ブルデュー資本概念における「秘密」と「隠蔽」
―ブルデューモデルによる「公然の秘密」とそのゴフマンモデルとの相補性―

ブルデューの資本概念における「秘密/隠蔽」の重要性はすでに多くの研究者によって、指摘されている(Harker et al. 1990, Calhoun et al. 1993)。ブルデューの資本概念の主要な特徴として、(1)通常、資本とみなされない、文化資本、社会関係資本などの象徴資本を、 資本としての性格が隠蔽された「資本」だとすること(2)資本としての性格が隠蔽された象徴資本と、資本としての性格が隠蔽されていない経済資本との対立を、社会階級構造の基本軸の一つとして認めたこと、の二点があげられる。この双方において、「秘密/隠蔽」は積極的な意義を果たしている (図1)。

このような重要性をもった、象徴資本の「隠蔽されている」という性格は、これまで「誤認」として、「象徴暴力」「象徴権力」といった諸概念とのつながりでのみ理解されてきた。すなわち、上層階級による搾取というマルクス主義的な文脈でのみ理解されてきたのである(ibid.)。1
本稿では、これまで無視されてきたブルデューの象徴資本における「秘密/隠蔽」のもつ、ある別の特徴に焦点を当てる。ブルデューはこの特徴を、「最も上手に守られ、かつ最もまずく守られた秘密」として表現する。この「秘密」は、実際、他の誰もから守られていながら、しかも、誰もが同じ秘密を共有している、という「詐欺師のいない、裸の王様」的な、奇妙な性格を持っている。なぜ人はこのような「公然の秘密」を必要とするのだろうか? ブルデュー自身のモデルと、それと相補的なゴフマンのモデルを通して、この問いに答えること、それが本稿の課題である。

1 資本の秘密、あるいは秘密の資本

本稿では、ブルデューの資本概念における「秘密/隠蔽」について分析する。「秘密/隠蔽」は、ブルデューの用いる、全ての非経済的資本概念――文化資本、社会関係資本、学歴資本、教育資本、言語資本、宗教資本など――の理論的源泉である。これらの名前からも明らかなように、こうした多様な資本概念はある程度重なり合っており、ブルデュー自身はこれらを系統的に区別するということを行っていない。2 しかしこのように多様な非経済資本も、共通する性格を持っている。それは、それらの資本の投資・獲得・保持における「無私無欲/脱利害関心 (d駸int駻essement)の見せかけ」である。言い換えるなら、それらの資本はすべて経済資本との交換可能性を隠蔽している (図1前掲)。
これらの多様な形態の非経済資本は、それぞれ異なった「場」との結びつきによって別々の名前で呼ばれつつも、それらは、普通の意味での「資本」と認識されないという意味では同一なのである。この意味において、あるいはそれが「脱関心」を表現する程度にしたがって、これら全ての非経済資本は象徴資本であると考えられる。ブルデューは象徴資本を次のように定義している。
3

物質的な「経済」資本が変形して偽装された形態である象徴資本は、それが「物質的」形態での資本からきているという事実を、隠蔽している程度により、また隠蔽している限りにおいて、その固有の効果を産み出す…(Bourdieu 1977:183)

豪華な贈り物をしたり、自分の大事な持ち物をわざと壊したりする、ポトラッチの儀式(Mauss 1950=1973: 227-8)や、ヴェブレンのいう「顕示的消費」4 などに典型的に見られるように、人は「脱利害関心の見せかけ」を、自分の物的資本と引き換えに表現することができる。そしてその「脱利害関心の見せかけ」は、ちょうど物的資本の所持と投資と同じように、社会空間においてより高い位置を獲得するのを可能にする。ここから、こうした儀式や消費において獲得される象徴資本は、経済資本の転換物であり、また、そうした象徴資本は、経済資本の所持や投資と同様の機能を持っているといえよう。ブルデューが、普通資本とは見なされない、象徴資本を「資本」と呼ぶのは、こうした理由からであり、また彼が各種資本形態間に見出す「交換可能性」とは、こうした特殊な種類の「転換」を意味しているのである。5

2 象徴資本の秘密とある種のプライヴァシーとの共通性(1)

これまでの準備で、象徴資本における「秘密」の分析に入ることができる。その「秘密」とは、象徴資本と経済資本との交換可能性にほかならない。この「秘密」は、普通の意味での「秘密」とは大分異なるが、少なくともブルデューはそれを「秘密」と呼んでいる。
それではまず、ブルデューの挙げる具体例から見て行くことにしよう。

ある石工が…、故郷に戻ってスキャンダルを起こした。この男は、家の建築にあたって、彼に敬意を表して伝統的に供される食事をとらずに、…この食事分の価格の支払いを求めたのだ。食事の等価物を貨幣で請求すること、それは労働もその価格も無償の贈与にかえるのを目的とした象徴的錬金術の公式の神聖さを冒涜してひっくり返すことであった。…宴の食事の貨幣への換算可能性を強く主張することによって、もっとも上手に守られ、もっともまずく守られた秘密――というのも誰もがそれを隠していたのだから――を暴き、また集合的な悪意の共犯を「善意の」経済のために保証する、沈黙の掟が破られた時には、人々もこの石工の要求をスキャンダル、あるいは挑発として感じざるをえなかったのである(Bourdieu 1980=1988 (1) :189-190 強調引用者、訳に変更あり)

ここで「秘密」とされていたものを確認しておくなら、それは、食事がお金の変換物であり、しかも主人が食事をふるまうことで、より高い社会的地位を表示/獲得することである。ではこれはどんな「秘密」なんだろうか? もしこれを「秘密」と呼んでよいなら、誰が、誰から、守っている「秘密」なのだろうか? 実際のところ、この「秘密」は誰もが、誰もから隠している誰もに共通の「秘密」である。まさにブルデューの言うように、「もっとも上手に守られ―なぜなら誰もがそれを隠している―もっともまずく守られた―なぜなら誰もがそれを知っている(ibid: 190)」そんな秘密なのである。
ブルデュー自身は指摘していないことだが、この意味で、この象徴資本に特有の「秘密」はある種のプライヴァシー(/タブー)と性格を共にする。
6 例えば、我々はほとんどの夫婦が性交を行っていることを知っている。しかしながら、我々がそれ程カジュアルでない場面で彼らの夜の営みに言い及ぶならば、ちょっとしたスキャンダルになるだろう。排泄に関るプライヴァシー(/タブー)も同様である。それらは想起さえされてはならない。
こうした「秘密 / プライヴァシー」は、その秘密を暴くことが、その対象に関し新しい情報を与えることにまったくならないという点で、その他の種類の「秘密 / プライヴァシー」と区別される。例えば、食事をふるまうのにお金がかかるという「秘密」は、その秘密が漏らされたところで、何か新しいことを知るようになるわけではない。
ゆえに、この種の「秘密 / プライヴァシー」は、特定の個人を守るものというよりは、聖なる象徴を汚染から守るのと同様な、デュルケームの言葉でいう集合意識を保護することにより近いと考えられる。

