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徴用被害者ら、三菱相手に集団訴訟
(ハンギョレ新聞、2000年5月1日)
日帝時代の徴用被害者たちが韓国内の裁判所に日本企業を相手取って、集団で損害賠償請求の訴訟をおこした。日本企業を相手にした戦後補償の裁判で、加害国側の日本ではなく被害国である韓国で提訴されるのは今回が初めてであり、これを契機に同じような訴訟が相次ぐものと予想される。
「韓国原爆被害三菱徴用工同志会」所属のパク・チャンファン(朴昌煥、77・京畿道平澤市ペンソンウプ)氏ら会員6人は、1日午前10時、三菱重工業本社と韓国連絡事務所を相手に6億600万ウォンの賠償金請求訴訟を釜山地方裁判所へ提出した。
この日、提訴した人達は太平洋戦争末期の44年を前後して日本へ強制的に連行され、苦役についていて被爆、今まで様々な後遺症に苦しめられている被害者の人たち。
この訴訟は日本の広島地裁にすでに控訴審で係留中であり、去年の10月に敗訴してから日本ではない他の国で提訴してみようとする日本の弁護士たちの意見にしたがって、釜山市中区中央洞に三菱重工業韓国連絡事務所があるところから、該当地域となる釜山地裁に提訴したもの。
彼らは訴状で、「太平洋戦争末期、三菱側が日本人には非常食糧や避難所を提供するなど救護措置をとっておいて、韓国人徴用工らには何ら措置を講じず放置し、死の淵におとしいれた」と主張している。また、「強制労働と強制連行は、当時国際慣習法上禁止されていた奴隷制に違反しているものであり、その他にも日本現地で被爆した韓国人被爆者をそのまま放置した国内法上の責任、賃金の一部を支払っていない責任も存在する」として、「原告一人当たり1億100万ウォンずつの慰謝料を支給せよ」と要求している。
今回の訴訟に関わっている太平洋戦争犠牲者遺族会と民主社会のための弁護士会は、これに先立つ午前9時30分、釜山駅鉄道グリルで記者会見を行い、この訴訟を契機に去年の 4月と12月、去る2月にそれぞれ、アメリカのサンフランシスコとロサンゼルス、カリフォルニア等の地方裁判所に、日本企業を提訴した国際社会被害者たちと連帯して、賠償問題を解決していくこととしている。
また、裁判支援のための会や組織活動を通じた募金活動とともに、インターネットを利用した広報活動、三菱の国内営業阻止運動、抗議のメッセージを送る運動、国際人権団体への賛同要請など、組織的な運動を繰り広げていくことにした。
一方、去る92年から日本現地で行われている関連裁判ではすべて「個人は国際法上、権利の主体とならない」、「明治憲法下での国家権力作用については責任をもたたない」 「時効が消滅した」「過去の三菱と現在の三菱は別個の企業だ」などという理由で、いずれも被害者が敗訴している。原告らが国内の裁判所に提訴したのは、このような一連の敗訴とともに、米国内で日本企業を相手取った関連訴訟が活気を帯びているためでもある。また、ドイツ政府が先月、ナチによる強制連行被害者に対する賠償金として、100億マルク規模の「記憶、責任そし て未来を」という基金を造成することにし、ドイツ内の600余りの企業がこれに賛同した のに比べ、日本企業では裁判所側の和解の勧めにも応じず、忘却と無責任で一貫しているところから、原告側の訴訟意思をむしろあおったものだ。
(釜山・連合ニュース)
強制徴用者の憂憤を洗え
日本企業相手に韓国法院に初めて損害賠償請求したチョンチャンヒ氏…最後まで日本に対抗する孤独な闘争
あれから55年が流れた。もう忘れてもいい時だ。だが、決して消すことができない。日に日に一層鮮やかになる苦痛の記憶か。群らがり押されて乗った狭い列車、強制労働よりもさらに耐え難かった空腹、全身を一方的に叩きつけた途方もない暴風、阿鼻地獄の下関埠頭…。
