ブルデュー資本概念における「秘密」と「隠蔽」
―寡占協調モデルと搾取モデル―

ブルデューの資本概念における「秘密/隠蔽」の重要性はすでに多くの研究者によって、指摘されている(Harker et al. 1990, Calhoun et al. 1993)。ブルデューの資本概念の主要な特徴として、(1)通常、資本とみなされない象徴資本を、 資本としての性格が隠蔽された「資本」だとすること(2)資本としての性格が隠蔽された象徴資本と、資本としての性格のあからさまな経済資本との対立を、社会階層構造の基本軸の一つとして認めたこと、の二点があげられる(図1)。この双方において、「秘密/隠蔽」は積極的な意義を果たしているのだ。


このような重要性をもつ、象徴資本の「隠蔽されている」という性格は、しかし、これまで上層階級による搾取というマルクス主義的な文脈でのみ理解されてきた(ibid.)。ブルデューの理論には、そうしたマルクス主義的なモデルのほかに、合理的選択モデルという側面もあるにも関わらずだ
本発表では、第一に、こうしたマルクス主義モデルの根本的欠陥を暴き、第二に、これまでは「秘密/隠蔽」以外の現象においてのみ取り上げられてきた、合理的選択理論の立場からのブルデュー解釈が、「秘密/隠蔽」においても当てはめられることを示す。

1 資本の秘密、あるいは秘密の資本

まず、ブルデューの資本概念における「秘密/隠蔽」そのものについて簡単に説明しておく必要があるだろう。

「秘密/隠蔽」は、ブルデューの用いる、全ての非経済的資本概念――文化資本、社会関係資本、学歴資本、教育資本、言語資本、宗教資本など――の理論的源泉である。これらの名前からも明らかなように、こうした多様な資本概念はある程度重なり合っており、ブルデュー自身はこれらを系統的に区別するということを行っていない。1 しかしこのように多様な非経済資本も、共通する性格を持っている。それは、それらの資本の投資・獲得・保持における「無私無欲/脱利害関心の見せかけ」だ。言い換えるなら、それらの資本はすべて経済資本との交換可能性を隠蔽している (図1参照)。
これらの多様な形態の非経済資本は、それぞれ異なった「場」との結びつきによって別々の名前で呼ばれつつも、それらは、普通の意味での「資本」と認識されないという意味では同一である。この意味において、あるいはそれが「無私無欲」を表現する程度にしたがって、これら全ての非経済資本は象徴資本であると考えられるのだ。2 
豪華な贈り物をしたり、自分の大事な持ち物をわざと壊したりする、ポトラッチの儀式(Mauss 1950=1973: 227-8)や、「宵越しの金を持たない」気風のよい職人の、「気前のよさ」3 などに典型的に見られるように、人は「無私無欲の見せかけ」を、自分の物的資本と引き換えに表現することができる。そしてその「無私無欲の見せかけ」は、ちょうど物的資本の所持や投資と同じように、高い階級的位置を手に入れやすくする。ここから、こうした儀礼や消費において手に入れられる象徴資本は、経済資本の転換物であり、また、そうした象徴資本は、経済資本をもっていたり投資したりすることと同様の働きをするといえよう。ブルデューが、普通資本とは見なされない、象徴資本を「資本」と呼ぶのは、こうした理由からであり、また彼が各種資本形態間に見出す「交換可能性」4 とは、こうした特殊な種類の「転換」を意味しているのだ。5

2 「公然の秘密」としての交換可能性の隠蔽

さて、これまでのところで、ブルデューの考える象徴資本における「秘密」とは何かがわかった。それは、象徴資本と経済資本との交換可能性にほかならない。この「秘密」は、普通の意味での「秘密」とは大分異なるが、少なくともブルデューはそれを「秘密」と呼んでいる。
それではまず、ブルデューの挙げる具体例から見て行くことにしよう。

ある石工が…、故郷に戻ってスキャンダルを起こした。この男は、家の建築にあたって、彼に敬意を表して伝統的に供される食事をとらずに、…この食事分の価格の支払いを求めたのだ。食事の等価物を貨幣で請求すること、それは労働もその価格も無償の贈与にかえるのを目的とした象徴的錬金術の公式の神聖さを冒涜してひっくり返すことだった。…宴の食事の貨幣への換算可能性を強く主張することによって、もっとも上手に守られ、もっともまずく守られた秘密――というのも誰もがそれを隠していたのだから――を暴き、また集合的な悪意の共犯を「善意の」経済のために保証する、沈黙の掟が破られた時には、人々もこの石工の要求をスキャンダル、あるいは挑発として感じざるをえなかったのである(Bourdieu 1980=1988 (1) :189-190 強調引用者、訳に変更あり)

