「外国語効果」に関する英語教育の立場からの批判的考察(2000/11/1)

 

ここでは2000年11月4日(土)に、第39回(2000年度)JACET(大学英語教育学会)全国大会(於:沖縄国際大学)で行われる「ワークショップ 外国語効果」(企画・討論者 大津由紀雄 慶応義塾大学、発案者 高野陽太郎 東京大学、討論者 柳瀬陽介 広島大学)で私が語ることの概要を簡単に述べることとします。

この発表の大きな目的は、高野さんの「外国語効果」に関する論文を、英語教育の立場から批判的に考察することです。

高野さんは心理学の論文として「外国語効果」を論じていますが、私からしますと、心理学の論文は、厳密な定義と手続きのもとに心理学者の間で語られている場合は全く問題を引き起こさないものの、しばしば日常概念を扱うため、心理学者の言語ゲーム以外の日常の言語ゲームにしばしば越境してしまい問題を引き起こすように思われます。高野さんの論文で言いますと例えば「思考(力)」という概念です。高野さんが論文で、この「思考(力)」を注意深く操作的に定義し、その論文を読む心理学者も、その操作的定義に敏感に読解してゆくのなら問題はないのでしょうが、「思考(力)」といった概念は日常言語でも多用されるため、高野さんの論文の結果は、高野さんの厳密な操作的定義を離れて、曖昧に拡張されて語られ、過剰な解釈を生み出してしまいかねません(実際にその懸念があるというのが私の実質的な主張です)。

言ってみるなら心理学はジレンマを抱えているように思えます。心理学は「科学」であらんとするためしばしば、(実は曖昧でしかない)日常の心理概念を、厳密に操作的に定義しなければなりません。しかし一方、心理学が日常行動を行なう人間の学であるためには、その厳密に定義された概念も、曖昧な日常言語の中に埋め込まれられなければなりません。曖昧な概念を厳密に定義し、そうして得られた結果をまた曖昧な諸概念の中に戻さなければならない----これが私の考える心理学のジレンマです。

このように私が心理学者からすればへそ曲がりなこと言う----喩えて言うならボクシング選手に関節技をかけるような真似をする----のは、私が「英語教育の立場」に立っているからです。ここでいう「英語教育の立場」とは、日常言語によって織り成される「現場」を対象とする立場です。この立場をとる限り、批判的方法は取るものの、自然科学的方法はとれません(詳しくは後述)。自然科学を僭称することなしに、ウィトゲンシュタインさんが言うように、私たちの現実を「思い起こし」ながら、あえて日常的な概念の中で整理を試みる立場です。「自然科学」を金科玉条にしている英語教育学者からすれば何ともいい加減な立場に思えるかもしれませんが、歴史研究、法解釈、事例研究、アクション・リサーチ、(良質の)ジャーナリズムおよび評論などを実践する方からすれば極めてまっとうな立場だと私は考えます。

このような「英語教育の立場」から私は高野さんの論文を批判的に読み、高野さんの論文の結果からは、高野さんが引き出すような主張および示唆は必ずしも導けないことを論ずるつもりです(私の具体的な第一の目的)。そしてさらには英語教育における心理学的研究の限界をも論じます(私の具体的な第二の目的)。

それでは高野さんは論文からどんな主張をしているのでしょう。「不慣れな外国語を使っている最中は、その外国語を使うのが難しいだけでなく、思考力も一時的に低下する」(1995a:255)というのが「外国語効果」の主張です。以下、「思考(力)」という言葉に特に着目して論を進めたいと思います。

高野さんは「言語を使用する日常的な場面を考えてみると、たいがい、言語処理と思考を並行して進めていることに気づく」(1995a:255)と述べ、基本的に言語と思考を別なものとして考えています(注1)。そういった基本的考えに基づき高野さんは(1993)の実験1では計算課題を、実験2では知能テストから取り出した非言語的課題(例、立体図形を回転させ合致する立体図形を選ぶ)を「思考」の操作的定義として選択しています。特に実験2の課題は"the general notion of thinking"に合致していると述べています。

