フェミニズムの超越:ルグイン「ゲド戦記4帰還」批評 (小原一馬)

以下は、NIFTY のファンタジー会議室で行われた、ルグインの「帰還」翻訳出版記念の、「討論(?)」の一部です。僕がこの文章を投稿する前に、会議室の他の参加者のみなさんによって、大方の「討論」は終わったところでした。それらに直接こたえるような文章になってはいませんが、その影響は受けています。

このページの構成として、まず a:小原の分析があり、 b:解説の文章 があって、c: リーピチープさんのコメントと、それに対する d:小原のレスポンスというようになっております。文中の引用とそのページはすべて、岩波の翻訳書のものです。

要約:「ゲド戦記4」における一つのテーマは、人間存在を、(例えば「女性」などという)個々の役割・カテゴリーへ還元してしまうことからの解放と、その可能性の探求である。しかし、その結論は否定的であって、そうした探求の試みそのものが、疑問に付されている。こうした意味で、「ゲド戦記4」はもっともラディカルなフェミニズム・マルクス主義批判として読まれうる。

ゲド戦記を未読の方は、まず本文を読まれてから、こちらをお読みになって下さい。


a 「キメイのばばのはなし」

テナーのテルーとの出会いのエピソードに引き続き、物語の冒頭といってもよい位置で語られるこの話は、この作品の中心テーマの提示部にあたっている。そしてこのテーマはラストのクライマックスでその問いに答が与えられるまで、物語のあちこちでいろいろな姿に形を変え、何度も変奏されるのである。
でははじめにその問題の部分から引用を行っていこう。

歌が終わると、オジオンはおばあさんに言ったって。『おまえさまに会った瞬間 、わしにはおまえの正体がわかったよ。今、暖炉を前にわしとむかいあってすわっ ておるこの女、じつは、その身にまとっている衣装にしかすぎまい』って。でも、 おばあさんはそれを聞くと、大きくかぶりをふって、笑いだしてね、『それほど単純だったらいいけどねえ』って、言ったって。それからほどなくして、オジオンは ル・アルビに帰ってきたの。オジオンは私にこの話をし終えて、言ったわ。『あの日からこっち、わしはずっと考えておる。人か竜か、西の果てのそのまた西に誰かいるとして、ならばわしらは何者か、わしらはどこに行けば、まるごと生きられるのか』って pp.28-29(訳書、以下同じ)

ここで直接問題となるのは「野生と知恵を同時に備え(p.28)」ることによって、単に竜であるだけでなく、竜であると同時にしかも人であるということだ。すなわち、このおばあさんの話は、結局、潜在的な竜であるテルーが(p.246) テナーの導きによって、人としての性質を同時に兼ね備えていくというテハヌーの物語と直結している。
しかしながらこの問題は、「人と竜」という問題を越え、もう一段階抽象性をあげて捉え直すことも可能である。すなわち「Aであり同時にBである」という問題である。言い換えるなら、「単にAである、あるいは単にBである、ということを越えて、AでもありBでもありうるような本質Cというものによって、人は表現される」ということ。また、逆にいうなら「人の本質Cは、AやBであるといったことによっては規定されない」ということである。

さて、このままでは抽象性が高過ぎてイメージがわかないだろうと思われるので、このテーマの1ヴァリエーションがかなり直接的に表現される場所を参照することにしよう。ゲドが熊手をとって戦ったあの夜の後、長い冬の間、テナーとゲドはいろいろなことについて語り合う。これはその会話のひとつである。

でもね、私が知りたいのは、こういうことなの。人が力と呼ぶものの他に何かあるのか、それ以前にな にかあるのかっていうこと。別のいい方をすると、力というのは、そのあるもののひとつの使い方にしかす ぎないのかっていうことなの。じつをいうとね、オジオンがまえにあなたのことをこう言ったことがあるの 、正式の魔法使いとしての勉強や訓練をまだ全くしないうちからあなたは魔法使いだったって。生まれつき の魔法使いだって。そうオジオンは言ったの。それで、わたし、考えたの。人が力を持つためにはまずその力をとりこむだけの余地がなければならないって。満たすべき空白がまずなくてはって

力を失っても、彼の「空白」が残っているのであれば、ゲドの空白としての本質はそのままだ。ゲドという真の名で表現されるものはまだ失われていない。またこの考え方に従えば、彼の「魔法使い」としての人生の選択は、彼の本質を表現しない。それはたくさんの可能性のひとつが表現されたにすぎない。可能性(空白)という本質は、実際に起こったこととは無関係である。*1

