ハワイのくらしと歴史ちょっと見 その三

 

<ビショップ博物館>

ハワイの歴史が一目で!

ビショップ博物館は、1889年イギリス人銀行家ビショップによって建築された。建物はすべて溶岩でできているという。

ビショップ博物館では、まずはプラレタリウムの部屋へ。

ハワイ原住民は、その昔東南アジアから太平洋各地に乗り出したと聞く。私も間違いなく黄色人種の端くれ。ハワイの原住民の人々と触れ合う機会があれば、ひょっとすると私の祖先の末裔に出会うかもしれない(冗談)。

このプラレタリウムでは、今から何千年も前(一番初期は6万年前と言われる)に東南アジアを後にした人々がどういう方法で航海したかを再現してくれる。北極星や南十字星などの星座を頼りに何千キロもの海を渡りまた行き来していたのだという。星空に星座を写し、海原を航海することによる緯度経度の違いを再現し航海できることを見せてくれた。

次にはハワイ王朝の歴史を展示する博物館へ。案内は、ボランテイアのMさんだ。

伝統的なフラダンスの紹介もあった。

文字も持たなかったハワイ原住民は踊りで物語を表現し歴史を伝えていったという。一つ一つの頭、手足、体のしぐさに意味があるのだろうが、英語を理解できない私は残念ながらさっぱり分からなかった。

フラダンスのための楽器としてイプというへちまやタムという太鼓が使われる。素朴な打楽器だ。

楽器奏者の歌は意味は分からないが日本の神道のミコトノリに似ていた。

世界各国から移民の歴史も数多く展示されている。日本人が持ち込んだものも多い。半纏や掛け軸など生活用具、衣類など多数展示。

1910年代までハワイ島で実際住んでいたという家も展示されている。

巨大なクジラの骸骨も展示されている。捕鯨が盛んだった証拠の一つだろう。

ハワイは歴史上イギリスに接近したことがる。その名残か州旗にはユニオンジャックがデザインされている。

地元の高校生がボランテイアで博物館の特別展示を紹介。写真を撮ってもらった記念に名前を教えてもらった。シャンテルさんという。Eメールアドレスには、Oとあったので、日系の方かもしれない。短いハワイ旅行ではあったが貴重な人々との出会いとなった。

 

 

<戦艦ミズーリ号記念館見学>

ガイドはみなさん面白くためになる

ハワイと言えば観光地。私もそういう認識だった。しかしガイドの話や垣間見るハワイには軍事基地としての顔も見える。

戦艦ミズーリ号が記念館として停泊している真珠湾はまさにその中心なのであろう。

レンタカーのガイドはHさん。今から50年前愛媛県野村町からハワイに来たという。花栽培、スーパーの経営などで成功し、余裕のある年金生活でリタイアー後を楽しんでいるとのこと。ガイドは半ばボランテイアで健康のためにやっているよと笑っていた。

他のガイド同様にハワイの事情をいろいろと話してくれる。

アロハタイム。30分から1時間時間が遅れるのは当たり前の感覚。

市営のゴルフ場が7つあり、65歳以上は800円で18ラウンドのプレーができる。リタイヤー生活者には嬉しい話だ。

30年前のブルースカイはなくなってしまったと感慨深く話す高橋さん。故郷の野村町との思いが重なったのかもしれない。

宗教の話題も。浄土宗は110年前から移民とともに渡ってきましたよ。日本人は140万人が移民としてハワイの土地を踏んだという。その後の想像を絶する苦労とまた成功の物語はまたの機会に勉強したい。

観光収入が70%を占めるというハワイ。日本人観光旅行者にも親切なのは、その辺りの事情もあるという。

 

軍事基地ハワイ

戦艦ミズーリのガイドはHさん。今回のガイドは、みんな当たりだ。Hさんの話も面白く、ためになり、感動的という三拍子揃ったもの。

この戦艦ミズーリは当然日本との関係も深い。ミズーリの停泊している真珠湾そのものが太平洋戦争開始の地であること。あとから見学する戦艦アリゾナは当時の攻撃で撃沈し、兵士1177名とともにすぐ近くに今も眠っている。