ここで「秘密」とされていたものを確認しておくなら、それは、食事がお金の変換物であり、しかも主人が食事をふるまうことで、より高い社会的地位を手に入れ、また示すことである。ではこれはどんな「秘密」なのだろうか? もしこれを「秘密」と呼んでよいなら、誰が、誰から、守っている「秘密」なのだろうか? 実際のところ、この「秘密」は誰もが、誰もから隠している誰もに共通の「秘密」なのだ。まさにブルデューの言うように、「もっとも上手に守られ―なぜなら誰もがそれを隠している―もっともまずく守られた―なぜなら誰もがそれを知っている(ibid.: 190)」そんな秘密なのだ。
こうした「秘密」は、その秘密が暴かれても、それについて、新しい情報が手に入るわけではないという点で、その他の種類の「秘密」と区別される。例えば、食事をふるまうのにお金がかかるという「秘密」は、その秘密が漏らされたところで、何か新しいことを知るようになるわけではない。
ではなぜ人はそうした一見無意味なことをするのだろうか?当然そうした疑問が出てくるだろう。ブルデューは二つのモデルをたて、この問いに答えている。マルクス主義的な搾取モデルと、合理的選択理論につながる寡占協調モデルである。では、それらを順番に見ていこう。

3 搾取モデルの欠陥

さて、最初に述べたように、これから見る、マルクス主義的モデルは、象徴資本の秘密に関するブルデューの理論の一般的解釈となってきた。6
すなわち、隠蔽された資本である象徴資本から、資本としての性格をあからさまにした経済資本への、ブルジョワ革命を通しての全面的な移行を謳ったマルクスに対し、ブルデューは、ウェーバーの正統性の議論に頼りつつ、隠蔽された資本である象徴資本は、支配関係を維持するのに役に立つため、残っていく、としたとするのだ。
本発表者も、象徴資本の秘密に関する、この方向からの解釈そのものに異を唱えるつもりはない。実際、『再生産』(Bourdieu and Passron 1970=1991)等において展開された象徴暴力、誤認といった概念をめぐる議論は、こうした解釈を支えるだろう。象徴暴力によって、支配階級は、(支配階級自身と)被支配階級における誤認と承認をとりつけ、その搾取的支配関係を再生産していくというわけだ。そのなかで、象徴資本の交換可能性の隠蔽は、誤認と承認の基礎をなしている。「公然の秘密」という「裸の王様」的状況は、それによって利益を得る「詐欺師」の存在によって、簡単に理解可能なものになるというわけだ。
おとぎばなしなら、それでもいいだろう。しかし「おとぎばなし」的な搾取モデルを象徴資本の秘密に当てはめるには、いくつかの困難があるのだ。あるいは困難といわず、致命的な欠陥といってもよいだろう。

ブルデューの「搾取モデル」は「秘密/隠蔽」による搾取の効果を次のように説明する。すなわち、ある「場」において所有資本の少ない者は、「秘密/隠蔽」があるために、元々少ない資本に見合うよりも、さらに低い社会的位置しか得ることができず、またその逆に、所有資本の多い者は、元々多い資本に見合う、それ以上の社会的位置を得ることができるとする。いうなれば、上層階級はこうした「秘密/隠蔽」によって、ただでさえ貧しい下層階級をだまし、搾取しているのだということだ。
例えばこのことは、象徴資本の交換可能性の隠蔽の結果現れる「誤認(meconaissance) 」という効果 (Bourdieu 1980=1988: (1) 195) についての、彼の説明に表現されている。

誤認…は、贈与交換と、恣意的な搾取関係を、…自然に基礎を持つがゆえに耐久性を持った関係へと変換を目指す…、多分すべての象徴的労働の根源にある (ibid.: 185-6 訳に変更あり )
これが「恣意的」であるのは、その「搾取関係」が、社会空間における本来の彼らの位置関係と対応していないからである。7

ブルデューにとって、こうした現象はそのまま公理であるようだ。彼は『再生産』(Bourdieu& Passeron 1970=1991:下線強調は引用者)の第一部における命題群の0番を、次のように規定し、それを公理であるとしている。

0 およそ象徴的暴力を行使する力、すなわちさまざまな意味を押し付け、しかも自らの力の根底にある力関係を覆い隠すことで、それらの意味を正統であるとして押しつけるにいたる力は、そうした力関係の上に、それ固有の力、すなわち固有に象徴的な力を付け加える