3 象徴資本の秘密とそれが守る「場」 (寡占協調モデル)

ところでブルデューは人々がそのハビトゥスに導かれて、つねに彼自身の(あるいは彼とハビトゥスを共有する人の)資本の拡大再生産を行おうとし、 しかもそうした行為が、社会構造とともにあることにより、結果的に、普通にいう経済を超えたレヴェルで、合理的な実践になるとする(Bourdieu 1980 =1984 :(1)80)。7 
個人や家庭は、無意識的にせよ意識的にせよ、…多様な実践を通して自分の資産(=資本)を保持しあるいは増大させ、またそれと連関して、階級の関係構造における自らの位置を維持しあるいは向上させる傾向がある(Bourdieu 1979=1990: (I) 199 訳に変更あり )
ブルデューのこのような「個人主義的/利己主義的」な理論設定と、さきほどの「秘密 / プライヴァシー」の非「利己的」な性格とは、一見矛盾するように見える。この「矛盾」は、ブルデューの理論体系においてどのように解決されるのであろうか。
結論から先に述べれば、この(見かけ上の)「矛盾」はブルデューの「場」という理論装置によって解決されている。象徴資本の秘密は、ある特定の場のリアリティ感覚を創出し、またそれを保護する。そのようにして、象徴資本の秘密は、その特定の場と特別な関係にある象徴資本を産出し、また防御するのである。象徴資本の秘密とは、経済資本が正当だとは認められない--例えば文化的「場」や宗教的「場」といった--反経済的場を守る秘密なのである。それでは、ブルデューがどのようにその個人主義的理論枠組みの中で、象徴資本の秘密の集合的性格を説明するのか、見ていこう。ここで見るブルデューのモデルを「寡占協調モデル」と呼ぶことにする。
ブルデューによれば、ある特定の種類の資本は、常に特定の場と密接に結び付いている。ある形態をとる資本は、確かに他の形態の資本と交換可能であり、ゆえにそれらがみな同様に「資本」と呼ばれている。とはいえ、それらが「**資本」と呼ばれ、それぞれに区別されるのは、ある形態をとる資本は、それを生産した場においてのみ、その資本に特有の効果を産み出すことができるとされるからだ (Bourdieu 1980=1988: 204)。例えば「教会」という「場」においては、敬虔で、信仰深く、聖書の知識も豊か、などといった「カトリック資本」だけが、重要性を持つ。言い換えれば、ある「場」において、人々はある人がトータルでどれだけの資本を持っているかではなく、ある特定の場にどれだけの投資を行ったかに注目するのである。
8 
先に述べたように、ブルデューは、ある特定の個人のハビトゥスは、その人が持つ資本を拡大再生産するようなしかたで、彼の行動を導くと仮定している。このことは次のことと矛盾しない。すなわち、ある集団が彼らの持つ特定の資本と結び付いた「場」を守るために協同するということである。なぜならある資本の持つ価値(他の資本との交換比)は、その資本を生産した場において最大であり、その場を守ることは、結局彼の資本を守ることになるからである。ブルデューが象徴資本の秘密を、「象徴資本を産出する集団的営みへの投資」の条件でありその産物でもある「集団的誤認」(Bourdieu 1980=1988: (1)108)と呼ぶのは、主にこうした理由によってである。ある個人の象徴資本は、その特定の個人の(あるいはそのハビトゥスの)所有物であると考えられるが、しかしまた(多くの場を含む)全体社会において、特定の種類の資本を共有する人々は、その資本とつながる「場」を守ることに、共通の利害があるのだ。これが、ブルデューによるハビトゥスの戦略的性格という仮定から導かれる、象徴資本の秘密の説明である。我々はこの説明が用いている、非自由市場における経済学的メタファーから、このモデルを「寡占協調モデル」と呼ぶことにする。
9
この「寡占協調モデル」の重要な特徴は、ゼロサム・ゲームという前提にある。人々が求める資本一般が、社会空間における位置づけとの関係で定義されるため、ある人が資本を獲得し、上昇移動することは、必然的に、誰か別の人が、資本を失い、下降移動をすることを意味することになる。ゆえに、あるグループが「寡占市場」をまもることは、そのグループ以外の者が持つ別種の資本の換算比を下げることになるのである。ゆえにこのモデルは、社会の中の一部分の協調は説明できても、社会全体の協調を説明することはできない。なぜなら、社会全体の協調による行為者の利益はゼロだから協調のためのインセンティヴが存在しないのである。

4 象徴資本の秘密とある種のプライヴァシーとの共通性 (2)

前節で我々は「寡占協調モデル」による、象徴資本の秘密の説明を見た。そして同時に、我々は「寡占協調モデル」が、社会全体による秘密の保持を説明しないことも見た。これはすなわち、少なくとも何らかの修正無しには、「寡占協調モデル」が、人間の動物的機能に関するプライヴァシー(/タブー)を説明できないことを意味している。なぜなら動物的機能に関するプライヴァシーは、通常、全体社会によって守られているからである。
この問題の、とりあえずの最も簡単な解決法は、こうしたプライヴァシーに、階級区分と段階制を認めることである。それによって、この種のプライヴァシーも部分集団の共有物であり、しかもそれが「象徴資本の秘密」同様、象徴資本を産出することがいえる。
例えば、地位表示における「エチケット」の機能について考えてみよう。ブルデューが示したように、労働者階級において、規則性からの逸脱は、そのままくつろぎを意味する。

たとえばデザート皿を節約するために、ケーキの箱に敷いてあるボール紙を一緒に切り分けて渡す(内輪なんだからこんな失礼もまあ「許しあえる」だろうと冗談めかしながら)といったこともできるのであり、このときデザートに招かれた隣人は、自分と相手との間の親密さを示す証として、敷紙付きのケーキの切れを受け取ることになるのだ(Bourdieu 1979=1990 : 298)

このブルデューの挙げている例は、動物的な機能に関するプライヴァシーそのものではないが、我々の経験に照らしあわせてみれば、そうしたプライヴァシーにおいても、上記の例と同様のことがいえるだろう。すなわち、上流階級にとっては、より厳密なプライヴァシーの規則に従うことは、単に動物から自らを区別するだけでなく、下層階級から区別することにもなるのである。
ゆえに、たしかに動物的機能に関するプライヴァシー(/タブー)は基本的には、社会全体で共有されているかもしれないが、階級が異なれば、それが求められる程度も異なってくるために、そうしたプライヴァシーの実践も、社会的地位の獲得と表現を通して、資本の維持と産出に関わってくるのである。加えて動物的機能に関するプライヴァシーもまた、「公然の秘密」という形式と外観を伴うことによって、「脱関心」を表現しえている。
すなわち、動物的機能に関するプライヴァシーもまた、一種の象徴資本の秘密なのであり、したがって、ブルデューの「寡占協調モデル」によって、説明できることになる。そこで、これより動物的機能に関するプライヴァシーに拡張された象徴資本の秘密という概念を、ヒューマニスティックなタブーと呼ぶことにする。