高野さんの狙いとしては、外国語を使うと、それに類した言語的な思考が邪魔されるだけではなく、言語的要因が殆どないいわば「純粋な」思考(注2)までもが邪魔されることを立証したかったのかもしれませんが、私はこのような課題で「思考」を代表させることには問題があると考えています。たしかに、「思考とは知能テストの課題で測定される力である」というのは一つの論法ですが(cf.「知能」とは知能テストで測られる特性である、という「知能」の定義)、私はこれは問題の先送りに思えます。「思考とは何か」という問いを知能テストに預けてしまい、「知能テストで測られる特性とは、私たちが理解しているどのような特性を代表しているといえるのか。そもそも私たちはどのような場合に『思考』という言葉を使うのだろう」といった問いを止めているからです(注3)。少なくとも私はこのような操作的定義は、操作の技術的厳密性にもかかわらず、本質的には恣意的な定義であると考えます。したがってそのような定義に基づく実験から、一般的な議論(いわゆる「示唆」)をすることは差し控えるべきだと私は思います。

ところが高野さんは、(1993)のジャーナル論文では差し控えているものの、広い読者層に向けて書かれた(1995a)では、そのような一般的な議論(いわゆる「示唆」)をわずかではありますが展開します。「外国語で重要な交渉を行なう場合は、その外国語をある程度は話せる人でも、日本語と同じぐらい流暢に使いこなせるのでないかぎり、通訳をたてたほうが賢明であろう」(257)というのがその示唆です。これは私の全くの下衆の勘繰りなのですが、おそらく高野さんはこれは一種の読者サービスとして書いたのだと私は思っています(本気の主張ならジャーナル論文にも載せていたはずです)。前にも少し述べましたが、心理学が日常的な人間の行動を扱う人間の学であるなら、テクニカルな議論に終始するだけでなく、一般的な議論(示唆)をするべきだ、というのは多くの人が持っている期待でしょうから、高野さんもついついそのような期待に(ひょっとしたら不本意ながら)応えてしまったのかもしれません。

ところがそのような一般的な示唆が提示されてしまうと、それは日常概念にかかわることだけにどんどんと引用されてしまいます。「高野は、外国語効果の故に、外国語を使っている人の知的能力が過小評価される傾向があるとも言う。もし事実であれば外国語効果は社会的にも重大な意味を持つことになる」というのは大津さんが御自分のHPに掲載した表現です。

しかしここでは立ち止まって考えてみたいと思います。「思考」という言葉を私たちは日常、どのように使っているかを、哲学者の論考の力を借りて思い起こしてみたいと思います。そのようにして思い起こした「思考」の姿が、高野さんの論文の操作的定義に合致していることがわかった時にはじめて私たちは高野さんの論文の結果から、一般的な結果を引き出せるのだと思います。

ここでは哲学者Searleさんの論考(1995)を参考にします。サールさんは、境界線を明確に引くことが常に容易ではないこと(cf. Wittgenstein)を認めた上で次のような二分法を採択します。

一つの二分法は「事実」にかかわることです。サールさんは「事実」には「言語と独立した事実」(language-independent facts)と「言語に依存した事実」(language-dependent facts)があると言います。サールさんが出す前者の例はthe fact that Mt. Everest has snow and ice at the summitであり、後者の例はthe fact that "Mt. Everest has snow and ice at the summit" is a sentence of Englishです。(後者の例は、拍子抜けするような些細なものと思われた方もいるかもしれませんが、この指摘の持つ意味合いは後々効いてきます)。

もう一つの二分法は「思考」(thought)にかかわることです。サールさんは「思考」には「言語と独立した思考」(language-independent thoughts)と「言語に依存した思考」(language-dependent thoughts)があると言います。「非言語的思考」の存在が次々に明らかにされた今になっても、ある種の思考は論理的に観点からすると「言語に依存している」と言わざるを得ないのです。端的な例が"Today is Tuesday the 26th of October"です。「こんな単純な考えがなぜ、言語に依存しているのだろう」といぶかしく思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これを考えるには月、日、曜日、といった言語によって同定される概念に頼らなくてはならないからです。サールさんは、こういった例から、(単なる同棲、同居とは異なる)「結婚」や、(単なる物理的要因では説明できない)「貨幣」や、(単なる生物的ヒトとは異なる)「市民」といった考え(思考)も、言語に依存していると論を進めてゆきます。現代の私たちの生活は非常に複雑であり、その複雑な生活の中の現象を考えるには言語が必要だともサールさんは述べます。