このモデルの第一の問題点は、ハビトゥスに導かれた行為の戦略的合理性を、下層階級に、認めないことだ。これはハビトゥスの、「調整された即興」による戦略的合理性の仮定と、矛盾することになる。8
下層階級とはいえど、彼らはその「場」に生まれ育ったネイティヴであるという点では上層階級と変わらない。ブルデューの戦略的合理性の仮定では、そうした彼らは、その「場」の中で勝ち残るために必要なゲーム感覚を体で身につけていることになっていたはずだ。だから、彼らの行動も、どんなに非合理的に見えたとしても、やはり合理的であると考えることができる。これがブルデューが戦略的合理性ということを述べるときの基本的スタンスであったはずだ。ブルデュー自身は理解していないようだが、これは事実そのものに関わる問題ではなく、事実の表現の仕方の問題にほかならない。
そのように戦略的合理性を仮定された彼らが、資本の交換可能性の「秘密/隠蔽」に関してのみ、上層階級にだまされて、非合理的に振る舞うとすれば、彼らの行動の理論的表現に混乱が生じることになる。そうした表現の混乱をあえて選ぶならともかく、そうでない限り、この混乱はこうしたモデルを採用する際の大きな欠点となるだろう。
これよりさらに重要な第二の問題点は、本来、それぞれの「場」における、社会的地位の獲得と表示の効果を基準として、人工的に作り出された「資本」という概念が、社会的地位の獲得と表示を行う以上の実体として扱われていることにある。すなわち、ブルデューがしばしば批判を行う、「理論の物象化」が、彼自身の理論に起こっているのだ。物象化されない資本概念によれば、上記のような現象は、元々、それぞれの持っていた資本がより少なかった、あるいはより多かったと考えればすむだけのことなのに、である。
あくまで「元々少ない資本に見合うよりも、さらに低い社会的位置しか得られない」という奇妙な現象が、起こっていると主張するなら、それを説明するために、「資本を運用するための資本」という二重の資本概念を作り出す必要が出てくる。9 しかし、より単純な説明ができるのに、わざわざ「資本を運用するための資本」というより複雑な概念を作り出すことは、不必要だ。
ゆえに、理論の複雑さを、その高級さと勘違いし、ありがたがるような人々はともかく、そうでない人々にとって、「搾取モデル」は無用のものとなる。

4 象徴資本の秘密とそれが守る「場」 (寡占協調モデル)

前節で見たように、ブルデューの搾取モデルには根本的欠陥があるのだが、それでは、象徴資本の秘密に関して、ブルデューの理論は無力なのだろうか?いや、そのようなことはない。搾取モデルとは相容れない、合理的選択理論の方向から、ブルデューの理論を取り上げてやれば良いのだ。それがわれわれのいう「寡占協調モデル」である。
ブルデューは、個人主義的で利己主義的なモデルをたてており、簡単に言ってしまえば、人々は、社会的に高い位置に上り、しかも実際にそう見られるがために、行動すると、ブルデューは考えている。10 ブルデューのこうした理論設定と、象徴資本の秘密の性格とは、一見矛盾するように見えるだろう。なぜなら、象徴資本の秘密を守ったところで、例えば、宝の埋まっている場所の秘密を守ったりすることと同じような、直接的利益は何もないからだ。この「矛盾」は、ブルデューの理論体系においてどのように解決されるのだろう。
結論から先に述べれば、この(見かけ上の)「矛盾」はブルデューの「場」という理論装置によって解決されている。象徴資本の秘密は、ある特定の場のリアリティ感覚を創出し、またそれを保護する。そのようにして、象徴資本の秘密は、その特定の場と特別な関係にある象徴資本を産み出し、また守っているのだ。それでは、ブルデューがどのようにその個人主義的理論枠組みの中で、象徴資本の秘密の集合的性格を説明するのか、見ていこう。ここで見るブルデューのモデルを「寡占協調モデル」と呼ぶことにする。
ブルデューによれば、ある特定の種類の資本は、常に特定の場と密接に結び付いている。ある形態をとる資本は、確かに他の形態の資本と交換可能であり、ゆえにそれらがみな同様に「資本」と呼ばれている。とはいえ、それらが「**資本」と呼ばれ、それぞれに区別されるのは、ある形態をとる資本は、それを生産した場においてのみ、その資本に特有の効果を産み出すことができるとされるからだ (Bourdieu 1980=1988: 204)。例えば「教会」という「場」においては、敬虔で、信仰深く、聖書の知識も豊か、などといった「キリスト教資本」だけが、重要性を持つ。言い換えれば、ある「場」において、人々はある人がトータルでどれだけの資本を持っているかではなく、ある特定の場にどれだけの投資を行ったかに注目するのだ。11 
先に述べたように、ブルデューは、ある特定の個人のハビトゥスは、その人が持つ資本を拡大再生産するようなしかたで、彼の行動を導くと仮定している。このことは次のことと矛盾しない。すなわち、ある集団が彼らの持つ特定の資本と結び付いた「場」を守るために協同するということだ。なぜならある資本の持つ価値、すなわち他の資本との交換比は、その資本を生産した場において最大であり、その場を守ることは、結局彼の資本を守ることになるからだ。12ある個人の象徴資本は、その特定の個人の(あるいはそのハビトゥスの)所有物であると考えられるが、しかしまた(多くの場を含む)全体社会において、特定の種類の資本を共有する人々は、その資本とつながる「場」を守ることに、共通の利害があるのだ。

