日本鋼管訴訟和解とその意味するもの
‥谷川 透氏
韓国・春川市在住の金景錫(キム・キョンソク)さんが日本網管に強制連行の謝罪と賠償を求めた裁判が、さる四月六日、東京高裁で、和解により解決した。
日本企業が強制連行・労働の償いをした事件としては新日鉄に次いで二つ目であり、被害当事者に対する償いとしては初めてである。海外の例を見ても、生存者に対する個人賠償が戦後補償の中核であり、これまで微動だにしなかった戦後補償の固い岩盤が動き始めた兆候を示す出来事だった。
和解の内容を見ると、410万円という支払額は過去の内外の例を上回るもので、会社の誠意が感じられる。また、実質的に謝罪と受け取れる意思表示をしたことは歓迎出釆る。この点で言えば、ドイツ企業が行なった賠償より一歩進んでおり、被害類型は異なるが、強制収容された日系人に対してアメリカ政府が行なった謝罪・賠償に近いものであった。
このような形で決着をみることが出来たのは、会社側が原告の長年に亙る訴えをついに認め、和解に乗り出したことが契機となっている。会社側の勇気ある行動を高く評価する。
金さんは江原道遺族訴訟(被告は国)と不二越訴訟(被告は企業)の原告団長をつとめている。夕張炭鉱に強制連行されて亡くなった兄の遺骨返還を求めて、新たに裁判を起こしたいとも考えている。そして、「余命ある限り、戦後補償裁判の勝利の為に尽くします」と、今後に向けて決意を新たにしている。
ところで、50件近い戦後補償裁判が各地で進行しているが、日本網管訴訟の和解で、企業による強制連行・労働の償いにはずみがつくのだろうか? 強制連行・労働以外の戦後補償裁判でも解決が促進されるのだろうか? 被害者が高齢化し、全面的な「生物学的解決」も遠くない中で、戦後補償に関心をもつ者なら考えずにはいられない事である。
そうした今後の見通しについて考える際の参考になるように留意しつつ、日本鋼管訴訟の和解解決の経過と内容、和解解決をもたらした要因について報告・検討する。
1.和解を準備した日々
和解交渉は裁判所の勧告によるものではなく、双方の合意の下に昨年七月より代理人の間で開始された。
和解の金額は当初、会社側から200万円の線が提示された。強制収容された日系人に対する米政府の賠償、台湾の戦傷病者・戦没者遺族に対する日本政府の弔慰金、遺骨の還らなかった韓国の徴用者遺族10名に新日鉄が支払った供養料等が、一人200万円であった事に倣ったものと思われる(日系人の場合は正確には2万米ドル)。
しかし、原告の金景錫さんは裁判のために何十回も日本へやって釆て、その費用だけでも200万円を越す。原告側弁護団がその事実を指摘すると、金額は上積みされ、最終的に410万円で合意した。会社と官憲の暴行による後遺障害(後述)で一生苦労した原告からすれば、裁判で要求した1000万円を貰っても足りないところだが、和解を目指すならこの辺が現実的な線と思われる。
和解交渉の最大の争点は、法的責任を和解合意文書でどう扱うかということだった。会社側が出した条件は、会社側に法的責任が一切無いことを明記する事だった。法的責任があるとすると、会社が裁判で全面敗訴したのと同じ事になってしまい、会社としては困るだろう。しかし、国際条約や国内法に照らして会社に法的責任が一切無いと書けば、戦後補償の根拠そのものを否定することになり、原告側としては呑むことが出来ない。
裁判と違って、和解では法的責任に触れる必要はない。「道義的立場(或はその他随意の立場)から会社はこれこれの措置をとった」「これでこの件は決着した」とすれば、それで済むのである。しかし会社は、法的責任は無いと書き込む事にこだわった。
NKKは、今後同社が金景錫さん以外の被害者から訴えられたときのことを考えて、法的責任にこだわったのだろうか。しかし、法的責任が無いのに償いをしたと書くと、会社にとって逆効果になることも考えられ、こだわる理由とは考えにくい。