5 ゼロサムとノンゼロサム・モデル (「社会秩序モデル」)

さて、ここまではブルデューの象徴資本の秘密という概念を、ブルデュー自身の「寡占協調モデル」によって説明する際のロジックをたどり直しながら、動物的プライヴァシーという現象についても同時に検討することによって、ブルデューのモデルの応用可能性を広げるという試みだった。しかし、それはゼロサム・モデルであるがゆえの限界も明らかにした。すなわち、全体的協調が説明できないということである。
ブルデューの象徴資本の秘密という概念は、別のモデルによっても説明できる。「寡占協調モデル」はゼロサム・モデルであったが、このゼロサムという前提は、ブルデューが、構造主義的な全体論の枠内で主体的行為者というリアリティを生かすために、方法論的個人主義と全体論とを統合する上で必要とされたものだった。ブルデューはこの統合を、次のような前提をとることによって成し遂げる。すなわち、社会地位の体系によってその同一性を規定される行為者が、その実践を通じて、彼を生産したところの社会地位の体系を、再生産なり、変革なりを行っていくという前提である(Bourdieu 1980=1988)。このモデルの出発点と終着点はともに、社会地位の体系であるため、ゼロサム・モデルにならざるを得ないことは明らかだろう。
しかし、方法論的個人主義と全体論との統合は、ノン・ゼロサムという別の形でも可能だ。ノン・ゼロサム・モデルであれば、社会全体の協調も説明できる。共通の出発点としてルソーをいただく、こうしたノンゼロサム・モデルの系譜としては二系統がある。デュルケームからゴフマンへといたる系統と、ジンメルからゴフマンへといたる系統とである。両系統とも、ルソー以来の、「社会が、個人の実践を導く、新しい価値を創造する」というノンゼロサムの前提をとることでは変わらないが、前者は、新しい価値の、より以前に個人内部にあった価値との対立を強調し、後者は対立とは別に、新しい価値へ向けての統合あるいは並立という契機をも強調する、という違いがある。
こうしたノンゼロサムの前提による、方法論的個人主義と全体論との統合のその第一のステップは、ルソーがホッブスとロックを乗り越える際に、踏み出された。ホッブス・ロックらの社会理論は、一見ノン・ゼロサム的に見えるかもしれないが、彼らの理論のその後の発展を見れば、ブルデューらに続くゼロサム・モデルの源流であったといえる。ルソーは、社会的価値の創出という考え方をとることによって、もう既にこの時点で、後のブルデューらと袂を分けていたのである。
例えば、ルソーは次のように語る。

個々人の利害の対立が社会の設立を必要としたとすれば、その設立を可能としたのは、この同じ個々人の利益の一致である。…社会は、もっぱらこの共通の利害 (interet commun)に基づいて、治められなければならぬのである (Rousseau 1762=1954: 42)

もしここだけを見ていれば、「共通の福祉(commonwealth)に基づく国家」というロックの主張 (Locke 1690=1980)と、ルソーは何ら変わらないように見えるかもしれない。実際、彼らの理論は、自然状態と市民社会の状態との比較を基礎とおく点で、見かけ上、非常に良く似ているのである。しかし、彼らが用いる「共通の利害」ないし「共通の福祉」ということばは、実は全く別の意味を持っている。ロックが「共通の福祉」に基づく国家なり社会なりを主張するとき、それは人々の協調によって生まれる「効率性」――それは暴力などによる損失の極小化なども含む――を意味している (ibid.)。ロックの議論は、自然状態と、市民社会の成立した状態それぞれで、人々が同質なものを求めているという前提をおき、市民社会ではその同質の欲求がよりよく満たされうるし、そうあるべきだという形式になっている。そうした点で、ロックの社会思想は、スミスの「国富論」(1776)などに代表されるような、後の古典経済学と何も変わらない。実際、ロック・スミスらの労働価値説を原理的に極限まで推し進めてしまえば、価値を人間関係に還元していくマルクスの史的唯物論を通して、ブルデューのゼロサム・モデルへとつながっていく。
一方、ルソーは、自然社会と、市民社会において、欲求の質的な転換があると考える。ゆえにそれぞれの状態で、満たされる欲求に関し、量的な比較は不可能になるのである。

…社会契約によって人間が失うもの、それは彼の自然的自由と、彼の気を引き、しかも彼が手に入れることのできる一切についての無制限の権利であり、人間が獲得するもの、それは市民的自由と、彼の持っているもの一切についての所有権である。この埋め合わせについて、間違った判断を下さぬためには、…最初に取ったものの権利あるいは暴力の結果に他ならない占有を、法律の権限なくしては成り立ちえない所有権から、はっきり区別することが必要だ。 (Rousseau 1762 =1954 :36-37)

ここでルソーが強調するのは、社会全体の一般意志と社会契約とに根拠を持つ「所有権」と、早い者勝ちの原理あるいは暴力に基礎をおく「占有」との間の区別である。ホッブスは、個人の欲求を「占有」のレベルでしか考えなかったために、「万人による万人に対する闘争」の状態を予想し、その状態を避けるために、専制国家を要求した。
しかし、多くの人々は、単なる「占有」ではなく、「所有権」に裏付けられた財産を求める。「所有権」に裏付けられた財産に、大きな価値があるのは、すべての人が、その人の「所有権」を認めていることによる。ある人が「これは私の財産だ」と宣言するとき、それと同時に彼は、他者の財産をも認める。誰もにとって、他のすべての人が彼の財産を認める必要があり、ゆえに、彼自身もまた他の人の財産を認めるのである。誰もが共同体において、全ての人が「所有権」の恩恵にあずかるために、「財産なるもの」の創出に協力する。
これが「所有権」と単なる「占有」との違いである。それは単なる所有の対象の違いではなく、所有の形式の違いであり、質的に全く新しい価値の創造がそこに生じている。
こうした、社会による価値の創造という考え方によって、社会と個人という異なった次元の概念を同時に扱うことが可能となる。社会の側からの統合と再生産という現象は、合理的行為者としての個人から見れば、新たな価値創造への参加ということになり、社会を実体として扱うような全体論と、方法論的個人主義の統合が可能となるのである。このルソーの社会的価値創出の考え方の「寡占協調モデル」との最大の違いは、社会によって行為者に与えられる「利己的な」動機には、関係に規定されるような相対的なもの以外のものがありうるということである。
このようにして、ブルデューの「寡占協調モデル」と相補的な、非関係的な個人的動機というものを考慮に入れるノン・ゼロサム・モデルを立てることができる。それが、ゴフマンの「社会秩序モデル」である。 このモデルは基本的には、社会的機能を重視する社会還元的志向に基づいているのだが、例えばスペンサーのモデルがそうであったように、それは個人的機能をもともなっている。図2を見てほしい。


