思われる)。したがって、ここでは、明意を聞き取り、その背後にある暗意を考えるのではなく、明意の論理的可能性について頭を働かせ、正答を選ぶ、あるいは誤答を消去して正解に至ることが求められていると言える。
 また、これは試験問題でしばしば見られる特徴であるが、受験者は、自らと空間的にも時間的にも乖離した状況での言語使用を突然に提示され、その言語使用状況を、テスト問題を各種のスキーマ知識を総動員し、その言語使用状況を特定することが求められている(言語使用状況の特定がなければ、テスト問題は一貫性 (coherence) を欠いたものとして、受験生に過剰な負担を与えてしまうであろう。
 まとめるとこの問題は、(1) 聞き取りを通じて、 (2) 広い意味での明意の論理可能性について判断をくだすテストであり、その際に (3) 一般常識的スキーマを喚起することが有効なテストテーキング・ストラテジーであるもの、と言える。

4.1.1.2 第二問
 これは二つのターンからなる会話を聞いて、二つ目の発話に続くのに最も適切と考えられる発話を選択肢の中から選ぶものである。受験者は、少なくとも表面上は第一の発話者になったつもりで、第二の発話を聞いた後で、第三の発話を選択的に決定するという形をとっている。
 しかし上に述べた時空の乖離性はこの問題でもあり、受験者は「第一の発話者になったつもり」といっても、実際は第三者的に二つの連続発話を聞き取ることが求められている。その聞き取りに基づいて、第二の発話に、明意の観点から続きうる正解を選ぶ、あるいは続き得ない錯乱肢を決定し、消去法的に正解に到達することが、受験者が実際に行っていることであろう。そうなるとこの問題も、(1) 聞き取りを通じて、 (2) 広い意味での明意の論理可能性について判断をくだすテストであり、その際に (3) 一般常識的スキーマを喚起することが有効なテストテーキング・ストラテジーであるもの、と言える。


4.1.1.3 第三問 A
これは第二問とほぼ同じ構造を持ち、異なるのは、選択肢が、続くのに最も適切な発話(第二問)ではなく、最も適切な(非言語的)行動を選ぶだけである。したがって、この問題も、(1) 聞き取りを通じて、 (2) 広い意味での明意の論理可能性について判断をくだすテストであり、その際に (3) 一般常識的スキーマを喚起することが有効なテストテーキング・ストラテジーであるもの、とまとめられる。

4.1.1.4 第三問 B
 これは人物の集合写真(実際は絵)を見ながら「長めの対話」(今回は9ターン)を聞き、人物名の特定に関して「最も適切なもの」を選ぶものである。この問題においては、「対話の場面」として、「Kathyと父親が、先日撮った写真を見ながら電話で話しています」という状況設定が活字で提供されている(Kathyと父親は、同じ写真をそれぞれ見ながら電話で話しているという状況は問題の対話の中で、明意で表現されている)。この点において、今まで述べてきた状況特定のためのスキーマ喚起という要素はほぼなくなっているが、その他に関しては、これまでの問題と同じ構造を有していると考えられる。したがってこの問題は、(1) 聞き取りを通じて、 (2) 広い意味での明意の論理可能性について判断をくだすテストとまとめられる。

4.1.1.5 第四問 A
これはやや長めのトーク(語り手は一人)を聞き、そのトークの明意の観点からあり得るものとあり得ないものを峻別する問題であると言える。語り手が一人であり、聞き取りをする英文が一連のディスコースを構成しているという点を除けば、第一問と同じ構造の問題であると言える。受験者は、放送から流れる英語が、ラジオ放送(歌番組、広告)であるのか、美術館の館内放送なのか、といった言語使用状況の特定を、語りの内容や語り手の声色
などから、スキーマ情報を総動員して行わなければ、回答は著しく困難であろうと思われる。したがって、この問題もこれまでの問題とほぼ同じだが、(3)のスキーマ喚起が強く求められている、(1) 聞き取りを通じて、 (2) 広い意味での明意の論理可能性について判断をくだすテストであり、その際に (3)' 一般常識的スキーマを喚起することが非常に重要なテストテーキング・ストラテジーであるものと言える。

4.1.1.6 第四問 B
 リスニング試験では最も長い語り(今回は204語)を聞く問題であるが、問題の構造としては、第四問Aと同じと考えて良い。したがってこの問題も、(1) 聞き取りを通じて、 (2) 広い意味での明意の論理可能性について判断をくだすテストであり、その際に (3)' 一般常識的スキーマを喚起することが非常に重要なテストテーキング・ストラテジーであるものと言える。

4.1.2 リーディングで「相互作用的コミュニケーション」らしく見える問題
 第二問Bでは、四つのターンからなる二人の間の会話が提示されるが、その第三ターン(あるいは第二ターン)が空欄となっており、受験者はそこに入れるのに最も適当なものを選択肢の中から選ぶものである。これは、英語の提示法が活字にはなっていても、問われているのは、明意の論理的可能性の中から、可能なものを残し、不可能なものを消去していくことである。したがって、この問題も、本論考の分析枠組みでは、これまでのリスニング問題と提示方法を異にするだけの、(1)' 読み取りを通じて、 (2) 広い意味での明意の論理可能性について判断をくだすテストであり、その際に (3) 一般常識的スキーマを喚起することが有効なテストテーキング・ストラテジーであるもの、と言える。

4.1.3 センター試験についてのまとめ
 こうしてみると、センター試験で外見上「コミュニケーションのテストらしく」思える問題は、次のような問いであるとまとめられる。

(1) 聞き取り / 読み取りを通じて、
(2) 広い意味での明意の論理可能性について判断をくだすテストであり、
(3) 一般常識的スキーマを喚起することが有効な / 非常に重要なテストテーキング・ストラテジーであるもの

 (1) は、言語コミュニケーション力でいうならば、Bachman (1990) のいう「心身協調メカニズム」 (psychophysiological mechanisms)、あるいは柳瀬 (2007) なら「身体力」(physical ability) の中の「言語的身体力」(linguistic physical ability) を主に試すものである。リスニングにおいては「耳」、リーディングにおいては「目」からの情報処理をできるだけ迅速かつ正確に行うかということが試されている。リスニングにおいては情報がすぐに消えるという認知負担がかかる(それを補うためか、センター試験では問題文を二度提示するという実際のコミュニケーションでは考えにくい措置が取られている)。

 (2) は、Bachman (1990)、Bachman and Palmer (1996)で言うなら「言語知識」 (language competence/knowledge)、柳瀬 (2007)で言うなら「言語力」(linguistic ability) のうち、特に言語の慣習的 (conventional)な側面、別の言い方なら「慣用」 (usage) の知識に基づいて、暗意の領域に入る以前の明意の範囲で推論をさせる問題だといえる。もちろんこれらの慣用的な知識をできるだけ迅速かつ正確に使用するには、チョムスキー的な意味での「能力」 (competence) が必要である。

 (3) は、Bachman (1990)、Bachman and Palmer (1996)で言うなら「世界知識」 (world knowledge)と「統合的能力」(strategic competence)、柳瀬 (2007)で言うなら「読心力」 (mindreading ability) が試されているといえる。だが、ここで構築されようとしている言語使用者(問題文を発話するスピーカーもしくはライター)はあくまでも標準的な存在であり、慣習的な行動を行う存在である。

 この分析からするならば、これらの問題は、「言語コミュニケーション力の三次元」、つまり読心力 (mindreading ability)、身体力 (physical ability)、言語力 (linguistic ability) をまんべんなく扱っているように思える。ただし、身体力は、言語的身体力の受容的 (receptive) な側面に限られ、産出的 (productive) な側面は欠落しているし、非言語的(non-linguistic) 身体力は、語りの一部で少し表現されているにとどまる。
 
 しかし「言語コミュニケーションの三次元的理解」は、それまでの言語学的・応用言語学的コミュニケーション理解の心の推論の側面(「心の理論」(Theory of Mind) や「関連性理論」)を強調したものとはいえ、依然として個人的な枠組みの分析であった。これをルーマン的な社会的な枠組みを採択したらどうなるだろう。次の節ではセンター試験の問題を、ルーマン的な理解によって分析する。