このこだわりの背後に、業界の影が感じられて仕方がない。法的責任が無いことの明記というのは、実は新日鉄が和解交渉の中で主張していたことである。強制連行の償いの問題で先行する新日鉄と相談して、NKKがその方針を踏襲したことは間違いない。他企業に累が及んで業界でつまはじきされることがないように「過敏」にふるまう業界マインドが働いているのかも知れない。
そればかりではない。背後に一国の影がちらついている。国は、企業が強制連行の償いをすることは渋々認めたとしても、国が被告になっている戦後補償裁判で国が不利になることがないように企業を監視し、法的責任が無い事を明記するよう「指導」しているように思われる(その証拠については後述する)。
和解交渉のほとんどの努力は「法的責任」の一点をめぐって費やされ、そのため交渉に9ヶ月もの期間を要した。
二転三転の末、会社の法的責任についての記述は、「当時から五〇年以上経過した今となっては、当該事件の加害者を特定することは極めて困難であることから、控訴人は、本件については被控訴人に責任を問うことは法的に困難が大きいとの認識を前提にするもやむをえない」(「和解条項」参照)という表現に落ち着いた。「被控訴人に責任を問うことは法的に困難が大きい」という文言は入れざるを得なかったが、本件の特殊事情により会社に法的責任を問うことは困難であるという筋立てになっている。歯切れが悪いところも含めて、戦後補償裁判の根拠そのものを否定して他の裁判に悪影響を与えることを避け、なおかつ交渉をまとめようとした、弁護団の苦心の産物である。
そして、この線で裁判官の了承を得、法廷で和解することになった。
和解父渉が煮詰ってきた段階で、日本鋼管が法務省と外務省に呼ばれて事情を説明させられるというひと幕があった.おかしな詣である。なぜ、国にそんな事を説明しなけらばならないのか? 国は、和解を止めろと正面きって言わないまでも、事情を説明させることで圧力をかけたのだろうか。それもあるだろう。しかし、それだけではあるまい。戦後補償裁判を一手に引き受けている法務省は、企業が法的書任を認め、累が国に及ぶ事を恐れた。そして、和解するなら合意文書に法的責任が無いことを明記するよう「指導」し、それが守られているかどうかを最終段階でチェックしたのである。これが先程述べた国の「指導」の状況証拠である。
2.法廷で和解した日
以上のような経過を経て公判の日を迎えた。和解は普通、書記官室で、双方の弁護士と裁判官だけで行なわれるが、この日は原告側弁護団の求めに応じて、法廷で行なわれた。
「被控訴人は当該事件に巻き込まれて負傷し障害が残ったとの控訴人の主張を重く受けとめ、控訴人が障害をもちながら永きにわたり苦労したことに対し、真摯な気持ちを表するものであり、その意思を表するため、金410万円を支払う。・・・・・」
鬼頭季郎裁判長が「和解条項」を読み上げると、法廷を埋めた傍聴人から拍手が湧き起こった。91年の提訴以来7年半におよぶとりくみが実を結んだ瞬間であった。
和解交渉をまとめ上げた梓沢和幸弁護団長と米倉勉弁護士は、記者会見の席で、「『謝罪』という文言はないものの、『真摯に受け止め』『重く受けとめ』ということばは実質的に謝罪とも受け取れ、請求金額(1千万円)の4割を越える和解金は、実質勝訴と言える」と説明した。
裁判では原告の気持ちが大事だが、裁判闘争を支えた妻とともに記者会見に臨んだ金景錫さんは、「これ(この和解条項)なら良い。生きている間に解決出来てよかった」と喜びを表現した。裁判で要求していた「謝罪」と「賠償」について、満足出来る和解内容だと受け止めたのである。
和解交渉が煮詰ってきた段階で、金さんから「(新聞の)謝罪広告は要求出来ませんか?」と聞かれたことがある。謝罪広告は裁判の要求項目の一つだったが、弁護士は交渉の状況を考え、「それは難しい。謝罪の意味が込められた和解文書を交わすことに絞ったほうがいいでしょう」と答え、金さんは少し残念そうにしていた。しかし、この点の心残りは、和解のニュースが流れるとすっ飛んでしまった。