図からもわかるように、この「ヒューマニスティックなタブー」は、その @共通信念による儀礼 、A個人の名誉のための共通文法、B共通のフレーム、という三つの契機によって、社会秩序を創出し、保持する。これらはそれぞれ、はじめに述べた、ノンゼロサム・モデルの二つの系統のうち、@がデュルケームの系統に、A・Bがジンメルの系統に属している。すなわち、@はより以前に個人内部にあった価値と、社会によって生成される新しい価値のあいだに意識上での対立と葛藤がある場合、ABはそうした対立がない場合である。さらに、AとBは、Aが個人的価値と社会的価値とが、同時的に発生し意識上で統合される場合、Bは、新しい社会的価値を特別な空間に設定することによって、より以前に内面化されている個人的価値から逃避し、空間ごとの並立化をはかって葛藤を防ぐ場合、という違いがある。
「出会い」(1961)、「集まりの構造」(1963)、「儀礼としての相互行為」(1967)、そして Relations in Public (1971)で、ゴフマンは、社会秩序の説明のために、これらの契機を系統的に区別することなく、自由に組み合わせて用い、それを「社会秩序モデル」と呼んでいる(Goffman 1963=1980: 9)。我々は、ゴフマン自身は行わなかった「ヒューマニスティックなタブー」の社会秩序の分析を、ゴフマンがほかの種類の社会秩序を分析した際の理論をより統合された形で用いることにより、行っていく。以下、デュルケーム、ジンメル、ベイトソンの社会理論とそれぞれのゴフマンによる応用を簡単に紹介した後、それぞれの理論を用いて「ヒューマニスティックなタブー」を分析していこう。

5-1 第一の契機(対立する価値の生成――道徳的側面)

まずデュルケームの「人格崇拝」と儀礼の概念から。デュルケームは、社会を可能にする社会的連帯が、社会で共有された信念(集合意識)と、その信念に基づく儀礼によって維持されると説いた (Durkheim 1893, 1897, 1912)。10 しかし、近代社会においては、社会の拡大と分業の発展により、社会における人々の活動と経験は多様化し、「やがて同一の人間集団においても、…人間であるということ以外にもはや共通の要素が何一つ共有されないような時期がやってくる」

このような条件のもとでは必然的に、集合的感性があらゆる力をかたむけて、残された唯一の対象に結びつき、そのことだけでもこの対象に比類のない価値を吹き込むのである…。こうして、人格は…一つの宗教的な性質をおびるようになる(Durkheim 1897=1985: 425)

さらに、こうした「人格/個人崇拝」の儀礼は、人の肉体と区別されるその「精神/たましい」へと向けられることをデュルケームは観察した (Durkheim 1912=1942: (下) 52-3)。彼は、その理由を道徳という現象に内在する、カントの発見した、個人内における対立形式とつなげて考えることによって説明する (Durkheim 1914=1983)。カントを引用しつつ、デュルケームは、道徳的な命令の声が、個人内において聞こえるにも関わらず、しかも、それが個人的な欲求とは対立するような強制として現れることを指摘する。そして、道徳現象におけるこうした対立形式は、個人と社会という対立が、個人内部に持ち込まれたものと考えるのである。ゆえに、「個人崇拝」の儀礼が「精神/たましい」に向けられるのは、「精神/たましい」こそが、個人に宿る「社会」、すなわち、俗なる肉体に対立する、個人における聖性の基礎だからだということになる。
こうした、社会を起源をするモラリスティックな規制の内面化という考え方は、デュルケーム、ジンメル、フロイトなどにおいて、それぞれ独自の理論的発展を見せた。
11 われわれは、彼らの「社会化」として一括できるような考え方を、方法論的個人主義と全体論との、広い意味でノンゼロサム的な統合様式の一系統として捉える。彼らの認める「社会化」という現象において、個人に内面化された「集合意識」あるいは「超自我」は、その意識・無意識において、半ば外在的・強制的に、個人をコントロールする。しかも、それは強制的であるように感じられるにも関わらず、同時に道徳的価値を満足させるような、「望ましきもの」として映るのである(Durkheim 1924=1985)。このように、個人のより古い基層にある価値と対立するような形で挿入された道徳的価値は、それにそった実践において、個人に新しい道徳的次元における満足感をもたらすとともに、その社会的機能を満たす。こうした道徳的価値による実践こそが、デュルケームのいう儀礼であり、その社会的機能が、社会的連帯の産出であり、また再生であるということになる(Durkheim 1912)。
ゴフマンは対面的相互行為の分析において、しばしばこのデュルケームとほぼ同様の立場を取る。ただし、ゴフマンとデュルケームの違いは、デュルケームが、全体社会の生存への直接の機能を問題にするのに対し (Durkheim 1893, 1912)、ゴフマンは、対面的相互行為の秩序、すなわち「出会い」あるいは「集まり」の秩序の維持のための機能と、全体的な社会構造への機能を分けて考えることである。彼はこうした対面的相互行為の領域と、全体的な社会構造とが、互いに全面的には還元不可能な性格、すなわちそれぞれ半自律的な性格を持つことを強調する (Goffman 1983)。ただし、半自律的であるということは、もちろんそれらが相互影響下にあることを認めることでもある。ゴフマンも、こうした相互行為の領域が、まさにデュルケーム的な意味での儀礼としての働き、すなわち儀礼の場において「集団への帰属とコミットメントの確認を行い、彼らの究極の信念を再生する」ことを通して、全体的な社会構造に影響を与えることを認めるのである (ibid.: 9)。
デュルケームとゴフマンのもう一つの違いは、「個人的な動機」との対立を基準として、デュルケームの設定した社会という水準のとりかたを、ゴフマンは部分的にしか採用していないということにある。社会という水準に関して、ゴフマンの立場は、デュルケームの立場と、以下の第二・第三の契機の説明に見るようなジンメルの立場との、あいまいな折衷であり、ad hocな形でそれぞれを援用している。
こうしたゴフマンの、特にデュルケーム的な側面を典型的に示す論文として、『儀礼としての相互行為』(1967=1986)中の、「当惑と社会組織」 (94-110)がある。ここでゴフマンは、「当惑」という現象が意味する二つの側面を浮かび上がらせる。一つは、相互行為秩序の破綻の結果として現れる「当惑」であり、人々は、「当惑」を導く、相互行為秩序の破綻を回避するために、道徳的な共同責任を感じ、誰もが「当惑」を感じずにすむように、協調する。しかし、この「当惑」は、確かに、相互行為秩序の破綻の結果として現れるのだが、それは、全体的社会構造というより重要な秩序を、相互行為秩序の破綻の直接的影響から守るという社会的機能を担っているともされる。これが第二の側面である。これは、例えば、熱の出ることが、平熱に関するホメオスタシスを崩し、健康状態からの逸脱を表現すると同時に、それは、免疫系の効果を高めるという、生体の生存のためのより高次の機能を担っている、ということと同様である。この例では、平熱のホメオスタシスが、相互作用秩序であり、生体の生存が、社会全体の秩序に置き換えられる。
ここで、重要なのは、人々は自分自身の「当惑」を回避する「利己的」インセンティヴを持っているのに対し、他者の「当惑」という事態を回避したり、ましてや自分自身で「当惑」をするというための、(ブルデュー的意味での)「利己的」インセンティヴは何もなく、それは、純粋に道徳的になされるにすぎないとされていることである。
これと同様の考え方は、同じ論文集に収められた「面子について」(ibid: 1-41) や「敬意とふるまいの性質」(ibid:42-93)における、他者の面子を守ることや、相互的表敬の分析にもあらわれている。デュルケームが、その社会的機能によって、個人崇拝の儀礼を説明したように、ゴフマンは、社会全体の協調でもある、例えば相互的表敬を、「人間の聖性」という共通信仰と直接結びついた社会秩序維持のための「相互行為儀礼」として捉えるのである。ゴフマンの、デュルケーミアンとしての側面を強調して、彼の理論を解釈するなら、個人の側からの、こうした儀礼への参加の動機は、利己的動機とは区別されるような、道徳的動機であるということになる。
12 「社会化」された個人は、こうした道徳的動機をうめこまれることによって、ノンゼロサム・ゲームをプレイするインセンティヴを与えられるのである。
この考え方をヒューマニスティックなタブーに応用してみよう。こうしたデュルケーム=ゴフマン的な観点からは、ヒューマニスティックなタブーは、「人格の聖性」という共通信念へ向けられた儀礼として理解される。階層移動のゼロサム・ゲームによって与えられる利己的動機とは異なる、内面化された道徳的動機に導かれて、個人は、儀礼としてのヒューマニスティックなタブーを実践し、それによって、「人格の聖性」に基づいた社会秩序の生成と再生産が行われる、ということになる。