5:結論

ここまで、象徴資本の秘密について応用可能な、ブルデューの二つのモデルすなわち、マルクス主義的な「搾取モデル」と、合理的選択理論の延長上にある「寡占協調モデル」を見てきた。これらは、ブルデューの基本概念である、「資本」「戦略」「ハビトゥス」などをともに用いているにも関わらず、「搾取モデル」においては、それらの概念の使用の際に、仮定の非一貫性や、概念の不必要な複雑化がみられ、その一方で、「寡占協調モデル」は、同じ事をより単純により一貫性をもって説明していることが明らかとなった。ゆえに、象徴資本の秘密をブルデューの枠組みの中で説明するとき、説明の経済性という観点からみて、われわれがとるべきモデルとは、「寡占協調モデル」なのである。13

 

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1 ブルデューによる、資本概念あるいは資本の様々な形態の概念の使用については、Smart (1993)の有用な議論を参照。彼は、象徴資本について、「これらの多様な用例において、他の形態の資本との重なりが大きすぎる」ことを指摘し(392)、ここから象徴資本概念の意味範囲が、社会関係資本や文化資本とは重ならないように「分析的使用」を行うことを提案している。しかし、本稿では象徴資本とほかの形態の資本との重なりをより積極的に利用する。
2 ブルデューは象徴資本を、例えば次のように定義している。「物質的な「経済」資本が変形して偽装された形態である象徴資本は、それが「物質的」形態での資本からきているという事実を、隠蔽している程度により、また隠蔽している限りにおいて、その固有の効果を産み出す…(Bourdieu 1977:183)」しかし注1のスマートも指摘するように、彼の象徴資本の語法は一定ではない。
3 Veblen 1899=1961を参照。ブルデューのヴェブレンに対する批判 (Bourdieu 1987=1988: 23,209)は正しくない。ブルデューはヴェブレンの「顕示的消費」が卓越化の意図をともなうという前提のもとに、ヴェブレンが「卓越の探求と卓越した行動(ibid: 23)」を同一視したと批判しているが、実際には、ヴェブレンは、卓越化の効果は、しばしば卓越化の意図を伴わないことを論じている。
 「近代社会の多くの人々にとって、肉体的な心地よさを得るのに必要なもの、それ以上の消費を行うことは、目に見える消費の高価さで、他の人達よりも上に立とうとする、そうした意識的努力ではない (Veblen 1899=1961: 101 訳に変更あり)」ゆえに、ブルデューの批判にも関わらず(ibid:23)、ヴェブレンとブルデューの理論の相似性を認めるElster (1983)の指摘は正しい。
4 この交換可能性について、ブルデューは例えば次のように述べている。「様々なタイプの諸資本は厳密な等価法則に服しており、したがって相互に転換可能だ (Bourdieu 1980=1988 (1) 204)」
5 ゆえに、社会空間における高い地位の獲得と表示を、全ての資本の価値の基準とした、ブルデューの「交換可能性」の概念は、例えばベッカーの「人的資本」における交換可能性の考え方とは、根本的に異なる。Bourdieu (1979): 3 を参照。
6 例えば、『ブルデュー入門』(Harker et al. 1990=1993)の彼の理論の全体像を伝える最初の章において、その理論的中核を表現するために、ブルデューの翻訳者Nice (1980)の次のような言葉が引用されてる。「ブルデューの最近の大部分の仕事の主要な関心は、経済資本と象徴資本の相互変換可能性が、資本主義的「合理化」にも関わらず、どの程度依然として存続し、どの程度実際に、さまざまな支配関係を維持する、ほかで置き換えることのできない機能を果たしているかを、検討することだったのです (in Harker et al. 1990=1993: 10)」
このナイスの発言は、象徴資本の秘密についてのブルデューの考え方の、もっとも広く受け入れられている解釈を示していると考えて良い。
7 この恣意性に関しては別の解釈も可能であろう。すなわち、その「搾取関係」が恣意的なのは、自然的秩序に対応していないからだとすることである。しかしそのような解釈は、人々のもつ「自然的秩序」観念は、闘争の結果としてある社会的秩序の反映にすぎない、というブルデューの立場からの、逆行である。社会空間以前にある、自然的秩序なるものは、幻想に過ぎない。『再生産』(Bourdieu& Passeron 1970=1991)における「文化的恣意」という概念は、ブルデュー自身が序で述べているように(p.10)、こうした「自然と文化」という対立とは関わりを持たないものとして設定されている。