和解の報せはNHKのニュースなどで全国に流され、新聞でも全国くまなく伝えられた。読売は豆記事だったが、他の全国紙やブロック紙(朝日、毎日、東京、中日、産経、日経、ジャパンタイムス等)はかなりのスペースをさいて報道した。地方紙に至っては軒並み、一面や社会面トップで、写真入りで大きく報じた。金さんが求めていた謝罪広告が、金さんが要求していた何倍もの規模で実現したのだった。
朝日新聞は和解公判の翌々日の社説でこの出来事を取り上げたが(「『闇』に一筋の光」)、日本の良心を代表する一編であった。
3.金景錫さんの事件と裁判
さかのぼって金景錫さんの事件と裁判を振り返り、和解を実現させた要因を考えてみよう。
▼金景錫さんの事件
金景錫さんは1926年4月、日本植民地下の朝鮮・慶尚南道昌寧郡昌寧面で、農家の三男二女の次男として生まれた。小学校卒業後、師範学校へ進学を希望していたが、父親が反日家として当局から目をつけられたため、進学をあきらめトラックの助手をしていた。
金さんが強制連行されたのは1942年10月だった。跡取りの兄が連行されそうになったため、当時一六歳だった金さんが身代りとして連行に応じたのだった。(金さんが連行された一ヵ月後に、兄も約束に反して夕張炭鉱に強制連行され、その地で亡くなった。)
金さんが連行された先は日本鋼管川崎製鋼所だった。軍隊式の訓練を受けた後、工場で大型クレーンの運転を受け持った。休日はなく、一週間朝六時から夕方六時まで働き、次の一週間は夕方六時から翌朝六時まで働いた。金さんは苛酷な労働条件について、「(イ)連行当初に京城で会社側が約束した賃金(80円)と比較にならない低賃金(手取り10円そこそこ)、(ロ)高熱地区における酸素欠乏に伴う衛生上の不備、(ハ)給食の非衛生と量の不足、(ニ)監視状態下の宿舎生活で自由を拘束、(ホ)人権を無視した手紙等の検閲、(へ)被告会社に命令された指導員等による殴打等の非人道的行為の恣行」を挙げている(「請求趣旨及び原因補正書」)。中でもこたえたのが、食事が粗末で量が少ないことだった。
不満に火をつけたのが、労務担当者の朝鮮人を侮蔑した言葉だった。日本網管川崎製鋼所の高濱政春労務次長が、政府主催の労務管理懇談会で「移入朝鮮人労務者」の取り扱いについて講演し、その講演内容が『半島技能工の育成』と題する小冊子として発行された。金景錫さんは偶然、川崎駅近くの書店でこの冊子を見つけた。手に取って読んでみて、朝鮮人を侮辱した発言に怒りを覚えた。買い求めて寮に持ち帰ると、冊子は朝鮮人懲用工の間を輪読され、これが原因で一ヵ月後の1943年4月10日、ストライキが起こった。朝鮮人徴用工全員(当時は約900名)が就労を拒否し、「朝鮮に帰らせてくれ」と言って食堂に坐り込んだ。
ストライキを鎮圧するため、臨港警察のほか憲兵隊まで投入された。スト鎮圧の模様は当時の記録に次のように記されている。
「・・・・・・十二日その主謀者十五名を検舉すると共に、一同を集め所轄警察所長より『パンフレットの件に付ては、調査の上善處するを以て即時就労方』訓戒せる處、朝鮮人労務者側に於ても漸次納得し、同日全員就労し一應解決せり」「尚右パンフレットは四月十三日付發禁處分に附せられ・・・・・」(内務省警保局保安課『特高月報 昭和十八年四月分』昭和十八年四月二十日発行)。
検挙された「主謀者十五名」の中に、金景錫さんも入っていた。検挙の模様は次の通りであった(『請求趣旨・及び原因補正申請書』)。
「会社側はその最初の原因を作った原告を最重要人と断定し、1943年4月12日午後五時頃、被告日本鋼管川崎製鉄所の社員(労務課)、現場下請けの山村組(村山組?)の者と思われる男、鎮圧応援のため駆けつけた日本綱管本社の社員、指導員(朝鮮人労務者の監視と週一回の軍事訓練を行なっていた)、及び、警察、憲兵等十余名の立合いの下に、川崎製鉄所正門横大食堂に近接した第二製管課現場事務所に原告を連行した。原告はそこで上着を脱がされ、有無を言わさず、木刀等で無限とも思える時間、殴打された。彼らは、『お前死刑だ』『何故あのパンフレットを買って輪読させたのか。その目的は何か』『朝鮮独立がそう簡単に出来ると思うのか』『こんな奴は殺したほうが国の為だ』等と口々に罵りながら原告を殴りつづけた。原告は翌13日一杯、意識不明状態でそこに監禁されていた。