こういった指摘から、高野さんの論考を再検討してみましょう。高野さんは「言語を使用する日常的な場面を考えてみると、たいがい、言語処理と思考を並行して進めていることに気づく」(前出)と述べた後、「つまり、人の話を聞きながら考えたり、考えながら話したりしているのである」(1995a:255)と書いていますが、この場合の「人の話を聞きながら考え」たりすることなどは、全てがそうであるのではないにせよ、「言語に依存した事実」(議論の相手の発言そのもの。例、「日本語と英語の違いよりも同質性に着目しよう」)に関する事であり、その話を聞きながら考える事の多くは言語によってはじめて規定される事柄(例、「日本語」「英語」「同質性」)であると考えられます(注4)。私たちの思考の少なからずが、言語に依存していると言えないでしょうか。高野さんは言語と思考を基本的に別なものとして考えています(注5)。しかし、私たちの現実生活の中では、まさに言語を適切に使うことこそが考えていることだと言えるような現象が多くあるのではないのでしょうか。もちろん言語に頼らない思考が存在するのは、言語を持たない犬が追いかけたリスを木の下で待っていることなどからも明らかです。しかし、それだからといって、私たちの生活における「思考」を非言語的思考で代表させるのは、私たちの生活の実情を捉えそこなっているような気がします。

外国語使用ということで考えてみましょう。高野さんの主張は「不慣れな外国語を使っている最中は、その外国語を使うのが難しいだけでなく、思考力も一時的に低下する」というものです。私の主張は高野さんの論文が操作的に定義する「思考力」は、外国語使用の現実における思考の代表例とはいえないというものです(「外国語効果」の主張の部分否定)。「外国語で重要な交渉を行なう場合」にしても通訳をつけるべきと高野さんは言いますが、交渉においては私たちはしばしば、その交渉の言語表現そのもの(もしくはその言語表現が切り開く事柄)について考え、話すのであり、まさに外国語を適切に使う事そのものが、その場で求められている「思考」である場合がある、したがって必ずしも通訳をつけるべきではなく、自らその外国語を使うべきである場合もあるというのが私の考えです(「外国語効果」の示唆の部分否定)。

その私の考えを支持するような外国語使用の例----私はこれらを外国語使用の代表例と考えてもいいと思っています----をあげてみましょう。

第一の例はビジネスマンとして(も)活躍した大原謙一郎さんの談話です。大原さんは、ビジネスでは英文契約書の瑕疵の有無を一晩で徹底的にチェックしなければならない時がしばしばあると言います。このような場合の「思考」とはまさに英文契約書の英語表現に依拠した思考です。このような場合、たとえ非言語的思考力が落ちるからといって、通訳をやとって自分は「思考に専念」するわけにはいきません。契約書の細かな表現の意味合いを吟味することこそがここでいう「思考すること」だからです。

第二の例は、公人として(も)活躍した寺澤芳男さんの談話です。寺澤さんは、国際会議に出て、会議の休憩時に交わされるジョークの中に参加者の本音を探りあてることが重要である事を悟ったそうです。ジョークというのも言語に深く依拠したものです。ここでもジョークという「言語」は通訳に任せて、自分はジョークの中にある「思考」だけに専念するというように単純にはいきません。ジョークの多くは、言語のニュアンス、語彙選択の微妙なずらしに基づいているからです。

第三の例は、ソニーの盛田昭夫さんの述懐です。盛田さんはこう言います。「スミソニアン・インスティテュートでスミソニアンのマニュアルの何々ブックというのが出たでしょう。あれは、われわれ物理屋には理科年表と同じように非常に大事な本です。英語を読むということにはかなり熱心でした」。ここでも盛田さんの仕事であり思考は、英語で書かれたマニュアルに即して考え、行動し、語ることです。マニュアルの表現を巡っての議論などは、通訳を通して行なう事ははなはだ難しいと言えるでしょう。

第四の例はソムリエの例です。あるソムリエはこう言ったそうです。「ワインを味わうには、香りを嗅ぎ分けられないといけません。香りを嗅ぎ分けるには"言葉"を知らないとできない。ソムリエは300種類以上の言葉の組み合わせでワインを語ります」。ここでも、ソムリエの仕事は言語に深く依存しています。たとえ日本からフランスに修業にきたソムリエが、ある香りの知覚を非言語的に(フランス語の表現を知らずに)知覚できたとしても、その知覚を行為に埋め込むためには他の人間と共通の言葉(フランス語)をマスターする必要があります。