次にテナー自身について当てはめて見よう。彼女は(2巻に見た冒険により)、ただただそとから与えられた「大巫女」としての役割を離れ、またゲドの期待したような「まじない師」としての役割も拒否し「それでわたしは全部脱ぎ捨てて、だれのものでもない自分の着物を着たというわけ(p.136) 」だった。(この彼女の気持ちはp.306 でもくり返される。) しかし彼女はそうしてえた「自分の着物」もまた、男達(あるいはほかの女達)から与えられた「女」という役割であることも知っている。
このフェミニズム的観点はこの作品の主要な関心であるため、いろいろなところで表現されるが、例えば上で引用した場所のすぐ近くに、ゲドと同じ屋根の下に住むことにたいする村人の反応についての描写がある。 村人達の態度は以前とほとんど変わらなかった。ひそひそ話や忍び笑いはあっても、それ以上にはいかなかった。社会的にそれ相応の地位にあるということはコケが考えるよりもっと生きることを楽にしてくれるように思われた。それとも女の中古品はほとんど価値がないということなのだろうか。テナーはほっとした半面、村人たちに受け入れられたことで、受け入れられなかった場合に感じたであろう同じ屈辱を覚えた。なんだか品位を汚されたような感じがした。ひとりヒバリだけがいいも悪いも言わず、自分に見えたものを安易に男だ、女だ、後家だ、よそ者だと言った言葉で括らずに、ただテナーとタカを興味と好奇心と羨望と寛容のまなざしで見守ってくれていた。このような(社会からの)役割期待があって、「生きることを楽にするために」その期待にそうような役割をとることは、一種の取り引きである。
「取り引きや貸借勘定もみんなこえて、その先にこそ自由があるんだと思う (p.296)」というのであれば、彼女の現在あるような役割は、彼女の自由選択の結果ではなく、それが彼女の本質と無関係であるというのはこれも当然の帰結であろう。そこで彼女は「でもかんじんの自分がわからない (p.306)」と嘆くのだが、先ほどの考え方の従えば、その本質の内容はわからないにせよ、それがこうしたここの現実の役割によって、損なわれるものでないということはいえる。

こうして(時間もないので)簡単に見てきたのだが、この考え方に従えば最初の質問である「まるごと生きるにはどうしたらよいのか」に対しての答は「ただただ生きること」ということにしかならない。行動基準とするには、全く何の内容もない答であるが、そのことによって疑問そのものが全く何の内容もないことがわかるはずだ。 だからこの作品は何も生まないか、というとそんなことはなくて、このような深い認識からこそ真のニヒリズムが成立するのである。


*1 ただし、ゲド自身はこのような考え方をとらない。「王というのはほかの男たちから力を与えられている。しかし、魔法使いの力はその人自身の、というより、その人そのものだもの (p.304)」そしてこの考え方の当然の帰結として、かれは「ヤギ飼いのタカ」と「大賢人ゲド」を別々の存在として考えることになる (p.305)。しかし、彼のこのような考え方は「力」というものの相対性(「もしも一方の強さがもう一方の弱さに支えられているのだとしたら、強い方もたえず不安を感じていなければならなくなる(p.302) 」)を理解していないことにほかならない。これは彼自身の言葉なのだが。


b: 上記aの分析に関する、小原自身による解説

結局あなたは「帰還」に賛否どちらなの?と問われれば、余り読んで楽しい作品ではなかったけど、読む価値は間違いなくある、読まれるべき作品である、というところでしょうか。これは限りなく「賛」に近いというべきです。そしてゲド戦記会議室での僕の最後のニヒリズム発言ですが、あれは少しも皮肉でも何でもなくて、評価の現れだととっていただければ幸いです。(別に僕に評価されたから嬉しいなんて人もいないでしょうけど。)

はじめて僕が「帰還」を読んだ時の拒否反応は、ゲドが「がっかりした(p.134)」といった時の気持ちとほぼ同じだったのではないかという気が(今では)しています。「なぜそんなにも『女性』であることにこだわるのか」と、僕はテナーの姿をした作者ル・グインに対して叫びたかった・・・・・・・・。ゲドが思春期を男ばかりのロークで過ごしたのと同じように、中高の6年間を男子校で過ごした僕は、より広い社会における「男性」「女性」役割のあり方について、リアリティを感じられなかったということがまずありました。また、ゲドの世界と異なり、実際に多くの女性が「男性的」な場所で活躍を見せているこの現代社会が、僕にとって「より本当らしさ」をそなえているということも大きかったかも知れません。しかしゲドがそう感じることは、テナー(ル・グイン)にはあらかじめわかっていたし、お皿のことにしろ、じゅうたんのことにしろ、あれは「進歩的な女性」に一見したところ寛容さを見せる(でも本当は何もわかっていない)僕のような男達への感情的な揺さぶりを意図したものだったのだと思います。僕らは、その「不快感」からこそ学ばねばならなかったのでしょう。そしてその「僕ら」には、「何もわかっていない」という意味で全く同等な多くの女性フェミニストも含まれていたはずです。