4.2 ルーマン的コミュニケーション理解による「コミュニケーションのテスト」分析

 本発表が注目したルーマンのコミュニケーション論の主な側面は、三極(情報、告示、理解)の統合、自己準拠と二重の偶発性、システム/環境と浸透、の三つであった。以下、この三点からの分析を試みる。

4.2.1 三極の統合の観点から

 センター試験においては、特に長めの一人語りのリスニング問題などにおいて、受験者は耳から入ってくる情報をどのような告示として理解するのかを、入り続ける情報を処理しながら自分なりに定めてゆかねばならない。情報は、慣習的な定型文ではないために、受験者は情報と告示の間の関係を確定できないまま情報を処理し続けなければならない。また長い語りのため、告示も単一のものでないため、受験者は理解も多面的にせざるを得ず、彼/彼女は、情報-告示-理解の三極の統合をそれなりの難課題として取り組まなければならない。このあたりは実際のコミュニケーションに近い。

 だが、一方で、時空的に乖離した言語使用をコミュニケーションとして扱わなければならないという、テスト問題にしばしば見られる人工的な側面が付け加えられていることは忘れてはならない。他方で、二回リスニングをさせることによって、その人工的な付加は補償されていると議論することも可能であるが、リスニングの第三問 B のように時空の乖離をできるだけ減らす設問も可能なだけに、この側面からテスト問題のあり方について慎重に考える必要はあるだろう。実際のコミュニケーションにおいては、「関連性のコミュニケーション的原理」からしても、私たちは全くの予想外の話題を話されることはほとんどない(これはたとえ相手の意識が私の意識にとっての環境であっても、私たちはコミュニケーションにおいて文化や意味世界を利用していることからも言える)。現実世界にないテスト固有の人工的な認知課題の設立に関してはもっときちんと考察する必要があるだろう。

 また、長い語りでは上のように実際のコミュニケーションに近い言語処理がなされるものの、短い対話文ではその程度は大きく下がることも指摘しなければならない。リーディングにおいては、たとえ対話文の形で提示されても、その実質は言語と慣習の知識に基づく、明意の把握とその論理的展開であった。論理的展開はなんら特別なものは要求されていないので、リーディングにおいては、要は言語と慣習の知識が問われていると解釈できる。リスニングにおいては、もしその提示の時間的制約から、言語と慣習の知識の程度がそれほど高くないものだとしたら、要はどれだけ「聞き取れる」かという、「リスニング」というより「ヒアリング」のテストであると言える。もしリスニングにおいても、リーディングと同程度の言語と慣習の知識が前提とされているのなら、リスニングは、リーディングの認知的付加に加えて「ヒアリング」の認知的付加が加わったテストと解釈できる。いずれにせよ、短い問題文提示では、情報、告示、理解の三極の統合というコミュニケーションの側面はあまり試されていないと言える。

4.2.2 自己準拠と二重の偶発性の観点から

 センター試験においても、受験者は言語処理の際に自己準拠しなければならないが、その時に準拠されるべき自己とは、英語と英語使用文化圏での慣習に関して標準的な知識を持った存在に過ぎない。問題文で仮想的に存在している言語使用者(スピーカー・ライター)もあくまでも英語と英語使用文化圏での慣習に関して標準的な知識をもった存在である。個性的な自己準拠は想定されていない。

 偶発性についてだが、受験者は、乖離した時空での言語使用に突然遭遇しなくてはならないという人工的な偶発性に対処しなくてはならないというのは上でも述べたとおりだが、この偶発性は受験者がテストに依存する一方向だけであり、受験生が(仮想の)コミュニケーション相手を忖度し、その忖度如何でコミュニケーション相手が自らの選択に逡巡するという二重の偶発性は見られない。端的に言うなら、受験生は「どう切り出したものか」というコミュニケーションではしばしば経験しなくてはならない逡巡から一切解放されている。

 もちろん、上の「標準的にすぎない自己準拠」や「二重の偶発性の欠如」の指摘は不当なものだと言えるかもしれない。そもそもセンター試験は、数十万人の受験生に一斉に実施されるという現実的課題を持った標準的なテストであり、受験者のコミュニカティヴなパフォーマンスを丁寧に見る試験ではないからである。
 
 しかし、それにしても自己準拠と二重の偶発性の観点からするならば、センター試験の「一見コミュニケーションのテスト」らしくできる問題も、せいぜいコミュニケーションの慣習的 (conventional) な部分に関しているだけであり、実際のコミュニケーションでの自己準拠と二重の偶発性から生じる創発性、言い換えるならコミュニケーションの創造的 (creative) な部分は扱われていないことは指摘されておくべきであろう。後に述べるように、テストはしばしば誤解され、誤用されるからである。


4.2.3 システム/環境と浸透の観点から

 受験生の意識にとって、センター試験問題はまさに環境である。その複合性を取り込むために、受験生は主に言語(英語)を使って、意味という共通形式でセンター試験問題という環境から浸透される必要がある。だがセンター試験問題はもちろんのこと、受験生から浸透されない。一斉実施の標準テストだからである。一方的な偶発性はあっても二重の偶発性はなかったことからも推測できるように、センター試験においてはセンター試験から受験生への浸透はあっても、受験生からセンター試験への浸透はない。つまり、センター試験において二重の偶発性と相互浸透というコミュニケーションの特徴は完全に欠如している。この観点からすれば、センター試験はいかに対話形式といった外見をとろうとも、実際のコミュニケーションとは決定的に異なっている。

4.2.4 ルーマン的観点からの分析の意義と限界

 このようにルーマン的観点からの分析は、従来のテストのトピックの観点からの分析、語彙のtype/tokenといった観点からの分析といったアプローチでは得難い視点を私たちに与えてくれる。ルーマン的観点からの分析は、他のテスト、何よりももっとも実際の相互作用に近いとされるインタラクティブなパフォーマンステストに対しても実施されるべきであろう。

 だが私たちはテストとは推測の方法であり、コミュニケーションの実態ではないということを忘れてはならない。ルーマン的観点から、テストにコミュニケーションが十全に反映されていないことだけをいくら指摘しても、その指摘が、テストの現実的な条件下での改善につながらなければ、言語教育研究としては十分でない。私たちはテストとは何であるのかを、個々のテストに即して具体的に考え、その現実的条件の中での改善(妥当性検証、validation)を進めてゆかなければならない。

 しかしそう考えるなら、センター試験とは何の試験なのだろう。「英語」の試験であるというのは、私たちに洞察を与えてくれない。「英語力」の試験であるというのもほぼ同語反復である。私たちはセンター試験によって具体的にどのような力を測ろうとしているのだろうか。

 上で、テストは実際のコミュニケーションを十全に反映できないと述べた。しかしテスト自身は、社会においてコミュニケーションという社会システムに組み込まれているのではないか。コミュニケーションのテストは、テストしようとするコミュニケーションを十全に反映できていないにせよ、テスト自身が、いわば高次のコミュニケーションを社会に対して働きかけてしまっているのではないだろうか。私たちはコミュニケーションのテストだけでなく、テストのコミュニケーションについても考察をしなければならないのではないだろうか。次の章ではテストのコミュニケーションについて考えてゆく。



5 テストのコミュニケーション

 テストは、社会に対して、テスト問題本文とその正解および得点という情報を提示している。この情報は、関心を持つ社会の成員によって、それぞれが考える告示と理解と関連づけられ、社会におけるコミュニケーションを構成する。テストは社会を作り上げるコミュニケーションの一つである。この「テストのコミュニケーション」というトピックもルーマン的観点から考えてゆきたい。


5.1 テストの三極の統合と関係者の自己準拠

 テスト問題とその正解・得点という情報は、それに接する人々のそれぞれの自己準拠によってさまざまな告示となる。それは「英語力」、「英語学力」、「センター用の英語力」あるいは「志望大学への合格可能性」などといった様々な告示のされ方をするだろうが、その告示が分析的なものであることはほとんどない。それは情報に接する人々に分析的枠組みがないからであるが、それ以上に問題として指摘するべきは、センター試験自体が、自らの告示に対しての努力をしていないことである。