14日の朝頃、会社の職員と警察らしき者が一緒に来た。『こいつはそのまま置いても死ぬから余計な手数はかけないで出してやれ』と警察が言うのに対して、日本綱管の職員は「こんな奴は会社で死ぬと厄介だから、貴方の方で始末をしなさい』と言い、押し問答が続いた。結局、会社側が原告の始末をすることになって、十五日の夕方頃、会社はストライキを解散する条件で原告を釈放した。48時間以上、木刀や竹刀で撲られた後、(中略)犬ころのように放りだされたのだった。
原告は友人たちに伴われて宿舎に戻ったが、病院に行くことも禁止された。早く死なせるためであろう。」
『特高月報』には「検束者を取調の結果、移入朝鮮人勞働者青田武雄(當二十二年)、同金原善在(當二十二年)は、在鮮當時より民族獨立思想を抱持し、策動の機会を窺い居りたる處、偶々前記の如きパンフレット問題發生せるを以て好機至れりとなし、之を民族獨立の觀點より指導し居りたること判明せるを以て目下治安維持法違反として厳重取調中なり」とある。
この二人は結局帰って来なかった。当時京浜運河に死体が浮いたという話があり、二人は取調べ中に殺されたものと思われる。
金さんは生きて帰ってくることが出来たが、ストライキののち半年間にわたり病院に行くことも許されず、右肩の習慣性脱臼と右腕の運動機能障害の後遺障害をもつ身となり、戦後苦労多い人生を送ることになった。
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70万人の朝鮮人が「内地」に連行されて強制労働させられた(大蔵省統計)。日本綱管に連行された朝鮮人は1942年末に999人、1943年末に1904名だった(『日本鋼管株式会社四〇年史』による)が、戦争が末期に近づくと急速に膨れ上がって、数万名に達した(朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』所収の金仁植さんの証言)という。
ストライキの首謀者と目されてリンチを受け後遺症を負った金景錫さんは、特異なケースと言えるかもしれない。しかし多かれ少なかれ強制連行されたすべての朝鮮人が、さまざまな形で辛酸をなめたのである。
当時日本は、一連の対外侵略を通じて急激に経済規模を拡大させていた。軍需産業、基幹産業を中心として、あらゆる産業分野で戦時経済的な急成長がみられた。そこへ兵役の問題がのしかかってきた。熟練労働者が大量に兵隊に引っ張られてしまっては、生産拡大どころか、従来の生産量も維持できない。そこで企業は、この労働力の不足を植民地=朝鮮からの労働者移入によってまかなう事を考えた。
最初、石炭業界と土建業界が政府に労働力移入政策をとるよう強く求め、「募集」の形で移入が始まった。やがて労働力の逼迫が強まり、鉄鋼業界(八幡製鉄所、日本鋼管、釜石製鉄所など)の働きかけにより、朝鮮の各面(村)に割り当てて強制的に労働者を指名、連行する「官斡旋」方式に変わった(1842年2月)。鉄網生産は1931年から36年にかけて飛躍的な勢いで伸びたが、企業はその生産を維持して高原状態を続けることができた。それはひとえに移入労働者の力に負うものであった。
しかし、朝鮮の人々は一家の働き手を引っこ抜かれて路頭に迷い、連行された本人はタダ同然で酷使され、さまざまな問題が起こった。
企業と国家が行なったこの犯罪(強制労働)について、企業と国は、50年以上たった今もその責任を認めようとしない。
▼裁判の論点−ものをいった事実認定
日本鋼管訴訟は1991年9月30日、金景錫さんが一人で東京地裁に手書きの訴状を提出して始まった。強制連行・労働の企業責任を問う初めての裁判だった。この話を伝え聞いて、日本人の支援の動きが、徐々に形を成していった。
最初の訴状は手書きで読みにくく、形式の点でも不十分だったため、裁判所から補正を命じられ、同年十二月五日に補正書(「請求趣旨・及び原因補正申請書」)を提出した。謝罪広告を日韓の新聞に掲載することと、不法行為に対する損害賠償として一千万円の支払いを求めるもので、請求の原因も整理され、以後の裁判ではこれが訴状として扱われた。