あの作品の、フェミニズムとしてもっともラディカルなところは、「女性」であることが、この社会に存在しているあらゆる役割の単なるひとつとして位置付けられていることでしょう。そして「女性であること」の悲しみではなく、「役割をとらねばならぬこと」の悲しみをひとつのテーマとして作品は展開されていきます。
ゲドは「まじない師」として生きることも「女性」として生きることも、「役割」を選択し「まるごといきる」ことをあきらめるという意味では何も変わらないということを理解しません。しかし、テナーもまた、そのあきらめが単なる感傷に終わり、ニヒリズムの積極的意義の発見を目指した理論的な営みに向かっていくわけではないのです。
その問題のとことんまでの追求をなさず、男性的論理に対立する女性的な現実主義に逃げ込んでしまっていることに、あの作品が持つ混乱の根があるように思います。


c: b:へのリーピチープさんのコメント(のうち、d:の内容理解に必要な部分)

>ニヒリズムの積極的意義の発見を目指した理論的な営みに向かっていくわけではないのです。

そうですね、これは結局あの会議室で誰も試みていなかった視点でしょう。結局フェミニズムの問題は(私を筆頭に)あやふやに投げ出されてしまったような気もしてきます。 そう気付いて小原さんの発言(a)を読みなおしてみると、これが不思議によく理解できるんですね。

ところで、カレシンの登場で突然の物語の終焉を迎えて呆然としているゲドとテナーですが、「新しく学んで身につけなきゃならないことはいっぱいあるし」p.343 を先程の小原さんの発言に照らし合わせて考えるのは、やはり過剰援護にすぎるでしょうか? なにせ、物語の締めの1文に「西向きのあの小さな窓を思った」とあるものですから、これはやはり「まるごと生きる自分を臨む窓」と読み取るべきなんじゃないかと思ったりして… もちろん、決して、理論的な突破口を開くものではないけれど、現実主義に逃げ込むとは受け取れない、なにか違う力強さを感じさせる文章だと思うのですが。「女性的な現実主義」に着地するのであれば、「西向きの窓」を思い起こすときはもっと感傷的になっているべきじゃないかしら。いずれにせよ際どいバランスに立っている作品だとは思います。その際どさをあやふやなままに回避してしまっているのがp.342 のゲドとテナーの問いである、と言うことですね。 それとも、小原さんの言っているのは「男性的論理に充分拮抗できない」という意味なのでしょうか。だとすると、そうですね、「西向きの窓」を論理化できない私はやはり「うーん」と黙ってしまうしかないかなぁ。


d: リーピチープさんのコメントへのレスポンス

リーピチープさん、はじめまして。コメントどうもありがとうございます。

たしかに「新しく学んで身につけなきゃならないことはいっぱいあるし」ってありますね。(気がつかなかった。)よく考えて見ると、いったいこれからテナーが何を新しく身につけねばならぬのか、不思議です。レバンネンの統治下における新しい社会秩序のあり方なのか、竜であることの発覚したテハヌーとの新しい関係のあり方なのか、あるいはゲドの持つ世界観なのか。新しく学ぶ余地のあるものって、そのぐらいしか思いつきません。でもそうした具体的な内容は抜きにすると、たしかにこの作品のこの位置にこうした言葉のあることは、この作品が、答えを出し切れていない問を残しているということを印象づけます。そうですね。 このラストの場面から受けた僕の印象は(それが実際には朝日の中であるにもかかわらず)たそがれなんです。「西向きのあの小さな窓」から、落ち行く夕日の光が差しこんでくるような気がします。物語の主人公達は去っていって、僕らは、彼らに与えられた問いと共に取り残される。そんなふうな印象が確かにあります。だとすると、ル・グインはその問いに対して安易な解決を与えるつもりではなかったと読めますね。

であるならば、コケばばによって繰り返される「女性的な現実主義」はまた別のテーマということになるんでしょうか。

もしかしたら論点がちょっとずれたかも知れません。もしそうだとしたら僕のこれまでの文章が中途半端であったためでしょう。そこでよけいかも知れませんがもう少し解説をつけておきます。僕が「積極的なニヒリズム」という時に意味していたのは、「まるごと生きる」こと、あるいはその背後にあるイデア論のようなもの、あるいは「自由である」ということ、そうした自明な価値というものを(そうした価値観に反するような現実を直視することにより)徹底的に疑った上で得られる新しい価値観の創造のことでした。それは例えば、印画紙に写るはずのないものが写っていた時に、そのことを特に意味のない偶然の仕業だと考えず、その意味を徹底的に考えた上で、仮説の設定と検証を繰り返し、X線の発見に至るようなものだと考えて下さい。

もちろんこうした考え方も「ある疑いのないような現実世界を僕らは共有している」というような素朴な信念に立つわけですけど、そうした信念のない世界は余りに寒々しいですから。科学や論理といったものが男性中心主義だというような話は、そもそも反証不可能だし、余り建設的な内容も持たないように思います。男性と女性の間に理性的な共通の言語が存在するとはいえない、と言うのは確かに簡単ですがそのことによって何が得られるのでしょう。 安易なコミュニケーションへの信頼は、自己中心主義を脱しませんが、同様に安易なコミュニケーションの可能性の否定もまた同様な自己中心主義に陥ることになるでしょう。とりあえずこのレヴェルでの価値観の共有は多くの人との間で可能であると思うのですが。