彼が少しの間回想をやめた。そして一枚の写真を出してきた。数多くの人々がばらばらに立っている。とうてい顔もわからない程、色あせた写真、その中にある多くの顔。活気なく無愛想な顔だが、彼は決して忘れられないというようすで、いや忘れてはならないと言うように、彼ら一人一人の名前を再確認した。
三菱に奪われた青春、謝罪・賠償受ける
「日本の広島にある軍隊練兵場でした、たぶん。ソウル、京畿等から強制徴用された同胞は、その日、そこで記念写真を写した後、広島の三菱重工業造船所に送られたのです。200余名くらい。この中で生きている人は今、だいたい60余人でしょうか。」
1944年の夏だった。その時、彼もそこにいた。皇国臣民「野村ショーユギ」。当時の彼の名前だ。自分の意志と無関係に無理に徴用されたショーユギ、彼こそ太平洋戦争の強制徴用犠牲者たちのひとりだったチョンチャンヒ(77)氏であった。今は京畿道安山のある庶民アパートで夫人と共に、ひっそりと老年を送っている。
心臓疾患、高血圧などの各種の病気に相変らず困っているが、気丈に彼は自分の生命を精一杯生きていると語る。「死ぬ前に日本に謝罪、いや賠償でも受けなければならない」からだ。いや「強制徴用者等がいわれのない理由で連れていかれたことに無関心になっている世人たちに明確に知らせるために」でも。
去る5月1日、チョン氏はパクチャンファン、イグンムク氏などの「韓国原爆被害三菱徴用者同志会」会員五人と共に、釜山地方法院に損害賠償請求訴訟を提起した。被告は三菱重工業。この会社は、日帝時に朝鮮人強制連行、強制労働に最も率先した代表的な日本の軍需財閥だ。徴用被害者たちが韓国で日本企業を相手に損害賠償請求訴訟を出したのは、今回が初めてだ。釜山地方法院に出すことにしたのは、三菱重工業韓国事務所が釜山にあるからだ。
「日本とアメリカ等で日本企業を相手に何回も訴訟を起こしても、明確な成果がなかったのですが、私たちを手助けしてくれる日本の弁護士と国内の弁護士たちが『それなら韓国で一度出して見よう』と、60余名の生存者のうち比較的健康な6人が代表で訴訟を出すことにしたのです。」
チョン氏等は訴状で「太平洋戦争末期、三菱側が原告を強制労働により苦しめたのに、当然支払うべき賃金をいままで支給していなかったこと」を問題視した。また、「原爆被害当時、(三菱が)日本人労働者たちにはいちはやく安全確保などの救護行為をしたことと違い、韓国人徴用者たちには何の措置も行なわずに放置し、死の危機に追いやった」と主張した。
チョン氏等は、日本が敗戦後、原告に対する帰国措置をせず、これまで一切の賠償をしていないという点も共に言及した。彼らは、三菱側に原告1人当り1億100万ウォン、計6億600万ウォンの被害報償金を要求した。
日本企業を相手に出したチョン氏の損害賠償要求闘争は今回が最初ではない。
去る1月24日、チョン氏はイグンムク氏と共に日本の広島三菱重工業造船所を訪問した。55年ぶりに訪れた造船所。感慨にふける状況ではなかった。造船所の責任者に会い、たった一言でも謝罪を受けたかった。だが、チョン氏はかえって苛酷な門前払いにあった。
日本の裁判所は、徴用者の権利から徹底的に顔を背け「三菱側は、私たちの面談要請を拒んだばかりでなく、出入り口を鉄柵で封鎖する等、暴力で阻止しました。」チョン氏の声が険しく上がった。「損害賠償請求訴訟は何よりもわれわれ三菱徴用工が、韓国の全国民に私たちのように悔しい思いをさせられ、恨を抱く人々がいるという事実を知らせようとする試みでもあります。しかし今後は、三菱側も相手ですが、政府を相手としても訴訟を出さなければならないのではないかと思っています。日本側が去る65年の韓日会談を通じて、韓国政府と既に一括妥結したものと主張し、賠償を拒みつづけているからです。」