 コミュニケーションにおいては通常、発話者は自らが発する情報が、どのような告示として受け取られるかについて配慮する。それは言い回しや声色などの選択によってしばしば現実化される。テストは自らの告示を通常、blueprint (設計図)を提示することにより促進する。Blueprintにおいて、テストが測ろうとしているconstruct(構成概念)を明示し、特にテストの得点という情報がどのような告示として受け止められるべきかをテスト実施者が明らかにしようとする。もちろんblueprint自身も一つの情報であるが、それはそれ自身がそうであると主張している告示となっているかは、テスト関係者それぞれが、テストの問題などの情報や何よりも自分自身に準拠しながら、それぞれに理解する。

 つまりテストもコミュニケーションになってしまい、そこでは情報、告示、理解という三極の統合が、テストに関係する者全てにとって、それぞれになされる。テストが合理的な行動である限り、テスト実施者は、テストが意図されている通りに、テスト関係者にとって情報となり、告示となり、理解されることを常に目指し、テストの改善を目指さなければならない。その改善は通常validationと呼ばれるだろうが、validationの重要な一部はテスト関係者からの声、つまりはコミュニケーションの試みである。(例えばETSは、 Listening to educators, parents and critics, Learning what students and their institutions need, and Leading in the development of new and innovative products and servicesという姿勢を全面に出している)。

http://www.ets.org/

 ここにおいてテスト関係者の声を、恣意的でなく、正当なものとして聞くには、テスト実施者が、テストという情報が適切に告示として受け入れられ、理解されるように最大限の合理的努力をしておかなければならない。テスト実施者は他のテスト関係者が、テスト実施者からのコミュニケーションの試みを適切に理解している者として認識していないと、他のテスト関係者の反応を、恣意的な自己準拠だけに基づく「素人」の声として切り捨てかねない。テスト実施者は、テストがコミュニケーションとなってしまうことを十分に自覚して適切な行動をとらなければならない。特に、コミュニケーションのテストが、まともにコミュニケーションされないという事態はあまりにアイロニカルである。


5.2 テストのコミュニケーションに二重の偶発性を導入する

 テストがそのblueprintを明示化せず、自分自身の告示について公式の見解を示さないなら、テストへの声は、少なくとも公式のものとして扱わずに、批判者の私的見解として非公式かすることが可能である。実際はそのような声はテスト実施者にも届き、テスト実施者の意識にも浸透しているのかもしれないが、その効果はテスト実施者の意識の内にとどまるだけで、仮にテスト問題が変えられるにせよ、それは情報自体の変化としてしか受け取られず、テスト自身の告示についてのコミュニケーションは公式のものとはなりがたい。

 テストに関するコミュニケーションが非公式なものにとどまるということは、テスト関係者は「来年度予想」や「傾向と対策」という形でコミュニケーションを試みても、それはテスト作成者が無視するべき情報としてテスト実施者に告示されることを意味する。ここではテスト関係者が、次のテストという偶発性に翻弄されても、テスト実施者はテスト関係者の批判という偶発性から守られている。これはテスト関係者にとっては自己変革のリスクを抑える手段となるだろうが、それは同時にテストをコミュニケーションによって、テスト実施者も予想していなかった方法でテストというコミュニケーションを発展させるという可能性を予め封じてしまうことでもある。

 テストという社会のコミュニケーションにも二重の偶発性をより大幅に導入するべきではないだろうか。そしてその導入を、少しでも目的合理的なものとするためには、テスト実施者が、テストのblueprintというテストの告示に関する情報を公式に提示して、テストの理解がテスト関係者に適切になされるための努力を果たすべきであろう。Blueprintが示されれば、テストの告示に関する情報が公式化され、その情報に基づくテスト関係者の反応も、公式的であるはずのものとなり、テストに関するコミュニケーションがそれだけ社会的力を増すようになる。発表者はかつて「入試はビジネス?」という小文を書いたことがあるが、それは今回の発表の枠組みで再解釈するなら、blueprintの公開によって、テストというコミュニケーションは、ビジネスという経済的コミュニケーションになるまで合理性を高めることができるということを意味していたとも言える。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay.html#060601

5.3 相互浸透によるダイナミズムの導入

 Blueprintの公表は、テストに関するコミュニケーションにより公的な力(アレント流に言うなら「活力」 (power) )を与える。公的な力をもつコミュニケーションは、その分だけテスト実施者という「公人」の意識と相互浸透しやすくなり、テストはコミュニケーションのダイナミズムにより創発的なテストの自己改善の可能性を高める。「三人寄れば文殊の知恵」という発想を延長した、あるいは飛躍的に発展させた「集合知」(collective wisdom, wisdom of crowds)の力を信じるならば、より一層私たちはblueprintの公表を始めとした、テストのコミュニケーションの活性化に努力する理由を持つことになる。


6 コミュニケーションのコミュニケーション

 本発表は従来の言語学・応用言語学のコミュニケーション論において弱かった、社会学的考察を、ルーマン理論を導入することによって、コミュニケーションとテストに根源的な再考察を加えることを試みたものである。コミュニケーションのテストの関係者は、その主題であるコミュニケーションに関してより深い理解をしながら、テスト自身が社会におけるコミュニケーションとして組み込まれていることを自覚するべきである。

 コミュニケーションこそが社会をつくるとルーマンは考える (6-VIII; 385, 330, 243)

すべての社会化は、人間と社会システムの相互浸透としておこなわれ、そうした人間と社会システムの相互浸透はすべて、コミュニケーションとして進行している。コミュニケーションが首尾よくおこなわれるためには、また、そのように首尾よくおこなわれるものとして経験されるには、(情報/告示/理解といった)三つの選択が一つの統一体を形成し、その統一体にその後のコミュニケーションが接続しえるようにならなければならない。こうしたコミュニケーションという事象に関与することは、― 情報の源泉としてであれ、告示する者としてであれ、また情報の告示を理解する者としでであれ ― すべての社会化の基盤なのである。(385ページ)

Alle Sozialisation läuft als soziale Interepenetration, alle soziale Interpenetration als Kommunikation ab. Kommunikation gelingt und ist als gelingend erfahbar, indem drei Selektionen (Infomation/Mitteilung/Verstehen) eine Einheit binden, an die Weiteres angeschlossen werden kann. Teilnahme an diesem Geschehen - sei es als Quelle von Information, sei es als Mitteilender, sei es Mitteilung-in-bezug-auf-Infrmation Verstehender - ist die Grundlage aller Sozialisation. (p. 330)

All socialization occurs as social interpenetration; all social interpenetration, as communication. Communication succeeds and is experienced as successful when three selections (information/utterance/understanding) form a unity to which further communication can connect. Participation in this occurrence - whether as a source of information, as an utterer, or as someone who understands the utterance in relation to information - is the basis of all socialization. (p. 243).

コミュニケーションが社会をつくるのだとしたら、コミュニケーションはよりよいものにならなければならない。そのためには本考察のようにコミュニケーションに関するコミュニケーションも促進されなければならない。本稿はコミュニケーションのテストとテストのコミュニケーションに関するコミュニケーションの試みであり、このコミュニケーションが英語教育界のコミュニケーションに接続されることを発表者は願う。



参考文献

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長岡克行 (2006) 『ルーマン/社会の理論の革命』 東京:勁草書房
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柳瀬陽介 (2006)  『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』広島:溪水社
柳瀬陽介 (2007)  「言語コミュニケーション力の三次元的理解」 日本言語テス学会口頭発表資料 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html
ルーマン、ニクラス著、佐藤勉監訳 (1993) 『社会システム論(上)』 東京:恒星社厚生閣
ルーマン、ニクラス著、佐藤勉監訳 (1995) 『社会システム論(下)』 東京:恒星社厚生閣
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2007年11月24日(土曜日)
広島大学総合科学部L102教室
科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践解明」
口頭発表「田尻実践におけるコミュニケーション」のための草稿
(これは第一次草稿であり、この稿は後日おそらく部分的に、あるいは大幅に書き換えられる予定である)