第一回公判は年が明けて1992年1月16日に開かれ、韓国からは金景錫さんと、金さんが代表をつとめる江原道遺族会の鄭事務局長が来日し、日本人支援者20余名が傍聴した。被告=日本綱管は訴状に対する認否をせず、時効だから棄却せよと主張した。会社が時効一本槍でやってきたのは、原告の記憶が確かで、当時の記録も色々残っており、事実で争っては不利だと考えたからだろう。
時効は強力な武器である。原告側は最初から最後まで時効に悩まされることになった。裁判所は、時効について原告側の反論がなければ実質審理に入らず結審、棄却してしまう構えだった。第二回公判は余裕をみて6月に設定されたが、まだ弁護士が見つからず、第二回公判に向けては、こちらで時効に対する反論を書き、準備書面として提出した。時効に対する反論が出たので、裁判は回り始めた。
92年秋に、弁護士が見つかった。梓澤和幸弁護士を主任弁護人とする七人の弁護団が組まれ、12月5日には「金景錫さんの日本鋼管訴訟を支える会」も結成された。
被告代理人は以後も時効を主張しつづけ、原告側は時効への反論に心を砕いた。原告側の反論の骨子は、次のようなものであった。
@ 強制連行は「強制労働条約」をはじめ国際法違反であるが、国際法に時効はない、
A 仮に国内法の時効の規定を援用するとしても、韓国市民には戦後長きにわたって、日本に行って日本政府や日本企業を相手取って裁判を起こす渡航の自由も、政治的自由もなかったのであるから、そのかん時効は停止されていたと解するべきであり、アジア諸国の被害当事者が日本に自由に行けるようになり、また外務省の柳井条約局長が「日韓条約は個人の請求権まで消滅させたものではない」と国会で答弁したこと(1991年8月27日)がアジア諸国に伝わり、提訴が可能なことを被害当事者が知って以後、ふたたび時効の針が動きだしたと解すべきである、
B 原告を負傷させ、その治療を拒否した被告の行為は安全配慮義務違反に当たるが、この違反には除斥期間の適用はない
「支える会」、とりわけ「神奈川シティユニオン」の支援は強力で、法廷はいつも満杯であった。会社に対しても、裁判所に対しても、強いプレッシャーとなり、変な訴訟指揮など出来ない状態が生み出された。そのうち、裁判長が替わり、法廷が少し面白くなった。
一審の圧巻は、金さんの本人尋問だった。三回の口頭弁論期日を費やして、事件の全容が余すところなく明らかにされた。
原告本人尋問のあと山田昭次氏(立教大学教授)の意見書が出され、その中には、時効期間内に韓国から提訴できるはずがなかった歴史的事情、強制連行の全体像、日本網管の場合等について、詳しく書かれていた。
1997年5月26日、一審判決が出た。時効・除斥期間により棄却という結論は予想通りだった。強制労働条約違反については、連行と労働の過酷な現実は認めつつも、全体としては「強制連行」「強制労働」とまでは言えないという、妙な結論だった。
しかし、特筆すべき事があった。会社が金さんに暴行を加えた等の事実を、普通見られないほどに、踏み込んで認定したのである。たとえば次のような具合である。
「すぐに、原告は、右ストライキの首謀者として疑われ、憲兵あるいは私服警官によって、川崎製鉄所第二製管課現場事務所に連行された。原告は、同所で私服警官、憲兵及び被告会社の従業員らに取り囲まれ、私服警官から、『こんな方法で朝鮮の独立が達成できると思っているのか。』と質問され、私服警官や被告会社の従業員など四、五人によって、天井から吊るされ、相当長時間にわたり、拷問とストライキヘの報復として、さんざんに木刀や竹刀で殴打された。朝鮮人労働者の仲間が『原告を解放したら解散する。』と要求したことにより、原告はようやく釈放された。右暴行により、原告は、右肩胛骨骨折及び右腕脱臼の傷害を負った。被告会社は・・・・・原告に治療を受けさせてくれず・・・・・」
その後舞台は東京高裁に移り、東京高裁で審理が重ねられたが、二審で事実認定が覆ることは多分無かったであろう。
すると会社はどういうことになるか?
