グレン・グールドに何を聴くのか

 彼の演奏には他のピアニストにはない幾つかの特徴がある。まず音色の少なさ。実際彼のバッハをブレンデルなどの演奏と比較すると、モノクロとカラーの映像をふたつ並べられたような印象を持つ。モノクロであるということは、音楽的語彙の貧しさとは違う。写真家がファイン・アートとしての写真にモノクロのフィルムを使うことには、もちろんそれなりの意義がある。モノクロフィルムの粒子のきめの細かさもさることながら、色のないということそのものが積極的意義を持つのである。芸術としての写真の価値は、被写体の代替物という点にあるのではない。それは、その場に居合わせていたとしたら得られたかも知れない情報を少しでも多く伝えたい、報道写真とも、商品についての情報を第一義とする、通販のカタログとも、違っている。その芸術としての意義は、被写体のどの側面を選びとるかというところに存する。たとえばモノクロのフィルムは被写体の明暗に関する情報を選択的に切り取る。確かにカラーの写真を再度モノクロで複写してみれば分かるように、こうした情報はカラー写真のなかにもないわけではない。しかしそこにおいては、同じ明度でも明るい赤と明るい青といった違ったあらわれ方をする。こうした色の違いは、本当に伝えたいものがその明るさであったときに、それをわれわれの印象のなかでぼやけさせる働きしかしない。もし伝えたいものがその明るさであるのなら、色はないほうが良いのだ。
 グールドが音に色を与えることを積極的に拒否していたことを知るための間接的な情報は、彼によるオルガンの演奏からもわかる。彼は音色の変化による劇的な効果を避け、作品を単色によって描きあげている。
 グールドがそうした音の色ではなしに何を表現しようとしたかは次に述べるが、その前にもうひとつこのようなモノクロ化によってなしとげられる、自然的な世界と、芸術作品の人工的世界との間のはっきりした境界付けについて述べておこう。こうした境界を明確に引かれた後の芸術作品に、われわれが感じるのは厳しさと潔さとである。それはたとえば枯山水の庭の、泉水式の庭との違いと同質のものであると言えよう。禅宗における枯山水の作庭と水墨画の発展は偶然ではない。
 さてこうした潔さの印象は、彼の音の出し方にもあてはまる。彼のしばしば暴力的ですらある音使いは、その鳴り始めと鳴り終わりの点の明確化をその特徴としている。音の輪郭をはっきりさせるのである。一つ一つの音というレヴェルで言えば、こうした音こそが彼が音の単色化によって得たものである。彼はまたこうした時間的位置の確定という意味での音の明確化の他に、しばしばブロックコードをくずして、和音のなかにおかれた一つ一つの音の存在を明確化するということを行った。
 さてもちろんこれでお話はおしまいではない。こうした音を用いて、彼が作り上げた音楽にはおおむね次の性格が見られる。それは音楽の各部分の全体的構成における位置づけとの関係の明確化である。それが例えば、バッハのフーガなどでは、各声部全てに神経を行き届かせた上で、それぞれを十分によどみなく歌わせながら、他の声部との絡みを聴かせて行くという方向に向かい、また組曲などでは、それを構成する一つ一つの曲を全体的な音楽の展開のなかにはめ込んでいくということになる。
 もちろんバッハやブラームスなどに対しては最も適切であると言ってよいこうした彼の音楽の扱いが、彼が理解せず理解する気もない、例えば熱情ソナタのような非常にピアニスティックな作品に無理に当てはめられたときには、本来の音楽的像はほとんど原形をとどめぬことになる。しかしこうした彼の悪ふざけと、彼の演奏の特徴である「革新的な」演奏解釈とを一緒にしてはならない。
 彼のこうした新しい解釈の多くは、その作品の内包する新たな可能性の発掘のために行われており、決して単なる奇抜さを狙ったものではない。実際彼の演奏は驚きとともに、大きな音楽的よろこびをもたらす。そしてスタンダードな演奏の方を知らなかった場合には、その作品は本来そういうふうに演奏されるはずなのだと感じてしまうくらいだ。しかし、ここで注意せねばならないのは、彼の演奏解釈が、スタンダードな演奏法を無視しているのではなく、ときには彼の演奏を正当に理解するために、楽譜に記載されていながら無視された演奏記号を知っておくことが必要でさえあることもあることだ。例えば、平均律第一巻のEminorのプレリュードで、普通は音楽的盛り上がりとともに、後半部分からプレストになるところで、彼はほとんどそのまま行ってしまう。しかしわれわれが心の中に聴く音楽は、本来聞こえてくるはずの音と実際に聞こえてくる音との落差なのである。成熟した聴衆への信頼があってはじめて可能となる演奏であり、多分これまでにはほとんど見られなかった種類の演奏であろうと思われる。

参考ディスク:
バッハ:ゴルトベルク変奏曲(再録音版)
平均律曲集
ベートーヴェン:ピアノソナタ1-3,30-32
ブラームス:間奏曲集