何がよい英語教師をつくるのか

―田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み-




広島大学 柳瀬陽介
http://yanaseyosuke.blogspot.com/
http://yosukeyanase.blogspot.com/

0 この論の構成

0.1 序論
0.2 コミュニケーションとは何か
0.3 ルーマンのシステム理論(個人主義的アプローチによる)
0.4 田尻悟郎のコミュニケーション
0.5私たち英語教師は田尻悟郎とどのようにコミュニケーションを取ればよいのか
0.6 結論




1 序論

1.1 背景(なぜ田尻悟郎氏の実践を研究しなければならないのか)

1.1.1 田尻悟郎という英語教師の実践は、その豊かさと深さから各方面での注目を浴びた。

1.1.2 彼の実践を「天才の技」「カリスマの芸」と称して、そこで彼の実践の解明をストップさせるのはあまりにも安易である。

1.1.3英語教育研究は彼のような教師の実践を解明し、できうる限りの洞察を得る必要がある。さもなければ英語教育研究は「現場軽視の、研究者の自己満足」といった謗りを免れないだろう。

1.2「田尻科研」以前の試み

1.2.1 発表者は1990年代後半から、できうる限り田尻悟郎を観察し、その観察に促された分析をホームページ(「英語教育の哲学的探究」http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/)に掲載してきた。

1.2.2「田尻実践に見る英語教育内容マネジメントに関する一考察」(『中等教育における教科内容指導研究』平成16年度広島大学教育学研究科リサーチオオフィス研究報告書 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/inservice.html#050306)にでは田尻実践が「到達目標型」「スパイラル型」「生徒実態対応型」「複数リソース型」であることを示した。

1.2.3「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 (2005), Number 30, pp.167-176 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418)は、田尻実践が、英語教育によって、教室を殺伐とした空間から公共的で各人が自らを発見する空間に変えた様子を、ハンナ・アレント (Hannah Arendt) の哲学的枠組みを使って分析的に記述したものである。なおこの分析は、より広いオーディエンスを求めて、国際学会Asia TEFL 2006 International Conference (Seinan Gakuin University, Fukuoka, Japan) on August 19th, 2006 で口頭発表された。(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#060816)

1.2.4 「ヤフケ実践と田尻実践を見て:芸術としての英語教育」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050603)は、田尻実践が、生徒を英語処理ができるメカニズム以上の、言語を豊かな意味合いで使える人間として育てているものであり、その人間的な英語教育は、アレントの言う「芸術」性を持つことによって可能になっているという解釈を示した。
1.2.5 「ヤフケ・田尻シンポジウムのまとめに代えて:「個性記述主義」あるいは"English as an alternative language"などについて」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050626)においては、思春期にある子どもたちには、事があまりにも深く今までのしがらみと絡まっているため、日本語で語ろうとすると、かえってその言葉の重みゆえに語れず、文法的に不如意で、語彙も貧困かもしれないけれど、第二言語である英語で表現した方がむしろ語れる事柄があるかもしれないという可能性を提示した。

1.3 「田尻科研」での試み

1.3.0.1 2005年度からは、通称「田尻科研」(「言語学・コミュニケーション・ライフヒストリー的観点からの中学英語教師の研究」平成17-19年度科学研究費萌芽研究 課題番号17652064)をスタートし、言語学的観点(大津由紀雄)、ライフヒストリー的観点(横溝紳一郎)と共に発表者はコミュニケーション的観点から田尻実践を観察しインタビューを重ね、田尻実践に関する思考と分析を進めた。

1.3.1 多くのインタビューから、発表者は言語を通じて技能の解明を行うインタビューについての問題点を「インタビュー研究における技能と言語の関係について」(中国地区英語教育学会紀要 2007年 Number 37, pp. 111-120 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517)にまとめた。

1.3.2 「ある中学英語教師の多声性について」(『中等教育における教科内容指導研究』平成17年度広島大学教育学研究科リサーチオオフィス研究報告書 未公表)は、田尻実践におけるコミュニケーションの豊かさを分析したものである。なおこの分析は、国際セミナー(The 1st English Education Seminar, KOBE, JAPAN, 14-17 MARCH 2007)のポスターセッションで発表された(http://yosukeyanase.blogspot.com/2007/03/multi-voices-in-tajiri-goros-classes.html)。

1.3.3 「田尻科研」を通じてコミュニケーションを考える中で、発表者は、旧来の言語コミュニケーション力論(『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』溪水社 平成17年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)による出版)の限界に気づくようになり、言語コミュニケーション力論の新たな枠組みを、「言語コミュニケーション力の三次元的理解」 (2007年10月28日日本言語テスト学会 口頭発表 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html)で示した。

1.3.4 しかし田尻実践が示すコミュニケーションの豊かさと深さは、「三次元的理解」も含めた従来の個人を対象とした論考ではとらえきれないことを発表者は直感していた。

1.3.5 そんな中、発表者は、10年以上前に興味を持ちながらも、研究にまでは結実しなかったルーマンの理論に偶然に再会し、読みすすめたところ、これがコミュニケーション理論として優れているだけでなく、「何がよい英語教師をつくるのか」という大きな問題の解明にも優れた理論的解明をすることを確信した。まだまだ発表者のルーマン理解には地道な読解が必要であるが、シンポジウムのこの機会を利用し、現時点での発表者の考察を公開し、批判を仰ぐこととする。

1.4 目的

1.4.1 この小論の目的は「何がよい英語教師をつくるのか」という普遍的問いについて、説得力のある普遍的・理論的解答を提示することである。

1.5 方法

1.5.1 この小論は、「何が田尻悟郎をつくったのか」についての観察を経て得た漠然とした仮説を、関連性理論 (Relevance Theory) とニクラス・ルーマン (Niklas Luhmann) のシステム理論により定式化することにより、上記の「何がよい英語教師をつくるのか」に対する答えを出すことを試みる。

1.5.1.1 つまりこの論は、個性記述的研究を経た上での、普遍理論的な仮説的解答の導出の試みである。

1.5.1.2 ルーマンの理論は、この導入が、もっとも上記の問いに的確な答えを出しうるだろうという発表者の直観に支えられている。つまりルーマンの導入は、演繹(deduction)、帰納(induction)によるものではなく、アブダクション(abduction)によるものである。この直観的アブダクションは、発表者のこれまでのデイヴィドソン(Donald Davidson)哲学および関連性理論によるコミュニケーション理解に基づいたものである。(デイヴィドソンに基づいた論考としては「コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学」日本教科教育学会誌 2002年 第25巻 第2号 pp.1-10  http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/DComComp.html)、「デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』第47巻第一部pp.55-60. http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/GlobalError.html)を参照されたい。

1.6 仮説

1.6.1 第一次仮説提示:よい英語教師をつくるのは「コミュニケーション」である。

1.6.1.1 だがこの「コミュニケーション」は後述するような通俗的なコミュニケーション観(コードモデル (Code Model) ・「移転」 (?bertragung; transmission) メタファーで理解されるコミュニケーションではない。

1.6.1.2 「コミュニケーション」はより洗練された理論によって理解されなければならない。ルーマンの理論はその最有力候補である。

1.6.2 第二次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる英語教師のコミュニケーションである」

1.6.2.1実際の「コミュニケーション」は、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などに下位区分される。これらすべてのコミュニケーションにおいて日本語と英語は場合に応じて使い分けられる。

1.6.3 第三次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである」

1.6.3.1 採択しない二つの仮説

1.6.3.1.1 「よい英語教師をつくるには、本からの理論研究の広範な学習が不可欠である」。

1.6.3.1.2 「よい英語教師をつくるには、長期間の海外留学が不可欠である」。

1.6.3.2これらの事実は田尻氏には観察されなかった。それよりも田尻実践の観察から痛感されるのは彼のコミュニケーションの豊かさと深さである。

1.6.3.3よって「理論研究の広範な学習」および「長期間の海外留学」は、よい英語教師をつくるための、厳密な意味での必要条件とは言えない。

1.6.3.4 だが、このことは理論研究および海外留学の重要性を否定するものでは決してない。実際田尻氏も理論研究および海外体験の重要性を主張している。

1.6.3.5 したがって、本論考での主張は、英語教師の毎日のコミュニケーションは、おそらく理論研究や海外留学以上に重要であること、少なくとも毎日のコミュニケーションが豊かで深くあれば、広範囲な理論研究や長期の海外留学がなくともよい英語教師が誕生することは可能である、ということである。