これらの例から私は高野さんの主張と示唆は、部分的に否定されるべきだと思います(全面的に否定する根拠は私にはありませんし、そもそもそのような全部否定は私たちの常識的な感覚からも大きくずれることでしょう。日本語を聞きながらなら自動車の運転はできるが、外国語を聞きながらだと自動車の運転ができない人が私の周りにもいました)。

さらに私の論旨を際立たせるために、ひとつ喩えを使ってみましょう。「外国語効果」ならぬ「ワープロ効果」です。被験者Aさんは手書きで、Bさんはワープロで日本語文を書き写す課題(言語課題)をしながら、図形転回課題(思考課題)をさせたところ、Bさんの思考課題成績が悪かったとしましょう。この時私たちは「仕事をする時は、手書きなみに流暢になるまでワープロを使うべきではない」と一概に言うべきでしょうか。言うべきではない、というのが私の考えです。仕事の一部はまさにワープロを使う事によって構成されるからです。

従いまして(繰り返すようですが)私の第一の主張は、高野論文の操作定義による実験結果から、「外国語効果による思考力の低下」という一般的な主張を引き出すべきではないし、また実験結果から「通訳をたてるべき」といった示唆も必ずしも引き出せないというものです。実験結果はともかくも、高野論文の主張と示唆は部分的に否定されるべきだと私は主張します。

「ちょっと待て。主張はともかく、示唆に関しては高野さんは『外国語で重要な交渉を行なう場合は、その外国語をある程度は話せる人でも、日本語と同じぐらい流暢に使いこなせるのでないかぎり、通訳をたてたほうが賢明であろう(257)』としか言っていない。『賢明であろう』といった控えめな表現になぜにそのように目くじらを立てる必要があるのか」とお怒りの方もいるかもしれません。また四つの例を出す中で、通訳を使うべきかどうかには、時間的制約の問題、課題の深度の問題、通訳が翻訳をする範囲の問題など、さまざまな現実的な要因が絡んでいることに気づかれた読者の方もいることでしょう。

これらのことは私の第二の論点につながってきます。それは、複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤に満ちている現実の問題に関して、科学としての心理学は、なんらかの科学的な結論を出せるのだろうか、ひいては科学的な心理学は英語教育研究のモデルであるべきなのだろうか、という論点です。この論点はたまたま英語教育の学会ワークショップに来られただけの心理学者である高野さん御自身にはあまり関係のないことかもしれませんが、論のつながりもありますので、以下拙論を展開してゆきます。

科学的な心理学を英語教育研究のモデルとすることに関しては、私は長年批判的立場を取り続けていますが、ここではチョムスキーさんの近刊の論考をいくつか引用したいと思います。

チョムスキーさんは、人間に関するいかなる科学的探究も不可能だ、といった極端な意見には(もちろん)組しませんが、「人間」や「言葉を話す」といった日常概念からは、何ら科学的な説明原理は出てこないだろうと言います。

There may be scientific studies of some aspects of what people are and do, but they will not use the common-sense notions human being or language speaking - with their special role in human life and thought - in formulating their explanatory principles. (2000:20)

同様に、「信念」「欲望」「意味」「音声」「単語」「意図」といった人間の思考や行動に関わる概念も自然科学の対象としては曖昧すぎるとチョムスキーさんは考えています。

It is only reasonable to expect that the same will be true of belief, desire, meaning, and sound of words, intent, etc., insofar as aspects of human thought and action can be addressed within naturalistic inquiry. (2000:21)

これらの人間の思考(あるいは「志向性」(intentionality))や行動は、「認知科学」の対象となると考える方も多いかと思いますが、チョムスキーさんは非常に懐疑的で、その懐疑の念を彼一流のレトリックで次のように述べます。

If "cognitive science" is taken to be concerned with intentional attribution, it may turn out to be an interesting pursuit (as literature is), but it is not likely to provide explanatory theory or to be integrated into the natural sciences. (2000:23)

しかし、ここで私見をはさみますが、私はこのように自然科学を厳密にとらえた上で、日常的な意味での人間に関する研究を、自然科学ではない、歴史研究、法解釈、事例研究、アクション・リサーチ、(良質の)ジャーナリズムおよび評論といったものに代表される一連の批判的言説と認識し、その範囲内でできるだけ客観的で公正な議論を行なう方が、生産的であり、なにより学問的に正直な態度だと思います。チョムスキーさんもいつものようにこう言います。