5-2 第二の契機(統合する価値の生成――表現媒体的側面)

では次に、共通の名誉の文法による、個人の名誉の表現を通した、社会秩序の形成について述べていこう。前にも述べたように、方法論的個人主義と全体論のノンゼロサム的統合には、上に見たデュルケーム系のものと、これから見て行くジンメル系のものとがある。第2・第3の契機は、このジンメル系の統合、すなわち、社会的な動機と個人的な動機とが必ずしも対立するものと捉えない見方に分類される。13
この第二の契機において、鍵になるのは、個の表現が、共同体の共有物である表現の体系によって可能となるということである。行為者は、あくまでその行為者自身の名誉を目指しつつも、その名誉を表現するための文法が一致するがゆえに、社会秩序を結果的に作り出してしまうことになる。別の言い方をするなら、共通の名誉の文法が、不分明な個人的名誉の動機に、形を与え意識化することによって、その動機に導かれた実践が、ある固有の形式を備えた社会を形成するのである。
14
ではまず、こうしたアイディアの先駆となった、ジンメルによる名誉概念について参照してみよう。

名誉の規定を内容にまで立ち入って研究すれば、それらの規定はあくまでも、ある社会圏の保存のための手段、その団結と信威、その活動規定の規則性と有効性とにおける保存のための手段として示される。…名誉は、その現象とその意識との純粋に個人的な形式にも関わらずではなく、むしろそのような形式のために、集団生存の保存のための、本能的に形成されたもっとも驚くべき合目的性の一つである (Simmel 1908=1994:(下)139-142 訳に変更あり)

ジンメルの述べるように、名誉は、通常、社会全体よりは小さな「圏」――これはジンメルの語法からいって、ブルデューの「場」と置き換えても良い――と結びついており、ある特定の「圏」は、その「圏」に特有の、名誉に関するルールをもつ。「圏」は、そのメンバーに、「圏」特有の名誉を保つことを要求することによって、その「圏」を保持するのである。それはその個人的機能を通して、社会的機能を遂行するというわけだ。
ゴフマンは、このジンメルの名誉の概念を、社会秩序の説明に応用する。その第一歩は、ジンメルにおける「小さな圏」を、対面的相互行為の場面、すなわち「集まり」として読み替えることからである。

個人は、家族やクラブに属する以上に、また階級や性に属する以上に、そして国家に属する以上に、集まりに属するのであり、そのれっきとした一員であることを示すに優るものはないのである (Goffman 1963=1980: 267)

「集まり」もまた、「集まり」特有の名誉を保つことを要求することによって、その「集まり」を保持することができる。ゴフマンが論じるように、「社会的場面というくもの巣のように繊細な現実が出来上がっている」のは、「集まり」の「儀礼的規則」といったような「頼りない材料からなのである」

[こうした儀礼的規則の存在]こそが、我々の生活が社会に役立つよう押しつけられる、完全なまでの保証となる。社会がその成員をこのように利用する典型的例は、集まりに対して敬意を表さない人が「誇り」を持っていないとか「自尊心」を欠いていると言われることに見られる (ibid.:266 訳に変更あり)

ここでゴフマンは、対面的場面の秩序維持から、社会のレヴェルでの秩序維持へと、飛躍しているが、その飛躍の隙間を埋めてやることはそれほど難しいことではない。
我々の社会生活の、かなりの領域が、こうした一つ一つの「集まり」から構成されており、しかもその多くは外部へと開かれている。そうした開かれた「集まり」において、特にここでゴフマンが分析しているような公共の「集まり」においては、そうした名誉の文法は、そうした「集まり」以前にある程度共有されていなければならない。すなわち、その名誉の文法は、社会において共有されていなければならないのだ。「ヒューマニスティックなタブー」もまたやはり、そうした名誉の文法として機能していると考えられる。この場合、その名誉の文法の内容そのものは問題にならない。その文法を用いて、何が表現されるかが問題となるのである。

個人が、上品な社会的行為と考えるものは、実は社会的集まりに帰属したり、それから離反したりするときの手がかりとなる規則であり、上品な行為そのものは、帰属や離反を表明するのに利用できる、慣用的語法(idiom)なのである (ibid. 訳に変更あり)

このように、ジンメル=ゴフマン的観点から見れば、「ヒューマニスティックなタブー」は、個人の名誉を表現する文法として考えることができる。個人が自己の名誉を表現するために、そうした共通の名誉の文法を必要とし、そうした共通性を通じて、相互行為秩序が維持され、しいては、社会全体の秩序の維持と再生産に影響を与えるのである。