1.6.4 第四次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、理論研究や海外留学である以上に、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである」

1.6.5 最終仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、理論研究や海外留学である以上に、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである。よい英語教師は、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などでつくられる」

1.6.6以上の仮説の妥当性を示すべく、以下の論考では「的確なコミュニケーション理解に基づくコミュニケーション」を明らかにする


2 コミュニケーションとは何か

2.1 これまでのコミュニケーション観は特定のメタファーで捉えられている。

2.1.1 「コミュニケーション」とは、通俗的には「コードモデル」 (Code Model) によって、情報が「移転」 (Übertragung; transmission) するというメタファーでとらえられている。それゆえ「コミュニケーション」はしばしば「情報伝達」と言い換えられる。

2.1.1.1 移転メタファーの同類に導管メタファー (conduit metaphor) がある。

2.2これまでのコミュニケーション観は、シャノンとウィーバーによる情報理論に基づいている。

2.2.1 シャノンとウィーバーはAからBに情報を正確に効率よく伝達(あるいは移転)することについて考察した。伝達には、情報の符号化(encoding)と復号化(decoding)が用いられる。この符号の伝達においてノイズがひどく、正確な伝達が行われないならば、伝達の誤りが訂正される。情報の符号化・復号化・誤り訂正が正確に効率よくなされれば、情報伝達は成功する。この考え方は情報技術を急速に発展させた。

2.3 しかし多くの人は、この情報理論を人間のコミュニケーションにも転用し、この情報理論を人間のコミュニケーション理論として考えた。

2.3.1 このコードモデル的コミュニケーション観によるならば、人間のコミュニケーションは以下のように説明される。Aという人間がXという思考内容を持ち、それをYという符号に符号化する。Bという人間はそのYという符号を正確に授受し(あるいはノイズによって乱された符号を訂正してYを復元的に授受し)、そのYから元々はAの思考内容であったXを復号化し、Bの頭の中にXという思考内容を移転することに成功する。つまりAからBへのXの移転がコミュニケーションの成功である。

2.4 だが関連性理論 (Relevance Theory) は、このコードモデル的コミュニケーション観が、人間のコミュニケーションを説明するには不十分であることを明らかにした。

2.4.1 人間は思考内容のすべてをある符号に符号化しつくせることはない。符号化は莫大な前提(presupposition)に基づいて初めて可能である。莫大な前提をすべて符号化することは、人間の情報処理能力を超える。

2.4.2 したがって人間は通常、ある符号化により、その符号の「明意」 (explicature) (あるいは「文字通りの意味」 (literal meaning) )と、その文字通りの意味に基づいて、相手が推論すると思われる「暗意」 (implicature) (あるいは「話者の意味」 (speaker meaning) )を、相手が理解することを期待して、自分なりの符号化を行うだけである。

2.4.3 逆に、人間は、相手の思考内容のすべてをある符号から完全に復号化することはできない。人間ができることは、相手が発した符号の明意を把握(comprehend)し、相手が、自分が推論することを期待していると思われる暗意を自分なりに解釈(interpret)して相手の符号化を理解(understand)するだけである。相手の思考内容のすべてを自分に移転させることは人間にはできない。

2.4.4 語用論の議論では暗意は、比較的同定が容易なものとして扱われることが多い(例えば "It's cold here."の暗意として<Please close the window>)。しかし実際のコミュニケーションではそのように明らかな「強い暗意」はむしろ例外的であり、たいていの暗意は「弱い」ものである(例えばピクニックでの "Look at the blue sky"の暗意を正確に同定あるいは枚挙することはほぼ不可能である)。

2.4.5 暗意に明確な境界線が引けないとするなら、伝達される「情報」には明確な境界線を持たないことになる。このようにあやふやで曖昧なものを「伝達」あるいは「移転」すると考えるメタファーはそもそも適切ではないと考えられる。

2.4.5.1 また改めて考えて直してみるならば「明意」(「文字通りの意味」)の概念もそれほど明瞭なものでない。少なくとも発表者はこの概念を、トートロジーを用いずに説明することはできない。

2.5 したがって人間のコミュニケーションは、単なる情報伝達ではない。

2.6 人間ができることは、ある発話によって、相手の思考をある一定の方向に変えようと期待できるだけである(そしてその期待はしばしば裏切られる)。

2.7 人間のコミュニケーションを、コードモデル的にとらえることは、人間のコミュニケーションを誤解することにつながる。

2.8コミュニケーションのコードモデル的誤解に基づく行動は、「私は相手に自分の思いのすべてを伝えられるはずだ」という誤った期待を生み出す。

2.8.1 したがって、教師は学習者に、自分が伝達したいと願う教授内容をすべて伝達できることを期待する。また学習者が、教師が伝達したいと願っている教授内容をすべて自分のものにすることを期待する。

2.8.2また、教師は学習者に、自分が伝達したいと願う学習への意欲をすべて伝達できることを期待する。また、学習者が、教師が伝達したいと願っている学習への意欲をすべて自分のものにすることを期待する。

2.8.3これらの期待はたいていの場合裏切られる。裏切られたという感情はしばしば、自分あるいは相手、またはその両方が罰せられるべきだという考えにいたる。

2.9 人間は、他人の頭の中へ直接介入したり、他人の頭の中を直接操作したりすることはできない。コード的コミュニケーション観は、あたかも人間が、他人の頭の中に直接、情報を移植したり、他人の頭の中の思考内容や意欲などを操作したりできるかのような誤った期待をもたせる。

2.10 私たちは人間のコミュニケーションにおいては、コード的コミュニケーション観から決別しなければならない。

2.11 「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」ということが新たなコミュニケーション理論の前提とならなければならない。


3 ルーマンのシステム理論(個人主義的アプローチによる理解)

3.0.1 ルーマンは「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」という前提をもつシステム理論を発展させた。以下、彼のシステム理論に基づく彼のコミュニケーションについての考えを簡単に述べる。ルーマン独自の用語には《 》をつけて表記する。

3.0.1.1ただしここでのルーマン解釈は、発表者が『社会システム理論』の翻訳を理解できた限りにおいてのものである。1984年の『社会システム理論』はルーマンの主著であるが、彼の理論はその後も発展しており、この発表ではその発展を捉えていない。したがって後年のルーマンが頻繁に使用しなくなった用語もこの論には含まれている。『社会システム理論』においても、発表者は解釈に彼なりの全力を尽くしたが、この解釈の正統性を確証するまでの研究は残念ながらできていない。ここでのルーマン解釈はせいぜい初歩的なものにすぎない。

3.0.1.2さらにここの解釈は、コミュニケーションをもっぱら個人の意識の観点からとらえている。これはコミュニケーションを《社会システム》としてとらえるルーマンの理論構成からすれば、全く裏側のアプローチである。だが発表者は、個人心理学に基づく言語学および応用言語学を基本的な考え方とする英語教育関係者には、この裏側からのアプローチの方が理解容易だと考え、《社会システム》からのコミュニケーションの論考は、今回は断念する。

3.1 私という意識は、一つの《心理システム》 (psychic system) である。

3.1.1 《心理システム》は「オートポイエーシスシステム」 (autopoiesis system) である。

3.1.1.1 「オートポイエーシスシステム」とは、「自己準拠」 (Selbstreferenz; self-reference) および「自己組織性」 (Selbstorganisation; self-organization) に基づくシステムである。

3.1.2 私の意識という《心理システム》は、オートポイエーシスシステムとして、自ら(=私の意識)に依拠し、自らを要素として、自己構成を自ら継続的に再生産している。つまり、私の意識は、今までの私の意識と接続している限りにおいてしか新たにならない。この意味で、私の意識という《心理システム》は自己再生産の継続という作動において《閉鎖的》である。

3.1.2.1 しかし、《心理システム》が作動的に《閉鎖的》であるということは、《心理システム》が、それ以外のものとまったく無関係に単独で存在することは意味しない。

3.1.2.2 私の意識という《心理システム》にとって、それ以外のものすべては《環境》 (Umwelt; environment) と呼ばれる。他人の意識というもう一つの《心理システム》も、私の意識という《心理システム》にとっては《環境》にすぎない。しかし《環境》は、《心理システム》に外からの影響を与えうる。