We learn much more of human interest about how people think and feel and act by reading novels or studying history or the activities of ordinary life than from all of naturalistic psychology, and perhaps always will. (2000:77)

したがいまして、本発表における私の第二の主張はこうです。英語教育研究は徒に自然科学であるふりをして「科学的手続き」に拘泥すべきではない。少なくとも他の種類の批判的な研究アプローチを「科学的手続きを取っていないから」という理由だけで、学会やジャーナルから排斥するべきではない。むしろ対象概念が一義的ではないのに「科学的手続き」を適用することの方が非科学的である。英語教育研究は、自然科学からは「自由に」、批判的な考察を進めるべきである(注6)。

以上で私の発表を終わります。

 

(注1)高野さんは、(1995a)では外国語効果を語る前に、「言語相対性仮説」の妥当性を吟味し、「言語=思考」という「強い言語相対性仮説」を否定しています。

(注2)「純粋な思考」とは、柳瀬が高野さんの論旨を忖度して補ったものであり、高野さん自身はこのような表現は使っていません。

(注3)もっとも心理学者に言わせれば、「知能テストで「思考」を操作的に定義でもしなければ心理実験などできない。こんな議論ことは哲学かぶれの無駄なおしゃべりだ」となるのかもしれません。私が「ボクシング選手に関節技をかけるような真似」といったのは、このような問いを心理学者に投げかけることを指しています。しかし哲学かぶれの方からするなら「恣意的な定義で、概念を代表させていくら実験をやっても、そんなのは心理学かぶれの無駄なお遊びだ」となるのかもしれません。落とし所は、心理学者と哲学者がお互いの言い分を良く聞いて、すこしずつ自らの研究を深めてゆくことぐらいかと私は思いますが、いかがでしょう。

(注4)言うまでもないことと思いますが、人類の個体がそれぞれに発している音声は様々な点で異なり、様々な点で似た音声であるというのが物理的事実であり、それを「日本語」だとか「英語」だとか認定するのは、私たちの言語行為(宣言)によるものです。また「同質性」といった概念は、典型的に理論負荷性の高い概念で、何をもって二者を同質とするか、といった考えを抱くには、言語に依拠した概念を場合によっては複数必要とします。

(注5)実際には高野さんは(1993)では思考の際のinner speechの例を出すなどして、単純に言語と思考を全くの別物として扱っているわけではありません。

(注6)自然科学からは「自由に」ということは、自然科学の考えだけに囚われないということです。そのような自由な態度の方を取る方が、かえって素直に(厳密な)自然科学の知見に学べるように私には思えます。

 

<参考文献>

高野陽太郎. 1995a. 「言語と思考」 大津由紀雄(編)1995. 『言語(認知心理学 3)』  東京大学出版会. 245-59.

Noam Chomsky (2000) New Horizons in the Study of Language and Mind

John Searle (1995) The Construction of Social Reality Free Press 

Takano, Y. and A. Noda. 1993. A temporary decline of thinking ability during foreign language processing. Journal of Cross-Cultural Psychology 24, 445-62.

Takano, Y. and A. Noda. 1995b. Inter-language dissimilarity enhances decline of thinking ability during foreign language processing. Language Learning

追記(2000/11/6)

ワークショップ当日の議論および、その後参加者三人でさらに話し合いを進めてわかったことは、柳瀬の上の第一の論点は現時点では有効なものの、高野さんには実は未公刊の論文(一部の実験が未完了)があり、そこではいわゆる言語的な思考への外国語効果も認められるそうです。そうしますと私の第一の論点は(その論文の公刊をもって)消え去ることになります。私は実は、上の論考をなんとか論文にできないかと思っていたのですが(大学内生存術的助平心)、これは断念します。また私の第二の論点については、ワークショップの後に色々と話し合い、お互いに納得したのですが、その納得した事柄に関しては後日「随想」にでも掲載したいと思います。

それにしてもワークショップの前、最中、後と、大津さんという一流の言語学者、高野さんという一流の心理学者と討論できて、私は非常に勉強になりました(同時に私の勉強の積み上げ不足も再認識しました)。冷静に一つずつ論理を積み重ねて論考するお二人のスタイルを少しでも自分のものにしたいと思います。お二人にはこの場をかりて深く感謝したいと思います。

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