5-3 第三の契機(並立する価値の生成――フレーム的側面)

後の第三の契機は、共通のフレーム内で行われるコミュニケーションが、特殊なリアリティ感覚をともなう一種の異空間を現出させることである。生活空間が、このようなフレームによって切り取られ、区分されることによって、区分された空間間での別種の社会的動機は、互いに対立することなく並存でき、全体としての社会秩序も守られることになる。これらのフレームで区切られた空間は、すべてが互いに対等の資格を持つとして理論化も可能であるが、ジンメルやゴフマンは、他の全ての場にリアリティを供給する基底的場と、そこから派生する個々の小さな場という形で理論化している。個々の小さな場は、そうした基底的な場からの逃避先という意味を持つわけである。
それでは、これまで同様、こうした考え方の源泉となる、ジンメルの「社交/遊び」の概念から見ていこう。人々が「遊んでいる」とき、あるいは人々が純粋な社交に興じているとき、人々は、通常とは異なる、特殊な種類の対面的相互行為の中に置かれているとジンメルは考える。「遊び」や社交の、その特殊な相互行為の形式に従うことによって、人々は、それぞれの直接的な必要性から引き離され、そうした相互行為独特の「楽しさ」を感じる、とするのである。

[生活形式と生活実質の、規定関係の逆転] が、最も広く行われているのは、恐らく、私たちが遊びと呼んでいるものにおいてであろう。[その逆転以前においては] 生活における現実の力、必要、衝動などが、生活の目的に適った人間行動の形式を生み出すが、やがてこれらの形式は、遊びのうちで、いや遊びとして、独立の内容[すなわち社会的意味]や刺激になる。…狩猟、謀略、心身の力の試練、競争…は、すべて…本来は生真面目なところにある生活の実質[すなわち直接的な必要性] という荷を下ろすことによって、…自らを、純粋な形で証明し、具体化するような対象を、選択し、あるいは創り出す。これによって、遊びはその楽しさを得るが、同時に単なる冗談とは異なる象徴的な意味をも得る (Simmel 1917 =1979 :70-71 訳に変更あり)

ここから、ジンメルは次のように続ける。「芸術と遊びとが類似する根拠は、この点にある。両者は生活のリアリティから生まれながら、このリアリティに対して、独立の領域をなす諸形式を共有する (ibid.)」 社交の場は、それ自身のリアリティを備えた独立の領域の、典型的な例である。こうした社交の場でとりわけ重要視される「形式」というものを、彼は一般化して、「遊び的形式」と呼ぶ (ibid.: 74)。なぜなら、社交における「形式」は、「遊び」の世界が行うのと同じように、外の世界のリアリティから、その「形式」にふさわしい要素だけを選択的に取り入れることによって、社交の場の、独立したリアリティを持った世界を作り上げるからである。
このようなジンメルの「社交/遊び」の概念を用いて、ゴフマンは、対面的相互行為における「無関連の規則」を説明している。この「無関連の規則」とは、特定の相互行為の場において、その場にふさわしい要素だけを外の世界から導きいれ、それ以外の要素を、場に「無関連」なものとして、行為者に無視させることによって、自律的なリアリティを保った場を創出する、そうした相互行為規則である。彼は「集まり」の社会秩序を導く、こうした相互行為規則の分析のために、ゲームのアナロジーを積極的に用いる。

ここでゲームがその出発点として役に立つことになる。ゲームでは、参加者たちはプレーの際、そこで使われる道具の審美的、感情的、金銭的価値を関心の対象としない。すなわち、そこでは、彼らが無関連のルール rules of irrelevanceと呼ぶであろうものに従っていることが明瞭にわかる。例えば、チェッカーを、四角のリノリューム板の上にビンのふたを置いてやっても、大理石の上で、黄金の像をおいてやっても、…ゲームをする人たちは…同じ連続的な戦略的な手を交換し、同じ興奮の輪を広げていく (Goffman 1962=1985: 6 訳に変更あり)

ゴフマンと、ジンメルの違いは、こうした「無関連のルール」による「場のリアリティ」の生成が、「まじめ」な場でも起こっているとすることである。社交界やゲームの世界が、それ自身の特殊なリアリティを成立させるための無関連の規則によって成立しているのと同様、欧米近代の官僚的組織も、「人の属性の無視」「感情的中立」などといった、ウェーバーやパーソンズの記述した無関連の規則によって成立していることを彼は観察する(ibid.: 8-9)。
この「集まり」の社会秩序とリアリティを成立させている無関連の規則は、ベイトソンの「フレーム」という概念で、より適切に記述できる (Goffman 1962=1985: 7)。違った種類の対面的相互行為があれば、そこには違った種類のフレームがある。このフレームこそが、そのフレーム特有の、自律的なリアリティ空間というものを創り出していると考えられるのである。 それは、「まじめ」や「遊び」というフレームについてだけではなくて、「ヒューマニスティックなタブー」についても同様のことがいえるだろう。
この、第二のジンメル=ゴフマン的な観点からは、「ヒューマニスティックなタブー」は、それ特有のフレームによって、ある種の社会的リアリティあるいは社会的価値を備えた空間を創造し、人々がそうした新しい価値を楽しむという個人的機能を通して、そうした空間の並列的秩序を維持させる、という社会的機能を果たしていると、考えることができるのである。