3.1.2.3ある《心理システム》と他の《心理システム》とが互いに他方の《環境》となっている場合に、ある《心理システム》が、他方の《心理システム》が新たに編成(自己準拠的に自己組織化)されるために、その《心理システム》の複合性 (Komplexit?t; complexity) を、《環境》の側から提供する場合、それは《浸透》 (Penetration; penetration) と呼ばれる。《浸透》において、ある《心理システム》は、それ自身以外の《環境》と《結合》(Bindung; binding)する。

3.1.2.3.1 この本来は互いに《環境》であるはずの二つの《心理システム》が、他方の複合性を契機に、それぞれに自己準拠的に自己組織化することを、本論ではコミュニケーションと定義する。誤解を怖れず単純に言いなおすなら、コミュニケーションとは、発話を外的な契機として、お互いがそれぞれに変容することである。聴者が、話者の発話によって、聴者なりに変容することはもとより、話者も、自分が発した発話を観察することにより、話者自身も変容を示す。

3.1.2.3.2 聴者という《心理システム》は、発話という自分以外の《環境》と、聴者なりに《結合》し、その《結合》により聴者という《心理システム》は自己を再生産する。だが、その際に話者という《心理システム》が発話による《結合》を通じて、全面的に聴者という《心理システム》に入り込んだわけではない。聴者という《心理システム》にとって、話者という《心理システム》は《環境》の一部であり、自己以外のものである。《心理システム》は《環境》の一部を、あくまでも外的な契機として影響を受けるだけであって、自らが自らなりに変化するだけである。

3.1.3 この《環境》との《結合》において、《心理システム》は、オートポイエーシスシステムとして作動的に《閉鎖的》であると同時に、《環境に対する開放性》を持っているといえる。

3.1.3.1 オートポイエーシスシステムの自己準拠とは、いかなる場合にでも自己を拠り所とするように指示すると同時に、自己以外のものを参照するように指示する自己準拠である。オートポイエーシスシステムは、自己の参照と自己以外の参照の差異を用いてシステムの自己再生産を可能にしている。

3.1.3.2 しかしこの《環境に対する開放性》は、《心理システム》が自らに、自らの要素として接続可能であると選択したものに限られている。《心理システム》が《環境》に対して自らを開くとき、《心理システム》は自己を観察し、新たな自己の要素を選定しそれを今までの自己要素と連動させ組織化する。《心理システム》の自己準拠は、この意味で自己観察であり、自己観察に基づく自己組織化である。

3.2《心理システム》は《環境》に対して無限に開放されているわけではない。もしそのように無限に開放されたら、《心理システム》に莫大な複合性が生じ、その《心理システム》は自己準拠も自己組織化もできず、崩壊してしまうであろう。

3.2.1 こうなると「学習」とは、《環境》からの情報が、ある《心理システム》において部分的な構造変動を促し、しかもその《心理システム》の自己同一化が壊されないことを言う。逆に言うなら、自らの自己同一化を破壊してしまうような学習を《心理システム》は通常はしない。

3.2.1.1 意識のオートポイエーシスが破壊されそうな時、《心理システム》はしばしば身体において強烈な感情を経験する。この点で感情は、《心理システム》の免疫システムになぞらえることができる。感情は、《心理システム》が《環境》との多大な《結合》によって崩壊の危機にあることを知らせる警告サインである。この意味で、感情は《心理システム》の自己同一性に関する自己解釈であると言える。

3.2.2 学習は《心理システム》というオートポイエーシスシステムの内での出来事である以上、オートポイエーシスシステムの中には、その学習を可能にするような何らかの知識が前提的に存在しておかなければならない。

3.2.2.1 言語は《心理システム》と《環境》の《結合》において決定的に重要な役割を果たす。学習の前提となる知識においても言語は重要な役割を果たす。


4 田尻悟郎のコミュニケーション

4.1 田尻はコミュニケーションにおいて、自分の知識や心情を伝達しようとする以上に、相手に創造的刺激を与える (inspire) ことを試みている。田尻はコードモデル的コミュニケーション観ではなく、「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」という前提をもつコミュニケーション観を持っているように思える。

4.1.1 田尻は教室を、一人の教師から一塊の生徒全員への知識伝達の場としてはとらえない。彼はそのような教育観が有効でないことを経験とその経験からの反省によって学んだ。

4.1.2 田尻は教室を、一人一人の生徒が、それぞれに自分なりの刺激を受け、自分なりに変わり、その新たな自分を表現し、一人一人の生徒がお互いに相互作用を起こす場として考えている。田尻の教室において生徒は自律し、新たな自分と他人を見出す。

4.1.2.1田尻は教室で、教え込むのではなく、気づかせることを目指す。

4.1.2.1.1 田尻の生徒は、しばしば自ら気づき、「あっ、そうか!」と叫び、「わかった、わかった、もう先生説明するな!」と教師の介入を拒む。このような生徒の行動を田尻は授業の成功を測る指標の一つとしている。

4.1.2.2 田尻は、テストや自学ノート、放課後自主勉強会といった形で個人指導を徹底していた。

4.1.2.2.1 大学の授業でも田尻はできるだけ個人指導を導入しようとしている。

4.1.2.3 田尻はクラスの初期では、ファーストラーナーの指導を優先し、彼/彼女らがある課題ができるようになったら彼/彼女らを「リーダー」として任命し(生徒はそれを「子田尻」と呼んだ)、彼/彼女らに、彼/彼女らに続く生徒を指導させ、田尻はスローラーナーの指導に取り組んだ。

4.1.2.4 田尻は自分だけが知識の供給源となることを拒み、英語教室の壁面一杯に文型表やフォニックス一覧を貼ったり、「お助けブック」を刊行したりして、生徒に常に複数のレファレンスを持たせ、生徒が様々な形で気づくことを支援した。

4.1.3 この田尻の個人に創造的刺激を与えるスタイルは、クラスに一斉に「教え込もう」とするコードモデル的コミュニケーション観での授業スタイル(知識伝達型)と好対照である。
4.1.3.1 教師が、生徒の頭の中に直接知識や意欲を移転させようとする授業スタイルは、せいぜいうまくいったとして、教師の知識が生徒にそのまま複製されるだけである。だがそれは複製である限り、劣化したものである。また、複製もそのまま複製されただけなら、生徒の中に取り込まれず、「丸暗記」されたものとして、やがて消えてゆく。現実的には情報伝達型の授業は、教師、生徒の多くが共に自己嫌悪と相互嫌悪を持つこと、あるいは共に怠惰な諦念を持つことに終わりかねない。

4.2 田尻は自分にとっての《環境》である生徒との接点を持つために、内容と方法において多彩なコミュニケーションを生徒に対して試みる。彼は「正解と不正解の区別」という狭義の教師のコミュニケーションスタイルをはるかに超え、多彩な発話の使い分けによって、互いに《環境》であるお互いの接点を増やし、コミュニケーションを絶えず継続しようとしている。
4.2.1 コミュニケーションの継続こそが、教師ができる限界であり、最良のことである。教師は生徒の頭の中に直接介入操作して知識や意欲を移植することはできない。教師ができる最善は、生徒が教師の外からの働きかけを通じて内から変わることを促進することである。

4.2.1.1 田尻のスタイルは、生徒指導と英語指導を融合させたものとも解釈できる。

4.2.1.1.1田尻は、「自転車の鍵をなくした生徒への対応一つで、それからの授業が変わる」とも、「授業で人間関係ができた子には生徒指導もしやすい」とも述べる。

4.2.1.1.2田尻は、しばしば英語指導の際に「社会ではそういうのは通用しない」というスタイルの説得をする。田尻は、彼が、生徒が社会に出た時のことを見通して指導していることを生徒に伝える。

4.2.2 発表者が、中学一年生対象の田尻の三つのクラスを連続して観察した時に、授業内容とフォーマットはほとんど同じであるにもかかわらず、田尻のクラスはそれぞれの個性を持ち、見ていて飽きるということが一切なかった。これは田尻が自分のスタイルをただただ押し付けるのではなく、それぞれのクラスという田尻の《環境》にうまく接点を見つけて、田尻の授業を田尻の方針に基づきながらも細部を即興でつくりあげていったからであろう。