そして194592日日本が連合国に全面降伏文書の調印式が行われたのもこのミズーリの甲板だった。

日本の太平洋戦争の始まりと終わりが同時に見られるというわけである。

日本の戦後はこのミズーリで始まったといっても過言ではない歴史的記念館だ。

またその後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と戦後アメリカの主要な戦争の主要戦艦として1992年退役するまで現役の戦艦であった。

湾岸戦争でトマホークの発射をTV画面で見入ったのだが、そのトマホークのカタパルトや戦闘指令室での発射ボタンなども展示されている。そのボタンを押してみたが、ガイドのHさんの言うようにその一押しによって何百人を死に至らしめるミサイルであっても何の痛みも感じることがないのもよく分かる。

日本人にとっても戦争と平和の博物館として大変考えさせられる記念館である。とくに印象に残ったのは次の3点であった。

 

日本の特攻激突の跡

ミズーリ号の見学では、戦艦としての能力の高さ、凄さにも単純に興味を感じたがしかし一番深い思いにとらわれたのは、日本軍特攻機によるミズーリの側艦のへこみであった。  

それは1945422日の特攻でのこと。当時ミズーリは日本のゼロ戦により12時間にわたり攻撃を受けた。それを副砲を中心に応戦。ほとんどは体当たりの前に打ち落とされたが一機だけ猛烈な対空放射をかいくぐってミズーリに接近。側艦に体当たり。機体は半分になり一部が甲板に激突。辺りは火の海。20分で消化。30分を超えると危ない。と見ると上半身だけの死体が甲板に。特攻機のパイロットらしい。兵士にとっては憎い日本兵であり直ちに海に捨てようとした。その時艦長キャラハンは、多くの反対を押し切って敵であっても立派に戦った軍人であり名誉ある水葬にするように命じたという。

このパイロットは後日の調査で岡山県出身の19歳、Iさんだろうという。見た目はまだ子供のようだったという。

 

全面降伏文書調印のデッキ

もう一つは、日本が全面降伏文書に調印した場所であった。

その様子を前後の取り組み、場面も合わせて長谷部さんが軽妙に語ってくれる。

とくに調印式を準備するアメリカの対応は興味深いものであった。

星条旗を二つ用意。一つはアメリカ国会議事堂に掲げられているもの。そしてもう一つはペリー星条旗と呼ばれているもの。それは1853年アメリカが日本に開国を迫った時の軍艦のマストに掲げられていたもの。この旗にアメリカはこだわった。第二の開国という意図だったのかもしれない。

現在のイラク戦争後の対応を重ね合わせて見るとアメリカの行動様式は半世紀前と変わっていない、または連続しているということなのだろう。

1992年湾岸戦争が目の前に

3番目は、トマホークと戦闘指揮所(SEC)。

トマホークは一機1億円。1600kmの距離を時速808kmで攻撃。湾岸戦争からアメリカの戦争はゲーム感覚となった。その発射ボタンをSECに見た。

SECの部屋の様子や機器類は、確かに80年代のアメリカ戦争映画に出てくる場面そっくり。アクリル作戦板は反対側から逆文字で書き、それを司令官が判断し指揮を命じる。

トマホークの発射ボタンもカバーを外して押してみた。確かにゲーム感覚というのが実感できる。

 

撃沈されたままの戦艦アリゾナ

ミズーリ号を降りるとすぐ近くに戦艦アリゾナ記念館がある。

そこからボートにのると沈んでいるアリゾナを直接見ることもできる。しかし大勢のアメリカ人が並んで順番待ち。2.3時間はざらだというので戦艦までいくのは諦めた。

アリゾナ記念館では、名物だという1941127日付けの新聞を買い込んだ。見出しは「WAR! OAHU BOMBED BY JAPANESE PLANES」だ。

まさにアメリカ人にとってREMEMBER PEARL HARBORの記念碑的存在なのだろう。

アメリカ人が広島の原爆記念碑を見学する意味があると同様に、ここパールハーバーも日本人必見の記念館の一つであろう。




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