5-4 三つの契機のつながり

これまで、ノンゼロサム・モデルによって、ヒューマニスティックなタブーの、道徳的側面(第1の契機)、表現媒体的側面(第2の契機)、フレーム的側面(第3の契機)と、それぞれにおける個人的機能・社会的機能を明らかにしてきた。では、これらの関係はどうなっているのだろうか?
第2の契機は、その機能のためには特に内容を問わず、いったん機能し始めてしまえば自己再生産を続けられるので、他の契機と切り離して考えられる。しかし、第1の契機が機能するためには、ヒューマニスティックなタブーが「人間の聖性」と結びついていることが不可欠である。この結びつきは、どこから生まれるのだろうか。結論から述べれば、この結びつきは、第3の契機によって達成される。すなわち、この第3の契機によって、「ヒューマニスティックなタブー」は「人間の聖性」という価値を創造するのである。
それでは、「ヒューマニスティックなタブー」と「遊び」のそれぞれのフレームの比較をとおして、この第3の契機がどのようなメカニズムで「人間の聖性」という特定の社会的リアリティを創造するのかを考えていこう。
まず「遊び」のフレームについてだが、「遊び」が「遊び」であるのは、その場で行われる行為が「遊び」のフレームで解釈されることによってである、とベイトソンは考える(Bateson 1972=1990)。彼は、この遊びのフレームを次のように定式化した:「今やっているこれらの行為は、それが代わりをしている行為が表すところのものを表しはしない(261)」
こうした遊びのフレームで捉えられるコミュニケーションにおいて、異なる階層における二つのメッセージが明示的なかたちで共存している―― 例えば、子犬の遊びの噛みつきは、「攻撃」という元々の意味とともに、その否定(「これは攻撃ではない」)をも同時に指示している――のに注意してほしい。
これが、「ヒューマニスティックなタブー」というフレームで解釈されるコミュニケーションにおいては、この両方のメッセージが、ある意味では伝わっているにも関わらず、双方の意識の中で不在なのである。
15 次の例について考えてみよう。食事は、本来的に「お金」を意味し、そしてこの意味づけが、より高い次元で(部分的に)否定される。もしこれら両方のメッセージが明示的であれば、それは「遊び」である。例えば、レストランごっこをしている子供たちは、食事に対する代価を示すものを「払いつつ」、しかもその「代価」は「代価」でないことを知っている。しかし、「ヒューマニスティックなタブー」のフレームで解釈されるコミュニケーションでは、「食事が『お金』を意味する」ことも、「食事が『お金』を意味してはいけない」ということも隠され、そしてそれら二つのメッセージの「不在」だけが残される。これがヒューマニスティックな場における「秘密」の意味である。人はお金の「効果」を見つける一方、その効果の源である資本を認識することができない。この認識されない資本の代わりに別のものが、原因として「探し出される」。それが神聖なる「人間性」なのである。
秘密やプライヴァシーのルールに従うことは、遊びの重要な要素である「ふりをすること」から区別される。実際、ヒューマニスティックな場のリアリティは、「ふりをすること」の否定の上になり立っている。「ふりをすること」は、楽しさを生むが、「ヒューマニスティックなタブー」は神聖さを生む。「秘密」とは、不可能が可能となる超自然の空間であり、従ってそれは魔術や神といった自然を超越した原因を要請する。贈り物を交換しあうことによって、人々はこうした超自然の力を我がものとし、エチケットと呼ばれる恣意的な社会規則に従うことによって、人は自ら神々の舞台へと上る。

結論

これまで見たように、(象徴資本の秘密と人の動物的機能に関するプライヴァシーを含む)ヒューマニスティックなタブーは、ゼロサムの前提では、それがある「場」に属するメンバーの象徴資本を産出し、保護するがゆえに求められると考えられる(――「寡占協調モデル」)。また、ノン・ゼロサムの前提では、社会的価値の創造をその根源的な基礎として、ヒューマニスティックなタブーは、三つの契機を通し、個人に新しい価値を供給し、それによって社会秩序を達成するがゆえに求められると考えられる(――「社会秩序モデル」)。ゆえに結論は次のようになる。
人々は、それが、象徴資本と、社会秩序を生成するがゆえに、象徴資本の秘密、あるいは、人の動物的機能に関するプライヴァシーを守ろうとする。
理論的に構築された個人にとっての、関係的な動機だけを問題とする、ブルデューの理論は、「象徴資本における秘密」という現象の一面だけしかつかんでいない。われわれは、ブルデューのモデルを、それと相補的なゴフマンのモデルによって、補ってやる必要があるのである。

お読み下さいましてありがとうございました。感想・疑問などはこちらまで。お気軽にどうぞ。

他の論文へ メインページに戻る

1 このマルクス主義的なモデル(「搾取モデル」)は、ブルデューの資本概念における秘密の、従来の中心的解釈と考えてよい。こうした解釈は、一面的ではあるとはいえ、解釈としては確かに正しい。しかし、ブルデューの「搾取モデル」自体が資本概念の実体化に基づいており、また彼自身がハビトゥスに与えた合理性の前提と矛盾するという問題点を抱えている。この点については、拙稿(1997b,c)を参照。
2 ブルデューによる、資本概念あるいは資本の様々な形態の概念の使用については、Smart (1993)の有用な議論を参照。彼は、象徴資本について、「これらの多様な用例において、他の資本形態の概念との重なりが大きすぎる」ことを指摘している(392)。本稿では象徴資本とほかの形態の資本との重なりをより積極的に利用する。
3 Bourdieu 1979=1986: 22でも同様のことを述べている。ただしこの定義は、最も広義のものである。註2も参照。
4 ブルデューのヴェブレンに対する批判 (Bourdieu 1987=1988: 23,209)は正しくない。ブルデューはヴェブレンの「顕示的消費」が卓越化の意図をともなうという前提のもとに、ヴェブレンが「卓越の探求と卓越した行動(ibid: 23)」を同一視したと批判しているが、実際には、ヴェブレンは、卓越化の効果は、しばしば卓越化の意図を伴わないことを論じている(Veblen 1899=1961: 101)。
 ゆえに、ブルデューの批判にも関わらず(ibid:23)、ヴェブレンとブルデューの理論の相似性を認めるElster (1983)の指摘は正しい。
5 ゆえに、社会空間における高い地位の獲得と表示を、全ての資本の価値の基準とした、ブルデューの「交換可能性」の概念は、例えばベッカーの「人的資本」における交換可能性の考え方とは、根本的に異なる。Bourdieu (1979): 3 を参照。
6 ここでいうプライヴァシーは、性と死と排泄に関るタブーの個人主義的な顕現であると考えられるような、特殊な種類のプライヴァシーである。
7 この合理性は証明不可能な前提に過ぎない。それについては拙稿1997dを参照。
8 もちろん「人」が本当に「投資」に「注目」するわけではないかもしれないが、少なくとも結果として、「階級に結びついた諸特性の一つ一つは、その価値と有効性とを、それぞれの場に特有の法則から受け取る(Bourdieu 1979=1990: (I) 177)」ということが起こるわけである。
9こうした「秘密」という戦略のほかに、あるグループが「客観的な換算比」での、自分の資本の交換を拒否するという、ブルデューが比喩的に「ストライキ」と呼ぶような戦略も、「寡占的協調」に分類することができるだろう (Bourdieu 1979=1990: (I) 217-225)。
10『自殺論』(1897)以降、デュルケームは近代社会においても、共通意識をもととした社会的連帯を重要視している。この『社会分業論』(1893)からの図式の変化については、拙稿(1997a)を参照。
11 Parsons 1964 を参照。ただしパーソンズはここにジンメルを加えていない。ジンメルの「社会化論」の記述としては、Simmel 1908=1994: (上) 70-71を参照。
12 ここでの対立図式は、ハバーマスによる意識哲学だという批判(Habermas 1981=1986: (中)219)を避けるためにも、ジンメル的な修正を加え、それまでの基礎的所属集団によってすでに内面化されている価値観と、現在の所属集団によっていままさに生成されつつある価値観との対立というように捉えるべきであろう。
13 ジンメルにせよ、それを応用したゴフマンにせよ、デュルケーム的な見方を否定したのではなく、それに新しい見方を付け加えて補足したと考えるべきである。
14 この不分明な状態の個人的名誉の動機は、ウィトゲンシュタインのいう「E」のようなものである(Wittgenstein 1953=1966:184-205)。この「E」としての個人的名誉の動機は、ふるまいの体系と対応づける、共通の名誉の文法を通してはじめてアイデンティファイされるようになる。
15 このような情報の隔絶は、ベイトソンがノン・コミュニケーションと呼び、「聖」の生成の基礎とした(G. Bateson and M. Bateson 1987=1992: 143-146)メカニズムの、一例であると考えられる。このノン・コミュニケーションという概念によるプライヴァシーの優れた分析例として坂本(1995)が挙げられる。ただし、坂本はプライヴァシーの現象を、フレーム化のタブーとして捉えるが、本稿では、「ヒューマニスティックなタブー」自体を、フレームとして解釈する。