4.2.2.1 田尻のクラスは「田尻流」ではあるが、この「田尻流」は、田尻が、田尻の予想を超える生徒の反応にぶつかりながらも田尻らしさを失わずに対応し続けていることにより生じている。「田尻流」は田尻によるものであるが、田尻だけによってできたものではない。

4.2.3田尻は授業で様々な声を使い分ける(授業での多声性)

4.2.3.1 田尻の授業での日本語は多彩である。

4.2.3.1.1田尻の授業での日本語は、大きく分けるなら、教育内容に言及する時は明瞭性と規範性に富む標準語を使い、学習者との相互関係を活性化させる時には親和性に富む関西弁を使い、学習者との心理的な距離を縮めようとする時には親密性に富む出雲弁を使うという使い分けがなされている(これは田尻が島根県の公立中学校に勤務していた時の話である)。

4.2.3.1.2 田尻の授業での日本語は地域方言の使い分けがあるだけでなく、スピード、テンポ、リズム、イントネーション、ポーズ、メロディー性、声の大きさ、声の質、演劇性、などにおいても多彩な使い分けがなされている。

4.2.3.2田尻の授業での英語は、非常に正確かつ流暢であるだけでなく(発表者は、中学生でもわかるレベルの英語でこれだけ深く適確な英語表現ができる日本人を他には知らない)、日本語使用と同様に、スピード、テンポ、リズム、イントネーション、ポーズ、メロディー性、声の大きさ、声の質、演劇性、などにおいて多彩な使い分けがなされている。

4.2.3.3田尻の授業での英語から日本語へ、日本語から英語への変化はスムーズで、一瞬どちらの言語で田尻がしゃべっているかわからないと観察者でさえ思えるぐらいに、田尻のコミュニケーションは聞き手を引き込んでいる(田尻は「生徒は私が英語をしゃべっている時に、それが英語だと自覚していないことも多いと思います」と述懐したことがある)。

4.2.3.4田尻の身体言語も豊富である。特に生徒が失敗をした時の満面の笑み(!)、個人的にしゃべる時に決して切らないアイコンタクト(田尻は、自分はアイコンタクトが下手だからじっと見つめていると自己解説する)、言葉がなくても言いたいことがわかるのではないかといえるほどの明確で大きなジェスチャー、生徒の間違いを言語的には指摘しないまま、口の動きだけで生徒に文法などを訂正させる顔と口の動き、机間巡視のさりげない肩たたき、生徒の冗談に席から飛び上がらんばかりに笑う闊達さ、「毛づくろい」とも言えるような生徒の身体的コミュニケーションを受け入れる態度など、田尻は非言語的にも多彩な手段で生徒とコミュニケーションを取っている。

4.2.4田尻には教師の典型的な基準である「正・誤」だけでなく、「よくやった・どうしたんだ?」「理解できる・受け入れられない」「社会的に認められる・社会では通用しない」「個性的である・お前らしくない」「笑える・面白くない」などの多様な基準を持ち、それらの基準を使い分けることによって、できるだけ生徒に肯定的な反応を返して、コミュニケーションを切断しないようにしている。
4.2.4.1職員室での同僚とのコミュニケーション、特に生徒を話題にしたコミュニケーションを田尻は積極的に促進し、教員間・生徒間にできるだけ多くの接点をつくろうとしている。
4.2.4.1.1田尻の同僚である若い女性教師は、田尻が職員室では出雲弁で自分の失敗談や家族の話をよくするので、職員室の雰囲気が和むとも証言した。

4.2.5この田尻の多彩なコミュニケーションスタイルは、いわゆる「教師」としてのステレオタイプ的な役割期待を教師自身と生徒そして同僚に対して堅持し、その役割期待から外れる発言や行動は一切しようとしない教師のスタイルと好対照である。そのような教師は、教師の役割期待を共有する「よい生徒」とは、正解・不正解の区別という限られた情報伝達は行いうるが、そのような役割期待を持たない生徒とは、お互いに理解不可能な《環境》として、教室という空間に物理的には共存するが、コミュニケーションという関係は結び得ない。同僚とも、職務遂行上最低限の情報交換をするだけであり、いわゆる「同僚性」を育てることはしない。

4.3 田尻はコミュニケーションの結果から自己観察し、自己省察し、新たな要素を自己に取り込む自己組織化・自己再生産を継続して行っている。そのプロセスが長期にわたるときには田尻はまさによく「考える」教師だと言える。

4.3.1田尻の「自分は何も考えず直感的に行動しているだけです」という台詞は、謙遜あるいは自嘲の言葉であり、田尻に関する正しい記述ではない。

4.3.1.1田尻は「24時間考えていないと何も新しいアイデアは浮かばない」というエピソード(NHKテレビ『プロフェッショナル』における自動改札システム開発秘話)を好んで語る。

4.3.1.2田尻は東急ハンズなどの様々な刺激を得る場所に行くと、時間が許す限りそこに滞在し、何が英語授業に使えるだろうかと考える。彼は積極的にこれまでの自分の英語教育の発想を超えた《環境》との接点を求め、自らの英語教育の発想を更新しようとしている。

4.3.2田尻の口癖の一つは「反省、改善、進歩」である。ビジネスでは"Plan-Do-See-Action"というが、田尻の場合『愛する、行動する、見る、考える、気づく』で授業を改善している。
4.3.2.1 いずれにせよ、田尻は自らを超えた《環境》(生徒という《心理システム》は田尻にとっても《環境》である)に積極的に働きかけ(=愛する、行動する)、その働きかけの結果を観察し(=反省する、見る、考える、気づく)、自らの行動を自らを超えていた《環境》に促されながらも、自らができうる範囲で、ということは、単なる旧来の方式の繰り返しでもなく、逆に全く自分とは異質の方式の移入でもないやり方で自己を改革する(=改善、進歩)。

4.3.2.1.1 田尻はしばしば真面目な話を真剣にした後に、わざと「オチ」を入れて人を笑わせるが、これは田尻が自らのコミュニケーションを自己観察し、そのコミュニケーションとそれ以外ののギャップ(差異)を取り込み、「オチ」という形で自分のコミュニケーションを自己再生産していると解釈できる。(自己観察はユーモアに不可欠である)。

4.3.3 田尻は自身の英語力をつけたのは、毎日のシャドウイング訓練と、生徒の英作文添削であると述懐する。田尻は生徒の英作文の的確性の判断に誠実に取り組み、その度に自らの英語知識を再観察し、辞書を引きなおし、ALTに助けを求め、自らの英語知識を充実させていった。

4.3.3.1 田尻の英語知識はこのように絶え間ない自己観察・自己省察によって自己再生産され続けているものであるので、自己整合性が高く、彼の英語の説明は他に例を見ないユニークで、論理的一貫性の高いものである。

4.3.3.1.1 田尻の英語知識は、どこかの本の知識を丸暗記して田尻の頭の中に移転させたものではない。そのような移転による知識では、生徒に対しての当意即妙かつ整合的な説明は不可能である。

4.3.4 この田尻の自己観察的・自己省察的スタイルは、自己観察・自己省察を欠いた「やりっぱなし」の授業スタイルとは好対照である。教師が自己観察・自己省察を欠く時、教師は自らの檻の中に閉じ込められたまま、《環境》に適応することができない。また教師が他人からまったく新しいやり方を学んで、そのやり方を自分の授業に移植しようとしても、自己観察・自己省察を欠くなら、そのやり方は、教師自身の中に取り込まれず、ましてや生徒にも受け入れられず、授業改善にはつながらない。自己観察・自己省察を欠いたまま新しいやり方を求め続ける教師は、失敗を重ね、やがて授業改善の試みを諦める。

4.4 まとめるなら、田尻のコミュニケーションとは、創造的刺激で生徒を内から変えようとするものであり(情報伝達型ではない)、生徒と多様な接点でつながろうとし(教師という役割期待だけに拘泥しない)、コミュニケーションする自分を絶えず自己観察し、そのことによって自己変革を持続的に継続している(「言いっぱなし」ではない)。この田尻のコミュニケーションを、この論文は「的確なコミュニケーション理解に基づくコミュニケーション」の一例として考える。

