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山本宣治

 昭和のはじめ、京都大学や同志社大学で生物学(人生生物学)を教えていた学者出身の国会議員が暗殺されるという事件がありました。彼が39歳の時です。
 その人、山本宣治は若い頃アメリカ大陸に渡って、当時の日本には無かった「自由と民主主義」を身につけ、学者になってからも、ただ学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民にまじって世の中をよくする運動にみを投じた人でした。
 そして、やがて労農党の代表として衆議院議員に当選、代議士になってからも、戦争へ戦争へと国民を引きづって行こうとしていた政府の政策に真っ向から反対し、軍国主義者から命を狙われていたのでした。
 人々が慣れ親しんで「山宣」と呼んだその人は、宇治川のほとりにある料理旅館「花やしき浮舟園」の若主人でもあった人で、宇治の町では毎年彼の命日である3月5日、善法の墓地で「山宣墓前祭」をひらき、平和と民主主義を守るために死んでいった故人をしのび、彼の意志を受け継ぐことを誓い合う集いを持っています。


山宣をはぐくんだ宇治

 宇治は古くから源氏物語、宇治川の先陣争い、そして平等院や黄檗山萬福寺など歴史の舞台に登場することが数多く、文人墨客が和歌、俳句に詠み、四季を通じてその美しい風景は、絵にもしばしば描かれている。
 山本宣治はこの地にはぐくまれ、またここを生活の場として激しい時代を生き、そのたたかいを身に投じた。人々は限りない敬愛と愛情の念を持って、その人を”山宣”と呼ぶ。

山本宣治の歩み
  • 1889(明治22)年5月28日
    京都市の繁華街新京極でワン・プライス・ショップという名の今でいうアクセサリー店を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた。
    両親は熱心なクリスチャン。
    病弱のため神戸第一中学校を中退した山宣は、両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。
    神戸中学時代の先輩に竹久夢二がおり、後に妻千代の絵を描いている。

  • 1906(明治39)年
    大隈重信邸へ園芸見習のために住み込む。

  • 1907(明治40)年
    18歳で園芸研究のためカナダ・バンクーバーに渡り、5年間皿洗い、園芸、鮭捕漁夫などの仕事をしながら、苦学の生活を送る。
    ダーウィンの「進化論」を学ぶ。この時期に、労働者としてのたくましさと科学的なものの見方を身につける。

  • 1911(明治44)年
    父の病気のため帰国。旧制第三高等学校を経て東京帝国大学へ進み、動物学を専攻。

  • 1920(大正9)年
    京都帝国大学大学院入学。また同志社大学予科講師となり学生に「人生生物学」を講義、性教育啓発家としての活動を始める。

  • 1922(大正11)年
    アメリカの産児調節運動家サンガー女史の訪日をきっかけに、労働者農民の中で産児制限運動を始める。

  • 1924(大正13)年
    京都労働学校長となり、労働者教育に携わる。この頃、「産児調節評論」(後に「性と社会」と改題)を発行する。

  • 1926(大正15)年
    日本農民組合に入り南山城地方の小作争議を指導。

  • 1928(昭和3)年
    38歳で第1回普通選挙に京都府第2区より立候補し当選。第56帝国議会で、3.15事件などでの官憲の拷問を取り上げて政府を追及。

  • 1929(昭和4)年
    大阪での全国農民組合大会で挨拶。「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・」ここで挨拶は中止させられた。
    この言葉は、墓碑銘として刻まれている。
    治安維持法改正令(勅令)の事後承認案反対のため、発言原稿を準備して議会に臨んだが妨害にあって発言できず。
    その夜、東京・神田の宿舎において、右翼「七生義団」のテロリスト黒田保久二により暗殺される。享年39歳。
    山宣なきあと、日本は満州事変から上海事件へ、太平洋戦争へとつき進んでいった。

山宣の墓と裏の墓碑銘






山宣ひとり孤塁を守る

だが私は淋しくない

背後には大衆が支持してゐるから

墓碑銘を塗りつぶすまで建立は許されなかった。
しかし何度塗りつぶされても、いつのまにか彫りとられていた・・・。

 

山本宣治生誕127年記念講演会75人が参加   5月22日


 5月 22 日、山本宣治が暮らした花やき浮舟園で生誕 127年記念講演会が開催され、 女性問題研究者の大林道子さんが、「豊かな人間関係中で育まれた山宣」と題して記念講 を 、また、たざわこ 芸術村民族研究所理事の茶谷十六さんが、「秋田 での 山宣 足跡」 として特別報告を 行い ました。
 講演会には山本宣治の二女美代さん、孫の山本勇治さん、ひ孫の永島梓さんをじめ、遠くは秋田県から秋田県多喜二祭実行委員会のメンバー 8人など会場いっぱいの75人が参加しました。
●記念講演 講師の大林道子さんは、「山本宣治 と母多年―民衆家族を愛した反骨の政治家」( 2012年、ドメス出版)
の著者で、花を愛し家族を愛し民衆に慕われ、民衆とともに歩んだ人間性豊かな山本宣治の人格の形成、成長の過程を、豊かな人間関係のなかでとらえ語りました。
 幼少年期 、敬虔なクリスチャンであった優しく心豊かな 両親のもとで育ち、幼少のころから両親とともに教会に通い、中学校時代には神戸教会で熱心に学び、牧師や長老などに悩み事を相談するなど、キリスト教の精神で育まれたと話しました。
 青年期に大隈重信邸で園芸見習いをするが、そこでは大隈重信をはじめとする文化の香り高い大人たちと交流し話を身近に聞き、種々の新聞・雑誌からの知識の吸収、キリスト教会で著名な牧師の説教を聴いていることなどを紹介し、このような暮らしの中で、社会的地位はではなく、精神的な豊かさを求めるようになっていったと説明。
 さらに、宣治は18歳でカナダに渡るが、ここで、新神学と社会主義の知識・思想を深め、かつて病気のために1年足らずで退学し挫折した勉学への道を再出発するなど、カナダでの加藤秋真牧師との出会いが宣治の将来に決定的な影響を与えたと強調しました。そして、この先の生物学研究、産児調整運動、さらに政治的活動の基礎となる豊かな思想をはぐくんだと説明しました。
●次に特別報告で茶谷十六さんは、山本宣治が新労農党結党大演説会開催のため1928年11月29日に秋田県土崎、30日に秋田県能代を訪問した際、いずれも官憲の妨害で演説会が開催できなかったとされていた件について報告。茶谷さんが発見した当時の秋田魁新報記事によれば、土崎の演説会は中止されたものの、棚橋カツ子宅で20名余りの参加で座談会が開催されたこと。また、山宣が鯉沼秋田県知事に抗議した結果、能代では400人が参加して演説会が盛大に開催されたことが判明したと、当時の秋田魁新報のコピーを示して語りました。
●その後 、 総宇治山宣会 総会(25人) 、山本宣治を語る 懇親会 (34 人)が開催されました。

父・山本宣治


 山宣の長女 故山本治子さんの歌集「清明の季」より

 梅、椿、咲きて近づく春ながら今日ぞくるしく父偲ぶなり

 六十年前主権在民ゆるさざる頑迷は父の命うばひつ

 謀られて死したる父の無念にぞぬば玉闇に紅梅にほふ

 父はただに生物学者と思ひおかむ轉身ののちのむごき死ゆえに

 その肩に膝に愛な子は遊びしをおもひいだせぬ亡き父のこゑ

 


宇治山宣会
事務局 宇治市大久保町北ノ山11−1 薮田方

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