三菱重工業を相手に行ったチョン氏の闘争は、95年に始まった。その年の12月、チョン氏はやはり三菱重工業で働いていたパクチャンファン氏など、45名の同僚と共に、広島地方裁判所に訴状を提起した。この時は、国際法に違反し、強制徴用という不法行為を行なった日本政府も共に被告に立てた。
長々と続いたこの裁判は、99年3月に1審判決が出された。しかし、日本の裁判所は「個人は国際法上の権利の主体にならない」、「明治憲法下の国家の権力行使に対して責任を負わない」、「過去の三菱重工業と現在の三菱重工業は別個の会社だ」などの論理を掲げ、チョン氏と同僚等の要求から徹底的に顔を背けた。現在この裁判は控訴係留中だ。
チョン氏は太平洋戦争末期の1944年、強制徴用された。当時、ソウル朝鮮総督府の鉄道局乗車券係に勤めていた彼は、「国家総動員令により産業戦士として招集する」という文句が書かれたたった一枚の徴用令状により、龍山駅に連れていかれなければならなかった。狭苦しい客車に乗って釜山へ行く時も、下関に向かう関釜連絡船の船べりにも、必ず腕章をつけた三菱の職員がいた。広島にある三菱重工業造船所に着くと、既に3千余名の韓国人たちがきていた。この日から、彼はものものしい監視網の中で、死ぬより苦しい強制労役に苦しめられなければならなかった。畳部屋の「寮(寄宿舎)」でざこ寝して、食事は監獄よりひどい豆かすに麦とコメを若干ずつ混ぜたご飯が全てだった。
鉄板を切ってパイプを曲げて熔接するつらい仕事が毎日続いた。警察が常に徴用者を監視し、仕事の手を休めると直ちに殴打された。月給は20・30円。いつも非常にひもじくて、水っぽいお粥を買って食べるのに使うしかなかった。三菱側は、月給の半分は家族に送金すると主張した。しかし、実際はたった一銭も送金されなかった。
こういう状況でも、逃げることを考えるなど、夢にも見ることができなかった。家族たちに不利益になのではないかと心配したからだ。チョン氏は訴状で「まさに奴隷であり、獣と同じ接待を受けた」と書いた。そして1945年8月6日、広島に原子爆弾が落ちた。広島造船所は当時、原爆の爆心地から約4km離れた所。当時、原爆は4.5kmの地域にまで被害をおよぼした。「突然に稲光りがひかり、雷のような爆発音が聞こえました。続いて暴風が一度に押し寄せてきました。からだが紙のように舞い上がり、地べたに叩きつけたのです。しかし私は鉄製の工場の中にいたので、幸い命だけは無事でした。」
阿鼻叫喚の記憶をどうして忘れ忘れろというのか
8月15日、ついに日本天皇の降参放送が聞こえて、チョン氏は何名かの同僚等と共に三菱をでた。「骨が砕けるほど働いたのにお金がなく、朝鮮人村を訪ねて服と時計を売り、お金を用意して下関まで行きました。当時、関釜連絡船が杜絶していて、密航船に乗って帰国を試みたのですが、座礁でようやく命だけ救って、結局8月30日にまた開通した連絡船に乗ってソウルにくることができたのです。その時、下関港は阿鼻叫喚の地獄でした。朝鮮人たちが群れをなして押し寄せ、船に乗るために阿鼻叫喚でした。」
ソウルに帰ってきたチョン氏は、後で鉄道局にまた復職した。しかしその後、終始原爆被害によるさまざまな病苦に苦しめられなければならなかった。心臓疾患、高血圧、無気力症など。そしてすぐに続いた韓国戦争(朝鮮戦争)。戦争が終わった後も、チョン氏は病苦で一定の職業を持てず、夫人に依存して生を設けなければならなかった。
「2男、3女を産んだが生計が苦しく、きちんと教育を受けさせてやれなかったことが最もつらい」というチョン氏は、手帳をたたんで立ち上がる取材陣に「日本が謝罪して賠償をしない限り、徴用の恨は決して解けない」と語った。
イチャンゴン記者