4.4.1 田尻悟郎をつくったのは、この田尻悟郎のコミュニケーションである。


5 私たち英語教師は田尻悟郎とどのようにコミュニケーションを取ればよいのか

5.1 田尻悟郎は、私の意識という《心理システム》にとっての《環境》である。

5.1.1しかもこの田尻という《環境》は、英語教師としての総合的力量の複合性において、英語教師としての私の自己同一性を破壊しかねない《環境》である。

5.1.1.1多くの英語教師は田尻実践を見た後、嘆息をついて「自分は駄目だ」と言ったり、感情を高ぶらせ「田尻先生は特別だから」などと田尻と自分の関係を切断しようとしたりする。これは英語教師の自己防衛反応であり、英語教師が、田尻実践という現在の自分が処理できない複合性に一気に接したために生じる、自己崩壊を防ぐための自衛手段である。

5.1.2 であるが同時に、この田尻実践という《環境》は英語教師としての私を、かつての私が予想できなかったように変容することを促す潜在的可能性をもった《環境》でもある。

5.2このような《環境》に接しながら、自己改革を遂行するにはそれなりの知恵がいる。

5.2.1通俗的に私たちは「この人から多くを学んでください」というが、田尻といった対象にこういった通俗的な助言を適用してはいけない。

5.2.2田尻に対しては「この人からは少しだけしか学ばないでください。あなたが自己を崩壊させないで、自己改革を続けることができる範囲だけを学んでください。大切なことはこのような実践とあなたとのコミュニケーションを切断しないことです」といった助言の方が有効である。

5.2.2.1発表者は約10年前田尻に初めて接した時に、日頃の習慣であったノートを取ることを数分で断念し、その日は田尻の雰囲気に身を浸すことだけに留めようと直感的に判断した。それから10年かけて、発表者は少しずつ田尻から学び続けている。自画自賛的になることを怖れずに言えば、これは悪い選択ではなかった。

5.2.3 田尻実践といった高い複合性をもった《環境》に接する場合、《心理システム》と《環境》の《結合》において重要な役割を果たす言語を《心理システム》は前提知識として用意しておかなければならない。すぐれた実践を観察する前に、私たちは授業について語る言語をある程度用意しておかなければならない。

5.2.3.1 発表者の経験でも、田尻実践をいきなり学部生などに見せた場合、返ってくるのは極めて表面的な感想だけであった。

5.2.3.2 上記の失敗から、発表者は、まず授業、および言語コミュニケーションについて語る言語を、理論を教えることを通じて学部生らの身につけさせたところ、教職経験を持たない学部生でもだんだんと本質的なコメントができるようになった。

5.3 私たちは田尻悟郎に田尻悟郎の知恵と技能を私たちの中に移植してもらおうと期待してはならない。

5.3.1 田尻悟郎から私たちへのコミュニケーションは、田尻悟郎から私たちへの創造的刺激であり、その創造的刺激を活かすも殺すも私たち次第である。

5.3.2 田尻悟郎のような優れた英語教師になるには、必ずしも田尻悟郎は必要ではない。必要なのは自分以外の《環境》であり、その《環境》とのコミュニケーションを決して断念しないことである。


6結論

6.1 よい英語教師をつくる基本は、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションであることを田尻実践は示している。

6.1.1 よい英語教師は、日本語と英語の多彩な使い分けによって、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などの様々な場面において、自らを超える《環境》と、自己観察と自己省察を通じて接点を見い出し、新たな自分の可能性を実現している。よい英語教師は、生徒を内から変えようとし、自らの立場を柔軟に変容させ、自らの言動を常に観察している

6.1.2 よい英語教師は、それが英語指導の場面だろうと生徒指導の場面だろうと、教育内容についてだろうとそれ以外のことであろうと、日本語を使用する場合だろうと英語を使用する場合だろうと、生徒とのコミュニケーションを継続し発展させるということを最優先している。

6.1.2.1 そのコミュニケーションの持続こそが、教師と生徒をそれぞれ自分なりに変化させ成長させる。

6.2 機械通信に適用すべき情報理論であるコードモデルを、人間のコミュニケーションに適用してはならない。

6.3 私たちのコミュニケーション理解は、関連性理論、およびルーマンのシステム理論などによって、より洗練されなければならない。

6.3.1 教師は、自分は決して生徒の頭の中に直接介入・操作ができないことを自覚しなければならない。

6.3.2 教師は、自らの最善とは、生徒とのコミュニケーションを切断せずに、創造的刺激を与え続け、生徒が自律的に内から変わることを促進することであるを自覚しなければならない。

6.4 田尻実践といった優れた実践に接しても、私たちはそれを特異なものだとして、その実践とのコミュニケーションを絶ってしまうのではなく、個性的な実践の中に普遍性を見い出そうと試みなければならない。

6.4.1 田尻実践という個性的実践が「優れた英語教育実践」と普遍的に概念化された時に、田尻悟郎という特定の個人は、英語教育にとっての「救世主」であるという考えから解放される。(英語教育界は田尻悟郎に頼り過ぎてはいけない)。

6.4.2 英語教育が変わるのは、英語教育の内側からである。英語教育の改革は、それぞれの英語教師が、それぞれの《環境》と可能な限りのコミュニケーションを継続し、自らをより複合的に自己組織化することから始まる。

6.4.2.1 自己組織化を継続する英語教師が、互いにコミュニケーションを始め、英語教師の《社会システム》を密にする時、英語教育界は他の《社会システム》という《環境》とも適合的に対応できるようになる。

6.5 自らの処理能力を超えるような高い複合性をもった《環境》に出会った場合、私たちは自らの《心理システム》の崩壊を防ぐことを優先し、それがかなう限りの範囲でその《環境》と少しずつ接点を見出し、コミュニケーションを絶やすことなく、少しずつ自己をつくり変えてゆかなければならない。ここでもコミュニケーションの継続がなしうる最善のことである。
6.6 「何がよい英語教師をつくるのか」という本論の問いに、私たちは以下の普遍的な回答を与える。

6.6.1 必要なのは英語教師である自分とその《環境》、およびそれらの間の絶えざるコミュニケーションだけである。

6.6.1.1 絶えざるコミュニケーションにより自分はますます複合化し、《環境》のより大きな複合性にも対応できるようになる。

6.6.2 コミュニケーションを契機に複合化された自分は、複合的な《環境》に対しても、必ずしも自分でも予想していなかった対応ができるようになる。

6.6.2.1 この対応力は、一方的に誰かがあなたに「教え込む」ことができるものではない。

6.6.3 あなたは、あなた自身を崩壊させない限りにおいて《環境》とコミュニケーションを続けることによってしか変わらない。
6.3.3.1 コミュニケーションの継続により、あなたはあなたが知らなかったあなたに成る。それが「あなたらしさ」である。「あなたらしさ」とは潜在的可能性を秘めた顕在的現実、つまり自己同一性を失わないままに変わりうるものである。

6.7 本論は発表者の現時点での能力の範囲で、田尻実践といった優れた実践から学ぼうとしたものに過ぎず、数々の不備を備えている。しかし、重要なのは完璧な理論を求めてそれがかなえられず失望することでなく、どんな理論的試みからも、何らかのコミュニケーションを継続しようと試みることである。この点で、発表者は、ここまでこの論を読んだ読者の忍耐に感謝し、さらなる寛容を希いながら、全面否定も含めた読者からの何らかの反応を望むばかりである。反応というコミュニケーションこそが私たちを育てる。


主要参考文献

Sperber, D. and Wilson, D. (1995). Relevance: communication and cognition. Blackwell.
柳瀬陽介 (2006). 『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』.溪水社
ルーマン、二クラス著、佐藤勉監訳. (1993). 『社会システム理論(上)』. 恒星社厚生閣
ルーマン、二クラス著、佐藤勉監訳. (1995). 『社会システム理論(下)』. 恒星社厚生閣


参考ブログ記事 「田尻大悟郎と田尻小悟郎」 http://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/11/blog-post_26.html


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