参考文献

Bateson, G. 1972 Steps to an Ecology of Mind. New York: Ballantine Books (『精神の生態学』佐藤良明訳、思索社、一九九〇年)
Bateson, G.and Bateson, M., Angels Fear. New York: John Brockman Associates (『天使のおそれ』星川淳訳、青土社、一九九二年)
Bourdieu, P. 1977 Outline of a Theory of Practice. Cambridge: Cambridge University Press
______. 1979 La Disticntion. Paris: Les Edition de Minuit (『ディスタンクシオン I・II』石井洋二郎訳、藤原書店、一九九〇年)
______. 1979 "Les trois etats du capital culturel" Actes 30: 3-6 (「文化資本の三つの姿」福井憲彦訳、『アクト1』、日本エディタースクール、一九八六年:18-29)
______. 1980 Le sens pratique. Paris: Les Edition de Minuit (『実践感覚1・2』 今村仁司他訳、みすず書房、一九八八〜九一年)
______. 1987 Choses dites. Paris: Les Edition de Minuit (『構造と実践』石崎晴己訳、新評論、一九八八年)
Calhoun, C. et al. 1993 Bourdieu. Chicago. Chicago University Press
Durkheim, E. [1893] 1926 De la Division du Travail Sociale. Paris: Alcan (『社会分業論』井伊玄太郎訳、講談社学術文庫、一九八九年)
______. [1897] 1960 Le Suicide. Paris: Presses Universitaires de France (『自殺論』、宮島喬訳、中公文庫、一九八五年)
______. [1912] 1960 Les Formes ノl駑entaires de la Vie Religiuese. Paris: PUF (『宗教生活の原初形態(上・下)』、古野清人訳、岩波文庫、一九四二年)
______. 1914 "Le dualisme de la nature humaine et ses conditions sociales" Scientia15: 206-221 (「人間性の二元性とその社会的条件」in 『デュルケーム宗教社会学論集』249‐268 小関藤一郎 編・訳 、行路社、一九八三年)
______. 1924 Sociologie et Philosophie. Paris: F駘ix Alcan (『社会学と哲学』佐々木交賢訳、恒星社厚生閣、一九八五年)
Elster, J. 1983 Sour Grapes. Cambridge: Cambridge University Press
Goffman, E. 1959 The Presentation of Self in Everyday Life. New York: Doubleday (『行為と演技』石黒毅訳、誠信書房、一九七四年)
______. 1961 Encounters. New York: Bobbs-Merrill (『出会い』佐藤毅、折橋徹彦訳、誠信書房、一九八五年)
______. 1963 Behavior in Public Places. New York: The Free Press(『集まりの構造』丸木恵祐、本名信行訳、誠信書房、一九八〇年)
______. 1967 Interaction Ritual. New York: Pantheon (『儀礼としての相互行為』広瀬英彦、安江孝司訳、法政大学出版、一九八六年)
______. 1971 Relations in Public. New York: Basic
______.[1974] 1986 Frame Analysis. Boston: Northeastern University Press
______. 1983 "The Interaction Order" American Sociological Review 48: 1-17
Habermas, J. 1981 Theorie des Kommunikativen Handelns. Frankfurt/Main: Suhrkamp Verlag (『コミュニケーション的行為の理論(上・中・下)』藤沢賢一郎他訳、未来社、一九八六年)
Harker, R. et al. 1990 An Introduction to the Work of Pierre Bourdieu. New York: St. Martin's Press (『ブルデュー入門』滝本往人他訳、昭和堂、一九九三年)
小原一馬 1997a 「マルクス、スペンサー、デュルケームによる社会的分業の分析―肯定的結果編」 『教育・文化・社会』4: 53-66
______.1997b "'Secrecy/Concealment' in Bourdieu's Concept of Capital" シカゴ大学修士論文(未発表・本稿はその部分を書き直したもの)
______.1997c 「象徴資本の秘密/隠蔽におけるブルデュー「搾取モデル」の欠陥」日本教育社会学会第49回大会発表要旨
______.1997d 「人間と自然の対立を基礎とする社会理論のフィクション的性格―システム論、構造主義、合理的選択理論の批判」日本社会学会第70回大会発表要旨
Locke, J. [1680] 1983 Two treaties of Government. Cambridge: Cambridge University Press (『統治論』in 『世界の名著 32 ロック・ヒューム』189-346 宮川透訳、中央公論社、一九八〇年)
Mauss, M. [1950] 1968 Sociologie et Anthropologie. Paris: Presses Universitaires de France (『社会学と人類学I・II』有地亨他訳、弘文堂、一九七三〜七六年)
Parsons, T. 1964 Social Structure and Personality. New York: Free Press
Rousseau, J. [1762] 1915 Du Contrat Social. edt. by C. E. Vaughan in The Political Writings of Jean-Jacques Rousseau Vol. 2, Cambridge :Cambridge University Press (『社会契約論』桑原武夫、前川貞次郎訳、岩波文庫、一九五四年)
阪本俊生 1995 「プライバシーとノンコミュニケーション」 『ソシオロジ』124: 3-21
Simmel, G. 1908 Soziologie. Berlin: Duncker & Humblot (『社会学(上・下)』居安正訳、白水社、一九九四年)
______. 1917 Grundfragen der Soziologie. Berlin und Leipzig: Walter de Gruyter (『社会学の根本問題』清水幾太郎訳、岩波文庫、一九七九年)
Smart, A. 1993 "Gifts, Bribes, and Guanxi" Cultural Anthropology 8: 388-408
Veblen, T. [1899]1912 The Theory of the Leisure Class. New York: The Viking Press (「有閑階級の理論」小原敬士訳、岩波書店、一九六一年)
Wittgenstein, L. 1953 Philosophische Untersuchungen. London: Basil Blackwell (『ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究』藤本隆志訳 大修館書店、一九七六年)