日本鋼管は16歳の少年を連行し、過酷な条件下で働かせ、差別事件に端を発するストライキが起きた中で少年に酷い暴行を加え、後遺傷害を与え、・・・・・それなのに時効だと言って口を拭っている。日本綱管はそういう会社だということが、事実として確定してしまう。非道な企業と虐げられつづけた植民地の少年の物語は、好個の歴史物語として教科書や一般書にまで書かれるかも知れない。これでは、時効で裁判に勝っても会社は大きな傷を負ってしまう。
4.和解を実現させた要因
事実の詳細な認定は、その後の展開にとって重要な意味を持ってくる。
今回の和解を実現させた第一の要因は、実にこの一審判決の徹底した事害認定だった。
普通の裁判なら、原告の主張する事実に被告が何も反論しなければ、裁判所は原告の主張を採用する。しかし戦後補償裁判はそうはいかない。国や会社が事実認否を回避しても、裁判所が原告の主張する事実を認定するケースは少ない。被告と一緒になって、法律論で原告の訴えをしりぞけるのに忙しい。
一審で弁護団が先頭に立って徹底した本人尋問を展開し、原告も百人力を発揮してこれに応えた。そして、事実の認定だけはきちんとやってくれるように、裁判官に強くアピールした。
裁判官もまた、その点について、要請に応えてくれた。ここに偶然とも見える今回の和解実現の第一の根拠があった。
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和解実現の第二の要因は、神奈川シティユニオンや全造船日本綱管分会など労働組合も加わった、支援運動の存在である。
思い起こせば、裁判所に対する署名、学習会、NKK川崎工場周辺の強制連行ツアーなど、いろいろな事をやった。ペープサートで金景錫物語を演じてくれたグループもあった。とりわけ強い力を発揮したのは、東京総行動の一角に加わって、丸の内のNKK本社攻めを何年間も続けたことだった.東京総行動というのは、解雇撤回等に取り組んでいる争議団が集まって、各企業の本社が集中している丸の内界隈を中心に東京各地で繰り広げる一日行動のことである。会社もこれは頭が痛かったと思う。また、東京総行動以外に、川崎の労働組合が中心になってNKK川崎工場前で集会を開き、工場の責任者と交渉したこともある。
力が及ばず、出来ないこともあったが、こうした取り組みによって会社が次第に追い詰められていったのは間違いない。裁判以外に、社会的にも包囲網をつくって、会社を追い詰めることが大切だと思う。
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和解実現の第三の要因は、会社が考えを変える決断をしたことである。
以上に述べた要因の上に、会社の経営陣の世代交代があったことが決定的だった。事件そのものについて考えを改めたこともあろう。また会社の将釆を考えても、ツッパり続けることはかえって為にならないと考えたのだろう。
NKKは、例えば、ソウルの地下鉄工事で使うトンネル掘削機を、韓国に子会社を作って製作・納品しようとしている。ゴミ処理プラントを広くアジア諸国に売っていきたいとも考えている。韓国、アジアの人々を痛めつけた事には口をぬぐっておきながら、商売だけはするという事が通用するものだろうか。
実は、私たちは、もし和解交渉が失敗に終ったら、韓国やアジアの人達と一緒になって「不買運動」をやろうと考えていた。そして、必ずそれを成功させる決意を固めていた。そういう意味では会社は、危ないところに立っていたのである。閑話休題。
なにはともあれ、日杢鋼管が強制連行・労働の償いをしたことは、日本とアジアの今後の関係にとって非常に良いことであり、戦後補償裁判に取り組む他の多くの原告、弁護団、支援者への励ましとなった。
参考になる点があれば、参考にしてほしいと念じつつ、筆を擱く。
(金景錫さんの日本鋼管訴訟を支える会代表)