8 Bourdieu 1980=1988。ブルデュー自身はこれを仮定だとはしていないが、それが証明不可能な前提に過ぎないことは明らかである。それについては拙稿1997bを参照。
9 例えばブルデューは『ディスタンクシオン』の「転換の戦略」と題された節(Bourdieu 1979=1990:199-258)で、文化資本を構成する一部として「投資感覚」という概念を用い、「資本を運用するための資本」というべき二重性を導入している。
10 より正確に言えば、人々がそのハビトゥスに導かれて、つねに彼自身の(あるいは彼とハビトゥスを共有する人の)資本の拡大再生産を行おうとし、 しかもそうした行為が、社会構造とともにあることにより、結果的に、普通にいう経済を超えたレヴェルで、合理的な実践になるとしている(Bourdieu 1980 =1984 :(1)80)
11 もちろん「人」が本当に「投資」に「注目」するわけではないかもしれないが、少なくとも結果として、「階級に結びついた [持てる総資本量と、各資本形態へのその配分といった]諸特性の一つ一つは、その価値と有効性とを、それぞれの場に特有の法則から受け取る(Bourdieu 1979=1990: (I) 177)」ということが起こるわけだ。
12 ブルデューが象徴資本の秘密を、「象徴資本を産出する集団的営みへの投資」の条件でありその産物でもある「集団的誤認」(Bourdieu 1980=1988: (1)108)と呼ぶのは、主にこうした理由によってである。
13 レヴィ=ストロースの構造主義に関し、その、説明の経済性によるモデルの選択を、ブルデューは、それが「実践の現実的原理」ではないことから批判している(Bourdieu 1980=1988: (1)17-21)。しかし、ブルデューは自分の理論こそが「実践の現実的原理」であると主張するのであれば、彼自身大きな間違いを犯していることになる。この問題については、拙稿1994を参照。また、この寡占協調モデルには、ゼロサム・モデルであることによる特有の限界がある。この限界の乗り越えについては、拙稿1997aを参照。


参考文献

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Bourdieu, P. and Passeron, J.C. 1970 La Reproduction. Paris: Les Edition de Minuit (『再生産』宮島喬、藤原書店、一九九一年)
Calhoun, C. et al. 1993 Bourdieu. Chicago. Chicago University Press
Elster, J. 1983 Sour Grapes. Cambridge: Cambridge University Press
Harker, R. et al. 1990 An Introduction to the Work of Pierre Bourdieu. New York: St. Martin's Press (『ブルデュー入門』滝本往人他訳、昭和堂、一九九三年)
小原一馬 1994 「P・ブルデュー戦略=資本概念の意義」京都大学大学院教育学研究科修士論文(未発表)
______. 1997a 「ブルデュー資本概念の『秘密』と『隠蔽』―ブルデューモデルによる『公然の秘密』とそのゴフマンモデルとの相補性―」『ソシオロジ』130 (3-24)
______. 1997b 「人間と自然の対立を基礎とする社会理論のフィクション的性格―システム論、構造主義、合理的選択理論の批判」日本社会学会第70回大会発表要旨
Marx, K [1844] 1932 ヨkonomishe-Philosophische Manuskripte aus dem Jahre in Karl Marx-Friedrich Engels historisch-kritische Gesamtausgabe 1-3. Berlin:Marx-Engels Verlag (『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫、一九六四年)
Smart, A. 1993 "Gifts, Bribes, and Guanxi" Cultural Anthropology 8: 388-408
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